最高裁判所第二小法廷 平成12年(受)1556号 判決 2002年11月08日
上告人
甲山太郎
同訴訟代理人弁護士
小笠豊
被上告人
乙川花子
外二名
右三名訴訟代理人弁護士
新谷昭治
同
古谷和久
同
木ノ元直樹
主文
原判決を破棄する。
本件を広島高等裁判所に差し戻す。
理由
上告代理人小笠豊の上告受理申立て理由について
1 本件は、精神障害のため精神病院に入院した上告人が、同病院医師・亡乙川一郎(以下「一郎医師」という。)及び同医師・被上告人乙川花子(以下、この両名を「本件医師ら」という。)から入院中に投与された向精神薬の副作用によってスティーブンス・ジョンソン症候群(皮膚粘膜眼症候群。以下「本件症候群」ともいう。)を発症し失明した旨主張して、被上告人花子及び一郎医師の相続人である被上告人らに対し、不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償として合計五〇〇〇万円の支払を求める事案である。
原審は、本件医師らの投与したフェノバール(フェノバルビタール製剤。催眠・鎮静・抗けいれん剤。以下「本件薬剤」ともいう。)によって上告人が本件症候群を発症して失明したものと認定したが、本件医師らに過失が認められないとして、上告人の請求を棄却すべきものとした。
2 原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
(1) 本件症候群について
本件症候群は、多種類の原因(薬物又は細菌、ウイルス等の微生物)によって発症する全身性の反応性皮膚粘膜症、すなわち、口くう粘膜、陰部、外眼部に炎症症状を伴う熱性発しん症であり、多形しん出性紅はん症候群の重症型である。病理学的には、真皮上層に血管周囲性細胞しん潤があり、アレルギー反応Ⅲ型、すなわち、免疫複合体による血管炎とも考えられ、表皮壊死があり、浮しゅも著明で水ほうが発生する。臨床症状は、一般に急激であり、多少の違和感を伴うこともあるが、明らかな前駆症状もなく発熱し、発熱に続いて皮膚粘膜しん及び眼病変が出現し、紅はんや水ほうは、全身に見られ、眼科的には偽膜を伴う激しい結膜炎、角膜かいよう、眼けん浮しゅなどが見られ、失明に至ることもある。したがって、その診断基準は、原因不明の発熱、皮膚粘膜の発しん、水ほう、壊死、眼症状を伴う多形しん出性紅はん症候群である。
本件症候群の約五〇%は原因不明であるが、その原因として、薬剤(特に抗菌薬、スルフォマイド、フェニールブタゾン、抗てんかん剤、バルビツレート等)、微生物、特に細菌(黄色ブドウ球菌、溶血性連鎖球菌等)、ウイルス(ヘルペス属ウイルス、アデノウイルス等)、マイコプラズマ等が基盤となり、過敏体質、自己免疫反応の機序が働くものと考えられている。
(2) 本件薬剤について
本件薬剤は、副作用としてまれに本件症候群が現れることがあり、その結果として失明に至ることもある。昭和六一年三月当時の本件薬剤の添付文書(以下「本件添付文書」という。)には、「使用上の注意」の「副作用」の項に「(1)過敏症 ときに猩紅熱様・麻疹様・中毒疹様発疹などの過敏症状があらわれることがあるので、このような場合には、投与を中止すること。 (2)皮膚 まれにStevens-Johnson症候群(皮膚粘膜眼症候群)、Lyell症候群(中毒性表皮壊死症)があらわれることがあるので、観察を十分に行い、このような症状があらわれた場合には、投与を中止すること。」と記載されている。
(3) 本件医師らによる診療の経過
ア 上告人(昭和四二年七月七日生)は、幼児期に交通事故にあった影響で精神発達が十分でなく、中学卒業後職を転々とし、昭和六〇年七月に陸上自衛隊に入隊したものの、昭和六一年一月末ころ(以下、昭和六一年については月日のみを記載する。)から心因性のもうろう状態に陥り、二月七日、上官に付き添われて本件医師らの開業する乙川病院(以下「本件病院」という。)を訪れた。
診療に当たった一郎医師は、「もうろう状態」と診断したが、通院治療により経過を観察することとし、上告人に対し、ジアゼパム(精神安定剤)、ハルシオン(催眠鎮静剤)、ニトラゼパム(睡眠誘導剤)、本件薬剤を七日分処方した。
イ 上告人は、二月一二日、上官及び母親と共に本件病院を再訪し、一郎医師の診察を受け、「もうろう状態・病的心因反応」と診断され、母親の同意の下、本件病院に入院した。以後、国立療養所加茂病院(以下「加茂病院」という。)に転院した四月二一日まで本件病院に入院し、本件医師らの診療を受け、同月一五日まで第一審判決添付の別表記載のとおり向精神薬の投与を受けた。
