大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和52年(オ)915号 判決 1979年11月13日

上告人

西村勇夫

外二名

右三名訴訟代理人

松永保彦

外七五名

被上告人

長崎市

右代表者市長

本島等

被上告人

白井清夫

右両名訴訟代理人

藤原千尋

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人松永保彦の上告理由二及び四について

原審が認定した事実の要旨は、(1) 昭和四二年四月当時未熟児網膜症の予防法としては、未熟児に対する酸素の投与を必要最少限度に制限すること、酸素濃度は四〇パーセント以上に上げないこと、酸素投与中の不適当な中止は危険であり、酸素投与を中止する際は濃度を徐々に減じて大気中に移すことなど、の方法がほとんど定説となつていたこと、右のような方法によつてもなお本症の発症のありうることを記載した文献は極めて少なく、むしろ反対にこのような方法に従つているかぎり安全であるとするものもあつたこと、しかし、酸素をあまり切りつめると死亡や脳性麻痺が増えるとされていたこと、(2) わが国における本症の発症例の報告は、少なくとも小児科関係の文献に関するかぎり極めて少なく、国立小児病院の眼科医師植村恭夫らは、昭和四一年秋以降研究の成果を発表し、本症の予防対策として未熟児の眼科的管理の重要性を強調したが、昭和四二年四月当時いまだ未熟児の眼科的管理は普及しておらず、わずかに国立小児病院では昭和四〇年一一月から、天理病院では昭和四一年八月から、関西医科大学病院などでは昭和四二年三月から、未熟児の眼科的管理を行うようになつたにすぎないこと、未熟児の眼底検査により本症の初期症状を判別できる眼科医は少なかつたのみならず、たとえ本症の発症を発見することができても当時確実な治療方法とみられるものは開発されていなかつたこと、(3) 長崎市立市民病院小児科医師であつた被上告人白井清夫は、かつて本症の発症を経験したことがなかつたこと、(4) 上告人西村好澄は、昭和四二年四月六日出生した際体重一四〇〇グラム、在胎週数三一週未満のいわゆる極小未熟児であり、翌七日同病院小児科に入院した当時は体重一二六〇グラムで呼吸障害が認められたから、酸素の投与が必要であつたこと、同日から同月二六日までの期間中同上告人の全身状態は非常に不良であつたこと、すなわち、同月一五日ごろから嘔吐が続き、しばらくミルクの哺給を中止せざるを得なくなり、同月一九日には体重が一〇七〇グラムまで低下し、出生時体重に比して体重の減少する割合が通常の場合に比べて著しく大きく、かつ、呼吸障害が認められたこと、右期間中に供給した酸素の濃度はせいぜい三〇パーセント程度であつたこと、同年五月六日から同月一七日まで及び同月一九日については、その全期間を通じて、呼吸数の上昇、呼吸促迫、無呼吸発作、呼吸停止の状態が継続し、チアノーゼも見られ、明らかに重篤な呼吸障害の状況にあつて酸素を投与する必要があり、その間の酸素濃度の最高もほぼ四〇パーセント程度であつたこと、右酸素投与の方法もほぼ前記予防法に従つて行われたものであること、というのである。右の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができる。

右の事実関係のもとにおいては、被上告人白井清夫の上告人西村好澄に対してした予防ないし治療の方法は、当時における本症に関する学術上の見解や臨床上の知見として一般に受容されていたところにほぼ従つて行われたものであつて当時の医学水準に適合したものというべきであり、その間特に異常ないし不相当と思われる処置が採られたとは認められないのであるから、小児科医師としての裁量の範囲を超えた不相当なものであつたということはできない。したがつて、同被上告人が同上告人に対して採つた本件酸素供給管理上の措置に過失があつたとは認められないとした原審の判断、並びに、同被上告人が同上告人に対する本件酸素の投与による本症の発症を予見し得なかつたこと及び同被上告人が眼科医に依頼して定期的眼底検査をしなかつたことをもつて同被上告人に過失があつたとは認められないとした原審の判断は、いずれも正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。

以上の点に関して所論は、同被上告人の採つた酸素供給管理上の措置が当時における医学水準に達しないものであつた点において同被上告人に医師としての注意義務に反し裁量を超えたところがあつたとの趣旨の主張をする。しかしながら、当時重篤な病状にあつた同上告人に酸素を供給することは同上告人の生命保持のため必要やむを得ない措置であつたと認められるところ、同上告人の生命を保持しつつ、本症の発症を未然に防止し又はその失明にいたる進行を阻止するのに適切な予防ないし治療の方法が存在したという事実は、原審の認定しないところであるばかりでなく、むしろ前記のように当時そのような方法はいまだ開発されていなかつたことが明らかであるから、所論は失当というほかはない。論旨は、いずれも採用することができない。

同その余の点について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(環昌一 江里口清雄 高辻正己 横井大三)

