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最高裁判所第一小法廷 昭和46年(オ)197号 判決 1972年2月24日

上告人

松田一郎

代理人

杉之原舜一

被上告人

金井秀二郎

被上告人

河端寅松

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人杉之原舜一の上告理由について。

被上告人金井が、上告人の抵当権設定登記前に本件建物の引渡を受けて訴外天野に対する賃借権を取得していた旨の原審の事実認定は、原判決挙示の証拠に照らして肯認することができ、原判決に所論経験則違反の違法があるとはいえない。

次に、論旨は、本件転借権の登記の存在およびその抹消に関し通謀虚偽表示があつたものとし、原審が上告人の主張を誤解し、審理を尽くさなかつた違法があるとするのであるが、以下に説示するとおり、右論旨は採用することができない。

すなわち、原審の確定するところによれば、被上告人金井は、真実は、右のとおり本件建物の賃借権を譲り受けながら、登記のうえでは、あたかも訴外会社から本件建物を転借したかの如く装い、転借権の設定登記を経由し、その後、本件競売前にその抹消登記手続をしたというのである。この事実によれば、なるほど、同被上告人は訴外会社と通謀のうえ、虚偽の転貸借契約を締結したものということができないわけではないが、右登記の抹消により、この虚偽表示は撤回されているのであつて、この抹消に関しなんらの通謀虚偽表示は存しないのである。また、上告人は、本件建物になんらの負担もないことを主張しているのであつて、右通謀虚偽表示を真実の意思表示と信じて右転借権を取得した等、虚偽表示の外形について新らたな利害関係を有するにいたつたことを主張するものではないから、民法九四条二項にいう第三者にも該当しない。したがつて、右転借権の登記およびその抹消登記に関して通謀虚偽表示をいう所論上告人の主張は理由がなく、原審がこれを当然の事理として採用しなかつたのは相当である。

もつとも、所論上告人の主張は、これを善解すれば、登記上右のような外観を作出した場合には、民法九四条二項を類推して、その外観を信頼して取引をした者を保護すべきものとする趣旨を含むものと解しえられないではない。しかしながら本件建物の競落人において右建物に賃借権が存在しないと信ずべき外観が作出されていたかを考えるのに、これもまた、直ちに肯定することはできない。すなわち、家屋の賃貸借は、通常、家屋の占有状態によつてその存否を認識しうるものであつて、それなるが故に、借家法はその引渡を家屋の賃借権の対抗要件と定めているのである。したがつて、すでに引渡を了しその対抗要件を具備した賃借権にあつては、別に登記によつてその対抗要件を具備する途が開かれているからといつて、登記のみによつて、その不存在ないし消滅の外観が作出されたものとみることはできず、そのような外観が作出されたということには、占有状態からも、それが存在しないか、あるいは後に消滅したかの如き外観が作出されていなければならない。けだし、法が家屋の賃借権の対抗要件として、引渡および登記の双方を認めている以上、そのいずれかを優先させる根拠はなく、所論の如く登記のみを信じた者を保護しようとするならば、引渡による対抗要件の具備を否定せざるをえない結果となり、前記法の趣旨に反するからである。ところで、本件において、原審の確定するところによれば、被上告人金井は、本件抵当権の設定登記が経由される以前に、本件家屋の賃借権を譲り受け、その引渡を受けていたのであつて、登記のうえでは、まず、転借権設定の登記を経由し、本件抵当権設定登記後、あらたに賃借権設定登記を経由し、然る後右転借権設定登記を抹消したというのであるから、これを全体として観察するときは、外部からみても同被上告人の賃借権は、右抵当権設定登記の以前から継続して存在していたことが容易に推知しうるのであり、たとえ上告人において登記簿上転借権の抹消登記があることのみから、本件賃借権が消滅したと信じたとしても、そのことをもつて本件建物になんら賃借権は存在しなかつた旨の外観が存するものとし、競落人を保護すべきものとすることはできない。所論引用の原判示も、またこのことを説示したものに外ならず、右原審の判断は相当であつて、原判決に所論の違法があるとはいえない。論旨は、ひつきよう、原判決と異なる独自の見解にたつてこれを非難するに帰し、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(岩田誠 大隅健一郎 藤林益三 下田武三 岸盛一)

