最高裁判所第二小法廷 平成元年(オ)1628号 判決 1993年3月26日
上告人
細川義男
同
福島芳三
同
松本慎一郎
同
豊田和子
同
立松敏夫
同
松本孝七
同
森秀雄
同
山路とき
同
森川茂一
同
相原菊雄
同
渡上ふみ子
同
萩森健弘
同
箕浦久泰
同
清原登貴子
同
藤井鈴子
同
中川志ゆう
同
岡田せつ
同
西口正一
同
真弓義弘
同
岡村光雄
同
山下喜美子
同
石谷正光
同
伊藤由光
同
塩見和子
同
江川道紀
同
田辺元一
同
森川絹子
同
真川敏生
同
園田和夫
同
松浦弘之
同
豊田久男
同
宇田昌義
同
阪倉シゲ子
同
笠井金郷
同
川本隆
同
北出務
同
練木謙三
同
草深昭雄
同
園田隆章
同
篠木信一
同
田中まさ子
同
石井よしえ
同
辻浩哉
同
橋爪芳治
同
淡路豊
同
駒田幸雄
同
田岡生吾
同
藤田明
同
小林壽
同
福井設了
同
細川隆
同
増村良雄
同
江藤利和
同
山尾謙三
同
田中享
同
諸角昌吾
同
渡辺千枝
同
本多知行
同
草深とよ子
同
島川マサ
同
菊永とく
同
橋爪伸夫
同
植田孝市
同
牛田宗一
同
岡野修
同
中井虎雄
同
崎重正
同
手塚正義
同
高須しずえ
同
家木愃
同
田中よね
同
森川正年
同
諸角善治
同
森みよ子
同
鬼頭美津子
同
川西助七
同
東川香代子
同
田中堯
同
草深和子
同
草深良徳
同
笠井秋子
右八一名訴訟代理人弁護士
赤塚宋一
松葉謙三
石坂俊雄
村田正人
中村亀雄
福井正明
渡辺伸二
伊藤誠基
谷口彰一
被上告人
国
右代表者法務大臣
後藤田正晴
右指定代理人
佐藤浩樹
被上告人
三重県
右代表者知事
田川亮三
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告代理人赤塚宋一、同松葉謙三、同石坂俊雄、同村田正人、同中村亀雄、同福井正明、同渡辺伸二、同伊藤誠基、同谷口彰一の上告理由について
河川の管理についての瑕疵の有無は、道路その他の人工公物の管理の場合とは異なり、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、河川管理における財政的、技術的及び社会的諸制約の下での同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであると解するのが相当である(最高裁昭和五三年(オ)第四九二号、第四九四号同五九年一月二六日第一小法廷判決・民集三八巻二号五三頁、最高裁昭和五七年(オ)第五六〇号同六〇年三月二八日第一小法廷判決・民集三九巻二号三三三頁、最高裁昭和六三年(オ)第七九一号平成二年一二月一三日第一小法廷判決・民集四四巻九号一一八六頁参照)。そして、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として前示の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである(前掲昭和五九年一月二六日第一小法廷判決参照)。
原審の適法に確定した事実関係によれば、(1) 志登茂川(以下「本件河川」という。)は溢水しやすい河川特性を有していたが、古くから農業用水として利用されてきたため、その流域が農業地帯であり、河川が農業用水として利用されていることを基本とする治水理念の下に管理されてきた。すなわち、洪水を防ぐ目的で大規模な築堤をし、あるいは河幅を拡張するのは、費用と労力を要するばかりでなく、右拡張の分だけ農地を取り潰さざるを得なくなるのに対し、水田地帯に溢水流を湛水させるのであれば、それが一定水深で、かつ一定時間である限り、稲の収穫にとってさしたる障害にはならないから、あえて築堤や河幅の拡張をせずに無堤地帯から溢水させ、本川の減水とともに溢水流を川に再流入させるという治水理念が採用されてきた、(2) しかしながら、昭和四六年に二度にわたって洪水の被害を受けたことを契機として、昭和四七年度から本件河川につき中小河川改修事業としての全体計画を策定し実施するものとされ、右全体計画は昭和四七年六月に確定され、本件河川の改修工事は以後これによって進められた、(3) 右全体計画において、本件河川の今井橋、横川合流点、毛無川合流点をそれぞれ基準点として一〇〇年確率及び三〇年確率による計画高水流量が定められたが、それによれば、一〇〇年確率では、今井橋で毎秒四〇〇立方メートル、横川合流点で毎秒五三〇立方メートル、毛無川合流点で毎秒六六〇立方メートル、三〇年確率では、今井橋で毎秒三〇〇立方メートル、横川合流点で毎秒三一〇立方メートル、毛無川合流点で毎秒三九〇立方メートルとされた。そして、前田川合流点付近から毛無川合流点までの四三二〇メートルについて河道の直線化、河幅の拡張、堤防の整備、平野井堰及び今井井堰の改築、橋梁の架け替え等が計画された、(4) 右全体計画の第一期計画は、昭和四七年から同四九年まで事業費を三億円として前田川合流点付近から横川合流点までの三一〇〇メートルの区間を対象とするものであり、流下能力を増やすために平野井堰の改築が計画され、そのための地質調査、構造物の設計がされた。また、平野井堰の上流部の河幅の拡張が計画され、用地買収の交渉が行われたが、これは予定どおりには達成できなかった、(5) しかし、昭和五〇年以降、農業用水の水利権者等との調整が行われ、平野井堰の改築が施工され、また、その上流の用地買収も実施され、さらに、昭和五一年、五二年に上流に向かって用地買収、護岸工事、橋梁の架け替えが実施された。平野井堰から前田川合流点まで流下能力毎秒一五〇立方メートルを確保する工事は昭和五七年に完成したが、この間に要した事業費は五七億四一〇〇万円であった。続いて、全体計画で定められた毎秒三〇〇立方メートルを確保すべく毛無川合流点から上流に向けて改修工事にかかり、昭和六〇年度から同六二年度まで事業費約一一億四四〇〇万円をかけて用地買収を行い、現在も改修を継続している、というのである。
右事実によれば、本件河川は前示の判断基準にいう既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中の河川というべきである。論旨は、本件水害が発生した昭和四九年七月当時、本件河川につき前記全体計画に基づく改修工事は着手されていなかったから、本件河川は改修中の河川には当たらない旨主張するが、前記事実によれば、本件河川については昭和四七年六月に全体計画が確定され、昭和四七年から同四九年にかけて、その第一期計画に基づき、対象となった区間につき改修工事が具体的に計画され、その実施に必要な用地の買収交渉が行われていたのであるから、本件河川は改修計画に基づき現に改修中の河川というべきである。
そうすると、本件河川については、前示の判断基準により、前記全体計画が格別不合理なものと認められないときは、前示のような特段の事由が生じない限り、その管理に瑕疵があったとすることはできないというべきである。
原判決は本件河川の管理瑕疵の有無を判断するについて右の判断基準によったものであって、その判断方法は正当である。そして、前記全体計画が合理的なものであり、本件河川について当初の計画の時期を繰り上げるなどして早期に改修工事を施行しなければならない特段の事由が生じたものとは認められないとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係及びその説示に照らし、正当として是認することができる。また、本件河川の改修計画は遅くとも昭和四〇年には実施されるべきであり、前記全体計画は緊急性に反する旨の上告人らの主張を排斥した原審の認定判断も正当として是認することができる。論旨は、違憲をいう点を含め、独自の見解に立って原判決を論難するか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官木崎良平 裁判官藤島昭 裁判官中島敏次郎 裁判官大西勝也)
上告代理人赤塚宋一、同松葉謙三、同石坂俊雄、同村田正人、同中村亀雄、同福井正明、同渡辺伸二、同伊藤誠基、同谷口彰一の上告理由
目次
はじめに
上告理由第一点
原判決は、河川管理の瑕疵につき昭和五九年一月二六日大東水害訴訟最高裁判決(以下「大東判決」という)に従い、次のとおり判示した。
「既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中の河川の管理についての瑕疵の有無については、右計画が、当該河川に過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他自然条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合考慮し、財政的、技術的、社会的等諸制約のもとで、同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして合理性を有するか否かを判断して、これが格別不合理なものでないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき早期に改修工事を施行すべき特段の事由が生じない限り、右部分につき、改修が未だに行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできない」(「大東水害訴訟最高裁判決」参照)とし、志登茂川に対する全体計画は、「三重県内の二級河川の管理状況及び全国における二級河川の管理の立ち遅れ(整備率は13.7パーセントときわめて低いこと)に対比して判断すると、合理的なものとしてこれを是認することができる」というのである。
しかし、右判断は、国賠法第二条第一項の解釈・適用を誤ったものであり、その誤りが判決に影響を及ぼすべきことは明白である。
上告理由第二点
原判決は、本件水害について、大東水害最高裁判決をそのまま適用しているが、本件については、被上告人と行政上一体関係にある三重県開発公社が一身田団地を志登茂川の溢水流の流路に造成し、一身田地区の水害被害を激化させる直接の原因を作出した者(危険作出者)であるから、その場合は危険作出者は、遅滞なく作出した危険を除去軽減する措置を講ずべき責任を生じる(危険責任主義)べきであり、大東水害最高裁判決の適用は排除されるか、あるいは適用をするとしても右のような場合は、各種制約論は妥当せず、直ちに改修に着手すべき緊急性がある場合に該当するとの修正適用をなすべきであるところ、原判決は、大東水害最高裁判決の解釈を誤り、河川法一条、二条一項、および同法一六条三項、国家賠償法二条一項の法令解釈の誤りを犯し、もって、本件水害時本件志登茂川の河川管理に瑕疵はないとの結論を導いているもので、右は判決の結論に影響を及ぼすこと明らかであるから、破棄すべきである。
上告理由第三点
原判決は、理由三項2(一)(二)(三)において、志登茂川に対する「昭和四七年六月確定し、実施された全体計画は合理的なものとして是認しうる」旨判示するが、一定の方向に結論づけることのみ性急であって、その全体計画がどのような内容をもち、水害防禦の見地からいかなる点で合理的なものとして是認しうるかということに関し、何ら事実審理がなされたことはなく、従って、判決理由にも、右の点に関する具体的説示はない。
これでは判決のよって来る理由について合理的説明は無きに等しい。
従って、原判決の右判断には採証法則違反、審理不尽、理由不備の違法が存し、この誤りは判決の結論に影響すること明らかである。
上告理由第四点
原判決は、理由二、3において「昭和四〇年以降同五五年までの三重県の歳出予算決算総額に占める土木費の割合は、平均21.7パーセントであり、河川海岸費が土木費に占める割合は平均29.3パーセントである。しかるに、この間の全国平均は前者が20.8パーセントであり、後者が21.5パーセントであることからしても、三重県が災害復旧に追われている様がうかがえる」と判示しているが、右のような数字の比較から、なぜ三重県が災害復旧に追われているという結論が導きだせるのか不明であり、採証法則違反、理由不備の違法があり、右誤りは、判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
上告理由第五点
原判決は、理由二4において「志登茂川の改修は単に河道の拡張にとどまらず、両井堰の改築をも伴うものとなり多大な費用と歳月を要するばかりでなく、複雑な水利権が先に認定した志登茂川の治水理念とも絡んで用地買収が困難を極めるであろうことは容易に推認されるところであった。」と認定しているが、右認定には採証法則違反・理由不備、審理不尽の違法があり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
上告理由第六点
原判決理由二4において、志登茂川の改修が進まなかった社会的制約として「志登茂川が古来農業用水として利用されて来た歴史的沿革からみて、流域住民としては、多少の溢水はやむをえぬものとして忍受する風潮にあったことも社会的制約となっていたと認めるのが相当である」と認定している。
原判決の右のような認定は、社会的制約論について国賠法二条の解釈を誤ったものであり、判例違反でもあり、経験則違反であり、ひいては理由不備の違法がある。
上告理由第七点
原判決は、理由三、3において、一身田団地開設が同地区の水害を激化せしめる原因となったまでは直ちに認めることができないと認定しているが、右認定には、採証法則違反及び理由不備の違法があり、この誤りは、判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
上告理由第八点
原判決は、理由三、3において、上告人らの団地造成責任の主張に対し、「一身田団地を開設したのは、控訴人三重県が県議会の議決を経て設立した財団法人三重県開発公社(後に組織変更して三重県土地開発公社)であるのに対し、志登茂川の管理は、河川法一〇条によって国の機関としての三重県知事の行うもので、本来主体が異なるものであるから同被控訴人らのこの点の主張は採用することができない。」と判断しているが、国賠法二条の河川管理責任の有無を判断するにあたっては、形式的な法主体の異別性にとらわれることなく、県、県知事、公社の相互の関係はどうであったのか、河川管理者は河川からの溢水の影響を考慮し溢水を堰き止めるような位置に団地を造成することを中止しうる立場にあったかどうかという、その実質面に着目してなされるべきものであり、この点において原判決には国賠法二条の解釈を誤った違法があり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかで原判決は破棄されなければならない。
上告理由第九点
原判決は、理由三、2、(三)において志登茂川は昭和四〇年当時、特に緊急に改修を要する状態になかったと認定したが、右認定に採証法則違反、経験則違反、理由不備及び審理不尽の違法が存し、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
上告理由第一〇点
原判決は、理由三、1において、志登茂川の河川管理の瑕疵の有無について大東水害最高裁判決を引用したうえ「本件水害は、昭和四七年六月に確定し、実施された全体計画に基づいて第一期計画が進行中に発生したことは先に認定した通りである。よって右全体計画の合理性について判断する」と判示し、志登茂川の河川管理の瑕疵の有無を改修計画の合理性の有無の問題であるとしているが、志登茂川は、現に改修中である河川ではないから、同種・同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているかを基準として判断すべきであり、原判決は採証法則違反、経験則違反、理由不備、法令違反(大東水害訴訟最高裁判決の解釈を誤った違法)の違法があり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
上告理由第一一点<省略>
おわりに
はじめに
昭和五九年一月に言い渡された大東水害最高裁判決から、五年を経過した。
大東水害最高裁判決は、一部のダム水害判決を除きその後の水害訴訟を全て敗訴に導いた。
大東水害最高裁判決の理論は、水害被災住民のみならず大多数の国民の裁判所に対する期待に反するものである。
大東水害最高裁判決が下級審に与えた影響は、極めて甚大であり、下級審の判決の内容たるや証拠の吟味を忘れ、事実をねじ曲げ、ただ大東水害最高裁判決の理論にいかに当てはめようかと腐心しているのみなのである。
志登茂川水害訴訟の原審判決も厳密な検討をせず、恣意的に証拠を引用し、恣意的な証拠も引用出来ないところは、被上告人らの主張をそのまま認定しているのである。
原審判決がいかに杜撰な判決であるかは、以下詳細に論述するが、最高裁判所は、大東水害最高裁判決に対する国民の批判に謙虚に耳を傾け、水害訴訟における国賠法の解釈につき再考をする時期にきていると考える。
上告人らは、以下原審判決が破棄されねばならない理由を述べる。
上告理由第一点
一 はじめに
原判決は、河川管理の瑕疵につき昭和五九年一月二六日大東水害訴訟最高裁判決(以下「大東判決」という)に従い、次のとおり判示した。
「既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中の河川の管理についての瑕疵の有無については、右計画が、当該河川に過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他自然条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合考慮し、財政的、技術的、社会的等諸制約のもとで、同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして合理性を有するか否かを判断して、これが格別不合理なものでないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき早期に改修工事を施行すべき特段の事由が生じない限り、右部分につき改修が未だ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできない」(前掲「大東水害訴訟最高裁判決」参照)とし、志登茂川に対する全体計画は、「三重県内の二級河川の管理状況及び全国における二級河川の管理の立ち遅れ(整備率は13.7パーセントときわめて低いこと)に対比して判断すると、合理的なものとしてこれを是認することができる」というのである。
しかし、右判断は、国賠法第二条第一項の解釈・適用を誤ったものであり、その誤りが判決に影響を及ぼすべきことは明白である。
そこで、まず、原判決の右誤りの原因となった大東判決の問題点を指摘し、次に、原判決の法令違背を論証することとする。
二 大東判決の問題点
1 大東判決の問題点の要旨
従来、国賠法二条一項の営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいうとされ(大阪空港騒音公害判決・最判五六・一二・一六・判例時報一〇二五号三九頁)、そして、右の瑕疵が認められるかどうかは、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきものであると解されてきた(最判昭和五三・七・四・民集三二巻五号八〇九頁)。しかるに、大東判決は、河川の管理についてのみ、同種、同規模の河川管理の一般水準と社会通念なる基準を持ち込み、瑕疵基準を一層厳格なものにしているほか、改修中の河川の瑕疵基準については、より一層責任範囲を限定した内容になっており、従来の瑕疵概念とは全く異質のものであるばかりか、基準としての機能さえ持ち得ない全く不当なものである。大東判決は、
まず第一に、河川管理の一般水準という基準を瑕疵判断基準の一つとすることは、河川行政の現状をそのまま追認する結果となる。蓋し、社会通念という概念は、その内容が不明確であるとはいえ、規範的要素を含む用語として用いられてきたものであるのに対し、河川管理の一般水準とは正に現状そのものであり、現在の一般水準に達してさえおれば、瑕疵の存在を否定する方向に働くという意味において、現状追認的であるからである(芝池義一法律時報五六巻五号五二頁)。
第二に、大東判決は、同種・同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているかどうかを判断せよと述べているが、そもそも類似の河川とは何を指すのか曖昧であるばかりか、衡量の対象が、あまりにも広範囲・無限定であり、判断基準としては殆ど用をなさない。右基準を抽象的に適用して判断を下すとすれば(つまり「……を総合的に考慮し、河川管理の一般水準及び社会通念に照らせば」と述べて結論に至るという形であれば)、結局は、右基準は何ら判断要素としての役割を果たすものではなく、いわば「裁判官の腹ひとつ」で瑕疵の有無が決められることになる。他方、右基準をもっと具体的に細かく、右挙上の要素をひとつひとつ検討して結論に至らねばならないとすると、厖大な資料、要素の検討が必要であり、実際上、これを適用しての判断はそもそも司法裁判所の判断になじまないばかりか、極めて困難か不可能なことである。
第三に、大東判決の「現に改修中である河川」についての瑕疵判断基準である。「改修計画の格別の不合理性」については、訴訟で河川の特定箇所の管理のあり方が問題となっているときに、何故、水系全体の改修計画の合理性が問題となるのか、道路については、道路整備計画との関連なしに瑕疵が判断されるのに、河川については何故計画の合理性という視点が入るのか大いに疑問が残る。また、改修計画の合理性の有無については、同種・同規模の河川管理の一般水準及び社会通念からして格別不合理なものと認められるか否か判断すべきとするが、現実の予算の枠を所与の条件とし、かつ、計画策定に当たっての河川管理者の裁量的判断を尊重するとすれば、その判断は、河川行政の追認に終わらざるを得ない。
