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最高裁判所第二小法廷 平成17年(あ)2652号 判決 2008年4月11日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

第1被告人3名の弁護人栗山れい子ほかの上告趣意のうち,本件被告人らの行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは憲法21条1項に違反するとの主張について

1  原判決の認定及び記録によれば,本件の事実関係は,次のとおりである。

(1)  立川宿舎の状況等

ア 全般

東京都立川市所在の防衛庁(当時。以下同じ。)立川宿舎(以下「立川宿舎」という。)の敷地は,南北に細長い長方形(南北方向の辺の長さは約400m,東西方向の辺の長さは約50mである。以下「南側敷地」という。)の北端に東西に細長い長方形(南北方向の辺の長さは約25m,東西方向の辺の長さは約130mである。以下「北側敷地」という。)が西側に伸びる形で付いた逆L字形をしている。南側敷地の東側,北側敷地の東側と北側が,一般道路に面し,南側敷地の西側,北側敷地の西側と南側の西半分が,自衛隊東立川駐屯地と接している。南側敷地の南半分には,南から北へ順に1号棟ないし8号棟の集合住宅が建っている。いずれも東西に細長い直方体であり,鉄筋4階建てで,各階に6室ずつある(1号棟ないし8号棟の敷地の南北方向の辺の長さは約200mである。)。南側敷地の北半分は,南北に細長い長方形の空き地(以下「北側空き地」という。)になっている。北側敷地には,東西に並んで東から西へ順に9号棟,10号棟の前同様の集合住宅が建っている。ただし,9号棟及び10号棟は,いずれも5階建てで,10号棟は各階に8室ずつある。

イ 立川宿舎の敷地の囲にょう状況

(ア) 1号棟ないし8号棟の敷地は,南側は高さ約1.5mの鉄製フェンス,一般道路に面する東側は,高さ約1.5mないし約1.6mの鉄製フェンスないし金網フェンス,北側空き地と接する北側は木製杭,自衛隊東立川駐屯地と接する西側は,門扉のある通用門1か所のほかは,高さ約1.85mないし約2.1mの鉄製フェンスで囲まれている。東側のフェンスは,各号棟の北側通路に通じる出入口となる部分がそれぞれ1号棟に係るものから順に幅約7.1m,約5.9m,約8m,約6.1m,約6.3m,約5m,約9m,約6.1mにわたって開口しており,各開口部に門扉はない。北側の木製杭には,おおむね等間隔に4本の鉄線が張られている。

(イ) 9号棟及び10号棟の敷地も,高さ約1.5mないし約1.7mの金網フェンスないし鉄製フェンスで囲まれ,一般道路に面する東側,北側のフェンスは,各号棟の出入口となる部分が幅数mないし約8.2mにわたって開口するなどしており,各開口部に門扉はない。

ウ 立川宿舎の敷地の案内板等の状況

(ア) 1号棟ないし8号棟の敷地の東側フェンスの1号棟の北側通路に通じる出入口となる開口部付近に,「防衛庁立川宿舎案内図」と題する案内板がある。同フェンスの各号棟の北側通路に通じる出入口となる各開口部の向かってすぐ左のフェンス部分に,いずれも,A3判大の横長の白色の用紙に,縦書きで,

「宿舎地域内の禁止事項

一 関係者以外,地域内に立ち入ること

一 ビラ貼り・配り等の宣伝活動

一 露店(土地の占有)等による物品販売及び押し売り

一 車両の駐車

一 その他,人に迷惑をかける行為

管理者」

と印刷されてビニールカバーが掛けられた禁止事項表示板が設置されている。

(イ) 9号棟及び10号棟の敷地を囲むフェンスの9号棟の出入口となる前記イ(イ)の開口部付近に,前同様の「防衛庁立川宿舎案内図」と題する案内板があり,同フェンスの各号棟の出入口となる前記イ(イ)の各開口部の向かってすぐ左ないし右のフェンス部分に,前同様の禁止事項表示板が設置されている。

エ 各号棟の状況

(ア) 1号棟ないし9号棟には,それぞれ東側階段,中央階段,西側階段があり,各号棟の1階には,その北側に各階段ごとに各階段に通じる門扉のない3か所の出入口があり,10号棟の1階には,その北側に,東側階段,東側中階段,西側中階段,西側階段に通じる門扉のない4か所の出入口がある。これらの出入口には,それぞれ集合郵便受けが設置されている。これらの階段に面して各階2室ずつの玄関があり,各室玄関ドアには新聞受けが設置されている。

(イ) 1号棟ないし10号棟の1階出入口にある掲示板又は集合郵便受けの上部の壁等には,A4判大の横長の白色又は黄色の用紙に,縦書きで,前記禁止事項表示板と同じ文言が印刷された禁止事項表示物が,一部はビニールカバーが掛けられて,掲示されていた。

オ 立川宿舎の管理状況

立川宿舎は,防衛庁の職員及びその家族が居住するための国が設置する宿舎である。本件当時,1号棟ないし8号棟は,ほぼ全室に居住者が入居していた。国家公務員宿舎法,同法施行令等により,敷地及び5号棟ないし8号棟は陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊長の管理,1号棟ないし4号棟は航空自衛隊第1補給処立川支処長の管理となっており,9号棟,10号棟は防衛庁契約本部ないし同庁技術研究本部第3研究所の管理下にある。

(2)  テント村の活動状況等

「立川自衛隊監視テント村」(以下「テント村」という。)は,自衛隊の米軍立川基地移駐に際して結成された団体で,反戦平和を課題とし,示威運動,駅頭情報宣伝活動,駐屯地に対する申入れ活動等を行っている。被告人3名は,いずれもテント村の構成員として活動している者である。

(3)  テント村の活動とこれに対する立川宿舎の管理者の対応

ア テント村は,平成15年夏に関連法律が成立して自衛隊のイラク派遣が迫ってきたころから,これに反対する活動として,駅頭情報宣伝活動やデモを積極的に行うようになった。

イ テント村は,自衛官及びその家族に向けて,平成15年10月中ごろ,同年11月終わりころ,同年12月13日と月1回の割合で,それぞれ,「自衛官のみなさん・家族のみなさんへ イラクへの派兵が,何をもたらすというのか?」,「自衛官のみなさん・家族のみなさんへ 殺すのも・殺されるのもイヤだと言おう」,「イラクへ行くな,自衛隊! 戦争では何も解決しない」との表題の下に,自衛隊のイラク派遣に反対し,かつ,自衛官に対しイラク派兵に反対するよう促し,自衛官のためのホットラインの存在を知らせる内容のA4判大のビラを,立川宿舎の各号棟の1階出入口の集合郵便受け又は各室玄関ドアの新聞受けに投かんした。

ウ 前記イの平成15年12月13日のビラの投かん後,陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊長の職務を補佐する同業務隊厚生科長,航空自衛隊第1補給処立川支処長の職務を補佐する同支処業務課長ら立川宿舎の管理業務に携わっていた者は,連絡を取り合った上,管理者の意を受けて,それぞれの管理部分ごとに分担するなどして,同月18日,前記(1)ウ(ア),(イ)のとおり,禁止事項表示板を立川宿舎の敷地の一般道路に面するフェンスの各号棟の出入口となる各開口部のすぐわきのフェンス部分に設置し,同月19日から同月24日にかけて,前記(1)エ(イ)のとおり,禁止事項表示物を各号棟の1階出入口に掲示した。

エ そのころ,前記イの平成15年12月13日のビラの投かんについて,立川宿舎の管理業務に携わっていた者により管理者の意を受けて警察に住居侵入の被害届が提出された。

(4)  本件ビラ投かんの状況等

ア 被告人3名は,共謀の上,テント村の活動の一環として,「自衛官・ご家族の皆さんへ 自衛隊のイラク派兵反対! いっしょに考え,反対の声をあげよう!」との表題の下,前同様の内容のA4判大のビラを,立川宿舎の各号棟の各室玄関ドアの新聞受けに投かんする目的で,平成16年1月17日午前11時30分過ぎころから午後0時ころまでの間,立川宿舎の敷地内に3名とも立ち入った上,分担して,3号棟東側階段,同棟中央階段,5号棟東側階段,6号棟東側階段及び7号棟西側階段に通じる各1階出入口からそれぞれ4階の各室玄関前まで立ち入り,各室玄関ドアの新聞受けに上記ビラを投かんするなどした。

イ 平成16年1月23日,前記アのビラの投かんについて,立川宿舎の管理業務に携わっていた者により管理者の意を受けて警察に住居侵入の被害届が提出された。なお,同年2月3日に実施された実況見分時には,1号棟及び9号棟の各出入口並びに3号棟の中央出入口,4号棟の東側出入口,5号棟の西側出入口及び8号棟の西側出入口には,前記(1)エ(イ)の禁止事項表示物がなかった。

ウ 被告人A及び同Bは,共謀の上,テント村の活動の一環として,「ブッシュも小泉も戦場には行かない」との表題の下,前同様の内容のA4判大のビラを,立川宿舎の各号棟の各室玄関ドアの新聞受けに投かんする目的で,平成16年2月22日午前11時30分過ぎころから午後0時過ぎころまでの間,立川宿舎の敷地内に2名とも立ち入った上,分担して,3号棟西側階段,5号棟西側階段及び7号棟西側階段に通じる各1階出入口からそれぞれ4階の各室玄関前まで立ち入り,各室玄関ドアの新聞受けに上記ビラを投かんするなどした。

エ 平成16年3月22日,前記ウのビラの投かんについて,立川宿舎の管理業務に携わっていた者により管理者の意を受けて警察に住居侵入の被害届が提出された。

2(1)  前記1(4)ア,ウのとおり,被告人らは,立川宿舎の敷地内に入り込み,各号棟の1階出入口から各室玄関前まで立ち入ったものであり,当該立入りについて刑法130条前段の罪に問われているので,まず,被告人らが立ち入った場所が同条にいう「人の住居」,「人の看守する邸宅」,「人の看守する建造物」のいずれかに当たるのかを検討する。

(2) 前記1の立川宿舎の各号棟の構造及び出入口の状況,その敷地と周辺土地や道路との囲障等の状況,その管理の状況等によれば,各号棟の1階出入口から各室玄関前までの部分は,居住用の建物である宿舎の各号棟の建物の一部であり,宿舎管理者の管理に係るものであるから,居住用の建物の一部として刑法130条にいう「人の看守する邸宅」に当たるものと解され,また,各号棟の敷地のうち建築物が建築されている部分を除く部分は,各号棟の建物に接してその周辺に存在し,かつ,管理者が外部との境界に門塀等の囲障を設置することにより,これが各号棟の建物の付属地として建物利用のために供されるものであることを明示していると認められるから,上記部分は,「人の看守する邸宅」の囲にょう地として,邸宅侵入罪の客体になるものというべきである(最高裁昭和49年(あ)第736号同51年3月4日第一小法廷判決・刑集30巻2号79頁参照)。

(3)  そして,刑法130条前段にいう「侵入し」とは,他人の看守する邸宅等に管理権者の意思に反して立ち入ることをいうものであるところ(最高裁昭和55年(あ)第906号同58年4月8日第二小法廷判決・刑集37巻3号215頁参照),立川宿舎の管理権者は,前記1(1)オのとおりであり,被告人らの立入りがこれらの管理権者の意思に反するものであったことは,前記1の事実関係から明らかである。

(4)  そうすると,被告人らの本件立川宿舎の敷地及び各号棟の1階出入口から各室玄関前までへの立入りは,刑法130条前段に該当するものと解すべきである。なお,本件被告人らの立入りの態様,程度は前記1の事実関係のとおりであって,管理者からその都度被害届が提出されていることなどに照らすと,所論のように法益侵害の程度が極めて軽微なものであったなどということもできない。

3(1)  所論は,本件被告人らの行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは憲法21条1項に違反するという。

(2)  確かに,表現の自由は,民主主義社会において特に重要な権利として尊重されなければならず,被告人らによるその政治的意見を記載したビラの配布は,表現の自由の行使ということができる。しかしながら,憲法21条1項も,表現の自由を絶対無制限に保障したものではなく,公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものであって,たとえ思想を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されないというべきである(最高裁昭和59年(あ)第206号同年12月18日第三小法廷判決・刑集38巻12号3026頁参照)。本件では,表現そのものを処罰することの憲法適合性が問われているのではなく,表現の手段すなわちビラの配布のために「人の看守する邸宅」に管理権者の承諾なく立ち入ったことを処罰することの憲法適合性が問われているところ,本件で被告人らが立ち入った場所は,防衛庁の職員及びその家族が私的生活を営む場所である集合住宅の共用部分及びその敷地であり,自衛隊・防衛庁当局がそのような場所として管理していたもので,一般に人が自由に出入りすることのできる場所ではない。たとえ表現の自由の行使のためとはいっても,このような場所に管理権者の意思に反して立ち入ることは,管理権者の管理権を侵害するのみならず,そこで私的生活を営む者の私生活の平穏を侵害するものといわざるを得ない。したがって,本件被告人らの行為をもって刑法130条前段の罪に問うことは,憲法21条1項に違反するものではない。このように解することができることは,当裁判所の判例(昭和41年(あ)第536号同43年12月18日大法廷判決・刑集22巻13号1549頁,昭和42年(あ)第1626号同45年6月17日大法廷判決・刑集24巻6号280頁)の趣旨に徴して明らかである。所論は理由がない。

第2その余の主張について

憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。

よって,同法408条により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 今井功 裁判官 津野修 裁判官 中川了滋)

弁護人栗山れい子ほかの上告趣意

第1 本件上告趣意の要旨

1 はじめに

原判決に対する具体的な上告趣意を論述するに先立ち、本件の基本的な争点とこれに対する弁護人らの考え方の骨子を述べておきたい。

本件は、被告人らが立川防衛庁宿舎にビラをポスティングした行為が、「住居侵入罪」(刑法130条)に問われているものである。

ポスティングは、きわめて日常的で、誰も犯罪にあたるなどと考えない行為である。にもかかわらず、被告人らが逮捕・勾留され、起訴までされ、原審においては有罪にまでなったのは、彼らが投函したビラが自衛隊のイラク派兵に反対する内容であったからである。このことを踏まえ、本件で問題になるのは、以下の3点である。

第1は、表現の自由との関係である。住居侵入罪が、刑法上刑罰をもって処罰すべきものとして規定されている趣旨は、住居の平穏を保護するという点にあり、刑法130条自体は、憲法21条が保障する表現の自由を制約することを直接の目的にするものではない。しかし、ビラ投函に当然に伴う平穏な態様の立入行為を「住居侵入罪」にあたるとして、刑事事件化することは、ビラ投函という表現の自由そのものに対するきわめて重大な侵害行為に他ならない。このことは、被告人らの人権の蹂躙というにとどまらず、きわめて広汎な市民が従来行い、今後も行うことが予想される、類似の表現行為に強い萎縮をもたらすものである。つまり、本件が刑事事件とされたこと自体が憲法21条に反する事態である。

第2は、ポスティング自体が広く行われ、これまで住居侵入罪として公訴提起がされたことがない行為であるという点である。被告人らは、ビラを投函するためだけに防衛庁宿舎に立ち入り、宿舎居住者の住居の平穏を害する行為は一切行っていない。ポスティング自体が広く行われている実態に着目するとき、また、被告人らの行為が自衛隊のイラク派兵に反対するという政治的主張を個々の自衛隊員に届けようとする表現行為であることに着目するとき、被告人らの行為は、その目的、態様等に照らして、住居侵入罪の構成要件に該当せず、また一片の違法性もない。