上告代理人松永保彦の上告理由

一、<省略>

二、責任規定(民法七〇九条、四一五条)の解釈、適用の誤り

過失行為とは、当然認識すべき事を不注意で認識しなかつたことにより他人の権利を侵害することである。

従つて、裁判所は先ず具体的に何をもつて「注意義務」とするかを明確に判示すべきである。

最高裁は、昭和三六年二月一六日、いわゆる梅毒輸血事件において注意義務につき、「いやしくも人の生命、及び健康を管理すべき義務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求される」としている。

しかし、具体的事件においては、右のように抽象的に述べるだけでは注意義務を特定したことにはならない。

原審は、右最高裁の判示を基本的姿勢として認識した上で、本件についての具体的注意義務を設定すべきであつた。しかるにこれをなしていない。

一審判決では、注意義務について「当時の医学水準の他に社会的地域的環境などを総合してきめる」としているだけで、それでは何をもつて当時の「医学水準」とするのかについては何ら明確にしていなかつたので、上告人は、控訴審において、この点につき右最高裁の判示に基き、詳細な「医学水準」の見解を示した。

しかるに、原審(二審)も又、医学水準とは何か、ということについては一言もふれないまゝ、ある事実をひととおり認定した上で、それらの事実を総合すれば過失ありとはいえない、という判断を示した。

(イ) 本件のような医療過誤事件においては、注意義務の設定が大変難しい。当時の一般医学水準を注意義務の基準だといつても、本件の如きは、従来の産科、小児科、眼科の各領域の、いわば谷間で生じる失明問題であるから、産科医、小児科医、眼科医のうちどの科の医師の注意義務としてとらえるのか、また、小児科医と眼科医の両者を合せてとらえるのかを先ず明確にすべきである。

右各科の医師も、開業医(個人経営)、医療法人病院、大学附属病院もある。数からみれば開業医の数の方が多い。

医学水準といつても、数の多い個人経営の開業医に基準をおくのか、研究の進んだ大学附属病院に基準をおくのか、その辺も明確にすべきである。

(ロ) また医学知識、技術の吸収がわずかの努力で容易に吸収、実施できるものであるかどうかを全く無視しては正しい注意義務の設定は難しいと思われる。

例えば一部の大学病院等で実施されている予防、検査、治療方法があつて、それが、どこの開業医でやろうと思えば容易に実施できるのに、多くの開業医が利益が少いとか、面倒である等の正当ならざる理由で、未だ吸収、実施していなかつた場合に、その知識、技術は、数の上で一般化していなかつたからその知識、技術は未だ注意義務とはならない、という事になるのであろうか。

そう考えるのはやはり正しくない。この点についても注意義務設定の前提として明確に判示すべきである。

しかるに原判決は、注意義務を設定するに当つての医学水準について、何ら明確にしなかつた。

そして、原判決において一応、日本の小児科学会における水準事項を設定して、その認定された事項をいきなり過失規定にあてはめて、結果過失なしという判断をしている。

右は要するに、過失規定の解釈を誤つて解釈した規定を適用している事になる。

又、判決に理由を附したかにみえるが、実は、要求される注意義務としての医学水準が明示されていないから、事実認定と判示結論との過程が不明確で、理由不備といわざるを得ない。

三、<省略>

四、事実認定上の法令違背

原判決は、「白井医師は昭和四二年当時、日本において本症が発症していること、それにより失明することがあり得ることを予見することはできなかつた」と判示し、従つて「予見できなかつた事項につき保護者に説明する義務もなく、又、治療を施す義務もない。従つて失明につき過失はない」と判示した。

これはあまりにも不合理な判決である。

即ち、原判決が示した証拠からは、「原判決が認定した事実」は認定されず、かえつて他の事実が認定される。この認定される他の事実から総合すれば、白井医師は昭和四二年四月当時、日本でも本症の発生があり得ること、失明する事のあり得る事は当然すぎるほど知つておくべき事であつた。

即ち、予見可能性はあつた。

従つて、予防、早期発見、治療の方法を誠実に実施すべきであつた。それを怠つたのは過失である。

その意味において、原判決には判決に影響を与える事明らかな法令の違背がある。

(一) 発症、失明の点について

(1) 原判決認定の通り、白井医師には昭和四二年当時本症があること、本症は酸素と関係があること、保育器中の酸素濃度を四〇%以上にあげないこと、徐々に濃度を下げること、等についての知識はあつた(白井医師の尋問調書参照、原判決三〇丁目表)。

(2) また、白井医師以外の日本の小児科医(五〇〇名位)は、昭和三二年頃には既に東京で行われた日本小児保健学会における馬場一雄教授の講演により、日本でも本症の実例を経験したことや、米国で多発していること、酸素の量の与え方などについて詳しく知る機会を得ている(証人馬場一雄調書一二三〜一二九頁)。

