最高裁判所第三小法廷 昭和60年(行ツ)81号 判決 1987年11月10日
上告人 いわき税務署長
代理人 菊池信男 鈴木芳夫 浦野正幸 一杉直 植田和男 浅野正樹 猪狩俊郎 高橋静栄 ほか二名
被上告人 高柳博一
主文
原判決を破棄する。
被上告人の本件控訴を棄却する。
原審及び当審における訴訟費用は被上告人の負担とする。
理由
上告代理人藤井俊彦、同宮崎直見、同有本恒夫、同田邉安夫、同亀谷和男、同小澤義彦、同林勘市、同庄司勉、同験馬国夫、同岡崎長、同相馬正明の上告理由について
一 原審の適法に確定したところによると、(1) 被上告人は、耳鼻咽喉科医を業とする者であるが、昭和五四年分の社会保険診療報酬に係る事業所得の計算に当たり、租税特別措置法(以下「措置法」という。)二六条一項の規定を適用したうえ、総所得金額を四二三〇万〇九八七円、税額を一八二九万五〇〇〇円とする確定申告をした、(2) その後、被上告人は、昭和五五年七月九日、社会保険診療報酬につき取引実績を基礎とする収支計算の方法によつて計算すると、総所得金額は三六八三万〇三一九円、税額は一五〇一万二四〇〇円になるとして、上告人に対し更正の請求をした、(3) これに対し、上告人は、確定申告に際して選択した措置法二六条一項の計算方法を後日他の計算方法に変更することは許されず、更正の請求ができる場合に当たらないとして、被上告人に対し、更正をすべき理由がない旨の通知処分(以下「本件処分」という。)をした、というのである。
被上告人は、本訴を提起し、本件更正の請求は国税通則法(以下「通則法」という。)二三条一項一号により許される場合に当たり、更正をすべき理由がないとした本件処分は違法であるとして、その取消しを求めたところ、第一審は、本件処分に違法はないとして被上告人の請求を棄却したが、原審は、措置法二六条一項の規定に基づき必要経費を計算して確定申告をしたところ、これが現実の必要経費より過少で、そのため措置法の規定に基づいて算出した税額が所得税法の原則たる収支計算の方法により算出した税額より過大となつた場合には、通則法二三条一項一号所定の「当該計算に誤りがあつた」ものとして更正の請求が許されるべきであると判断して、第一審判決を取り消し、被上告人の請求を認容した。
二 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は次のとおりである。
措置法二六条一項は、医師の社会保険診療に係る必要経費の計算について、実際に要した個々の経費の積上げに基づく実額計算の方法によることなく、一定の標準率に基づく概算による経費控除の方法を認めたものであり、納税者にとつては、実際に要した経費の額が右概算による控除額に満たない場合には、その分だけ税負担軽減の恩恵を受けることになり有利であるが、反対に実際に要した経費の額が右概算による控除額を超える場合には、税負担の面から見る限り右規定の方法によることは不利であることになる(ただし、税負担の面以外では、記帳事務からの解放などの利点があることはいうまでもない。)。もつとも、措置法の右規定は、確定申告書に同条項の規定により事業所得の金額を計算した旨の記載がない場合には、適用しないとされているから(同法二六条三項)、同条項の規定を適用して概算による経費控除の方法によつて所得を計算するか、あるいは同条項の規定を適用せずに実額計算の方法によるかは、専ら確定申告時における納税者の自由な選択に委ねられているということができるのであつて、納税者が措置法の右規定の適用を選択して確定申告をした場合には、たとえ実際に要した経費の額が右概算による控除額を超えるため、右規定を選択しなかつた場合に比して納付すべき税額が多額になつたとしても、納税者としては、そのことを理由に通則法二三条一項一号に基づく更正の請求をすることはできないと解すべきである。けだし、通則法二三条一項一号は、更正の請求が認められる事由として、「申告書に記載した課税標準等若しくは税額等の計算が国税に関する法律の規定に従つていなかつたこと又は当該計算に誤りがあつたこと」を定めているが、措置法二六条一項の規定により事業所得の金額を計算した旨を記載して確定申告をしている場合には、所得税法の規定にかかわらず、同項所定の率により算定された金額をもつて所得計算上控除されるべき必要経費とされるのであり、同規定が適用される限りは、もはや実際に要した経費の額がどうであるかを問題とする余地はないのであつて、納税者が措置法の右規定に従つて計算に誤りなく申告している以上、仮に実際に要した経費の額が右概算による控除額を超えているとしても、そのことは、右にいう「国税に関する法律の規定に従つていなかつたこと」又は「当該計算に誤りがあつたこと」のいずれにも該当しないというべきだからである。