上告代理人の上告理由

一、以下、甲第一号証登記簿謄本乙区欄、順位番号五番の賃借権を訴外会社賃借権、同上順位番号六番の賃借権転貸を被上告人金井の転借権、同上順位番号九番の賃借権を被上告人金井の新賃借権、同上順位番号一〇番の賃借権抹消を合意解約による訴外会社賃借権消滅、同上順位番号一一番の転借権抹消を合意解約による被上告人金井の転借権消滅と略称す。

二、上告理由に関係ある上告人の原審における主張

(一) 被上告人金井は、本件建物を、訴外会社から転借して転借権設定登記をしていたが、合意解約を原因として右登記の抹消登記手続をした。このように、本件建物の占有権原である転借権の消滅を公示した以上、占有権原が消滅せずに継続しているということを、第三者である上告人に対抗することはできない。

(二) 被上告人金井が、訴外会社から本件建物の賃借権の譲渡をうけたとしても、同被上告人は、上告人に対し、民法第九四条第二項に定める虚偽表示の規定により、譲受賃借権を対抗できない。

(1) 被上告人金井と訴外会社は、通謀して、訴外会社の賃借権の合意解約という虚偽の意思表示を登記によつて表示した。上告人は、被上告人金井の本件建物の従前の占有権原は転借権であり、かつ、その占有権原は合意解約により消滅し、また訴外会社の賃借権も合意解約により消滅したと信じて本件建物の所有権を取得した。そうすると被上告人金井は虚偽表示が無効であることを、したがつて、隠匿行為である賃借権譲受行為の効力とその効力の存続を善意の第三者である上告人に対抗できない。

(2) 被上告人金井は、訴外天野実と通謀して、昭和三五年七月七日にあらたに本件物件の賃貸借契約を締結したむねの虚偽の意思表示を、同年同月一八日受付の登記で表示した。上告人は、被上告人金井のあらたな占有権原は、訴外天野との間に新しく設定された賃借権であると信じて本件建物の所有権を取得した。そうすると、被上告人金井は、本件建物の占有権原が昭和三三年ごろ訴外会社から譲り受けた賃借権であることを、善意の第三者である上告人に対抗できない。

(三) 建物賃借権の公示方法として登記と借家法第一条第一項の引渡の二つが認められている。建物の賃借人がその公示方法として登記を選んだ以上、その後の権利変動はすべて登記の方法によるべきで、取引関係に入る第三者は登記のみを信頼すればよく、本件についていえば、合意解約の登記を信頼して本件建物を競落した上告人に対しては、被上告人金井は引渡によつては対抗できない。

三、上告人の右原審における主張に対する原判決理由

(一) 「被控訴人金井は、訴外天野から賃借権の譲渡をうけた際、訴外会社代表者訴外松田賢一、訴外天野と相談してこれを登記することとしたが、特別の理由もなく転借の登記手続をした。ところが、昭和三五年七月ごろになつて、登記簿上、転借権の基礎となる訴外会社、訴外天野間の賃借契約が、同月五日に期間満了することになつていたが、すでに訴外会社は賃借権譲渡の際完全に賃貸関係から脱退していたので、形式的に期間更新の登記をするようなことをせず、被控訴人金井が訴外天野から直接本件建物を賃借している実体を公示しようとして、同月一八日受付の賃借権設定登記手続をした。そうすると、従前の訴外会社、訴外天野間の賃借権設定登記および訴外会社、被控訴人金井間の転借の登記は不要となるので、同年八月一日受付の各抹消登記手続をした。したがつて、訴外天野と被控訴人金井との間に合意解約はなされず、従来のままの賃貸借関係が継続した。」