以上のとおり、大東判決は、真に貧弱なわが国の河川行政の現状を追認する役割を果たすだけに終わり、被害者の可及的救済を理念とした憲法一七条や国家賠償法の理念に悖るものと言わざるを得ない(なお、大東判決に対する詳細な問題指摘は、原審昭和六一年八月八日付準備書面で行っている)。
2 大東判決後の水害判例
(一) 大東判決後の水害訴訟判決をみると、前述した大東判決の問題点が浮き彫りになっているばかりか、更に問題点を拡大している。
大東判決以来、本件を含め、少なくとも一五件の水害訴訟判決が出されたが、下水道(平野川水害訴訟大阪地判昭和六二・六・四判決)やダム(厚東川ダム水害訴訟山口地判昭和六〇・五・一六判決、長安口ダム水害訴訟徳島地判昭和六三・六・八判決、大迫ダム水害訴訟大阪地判昭和六三・七・一三判決)の設置管理の瑕疵を認める判決は若干あるが、河川の設置管理の瑕疵を認めたものは存在しない。
これらの被災者側敗訴判決においては、当該河川の管理の状態が、「一般水準」にあるか否かの判断については、当該河川への治水投資額とその改修率をもって指標となし、これが平均もしくはそれ以上であれば、一般水準にあるものとし、改修計画の合理性については、河川管理者の主張をそのまま受け入れ、「格別不合理なものがあるとはいえない」とするのが共通した特徴である。
ところが、本件志登茂川については、治水投資額とその改修率が、著しく低位に位置するため、原判決は、その具体的数字につき、他河川との比較をなし得ず、それがため、「三重県内の二級河川の管理状況及び、全国における二級河川の管理の立ち遅れに対比して」と全く論拠のない一般論をもて遊んで計画の合理性を無理矢理認定したのである。
(二) 機能しない「一般水準論」
以上のとおり、大東判決以後の水害訴訟判決は、当該河川が管理の一般水準を満たしているか否かについては、治水投資額と改修率を指標として点検するのが通例である。しかし、河川管理の水準は、一定期間の治水投資額と改修達成率だけで表されてよいものではない。治水上の管理の終局の目標は洪水の防禦である。それ故、管理水準の指標は少なくとも想定されている洪水に対してどこまで制御が可能となっているかであって、日常の維持管理をふくめてその安全性が問題とされなければならない。一般水準との比較をなすとすればこうした観点からの比較がなされるべきことは当然である。大東判決以後の水害訴訟判決にはこうした視点が全く欠落している。
以上に見たとおり、大東判決後の下級審判決では、確かに「同種・同規模の河川管理の一般水準及び社会通念」という判文を例外なく使用はしているが、その実質は何の比較もしておらず、同判文は大東判決に従って消極的な瑕疵認定を行う旨の表明をする単なる修辞語にしかなっていないといって過言でない。
そして、このことは、「同種・同規模の河川管理の一般水準」という大東判決の瑕疵判断の基準が、実は、下級審の瑕疵判断の基準になり得ていないことを意味する。そうであれば、大東判決の示した右瑕疵判断基準は、実際的には下級審の判断に役立たず、結局は、裁判規範として機能しないということになるのである。
(三) 大東判決以後の水害訴訟判決の第二の問題点は、大東判決が「過渡的安全性」で足りるとするため、水害の発生が予測できた場合(横浜地裁横須賀支部判昭和六〇・八・二六・平作川水害判決、大阪地判昭和六二・六・四・平野川水害判決)や、改修工事には技術的・財政的制約がない場合(大阪高判昭和六二・四・一〇大東水害差戻審)にでも、瑕疵が否定されたり、また、古くから改修事業が進められ、その河川管理の整備状況が、わが国の河川管理の一般水準を上回る優良河川の破堤型水害についても、改修途上の河川であるから、過渡的安全性で足りるとしたり(岐阜地判昭和五九・五・二九・長良川水害墨俣判決)、工事実施基本計画に基づく改修工事が完成した河川区間において、河道に人工的に付加された許可工作物(堰)が原因で堤内地に水害が発生した場合(東京高判昭和六二・八・三一・多摩川水害控訴審判決)にまで不当に拡大されてきていることである。
これらの判決は、怠慢な河川行政を追認しなければならないという結論を導き出すがために、大東判決のいう「諸制約のもとでの同種・同規模の河川管理の一般水準」という抽象的概念を恣意的に操作したに過ぎない。
3 以上の判決を通覧すれば、大東判決の瑕疵判断基準は、河川管理の瑕疵を否定せんがためのものであったとしか理解し得ない。そうであれば、国賠法二条一項の「河川」の文言は空文となる。
これは、司法権が国権の最高機関たる立法府の制定した法律に対し、消極的立法をなしたことを意味する。これは、三権分立を統治原理として採用する現行憲法下では、容認し難い現実である。最高裁は、このような違憲状態を一刻も早く解消するため、憲法一七条、国賠法の趣旨である被害者の可及的救済の理念に立ち返り、大東判例を変更するか、同判決の適用範囲を右理念に沿った限定的なものとしなければならない。
三 国賠法二条一項の解釈・適用の誤り
大東判決を引用した原判決は、国賠法二条一項につき、憲法一七条、一四条、二五条の趣旨より要請される被害者の可及的救済、損害の公平な分担という国賠法の基本理念、河川管理の法的責任の特質、差止違法と賠償違法の区別を正しく理解せずに解釈し、適用したものである。
1 国賠法の基本理念
憲法一七条は「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときには、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる」と規定する。その趣旨は、従来、国家無答責であった分野について、国又は公共団体の賠償責任を認めて被害者を可及的に救済することにある。従って、この憲法の規定を受けて制定された国家賠償法一条及び二条の解釈運用の第一の指導理念は、被害者の可及的救済にあることは、いうまでもない(古崎慶長・国家賠償法研究一一一頁)。
また、損害賠償制度において、発生した損害の危険負担をだれに負わせるべきかの判断について「損害の公平な負担」の理念が機能すべきことは等しく承認されているところである。それは憲法一四条、一七条、二五条の具体化の必然の帰結といってよい。国賠法は、法治国家の原則の下での国の不法行為による損害の賠償責任に拘わる法律なのであるから、損害賠償法の理念としての損害の公平な分担の考え方がその基本に据えられねばならないことは当然である。
損害賠償責任論では、現実に生じている被害を救済するかどうかが問題なのであって、河川管理の現状がどうなっているかではなく、規範的に、どういう場合に、被害者を救済したらよいのか、逆に言えば、被害者に損失をかぶせておいてかまわないのかという観点からものごとを考えなければならない。
これまで、最高裁を含め裁判所は、公害訴訟などで、企業の経済性を無視してでも安全対策をとらなければ、企業に過失があるとしたり、医療過誤訴訟で、「実験上最善の注意義務」を尽くさなかったとして、医師の過失を認定し、損害賠償を命じてきた。これらの注意義務を私企業や医師に課すことが、やや過酷な場合であっても、被害が生じた場合には、加害者側が被害回復の責を負うべきだという被害者救済の視点が右判決を生んだのである。
営造物責任の場合も、事の本質は全く同一である。河川管理の現状がどうであろうと、発生した被害に救済を与えるべきか否かという視点から、規範的な判断をすべきである。相手が私企業である場合と、国である場合とで、過失や瑕疵の判断に極端な差を設けるべき理由は何一つとしてないのである。
また、最高裁は、道路の瑕疵に関する訴訟において、国側の不可抗力の抗弁あるいは、予算のないことを理由とする責任回避の抗弁を排斥し、国に、厳しい道路管理責任を課してきた。おおよそ、そんなところにガードレールを付けるとすれば、十年先に付けてもよさそうな場合でも、そこで、事故が発生した場合、被害者救済の論理を正面に据え、瑕疵を認定してきたのである。被害者の可及的救済、損害の公平な分担の理念から河川と道路とで、瑕疵判断基準に大東判決のごとき差を設ける理由はどうしても見出すことはできない。
さらに、大阪空港訴訟、名古屋新幹線訴訟などの場合、施設の公共性を理由に、損害の発生源の差止は、残念ながら認められなかったが、これらの施設の存在によって被る被害が、人々の受忍限度を超える場合には、その損害だけは、これを補償すべきだと判断した。これは、被害者救済、社会的損失の公平な分担という損害賠償制度の基本理念を忠実に適用した結果である。戦後だけでも七回にわたって床上浸水被害を受け、被上告人らが主張する志登茂川より優先して改修した一二河川や志登茂川と同種・同規模の七河川と比べても、最も多くの家屋浸水被害を受けた、上告人らを含む水害被害者の被害は、明らかに受忍限度を超えている。このような受忍限度を明らかに超えた水害被害を受けた住民を救済しなければ、社会正義と公平に反するとの規範的判断がなされなければならない。
2 「差止」違法と「賠償」違法との厳格な区別
(一) 「損害の公平な分担」「被害者の可及的救済」の理念を具体化する際に、最も留意しなければならないのは、「差止」違法ないしは「行政法上の河川管理権限」の違法性と「賠償」違法とを明確に区別することである。
すなわち、国賠法の解釈にあっては、行政庁の権限行使・不行使そのものの合法・違法ではなく、その不行使によって生じた損害の賠償責任の問題として、損害賠償制度の理念に適合した独自の評価をすべきなのである。これを国賠法二条の河川管理責任に関していえば、水害発生の結果としての損害賠償請求においては、防災対策としての築堤義務を直接的に行政に求める場合(水害発生の差止を求める場合)とは別途の評価がなされなければならないということである。
(二) ところが、大東判決は、「河川管理者に住民私有の堤防の買受け又は代替堤防の築造義務の有無」の要件を判示した最高裁昭和五三年三月三〇日判決と同様の瑕疵論を展開した。これは、法理論上、広く承認されている不法行為の分野における「差止」違法と「賠償」違法との区別或いは、行政法上の河川管理権限の違法性と国賠法上の損害賠償責任要件たる河川管理の違法性の区別を、全く無視するものである。
河川管理には、大東判決のいうような特質と諸制約が存在し、河川管理者がそのような制約のもとで自己の裁量に基づいて河川管理行政を進めていくことが事実であるとしても、そのことは、かかる裁量の範囲内の行為については、河川管理者は原則として、国賠法上の責任は問われない、と結論すべき理由にはならない。言い換えれば、たとえ行政上の見地からは合理的な裁量に基づく河川管理行為であっても、現実に行われる河川管理者の裁量のもとに実施される河川改修なるものは、臨機の変更が可能なばかりでなく、それ自体、しばしば政治的影響力によって実施の順序が決定されることさえあるのが、行政の実態であるが、国賠法二条一項の管理の瑕疵が肯定される余地は依然存在するのである。すなわち、河川管理行政は、前記の諸制約のもとでいかに効率的に河川の安全性を達成するかという目的のもとに実施されるものであり、したがって、かかる行政上の責任を充分果たしたか否かは、右のような合目的的見地に立って検討されるべきものであるのに対し、損害賠償責任の一分野である国賠法二条一項の責任は、損失の社会的かつ公平な分担を目的として定立されたものであり、したがって、かかる見地から責任の限界が論じられるべきものである。そうだとすれば、両者の責任の範囲が一致しないことがあるのは論理上当然のことであり、同時に、合理的な裁量のもとに河川行政を実施していたとの一事をもって、河川管理者が国賠法二条一項の責任を免れることはできないのである。
3 河川管理行政の特質
(一) 前述した国賠法の基本理念に基づき、国に賠償責任を負わせる上で、重要な判断要素となるものは、国が損害発生に対し、第一次的責任を負うべき立場にある行政行為であるのか、第二次的な後見・監督責任(例えば薬害訴訟における国の加害企業を監督する責任等)を負うに過ぎない類型に属するものであるのか等、その行政行為の役割と、それにかかわる国の法的責任の性質を的確に把握しなければならない。蓋し、一般的には、国の法的責任が、第二次的な後見・監督責任を負うに過ぎない場合に比し、第一次的責任を負う場合の方が、当然に国の責任は重く、国賠法上の過失や瑕疵の判断は認められやすくなるといえるからである。
(二) 河川管理は、河川法の法体系のもとで、行政によって独占的に行われている行政行為であり、国民に対し、命令的行為(禁止・許可等)として、具体的に執行されている。すなわち、河川管理の権限は、中央集権化され、極端な言い方をすれば国民は管理者の許可なくして河川堤防に指一本触れることはできないのであり、仮に、国民が当該河川に危険性を感じて私財を投げ打ってでも河川を改修し、安全のうちに生存したいと考えてもそれは許されない。ここでの国の責任は、薬害訴訟におけるような加害企業の第一次的責任を前提としての後見、監督責任とは質的に異なり、そもそも、国の河川管理者としての第一次的責任である。つまり、ここでの行政の役割は、後見・監督者として要求される積極行政の場合に比べ、はるかに重いものであり、したがって、そこでの国の責任は、単に後見・監督責任にとどまらず、第一次的責任主体としてのそれである。
(三) 一方で、河川管理の権限が国家に独占され、他方で、憲法二五条の国民の健康で文化的な生存を保障する積極行政展開の要請から、河川法は、次のとおり、河川管理者に明確かつ具体的な災害防止の義務付けをなした。すなわち、河川法は第一条において「この法律は河川について、洪水、高潮等による災害の発生が防止され、河川が適性に利用されおよび流水の正常な機能が維持されるようにこれを総合的に管理することにより、国土の保全と開発に寄与し、もって公共の安全を保持し、且つ公共の福祉を増進することを目的とする」と法の目的を規定し、第二条一項において「河川は公共用物であって、その保全、利用その他の管理は前条の目的が達成されるように適性に行わなければならない」と河川管理の原則を規定した。この両規定を受け、河川法一六条は、次のとおり、水害防止につき具体的法的義務を定めた。
すなわち、同条は、「河川管理者は、その管理する河川について、計画高水流量その他当該河川の河川工事の実施についての基本となるべき事項(以下「工事実施基本計画」という)を定めておかなければならない」とし、「工事実施基本計画は水害発生の状況並びに水資源の利用の現況及び開発を考慮し、且つ、国土総合開発計画との調整を図って、政令で定める準則に従い、水系ごとに、その水系に係る河川の総合的管理が確保できるように定められなければならない。」(一項、二項)ものとされ、更に「河川管理者は、工事実施基本計画を定めるに当たっては、降雨量・地形・地質その他の事情により、しばしば洪水による災害が発生している区域につき、災害の発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるよう、特に配慮しなければならない」(三項)とされているのである。
これをうけて、河川法施行令一〇条一項は、工事実施基本計画作成の準則として、「洪水、高潮等による災害の発生の防止又は軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生の状況並びに災害の発生を防止するべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を総合的に考慮すること」と規定し、一〇条二項は、工事実施基本計画に定めるべき事項として、(1)当該水系に係る河川の総合的な保全と利用に関する基本方針、(2)河川工事の実施の基本となるべき計画に関する次の事項、(イ)基本高水(洪水防禦に関する計画の基本となる洪水をいう)並びにその河道及び洪水調節ダムへの配分、(ロ)主要な地点における計画高水流量、(ハ)主要な地点における流水の正常な機能を維持するために必要な流量、(3)河川工事の実施に関する事項として、(イ)主要な地点における河道計画に関する重要な事項、(ロ)主要な河川工事の目的・種類及び施行の場所並びにこれより設置される主要な河川管理施設の機能の概要を挙げている。
以上のように、河川法・同法施行令は、洪水による災害発生の防止のため、工事実施基本計画における具体的な細目までも規定し、河川管理者に対し明確且つ具体的な水害防止の義務づけをしているのである。
(四) このように、河川法の規定をみると、国に治水の法的管理責任があることは明白であるにもかかわらず、大東判決は、河川管理者無答責といわんばかりの判断を示した。
昭和五〇年代に相次いで出されたスモン訴訟判決は、河川法とは異なり、薬事法に国の医薬品に対する安全性確保に関する明文の規定がないにもかかわらず、国の安全性確保義務を種々の理論構成により肯定し、被害者救済を図った。しかも、国の安全性確保義務は、加害企業の第一次的責任を前提としての後見・監督責任に止まるものであった。河川管理責任は、河川管理者としての第一次的責任であり、河川法に国の治水の法的管理責任が明確に規定されていることに徴すれば、大東判決の不当性は明らかである。
4 以上のとおり、国賠法二条一項の解釈・適用は、河川管理行政がもつ法的責任の特質に基づき、「被害者の可及的救済」「損害の公平な分担」という国賠法の基本理念を尊重し、「差止」違法・「行政上の河川管理権限」の違法性と「賠償」違法の厳格な区別を行った上でなされるべきであるにもかかわらず、大東判決を引用した原判決は、これを見誤ったものである。前述の諸点を正しく理解をすれば、河川管理の瑕疵概念は、従来の判例がとってきたように、「当該箇所における通常有すべき安全性の欠如と危険性の存在」だけを問題にすべきであり、また、それで足りる筈である。河川の特質はその際に考慮すれば充分であり、他河川との比較、特に予算配分を既定のものとして比較決定する必要は毫もない。
原判決は、国賠法の基本原理に関する誤りの故に国賠法二条一項の解釈・適用を誤ったもので、その誤りが判決に影響を及ぼすべきことは明白である。
上告理由第二点
原判決は、本件水害について、大東水害最高裁判決をそのまま適用しているが、本件については、被上告人と行政上一体関係にある三重県開発公社が一身田団地を志登茂川の溢水流の流路に造成し、一身田地区の水害被害を激化させる直接の原因を作出した者(危険作出者)であるから、その場合は危険作出者は、遅滞なく作出した危険を除去軽減する措置を講ずべき責任を生じる(危険責任主義)べきであり、大東水害最高裁判決の適用は排除されるか、あるいは適用をするとしても右のような場合は、各種制約論は妥当せず、直ちに改修に着手すべき緊急性がある場合に該当するとの修正適用をなすべきであるところ、原判決は、大東水害最高裁判決の解釈を誤り、河川法一条、二条一項、および同法一六条三項、国家賠償法二条一項の法令解釈の誤りを犯し、もって、本件水害時本件志登茂川の河川管理に瑕疵はないとの結論を導いているもので、右は判決の結論に影響を及ぼすこと明らかであるから、破棄すべきである。
以下、原判決の問題点を論ずる。
一 原判決の判断内容と問題点
原判決は大東水害最高裁判決をそのまま適用する前提として、
「一身田団地開設は同地区の水害激化の原因にならない」と認定するが、右の点は後述(上告理由第七点)のとおり、明白な採証法則違反、理由不備の違法があり、一身田団地の開設は、志登茂川からの溢水流の流下路であった水田地帯を埋め立て、その溢水流の退路に盛土をして流下を遮断し、従来水害被害に遭わなかった地区(一身田団地はその典型)に水害被害を拡散し、あるいは一身田団地によって堰上げされた水流が一身田市街地を襲うという堰上げ被害を生じるなど水害激化の直接原因となったことは明白である。
また、原判決は、「一身田団地開設は財団法人三重県開発公社が行ったもので河川法一〇条によって三重県知事が国の機関として行ったものでないから主体が異なる」旨判断するが、右の点も後述(上告理由第八点)するとおり、河川管理は、公有地の開発、それらによる流水の変化も考慮に入れて総合的治水理念によって行われるべきであるから(河川法一条、河川審議会昭和五二年六月一〇日答申・<書証番号略>)、同じ三重県知事が行った開発行為と河川管理行為について、法形式上の主体が異なるから河川管理にあたって自ら行った開発行為の影響を考慮に入れなくてもよいとの解釈は明らかな法令解釈の誤りがあり、当然自ら三重県の住宅施策として行った一身田団地の開設を考慮に入れて、総合的な治水を行うべきであったのである。
このような一方的筋書にあわせようとする強引な事実認定や法令解釈がまかり通るならば、結論は常に「およそ水害は河川管理の一般的制約の故に生起しているから責任は問えない」との虚偽意識(イデオロギー)の押しつけに帰着するのである。
しかし、河川管理者と行政上一体関係にある者が、河川の持つ水害危険性を直接的に激化させるような開発行為を行った場合についてまで、大東水害最高裁判決の河川管理の瑕疵判断基準を一律に適用し、右の外に国賠法二条一項の河川管理の瑕疵はないはずであるとして、事実認定や法律の解釈まで強引に大東水害事例に当てはめなければならないとする原判決の姿勢は、国賠法二条第一項から「河川」を削除したのと同一であり、国賠法二条一項の解釈適用を誤っている。
二 大東水害最高裁判決の立脚原理と危険作出責任
大東水害最高裁判決は、国賠法二条一項の「公の営造物の設置又は管理の瑕疵」について、
