最高裁判所第一小法廷 昭和54年(し)109号 決定 1980年12月11日
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告の趣意は、判例違反をいうが、その実質は請求人提出の証拠が刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたるとした原決定の判断を論難する事実誤認、単なる法令違反の主張に帰し、同法四三三条の適法な抗告理由にあたらない。
なお、記録によれば、請求人提出にかかる証拠の新規性及び明白性を認めて本件再審請求を認容すべきものとした原決定の判断は、正当として是認することができる。
よつて、同法四三四条、四二六条一項により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(本山亨 団藤重光 藤﨑萬里 中村治朗 谷口正孝)
特別抗告申立書
〔理由〕
第一 熊本地方裁判所八代支部がなした再審請求棄却決定に対する請求人らの即時抗告に対する福岡高等裁判所刑事第一部の決定(以下抗告審決定と略称する。)の理由の要旨
右抗告審決定は、原第一審判決(確定判決)の事実認定、とりわけ請求人が犯人である旨の認定の基礎は、請求人の自白及び国家地方警察熊本県本部警察隊長よりの鑑定結果回答書にあると思われるので、先ず本件鉈の付着血痕の血液型判定について検討し、次いで請求人の自白について検討するとし、
一 本件鉈の付着血痕の血液型について
本件鉈に付着している血痕は、被害者白福角藏、同トキエ、同ムツ子の血液型と同じO型であるとする熊本県警の鑑定結果回答書について検討すると、鑑定人船尾忠孝の鑑定及び証言、東京高等裁判所の上田勝治に対する証人尋問調書並びに熊本地方裁判所八代支部における馬場止、多良木利次、福崎良夫、矢田昭一の各証人尋問調書によれば、右鑑定に要した時間は約六時間と認められ、血痕の量も鉛筆の芯ないし米粒の大きさであつたと認められるところ、血液型検査(凝集素吸収法)においては、吸収操作時間は少なくとも一夜間以上を要すると認められるうえ、検体の量も最低二ないし三ミリグラムが必要と認められるのに、本件鉈付着の血痕の量は米粒大であつても0.8ないし一ミリグラムであるに過ぎないことに照らすと、微量血痕により短時間でO型と判定した右県警の鑑定結果回答書の信用性は極めて乏しいものといわざるを得ない。したがつて、被害者らの血液が右鉈に付着したと認めることは困難であるから、前掲記の船尾鑑定その他の証拠は、請求人と本件犯行との結びつきに疑問を投げかける新証拠としてその明白性は否定しがたい。
二 請求人の自白調書の信用性について
1 犯行後の足どりについて
熊本地方裁判所八代支部の昭和四八年一二月二五日及び二六日各実施の検証調書二通並びに写真六五葉によれば、請求人の自白調書記載の逃走経路にしたがい、本件犯行現場から人吉城趾まで仮装犯人が踏破したところ、三十数キロメートルにも及ぶ道程で悪路のうえ寒気きびしく、人吉城趾に到着した時点ではそれ以上歩けない状態であつたことが認められるところ、本件当時請求人の精神的肉体的苦痛は一層甚だしく、請求人が昭和二三年一二月三〇日午前九時三〇分ころ人吉城趾に到着したころには、半病人の状態となり、憔悴、衣類の汚れ、言動の鈍麻など顕著な様子が現われる筈であるのに、同日午前一〇時ころ平川ハマエが請求人と会つた際、同人には何ら変つた様子はなかつたことが認められるので、請求人が右道程を踏破したことは、極めて疑わしいといわなければならない。また、請求人の自白調書によれば、同日午前五時ころ、免田と深田、木上の境の六江川でハツピ等についていた血を洗い落とし、それから帰路についたというのであるが、周囲が明るくなるのは午前六時四五分ころであり、それ以前に衣類の付着血痕を識別するのは困難であると認められ、午前六時四五分ころに衣類を洗つたとすれば、午前九時三〇分ころに人吉城趾に到着するには約二時間四五分ということになり、検証の結果では約四時間を要したことと比較して短時間にすぎ、極めて不自然である。なお、検証の結果によつても、六江川という名称の河川の存在は確認できなかつた。