第3に、被告人らの投函したビラの内容が問題となって、本件公訴提起がなされていることである。本件は、ビラの内容が自衛隊のイラク派兵に反対するものであったが故に、警察の主導で捜査が進められ公訴提起に至ったものであり、本件公訴提起は、被告人らの思想・信条を理由とする差別的起訴であり、公訴権の濫用に該当する。

裁判所には、以上の事件の本質を直視し憲法の番人としての立場から法律判断をなすことが求められている。しかし、原審は、その職責を放棄し、事件の本質に目をそむけて、被告人らを有罪とした。

2 本件上告に至る経過

本件は、被告人ら3名(被告人大西、被告人高田、被告人大洞)が、自衛隊のイラク派兵に反対する内容のビラを各室ドアポストに投函する目的で、2004年1月17日、防衛庁立川宿舎(以下「立川宿舎」という)の敷地及び階段・通路部分に立ち入った行為と、被告人高田及び被告人大洞が、同様の目的で、同年2月22日、同所に立ち入ったという事案である。

本件については、2004年1月17日の行為につき、同年3月19日、同年2月22日の行為につき、同年3月31日、それぞれ東京地方裁判所八王子支部に、住居侵入罪として起訴されたが(平成16年(わ)第488号、同第618号)、同年12月16日、被告人ら3名について無罪判決が言い渡された(以下「一審判決」という)。

検察官は、一審判決を不当として、東京高等裁判所に対し控訴を申し立て(平成17年(う)第351号)、控訴審裁判所は、2005年12月9日、原判決を破棄し、被告人らを罰金刑に処すとの有罪判決を下した(以下「原判決」という)。

一審判決は、立川宿舎の敷地及び玄関前への立入り行為そのものは居住者及び管理者の意思に反するもので、「住居」侵入罪の構成要件に該当すると判断する一方、事実関係について細かい認定を行い、立入りの動機は自衛隊のイラク派兵反対という政治的意見を自衛官らに伝えるという正当な目的であり、その態様は相当性の範囲を超えたものではなく、法益侵害の程度も小さいとして、刑事罰をもって処罰する程度の違法性はないとして、無罪判決を言い渡した。

原判決は、被告人らの立ち入った場所を「人の看守する邸宅」であると認定し、「侵入」は管理者の意思に反する立入行為であるから、被告人らの行為は刑法130条の構成要件に該当するとし、可罰的違法性については、検察官の控訴趣意書における主張を認め、正当性、相当性、法益侵害の小ささ全てを否定して、「いわゆる可罰的違法性を欠くとして違法性が阻却されるとはいえない」と結論付け、被告人らを有罪とし、罰金刑を言い渡した。

3 本件上告趣意の要旨

原審は上記のとおりの判断をしたものであるが、原審の判断にはきわめて重大な誤りがあって、原判決はとうてい破棄を免れない。

すなわち、原判決は、被告人らを有罪としたが、これは明らかに、表現の自由を保障した憲法21条に反し、適正手続について定めた憲法31条に反する点で、明白に憲法違反を犯している。

そして、同判決は、可罰的違法性に関する最高裁判所の判例と相反する判断を下した。さらに、同判決は、刑法130条の解釈に関して重大な誤りを含み、また、刑訴法338条4号、同法312条に反しており、この判決を破棄しなければ著しく正義に反する結論となる。

以上のごとく、原審の判断には、刑事訴訟法第405条1号、2号、411条1号に該当する事由があるから、原判決は絶対に破棄を免れない。

第2 原判決の憲法違反

1 原判決の憲法21条違反

原判決は、ビラ投函のために行われた必要最小限の立入り行為について、刑法130条を適用し有罪としたものであって、法令の適用上憲法21条に反する違憲の判断であり、破棄されなければならない。

(1) 原判決の判断

原判決は、被告人らの行為が処罰に値する違法性があるかどうか検討するに際して、不当にも、「表現の自由が尊重されるべきことはそのとおりであるにしても、そのために直ちに他人の権利を侵害してよいことにならないことはもとよりである。本件のビラ投函行為は、自衛官に対しイラク派遣命令を拒否するよう促す、いわゆる自衛官工作の意味を持つものであることは、ビラの文面からも明らかであるが、ビラによる政治的意見の表明が言論の自由により保障されるとしても、これを投函するために、管理権者の意思に反して邸宅、建造物等に立ち入ってよいということにはならないのである。つまり、検察官の所論が主張するように、何人も、他人が管理する場所に無断で侵入して勝手に自己の政治的意見等を発表する権利はないというべきである。したがって、本件各立入り行為について刑法130条を適用してこれを処罰しても憲法21条に違反するということにもならないと解される」(17頁)と判示した。

要するに、原判決は、「表現の自由は重要だが、他者の権利を侵害することはできない」ということだけをいい、刑罰権の発動を正当化し、表現の自由に他の権利が衝突すれば、自動的に表現の自由が後退することを認めている。後述するように、本件で「(保護されるべき)他者の権利が侵害されているのか」というのは、それ自体大きな問題だが、原判決のような立場に立てば、名誉毀損罪やわいせつ表現に関する規制などについて、これまで裁判所が積み重ねてきた衡量のための解釈など不要だという結論にまでいきつくのであって、原審の判断は、裁判所としての職責を放棄したきわめて不当なものと言わざるをえない。

この点、毛利透は、このような原判決の一般論について、「表現の自由の行使であることを理由にして住居侵入罪の違法性が阻却される可能性は、否定されたに等しい。表現の自由の行使のためであろうと、商品の勧誘のためであろうと、他人の管理する場所に無断で立ち入る権利がないという点では同じということになる。しかし、このような一般論が憲法上の表現の自由保障の趣旨に沿うものではないことは明らかである。住居侵入罪で刑法が保護しようとする個人的法益は、他の法的権利・利益に常に優先するわけではない」と批判する(意見書・1頁)。

また、阪口正二郎も、名誉毀損に関する最高裁判例(最1判昭和41年6月23日民集20巻5号1118頁、最大判昭和44年6月25日刑集23巻7号975頁、最大判昭和61年6月11日民集40巻4号872頁)を引用して、衝突する利益がたとえ名誉権のような「生命・身体とともにきわめて重大な保護法益」であっても、表現の自由の保障が優先されるべき場合があるのを認めていることを指摘して、原審の判示は、最高裁の立場と矛盾すると指摘する(意見書・12~13頁)。

(2) 本件ビラの性質

本件が表現の自由の問題であることを示すために、被告人らが投函したビラの連絡先となっている立川自衛隊監視テント村(以下「テント村」という)の活動、本件ビラの内容及び本件ビラ投函の目的について、まず整理する。

ア テント村とは

A テント村の結成

戦前、立川には、陸軍航空隊の飛行場があったが、戦後米軍に接収された。基地北方の砂川では、1950年代に滑走路の延長を巡って有名な砂川闘争が起きた。

その後、在日米軍基地再編計画に伴い、立川基地の米軍は横田基地に移駐し、立川基地は日本に返還されることになった。1971年、政府は自衛隊の立川基地使用を閣議決定し、1972~73年に自衛隊が立川基地に強行移駐した(1972年12月、本隊移駐を立川市に通告した防衛政務次官が、一審で弁護側証人となった箕輪登氏である)。

この強行移駐に対し、全市的な反対運動が巻き起こった。立川市も移駐に反対し、移駐した自衛官の住民登録を保留するほどであった。当時、高度経済成長の中で、立川市では大きな団地がいくつも建設されており、けやき台団地、若葉町団地、富士見町団地には各々数千人の若い住民が居住するようになり、若い都市市民層が形成されつつあった。また、1972年は沖縄返還の年であり、ベトナム反戦の時代でもあった。このような時代背景もあり、立川市では移駐反対運動が盛り上がった。その運動を担ったのは、若い団地住民などを中心に生まれたいくつもの市民グループであった。そして、このような市民グループの連絡会として、1972年12月に「テント村」が結成された。基地近くの公園に文字通りテントを張り、反対運動の拠点となった。

この結成経過から明らかなように、テント村は自衛隊移駐に反対する市民団体として誕生したのである(弁34号証「立川テント村30周年記念パンフ」(以下「30周年パンフ」と略す)・9~11頁)。

B 活動の継続

多くの市民による反対運動にもかかわらず、自衛隊移駐が強行され、公園内のテントも少なくなっていった。当時自衛隊は、立川基地の使用について「3年間の暫定使用」であると発表していたが、テント村のメンバーは、ねばり強く基地反対闘争を進めていくことが必要であると考え、活動を継続することにした。

それ以来、テント村は30年以上にわたって、基地反対運動を中心軸にすえながら、立川基地や自衛隊を巡る状況の変化に応じ、また、三多摩地区の運動と連携する中で、労働運動や反天皇制運動など様々な分野でも活動してきた。立川基地に飛来する自衛隊機の種類・頻度などを把握するための日常的な基地の監視を行うとともに、機関誌「テント村通信」(1978年3月創刊、月1回発行)の発行、街頭などでのビラ配り・署名活動、講演会・学習会の開催、デモ行進、基地への申し入れ・自衛官への働きかけなどを行ってきた。

自衛官への働きかけとは、立川基地内の自衛官に対して訴えかける反軍放送(30周年パンフ・37頁)、テント村が配布したビラを自衛隊立川基地のゲート前で読み上げ宿直司令に手渡す基地申し入れ行動(30周年パンフ・42頁)、自衛官向けの新聞「積乱雲」の発行・配布などである。

「積乱雲」は、1976年10月~1984年7月にかけて自衛官向けの通信として発行したものであり、基地前で自衛隊員に渡したり、ダイレクトメールで送ったりするほか、防衛庁宿舎の各戸のドアポストに投函することもあった。集合ポストではなくドアポストに投函したのは、自衛官に確実に届けるためであった。「積乱雲」にはテント村の住所や電話番号等が記載されていたが、この間、防衛庁宿舎へのポスティングについて、居住者の自衛官やその家族から制止されたり注意を受けたことは一度もなかったし、立川警察署などから警告を受けたこともなかった。

1976年10月24日に発行された「積乱雲」第1号(弁35号証)には、発行の目的として次のような「発刊の辞」が述べられている。「自衛隊の立川移転以来4年間、テント村は自衛隊の存在そのものに対峙する斗いを続けてきた。しかしその間、呼びかけが常にこちら側からの金網の内側へという一方向でしかないことに、少なからず物足りなさを感じ続けてきたのである。反戦放送は、我々のナマの気持ち、あるいは隊内では得られない情報を伝えるという企画であったが、それに対する金網の内側からの反応は、朝の体操の位置が変わったり、あるいはたまに出てくる上官といった程度のものでしかなかった。この月刊紙「積乱雲」はより積極的な交流を求めて創刊されたものである。・・・隊員諸氏の感想・批判をお待ちしている」。

そしてテント村は、自衛隊員に対して積極的な交流を求めるという姿勢を維持し続け、様々な訴えかけを行ってきたのである。

C 最近のテント村の活動

テント村のメンバーは、立川市やその周辺に居住する会社員、学生などの市民であり、政党や政治団体・労働組合などの専従者はいない。

テント村には綱領や入会手続などもなく、テント村の趣旨に賛同して一緒に活動する者がメンバーであるという極めて緩やかな団体である。当然のことながら、上下関係や指揮命令関係もなく、メンバーが協議して活動方針などを決めている。財政は、メンバーの会費、支持者からのカンパなどによる収益で賄われている。

アメリカで2001年に発生した「9・11事件」を契機に、テント村は、マスコミが流す情報とは違う、反戦という視点に立った情報や意見を伝えるために、立川駅頭で、ビラ配布と呼びかけを行うようになった。同年末までは毎週末行い、2002年からは月2回のペースで行ってきた。

それと同時に立川基地への申入れも強化した。駅頭で撒いたビラをゲート前でハンドマイクで読み上げ、当直司令の士官に「請願」として手渡す活動である。テント村では、従来から事あるごとに立川基地への申し入れを行っていたが、年に数回程度であった。以前、立川基地側は申入書をなかなか受け取ろうとしなかったが、「請願権」を主張し公務員は請願を受ける義務があると粘り強く訴えてきた結果、数年前から申入書を受け取るようになった。

テント村は、イラク戦争開始前から、戦争反対を訴え、立川駅頭での情宣活動や立川基地への申し入れ活動を継続的に行っていた。イラク戦争が「終結」し、政府は、「人道復興支援」のために自衛隊をイラクに派遣するという方針を決めた。しかし、テント村のメンバーは、イラクへの自衛隊派兵は、憲法違反であり、また、不安定なイラク情勢を見れば、派遣された自衛隊員がイラク人を殺害するおそれがあり、逆に殺害されるおそれもあるため、到底容認できないと考えた。

このため、テント村は、自衛隊のイラク派兵反対を訴え、自衛隊員にも直接訴える必要があると考え、防衛庁宿舎へのビラ入れを実施することにした。

イ 本件ビラ投函

A 本件ビラ投函の目的

本件ビラの投函は、自衛隊のイラク派兵に関して、自衛隊員個々に対し、直接的にテント村の意見を伝達し、同時に自衛隊員の声を聞こうとするために行われたものである。

テント村によるこれらの活動が行われた前提として、自衛隊のイラク派兵の違憲性・違法性について、簡単に触れる。

a 自衛隊のイラク派兵の違憲性・違法性

イラクでの陸・海・空の自衛隊の活動は、2003年3月20日、アメリカが国連安保理での決議を得られないまま、イラクに対してなした先制攻撃に起因するものである。

イラクに対するアメリカの攻撃は、アメリカに対するイラクの武力攻撃あるいはその差し迫った危険のない状態で、先制攻撃(予防攻撃)としてなされたものであり、自衛のためのものとは到底言えず、安全保障理事会の決議を経ることなく行える自衛権の行使を「武力攻撃が発生した場合」に限定する国連憲章第51条に違反するものである。アナン国連事務総長は、2004年9月15日、イラク戦争について、「我々の見地から見ても国連憲章上違法」と断じている(2004年9月16日朝日新聞夕刊)。このような攻撃は、国際社会が1928年パリ不戦条約以降、営々として積み重ねて来た「戦争の違法化」の試みを打ち砕く、国際法違反のものであった。

米国が攻撃の理由とした「大量破壊兵器」も存在しなかったことは、今日ではブッシュ米大統領でさえも認めざるを得なくなっている。米国によるイラク攻撃が、「石油のための汚い戦争」であることはもはや全世界に明らかとなってしまっている。イラクのフセイン大統領の施政が反民主的・反人権的であったかどうかということは、米国による攻撃を正当化するものではない。今日、世論調査によっても米国民の過半数が「イラク戦争」は間違いであったとしており、また、ブッシュ政権内にいた要人らからもそのような批判がなされているほどである。

日本は、そのアメリカに追随する形で、イラクへの派兵を強行した。

イラクにおける陸・海・空の自衛隊の活動は、「われらは全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と憲法前文に規定された「平和的生存権」に反し、武力の不保持、交戦権の否認を規定し、そして従来の政府見解によってすら「集団的自衛権」の行使を認めていない憲法第9条に違反するものである。