「国家賠償法二条一項の営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険のある状態をいい、かかる瑕疵の存否については、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等の諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきものである。」
としながら、「公の営造物」のうち、「河川」については道路等に比べて各種管理上の諸制約があるから、
「すべての河川について通常予測し、かつ、回避しうるあらゆる水害を未然に防止するに足りる治水施設を完備するには相応の期間を必要とし、未改修河川又は改修の不十分な河川の安全性としては、右諸制約のもとで一般に施行されてきた治水事業による河川の改修、整備の過程に対応するいわば過渡的な安全性をもって足りるものとせざるをえないのであって、当初から通常予測される災害に対応する安全性を備えたものとして設置され公用開始される道路その他の営造物の管理の場合とは、その管理の瑕疵の有無についての判断の基準もおのずから異なったものとならざるをえないのである。」
として、道路等とは異なった瑕疵判断基準を採用することを明らかにしている。
そして、その根拠として、道路その他の営造物の管理と異なる河川管理の特質及びそれに基づく諸制約が存することを次のように挙げている。
「すなわち、河川は、本来自然発生的な公共用物であって、管理者による公用開始のための特別の行為を要することなく自然の状態において公共の用に供される物であるから、通常は当初から人工的に安全性を備えた物として設置され管理者の公用開始行為によって公共の用に供される道路その他の営造物とは性質を異にし、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているものである。したがって、河川の管理は、道路の管理等とは異なり、本来的にかかる災害発生の危険性をはらむ河川を対象として開始されるのが通常であって、河川の通常備えるべき安全性の確保は、管理開始後において、予想される洪水等による災害に対処すべく、堤防の安全性を高め、河道を拡幅・掘削し、流路を整え、又は放水路、ダム、遊水池を設置するなどの治水事業を行うことによって達成されていくことが当初から予定されているものということができる」
右は河川管理の一般的特質について述べるものであるが、それを原理的に要約すれば、
① 河川は自然発生的な自然公物で、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包している(自然的危険内包論)。
② 河川の管理は、当初から人工的に安全性を備えたものとして設置され公共の用に供せられる道路等とは違って治水事業によって右のような安全性を高めていくものである(段階的改修論)。
③ 従って、河川の管理者は、完全な安全性の確保、即ち、危険の除去の責任を負わず、「過渡的安全性」でもって足りる(過渡的安全性論)。
という三要素により成り立っているものと考えられる。
ところが、国や地方公共団体が自らの行為によりあるいは地方開発公社を通して行った施策によって直接的に洪水時の河川の持つ自然的危険性を著しく高めるような行為を行った場合、例えば、堤防を一部破壊したり、堤防の強度を弱めるようなことをし、あるいは河道を狭め一部埋め立てたりして、通水能力を低めたり、又は洪水の流路を塞ぎ、又は遊水池を埋め立てるなど洪水に対して自然に有していた防備力を人工的に弱体化せしめるような行為を行った場合については、右の原理はそのまま妥当しないものというべきである。
けだし、原理的に言えば、右の場合は国や地方公共団体はもともと河川のもつ自然的危険性を高めるような危険を作出した者であり(危険作出者)、右のような危険を高からしめるような事を行った場合、その作出した危険に対応する河川管理責任はそれ相応に加重されてしかるべきであり、少なくとも作出した危険を完全に除去するものでなければならないと考えられるからである(危険作出責任論)。
続いて、右最高裁判決が河川管理の特質に由来する各種制約として述べられる各論的論点についても、危険作出責任との関連でそのままには妥当しないのである。
イ 時間的制約
「この治水事業はもとより一朝一夕にして成るものではない」との点については、もともと危険を作出しなければ、それを除去するための時間的制約云々も考える必要がないのであるし、危険回避のために時間がかかるからと言って作出した危険を除去するまでの間に生じた損害について責任を免れるいわれはないと考えられる。
ロ 財政的制約
「しかも全国に多数存在する未改修河川及び改修の不十分な河川についてこれを実施するには莫大な費用を必要とするのであるから、結局、原則として議会が国民生活上の他の諸要求との調整を図りつつその配分を決定する予算のもとで逐次緊急性の高いものから順に実施していく他はない」との点についても、もともと危険を作出しなければ、それを除去するための費用も必要とならないのであるし、国や地方公共団体が全国に存在する未改修ないし改修の不十分な河川について自ら又は地方開発公社を通じるなどして河川の持つ洪水時の自然的危険性を直接的に高めるような行為をあちこちでたくさん行っており、その生ぜしめた危険を除去するのに莫大な費用を必要とするという事実もないから、危険作出者の河川管理責任については、財政的制約論はそのまま妥当するものではないと考えられる。
また、仮に議会が行政機関の作出した右危険の除去について予算措置を採らなかったからといって、その危険回避除去責任がなくなる訳でもないし、それによって生じた損害賠償責任が否定されることもない。
ハ 技術的制約
「当該河川の河道予備流域全体について改修等のための調査・検討を経て計画を立て、緊急に改修を要する箇所から段階的に、また、原則として下流から上流に向けて行うことを要するなどの技術的制約もあり」との点も、危険を作出した者は、当該危険を作出した区域に対して、危険除去義務を負っていると解せられるから、この点を度外視して流域全体の調査が完了して、計画が立案され、これが実施に移され、下流から次第に上流に向けて改修されるまでの間、当該地域の住民が作出された危険を一方的に受忍しなければならないいわれはないと考えられる。
ニ 社会的制約
「流域の開発等による雨水の流出機構の変化、地盤沈下、低湿地域の宅地化及び地価の高騰等による治水用地の取得難などによって河川改修が、これらの社会変化に追いつけない」との点も、国や地方公共団体が自ら又は地方開発公社を通じて河道を狭め、一部埋め立てたりして洪水通水能力を低めたり、洪水流の流路を塞ぎ、又は遊水池を埋め立てるなど洪水に対して当該地域が自然的に有していた水防機能を自ら破壊しているような危険作出の場合は、まさに社会的制約ではなく、自然的災害を人災たらしめている加害行為にあたるのであるから、これらの事象は治水事業に対する免責的制約原理として作動し得ないと解すべきである。
けだし、そのような危険作出行為をしなければ水害の激化も生じないからである。
ホ 危険回避の手段の困難性
「河川の管理においては、道路の管理における危険な区間の一時閉鎖等のような簡易、臨機的な危険回避の手段を採ることもできないのである」
との点も、そうであればこそ、右のような河川の持つ洪水時の災害危険性をたかめるようなことを国や地方公共団体は自ら又は地方開発公社を通ずるなどして行ってはならないし、万一そのようなことを行う以上、その洪水時における災害危険を除去すべき万全の措置を採らなければならないし、それがなされずに他人に損害を与えた場合はその損害賠償責任が生じると考えられるのである。危険作出者がその危険を簡易、臨機的に除去・回避することができないことを理由に、作出した危険を除去する責任がなくなるものとは解せられない。
以上から明らかなとおり、本件志登茂川のように、溢水工法を採用しながら、洪水時の溢水流の安全な流下を完全に堰き止めて、遊水地帯への流下を妨げ、もって市街地への氾濫水の流入の危険性を著しく高めたような場合、しかも右のような危険を作出した後も一〇年間に亘り何らの調査も行わず、河川改修計画をたてることもなく、昭和四六年の二度の打ちつづく水害によってようやく暫定計画高水流量を三〇〇立法メートル毎秒と決めたのみで、いつ、工事を完成させるという目標もなく、水害危険箇所と関係のない一部の土地買収をしたのみで、工事にもとりかかることなく、水害を迎えたような本件の場合は、明らかに大東水害最高裁判決の射程外であるといわなければならない。
三 原判決の誤り
河川法一六条三項は、「河川管理者は、工事実施基本計画を定めるに当たっては、降雨量、地形、地質その他の事情によりしばしば洪水による災害が発生している区域につき、災害の発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるように特に配慮しなければならない。」と規定する。右規定は、河川管理者と行政上一体関係にある者が、当該河川の洪水危険性を増大させたようなことを念頭に置いているものではないが、そのような場合は、より強い災害防止、災害軽減措置が早急に講ぜられるべきことを求めていることは、右規定にてらし明らかである。
本件の場合、河川管理者と行政上一体関係にある三重県開発公社は本件志登茂川のようにしばしば溢水をくり返し、洪水による被害が発生している一身田区域に対し、水害危険性を激化増大させる一身田団地を造成しておきながら、河川管理者である被上告人らは何ら水害被害を回避・軽減せしめる具体的施策を行っていない。
原判決は昭和四七年の暫定計画は合理的で是認できるとするが、河川法一六条三項は、暫定計画の目標値が合理的であればよいとしているのでなく、「必要な措置を講ずるように特に配慮しなければならない」としているのであり、水害危険性を除去軽減する具体的施策が何ら講じられていない本件については、河川法一六条三項に違反する違法な河川管理が行われていたことは明らかである。
また原判決が「三重県開発公社と河川管理者は別人格である」として責任を回避させている点についても、河川法施行令一〇条一項は
「洪水、高潮等による災害の発生の防止又は軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生の状況並びに災害の発生を防止すべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を総合的に考慮すること。」
と定める。従って、災害の発生を防止すべき地域の開発の状況を総合的に考慮しなければならない義務を一般的に負っている被上告人らが、三重県開発公社という河川管理者と行政上一体関係にある者が行った開発行為に限って、特に法形式上の主体が異なるとの理由で考慮しなくてもよいとする原判決の理論は、右規定に定める総合治水理念に真向から違反し、防災上の視点を欠いた非科学的で違法なものである。
右見地からすれば、国家賠償法二条一項の定める「河川管理の瑕疵」とは、大東水害最高裁判決の言う「同種同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らし是認できる安全性」を備えていない場合は勿論のこと、「河川管理の瑕疵」とは、「河川管理者自身又はそれと行政上一体関係にある者が河川のもつ自然的洪水危険性を激化増大せしめる行為を行った場合において、河川管理者が右洪水災害危険を回避軽減する具体的措置を講じない場合」も包含するものであり、後者の場合は、「単に河川改修計画によって究極的治水目標を定めただけでは足りない」と解釈されるべきである。
原判決が「一身田団地の開設が同地区の水害激化の一因となったことは否めない」としながら、「昭和四七年に策定された全体計画は、合理的なものとして是認できる」とし、直ちに「被上告人の河川管理に瑕疵はない」との結論を導いたことは、まさに河川法一条、同法一六条三項、同法施行令一〇条一項に定める総合治水の理念を理解せず、危険作出責任を無視した結果、国賠法二条一項の「河川管理の瑕疵」の法令の解釈適用を誤ったものであり、これが判決の結論に影響を及ぼすこと明らかであるから破棄すべきである。
上告理由第三点
一 はじめに
原判決は、理由三項2(一)(二)(三)において、志登茂川に対する「昭和四七年六月確定し、実施された全体計画は合理的なものとして是認しうる」旨判示するが、一定の方向に結論づけることのみ性急であって、その全体計画がどのような内容をもち、水害防禦の見地からいかなる点で合理的なものとして是認しうるかということに関し、何ら事実審理がなされたことはなく、従って、判決理由にも、右の点に関する具体的説示はない。
即ち、判決理由の骨格であるはずの
① 存在したという「全体計画」がいかなる内容をもっていたか。
② その「計画」がどのような理由で合理的なものとして是認しうるのか。
③ 昭和四〇年当時の志登茂川の改修は、何故、その頃、行われていた災害関連事業で足りたのか。
の3点について何ら理由らしき説示がない。
これでは判決のよって来る理由について合理的説明は無きに等しい。
従って、原判決の右判断には採証法則違反、審理不尽、理由不備の違法が存し、この誤りは判決の結論に影響すること明らかである。
以下右の点につき、詳論する。
二 原判決は「全体計画」の存在を認定しているが、そもそも計画書自体作成されておらず、「全体計画」の存在自体疑わしく、その内容は殆ど裁判上も明らかにされていない。
右「全体計画」なるものは、今日に至るも計画書自体作成されておらず、公表されてもいない。わずかに第一審証人下村宏之が第一審において、証人として証言した際、フリーハンドで地図に書き込んだ全体計画説明図なるもの(<証書番号略>)を提出したのが唯一の書証である。
およそ、河川改修計画を樹立するにあたっては、綿密な調査に基づいて、適正な流量分配、それにもとづく河川断面等を含む河川改修工事の概要など基本事項を定めた工事実施基本計画が策定され、年度割の工事実施目標が策定されていなければならない。
従って、右計画書が存在しないということ自体、実際に河川改修を行う意思がなかったか、あるいは計画自体きちんと河川法に定める要件をふまえない杜撰なものであったことを自白するに等しいものであった。
しかるに原判決は本件水害を「全体計画」の第一期中に生起したものとし、右「全体計画」は合理的で是認しうると結論する。しかしおよそ河川改修計画書さえも作成されていない段階のもので、河川法の工事実施基本計画の要件も満たしておらず、従って工事実施要綱や予算規模等も決定されておらず、いつ、どのような工事を実施するかという取り決めさえもできていないものを、特段の理由も付することなく、これを「合理的で是認しうる」とすること自体理由不備である。
三 原判決は合理的か否か判断するに足る河川改修計画が存在するという証拠がないにもかかわらず、全体像不明な「合理的な全体計画」が存在するものと擬制し、その全体計画は合理的なものとして是認しうるなどという同義語を反復しておるが、右は採証法則違反、審理不尽・理由不備の違法がある。以下詳述する。
原判決は、「全体計画」について次のとおり認定する。
「本件水害は、昭和四七年六月に確定し、実施された全体計画に基づいて第一期計画が進行中に発生したことは先に認定したとおりである」
「右全体計画によれば、志登茂川の今井橋、横川合流点、毛無川合流点をそれぞれ基準点として、一〇〇年確率の将来計画、三〇年確率の暫定計画をたて、それぞれ右確率による計画高水流量が定められているが、これによると一〇〇年確率では、今井橋では毎秒四〇〇立法メートル、横川合流点では毎秒五三〇立法メートル、毛無川合流点では毎秒六六〇立法メートルと、また三〇年確率では、今井橋では毎秒三〇〇立法メートル、横川合流点では毎秒三一〇立法メートル、毛無川合流点では毎秒三九〇立法メートルとされている。そうして、前田川合流点(JR紀勢線鉄橋)付近から毛無川合流点までの四三二〇メートルについて河道の直線化、河幅拡張、堤防の整備、平野井堰及び今井井堰の改築、橋梁の架け替え等が計画された。」
「ちなみに、右全体計画は、河川法一六条所定の工事実施基本計画ではなく、いわばこれの基になる内容を有するものであったが、昭和四七年六月に確定され、以後、これによって志登茂川の改修工事は進められた。」
しかし、右認定は、「計画書」自体存在せず提出されていないから、専ら第一審の下村宏之証人の証言によるしかないものであるが、肝腎の下村証人はわずかに次のように証言するのみである。
「この『志登茂川全体計画説明図』によって全体計画の概要を述べて下さい。
先程申し上げました基準点、今井橋と言いますが、図の上のほうに出ております。ここで基準高水流量を四〇〇トンと定めたわけです。全体計画と致しましては、本線志登茂川につきましては、毛無川合流点、ここの本線の緑色の下の部分でございます。この地点からずっと左上Y字型に川が開いておりますが、その付近まで延長で言いますと四、三二〇メートル、そこから支線の毛無川につきましては、志登茂川との合流点から左やや上のほう大里窪田というところにちょっとした池がございますが、その付近までの間を三、三二〇メートルと、それぞれ河川の川幅を広げたり、堤防を盛り上げたり、あるいは農業用の井堰を改築したり、橋梁をかけ替えたりといった付帯工事もふくめたものでございます。」(昭和五三年一〇月二六日調書一五丁)
また「志登茂川全体計画説明図」(<書証番号略>)は下村証人が証言にあたって作成したものというが、それは津市都市計画図に色鉛筆で大まかな河道位置を書き込んだものにすぎない。昭和四七年に「全体計画」が策定されたといいながら、証言当日の昭和五三年一〇月二六日になっても右計画書自体提出できないのは、右「全体計画」なるものが河川法一条の工事実施基本計画ではなく、従って、河川改修工事実施上の基本計画自体が出来てないものであり、河道設計(河道線形・河道面積)、堤防設計(堤防規模・構造)、橋梁設計(橋梁規模・構造)、井堰設計(井堰規模・構造)といった基本計画自体が出来ていなかったからである。
これを素直に言うならば、右「全体計画」とは、「単に今井井堰を基準点にして、計画高水の年超過確率を三〇年とし、高水流量を三〇〇平方メートル/毎秒と机上の予測をしたが、それには河幅を広げ、橋や井堰を改築しなければならないということが当然考えられたから計画をまとめるためには右のような工事が盛り込まれるべきであるという考えをもった。しかし、具体的工事実施基本計画は作成されなかった。」
というレベルに止まるものである。
しかし、右のようなレベルでは「全体計画」は、いつ達成されるか、あるいはされないか判らない単なる予定にすぎない。しかし、洪水防禦は、単に確率雨量を求め、基準点を定め、高水流量を計算上何立法メートルと毎秒算定し、抽象的に河道を拡幅する心要があるだろうとか、それに伴って橋の架け替えが必要だろうと構想するだけでは達成されない。
原判決の立論をもってすれば、例えば計画目標を一〇〇〇年確率と定め、具体的工事実施基本計画のないまま、いつ工事が完成するという目標もなく、単にその一部の用地買収さえ行われておれば、何らの工事もなされていなくても計画は合理的であって改修途上論が全面適用され、その間に例えば一年に一度の確率雨量の降雨によって水害に遭っても、過渡的安全性は確保されているという結論になるが、その不合理なことは明らかである。
問題はその改修計画高水流量の目標を達成するために、どのような工事実施基本計画をもち、いつの段階で、どのような方法により、どのような予算を組み、工事を進捗させるか、その間において生起しうる水害被害を最小限度に押さえるためにどのような方途をとるか、という工事実施上の基本計画が正しく策定され実施されているかという点である。
右は河川改修計画を行う上で取決めるべき基本的事項であり、それが河川法の定める工事実施基本計画でなく暫定計画であるからと言って、取決めなくてもよいとされるものではない。
河川法一五条三項が、
「河川管理者は、工事実施基本計画を定めるに当たっては、降雨量・地形・地質その他の事情により、しばしば洪水による災害が発生している区域につき、災害の発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるよう特に配慮しなければならない」
と定め、
同法施行令一〇条一項が、
工事実施基本計画作成の準則として「洪水、高潮等による災害の発生の防止又は軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれらによる災害の発生の状況並びに災害の発生を防止すべき地域の気象、地形、地質、開発の状況等を総合的に考慮すること」
と定めるゆえんは、単に計画の抽象的規模を定めるだけではなく、「災害の発生の防止、軽減するために必要な措置」として「過去の主要な洪水とそれによる災害発生の状況や開発の状況等を総合的に考慮して」行うように指示しているものである。ところが、本件志登茂川の全体計画なるものは、過去の主要な洪水及びそれによる被害の状況について全く調査をしておらず、「災害発生を防止すべき地域の気象、地形、地質は勿論、開発の状況」についても考慮していない。従って、水害防禦計画の達成の方途、その具体的設計、達成年次等河川改修計画の基本的事項を欠いているものであり、このような「全体計画」なるものは、右河川法の趣旨にてらしても不合理である。
しかも、原判決は、一審判決の
「今井橋においては、一〇〇年確率で四〇〇立法メートル毎秒が計画高水流量とされた」(一審判決書一一〇枚目裏)、という認定に「横川合流点では毎秒五三〇立法メートル、毛無川合流点では毎秒六六〇立法メートル、また三〇年確率では、横川合流点では三一〇立法メートル、毛無川合流点では毎秒三九〇立法メートルとされている」。
なる認定を加えている(原判決二〇枚目)。
