最高裁判所第三小法廷 平成7年(行ツ)42号 判決 1997年7月15日
新潟県上越市本町一丁目五番四号
上告人
株式会社 一小イチコ
右代表者代表取締役
竹内寿
右訴訟代理人弁理士
松田喬
東京都千代田区霞が関三丁目四番三号
被上告人
特許庁長官 荒井寿光
右当事者間の東京高等裁判所平成六年(行ケ)第八五号審決取消請求事件について、同裁判所が平成六年一一月一七日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人松田喬の上告理由について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 千種秀夫 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 尾崎行信 裁判官 山口繁)
(平成七年(行ツ)第四二号 上告人 株式会社一小イチコ)
上告代理人松田喬の上告理由
上告理由書記載の上告理由
一 上告理由第一点とするところは原判決は
原告は、平成三年政令第二九九号による改正前の商標法施行令別表第三二類「たらこと麹を主原料とする漬物、及び、同あえもの、たらこと数の子、または、他の食料品との混合物の漬物、及び、同あえもの、たらこの粕漬、たらこと数の子、または、他の食料品との混合物の粕漬、上記漬物類、あえもの、粕漬類の各壜詰、缶詰、箱詰」指定商品とし、別紙記載の構成からなる商標(以下「本願商標」という。)について、昭和六十一年二月四日、商標登録出願した(昭和六十一年商標登録願第九七八八号)ところ、昭和六十二年十二月二十五日、拒絶査定を受けたので、同年三月七日、審判を請求した。特許庁は、この請求を昭和六十三年審判第四〇二二号事件として審理した結果、平成六年二月十五日、上記請求は成り立たない、とする審決をし、この審決書謄本を同年三月二十六日、原告に送達した。(第二頁参照)
との判断を示し、更に基本的な判断として
さらに、原告は、外観、称呼、観念の異同並びに離隔的観察方法等の判断手段を非難するが、かかる判断手段は、複数の商標間の類似性の有無、すなわち、商標の類否を判断する際の重要な判断要素ないし手法であるところ、本件においては、他の商標との類否判断が問題とされているものではないことは上述したところから明らかである。なお、本件においては、前記のとおり、本願商標自体が自他商品識別力を有するか否かが問題となっているところ、審決は、本願商標の自他商品識別力をその有する観念、外観、称呼等を全体的、総合的に検討した結果これを否定したものと解することが可能であり、その判断に何らの誤りがないことは既に説示したとおりである。したがって、原告の上記主張も採用できない。
(2) 以上の次第であるから、本願商標は、これを指定商品中の「たらこと麹を主原料とする漬物」に使用した場合は、当該商品の原材料及び加工の方法を普通に用いられる方法で表示した標章に該当することは明らかであるから、その余の指定商品との関係について論ずるまでもなく、本願商標が商標法3条1項3号に該当することは明らかであり、この点に関する審決の認定判断に誤りはない。(第十四頁第九行から第十五頁第八行参照)
右上告理由第一点とするところは斯界に於ては今を去ること七十年の昔から引続き今日に至るまで商標登録の適否、ないし、複数の商標の類否を問うに、外観、称呼、観念切比較を以て判断し、加うるに外観は対比的観察と離隔的観察とに分別して比照するを適正なリセする論説者が出現し、合理性といえば初等数学的合理性より外、論理を扱うことを知ちざる特許庁商標課の行政官、ないし、商標の審判官の信頼を獲得して右論説者の手法は斯界に於て金華玉条とされ、自来右述多年の間を閲したのは文化、文明発展目まぐるしき当世の奇跡ともいうべきであるが、右外観、称呼、観念、及び、外観の対比的観察と離隔的観察とは全くの初等数学的、因数分解的の所論たるに過ぎず、当該商標を実際の社会構成を対象とした商品対象との関係性に於て判断することなし。