最高裁判所第二小法廷 平成14年(あ)183号 判決 2003年1月24日
主文
原判決及び第1審判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
弁護人椎木緑司の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、本件と事案を異にする判例を引用するものであって、前提を欠き、その余は、単なる法令違反の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
しかしながら、所論にかんがみ、本件における業務上過失致死傷罪の成否について、以下、職権をもって検討する。
第1審判決が認定し、原判決が是認した犯罪事実は、起訴状記載の公訴事実と同旨である。その内容は、「被告人は、平成11年8月28日午前零時30分ころ、業務としてタクシーである普通乗用自動車を運転し、広島市南区宇品東7丁目2番18号先の交通整理の行われていない交差点を宇品御幸4丁目方面から宇品東5丁目方面に向かい直進するに当たり、同交差点は左右の見通しが利かない交差点であったことから、その手前において減速して徐行し、左右道路の交通の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然時速約30ないし40キロメートルの速度で同交差点に進入した過失により、折から、左方道路より進行してきたA運転の普通乗用自動車の前部に自車左後側部を衝突させて自車を同交差点前方右角にあるブロック塀に衝突させた上、自車後部座席に同乗のB(当時44歳)を車外に放出させ、さらに自車助手席に同乗のC(当時39歳)に対し、加療約60日間を要する頭蓋骨骨折、脳挫傷等の傷害を負わせ、Bをして、同日午前1時24分ころ、同区宇品神田1丁目5番54号県立広島病院において、前記放出に基づく両側血気胸、脳挫傷により死亡するに至らせたものである。」というにある。過失の存否に関する評価の点を除き、本件における客観的な事実関係は、以上のとおりと認められる。
また、1、2審判決の認定によれば、次の事情が認められる。すなわち、本件事故現場は、被告人運転の車両(以下「被告人車」という。)が進行する幅員約8.7メートルの車道とA運転の車両(以下「A車」という。)が進行する幅員約7.3メートルの車道が交差する交差点であり、各進路には、それぞれ対面信号機が設置されているものの、本件事故当時は、被告人車の対面信号機は、他の交通に注意して進行することができることを意味する黄色灯火の点滅を表示し、A車の対面信号機は、一時停止しなければならないことを意味する赤色灯火の点滅を表示していた。そして、いずれの道路にも、道路標識等による優先道路の指定はなく、それぞれの道路の指定最高速度は時速30キロメートルであり、被告人車の進行方向から見て、左右の交差道路の見通しは困難であった。
このような状況の下で、左右の見通しが利かない交差点に進入するに当たり、何ら徐行することなく、時速約30ないし40キロメートルの速度で進行を続けた被告人の行為は、道路交通法42条1号所定の徐行義務を怠ったものといわざるを得ず、また、業務上過失致死傷罪の観点からも危険な走行であったとみられるのであって、取り分けタクシーの運転手として乗客の安全を確保すべき立場にある被告人が、上記のような態様で走行した点は、それ自体、非難に値するといわなければならない。
しかしながら、他方、本件は、被告人車の左後側部にA車の前部が突っ込む形で衝突した事故であり、本件事故の発生については、A車の特異な走行状況に留意する必要がある。すなわち、1、2審判決の認定及び記録によると、Aは、酒気を帯び、指定最高速度である時速30キロメートルを大幅に超える時速約70キロメートルで、足元に落とした携帯電話を拾うため前方を注視せずに走行し、対面信号機が赤色灯火の点滅を表示しているにもかかわらず、そのまま交差点に進入してきたことが認められるのである。このようなA車の走行状況にかんがみると、被告人において、本件事故を回避することが可能であったか否かについては、慎重な検討が必要である。
この点につき、1、2審判決は、仮に被告人車が本件交差点手前で時速10ないし15キロメートルに減速徐行して交差道路の安全を確認していれば、A車を直接確認することができ、制動の措置を講じてA車との衝突を回避することが可能であったと認定している。上記認定は、司法警察員作成の実況見分調書(第1審検第24号証)に依拠したものである。同実況見分調書は、被告人におけるA車の認識可能性及び事故回避可能性を明らかにするため本件事故現場で実施された実験結果を記録したものであるが、これによれば、<1>被告人車が時速20キロメートルで走行していた場合については、衝突地点から被告人車が停止するのに必要な距離に相当する6.42メートル手前の地点においては、衝突地点から28.50メートルの地点にいるはずのA車を直接視認することはできなかったこと、<2>被告人車が時速10キロメートルで走行していた場合については、同じく2.65メートル手前の地点において、衝突地点から22.30メートルの地点にいるはずのA車を直接視認することが可能であったこと、<3>被告人車が時速15キロメートルで走行していた場合については、同じく4.40メートル手前の地点において、衝突地点から26.24メートルの地点にいるはずのA車を直接視認することが可能であったこと等が示されている。しかし、対面信号機が黄色灯火の点滅を表示している際、交差道路から、一時停止も徐行もせず、時速約70キロメートルという高速で進入してくる車両があり得るとは、通常想定し難いものというべきである。しかも、当時は夜間であったから、たとえ相手方車両を視認したとしても、その速度を一瞬のうちに把握するのは困難であったと考えられる。こうした諸点にかんがみると、被告人車がA車を視認可能な地点に達したとしても、被告人において、現実にA車の存在を確認した上、衝突の危険を察知するまでには、若干の時間を要すると考えられるのであって、急制動の措置を講ずるのが遅れる可能性があることは、否定し難い。そうすると、上記<2>あるいは<3>の場合のように、被告人が時速10ないし15キロメートルに減速して交差点内に進入していたとしても、上記の急制動の措置を講ずるまでの時間を考えると、被告人車が衝突地点の手前で停止することができ、衝突を回避することができたものと断定することは、困難であるといわざるを得ない。そして、他に特段の証拠がない本件においては、被告人車が本件交差点手前で時速10ないし15キロメートルに減速して交差道路の安全を確認していれば、A車との衝突を回避することが可能であったという事実については、合理的な疑いを容れる余地があるというべきである。
以上のとおり、本件においては、公訴事実の証明が十分でないといわざるを得ず、業務上過失致死傷罪の成立を認めて被告人を罰金40万円に処した第1審判決及びこれを維持した原判決は、事実を誤認して法令の解釈適用を誤ったものとして、いずれも破棄を免れない。
よって、刑訴法411条1号、3号により原判決及び第1審判決を破棄し、本件事案の内容及びその証拠関係等にかんがみ、この際、当審において自判するのを相当と認め、同法413条ただし書、414条、404条、336条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 福田博 裁判官 北川弘治 裁判官 亀山継夫 裁判官 梶谷玄 裁判官 滝井繁男)