しかし、被上告人側から右のような主張がなされたのは、原審の最終準備書面が初めてであって、それに対する「計画書」も「証言」もその他裏付けとなる証拠は全く提出されていない。
第一審においても、原審においても、被上告人は「今井橋を基準点として計画高水流量を決定した」旨の主張を続け、下村証人もそれに沿った証言を行い、第一審判決もその旨認定したのである。本件裁判の提訴後、志登茂川の本件河川区間は、激特事業の適用を受け、急遽改修事業が開始されたが、それに従って毛無川、横川合流点との流量配分調整がなされた可能性はあるが、それがもともと前記全体計画に折り込まれ計画されていたというのは全くごまかしであり、何らの証拠もないのに右のようなごまかしの主張をそのまま事実認定に取り入れたのは原判決の偏頗性を如実に物語っている。
結局原判決は「全体計画」の目標値さえ計算されておれば、工事内容は、どのようなものでいつからどの工事に着手し、何時完成するのかなどの工事実施内容についてなにも決めていなくても、それをもってただちに「計画」に合理性ありと即断しており、何故に「全体計画」が合理的であるのか説示は全くない。
このような認定は、採証法則違反、経験則違反、審理不尽の違法があり、これが判決の結論に影響を及ぼすこともあきらかである。
四 原判決は、一審判決が三重県が行政的に一体関係にある三重県土地開発公社を通じて一身田団地を造成し、一身田地区の水害危険性を激化させる積極的危険作出行為を行っていると認定しているのに、この点を強引に事実認定から削除した上で、「昭和四〇年頃の志登茂川の改修は、その頃行われてた災害関連事業で足り、特に緊急に改修を要する状態にはなかったと認めるのが相当である。」「昭和四〇年当時の志登茂川の状況からすれば河川管理者である三重県知事は、被害の激化を予側して、これを防禦すべき義務があったとは認められない。」などと認定している。
この理論によれば、河川管理者と一体関係にある者が、一方で河川の水害危険性を積極的に増大せしめる開発行為を行っておきながら、
① 河川のもつ実質的危険度の予側調査を行わなくてもよい。
② 河川改修計画も、実際に何回も水害に遇ってから作成されればよく、その際に右危険作出行為に対する対処を盛り込まなくてもよい。
という結論になるが、このような立論はそれ自体理由不備である。
河川改修計画は、洪水防禦計画の中核的役割を担うものであるから、いつまでにどのようにして洪水発生危険性から流域を防禦するかという防禦対処の年次的計画をもたなくては、水害防禦計画の意味をもたないことは既に述べたとおりである。
ところで、一審判決は、
「志登茂川の溢水の原因は、いずれも今井井堰から平野井堰における通水能力が五〇m3/sにすぎず、高水流量に比してはなはだ劣った状態にあったことによるものと推認できる。」(一審判決一〇九丁表)
旨認定し、原判決もこれを踏襲している。
そして、水害発生の危険性と規模、及び改修を要する緊急性の有無、程度を推測しうるデータとして、被上告人らが釈明するところによれば、近年の志登茂川における降雨量と流出量は次のとおりである。
降雨年月日
(昭和)
到達時間内
総雨量(ミリメートル)
今井井堰
地点流量(m3)
二八・九・二六
55.9
八八~一一二
三四・八・一四
193.8
三〇五~三八六
三四・九・二六
74.4
一一七~一四八
三六・六・二六
87.3
一三七~一七四
四〇・九・一七
54.3
八五~一〇八
四二・一〇・二七
90.1
一四二~一七九
四六・八・三〇
95.0
一四九~一八九
四六・九・二六
86.0
一三五~一七一
四九・七・二五
121.0
一九〇~二四一
今井井堰地点における洪水疎通能力五〇m3/毎秒に比べ、右九回の降雨における流量はこれを遙かに上回るものである。従って、右九回の降雨時において志登茂川本川からは、多量の水があふれ出たことは明らかである。
更に、過去の水害被害の実績によれば、今井井堰における高水流量が一一〇m3/毎秒程度になると一身田地区に床下浸水が発生し、一五〇m3/毎秒程度で総浸水率が五〇%に達し、更に二五〇m3/毎秒程度で床上浸水率が五〇%になり、それぞれの生起確率は二年に一回、二年に一回、四年に一回、二〇年に一回である(<書証番号略>)。
このような水害危険河川にあって、三重県土地開発公社が溢水流の退路であった水田地帯に広大な盛土をして一身田団地を造成し、溢水流の流下路を塞ぐという危険を増大激化させる危険作出行為を行ったのであるから(この事実認定を原判決は一審判決から削除しているが、第一審及び原審の学者証人全員、即ち、水谷証人、水山証人、被上告人申請の細井証人が一致して認めておるところであり、地形勾配に沿って溢水流の流下先を検討すれば、その行きつく先に一身田団地があることは一目瞭然である。原判決が一審判決の右危険作出認定を削除したことは、これら学者証人の一致した見解に反し、水が高所から低所に流れ、低所において塞がれればその周辺に溢れるという自明の理にも反しており、採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法があるが、この点は後述する)、総合治水対策の観点からしても、団地造成と同時にあるいは少なくとも極めて時間的に接着した期間内において、右危険を除去する河川改修計画を立て、直ちに工事に着手しなければならない。それが、危険作出者が先行行為に基づき負担する義務である。
ところが、原判決は、右のような事実を無視して、なんら合理的な理由も示さずに昭和四〇年頃の志登茂川の改修は、その頃行われていた災害関連事業で足り、河川管理者たる知事は、被害の激化を予測して防禦する義務もなかったと認定していることは、明らかに判決に影響を及ぼす採証法則違反、審理不尽及び理由不備があるといわざるを得ない。
上告理由第四点
原判決は、理由二、3において「昭和四〇年以降同五五年までの三重県の歳出予算決算総額に占める土木費の割合は、平均21.7パーセントであり、河川海岸費が土木費に占める割合は平均29.3パーセントである。しかるに、この間の全国平均は前者が20.8パーセントであり、後者が21.5パーセントであることからしても、三重県が災害復旧に追われている様がうかがえる」と判示しているが、右のような数字の比較から、なぜ三重県が災内復旧に追われているという結論が導きだせるのか不明であり、採証法則違反、理由不備の違法があり、右誤りは、判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
土木費及び河川海岸費の比較は意味がない。
1 原判決は、昭和四〇年度から昭和五五年度までの三重県の歳出予算決算総額に占める土木費の割合が21.7パーセントであり、そのうち河川海岸費の割合は29.3パーセントであるから三重県は災害復旧に力をそそいでいたと言いたいようである。
しかしながら、土木費の二分の一は、道路橋梁費であり、道路関係の予算である(<書証番号略>、最近六か年間における土木費の予算)。
従って、土木費が県の予算決算総額の二割を占めるからといっても、その大半は道路関係費に県の予算が消費されているということを意味しているにすぎず、土木費のうち二割程度を河川海岸費に使用しているからといって河川行政の怠慢を免責することにはならない。
2 原判決は、土木費の割合21.7パーセントが全国平均の20.8パーセントを上回っているというが、その差0.9パーセントが有意差のある数字であるといえないし、気候・風土・地形・道路の状況(数・延長、山岳か平野か)、河川・海岸の状況(数・延長、地形)の異なる他県の平均値である全国平均の数字(これは条件の異なる県の平均であるから二重の意味で比較の意味がない)と三重県の数字を比較することがなぜ災害復旧に力を入れているということになるのか理解できない。
3 原判決は、土木費のうち河川海岸費の占める割合が三重県では29.3パーセントであり、その全国平均は21.5パーセントであるから7.8パーセント三重県が高く、その分、河川の災害復旧に力を入れていたといいたいようである。
しかし、右の数字の比較が意味のないことは前記土木費の数字の比較のところで述べたとおりであるが、更に「河川海岸費」の中には、「河川総務及び河川改良費」、「砂防費」、「海岸保全費」、「水防費」が含まれており、「河川海岸費」を単純に比較しても全く無意味なのである(<書証番号略>・最近六か年間における土木部の予算)。
<書証番号略>によれば、昭和四五年度から同四九年度の「河川海岸費」に占める「河川総務及び河川改良費」は約六〇パーセントであり、「砂防費」は約三〇パーセントである。
従って、河川改修のために直接係わる予算は「河川海岸費」のうち「河川総務及び河川改良費」であるから、それ以外の予算が四割を占める「河川海岸費」の総額を比べても各県が河川改修のためどの程度の予算を使っているかの比較にはならないのである。
二 災害復旧費の比較をしていない
しかも原判決は、土木費や河川海岸費の数字を比較して三重県が災害復旧におわれていたと推認するが、災害復旧という面からみるならば「災害復旧費」の割合を比べなければ意味がない。
<書証番号略>で(昭和四九年度土木部関係事業費決算額内訳図表)明らかな通り、昭和四九年度の土木費のうち「海岸費」の占める割合は19.8パーセントであるが、「災害復旧費」の占める割合はそれより多い22.1パーセントなのである。
原判決は、災害復旧を問題にしながら「海岸費」より多い「災害復旧費」を全く比較していないのである。
三 原判決は被上告人の主張を証拠に基づかずに認定している。
また、原判決は昭和四〇年以降五五年までの三重県の歳出予算総額に占める土木費及び河川海岸費と全国の同様の費用の数値を比べ、その証拠として、<書証番号略>、三隅昭夫、清水保、真田重道、小菅孝夫の各証言を挙げるが、三重県の土木費及び河川海岸費の正確な予算・決算の数値が分る証拠は<書証番号略>のみである。ところが、<書証番号略>は証拠として引用はしておらず、<書証番号略>で分かるのは昭和四五年度から五〇年度までの三重県の決算数値のみである。
従って、昭和四〇年度から四四年度までと五一年度から五五年度までの証拠は皆無である。
また、全国の土木費及び河川海岸費の数値を記載した書証も存在しない。
では、原判決はなにを根拠にして認定をしたかというと、原判決認定の数値が記載されている文書は被上告人らの昭和五七年七月二八日付準備書面添付の表1―2(三七~三八頁)なのである。
原判決は、被上告人らの主張をそのまま証拠にもとづかず引用しているのにすぎないのである。
上告人らが、被上告人らの右準備書面の主張について争っていることは、上告人らの昭和五七年一〇月四日付準備書面第二の一~五記載のとおり明らかであるから、上告人らが自白をしていないのにもかかわらず、なんら証拠に基づかずに原判決は被上告人らの主張を認定したことになる。
よって原判決の右認定は判決に影響を及ぼす採証法則違反であり審理不尽・理由不備の違法があるといわざるを得ない。
上告理由第五点
原判決は、理由二4において「志登茂川の改修は単に河道の拡張にとどまらず、両井堰の改築をも伴うものとなり多大な費用と歳月を要するばかりでなく、複雑な水利権が先に認定した志登茂川の治水理念とも絡んで用地買収が困難を極めるであろうことは容易に推認されるところであった」と認定しているが、右認定には採証法則違反・理由不備、審理不尽の違法があり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
一 右認定の問題点は、「容易に推認されるところであった」としているが、右「推認」は、全く証拠に基づかずに、原判決の結論を導くため自己の都合のよいように勝手に推認をしていることである。以下、いかに事実に基づかない御都合主義の推認であるか明らかにする。
1 平野・今井の両井堰の改修に多大な費用と歳月は要しない。
まず、原判決は、「志登茂川の改修は単に河道の拡幅にとどまらず、両井堰の改築をも伴うものとなり多大な費用と歳月を要する」としているが、原判決の文脈から明らかな通り志登茂川の改修は、「川の流下方向と平行に設置され、平野・今井の両井堰の改築を伴うため、多大な費用と歳月が必要である」と結論づけていることになる。
ところで、通常河川の河道拡巾改修をするに際して、その改修区間に井堰が存在する場合に、井堰が川の流下方向と平行に設置してあるか、正対して設置してあるかに関係なく、その井堰を改修せざるを得ないのは当然のことである。そのために若干の費用がかかるのはあたりまえであるが、多大な費用と歳月を要することなどないのである。
(一) まず、両井堰の費用としては、六億五、三〇〇万円であるというが(最もこの費用は、井堰改築費だけなのか取付護岸工事まで含むのか不明であるが)、この費用は、昭和四七年から同六二年までの総事業費の約六八億八、五〇〇万円(<書証番号略>)の一割に過ぎないのであり、決して原判決がいうような両井堰の改築費用が多大であるとはいえない。
(二) 次に歳月のことであるが、両井堰の取水期間が平野井堰が四月一日から八月末までであり、今井井堰が三月一五日から八月末迄であるから(被上告人の昭和五〇年一二月四日付準備書面第二、二、(1)、(2))この間の井堰の改修は考えられないので、井堰を改修するとすれば九月から二月末日までの間である。
平野井堰の改築は昭和五〇年九月一二日からはじまり同五一年までかかったとのことであり、今井井堰は昭和五三年度に改築をしたとのことである(右同準備書面第三、二、(三)<書証番号略>)。
すると、平野井堰の場合は、昭和五〇年九月一二日から翌昭和五一年にかけて工事をしているが、取水時期からすると、工事可能期間は、昭和五一年二月までであり、実質的な工事期間は最長でも六か月程度ということになる。
今井井堰は具体的な工事開始年月日は不明であるが、五三年度に改築をしたといっているのであるから取水時期からすると、九月から翌年二月までの六か月間で工事が完成をしていると考えられる。
右のような証拠に基づく事実と被上告人が自認している事実からすれば、両井堰の改築に長年月がかかるというのも虚偽である。
よって、原判決の両井堰の改築を伴うものであるから、多大な費用と歳月がかかるという認定は、証拠に基づかない独断であるといわざるをを得ず、採証法則違反及び理由不備の違法をおかしていることは明白である。
2 複雑な水利権など存在しない。
次に原判決は「複雑な水利権が先に認定した志登茂川の治水理念とも絡んで用地買収が困難を極めるであろうことは容易に推認される」と認定しているが、右認定も出鱈目である。
(一) 右認定は志登茂川が農業用水として利用されてきたという治水理念からして複雑な水利権があるので用地買収が困難である」としている。
ところで、複雑な水利権があるということが証拠上認定できるのであろうか。
複雑な水利権があるといっているのは一人被上告人らのみであり、そのようなことを証明する証拠は全記録を見ても皆無である。
(二) 被上告人らは、志登茂川には三六の取水堰があり、多数の慣行水利権が成立していると主張するが、志登茂川の本件改修区間における井堰は、平野と今井の両井堰のみである。この両井堰は志登茂川の井堰の中で最大規模のものである(被上告人らの昭和五〇年一二月四日付準備書面第二、二)。
(三) すると、本件志登茂川の改修に係わり右両井堰に、なにか利水上の問題があったかを証拠上見ればよいことになるが、原判決は全く証拠を検討していない。
水利権者である地主らとの交渉を記録した「志登茂川改修工事交渉記録」(<書証番号略>)よりすれば、昭和五〇年七月二八日の日誌に次のように記載してある。
「地主:計画の(平野)井堰の位置は左岸側が豊野の土地に造られるので反対である。平野地区の井堰であるので平野の土地に作ればよい」、「計画の位置に作るのならば豊野地区としては今後用地買収の話合には応じられない」とあり、同年八月八日付の日誌には「井堰の位置が豊野の土地に入ることになるので井堰のセンターが川のセンターになるように一身田側によせて欲しい」「自治会長:地元感情としては現在の法線は豊野地区が多くの用地がかかるのでその土地に平野井堰が作られるのはおもしろくないので位置の変更を要求したものと思う。市側も中に入ってもう一度話し合いをしてはどうか」とある。
右以外の井堰についての話し合いは記録上ないのである。
(四) しかも、右地主(水利権者)の言分から明白なように水利権者は、自己の水利権が侵害されるからという主張は全くしておらず、最後に引用した自治会長の言葉に表れているように志登茂川を改修することによって一番利益を受ける一身田地区住民所有の農地が潰されずに、河川改修による利益の少ない豊野地区の農地が潰れるのがシャクであるということだけなのである。
この議論は、複雑な水利権がからむなどという高尚なものではないのである。
また、被上告人らは「平野井堰については、昭和五〇年七月一四日に同井堰を管理する一身田平野地区の水利権者らと協議が成立した」(昭和五〇年一二月四日被上告人ら準備書面第三、二、(三))と主張するが、水利権者との交渉を記録した交渉記録(<書証番号略>)には右日時の記録は存在しない。この一事からしても水利権は全く問題にならなかったことは明らかである。
従って、本件改修区間には複雑な水利権もないし、水利権のために用地買収が困難であるという状況も証拠上は皆無である。
3 用地の買収は容易であった。
原判決は、被上告人県が用地買収に困難をきたしたとしているが、用地買収の困難性とは、実は被上告人県の取組の怠慢性と同義である。
被上告人県が用地取得に動き出したのは、昭和四八年一月ころからであるが、このころは、まだ、第二回の簡単な説明会を開いたのみで、昭和四八年二月二五日以降昭和四九年まで説明会は全く開かれていない(富永調書八丁~九丁、一三丁~一四丁)。用地買収の記録である志登茂川改修工事交渉記録(<書証番号略>)は、昭和四九年九月三〇日からはじまっているのである。
昭和四七年度・昭和四八年度の予算は、改修の必要性のある区間の用地取得の為には用いられず、平野井堰より下流部の買収に全額費やされた(富永調書一〇丁裏及び一四丁~一五丁)。
しかも、買収がおこなわれた時期が昭和四七年度・昭和四八年度とも、一月~三月までの年度末であること、買収相手が津市開発公社、三交不動産等、買収に時間を要しない相手であることからして、この両年度の用地買収は該年度末までに予算を消化する為の「消化買収」であったことは明らかである。
被上告人県は、昭和四九年度も「消化買収」に終始しており、用地買収に本格的にのり出したのは、昭和五〇年七月提起された本訴の、提起の機が動いた昭和五〇年六月以降のことである。
このころ、志登茂川の用地買収の専門班が編成され(三重県職員一名・土地開発公社一名・津市職員一名)、昭和五〇年一〇月から豊野地区で用地買収の交渉に入った。専門班が豊野地区・一身田地区・平野地区と説明会を進め、その後個別交渉を進めた結果、本訴提起後一年たたない昭和五一年三月まで一〇〇%の進渉率をみるにいたったのである(被告の昭和五一年四月二二日付準備書面)。
このような経過からすれば、用地取得の困難性とは、実は、被上告人のとりくみの怠慢性そのものであることが明らかである。
4 原判決は右のような事実が証拠上明らかなのにもかかわらず、「容易に推認される」などと、全く事実に反する独断的推認をしており、判決の体をなしておらない。原判決の認定の誤りが証拠上明白なのに「右認定を覆すに足る証拠はない」などと述べているに至っては、あきれ果ててしまい、採証法則の基本さえも無視したものであり、原判決には明白な採証法則違反、理由不備、審理不尽の違法があると言わざるを得ない。
上告理由第六点
原判決理由二4において、志登茂川の改修が進まなかった社会的制約として「志登茂川が古来農業用水として利用されて来た歴史的沿革からみて、流域住民としては、多少の溢水はやむをえぬものとして忍受する風潮にあったことも社会的制約となっていたと認めるのが相当である」と認定している。
原判決の右のような認定は、社会的制約論について国賠法二条の解釈を誤ったものであり、判例違反でもあり、経験則違反であり、ひいては理由不備の違法がある。
一 大東最高裁判決のいう社会的制約論とは
1 原判決は、被災住民が溢水被害を何回も受けていても、被災の責任は、河川管理者にあるという声を大きく上げないかぎり、被災者が受忍しているのであるから、そのこと自体が河川管理の社会的制約であるというのである。
ところが、大東最高裁判決は、右のようなことを社会的制約と考えて判示したのであろうか、否である。
2 大東最高裁判決は「社会的制約、すなわち人口の急激な都市集中に伴う土地利用の変化のため、排水が不完全のまま宅地化したことによる内水滞水、河川流域の宅地開発による保水機能の低下、地下浸透の減少、雨水流下時間の短縮、流出機構の変化がもたらされるとともに内水氾濫が浸水被害として顕在化し、その速度に河川整備が追いつけないこと、また、これらの都市化区域の河川改修に必要な用地取得が地価の高騰、住民の所有権意識等のため困難となり、河川改修を困難にしていること、などの諸制約が存するのである」と判示している通り、社会的制約という制約があるとするならば、右のようなことを指すことになる。
即ち、社会的制約とは、河川の改修後や改修中に河川をとりまく環境が大きく変わったため、河川改修が追いつかない場合や、地価の高騰等のため用地取得が困難な場合なのである。
二 原判決の社会的制約論は、河川行政の怠慢を被害住民に転化するものである。
社会的制約というのは、河川管理者が積極的に河川改修行為を行ったが、河川をとりまく社会的環境が河川管理者の責任の及ばないところで大きく変化し、河川行政がそれに追いついていけない場合に作用する理論である。
