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最高裁判所第一小法廷 昭和33年(オ)166号 判決 1958年12月25日

上告人 関谷公夫

被上告人 東国光

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人弁護士鍛治利一、同江川甚一郎の上告理由第一点について。

しかし、所論引用の当裁判所判例は、所論(イ)(ロ)(ハ)の事実があるときは、他に別段の事情のないかぎり甲が乙の子であるとの事実は証明されたものと認めても、経験則に違反しないというだけであつて、所論のごとく右の要件を充すものでない限り甲が乙の子であると推認することは経験則上許されないとしたものではない。従つて、原判決の是認引用した第一審判決が所論摘示のごとく判示したからといつて、所論判例と相反する判断をしたものということはできない。しかのみならず、原判決は、鑑定人北条春光の鑑定の結果を証拠として総合したものであることその判文に照し明瞭であつて、記録によれば、その鑑定は、同鑑定人が東ツヤ子、東国光、関谷公夫の写真、指紋、掌紋、足紋等を比較し、且つ、その血液型を検査してなした鑑定であつて、その鑑定の結果は「東国光は、その母が東ツヤ子である限りに於てその父が関谷公夫であつて不合理であると言う何等の根拠も見出せません。指紋や掌紋に見られる特徴は母の特徴より寧ろ関谷公夫の特徴に酷似している点単なる偶然の所産と見るには余り不審過ぎる位です。目下学説上子の父を断定するに足る法則が明確にされて居りませんので之以上の事はお答えの限りではありません。」とあるから、原判決は、所論(イ)(ロ)の事実のほか、右鑑定にかかる事実をも参酌したものであること明らかである。されば、原判決には、所論の違法は認められない。

同第二点について。

しかし、鑑定人北条春光の鑑定中ABO式血液型に関する鑑定部分が所論のごとく不十分であつて証拠として採用することが許されないものとしても、記録上明らかなように同鑑定は、右ABO式血液型のほか、MN式血液型より見、また参考のために過ぎないがS式血液型により見るも東国光の父が関谷公夫であつては不合理であると考えられる点は何等発見されず、父であつても差支えないものであり、その他指紋や掌紋等から見て東国光はその母が東ツヤ子である限りにおいてその父が関谷公夫であつて不合理であるという何等の根拠も見出せないというのであるから、所論の点は、鑑定人北条春光の鑑定の結果を採用した原審の採証をして判決に影響を及ぼすべき違法を来すものとすることはできない。その故、所論は採るを得ない。

同第三点について。

しかし、証拠の取捨、選択は、原事実審の裁量に属するこというまでもないから原審が北条春光の鑑定の結果を採用したからといつて、違法であるということはできない。しかのみならず、原判決の是認引用している第一審判決は、鑑定人内田長平の鑑定の結果は必らずしも以上認定に反するものでない旨判示して、鑑定の結果は必らずしも二者反するものでないことを認めている。されば、この点からいつても所論のごとく裁判所が更らに進んで鑑定を命じなければならないものとすることはできない。それ故、論旨は採るを得ない。

同第四点、第五点について。

しかし、原判示の事実認定は、挙示の証拠で肯認できるし、また、証拠の取捨、判断は、原事実審の裁量に属するところである。されば、所論は、原審の適法になした事実の認定ないし証拠の取捨、判断を非難するに帰し、上告適法の理由として採るを得ない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 斎藤悠輔 裁判官 入江俊郎 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 高木常七)

上告代理人鍛治利一、同江川甚一郎の上告理由

第一点原判決の引用する第一審判決はその理由において

「訴外ツヤ子は昭和二十二年五月頃から東諸県郡木脇府大字三名字六野の実姉訴外岩野ミヤ子方に出入りする内被告(上告人)と相識るようになつたが昭和二十六年十二月頃右訴外岩野ミヤ子方より自宅に帰る途中被告に逢い、家迄送つてやると称してついて来た被告に手を捕えられて附近の杉山に連れ込まれ、強いて情交を求められたため、同所において被告と肉体関係を結んだがこれが契機となり、爾来翌昭和二十七年五月迄の間三日に一回位の割合で前記場所その他の場所において被告と情交関係を継続するようになつた。ところで訴外東ツヤ子は被告以外の他の男子と肉体関係を結んだことは全く存しなかつたところ、同訴外人は昭和二十七年三月頃原告(被上告人)を懐胎したことを知り、同年十一月二十七日午前二時頃宮崎郡佐土原町大字上田島三千八百七十一番地佐土原病院において原告を分娩したことを認むるに充分である」

