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最高裁判所第一小法廷 昭和55年(あ)677号 判決 1982年1月28日

主文

原判決を破棄する。

本件を福岡高等裁判所に差し戻す。

理由

被告人本人の上告趣意及び(一)弁護人金井清吉、(二)弁護人金井清吉、同加藤文也の各上告趣意は、末尾添付の各上告趣意書及び同補充書記載のとおりである。

職権をもつて調査すると、原判決は、刑訴法四一一条一号、三号によつて破棄を免れない。その理由は、以下に述べるとおりである。

一事件の経過と原判決の構成

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、昭和四四年一月一五日午後九時ごろ、鹿屋市下高隈町五二五折尾利則(当時三八年)方において、同人の妻折尾キヨ子(当時三九年)と同衾中、折しも帰宅した右利則に発見殴打され、さらに野菜包丁で斬りかかられるに及び、同人の顔面を殴打し、同人から包丁を取り上げて取り敢えず難をのがれたものの、その間右キヨ子が馬鍬の刃をもつていきなり右利則の後頭部を背後から殴りつけて重傷を負わせ、同人を昏倒させたのを見届け、かつ、同女より『蘇生しないようにしてくれ』と言われて殺意を生じ、俯伏せに倒れている右利則の頸部に、同人が首にかけていた西洋タオルを巻いて後方より強く締めつけ、間もなく同人を窒息死させて殺害し、次いで、右犯行が右キヨ子の口より発覚することを恐れて同女をも殺害すべく決意し、その場に居た同女に対し、先に同女が使用した前記馬鍬の刃をもつて、いきなり同女の顔面、頭部を数回殴打し、同女を俯伏せに転倒させたうえ、その場にあつた西洋タオルをその頸部に巻いて後方より強く締めつけ、間もなく同女をも窒息死させて殺害を遂げたものである。」というのであり、第一審判決は、右犯行直前の状況につき、たまたま被告人が利則方に立ち寄つた際、折しもキヨ子と就寝しようとしていた利則から、キヨ子との仲を疑われて詰め寄られて、手で殴打され、包丁で斬りかかられた旨公訴事実と異なる事実を認定したほかは、ほぼ公訴事実に副う事実を認定したうえ、被告人を懲役一二年(未決勾留日数二四〇〇日算入)の刑に処した。

これに対し、原判決は、右犯行直前の状況に関する第一審判決の認定を誤りであるとし、右の点についても公訴事実に副う事実を認定すべきであるとしたが、被告人が被害者両名を順次殺害したとする第一審判決認定の基本的事実関係に誤りはなく、右事実誤認は判決に影響を及ぼすものとは認められないとして、被告人の控訴を棄却した(原審における未決勾留日数一二〇〇日算入)。原判決が被告人を本件各犯行の犯人と断定して誤りないとした理由は、被告人が捜査段階において捜査官に対してした詳細かつ具体的な自白が、物証を含む諸種の情況証拠とよく符合し十分措信するに足りる、という点にある。

ところで、被告人は、捜査段階において、当初犯行を全面的に否認し、その後これを自白するに至つたが、第一審の第一回公判(昭和四四年九月一一日)において、再び犯行を否認する陳述をし、今日に至るまでその否認を続けている。そして、原判決が措信しうるものとした捜査の最終段階における被告人の自白は、原判決の認定に副うものであるが、原判決が右自白の信用性を肯定するにあたり引用した主要な証拠としては、次のものがある。

1  被害者キヨ子の死体の陰部から採取されたという陰毛三本のうちの一本、及び、これが被告人に由来すると認められる旨の須藤武雄作成の鑑定書三通

2  利則方前私道上から採取された車てつ痕の一部が、被告人が当時使用していた軽四輪貨物自動車のそれと紋様及び磨耗の形状が符合する旨の寺田正義作成の鑑定書

3  被告人の右前腕伸側手関節に存する外傷瘢痕は、恐らく鋭利な刃先又は刃尖にて擦過された極めて浅い切創痕と判断される旨の城哲男作成の昭和四四年七月二二日付鑑定書

4  各裁決質問につき被告人に特異反応が認められるとする清水幸夫作成のポリグラフ検査結果回答書

5  犯行日とされる昭和四四年一月一五日夜に利則方へ赴いたことがある旨の被告人の第一審第一回公判における不利益事実の承認

6  被告人が捜査段階において、ことさらに嫌疑を第三者に向けようとするなどの不審な言動をした旨の第一審証人福元正雄、同中鶴純郎の各供述

7  犯行のあつた時間帯とされる一月一五日当夜の被告人のアリバイの一部を否定する第一審証人脇別府ツギ、同山下ミカその他多数の証人の各供述

以上の指摘によつて明らかなとおり、本件において被告人を犯行と結びつける直接証拠としては、被告人の捜査段階における自白があるだけであり、被告人を本件の真犯人であると断定することができるか否かは、一にかかつて、被告人の自白の信用性のいかんによることとなる。ところで、原判決が被告人の自白の信用性を支えるべき客観的な証拠として最も重視しているのは、前記1の証拠であり、2の証拠も、もしもこれによつて問題の車てつ痕が犯行当夜に印象されたものであることを確認しうるのであれば、被告人のアリバイの主張を覆し自白の信用性を保障する有力な証拠であるといえる。3の証拠も、その性質上、一応、被告人が利則から包丁で切りかかられて右手首を負傷した旨の捜査段階の供述の客観的な裏付けとなりうるものである。しかしながら、4ないし6の各証拠は、その評価が分れうるものであつて証拠価値の判断が難しく、いずれにしても、それ自体によつて自白の信用性を高度に保障するものとはいえない。そこで、以下、原判決の依拠するこれらの主要な証拠の証拠価値について検討することとする。

二原判決の検討

(一)  自白の信用性について

被告人の自白は、本件犯行及びその前後の状況を、一応詳細かつ具体的に述べるものであり、原判決が指摘するとおり、その述べるところには、犯行現場の状況等客観的な事実と符合する部分も少なくなく、一見その信用性を肯定してよいようにも思われる。

しかしながら、記録上明らかな諸般の客観的事実等と対比しつつ、自白内容を判旨さらに詳しく検討すると、その中には、あらかじめ捜査官の知りえなかつた事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたというもの(いわゆる「秘密の暴露」に相当するもの)は見当らず、右自白がその内容自体に照らして高度の信用性を有するものであるとはいえない(原判決が自白の信用性を肯定すべき理由として指摘する事項の中にも、右のような意味において自白の信用性を客観的に保障するものは見当らない。)。

のみならず、記録を検討すると、被告人の自白には、次のとおり、その信用性を疑わせる幾多の問題点があるのに、一、二審の審理においては、これらの点に関する疑問が解消されているとは認められない。

1  自白に客観的証拠の裏付けがないことについて

被告人の自白については、これが真実であれば当然その裏付けが得られて然るべきであると思われる事項に関し、客観的な証拠による裏付けが欠けている。

その一例として、まず、現場遺留指紋の中から、被告人の指紋が一つも発見されなかつたという点を指摘することができる。被告人の自白によると、本件は、所用で友人の利則方へ立ち寄つた被告人が、同人の不在中その妻キヨ子から情交を求められたことが発端となつて発生した全く偶発的な犯行であるとされているのであつて、被告人が自己の指紋の遺留を防止するための特別の措置をあらかじめ講じたというがごとき事態は想定し難く、また、自白によれば、被告人は当夜利則方に一時間以上も滞留し指紋のつき易いと思われる同人方の茶わんや包丁にも触れているというのである。したがつて、もしも右自白が真実であるとするならば、犯行現場に被告人の指紋が一つも遺留されないというようなことは常識上理解し難いことと思われるのに、記録によれば、捜査官によつて利則方から採取された合計四五個の指紋の中からは、被告人のそれと一致するものが一つも発見されなかつたとされている(記録一冊五九丁裏)。のみならず、利則方北側物置の鏡台の中央部抽出しの取手には血痕の付着があり、犯人が金品を物色した形跡があつて(記録一〇冊二九六〇丁裏、二九六一丁)、捜査官も「犯人が鏡台を見ているという感じを受けた。」(記録七冊二〇五三丁裏)、「鏡台からも指紋を取つた。」(同二〇六二丁裏)というのであるから、右鏡台からどのような指紋が検出されたのか(すなわち、対照可能な指紋が検出されなかつたというに止まるのか、指紋は検出されたが被告人のそれと一致しなかつたというのか)は、本件の真相を解明するうえできわめて重大な意味をもつものであることが明らかである。しかるに、原審は、「現場から採取された合計四五個の指紋のうち、二五個は被害者のそれと符合し、残りは対照不能であつた。」という捜査官の供述(記録一冊五九丁裏)以外に、右供述の真否を確認する客観的資料も提出されておらず、また、被告人の指紋が現場に遺留されなかつた理由につきいまだ首肯すべき事情も明らかにされていないのに、これらの点に関する審理を尽くすことなく自白の信用性を肯定しているのである。

次に、被告人の身辺から人血の付着した着衣等が一切発見されていないという点も、問題であろう。被告人の自白によると、被告人は、キヨ子が利則を馬鍬の刃で殴打して床上に昏倒させた後、タオルでその頸部を絞めて同人を殺害し、ついで右犯行の発覚を防止する目的で、同じく馬鍬の刃によりキヨ子を殴打して昏倒させ、前同様タオルで頸部を絞めて同女を殺害したとされているのであつて、右自白が真実であるとすれば、このような一連の行動を通じ、その身辺・着衣等に多量の流血の認められる被害者の血液が被告人の身体・着衣に全く付着しないというようなことは常識上ありえないのではないかと思われるのに、警察の綿密な捜査によつても、被告人の身辺からは、犯行に関係があることを示す人血の付着した着衣等が、一切発見されなかつたとされている。ところで、原判決は、被告人がその自白するような方法で被害者両名を殺害した際に被告人の身体に血液が付着しなかつたとしても不自然ではなく、被告人の身辺から血痕の付着した着衣等が発見されなかつたことは自白の真実性を減殺するものではないとして、牧角三郎作成の昭和四八年二月二二日付鑑定書などを援用している。しかしながら、右牧角鑑定は、被告人が馬鍬の刃でキヨ子を殴打した際に返り血を受ける蓋然性がきわめて少ないとしているに止まり、被告人が被害者両名の身体に接近して頸部をタオルで絞めるというような行為をした場合に、両名の頭部、顔面から流出する血液が被告人の着衣に付着しない蓋然性があつたのかどうかについては、何ら触れるところがなく、この点の疑問は、記録上全く解消されてはいないのである。なお、被告人がキヨ子を殴打した際に返り血を受ける蓋然性が少ないとする前記牧角鑑定の結論にしても、本件犯行現場に飛散する多量の血液の中に、キヨ子の血液型と一致するA型のものが相当量存在したという捜査の結果(記録一〇冊二九七九丁以下)と異なる前提に立つてはじめて導くことのできたものであることが、右鑑定書の記載自体に照らして明らかなのでみるから、右鑑定書の証拠価値については、この観点からもなお検討の余地があるというべきである。

さらに、自白に基づく捜査によつても、犯行に使用された兇器がついに発見されなかつたという点も、問題とされなければならない。自白によると、被告人は、キヨ子が利則を殴打するのに使用した馬鍬の刃を用いて同女を殴打しその頸部を絞めて殺害したのち、右兇器を自車の後部荷台に投げ入れて帰宅の途につき、現場から約0.7キロメートル離れた郡堺付近で見たらこれが紛失していたというのであり、もしも右自白が真実であるとすれば、右兇器は、被告人車の後部荷台から、何らかの理由により路上へ落下したものと考えるほかはなく、原判決は、右兇器が被告人車の後部荷台に存する腐触孔から路上に落下した可能性を否定することができないとしている。しかしながら、被告人車の後部荷台に放置された兇器が同車の車体の震動によりその腐触孔から路上に落下する可能性は、これを完全に否定することができないにしても、その蓋然性がきわめて小さく余程の偶然が重ならない限りそのようなことが起こるものでないことは、原判決の引用する司法警察員作成の兇器の落下実験に関する報告書の記載自体に照らして明らかなところである。のみならず、右兇器とされるものは、全長約三〇センチメートルに達する決して小さいとはいえない鉄製の棒(馬鍬の刃)であり、また、それ自体としてはほとんど財産的価値がなく第三者によつて拾得される蓋然性の乏しいものなのであるから、右兇器が真実路上に落下して紛失したのであれば、後日の捜索によつてこれが発見されない合理的な理由はないように思われる。しかるに、記録によると、警察は、本件犯行発覚直後から犯行現場付近一帯について大量の捜査員を投入した大がかりな捜索をくり返し行い、とくに、被告人への嫌疑を深めた昭和四四年一月末ころ以降は、犯行現場から被告人方に至る道路の両側及び付近一帯の山林、畑、やぶ等につき綿密な捜索をくり返したほか、被告人が本件犯行を自白した後においては、右自白に基づいて再度徹底した捜索をしたが、結局、本件の兇器らしいものはこれを発見するに至らなかつたとされているのである(記録一二冊三五九二丁以下、三五九八丁以下)。