1950年6月朝鮮戦争を契機として連合国軍総司令官マッカーサーの指令により、警察予備隊が設立されて以降、その後の名称変更を経て、自衛隊は、年々、その装備及び人員を拡大し、今日では世界第3位とも言われるほどの軍事力を有しており、名実ともに軍隊となった。

歴代政府は、自衛隊の憲法9条との整合性について、

① 警察予備隊であって軍隊ではない。

② 近代戦争を遂行する能力を有していないから憲法が禁ずる「戦力」にあたらない。

③ 必要最小限度の実力組織であり憲法上許される。

④ 専守防衛、すなわち国内においてのみ活動し海外に派兵しないから憲法違反でない。

⑤ 国連決議の下に海外に出ていくのであるから憲法違反ではない。

等々、その場限りの説明を繰り返してきた。

しかし、日本の防衛に直接関係のない事態に対し、自衛隊が出動することは憲法第9条をどのように拡大「解釈」しようとも不可能であると考えられてきた。ところが、1999年夏に成立した「周辺事態法」は、日本に対する攻撃がない場合でも「後方地域支援」の名のもとに日本が米軍の支援活動を認めることができるとし、集団的自衛権の行使を認めないとしてきた歴代の政府解釈の壁をいとも簡単に乗り越えてしまった。これは、もはや憲法の空洞化でなく破壊といってよい。

そしてアメリカ同時多発テロを契機として成立させられた「テロ対策特措法」は「周辺事態」という制約すらかなぐり捨て、アメリカが「テロとの戦争」を行う場合には、武器弾薬の提供以外なら、世界中どこでも、いかなる「後方支援」も可能であるとした。その後に、インド洋、アラビア海に派遣中の海上自衛隊の補給艦がイラク攻撃に向う米空母キティホークに間接的に燃料補給をなしたとの事実も明らかにされている。

これらの活動は、「自衛隊はわが国の独立と平和を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし」と自衛隊の存在目的を規定した自衛隊法第3条1項にも違反することは言うまでもない。

さらに2003年8月には、イラク人道支援特別措置法(以下「イラク特措法」という)が成立した。小泉首相は、イラク特措法では、自衛隊の活動地域を「非戦闘地域」に限っているので憲法に抵触しないと答弁した。すなわち、イラク特措法第2条は、「非戦闘地域」とは「現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」場所であるとし、「戦闘行為」とは「国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、又は物を破壊する行為」としている。ところが、首相は、この「国際的な武力紛争」の解釈として、「国または国に準ずる組織の間において生ずる、一国の国内問題にとどまらない武力を用いた争い」と答弁している。具体的にいえば、イラクのサマワで活動する自衛隊に対する武力攻撃があり、自衛隊がこれに応戦しても、その攻撃が「国もしくはそれに準ずる組織」のものでないとされれば、イラク特措法にいう「戦闘行為」、「戦闘地域」でなくなってしまう。「イラクのどこが戦闘地域かどうかなどわかるわけがない」という小泉首相の答弁は、いかなる事態が生じようともイラク特措法の「解釈」によっていかようにも合法性を主張できるという考え方に立っているものである。余りに欺瞞に満ちた「解釈」である。

後述するようなイラクの現状に率直に目を向ければ、自衛隊のイラク派兵が、戦闘地域への派兵であり、イラク特措法にすら反するものであることは明らかである。

アメリカのイラク攻撃は、国際法上違法であり、これに加担する自衛隊のイラク派兵は、国際法、憲法に違反するものであるのはもとより、自衛隊法及びイラク特措法にさえ違反するものである。

b イラク派兵をめぐる世論の二分状況

自衛隊がイラクに派兵されたのは2004年1月18日であるが、この前後、イラク派兵の是非を巡って、世論はまさに二分された状況にあった。この点については、一審弁論で各種世論調査の結果を引用して、紹介したとおりである。

また、派兵された自衛隊が戦闘に巻き込まれるなどして死傷者が出ることに対する懸念も強かった。

政府が自衛隊のイラク派兵は人道復興支援であることを繰り返し強調していたにもかかわらず、世論は二分され、半数前後の人がイラク派兵に反対しており、その主たる理由が自衛隊員が戦闘に巻き込まれるというものであった。半数近い人が、イラク派兵という方針の見直しを求めていたのである。

このイラク派兵に反対する世論は、テント村の主張と同様の立場に立つものである。「イラクに行くな、殺すな、殺されるな」、「もう一度考え直そう」という主張も同様である。

郵政大臣、防衛政務次官等を歴任し、自民党防衛族の中心メンバーでもあった箕輪登元衆議院議員は、その一審証言の中において、自分が自衛隊のイラク派兵差止請求の原告となったのも、本件被告人らと全く同じ考え方に立つものであると述べている(箕輪・3頁)。そして、同証人は、前記訴訟について、元防衛庁教育局長であった小池(新潟県)加茂市長、小泉首相にイラク派兵の非を進言したことが契機となって外務省を追われることになった天木直人元レバノン大使など、全国各地の人々から支持の声が寄せられ、提訴に対する批判の声はほとんどないことを明らかにしている(箕輪・2~3頁)。

テント村が配布したビラの内容は、自衛隊のイラク派兵について新聞やテレビなどでたびたび報道されていたものと特に変わるものではない。その意味では、テント村のビラを読んで、自衛隊員やその家族が不安になったということは考えられない。仮に、テント村のビラを読んで不安になった自衛隊員や家族がいたとしたら、それは、マスコミ報道で既に抱いていた不安を、テント村のビラで再確認したにすぎない。

c テント村の危惧の現実化

毎日多数の人が殺されているイラク情勢はますます混迷を深めている。

2006年5月12日、米国防総省の発表によれば、米軍の死者2432人、負傷者1万7983人、民間人の死者3万5119人から3万9296人となっている。しかし、民間人の実際の死者は、はるかに多いというのが現地での共通認識である。

2006年3月6日付朝日新聞は、「イラクの現状は……内戦の影」という見出しで、「イラクの治安が混迷を深め内戦の兆しさえ見せている。……このままでは陸上自衛隊の撤退論議にも影響を与えかねない状態だ」と報じている。また同年5月14日付東京新聞朝刊は、「サマワ 警察を一斉襲撃 サドル師派の犯行か」という見出しで、「陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワで13日未明、武装グループが警察の建物や検問所、パトカーなどを一斉に襲撃、応戦した警察と銃撃戦となった」と報じている。

政府は自衛隊のイラク派兵について、戦闘行動のためではなく、イラクの復興支援のためであるから、集団的自衛権の行使ではないと主張している。しかし、自衛隊の活動はイラクの復興支援にほとんど役立っていないことは、今日あまりにも明らかとなってしまっている。

サマワの陸上自衛隊は、オランダ軍、オーストラリア軍などに守られ、そこにいるということ自体が主たる任務となっているのが実情であり、他方あまり報道されていないが、海上、航空の自衛隊が米軍の人員物資の輸送など米軍と一体の活動をなしている。

イラクから帰還した自衛隊員は防衛庁で開かれた研究会で、「我々がイラクで学んだことは、戦うように訓練し、訓練したように戦う、そのような部隊を作り上げることである」と述べたという。

イラク及びその周辺地域、海域、空域での自衛隊の活動は、米軍に対する支援のためのものであり、憲法の禁ずる集団的自衛権の行使以外の何物でもない。

このような現状をみると、自衛隊が派兵されたイラクはまさに「戦闘地帯」であり、テント村が危惧した、自衛隊員に死傷者が発生すること、自衛隊員が直接・間接に他国民の人命を奪い、傷つけることが、いつ発生してもおかしくない状態なのである。

d 本件ビラ投函の目的

2003年夏、テント村は、自衛隊のイラク派兵が迫る中で、立川基地に対してだけでなく、危険と実際に対面する可能性を孕む個々の自衛隊員に対して、より直接的に訴えかける必要性を痛感し、本件宿舎へのビラ投函を決め、同年10月から、毎月1回の割合でビラの投函を行うようになった。

前述の「積乱雲」の発刊の辞に見られるように、立川宿舎への本件ビラ投函は、テント村の主張を自衛隊員に直接届けること以上に、自衛隊員と対話を図り、自衛隊員の抱える悩みを受け止め、互いの立場の違いを超えて、強行されようとする違憲かつ違法な自衛隊のイラク派兵を阻止していくための活動として行われたのである。そのため、ビラにはテント村の連絡先を明記すると共に、既に活動を開始していた「米兵・自衛官人権ホットライン」の電話番号も記載した。

ますます混迷を深める今日のイラク情勢を考えるとき被告人らの本件ビラでの意見には十分な理由があったことは明らかである。

B 防衛庁宿舎等への働きかけの例

なお、自衛隊員と直接コミュニケーションをとろうとする運動は、立川だけのものではなく、そのために、防衛庁宿舎等にビラ等を投函する行為も一般的に行われているところである。

米軍基地・自衛隊基地を抱える横須賀で反戦・反基地運動を行っている「非核市民宣言運動・ヨコスカ」は、自衛隊のイラク派兵に関し自衛隊員の生の声を聞くために「自衛官一市民ホットライン」を開設し、その一環として、2003年夏及び秋に、自衛隊員に対するアンケートを実施したが、アンケートの実施方法は、アンケート用紙を官舎の各戸に投函する、もしくは郵送するという方法によるものであった。その結果、自衛隊員及びその家族から、イラク派兵に対する不安を訴える貴重な意見が寄せられている。

同様のホットライン活動は2003年12月に北海道でも行われ、同時に横須賀と同様の自衛隊員及び家族に対するアンケートが行われたが、横須賀と同様に、自衛隊員とその家族の貴重な意見が寄せられた(弁89号証 神奈川新聞特集、No.7)。

甲336号証は、2003年8月1日から2004年2月29日までの間、全国の自衛隊宿舎に対して、自衛隊のイラク派兵に反対するビラの投函事実について、各都道府県警察警備部公安課及び公安第三課を通じて調査したものであるが、同課に把握されている投函だけで、26件(うち3件はテント村の行ったもの)、42個所の宿舎に対してビラの投函があったことが確認されているし、富山、小松、美幌、函館、帯広では、あわせてアンケート用紙も同封されていた。

C 投函されたビラの内容

テント村が投函したビラは、テント村のメンバーが交代で執筆しており、メンバーそれぞれの視点から自衛官への訴えかけを行おうとするものである。

テント村が、2003年10月以降翌年2月まで5回にわたって投函したビラの内容は以下のとおりである。

a 2003年10月のビラ

テント村が10月に投函したビラ(甲370号証)は、「イラクへの派兵が、何をもたらすというのか?」という表題の下、自衛隊イラク派兵はイラクの人々の憎悪を生むだけであり、アメリカ国内でも軍人家族からアメリカ軍による占領の即時停止と米兵の帰還を求める声が上がっており、自衛官に殺しても殺されても欲しくないという思いを伝えると同時に、自衛官や家族の不安の相談先として、「米兵・自衛官人権ホットライン」を紹介している。

同ホットラインは、2003年6月に開設された、米兵・自衛官ならびにその家族からの悩み・不安などを、現職・元自衛官を中心にした人が、聞き、共に解決の道を探ることを目的とした市民運動であり、実際に現職の自衛隊員やその家族から、派兵に関わる相談が寄せられている。

b 2003年11月のビラ

2003年11月に投函したビラ(甲370号証)は、「殺すのも・殺されるもイヤだと言おう」という表題の下、政府が自衛隊派兵の条件として答弁した、①「治安のいい状態で派遣する」、②「身を守るに足る武器を持たせて派遣する」、③「安全な地域を選んで派遣する」という3条件が、いかに欺瞞に満ちたものであるかを明らかにした上、戦争放棄の憲法の原則に立ち返って派兵反対の声を挙げることを呼びかけるものである。

c 2003年12月のビラ

2003年12月に投函したビラ(甲369号証)は、「イラクへ行くな、自衛隊!戦争では何も解決しない」という表題の下、「戦闘終結宣言」にもかかわらず日本人外交官2名が殺害されたことをはじめとするイラクにおける戦闘の激化を伝えたうえ、イラク戦争自体の誤りを指摘し、「自衛官の皆さん、イラクへの派兵命令を拒否しましょう。でも命令を拒否するなんて無理だ、そう考えていませんか?米兵・自衛官人権ホットラインでは自衛官の皆さんの相談に答えてくれます。以下の電話・Eメールへ気軽に相談を持ち込みましょう」と呼びかけるものである。

d 2004年1月のビラ(本件ビラ)

2004年1月のビラ(甲102号証)は、陸上自衛隊の先遣隊がクウェートに向けて出発した翌日である同月17日に投函された。

「自衛隊のイラク派兵反対!一緒に考え、反対の声をあげよう!」との表題の下、イラク駐留米兵の非戦闘中の死者のうち少なくとも21人(14%)が自殺であり、ストレスなどを理由にイラクを離れた米兵が400人にのぼること、ブルガリア軍では、2003年12月に5名の死者が出た後で特別手当が大幅に引き上げられたにもかかわらず、62人がイラク派遣を拒否したことなど具体例を挙げて、現場の兵士に危険や矛盾が集中するという戦争の本質を指摘し、石破防衛庁長官(当時)の安易な攻撃を容認する答弁を引用しながら、「自衛官の皆さんは『命令だから』という前に、その命令が何を意味するのかいちいち考えるべきだ。そして納得のいかない派兵には、反対の声をあげよう」と呼びかけたものである。

e 2004年2月のビラ(本件ビラ)

2004年2月投函されたビラ(甲256号証)は、「ブッシュも小泉も戦場には行かない」という表題の下、旭川の陸上自衛隊本隊からの派遣が強行され、海上自衛隊、航空自衛隊が物資の輸送を開始する中で、派兵目的とされる「人道復興支援」の欺瞞性とイラク派兵に大義がないことを述べたうえ、「殺すのも殺されるのも自衛官です。戦後、自衛宮の命を守ってきたのは戦力の保持と戦争を禁止する平和憲法でした。今それが踏みにじられ、仮に自衛官が戦死すれば『その遺志を継げ』と増派が行われかねない時代になりつつあります。いま声をあげなければ殺し殺される悪循環の車輪が大きく回り始めるでしょう。自衛官も、その家族も、派兵反対の声を挙げましょう」と呼びかけたものである。

以上のとおり、テント村が立川の防衛庁宿舎に投函したビラの内容は、イラク戦争を正当化しようとする論の矛盾を明確にし、イラク戦争の惨状を提示し、人として究極の選択を強いられる自衛官に対し、平和憲法の原則に立ち返って派兵反対の声を挙げることを訴えたものである。自衛隊のイラク派兵を巡って前述のごとく世論を二分する状況になったのは、多くの人が、意識的であれ無意識的であれ、テント村がそのビラで指摘し続けた事実に同様の思いを抱いたからに他ならない。テント村が投函したビラは、マスコミで紹介されている自衛隊イラク派兵に反対する多くの人々の意見と共通する思いを記載したものなのである。