(二) 「訴外天野、訴外会社間の賃借権設定登記および訴外会社、被控訴人金井間の転借権設定登記が昭和三五年八月一日付で合意解約を原因として抹消されている。しかし、このことが、ただちに被控訴人金井の譲受賃借権の借家法にもとづく対抗要件である引渡ないし占有の消滅を公示するものといえないことはいうまでもない。かえつて、前認定のとおり、被控訴人金井の本件建物の占有状態は従前とまつたく変りがなく、右抹消登記は、新賃借権の設定登記によつて不要となつた転借権の登記を抹消する目的でしたにすぎないのであるが、さらに登記簿をみると、右抹消登記の直前の昭和三五年七月一八日にすでに訴外天野と被控訴人金井との間に新賃借権設定登記がなされているのであるから、登記簿を一見しただけでも、被控訴人金井が正当な権原にもとづいて本件建物の占有を継続していることはたやすく推測できたところである。要するに、被控訴人金井の賃借権の対抗要件である占有が消滅したことを窺わせるような事情はなく、むしろ占有の継続を推認させる有力な事情が存在していたといえる。のみならず、原審における控訴人本人尋問の結果の一部、ことに本件建物の競落直前に登記簿を見たむねの供述部分に弁論の全趣旨を合わせると、控訴人は、被控訴人金井の占有が抵当権設定登記前から変りなく継続していたことを知つていたことさえ窺われる。

また、前記の通り、登記簿上、昭和三五年七月一八日付で訴外天野、被控訴人間の新賃借権設定登記がなされているが、すでに昭和三三年五月末に被控訴人金井が本件建物の引渡を受けたことによる対抗力が生じており、右設定登記によつて引渡およびその後継続した占有による対抗力の一時消滅を表示したものではなく、控訴人もこのことを知つていたと窺われること前認定のところから明かである。

結局、控訴人の二つの虚偽表示の主張は、右のような登記簿の記載が、被控訴人金井の本件建物の占有の対抗力を失わしめるものであるから、いずれも採用できない。」

(三) 「建物賃借権について、引渡と登記という二つの対抗要件が競合した場合に、登記による対抗力を優先せしめ、引渡による対抗力を主張できないものとする考え方は、立法論としては、十分考慮すべきものであるが、現行法の解釈として右の考え方を容れることはできない。借家法に、引渡が、登記と優劣のない独立の対抗要件として認められている以上、取引関係に入る第三者としては、登記簿の記載だけでなく、引渡およびその後の占有をも調査しておくことが要請されることはやむをえない。のみならず、本件では、登記簿の表示自体からも、被控訴人金井の賃借権の対抗要件としての占有が、控訴人が抵当権設定登記をうける以前から継続していることをたやすく推測できたし、控訴人がこのことを知つていたと窮われること前認定のとおりであるから、登記の記載を信頼した控訴人を保護すべきであるという控訴人の前記主張を採用することはできない。」

四、上告の理由

原判決には民事訴訟法第三九四条にいう「判決ニ影響ヲ及ボスコト明ナル法令ノ違背」および民事訴訟法第三九五条第一項第六号にいう「判決ニ理由ヲ附」さない違法がある。

(一) 被上告人金井は第一審において、その答弁書、昭和四二年二月二三日付準備書面、昭和四二年一一月二〇日付準備書面および昭和四三年二月一五日付準備書面で、一貫して、訴外会社から本件建物を転借りしていた事実を認めてきたのである。原審第四回口頭弁論期日においても被上告人金井は転借権の事実を認めている。しかるに、被上告人金井は昭和四三年一〇月三一日付準備書面で、すなわち、第一審における口頭弁論終結の日に突如として従来の右主張を変え、訴外会社から賃借権の譲渡を受けたものと主張するに至つたのである。訴外会社からの転貸借であるという従来の主張を維持することは、登記簿上の記載と符合し、被上告人金井にとつて不利となることをおそれ、それを避けるため、前記のように、その主張事実を突如として改めたものというほかない。なお、賃借権譲渡の登記をしないで転借権設定の登記をしたのは、訴外会社と被上告人金井が合意の上便宜的になされたものであるというのである。しかし、実質関係が賃借権の譲渡であれば、そのまま端的に賃借権移転の登記をすればこと足りるはずである。とくに、実質関係に符合しない転借権設定、転借権消滅、訴外会社の賃借権消滅および新賃借権設定の各登記の方法を、とくに、選ばねばならない事由はみ出しがたい。当事者の便宜というのみではこれを理解しがたい。

