最高裁判所第一小法廷 昭和23年(れ)441号 判決 1948年8月05日
主文
本件上告を棄却する。
理由
辯護人倉谷海道及び同河野太郎の上告趣意について。
原判決に擧げている證據を綜合すると、所論の領得の意思に關する證據(第一審公判廷における被告人の判示同旨の供述)を除いても、「被告人が昭和二二年六月一八日夜田端旅館に投宿し、同夜其の隣室に宿り合せていた全く未知の客松本義正のレインコートの内ポケットから、ひそかに同人所有の現金二六二二圓五〇錢在中の革製二ツ折財布一個を抜き取りこれを隱して持っていた」という事実は、肯認し得られるのである。そして一件記録によれば、被告人は原審公判に至って、忽然として「それは交際のきっかけを作るために隱したのである」と主張し出したのである。なるほど、かゝる主張のようなことも、不完全な人間の住むこの世の中では全然起り得ないことではないであらう。しかし冒頭に述べたような事実があったとしたら、それが盗んだのではなくて、交際のきっかけを作るために隱したに過ぎないということが判明するまでは、普通の人は誰でもそれは泥棒したのだと考えるであろう。これが、吾々の常識であり又日常生活の經驗則の教えるところである。元來訴訟上の證明は、自然科学者の用ひるような実驗に基くいわゆる論理的證明ではなくして、いわゆる歴史的證明である。論理的證明は「真実」そのものを目標とするに反し、歴史的證明は「真実の高度な蓋然性」をもって滿足する。言いかえれば、通常人なら誰でも疑を差挟まない程度に真実らしいとの確信を得ることで證明ができたとするものである。だから論理的證明に對しては當時の科学の水準においては反證というものを容れる餘地は存在し得ないが、歴史的證明である訴訟上の證明に對しては通常反證の餘地が殘されている。そこで前説示のような事実が、原判決擧示の證據によって肯定せられ得る本件にあっては、被告人に窃盗の意思すなはち領得の意思があったということが通常人なら誰れにも容易に推斷し得られるのであるから、右推斷を覆えすに足る新たな事実が反證せられない限り、判示事実に關する原審の認定は到底動かし得ないところである。しかるに、論旨は恰も原審に論理的證明でも要求するかのやうに、或は領得の意思については警察における被告人の自白を唯一の證據としてこれを認定したとか、或はその自白は警察官の強制拷問によるものであるとか主張し、強いて原判決の憲法違反論を試みるのであるが、領得の意思の點に關しては、前説示の通り本件の具體的事実關係によって容易に推斷されるところであるから、むしろ消極的にこれを否定すべき事実の證明こそ必要であるが、かゝる證明に役に立つ資料は何等存在しないのである。しかも、原審は所論警察における被告人の自白は、これを事実認定の資料に供してはいないのであって、この事は判文を一讀すれば直ちに了解し得るのである。そればかりでなく、所論被告人の自白が取調警察官の強制拷問によるものであるということも、記録上これを窺い知ることができない。なお、原審が倉谷辯護人の爲した被告人の父遊佐肅行に對する證人訊問申請を却下したことは原審公判調書の記載により明らかであるけれども、その訊問事項が果して所論の通り被告人の性情、思想、素行の點にあったかどうかは不明である。しかし、假に所論の通りであったとしても、さような事項は案件の裁判上必ずしも重要な事項でないことは、前段の説明によって既に明らかであるから、原審が該證人を取調べなかったとしても、これがため所論のような違法を招來すべき筈がない。それゆえ、論旨はいづれもその理由がない。
よって刑訴第四四六條に從い主文の通り判決する。
この判決は、裁判官全員の一致した意見である。
(裁判長裁判官 岩松三郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 真野毅 裁判官 齋藤悠輔)