大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 平成6年(オ)2244号 判決 1995年10月24日

上告人(被告)

能美潤一郎

被上告人(原告)

田宮敦子

主文

原判決中、上告人敗訴の部分を破棄する。

前項の部分につき、本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人須須木永一の上告理由第二点について

一  原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  被上告人は、平成元年一〇月三〇日午前一一時四五分ごろ、普通乗用自動車に乗車し、横浜市港南区内の路上で停車していたところ、上告人運転の自動二輪車に追突された。

2  被上告人には、本件事故当日の検査の結果、吐き気、首の痛み、頭痛等の愁訴の外、僧帽筋及び胸鎖乳突起の過緊張等の所見が認められ、頸椎捻挫と診断された。

3  被上告人は、平成元年一一月二日から同月二七日までの二六日間横浜東邦病院に入院し、また、退院後、平成二年六月九日まで同病院に通院した。通院実日数は、入院前の通院と合わせて八〇日間である。

4  被上告人は、本件事故当時、朝日生命保険相互会社の外交員として収入を得る一方、日動火災海上保険株式会社の代理店として報酬を得ていた。

5  被上告人が本件事故直前の一年間に朝日生命の外交員として得た収入は、一日当たり平均二万二八三四円であり、また、平成元年一月から同年一〇月までの日動火災の損害保険代理報酬は、一日当たり平均一九八七円であつた。

二  原審は、右事実関係の下において、被上告人は右入院期間及び各通院日に稼働することができず、その合計一〇六日間につき、右一5の平均収入等を基準として算定した合計二六三万〇〇七二円の休業損害が発生したと判断し、その他の損害と合わせて、五四四万五九八五円とこれに対する平成元年一〇月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払を求める限度で被上告人の請求を認容した。

三  しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

原審が証拠として掲げるその調査嘱託の回答書によれば、朝日生命は、被上告人が本件事故を原因として休業した期間は平成元年一一月一日から翌年一月三日までの六四日間であり、これ以外に被上告人の休業・欠勤はなく、この期間中は社内規程により立替支給金として給与を支払つたが、本件事故の損害賠償問題が解決した時点で被上告人から右支給額合計一五一万八〇四九円を払い戻してもらう旨回答していることが明らかである。そうだとすれば、朝日生命が休業・欠勤扱いしていない四二日の通院日については、被上告人は朝日生命から正規に給与を支給されており、後にこれを払い戻すことにはならないのであるから、右四二日分につき当然に被上告人に収入の減少が生じ、損害が発生したとすることはできない筋合いである。

もつとも、前記のとおり、被上告人は、生命保険の外交員として稼働しているところ、記録によれば、被上告人が朝日生命から支給される給与には、固定給の外、保険契約の獲得実績により額が決まる能率給があることがうかがわれるから、通院による時間の損失が保険契約の獲得実績に影響を与え、右四二日の通院日について被上告人に何らかの損害が生じる可能性は否定し得ないが、原審の前記判示はこれをいうものではない。

四  そうすると、特段の理由を示すことなく右四二日分についても被上告人が休業損害を被つたとした原審の判断には、法令の解釈適用の誤り、ひいては審理不尽、理由不備の違法があるものといわなければならず、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。これと同旨をいう論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決中上告人敗訴の部分は破棄を免れない。そこで、本件については、損害の全般について更に審理を尽くさせるため、これを原審に差し戻すこととする。

よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 千種秀夫 可部恒雄 大野正男 尾崎行信)

上告理由

第一点【本件事故により被上告人に傷害が発生したとする左記原判決の判断には重大なる経験則違反ひいては理由齟齬がある。】

一 (原判決の認定した本件事故態様についての事実)

本件事故場所は、大船方面から弘明寺方面に向かう県道八号線上であり、被上告人は、被害車両を運転して右県道を大船方面から弘明寺方面に向けて三車線の内中央の車線を走行していたが、先行車両が順次停止したためこれに続いて本件事故場所に停止した。なお、その際、被上告人は、シートベルトを装着しており、被害車両はサイドブレーキをひいた状態であつた。上告人は加害車両を運転して、右県道の被害車両の走行車線を時速約三五キロメートルで同方向に進行していたが中央線寄りの車線に進路変更するため右後方に注意をはらい、前方の注視が不十分であつたところ、停止している被害車両を前方約八・二メートルに発見して急ブレーキをかけたが間に合わず、加害車両前部を被害車両右後部に衝突させた。