以上のように、被上告人の転借権設定の主張およびそれにそう各登記の存在からすれば、被上告人金井が本件建物につき当初取得した使用権は転借権であり、譲受賃借権でないと認定することが経験法則に合致するところである。したがつて、原判決の前記事実認定は法令に反するものである。

(二) 原判決は、「訴外天野、訴外会社間の賃借権設定登記および訴外会社、被控訴人金井間の転借権設定登記が昭和三五年八月一日付で合意解約を原因として抹消されている。しかし、このことが、ただちに被控訴人金井の譲受賃借権の借家法にもとづく対抗要件である引渡ないし占有の消滅を公示するものといえないことはいうまでもない。」とし、さらに「登記簿上、昭和三五年七月一八日付で訴外天野、被控訴人間の新賃借権設定登記がなされているが、すでに昭和三三年五月末に被控訴人金井が本件建物の引渡を受けたことによる対抗力が生じており、右設定登記によつて引渡およびその後継続した占有による対抗力の一時消滅を表示したものではなく、控訴人もこのことを知つていたと窺われること前認定のところから明らかである。」とし、「結局、控訴人の二つの虚偽表示の主張は、右のような登記簿上の記載が、被控訴人金井の本件建物の占有の対抗力を失わしめるものでないから、いずれも採用できない」としている。しかも、上告人は登記簿上の記載から、被上告人金井の占有が抵当権設定登記前から変りなく継続していたことを知つていたとさえうかがわれる。

しかし、上告人の二つの虚偽表示の主張を排斥している理由は甚だ明確でない。

(1) 原判決は、訴外会社の賃借権および被上告人金井の転借権設定登記が合意解約を原因として抹消されているが、それがただちに被上告人金井の譲受賃借権の借家法にもとづく対抗要件である引渡ないし占有の消滅を公示するものといえないとし、さらに、被上告人金井の新賃借権設定登記がなされているが、被上告人金井の譲受賃借権については被上告人金井が昭和三三年五月末に本件建物の引渡を受けたことによる対抗力が生じている。右設定登記によつて引渡およびその後継続した占有による対抗力も一時消滅を表示したものではないとしている。それは上告人の虚偽表示の主張は、合意解約による前記被上告人金井の転借権抹消の登記および被上告人金井の新賃借権設定登記が、ただちに被上告人金井の譲受賃借権の借家法にもとづく対抗要件である引渡ないし占有の消滅を公示しているものという主張であると理解し、その前提に立つての理由であるかのようである。

しかし、上告人はかような主張をしていない。上告人が主張しているのは、被上告人金井は通謀による虚偽表示である訴外会社と被上告人金井間の転借権設定行為およびその合意解約の無効を、また通謀による虚偽表示である訴外天野と被上告人金井の新賃借権設定の無効を、したがつて、隠匿行為である訴外会社からの賃借権の譲受行為の効力を上告人に主張できないというのである。すなわち、訴外会社と被上告人金井および訴外天野との内部関係においては、賃借権譲受行為が有効であり、それにともなう占有の移転があつたとしても、また、新賃借権の設定行為が無効であつたとしても、被上告人金井と善意の第三者である上告人との外部関係においては、民法第九四条第二項により、被上告人金井は上告人に対し、かような隠匿行為である賃借権譲受の効力を主張することができない。その結果、被上告人金井の本件建物に対する占有が昭和三三年五月末から現在に至るまで継続しているとしても、その占有は上告人に対しては、譲受賃借権にもとづく占有ではなく、したがつて、賃借権譲受を公示する占有でもなく、転借権にもとづく、またこれを公示する占有であり(転借権にもとづく占有も合意解約による転借権の消滅により、その時から転借権にもとづく占有でもなくなつたが)、新賃借権設定後は新賃借権にもとづく、またこれを公示する占有権であるにすぎないというのが上告人の主張である。

