最高裁判所第一小法廷 昭和53年(あ)719号 決定 1979年5月30日
主文
本件上告を棄却する。
当審における未決勾留日数中五〇日を本刑に算入する。
理由
被告人本人の上告趣意は、事実誤認、単なる法令違反(記録を調べても、所論各供述調書の任意性を疑うべき証跡は認められない。)の主張であり、弁護人吉田裕敏の上告趣意は、単なる法令違反、量刑不当の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
なお、被告人が、行使の目的をもつて、ほしいままに、原判示土石採取許可証原本の出願日、許可年月日、採取場所、採取期間等の各欄の記載に改ざんを施したうえ、これを電子複写機で複写する方法により、あたかも真正な右許可証原本を原形どおり正確に複写したかのような形式、外観を備える本件電子コピーを作成した所為は、刑法一五五条一項の有印公文書偽造罪にあたると解すべきであるから(最高裁昭和五〇年(あ)第一九二四号同五一年四月三〇日第二小法廷判決・刑集三〇巻三号四五三頁参照)、この点に関する原判決の法令の解釈適用に誤りはない。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号、一八一条一項但書、刑法二一条により、主文のとおり決定する。
この決定は、裁判官団藤重光、同戸田弘の各意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
裁判官団藤重光の意見は、次のとおりである。
公文書偽造罪の客体は、いうまでもなく、「公務所又は公務員の作るべき文書」(刑法一五五条)である。狭義の原本にかぎらず、副本、謄本などであつても、その作成が公務所・公務員の権限に属する文書であれば、やはり公文書である。しかし、公文書の単なる写しは、もはや公文書ではない。公文書の写し――写真コピーをも含めて――を作ることは一般的に私人にも自由に許されているのであるから、公文書の写しが「公務所又は公務員の作るべき」文書にあたらないことは、明白である。なるほど、多数意見の援用する判例(最高裁判所昭和五一年四月三〇日第二小法廷判決・刑集三〇巻三号四五三頁)のいうとおり、「原本の作成名義を不正に使用し、原本と異なる意識内容を作出して写真コピーを作成するがごときことは、もとより原本作成名義人の許容するところではなく、また、そもそも公文書の原本のない場合に、公務所または公務員作成名義を一定の意識内容とともに写真コピーの上に現出させ、あたかもその作成名義人が作成した公文書の原本の写真コピーであるかのような文書を作成することについては、右写真コピーに作成名義人と表示された者の許諾のあり得ないことは当然」であろう(上掲刑集四五八頁)。しかし、それは、私人がこのような虚偽の写真コピーを作るのを許容されていないということを指摘するだけであつて、このような写真コピーが「公務所又は公務員の作るべき」文書にあたるということの理由にはならないのである。
そればかりではない。文書の単なる写しは、それが写しとして使用されるかぎり、さかのぼつて、文書偽造罪における「文書」の概念にあたらないというべきである。写真コピーは、もとになる文書の存在および内容をそのままに再現するから、これらを証明する手段として強力であり、一般社会においても、文書そのもののかわりにその写真コピーが使われることがすくなくないが、それはどこまでももとの文書の存在および内容の証明手段としてである。かような慣行の普及によつて、写真コピーが「文書」そのものになるわけではない。しかも、写真コピーは、合成的方法による作為の介入がきわめて容易であるから、一般社会においても、写真コピーの信用性に実は大きな限界があることが次第に認識されて来るにちがいないとおもわれる。
もちろん、写真コピーが詐欺その他種々の不正行為の手段として使われることは、すくなくない。しかし、それは、詐欺罪の規定をはじめ、もし右不正行為自体を取り締まる法規があればこれによつて対処されるべきことであり、その種の規定がないばあいは、現行法はこれを不可罰としている趣旨と考えなければならない。
たかだか考えられるのは、ドイツ連邦共和国の連邦最高裁判所の判例にみられるように、偽造文書の写真コピーの使用について偽造文書行使罪の成立をみとめることである。本件第一審判決は、これと同旨の見解を採つたものとみてよいであろう。しかし、ひとしく不正な写真コピーの使用の事例の中で、もとになる偽造文書が実在するばあいと、合成的方法による写真コピーのように、もとになる偽造文書が存在しないばあい(上掲第二小法廷判決の事案参照)とで、前者だけを可罰的とみることは、実際的にみて妥当な結論といえるかどうか、疑問である。戸田裁判官が、写真コピーによる行使罪の成立をも否定されるのは、理由のあることとおもわれる。この消極説の見解においては、写真コピーの方法によつて利用するつもりで文書を偽造したときは、行使の目的を欠くことになり、文書偽造罪そのものの成立が否定されることになるが、これはやむをえないというほかないであろう。
