最高裁判所第二小法廷 平成15年(あ)1033号 決定 2007年3月26日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人吉羽真治、同菅野昭弘の上告趣意は、事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。
なお、所論にかんがみ、業務上過失傷害罪の成否につき、職権で判断する。
1 原判決の認定及び記録によると、本件の経過は次のとおりである。
(1) 被告人は、横浜市立大学医学部附属病院の麻酔科医師として、手術予定患者の麻酔管理等の業務に従事していたものである。本件当時、医師免許を取得して5年目の医師であり、約3年9か月の間に、麻酔科医師として、約800件ないし900件の手術に関与していた。
(2) 同病院の第1外科における手術については、第1外科に所属する医師が、執刀及びその助手を担当し、麻酔科に所属する医師が麻酔を担当し、看護部の手術部に所属する看護婦が手術の介助等を担当することとされていた。第1外科では、部長である医師の原審相被告人Aの下、20名を超える医師が複数のグループを作り、各患者に対し、担当するグループに所属する医師全員が主治医となる体制を採り、手術については、同外科の医師全員が木曜日の午前中にカンファレンスを開き、そこで翌週(月曜日、水曜日、金曜日)に予定されている手術の全部につき検討し、最終的には、Aが、手術の実施の可否を決定し、執刀医、第1助手を指名し、第2助手は、主治医グループが手術当日の朝に決定していた。手術の麻酔を担当する医師は、麻酔科で、次週の手術予定に応じて、手術ごとに、経験の浅いファーストと、その指導補佐をするセカンドの2名を前週の金曜日の午前中までに決定し、ファーストの医師は、手術前日か、手術が月曜日の場合には前週の金曜日に患者の術前回診を行い、麻酔の可否や方法等を決定し、手術当日朝に行われる麻酔科のカンファレンスで承認を得ていた。手術を介助する看護婦は、手術部で、原則として1室2名を前週の金曜日の午後に割り当て、うち1名が患者の術前訪問をするが、これも手術が月曜日の場合には前週の金曜日に行うこととされていた。しかし、上記主治医の中での最終的な責任者は決まっておらず、手術前に、第1外科、麻酔科、手術部の担当者間で、具体的な役割分担、手術室への入室時刻等につき、格別の打合せ等はされていなかった。同病院では、患者にリストバンドを着用させるなど、その同一性を確認する格別の手段も講じられていなかった。
(3) 同第1外科では、月曜日である平成11年1月11日午前9時から、同時に3件の手術を開始することが予定されており、病棟の4階にある全12室の手術室のうち、3番手術室でXの心臓手術が、12番手術室でYの肺手術が予定されており、手術に関与する医師、看護婦らは、いずれも同一時刻に複数の患者に対する手術が予定されているのを知っていた。
Xは、当時74歳、身長約166.5cm、体重約54kgであり、事前の経食道心エコー検査、心臓カテーテル検査等により、左心房と左心室との間にある僧帽弁の前尖、後尖が共に逸脱して腱索が断裂しており、左心室から左心房へ最も重い4度の血液の逆流状態が認められたため、僧帽弁の縫合による形成を試み、これが困難な場合には人工弁等に置き換える手術が予定されていた。他方、Yは、当時84歳、身長約165.5cm、体重約47.3kgであり、事前の気管支鏡検査等により、右肺上葉の支背側に約5cm大の腫りゅうが発見され、強く肺がんが疑われたが、確定診断が付かなかったため、開胸して検査し、がんであれば切除するという開胸生検、右肺上葉切除、リンパ節郭清の手術が予定されていた。
両名は、身長こそ大差がないものの、Xの髪型は、頭頂部が黒色で一部白髪が混じり、いわゆる職人刈りで、眉毛も濃くて黒かったのに対し、Yは、頭部の両脇に白髪が生え、額部から頭頂部にかけてはげ上がり、頭頂部に少し白髪が生え、眉毛も白色で、左ほほにあずき大のほくろがあるなど、顔付きや髪型等の外観はかなり異なっていた。