以上のとおり、被告人の自白は、その重要な点において客観的証拠による裏付けを欠くものといわなければならない。

2  証拠上明らかな事実についての説明が欠落していることについて

被告人の自白からは、本件犯行の真犯人であれば容易に説明することができ、また、言及するのが当然と思われるような、証拠上明白な事実についての説明が欠落している。

たとえば、自白によると、本件は、利則の妻キヨ子との情交が露見し利則に見とがめられた被告人が、結局両名を殺害してしまつたという偶発的な単純殺人事件であるとされているのであり、もとより自白中には、被告人が利則方で金品を物色したり強取しようとしたというような事実は、全く述べられていない。しかしながら、さきにも指摘したとおり、犯行発覚直後の警察の実況見分によれば、利則方北側の納戸の鏡台には、その中央部抽出しの取手に血痕の付着があり、犯人による金品物色の形跡があるとされているのである。また、記録によると、キヨ子の死体は、その着衣を臀部付近までまくり上げられ、下半身を露出するという異常な状態で発見されたものであることが明らかであり(記録一〇冊二九四八丁)、このことは、同女が昏倒したのち犯人によつて何らかの作為を加えられたことを端的に示していると思われるのに、被告人の自白からは、死体に対する作為をしたことの説明が一切欠落している。

被告人の自白からこのような重要な点に関する説明が欠落したのがいかなる理由に基づくのかは、記録上明らかにされていない。もつとも一般に、真犯人が犯行を自白した後においても、自己の刑責を少しでも軽くするために、自己に不利益な事実をできる限り隠ぺいしようとすることはありうることであるから、被告人の自白が前記の諸点について触れていないのはこのような理由によるものであるという説明が、一応は可能であるかもしれない。しかしながら、右に指摘した犯行現場における金品物色の事実等は、本件犯行の性格を一変させ、少なくともその犯情に重大な影響を及ぼすことの明らかなものであつて、捜査官としては当然被告人を追及して供述を求めたであろうと考えられるのであるから、被告人の自白の中からこれらの事実に関する説明が何故に欠落しているのかについて首肯すべき事情が明らかにされない限りは、この点もまた、被告人の自白の信用性を疑わせる事情であるというべきである。

3  自白の内容に不自然・不合理な点の多いことについて

被告人の自白には、不自然・不合理で常識上にわかに首肯し難い点が数多く認められる。たとえば、自白によると、被告人は、本件犯行当夜の午後八時半ころ、利則の自宅においてその妻キヨ子から誘われるまま同女と情交を遂げようとし、これが本件犯行の発端となつたというのであるが、当時被告人は、利則がテレビの(修理の)ことで外出している旨同女から聞かされていたというのであるから、いかに利則の不在中であるとはいえその帰宅の容易に予測される時刻に、同人の自宅でその妻と情交を遂げようとしたというのは、いささか非常識にすぎる行動のように思われる。また、自白によれば、被告人は、キヨ子との情交が露見して利則から刃物で切りつけられた際、キヨ子が利則の頭部を馬鍬の刃で殴打したためようやく窮地を脱することができたというのに、その後引き続いて利則を追い回して乱打している同女を放置したまま単身隣室へ移動し、事件の進展をいたずらに拱手傍観していたことになるのであるが、自白の中で述べられた被告人の右のような行動は、夫婦間の重大な闘争の発端を作出した当の責任者の行動としては、あまりにも不可解なものというべきであろう。さらに、自白によると、被告人は、利則から包丁で切りつけられてできた右手首の傷をチリ紙で止血し、右チリ紙は帰途車中ではがして路上に捨てたというのである。しかし、もしも被告人の右手首に残る外傷瘢痕が原判決の認定するように利則から包丁で切りつけられた際にできた傷の瘢痕であるとすれば、右傷からは当然相当量の出血があつたと考えられるのであつて、これをチリ紙で止血することができるかどうかはすこぶる疑問であると考えられるばかりでなく、その後被告人が被害者両名を殺害して車で帰途につくまで、そのチリ紙が手首に付着していたという点も、常識に反するものと思われる。

被告人の自白に右のとおり不自然・不合理な点が数多く認められることは、その信用性を減殺する事情として、軽視することができないものである。

(なお、本件における被告人の自白は、別件である準詐欺、詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反の各事実による身柄拘束が開始されて約二月半の後になされたものであり、その間被告人に対しては、右別件の身柄拘束を利用して、本件につき、長期間、多数回にわたる取調べがなされている。また、右取調べを受けた当時、被告人は健康状態もすぐれず違法な強制・誘導を受けたとも弁解しており、右健康状態の点については、被告人の弁解を一部裏付けるような証拠――記録一冊三二〇丁裏、五冊一六六二丁――も存在する。以上の諸点にかんがみると、被告人の自白にたやすく証拠能力を認めることが許されるか否かについても問題がないわけではないが、いまこの点については原判決の判断に従うとしても、少なくとも、その信用性の判断がいつそう慎重になされるべきことは、明らかであると思われる。)

(二)  客観的証拠に関する疑問について

次に、本件において被告人の自白の裏付けとされた客観的証拠の証拠価値について検討する。

1  陰毛及びその鑑定について

本件において、被告人の自白の裏付けとなりうる証拠の中で最も重要なものは、キヨ子の陰部から採取されたという陰毛三本のうちの一本(以下、「甲の毛」という。)及びこれが被告人に由来すると認められるとする須藤武雄作成の鑑定書三通であり、原判決ももとよりこれらの証拠を重視している。そして、もしも右鑑定書の証拠価値に疑問がないのであれば、被告人の自白は、少なくとも犯行の発端となる特異な事実につき客観的な裏付けがあることとなり、その全体としての信用性も容易に否定し難いことになると思われるのであるから、右陰毛の同一性に関する鑑定書は、本件において被告人を有罪と認定するためのきわめて重要な証拠であるといわなければならない。

しかしながら、右須藤鑑定については、その鑑定の資料とされたものが、現実にキヨ子の死体の陰部から採取された陰毛とは異なるものではないかという疑問が提起されており、右の疑問はいまだ証拠上解消されるに至つていないというべきである。右の点について、原判決は、捜査段階において右陰毛が採取され鑑定に付された経過に照らし、「甲の毛」が他の陰毛とすりかわるべき機会はなかつたとしている。たしかに、記録によると、「甲の毛」は、事件の発覚した翌日である昭和四四年一月一九日に、警察官によつてキヨ子の死体の陰部から採取され、翌二〇日、同時に採取された他の二本の陰毛(のちにキヨ子の陰毛と判明した「乙の毛」「丙の毛」)その他の資料とともに鹿児島県警察本部鑑識課へ送付されたこと(記録三冊八四五丁裏、一三冊三八五三丁、一一冊三二九三丁以下)、同鑑識課においては、同年五月三〇日に至り、「毛髪検査法に基づいて検査した結果、キヨ子の陰部から採取した陰毛三本のうちの一本(「甲の毛」)は、キヨ子の陰毛と類似しない。」旨の結果を得たので(矢野勇男、大迫忠雄作成の鑑定書、記録一一冊三三〇一丁裏、三三〇二丁)、右「甲の毛」と別途被告人から任意提出させた陰毛との対比鑑定を行つたところ、同年七月二日、「毛髪の形状色調、髄質の形状、毛根側の色調及び形状等は、『甲の毛』と被告人の陰毛とはよく類似し同一性を認める」が、捻転・屈曲において「甲の毛」は著しく被告人提出のものは少ないという結果を得たこと(大迫忠雄作成の鑑定書、記録一一冊三二九〇丁以下)、そこで、同鑑識課は、あらためて「甲の毛」と被告人提出の陰毛との同一性を確認するため両者を警察庁科学警察研究所(以下、科警研という。)に送付して鑑定を依頼し、警察庁技官須藤武雄は、同月一七日、「『甲の毛』と被告人提出の陰毛とはほぼ同一人のものではないかと推定される。」とし、両者は捻転・屈曲もよく似ている旨の鑑定書を作成したこと(第一次須藤鑑定、記録一一冊三三〇八丁以下)、その後、公判段階において再度右陰毛の鑑定を命ぜられた同人は、新たな鑑定の手法をも取り入れて再鑑定した結果、両者の同一性をいつそう確実なものとして推定していること(第二次、第三次須藤鑑定、記録四冊一二六三丁以下、九冊二六七八丁以下)などの諸点が明らかにされている。以上のような本件捜査・鑑定の経緯に加え、鹿児島県警における陰毛の保管・鑑定の責任者であつた大迫忠雄が、キヨ子の陰部から採取した陰毛三本はそのまま小さい封筒に入れてのりづけし、資料採取用の小さな付票にも記載しているから他のものとまじるようなことは絶対にない旨供述していること(記録四冊一〇九一丁裏)などに照らすと、須藤鑑定の資料とされた陰毛がキヨ子の死体の陰部から採取された「甲の毛」とは異なるものではないかという疑問は、一見これを容れる余地がないようにも思える。

しかしながら、他方、記録によると、鹿児島県警鑑識課においては、「甲の毛」を科警研へ送付する以前の段階である昭和四四年四月一三日に、被告人から対比鑑定用の資料として陰毛二三本を任意提出させていたものであるところ、被告人から提出を受けた右陰毛二三本のうち五本が、のちに大迫の手中で所在不明となつて公判廷に顕出されなかつたばかりでなく、その後同人が右所在不明の陰毛を発見したとして検察官を通じて裁判所に提出した五本の毛髪が、第三次須藤鑑定の結果陰毛ではなく頭毛であると判明したという事実の存在することも、明らかなところである(記録一三冊三八五六丁、四冊一〇七三丁以下、一一〇一丁、八冊二五〇九丁、九冊二六八四丁)。そのうえ、前記矢野・大迫鑑定及び大迫鑑定と須藤鑑定とを対比すると、前二者に記載された「甲の毛」の外見・形状が、その長さ、捻転・屈曲の点などにおいて、後者に記載されたそれと微妙なちがいのある状況も看取されるのである。これらの諸点に徴すると、同鑑識課における陰毛の保管・鑑定の責任者である大迫において、その保管する被告人提出の陰毛の一部を紛失し、しかも他の毛髪を紛失した陰毛であるとしてのちに提出するに至つた経緯等につき首肯しうる説明をするのでない限り、右紛失した陰毛の一部がキヨ子の死体の陰部から採取された陰毛の中に混入し「甲の毛」として須藤鑑定の資料とされたのではないかという疑いを否定することはできないものというべきである。本件において右大迫は、自己の保管する陰毛五本を紛失し後日右五本を発見したとして提出した経緯について一応の説明をしているが、右説明にはなお納得し難い点もみられるうえ、同人が毛髪五本を取りちがえて提出するに至つた点については、その理由の説明が全くなされていないのであるから、須藤鑑定の資料とされた「甲の毛」が現にキヨ子の死体の陰部から採取された「甲の毛」と同一のものであると断定することは許されず、右鑑定書の証拠価値には疑問があるといわなければならない。

2  車てつ痕について

記録によると、昭和四四年一月一八、一九の両日に利則方前私道上から採取された車てつ痕の中から、被告人車のそれと「同種同型のもの」(一八日採取分)及び「紋様、磨耗の形状の符合するもの」(一九日採取分)が発見されたとされており(記録一一冊三二八二丁以下、三二三二丁以下、三二七九丁裏)、一、二審判決は、右車てつ痕の同一性に関する寺田正義作成の鑑定書をも、被告人を有罪と認める証拠の一つとして引用している。そして、右鑑定の資料とされた車てつ痕が犯行のあつたとされる一月一五日に印象されたものであると認められるのであれば、右鑑定書が、被告人のアリバイの主張を覆しその有罪を推認する有力な証拠となりうるものであることは、さきにも一言口したとおりである。

しかしながら、記録によつても、右鑑定の資料とされた車てつ痕が一月一五日に印象されたことを確認するに足りる資料はなく、むしろ、右車てつ痕は同日以外の他の機会に印象されたものではないかという疑問が残されているというべきである。すなわち、右車てつ痕が採取されたのは、原判決認定の犯行日から三日ないし四日を経過した一月一八日及び一九日であるところ、記録によると、同月一六日と一八日の各夜には降雨のあつた事実がうかがわれるのであつて、右降雨量のいかんによつては、一月一五日に印象された車てつ痕がその紋様の対照の可能な状態で後日採取できなくなる可能性も存在すると思われるのに、記録上は、右車てつ痕を採取した利則方前私道が「赤土を踏み固めた通路」であり(記録一一冊三二八三丁)、一月一九日の車てつ痕の採取にあたつては前記両日の雨を考慮して「極めて新しい路面こん跡はなるべく採取しない」という方針で採取したとされているだけで(同三二三三丁)、右二回の降雨の量及びこれによる車てつ痕の変容の可能性の有無などは、全く明らかにされていない。そして、記録によると、被告人は、捜査段階以来一貫して、一月一三日及び一七日に車で利則方へ赴いた事実を供述しており、とくに捜査の初期の段階においては、一七日に同人方へ赴いた際に木戸口前私道にまで自車を乗り入れた旨の供述をしていた状況が看取されるのであるから(記録一五冊八〇丁裏)、前記二回の降雨の量及び降雨による車てつ痕の変容の可能性の有無等を明らかにしないまま、寺田鑑定の資料とされた車てつ痕が一月一五日に印象されたものと認めることは許されないのであつて、このような車てつ痕を資料としてなされた右鑑定の結果についても、その証拠価値に疑問があるといわなければならない。