即ち、商品価値を判断していることなし(価値は社会を構成する各人の自覚(千差萬別である。)によって生ずる。)。そこで、原判決は「さらに、原告は、外観、称呼、観念の異同並びに離隔的観察方法等の判断手段を非難するが、かかる判断手段は、複数の商標間の類似性の有無、すなわち、商標の類否を判断する際の重要な判断要素ないし手段であるところ、本件においては、他の商標との類否判断が問題とされているものではないことは上述したところから明らかである。」との所論であるが、かくの如きは頗る不明瞭な言辞であり、それは「フツサール」の現象学に於ける「ノエシス」面を以てすれは単なる原判決の認定ではなく、内容的には改正前の商標法第三条、及び、第一条の法令解釈を論断しているに外ならない。然し、上告人は原審に於て決して他の商標との類否判断を主張しているものに非ずして本件商標登録願の商標登録適格性を主張しているものであって、右「ノエシス」面に徴し原判決の表現手段の如何を問わず法令違背たるの譏りを認容すべきこと勿論であるが、上記原判決の認定とは別個独立に「なお、本件においては、前記のとおり、本願商標自体が自他商品識別力を有するか否かが問題となっているところ、審決は、本願商標の自他商品識別力をその有する観念、外観、称呼等を全体的、総合的に検討した結果これを否定したものと解することが可能であり、その判断に何らの誤りがないことは既に説示したとおりである。したがって、原告の上記主張も採用できない。」と判示しているが、それは右「全体的、総合的に検討した結果これを否定したものと解することが可能でありとの所説であるが、「可能でありとは事理を論断することを回避し、重要な争点を飛躍し、無視した手段であって被上告人官庁が全体から見れば商標登録適格性なしという案配に頻繁に使用する陋劣な手法であって原判決はこれを鵜呑みに使用したに過ぎない。もともと、上告人は原審に於て右「外観、称呼、観念、及び、離隔的観察」なる論理(logic)は誤謬なりと断定し、これを以て本件商標登録願の登録適格性を論ずることは斯界に於て放棄すべしと声を大にして主張しているものである。ここが根本的な争点である。これを放棄することは理の必然である。如何となれば、右「離隔的観察」とは典型的に観念のことであり、然らば、右「外観、称呼、観念、及び、離隔的観察」の公式的手段に於て「…称呼、観念」の「観念」とは如何なる観念というものなりや、この観念と外観を初等数学的に分析した観念とに如何なる相違ありや、観念が重複するに非ざるや、土台、観念とは精神現象的、抽象的な事柄に多面的な使用をする日本語であり、「ノエマ」、「ノエシス」的に不得要領の日本語である。然しながら、被上告人、及び、原判決の所説は徹頭徹尾初等数学の因数分解的合理性に堕し、思想論理的、換言すれば、歴史的世界に於ける弁証法(dialectics in the histry world)たる論理を全く無視しているものである。原判決は「本願商標は、これを指定商品中の「たらこと麹を主原料とする漬物」に使用した場合は、当該商品の原材料及び加工の方法を普通に用いられる方法で表示した標章に該当することは明らかであるから、その余の指定商品との関係について論ずるまでもなく、本願商標が商標法3条1項3号に該当することは明らかであり、この点に関する審決の認定判断に誤りはない」と判示しているが、原判決は「たらこと麹を主原料とする漬物」の指定商品の部分的表示を初等数学的、ないし、化学的、あるいは、科学的に判断しているが、右指定商品は主原料に過ぎず、確定的な「ノエマ」「ノエシス」面を有することなく、却て補助原料(味淋醤油の如し。)