(4) 被告人は、Xに対し、平成11年1月6日、B医師とともに、約1時間をかけて経食道心エコー検査等を行い、同月8日、Xの手術のファースト担当として指名された後、約1時間をかけて術前回診をし、これらの結果やカルテ等から、Xの次のような病状を確認した。すなわち、僧帽弁逸脱と腱索断裂については、前尖が大きく持ち上がって多数の腱索が断裂して浮遊し、後尖も持ち上がって逸脱しており、4度の血液逆流があり、心胸郭比につき、心臓の肥大のため、正常値は50%以下のところ60%であり、肺動脈圧の平均圧につき、血液の逆流のため、正常値が10以上20未満のところ42であるなどの異常があって、聴診の際に、胸部一帯で容易に聴き取れる大きく明瞭な心雑音があった。被告人は、術前回診の際、Xから上の前歯に入れ歯があると聞き、手術前に外しておくよう指示した。また、被告人は、病棟の看護婦に対し、手術当日Xに経皮吸収型心疾患治療剤(通称フランドルテープ)を張付することなどを指示した。
(5) 同月11日午前8時20分ころ、病棟の看護婦である原審相被告人Cは、1人で病棟7階の病室から、XとYをそれぞれ乗せた2台のストレッチャーを引き、エレベーターを使い、4階の手術室入口の交換ホールに運び、手術室側では、看護婦の原審相被告人DがXらの引渡しを受けた。Cは、Dに対し、患者両名の名前をひとまとめに伝えた後、まずXを引き渡そうとし、Dからあいまいに患者の名前を尋ねられた際、次の患者の名前を尋ねられたものと誤解し、Yである旨を告げたため、Dは、XをYであると誤解して受け取り、肺手術担当の看護婦に引き渡した。Cは、Xの引渡しに引き続いてXのカルテ等の引渡しをしようとしたが、Dの指示により、Xのカルテ等を引き渡すことなく、続けてYを引き渡し、その際には、CもDも患者の氏名を確認しなかったため、DはYをXであると誤解して受け取り、心臓手術担当の看護婦に引き渡した。その後、2名分のカルテ等が引き渡されたため、患者両名の取り違えに気付く者はなかった。
(6) 被告人は、同日午前8時40分ころ、医師として最初に3番手術室に入り、ヘアーキャップをかぶり体にタオルケットを掛け手術台に横たわっていたYに、「Xさん、おはようございます。」、「点滴取りますよ。Xさん、ご飯を食べる手はどちらですか。右手ですよね。」などと声を掛けると、Yがいずれに対してもうなずいたため、それ以上には、その容ぼう等の身体的特徴や問診によって、意識的に患者がXであるかを確認しなかった。被告人は、その後入室したセカンド担当のBとともに、午前8時45分ころ、酸素吸入をしつつ、点滴により麻酔を開始したが、患者の口に気管内挿管の咽頭鏡を入れる際、Xから入れ歯があると聞いていたのに、患者の歯がそろっていたので、歯を引っ張ったり看護婦に確認したりしたが、理由は分からず、それ以上の確認はしなかった。その後、被告人は、患者の胸部を聴診したが、心雑音や胸毛の有無には注意せず、また、患者の両目にアイパッチをはり付けた際にも、眉毛の違いに気が付かなかった。居合わせた麻酔科の部長が、心臓手術であれば通常行われる陰毛や胸毛の剃毛がされていないのに気付き、看護婦に剃毛を指示したが、このことは被告人にとっても滅多にない経験であった。そして、被告人は、カテーテル挿入のため首に当てていた紙を取り外した際、患者のヘアーキャップがずれ、患者の右側頭部の毛髪が見えたが、以前に見たXの髪は年の割に黒々として若く見え、普通の長さであったのに、産毛のような白髪で短かったため、Bに、患者の髪が白くて短くないかと問い掛けたが、Bから明確な答えはなかった。さらに、被告人は、患者の肺動脈圧を計測すると、13程度と正常値であることに驚き、Bに、肺動脈圧は普通であるが、その原因は、麻酔の影響なのか、少し状態が良くなったのかと質問すると、Bは否定しなかった。