3  被告人の右手首の外傷瘢痕について

記録によると、被告人の右手首(右前腕伸側手関節拇指側寄り三分の一の部位)には「上下方向に長さ五糎の極めて細い線状の外傷瘢痕」があり、右瘢痕は、鹿児島大学医学部法医学教室教授城哲男により、「恐らく鋭利な刃先又は刃尖にて擦過された極めて浅い切創痕」であると鑑定されている。そして、右城鑑定は、一、二審判決により、「犯行当夜、利則から包丁で切りつけられて右手首に負傷をした。その後、キヨ子が利則の頭を馬鍬の刃で殴つた。」とする被告人の自白を裏付ける情況証拠の一つであるとされている。

しかしながら、被告人は、第一審公判廷において、この右手首の傷痕は、前年の八月末ころ、利則を単車で家まで送り届ける途中、単車が土堤下まで転落し竹の切株で切つたものである旨弁解しており(記録二冊六四九丁)、被告人が、ほぼその供述する時期に単車で交通事故を惹起して入院治療を受けたことは、客観的に明らかにされているのである(記録三冊八七九丁以下、一三冊三八一八丁)。

もつとも、記録によると、その際の被告人の診療録(写)には、被告人の病名として、「頭、頸左腕部打撲症及び顔面左胸部、右前腕擦過傷」とのみ記載されていて、「右手首関節部分の切創」という記載がなく、また、診療にあたつた春別府医師は、「カルテには病名をほとんど記載しているから、その記載のない右手首切創はなかつたものと思う。」(記録三冊八八二丁)、「擦過傷と切創とは、カルテの記載上はつきり区別している。」(同八八六丁裏)旨供述している事実がうかがわれるが、被告人が右交通事故の際に負つた傷害は、右のとおり身体の相当多数の部位に及んでおり、しかも、その中には、概念的に「右手首」を包含する「右前腕」の擦過傷も含まれていたのである。したがつて、被告人の診療にあたつた春別府医師が、傷害の範囲の広い「右前腕擦過傷」のみをカルテに記載し、比較的軽微で部位及び症状がこれと近似している「右手首切創」の記載を落とすということも、ありえないわけではないと思われる。

次に、城鑑定及び城証人の第一審公判における供述によると、被告人の右手首の切創は、被告人が前記交通事故によつて負つたと主張している他の瘢痕よりも新しいものとされている。しかし、城証人も認めているように、傷害瘢痕の陳旧度の判定は、受傷後数か月以上を経過した後は、かなり困難であるようであり、受傷後の経過日数は「判然としない。」(記録一三冊三八一六丁)、「確定的には断言できない。」(記録三冊九六三丁裏)というのである。これらの点からすると、「右手首の瘢痕が顔面の瘢痕より新しい。」という城鑑定の結論も、それほど確たる根拠があるわけではないように思われる。ちなみに、城証人も、被告人の右手首の瘢痕が、被告人の弁解するとおり、竹の切株などによつても生じうるものであることは、これを認めている(記録三冊九六三丁裏)。

以上の検討の結果によれば、被告人の右手首に残る瘢痕及びこれに関する城鑑定は、たしかに被告人に不利益な情況証拠の一つではあるが、捜査段階における被告人の自白の信用性を強く裏付けるに足りる証拠価値を有するとまでは、いえないものと考えるべきである。

(三)  犯行時刻の特定とアリバイの成否について

原判決は、本件犯行の日時について、「昭和四四年一月一五日午後八時二〇分ころから同日午後一二時ころまでの間」という幅のある認定をしており、右認定は、上迫和典作成の鑑定書など原判決の引用する各証拠に照らして、一応これを是認することができる。

ところで、被告人の主張する犯行当夜のアリバイのうち、同日午後八時すぎころから午後一〇時ころまでの間、脇別府政義方、山下吉次郎方などを歴訪していたという部分について、これを支持すべき明確な証拠の見当らないことは、原判決の指摘するとおりであるが、被告人がおそくも同日午後一〇時ころには帰宅していたことは、被告人及びその妻ヨシが捜査の初期の段階から一貫して供述していたところであつて、これに反する証拠は見当らないのみならず、右各供述を裏付ける第三者の供述も存在する(記録六冊一八三二丁、一二冊三三五五丁)。したがつて、右犯行時刻が同日午後一〇時ころ以前であつたのか午後一〇時ころ以降であつたのかは、被告人のアリバイの成否を決するうえで、決定的ともいえる重大な意味を有する事実であるといわなければならない。そこで、右の観点から証拠を検討してみると、本件犯行が同日午後一〇時ころ以前であつたことをうかがわせる証拠としては、利則が左手にはめていたカレンダー付腕時計の日送車の爪の停止位置などから犯行時刻を「一月一五日午後八時ころから午後一二時ころまでの間」と推定する前記上迫鑑定のほかには、被害者両名の死体の解剖結果等に基づきこれを同日午後九時ころと推定する捜査官の推測的な供述(記録一冊二三八丁裏)があるだけであり、右の点については、これ以上の解明がなされていない。

しかして、記録によると、被害者利則は、一月一五日午後七時すぎころから八時ころにかけて、叔母の久留ウメ方で焼魚一匹、タコ一五切れ及びオロシ大根をさかなに、焼酎五勺ないし六勺を飲み、午後八時すぎに帰途についたことが明らかである(記録一二冊三三四三丁以下、三三五〇丁)。しかるに、城哲男作成の利則の死体の解剖鑑定書によると、その胃内容物は、「米飯、椎茸、オロシ大根、菜葉、落花生等の食物残渣」のみであつて、その中には、久留方で食したとされる焼魚やタコは見当らず、しかもこれらの胃内容物の「消化の程度はかなり進んでいる」が、胃の「粘膜に異常はない」とされている(記録一〇冊二八九〇丁裏)。また、右解剖結果によれば、同人の心臓血及び膀胱尿からは、それぞれ0.0018‰及び0.072‰という微量のアルコールしか検出されていないのである(同二八九一丁裏)。これらの事実が、本件犯行の日時を一月一五日午後一〇時ころ以前と認定することと矛盾するものであるかどうかは、法医学専門家の鑑定に待たなければにわかに断定し難いところではあるが、少なくとも、それが犯行時刻を同日午後一〇時ころ以前と認定することに疑問を提起する資料たりうるものであることは、否定し難いところと思われる。そうすると、前記解剖鑑定書の記載に照らして明らかなこれらの事実の存在にもかかわらず、専門家の鑑定によることなくして犯行時刻を同日午後一〇時ころ以前と断定することは、早計のそしりを免れないのであつて、結局、本件一、二審において取り調べられた証拠のみによつて被告人のアリバイの主張を排斥することは、許されないといわなければならない。

三結論

以上、詳細に説示したとおり、本件においては、被告人を犯行と結びつけるための唯一の直接証拠である被告人の捜査段階における自白及びこれを裏付けるべき重要な客観的証拠について、その証拠価値をめぐる幾多の疑問があり、また、被告人のアリバイの成否に関しても疑問が残されている。したがつて、これらの証拠上の疑問点を解明することなく、一、二審において取り調べられた証拠のみによつて被告人を有罪と認めることはいまだ許されないというべきであつて、原審が、その説示するような理由で本件犯行に関する被告人の自白に信用性、真実性があるものと認め、これに基づいて本件犯行を被告人の所為であるとした判断は、支持し難いものとしなければならない。されば、原判決には、いまだ審理を尽くさず、証拠の価値判断を誤り、ひいて重大な事実誤認をした疑いが顕著であつて、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

よつて、各上告趣意について判断を加えるまでもなく、刑訴法四一一条一号、三号により原判決を破棄し、同法四一三条本文にのつとり、さらに審理を尽くさせるため、本件を原審である福岡高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(藤﨑萬里 団藤重光 本山亨 中村治朗 谷口正孝)

被告人の上告趣意<省略>

弁護人金井清吉の上告趣意

原審の判決には重大な事実誤認があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反し、かつ最高裁判所の判例と相反する事実がある。よつて早急に原判決を破棄されなければならない。

第一、自白の任意性の欠如

本件において重要かつ唯一の証拠とされた、被告人の自白は、その任意性が欠けるものである。

一、異常な捜査と取調べ 本件捜査の性格

1 原審弁護人が述べているごとく、本件は田舎の、それも夫婦二人の殺害という大事件であつたため、発見された一月一八日から鹿屋警察署員が総動員され、地区の消防団員、婦人会等の協力まで得て付近一帯の住民に対する聞き込み捜査を実施し、昼夜を問わず捜査が続けられた。大重捜査主任の話ではのべ七、三八五名、日数にして二〇〇余日の捜査の動員があつた。このような捜査が行なわれたときの結末は、おうおうにして、科学的捜査を放棄し、またどうしても犯人を作る必要にせまられるため一つの「うわさ」である者を犯人と仕立て、村民、部落民全員がそれに添つて口裏を合せる危険性をともなうものである。

本件は正にこのように異常な雰囲気の中で被告人が捜査当初から、その捜査の対象とされたのであることに第一の特徴がある。

本件を審理するとき、かかる状況、また以下にのべるような諸関係を冷静にみて証拠判断されるよう望むものである。

2 証人および捜査協力者との地縁、血縁関係の存在

前述のように、地域ぐるみの捜査であるため、本件捜査にたずさわつた者が証人として出てきている者が多い。消防団員として聞き込みにまわつた者が証人としてでてくることや、捜査本部(部落の公民館にもうけられたようである)の炊事係の者が証人として出てきたり、また捜査刑事などと大変親しくなつている人であつたり、刑事と学校が同じであつたりする。

また、被害者の血縁のものが、被告人に不利な証言をすることもしばしば見られるところである。

本件は正にこのように地縁・血縁の中で被告人が「被告人」とされてきていることが本件事件の特ちようの第二である。

3 被告人に対する過酷な取調べ==正座・手錠・腰ひもの推定。被告人は四四年四月一二日に神奈川県で逮捕された。すぐ鹿屋警察署に押送され、本件事件(殺人事件)について取調べが行なわれたことは明らかである。

(1) ところで、取調べは、原判決も一部認めるように鹿屋警察署々長公舎の八畳間で行なわれた。その期間も一ケ月をこえる。

もともと署長公舎は取調べ室などないのであるから、普通の座敷で行なわれたのであることが推測される。

窓にも鉄製格子が入つている訳でもないから、捜査官としては逃亡防止のため腰ひもを何かにしばりつけることや、極端には手錠をかけたままの取調べもありうることであつた。被告人は一貫して手錠をかけられ、数人の監視の下で取調べをうけたとのべているが、勿論取調べた捜査官は否認するが、充分に推定ができ、被告人の言い分をみとめることができるものである。

取調べを受けた場所は署長官舎だけでなく、新生町警察官官舎、芝之原駐在所、鹿児島中央警察署四階特別室などさまざまなところで調べられている。一般犯罪人とは区別され、特別なところで、特別な調べ方をされていたことがわかる。また座敷などでは正座をさせられたことは当然であつて、足を崩すことを許すなどは考えられない。大霜検事の「体を楽にして答えなさい」といつても被告人は「正座を崩さず」との供述でも逆にわかるところである。

(2) 取調べ時間は板東証人の証言にもあるように、朝食事がすむとすぐもつていかれて、夜私達がねてかなりたつてから独房に帰つてくるというのがしばしばであつた。即ち朝食事から夜は早くて一〇時、七月二日などの場合は翌日の午前二時ころまで(被告人の陳述)も調べられたのであつて、それも調べる方は何人もで入れかわり立ちかわり調べるから疲れないが、調べられる被告人は一人で早くから夜遅くまでであつて、正常な精神状態でなくなつたという被告人の供述は当然の結果であろう。因みに警察自らも被告人の精神鑑定を実施しているぐらいである。

(3) 加えて、被告人の健康状態は、原判決も認めるとおり、足が腫れる、熱がある、血圧が高いなど被告人は医師にかかり投薬をうける状態であつた。かかる状況での、長期間の取調べは、「異常」な精神状態においたことは容易に考えられるところである。板東証人は、被告人が看守の人に体温計をかしてくれといつたこともあり、体の調子も悪いといつたこともあり、すごくつらそうだつたと証言している。

二、誘導尋問等による自白調書の作成

1 被告人の長期間の否認

被告人は四月一二日逮捕されてから連日夜遅くまで、捜査官に自白するよう強要されていたことは、被告人の陳述などからわかるところである。しかし被告人は、自ら無実であるため認めることも出来なかつた。

自白がされたとされるのは、逮捕されてから厳しい取調の中二ケ月半以上経過した七月二日とされること、このような長期間の否認は、本当に自分がやつた者であるならできるものでもない。それも、被告人がのべるように、七月二日に自ら積極的にのべたものでなく、あまりに捜査官が、殺したことを認めろと連日せめるため、被告人は腹をたてて、「そう書きたければ書いたらいいだろう」といつたことをもつて、かかる内容の調書をさつそく作り、署名押印も一旦は拒否したのに無理にからだをこづくなどして押印させ、その後は、さつき「そう書け」といつたのは取消すというのに、浜ノ上捜査官が、「お前は殺したといつたじやないか」ということで同様の内容の、それも客観的状況に添うように調書を作つていつたのである。

2 被告人の供述は捜査官の「誘導」と「おどし」によるものである。

被告人は、警察でやられたことを次のように陳述している。即ち浜ノ上、新利、厚地ら捜査官があまりに認めろというので、被告人が「私は被害者であつて、犯人ではないという日がくる。親兄弟もいるので、人の罪で今日迄このようにされているが、親兄弟も考えがあつて、考えているだろう」といつたところ、捜査官は、「今お前は何といつたか、もう一度言つてみよ」「お前を脅迫罪で訴えてやる」といつて六法全書をもつてこさせ、脅迫罪のところをみせ、そのための調書を作れといつて作らせ「懲役三年だ」などといつておどした。被告人はおそろしくなり(被告人は別件で軽微なことで判決をうけていたから捜査官のおそろしさを充分身にしみていた)詫状を入れてあやまり何でもないことにしてもらつている。