(3) 政治的表現の自由の侵害

ア 政治的表現の自由の「優越的地位」

一審判決は、本件が政治的表現の自由の行使に対する規制であったことを前提にして、政治的表現の自由について次のように述べている。すなわち、「被告人らによるビラの投函自体は、憲法21条1項の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すものとして、同法22条1項により保障される営業活動の一類型である商業的宣伝ビラの投函に比して、いわゆる優越的地位が認められる」ものである。そして、このような評価に基づいて、「防衛庁ないし自衛隊又は警察からテント村に対する正式な抗議や警告といった事前連絡なしに、いきなり検挙して刑事責任を問うことは、憲法21条1項の趣旨に照らして疑問の余地なしとしない」。

これに対して、原判決は、可罰的違法性の動機の正当性について検討するくだりで、「表現の自由が尊重されるべきであることはそのとおりであるにしても、そのために直ちに他人の権利を侵害してよいことにはならないのはもとよりである」と、表現の自由について正面から問題にすることを避け、「何人も、他人が管理する場所に無断で侵入して勝手に自己の政治的意見等を発表する権利はない」と結論づけた。

しかし、後で詳述するが、このような原判決の立場は、端的にいって、住居侵入罪で保護される個人的法益が存在する以上、表現の自由の行使との調整を考慮する必要はないという立場であり、暴論という他ない。

A 表現の自由の重要性

表現の自由を支える価値については、自己実現と自己統治の価値があるとされる。

すなわち、「表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)である。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的価値(自己統治の価値)である。表現の自由は、個人の人格形成にとっても重要な権利であるが、とりわけ、国民が自ら政治に参加するために不可欠の前提をなす権利である」(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法(第3版)』岩波書店、2002年・162頁)という見解が代表的である。これと同様の内容なのが、「表現の自由の意義もしくは保障目的は、通常次の二つの面で捉えられる。一つは、言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な意義(自己実現の価値)であり、もう一つは、国民主権・民主主義の原理のもとで国民が政治に参加し民主的な政治を実現するという社会的な意義(自己統治の価値)である」(辻村みよ子『憲法(第2版)』日本評論社、2004年・233~234頁)というものである。さらに、これに機能的な観点を付加する考え方もある。たとえば、「表現の自由を基礎づける価値としては、(イ)自己実現(個人の人格の発展)(ロ)真理発見機能(社会的効用)および(ハ)民主政治の維持・促進があげられる」(内野正幸『憲法解釈の論点〔第4版〕』日本評論社、2005年・72頁)というような見解である。

以上のように、憲法学者は、ほぼ異論なく、このような表現の自由を支える価値を承認する。

B 表現の自由の優越的地位の理論ないし二重の基準の理論

前述のような表現の自由の重要性を前提にして、表現の自由が他の人権に比して優越的地位にあるとし、あるいはそれを裁判所における合憲性判断基準の問題として捉えて二重の基準が必要であるとする理論についても、学説上異論はない。

芦部信喜は、「表現の自由を中心とする精神的自由を規制する立法の合憲性は、経済的自由を規制する立法よりも、とくに厳しい基準によって審査されなければならない」という規範理論を「二重の基準」とした上で、次のように述べる。

「この二重の基準の理論を支える根拠は様々考えられるが、次の二つが重要である。

第一は、統治機構の基本をなす民主政の過程との関係である経済的自由も人間の生存にとってきわめて重要な人権であるが、それに関する不当な立法は、民主政の過程が正常に機能している限り、議会でこれを是正することが可能であり、それがまた適当でもある。これに対して、民主政の過程を支える精神的自由は『こわれ易く傷つき易い』権利であり、それが不当に制限されている場合には、国民の知る権利が十全に保障されず、民主政の過程そのものが傷つけられているために、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営を回復することが必要である。精神的自由を規制する立法の合憲性を裁判所が厳格に審査しなければならないというのは、その意味である。

第二は、裁判所の審査能力との関係である。経済的自由の規制については、社会・経済政策の問題が関係することが多く、政策の当否について審査する能力に乏しい裁判所としては、とくに明白に違憲と認められない限り、立法府の判断を尊重する態度が望まれる。これに対して、精神的自由の規制については、裁判所の審査能力の問題は大きくはない。」(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法(第3版)』岩波書店、2002年・175~176頁)

そして、表現の自由が「民主政の過程を支える精神的自由は『こわれ易く傷つき易い』権利」であるという点を強調するのが、浦部法穂の学説である。

「表現の自由というものは、他の自由よりもとりわけ不当な制限を受けやすい自由であり、だから、それに対する制限の合憲性は厳格に判断されなければならない」というのが表現の自由の「優越的地位」である(浦部法穂『全訂 憲法学教室(全訂第2版)』日本評論社、2006年・148頁)と説明される。

他方、立法権と司法権の役割分担として、二重の基準を正当化したのが松井茂記の学説である。その学説の要諦は、憲法の運用にとって、立法権を中心とする民主政の過程の維持こそが重要であり、裁判所の違憲審査権は、民主政の過程を補完的に維持することを役割とする点である。

最高裁も、小売市場営業の許可制に関する大法廷判決で、いわゆる二重の基準説を採用したとされている(最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)。同判決では、「個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であ」るとの判示がなされた。

C 政治的表現の自由の性質

本件において規制されているのは、政治的問題について、自衛官やその家族に向けて情報提供し考える素材を提供するとともに、これに反対するよう呼びかけるビラの配布であり、こうしたビラを投函する行為は政治的表現の自由の行使に該当する。

表現の自由の中でも特に政治的表現の自由を保障する必要性は高い。

自分の意見を表明する権利と共に、他人の意見を聞く権利が保障され、政治・社会に関する知識・思想などが不断に流通するステージが実現されることなしに、民主的な政治過程を維持することはできない。選挙権の行使もこのステージが実現されて、初めて意味を持つ。

また、民主主義過程における民意は、選挙など制度化された経路だけでなく、様々な形をとる表現行為によって表明される。それら表現行為が豊かに存在することが、民主主義における「公共空間」の構成要素である。日常的に政治に参加し、政治に働きかける自由がなければ、主権者は代表者の暴走を次の選挙時まで忍従しなければならないことになり、国民主権は実質的に保障されることにならないから、常に政治に関する多種多様な情報が自由に流通している状態を確保することが制度的に保障されなければならない。

さらに、多数派や支配層に対して批判的な表現が迫害され、時に逮捕・処罰などの刑事弾圧の対象になってきたことは、歴史上明らかな事実であり、この点についても特殊な配慮が必要になる。

よって、表現の自由の中でも、特に政治的表現の自由については特別な地位が認められるべきであり、このことは、判例・学説の等しく認めるところである。

たとえば、最高裁は、いわゆる北方ジャーナル事件において、「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもつて自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法21条1項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」(最大判昭和61年6月11日民集40巻4号872頁)と判示している。さらに、同判決での谷口正孝裁判官の意見は、「公的問題に関する討論や意思決定に必要・有益な情報の自由な流通、すなわち公権力による干渉を受けない意見の発表と情報授受の自由」は「活力ある民主政治の営為にとって必須の要素となるものであるから、憲法の定めた他の一般的諸権利の保護に対し、憲法上『優越的保障』を主張しうべき法益であるといわなければならない」と優越的地位についても認めた。

また、いわゆる南九州税理士会事件(最3小判平成8年3月19日民集50巻3号615頁)で、最高裁は、強制加入団体である税理士会が会員に対して政治献金のための特別会費納入義務を課すことを、政治献金は「会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に判断するべき事柄」であるとして、認めなかった。これは、「各個人としての判断の集積が民意を形成すべきものであるとの最高裁の妥当な立場を示すもの」(毛利・5頁)と評価できる。

また、京都地判昭和43年4月3日(判時518号37頁)は、公安条例に関する裁判例で、「表現の自由は、…(中略)…人権保障の構造体系のなかでも優れて重要な地位を占めるものである。けだし、近代民主制国家においては、国民は、通常その主権を選挙を通じて行使するが、選挙には政治的、思想的意見の存在がその前提となっている。そして、表現の自由は、この政治的、思想的意見の醸成をうながし、選挙の本来の目的を発揮させるための必須の条件である。したがつて、表現の自由は民主制社会の基礎とされ、憲法の保障するすべての権利、自由の母体であるとさえいわれている。このように、民主制社会は、民衆の話す自由ばかりでなく、民衆の聴く自由、知る自由、反対する自由が完全に保障されることによってはじめて成立するものである」という。

学説も、政治的表現の重要性を指摘する。

たとえば、佐藤幸司は、表現の自由は個人的な権利ではあっても、表現の抑圧は通常政治的なものであり、さらに、大衆社会状況の進展に伴って社会・統治過程の民主化が図られる中で、「国民の日常的な政治参加を保障する積極的・能動的な政治的権利」としての側面が強調され、評価されるようになったことを指摘する(芦部信喜編『憲法Ⅱ人権(1)』有斐閣、1978年・458頁)。

毛利透は、上記のように、政治的表現は民主主義国家の根幹として保護されなければならないという視点を強調しながら、市民的政治活動の自由には、特殊性があることを指摘する。

「表現の自由は確かに憲法上保障されているが、それを実際に行使している人数は少ない。一般の人々は、日常的な会話では政治について議論したりもするであろう。が、自分の意見を多くの人々に聞いてもらおう、そして願わくは民主的意思形成に影響を与えようと考えて、実際に行動する人々はごく少数である。圧倒的に多くの人々は、それほどに強い政治的信念をもっているわけではなく、マスメディアを流れる情報に受動的に接することで満足している。しかし、だからこそ、そのような状況の中で信念をもって活動する少数の人々の表現の自由を保障する必要性は高いといえるのである。ちょうど、日本社会で学校の授業を拒否するほど強い宗教的信仰をもつ人間は非常にまれであるが、だからといってそのような人々を保護する必要が低まるわけではなく、むしろそのような真摯な宗教的信条を保護することこそ、人権保障の神髄を示すというのと同様の事態である。

自由な民主政治は個人個人の多様な考え方を尊重することに基盤をおいており、民主的意思形成も個人個人が議論の中から形成する意思の集合体として理解されなければならない。出発点にはあくまで個人的な表現の自由が置かれなければならないのである。しかし、実際には現代社会において個人、あるいは小規模な集団の活動が世論に影響を与える可能性は非常に小さい。そのような活動に力を入れようとする人が少人数しかいないのも、ある意味で自然なことである。だから、そのような中で、強い信念から小さな可能性にかけて活動しようとする市民は、憲法の理念とする民主政治の基礎を体現する存在として特に保護されるに値する。このような信念の持ち主が、右であれ左であれ、多くの一般人の感覚からは特定の傾向をもった人々であったとしても、その活動の高い価値は変わらない。社会で一般的な思想はマスメディアで頻繁に流通しているのであり、それと同じ考えの持ち主があえて個人的行動に出るインセンティブはないといってよい。行動に駆り立てられるのは、多くは、自分達の意見が社会で伝えられていないと考える人々あろう。そのような人々の自由を確保しておくことが、個人の自由から出発する民主政治の正統性を確保するためには不可欠なのである。」(意見書・4頁)

奥平康弘証人は、表現の自由に優越的地位が認められるのは、「人格の発展のために、あるいは、人と人とが交流して人格を展開するということのために重要だという、いってみると個人主義的な価値が非常にある…ということが第1点。第2点は、この表現の自由の場合には、極めてしばしば単に個人主義的な利益を確保するというだけではなくて、およそ人間が共同社会を組み、特にいわゆる民主主義的な社会を組んでいって、人々がそういう共同社会をよき共同社会にしていくということとの関係で不可欠なもの、その意味で優越的な価値というふうに理解している」(3頁)からであり、その根拠からすると、政治的な内容の表現の自由は、「民主主義的という政治共同社会、政治的なコミュニティーのために不可欠なものである」(4頁)から特に保護されるべきであると述べている。

一方で、政治的表現の自由は、その性質上脆弱性を有するのが特質である。

そもそも表現の自由は、ある規制がかけられたときに、規制が何を対象としているのかが明確にならないまま、一般的に規制が受容され、規制射程が自己規制によって拡大していくという傾向を持つ。特に、権力に批判的な政治的表現の行使に対しては、権力の恣意的規制がより強く働くので、同時に萎縮効果も強く生じることとなる。そして、政治的表現の自由の行使は、多くの場合、営利目的で行われているわけではないから、制裁の脅威によって、大きな影響を受ける。

阪口正二郎は、意見書で、政治的表現の自由の特質について、「公共的事項に関する表現も同様に(弁護人注・「公共財」=消費する上で競合することがなく、また他者による財の利用を排除することが不可能であるため、市場にゆだねておいたのでは適切に適用されない財、と同様に の意)、それがもたらす利益は民主的政治過程の維持など社会全体に及ぶ一方で、当該表現行為をなす個人がそこから得られる利益は少ない。ジャーナリストや小説家などの例外を除いて、普通の人にとって大して利益をもたらさない公共的な表現活動をなそうとするインセンティブは弱い。公共的な事項に関する表現行為については、『フリー・ライダー』になることが合理的であり、もともと表現行為を行おうとするインセンティブが弱いため、当該表現は市場において十分には提供されにくい。

それだけでなく、公共的な事項に関する表現については、それが「公共財」であるがゆえに、それに対する規制がなされる場合の効果も、他の表現行為が規制される場合とは異なる可能性があることに十分配慮されるべきである。表現行為の一種ではあるものの、広告などの営利的表現の場合に、他の表現行為とは異なってそれほど手厚く保障する必要がないと考えられる一つの理由も、この点に関わっている。営利的表現については、それが金を儲けようとする経済的動機に基づいて行われるため、他の表現行為の場合とは異なって、政府の規制によってもそれほど萎縮する危険性は少ないと考えられる。これに対して公共的な事項に関する表現については、もともとそうした表現行為を行おうとするインセンティブが弱いため、政府の規制がなされると萎縮的な効果が働きやすい」(阪口意見書・10~11頁)という。

また、毛利透も同様の趣旨で、「このような市民活動は、国家の制裁によって非常に萎縮しやすい性質をもつことにも留意が必要である。多くが株式会社からなるマスメディアとは異なり、市民活動は営利のために行われているわけではなく、それを担う個人個人にとっての金銭的・肉体的負担は大きい。通常の人々の損得勘定からは出てこないような活動なのである。このような負担の大きい活動は、国家の制裁、あるいは制裁の脅威によって容易にくじかれてしまう。特に刑罰による制裁の脅威は甚大なものである。犯罪者というレッテルをはられることは、市民運動を行っている者の日常生活にも大きな支障をきたすことにつながるから、そのような不安が強くなれば運動を手控えざるをえない」と述べる(毛利意見書・5頁)。

したがって、政治的表現が占める優越的な地位は、規制の合憲性に関して、きわめて慎重な判断を要求していることは明白である。

イ ビラ投函の表現手段としての重要性

現代社会において、マス・メディアのように巨大な資本を基礎に強力な情報伝達手段を有する者が、情報の市場を独占しているという現状があり、一般大衆は自己の思想を他者に広く伝えることが困難になっている。

もちろん、一般大衆も、投書などマス・メディアへの働きかけによって自己の思想を表現する手段がないわけではないが、その採否は資本の裁量に属しており、商業主義の論理により表現内容の選択が行われるため、一定の表現内容が閉め出される危険性が常に存在する。

このような中で、受け手と送り手の相互互換性は失われ、一般大衆は、通常情報の受け手の地位に封じ込められるから、ビラ配布(投函も含まれる)という情報伝達方法は、自分の思想・信条、自分が接しえた知識・経験等を主体的・積極的に、他者に伝えるための貴重な手段のうちの1つであり、その自由は最大限尊重されなければならない。このことについても学説上争いはない。