右のように、検証の結果により明らかになつた諸点に照らすと、請求人が右道程を踏破したことには疑念を抱かざるを得ないのであるから、前掲記の検証調書及び写真は、請求人の自白調書中、犯行後の足どりに関する供述部分の信用性に疑問を投ずる新証拠としてその明白性を否定することができない。
2 犯行の態様について
矢田昭一の鑑定及び証言によれば、被害者白福角藏の上肢切創は、頸部刺創を生じた際の防禦創と認められるので、刺身包丁による刺創を受ける際には、同人はいまだ意識があつたとみるべきであり、一方、頭部割創は重大なものが多く、脳震盪等により、被害者の意識を早期に失わせるものであることなどにより、被害者は鉈による全部の頭部割創を受けた後に、刺身包丁による頸部刺創を受けたとは考えられず、したがつて、請求人の自白調書中、止めとして頸部を刺した旨の供述部分は、客観的事実に適合しないものである。
右矢田鑑定及び証言は、請求人の自白調書の信用性に疑問を投げかける新証拠として明白性を否定しがたい。
としたうえ、原第一審判決(確定判決)及びこれを支持した原第二審判決(右の控訴審判決)は、関係記録から認められる当時の証拠資料を前提として、請求人の自白につきその信用性を肯定していることは明らかであり、原第一審判決が請求人を有罪とした最も主要な証拠は、請求人の自白と熊本県警の鑑定結果回答書であるところ、船尾鑑定等は、本件鉈に付着していた血痕の血液型がO型であるとする右鑑定結果回答書の信用性に多大の疑念のあることを明らかにしたものであり、それ自体、請求人の自白調書の信用性に影響を与えるほか、右自白調書には、犯行の態様や足どりにつき疑問が存し、自白調書の信用性、ひいては原第一審判決の有罪認定に重大な影響を有することは否定できず、右判決当時、かりに船尾鑑定や矢田鑑定、原審検証調書等が提出されたとした場合、請求人が鉈を高原の土中に埋めたとの請求人の供述部分が信用しがたいことと相まち、請求人の着衣に付着血痕がみられないことや、逃走口に関する請求人の自白調書の信用性についての疑念等を加味するまでもなく、原第一審判決の請求人に対する本件犯行についての有罪認定には多大の合理的な疑いを生じ、遂にこれを払拭しがたく、有罪の言い渡しにはとうてい到達できなかつたものと断ぜざるをえない。したがつて、前記船尾鑑定、矢田鑑定、検証調書等は刑訴法四三五条六号所定の無罪を言い渡すべき明白かつ新たな証拠にあたる。
との理由で、熊本地方裁判所八代支部がした再審請求棄却決定を取り消し、再審を開始すべき旨決定した。
第二 本件抗告審決定は、昭和五〇年五月二〇日最高裁判所第一小法廷決定(刑集二九巻五号一七七頁)等と相反する判断をしている。
本件抗告審決定は、船尾鑑定、矢田鑑定及び熊本地方裁判所八代支部(以下原審と略称する。)のした検証調書等が刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であると断定する点において、右昭和五〇年五月二〇日最高裁判所第一小法廷決定と相反する判断をしている。
いわゆる白鳥事件に関する再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件において、右最高裁判所第一小法廷決定は、刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、「確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいう。」としたうえ、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」か否かの判断方法として「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と全証拠とを総合的に評価して判断すべきである。」とし当該事案につき具体的にその判断を示している。しかるに、抗告審決定は、原第一審確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠とは認められない船尾鑑定、矢田鑑定、原審検証調書等を、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」と誤つて価値判断をしたのみならず、それらの証拠が「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかを判断するにあたつては右証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきであるにもかかわらず、右証拠のみによつて原第一審確定判決の事実認定に合理的な疑いを生ぜしめ、右有罪の認定は到底なしがたかつたと断定する誤つた判断をなし、原決定を取り消し再審開始決定をしたものであつて、右抗告審決定の誤つた判断は、明らかに前掲最高裁判所の判例と実質的に相反するものであるから、当然破棄されるべきである。