加えて、経食道心エコー検査の画面上では、僧帽弁逸脱や腱索断裂がなく、血液の逆流は、前尖と後尖との結合面からわずかに見られる程度であり、これは高齢者なら誰にでもある極く微量のもので、手術の必要のない状態であった。そのころまでに、第1助手で主治医のE、第2助手で主治医のFらが入室しており、Bらは、この結果を見て、肺動脈圧が下がっているから逆流が減ったのではないか、肺動脈圧が下がっているのは麻酔の影響も考えられるなどと話し合った。被告人は、入れ歯や髪の差異、検査結果の著しい相違から、目の前の患者がXではないとの疑問を抱くに至り、Bにその旨を告げ、主治医のEやFにも、髪の毛が短く色も違うなどと言ったが、Fが、散髪にでも行ったのではないかと言った以上には、答えがなかった。被告人は、Bに、主治医らにもう1回見てもらうよう申し出て、これに応じたBは、Eらに、もう1回足下の方から患者をよく見るよう言ったが、明確な返答はなかった。被告人は、同じ名前の患者がいることに注意をうながす張り紙があったことを思い出し、介助担当看護婦をして病棟看護婦に電話をさせたが、Xが手術室に降りていることが確認され、Fが、この胸の感じはXであるなどと言ったことから、被告人もそれ以上の確認はしなかった。なお、Bは、経食道心カテーテル検査の専門家であり、これまでに麻酔の影響で肺動脈圧がここまで劇的に低下した経験はなく、今回の事態を麻酔の影響だけでは説明できないと感じていたが、これを他の医師には告げなかった。
その後、EとFが患者の胸骨正中の切開を開始し、遅れて入室した執刀医のAは、経食道心エコー検査等の結果を聞かされ、そのモニター画面も見て、経験したことのない所見の著変に疑問を持ったが、麻酔の影響等で説明が可能であると考えて手術を続行することとし、血液循環を人工心肺装置に切り替え、心臓の肥大等もなかったが、逸脱のない僧帽弁を2度にわたって縫合するなどし、極くわずかだった血液の逆流も止め、手術は、午後3時45分ころに終了した。
(7) 12番手術室では、ファーストの麻酔科医師である原審相被告人Gが、午前8時40分ころ、医師として最初に手術室に入り、Xに「Yさん、おはようございます。」などと声を掛けると、Xは「おはようございます。」などと返答した。Gは、3日前の術前回診でYに会っていたが、意識的に患者の同一性の確認をすることなく、入れ替わりに気付かないまま、セカンドの麻酔科医師であるHとともに麻酔を開始した。Gは、Xの背中にフランドルテープが張付されていたが、カテーテル挿入に邪魔だと思い、何であるかも分からないままはがし、これをHらに伝えず、Yから背中に脊柱管狭窄症による手術こんがあると聞いていたが、Hに検査だけで手術はしなかったのではないかと言われただけでそれ以上深く考えなかった。その後入室した執刀医兼主治医である原審相被告人Iは、患者の同一性を確認をすることなく、右胸の開胸手術を開始し、途中、酸素飽和濃度等の状態がYの事前の検査時と異なり、事前のレントゲン等では見られなかった肺気腫等があるなど、患者の入れ違いに気付くべき状況があったが、それに思い至らず、腫りゅうの発見を先決と考え、第1助手の医師と共に触診等を重ね、結局は腫りゅうの発見に至らずに、肺の裏側にあったのう胞を切除して縫縮し、午後1時48分ころに手術を終えた。