いわゆる吉祥寺駅事件(最3小昭和59年12月18日刑集38巻12号3026頁)補足意見で、伊藤正己裁判官は、少数者の意見を他人に伝える簡便かつ有効な方法として、ビラ配布を位置づける。「ビラを配布することによつて自己の主張や意見を他人に伝達することは、表現の自由の行使のための手段の一つとして決して軽視することのできない意味をもつている。特に、社会における少数者のもつ意見は、マス・メディアなどを通じてそれが受け手に広く知られるのを期待することは必ずしも容易ではなく、それを他人に伝える最も簡便で有効な手段の一つが、ビラ配布であるといつてよい。いかに情報伝達の方法が発達しても、ビラ配布という手段のもつ意義は否定しえないのである。この手段を規制することが、ある意見にとつて社会に伝達される機会を実質上奪う結果になることも少なくない。」そして、その規制については、「ビラ配布の規制については、その行為が主張や意見の有効な伝達手段であることからくる表現の自由の保障においてそれがもつ価値と、それを規制することによつて確保できる他の利益とを具体的状況のもとで較量して、その許容性を判断すべきであり、形式的に刑罰法規に該当する行為というだけで、その規制を是認することは適当ではないと思われる。そして、この較量にあたつては、配布の場所の状況、規制の方法や態様、配布の態様、その意見の有効な伝達のための他の手段の存否など多くの事情が考慮されることとなろう。」といい、ビラ配布の手段としての重要性とそれに対する規制に対する違憲審査基準の厳格性について敷衍している。【文末補足説明※1参照】

ウ 表現手段の選択の自由

大衆が比較的容易に利用できる表現方法がきわめて限定されたものになる一方、その方法であるビラ配布・投函、大衆的示威行為などの手段は、一定の場所の確保を必要とする特質から、恣意的な公権力の規制を受けやすいという性格を有する。

しかし、公権力が、「別な方法もある」ことを理由にして、これらの表現方法を制約することは許されない。たとえば、「ビラまきが認められているのだからデモ行進を禁止してもいい」、「街頭演説が認められているのだからビラまきを禁止してもいい」ということが不当であることは明らかだ。ある表現者にとって、その手段が特別な意味を有するものであるとすれば、その表現者にとってその表現方法をとること自体が表現の自由の内容である。表現内容は、その性質上、表現方法(表現の手段、場所)や受け手によって規定されるものだからである。

表現者は自分の伝えたいメッセージの宛先・内容にとって、もっともふさわしく表現しやすいと判断する表現方法を選択することができる。また、表現の自由の保障の機能として自己実現の契機を重視する立場にたてば、自己が伝えたいと望む情報を自己が望むような形で伝達することには重大な意義がある。

この点について、一審で、奥平証人は、「市民が現代社会の中で、これは重要であり、みんなに考えてほしい、で、みんなで考えてほしい人の中になかんずく自衛隊の人も考えてほしいという情報があるときに、どんな手段で行うかということになると、相手方の権利侵害にならない限りでは、こちらとしては、つまり違法でない限りはどのように情報を提供するか、どのように発信するかということも、その人にとって表現の自由の問題だと思います。」(12~13頁)と証言した。

本件については、ドアポストにビラを投函するという方法をとることが、表現内容を相手に伝えるためにどうしても必要だった。すなわち、本件ビラ投函は、自分たちの意見を直接自衛官らに伝えるとともに、情報から遮断されがちな自衛隊関係者に考えてもらう材料を与えることを企図したものであるが、防衛庁宿舎は集合住宅であり、1階集合ポストからビラを取り出す際、自分や家族の行動が職場の同僚や上司に観察される危険が常にあるため、政治的な内容のビラを家に持ち込むこと自体に心理的な障壁が生じることが考えられる。また、情報を制限したいと考える管理者に抜かれてしまうおそれもあった。さらに、集合ポストには他の商業ビラも多数投函されているので、集合ポストに入れれば一緒にまとめて捨てられてしまうことも予想された。そこで、被告人らは、できるだけ直接的かつ確実に自分たちのメッセージを届けるために、ドアポストへのビラ投函という方法を選択したのである(第5回大洞・10~11頁、第6回大西・6頁、第6回高田・7頁)。被告人らの表現は、駅頭などで一般市民に対してビラを配布するというような他の手段では目的を達することができないものであった。

これに対し、検察官は一審における被告人大洞に対する被告人質問で、「宿舎の敷地外で(敷地の中から出てくる自衛官に対して)配布するという方法は考えませんでしたか」と(第5回大洞・28頁)、あたかも、立入りを伴わない公道でのビラ配布により、同様の効果があげられるとでも考えているかのような質問をした。しかし、本件ビラは一般市民向けのものではなく、立川宿舎にいる自衛官に向けられた内容なのである。被告人大洞が答えたように、いつ自衛官が出てくるか分からないのに、門外で待ち続けるというのは非常に効率が悪く、受け取ってもらえる可能性はほとんどない。ビラの内容に関心を持つ自衛官やその家族がいたとしても、上司・同僚がどこで見ているか分からない状態で、ビラを受け取ることは難しいであろう。また、被告人らは仕事をしており、長時間かかるそのような方法でビラ配布をすることは、そもそも不可能である。

本件の状況のもとで、公道でのビラ配布がビラ投函の代替手段となることはありえない。

被告人高田は、本件後、テント村の立川宿舎の居住者への働きかけを模索したことについて、被告人意見書で述べる。「私達は『ほかの方法』(弁護人注・立川宿舎のポストへのビラ投函以外の方法 の意)を探るために、高いお金を工面して新聞の販売店に折込の相談をしたり、ダイレクトメールを送れないかと市役所に相談したりもしてみました。しかし、新聞折込は公共性を保障する責任のない商業行為なので、店主の裁量でいくらでも拒否できます。市役所は、『係争中の件につき責任がもてない』といって住民票の開示を拒否しました。」(高田意見書・2頁)

つまり、本件と同様の表現行為を行うのに、他の代替手段など存在しないのである。

(4) 情報の送り手と受け手の関係形成の阻害

ア 表現の自由における受け手の重要性

表現の自由は、送り手の伝達する情報を受け取る者の存在を前提としており、送り手の情報が妨げられることなく受け手に受領されることを、当然に内包している。表現媒体を媒介として取り結ばれる送り手と受け手の社会関係自体が表現の自由にとって重要なのである。

この受け手としての権利は、一般に「知る権利」として構成される。「知る権利」が人権として保障されていることについては、「話し書き伝える自由が、聞き読み受ける自由と表裏の関係にあり、2つが一体となって初めて言論・表現の自由が成り立つことからいっても、また、この自由を支える自己実現の価値が、何よりも聞き読み受ける自由の保障と結び合っていることからいっても」当然とされる(芦部信喜『憲法学Ⅲ人権各論(1)増補版』有斐閣、2000年・262頁)。

最高裁も、よど号新聞記事抹消事件の最高裁判決(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁)において、拘禁者の新聞閲読の自由が問題になったのに対して、「およそ各人が、自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである」として、この権利性を認めているところである。

また、いわゆるレペタ事件判決で最高裁は、「憲法21条1項の規定は、表現の自由を保障している。そうして、各人が自由に様々な意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会を持つことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、社会生活の中にこれを反映させていく上において欠くことのできないものであり、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であって、このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである」と判示した(最大判平成1年3月8日民集43巻2号89頁)。これは、情報の受け手と送り手の間での自由な情報交流の重要性について語っているものととらえられる。

本件において、被告人らの行為を制圧し、刑事罰を科すことは、立川宿舎居住者が意見・情報に接する機会を奪うものである。しかも、この意見・情報は、居住者にとって、身近で切実な問題であり、居住者の中には、この意見、情報の価値を高く評価する者も多かったかもしれない。

よって、本件は、被告人らの表現の自由の侵害が問題になるだけではなく、意見・情報の送り手と受け手の社会的関係の形成を阻害し、立川宿舎居住者の情報受領権を侵害したという側面を持つのである。

この点について、奥平証人は、「表現を受け取る人は、いや、私は要りませんというような自由があると同時に、ちょっとそれ読んでみようかということがあったり、あるいは、読まずに捨ててしまうとか、読んで、ああ、ここのところおもしろいことが書いてあるとか、いや、おれ、絶対反対だとか、いろんな感想を抱いて、そこである種の情報の展開、情報の伝達というものが行われる、それが表現の自由というものが持っている意味だというふうに理解します。それを…第三者がどこかで遮断しちゃいかんということだろうと思います」と述べている(7頁)。

イ 第三者が情報を遮断することの問題性

本件立川宿舎では、2003年12月19日付及び同月28日付で、それぞれ「航空自衛隊第1補給処立川支処業務課長」「管理者」名義の「反自衛隊的内容のビラ投入等に対する処置について(依頼)」と題する書面(甲376号証、甲377号証)が、各戸に配布された。これは、「最近、自衛隊のイラク復興支援に対し、反自衛隊的内容のビラが宿舎の郵便ポストに投入されていること」「今後、このようなビラを投入又は配布している者を見かけた場合は、直ちに『110番』通報するとともに、立川分屯基地(377号証では、「東立川駐屯地」)にご連絡ください。」と書かれたものである。これは証言によれば、「反自衛隊的内容のビラ」が問題であり(A・23頁)、「反自衛隊的内容のビラ」でなければ問題ではないという趣旨で(B・25頁)、居住者に通報を呼びかけたものである。

このような措置は、管理権者が個々の居住者の意思を「先取り」し、不安や不愉快を感じるであろうとして、ビラ投函に伴う立入行為に対して警察権力を含む強権の発動を行ってきたものと言わざるをえない。本件は、官舎の管理権者が前面に立ち、表現の受け手である個々の居住者と表現の送り手との間に介入してきた点に、特殊性がある。そして、貼り札の掲示や被害届の提出に際して、居住者の意思は1度たりとも確認されていないのである。

これは、居住者の中に、ビラの投函を歓迎する者や少なくとも拒否しない者が少なからず存在する可能性をまったく無視したものであるばかりでなく、管理権者が居住者に代わる判断権を有するという前提に立つものであり、自衛官等はある種の内容の文書を読むべきではないという規制意思が背後に窺える。しかし、個人の生活の場では、外部からなされた表現行為に対してどういう態度をとるかは、そこに居住する本人が決めることであって、第三者が間に立ち情報を遮断することは許されないのである。

管理権者が自衛官をはじめとする居住者の意思をおもんばかるという形をとることで、実際にはコミュニケーションを阻害するばかりではなく、居住者に人権享有主体性を認めず、何を知るかについて保護が必要な人間であるとして扱うという事態が生じている。一定の表現が個人に及ぼす影響を案じて、管理権者がパターナリステックな見地から一律にコミニュケーションを遮断することは、受け手の自律性を否定するものである。自衛官ら居住者の立場からいえば、これは、「真綿で保護されて首を絞められていると同じことであるかもしれない」(奥平・17頁)。居住者が受領したいと考える可能性のあるものを管理権者が一律に排除することは、情報の受け手が自らの価値観で情報を取捨選択する権利を侵害することになり、結局、居住者は管理権者に情報を受け取る権利を奪われたことになる。

このような住民の情報受領権の制限は、前掲のよど号新聞記事抹消事件と同様の構造ともいえるが、立川宿舎の居住者が、そのような権利制約を甘受することを認めたと考えることはできない。

阪口意見書が、「一部の居住者のビラの内容に対する不快感を理由に、管理権者が他の居住者の表現を受け取る権利を侵害することは許されない。現在の社会は多様な価値観を有する人々が共生せざるを得ないような社会である。自分にとって不快な言論を受けとらない権利を個々人は有するものの、自分にとって不快な言論を他者に読ませないようにする権利など存在しない。自分にとって不快な言論であっても、他の人々がそうした言論を「話し手」としてなすこと、「受け手」として受け取ることを妨げることは許されない。それが多様な価値観を有する人々と共生せざるを得ない現在の社会が、自由で開かれた社会であるための条件である。」(同意見書・20頁)と指摘するとおりである。

ある情報によって、不安などマイナスの感情を抱く人は必ずいるのであり、受け手の感情の侵害を理由に表現活動を制約すれば、特定の思想や見解が思想の自由市場に流入することを阻害することになって、表現の自由の保障は原理的に成り立たなくなることを考えれば、第三者が他人の抱く不安感などを理由に、受け手と送り手の関係形成に介入することは許されないというべきである。

奥平証人は、一審で「結局迷惑を受けるのはだれかということ、それで、迷惑をうけずに済む方法がなにかということをとことんまで考えなくちゃいかんという考え方でいきますと、個別の居住者の問題であり、居住者の中には様々な居住者がい得るわけだし、また居住者の利益を保護するためには、様々な他の手段がありうる。で、個別の居住者がすべていかなるビラもまいてはいけませんというふうに考えてるかどうかというのは分からんわけですよ。それがあり得るとするならば、個別の人たちがある程度ビラに対して許容しているという、その意味での寛容社会であるときには、個別の人たちの意見を、あるいは、ビラに対する考え方を先取りする第三者がいるというのはおかしい。しかも…それが国家であるということについていえば、僕はどうしたってやっぱりそれは憲法問題だというふうに思います」(15~16頁)と述べた。

参考までにいえば、アメリカでは、管理権者による住居権者の情報受領の遮断が許されないことは、すでに1940年代ころに決着のついた議論だとされる。たとえば、キリスト教の一派である「エホバの証人」の信者が、文書を配布する目的で呼び鈴やドアノッカーを使って住人を呼び出すことを禁止する町の条例に違反するとして有罪判決を受けたことについて、この条例が違憲とされた判例があり、これは、戸別訪問に対する規制のリーディングケースとされている(1943年Martin v. City of Struthers,319 U.S.141)。この判決は、「戸別文書配布をする人々は、生活妨害やあるいは犯罪行為の隠れ蓑となり得る一方で、自由な議論の最良の伝統に合致する、思想の普及に関与している社会の有益な構成員でもある。多くの集団の様々な理由によるこの手段の広範な利用は、その主たる重要性を証明している」、「文書の戸別配布は十分な資力のない少数の人々の運動にとって不可欠である」と戸別訪問による文書配布の重要性を指摘した。さらに、利益の調整について、「問題は、ビラの配布者を家庭から排除したいと思う者の憲法上の権利だけでなく、ビラを配布したいと思う者、およびビラを受け取りたいと思う者の憲法上の権利に正当な考慮を払いながら、解決されなければならない」とする(長岡意見書・5、8頁参照)。

ウ 自衛官等の地位の特殊性

本件立川宿舎に居住する自衛官ら居住者は、1人1人が、市民として、人権享有主体である。つまり、居住者が、自衛隊の海外への派遣やイラク特措法について情報の提供を受け、自分で考え、反対する権利を有することは当然である。居住者にも、いろいろな人たちと交わり、情報や意見を交換し、自らの価値観でそれらを取捨選択する権利が保障されていることは、指摘するまでもない。

一方で、自衛官は、その職務の特殊性から上意下達の「軍隊」システムが貫徹された組織に属しており、しかも、防衛庁宿舎に居住している自衛官は、職場と住居が近接している者も多く、独居であったり、住居の近所も自衛隊関係者ばかりという環境から、多様な情報に接する機会が少なくなりがちであるという特殊性を有することからすれば、自衛官へ情報提供する機会は広く認められるべきである。