以下その理由を述べる。
一 船尾鑑定について
本件鉈の付着血痕の血液型がO型であるとする熊本県警の鑑定結果(以下本件鑑定と略称する。)について、抗告審決定は船尾忠孝の鑑定、証言をのみ重視して採用し、同人の鑑定によれば、検体である血痕が微量であることや吸収操作時間が短いことから、本件鑑定の信用性は極めて乏しいものであるとしている。抗告審決定がこのように船尾鑑定を信用性の高いものとして専らこれを採用した理由は必ずしも明らかではないが、結局同人が法医学を専攻する大学教授であること、すなわち斯道の権威であるというにあると考えるほかはない。しかしながら、同人は法医学専攻の学者ではあつても、日常多くの血液型検査に従事している者ではなく、単に一般的学理を研究する立場にある者であつて、血液型鑑定の実技については到底習熟者とはいえない。
一方、本件鑑定に従事した伊藤一夫や抗告審の証人下田亮一、同福山武は、日常数多くの血液型鑑定の業務に従事し、その理論、実技の両面に習熟した血液型鑑定の専門家である。
右下田、福山の証言によれば、本件当時から警察鑑識においては血液型鑑定について種々研究を重ね、その使用する抗血清の吟味や検査方法の工夫などにより、たとえ極めて微量の血痕であつても、五、六時間くらいの検査時間で十分に鑑定しており、しかもその結果には何ら誤りはなく、十分に信用できるものであつたことが認められる。したがつて、当時右下田、福山らとともに鑑識に職を奉じ、本件鑑定に従事した伊藤一夫についても、全く同様のことがいえることは明らかというべきであり、同人のなした本件鑑定は十分信用性のあるものであつて、本件鉈に付着していた血痕がO型の人血であつたことは疑う余地がないといわねばならない。なお、詳細については、昭和五三年五月一二日付け及び昭和五四年八月八日付けの本件に関する検察官意見書に記載したとおりである。
右のように、抗告審決定は明らかに証拠の価値判断を誤つたもので、船尾鑑定には同決定がいうような明白性は認められない。
またかりに、船尾鑑定及び証言に一理あるものとしたところで、それはせいぜい本件鑑定の正確性に疑問をさしはさむ余地があるというに止まるものであり、本件鑑定によつて得られたO型人血付着の蓋然性は依然として強く残るものであつて、抗告審決定の認定するように船尾鑑定及び証言をもつて直ちに本件鑑定が極めて信用性の乏しいものであり、したがつて本件鉈に付着していた血痕がO型ではないと断定する証拠であるとは到底いうことができないのみならず、本件鑑定の右の程度の証拠価値の減少は請求人の自白調書の信用性に影響を及ぼすものでもない。
更に抗告審決定のいうとおり、本件鑑定の信用性が否定されたと仮定したところで、それは本件鉈が本件犯行に使用されなかつたことを示す証左とはなり得ない。すなわち、本件鉈が凶器であることについては、請求人自身、捜査段階及び原第一審第一回公判期日において明白にこれを認め、本件鉈を使用して本件犯行に及んだことを自供していたものである。しかも、いわゆる世良鑑定及び矢田鑑定、証言によつても明らかなように、本件の被害者らの受けた頭部割創の形状は本件鉈と同形状のものによるものと推定されており、後述するごとく請求人の任意な自供により本件鉈の所在が判明し押収されたものであることなどの経緯を考え合わせると、本件鉈が本件犯行の凶器であると認定することには、何ら合理的な疑いをはさむ余地のないところである。
右のように、船尾鑑定及び証言を採用し、これを「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であると認定した抗告審決定は、証拠の価値判断を誤り右船尾鑑定等の新証拠が原第一審確定判決の事実認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠とは認められないのにその旨判断した点において前掲記最高裁決定に反したものである。
