最高裁判所第三小法廷 昭和40年(あ)733号 判決 1966年6月14日
主文
原判決および第一審判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
弁護人中島忠三郎他四名の上告趣意は、違憲をいう点もあるが、実質は事実誤認、単なる法令違反の主張に帰し、刑訴法四〇五条の上告理由に当らない。
しかし、職権をもって調査すると、原判決および第一審判決は、後記のように、同法四一一条一号により破棄を免れないものと認められる。
本件公訴事実について、原判決に示された事実関係とこれに対する法律判断は、おおむね次のとおりである。すなわち、被告人は、西武鉄道株式会社池袋線保谷駅に駅務手として勤務し、本件事故発生の当夜は、乗客係をも命ぜられて旅客の誘導、案内、整理、乗降の危険防止などの業務に従事していたものであるところ、昭和三六年五月一一日午前零時三三分同駅に到着した四両編成の第四六九電車の後部の第三、四両を担当して乗客の降車整理に従事中、第四両目中央部座席に矢島喜一(当時二九年)が、酒の匂いをさせて居眠りをしていたので、その肩を三回位叩いて起こすと、同人は目を覚まし、一寸ふらふらしながら中央ドアーからプラットホーム(以下単にホームという)に出て行ったので、これを見送ったのみで、そのまま車両の連結部から第三両目に赴き、居眠り客二名に降車を促し、またはこれを助けて車外に連れ出すなどして乗客の整理に当った。右電車は、客扱い終了後同駅の車庫に入庫するものであり、後続の最終電車が到着するのは同日午前零時四三分で、深夜のため、混雑時とは異なり乗客も少なく客扱いには充分時間的余裕があった。このような場合には、乗客係たる被告人としては、前記のように酩酊していた矢島を下車させるに当っては、同人が単独でホームにある待合室などの安全な場所に行くことができるかどうかを確認すべきであり、また客扱い終了後車掌に対しその旨の合図をするに当っては、自己の担当する車両の連結部またはホームとの近接部を点検注視して線路敷に転落者などが無いかどうかを確認すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠ったため、矢島が第三両目と第四両目の連結部とホームとの隙間から線路敷に転落していたのに気付かず、客扱いを終了するや、その旨の合図を車掌篠武弘に送り、同人をして戸閉操作をなさしめたうえ、運転士鈴木崇弘をして右電車を発進させたため、右転落箇所においてホームに這い上ろうとしていた矢島をして、車両とホームとの間で圧轢死させるに至ったというのである。
そこで、叙上の事実関係を基礎として、被告人の注意義務に関する原判断の当否につき考えるに、原判示の職責を有する乗客係がその業務に従事するに当って、旅客のなかに酩酊者を認めたときは、その挙措態度等に周到な注意を払い、車両との接触、線路敷への転落などの危険を防止する義務を負うことは勿論である。しかし、他面鉄道を利用する一般公衆も鉄道交通の社会的効用と危険性にかんがみ、みずからその危険を防止するよう心掛けるのが当然であって、飲酒者といえども、その例外ではない。それ故、乗客係が酔客を下車させる場合においても、その者の酩酊の程度や歩行の姿勢、態度その他外部からたやすく観察できる徴表に照らし電車との接触、線路敷への転落などの危険を惹起するものと認められるような特段の状況があるときは格別、さもないときは、一応その者が安全維持のために必要な行動をとるものと信頼して客扱いをすれば足りるものと解するのが相当である。また、右係員が客扱いを終了し、その旨の合図を車掌に送るに当っても、線路敷などに転落者があることを推測させるような異常な状況が認められない限り、このような特殊な事態の発生をつねに想定して、ホームから一見して見えにくい車両の連結部附近の線路敷まで逐一点検すべき注意義務があるとまで考えるのは相当でない。これを本件についてみるに、前示事実関係に照らせば、本件被害者は、座席に眠っていて酒の匂いをさせていたが、被告人から肩を三回位叩かれて目を覚まし、一寸ふらふらしながらもみずからホームに出て行ったというのであり、右の程度では線路敷への転落などの危険性または転落などの事実を推測させるような特段の状況があったものと断ずることはできない。しからば、被告人が原判示のように、前記矢島を起こし、下車させただけで、同人の下車後の動向を注視することなく、他の乗客の整理に移り、さらにこれを終えた後にも、とくに線路敷などを点検することなく客扱い終了の合図をしたとしても、前記の如き事情の下では、本件事故の結果について、被告人に対し業務上の過失責任を認めることは酷に失するものといわねばならない。そして、原判決の指摘するように、本件電車が入庫車であり、かつ深夜であってその客扱いには、混雑時に比し時間的余裕があったとしても、このことは、右の判断を左右するに足りるほどの事由とは認められない。してみると、本件につき、被告人に対し前記の過失責任を認めた原判決および同判決の維持した第一審判決は、法律の解釈を誤り、被告事件が罪とならないのにこれを有罪とした違法があるものというべきで、右の違法は、判決に影響を及ぼすことが明らかであり、刑訴法四一一条一号によりこれを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
よって、同法四一三条但書、四一四条、四〇四条、三三六条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する
(裁判長裁判官 横田正俊 裁判官 五鬼上堅磐 裁判官 柏原語六 裁判官 田中二郎 裁判官 下村三郎)