が嗜好品的味覚を発現させるやも測られず、右商標法第3条第1項第3号の品質表示はこれをいうものではなく、かつ、本件商標登録願の指定商品の表示も原判決が判断している如く各別に存在しているとすべきではなく、商標権取得の価値に徴し、指定商品の一部分に対し指定商品の全体が存在していると断定すべきである。それは精神現象なる対象が部分と全体とに区別することが不可能であるのみならず、精神現象なる対象が重複的一体、積重的一体を許容し得るが故である。換言すれば、「口で怒って、心で泣いて」のロジツクが一度に成立し得る故にである。だが、由来法律学的教養、法律学習得者的教養は実際の社会的事実として思想的ロジツクに無知にして弁護士も一般的観点に於て然りであり、原判決の如きはその典型的無知な判決である。近代的哲人ハイデツガーによれば「キエルケゴール」の実在対象主体説とフツサールの現象学に於ける「ノエマ」、「ノエシス」の論理を複合した、いわゆる、実存哲学に徴すれば、商標は単に標章のみの状態で価値を問うも無内容に失し、自他の商品を区別し、商業的企業の成立的発展を標榜することによってロジツクが成立する工業所有権的であり、かつ、知的所有権的の対象である。故に本件商標登録願の指定商品は右に摘示した改正前の商標法施行令別表第三十二類中多数の指定商品は相互に部分中に全体が存在するロジツクを成立させる(故西田幾太郎博士の所論)。この部分の中に全体が存在するとは全体が混然と存在するものではないことここにいうまでもなく、機に臨み、時に応じて全体が精神現象的に部分の中に全体があるロジツクを成立させ得ることをいうものである。然るに右斯界に於ける弊風、悪習たる外観、称呼、観念、及び、離隔的観察なる手法は、上告人が右述したように単に初等数学的、ないし、同因数分解的手法に堕し、商標と難も工業所有権的、知的所有権的のように商業的、企業の成立、発展を著大に念願し工夫を凝らす要のある対象は、精神現象学的に追求しなければ誤謬に堕し、人間的文化観念に違背し、到底容認なし得ざるロジツクとして排斥されるべきであるが、右外観、称呼、観念、及び、離隔的観察はヘーゲル(Hegel)、ないし、ヘーゲリツク(フオイエルバツハ(Feuerbach)の唯物論を含む)(Hegelic)に徴すれば、理性を論ずることなく、理性の狡智も無視し、認識主観を知らず、ヘーゲルとは対立したキエルケゴール(Kierkegaard)に徴すれば、実存は主体なりとするロジツクは眼中になく、「ハイデツガー」(Heidegger)のキエルケゴールに於ける主体説とフツサール(Husserl)に於ける「ノエマ」、「ノエシス」(noema)(noesis)のロジツクを併合させ、社会構成を対称的に措定した論説の如き心に浮上することすらなく、従来の工業所有権審理の裁判長、裁判官は、只管右外観、称呼、観念、離隔的観察の謬論を一筋に遵奉したが、それは商標審理上の誤謬にして事理を弁ぜざる違法があり、須らく商標登録の適否、及び、複数商標の類否は後述する如く商標の個性を以て審理すべきであり、原審決の裁判、また、右従来の裁判より一段と歴史的世界に於ける弁証法的論理に無知なること一段と甚し。更に、右述した離隔的観察に於ける観察とは地球そのものに係る存在、あるいは、存在事実を追求する手段であって、科学上の事項たるに外ならず、如何となれば地球の眞実は到底人知を以てしては悉くを知るを得ざるが故に「観察」と称するものであり、また、「識別」とは対象を区別、甄別することを独り人間のみならず、人間と動物とを合して生物が区別することを称するものであるが、人間の精神現象のみを以てする歴史的世界に於ける弁証法たるロジツクを「識別」、ないし、「識別力」をいうは明らかに誤謬なり。然るにも拘わらず、被上告人、及び、原判決は斯る観察、識別の用語を以て歴史的世界における弁証法的ロジツクを語ることは根元的な誤謬であり、これ等の誤りも、また、外観、称呼、観念、及び、離隔的観察の商標法上の商標登録適格性、及び、複数商標の類否を判断する法律違背に包含されるものである。