ウ 三月半ばころ、上告人の顔面に発赤、手足に発しんが生じ、同月二〇日、看護婦が上告人の身体全体に発赤を認め、医師の診察を求めたところ、被上告人花子は、同日、発しんの出現と手掌のしゅ脹を認め、投与中の薬剤のうちテグレトール(カルバマゼピン製剤。向精神作用性てんかん治療剤)による薬しんを疑い、その投与の中止を指示し、その代替薬としてヒルナミン(抗精神病薬)を増量し、皮膚症状に対してグルタチオン(強肝解毒剤)の投与を開始した。
しかし、翌日も全身に湿しんが見られるなど、上告人の皮膚症状は、その後も特に変化なく推移し、三月二八日、一郎医師が湿しんのほかに口角炎を認め、同日からビスラーゼ(ビタミン剤)の投与を開始した。
ところが、上告人が突然大声をあげるなど不穏な症状が見られたことから、三月二九日から本件薬剤が二錠(六〇mg)から四錠(一二〇mg)に増量して投与されるようになり、また、新たにジアゼパム、ブロトポン(ハロペリドール。抗精神病薬)の投与が開始された。
エ 一郎医師は、四月七日、上告人に口角両側のびらん、両手の皮膚炎を認め、また、上告人の精神症状が落ち着いたこともあって、同月八日からの本件薬剤の投与を四錠(一二〇mg)から三錠(九〇mg)に減量し、また、ヒルナミン、アキネトン(抗パーキンソン剤)も減量を処方した。
ところが、上告人は、四月八日、両手指皮のはく離が目立つようになり、同月九日、両側の口角炎が持続し、顔面の発赤、両手背部の皮膚がむけるなど皮膚粘膜症状が悪化し、同月一三日からチアノーゼ様、悪寒の症状が加わり、同月一五日、三八℃を超える発熱があり、全身が紫はん様を呈し、全身に浮しゅ、顔面も浮しゅ様で落せつが認められた。
そこで、四月一五日、本件医師らの依頼を受けて上告人を診察した加茂病院の医師(精神科医)は、「薬疹+日光皮膚炎が疑われる」と上告人の診療録に記載し、本件薬剤の副作用による薬しんを疑って、直ちに本件薬剤を処方から除くように指示し、同日から強力ネオミノファーゲンC(抗アレルギー・解毒作用剤)、アスピリン(解熱剤)、ポララミン(抗ヒスタミン剤)の投与が開始された。また、同月一六日、同様に依頼を受けて上告人を診察した同病院の別の医師(精神科医)は、発しんが強く出ており、肝臓が二横指触れるとして、「薬疹」と同診療録に記載した上、それまでの内服薬の投与中止を指示し、チオラ(抗ヒスタミン・肝臓解毒作用剤)、トロペリン(抗幻覚作用剤)、アキネトンの投与を命じ、発しん・高熱に対する治療として強力ネオミノファーゲンC、メチロン(解熱剤)、リンコシン(抗生物質)等を処方し、さらに、同月一七日、同様に依頼を受けて上告人を診察した別の病院の医師(精神科医)は、発しんが全身にあることを認め、「フェノバルビタールによるものの如し」と同診療録に記載し、強力ネオミノファーゲンC、ビスラーゼ、グルタチオン(肝臓ひ護剤)、リンコシン等を処方した。
そして、被上告人花子は、四月一八日、向精神薬について投与の全面中止を命じ、以後は強力ネオミノファーゲンC、抗生物質等が投与された。
オ 上告人は、四月一五日以降、三八℃から三九℃の高熱が続き、点滴によっても、結局、全身の皮膚症状が改善されなかった。ただし、本件病院入院中に、眼障害の発生は格別認められなかった。
(4) 転院後の経過
ア 加茂病院
上告人は、四月二一日、加茂病院に転院し、同月二八日まで同病院に入院した。同病院は、薬物による副作用を疑い、皮膚症状、高熱等に対する治療を中心的に行ったが、上告人の高熱は依然持続し、同月二三日、下痢症状が現れ、皮膚症状も悪化し、口唇粘膜のびらん、眼充血、眼脂分泌増加等の眼症状も現れ、同月二四日、眼脂多量との臨床所見が認められ、クロマイ点眼薬が施された。
イ 国立呉病院
上告人は、四月二八日、国立呉病院に転院し、平成元年二月二一日まで同病院に入院した。同病院入院時には、格別の精神症状はなかったが、ほぼ全身に発赤、落せつ、皮膚のぜい弱性が見られ、体温は39.5℃あり、両眼に角膜かいよう・混濁が認められた。同病院は、薬剤の副作用を疑い、アレルギー除去のための副腎皮質ホルモン剤、ビタミン剤等の投与が行われ、五月一日から眼科医が診察し、右眼の角膜せん孔、左眼の角膜かいようを認め、エコリシン(抗生剤)眼軟こうの塗布を始めた。しかし、同月一三日、左眼にも角膜せん孔を起こし、その後、解熱傾向を示し、皮膚状態は寛解に向かったが、眼症状は、角膜せん孔によりほぼ失明状態となった。