2 原判決は、心臓手術の麻酔科医師であった被告人につき、麻酔導入前に患者の外見的特徴等や問診により患者の同一性を確認するのはもとより、麻酔導入後においても頭髪の色及び形状、歯の状況、手術室内での検査結果等が、いずれもXのものと相違し、患者の同一性に疑念を抱いたのであるから、自ら又は手術を担当する他の医師や看護婦らをして病棟及び他の手術室に問い合わせるなどして患者の同一性を確認し、患者の取り違えが判明した場合は、Yに対する手術の続行を中止するとともに直ちに連絡してXに対する誤った手術をも防止し、事故発生を未然に防止する義務があるのにこれを怠り、Yを、その同一性を確認することなくXと軽信して麻酔を導入した上、外見的特徴や病状の相違などから、その同一性に疑念が生じた後も、他の医師らにその疑念を告げ、電話により介助担当看護婦をして病棟看護婦にXが手術室に搬送されたか否かを問い合わせはしたが、他の医師からは取り合ってもらえず、病棟からXを手術室に搬送した旨の電話回答を受けただけであるのに、その身体的特徴等を確認するなどの措置を採ることなく、患者をXと軽信してYに対する麻酔を継続するとともに、Xの現在する手術室に患者取り違えを連絡する機会を失わせた過失があると認め、原審相被告人らとの過失の競合により、YとXを麻酔状態に陥らせた上、Yに全治約5週間の胸骨正中切開等の傷害を負わせ、Xに全治約2週間の右側胸部切創等の傷害を負わせたものと認定した。
3 医療行為において、対象となる患者の同一性を確認することは、当該医療行為を正当化する大前提であり、医療関係者の初歩的、基本的な注意義務であって、病院全体が組織的なシステムを構築し、医療を担当する医師や看護婦の間でも役割分担を取り決め、周知徹底し、患者の同一性確認を徹底することが望ましいところ、これらの状況を欠いていた本件の事実関係を前提にすると、手術に関与する医師、看護婦等の関係者は、他の関係者が上記確認を行っていると信頼し、自ら上記確認をする必要がないと判断することは許されず、各人の職責や持ち場に応じ、重畳的に、それぞれが責任を持って患者の同一性を確認する義務があり、この確認は、遅くとも患者の身体への侵襲である麻酔の導入前に行われなければならないものというべきであるし、また、麻酔導入後であっても、患者の同一性について疑念を生じさせる事情が生じたときは、手術を中止し又は中断することが困難な段階に至っている場合でない限り、手術の進行を止め、関係者それぞれが改めてその同一性を確認する義務があるというべきである。
これを被告人についてみると、<1>麻酔導入前にあっては、患者への問い掛けや容ぼう等の外見的特徴の確認等、患者の状況に応じた適切な方法で、その同一性を確認する注意義務があるものというべきであるところ、上記の問い掛けに際し、患者の姓だけを呼び、更には姓にあいさつ等を加えて呼ぶなどの方法については、患者が手術を前に極度の不安や緊張状態に陥り、あるいは病状や前投薬の影響等により意識が清明でないため、異なった姓で呼び掛けられたことに気付かず、あるいは言い間違いと考えて言及しないなどの可能性があるから、上記の呼び掛け方法が同病院における従前からの慣行であったとしても、患者の同一性の確認の手立てとして不十分であったというほかなく、患者の容ぼうその他の外見的特徴などをも併せて確認をしなかった点において、<2>更に麻酔導入後にあっては、外見的特徴や経食道心エコー検査の所見等から患者の同一性について疑いを持つに至ったところ、他の関係者に対しても疑問を提起し、一定程度の確認のための措置は採ったものの、確実な確認措置を採らなかった点において、過失があるというべきである。
この点に関し、他の関係者が被告人の疑問を真しに受け止めず、そのために確実な同一性確認措置が採られなかった事情が認められ、被告人としては取り違え防止のため一応の努力をしたと評価することはできる。しかしながら、患者の同一性という最も基本的な事項に関して相当の根拠をもって疑いが生じた以上、たとえ上記事情があったとしても、なお、被告人において注意義務を尽くしたということはできないといわざるを得ない。
したがって、以上と同旨で被告人の過失を認めた原判断は正当である。
よって、刑訴法414条、386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 津野修 裁判官 今井功 裁判官 中川了滋 裁判官 古田佑紀)