二 原審検証調書及び矢田鑑定について
1 犯行後の足どりに関する原審検証調書について
抗告審決定は、原審が昭和四八年一二月二五日及び同月二六日実施した検証の結果を記載した検証調書二通について、請求人の自白調書中犯行後の足どりに関する供述部分の信用性に疑問を投ずる新証拠として、その明白性を否定することができないとするので、その点について検討する。
抗告審決定は、まず、右原審検証調書によると、寒気、暗闇、悪路の中を三〇数キロメートルの道程にわたつて踏破したとすれば、請求人が人吉城趾に到着した昭和二三年一二月三〇日午前九時三〇分ころには、極度の疲労により半病人の状態となり、肉体的精神的な憔悴、衣類の汚れ、言動の鈍麻など通常とは異なる顕著な様子が現われる筈であるのに、同日午前一〇時ころ請求人に会つた平川ハマエは請求人の服装や態度に別段の変化を認めていないのであり、このことは請求人が右道程を踏破したことと矛盾するというべきであるとしている。しかしながら、この点については、原審の再審請求棄却決定(以下原決定と称する。)が判断しているとおり、重大犯罪を犯した逃走者としての心理状況、歩行状況、土地勘などの諸条件において、原審検証において仮装犯人となつて右道程を踏破した者と請求人とではかなりの差異があり、加うるに請求人は本件当時二三歳に達したばかりの青年で農業、山林伐採等の肉体労働に従事してきた壮健な身体の持ち主であり、当時交通機関も発達しておらずこの付近では歩行が主な交通方法であつたことや、請求人が自白調書で述べている逃走経路周辺の土地の状況についてはこれを熟知していたものであることなどの点を考えると、午前零時ころから午前九時三〇分ころまでの間にその自供する逃走経路を踏破することは、当時の請求人にとつてそれほど困難、苦痛を伴うものとはいえず、人吉城趾に到着した際半病人の状態になつていたなどとは到底考えられない。また、明るくなつてから市街地に出れば他人に会うことは当然予期していたことであると思われるので、服装その他の異状を正すなどしたうえで歩行を続け平川方に赴いたであろうことは当然のことといえるのであり、抗告審決定のこの点に関する判断は明らかに誤りである。
次に抗告審決定は、請求人は自白調書の中で、「免田と深田、木上の境の六江川でハッピについていた血を洗い落した。そのときの時間は朝方五時ころと思う。それから湯前線の線路伝いに西村方向に出た。人吉城趾に九時半ころ着いた。」旨供述しているが、右検証調書によれば周囲が明るくなつたのは午前六時四五分ころであり、それ以前には衣類の付着血痕を識別することが困難であつたと認められるので、請求人が衣類を洗つたとすればその時刻は早くとも午前六時四五分ころでなければならないと認定している。しかしながら、請求人の自白調書中の供述は「血を洗い落したのは、朝方五時ころと思う」というもので何ら根拠のある確定的なものではなく、その前後に多少の時間のずれが考えられるのは当然であるし、周囲が明るくなつてきた時刻についても、本件発生時と原審検証時の天候や明暗、これを判別する人による個人差その他の諸条件の差を考えると、これまた時刻に相当の幅が考えられるのである。しかも、請求人は「ハッピに付いていた血を洗い落したのは午前五時ころであつたと思う。」旨供述しているに止まり、その時点で初めてハッピに血痕のあることを認識したとは言つていないのである。請求人が、いつハッピの血痕付着を認識したかは証拠上明らかでないが、本件犯行現場の白福方には本件犯行時かなり明るい電灯がついていたことは明らかであり、その後逃走の途中多少とも明るいところで衣類への血液の付着について認識したであろうことも十分考えられるところであるから、請求人が午前五時ころと思われる薄暗い状況下で衣類に付着した血痕を洗い落としたとしても何ら不自然ではない。
したがつて、「ハッピなどに付いていた血を洗い落としたのが朝方五時ころと思う。」旨の自白には格別の疑念をさしはさむ余地はない。その時刻が早くとも午前六時四五分ころでなければならないとする抗告審決定の判断は正に独断というべきであり、かかる誤つた認定を前提として、帰路の時間は約二時間四五分となり往路と帰路の差があまりに大きいばかりでなく、帰路の時間が検証結果と比較して短時間にすぎ極めて不自然であるとする判断も誤りであることは明白である。