原判決は被上告人の譲受賃借権は、その当初、訴外会社から本件建物の引渡、すなわち占有の移転を受け、借家法にもとづく対抗要件を具備しており、その占有状態は現在まで従前とまつたく変りのないことは登記簿の記載を一見しただけでもたやすく推測ができたところであるともいつている(原判決七枚目表参照)。登記簿を見れば、昭和三三年五月三〇日から昭和三五年七月五日まで被上告人金井が転借権にもとづいて本件建物を占有していた事実および昭和三五年七月七日から新賃借権登記が抹消されるまで被上告人金井が新賃借権にもとづいて本件建物を占有していた事実は一見して明かである。また、転借権が合意解約されたという昭和三五年七月五日から新賃借権が設定されたという同年七月七日の間、実際上何らかの理由で被上告人金井が本件建物を占有していた事実は、原判決がいうように、一見しただけでも推測できる。したがつてそこには占有状態が昭和三三年五月末から現在に至るまで継続している事実はたやすく推測できる。しかし、その占有は初めは転借権にもとづく占有であり、その直後新賃借権にもとづく占有権に変つたことがたやすく推測できるのみであつて、譲受賃借権の対抗要件としての占有およびその占有の継続であることは、原判決がいうように、たやすく推測しうるどころか、ほとんどさような推測をすることは不可能である。この点についての原判決の判断には経験法則からも論理法則からも理解しがたいものがある。しかも、かような判断をもつて上告人の主張を排斥する一つの根拠としている。原判決には、法令の解釈適用に誤りがあるか、理由不備の違法がある。

原判決が上告人の主張を前記のように理解し、その前提に立つて上告人の虚偽表示の主張を排斥したとすれば、前記排斥の理由は上告人主張を誤解し、その前提にたつての排斥理由であるからして、原判決には審理をつくさず理由不備の違法がある。

(2) 原判決が上告人の主張を排斥したのは、上告人の主張が前記のような虚偽表示の主張であるとしても、被上告人金井の譲受賃借権については、被上告人金井が昭和三三年五月末に本件建物の引渡を受けたことにより対抗力が生じている。しかも、右対抗力のある占有は現在に至るまで継続している。したがつて、被上告人金井の転借権設定の登記、合意解約による転借権抹消の登記、訴外会社の合意解約による賃借権の抹消登記および被上告人金井の新賃借権設定の登記がなされたとしても、その登記によつて、上告人が主張するような、関係当事者間において通謀の転借権の設定、転借権の合意解約、賃借権の合意解約および新賃借権設定というような民法第九四条にいう通謀虚偽表示は成立の余地がないという理由で上告人の虚偽表示の主張を排斥しているとも思われる。もしそうであるとすれば、本件のように、被上告人金井が賃借権を譲り受け借家法に定める対抗要件である占有の譲渡を受け、対抗力が生じた以後においては、被上告人金井本人が訴外会社または訴外天野との間において右賃借権譲受けを隠匿もしくは否定するような法律行為をし、かつこれをたとえば登記簿において公示した場合でも、かような通謀による虚偽表示は民法第九四条にいう虚偽表示ではないとし、同上第二項を適用する余地がまつたくないとするものである。しかし、それは民法第九四条第二項の解釈の適用を甚しくあやまつているといわねばならない。