このように被告人に言いたいことを言わせず、恐怖心をおこさせ、逆に利益誘導(これまたこのような否認事件では常とうの手段として使われている)によつて、自白すれば、軽くするように検事にたのんでやるとか、刑もおれたちの書類の作り方一つで重くも軽くもなるなどといつて、自白を強要していつたのである。

3 被告人の自白している内容は、すべて捜査官の知つている事実だけであつて、そこから一歩もでていない。逆に客観的事実上から、説明のつかないことはそのまま放置されていて、被告人の供述からは説明がつかない。このことは捜査官の知つていることで問題のないことだけを誘導して調書につくつたにすぎないことの有力な証左である。

三、原判決認定の事実では任意性を認めることはできない。

原審判決は、「被告人の短気で興奮しやすい性格に対し」「理詰めの尋問がなされる結果となつたことが十分窺われる」が任意性を疑わせる方法によるものでないとする。

しかしすでに、右2にのべたようなことは、何も理詰めのやり方ではない、被告人の殺生の権利をすべてもつているのだ、捜査官の言うとおりにしろということは何も理詰めではない。

また、検察官の取調べに対し、被告人は涙を流しながら自白したというが、どんな冤罪事件でも、その被告人は「涙を流したり」「詫状を入れたり」「香典を送つたり」しているし、捜査官は自信のない事件ほどこのような方法をとるものである。はたして本当に被告人が涙を流したのかは、これまた疑わざるを得ない。

また調書の記載内容は「具体的・詳細でなんらの不自然さもない」というが、不自然さがないのは、現場の状況を後からよく知つている捜査官が誘導していることであつて、かつ具体的で詳細であるというが、少しも詳細でなく抽象的でさえある。犯行の状況、相手はどんな反応をし、どこをどうしたのかなど被告人の自白調書からではわからない。本当に犯行を行つた者で、かつ自ら供述したのであれば、利則との争いの状況、自分の手のけがの状況、相手がどちらの手で包丁をもちどのようにしてきりかかつてきて、被告人の手にどのように当つて、傷はどの程度か、被害者キヨ子を殺害するとき、どのようにして表の六畳間にキヨ子をつれていつて、馬鍬の子はどのように持つて、キヨ子がどのようになつたときにどこをどのように殴打したのか、キヨ子はどのような状態で倒れたのか、キヨ子が利則を殴つて被告人のところに来たときの状況など、本当は詳細にのべるであろうに、自白調書は抽象的にしかでていない。

かかる程度で詳細で具体的などということはできない。普通このような殺人事件の場合は、実に詳細に犯行の状況を説明させ被告人の言つたとおりにして、犯行現場にあるような状況になるのか検証するなどするのであるのに、本件ではそれが明確でないし再現不可能である。これは捜査官が、被告人に「殺したこと」だけは認めさせたが、それ以上のことをひきだせなかつた、被告人も自分の知らないことなのでしやべらなかつた、ことの結果という外はないのである。

四、因みに、被告人と同時期に同じ鹿屋警察に逮捕されて自白を強要されて起訴された、これまた強盗殺害事件(被告人橋本正年)の自白の任意性が否定されたものがあり(この点について弁護人が記録の顕出を申し出たが却下された)、被告人もそれと同様に、いやそれ以上に任意性がないといえるものである。

第二、自白の信用性について

被告人の自白はその内容においても多くの矛盾をもち、とうてい被告人が犯人とは考えられない。

一、自白と客観的状況の矛盾

1 犯行時間と被告人の行動

被告人は、一月一五日夜、脇かづ子方をでて被害者宅についたのは午後八時二〇分か三〇分位のあいだと思う、いろりの大黒柱のところにすわり、キヨ子がお茶をだし、茶受けは梅干をだしたのでこれももらつた。それからキヨ子と世間話をした。この世間話をしたのは二〇分位と思う(七月一〇日)その後キヨ子とフトンに入つて間もなく利則が返つてきて争になつたと述べている。

ところで原判決の認定によると、利則は久留ウメ方で焼酎などをのんでウメ方をでたのが八時一五分ころ、久留ウメ方から被害者宅まで約二キロで利則は単車で帰つたのであるから約五分(時速二五キロメートル)でついた、従つて八時二〇分頃には利則は自宅についたということになる。

右のことは、被告人の自白と明らかに矛盾する。被告人も利則もほとんど同時に被害者宅についたことになる。捜査官は利則がその晩久留ウメ以外にあつた者はないか、一生懸命捜したが、全くなかつたのであるから、正に利則の帰宅時間は八時二〇分頃が正しいと考えてよい。そうすると被告人はもつと早く、脇かづ子方をでなければ、キヨ子とお茶をのみ、世間話をし、梅干を食べ、その上フトンの中に入るまでは絶対出来ないことになる。このようにキヨ子との関係がなければ、本件利則と争も発生しない筈であつて、本件も発生しないことになる。

ところが、被告人も被害者宅に行くとすれば、八時二〇分以前ではないことは、脇かづ子、小倉肇の証言などから明らかである。そうすると被告人は利則のいる前でキヨ子と関係したとでもいうことになるが、かかることは不自然極まりかつ証拠からはなれることであつて、結局被告人の自白は信用のおけないものであること、自ら経験していない者の供述であることがわかる。

2 茶碗からの指紋の検出しなかつたこと

被告人の自白によるとキヨ子と二人で話をしてお茶をのんだという、そうであれば当然茶碗から被告人の指紋が発見されてしかるべきである。ところが発見されていない(捜査主任大重の証言)。

そうであれば被告人は、被告人は茶碗の指紋を消してきたのか、現場の状況からは全くそのようなことは考えられず、散乱し、水がこぼれた状態のままである。

このような重大なことがちがつているということは、被告人の自白は真実でないことの表れである。

3 梅干はあるのか

被告人はお茶うけに梅干をキヨ子がだしてくれたとある。

被害者宅のいろりのまわりに茶道具、ドンブリ、鍋などがあるが梅干はない。これを入れた入れ物らしきものもみつからない。(そもそも被害者宅に梅干があつたのか否かも明らかでない。)この点も被告人の自白と著るしく異るところである。

4 包丁に被告人の血液と指紋は発見されていない。

被告人は、その自白調書の中で、利則が包丁で切りかかつて来たので、「私はまきでそれを払つておりましたが右手首に痛みを感じまきを落してしまいました」「私は利則の右手をつかみ刃物をもぎとりいろりの傍まで逃げました」「私はこの包丁を板間の上に置きました、そして手をみると血が出ておりましたのでチリ紙で血止めをしました。」とある。

そうすると被告人はその包丁をもぎとり、しつかりと持つて板の間のところに置いたのであるから、当然包丁のどこかに被告人の指紋がつく筈であり、これの点は捜査官は、当然捜査したというのであつてかつ指紋がついていなかつたというのであるから、被告人がにぎつたことはないものといわなければならない。かつこの包丁の指紋の捜査結果によればだれかの指紋はついている、少なくとも妻の指紋はついている筈であつて、そうであれば被告人の自白内容は全くちがうことにならざるを得ない。

加えて、被告人の供述によると、この包丁で、被告人は持つていた薪を落とすほど傷つけられたというのである(普通かかる斗争のさい少しのきずぐらいでは、持つているものは落とさない。特に自分の身の危険を薪で防いでいた訳であるからなおさらである)。

そうすると包丁の刃に必ず被告人の血液がついていなければならない。それも捜査の結果についていないのであるから、被告人の供述は真実でないことを述べていることになる。

5 被告人衣類についての血痕の付着が存在しない

被告人は、一月一五日は、カーキ色の上衣に、同じくカーキ色のズボンをはき、その上に紺の背広上衣をきて、それに靴下と皮靴をはいていた。そして、被告人は、キヨ子と一諸に表の六畳間(血のとびちつている間)に入り、倒れている利則の足をもつて部屋の真中の方に引きずり出した後、頭の方に廻りタオルを取り上げ、「前からまわし」後からねじるようにしたというのである。更にキヨ子を殺害すべくまた同じ部屋に入つたというのである。六畳間にある血潮が利則のものであるとしてもこの部屋で歩きまわつていること、また利則をひつぱつていること、うつ伏せに倒れている利則に対し、タオルをとりあげ「前から」(のどの方から)うしろにまわしたというのであるから、少なくともこの段階で利則の頭をあげるなりしていることが考えられる。

またキヨ子の血も床の間の天井・桁・板壁・畳についており、キヨ子殺害の時につくことが考えられる。

かかる状況があつた場合、少なくとも衣類に全く利則かキヨ子の血液がつかないことは考えられず、かつ必ず靴下にはついていること明らかである。そして血潮のついた靴下で皮靴をはけば、この靴の中にも血液がつくことは当然である。ところが原審判決は詳細な検討なく、被告人の衣類に血液がつかないことはありうるとして、科学的に事実を恣意的に抹消してしまつたのである。

そして現場を詳細に検証すれば、足跡痕さえあると思われ、この捜査もしない筈はないと思われるが、現在まで出てきてないのは被告人に有利なことのためであるとしか考えられない(仮にかかる捜査をしてないとすれば、当初から被告人を犯人として、科学的な捜査を放棄していたとの非難を免れまい)。以上のように、被告人が自白どおりに犯人であるならば、必ず被告人の着衣・靴などに被害者の血痕が付くことになるのに、捜査で検査したが検出されなかつたと証言する。また被告人の妻も当然気がつく筈であるのに、全く気がついていない。

このことは、被告人が犯行現場に足をふみ入れていない有力な証拠である。

6 キヨ子の左眉毛外端部に深さ二センチ長さ三センチの創傷がある。かなりの傷である(解剖鑑定書)。被告人の自白調書はキヨ子殺害の状況は前述したとおり、まつたく抽象的で具体性がない。しかしこの傷が被告人の自白のような行為によつてはつけられるであろうか疑問である。

7 キヨ子のはいているタビックスの裏には血液それもB型でなくA型だけのがついており、利則のはいている(左足)タビックスの踵に血液B型がついていることの矛盾

被告人の自白内容からすると、キヨ子が利則を殺害し、その後被告人がキヨ子を殺害したとなつている。

そうすれば当然にキヨ子の足(タビックス)にはB型の血液がつき、それも量も多いと思われるし、逆に利則のは、つかないか、ついても少量と思われる。それが解剖鑑定書によると全く逆になつていることは自白と本件現場、犯行がちがつた態様によつて何ものかによつてなされたものであろうことが考えられなければならない。

8 被害者利則の胃の残留物の状況

被告人の自白によると、キヨ子と同じ床に入つて関係していたとき利則がかえつてきたとする。そしてその場で争いになつて、キヨ子が利則を殴り倒したとする。

しかし、利則は久留ウメ方で焼酎をのみ、焼魚(アジ)を食べ、大根おろしを食べ、更に味付タコを食べてまつすぐ五分ぐらいで帰ることになることは前述1でのべたところである。ところが、解剖した結果は、右食べたはずの味付たこ、焼魚は発見されず、米飯と椎茸、菜葉、落花生が発見されている。そして消化は「かなり進んでいる」のであつて、被告人の自白とも、また原審判決の認定とも矛盾するものである。

9 利則のくつ下が片方だけはいていたこと、キヨ子の下半身裸体であることと被告人の供述の疑問、

被告人の自白では、最終的には、「利則はすぐには表の間にふみこんでくるようなことはせず、キヨ子もすぐにはでていきませんでした」とある。

しかし、利則のくつ下が片方だけということは、利則は家に帰つてきて、何も感じず茶の間で靴下をぬぎ始めたところ、急に異常を感じもう一方の靴下をぬぐ時間がなかつたことを意味すると解することもできる。被告人の供述のようであれば、両方の靴下をぬぎ、上着をぬいで、それから充分に追及することができる。また、茶の間にあつたタビックスからB型の血液がついているところからみると、利則が傷ついてから、何らかのために、利則なり第三者・犯人なりが利則から靴下をぬがせて茶の間に持つてきたとも考えられる。しかし、いずれも被告人の供述と合わない。

またキヨ子が茶の間の方に行くのに、どうして下半身裸体のまま、パンツなどをはかないで出ていくのか、女性であれば逆に少しの時間でもあれば、被告人より先にパンツなどをはいて出て行くと思われる。それがそうしなかつた、否できなかつたと見た方が正しいのではないかと現場の状況から考えざるをえない。

いずれにしろ、被告人の自白とは合致しないと考えられる。

10 キヨ子が被告人に「寝よう」とさそい、同きんしたか、常識的に考えられないこと。

この点について、一審の判決は、あまりに非現実的として、かかる考えはとらなかつた。そしてキヨ子は夫利則と就寝しようとしているところに被告人が立ちよつて口論となつて犯行に及んだとしている位である。

右のようなことに考えられない。夜も九時近くである。夫利則がテレビの修理にいつていること、途中でテレビを見たとしても、プロレスは八時に終了する位はキヨ子にも長年一緒にいた利則のことであり充分推測できた筈であるから、かかる時間帯に被告人に肉体関係を持つことをさそうこと自体異常である。ましてや、被告人が言つているように被告人は被害者宅と特別親しくなどしていなかつたのであるからなおさらである。