被上告人は、衝突による衝撃を受けた後、自車の右後方に加害車両が転倒しているのを見て、初めて加害車両が自車に追突したことを知つた。

右衝突の衝撃によつて、加害車両のフロントフオークと前輪カバーがわずかながら曲がり、同カバーの先端には被害車両の塗膜がわずかに付着した。被害車両の後部バンパー右側には擦過痕及び凹損が生じ、加害車両は横転し、上告人も転倒したが、被害車両は前方に移動することはなかつた。また被害車両の右バンパーの損傷は、バンパー全体の交換を内容とする修理の見積りがなされ、その金額は、バンパーの取付着脱の費用を含め三万五〇二〇円であつた。

二 (前記認定を前提とした場合、被上告人に頚椎捻挫は発生しない)

(一) 「車動なければ外傷なしの原則」について(交通春秋社発行 安藤猪平次著「鞭打ち損傷否定例の研究」を引用)。

停止中に後方から追突された場合、被害車両が前方に加速移動しなければ、その車両の乗員には何の外力も加わらない。外力が加わらないのにもかかわらず、乗員の上体だけが激しくゆれ動き、頚部に「鞭打ち運動」が生じることは物理的に起こりえないことなど、小学生程度の理科の知識があれば十分理解しうる経験則であることは言うまでもない。

しかるに原判決は前記のとおり、被害車両が前方に加速移動しなかつたことを認定した上で、被上告人に頚椎捻挫が発生した旨の判断をしている。

その論拠とするところは、「ところで、上告人は、本件事故によつて被上告人は頚椎捻挫の傷害を負わなかつたと主張し、乙第一三号証の鑑定書によれば、加害車両の被害車両への衝突速度は時速一二・四キロメートルであり、本件事故により被害車両が受けた衝撃加速度は〇・五G以下であつて、被上告人が頚椎捻挫を受傷する可能性はないと判断されているが、頚椎捻挫が生じる可能性のある加速度Gの限界値については、さまざまな見解が述べられ定説をみないところであるうえ、頚椎捻挫の発症には当該事故における運転者の姿勢、衝撃を受ける角度、体質等種々の要因が複雑に影響するものと解されるので、衝撃加速度Gの小さいことのみを理由に頚椎捻挫発生の事実を否定することは相当ではない(第一審判決五枚目表四行目以下)。」とされているが、次に述べるとおり明らかに矛盾するものである。

即ち、「頚椎捻挫が生じる可能性のある加速度Gの限界値」に定説がないことを第一の理由としている点であるが、原判決の「被害車両が前方に加速移動しなかつたこと」の認定を前提とすれば、加速度Gは当然ゼロであるから、その限界値など問題にすること自体自己矛盾である(乙第一三号証にいう衝撃加速度〇・五Gは被害車両が前方に約一一センチメートル加速移動したことが前提となつている)。

かえつて加速度Gの限界値を問題にしていること自体、原判決が「車動なければ外傷なしの原則」の立場に立脚するものであることを示すにもかかわらず、その原則に反する矛盾した判断をなしていることを如実に示すに他ならない。

以上から明らかなように、原判決には重大なる経験則違反、理由齟齬があり、破棄を免れない。

(二) 判例について。

車動がゼロと認定した事例で頚椎捻挫が発生したとする判例は見い出せない。

しかして、車動がゼロまたは一〇センチメートルないし三〇センチメートル程度移動していることを認定した上で頚椎捻挫の発生を否定した事例は左記のとおりである。

<1> 大阪地方裁判所昭和五五年一〇月三〇日刑事判決(判例時報一〇〇五号一八〇頁参照)

交差点における出合い頭の事故で、加害車両が被害車両の右側面に時速約四〇キロメートルで衝突したが、被害車両は衝突によつて「横ずれ」を生じなかつた。

<2> 京都簡易裁判所昭和六二年三月三〇日刑事判決(前掲「鞭打ち損傷否定例の研究」一四九頁参照)

停止中の被害車両(普通乗用車)の一・五ないし二メートル後方に加害車両(普通乗用車)も停止したが、ブレーキペタルから足を浮かせたため、加害車両が自然発進し、被害車両に時速二ないし三キロメートルの速度で追突したが、被害車両は前方に押し出されなかつた。