このように解しても、納税者としては、法が予定しているとおり法定の申告期限までに収支決算を終了してさえいれば、措置法二六条一項所定の概算による経費控除の方法と実額計算の方法とのいずれを選択するのが税負担の面で有利であるかは容易に判明することであるから、必ずしも納税者に酷であるということはできないし、かえつて右のように所得計算の方法について納税者の選択が認められている場合において、その選択の誤りを理由とする更正の請求を認めることは、いわば納税者の意思によつて税の確定が左右されることにもなり妥当でないというべきである。
したがつて、右と異なる見解に立つて本件処分を違法とした原審の判断は、通則法二三条一項一号の規定の解釈適用を誤つたものというべきであり、右の違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点を指摘する論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、以上によれば、本件処分に違法はないとした第一審判決は正当であつて、被上告人の控訴は棄却されるべきものである。
よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判官 長島敦 伊藤正己 安岡滿彦 坂上壽夫)
上告理由
上告人は、上告の理由を次のとおり明らかにする。
原判決は、被上告人の昭和五四年分の所得税に係る更正の請求に対して上告人がした更正すべき理由がない旨の通知処分を違法として取り消したものである。すなわち、耳鼻咽喉科医を業とする被上告人は、租税特別措置法(昭和五五年法律第九号による改正前のもの。以下「措置法」という。)二六条を適用して確定申告をした後になつて、所得税法三七条一項、同法第二編第二章第二節第四款(以上の所得税法の条項を以下「所得税法三七条一項等」という。)に基づく必要経費を算出し取引実績を基礎とする損益計算の方法(以下「収支計算の方法」という。)により所得計算をしたところ、所得が措置法二六条適用による申告所得額を下回ることになつたとして更正の請求をした(以下「本件更正の請求」という。)。これに対し、上告人は、本件更正の請求は、国税通則法(以下「通則法」という。)二三条一項一号が規定する更正の請求ができる場合に当たらず、更正をすべき理由がない旨の通知処分をしたものであるが、原判決は、右処分は違法であるとしてこれを取り消したものである。しかし、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな措置法二六条、所得税法三七条一項等及び通則法二三条一項一号の解釈適用の誤りないし理由不備の違法がある。
すなわち、原判決は、「措置法は、所得税等の租税を軽減、免除することによつて特定の政策目的を達成することを目的とするものであり(同法一条)、同法二六条の社会保険診療報酬の所得計算の特例に関する規定の趣旨も、社会保険診療にあたる医師又は歯科医師に対する税負担を軽減することにより医療制度の安定と円滑な運用に資することを目的としたものである。」(原判決五丁表五行目ないし九行目)とした上、「措置法二六条の規定に基づき必要経費を算入して確定申告をしたところ、これが現実の必要経費よりも過小で、そのため措置法に基づいて算出した税額が所得税法の原則たる収支計算の方法により算出した税額より過大となつた場合には、そのような課税は、措置法の制定目的に反するものであるのみならず、実質上、所得なきものに課税する結果となるから、この場合には当該計算に誤りがあつたものとして更正の請求が許されるべきである。」(原判決五丁裏八行目ないし六丁表二行目)と判示し、さらに、「同条(上告代理人注・措置法二六条のこと)による租税優遇措置を受けようとしてこれを選択したことが、逆に本来の収支計算の方法による場合よりも税額を過大ならしめたとすれば、そこに錯誤の存することは明らかであり、当該計算に誤りがあつたことになる。」(原判決六丁裏末行ないし七丁表三行目)と判示したほか、本件のような更正の請求が可能であるとすると不合理な事態を招来するとの上告人の指摘に対して、「本件のような事例は措置法二六条の目的及び趣旨に照らし、頻発するものとは考えられない」(原判決七丁裏九行目ないし一〇行目)と判示した。