(3) 原判決はあるいは、被上告人金井の転借権の設定合意解約による訴外会社の賃借権の消滅、合意解約による被上告人金井の転借権の消滅および被上告人金井の新賃借権設定という虚偽の意思表示を登記によつて表示していることは認めるが、上告人は被上告人金井の占有が抵当権設定登記以前から継続していたことを登記簿の記載の上から知つていたとさえうかがわれるので、上告人は民法第九四条第二項にいう善意の第三者ではないとして上告人の主張を排斥しているとも考えられないではない。もしそうであれば、以下述べるように、原判決には審理をつくさず、理由不備の違法、もしくは法令の違背がある。

本件について民法第九四条第二項にいう第三者、すなわち上告人が善意であるか悪意であるかは、被上告人金井の賃借権の譲受を上告人がその抵当権設定登記前から知つていたか否かの問題である。

登記簿の記載からすれば、上告人は被上告人金井の本件建物に対する占有が抵当権設定前から継続していたことを登記簿の記載から上告人が推測し得たとすることは一応認められる。しかし、その占有の権限が被上告人金井の譲受賃借権であると推認することは不可能であること前記四の(二)の(1)の後段で述べている通りである。原判決は被上告人金井の占有の継続を登記簿の記載から上告人が知つていたとうかがわれるということからして、ただちに上告人はその占有権限が譲受賃借権であることを知つていたと断定している。しかし、原判決のかような断定には論理法則もしくは経験法則、したがつて、法令の違背もしくは理由不備の違法がある。

(三) 原判決は、建物賃借権について引渡と登記という二つの対抗要件が競合した場合に、登記による対抗力を優先せしめ、引渡による対抗力を主張できないものとする考え方は立法論としては考慮すべきものであるが、解釈論としては採用できないとして、上告人の主張を排斥している。

借家法が引渡をもつて建物賃借権の対抗要件としているのは、建物賃借権についての登記は賃貸人の同意なくしては不可能であり、登記のみをもつて建物賃借権の対抗要件とすることは賃借人に対して不当に不利益を被むらさせるおそれがあるので、登記のない建物賃借権保護のため特に引渡をもつて対抗要件としたのである。したがつて、建物賃借人がその対抗要件として登記を選んだ以上、もはや引渡という対抗要件を認める必要がない。のみならず、権利変動の公示制度は取引の安全を保障する制度であるから、当事者が一たんその権利の公示のため登記の方法を選んだ以上、その後における権利変動の公示は画一的に登記の方法によるべきである。なぜなら、当事者の都合により、あるときは登記の表示を主張し、あるときはこれを度外視して引渡のみを主張するというが如きことは、取引の安全を著しく阻害し公示制度本来の目的を失わしめるからである。すなわち、上告人の前記主張は、立法論としてではなく、公示制度本来の目的から解釈論として当然の主張である。

原判決の理由からすれば、前記のように、被上告人金井は昭和三三年五月頃から現在に至るまで、本件建物を占有使用しているのであるが、その権原は当初から現在に至るまで、一貫して、訴外会社から譲り受けた賃借権であり、訴外会社の転借権ではなく、また被上告人金井の新賃借権でもない。登記簿上の記載である被上告人金井の転借権設定の登記に初まり被上告人金井の転借権消滅および新賃借権設定の登記に至るまでの前記一連の登記はすべて各登記の登記権利者および登記義務者が合意の上すなわち、通謀の虚偽表示により、便宜的になされたもので、実質関係に符合しない無効な登記である。したがつて、上告人がかような無効な登記を信頼して本件建物の所有権を取得したとしても、上告人は保護されるに値しないというに帰する。いいかえれば、虚偽の意思実示のうえにいくつもの虚偽の意思実示を積み重ね、それに対応する虚偽の登記をいくつも積み重ねてきた被上告人金井は、かような虚偽の登記を信頼した上告人よりも保護するに値するというに帰する。

法律論を抜きにして、実際問題としてこれをみた場合、信義誠実の原則からしても、また社会一般の通念からしても、かような結果はとうてい認められないところである。以上

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