したがつて、自ら検証を実施し、その結果請求人の犯行後の足どりについての供述には矛盾するところはないとした原決定は正当であり、むしろそれを否定し、原審検証調書等に新証拠として明白性ありとした右抗告審決定こそ重大な誤りを犯しているものである。
2 犯行の態様に関する矢田鑑定について
犯行の態様についての矢田鑑定は、被害者白福角藏の頸部刺創は、その頭部割創後に止めとして加えられたものとは考えられず、むしろ最初に加えられたものと推定されるというのである。
この矢田鑑定について、抗告審決定は、「被害者白福イツ子の母トキエが泥棒と叫び、まず父、次いて母がそれぞれ叩かれ、父が苦しんでいるのをまた叩かれた旨の供述や、角藏以外の被害者はすべて鉈による損傷のみを受けていること、鉈は犯人が外部より持ち込んだものであることなどを考え合わせると、犯人においてまず所携の鉈で角藏はじめ被害者を次々に殴打し、その後一たん倒れた角藏が苦悶の中に起き上るのをみて、その場にあつた刺身包丁を手に取つて同人の頸部を刺したが絶命させるに至らず、再び鉈を振つてその頭部を強打して死亡させたということも十分考えうることである。」と判示し、被害者白福角藏に対する第一打が鉈による頭部割創であることを肯認した原決定の判断は必ずしも首肯できないものではないとしながらも、なおかつ、刺身包丁による頸部刺創が止めでないことは動かしがたい事実であり、請求人の自白はこれと相容れないものであつて軽視しがたいところであり、右矢田鑑定は請求人の自白調書の信用性に疑問を投げかける新証拠として明白性を否定しがたいと判断している。
しかしながら、請求人の自白は最初鉈で右角藏の頭部を殴打し、次いで母親や姉妹を殴打し、止めのつもりでその場にあつた刺身包丁で角藏の頸部を刺したというものであるが、抗告審決定自身が認めるように、本件のごとき重大な犯行に際しては、周章狼狽あるいは激情の余り、実際には頸部を刺したのち絶命しないでいた角藏の頭部を更に再び鉈で乱打していながら、犯行後に至りこれを記憶していなかつたとしても経験則上何ら不思議はなく、むしろ、本件のような重罪を犯し右のような状態におかれた犯人としては、その行動の逐一を明確に記憶していないことの方が自然であると考えるのが相当であつて、右のような単なる犯行の順序に関する態様の一部に存する相違点をことさらにとりあげて軽視しがたいとし、更にこれをもつて自白調書の信用性に疑問を持つとした抗告審決定の判断は正に誤つた判断といわざるを得ない。しかも、抗告審決定は自ら前記のごとく、矢田鑑定につき他の証拠と比較検討して承服できないとしながら右鑑定に対して明白性を認めたことは、その理由が理解できないところである。
3 後記のとおり、請求人の自白調書についてはその信用性を認めるべき幾多の事情が存するにもかかわらず、原審検証調書及び矢田鑑定等によつて請求人の自白調書の信用性に疑問を生じるものと即断し、右証拠を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であると認定した抗告審決定は、証拠の価値判断を誤り、原審検証等の新証拠が原第一審確定判決の事実認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠と認めた点において、前掲記最高裁決定に反したものである。
三 請求人の自白調書の信用性について
請求人の捜査官に対する自白はいずれも任意になされたものであり、その内容は真犯人でなければわからない供述部分を含んでいて信用性の高いものである。したがつて、その自白調書だけでも原第一審裁判所に提出された他の補強証拠と相いまつて優に有罪の認定がなされ得るものである。
すなわち、
1 請求人は、当初捜査官から本件発生前後の行動について質問された際、ことさら人吉市にはいなかつた等と客観的事実に反する供述をしており、犯人でなければこのような虚偽のアリバイを主張する必要性は全く考えられない。