「従つて原告が訴外東ツヤ子と被告との間に出生したものであることを推定するに十分で、他に推定を覆すに足りる証拠は存在しない。」

と判示している。

しかし乍ら、凡そ認知の訴において、甲(原告)が乙(被告)の子であると判定しうるためには、少くとも、(イ)甲の母は受胎可能の期間中乙と継続的に情交を結んだ事実があり、(ロ)乙以外の男と情交関係のあつた事情が認められないというばかりでなく、更に、(ハ)血液型検査の結果によつても甲乙間には血液型の上の背馳がない場合でなければならない。而して、この要件を具備することが明らかとなつて初めて他に別段の事情のないかぎり甲が乙の子であるとの事実は証明せられたものと認めても経験則に違反しないとされるのである。(昭和二九年(オ)第九二八号同三二年六月二一日最高裁判所第二小法廷判決、民集一一巻一一二五頁)

即ち、右判例は右の要件を満すものでない限り甲が乙の子であると推認することは経験則上許されないことを示されたのである。人と人との関係の基本となり、当時者の処分に委ねられず、職権調査に従い最も重大な事項であるに鑑み当然のこととせねばならない。

そこで本件をみるに、原判決はその理由中に(イ)被告人の母が受胎可能の期間中上告人と継続的に情交を結んだこと、(ロ)上告人以外の男と情交関係のなかつたことは掲記するけれども、(ハ)被上告人と上告人の間に血液型における背馳があるかどうかについては全く判示するところがない。

然らば、(イ)(ロ)の二事実のみを以つては被上告人が上告人の子であると認定することは右判例の趣旨に徴し、経験上未だ許されぬものと云わねばならない。

即ち、この段階では認知請求を認容することは許されず、他に証拠がなければ挙証責任の分配により請求は棄却さるべきものである。

何れにしても、原判決は(イ)(ロ)の事実を認定するや直ちに被上告人に上告人の子であるとしたのは、前記判例に反し、審理不尽、理由不備の裁判であるとの誹を免かれないから破棄さるべきである。

第二点原判決は証拠の一つとして、鑑定人北条春光の鑑定の結果を採用している。

しかし、この鑑定内容を仔細に検討すると、

被上告人の血液型はB型、その母ツヤ子の血液型はB型、上告人の血液型はA型であることを鑑定した上、

A型と、B型の男女から生れる子の血液型は

「(式1) BB×AA = 100%AB型

(式2) BO×AA = 50%AB+50%A = 50%AB型+50%A型

即ちB型の女の相手がAAという式で表わされる所謂純型のA型の男である場合はB型の子は生れない。現在の所然しその人個人の血液を検査して見ても純型のA型か不純型のA型かと云うのは知る方法がない。若しその両親や同胞等を多く調査すればその可能性は絶無ではない。

B型の子の生れる場合

(式3) BB×AO = 50%AB+50%BO = 50%AB型+50%B型

(式4) BO×AO = 25%AB+25%BO+25%AO+25%OO = 25%AB型+25%B型+25%A型+25%O型

上の式の場合には半々づつB型の子が生れ、下の場合は四人に一人の割でB型の子が生れる。之だけでは何とも決定されない訳である。」

と前提し、

「其処で本件が式1(即ちB型の子の生れない式)で論ずる筋合であるかどうか検討してみると本件では式1で論ずるものでないという事が明瞭である。

何故かと云えばB型の子の父こそ不明であつてもその母は現実にB型の子を生んでいることに間違ないのでこの式で論ずる筋合のものでない訳になるからである。

次に式2の場合を考えても父こそ不明でもB型の子の母はB型であつて間違いないのであつて、その母がB型の子を生んでいるのでこの式で論ずる筋のものでない事も亦前同断である。この故に本件は3の式か4の式かその何れかは判らないがその何れかの法則に支配されている実例に相違ない事になり、そう検討することから推論して関谷公夫は決して純型のAA型の人ではない筈だと考えられるものである。