被告人も、車できているのであるから、家の中でキヨ子と一緒にフトンに入るなどすれば、仮に利則が帰つてきたときすぐ被告人ということがわかり、このような時間帯ではとても考えられる行動ではない。特に田舎の就寝時間は早いのであるからなお更である。被告人が女へきがあつたことなど全然うわさにもなつていない(徳満江美子・川原田アキミの証言)。

また仮に一審判決のように考えても多くの客観的矛盾例えば、フトンの敷いてある状況、利則のくつ下の片方だけ茶の間にあること、利則は解剖の結果約二五〇竓の残尿があり、キヨ子は残尿がほとんどないことなどは解決されないし、また新たな矛盾も生むことは控訴趣意書で述べられているとおりであつてここに引用しておきたい。

11 兇器の未発見について、後述するとおりであつて、自白どおりとすれば発見される筈である。それが発見されていない。自白の任意性を疑わしめるものである。

二、女性腰巻に付着している精液はAB型について

四四年六月三日付矢野勇男の鑑定によると、資料一三三号女性腰巻についていた精液はAB型であるとの結果が報告されている。

これは被告人(B型)でも被害者らでもないことを意味している。そうすると、被害者キヨ子が被告人や利則以外の他の男性と関係があつたことを推測せしめるものであつて、本件事件に関係がないとはいいきれない。このAB型の者が本当の犯人とも考えられる。

三、兇器について

原審・一審を含めて兇器は馬鍬の子であるとするし、被告人の書面・検面調書にもそのようになつている。

1 しかし、ではその兇器はどこから持つてきたのか。被告人の右供述調書では全くわからない。一本だけ馬鍬の子が存在したという証拠は全くないのである。

被害者宅の家の軒下に馬鍬があつたがそれはこわれておらず、特に一本のみしかはずされてはいない。これはサンプルとして領置する必要から、捜査官はわざわざ一本はづして証拠として出したくらいであつて、以前から壊れてなどはいない。その外に二ケ位馬鍬はあつたが、捜査官は調べたが歯が欠けているものはなかつたと捜査主任の大重は証言している。そして捜査官が推測して、被害者宅の入口に三段の棚があつて、かなづち、バール、いろいろな金具類が積んである。そこにあつたのだろうという。しかし現実には本件兇器とされた以外にもう一本存在してもいない。仮にそうとしてもどうしてこのような危険なものをキヨ子が入口の棚からとつたのか。理解できない。当初から殺害を意図するのであれば、刃物などをもつであろうし、逆に利則の暴力をやめさせようとするのであれば、土間や囲炉りのまわりの木の棒、薪、それも長いもので利則の刃物をもつている手をたたいてひるませればよい。金物の棚が近くにあつたとしても、ハンマーやバールがあれば、バールなどを手にするのが普通であろう。そしてハンマーとかバールというものは普段身近につかつているため道具類置場の中でも上部にあり手にとりやすく、また使い易いものである。

当初捜査官は大工用「ノミ」様のもので傷がついているとして捜査を始めている。

このようにみてくると、はたして馬鍬の子が本当に兇器なのか、それはどこにあつたものであるかなど明らかにされない限り「馬鍬の子」が兇器であると断定することはできない。

2 兇器の馬鍬の子がどのように処分されたかについて、被告人の自白調書は自分の車につんで自宅に帰る途中落下してなくしてしまつたことになつている。

しかし、四四年七月一五日の捜査報告書(作成者大重五男ら)によると、被告人の犯行として兇器の発見のため四四年一月二八日、二月六日、三月一四日、五月三〇日、六月八日、六月九日、六月一一日、六月一八日、六月二〇日、六月二六日、六月二八日、七月一五日と一二回にわたつて道路は勿論、被告人の立回り先と思われる山林・畑などすべて捜査した、しかし結局発見されなかつた。被告人の自白どおりとすれば、発見するのは容易であろう。けだし馬鍬の子は決して小さいものでなく、かつ車の荷台にのせていてその穴から落下したとすれば、道路上かその側溝にあり、かつすぐこわれたり流されたりするものでもない。加えてだれか通行人が発見したとしても、わざわざこれを拾つていくような価値のあるものでもないからである。

3 馬鍬の子は落下するか

被告人の供述によると、「運転席の後横の方からそつと荷台にモガン子を置き」となつている。

ところでこのようにおいた場合、右馬鍬の子が落下するか否か実験した結果(四四年八月四日付大重ら作成の報告書)は13本も入れておいてかつ四回にもわたり実験したが全く落下したものはなかつた。落下させる方法としては、馬鍬の子の先を、意図的に腐蝕穴につつかけて置かなければ落下しなかつた。

この結果からわかることは、被告人の自白のような方法では兇器は落下しないということであつて、被告人の自白は信用性がないこと明らかであろう。

ところが原審判決は、意図的に落とすようにした場合落下したのをもつて、落下した可能性は否定できないとしたのである。

確率からいつたら、とても考えられないことであり、かつ落下しても容易に発見可能な筈である。それが発見できなかつたことは兇器が何であつたか被告人が知らず、兇器を処分もしていない、犯人でないことを表わしているといわなければならない。

加えて、被告人の記憶では、かかる落下するほどの穴はあいていなかつたものである。控訴審における被告人の供述(第七回公判)でも、本件犯行とされる四日後の一月一九日被告人は「バラバラになつている小さいバラスを自動車に積んだのであります。」といつているように仮に穴があいていても、小さなバラスも落ちない程度であるから、馬鍬の子が落ちる筈がないのである。

4 馬鍬の子が被告人の口から出るまでについて

原判決等は、馬鍬の子は、被告人が話したから、これが兇器とわかつたとする。すでにのべたように兇器が馬鍬の子であるとは弁護人は特定できないと考えているが、しかしこのことが被告人の自白調書に表れた理由はのべておかなければならない。たしかに、現在出されている証拠によれば、馬鍬の子は兇器とは知らず、被告人が自白した後になつて、領置され、鑑定に付されたような手続となつている。

しかしこのことについて、被告人は捜査官は、被害者の家の回りのものから兇器になるようなものをあつめ、被告人に見せ「これだろう」などと誘導しているのである。ところが、被告人が自白すると同時にそれに合わせて手続を進めたようにしているのであつて、悪どいやり方である。このことは控訴審の公判における検察官の被告人質問にはしなくても表れている。

検察官「昭和四四年一月一九日軽四輪自動車にバラスを積んで運んだのですか」

被告人「はい、そのことは井原巡査も見ていました」

検察官「警察では、一月一七日から一月一九日まで馬鍬の子を探しているのだが」

被告人「それは警察のすることですから」

即ち、右一月一七日は誤りとしても、本件が発覚するとすぐ兇器は何かが考えられ、「大工用のみ」「馬鍬の子」が兇器の例としてあがつて、それらを捜していたことがわかるのである。そして最終的に馬鍬の子を兇器とするのだが、捜査官にとつて残念なことは、被害者宅の馬鍬には、その刃(馬鍬の子)が欠けているものが存在しなかつたことである。

そのため、結局被告人にその出所を「自白」させることができずキヨ子がどこからか持つてきたことにしてしまつたものである。

四、動機について

被告人は、自白を始めたとされるころには、利則を殺したのはキヨ子であり、キヨ子を殺したのは、キヨ子が生きていれば共犯とされるであろうからということであつた。

しかし捜査官、特に検事は共犯とするには、利則に対して手を下さないではキヨ子を殺害するとまでの決意させるには弱いと感じたのであろう。最終的には、利則をもタオルでその首をしめたとしたのである。そして、それがバレるのをおそれ、共犯としてつかまるのを恐れてキヨ子を殺害したのだと自白を変せんさせている。この自白の過程をみていると、捜査官が自ら矛盾して弱いと感じたところをどうやつて補強していくのか、一目瞭然としていると言つてよい。ではさかのぼつて、被告人は、利則の首をしめなければならないか、よく考えてみると被告人は共犯でないのであつて、仮にうたがわれるとしても、殺すよりはましである。キヨ子から依頼されたのかというとそれもはつきりしない。キヨ子も利則を殺してしまつたと言つて被告人に告げたということになつているのであるから、改めて利則の首をしめてくれとたのむことも考えられない。結局キヨ子殺害の動機をつくるために利則の「首をしめ」させたのである。

以上のようにみると結局被告人にその動機がないのだから、利則の首をしめず、そうであるからキヨ子を殺害する動機も存在しなかつたということである。

第三、被害者の殺害月日について

1 原審および一審判決も四四年一月一五日午後八時二〇分から同日一二時ころまでの間に殺されたと判断している。

2(1) 鶴田利夫の証言によれば、同人と妻の節子の二人が同年一月一六日の夜遅く(一一時をすぎていたかと思われる)吉原昭八宅からの帰途、被害者宅前の木戸口のところを通つたところ、木戸口を見たら電灯がついていたと妻の節子が警察に話をしていることが明らかに証言されている。電灯が一六日についていたとすれば、一月一八日に本件事件が発見されたときには電灯はついていなかつたこと、警察の大捜査の結果電気を消したという者が出てこないことから考えて、一月一六日夜に殺害されたものと考えることも決して不可能でない。

(2) 被害者両名の解剖結果によると、死後経過時間は、解剖着手時間(キヨ子一九日午後一時一五分、利則午後四時五分)前約一日以上三〜四日以内であることが判明している。このことはあまり巾がありすぎ、本来もつと限定する必要が公判の中でもあつたが、それもされないできているが、犯行日一六日の考え方に添うものである。

(3) 利則のはめていた時計の日時についても、異常な打撃によつて変り得る可能性がある。また異常な打撃でなく、衣類等にひつかかつて日付がかわる可能性も否定できない。また一五日付木原じゆん子宛の封書が残つていても、これもまた出すのが何らかの理由で遅れたと考えられ、別におかしくはない。

(4) 鹿屋農協支所運転手が一月一六日に家畜飼料の請求書を届けにいつたが戸締がされ、家人が留守のようだつたので、請求書を戸の隙間に鋏んで帰つたとあるが、これが一八日に本件事件が発見されたときにそのままあつたというが、殺されていたのであればその一六日に異常が感づくのではないか。

(5) 利則の解剖鑑定書によると、胃の中の残存物は、「米飯・椎茸・オロシ大根・菜葉・落花生等」で「消化の程度はかなり進んでいる」となつている。

ところで一五日利則が食べたことが明らかになつているのは、久留ウメの警面調書によると、利則が口にしたのは「焼酎と、焼魚(あじ一匹)とオロシ大根」あとから出した「味付たこ一五切れぐらい」である。そうすると「米飯」や「椎茸」「落花生」はいつ食べたのであろうか。原審認定によると、八時二〇分位に自宅についたことになり、被告人の自白のとおりとすれば、すぐキヨ子と被告人の肉体関係のことで、争いになつたことになる。

仮に被害者利則が家に帰つてきてから食べたとすれば、その食事のあとが残るべきであるが残つてない。また消化の程度は利則が「かなり進んでいる」のに対し、キヨ子のそれは「消化の程度は著るしくない」と、逆にキヨ子の方が後から食事をしたであろうことが伺い知れるのである。更には、「焼魚」とあとからだした「タコ」が残つてないのも不思議であつて、久留ウメ方で食べた大根オロシが残つているなら、後の方に出した味付タコはまだ消化がすすまず残つている筈である。

これらを考え合せると、一五日ではなく一六日も含めてこの間に殺害されたとの考え方が合理的であるといわなければならないし、再度捜査の必要もある。

第四、被告人の不利益とされる事実について

一、陰毛について

1 四方一郎鑑定は、「甲には特異な所見は認められないので」被告人の毛とは全く異る旨の鑑定をしていること、これは血液検査以前の問題としているものであつて、充分信用すべきである。

2 一審の判決が認めているように、キヨ子の陰部から発見、領置されたという「甲の毛」が、裁判所に残つている「甲の毛」と同一であるのか否か疑問の余地がある。即ち、領置手続が適正になされていないこと、四月一三日に被告人から採取された陰毛のうち一五本が証拠として提出され、その余の八本の陰毛の行先が不明であること、検察官から押第八六号ノ九として提出された毛は頭髪であることなど、これらを合せ考えると、四月一三日に提出された被告人の陰毛が甲の毛とすりかえられた疑が払しよくしきれないのである。

二、タイヤ痕について

被告人は一月一七日の夜に、被害者宅の木戸口のところまで行つたと一貫して述べているのである。そして逆に仮に被告人が一五日に行つたとすれば、一六日には雨が降つていたから、そして被害者の木戸口のあたりは雨水が溜まり、タイヤ痕も消えることになる筈である。

被告人の主張は、事実にのつとり迫力のあるもので、タイヤ痕は、被告人の不利益に作用するものではない。

三、被告人が、出稼に出かけたことも、毎年のことであり、妻の出産もあつたが、被告人は両親にも話し合意の上ででかけたものであり、また帰つてこないなど言つたおぼえもなく、何ら疑がわれる状況にない。

四、被告人が被害者の身内に捜査の目を向けさせようとしたというが、かかる考えはない。ただ捜査担当者も認めるように被害者は身内の関係がよくなかつたのでそのことを話の中で出たにすぎないであろう。