ところが、原判決は、河川管理者が、過去に甚大な水害があるのにもかかわらず、河川改修計画さえもたてずに放っておきながら、それは被害住民が被害者同盟を組識して行政に訴えず、忍受していたからであり、そのことが社会的制約となって、河川改修が進まなかったと認定している。この理屈は社会的制約論とは似て非なるものであり、河川行政の怠慢の責任を被害住民に転化するものである。
原判決の右のような認定は、社会的制約論についての国賠法の解釈を誤ったものであり、判例違反でもあり、経験則違反ひいては理由不備の違法があると言わざるを得ない。
上告理由第七点
原判決は、理由三、3において、一身田団地開設が同地区の水害を激化せしめる原因となったとまで直ちに認めることができないと認定しているが、右認定には、採証法則違反及び理由不備の違法があり、この誤りは、判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
一 原判決の判断内容と問題点
1 原判決は、理由三、3において「一身田団地の開設が同地区の水害を激化せしめる原因となったとまでは直ちに認めることはできない」として、その理由付けとして、次の四点を上げている。
① 本件水害によって一身田団地は、志登茂川の溢水流が一身田平野へむけて流れていく流路となって、同団地では分譲住宅や一戸建の県営住宅ばかりでなく鉄筋コンクリート三階建の県営アパートまで、少なからず被害を受けたこと、
② 昭和四一年に同団地に入居した右福井証人は、入居後本件水害以前にも同様に床上浸水の被害をうけていること、
③ 先に認定した昭和三四年から同四六年までの間の一身田地区の浸水被害の結果(原判示)とを総合して判断すると、一身田団地開設後、一身田地区は同程度の雨量でも床下浸水程度ですんだ場合もあって、同団地の開設が必ずしも大被害に結び付いているわけでないこと、
④ 本件水害のごとく一身田地区が大きな被害を被った場合は同団地も同様に被害を受けていること
右の四点から、原判決は、「一身田団地の開設が一身田地区の水害被害を深刻化させる一因となったことは否めないが、右団地の開設が直ちに水害被害を増大させたとまで認めることができない」と判示している。
2 ところで、右の①、②、④の点が、なぜ水害激化の原因を否定する理由付けになるのか理解できない。
また③の理由についても、なぜ昭和三六年と同四二年の降雨の際、一身田地区の被害が少なかったかの点についても証拠に基づく検討をしていない。
そして、原判決は、一身田団地の開設が水害激化の原因であるという多数の証拠についての判断もしていないのである。
原判決の水害激化の原因は、一身田団地の開設ではないという認定の誤りは、採証法則違反、経験法則違反及び理由不備の違法によるものであり、以下詳述する。
二 一身田団地が水害被害を受けていることは、水害被害激化の否定の理由とならない。
1 原判決は、前記のとおり①、②、④点を理由として一身田団地の開設が水害を増大させたとはいえないと認定しているが、まず第①点の「一身田団地内における分譲住宅や一戸建の県営住宅ばかりではなく、鉄筋コンクリート三階建の県営アパートまで少なからざる被害をうけていたこと」が、なぜ被害激化の否定的理由付けとして作用するのか不明である。
原判決の右判示の部分では、「鉄筋コンクリート三階建の県営アパートが浸水被害にあった」ことに特別な意味を見いだしているようであるが、右認定の意味が三階建のアパートの三階まで浸水被害にあったということであるならば、それは明らかに誤りである。
原判決が引用する証人福井美知子の証言から明らかなとおり、三階建の県営アパートで浸水した部分は一階部分だけである(同証人調書二丁)。
すると、この認定部分でことさら三階建のアパートが浸水被害にあったということは、特別な意味を有せず、ここの理由づけで原判決が述べたいことは、④点と全く同じで本件水害時には一身田団地も被害にあったということだけになる。
2 次に②点で原判決は、「福井証人は、昭和四一年に一身田団地に入居した後、本件水害以前にも同様に床上浸水の被害を受けていること」が認められるとしているが、福井証人の調書を子細に検討をしてもどこにもそのような証言部分は存在しないのであり、原判決は明白な採証法則違反の誤りを犯している。
ところで、他の証拠からすれば、昭和四一年から本件水害までの間に例えば昭和四六年八月三〇日同年九月二六日の水害のごとく一身田団地に居住の住民が志登茂川からの溢水により浸水被害を被ったことは明らかであるが、そのことがなぜ水害激化の否定の材料になるのかこれまた不明である。
3 一身田団地が水害被害を受けていることが、水害被害激化の不定的理由にならないことは、次のようなことを考えれば容易に理解できる。
(一) 左図のとおり、一身田団地の建設と水の関係を簡略化してみる。
団地を造成する前は、その部分が田であり志登茂川の溢水はすべてこの田を流下して下流へと流れていったため、旧市街地は志登茂川が溢水しても激甚な被害を受けることがなかった。
(二) ところが、その溢水の退路に土盛りをして団地を造成したため、溢水は退路をふさがれ逃げばがなく、志登茂川と旧市街地及び団地とにはさまれた遊水地に湛水し、この遊水池が満水になると一面に流れだしてくるわけであるから、当然に団地自体も水害を受けるに至るのである。
右のことからして、一身田団地も水害をうけていることが、水害被害の激化の否定的理由とはならないことは明白である。
原判決は、右のように事実をまともに見るならば、根拠にならない理由を並べて、一身田団地の開設が水害被害を激化させた理由とはいえないと判示しているのであり、これは明らかに経験則違反であり採証法則違反及び理由不備の違法があるといわざるを得ない。
三 原判決は、前記のとおり一身田団地が水害激化の原因でない理由の③点目として、昭和三四年から同四六年までの間の一身田地区の浸水被害の結果からすると昭和三六年と同四二年の降雨の時には、浸水被害が少なかったので、一身田団地の開設は水害激化の原因でないと認定しているが、右認定は誤りである。
1 原判決が右のような認定をしているところは、理由三、2、(三)の部分(原判決三〇丁)であるが、「昭和三六年と同四二年の際の降雨量は、津気象台の明治三八年以来の記録によっても、二時間ないし2.5時間雨量として十数位と言う高位を記録しているにもかかわらず、一身田地区における実際の被害は記録に残らない程度であったり、浸水率2.7パーセント程度の床下浸水が生じた程度であったことが認められる。」としている。
右の認定をした証拠は<書証番号略>(木元凱夫論文)、<書証番号略>(水谷正一論文)と<書証番号略>(津市確立雨量について)なのである。
右証拠のうち、浸水被害の点は、<書証番号略>によっている。
2 ところで、右表9をはじめとする<書証番号略>について説明をした水谷正一証言や奥田穰については、原判決は全く引用をしておらない。
水谷正一証言や奥田穰証言が昭和三六年と同四二年の降雨で、なぜ一身田地区に浸水被害がなかったのか詳しく証言をしているのにもかかわらず、その点に全く触れていない。
原判決の水谷正一証言や奥田穰証言を看過した認定は明らかな経験則違反、採証法則違反であり、理由不備の違法がある。
(一) 昭和三六年六月二六日の降雨による浸水被害は、不明であるが床上浸水被害が、存在したことは明らかである。その資料がないのは、津市において調査結果をきちんと整理をしていなかったからにすぎず、被害の程度が少なかったからではない。浸水被害の資料がないのは昭和二八年九月二六日の降雨の際も同様であるが、この時も床上浸水被害があった。
昭和二八年九月及び昭和三六年六月の浸水被害についての証拠は次のとおりである。
(1) 萩森本人は、昭和二八年九月の水害については、「裏口の北西の隅の方から夕方四時半頃から入りかけて、六時には床下一五センチぐらい来ていたが、その後七時過ぎには引いていった。短時間の床下浸水だった」(六二・一〇・二六萩森調書九丁)と述べ、昭和三六年六月二六日の水害については、「野垣病院に入院していたが、妻から床すれすれに水がきたと聞いた」(右同調書一二丁)と明確に供述している。
(2) 細川本人は、昭和二八年の水害も同三六年の水害も床上浸水であったと述べている(五二・八・一一細川本人調書一六、一七丁、二〇、二一丁)。
(3) また、立松本人は過去の水害の状況について次のように述べている。
昭和二八年九月の水害については「床上二〇センチくらい浸水した。小さい子供と年老いた母を家が平家のため、どれだけ水がくるか分からないので、東の家が二階建てだったので、その二階へ避難させた」。
昭和三六年六月二六日の水害については、「朝から雨が降っており長島温泉に子供を連れて行ったが、ものすごい降り方だったので、すぐに帰ってきた。帰った一時頃には床すれすれまで水が浸っていた」(六三・二・一五立松本人調書四~一〇丁)と述べている。
右の各供述から明らかな通り、昭和三六年六月二六日には相当程度の浸水被害がでていたのである。
原判決は、単に津市に浸水の被災記録が保管されていないというだけで、右のような被害事実の証拠も検討せず、あたかも昭和三六年六月の降雨では被害がなかったかのごとく認定していることは、明らかに経験則違反であり、採証法則違反及び理由不備の違法をおかしている。
(二) 次に原判決は、昭和四二年一〇月二七日の降雨について一身田団地開設後の降雨であり、この降雨は、昭和四六年の八月と九月の二回の降雨とほぼ同じ程度の規模であるのにもかかわらず、昭和四六年の二回の降雨では一身田地区が甚大な床上浸水被害を受けているのにもかかわらず、昭和四二年の降雨では、わずかな床下浸水被害を受けたにすぎないから、一身田団地の開設は水害激化の原因とはならないと認定しているが、右認定は、奥田穰証言、水谷正一証言を意図的に無視した判断をしているといわざるを得ない。
(1) 昭和四二年一〇月二七日の津気象台の降雨量は、志登茂川流域に降った降雨を代表していない。
昭和四二年一〇月二七日の津気象台の降雨記録によれば、右雨量は大きな被害を出した昭和四六年八月三〇日及び同年九月二六日の降雨と同じ規模のものであるが、この雨は津気象台の雨量が志登茂川流域に降った雨を代表していないのである。この時の降雨は、亀山とか津市北部の山側に非常に少なく、津気象台や松阪など南側に偏在した降り方をした雨なのである。従って、昭和四二年一〇月二七日の降雨は津気象台の降雨記録に基づいて判断すると不正確になる(六二・八・二六奥田調書二一丁、六三・四・二〇水谷調書三二~三六丁、<書証番号略>)。
即ち<書証番号略>より明らかなとおり二六日、二七日の総雨量が松阪では三〇〇mm、津では231.7mm、亀山で一四七mm、柘植で一四六mmであり、一二時間雨量では、津が186.4mm、亀山での記録はないが近くの柘植で一〇八mmである。また、二七日の時間雨量をみると亀山の記録はないが柘植と津を比べれば、柘植は津の約六割程度の降雨であり、このことからすると志登茂川上流では、津の気象台の約六割ぐらいの雨しか降っていなかったことになり、これは津気象台の降雨にひきなおせば、昭和四〇年九月一七日の降雨とほぼ同じなのであり(六二・八・二六奥田調書二三丁)、昭和四二年一〇月二七日の降雨は津の気象台の雨量が志登茂川流域の雨を代表していないことを示している。
このことは、他の雨の場合は津の気象台の降雨量と亀山測候所及び三重大農場の降雨量との差がないことからも明白なのである(六二・八・二六奥田調書二二~二三丁、六三・四・二〇水谷調書三五、三六丁)。
従って、昭和四二年一〇月二七日の津気象台の降雨量と昭和四六年八月及び九月の各降雨量と一身田地区における床上・床下浸水被害の程度を比較しても意味がないのである。
(2) 右のような明確な証拠がありこれに反する証拠が被上告人らから全く提出されていないのにもかかわらず、意図的に右証拠を看過して、あたかも、一身田地区の造成が水害激化の原因でないかのごとく理由づけていることは経験則違反、採証法則違反であり理由不備の違法があるといわざるを得ない。
原判決が挙げた一身田団地の開設が水害激化の原因でないとの理由は、すべて根拠のないものであり、証拠に基づかない独自の見解により導きだされた杜撰きわまりない認定であることが明らかになった。
四 一身田団地の造成・開設は、水害激化の原因である。
原判決は、上告人らが提出した水害激化の原因は、一身田団地の造成・開設にあるという多くの証拠について全く判断をすることなく、単に<書証番号略>の一部からのみ一身田団地の開設は水害激化の原因でないという認定を導きだしている。このような認定は、経験則違反、採証法則違反及び理由不備の違法がある。
以下、一身田団地の造成・開設であることを論証し、原判決の違法性を明らかにする。
1 志登茂川の在来工法は溢水工法である。
(一) 志登茂川は上流部の河床勾配は (ママ)中流部のそれは (ママ)で下ってくるが、古川橋からの下流部では、平野井堰までは (ママ)、それより下流では (ママ)であり、急勾配な上・中流部を下ってきた洪水は下流部に至って急速にその勾配が減少するために、狭溢な河道にその洪水のすべてを受容することができず、国鉄紀勢線からの下流部において川北橋より上流では左右岸の河岸段丘に沿って、洪水流は溢水し流れ出す。
そして、川北橋より下流では、左岸側では今井井堰の上流で地山がせりだしているため溢水は河道に還元するが、右岸では地形勾配に従って一身田町方面へと流下していった。
志登茂川は、このような河川の特徴を有しているため、昭和初期の耕地整理事業においても昭和三七年から四三年にかけての災害関連事業においても河道内で処理可能な洪水量は速やかに下流に排除するが、それを超える洪水量は、堤内に溢流させるという溢水工法を採用していた(<書証番号略>)。
(二) とくに、志登茂川の今井井堰より上流、国鉄紀勢本線までの約1.3キロメートル区間は、昭和三七年の一四号台風による河川災害関連事業が行われるまでは無堤であった。
清水保証人は、「今井井堰より上流が無堤であるのは、水田地帯であるので、氾濫を主体に考えていたので、あえて堤防を造らなくてもいいということであり、この考え方は出水があったら両岸の水田地帯に洪水を流せばいいという考え方に立って、災害関連事業では溢水堤を採用した」と証言し(昭和五九年九月三日清水調書二三丁、昭和五九年一月三〇日同人調書八丁)、溢水工法を採用したことを認めている。
右災害関連事業で設置された堤防は溢水堤であるから溢水することを当然の前提としているため石羽口工法を用いて堤防全体を巻いて溢水による堤防の崩壊や破壊を防いだのである(<書証番号略>、五九・九・三清水調書三項、六〇・六・五同調書四、五丁)。右の工法から明らかなとおり、被上告人らは昭和三七年当時においては、今井井堰上流の部分において、一定規模の降雨があれば志登茂川が溢水することは十分に認識しており、県営一身田団地が建設された水田は、溢水が流下してくる退路にあたるということも承知していた(五三・一〇・二六下村宏之調書八丁裏~九丁、五三・一二・二一同人調書一四丁)。
(三) しかも、このような志登茂川の治水理念は昭和四七年に立案された志登茂川全体計画まで変化がなく、本件水害まで治水理念の転換をうかがわせるような具体的な施策は実施されなかった(昭和六三年四月一八日水谷調書三四丁~三五丁)。
2 団地造成と水害の激化
(一) 被上告人三重県は、昭和二九年頃、一身田市街地と本件志登茂川にはさまれた東西に県道津関線を開設し、更に財団法人三重県開発公社は左図のとおり昭和三五年から昭和三七年にかけて高田慈光院前の通称昭和通りを隔てた東側に広がる広大な農地(総面積八万九一〇三m2)を潰して、田面から約一メートルもの土盛りをして一身田団地(二九四戸を公営住宅、一六〇戸を分譲住宅とした総戸数四五四戸の団地で、その東北端は平野井堰に、西南端は高田本山前を東西に走る通称栄通りに面した一身田郵便局にそれぞれ近接している〔<書証番号略>〕。)を造成した。
一身田団地の造成は、遊水地を減少させ、今井橋上流右岸より溢水した溢水流の退路を塞ぎ、一身田旧市街地の水害を激化させたことは、以下の証拠より明らかである。
(二) 学者証人はすべて、団地の造成が水害激化の原因であると証言している。
① 水山高幸教授は
「志登茂川右岸の遊水地帯の規模を縮小し、下流の平野への流下を妨げる工事が昭和二〇代末から大規模に行われている。昭和二九年頃の県道津関線の盛り土による宅地造成がそれである。これらは、遊水地地帯に溢れた水が平野(地区)へ流下するのを遮断したり、湛水深を増したり、そこから外側へ溢れる範囲、浸水の水深、流速を変えたと考える。昭和四九年七月の水害を見ると、氾濫が一身田町市街にひろがり、その水深は、1.5mに及び、床上浸水戸数を増したり、専修寺の西側をまわって東へ流下する氾濫を誘ったのはこれらの工事の影響が大きいと考える。」(<書証番号略>)
「志登茂川からの溢水のうち一〇〇万トンのオーダーの水が一身田市街地へ入って行ったと考えられるが、団地が出来る前であれば、この一〇〇万トンの水は一身田団地が建設された水田を流下し、平野(地区)のほうに抜けて行ってしまっただろうとかんがえられる。」(五五・九・二五水山調書三三~三四丁)。と証言している。
「もしも、一身田団地の土盛が出来なかったら、水田のままに放っておけば、ある程度入って来る水と出ていく水との間に、水田の中での話ですが、バランスを保っていたのではないかという考え方が出来るのじゃないかと考えております。このことは実はこのバランスが破れることによって、今までのあり得なかったような、あるいは今までよりも大規模なあるいは今までより別な激しい水害がおこるようになったのではないかと考えるわけです。」(同調書三〇丁)
「四六年から四九年とけた違いに被害が顕在化というか、はっきりしてくるというようなことについては、やはり、私は一身田団地の埋立てというか、盛り土というものが強く効いていますし、そういう方向での、私の考え方になるかもしれませんが下流での土地改変ということは津・関線の県道の建設からすでに現れておるのであって、その方向での水害の様子を変える大きい直接的契機になってきたという具合にかんがえます。」(同調書四九~五〇丁)、
と証言している。
② 奥田穰教授は、
「一身田地域は、一つは自然条件からいっても水害の発生しやすい地域で、もう一つは河川の状況(洪水疎通能力・今井井堰等工作物)、土地利用の状況から水害を発生させる必然的条件を作り出している。そのため水害常襲地帯が形成された。
志登茂川のそういう条件の中で田圃で、遊水地帯であった水田を嵩上げして、盛土をして団地を造ってしまった。そこで志登茂川の堤防がそのままの状態で、今井井堰の疎通能力が同じ条件ですから、越流して流れてきた水がもろに開発した地域にぶつかってくるということになります。
団地それ自身が今度は、その流れを食い止めてしまって、流れを変えてしまう。変えることによってその近傍にある地域に対しても、水害を与えていくという形になってしまうわけで、被害を拡大し、激化するという形になってくるわけです。(六二・六・一奥田調書一五~一七丁)
③ 水谷正一教授は、
「昭和三五年~三六年にかけて県営一身田団地が建設され、やや遅れて溢水堤が廃止される。
その結果志登茂川への再流入は阻止され、三〇haの水田地帯は貯水池化する。そして、右岸の溢水量が貯水池の容量約四〇万m3を上回ると洪水は県道を越えて一身田市街地に流入した。このときの洪水の流向は以前とかなり異なってくる。県道津・関線の路面高がほぼレベルであるため、それまで左図のとおり田面位に従って流下していたBは、道路沿いのDのように拡散し越流するとともに、一身田団地が流路を塞ぐ結果、市街地全域が洪水流の進入を受けるようになったと推定される。」(<書証番号略>)。
と論じ、原審において次のように証言した。
「三四年の八月に出た洪水の高水流量というのは、一番大きいものです。四九年よりも大きい水が出ております。ピークとして大きい水が出てます。それにもかかわらず、四九年のほうが浸水位が高くなっているということの原因は、やはり私が先程説明したような、ブロックされて(左図〔<書証番号略>〕のように)一身田団地と専修寺にブロックされる形で、迂回流がそこで生じ、全体で狭い範囲に洪水流が流下しなければならないということによって、浸水が高まったと。これは数学的、物理学的に説明するのは大変難しいですが、ただ定性的に言えば、そういうことで説明するのが一番説明の筋が通ると考えます。(六三・四・一八水谷調書三〇・三一丁)。
「一身田の中で、やはり県営団地が造られたというときですね。三五、六年に造成が始まりますけれども、この時期、県営団地というのは正に昔の溢水した水が流れていく水田の上に造成されているわけですね。ここに造れば流路――流れる道を塞ぐことは、かなり自明であったわけですから、このころに、溢水するような志登茂川の性格は、やはり変えなければならなかったと考えます」(同調書三五丁)
「つまり条件が一緒で同じ洪水流が仮に来て、そしてこの一身田団地がなかったとした場合と、あった場合のことを考えると、これはモデル的に頭の中で考えるという意味だと思いますが、そういう場合は当然ながら、新しい団地の造成によって、もしこれがない場合は床下だったのが、ある結果として床上に変化するということは、モデル的には考えられます。先程ちょっと議論しましたときは、三四年のときの浸水位より高くなったということですから、そういうことは考えられるわけで
④ 木元凱夫教授は、
その論文で、「結論としては現在までの一身田地区の水災害は、“上流の乱開発”という問題よりも下流地区内の問題である。
すなわち、河川通水能力の不足、道路、堤防による排水不良のための初期湛水、住宅化による盛土が氾濫水のミオ筋を変えることなどが雨量そのものに次ぐ第二の氾濫要因となる。
以上の事から考えると降雨による出水~氾濫に対し、地区住民は無意識の内に伝統的な備えを有していたことが分かる。氾濫水も海岸部に向かって開ける低位部水田にそれこそ遊水池として湛水したはずである。