上記判例は、「このような写真コピーは、そこに複写されている原本が右コピーどおりの内容、形状において存在していることにつき極めて強力な証明力をもちうるのであり、それゆえ、公文書の写真コピーが実生活上原本に代わるべき証明文書として一般に通用し、原本と同程度の社会的機能と信用性を有するものとされている場合が多い」として(上掲刑集第四五七頁)、「たとえ原本の写であつても、原本と同一の意識内容を保有し、証明文書としてこれと同様の社会的機能と信用性を有するものと認められる限り」公文書偽造罪の客体となる文書に含まれるとするのである(上掲刑集四五六頁)。これは一見、常識に合致する考え方のようであるが、以上に考察したとおり、充分の根拠をもつものとはいいがたい。もし、不正な写真コピーの横行が放置を許されない程度の状況になつているのであれば、立法的措置によつて対策が立てられるべきであろう。判例の考え方は当罰性と可罰性、立法論と解釈論を混同するものというべきである。わたくしは、戸田裁判官とともに、右判例は変更されるべきものと考えるのであり、この判例に基づいた多数意見には賛成することができない。
ただ、本件の事案に関するかぎり、戸田裁判官も指摘されるような諸般の事情から考えて、刑訴法四一一条一号を適用して原判決を破棄しなければいちじるしく正義に反するものとは認められないので、結論においては、わたくしも多数意見と同様に上告棄却を相当と考える。
裁判官戸田弘の意見は、次のとおりである。
私も、団藤裁判官と同様に、公文書に関し虚偽の写真コピーを作成することが公文書偽造罪にあたるとすることは誤りであり、多数意見の引用する当裁判所判例は変更すべきものであると考える。
刑法一五五条が「公務所又は公務員の作るべき文書を偽造し」といつているのは、「公務所又は公務員の作るべき文書」そのものを偽造することを意味するものであることは、同条を虚心に読めば疑問の余地がないはずである。写真コピーの方法を部分的又は全面的に使用することによつて公文書そのものを偽造することはもちろん可能であるし、虚偽の写真コピーにほしいままに公務所又は公務員名義の認証文言を記載すれば全体として公文書偽造になることはいうまでもない。しかし、写真コピーがどこまでもコピーとして使用されるものであるかぎり、写真コピーは機械的な写以外の何物でもない。つまり、公務所又は公務員の作るべき文書そのものではけつしてなく、その機械的な再現に過ぎないのである。
たしかに、写真コピー、手書き、タイプ等による写にくらべ、内容の写し誤りの余地がなく、原文の状況もかなりありのままに再現する特色を持ち、他の方法による写よりも写として信用度が高いということはいえよう。もし、そのために公文書に関する虚偽の写真コピーが社会生活の中に放置できない程度に横行し、その使用自体を犯罪として取り締る必要が現実に存在するというのであれば、そのための特別の立法をすべきである。それをまたないで、刑法一五五条によつてまかなおうとするのは、刑罰法規解釈の根本的鉄則を破る明白な拡張解釈ではなかろうか。公文書に関する虚偽の写真コピーを作成することを公文書偽造とする学説の中に、公文書の正しい写真コピーを作成する行為は当該公務所又は公務員の事前の授権、包括的事前許諾に基づき公文書の写という新たな公文書の作成の事実行為を行うものであり、公文書の虚偽の写真コピーを作成すれば当該公務所又は公務員の授権、許諾の範囲を逸脱してほしいままに公文書の写という印章、署名のない公文書を作成したことになるから同法一五五条三項の公文書の偽造になる、と解する考え方がある。すなわち、公文書の写真コピーを当該公務所又は公務員の作るべき文書そのもの(実質的には当該公務所又は公務員の認証文言があるのに等しいが、外形的にはそれがないもの)であると見ることによつて公文書偽造を肯定しようとする苦心の解釈であるが、このような解釈が試みられるということは、公文書の写真コピーを当該公務所又は公務員の作るべき文書そのものであると考えるのでなければ公文書偽造を認めることは至難であり、しかもそう考えることが本来どんなに無理なことであるかを実によく示していると思う。要するに、公文書の虚偽の写真コピーを作成することが公文書の偽造になるとするためには、写真コピーが「公務所又は公務員の作るべき文書」に含まれると見るほかはないのであるが、たとえその写真コピーが原本と同様の社会的機能と信用性を有する場合に限るとはいつてみても(その限定自体模糊としたものであるが)、そのような見方をするには、同法一五五条の解釈として大きな飛躍を要するものといわざるをえまい。
あるいは、代理人名義、代表者名義を冒用して私文書を作成することが私文書偽造になるという従前からの確立した解釈を認めるのなら、公文書の虚偽の写真コピーの作成を公文書偽造と解釈するのは、それと五十歩百歩ではないかという疑問があるかも知れない。しかし、刑法一五九条にいう「権利、義務又は事実証明に関する文書を偽造し」という中に、代理権、代表権のない者が代理人名義、代表者名義で文書を作成し、又は代理権、代表権のある者がその権限の範囲を超えて文書を作成する場合を含ませることと、公文書の虚偽の写真コピーの作成を公文書偽造と解することとの間には、やはり質的な相異があると考える。私文書に関しては別に医師の虚偽診断書等の作成に関する同法一六〇条があるだけの罰条体系の中で、同法一五九条に代理人名義、代表者名義の冒用の場合が含まれると解するのは、その理由づけに種々の工夫が試みられているとしても、同条にいう「偽造」概念の理解として本来それほど不自然なことではないのに反し、公文書の写真コピーを公文書に含まれると見ることには、なんとしても同法一五五条の「公文書」概念についてのすなおな理解を甚だしく離れるところがあるからである。