五、その他についても、詳細に近々補充する予定である。

第五、被告人のアリバイについて

被告人は一月一五日のアリバイについて、午後六時三〇分ころ籾を買うため軽貨物車を運転して脇かづ子方へ行き、ここでしばらくプロレスのテレビなどを見て午後八時一〇分頃ここを出て、その後竹伐り人夫のことで脇別府政義方へ行き、その庭に車をおいて山下ミカ方により、それから脇別府にもどり、右車を運転して吉原君子方を訪ね、同所を午後九時五〇分ころ辞して帰途につき、午後一〇時半頃自宅にもどつて就寝したものであると主張している。

しかし一審・原審とも右の被告人の行動は一月一七日の行動であるとして、真剣にとりあげていない。

しかし被告人は一月一七日は午後六時すぎから一〇時半ころまで徳満エミ子方において、同人らとテレビをみていたのであつて、脇別府政義、山下ミカ、吉原君子の家には行つていない。

このことは原審の徳満千幸の証言でもでている。即ち「プロレスがすんで、だいぶ居て後の番組も見て帰つたと思います」とのべ、プロレスは午後八時に始まつているのであつて、被告人の主張と一致するものである。また徳満エミ子証人も、午後六時ごろから午後一〇時すぎまで、まだ記憶に新しい四四年一〇月二一日の証言でのべている。更に被告人の兄船迫茂も一月一七日の夜「徳満タツオ・エミコ夫妻の家の門の入口で」被告人が入るのを見たとのべている。時間は「ちようど八時ごろ」とのべている。

また被告人の妻ヨシも同様に被告人の一七日の行動をうらづける証言がある。

このような点をみず、被害者らと近親関係のある者で、かつ刑警官が時間をかけてまわつた偽証の疑のある者の証言を信用するのは誤判のもとであつて許されない。

第六、別件逮捕による証拠集収の違法

すでに控訴趣意書でも、また被告人本人ものべていることであるのでこれを引用しここでは省略するが、追つて補充する予定である。

Ⅱ 審理不尽の違法があり、原判決は破棄されるべきである。

一、原審の審理には、被告人がすでに述べたように自らの無罪を主張し、そのための立証を裁判所に請求しているにかかわらず、そのほとんどを必要なしとして却下してしまつている。これでは「事案の真相を明らかに」することはできない。是非原判決を破棄し、十分なる審理を尽くさせる必要がある。特に本件のような重大でかつ無罪を争うような事件では、一審の時に思いだすことができなかつたことや、わからなかつたことが二審の段階になつて判明することも決して少なくない。このように考えるとき、被告人の主張とその提出しようとする証拠はよく耳をかたむけ最大限調べることが大切である。それでなくとも、公訴権力と圧倒的に力の差のある被告人の場合には、公平をとれない結果となる。原審において証拠調べを却下した中で、是非調べなければならなかつた証拠についてその一部例示するだけでも次のようなものがある。

(一) 大迫忠雄の証人申請

この証人は、被害者の陰部から陰毛三本を採取したとして、鑑定に付している。しかしこの三本が本当に採取されたのか、それがどのように保管され又送付されたのか頭髪はどうして入つているのか、鑑定されたのがどの毛なのか、後から提出されたものではないのかなど不明な点、疑いの点が一審以来問題とされていることはすでに述べたところであつて、これを再度確認しないかぎり陰毛を被告人のものとすることはできない。

(二) 鶴田節子の証人申請

鶴田利夫が一審で証人として、本件事件のあつた四四年一月一六日夜妻の鶴田節子と一緒に車にのつて、被害者折尾利則宅の前(木戸口のところ)を通つたところ、まだ電灯がついておつた、その電気がついておつた事実を右節子が警察官や被告人などにも話している。

本件は一五日に殺害されたとされているが、一六日の夜電灯(外灯と思われる)がついていたとすれば、一六日に殺害された可能性も大きい。かかる重大なことを調べず、必要ないとする決定は明らかに違法であつて、判決の結論にもかかるところである。

仮に一六日が殺害月日であるとすれば、被告人の検面、警面調書記載の内容はすべて価値を失うと言つて過言でない。

(三) 証拠開示ないし取寄請求の却下、特に被告人が取調べ中、精神異常(ノイローゼと思われる)になり警察署で受けた精神鑑定書及び付属書類。

これは、被告人は四月一三日から毎日朝食後すぐから深夜に至るまで、五〜六名の捜査官により連日調べられたため、ノイローゼ気味となり一時自殺を考えたり、また自らの供述の内容意味が理解できない状態におちいつていたことが考えられるのであつてかかる場合、右精神鑑定を行つたこと自体が意味を持つものである。

(四) その他原審記録を見ればわかるように、被告、弁護人が必要と考え、その必要性も十分説明しているのに、これを充分考慮せず、形式的判断で却下していることは納得できないものである。

二、右一の外本件においては、多くの解明されなければならない事項が少くない。それを原審までに調べられずに、被告人を有罪とされていることは許されない。調べられなければならない事項は次のことである。

(一) 被害者利則の胃の残留物、これはどこで食べたものか、キヨ子との差からみて食事の前後の時間帯、現在まででは、この残留物がどうして採られ食べたものであるかわからない。被告人の自白と矛盾する結果となつている。

(二) 現場から採取された指紋の有無と被告人との結びつき、特に被告人が茶をのんだという自白をしているところからすると、①茶わんは当然に被告人の指紋、唾液がついていると思われるがその捜査資料が全く出ていない。②また包丁を被告人が持つたことになつている。そうであれば包丁に指紋は当然ついている筈であつて、だれの指紋がついていたのかついていなかつたのか明らかにされねばならない。この捜査資料の調査と証拠調べはどうしても必要である。

(三) 包丁についている血液についても当然である。

検察官ならびに原審では、この包丁によつて被告人は傷つけられたという。そうであれば、その包丁を洗つたりしていないことは被告人の自白どうりであれば明白である(また現場の状況からもそのような時間的余裕は考えられない)から、その捜査・検査の結果を慎重に証拠調べしなければならない。その包丁には他の者の指紋はついていたのではないかとの疑いもある。

(四) 兇器は馬鍬の子であるという。この馬鍬の子がどこから持つてきたものであるのか、偶然座敷の中にあつたとは、とうてい考えられない、この点も明らかにされるべしである。そればかりでなく、捜査官は当然、兇器の捜査と特定に全力をあげることは捜査の初歩に属することである。その捜査経過、報告書が一月からないというのは考えられないことでその捜査報告等を明らかにしなければならない。

(五) 被告人が返血を全くあびない、ということを原審はあまりに安易に認めてしまつている。かかることは現場にそくして考えるべきであつて、被告人の自白どおりうごかせ、その結果血がつかないことがありうるのか。是非とも調べなければならないことである。

(六) 被告人のアリバイについては、明確な矛盾する証言がある。この点について、再度確認する必要があることは当然であろう。

以上、大まかに上告趣意をのべたが、疑しきは罰せずの原則を使うまでもなく、本件を有罪にすることが出来ないことは明白と思料する。更に原審における控訴趣意書、被告人の上告趣意書もあるのでこれを引用しつつ、更に弁護人としても現在調査申の事項も併せて補充書を出す予定であるので、慎重な審理を要望するものである。

弁護人金井清吉、同加藤文也の上告趣意

第一、自自の任意性の欠如

一、被告人の自白は、すべて捜査官側の知つていた事実を被告人に認めさせたにすぎない。即ち自白によつて新たにわかつた事実はないと言つてよい。

1 検察官は自白により新たにわかつたことは本件犯行の兇器が馬鍬の子であることだと主張する。しかしすでに上告趣意書(一)で述べたように兇器が「馬鍬の子」であるのか否か客観的に証拠づけるものは何もない。本件被害者らの傷は、右の馬鍬の子で成傷可能というだけのことである。そもそも馬鍬の子をどこからもつてきたものかさえ確定してない。否それどころか存在そのものが疑われるべきものなのである。けだし被害者宅には馬鍬で刃(いわゆるマングワの子)がとれたものは全くなく、利則宅の土間の棚にもないのである。仮に馬鍬の子が棚等においてあつたとすれば一本のみということは考えられない。それは古くなり廃棄すべき馬鍬の刃をとつて保存したのだとすれば少なくとも数本を保存する筈であるし、古いマングワの子を、現在ある馬鍬に使用したのであれば一本のみ残る筈もなく、かつ何本か古い馬鍬の子をよせ集めて現在ある馬鍬がつくられたのだとすれば、その「子」は不ぞろいとなるものであるが、そのような形態でもない。

結局馬鍬の子一本のみが被害者折尾宅にあつたということは可能性のうすいことである。原判決等はこの点全く安易に兇器の存在を認定してしまつている誤りをおかしている。

2 捜査官は本件の兇器として被告人の自白前から馬鍬の子に目をつけていたことも次のことからわかる。

(1) すでに提出の趣意書(一)に述べたとおり、原審の検察官が、自ら質問の中で四四年「一月」にすでに「警察で馬鍬の子を探している」といつているところからわかるとおり、本件捜査間もなくから兇器の候補として警察が捜していたものである。

(2) 被告人が馬鍬の子を供述したのは七月二日付の員面調書である。そしてそれにもとづき、七月三日に折尾長吉から任意提出及び領置していることになつている。

ところが捜査に当つた大霜検事はその証言で、被告人が自白する前に馬鍬の子を被告人に見せ自白を誘導していることを暗に認めている。

即ち一審での大霜検事の証言は、

(問) (被告人) 最初、鹿屋署で、鹿屋の検察庁で調べた日にちを覚えていますか。

日にちは覚えていません、調べたことは間違いないです。

七月だつたか、六月だつたかぐらいはわかるんじやないですか。

これは七月です。

六月の二六日から八日ごろじやないですか。

……本件殺人事件の勾留がいつになつているかわかれば、その二、三日前だつたと思いますが。

裁判官(坂主) 七月四日になつています。

とにかく逮捕状を出す三日ぐらい前だと思います。

(被告人) 六月二六日か八日ごろじやないですか違うんですか。

日にちまでは覚えていませんが、逮捕状を出す前に、どういう状況なのかということで一度君を調べたことがあります。

その当日に下園菊雄がまんがの子を新聞紙に包んで古いさびの入つたのを持つてきたのはどういうわけで「船迫、お前はこれで殺したんじやないか」ということを示したのか覚えないのかそれは

いつですか

一番最初、鹿屋で調べたときのことを言つているわけです。

……そういう事実はあつたかもわかりませんね。これはまず殺人事件で船迫を逮捕すると令状を切り替えるということになつたんですが、私が全然あたらぬままに逮捕をしてもまた勾留さしてもこれはどうにもなりませんものですから、身柄拘束中であるということですので、事前にあたつた際にまんがのこを示したかもわかりません、それはやつたと思います。

まんがのこは一体どこから持つてきたんですか。

……(省略)どこから持つてきたかは(もつてきた警察でないと、私は)わかりません。

しかし別件中に、別な兇器を持つてきて誘導尋問するということは検事としてどうなのか。

というような問答となつている。

ところで逮捕状がとられたのは  月日、執行は七月四日である。

そうすると少なくともその三日ほど前の七月一日、実際には被告人が右にのべているように六月二八日ぐらい、即ち七日になる前に被告人にマングワの子を示して「船迫お前これで殺したんじやないか」ということをやつていたのである。これがきつかけで七月二日付でマンガの子の供述調書がつくられている。あまりに誘導の軌跡が明らかではないか。これでは被告人の供述でわかつたなどとはなりたたないこと明白である。

(3) 被告人の父船迫弥平次宅から、マングワの子を警察は一本持つていつている。(弥平次の四八・九・二七の証言)

これは警察は領置も何もしていないようである。被告人の自白の前にもつていつているため捜査官が明らかにできないものである。

以上のように、捜査側はすでに兇器を馬鍬の子に焦点をあて、物を手もとにおき誘導しながら被告人に自白を迫つたのであつて、自白によつてわかつたものでないことは明白である。

第二、自白の信用性について

被告人の自白は、その内容においても多くの矛盾を持ち、とうてい被告人が犯人とは考えられないことをすでに前回提出趣意書(一)で特に自白と客観的状況の矛盾について、若干の補充をしておきたい。

一、自白と客観的状況の矛盾

1 被告人は、七月一〇日付員面調書で、一月一五日利則方に行つてキヨ子だけのいるところで、「いろりの大黒柱のところに上つたのであります」「きよ子の向い側になつたのであります」そして梅干をお茶うけにして茶を飲んだと言う。

しかし実況見分調書の写真第一四、第四〇等を見て欲しい。客が来て茶を飲んだ様子は全く存しない。第一客が来ているのに客の目の前にドンブリを出したままにし、食べかけの鍋がこれまた客の前においたままにするであろうか。客がくれば田舎だろうと(田舎こそこのような行儀作法など伝統的でうるさく守るものである)かたづけるものである。それがそのまま放置されているのは客がいなかつたことを表わしている。

第二に、被告人が茶を飲んだというが被告人の手のとどくところに茶碗も見当らない。どの茶碗で茶を飲んだのだろうか。それよりも茶を入れた形跡すら写真に出ていないし、実況見分調書など、また捜査官の証言にも表れていない。

第三に茶うけに食べた梅干について、前回述べたとおり、利則方に梅干があつたのかが第一の疑問であるが、仮に被告人が本当に梅干を食べたのであれば、食べたあとの「種」がある筈である。普通は食べ終つた場合、種は灰皿が近くにあればそこにすてるし、田舎で土間のあるところでは土間になげすてる。本件では捜査官が犯人手がかりを求めてタバコのすいがらや、その他のものを真剣に捜しており、被告人がその場に放置したのであれば発見されない筈はない。現に本件捜査でもタバコの吸い殻は全部集められ鑑識に回しているところである。発見されていないことは被告人はお茶などは飲んでいないし、梅干など食べていないことの端的な表われである。