よって原判決は到底破棄されることを免れない。
二 同第二点とするところは原判決は
本願商標がその指定商品中の「たらこと麹を主原料とする漬物」に使用した場合、それらの商品の品質等を表示するにすぎないものであり、また、上記以外の指定商品に使用した場合、商品の品質について誤認を生じさせるおそれがあることは以下に述べるとおりであるから、審決の認定判断に誤りはない。すなわち、
原告は、「たらの子」は「すけそうだら」の子のみを意味するものではなく、「まだら」の子をも意味すると主張する。しかしながら、原告も自認するとおり、「すけそうだら」の漁獲量に比較して「まだら」の漁獲量は少なく、また、「まだら」は主として切り身として食されるのに対し、「すけそうだら」は、その腹子(たらこ)が好んで食されているために、一部の高級品を除いて通常「たらこ」といえば「すけそうだら」を意味するものとされており。一般にもそのように認識されているものである。
また、原告は、審決が本願商標中の「こうじ漬」の「こうじ」の文字を「麹」と認定したことに対して、「こうじ」の文字は決して「麹」のみを意味するものではないとして各種の「こうじ」の存在を指摘するが、本願商標の構成は「たらの子 こうじ漬」の文字よりなるものであるから、日常食する漬物との関係よりみた場合には、「こうじ漬」の文字中の「こうじ」は「麹(糀)」の文字として把握されるものであって、この点に関する審決の認定に誤りはない。加えて、「麹(糀)漬け」の商品は、漬物の一種として野菜、山菜のみならず、魚介類についても数多く製造、販売されており、たとえば、鮭の切り身、いくら等を糀で漬けた商品が市販されている。さらに、鮭の切り身、数の子、明太(たらこ)等を糀で熟成した商品もあり、商品の原材料の一部に「たらこ(たらのこ)」が使用されている事実がある。
そうだとすれば、本願商標をその指定商品に使用した場合、これに接する取引者、需要者は構成中の「たらの予」の文字は「すけそうだら(すけとうだら)」の腹子の意味に理解し、「こうじ漬」の文字は「麹(糀)漬け」にしたものと認識するものであるというを相当とし、本願商標は全体として指定商品の品質等を表示したものと認識するに留まり、自他商品を識別するための商標とは認識し得ないものである。
と判示しているが、
右上告理由第二点とするところは、本件商標登録願は、ただ、単に第三十二類「たらこと麹を主原料とする漬物」では他の指定商品が多数存する、例えば、生椎茸とまだらのたらの子を巧みに調整した味淋醤油中に漬け込み熟成時間に当を得た漬物の如きは天下の逸品である。これも勿論本件商標登録願の指定商品であり、上告理由第一点に於て論述した如く上記「たらこと麹を主原料とする漬物」中に他の指定商品全体が存在しているものであり、決して原判決が判断したように「たらこと麹を主原料とする漬物」なる表示はそれのみで単独に指定商品上して成立しているものではない。それが成立しているを錯覚を起こしていることは上告人が前項に論述した如く初等数学的、因数分解理論を適用しているからであって、歴史的世界に於ける弁証法的論理をヘーゲルに徴すれば眞実在は精神現象であり、キエルケゴールに徴すれば主体説であり(即ち、主体の活動は精神現象に帰する。)、ハイデツガーに徴すれば右主体説とフツサールの現象学を併合した対象に帰するから、右三名のギリシヤ哲学のロジツクと故西田幾太郎博士の部分と全体との相互関係のロジツクに徴すれば部分の中に全体があるとのロジツクに帰する。それは前項に論述した如く部分と全体とが物理的、化学的に化合、ないし、混合するものではなく、商業的、企業的に従事し、ないし、継続するための商標権取得を標榜する目的に徴し、これを充足するための商品的部分と全体との関係であって、精神現象なるが故に、部分中に全体が合体すること自由自在である。