自衛官が反対意見を述べる機会や他の情報を入手する機会を奪われているという傾向は、イラク派兵を前に強まりこそすれ、弱まることはなかった。

たとえば、2003年10月、旭川の陸上自衛隊第二師団所属の隊員にイラク派遣の意思を確認する用紙が配られたが、それには、「熱望する」「希望する」「命令があれば応じる」「その他」の4項目があり、PKO派遣時の参加希望調査時にはあった「進んで希望しない」という選択肢が消えており、隊員の自由な意思の確認ができるのか、疑問の声があがった(2004年6月「論座」・吉田敏浩「自衛官と家族は声をあげるか」)。

テント村が一連のビラ投函を始めることにしたのは、派兵について動揺していることが予想される自衛官及びその家族に対し、派遣命令がおかしいという考え方がありうることを示し、直接悩みを聞いたり、声をあげたりするルートを知らせるという、情報を伝達したいという思いからであり(第5回大洞・14頁など)、実際にも投函されたビラの内容は、自衛官等に対する呼びかけになっており、「米兵・自衛官ホットライン」という相談窓口を紹介している。

情報の受け手にとって、情報の多元性の確保が重要であることに鑑みると、自衛官に直接届く形で情報が提供されることは、可能な限り保障されるべきである。【文末補足説明※2参照】

エ 市民と自衛官との意見交換の可能性

ビラなどの情報提供や意見表明の呼びかけに関して、自衛官と市民との間にコミュニケーションが成立しうることは、「非核市民運動宣言・ヨコスカ」(横須賀)、「自衛官と市民をつなぐ人権ホットライン」(北海道)、「海外派兵に反対する立川市民の会」、「湾岸戦争に反対する立川市民の会」(立川)などの活動において、実際に自衛官らからの反応があったことにより、明らかである。

「立川市民の会」では、1997年から98年にかけて、「STOP!海外派兵」というビラを防衛庁宿舎ドアポストに定期的に投函していたが、これに対しては、2回に1回程度の割合で、自衛官から連絡があり、「ビラを入れないでほしい」という話から基地問題など大きな政治的問題に話が発展することが何回もあった(大沢・6~8頁)。

「非核市民宣言運動・ヨコスカ」が2003年夏に約2500通を配布して行ったアンケートでは、12通の回答があり、イラク特措法や有事法制の議論で、「自衛官の気持ちや現場の事情が考慮されていない」というものが9通、入隊時には、外国を占領する軍隊に加わることを想像していなかったというものが6通あった。

「自衛官と市民をつなぐ人権ホットライン」で、北海道の複数の宿舎で、2003年末から2004年初めにかけて行ったアンケートでは、自衛官が住む地域で配布した5000通のうち、自衛官11人、家族14人から回答が寄せられた。意見陳述欄には、「絶対に、自衛官がイラクへ行くことに反対します。」「今回の派遣は今までの貢献とはまったく違うと思います。政府に対する憤りを感じます。なぜ、危険を冒してまで派遣すべきなのか。小泉さんの考え方が判らない。それなら自分も行くべきだ!」などの自衛官の意見が書かれていたという。また、同会が活動していた2003年12月から2004年3月までの間に寄せられた電話やファクス、Eメールなどの意見171件のうち自衛官からは6件、家族からは32件であった。同会の事務局長は、「悩みを訴える場所を求めていた」のではないかと感想を語っている(2003年11月付「世界」・吉田敏浩「自衛隊員の命は国家の『捨て駒』か」、「論座」前出吉田記事)。【文末補足説明※3参照】

(5) 住居侵入罪を利用した表現活動の侵害

ア 本件表現規制のねらい

このように、目的において正当で手段において相当な表現活動に対し、強制捜査を行い、さらに公訴を提起することは、表現の自由に対する重大な侵害であり、本件は「表現行為に対する弾圧事件」であると名付けられてよい。

本件は、特定の表現行為の内容を問題にし、これをねらい打ちにするものであった。

住居侵入罪の適用が問題になる場合、本来的には、立入行為そのものに着目すれば足りるはずであり、本件について検察官の起訴が正当であるというのであれば、ポストへのビラ投函のためのすべての立入行為が、住居侵入罪にあたるということになる。しかし、本件立川宿舎には、多くの商業的なビラが投函されているにもかかわらず、それらの投函に伴う立入行為は問題にされず、政治的表現である本件ビラ入れだけが、警視庁公安部主導の膨大な労力をかけた捜査を経て、起訴されるに至っている。

本件起訴が政治的な意図を有するものであったことは、公訴棄却論で詳述するが、警察主導による捜査が行われたこと、当初から公安事件として取り扱われていたこと、捜査過程が異常であることなどから、ビラの内容に着目し、抑止によって生じる政治的影響を考慮して、捜査・起訴がなされていることは明らかである。

原審は、出入口への掲示の貼り出し、通知の配布等を、本件立川宿舎の管理状況を示す要素として、取り扱った。しかし、被告人らは、公安警察が住居侵入罪が成立するように形式的に整えた「罠」の中に飛び込んでしまったというのが、本件の実情である。このことは、まさしく、本件捜査・起訴の目的が、ビラの発行主体である立川自衛隊監視テント村とその周辺の動向を調査し、最終的には、運動に介入して全国的な反戦活動を抑圧することにあったことを示している。

イ 住居侵入罪を利用した言論弾圧

奥平証人は、一審で、これまで住居侵入罪については「物理的な迷惑を前提とした上で判例が築かれていた」が、本件は、物理的な行動自体が問われているわけではなく、「ある程度受忍できる迷惑であるか、それとも、受忍することのできない迷惑であるとか、あるいは、迷惑であることの防衛をどうするかとかっていったような問題になってくる。すなわち、ここでは、住んでいる個別の人の住居の利益の問題なんですね。そのことについて真正面から問題にした判例というのは、…僕の知っている判例はないわけです。」(10~11頁)と述べた。

従来、ビラ配布・貼付については、屋外広告物法・条例、軽犯罪法第1条33号、道路交通法77条1項4号、鉄道営業法35条、建造物または器物損壊罪(刑法260条、261条)などによって規制されており(そのこと自体の当否は措くとして)、住居侵入罪を直接に適用したケースはなかった。

刑法130条についての最高裁判例としては、多数の学生が、部外者の立入を禁止していた研究所構内へ通路の金網柵を引き倒して乱入したとして起訴されたいわゆる東大地震研事件や、春闘の一環として、郵便局にビラ多数枚を貼ることを目的とし、組合員数名が施錠されていない通用門から郵便局内に立ち入ったとして起訴されたいわゆる大槌郵便局事件などがある。しかし、これら判例は、「建造物」への侵入の問題であり、「住居」ないしは「邸宅」への侵入が問題になったものでないこと、本件とは異なり、政治的表現の自由の行使に必然的に随伴する行為が問題になったものではないことが、本件との相違点である。

政治的な内容のビラ投函に伴うポストまでの平穏な立入行為が住居侵入罪とされた例は、戦後存在しない。これまで、そんなことで人を「犯罪者」とすることはなされてこなかったのであり、本件はまさに異例の、踏み込んだ弾圧である。

ウ きわめて広汎かつ強力な萎縮効果

本件が、被告人ら自身の表現行為に対する抑圧であることは言うまでもない。しかし、それにとどまらず、このような起訴は、被告人以外の全ての市民が今後行おうとする表現行為についてきわめて強力な萎縮効果を与えるもので、その及ぼす影響は図りしれない。制裁を恐れて、許されるはずの表現行為が行われなくなるのである。

表現の自由に対する規制について萎縮効果を意識する必要があることについては、札幌税関事件訴訟(最大判昭和59年12月12日民集38巻12号1308頁)で、表現の自由を制約する規定は明確でなければならないということの理由として、明確な規定でなければ、「規制の基準が不明確であるかあるいは広汎に失するため、表現の自由が不当に制限されることとなるばかりでなく、国民がその規定の適用を恐れて本来自由に行い得る表現行為までも差し控えるという効果を生むこととなる」ことがあげられており、最高裁も認めているところである。

もちろん、住居侵入罪は、表現の自由の行使を直接規制するものではないが、同罪は構成要件に濫用の可能性がはらまれる犯罪類型であり、これを、市民的自由を抑圧する目的で、広範な捜査権限・起訴裁量のもとで適用してくることは、構成要件該当性が不明確な犯罪類型を新たに作り出すことと同じである。

この点について、奥平証人は、住居侵入罪のような一般刑法が本件のような行為に適用されることが当然視されることになってしまえば、1人の人間が拘束されるだけでなくて、周囲に多大な影響を与え、「ほかの刑法のさまざまな問題を含めて、ありとあらゆる様々な問題の適用を、まずは取り締まって逮捕する、逮捕して、その人の周辺を洗うということができるようになる」(奥平・24頁)のではないかと危惧する。

帝国憲法下とは異なり、公安警察(高等警察)を直接バックアップするような特別法を制定し、権力にとって望ましい特別な刑法体系を作り上げることが難しくなっている中で、本来、価値中立的な法規を利用して、権力にとって都合の悪い言論を弾圧する。本来の趣旨とは離れて、法律が使われるという事態が生じている。

治安維持法について体系的な研究をしてきた奥平証人が、「今日本の社会では、僕の理解するところによると、…特別刑法を作ること自体は恐ろしく難しい。…それだから今のところは普通犯罪法でいかざるをえない、つまり普通犯罪法というのは普通の市民の秩序を守るためのものです。で、普通の市民の秩序を守るものを、形として犯罪行為に仕立て上げて、それが機能的に役割としてこれを公安警察的に展開するということが、…(中略)…今回の件は非常に見事にそれを示している」(24~25頁)と指摘するとおりである。

表現行為の取締りを本来の目的としない法令を、表現行為の取締りに用いるという「目的外使用」は、法律の重要な機能である「予測可能性」を著しく害する。今まで犯罪とは考えられてこなかったことが、ある日突然「犯罪」であるとして検挙される。この検挙の際、表現内容が問題とされたことはあからさまには示されないが、その本質的な目的が批判的言論の取締りであることは、誰にも伝わる。何が犯罪であり、何が犯罪でないのか、その境界が著しく不明確となってしまう、このような状況の中では、検挙を覚悟しなければ、批判的言論を発することができない。このことは表現者及び表現をしようと考える者にとって、きわめて強い圧力となる。本件弾圧によって、権力者は、きわめて効率的に批判的言論に対する萎縮効果を生み出したのである。

エ 実際に生じている萎縮効果

たとえば、これまで横須賀で自衛官を対象にアンケート調査活動を行ってきた「非核市民宣言運動・ヨコスカ」のメンバーは、「事件はやはりプレッシャーになった。ビラ配布の手法などを慎重に検討している」「こうしたことで自衛官への働きかけそのものが衰退してしまうことが一番問題」と話している。

同団体が活動として行っている「自衛官一市民ホットライン」は、自衛隊員や家族の悩みを医師やカウンセラーらが聞く「ホットライン」を続け、その案内チラシを市内の防衛庁官舎のポストに投函してきた。しかし、本件弾圧後は官舎でのビラ投函は行っていない。

名古屋市の市民団体「有事法制反対ピースアクション」も航空自衛隊小牧基地周辺の防衛庁官舎でのイラク派兵反対のビラ投函をやめている。事務局長は、「事件前は隊員の奥さんたちに手渡ししていたほど牧歌的だったのに」と事件の影響を語っている(2005年12月9日付朝日新聞)。

また、テント村の代表(当時)のもとには、市民団体や労働組合の一部から、今は官舎へのビラ配りは控えているという声も入ってきた(弁77号証 2004年4月6日付神奈川新聞、弁90号証2004年5月14日付東京新聞)。【文末補足説明※4参照】

(6) 違憲判断の基準

では、上述したような政治的表現の自由の性格をふまえ、本件に関して、憲法適合性を判断するに際して、どのような基準を立てて判断すべきか。

本件では、刑法130条自体の憲法適合性が問題になっているのではない。同条自体は表現の自由の規制を目的とした規定ではなく、違憲の法令でもない。本件で問題になるのは、「本件被告人らがなした表現行為に、それ自体は表現内容中立規制である刑法130条を適用し、被告人らの行為を処罰すること」(阪口意見書・13頁)であり、そのような適用が違憲ではないかということである。

ア 違憲審査基準とは

前述したとおり、政治的表現の自由は、民主政治を成立させるために必要不可欠のものであると同時に、一度その自由が損なわれると民主的な意思形成過程自体が歪んでしまい、政治的過程での救済が非常に困難になる。よって、政治的表現の自由に対しては、裁判所がその正当性・必要性について、厳格に審査しなければならない。

学説上は、表現内容に関わる規制と表現内容に中立的な規制とを区別し、後者には前者に比べて緩やかな違憲審査基準が妥当するという考え方(以下「規制二分論」という)も提示されている。

二分論の代表的な論者によれば、前者の内容に基づく規制については、「明白かつ現在の危険」のテスト(ある表現行為が社会に対して、実質的な害悪を惹起する明らかに差し迫った重大な危険が存在する場合に初めてその表現行為を制約することができるという基準)や「定義づけ衡量」を用い、後者の内容中立規制については、「より制限的でない他の選びうる手段」のテスト(当該規制の目的が重要なものであり、規制が当該目的の促進に必要な範囲を超えず、より厳しくない制約を課すことで規制目的を達することができないことが必要とする基準)を用いるのが相当であるとする(芦部信喜『憲法学Ⅱ人権総論』有斐閣、1994年・227~253頁)。また、「表現の内容に着目する規制については、もっとも厳しい審査基準、すなわち①『真にやむを得ない(compelling)』政府の規制の存在、および②規制が当該目的の必要最小限度の達成手段として厳密に限定されている(narrowly tailored)ことを、政府の側が立証することが要求されている」とし、内容中立規制については、「①政府の規制が重要な政府の利益を促進するものであり、②表現の自由に対する付随的制約が当該政府利益の促進に必要な限度を超えないこと を政府の側が立証する必要がある」との整理をする学者もいる(長谷部恭男『憲法第3版』新世社、2004年・209~210頁)。

表現内容規制については、権力が濫用される危険性が高く、「思想の自由市場」を害するおそれがあることなどから、厳格な審査基準が必要であるのに対して、表現中立的規制については、表現者は他の表現態様も可能だから表現の機会ないし自由な情報の流れの重大な縮減にはならず、特定の表現手段に対して一般的に及ぶ規制であるので、見解差別的な効果を有する可能性は低く、取り締まりが不当な動機に基づくものである可能性も低いことなどの理由があげられる。

しかし、最近、規制二分論に対しては、①両者を簡単に峻別することは困難で、表現内容中立的規制について審査のレベルを大幅に切り下げることに十分説得的な理由があるとは思えない ②内容規制であっても内容中立規制であっても社会に流通する情報の総量を減少させることに変わりはない ③規制がソフィスケートされている現代社会で、表現の規制を実質的に問題にできなくなり、特定の表現方法の全面的な禁止につながりかねない ④根本的な問題として、表現の自由とは、自己の伝えたい情報を自己の望む時・場所・方法で伝える自由であるから、安易に態様・手段の規制が認められてはならない などの問題点が指摘されるようになってきた。