しかしながら、原判決には、(一) 措置法二六条の目的は専ら税負担の軽減にあるとし、納税者が同条を適用して確定申告をした場合においても、同条により算出した税額が収支計算の方法により算出した税額より過大となつた場合に、本件のように右過大となつた税額をもつて課税すること(以下「本件課税」という。)は、同条の目的に反することになると判示し、このことを更正の請求を認めることの根拠としている点において、措置法二六条の趣旨、目的についての解釈適用の誤りがあり(上告理由第一点)、(二) 本件課税は、実質上所得なきものに課税する結果になると判示し、またこのことも更正の請求を認めることの根拠としている点において、所得税法三七条一項等及び措置法二六条の「必要経費」についての解釈適用の誤りがあり(上告理由第二点)、(三) 本件申告につき被上告人には錯誤があり、通則法二三条一項一号にいう「当該計算に誤りがあつたこと」に該当するので、更正の請求が認められると判示している点において、通則法二三条一項一号の解釈適用を誤つた違法があり(上告理由第三点)、(四) 本件のような更正の請求を可能とすることについての不合理性を否定する根拠として、このような事例は頻発するものとは考えられないと判示した点において、理由不備の違法がある(上告理由第四点)、というべきである。
右(一)ないし(四)の上告理由第一ないし第四点について、以下、それぞれ項を改めて詳論する。
第一点 原判決には、措置法二六条の趣旨、目的についての解釈適用を誤つた違法がある。
一 原判決は、前記のとおり、措置法は所得税等の租税を軽減、免除することによつて特定の政策目的を達成することを目的とするものである旨判示しているが、措置法は、その一条において明らかなように、税の軽減、免除のほかに、納税義務、課税標準、税額の計算等について特例を設けることをもその目的としているのであつて、軽減、免除のみを目的とするものではない。このことは、同法二八条の四(土地の譲渡等に係る事業所得等の課税の特例)、三二条(短期譲渡所得の課税の特例)、六二条(交際費等の損金不算入)、六三条(土地の譲渡等がある場合の特別税率)の規定のように税負担を加重する規定が存することからも明らかである。
二 また、原判決は、措置法二六条の趣旨につき、前記のとおり、社会保険診療にあたる医師又は歯科医師(以下「社会保険医」という。)に対する税負担を軽減することにより医療制度の安定と円滑な運用に資することを目的としたものである旨判示している。しかしながら、同条は、昭和二九年に当時の診療報酬水準と相まつて、税制により社会保険医に一定の所得水準を保障するために立法化されたといわれている(昭和四九年一〇月四日付け税制調査会「社会保険診療報酬課税の特例の改善に関する答申」参照)ものの、同条は、当初、社会保険診療報酬の必要経費率を一律に七二パーセントと法定していたが、その後約二〇年を経過する間に、診療報酬水準の向上、医療経営の形態や規模の多様化等社会情勢の変化に伴い、医師相互間の収入の格差の増大により、必要経費率が七二パーセントを超える医師も少なからず生じ、社会保険医の所得水準の保障を図るという立法当初の考え方はその社会的、経済的素地を失つてしまい、また、一律七二パーセントという必要経費率が甘すぎるという社会一般の批判が強くなり、その改善の必要性が提唱されるに至つたのである。その際、もし措置法二六条の特例を廃止するとすれば、社会保険医は、社会保険診療報酬の請求に当たつて毎月極めて詳細な請求書を社会保険診療報酬支払基金に提出しなければならないのに、同保険医に対し、更に必要経費について厳密な記帳を要求することは無理な面もあるとの認識の下に、長年、経理の簡素化、課税の簡便性、安定性になじんできた法定経費率の制度を引き続き維持するとともに、より実態に近い概算的な経費率の導入の必要性が提唱され(前記税制調査会の答申参照)、その結果、昭和五四年法律第一五号による改正により、より実態に近い経費率として、社会保険診療報酬の金額を五段階に区分し、七二パーセントから五二パーセントまでの段階別の経費率に改められるに至つたのである。右経緯にかんがみると、措置法二六条は、その創設の沿革から税負担の軽減目的を含んでいたことは否定できないにしても、少なくとも昭和五四年法律第一五号による改正後においては、むしろ社会保険診療報酬に係る経理の簡素化、課税の簡便性に主眼が置かれているということができるのであつて、原判決が判示するように、社会保険医の税負担の軽減のみを目的とするものであるとは到底解しえない。ちなみに、同条三項において法定経費率によるか実額経費によるかを納税者の選択に委ねているのも同条一項が、税負担の面に関する限り、納税者に不利に働く場合があることを予定しているからにほかならない。したがつて、同条を選択して申告した場合の方が、収支計算の方法により申告した場合よりも、税負担の面では不利になることも当然に生じ得るのであるが、その場合でも、納税者にとつては必要経費に係る記帳事務から解放されるという大きな利点があり、同条を選択して申告したこと自体で同条の特例としての目的は達成されたと言い得るのである。