蓋し、原判決は思想無知であることこれより大なるはなぐかくの如きは商標法第3条第1項第3号に於ける品質の法律規定に違背するとともに、鱈の子は「すけそうだらの子」に比し、需要者、取引者は直感的に、換言すれば、認識主観発生的に高級品と普通品、あるいは、通俗品との区別をなし得て、然も、右主原料よりも漬け込み補助材等、ないし、処理手段に実際上の重要性が存することは日常的、常識的に想定なし得て、いわゆる裁判所にも顕著なる事項であるにも拘わらず、思想無知のため被上告人審判官の愚説に付和雷同し原判決の愚論に到達したことは正に審理不盡の違法が存し、原判決は到底破棄を免れない。
三 同第三点とするところは原判決は
次に、上記「こうじ漬」についてみると、成立に争いのない乙第三号証(一九八八年十一月三日株式会社三省堂発行、村松明編「大辞林」八一九頁)及び同第四号証(一九九一年九月二十日株式会社真珠書院発行、河野友美編「漬け物」九二ないし九七頁)によれば、上記「こうじ漬」が、「こうじ」(麹、糀)、すなわち、米、麦、大豆などを蒸して寝かし、これに麹かびを加えて繁殖させ、塩を加えたものに、魚、肉、野菜等を漬け込んだ食品を意味するものであることは明らかである。
原告は、この点について、「こうじ」には、「口耳」、「向自」、「好字」等その他多数存在し、「高次」というが如きはその白眉たるものであるとし、決して「麹」のみを意味するものではないと主張する。確かに、「こうじ」に対応する語として、上記の各語が存在することは原告主張のとおりであるが、本願商標の構成要素である前記「こうじ漬」にあっては、これが特定の食品を意味するものであることは前記認定のとおりであるから、この場合の「こうじ」はその意味からして自ずと「麹」ないし「糀」に限定されるものであって、原告が指摘する上記の意味の各「こうじ」と「漬」が一体となって、特定の意義を有する単語を構成するものと認めるに足りる証拠はない。したがって、この点に関する原告主張は採用できない。
と判断しているが、
右上告理由第三点に於て、原判決は
「原告は、この点について、「こうじ」には、「口耳」、「向自」、「好字」等その他多数存在し、「高次」というが如きはその白眉たるものであるとし、決して「麹」のみを意味するものではないと主張する。確かに、「こうじ」に対応する語として、上記の各語が存在することは原告主張のとおりであるが、」
と判断をなしているが、原判決は語を進めて
「本願商標の構成要素である「こうじ」はその意味からして自ずと「麹」ないし「糀」に限定されるものであって、原告が指摘する上記の意味の各「こうじ」と「漬」が一体となって、特定の意義を有するものと認めるに足りる証拠はない。したがって、この点に関する原告主張は採用できない。」
と判断しているが、極めて不得要領の判断で思想無知の判断たることを如実に露呈しているものである。抑抑、片仮名、平仮名に於ける「こうじ」、ないし、「こうじ漬」は単独には本件商標登録願の商標として無内容である。故に原判決も右「向自」、「好字」、「高次」等その他多数該当対象が存在すること上告人主張の通りであることを認めているが(振仮名の如きは読み方を指示しているものであり、漢字等と一体であって決して仮名文字単独ではない。)、その後に原判決はその意味からして自ずと「麹」ないし「糀」と限定されるものであってと表示しているが、商標法上の商標として、即ち、工業所有権、知的所有権の対象として文化的、文明的の精神現象に徴し、換言すれば、理性、認識主観、「ノエシス」面の追求によればロジツクとして自ずと、即ち、必然的に原判決の所説の如きに展開することなし。少くとも原判決の如く「構成要素」とか、「自ずと」とかの精神現象が確定的に発生することは「ノエシス」的に社会構成を破壊することに帰する。だからこそ、本件商標登録願の商標には「たらの子」の文句が「こうじ漬」に併書結合して構成され、これによって商標法上の商標、即ち、区別力、あるいは、甄別力があり、個性を有する商標が成立する。