<3> 京都地方裁判所昭和五九年五月三一日民事判決(判例時報一一二四号二〇六頁参照)

加害車両(普通貨物車・重量一トン)が被害車両(大型バス・重量一一トン)に追突したが、被害車両は前方に押し出されなかつた。

<4> 広島地方裁判所昭和六一年八月二六日民事判決(判例タイムズ六三〇号一八四頁参照)

一時停止中の被害車両に加害車両が追突したが、被害車両は前方に押し出されなかつた。

以上車動のない事例である。

<5> 大阪高等裁判所昭和五二年九月二〇日刑事判決(判例時報八七一号一一〇頁参照)

加害車両(軽四乗用車)が発進し二・三メートル進行した後被害車両(軽四貨物車)に時速約五・七キロメートルで追突したが、被害者の身体が二〇センチメートル前方にゆれた(鑑定は衝撃による加速度を〇・六Gとした)。

<6> 宇治簡易裁判所昭和六〇年七月九日刑事判決(判例タイムズ六三〇号一八四頁参照)加害車両(普通乗用車)が停止中の被害車両(普通貨物車)に時速三~五キロメートルの速度で追突し、被害車両は約三〇センチメートル前方に押し出された(鑑定は衝撃による加速度を〇・一ないし〇・三Gとした)。

以上車動のあつた事例である。

(三) (第一審判決にいう「原告の受けた衝撃(同判決三丁裏一行目)」では頚椎捻挫は発生しない)

第一審にいう衝撃は、被害車両が前方に移動していないのであるから、被害車両と加害車両との衝突音か、被害車両のバネによる振動以外には考えられない。

しかして、音により頚椎捻挫が発生するなどということは医学常識からは到底考えられず、またその様な学説も絶無である。

またバネによる振動は、通常の走行によつても発生することは説明を要せず、この振動により頚椎捻挫が発生したことも考えられない。

したがつて、被上告人が被害車両と加害車両との衝突(本件事故)により頚椎捻挫の傷害を受けたと判断した原判決には経験則違反、理由齟齬があり破棄されるべきである。

第二点【本件事故による被上告人の休業損害に関する原判決の判断には民法第七〇九条にいう「損害」に関する解釈の誤りがある。】

一 (被上告人の休業期間について)

被上告人が本件事故により休業した期間は平成元年一一月一日から同二年一月三日までの六四日間で、以後本件事故による欠勤のなかつたことは、朝日生命からの調査嘱託の回答書により明らかである。

しかるに、通院日数八一日をもつてその休業日数と認定した原判決は前記法令の解釈を誤つたものである。

二 (被上告人の休業損害額について)

被上告人が訴外朝日生命保険相互会社から受ける給料の内訳は本俸をはじめとするおよそ二〇項目から構成されている(甲第八号証参照)。

そして右各項目はその性質から、ⅰ.欠勤した場合、その日数に応じて減額支給されるもの(欠勤した日数に相応する給料につき訴外朝日生命保険相互会社が支給義務を負わないもの=いわゆる固定給)、ⅱ.稼働し実績が上つた場合、その実績に応じて支給されるもの、ⅲ.従前の実績に対して支給されるもの(欠勤には影響されず支給される)に分類される。

具体的には、本俸等がⅰに、「初回募手」「企・グ・財募手」「集金手当・集金費補給集金交通費」「集金手数料・補給分」がⅱに、「二回目以降募手」「継手・奉手」がⅲに各々該当する。

しかして、「初回募手」「企・グ・財募手」は前月の新規募集の実績に対して支給される給料、「集金手当・集金費補給集金交通費」「集金手数料・補給分」は前月に集金した実績に対して支給される給料であり、実績のない場合、即ち稼働していない場合には支給されることのない給料である。また、「二回目以降募手」「継手・奉手」は前々月以前の実績に対して支給される給料である。

以上のとおり休業期間中の給料の内、朝日生命が支払義務を負担しその義務に基づき支給された給料部分(前記ⅱⅲ)があることは明らかで、当該部分については被上告人は朝日生命に対し返還義務を負担しているものではなく、したがつてその部分に相当する金額二〇六、六七〇円(但し平成元年一一月及び一二月支給分の合計)は休業損害額からは控除されるべきものである。

しかるに、右額をも休業損害に算入し被上告人の休業損害を認定した原判決には「損害」に関する解釈の誤りがあるといわねばならない。

以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例