ところが、川筋の水田が盛土されて宅地化し、さらに同じく盛土施行された県道が河川を切って走り氾濫水の吐口を塞ぶ結果となった。」(<書証番号略>)と論じている。
⑤ 被上告人らの証人である細井正延教授ですら、
「(質問)それから、団地ができたことによって、本件水害に対してどのような影響を与えたかという点については、どうですか。
(答え)これは、やはり、団地ができる前は今遊水地といっておる遊水地から東南方向に、現在団地があるあの辺を通って、それから、東南方向へ流れていったと思います。それは地盤高からいって多分そうだと思いますが、通路に当たる所に団地ができておりますから、そこで水が堰き止められて、そして、西側の市街地に対して影響を与えたというふうに考えます。」(五五・一二・二五細井調書三九丁)と証言している。
(三) 団地造成前の洪水の流れ
団地造成前には、一身田団地が造成された部分は、左図のとおり(<書証番号略>)、破線で囲まれたところであり、団地造成前は広大な水田であった。
志登茂川今井井堰直上流右岸から溢水した水は、地形勾配に沿って志登茂川と県道に挾まれた水田地帯から団地造成前の水田地帯を通って一身田平野地区へ流下していった状況は、次の証拠から明らかである。
水谷助教授は、右図をもとに次のとおり説明している(<書証番号略>)。
小洪水の場合はAのように志登茂川本線へ再流入し、大洪水の場合はBのように地形勾配に沿って平野部落方面へ流下したが、一身田団地があるところは、以前水田地帯であり、県道津関線を越えた水はこの水田の上を流れて南東方向に流下していった(昭和六三年四月一八日水谷調書三〇丁)。
水山高幸教授は、<書証番号略>を使って、全体として今井井堰上流のT・P45m(東京湾中等潮位を基準にした地盤高)の地点から南東方向に流下し、一身田団地が造成された水田の上を流れ、T・P16mの旧国鉄伊勢線東一身田駅付近の一身田平野方面へ流下していったと説明している(昭和五五・九・二五水山高幸調書一六・一七丁)。
上告人細川義男、萩森健弘、立松敏夫らも自らの体験に基づき洪水流は今井井堰のある北西方向から一身田団地が造成された水田の上を流れ、南東方向の一身田平野へ流下していったと供述している(六二・一・二一細川調書三丁、六二・一〇・二六萩森調書一三丁、六三・二・一五立松調書五丁)。
(四) 団地造成後の洪水の流れ
今井井堰直上流からの洪水流退路にあたる広大な水田地帯に一身田団地が造成されたことにより、県道津関線開設と相いまって、志登茂川と県道に挾まれた遊水地を溢れた水は県道を越流することになるが、団地によってブロックされ、次第に水嵩を増していき、結局逃げ場を失った水は、左図のとおり。
一つは高田本山西側沿いの水路及び道路伝いに地形勾配に沿って激しく流れ、本山南西角から本山前を通って栄町の大通りを東流し、もう一つは昭和通りを南下して栄町通りと昭和通りとの交差点に向かう流れとなり、一身田郵便局前の右交差点で一つの流れが合流し渦を巻き、更に栄町通りを地形勾配に沿って東流(一身田平野地区方面)していくことになった(五五・九・二五水山調書二一―二四丁、<書証番号略>)。また、以上の流れの他、団地内を南北に走る数本の通り伝いに北から南の栄町通りに向かう流れもみられた。右のことを水谷助教授は分かりやすく次のように説明している。
溢水流が一身田団地によってブロックされ、その結果迂回流が生じる。この迂回流は右図のように高田本山専修寺と一身田団地の二つにブロックされるため、その間の低いところを北から南の方へ向かって流下していった(六三・四・一八水谷調書三〇丁)。
(五) 一身田団地の造成によって水害被害が激化したことは、次のような上告人らの供述や水害被害の実体が事実をもって証明している。
(1) 津市一身田町七二番地上村進方店舗兼居宅は、高田本山と一身田団地に挾まれた地域に所在しており、同人の商品倉庫の床面は、志登茂川の浸水被害の都度嵩上げされている。
その推移は次のとおりであり、団地造成により浸水被害が激化したことが一目瞭然である(五九・四・二〇付上告人ら指示説明書写真⑮、⑯)。
団地造成前
①昭和三四年八月一四日の水害後
第一段 路面から約65cm
団地造成後
②昭和四六年八月三〇日及び同四六年九月二六日の水害後
第二段 路面から約45cm
③昭和四九年七月二五日の本件水害後
第三段 路面から約80cm
特に高水流量は昭和三四年八月が毎秒三九四立法メートル、昭和四九年七月の本件水害が毎秒二四四立法メートル(<書証番号略>)であるにもかかわらず、浸水位では、本件水害時の方が倍位の高さになっているのは、溢水流が一身田団地と高田本山にブロックされる形で迂回流が生じ、全体で狭い範囲に流下しなければならなくなったからであると定性的に説明が可能である(六三・四・一八水谷調書三〇、三一丁)。
(2) 上村宅近隣の一身田町七一七番地相原宣治宅も上村宅同様高田本山と一身田団地の間に挾まれた地域にあり、同人宅の門柱に本件水害の水位を刻み込んだ跡がある、その水位は、最深時において一五七センチに達していたことがわかり(右同指示説明書写真⑭)、団地造成による洪水流の堰上げ効果がいかに凄まじいものであったか窺うことができる。
(3) 一身田町七三二番地宇田昌義宅は、高田本山北側の水田地帯に面しているが、宇田昌義宅の旧居宅の柱には、昭和三四年八月一〇日(土間より四七センチ)、昭和四六年七月二六日(同46.5センチ)、同八月三〇日(同四四センチ)、昭和四九年七月二五日(同一〇五センチ)の四回の各浸水位が記録されている(右同指示説明書写真⑬)。やはり相原宅同様堰上げ効果をまともに受ける地点であり、浸水位が団地造成によって年々激化していった様子を読み取ることができる。
(4) 一身田町二六八番地安保喜代治宅は洪水の合流する一身田郵便局前の交差点から西方へ少し入った栄町通りに面しているが、本山前から東流してきた激しい洪水流により、本件水害時には土間から約一二〇センチの浸水被害を受けるに至った。検証フィルム(16mm)をみれば洪水流の激しさもよくわかる(右同指示説明書写真~)。
(5) 団地造成によって洪水流の流れが変化し、流速、浸水位とも顕著に増大していったことは、上告人細川義男、萩森健弘、立松敏夫らが異口同音に供述している。
細川義男
「団地の造成前後で浸水位まで変化がありましたか。
団地ができてからの浸水位というのは、以前より水高が高いです。
押し寄せてくる流れの速さはどうでしたか。
以前より速かったような気がします。急激に入ってきたような気がします。」(六二・一・二一同人調書六丁)
萩森健弘
「団地ができたあとの水害、昭和四六年の二回と本件水害、その流れはどのようになりましたか。
北西の隅から入ってくるのと、それぞれの水が栄町通りを突っ走るという状態、前の昭和通りは団地へ突き当たった水が栄町通りのほうへ流れるという状態で、従ってその水の流れも非常に速いと言う状態であったわけです。
そうすると、団地ができて、流速も早くなった、造成された団地にぶつかった水が昭和通りを走るようになったということで、よろしいですか。
そうです。」(六二・一〇・二六同人調書一五丁)
立松敏夫
「団地ができてからの水の流れは、どのようになったのかということをお伺いしたいんですが、甲第六四号証の書面を見ながら説明していただけますか。
団地ができる前は北西のほうから流れてきておったんですけれども、団地ができてからは、私のところの前に大きな道路ができておるわけですが、私のところから見ても一メーターぐらい高くなってる、その団地のほうから低いほうへ向かって流れ込んでくるわけです。
これが滝のようになって私のところの低いほうへ流れる。もう一方は栄町通りを通って東のほうへながれていくわけですが、これが私のところの十字路になっているところで渦を巻いて、前からくる水と栄町通りをきた水とが合流をしまして、それが私のところの家の中に入ってくると、こういうような状況に変わりました。」(六三・二・一五同人調書九・一〇丁)
(六) 以上のとおり、団地造成と水害激化との因果関係は学者証人の分析、上告人ら住民の聴取、現地の地形や過去の被害の痕跡を通して十分証明済みである。
五 まとめ
以上多くの証拠に基づいて、一身田団地の造成・開設と水害激化の関係を子細に検討すれば、原判決のように「一身田団地の開設が一身田地区の都市化を招き、他の原因と重なり合って水害被害を深刻化させる一因になったことは否めないにしても、右開設が直ちに水害被害を増大させたとまで認めることができない」などという認定にはならず、上告人らの主張のとおり一身田団地の造成・開設が一身田地区の水害被害を激化させた原因であるという結論に到達せざるを得ないのである。
多くの上告人らの提出の証拠を看過し、一身田団地の造成・開設が水害激化の原因でないと判示した原判決の認定は、採証法則違反・経験則違反であり、ひいては理由不備の違法であり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。
上告理由第八点
原判決は、理由三、3において、上告人らの団地造成責任の主張に対し、「一身田団地を開設したのは、控訴人三重県が県議会の議決を経て設立した財団法人三重県開発公社(後に組織変更して三重県土地開発公社)であるのに対し、志登茂川の管理は、河川法一〇条によって国の機関としての三重県知事の行うもので、本来主体が異なるものであるから同被控訴人らのこの点の主張は採用することはできない。」と判断しているが、国賠法二条の河川管理責任の有無を判断するにあたっては、形式的な法主体の異別性にとらわれることなく、県、県知事、公社の相互の関係はどうであったのか、河川管理者は河川からの溢水の影響を考慮し溢水を堰き止めるような位置に団地を造成することを中止しうる立場にあったのかどうかという、その実質面に着目してなされるべきものであり、この点において原判決には国賠法二条の解釈を誤った違法があり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすことは明らかで原判決は破棄されなければならない。
一 三重県開発公社と三重県の一体性
三重県開発公社と三重県が一体であることは、公社の沿革、組織、目的業務をみれば明らかであり、三重県開発公社は正に三重県の下部行政機関たる実質を有していたものといえる〔東京高裁昭和四八年一〇月二四日判決(判例タイムズ三〇一号一〇一頁)、最高裁昭和五三年一二月八日判決(判例タイムズ三七七号七三頁)各参照〕。
すなわち、三重県開発公社は、昭和三一年五月県議会の議決を経てからの出資金二〇万円を得て設立された財団法人三重県住宅公社を前身とし、昭和三五年一二月には基本金を五二〇万円に増額して財団法人三重県開発公社に名称変更されたもので(一身田団地は昭和三五年から三七年にかけて造成された)、その後は地方住宅供給公社法(昭和四〇年六月一〇日法律一二四号)の制定に伴い現在の三重県住宅供給公社と三重県土地開発公社に組織変更されるに至った(<書証番号略>)。三重県開発公社は一身田団地造成中の昭和三六年当時県行政機構の総合開発本部の所轄とされ、理事長は県知事、理事は副知事及び県庁内各関係部長の当て職となっていた(昭和六一年六月四日曾根調書七丁、昭和六一年五月七日同調書八丁)。同公社の目的は「三重県の策定する開発計画に則り県内の住宅及び住宅用地並びに工業の立地に必要な用地及び施設を整備することにより秩序ある地域の開発を促進しもって県経済の伸展と住民福祉の向上に寄与する。」こととされ、具体的には三重県知事が年度当初に行う施政演説に基づき、総合開発本部、土地開発公社が住宅建設計画を策定していったものである(昭和六一年五月七日曾根調書一〇丁、一一丁)。
一身田団地もまた三重県の策定した住宅建設計画に則り、土地開発公社により用地取得、造成、住宅建設、分譲が行われるに至ったもので、団地造成は、以上述べたように県の下部行政機関たる実質を有する三重県開発公社が造成したという意味において三重県自らが造成したのと同視しうるのである。
二 河川管理と地方公共団体の事務との相互関連性
志登茂川は二級河川であるが、二級河川の管理は都道府県知事が行うものとされ(河川法一〇条)、国の機関委任事務として処理されている。そして、原判決は、団地は公社、県が造成したにしても、二級河川の管理は知事が国から委任を受けた事務として行うものであるから、主体が異なる、すなわち、県のした団地造成行為の責任を河川管理者たる三重県知事に負担させることはできないと判示しているのである。しかしこのような考え方は、機関委任事務の制度や現実の処理実態を無視した形式論であり、到底肯認することはできない。
1 なるほど、機関委任事務は、地方自治法二条二項の地方公共団体の事務とされるいわゆる自治事務には含まれず、自治事務との差異として、主務大臣の一般的な指揮監督を受けること(地方自治法一五〇条)、議会の有する議決権、検査権、調査権が及ばないこと(同法九六条、九八条、一〇〇条)、職務執行命令訴訟手続の制度があること等が挙げられる。
しかしながら、機関委任事務にも住民意思を出来るだけ反映させるため、議会には説明要求権、意見陳述権が認められ(同法九九条一項)、特別監査の対象にもされている(同法一九九条五項)。のみならず、県予算を伴う機関委任事務にあっては経費負担の限度において議会の権限が当然及ぶのであって、制度的にも機関委任事務が地方公共団体の事務処理と隔絶されたところで管理執行されることはないのである。
ことに、二級河川の管理費用は河川法上原則的に都道府県の負担とされているのであるから(河川法五九条)なおさら二級河川の管理と都道府県との関わりは密接である。二級河川の管理に要する費用を原則として都道府県の負担としているのは、河川は国の公物でありその管理の事務は国の事務とされているのであるが、二級河川については二級河川の管理によって生ずる利益は直接的には都道府県に帰するという受益者負担的見地に立っているからであり(建設省河川法研究会編「河川法逐条解説」四四九頁)、少なくとも機関委任事務の中でも二級河川の管理については地方公共団体の事務的側面が非常に強いと言えるのである。因みに、二級河川の管理に要する費用のうち、管理費、修繕費については全額都道府県負担、改良工事費については地方財政の負担を考慮して負担基本額の二分の一以内を国が負担し(河川法六二条)、その改良工事が工事実施基本計画に定められた、河川の総合的な保全と利用に関する基本方針に沿って計画的に実施すべきものであるときは、水系一貫管理を推進する建前から二分の一以内を特に二分の一とされている(河川法施行令三七条二項)。
2 更に、現実に地方公共団体の処理している事務の具体的な内容をみると機関委任事務といってもそれは殆ど地方公共団体の事務として一体的に処理されている色彩が強い。
都道府県知事に対する機関委任事務は地方自治法別表第三に掲げられているが、これだけを見ても機関委任事務の範囲が如何に広範にわたるか一目瞭然であり、今日、国の委任事務は、府県の処理する事務の八割、市町村の処理する事務の四割を占めていると言われていることは周知のとおりである(法律学全集「地方自治法」二九二頁)。
二級河川の管理が国の機関委任事務にあたるからといって、これを地方公共団体の事務ではないとみるのは現実の実態にそぐわないし、我々の常識にも反することである。
3 以上のとおり、原判決の上記の結論は責任論を論ずるにあたっては極めて形式的にすぎず、何の説得力も持ちえない。前記最高裁昭和五三年一二月八日判決も、国と日本鉄道建設公団との関係について、実質面に着目して同公団が運輸大臣の下部行政機関であると論じているのであって、かかる見地からすれば、原判決の形式論は右最高裁判決にも違反している。
三 河川管理者たる三重県知事の権限と責任
1 河川管理者たる三重県知事と公社の組織・運営
さきにも述べたように、三重県知事は河川管理者であると同時に三重県開発公社の理事長でもある。理事長以下をみても、理事には土木部長、総務部長、農林部長、総合開発本部長らが就任していた(昭和六一年五月七日曾根高恒調書八丁)。そして、公社の団地造成は三重県知事の住宅建設に関する施政演説を受けて土木部建築課と公社の幹事との協議の中で具体的な計画として練り上げられ、最終的には公社理事会で決定されることになるのである(昭和五九年一一月五日清水保調書一九丁、昭和六一年五月七日曾根高恒調書一〇丁、一二丁)。一方、河川管理者は三重県知事であるが清水保証人が河川管理者は土木部河川課長であると認織していたように(前記清水調書二一項)、実際の河川管理事務は河川課において掌理され、土木部長を経て最終的には県知事に統括される(前記曾根調書五丁、一四丁)。従って、団地造成が付近の河川の流域の状態からみて不適切であれば、三重県知事は河川課からの指摘を受けて公社理事会で意見を述べて団地造成をストップさせ得る立場にいたことは明らかである。
2 河川管理者が団地造成を中止させ得る可能性
清水証人は団地造成当時河川課長をしていたが同証人は次のとおり証言している。
「問 当然ながら、こういう水害に悪い影響を与えるという場合には意見を言って話し合うことができるわけですね。
答 ええ。それは土木部長と言っても人によるかと思いますけれども、私のように河川の経験者でございましたら、ただ今おっしゃったようなことがもし必要であれば、そう言っておったと思います。ただ、経験者でない方はやはり意見はおっしゃらないのではないかと思います。
問 例えば、県のほうが、こんなところへ団地を造るべきじゃないというふうに意見を言えば、それは止まっちゃうような形になるんでしょう。
答 理屈でいけばそういうことになりますけれども、幹事会なり、何かの段階でその点はある程度デイスカッションしてみえると思います。」(昭和五九年一一月五日清水調書二〇丁)
「問 そうすると例えば県や国の担当者といいますか、県当局、国当局がそういうふうに調整しょうと思えばできることなんでしょう。
答 結果から、おっしゃられれば、そういうことになろうかと思います。
問 そこで、特に志登茂川においては団地を造ったのが住宅公社だと、そして住宅公社というのは県の住宅政策を一部実行するところだということになれば、県当局がこんなところへ団地を造ると水害が激化する可能性があるから、やめようと思えばやめられるわけですね。
答 まあ、理論的にはお話しのとおりだと思います。
問 だから、当時は河川管理課長が住宅公社に入ってなかったとか、だから意見が言えなかったとかいわれたけれども、県当局がそんな住宅はやめようと思えばそれはやめられるわけですね。
答 結果論ではそういうことに、言えるかと思いますが、」(昭和六〇年六月五日清水調書二一丁)
このように三重県知事が河川改修もしていないから団地を造るべきでないという意見を述べることはできたし、団地造成をストップさせ得る可能性があったということが言えるのである。
3 団地造成は河川管理権限外か
被上告人らは、原審で住宅行政は河川管理権限外であると主張している。確かに、団地造成自身は、形式的には河川管理権限外だとしても、団地造成は遊水地をなくし、氾濫水の退路を断つこととなり、この面からみると河川管理権限内である。すなわち、河川が溢れることを前提とする溢水工法を採用し、溢れた水を遊水地である田へ流す河川管理をしている以上、遊水地をなくすことにより水害が発生しないよう意見を述べ、対策をとるのも河川管理者の権限内のみならず責任でもある。
抜水工法(計画高水流量を全て河道内において収容して流下させる工法)をとって河道を開削し、抜水堤を築造するのも、溢水工法(洪水時に洪水を河道外に溢れさせる工法)をとって溢水した氾濫水を遊水地まで安全に流下させるのも、いずれも水害防御という共通した目標によって行われるものであるから、溢水工法を採用する以上氾濫水の遊水地への安全な流下を妨げてはならず、その意味で一貫した水害防御が要請されるのである。
従って、抜水工法を採用した場合は、河道内の堤防施設の築造と管理が河川管理の主たるものとなるであろうが、溢水工法を採用した場合は氾濫時における洪水の安全な流下と遊水地の確保が河川管理の主たるものとなるのであって、溢水工法を採用しながら、河道外に溢水した氾濫水がどこに流下し、どのような災害をもたらそうと、河川管理者の権限、義務外であって関知しないなどという主張は無責任極まりないことである。
4 団地造成による影響に対する予見可能性
更に、被上告人らは団地造成に際し志登茂川からの溢水による影響のことは実際考えていなかったと述べ、被上告人側の清水証人、当時の土木部長であった曾根高恒証人らもこれに沿う証言をしているが、清水証人自身、一般的には住宅を建設する場所について、付近の河川の状態とか、排水の状態とかいうことを事前に十分調査して住宅建築地を決定する旨の証言をしているのであって(昭和五九年九月三日同人調書四丁)、そうだからこそ、一身田団地造成の際には約一メートル位の土盛がなされたし、団地北側には規模の大きい排水溝が設置されたのである。従って、団地造成すれば志登茂川からの溢水流を堰き止めることになることも当然予見できたはずである(一身田団地の造成が遊水地を縮小させ、溢水の流路を塞ぎ、その結果一身田市街地全域に一層大きな水害被害を与えることになったことは、水山高幸京都教育大学教授、水谷正一三重大学助教授、そして被上告人らが証人申請した細井正延名古屋工業大学教授らが一様に認めるところであり、これを否定する証拠は全く存在しない。)。
被上告人らは、公社の幹事に建築課長は入っていても河川課長は入っていなかったと言うのであるが、河川課長の直属の上司である土木部長が理事として公社組織に入っているのであるから、建築課長の直属の上司でもある土木部長において調整することはいくらでも可能である。現実に河川課と建築課で住宅行政と河川管理行政について協議調整していたかどうかは責任論の見地から問題とはならないし、協議調整していなかったことが免責の根拠とはなりえない。