その商標と不可分の指定商品は単に「麹」、あるいは、「糀」に全く限定されることなく、粕漬あり(粕は商品として「麹」、「糀」とは全く相違して居り、殊に、補助原料として使用する酒の種類(辛きものあり、甘きものあり、一級酒あり、特級酒その他多数の種別がある。)により味覚の大きく相違した商品が生じ、而して他の諸材料と混合させて「たらの子」が実際上主原料というを得ざる商品すら本件商標登録願の商品たることを失わない。これ、ハイデツガーの実存哲学に於ける主体的実存であるとともに「ノエシス」、「ノエマ」としてロジツクを追求することにより複雑多岐な社会構成に適応するものである。然るに原判決は、この複雑な社会構成を単純に初等数学、因数分解的対象として措定し、徒らに原審決に同調しているに外ならず、それは商標法第3条第1項第3号の「品質」の法律規定に違背し、到底破棄される譏りを免れない。
四 同第四点とするところは、原審決はその審決をなすに際し、右上告理由第一点に論述した如く外観、称呼、観念、及び、離隔的観察に準拠して論断し、かつ、これに準拠して本件商標登録願の商標と全体の商標登録適格性を審理したとの所説を表示しているが、その採用すべからざる誤謬であることは上告人が右上告理由第一点に論述した通りであるが、凡そ対象を区別、ないし、甄別するには、類別的、種別にする場合とともに、商標の個性によってすることがロジツクとして眞実なることが確定的であり、一般文化人の悉くが容認するところである。遠くアリストテレスは「個性とは主語になって述語にならない対象なり」と喝破し、現在に於て文化論的に千古の鉄則を構成している。須らく商標の登録適格性、及び、複数の商標に於ける類否を比照するにこれを以てロジツクを構成することが眞実に帰し(甲第三号証の一、ないし、同号証の三参照)、上告人訴訟代理人が受けた平成三年(行ツ)第一〇三号の御庁判決に徴するも、右個性を以て右ロジツクを構成することの眞実性を首肯することができる。
而して
「特許庁商標課編「商標法の一部を改正する法律」等の平成四年四月一日施行に伴う「商品及び役務の区分」に基づく類似商品、役務審査基準」
の書籍によれば同書発行当時の商標課長細井貞行が発表しているところに徴すれば、同書第一頁第十一行に「特許庁審査官の思想統一を狙いとしたものであり」と表示しているが、斯くの如きは思想ではなく、「考え方」を思想と称しているものであって根底的な誤謬であり、日常的会話の用語はいざ知ちず、ロジツクとしての思想は生を追求する論理であり、思想とは曽て遠く文明開化に際しギリシヤ哲学が我が国へ移入された時に当時の先覚者が名付けた日本語的名称であり、正しくは右述上告理由第一点に於て上告人が説述した通り、歴史的世界に於ける弁証法、ないし、同弁証法的論理である。そして、上告人が上告理由第一点、ないし、第三点、及び、この第四点に表示した哲人がその変遷の異同を劃する代表的な人物であり、要するに精神現象学であって、右特許庁商標課長のいう「考え方」とは根元的な相違が存する。原判決の論旨は右摘示した特許庁商標課編の書籍と全く同等のものに帰し、土台、この文化発達の現在、到底受け止めることをなし得ざる愚論たるものである。生を追求する論理とは社会生活にも非ず、社会生存にも非ず、人間の眞実在が宇宙に存することの謂われに合致させて、これを人間が理解し得る範囲で自覚したというを得るロジツクであって、法律学が「社会生活の準則」とすれば右歴史的世界に於ける弁証法的論理は、そのまま、右社会生活の準則の範囲で合致、ないし、適応される論理である。例えば、民法第九五条を解釈するにしても、意識適以て解釈するか、認識を以て解釈するかにより根底的に相違する内容が存してくる。思想を知らずして何んぞ、日本国の正義的、倫理的、道義的司法権の行使なりやというを得るや。