イ 表現内容に対する規制

しかし、上記規制二分論に対する立場の違いは、あくまでも内容中立的な規制の取り扱いについて表れるにすぎず、本件ではさほど重要ではない。

阪口意見書が指摘するように、両者は重要な点で立場を共有する。

「第一は、両者が、いわゆる「二重の基準」論、また「表現の自由の優越的価値」をともに承認していることであり、その結果、経済的自由の規制の合憲性が問題になる場合とは異なって、およそ表現の自由の規制の合憲性の判定に関して最も緩やかな審査基準である「合理性の基準」が適用されることはないという点で一致していることである。

第二は、両者が内容に基づく規制に関しては同じ審査基準で判断すべきだと考えていることである。内容に基づく規制については、「二元論」も「一元論」も「厳格審査基準」を適用して規制の合憲性を判断すべきことで意見が一致している」(5頁)。

とすると、本件規制が、表現の内容に基づく規制なのか、それとも表現内容中立的な規制であるかが重要になってくる。

もちろん、住居侵入を処罰する刑法130条の規定自体は表現内容中立的規制である。しかし、本件被告人らの行為に対して同条を適用して処罰することは、表現内容に基づく規制なのである。

すなわち、原判決も認定するように、立川宿舎管理権者が2003年12月18日に掲示した「宿舎地域内の禁止事項」は、テント村によるビラ投函に対する対策として、同月13日にテント村によるビラ投函が行われた直後に掲示された。そして、管理権者は、各居住者に対して、イラク派兵の問題をとりあげた「反自衛隊的内容」のビラを投入又は配布している者を見かけた場合には直ちに110番通報するとともに東立川駐屯地または立川分屯基地に連絡するよう求める依頼文書を配布した。

そして、禁止事項の貼り札が掲載された前後を通じて立川宿舎には商業ビラの投函はあったし、C証人によれば、貼り札掲示後に、居室まで宗教の勧誘を目的とする部外者に面会を求められたことすらあったのである。まさに、一審判決が正しく指摘するように、「立川宿舎への商業的宣伝ビラの投函に伴う立ち入り行為が何ら刑事責任を問われずに放置されている」(31頁)のである。

本件が被告人らのビラの内容に着目した規制であったことは明白である。

ウ 判例の利益衡量論

判例が、表現の自由の規制に対して、上述の大多数の学説と同様の枠組みをとってその違憲性を判断しているかどうかは必ずしも明らかでない。

むしろ、阪口意見書が指摘するように、「最近の最高裁は、表現の自由の規制一般が問題になる場合に、その合憲性を判断する枠組みとして、独特な利益衡量論を採用しているように思われる。先例を見る限り、表現の自由の規制一般の合憲性を判断する際の最高裁の基本的な判断枠組みは、『規制が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して』、当該規制が『公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度』であるか否かを判断するというものである(たとえば、最大判平成4年7月1日民集46巻5号437頁、最3判平成5年3月16日民集47巻5号3488頁)。」(阪口意見書・7頁)

ここであげられている平成4年7月1日判決は、いわゆる成田新法事件であるが、憲法31条の適用につき、「行政処分の相手方に事前の告知、弁解、防御の機会を与えるかどうかは、行政処分により制限を受ける権利利益の内容、性質、制限の程度、行政処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合較量して決定されるべきもの」と判示した。

また、平成5年3月16日判決は、第一次家永教科書事件判決であるが、教科書検定と憲法21条1項との関係について、「公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けることがあり、その制限が右のような限度のものとして容認されるかどうかは、制限が必要とされる程度と、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度等を較量して決せられるべきものである」との基準を示している。

これらの基準に従えば、具体的な衡量をなすにあたっては、①本件において規制されている具体的な自由の内容や性質 ②これに加えられている具体的な規制の態様及び程度 ③規制の具体的な必要性の各要素を検討する必要がある。

ただし、その場合でも、同意見書が指摘するように、経済的自由が問題になる場合と表現の自由の規制が問題になる場合で、衡量の厳格さについては区別がある。

たとえば、集会の自由の制限が問題になった泉佐野市民会館事件判決では、集会の自由も「必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない」とした上で、衡量の要素として、「基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度」をあげる(最判平成7年3月7日民集49巻3号687頁)。しかし、その衡量の際には、「経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない」とするのである。

(7) 表現の自由と衝突する利益

ア 調整の必要性

原判決がいうように、「表現の自由が尊重されるべきことはそのとおりであるにしても、そのために直ちに他人の権利を侵害してよいことにならないことはもとよりである」。その一般論としての結論については、特に異論はない。

また、表現の自由が保障されているからといって、そこにいる正当な権利を有さない他の私人の財産上で制約なく表現行為を行うことまでが、憲法上保障されているわけではない。

しかし、長岡意見書が指摘するように、「他人の土地で通行人にビラを配布したり、署名集めをしたりすることと、個々の住居にビラやパンフレットを届けるためにその地所に立ち入ることとでは、『私人の財産上で表現行為を行う憲法上の権利』と『自己の所有地から他人を排除する所有者の権利』の対立という観点からは同列ではあっても、具体的に見た場合の利益状況が異なり、パブリック・フォーラムではない私有地でのビラまきが許されないからといって、個人の住居に戸別にビラを配布する目的でその地所に入ることも当然に許されないということにはならない」(3~4頁)のである。

また、表現の自由の行使が、その性質上、外に向けての働きかけという側面を持っていることから、毛利透が指摘するように、「市民が直接表現活動を行うには通常場所を必要とし、しかもその性質上、それは人々の行き交う場所でなければならない。表現活動とは、様々の考えをもつ者どうしが互いの考えをぶつけあい、互いに影響を及ぼしあうことだからであり、そのような活動による意思形成過程が確保されることが、個人および国民全体の政治的見解の自由な構築を可能にする条件となる。このことは、表現の自由の行使が多くその自由行使者の所有地以外でなされざるをえないことを意味する。だとすれば、表現の自由を実質的に確保するためには、私人の財産に対しても、その場の性質に応じてある程度の制約が課せられるのはやむをえない。むしろ、財産権、あるいは本件でいえば住居の居住の居住権の内容自体が、表現の自由保障の観点を考慮して判定されなければならないのである。表現の自由が民主主義社会にとって重要であるとの認識は、それにより財産権絶対のドグマが崩されることを意味するのである」(毛利意見書・1~2頁)。

イ 政府に対して批判的な言論

被告人らが有罪となることで、守られるべき実質的な利益とは何か。

検察官は、一審で、「誰のどのような法益を侵害したのか」との求釈明に答え、「居住者に対する住居権の侵害及び管理者に対する管理権の侵害である」とした。しかし、原判決は、管理権者の管理権のみに注目し、管理権のみを保護の対象とすることによって、住民である自衛官個人の法益ではなく、自衛隊という国家機関の円滑な業務遂行を実質的に保護の対象とすることを追認した。

一審の証人尋問では「家族の不安感」が強調された。また、検察官は立件の目的に関するマスメディアの取材に、「反戦ビラを自衛官やその家族が読むことによって動揺を招き、自衛隊全体の士気が下がることを危惧した」と答えている。イラク派兵に反対するビラが、派兵問題の渦中にある自衛官とその家族の士気に影響を与える、国家にとっての重大問題ととらえられていたことは明白である。本件弾圧は、自衛官とその家族に対する反戦メッセージの伝達を遮断しようとしたものである。

そこで問題になるのが、国家には他者の不快なメッセージを聞かない自由があるのかということである。

表現の自由の意味を国家の側から見返してみれば、国家に対する批判を国家は聞く義務があるという側面がある。互いに異質である多様な価値観を有する人間が共存する社会が民主制国家なのである。そして、民主制国家の正当性は、国家に対する批判が許されているという点で、保持される。とすれば、国家にとって不快な言論をこそ保護する、その立場をとれるかどうかが民主制国家として存立しうる試金石となる。

イラク派兵反対という国家の政策に対する批判が、その内容により、国家と実質的に同一とみることができる管理権者によって制限され、さらに、国家の刑罰権の対象となることは許されないというべきである。

ウ 居住者の「迷惑」や「不快感」

本件言論を規制する際に衝突する利益として、居住者の「ビラを受け取りたくない」という利益を考えることができる。

しかし、これは、表現の自由の制約根拠となる「プライバシー権」とは異なる、「迷惑」や「不快感」といった事実上の利益にすぎない。

もちろん、個々人がビラ投函に対して拒否の意思表示をすることは自由である。しかし、その意思表示は、個々のポストに「ビラを入れないでほしい」というステッカーを貼るなどの方法によって行えることである。表現を受け取らないという効果を実現するために、国家が、ビラ投函に伴う立入行為を住居侵入であるとして、刑罰を科することは許されない。

ある人が迷惑と感じるもの全てを刑罰規定で取り締まれということはできない。不愉快である、迷惑であるという「感情」は、表現の自由を規制する根拠にはならない。「ある言論を受領した者が不快感を抱いたことを法益侵害が大きかったことの説明として用いることは、それが表現内容に起因するものである場合には、認められない。内容に基づく規制は許さないという憲法上の大原則は、たとえ多くの人の気に入らない言論であっても、その言論の存在自体を国家の規制で否定してしまうことは許されないということを意味する。」(毛利意見書・8頁)

現代は、自分にとっては無価値なものも含む多数のメッセージや情報が飛び交うメッセージ社会である。

もちろん、情報の送りつけが受け手の本質的な人権に抵触するような場合、そのメッセージの送付が問題とされることはありうる。しかし、ビラを投函されることは、現代社会の中では社会生活に随伴する軽微な不利益にすぎず、しかも、ビラ投函を受けた者は、ビラを捨てる・捨てない、読まない・読むという選択をする自由がある。本件でも、ビラを不要だと感じる人、不愉快だと考える人は、そのままビラを捨ててしまっているのが通常であることを、検察側証人自身が認めている(A・47頁)。

仮に意に添わない内容のビラ投函があったとしても、そのことは「ある種の生活の慣行として受忍」されている(奥平・12頁)というのが現実であり、奥平証人が言うように、「ある人にとっては迷惑だけれども、社会一般にとっては迷惑だから取り締まるというレベルで、例えば刑法で130条、あるいは、また特別な法律を作って、迷惑防止法みたいなもので、およそビラ貼りは、およそビラまきはできないというような意味を持たせるような、そのような社会にはもはやなっていないということです。…そういう社会の中でビラまき一般が行われているし、そのビラまき一般の中で、さっきから言っている様々なビラまきが、よかれあしかれ行われていて、僕たちはそれをある程度受忍している。で、そういう社会であって、そこから様々な情報を人々がピックアップする、あるいは、捨てる、そういった格好になっているのがよかれあしかれ現状だと思いますし、その現状の中で表現というものをどう考えるかという問題だ」(11~12頁)ということである。

異論にさらされることによる迷惑や不快感が甘受されなければ、民主主義社会は成り立たないのであって、民主主義社会では、各個人に情報の処分権がゆだねられていることを前提に、それぞれに「寛容」が求められている。何でも警察に持ち込んで公権力に判断をゆだねる社会ではなく、寛容と自律が根幹にある社会が、現行憲法下ではめざされてきたのではなかっただろうか。

この観点からすれば、ビラ入れを規制するための対立利益として「意に反するビラを入れさせない権利」を持ち出すことは、そもそも許されない。

長岡徹は、閉ざされた空間での表現との遭遇について、「囚われの聴衆」を保護するために表現の自由を制限することができるかという観点から問題を整理する。

アメリカで郵便法の規定の合憲性が争われた連邦最高裁判決(受取人が求めたのでない避妊具の販売広告を郵送することを禁止し、禁止違反に刑罰を科す連邦法を違憲と判断した1983年の判決)は、「『囚われの』聴衆が不快な言論を避けることができないという状況のない限り、政府が言論を押しつけがましいものとして禁止することは、修正1条に違反する。しかし、不快な郵便物の受取人は、単に目をそらすだけで、自分の感情がさらに害されることを効果的に避けることができる。結局、郵便受けからゴミ箱への、いつも通りの簡単な行動程度の負担は、少なくとも憲法が関係している限りにおいて、受け入れるべきである」と判示した(長岡意見書・13頁)。

この点については、「表現の自由がある以上、国民は他人の表現を受忍しなければならない。つまり、その限りで目を背けたり耳を塞いで立ち去る苦痛に耐えなければならないのである。表現が表現受領拒絶権の侵害となったり、あるいはそのような拒絶権を理由に表現の規制が許されるのは、わいせつな表現の場合や、表現受領を強要されるような状況(いわゆる『囚われの聴衆』)の状況)だけと考えるべきである(大阪市営地下鉄車内抗告訴訟 最3小判昭和63年12月20日判時1302号94頁参照)。」(松井茂記『日本国憲法第2版』有斐閣、2002年・460頁)という見解も示されているところである。

本件において、被告人らは、ビラを平穏に投函しただけであって、各居室内に立ち入ったり、応答を強要したりしてはいない。このことは、被告人らと居住者の間には対等な情報の送り手と受け手の関係が成立しており、居住者が「囚われの聴衆」の立場にはなかったことを示すものである。

阪口正二郎も、「本件における『受け手』は、それを理由に『送り手』の表現の自由を制約することが正当化されうる『囚われの聴衆』とはほど遠い位置にある。本件において被告人らがなした行為は、立川宿舎に立ち入って各住居のドアの新聞受けにビラを投函したにすぎない。居住者は、投函されたビラを読むよう=『受け手』であることを余儀なくされているわけではおよそない。ビラを読みたくなければ、ビラをゴミ箱に放り込めばすむだけのことである。その意味でおよそ本件における表現行為は『囚われの聴衆』を相手になされた表現行為ではない。したがって、本件において『送り手』の表現行為を制約する正当化事由として受け手が『囚われの聴衆』であることを援用することはできない」と結論づける(意見書・19頁)。

よって、本件においては、表現受領拒絶権を理由とした表現規制は許されない。

(8) 本件についての憲法判断の必要性

ア 本件に対する反響

一審で、奥平証人は、「今や特別刑法をもって、特別に政治的な目的をもった政治的な行為を取り締まることができない、そうすると、刑法の暴行罪でいくとか、それから国家公務員法の人事院規則14条の7でいくといった、一般法でいくとかということがあり、そしてそれが起訴される、そして、逮捕されて長く留置する、それで非常に多くの人たちに対しての情報をコントロール、すなわちコンピュータを含めたものを持っていくというようなことが、もうこれから出てくるんだったら、やっぱり治安維持法がなくても治安維持法に近いような格好の、新しい現代的な何かが出てくるという徴候を示すかなというふうに、僕を考えさせている一つのきっかけです。」(25~26頁)と証言した。