之を要するに、ABO式血液型より見てもMM式血液型より見るも、又参考の為に過ぎないがS式血液型より見るも東国光の父が関谷公夫であつて不合理であると考えられる迄は何等発見されず父であつても差支えない事になつている。」

とし、それ故に

「東国光はその母が東ツヤ子である限りにおいてはその父が関谷公夫であつて不合理であるという何等の根拠見出せません」

と結論付けている。

すなわち、BB型とAA型の間に出される子は百パーセントAB型(式1)、BO型とAA型に生まれる子は五十パーセントAB型、五十パーセントA型(式2)とあつて、B型の子は絶対に生まれないことを示し、式3、式4によれば、同じくB型とA型の間にはB型の子が生まれる可能性を示している。

従つて、同じA型、B型でも式1、式2の場合には絶対A型とB型の男女間にB型の子は生まれないことが明らかである。

斯様な一般公式を前提としながら、右鑑定は本件の場合式1、式2をもつて論ずる余地はない。なぜなら、B型の子の父こそ不明であれ、母は現実にB型の子を生んでいるし、又はB型の母は現実にB型の子を生んでいるからであるという。

しかし、本件の場合B型の父が不明であることはそのとおりであるけれども、子(被上告人)はB型、母(ツヤ子)もB型であるから式1、式2、式3、式4の何れをも検討してみなければ、上告人と被上告人間に血液型上の背馳があるかないかは判らない筈である。けだし、右公式の四類型とも、父母は共にA型とB型で、その中式1、式2の場合には絶対にB型の子は生れず、後二者の場合のみその可能性があるからである。

右鑑定において、式1、式2を本件の場合に当つてみなかつた理由は、B型の母がB型の子を生んでいるから、父は式1、2に該るAA型でないということになり、父の血液型検査の必要すらなくなる。しかも、AA型かどうかの鑑定も必ずしも不可能ではないことを述べているのであるから、少くも式3、4のAO型に上告人の血液型が該るかどうかまで確かめねば完全な鑑定とは云えない。

若し上告人の血液型が式1、2におけるAA型ならば絶対にB型である被上告人は上告人の子と云うことは出来ないわけであり、本件の場合母はB型、上告人はA型であるから式1、2の場合に該るかどうかを検討することなく、式3、4に当然該当すると云うことは鑑定にならない。それなのに、これを排斥した理由を納得せしむる程度に示さず、被上告人と上告人の間に父子関係の可能性があるとした本鑑定は血液型上から父子関係を検討するため証拠として未だ不十分というべく、その証拠として採用することは許されないものと云わねばならない。

蓋し、母がB型でB型の子(被上告人)を生んだのだから、その父はAA型でない男でなければならない。従つて上告人はAA型ではない筈だというのは科学上の結論ではない。上告人がAA型では父であり得ないので、父であると考へるためにはAA型の人ではないとせねばならない、ということであり、上告人が父であり得るとするために科学的根拠なく上告人はAA型の人でない筈だと想定したに過ぎないからである。これこそ本末顛倒の論に外ならない。

然るに原審が斯様な不完全な鑑定の結果を採つて上告人と被上告人間に父子関係ありとしたのは合理的でなければならない採証の法則に違背した裁判と云うべきであるから破棄を免かれない。

第三点原審は北条春光の鑑定の結果を援用しているが、他方この鑑定に反する内田長平の鑑定が証拠として存在する。

すなわち、前者は被上告人とその母の血液型をB型、上告人をA型と検定し、後者は被上告人とその母の血液型とをA型、上告人をB型と検定し、それぞれの上に立つて鑑定をなしている。