2 出入口の施錠について

折尾辰二は一月一七日朝利則方に行つた時、タバコの火が欲しかつたので、炊事場の出入口のつつかい棒をはずして入つている。しかもその時玄関の出入口も全部しまつておつた、つつかい棒がされてあつたと証言する。そうであれば、被告人は出るときどこから出たのか、南側等の雨戸のところからとしか考えられないであろう。右辰二も、利則らは雨戸からでたのだと思うと答えている(四八・一〇・一八の証言)

そうであれば、特別な出方をしたのであるから被告人の供述には、その旨表われてしかるべきであろう。しかし、そのような自白にはなつていないのである。

また一月一六日農協の職員が飼料を運んできたといわれる。その時出人口はどうなつていたのか、その時開いていて、翌一七日に閉められていたとすれば、被告人は一六日は生存していたか、又は本件犯行後誰れかが侵入して施錠した結果であろう。施錠され入れなかつたというのが真実なら、右辰二の証言と一致する。いずれにしろ被告人が一五日に犯行したという供述とは矛盾する。

3 犯人は北側物置に入り、鏡台の引出を開けている。

捜査官(下園)も証言しているように、犯行後自分の姿を鏡に写して見ている、少なくともいろりの間の北側物置入口(足跡様血痕あり)から戸を開けて物置に入り、鏡台の引出に手をかけたことはそこに新しい血痕付着(二〇六二丁)があることからも明らかである。そして物色したりして物置から出て戸を閉めている。以上のことは被告人の供述には全く表われていない。被告人の供述からする犯行態様およびその後の状況からは右のような行動は考えられないところである。

4 キヨ子の下半身の露出はいつ行なわれたのか。写真で明らかなとおり、キヨ子はパンツを脱ぎ、かつ寝まきも前部はへその部分まで、後背は臀部の上まで寝まきがまくられている。これは殺したあとにまくり上げたとしか考えられない。

被告人が供述しているように、キヨ子が利則を殺したその後に殺されたのであれば、このようなねまきがまくり上げられた姿で殺される筈がない。また被告人がキヨ子を殺害する時も突然被告人がキヨ子を殴打したとするのであるから、かかる下半身裸体で寝まきまでまくりあげる状態は考えられない。

結局、被告人の供述の犯行態様から考えるとすれば殺された後にまくり上げたという外はないのである。そうすると被告人の供述に当然表われてしかるべきであろう。しかしそのことも被告人の供述には全く表われていない。これは被告人がかかる行為をしていないからである。

また血の飛び散つた中で(はたしてそうであつたかは不明、利則とキヨ子がどちらが先に殺されたかによつてもことなる)かかる行為をすることは全くの異常であつて、このような行為をするには利則、キヨ子らに極端な愛憎関係があつたと見るべきであり、その場だけの被告人のかかわりでは考えられないことという外はない。

5 脱ぎすてられた被害者利則の衣服。なぜ利則は上着を脱いだのか、これも被告人の供述と合わないことは前回に述べたとおりである。

6 被害者キヨ子の傷は、被告人の供述と一致しない。

被告人の供述によると「もつていたモガの子でキヨ子の頭部を二、三回殴りました」(七月一六日付員面)そうするとキヨ子が倒れたので少したつてから首をしめた、ことになつている。キヨ子の左眉あたりに傷を負わせた状況はでていない。しかしキヨ子の左まゆのところに相当深い傷がある。この傷は被告人の犯行からは生じない筈である。城鑑定書(一月一九日執刀)によれば「左眉毛外端より斜後上方に走る創傷を認める。半月形を呈し長さ三cm。明らかに上方から打ち込まれたような弁状創を呈する」とある。これだけの傷を利則との争いの時に受傷したとは考えられない。けだし目に直接影響のある傷であり、かつ出血がひどく、とてもそのまま包丁をかたづけたり、被告人とまともに話をできるような状態ではなかつたからである。

そうすると、まず犯人はキヨ子を殺害する目的で左眉のところに第一撃を加えたと考えるのが妥当である。

解剖に立合つた捜査官も当時右同様の見解であつたと思われる。

即ち「キヨ子さんはまず左まゆのあたりを兇器でねらわれ、それを防ごうとして、左手で受けて傷を受け、倒れたところをうしろから兇器で打たれて頭に三ケ所の傷を受けている」(一月二〇日付鹿児島新報)と報道されている。このとおりかどうかは別として少なくとも第一撃が左眉上の傷であるとみることが合理的である。これはキヨ子の左手甲などの傷などとも一致し、誰でも右のように考える筈である。いずれにしろ被告人の供述とは合致しない。

第三、被害者の殺害日時について

原審も一審も本件の犯行時間を安易に被告人の員面、検面調書どおり昭和四四年一月一五日午後九時過頃の犯行として認定している。

しかし、客観的にみて、また各証拠などからみて右犯行日時が正しいのかが最大の争点の一つである。

一、月日は一月一六日と考えられる

1 当初捜査官も一月一六日説をとつていた。それも右一六日犯行日説は相当長期にわたつてとられていた。

(1) 新聞記事に表われた捜査官の予測日時

(イ) 一月一九日付南日本新聞「折尾さんは一六日午後、近くの父親、長吉さん宅を訪れ、酒を飲んで話しこみ、牛小屋の建築に使う材木をくれるようにたのんで、午後八時ごろ自宅に帰つており、捜査本部は、十六日夜から十七日朝にかけての犯行とみている」

(ロ) 右同日付鹿児島新報「利則さんは十六日夜、父親長吉さん宅を訪れ、近く始める馬小屋の改築のことを相談して帰つた……このため同捜査本部は兇行は十六日夜から十八日朝の間に行なわれたとみている」

(ハ) 一月二〇日付南日本新聞「同本部のこれまでの調べでは、利則さんは十六日昼すぎ父親の長吉さん方を訪れ、長吉さんが不在だつたため母親のシズさんと雑談、三〇分ぐらいして帰つたのが最後。このため同本部は十六日昼すぎから十八日午後までの犯行とみている。解剖は午後一時から県立鹿屋病院で城鹿大教授の執刀で行なわれ……た。二人の胃の中にはたべてから三、四時間くらいと推定される食べ物が残つていたが死亡推定時間ははつきりしない」

(ニ) 一月二一日付南日本新聞「同本部のこれまでの調べだと折尾さん夫婦の死亡推定時刻は二人の食べ物の内容、消化の具合など死体解剖の結果から十六日夜とみている」

(ホ) 一月二三日南日本新聞「犯行は利則さんが父親の長吉さん宅から帰つた十六日夜と推定される」

(ヘ) 一月二五日付鹿児島新報は「あれから一週間」と題して記事を載せているがその中で「死亡推定時間は二人の胃の中に食後三〜四時間程度とみられる食べ物が残つていたことから、一六日夜の犯行との見方がつよい……」

以上は本件事件について報道された捜査本部の犯行日時の見方であり、客観的であつた。それは解剖所見、食後経過時間からの見とおしとも一致するからである。

(2) 記録上表われた捜査官の予測日時

(イ) 一月一八日付捜査報告書(二八三二丁以下)「犯行日時については一月十六日被害者折尾利則が実父折尾長吉方を訪れ……一月十六日午後八時ごろから同十八日午前八時ごろまでの間と認められる」

(ロ) 捜査官らの被害者方を訪れた者があるかどうか等の捜査報告書(四四・一・二八日〜三・五、三〇二二丁〜三〇五八丁)や被告人が立回り先の捜査報告(四四・七・六〜七・一〇、三〇六五丁〜三二二五丁)はいずれも「一月十五日、十六日の夜立回つた事実」の捜査報告書となり十六日が必ず付加され、十五日に断定していない。

(3) 「十六日午後」折尾利則が折尾長吉さん宅を訪ねた事実とシズの調書の改ざん

(イ) 折尾辰二(利則の兄)の四四・一・二〇日付員面調書(二八五一丁)には「弟利則三八歳農業一月十六日死亡」とある。

(ロ) 前述1〜2に述べたとおり、折尾利則の義母シズは捜査官に一六日昼利則が長吉宅に来て三〇分位話をして帰つているからである。本件事件が発覚されたのが一八日であるから、二日前に訪ねてきたか否か間違う筈はない。それも捜査官は真剣に何回も確認しなければならない事項でもあり、決して間違うことのない事項である。

ところがその鍵をにぎる折尾シズの四四・一・一八日付員面調書(二八八一丁)は「利則が最近、私のところへ来たのは一昨日ですから一月一六日になる訳です」とあるのを「一昨々日」ですからと一字加入した上訂正印をおし「一月一五日」と六を抹消して五と訂正して印をおしている。この調書は明らかに後日改ざんされたものであることがわかる。そうでなければ前述1に述べたように長期間一六日にこだわる必要がないし、新聞に一六日昼すぎ長吉宅を訪れ母親シズさんと雑談して三〇分ぐらいして帰つたなどと載る筈もないからである。けだし新聞は捜査本部の発表によつて記事を作つているからである。捜査官は被告人に一六日のアリバイがあるため後日一五日犯行説に改め、関係調書時に重要な折尾シズの一月一八日発見当日の調書を改ざんしたものとみる外はない。

2 その他一六日夜、利則宅の本戸口の外灯を見たとするもの(鶴田利夫)の件については前の趣意書で述べたとおりであるし、飼料を運びこんだ者が鍵がかかつてなかつたとすると、発見時出入口に鍵がかかつていた状況からして一六日犯行と考えないと不合理が生ずる。

3 死体の状況は犯行日を一六日であると教えている

(1) 利則の死体の状況は発見時に腐敗水泡はまだ表われていないし、まだ死体硬直も顎関節、手足関節にも残つている。キヨ子にしても利則と同様でありかつキヨ子は瞳孔もかろうじて透見できる程度であるところから考えると解剖日時から三日前とするのが正しいと考えられるのである。

4 犯行日一月一五日説の矛盾

上告趣意書(一)で述べたとおり、一月一五日に利則が久留ウメ方で焼魚(アジ)一匹、味付タコ一五切れ位食したことは明らかである。ところが食べた筈の右の品物が見つからない。矢野証人は、当初の証言で、アジや味付タコは死後消化した如くの証言をしているが、もし死亡直前に食したものが完全に死後消化するほどであれば、「胃」そのものも相当「消化」され潰瘍、び爛などが起きて然るべきである。しかしそのような解剖所見は全く発見されていない。そればかりか矢野証人は第二回目の証言では

(問) 心臓の鼓動が停止すると胃の消化は進行するのか

(答) いくらかは進行しますがほんの僅かにすぎません

と矢野証人の自らの考えを素直に述べているところからでも、死後消化で全部消化しつくされてしまつたなどは本件では考えられないところである。

そして逆に、一月一五日に食べたことがわからないピーナッツが多量に発見されている。外で食したのであれば大規模な聞こみ捜査を行つたのであるから当然わかる筈である。それがわからなかつたということは、結局自宅で食したのであろうか。しかしキヨ子の胃の中には全く発見されていないことからして外で、つまみにでも食べたのではないかと思わざるを得ない。いずれにしろ被告人の犯行日時からしては、不合理であり、一五日以外の日に食したのではないかと考えざるを得ないものである。

逆に「大根おろし」が発見されているではないか、これは久留ウメのところで食したものだという反論も考えられる。しかしすでにのべたように一緒に食べたものが全く見当らないのに、大根おろしのみ見つかるということは、久留ウメ方で食したものでないと見た方が合理的である。

二、犯行日を一月一五日としても、その犯行時間は午後一一時一〇分以降である。

1 利則の一五日の午後八時ころまでの食事は久留ウメの員面調書等で明らかにされている。

一五日午後七時プロレスが始まり、これを見ている利則に午後七時二〇分頃①コップ八分目位の焼酎にお湯を入れてだし、②大根おろし③あじの焼魚④七時三〇分頃味付たこ一五切れをだし、これらを七時五〇分頃までに食べた。

久留ウメ方を午後八時一五分か二〇分頃出発して家に帰つた(この間他の家に立寄つたことは詳しい聞きこみにも表われてこない)のであつて、まつすぐ家に帰つたとみるべきである。久留ウメ方から利則方までは単車で五分であるから遅くとも午後八時三〇分には自宅に利則は帰り着いている。犯行はその直後となる筈である。

以上を前提として考えてみたい。

(1) 利則のアルコールの量は午後一一時一〇分以降を表わしている。

城解剖結果からすると、心臓にアルコール0.0018‰(ミリパーセント)、膀胱尿には0.072‰とある。これは明らかに飲酒後排泄期になつていることを示している(矢田昭一外六名「基礎法医学」一三〇頁)。

ところで久留ウメ方で利則が飲んだ焼酎は、通常のものであるからアルコール分二五%である。のんだ量は必ずしも明確ではないが、一合入りコップに八分目(員面調書)を飲んだとするとそのアルコール量は三六ccとなる。

180cc×0.8×0.25=36cc

七勺入りコップ(検面調書)に七分目の焼酎であつたとすれば22.05ccとなる。

(180×0.7)cc×0.7×0.25=22.05cc

グラムに換算するとアルコール比重は約0.8であるから後者の少ない方をとつてみても17.64グラムとなる。

22.05cc×0.8=17.64g

利則の体重約五〇kgとして計算する。算式は次のとおりである。

(錫谷徹「法医学診断学」より)