5 以上の検討により、河川管理者たる三重県知事において一身田団地の造成を抑制中止することはその権限と責任の上からも、予見可能性の点からも十分可能であったということができる。
五 よって、一身田団地を造成したのは三重県開発公社、河川管理者は三重県知事だとしても、公社と三重県との関係、三重県と河川管理者との関係、河川管理者たる三重県知事と公社との関係について子細に検討すれば、原判決のいうように主体が異なるという形式論が通用しないことはもはや明白と言わねばならず、これは国賠法二条の解釈の誤りであるから是正されなければならない。そして、この誤りは原判決の結論に影響を与えること大であるので原判決は破棄されなければならない。
上告理由第九点
原判決は、理由三、2、(三)において志登茂川は昭和四〇年当時、特に緊急に改修を要する状態にはなかったと認定したが、右認定には採証法則違反、経験則違反、理由不備及び審理不尽の違法が存し、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
一 原判決の判断内容と問題点
原判決は昭和四〇年当時、志登茂川を緊急に改修を要しなかった理由として次の四点を上げている。
① まず、「志登茂川は、昭和三七年以降同四九年までの間に三重県内において最も大きい家屋被害を発生させた河川であるが、被害の程度を立証した甲号各証は、改修の程度が志登茂川より進んだ河川との対比をもって志登茂川の被害の大きさを立証するものにほかならず、従ってかかる対比のみをもって直ちに志登茂川が三重県内で最も大きい被害を引き起こす河川であると認めることはできない」こと。
② 次に「一身田地区は、過去一六年間の九回の水害の内、最も大きな浸水被害を受けた昭和三四年八月一三日の七号台風以来昭和四六年の二度の台風までの間に、昭和三四年九月の伊勢湾台風を除けば、同三六年六月二六日、同四〇年九月一七日、同四二年一〇月二八日にそれぞれ前線性降雨や台風によって浸水被害を受けていること、その内特に昭和三六年と同四二年の際の降雨量は、津気象台の明治三八年以来の記録によっても、二時間ないし2.5時間雨量として十数位という高位を記録しているにもかかわらず、一身田地区における実際の被害は記録に残らない程度であったり、浸水率2.7パーセント程度の床下浸水が生じた程度であったことが認められる」こと。
③ 三点目に、「昭和四六年の台風後初めて地元住民の被災者同盟が行政機関に働きかけを起こした」こと。
④ 四点目に、「昭和四〇年頃の一身田地区の都市化の状態は当時の転用された農地の割合からしても、さしたるものではなかった」こと。
以上の四点から、昭和四〇年頃の志登茂川は特に緊急に改修を要する状態ではなかったというのである。
しかし、原判決の認定には次のような問題点がある。
① 一点目は、被害の認定をするのに改修河川と未改修河川を区別する根拠が不明である上に、同種・同規模の河川の中で志登茂川が最大の被害を引き起こす河川であることについても誤った判断をしている。
② 二点目は昭和三六年と同四二年の降雨はどのような降雨であり、被害実態はどうであったのかについて検討をしていない。
③ 三点目、被災住民の行政機関への働きかけと河川改修の客観的必要性・緊急性とは別であり、被上告人らは、一身田団地を造成した時に志登茂川改修の緊急性を自覚していたことを看過している。
④ 四点目は、都市化とは何を言い、本件志登茂川水害と都市化はどのような係わりがあるのか証拠にもとづいた分析がされておらない。
以下、原判決がいかに採証法則違反、経験則違反、理由不備及び審理不尽の違法を犯し、改修の緊急性がないという誤った判断を下したか詳述する。
二 同種・同規模の河川の管理とは、改修・未改修に関係なく、その当時における河川管理の一般水準を満たしているか否かである。
1 原判決は、「志登茂川は、三重県内において最も大きい家屋被害を発生させた河川であるが、志登茂川の被害の大きさは、改修程度が志登茂川より進んだ河川との対比でしているものであるから、かかる対比のみをもってただちに志登茂川が三重県内で最も大きい被害を引き起こす河川であるとは認められない」ので緊急に改修の必要性がなかったという。
2 ところで、大東水害最高裁判決は、「当該河川の管理についての瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念にてらして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきである」と判示しているのである。
右判示は、未改修河川又は改修不十分な河川の過渡的安全性についての判示であるから「被害の大きさ」の面からある河川が、同種・同規模の河川管理の一般水準に達しているか否かを判断する場合には、改修が進んでいる河川も未改修の河川も当然にすべて含めた上で判断をしなければならないのである。
このことは、実質的に考えても、ある河川が改修中であっても、他により危険な未改修河川があれば、その未改修河川の改修に着手すべきであるということをかんがえれば自明のことである。
3 ところが、原判決は、志登茂川の被害の大きさと他の河川の被害の大きさを比べたところ、圧倒的に志登茂川の被害の大きいことは、<書証番号略>より明らかなのにもかかわらず、大東水害最高裁判決を曲解し、改修の進んでいる河川と未改修河川を比較しているから、志登茂川は、三重県内でも最も大きい被害を引きおこす河川であるとは認められないとしているのである。
右のような原判決の判断は、採証法則違反、理由不備であり、ひいては判例違反をおかしているものである。
4 原判決の右認定がいかに根拠のないものであるかということは、その理屈をつきつめていけば尚一層あきらかになる。
仮に上告人らが、原判決の判示する同種同規模の未改修河川の中で志登茂川が最も危険な河川であることを立証したとすれば、原判決は上告人らの主張を認めたのであろうか、否である。
何故ならば、これを立証してみても、志登茂川は未改修河川の中で一番早く改修に着手したのであるから、同種同規模の河川管理の一般水準を越えているではないか、ということになるからである。
三 志登茂川の流下能力、過去の水害被害実績と志登茂川より優先して中小河川改修事業に着手した一二河川との比較に見る緊急性
1 大東水害最高裁判決の判断基準によれば、水害発生の危険性と改修を要する緊急性の有無程度を推測するには、「過去に発生した水害の規模、発生頻度、発生原因、被害状況、降雨状況等」のデーターを考慮せよということである。
そこで、そのデーターである近年の志登茂川の降雨量と流出量は、被上告人らの釈明によれば次のとおりである。
降雨年月日
到達時間内総雨量
(ミリメートル)
今井井堰
地点流量(m3)
昭和二八・九・二六
55.9
八八~一一二
三四・八・一四
193.8
三〇五~三八六
三四・九・二六
74.4
一一七~一四八
三六・六・二六
87.3
一三七~一七四
四〇・九・一七
54.3
八五~一〇八
四二・一〇・二七
90.1
一四二~一七九
四六・八・三〇
95.0
一四九~一八九
四六・九・二六
86.0
一三五~一七一
四九・七・二五
121.0
一九〇~二四一
今井井堰地点における洪水疎通能力五〇m3/sに比べ、右九回の降雨における流量はこれを遙かに上回るものである。
従って、右九回の降雨時において志登茂川本川から多量の水があふれ出たことは明らかであり、志登茂川本川の洪水疎通能力は、過去の降雨による高水流量に比べて著しく低いということができる。
更に、過去の水害の実績によれば、今井井堰における高水流量が一一〇m3/s程度になると床下浸水が発生し、一三〇m3/s程度になると床上浸水が発生し、一五〇m3/s程度で総浸水率が五〇%に達し、更に二五〇m3/s程度で床上浸水率が五〇%になり、それぞれの生起確率は二年に一回、四年に一回、二〇年に一回である(<書証番号略>)。
志登茂川のように、二年に一回床上浸水被害があり、四年に一回総浸水率が五〇%となり、二〇年に一回床上浸水率が五〇%となる河川で、現実の流下能力(五〇m3/s)が暫定目標の流下能力(三〇〇m3/s)の六分の一という河川が、同種・同規模河川の一般水準、社会通念にてらし、是認すべき安全性を備えているとはいえないのである。
2 大東水害最高裁判決によれば、「同種同規模河川管理の一般水準及び社会通念にてらして是認しうる安全性を具備しているか否か」を判断する場合、「過去に発生した水害の規模、発生頻度、発生原因、被害状況、降雨状況、流域の地形その他自然的条件、土地の利用状況その他社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度などの諸般の事情を総合的に考慮」するとしている。
右大東最高裁判決が判示する考慮すべき「諸般の事情」を端的に言うと、その河川の「危険性の程度」ということになる。
すると、志登茂川は、昭和三七年から昭和四九年までの間に三重県の中で最も多くの家屋水害被害を与えた河川であり、危険性が最も高かった河川ということになる。
被上告人らが、志登茂川より優先して中小河川改修事業に着手したという宮川、三滝川、櫛田川、安濃川、赤羽川、五十鈴川、中ノ川、木津川、雲出川、名張川、員弁川及び伊勢路川の一二河川の「危険の程度」は、志登茂川よりはるかに少ないのである。
即ち、後記別表(1)~(3)記載のとおり昭和三七年から同四九年までの三重県下における水系別延べ住宅被災件数は、志登茂川が第一位であり(<書証番号略>)、同じ期間の想定氾濫面積当たりの水系別延べ住宅被災件数も第一位であり(<書証番号略>)、同じ期間の流域面積当たりの水系別延べ住宅被災件数も第一位なのである(<書証番号略>)。
別表(1) 控訴人らの乙74号証に基づいて作成した水系別延べ住宅被災件数(昭和37年~昭和49年)
別表(2) 控訴人らの乙74号証及び第四準備書面表5に基づいて作成した想定氾濫流域面積(1㌶)当たりの水系別延べ住宅被災件数(昭和37~昭和49年)
別表(3) 控訴人らの乙74号証及び第四準備書面表5に基づいて作成した流域面積(1km2)当たりの水系別延べ住宅被災件数(昭和37~昭和49年)
しかも、この被害は一身田という同じ地区が重複して被害にあっているということからして他の河川と比べて極めて特異、甚大な被害状況を呈しているのである。
このような危険な河川は、放置されることなく、他に先んじて、改修されるべきであったのである。
四 志登茂川は同種・同規模の河川の中で最も家屋被害の多い河川である。
河川管理者である被上告人県が、原審最終準備書面で初めて志登茂川と同種同規模の河川として主張し、原判決がそのまま同種同規模河川と認定した朝明川、中の川、三渡川、阪内川、金剛川、外城田川、五十鈴川と比べても住宅被災件数は次図のとおり、志登茂川は圧倒的に多いのである。
別表(1)―水害統計(昭和36年~昭和49年)に基づいて作成した水系別延べ建物被害件数
さすれば、志登茂川は志登茂川より優先して中小河川改修事業に着手した一二河川と比較しても、同種・同規模河川の七河川と比較しても、最も家屋被害の多い危険な河川であることは明らかであるから、どの河川にも優先して昭和四〇年当時に緊急に改修すべきであったのである。
右のような事実が弁論と証拠によって、明白に認定できるにもかかわらず、志登茂川は三重県内でも最も大きな被害を引きおこす河川であるとはみとめられないと判示した原判決には採証法則違反、経験則違反、理由不備の違法がある。
また、被上告人らが原審最終準備書面で初めて明らかにした志登茂川と同種・同規模であるという七河川についても、水害による住宅被災件数は志登茂川が圧倒的に多いということを上告人らは平成元年一月三一日付準備書面で明らかにし、弁論再開の申立てをしたのにもかかわらず、これを無視し、弁論を再開しないまま判決をした原審には審理不尽の違法があるといわざるを得ない。
五 昭和三六年六月二六日、同四〇年九月一七日の降雨量と浸水被害について、
1 原判決は、志登茂川改修の緊急性がないという理由の二点目として、昭和三六年六月二六日と同四二年一〇月二八日の降雨量は、津気象台の明治三八年以来の記録によっても、二時間ないし2.5時間雨量としては十数位という高位を記録しているにもかかわらず、一身田地区における実際の被害は、記録に残らない程度であったり、浸水率2.7パーセント程度の床下浸水が生じた程度であったからであるという。
2 しかし、右認定が採証法則違反、経験則違反及び理由不備の違法をおかしていることは上告理由第七点の三記載のとおりである。
六 被災住民の行政機関への働きかけと河川改修の緊急性とは無関係
1 原判決は、志登茂川改修の緊急性のない理由の三点目として被災住民が行政機関に働きかけたのが、昭和四六年以降であったのであるから、それ以前に河川を改修する必要性はなかったといいたいようである。
2 河川の改修の必要性があるか否かは、住民から行政機関に働きかけがあるか否かで決まるものではなく、客観的に過去の水害の被害の態様、規模等からして河川の改修をする必要性があるか、改修をしなければ水害被害に会う危険性があるか否かなのである。
蓋し、住民の意思表示の強いところから河川の改修をするというのならば、過去に何度もわずかな降雨で水害被害を受ける河川があったとしても、そこに住民運動がおきなければその河川は放置されることになる。そして、その一方で当面改修の必要性ない河川であっても住民運動がおき、行政機関に働きかければ、他に危険な河川があってもまず住民の働きかけのあった河川から改修をすることになり、このような河川改修の方法は到底社会通念として是認されるものでない。
3 一身田地区では、昭和四六年の二回の水害の以前に既に昭和二八年九月、昭和三四年八月、昭和三四年九月、昭和三六年六月、昭和四〇年九月、昭和四二年一〇月と六回もの建物被害が発生しており、一身田団地の造成によって洪水流の疎通が堰き止められ、被害が激化することを地元住民は著しく危惧していた(六二・一・二一被控訴人細川調書七~八丁、六二・一〇・二六萩森調書一三―一四丁、六三・二・一五立松調書八―九丁)。
また、三重県土地開発公社は、一身田団地を造成するに際して単に田を埋め立てるにとどまらず、道路よりも一メートルも高い盛り土をして団地を造成したのは、志登茂川の溢水が流れてくる流路に団地造成をするとの認識があったからに他ならず、水害被害を妨ぐ為でなければ、余分な出費をし交通上も不便であるのに先住住民の居住敷地より一メートルも高い土盛りをする必要はないのである。
即ち、一身田団地の造成によって志登茂川の溢水が堰き止めらることは地元住民のみならず、三重県土地開発公社も十分承知していたのである。
4 右のように証拠に基づいて経験則を正しく適用すれば、住民の行政機関への働きかけは、河川改修の緊急性とは無関係であり、かえって、被上告人らは、志登茂川改修の緊急性を自覚していたということになり、原判決の認定は、採証法則違反、経験則違反及び理由不備の違法がある。
七 一身田地区の都市化の主たる原因は県営一身田団地である。
1 津市一身田における人口及び世帯数の推移は、<書証番号略>によれば、一身田地区において人口及び世帯数が急激に増加している、昭和三七年から昭和四〇年までと昭和四四年から同四九年にかけてである。一方、<書証番号略>(公社のあゆみ)六~七枚目によれば、右団地の分譲住宅建設事業は同三六年から三八年にかけてである。そして、その住宅建設戸数の合計は四五四戸である。また、一身田豊野団地の宅地取得造成事業は、昭和四四年から同四七年にかけてでありその住宅建設戸数の合計は五八七戸である。
両者を対比すると、一身田団地の造成を始めた二年後の昭和三七年から四〇年にかけての一身田地区全体の世帯の増加数と同団地の建築戸数はほぼ一致し、同じく豊野団地の造成を始めた二年後の昭和四六年より四九年にかけての地区全体の世帯の増加数と同団地の建築戸数もほぼ一致していることがわかる。清水証人も認めるように通常造成年度から二年ぐらいしてから世帯数の増加があらわれるので(昭和六〇年四月三日清水調書二一丁)、一身田地区における「都市化」とは被上告人による一身田団地と豊野団地の造成にほかならないことになる。そして、豊野団地は、本川左岸高台にあり一身田地区の水害に関係のないところであるから、「都市化」したといわれる中味の大部分は一身田団地以外には存在しないのである(昭和五九年一一月五日清水調書一五~一六丁、昭和六〇年六月五日同調書二六丁)。
右のことからすれば被上告人らは昭和四六年になってはじめて都市化に気がついたかの如く主張するが、一身田地区の都市化を直接推進したのはほかならぬ被上告人県であるから、これを社会現象、流域変化、不可抗力的以外などとまるで他人事のようにいうのは無責任極まりないことである。
一身田団地において昭和三〇年から昭和四七年までの間において、本川水害に関係する地区において著しい都市化が起こった主たる原因は昭和三五年から三七年までの一身田団地造成による農地転用と同四〇年までの住宅建築に基づく世帯数及び人口の増加以外には存在しないのである。
2 ところが、原判決は、「昭和四〇年頃の一身田地区の都市化の状態は当時の転用された農地の割合からしても、さしたるものでなかったと認められる」などと誤った認定をした。原判決がこのような誤った認定をしたのは、被上告人らが結審間際に「志登茂川筋では、右の期間(昭和三一年から同五〇年)全体の四〇%程度の約一一三ヘクタールの宅地化があり、昭和三七年までが約一〇ヘクタール(一身田団地がそのうち約九ヘクタール)、その後同四四年までに約一六ヘクタール、そして、同四五年から七〇ヘクタールとなっており、主に同四四年以降に宅地化が進んでいる。」(被上告人ら原審最終準備書面二八八頁)と全くごまかしの主張をしたことに無批判に飛びついたからである。
3 即ち、被上告人らが原審最終準備書面で主張している宅地化の地区は志登茂川の溢水による水害被害とは全く関係のない地区であり、当該地区の宅地化と志登茂川改修の必要性とは全く関連性がないのである。
被上告人らの前記最終準備書面第二八七頁記載の表中、「津駅後背丘陵地」地区記載の団地等や「毛無川、文川筋」地区記載の団地等も志登茂川溢水による溢水流とは全く関係のない地区であり、「海岸部」地区記載の団地等も殆どが志登茂川左岸に位置しており、志登茂川の溢水流とは関係のない地域である。
「志登茂川筋」地区に記載された一五の宅地化の箇所は後記位置図A乃至O記載のとおりである。
A点 養豚団地
B点 一身田団地
C点 高田短大
D点 養豚団地2
E点 志登茂川団地1次
F点 山岸養鶏場・牧草場
G点 志登茂川団地2次
H点 豊野団地
I点 三重大学農場
J点 県立苗木流通センター
K点 三重農林機材用地
L点 四季の郷団地
M点 豊久野ゴルフ場
N点 大東豊里団地
O点 東亜道路プラント用地
この位置からも明らかなように、A、F、I、J、K、L、M、N、Oは志登茂川溢水地点である今井橋直上流よりも上流域に位置し、水害被害を受ける区域では全くない。また、E、Gは志登茂川右岸に位置するものであるが、本件水害被害にあっていないから志登茂園団地の造成と志登茂川の改修の必要性とは全く関係がない。従って、残された宅地化の場所はB点の一身田団地のみであり、志登茂川の溢水による水害被害発生と関係のあるのは、この一身田団地のみなのである。
4 以上のとおり、昭和三一年頃から昭和四六年までの一身田地内における宅地化及び人口増加の主なものは、一身田団地及び豊野団地のみであり、豊野団地は高地にあり、全く志登茂川水害に関係がないことはあまりにも明白であり、志登茂川水害を激化させ、志登茂川改修の緊急性を発生させたのは一身田団地の造成以外には全く考えられないことは証拠上明白である。
これに対し、被上告人らは昭和四四年以降宅地化がすすみ、昭和四六年にはじめて都市化に気がついたために志登茂川改修の必要性が生じたなどと抽象的な主張をしているにすぎず、昭和四〇年から昭和四六年までにどこがどう変わったから緊急性が生じたのか全く主張立証をしていないのである。
原判決は一体どのような証拠に基づいて「昭和四〇年当時一身田地区の都市化の状態はさしたるものでなかった」と認定したのであろうか。不可解と言わざるを得ず、明らかな採証法則違反、経験則違反及び理由不備の違法をおかしている。
八 以上のとおり、原判決が昭和四〇年頃において志登茂川改修の緊急性がなかったと認定するためにならべた理由のすべてが証拠に基づかない独断と偏見に基づく判断であり、このような原判決の認定は、明白な採証法則違反、経験則違反、理由不備、審理不尽の違法が存すると言わざるを得ずこの誤りは判決の結論に重大な影響を及ぼすこと明らかである。
上告理由第一〇点
一 原判決は、理由三、1において、志登茂川の河川管理の瑕疵の有無について大東水害最高裁判決を引用したうえ「本件水害は、昭和四七年六月に確定し、実施された全体計画に基づいて第一期計画が進行中に発生したことは先に認定した通りである。よって右全体計画の合理性について判断する」と判示し、志登茂川の河川管理の瑕疵の有無を改修計画の合理性の有無の問題であるとしているが、志登茂川は、現に改修中である河川ではないから、同種・同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているかを基準として判断すべきであり、原判決は採証法則違反、経験則違反、理由不備、法令違反(大東水害訴訟最高裁判決の解釈を誤った違法)の違法があり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
1 大東水害訴訟最高裁判決は、