三 以上のとおりであつて、原判決には、本件課税が措置法二六条の目的に反するものであるとし、これを本件更正の請求を認める根拠とした点において、同条の解釈適用を誤つた違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
第二点 原判決には、所得税法三七条一項及び措置法二六条の「必要経費」についての解釈適用を誤つた違法がある。
原判決は、前記のとおり、措置法二六条により算出した税額が所得税法三七条一項等に基づく収支計算の方法により算出した税額より過大となつた場合には、実質上所得なきものに課税することになる旨判示している。
なるほど、収支計算の方法により算出した所得のみを絶対視しこれを尺度にして措置法二六条の計算による所得の正誤を論ずるとするならば右判示のようなことがいえるかもしれない。しかしながら、所得とは収入金額から必要経費を控除したものであるが、ここにいう必要経費及び所得はあくまでも租税実定法に根拠を持つ法律上の概念であつて、所得税法三七条一項等により算出される必要経費及び所得も、措置法二六条により算出される必要経費及び所得も、ともに租税実定法に根拠を持つ法律上の概念としての必要経費であり、所得である。すなわち措置法二六条が規定する必要経費の計算方法は特別法として定められたものであるから、同条が適用される限りにおいては、それによつて算出される所得が唯一の実定法上の所得であり、収支計算の方法により算出される所得と対比してその正誤を論ずる余地は全くない。
しかるに、原判決はこの理を解せず、収支計算の方法による所得金額に固執する余り、収支計算による所得と措置法二六条による所得とを比較し、前者の方が合理的であるとして後者の所得を無視し、措置法二六条の適用を否定した上、本件課税は所得なきものに課税することになるとし、これを本件更正の請求を認める根拠としているのであつて、この点で原判決には、所得税法三七条一項等及び措置法二六条に規定する必要経費の解釈適用を誤つた違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
第三点 原判決には、通則法二三条一項一号の更正の請求の要件についての解釈適用を誤つた違法がある。
原判決は、通則法二三条一項一号を拡大解釈し、本件申告につき被上告人には錯誤があり、通則法二三条一項一号にいう「当該計算に誤りがあつたこと」に該当する旨判示しているが、その根拠として、前記のとおり、<ア>「社会保険医に対する税負担を軽減することにより医療制度の安定と円滑な運用に資することを目的とした」措置法二六条の制定目的に反すること、<イ>実質上所得なきものに課税する結果となることに加え、<ウ>「昭和四五年法律第八号による改正前の通則法二三条が所得税における減額更正の請求を法定申告期限から二月以内に限るものとしていたのを一年以内としたことも救済を広く認める方策を明らかにしたものと解される」(原判決七丁表九行目ないし一一行目)ことを掲げている。
しかしながら、原判決の判示する通則法二三条一項一号の解釈は、その根拠とする理由の右<ア>及び<イ>において上告理由第一、二点で述べたとおり不当なものであるが、以下述べるとおり、通則法二三条一項一号自体の解釈としても誤つている。
一 通則法二三条一項一号の規定の趣旨そのものから、本件のような更正の請求は法理上認められる余地がない。
そもそも更正の請求は、納税者が自ら申告し、その申告自体に納税義務の確定の効果を認めるいわゆる申告納税制度の下において、申告書の提出後において、自己に有利に申告書記載内容の修正を認める制度である。そして、これを無制限に認めるときは濫用のおそれがあるのみならず租税行政の不安定につながり、申告による納税義務の確定という制度の趣旨にも反することとなるので、通則法は更正の請求をなし得る理由及びその期間を制限しているのである。したがつて、申告につき、およそ何らかの錯誤があればいかなる場合でも更正の請求が認められるべきであると解すべきでないことは多言を要しない。