C:血中一mlのアルコールの重量(mg)、即ちこの数値は(0.1‰)でアルコール濃度を表わす場合の数値に等しい。

A:飲酒されたアルコールの重量(g)

α:配分率(男平均0.7、女平均0.6)

β:減少率(平均毎時0.15mg)

t:摂取後の時間(アワー)

右の算式から心臓血の0.0018‰になる飲酒後の経過時間は計算すると3.348時間(三時二〇分)となる。

久留ウメ方で七時五〇分までに飲酒を終つているとすると午後一一時一〇分頃になる。右の計算するに際しての前提条件は厳しくしすぎている感があるので、実際にはもつと後刻になると考えられる。

2 胃の内容物の検査の結果、食後経過時間は三〜四時間である(矢野証言二三九丁)このことは南日本新聞一月二〇日付は「二人の胃の中にはたべてから三、四時間くらいと推定される食べ物が残つていた」と報道したのと合致する。久留方で午後七時二〇分頃から同五〇分頃までに食したとすれば三時間で一〇時二〇分から一一時五〇分ころまでの間に該当する。利則が家に帰つてから食事をしたのであれば午後一一時三〇分すぎ以降ということになる。

3 利則が左手にはめて一部破損している腕時計について矢野勇男鑑定人の四四年二月一四日付鑑定書によれば「カレンダーの日付の回転から見て一五日の午後一一時四五分頃停止したものと推定する」とみている。

以上総合すると、被害者らが一月一五日殺害されたとしても、それは午後一一時すぎとならざるを得ないものであろう。

第四、被告人のアリバイについて

一、犯行日一五日とした場合

A 被告人の行動の内争われていない時間帯は何時から何時までか。

1 一審判決は、一月一五日を犯行日とし、被告人は「一月一五日午後八時過ぎ頃……脇かづ子方で籾一俵を買いこれを軽四輪貨物自動車に積み、同車を運転して自宅に帰る途中」の犯行と見ており、他方利則殺害の時間帯は「一五日午後八時頃から同日午後一二時頃までの間に殺されたもの」とし、キヨ子については「一月一五日午後六時頃から翌一六日午前二時頃までの間に殺害されたもの」と大変巾が広い。原審の判決についても同様であるといつてよい。

2 被告人が脇かづ子方を出発した時間は何時か。――「午後八時頃」である。

(イ) 被告人の主張によると脇かづ子方を八時一〇分頃出るとある。

(ロ) 脇かづ子の証言・供述調書によると「八時頃」(五九六丁)と一貫している。

右の点から合せ考えると午後八時か、少し八時をまわつたころに脇かづ子方を出たということに争はないことになる。

3 被告人が自宅に帰つてきたのは何時か。

(1)(イ) 被告人は午後一〇時一〇分頃自宅に帰つたと主張している(二七回公判)

(ロ) 被告人の妻船迫ヨシの供述調書によると、「帰つたのは午後一〇時頃」(三四二一丁)

「午後一〇時三〇分頃家に帰りつきました」(三八四九丁)となつており、証言によつても

「(問) 一〇時半頃帰つたという事だが、それはどうして判るのか」「(答)、主人がいろりの横座に座り腕時計をはずしましたので、その時、時計をみましたら一〇時半頃でした」と一貫しており、被告人が一〇時すぎ一〇時半までに帰宅していることは疑いない。

(2) 吉田正 証言

(問)、証人等が家に帰る途中自動車が追越していかなかつたか。(答)、家に帰り着いたのが午後一〇時頃でしたが、その前車が私等を追越していつたことはあります」(四七七丁)「家には晩の一〇時頃帰り着きました。大根を一輪車に一杯積んで押して帰つたから、うちに着いたのは一〇時頃だつたと思います。(問)、そうするといわゆる郡境の車に会つた所から証人のうちまではどのくらいの距離があるのか。(答)、歩いて三〇分ぐらいです、大根を押しているからちよつと時間をとつたです。(問)、そうすると郡境で自動車に会つたというのは九時すぎか、九時半頃になるんだね。(答)、はい、(六一三丁)。

(問)、そのころサイレンを聞かなかつたか。(答)、家につく前にサイレンが鳴つたように思います(八〇四丁)。

(3) 小薄アサギクの証言(吉田正と大根をもらいに一緒に行つた)によると次のとおりである。

一五日に上中ツネの家に吉田正と大根をもらいに行つて、プロレス(七時から八時のもの)を見てから大根を背負つて帰つた。家に帰りついたのは九時から九時半頃の間であつた。午後九時になる百引のサイレンを自分の家の上できいたのでわかる。そして野方と高隈の境の近く、郡境のあたりでトラックらしい車に二回あつた、と証言されている。

右の証言では一時間近くの差があるが、両者に共通していることは上中ツネ宅でテレビのプロレスを見てから話を若干して大根をもらつて帰つてきたということである。そして一五日のテレビの番組を調査するとプロレスは午後七時から八時のことであり、結局、小薄アサギクの証言が時間的には正しいことになる。

(4) 長崎留雄

(イ) (供述調書)郡境のところで小型トラックとすれちがつたことは間違いない。その時間は午後一〇時前後と思いますが判然としません、家に帰りついたとき午後一〇時のサイレンの音をきいたので、車に会つたのは午後九時五〇分頃と思う。

(ロ) 証言によると九時三五分から一〇時少し前に郡境あたりで軽四輪に会つた。

4 まとめ

以上をまとめてみると必ずしも証言などで時間が一致するものではないが、少なくとも一五日午後一〇時少しすぎから一〇時半前には、被告人は家に帰つており、再度家から出かけた事実はない。

右のことは被告人が犯人か否かという点で大変大事なことである。一審判決のように、安易に一六日の午前二時までの間として、被告人の供述に合せて犯行時間は午後九時頃として矛盾を糊塗させないためにも大事である。

即ち、被告人は、被害者の家から自宅までの距離と時間、更に犯行時間合せて考えると、少なくとも一五日午前一〇時以降は犯行を行うことは、被告人にとつて不可能と言わなければならない。

5 ところで前述したように、一五日犯行としても、その時間帯が午後一〇時を経過した時間帯としなければ、客観的事実と合わないとすれば、被告人には、その時間帯にはアリバイがあり、本件犯行は被告人が行つたものではないことに帰着するのである。

B 争われている時間帯(午後八時すぎから午後一〇時まで)の被告人のアリバイ

1 被告人の主張は次のとおりである。

脇 かづ子方 午後六時四〇分頃〜八時一〇分頃

脇別府政義方 車を庭におく

山下吉次郎方 午後八時一五分頃〜九時二〇分頃

脇別府政義方 午後九時二〇分頃〜九時三〇分頃

吉原君子方 午後九時三五分頃〜九時五〇分頃

帰途、途中吉田正、小薄アサギク、小倉繁雄とすれちがい、小倉肇を車に乗せて途中でおろすなどして自宅には一〇時一〇分頃着いた。

2 しかし、右の内争いになつている時間帯にかかる証人は、いずれも被告人の主張は一月一五日のことでなく一月一七日のことであると証言している。

3 しかし右の証人達の証言は容易に信用できないものである。即ち、

(1) 被害者折尾利則、キヨ子と親戚関係のあるものがほとんどであること。

(イ) 脇別府政義の妻ツキの妹が山下ミカ(山下吉次郎の妻)であり、右山下夫妻の娘キミ子が折尾長吉の次男(折尾利則の兄)茂の嫁となつている。

(ロ) 吉田正は脇別府政義とは兄弟である。

(ハ) 小倉肇の妻の妹が折尾長吉の後妻の折尾シズである。

(2) 山下ミカは一月一九日から捜査本部である公民館に炊事などで働いていたものであり、捜査官と密接な関係がある者であること。

(3) 脇別府政義や山下吉次郎の一月一七日というのは、本来あいまいであるのに山下ミカから話をきかされて、一月一七日と思わされていて、そのとおりに証言したこと。

それも、家が近所であるし、また証言するその場でも、お互いに話しをし、そして一月一七日となつているのである。

これら一連の証言では山下ミカの「働きかけ」が大変大きいと言わなければならない。

4 被告人の主張を裏づける事実もある。

(1) 船迫ヨシの証言(五〇・一二・一八)

(問) (裁判官)、一五日のことについてはこういうことを言つていたという何か記憶はありませんか。

一五日の晩にもみを脇さんのうちに買いに行つたとき前に脇さんに人夫を捜してくれと頼んでおつたからあそこのうちに行つてみないかと言われたから行つた。

あそこというのは

山下ミカさん 吉原君子さん

そんなことを警察官に言つておつたですか

はい。

(2) 前回にのべたとおり、被告人の主張は一月一七日の行動であるというが、一月一七日夕方から夜は被告人は別な行動をとつている。被告人は詳細に供述しているが、それを裏づける証言もあり真実である。

(イ) 徳満エミ子の証言(四四・一〇・二一)

一月一七日の行動について

(問) 今年になつて被告人が最初に来たのはいつ頃か覚えていますか

一七日の晩です

一七日の晩ということは何でわかりますか

プロレスが被告人が来たと同時に始まつたので覚えております

被告人は何か用事があつたのですか

(略)プロレスを見つしやん(見せて下さいの意)と言われたので、どうぞといつてプロレスを一緒に見たのです。

その後テレビ番組は何か見ましたか

はい「東京ぼん太」というのを見て、それからガードマンというのをぶつ通し見て済むまでおりました。

それでは被告人は八時頃来て一〇時半頃までいたわけですか

そうです

被告人はテレビを見ながら、いつもの語り好きなようによく話をしましたか

はい「やつたやつた」といつて子供達と一緒になつてテレビを見たのです

右の証人の供述は実に明解である。南日本放送、MBT宮崎放送の番組によればプロレスは午後八時から九時まで、九時からドサイケ紳士録、九時三〇分から「ザガードマン」で一〇時半近くまであり、一〇時半からは別な番組がくまれているのである。

そして一月一七日に被告人が右徳満エミ子方に行くのを被告人の兄茂は見ていることを証言しているのである。

(ロ) 川原田勇夫の証言(四九・一二・二〇)、船迫は一七日徳満エミ子宅からの帰り川原田勇夫と会つたことについて、川原田勇夫は四四年一月一七日か一八日被告人と一緒に仕事をしたことがある。仕事は野方のカチキボリで竹切りの仕事をした。それは「私(川原田)が垂水の立山トラオとかいう人からそこの竹切りを頼まれて、私がまた船迫さんに頼んで、二人とも人夫で行つたわけです」

被告人に頼んだのは「夜で」「川原田部落の川原田カツミさんのところに行つたけれども、もう灯が消えていたから、そこには行かずにまた戻つて来た」時に被告人の家の「木戸」のところで被告人と会つた。被告人は川原田に竹切り人夫の相談をうけたが、被告人は少し返事をしぶつたその理由は「こうして人を加勢をもらつているから、明日ねえ、と言つた記憶はあります」。

(問) (被告人)そう言つてしぶつてから、しようがないから瓦をのせてもらつたり、何やかやあんたからしてもらつているから、私も人夫を頼んでいるそつちの方に妻をやつて、私があんたのほうに来るようにしようとこう言つた記憶はどうですか

……それは憶えておりません。

(問) (裁判官)清さんもしぶしぶながら行くことになつた、それから何日ぐらいして竹切りに行つたのですか

……もう、すぐだつたと思いますが、……その明くる日でなければ、その明くる日、何日も間はなかつたと思います。すぐだつたということは覚えておりません

(問) (仕事を一緒にしながら)折尾さんが殺されたという話は出なかつたですか

そういう話はでなかつたです。その時には私達はそういう話はわかつていなかつたと思いますがね。

(ハ) 川原田アキミ証言(五一・一・一三)

立山トラオから被告人を竹切りに頼んで欲しいとたのまれたので、四四・一・一七日夜九時過ぎ証人が被告人宅に行つた。夫の川原田勇夫が、一〇時すぎ川原田からの帰り被告人宅の上の道にて被告人と会い、あす一八日立山からの竹切りにきてくれないかと依頼した。被告人も自分の竹を切るつもりだといつたが、一日のことで勇夫兄のいうことだからと、やつと被告人が都合をつけてくれることになつた。

そして一八日は約束どおり朝八時ごろから五時まで働いてもらつたことに間違いない。

以上のようにみてくると、被告人の主張は充分理由があり、被告人の一五日の行動の主張が、一七日ときめつけることは間違いである。

二、犯行日一月一六日とした場合

1 被告人の一月一六日のアリバイ。

「午前中は岡留さんのところで、午後からは小持留さんのところで一時間ぐらいハゼの実をとりました。その外のところでもハゼの実を探して四時半に家に帰り、それから俵造りをしました。夕方雨が降りましたが、その日は五時半頃仕事を終えどこにも出ないで八時ごろ寝ました」(五三一丁)

以上のことは妻、船迫ヨシの証言からもうらづけられ、被告人が本件犯行する時間はない。

以上、アリバイは、その前提となる犯行日時との関連が重要であり、その他一五日の午後九時ころの犯行としても被告人が本件犯行をおかすことはできなかつたという外はない。

(Ⅱ 審理不十分について)

本件記録を見れば見るほど審理不十分という外はない。例えば、一審最初に死体発見した人達からの戸締りの状況や、また飼料を運んだ農協の者の調書、証言などからその時の状況などその他も含めて、是非もう一度審理すべきである。

なお、おつて再補充書を提出すべく準備中である。

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