「当該河川の管理についての瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとで同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであると解するのが相当である。そして、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体としての右の見地から見て格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。」と判示している。
(一) 右判示によれば瑕疵判断の手順は、
イ 当該河川の改修計画が定められているか、あるいは定められていないか、
ロ 現に改修中であるか、それとも改修未着手であるか、
ハ (現に改修中である場合には)、計画が全体として格別不合理なものか否か、
ニ (改修計画が全体として格別不合理なものと認められないときは)、その後の事情の変動により、当該河川の未改修部分につき、水害発生の危険性が顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変動するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき事由が存するか否か
である。
(二) これを図示すると次の通りとなる。
(三) 大東水害訴訟は、右に図示したもののうち、
イ 改修計画が定められている、
ロ 現に改修中、
ハ 改修計画が全体として格別不合理なものと認められない、
として河川管理に瑕疵がなかったものと判断されたものである。
2 翻って、本件志登茂川の河川管理の瑕疵について考察するに、本件志登茂川はイ改修計画が定められている、ロ現に改修中でない河川であるから、志登茂川の全体計画の合理性を判断するのではなく、志登茂川と同種同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているか否かを基準として判断すべきなのである。
(1) けだし、本件志登茂川では昭和四七年に全体計画なるものが計画立案されたものの、本件水害に至るまでその実施はネグレクトされ本件水害時において計画が実施され現に改修中の区間は皆無であったのである。
(2) 被上告人らが志登茂川改修工事に着手したのは、本件水害訴訟が提起された昭和五〇年七月二五日の直後の昭和五〇年八月であり、九月一〇日に工事入札にかけられ、九月一二日、株式会社池田組に新樋門設置の発注がなされたことは、昭和五〇年九月三〇日証拠保全申立書の<書証番号略>中日新聞記事及び<書証番号略>陳述書から明らかである。
(3) 又、昭和五〇年一〇月一一日実施の検証調書の当事者の指示説明及び検証の結果から明らかなように、平野井堰より上流には昭和五〇年度は手をつける計画はなかった(被告の指示説明1)のであって、被上告人らは、昭和五〇年九月一二日の工事発注により初めて志登茂川の全体計画の改修に着手したものである。
一身田地区の水害被害の原因である志登茂川の瑕疵区間は、平野井堰から国鉄紀勢本線橋梁付近迄の間であって、この区間の河道の拡拭幅、護岸工事と、平野井堰及び今井井堰の改築により、最大通水量を毎秒一五〇トンに改修することが昭和四七年度の全体計画の眼目である。
しかしながら、本件水害までは前記瑕疵区間の改修工事には何ら着手されなかった。
被上告人らは、
① 昭和四七年度においては、志登茂川下流(横川合流点より直上流左岸及び直上流右岸)一二、〇三一平方メートルの用地買収、
② 昭和四八年度においては、志登茂川下流(毛無川合流点から西浜橋付近)四、八三四平方メートルの用地買収、
③ 昭和四九年度においては、志登茂川下流(毛無川合流点から西浜橋付近)一、九七〇〇平方メートルの用地買収、
を行ったのみである。
被上告人らのなした用地買収は、いずれも年度末の予算消化のための消化買収であって、いずれも志登茂川下流(平野井堰より下流で買収に応じやすい地主、養魚場等)の土地を一部分買収したにすぎない(<書証番号略>)。
このとき被上告人が用地買収した土地は、本件水害から一五年を経過した現在においても、改修の用に供されることもなく放置されたままである。
以上のような事実に照らすとき、志登茂川は昭和四九年七月の本件水害時においては、志登茂川は現に改修中の河川でなかったことは明白である。
3 これに比べて、
Ⅰ 大東水害訴訟(昭和四七年七月水害)の場合は、
(一) 谷田川を支川の一つとする寝屋川については、「寝屋川の計画高水流量を毎秒五三六立方メートルと定めて同川の改修計画が立てられ、昭和二八年から逐次改修工事が行われ、鴻池水門の改築、平野川分水路の開削、最下流部浚渫、第二寝屋川開削等をみたが、流域の予想外の急激な都市化により、昭和四三年に基本高水流量を約三倍の毎秒一六五〇立法メートルとする計画に変更され、本川から支川へと順次改修が進められ、谷田川合流点付近の改修工事が昭和四五年に完成したので、昭和四六年以降から支川の改修に着手された」(判例時報一一〇四号三四ページ)。
(二) 谷田川については、「(二)(1)谷田川は、昭和四〇年四月一日に久作橋より下流が、同四一年四月一日にその上流のa点までの部分が一級河川に指定されたのであるが、その改修計画は、昭和四一年に一級河川指定区間の改修規模及び断面についての一応の技術基準が定められ、昭和四一年度に国鉄片町線複線化に伴う関連部分工事、同四二年度に右工事の残工事と野崎駅下流防災工事(板柵工)、同四三年度に大阪外環状線道路の新設に伴う交差部分工事、同四四年度に下流部用地買収着手及び片町線交差部下流の羽口工、同四五年度に野崎中川下流端取付工事、片町線交差部下流羽口工及び野崎駅前左岸羽口工、同四六年度に下流端左岸の改修、下流端右岸の羽口工及び野崎駅前用地取得事務の大東市委託、同四七年度に下流用地取得完了(水害前)及び野崎駅前付近の用地取得促進がそれぞれ実施された」(判例時報一一〇四号三五ページ)。
大東水害は、昭和四七年七月であるから、右水害以前に寝屋川についても谷田川についても改修計画が定められ、現に改修中の河川であったことが明白である。
Ⅱ また、多摩川水害訴訟の多摩川(昭和四九年九月一日水害)の場合は、
「多摩川における本格的な河川の整備は、大正七年に内務省直轄事業として着手された多摩川改修工事に始まる。この工事は、明治四三年の洪水を参考として、支川浅川合流点から下流の計画高水流量を毎秒一五万個(毎秒四一七〇立法メートル)と定め、河口から二子橋(河口から一八キロメートル地点)までの区間の改修を行ったものであり、昭和八年に竣工している。右工事は、川幅の標準を上流で三八〇メートル、河口において五四五メートルとし、築堤、掘削、浚渫および水衝部の護岸等を施行し、さらに舟運の便を図るため六郷水門、河口水門等を設置した。
さらに昭和七年から直轄事業として、日野橋地先(河口から四〇キロメートル地点)から二子橋までの区間および支川浅川の高幡地先(多摩川合流から2.4キロメートル地点)から下流多摩川合流点までの区間について多摩川上流改修工事が着手された。この工事は、日野橋地点における計画高水流量を毎秒一二万個(毎秒三三三〇立法メートル)と定め、川幅を三五〇メートルから四五〇メートルとし、主として旧堤の拡築を施し、なお、河幅の広大な区間につき河道を固定するための築堤および無堤地の築堤を行うとともに、水衝部の護岸、水制工の設置等を実施した。
また昭和三九年の現行河川法の制定に伴い、多摩川と昭和四一年一級水系に指定され、従来からの多摩川改修事業区間に加え、日野橋から万年橋(河口から61.8キロメートル地点)までの区間も含めて建設省直轄管理区間とされた。同時に多摩川水系工事実施基本計画が策定されたが、同計画は計画高水流量については、従来どおり、日野橋地点から下流浅川合流点までの区間を毎秒三三三〇立法メートル、浅川合流点から下流を毎秒四一七〇立法メートルと定め、河口から六郷橋までの区間を高潮区域とした。そして、六郷橋から上流部の区間につき築堤および水衝部の護岸の施行を、高潮区域につき高潮堤防の築造を計画し、逐次工事を実施してきた。
さらに昭和四四年に浅川の高播橋地先から上流南浅川合流点までの区間(本川合流点から12.6キロメートルまでの区間)が、昭和四七年に大栗川の本川合流点から1.1キロメートルまでの区間が、それぞれ建設大臣の直轄管理区間に指定され、築堤、掘削、水衝部の護岸工事が逐次施行された。
このように、多摩川についても多摩川水害のあった昭和四九年九月一日までに改修計画が定められ、現に改修中の河川であったことも明白である。
4 しかるに、原判決は全体計画に基づく工事の着手が本件水害の一年後の昭和五〇年九月以降に為された事実を見落としており、現に改修中の河川であるか否かの判断を逸脱して、本件志登茂川の河川管理の瑕疵を全体計画の合理性の有無の判断であるとしているものであって、採証法則違反、経験則違反、理由不備、法令違反の違法が存し、この誤りが判決の結論に影響を及ぼすこと明らかである。
5 また、原判決は理由三2(一)(1)(2)(二)において、原判決別表一の七河川を選定したうえで、その被害回数、各河川に補助改修の採択された年、及びその種類の対比しか行っておらず、同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えているかどうかを基準として判断していない。
(一) 志登茂川の整備率について具体的摘示をしていない判断の遺漏
(1) 原判決は、三2(一)(1)において「昭和五一年度末の全国の中小河川の整備状況は、要整備延長七万三五〇〇キロメートルの内、時間雨量五〇ミリメートル相当の降雨(五ないし一〇年率確率)で安全な区間は一万九〇キロメートルにすぎず、整備率は13.7パーセントと極めて低いことが認められる。」と判示したものの、河川管理の一般水準の一つの指標としての志登茂川の整備率や三重県内の同種同規模の他河川の整備率については具体的に何らの判示もしていない。
(2) 被上告人らは大東水害訴訟においては、
「谷田川を含む寝屋川水系の河川改修は、大阪府における最重点施策として昭和二八年度から段階的に整備を進め、昭和五〇年度までに、同規模の中小河川としては全国一の一、一八〇億円(昭和五〇年度換算)もの投資を行って、同年度末までの整備率(時間雨量五〇mm対応)は四四%に達している」と主張し(判時一一〇四号四九頁)、
多摩川水害訴訟においては、
「ところで、第五次五箇年計画では、主要な大河川について昭和五一年度末におけるその整備率五二パーセントを昭和五六年度末までに約六二パーセントに引き上げる目標を掲げているが、これに対して、昭和五一年度末における多摩川の整備率は既に約九二パーセントに達しており、五箇年計画完了後の昭和五六年度末には約九六パーセントまでの整備を目途として計画がなされている。
このように多摩川は行政目標としての河川の安全度を相当の高水準で確保している全国有数の河川であり、このことは多摩川のもつ社会経済的な重要性が認識され現在に至るまで精力的な改修がなされてきたことを物語っている。」
と主張している(判例時報九一三号三八頁)。
(3) 原判決が河川管理の一般水準の指標として整備率を取り上げるのであれば、志登茂川の整備率が何パーセントであったのか、又、三重県内における志登茂川と同種同規模の他河川の整備率がどうであったのかが、具体的に明らかにされなければならないにもかかわらず、原判決は何らその事実摘示をしていない。被上告人国が大東水害訴訟においては寝屋川水系の整備率が他の同種同規模の河川と比較して、極めて高いと主張し、多摩川水害訴訟においても整備率は既に九二パーセントに達していると主張したような具体的数字が志登茂川では主張できなかったのは本件水害時までの志登茂川の整備率がゼロに等しかったからであり、全国水準の13.7パーセントと比べても著しく劣っているからに他ならない。
(二) 被害回数の単純な比較は、社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかの指標とはならない。
(1) 原判決は理由三2(一)(2)において、
「(2) 三重県内の五一六河川の中から別表一のとおり延長、流域面積が志登茂川と同規模の七河川を選定し、昭和三七年から同四九年までの一三年間の被害の回数、各河川に補助改修の採択された年及びその種類を対比すると、これら河川は一級河川である五十鈴川を除けば、いずれも二級河川であり、被害の回数は別表一記載のとおりであり外城田川以外はすべて志登茂川と同じか、或いはそれより多くの被害を受けている」。
と判示しているが、これは被上告人の被害回数論を無批判に取り入れたものであって、被害回数の単純な比較は、社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかの指標とはならない。
(2) けだし被上告人の被害回数は昭和三七年から昭和四九年までの水害統計から本件訴訟用に三重県職員がひろい出したものであって、もともと治水行政で用いられているものでもなく、水害統計に記載もない。
(3) 又、大東水害訴訟判決後の水害訴訟判決においても既述の如く当該河川への治水投資額とその改修率をもって指標となし、これが平均もしくはそれ以上であれば、一般水準にあるものとしているものの、被害回数の比較をもって指標としているものは見当たらない。
(4) 原判決が掲示する別表一は被上告人らの作成した表を無批判に取り入れたものであるが、別表一の但書きによると、「被害回数は、昭和三七年から昭和四九年まで、水害統計から拾い出したものである。一般資産等被害、公共土木施設被害、運搬・通信・電力施設等被害のうちいずれかの被害が一連の気象(例7/13~8/1断続した豪雨)により生じた場合に一回と数えた。カッコ( )内は以上の被害回数のうち家屋被害が生じた回数である。」と言う。
しかしながら、被害回数を数えるのに、昭和三七年から昭和四九年までと限定することは、何ら合理的意味がない。
水害統計が刊行されたのは、昭和三六年からである。被害回数を水害統計から拾い出したのであれば、その始期は、昭和三六年からでなければならない。
又、およそ、水害の被害回数が必要というのであれば、昭和三七年からでなくもっと早い時期からとらなければならない。
数学上のデーターは、都合の良い期間をとることによって、いくらでも、都合の良い結論を導くことが可能である。
上告人らの居住している一身田地区では、戦後からに限ってみても、昭和二八年に大きな水害被害があり、昭和三四年に大きな水害被害が出ているのであって、このような有為なデーターを欠落させて被害回数を比較すること自体、都合の良い結論を導く為に都合の良い期間をとったとの誹りを免れないものである。
原判決は、二七丁三行目で、「改良事業の適用された日時は別表三のとおり昭和二四年に中小河川改修事業の適用を受け」と判示しているところからすると、昭和二四年から「対比」を試みているものともとれるが、中小河川改修事業の適用について昭和二四年から行い、被害回数については、昭和三七年から行うのでは得て勝手である。
(5) 水害統計が調査の対象としている水害は、全ての水害ではない。「規模の大小を問わず、全水害」となったのは、昭和四五年以降のことである。
水害統計が刊行されたのは、昭和三六年からで、昭和三六年六月二六日付建設省河第89号「水害概況報告について」各都道府県知事あて、建設事務次官名により水害数量の報告を受けることで始まったものであるが、昭和四四年~昭和四五年に次のような改正がなされている。「昭和四三年までは、浸水面積一〇ha未満、土砂埋没区域(河川の区域を除く)面積0.5ha未満および被害家屋棟数三〇棟未満の水害は概況報告を省略できることとしていたが、これらのうち建物被害に係るものについては、四四年、また、一般的には四五年にそれぞれ改正し、その結果水害規模の大小にかかわらず、全被害の調査を実施することとした。」(昭和46年水害統計Fページ、昭和45年以降の水害統計における変更点)
従って、昭和三六年~昭和四四年までの水害統計には、被害家屋棟数三〇棟未満の水害のため、概況報告を省略されたものがあり、昭和三六年~昭和四五年までの水害統計には、浸水面積一〇ha未満のため、概況報告を省略されたものがあることが念頭におかなければならない。
その反対に、被害家屋棟数三〇棟未満の水害や、浸水面積一〇ha未満の水害であっても概況報告がなされ、水害統計に載っているものもあるということである。
このように、水害被害があっても、概況報告を省略されたものもある昭和三六年~昭和四四年、昭和四五年の水害統計を用いて、被害回数を比較すること自体、極めて不正確の誹を免れない。
被害回数の比較は、被害の規模を度外視し、一棟の建物被害も、数千棟の建物被害と同視するもので、水害統計を被害回数の比較の為に用いる事自体重大な誤りである。
(6) 同じ一回の被害といっても、志登茂川の本件水害のように、約七〇〇〇棟もの家屋水害がある場合もあり、三渡川のごとく二棟の被害しかない場合や外城田川、中ノ川のように三棟の被害しかない場合もあり、これを同じ被害一回としてカウントし、比較することの不合理さは誰が考えても明らかである。
ちなみに、次の通り、三渡川九回のうち七回、五十鈴川九回のうち四回、外堀川五回のうち三回、中ノ川五回のうち二回、朝明川七回のうち一回は比較的被害の少ないものである。
これらの被害を志登茂川の本件水害(約七〇〇〇棟の現住建物被害が発生)と対比することの不合理性は明白である。
水系
水害発生年月日
建物被害(棟)
1、三渡川
四〇・五・二六~五・二七
五
四〇・九・一三~九・一七
四八
四一・六・九~九・一〇
一〇
四五・六・一〇~七・八
二
四六・九・二六
六四
四七・九・六~九・一九
一〇
四九・五・一九~六・二八
二〇
2、五十鈴川
三六・六下旬
二〇
三七・七・二六~七・二七
二〇
三七・八・二五~八・二六
五〇
四二・一〇・二七~一〇・二八
一七
四三・八・二五~八・二九
一八
3、外城田川
四〇・五・二六~五・二七
七
四二・一〇・二七~一〇・二八
二二
四七・九・六~九・一九
三
4、中ノ川
四〇・九・一三~九・一七
一二
四四・六・二〇~七・一四
三
5、朝明川
四七・九・六~九・一九
二四
(三) 当該河川が社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかの指標は、生命・身体に対する危険の最も大きな現住建物被害の累計によるべきである。
水害統計によると、現住建物被害の水害発生回数は、志登茂川が八回、朝明川が八回、中ノ川が六回、三渡川が一〇回、阪内川が三回、金剛川が三回、外城田川五回、五十鈴川が八回であるが、現住建物被害の累計は、別表(1)記載のとおり、
志登茂川は一万四、〇一四棟 (床上五一一九棟、床下八八九五棟)
朝明川は五、五〇七棟 (床上八六九棟、床下四、六三三棟、全壊二棟、半壊三棟)
中ノ川は二、〇四四棟 (床上一五八棟、床下一、八五七棟、全壊二棟)
三渡川は五二五棟 (床上五棟、床下五一九棟、全壊一棟)
阪内川は二、〇三六棟 (床上二五五棟、床下一、七八一棟)
金剛川は三、一七九棟 (床上七五八棟、床下二、九五九棟)
外城田川は一、四五九棟 (床上三五六棟、床下一、一〇一棟、全壊二棟)
五十鈴川は一、六三九棟 (床上八二棟、床下一、五三三棟)
である。
別表(1)−水害統計(昭和36年~昭和49年)に基づいて作成した水系別延べ建物被害件数
つまり、志登茂川水系は、現住建物被害累計の対比では、原判決が選定した七河川の中でも、群を抜いて被害が多いのであって、志登茂川が同種同規模の河川の中で社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められないことは明白である。
原判決は、志登茂川が同種同規模の河川と比較して、社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると判示したことにつき、採証法則違反、経験則違反、理由不備、法令違反の違法がある。
上告理由第一一点<省略>
おわりに
上告人らは、原審の最終口頭弁論において、大東水害最高裁判決について世論はどのような見方をしているかということを新聞の社説を引用して弁論を展開した。
ところが、原審は水害訴訟に対する国民の見方、即ち社会通念には目をつむり、国民の目からみれば極めて屈折した大東水害最高裁判決というプリズムを通してしか志登茂川水害訴訟の事実と証拠を見なかった。
その結果は、既に詳述したとおり、国賠法二条の解釈を誤り、証拠に基づかない認定をし、何故そのような認定をしたのかの合理的理由も示さず、十分な審理も尽くさずに被上告人らの主張を単に鵜呑みした結論を導きだしたのである。
司法権の役割は、国民から行政を相手方とする具体的争訟の申立があった場合、三権分立の原則に基づき国民の権利が国や自治体によって侵害されていないか、国や自治体が国民の財産や生命を守るために十分な措置を取ってきたかを公正にチェックすることである。
行政権の肥大化現象の下で、行政の優位性が当然のごとく考えられている状況下において、国民の権利を守る最後の砦として、国民は最高裁判所に信頼を寄せてきたものであるが、大東水害最高裁判決以降国民の司法に対する信頼は大きく揺らいできている。
国民の司法に対する信頼をつなぎとめることができるのは、最高裁判所が法の支配の原則を貫き、司法の役割はなにかを今一度熟考をし、自ら、大東水害最高裁判決以降屈折度の大きいプリズムを通じてしか事実と証拠を見なかった下級審の判決を破棄することである。
上告人らは、最高裁判所が怠慢な河川管理行政を易々諾々と追認するのでなく、司法機関の責任において、怠慢な河川管理行政をチェックする明快な判決を言い渡すであろうことを確信して上告理由書の終わりとする。
以上