ところで通則法二三条一項一号は、更正の請求が認められる事由として、「当該申告書に記載した課税標準等若しくは税額等の計算が国税に関する法律の規定に従つていなかつたこと又は当該計算に誤りがあつたこと」の二つに限定している。右にいう「課税標準等若しくは税額等の計算が国税に関する法律の規定に従つていなかつたこと」とは、国税に関する法律の解釈適用についての誤りであり、また、「当該計算に誤りがあつたこと」とは、法律の解釈適用は正しくなされているがその計算過程に誤りがある場合、例えば、課税標準の金額に五〇パーセントを乗じて税額を計算すべきところを誤つて六〇パーセントで計算してしまつたとか、差引計算を間違つたというような単純な計算過誤の場合、を指すことは文理上明らかである。これに対し、措置法二六条の規定を適用してなされた申告のように、納税者の任意の選択に委ねられた事項について、その選択の錯誤を理由とする更正の請求については、これを認めるときは申告による納税義務の確定が納税者の恣意に委ねられる結果となり、税務行政の安定を著しく損ない、通則法二三条一項一号が更正の請求の事由を限定した趣旨が全く没却されることは明らかであつて、通則法二三条一項の法意は、本件のような事由を更正の請求の事由から特に除く趣旨と解するのが相当である。
さらに更正の請求は、課税庁に通則法二四条による減額更正をすべき理由の存することを知らしめ、課税庁に減額更正処分の発動を促すものである。したがつて、右理由とは、本来、通則法二三条一項一号による更正の請求の有無にかかわらず、同法二四条による減額更正処分の理由となり得るものでなければならない。そうだとすると、本件のような更正の請求においても、被上告人からの本件更正の請求の有無にかかわらず、本来、上告人としては、被上告人のなした確定申告に対して減額更正処分をすべきであつた場合に、初めて被上告人からの更正の請求が認められる筋合である。
しかるに、措置法二六条による計算方法を適用するか否かは専ら納税者の自由な選択に委ねられているところであり(広島高裁昭和五〇年一二月二六日判決・税務訴訟資料八六号一四五一ページ)、納税者において措置法二六条による計算方法を選択し、これが計算に誤りなく確定申告した以上、その税額は適法に確定するのであるから、課税庁が本件申告につき収支計算の方法に変更して更正処分をなすことはできないものというべく、したがつて、本件のような更正の請求は、法理上も認められる余地がないものである。
二 また原判決は、前記のとおり、本件申告につき被上告人には錯誤があり、通則法二三条一項一号にいう「当該計算に誤りがあつたこと」に該当する旨判示している。
しかしながら、本件の場合には、被上告人は措置法二六条の特例計算によるという意思に基づき、確定申告書にもその旨を記載して申告したのであるから意思と表示の間に何ら不一致は認められない。原判決のいう「錯誤」は、単なる見込み違いとしてせいぜい動機の錯誤を構成するにすぎないのであつて、租税債務を可及的速やかに確定せしむべき国家財政上の要請のある租税法律関係において、かような見込違いに基づく更正の請求が認められる余地のないことは多言を要しない。
そして、いかなる場合に更正の請求を認めるかは、究極的には右のような租税法律関係の特殊性を考慮した立法政策の問題であり、これに応じ通則法は、更正の請求をすることができる者、期間、相手方、対象事項及び事由等を厳格に法定しているのであつて、右更正すべき事由に限つてみても、前記のとおり、およそ何らかの錯誤があれば更正の請求が認められるというものではなく、更正の請求が認められるためには、あくまで通則法二三条一項一号が規定する事由、すなわち「課税標準若しくは税額等の計算が国税に関する法律の規定に従つていなかつたこと」又は「当該計算に誤りがあつたこと」に該当する事実の存在が必要であることは当然の理である。
しかるに、本件においては、右の事由のいずれも認められないにもかかわらず、原判決は、被上告人の単なる見込違いをもつて、安易に「当該計算に誤りがあつたこと」に該当するとしたものであつて、通則法二三条一項一号の解釈適用を誤つたことは明らかである。
三 また、通則法二三条一項一号に関する原判決の解釈は、措置法二六条の規定の趣旨とも抵触し、不当である。