上告人は、同病院に入院中、二回右結膜被覆術、四回左結膜被覆術、一回上眼眼けん内反応術の各手術を受けた。
ウ 大阪大学医学部附属病院
上告人は、平成元年二月二一日から同年八月一三日まで約六か月間、平成二年五月二八日から約三週間、大阪大学医学部附属病院眼科に入院し、手術及び治療を受けた。
(5) 後遺症
上告人は、現在、精神症状は回復したものの、右眼が光覚のみ、左眼が0.01(矯正不能)という視覚障害が後遺症として残り、平成元年一一月、眼障害による視覚障害三級の身体障害者手帳の交付を受け、平成二年六月、等級が一級に更新された。
(6) 上告人の本件症候群発症の時期、原因
ア 上告人は、四月一五日以降同月二四日ころまでに本件症候群を発症し、これに由来する眼障害が高じて失明状態に至った。
イ 薬剤の副作用については、一般に、原因薬剤を除去すれば症状が軽快することが多く、また、副作用が発生した時期の一、二週間前から投与された薬剤がその原因として最も疑わしいとされること、本件において、テグレトールは、上告人の全身症状が急激に悪化した四月一三日ないし同月一五日から二週間以上も前の三月二〇日に投与が中止されていること、これに対し、本件薬剤は、上告人の全身症状急変のほぼ二週間前の同月二九日から二倍に増量して投与されてきたことなどに照らすと、上告人の本件症候群の症状の一つとしての眼症状は、本件薬剤の副作用を原因として発症したものと推認される。
3 原審は、上記事実関係に基づき、次のとおり判断して、上告人の請求を棄却すべきものとした。
(1) 上告人は三月半ばころから発しんを生じ、同月二〇日には被上告人花子も全身の発赤を認めたものであるが、①当時の上告人の精神症状は、活発かつ不安定であり、向精神薬を全面的に中止すれば精神症状が急激に悪化する危険性があったこと、②薬しんの発生は、向精神薬の投与に際して必ずしもまれでなく、精神科薬物療法においては、副作用の出現を認めた場合、使用薬剤の全面中止をすることはまれであって、副作用を起こす可能性の最も高い薬剤を中止して経過を観察する方法が採られるのが一般的であること、③薬しんの発生自体は、本件症候群の発症を推測させる微候であるとは必ずしもいえず、当時、一般の精神科医が有する知識、経験等によっては、上告人の本件症候群の発症を予測することはできなかったこと、④被上告人花子は、三月二〇日、薬しんの頻度の高いテグレトールの投与を中止して薬しんの経過の観察を始めたこと、⑤本件薬剤を投与することにより上告人の不穏な行動等を抑制する効果を期待することには合理性が認められることなどを総合考慮すると、本件医師らが三月二〇日に本件薬剤の投与を中止しなかったことが医師の裁量の範囲を超えるものということはできない。
なお、本件添付文書には、前記のとおり、副作用として本件症候群が現れることがあるので、このような症状が現れた場合には、投与を中止すべき旨の記載があるが、上告人について本件症候群の発症を診断できたのは四月二四日であるから、三月二〇日の段階で上記記載に従って本件薬剤の投与を中止すべき義務があるということはできない。
(2) 三月二〇日にテグレトールの投与を中止したことに伴い向精神薬の処方を変更していたところ、同月二八日に上告人が突然大声をあげるなど不穏な症状が見られたことに対処したものと認められるから、同月二九日から本件薬剤を二倍に増量したことをもって、医師にゆだねられた裁量の範囲を逸脱するものというべきではない。
(3) 上告人の精神状態を事後的に見れば四月七日の時点で安定していたということができるとしても、それは結果論としていえることで、当該時点でそういう判断が可能であったと即断することはできない。そして、向精神薬の投与を中止するためには、精神症状の推移に当該薬剤の果たしている効果や、投与を中止する反作用として患者に生じ得る症状の変化等に対する慎重な配慮も必要であって、四月七日以降における上告人の精神症状の安定には三月二九日の本件薬剤の増量が寄与している可能性も考慮に入れる必要があること、さらに、四月七日以降の上告人の皮膚症状が本件症候群のような重い副作用の発生を推測させる徴候であることを裏付ける証拠はないことなどを総合すると、同日の段階で本件薬剤の投与を中止しなかったことをもって、医師の裁量の範囲を超えるものと断定することはできない。
(4) 同様の理由により、その後、上告人に高熱、全身のチアノーゼ、紫はん様症状の発生等全身状態の悪化の認められた四月一五日までの間、本件薬剤の投与を継続した医師の判断にも、裁量の範囲の逸脱があるとすることはできない。