2 請求人は、窃盗罪で逮捕された当日である昭和二四年一月一四日の午後と翌一五日の午前中の取り調べにおいて、早くも本件犯行を自白し凶器を捨てた場所を指示しているうえ、犯行現場の状況についても自ら図面を書いて提出しており、その内容は本件犯行現場の状況に符合し真犯人でなければ知り得ない内容のものである。
3 請求人は同月一六日正午ころ一たん釈放されたのち、同日午後本件で逮捕されたのであるが、その後の取り調べに際しては直ちに本件犯行を具体的に自白しており、その結果同日及び翌一七日付けの警面調書が作成され、また同月一九日の裁判官の勾留尋問及び検察官の取調べに際しても、本件犯行を素直に認め具体的に供述しているのである。更に同年二月一七日開かれた第一回公判期日においても、請求人は公判廷で殺意を除き本件犯行を認め、凶器が本件の鉈であることなどを具体的に陳述している。このように請求人は任意にしかも具体的に犯行を繰り返して供述し、第三回公判期日において否認するまで犯行を否認するような言動はなかつたのである。
4 捜官官が本件犯行現場を検分した結果、当初捜査官は犯人の侵入口についてはこれを解明することができないでいたところ、請求人が自白したうえ犯行現場で自ら侵入方法等を指示実演して、初めて表の雨戸の隅から雨戸をこじあけて侵入できることが判明したもので、このことは真犯人でなければ絶対知り得ない事実である。また、逃走口についても同様であつて、請求人の自白指示により初めて判明したものである。なお、抗告審決定は逃走口に関する自白について疑問を表明しているが、昭和二四年六月二三日原第一審裁判所が犯行現場を検証した結果によつても、裏側の出窓から逃げたとの請求人の自白が客観的にも信用できることを裏づけているのであり、原控訴審も「侵入路逃走路の点についても、原判決挙示の各証拠及び当審検証の結果に徴すると、特にその供述が虚偽のものであるとも認められない。」と判示しているのである。
5 請求人は取調べの段階においては、本件が発生した昭和二三年一二月二九日の夜「丸駒」に登楼していた旨のアリバイの主張は一度もしていない(福崎良夫の証言)のであり、右アリバイを否定する各証拠に徴するときは、請求人が公判廷において突如として右アリバイの主張をするにいたつたのは、重罪を免れるための弁解であるとしか考えられない。また、抗告審決定は、原審検証調書により右アリバイを成立せしめる可能性も考えられ得ると判示しているが、その誤りであることはさきに指摘したとおりである。
6 抗告審決定は、各種の証拠を挙げて請求人が本件犯行当日本件鉈を所持していたかどうか疑問であるとし、請求人の自白調書中、本件鉈を高原の土中に埋めた旨の供述部分をたやすく措信できないと判示しているが、請求人が真実鉈を高原の土中に埋めたからこそ請求人が捜査官にその箇所を指示することができたものにほかならず、請求人が本件鉈を所持していなかつた疑いを示す証拠として摘示する各証拠も、請求人が腰のバンドに鉈をさし、その上から上衣やハッピを着用していたことや、請求人と親族関係にある者の供述であることなどを考慮すると、抗告審決定の判断が誤つていることは明らかというべきである。右に述べたとおり、請求人の自白調書の内容とこれにそう多くの補強証拠の存在に照らし、原第一審判決の事実認定に対し合理的な疑いをいれる余地は全く存しないものといわねばならない。それにもかかわらず、右自白調書及び前記の補強証拠の存在を無視してこれらとの総合的評価を怠り、船尾鑑定、矢田鑑定及び原審検証調書等の証拠によつて直ちに前記事実認定に合理的疑いを生じるとした本件抗告審決定は、前記最高裁決定の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」の判断方法を誤り右決定に違反するものといわなければならない。
四 結論
以上述べたとおり、本件抗告審決定は証拠の明白性について前掲記最高裁決定に則つて判断をする旨の説示をしながら、船尾鑑定、矢田鑑定、原審検証調書等を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」と誤断し、前示の如く原第一審判決の認定を支持するに足る有力なる多数証拠との総合的判断を誤つたもので、右は前掲記最高裁決定に実質的に相反するものであるから抗告審決定を破棄し、正当な判断をもとめるため本特別抗告に及んだ次第である。