原判決は、本件課税について更正の請求を認めることにより、結果的に、納税者が措置法二六条による計算方法を、申告後において、収支計算の方法へ変更しうる権利があることを認めたのと実質的に同じになるが、このような解釈は、以下述べるとおり、誤つた見解というほかはない。
すなわち措置法二六条は一項において「必要経費に算入する金額は、所得税法第三七条一項及び第二編第二章第二節第四款の規定にかかわらず……金額の合計額とする。」(注・傍点は上告代理人において付記)と規定して、同条項が所得税法三七条一項等の一般規定に対する特別規定であることを明らかにするとともに、三項において「第一項の規定は確定申告書に同項の規定により事業所得の金額を計算した旨の記載がない場合には適用しない。」と規定しているのみであつて、社会保険診療報酬に係る必要経費について納税者が措置法二六条一項を選択してその旨確定申告書に記載した後にその変更を認める規定はなく、明文の規定がない以上、結局、右変更を許さざるものと解さざるを得ず、仮に原判決のように解釈するときは、措置法二六条三項が規定している文言に続けて、「必要経費の実額が第一項に定める経費率を超えるとき亦同じ。」なる趣旨の文言が加えられたのと同じことになり、立法論としてはともかく、解釈論としては到底許されないものといわなければならない。
したがつて、原判決が、本件確定申告書に措置法二六条一項の規定により事業所得の金額を計算した旨の記載があることは当事者間に争いのない事実であるにもかかわらず、同条項を差し置いて、更正の請求の名の下に収支計算の方法による変更を認める結果となつているのは措置法二六条の趣旨にも反し、それが誤りであることは多言を要しない。
さらに、確定申告に際し申告書に記載してなされる措置法二六条一項選択の意思表示が講学上にいう私人の公法行為であることは疑いがなく、公法行為においては私法関係におけるよりも法的安定性や法律関係の明確性が強く要請され、その取消し、撤回、変更が制限されると解されており、特に前述したような租税法律関係の特殊性にかんがみると、少なくとも租税法の分野においては、明文の規定がない限り、その撤回変更をなし得ないと解せられる。
しかるに、前記のとおり措置法においてはもちろん、その他右意思表示の撤回を認めた規定は存しない以上、更正の請求事由に結びつけて措置法二六条一項選択の意思表示を撤回することを認めることは申告行為の公共行為としての性質に照らしても許されないと解すべきである。
四 なお、原判決は、前記のとおり、「昭和四五年法律第八号による改正前の通則法二三条が所得税における減額更正の請求を法定申告期限から二月以内に限るものとしていたのを一年以内としたことも救済を広く認める方策を明らかにしたものと解される。」と判示するが、右改正は、従来更正の請求の期間が二月とされていたところ、このような短期間では納税者が自ら誤りを発見するのには短かすぎるという批判があつたため、納税者が自ら申告の誤りを発見するのは通常次の申告期が到来するときまでであることを考慮して、右期間を一年間に延長したものにすぎず、更正の請求の理由を拡張したものではないから、原判決の右の判示は誤解に基づくものである。
五 以上のとおりであつて、原判決は、通則法二三条一項一号の解釈適用を誤り、もともと更正の要件を欠く本件更正の請求について、これを許容すべきとしたものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
第四点 原判決には、本件更正の請求を可能とすることについての不合理性を否定した根拠に理由不備の違法がある。
一 原判決は、前記のとおり、本件のような更正の請求が可能であるとすると不合理な事態を招来するとの上告人の指摘に対して、本件のような事例は頻発するものとは考えられない旨判示している。
しかし、右判示は、何らの根拠に基づかない単なる推論にすぎず、原判決には理由不備の違法があるというべきである。
右判示は、社会保険医の大部分は措置法二六条一項による計算を選択し、しかも記帳をしないことを前提としているものと考えられるが、その前提自体誤りである。ちなみに、上告人の所轄区域内における措置法二六条一項の適用状況を、昭和五八年分についてみると次表のとおりである。
区分
適用あり
適用なし
合計
白色申告者
人員
(人)
一三〇
一
一三一
構成比
(パーセント)
九九・二
〇・八
一〇〇・〇
青色申告者
人員
(人)
四八
一一〇
一五八
構成比
(パーセント)
三〇・四
六九・六
一〇〇・〇
合計
人員
(人)
一七八
一一一
二八九
構成比
(パーセント)