凡そ、認知事件は弁論主義により当事者の処分に委される通常訴訟と異なり職権探知の支配する訴訟手続である。これは人事訴訟手続が人倫上、感情上、社会的に重大な結果をもたらす訴訟手続だから、当事者の主張立証にまかせるだけでは足らず進んで裁判所が真実の発見に乗出すべきことを要請されるが故である。そうならば、父子関係存否の判断にとつて重要な一資料たるべき血液型上の可能性を知る血液型鑑定において、互に相反する二鑑定が出たならば裁判所は更に進んで、権威ある鑑定を命じた上、その採否の態度を決定すべきである。

然るに、こと茲に出ず漫然、その一方の鑑定の結果のみを採用して、上告人と被上告人間に父子関係ありとした原判決は、審理不尽、採証法則違背の誹を免かれず破棄さるべきである。

第四点原判決は、上告人と被上告人の母東ツヤ子とは昭和二十六年十二月頃関係を結んで以来翌二十七年五月迄の間三日に一回位の割合で情交関係を継続し、その間昭和二十七年三月頃ツヤ子は被上告人を懐胎したこと及びツヤ子は上告人以外の男子と肉体関係を結んだことはないことよりみれば、被上告人はツヤ子の間に出生したことを推定するに十分である旨判示する。

しかし、上告人本人の第一審における供述によると

「問 東ツヤ子と関係した事があるか。

答 昭和二十六年十月頃と昭和二十七年四月頃の二回ありますがその日は記憶しません。」

とあつて、上告人がツヤ子と関係したのは昭和二十六年十月頃と、翌年の四月頃の二回限りであるという。ところで、第一審証人東ツヤ子の証言によれば

「問 姙娠した事を気付いたのは何時頃か。

答 昭和二十七年三月に月経がありませんでしたので或は姙娠したのではないだろうかと思いました。」

とあり、第一審証人高山虎太郎の証言によれば

「甲第二号証を示す。

二、この証明書は私が作成したものであります。

三、昭和二十七年十一月二十六日の夜東ツヤ子が他の医師の診断によると腸閉塞ということで私の病院に来たので早速診察するとそうではなく分娩の始まりであつて来宅間もなく破水、同月二十七日午前二時に無事分娩が終りました。

四、私が東ツヤ子に月経の最終日は何時かと聞いて見ましたがその点本人も判然とせず昭和二十七年二月末であつたというだけで日はわかりませんでした。それでそれに基いて計算すると同年十二月十日午後に分娩するのが普通だし又出生児も発育が満月に足りないという感じを受けたので出生児を「凡そ九ヶ月末と思はるる成熟児」と認定したわけであります。

五、満月に足りない出生児でも九ヶ月を過ぎ十ヶ月目にかかつて居れば成熟児と称して居ります。なお分娩期の計算は月経の閉鎖したときを基準にするのです。

とあつて、ツヤ子の月経閉鎖は昭和二十七年の三月であるから受胎期は昭和二十七年二月の月経終了後翌三月の月経開始の間ということになる。又分娩児(被上告人)は稍早産児で九ヶ月位の胎児とみられるから、この点からも懐胎期は右の期間と推定される。

従つて、少くも上告人は右の期間中ツヤ子と関係してないことになるから、被上告人は上告人の子であると推定する余地はない。

この点につき、ツヤ子は第一審証言で判示に添う供述をなしているけれども、第五点指摘のとおり同女は当時多数の男と関係していた事実が窺えるし、又冬の最中である十二月から三月頃までの間屋外で、而も三日に一度位の割合で関係するということは通常考えられぬところである。

更に同人の第一審における証言によれば、

「問 三日に一回位宛関係したと言うが、それはどこかで公夫と前もつて打合せでもしていたのか。

答 公夫は時々私の家に遊びに来ていましたので別に前もつて示し合すと言う様な事はしませんでした。」

「その頃妊娠七ヶ月になつていて隠しもできなかつたので同人(藤沢君子)にその事を話して公夫にどうしてくれるかと聞いて下さいと頼みましたところ同人は公夫もその事で心配していた、それで自分に就職口を探してくれと言つたと私に話しました」