なお、私は、偽造公文書の行使といえるのは(偽造私文書の場合も同様であるが)、当該の文書そのものを他人に対して真正なものとして使用する(他人が閲覧できる状態に置く)場合に限るとしておく必要があると思うので(それが「行使」の自然な解釈であろう。)、偽造した公文書についての写真コピーを真正な公文書の写真コピーとして使用することにより原本である偽造公文書を行使したことになるものとは考えない。従つて、写真コピーを作つてそれを他人に対して使用するつもりで偽造公文書といえるような原本を作成し、その写真コピーを他人に対して使用すれば公文書偽造、同行使になるというふうには解さないから、本件の場合、公文書偽造、同行使罪が成立しうる余地はどのような意味においてもありえないことになる。
以上の次第で、原判決が公文書偽造、同行使罪の成立を認めたことは刑法一五五条一項、一五八条一項の解釈適用を誤つたものといわざるをえない。しかし、問題の写真コピーを使用することによる詐欺罪は成立しているのであり、被告人には外に三九回にわたる被害総額二三六五万円余に及ぶ窃盗の事実と一回の窃盗未遂の事実とが認定されているのであるから、公文書偽造、同行使罪の成立を否定することにより処断刑の下限に相異は生じるけれども、本件の場合は、刑訴法四一一条一号を適用して原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものとは認められない。従つて、上告棄却の結論となるべきことは多数意見と同様である。
(中村治朗 団藤重光 藤崎萬里 本山亨 戸田弘)
被告人の上告趣意(昭和五三年六月五日付)<省略>
弁護人吉田裕敏の上告趣意(昭和五三年六月一九日付)
第一点 原判決はこれを破棄しなければ著しく正義に反すると認められ、判決に影響を及ぼすべき法令の違反がある。
理由
原判決は、本件土石採取許可証原本の複写を以つて有印公文書に該当すると判断しているが、これは同種事案についての最高裁判所第二小法廷の昭和五一年四月三〇日の判決に照らしても、なお法令の適用を誤つたものと言える。
そもそも右最高裁判所の判決については、認証文のない単なる白黒の写真コピーに一般的に原本と同程度の社会的機能と信用性を認めたことに対し、カラーコピーの場合との比較において、疑問を有せざるを得ないところであるが、それはさておき、右最高裁判所判決によつても、具体的事案の判断に当つては、右写真コピーが実際に宅地建物取引業法二五条に基づく宅地建物取引業者の営業保証金供託済届の添付資料として提出し異議なく受理されたこと、或は被交付者(複数)において、いずれもこれを原本と信じ、或は同一内容の原本の存在を信用してこれをそのまま受領したことを前提として、右写真コピーに原本と同様の社会的機能と信用性を認めているのである。ところが、原判決は、当該写真コピーが実際に交付されたとき、被交付者が右コピーをみて原本を信じ、或は同一内容の原本の存在を信じたことについて何らの認定をしていないばかりでなく、他の証拠により、右写真コピーが原本と同様の社会的機能および信用性を有することを認定してもいない。かえつて清水輝夫の昭和五二年三月一〇日付検察官に対する供述調書によれば、本件写真コピーは被告人が亀岡土木工営所の封筒に入れ、ホツチキスでとめたまま清水輝夫に手渡し、同人が開封することなく、従つて中味を確かめることなく、そのまま金庫にしまつた事実が認められる。これらの事実に照らすと、原判決は写真コピー一般が即、文書偽造の客体となりうるとの判断のもとに、或は本件写真コピーが原本と同様の社会的機能と信用性を有するか否かの判断を省略して、本件有印公文書偽造・同行使の成立を認めたものと考えるほかはない。しかしこれは明らかに法令の適用を誤つている。前記最高裁判所判決によれば、本件写真コピーが同判決の言う原本と同様の社会的機能と信用性を有する場合に限り有印公文書偽造・同行使罪が成立すると解せざるを得ず、同判決も「文書本来の性質上写真コピーが原本と同様の機能と信用性を有しえない場合を除き」と例外を認めているにもかかわらず、原判決はこの点につき何らの顧慮をしないで、一律に写真コピーであれば即原本と同様の社会的機能と信用性を有すると短絡的に判断したか、或は正当な理由なく本件写真コピーに原本と同様の社会的機能・信用性ありと認定することを怠つたもので、有印公文書偽造・同行使罪の構成要件に該当するか否か判からない行為に、刑法第一五五条第一項、同法第一五八条第一項を適用した法令適用の誤りがある。
そして、原判決は右有印公文書偽造・同行使・詐欺を科刑上の一罪として処断し、かつこれと窃盗・同未遂の各罪とを併合罪として被告人に一個の懲役刑を科しているのであるから、原判決はその全部について破棄を免れない。
第二点 <省略>