六一・六
三八・四
一〇〇・〇
右によれば、青色申告者の約七〇パーセントが収支計算の方法に基づき確定申告を行つていることとなる。
したがつて、本件のような更正の請求が認められるとした場合には、右約七〇パーセントの者については、取りあえず措置法二六条一項を選択して確定申告をしておき、更正の請求期間中に決算をして更正の請求に及ぶ事例が多発することは十分予想されるところであつて、このことは確定申告期限を実質的に一年間延長するに等しく、租税債務の可及的速やかな確定を図つている所得税法一二〇条の規定が空文化するおそれがあるといわなければならない。
また、前記のとおり、措置法二六条の改正に伴い、必要経費率を五段階に区分し、必要経費率が実額に近づけられ、同条の主眼が経理の簡素化及び課税の簡便化に置かれている現在においては、同条を適用して申告している社会保険医の多くは、収支計算を行わないまま同条を選択適用して申告しているものと推察できるものであつて、本件のような更正の請求が認められるとした場合は、これらの者は、申告後における収支計算により申告額をいくらかでも下回ることが判明した場合には、すべて更正の請求をしてくることは十分予想されるのみならず、申告者の恣意による更正の請求がなされる度に、課税庁としては調査を行わなければならず、ひいてはそのことが一般の効率的な税務調査の進行を妨げることになり、措置法二六条の目的の一つである課税の簡便性、安定性の趣旨が全く没却される結果となり、不合理である。
二 さらに、本件のような更正の請求が可能であるとするならば、以下述べるとおり、税務行政上、種々の不合理な事態を招来することとなる。
1 租税関係の法的安定性を阻害すること
所得税法は申告納税制度を採用し、納税者の自発的意思に基づく申告に、納付すべき税額を確定させる効果を付与するとともに、申告が過大である場合には一年間に限り更正の請求という法定の手続によつてのみ過誤の是正を認めることとして租税債務の可及的速やかな確定を図つている(最高裁判所昭和三九年一〇月二二日第一小法廷判決・民集一八巻八号一七六二ページ参照)。
本件更正の請求の理由は、計算自体の誤りではなく、被上告人自らが任意に選択した計算方法自体を後日に至つて変更しようとするものであつて、自らなした申告につき後になつて全面的な計算のやり直しを求めるに等しく、かかる更正の請求は租税法律関係を極めて不安定のものにし、自主申告による租税債務の速やかな確定を意図する申告納税制度の趣旨に反するものであつて許されるべきではない。
なお、本件のような更正の請求を認めないと解したとしても、納税者は、課税標準等について最も良くその間の事情を熟知している者であり、しかも法が予定しているとおり法定申告期限までに決算を了しさえすれば、措置法二六条一項を選択する方が有利か否かは容易に判明するはずであるから、納税者に格別の不利益を与えるものではなく、申告期限までに当然なすべき決算を怠つた納税者を自主申告による租税債務の早期確定という要請を犠牲にしてまで保護する必要性は存しない。
2 課税庁の税務調査及び更正の権限の行使を阻害すること
措置法二六条一項を選択して申告があつた場合、課税庁は必要経費に関する限り、その特例経費の一部を否認する増額更正も、また、更正の請求に基づかない減額更正もできない以上、その質額について調査することもできないと考えられる。
しかるに、例えば更正の請求期間満了間近に更正の請求がなされた場合についてみると、課税庁はその時点で初めて必要経費の調査に着手することとなり、通常の場合よりもほぼ一年間調査が遅延することとなつて早期の税務調査が阻害され、ひいては十分な課税資料の把握ができないという税務行政上の弊害が生じ、社会保険医のみを他の一般の申告者に比し、不当に有利に取り扱う結果となるのみならず、課税庁に認められている更正の権限行使の期間を実質的に短縮するという、現行法上看過することのできない事態を招来する。
三 以上のとおりであつて、本件のような更正の請求を可能とするについては、種々の不合理が伴うのであつて、この点についての原判決の判示は理由不備の違法があるというべきである。
以上、上告理由第一ないし第四点で述べたとおり、原判決には、措置法二六条、所得税法三七条一項等及び通則法二三条一項一号の解釈適用を誤つた違法があり、右は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、また、理由不備の違法があるので、原判決は破棄されるべきである。
以上