商標と難も工業所有権、知的所有権は歴史的世界に於ける弁証法的論理を以て律すべきこと、事理を弁ずること不可缺の現在に於ては理の必然であり、キエルケゴール、あるいは、ハイデツガーの主体説に付いても、実存を論究して主体なりというにあって、キエルケゴール、ハイデツガーは各ヘーゲル、ないし、ヘーゲリツクのロジツクを否定するものに非ずして対立するに過ぎず、殊に、ハイデツガーは「言葉」の伝達、「言葉」の表現を主体的実存の内容とする論理を遵奉し、「言葉」はその「ノエマ」面は単なる符号、符牒に過ぎず、その「ノエシス」面こそ、社会構成の自覚性そのものであるから、精神現象を実存とすることに等しい論理が伏在している。思想は「色則是空、空則是色」の如き日本人的死生観、ないし、同人生観ではない。そこで、本件商標登録願の商標はその表現が少くとも、ないし、最低限度の美感論に求めるも、美感論に於ける感性、惰性、意欲、知性(寧ろ、知識というを至当とする。)に徴し、精神の破壊作用(醜)の如きを伴わざるごとは勿論、感性として、情性として、意欲として、はたまた、知性として人口に膾炙されている「絵は沈黙の詩にして、詩は能弁の絵画なり」との美感の範囲に属すること明確であり、(原判決もこれを認めている、少くとも否定はしていない。)、かつ、指定商品は不確定(不特定ともいうを得る。)なること右述論述の通りであるから、本願商標の商標は右美感と文字的表現との結合により商標法上の区別力、甄別力ありという範囲、即ち、個性ありというに十分であり、更に、原判決は同法第3条第1項第3号の品質の規定に違背している。惟うに、原判決は思想無知なるが故に徒らにこれもまた思想無知なる原審決に付和雷同しているに過ぎない。
よって原判決は破棄されるべきである。
以上
追加上告理由書記載の上告理由
一 本件上告理由書は平成七年二月八日に提出したが、その四上告理由第四点に関し左記上告理由を追加する。
「特許庁商標課編、「商標法の一部を改正する法律」等の平成四年四月一日施行に伴う「商品及び役務の区分」類似商品役務審査基準」なる書籍に付いて、右平成七年二月八日に提出した上告理由書に上告人が断じたところに対し、更に思想というを得るには世界の哲学者が不文の中に思想、即ち、歴史的世界に於ける弁証法的論理なりとして認容する論理でなければならない。右二月八日付上告理由書に指摘した今を去ること七十有余年前に右上告理由書第一点に於て指摘した論説者が外観、称呼、観念、及び、離隔的観察を商標登録適格性、ないし、複数商標の類否判断の基準なりと断定しようとも、はたまた、原判決に於てこれを「重要な判断要素ないし手法であるところ……」と判示しようとも、土台、それ等は全く思想ではない。主張者(論説者、論者)の各独自の考え方に堕しているに過ぎない。しかのみならず、工業所有権、知的所有権(何れも商標を含む。)の論理に反し、少くとも日本国商標法第3条第1項第3号の規定に違背することは明確である。如何となれば、上告理由書に明示している如く、哲学者、思想家ハイデッガーの所論に徴すれば、本件商標登録願の商標は「ノエシス」面に於て価値を自覚するに際し、正にこの商品と、その指定商品全部とは相互に不可分の対象であり、かつ、法律、条約の規定は工業所有権であり、知的所有権であるからである。これを原判決の如く認定を以て臨むが如きは軌道外れの愚論に堕し、商標法第3条第1項第3号品質の規定、並びに、条約に違背すること明瞭であるからである。
更に上告理由書に明示した哲学者、思想家アリストテレスの個性に係る千古の鉄則の如き、幾世紀に亘る世界の哲学者、思想家たるアリストテレスの断定する所論であり、かくの如きは人間社会構成の論理に付き基準たる対象であるからである。
原判決は「証拠がない」と判示しているが、証拠の有無は関係なく、明文たる法律規定、ないし、条約内容の各解釈の論断するところである。 以上