最高裁判所第一小法廷 昭和55年(あ)1170号 判決 1981年2月19日
主文
原判決を破棄する。
本件を札幌高等裁判所に差し戻す。
理由
弁護人牧雅俊の上告趣意は、憲法三六条違反をいう点を含め、その実質は、すべて量刑不当、事実誤認の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
しかし、所論にかんがみ、職権によつて調査すると、原判決は、次の理由により、破棄を免れない。
一本件第一審判決は、被告人が昭和五四年一〇月一一日午後七時五五分ころ、普通乗用自動車を運転して、北海道中川郡本別町勇足二五番地付近の国道二四二号線路上を、毎時約七〇キロメートルの速度で前照灯を下向きにして進行中、「交通閑散に気を許し、路上に障害物はないものと軽信して、進路前方の安全を十分確かめないまま同速度で進行した過失」により、進路前方に故障のため尾灯を点灯しないで駐車していた重松正昭運転の普通貨物自動車を約二五メートルに接近して初めて発見し、ハンドルを右に切つて衝突を回避しようとしたが間に合わず、同車に自車を激突させて、その衝撃により、自車の同乗者四名のうち二名を死亡させ、他の二名に加療約一〇日間及び約三週間を要する各傷害を負わせた旨、公訴事実と同一の事実を認定したうえ、被告人を禁錮一年の実刑に処した。原審において、弁護人は、被告人の過失の程度を争い、その他被告人に有利な情状を指摘して、第一審判決の量刑不当を主張したが、原判決は、本件事故発生の一因が、暗い国道上に、被告人車の進路を塞ぐ形で無灯火で駐車していた重松車の存在にあることを認めながら、被告人において前方注視を尽くしてさえいれば、同車の手前少なくとも約五〇メートルの地点で、自車の進路上に障害物のあることを認識して、同車との衝突を回避することができたものと認められるから、被告人の前方注視義務の懈怠は「軽度のものとすることはできない」として、弁護人の主張を排斥した。原判決及びその是認する第一審判決の認定する事実は、被告人の過失の成否及びその程度・態様に関する部分を除き、証拠上すべて明らかなところである。
二そこで、原認定にかかる被告人の前方注視義務違反の過失の成否及びその程度などについて考えると、まず、本件事故は、第一、二審判決が認定するとおり、夜間の国道上に、全くの無灯火で(尾灯及び駐車灯だけではなく、前照灯や室内灯も点灯していなかつた。)、しかも、道路の片側のほぼ全面を塞ぐ状態で駐車していた重松正昭運転の貨物自動車に、被告人車が追突するという態様で発生したものであるところ、暗い国道上に右のような状態で駐車している車両のあることは、通常の運転者の予想しない異常な事態というべきであるから、原判決のように、被告人に軽度といえない前方注視義務の懈怠があるとするためには、被告人にとつて、かかる路上の障害物を発見してこれとの衝突を未然に回避することがそれほど困難ではなかつたといえる場合でなければならず、原判決も、もとよりこれと同じ前提に立つものと理解される。ところで、記録によると、本件事故の発生した現場は、北海道東部の広大な畑地を貫通する、街路灯の設備のない真暗な国道上であり、被告人車は、当時、ほぼ一直線のアスファルト舗装の右国道上を、対向車との離合に備えて前照灯を下向きにしたまま、毎時約七〇キロメートルの速度で進行していたものであることなどが明らかであるが、下向きの前照灯の照射距離は、せいぜい四、五〇メートルに過ぎず(道路運送車両の保安基準三二条二項三号参照)、他方、右の速度で乾燥したアスファルト舗装道路を進行する自動車の運転者が、路上の障害物を発見してから急制動により自車を停車させるには、通常約五〇メートルを要すると計算されることなどに照らすと、被告人において、十分に前方を注視していても、重松車との衝突を回避するに十分な距離内においてこれを未然に発見することは、はなはだ困難なことと思われ、むしろ不可能ではなかつたかとさえ疑われるのである。もつとも、右の点につき、原判決は、重松車の後部両端には、効用に支障のない反射器が備え付けられていたから、右反射器の作用により、同車の手前少なくとも約五〇メートルの地点において、被告人が路上の障害物を発見することは可能であつたとしており、記録中には、司法警察員による前照灯の照射実験の結果を記載した実況見分調書(二通)とか、被告人の捜査官に対する各供述調書など、原認定を支持するかのごとき証拠もないわけではない。しかし、右前照灯の照射実験については、後部反射器がほこりで薄汚れていた重松車の代りに、反射器の汚れていない別の車両を使用したり、距離の測定に厳密さを欠いたことなど、その結果の正確性に疑問をさしはさむべき事情がうかがわれ、また、かかる不正確な実験結果を前提としてなされた被告人の捜査段階における供述の信用性にも疑問がある。したがつて、他にみるべき証拠のない本件においては、かかる信用性に疑問のある証拠のみによつて、この点に関する原認定を是認するわけにはいかない。
三以上のとおりであるとすると、被告人については、当時の道路状況に照らして不相当な高速で運転したことなどを内容とする過失の成立する余地のあることは別として、本件訴因にかかげられた前方注視義務違反の過失があるといえるのかどうかは疑問であり、かりに、右過失の存在自体は肯定することができるとしても、かかる道路状況のもとにおいて、重松車をその約二五メートル手前の地点で発見しただちに事故回避の措置に出ている被告人の過失の程度は重くはなく、むしろ軽微であると解される余地が大きい。しかるに、原審は、弁護人の検証申請を却下し、重松車の発見の可否、難易に関する前記のような疑問を解明しないまま、被告人の前方注視義務違反の過失を肯定したばかりでなく、これを「軽度のものとすることはできない」としているのであつて、原判決は、右の点において、審理を尽くさず、訴因に明示された過失の成否ないし程度に関し重大な事実誤認をした疑いがあり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
よつて、刑訴法四一一条一号、三号により原判決を破棄し、同法四一三条本文に従い、本件を札幌高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見により、主文のとおり判決する。
(藤﨑萬里 団藤重光 本山亨 中村治朗 谷口正孝)
弁護人牧雅俊の上告趣意<省略>