とあるのに、同女の兄である東竜夫や岩野ミヤ子は第一審において、分娩の時までツヤ子が妊娠しているということは全く知らなかつたと証言している。

又岩野ミヤ子は第一審証言で、上告人は岩野方に時々遊びに来たが、別に上告人の男友達は同人方にいないというが、右東ツヤ子の証言によれば岩野方には上告人の同級生がいたので時々遊びに来ていたという。

岩野方には上告人の男友達がいるのに、証言では故らにいないと云い、妊娠七月ともなれば誰れでも一見姙娠していること位は判る筈なのに家族の者は誰も知らなかつたと云い、前もつて逢引の相談はしないのであるから三日に一回上告人は東方に遊びに行つていたとすれば二人の関係がおかしいと誰しも気付く筈なのに東竜夫は不審にも思わず、分娩まで妊娠すら知らなかつたと云うことはあり得ない。又最も恥ずかしいこと柄なのに友達に上告人との関係を打明けて子供やツヤ子自身の処置について善処方を依頼するということは家の人にすら秘していたのに鑑み、通常考へられぬところである。この様に東ツヤ子の(証言)や証人東竜夫、岩野ミヤ子の証言はことごとく矛盾し、常識に反する供述であることが暴露されている。

乙一号証によると家事調停の申立においてツヤ子は上告人に対し、被上告人の引取りと、慰藉料三十万円の請求をなしている。これと、前記各証言と第五点の男関係の多かつた事実を合せ考えるとツヤ子等は、上告人家が村で有数の資産家なので、上告人と関係したことがあるのを幸いこれに事寄せて子供(被上告人)の押付けと、慰藉料三十万円の獲得を企んだことが察せられる。

これに反し、上告人はツヤ子方から被上告人の処置についてせまられたときから、前記のとおりツヤ子とは二回の関係しかなかつたことを主張して遂に本件訴訟になつたこと第一審証人渡辺勇雄、第二審証人関谷公重の証言するところである。

このように、原審の採用する重要証拠たる第一審証人岩野ミヤ子、同東竜夫及び東ツヤ子の証言は全く信用できない性質のものであることが明瞭である。

故に上告人は、ツヤ子が被上告人を受胎した期間に東ツヤ子と関係したことはないのであるから、上告人の子であるとの推定は働く余地がない理である。

原審が斯様な点を看過し、前示の証拠を採用して、前掲事実を認定したのは採証法則に違反し、審理不尽の裁判というべきであるから破棄を免れない。

第五点原判決は、上告人のいわゆる多数関係者の抗弁を信用するに足りる証拠がないと排斥した。しかし、証拠を検討すると、

(1) 第一審証人横山英男は

「二、私は児玉守を三回尋ねて行つた事があります。最初は昨二十八年五月二十日頃私と緒方重人と二人で、二回目は同年六月二十七日か八日頃私に主人の父重義と関谷公夫の父公重の三人で、三回目は同年八月五日頃私と重人の二人で尋ねて行つた様に記憶しています。

三、同人を尋ねて行く様になつた事情は

昨年(昭和二十八年)五月二十日だつたと思いますが渡辺勇雄、中山重美、緒方重人の三人が私方に参りまして長園(児湧郡都於郡村大字荒武字長園、以下同じ)の東ツヤ子に子供が出来てツヤ子の方ではその子供は関谷公夫の子供であると言つているけれども話に聞けば児玉守の線が強いと言う事であるから同人がツヤ子と関係した事があるかどうか同人に聞いて見てくれ