(3) 甲第五五号証の一、二、及び証人水口達彦の証言によつても昭和四二年までに一〇〇名の失明児がいる事が確認されている。その患者はすべて、その原因を担当小児科医に問い正しているであろう事が推認できる。

経験則に照せば、小児科医の間で、その失明は問題にされ、話題にされていた筈である。

(4) 小児科医に眼科向け医学雑誌までも熟読すべきとはいわないが、少くとも小児科医向けの昭和四二年頃までの雑誌である、甲第三〇号証の一〜七、甲第三一号証の一〜一三、甲第三五、三七、三八号証、甲第六一〜六三号証の一〜一二、や、眼科と小児科領域の本である、甲第六号証(小児眼科トピツクス)、甲第一九号証(小児の眼科)等は日本のほとんどの小児科医が、昭和四二年頃までには目を通すべきであり、かつ、目を通しているであろうと思われる本である。

(5) 以上は原判決が全て引用している証拠であるが、これらの証拠をもつてすれば欧米では勿論、日本でも保育器内の酸素との関係で多くの失明児が出ており、例え四〇%以下でも発症していることが認定できる。それなのに原審は、「四〇%以下であれば本症の発生はないかのように読める――(三三丁目裏)」とか、「もはや本症は発生しないものと考えられていた」と認定しているが、このような事実は右証拠からは認定できないのである。

唯一の治療方法を奪われた点について

原判決は白井医師に予見可能性がないから予見できない事について告知教示する義務はないと判示した。

しかし、予見可能性のある事は前述の通りである。そうだとすれば本症のあり得る事や、唯一ともいえる治療方法がステロイドの投与である事を保護者につげるべきであると判示すべきところであつた。

この点も過失規定の解釈、適用の誤りである。

(二) 発症予防の点における過失について

原判決は四〇%以下にとどめておけば、発症や失明はあり得ない、という程度の知識しか有しなかつた白井医師の指示に基いて、また、本症に関する知識の皆無な看護婦が、酸素供給調節を行つていた事、一日も早く酸素環境から解放すべきなのに全身状態の良い時においても、万一呼吸困難になつた場合の事を考えて慢然と三二日間、酸素を放流していた事を認定している。

その事実を前提とするかぎり、本件では医師の「自由裁量の範囲」をこえたところの、いわば当時の注意義務としての医学水準に達しない酸素の管理の仕方であつたといわざるを得ない。

この点、過失規定の解釈と適用を誤つているといえる。

(三) 眼底検査を実施しなかつた点について

原審引用の証拠からすれば、昭和四二年四月当時は少くとも、六ケ所の症院でおそくとも退院時には、本症発見の目的で眼底検査を実施していた事が認められるのに(控訴人の最終準備書面で明白にしている)、原審三ケ所(国立小児病院、天理病院、関西医科大病院)しか認定していない。

又、原判決引用の証拠(控訴人の最終準備書面七項の(五)(2)(C)〜四一丁目表を参照)の各文献と、右六ケ所で実施していた事実とを合せ考えると、これ又、注意義務としての医学水準としては、「少くとも退院時に一回位は眼底検査を行うべきであつた」とすべきものである。

この点は、引用した証拠と事実認定上の法令違背と、過失規定の解釈と適用を誤つているものといえる。

(四) 治療方法の点について

原判決は、白井医師に結果予見可能性がなかつたので、結果回避義務としての治療方法を施す義務もなかつた、と判示したため治療方法の有無、その効果については二五丁目にふれている程度である。

原判決引用の証拠(控訴人の最終準備書面第二項(5)〜一〇丁目裏参照)からすれば、ステロイドホルモンは本来の機能からしても新生血管を抑制する作用がある事、早期に使用する事で効果がある事が認められる。しかし、自然治癒する例の多い事との対比で強力な有効性が判定できないだけの事である。

今日においても天理病院の永田医師らは、光凝固術を実施する前に、ステロイドホルモンを与えており、その投与時期との関係からあまり効果がないとみると、光凝固術を行つていることに照しても、万能ではないが、治療効果はあるとみなければならない。

又、失明という一生涯の重大な十字架を背負うその子と両親にとつては、昭和四二年四月当時、ほとんど唯一の治療方法とされていたステロイドホルモンの投与を早期に実施してもらつていたら、少くとも弱視でくいとめる事も出来たのにと思う切なる気持ちを思えば、原審は、いま少しくステロイドの効果につき証拠を精査すべきであつた。

精査すればその効果は否定的ではなく、効果を認めなければならないのである。

それなのに原判決は、ステロイドにつきただの一行で、「その効果は否定的と解されている」と判示したにとどまつている。

この点、判決引用の証拠からの別の事実(効果があるという事実)が認定されるべきであつた。

よつて法令違背である。<以下、省略>

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