(5) 以上のとおり、本件薬剤投与に関する本件医師らの判断が医師としての裁量の範囲を超えるものということはできないから、本件医師らに過失があったということはできない。
4 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
(1) 精神科医は、向精神薬を治療に用いる場合において、その使用する向精神薬の副作用については、常にこれを念頭において治療に当たるべきであり、向精神薬の副作用についての医療上の知見については、その最新の添付文書を確認し、必要に応じて文献を参照するなど、当該医師の置かれた状況の下で可能な限りの最新情報を収集する義務があるというべきである。本件薬剤を治療に用いる精神科医は、本件薬剤が本件添付文書に記載された本件症候群の副作用を有することや、本件症候群の症状、原因等を認識していなければならなかったものというべきである。そして、原審の認定によれば、前記2のとおり、本件症候群は皮膚粘膜の発しん等を伴う多形しん出性紅はん症候群の重症型であり、その結果として失明に至ることもあること、その発症の原因としてアレルギー性機序が働くものと考えられていたことが認められる。
また、本件記録によれば、昭和六一年三月当時、これらの知見のほか、薬しんの大半がアレルギー性機序によって発生するものであることや、アレルギーの関与する種々の類型の薬しんが相互に移行し合うものであり、例えば、限局型で軽症型の固定薬しんが急激に進行して汎発型で重症型の本件症候群や中毒性表皮壊死症型に移行することのあることなどが一般の医師においても認識可能な医療上の知見であったことがうかがわれる。このことからすると、本件添付文書に記載された(1)及び(2)の症状は、相互に独立した無関係な症状とみるべきではなく、相互に移行可能な症状であって、(1)の症状から(2)の症状へ移行する可能性があったことがうかがえる。
なお、本件添付文書に記載の(1)の症状は、「過敏症状」として「ときに猩紅熱様・麻疹様・中毒疹様発疹などの過敏症状があらわれることがある」とするが、文意に照らせば、「猩紅熱様・麻疹様・中毒疹様発疹」などは直ちに投薬を中止すべき症状の例示にすぎず、副作用としての過敏症がそこに掲げられたものに限定される趣旨とは解されない。
(2) 本件においては、三月二〇日に薬剤の副作用と疑われる発しん等の過敏症状が生じていることを認めたのであるから、テグレトールによる薬しんのみならず本件薬剤による副作用も疑い、その投薬の中止を検討すべき義務があった。すなわち、過敏症状の発生から直ちに本件症候群の発症や失明の結果まで予見することが可能であったということはできないとしても、当時の医学的知見において、過敏症状が本件添付文書の(2)に記載された本件症候群へ移行することが予想し得たものとすれば、本件医師らは、過敏症状の発生を認めたのであるから、十分な経過観察を行い、過敏症状又は皮膚症状の軽快が認められないときは、本件薬剤の投与を中止して経過を観察するなど、本件症候群の発生を予見、回避すべき義務を負っていたものといわなければならない。
そうすると、本件薬剤の投与によって上告人に本件症候群を発症させ失明の結果をもたらしたことについての本件医師らの過失の有無は、当時の医療上の知見に基づき、本件薬剤により過敏症状の生じた場合に本件症候群に移行する可能性の有無、程度、移行を具体的に予見すべき時期、移行を回避するために医師の講ずべき措置の内容等を確定し、これらを基礎として、本件医師らが上記の注意義務に違反したのか否かを判断して決められなければならない。ところが、原審は、本件添付文書の上記各記載の存在を認定しながら、上記(1)記載の医療上の知見があったことを軽視し、上記の点を何ら確定することなく、本件医師らに本件症候群の発症を回避するための本件薬剤の投与中止義務違反等はないものと判断し、本件医師らの過失を否定した。
したがって、原判決には、本件薬剤の投与についての本件医師らの過失に関する法令の解釈適用を誤った結果、審理不尽の違法があるといわざるを得ず、この違法は判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。原判決は破棄を免れない。そして、本件については、以上の説示に従って過失の有無について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・福田博、裁判官・北川弘治、裁判官・亀山継夫、裁判官・梶谷玄)