と私に依頼したのであります。

ところで私は児玉守の父とは入魂の間柄でありましてその様な事を聞いて守君に迷惑がかかる様な事になつてはいけないから一応断つたのでありますが中山さんがツヤ子は公夫以外に男はいないと調停の時も言つているのだから決して迷惑はかかる様な事はないと言われますので引受けた訳であります。そこで重人と私と二人で児玉守方に行つて同人に同人方の下の道迄出て貰つて、そして私がツヤ子と関係があつたかどうかについて聞きましたところ同人はほめた事ではないけれども長園の澱粉工場が出来る頃ツヤ子とは三ヶ月位の間関係していたと答えました。

それから重人が尚同人に都於郡村山田の板東と言う男も関係していたのではないかと聞きましたところ同人は板東も関係していたが速効散と言う薬を作る会社の雇人の山下と言う男もツヤ子と深く関係していた。山下はツヤ子が自分と関係している頃時々ツヤ子の所に泊つていたと言う事であり、又長園に行つている自分の姉がお前はツヤ子さんと関係しているらしいがあんな女と関係していては姉弟の顔に泥を塗る様な事になるから止めよ、と意見した事もあつてツヤ子から手を引いた。

と話しました。

…………

尚その際児玉は

ツヤ子はその他木工の谷中と言う男とも関係があつたし、ツヤ子の兄の結婚被露宴の晩藤城と言う巡査とも一緒に寝たと聞いている。

と話してくれました。

それ等の事は児玉が自ら進んで私達に話してくれた事です」

(2) 第二審証人横山英夫は

『四、児玉に会つたとき児玉は私に

「澱粉工場が出来る間三ヶ月くらい東ツヤ子と関係した」と云つたのです。』

(3) 第一審証人緒方重人は

「二、私は昨二十八年五月二十日頃公夫とツヤ子の関係について横山英男さんと共に児玉守を尋ねて行つた事があります。それは児玉守が東ツヤ子と大変仲が良かつたと言う事を若い者同志の間で聞いていましたので果してその様な事実があつたか確める為に行つた訳であります。

三、別に他から頼まれて行つた訳ではなく私が自発的に行つたのでありまして、横山英男さんに行つて貰つたのは、私は児玉をよく知らないし又同人の家もよく知らないので同人方の近所であり、又同人をよく知つている横山英男さんと私と渡辺勇雄、中山重美の三人で頼みに行つた訳です。

四、前述のように横山さんと児玉方に行つて守君に同人方の下の道路迄出て貰つてそこで英男さんが「東ツヤ子と関谷公夫との間に問題が起きているが話によれば守君もツヤ子と関係があつたと言う噂であるがそれが事実なら正直に話してくれないか」と申しましたところ、同人は最初は黙つていました。それで私がツヤ子は調停の時に他の男とは絶対に関係はないと言つているから決して迷惑はかからないから正直に言つてくれと言いました。すると同人はツヤ子とは随分前から関係していたが鳥田喜平と言う人からツヤ子は他の男とも関係していると言う噂があるから手を引いた方が良いと忠告を受けた事もありその後姉からもツヤ子は男の人と非常に交際が多いから手を引けと意見された事もあつて手を引いたと申しました。尚その時私が児玉に板東もツヤ子の処に遊びに行つていると言う噂を聞いたがどうかと聞きましたところ、同人は板東もツヤ子と交際していた様だが、岡本方(速効散製薬所)に雇れている山下泰行も深く交際していたと言いました。

「六、尚私が児玉にツヤ子は沢山男がいるのだなと申しましたところ、児玉は男は誰でもだつたと言つて谷中と言う男もツヤ子と関係があつた、又ツヤ子の兄の結婚式の翌日ツヤ子は藤城巡査とも関係したと言う様な事を同人から進んで話してくれた。私共はそれ迄谷中や藤城巡査の事等は全然知りませんでした」

(4) 第二審証人関谷公重の証言に

「四、前述の様に先方の云う事があいまいなので渡辺勇雄に依頼して調べて貰つたところ近所の話では男がたくさんいて誰の子かわからないという事でした。

先方では公夫の子であるというので若し他に男がいなければ公夫の子と云われても仕方がないと考えて調べて貰つた訳です。」

(5) 第一審証人原克美の証言に

「三、四、五年位前だつたと思いますが、矢賀茂と東ツヤ子の二人が夜明けに私方に来た事があります。ツヤ子は私の家迄は這入らずに私方の下の道で待つていました。

それで私が矢賀に昨夜は何処に泊つたのかと聞きましたところ同人は東ツヤ子と観音様に泊つたと言いました。そこで私が変な事をしたのだろうと言いました処同人は観音様でツヤ子に関係させなければ帰ると言つたらツヤ子が関係させるから暫くおろうと言つて引止めるのでそこに泊つたと言つていました。そしてツヤ子は家には姉さんの家に泊つたと言へば良いと言うので同人の家迄自転車に乗せて送つて行つてやろうと思うから自転車を貸してくれと私に言いました。

四、その時期ははつきり覚えませんが菜種の花の咲く頃だつた様に思います。」

(6) 第一審証人藤沢吉雄の証言に

『本件に関しての話が出たので東竜夫の方からも聞いた旨話しました。その後児玉守が東ツヤ子に下駄を贈つた話をしました。渡辺と逢つて話をしたのは昭和二十八年五月頃であり児玉守が下駄を贈つた時は私が郷里にいる頃で昭和二十七年十一、十二月頃と思います。渡辺の話では公夫以外にツヤ子には男が何人もあつた話をしたので私は知らないが私の娘君子が新品の下駄を持つているのを見たので「親父に黙つてこんな物を買う様になつたか」と聞きましたら「これは私のではない、人から頼まれてツヤ子さんにやるのだ」と云つたので「誰から頼まれたか」と聞いたら「児玉守さんからだ」という事だつたので若い者にはありがちな事だと思いその儘々にしておきましたという話を渡辺にした。』

(7) 第一審証人児玉守の証言に

『問 東ツヤ子の家に遊びに行つたことはあるか。

答 あります。同女と知合になつたのは昭和二十六年八月頃でツヤ子の部落が共同で澱粉工場を建設したことがあり私もその工事に働いていました。その際ツヤ子も澱粉工場に働いていたのでその頃知合になりました。

中略

問 証人が東ツヤ子と遊んだのはどの位の期間か。

答 昭和二十六年八月頃から十月頃まで澱粉工場の建築工事がありましたのでその期間丈です。

問 証人は藤沢君子に託してツヤ子に下駄を贈つた事があるか。

答 あります。昭和二十六年八月中だつたと思います。ツヤ子と君子とは一緒に澱粉工場に働いていて職場友達であつたのでツヤ子の家に行つたがツヤ子が不在だつたので君子に「これをツヤ子ちやんにやつてくれ」と頼んで当時都於郡村から通つていたので同村に帰りました。

問 証人はツヤ子にどういう気持で下駄をやつたのか。

答 若い者の出来心からです。

問 下駄はツヤ子は受取つてくれたのか。

答 後で逢つたとき同女が「下駄をありがとう」と云つたので受取つたものと思います。』

(5) 第一審証人横山英男の証言に

「四、二回目に児玉を尋ねて行つたのは児玉等が証人に出ると言う事を東ツヤ子の方で聞いてそれは大変だと言つてもみ消しに一生懸命になつているが大丈夫だろうかと心配して関谷公重と緒方重義の二人が私方に参りました。重義さんは前述の様に縁故関係が出来てから始めて私方に見えたので家内が焼酎でも出そうと言つて準備しましたが二人は余りに心配されていましたのでそれ丈け気にかかるのならもう一度児玉の家に一緒に行つて、そして同人から話を聞こうと云つて準備した焼酎を持つて行つたのであります。

ところが守君は不在だつたので同人の母に守君とツヤ子との関係を耳に入れて置いた方が良かろうと思つてその事を話して別に迷惑をかけないから心配せずにいてくれと言つて尚守君がいたなら焼酎でも飲み乍らこの前守君が言つた事をもう一度公夫の父にも聞かせて貰おうと思つて焼酎を持つて来たけれどもと言つてその焼酎を預けて帰つたのであります。同人の母はその話を聞いてそうだろう、工事に働きに行つている頃家に帰つて寝なかつたと言われました」

「一一、前に児玉守がこの法廷で証言した事は私はその時傍聴していましたのでよく知つていますが私が本日申し上げた事と児玉守が前に証言した事と何れが真実かと言う事は同人と対決すれば最もよく判ると思います。」

とあるとおり、当時東ツヤ子は男関係が多かつたことを示している。

すなわち、ツヤ子は児玉守、板東某、山下泰行、矢賀某、藤城某等多数の男と関係していたのである。

殊に児玉守とは昭和二十六年八月頃から深く関係しており、同人はツヤ子に下駄まで贈つているのであつて、同人等はその頃澱粉工場の建築工事で共に働いているうち、深い仲となり、下駄を買つてやつたのもその頃のことである。娯楽施設も少ない片田舎では若い男女が官能的な直接行動にそれを求めることは周知の事実であつて、いわゆる尻軽娘がおれば若衆は女王蜂に殺到する雄蜂の如く、これにむらがり集る。

本件についてみれば、東ツヤ子は当時十八才の娘盛りであり、上告人とやすやす関係している事実よりみても、尻の軽い娘であつたことは想像に難くない。

それだからこそ、前記数人の男と関係をもつたのである。而も児玉に関してはツヤ子に下駄を買い与える程度の交際にあつたことよりみて、相当深い仲であつたことが判る。なぜなら、片田舎で若い男女が同一職場に働いており、而も男が女に下駄を買い与えるということは、清い関係においては特段の事情がない限り通常考えられぬところだからである。

児玉は前掲証拠の示すように横山英男、緒方重人等が尋ねた際ツヤ子と深い関係にあつたこと、ツヤ子には他にも男がいたことを打明けているのに、法廷ではこれを否定し、而も右の者等が尋ねて来たのは、本件の証人に出た場合、ツヤ子には当時他にも男があつたと述べてくれと頼みに来たのであつて、その時彼等は焼酎を持つて来たと尤もらしく証言するが、これが嘘であることは、その後前掲の如く、ツヤ子と澱粉工場の建築工事当時から深くつき合い、同女に下駄を贈つたことを認めていること、横山英男が焼酎を持つていつたのは児玉家と横山家は入魂の間柄でもあつて、素手で行くのも事柄の性質上多少訪ねづらくもあつたので飲みながら話そうと思つて気軽に持つて行つたまでであること、横山英男は、同人が第一回訪問のとき自ら右の事実を白状したことは真実で、児玉の右証言は嘘である、同人と対決させてくれればすぐ判ると述べていること等から明らかである。

上告人が一審以来被上告人の認知請求を拒否し続けて来たのも第一審において

「問 自分からツヤ子を誘つた様な事はないか。

答 ありません。

ツヤ子から誘われた事はあります。然し関係した事はありません。その時私は断りました。ツヤ子には他に

も男がいました。

問 ツヤ子に他に男がいたと言う事がはつきり云えるのか。

答 言へます。男の顔は知つていますがその名前は忘れました。

問 どうしてその様な事が言えるのか。

答 私が何時か映画見に行く途中ツヤ子が男と一緒に歩いているのを見た事があります。」

と述べているようにツヤ子には当時他に関係した男が数人あるし、出産時期からみても上告人の子とは信じられないからである。

上述のように、ツヤ子が当時上告人以外にも男関係があつたことは明瞭で、少くも児玉との関係は前記のような事実が認められる限り社会通念上、当時ツヤ子と肉体関係があつたことが推認されるし、又そのような尻軽娘であるから、他の男関係も多数存したであろうことも察知されるのである。

然るに原判決は、此の点を深く考究することなく上告人のいわゆる多数関係者の抗弁を軽く排斥したのは、社会通念に反した証拠判断によるものというべく、ひつきよう採証法則違背、審理不尽の違法があり破棄を免かれない。

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