この指摘は、すでに現実化していると言わざるをえない。

本件逮捕の後現在に至るまでの間に、社会保険庁の職員が、休日に自宅周辺で日本共産党機関紙「赤旗」号外を配布したとして、国家公務員法違反で逮捕・起訴された事件(「国交法弾圧事件」)、本件一審判決の直後、東京都葛飾区内のマンションに共産党の「都議会報告」「区議会報告」等を各戸配布した男性が住居侵入罪で逮捕・起訴された事件(「葛飾ビラ入れ弾圧事件」)、都立高校の卒業式開始前に卒業生の元担当教諭が日の丸・君が代強制についてとりあげた雑誌記事を出席者に手渡したことなどが業務妨害罪に問われ、起訴された事件(「板橋高校事件」)、卒業式の日の丸・君が代強制に反対するビラを校門付近で配布した男性3名が建造物侵入罪容疑で町田市内、葛飾区内でそれぞれ逮捕された事件、靖国神社周辺で首相参拝などに対する抗議行動に参加していた男性4名が公務執行妨害容疑で逮捕された事件、世田谷区の警視庁官舎で共産党のビラをまいた男性が建造物侵入罪容疑で逮捕された事件、沖縄の米軍嘉手納基地前で憲法9条に関するビラを配布した男性が警察官への公務執行妨害容疑で逮捕された事件、早稲田大学構内でビラを配布した男性が建造物侵入罪で逮捕された事件、法政大学構内で国民投票法案に反対する立て看板の撤去に反対した学生ら29名が建造物侵入罪と威力業務妨害罪で逮捕された事件など、枚挙にいとまがないほど、同種弾圧事件が続いているのである。

本件が、論者の注目を浴びて、広く報道され、弾圧を不当とする広汎な大衆の支持を集めたのは、このような弾圧事件が続く中で、奥平証人の危惧を共有する人が増えているからである。

被告人らが逮捕された直後に、警視庁及び立川警察署あての「共同声明」は実質3日間で703の個人・団体からの賛同が集まった(大沢・11頁)。また、「即時保釈を求める署名」は4444筆、東京地裁八王子支部に提出された「無罪判決を求める署名」は9469筆、東京高裁に向けての署名は16173筆、最高裁に向けての署名は5907筆、上申書164通(いずれも2006年5月30日現在)が全国各地から集まってきている。上申書においては、それぞれの人が、それぞれの立場から、ビラ配布の表現手段としての重要性、すでに生じている萎縮効果の大きさ、最高裁判所が表現の自由を尊重する判断をなすことに対する期待などを自分の言葉で語っている(文末補足説明参照)。

また、被告人らは、アムネスティ・インターナショナルの「良心の囚人」の日本での初認定者となった。アムネスティ・インターナショナルは、世界150カ国の180万人以上の会員に支えられた人権擁護を目的とするNGOであるが、暴力を用いていないにもかかわらず、自らの信念、人種、宗教、肌の色、出自などを理由に囚われの身となった人を「良心の囚人」として認定し、その人権の救済を求めている。日本支部事務局長は、「よその先進国では考えられない、民主主義国にあるまじき行為。日本では戦後、初めて表現の自由への典型的圧力が公になった点で注目している」と語った(2004年4月29日付東京新聞 弁78号証)。

法学者の間でも、本件に対する注目は、非常に高い。2004年3月3日には、有志56名によって、まず「立川自衛隊監視テント村への弾圧に抗議する法学者声明」が発表された(弁89号証 2004年5月29日付神奈川新聞)。その後も、同年12月16日、一審判決言渡し直後に出された「立川反戦ビラ事件無罪判決を支持する法学者声明」(賛同者116名)、原判決言渡し後に「立川反戦ビラ事件の被告人らの無罪を訴える法学者声明」(賛同者129名)と相次いで声明が出されている。

さらに、被告人らの呼びかけに応えて、上告審に向けて、539名(2006年5月30日現在)の弁護士が、被告人らの弁護人となった。このことは、法律実務家である弁護士の中で、本件の帰趨が今後の日本の人権状況に大きな影響を与えるものあることの認識と現状に対する危機感が、共有されたからに他ならない。

イ 裁判所の憲法保障機能

最高裁が「法の支配」の象徴たる地位を高めるには、もっぱら純司法的機能を行使する機関としての役割に閉じこもることなく、適正な範囲で積極的な姿勢を示すことが必要である。

本件は、憲法上の権利、それも前述したように、民主主義社会の根幹をなし、最大限の尊重が必要とされる政治的表現の自由を、国家権力が侵害したことが、真っ正面から問われた、きわめて重要な事件である。本件のような事件でこそ、最高裁は、期待された役割を果たすべきである。

本件については、被告人らの行為の憲法的意義について判断することなしに、被告人らの刑責について判断することはできないのだから、本件について、最高裁が憲法判断を回避することは許されない。

前述したとおり、本件は、各方面から非常に注目されている。

「我が国において日常的に行われている市民の表現活動を、刑罰の危険にさらし、窒息させてしまうかが問われているからこそ、注目されている」(長岡意見書・18頁)ということを、最高裁判所は正しく認識し、人権の砦としての役割を果たすべきである。

ウ 裁判所が果たすべき役割

以下、これまでにも、最高裁において、適用違憲という手法が個別事件の救済のためにとられてきており、本件はまさにその手法をとることが求められるケースであることを指摘する。

毛利透は、「憲法訴訟論において、問題となった法律条文自体は違憲とせず、その具体的事案への適用のみを憲法違反として排除する手法を適用違憲と呼ぶが、日本国憲法が採用した付随的違憲審査制の見地からは、こちらの方がむしろ違憲判断の原則形態であるとされる。具体的事案に即して、そこで当事者の人権制約がやむをえないといえるかどうかを綿密に審査することこそ、法の支配の担い手である裁判所が果たすべき役目だからである。本件第一審判決は適用違憲の典型的判決であり、なんら批判される点は存在しない。最高裁も、神戸高専剣道実技履修拒否事件判決(最2小判平成7年3月8日民集50巻3号469頁)において、通常授業として何の問題もなく実施できる(したがって、当然履修しない者には不利益を課せる)剣道実技であっても、信仰上の真摯な理由からそれを拒否する者に大きな不利益を課すことは許されないと判示している。このように、最高裁も、一般的には許される義務づけも、憲法上の権利の行使を妨げる場合には認められなくなる場合があることを認めている。これも適用違憲の一例である。個人の権利・利益に対する重大な制約である刑罰を科す場合にも同様の配慮が求められるのは、当然である。犯罪の構成要件に該当する行為であっても、憲法上の権利保障、しかも民主主義社会の根幹をなすべきものとして重く保障されるべき政治的表現の自由が問題となっている場合には、被告人を処罰することが正当な理由のない人権侵害とならないか、個別の事案ごとに綿密に判断する必要がある。繰り返しになるが、この判断を説得的に行うことこそが、「刑法の厳格な解釈」と呼ぶべき行為なのである」という(毛利意見書・3頁)。

ここで示されている神戸高専剣道実技履修拒否事件の他にも、いわゆる愛媛玉串料訴訟(最大判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)、上尾市福祉会館事件訴訟(最2判平成8年3月15日民集第50巻3号459頁)、船橋西図書館事件(最1判平成17年7月14日民集第59巻6号1569頁)も同様に、憲法上の権利への制約に対して、適用違憲的な手法をとっている。

阪口意見書も、「刑法130条それ自体が合憲であるとしても、そのことは刑法130条の解釈適用があらゆる場面において合憲であることまで意味しない。法令それ自体が合憲であるとの判断は、当該法令が合憲的に適用される場合がありうるということにとどまる。法令それ自体が合憲であるとしても、法令が具体的な事例に適用される場合に、それが合憲なのかどうかは別途慎重に検討されねばならない。こうした観点からすれば、刑法130条自体が合憲であるとしても、具体的な場面に刑法130条を解釈適用するに際して、当該解釈適用が憲法の保障する表現の自由を侵害しないかどうか慎重に判断されなければならない。適用違憲という手法は、付随的違憲審査制のもとでの違憲審査の原則であると同時に、当該法令の効力それ自体を維持しつつ、当該法令の具体的な適用場面に限ってそれを違憲とすることで、ある法令の違憲的な適用を防ぎ、それによって憲法上の権利を保障することができるという利点を有している」(阪口意見書・22頁)として、本件の判断に適用違憲という判断枠組みが適合的であることを示している。

(9) 本件は適用上違憲である

以上の事情を前提として、(6)で述べた基準にしたがって、本件の適用についてその憲法適合性を判断すれば、本件に刑法130条を適用し、有罪とすることが憲法21条に反するものであることはきわめて明白である。

ア 厳格審査基準

本件が、実際には、表現内容に関する規制であることは、違憲審査基準について述べた項で先述した。

そして、違憲審査基準論からみても、本件については、「表現中立的規制については、表現者は他の表現態様も可能だから表現の機会ないし自由な情報の流れの重大な縮減にはならず、特定の表現手段に対して一般的に及ぶ規制であるので、見解差別的な効果を有する可能性は低く、取り締まりが不当な動機に基づくものである可能性も低いことから、審査基準を表現内容規制に比して緩やかにしてよい」という理由が、本件については妥当しない。すなわち、①宿舎へのビラ投函が、表現者が実現しようと企図するコミュニケーションにとって、最も合理的かつ効率的な表現方法であり、②本件ビラ投函に対して、商業ビラ投函と明らかに異なる取扱いをしており、まさに見解差別的な効果が狙われていることからいって、違憲審査基準としては、最も厳格な基準がとられなければならないのである。

そこで、本件立入行為に関する規制が違憲であるかについては、明白かつ現在の危険のテスト、もしくは、①真にやむをえない政府の規制が存在すること②規制が当該目的の必要最小限度の達成手段として厳密に限定されていることを要求する最も厳格な基準によって判断することとなる。

本件表現行為は、その内容からみて、実質的な害悪を惹起するおそれが全く存せず、また、真にやむをえない規制の目的もとうてい認められない。

よって、被告人らの行為に刑法130条を適用して、処罰することは、憲法21条に反し許されない。

イ 利益衡量論

この結論は、最近の判例でとられていると思われる「利益衡量論」の立場に立ったとしても同様である。

前述したとおり、利益衡量の要素としては、①制約された具体的な権利の性質と内容、②具体的な規制の態様及び程度、③規制の具体的必要性 の3点が考えられる。これらにそって、具体的な適用を示しているのが、阪口意見書である。

そして、①本件において規制されているのは、精神的自由の中でも特に重要な政治的表現の自由の行使であること、②権力に批判的な内容を含む特定の内容の表現を規制するものであり、その程度も一律に、ビラ投函を禁ずるというものであること ③前述したとおり、管理権者はビラを受け取りたくないという居住者の意思から離れたところでビラ投函を禁じており、居住者の権利侵害は生じておらず、居住者の実害はないことから、規制の具体的必要性は認められないこと からいって、被告人らの行為に刑法130条を適用して、被告人らの行為を処罰することは、憲法21条に反し、違憲である。

(10) 小括

憲法21条が表現の自由を保障する趣旨は、①他者とのコミュニケーションを通じて人格を形成していくことの重要性、②民主主義が十全に機能するために個人ないし個人の集団が、時の政府への批判を含めた意見を表明することの重要性、③そして、歴史的経緯の中で、表現の自由への弾圧により個人の尊厳を踏みにじる政治に行き着いたという事実からの深い反省に由来するものである。被告人らの行為は、憲法が保障したこの当然の権利を行使するものである。これに対して、検察官は、防衛庁宿舎へのビラ配布を起訴することで、被告人らの行為を抑圧し、自衛官と市民のつながりを遮断することを目的として、本件を起訴するという暴挙に出、一審の無罪判決に対して控訴さえし、原審はこれを追認した。

本件による被告人らの逮捕・勾留、それに続く起訴は、これまでに表現活動を行い、今後も行おうとしている広汎な層の市民にきわめて強い打撃を与えており、万が一にも、最高裁が本件について有罪であると判断すれば、広く一般大衆の表現行為に与える萎縮的効果の大きさは測りしれない。

弁護人らは、被告人ら3名が、政府に批判的な言論を封じ込めることを目的として行われた弾圧によって、令状逮捕され75日間にもわたって勾留され、その後も2年以上の長きにわたって被告人としての地位におかれ続けているという本件の実相を、最高裁が正しく理解し、憲法で保障された表現の自由との関係において本件を厳正に審理した上で、本件に刑法130条を適用することは違憲であるとの判断を示されるよう、強く求めるものである。

2 原判決の憲法31条違反

(1) 憲法31条の意義

憲法31条は、「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めるが、この規定はデュープロセスを定めたものといわれる。

つまり、①手続が法律で定められること(手続の法定) ②法律で定められた手続が適正であること(手続の適正) ③刑罰を科す実体法が法律で定められなくてはならないこと(実体の法定~罪刑法定主義) ④刑罰を科す実体法が適正であること(実体の適正)をその内容とすると解するのが通説的見解である。そして、法令の規定が不明確・広汎であるときは、法律によって定めたものといえず、また、表現の自由を制約するものであるときは、表現行為に対して萎縮効果を及ぼすという問題を惹起するから、③及び④に抵触し、憲法31条違反が問題になる。また、④には、「規制内容の合理性」、「罪刑の均衡」、「不当な差別の禁止」などの諸原則が含まれると説明される。

最高裁も、徳島市公安条例事件判決(最大判昭和50年9月10日刑集29巻8号489頁)での、公安条例の「交通秩序を維持すること」の解釈や福岡県青少年保護育成条例事件判決(最大判昭和60年10月23日刑集39巻6号413頁)での、同条例の「淫行」の解釈において、処罰の範囲が不明確でないから合憲という判断をとることによって、憲法31条が③④の内容を含むことを前提にしている。

また、猿払事件(最大判昭和49年11月6日刑集28巻9号393頁)では、「罪刑の均衡等からいって著しく不合理で、到底許容しがたいもの」であれば、31条違反になるという枠組みを示し、31条の内容として④が含まれることを認めている。

そして、憲法31条が実体の法定、実体の適正をも保障する趣旨は、「一方では『法律』という手段で権力に歯止めをかけ、権力者の恣意を抑えることが期待され、他方では『法律』によって市民に対し事前の警告を発し自己防衛をする余地を与える」(奥平康弘『憲法Ⅲ』・148頁)ことにある。したがって、法律がそれまでと全く異なる、予測不可能な形態で適用され場合、憲法31条に反する事態となる。

(2) 原判決の判断

原判決は、被告人らの立入行為について、「人の看守する邸宅」への侵入として住居侵入罪が成立するとした上で、弁護人の、商業的宣伝ビラ等を投函する投函者の立入行為や敷地内を通学のために通行する児童・生徒の立入行為も「侵入」にあたるとすることは妥当でないとする主張に対して、「禁止事項表示板・表示物の記載文言からすると、少なくとも商業的宣伝ビラ等を投函するための立入りはこれを許さない趣旨と解される」(15頁)と判示した。

この判示によれば、被告人らのビラ投函に伴う最小限度の立入行為も、それと同様の態様による商業的宣伝ビラ投函に伴う立入行為にも、刑法130条規定の犯罪が成立するということになる。

(3) 本件における問題点

刑法130条自体は、必ずしも「不明確」な規定とはいえないので、本件に刑法130条を適用したことは、これまで「表現の自由と法律の明確性」ということで論じられてきた問題とは、必ずしも同一の問題ではない。

しかし、一戸建て建物、集合住宅の区別を問わず、設置されているポストにきわめて多種多様のビラが、毎日のように投函されていることは、公知の事実である。およそ共同住宅にビラ投函をするときには、住居の共用部分に立ち入らざるを得ない。また、共同住宅の出入口付近に、本件の掲示と同様の「第三者の立入」を禁止する掲示がなされていることが多いものの、「そうした(弁護人注・「出入口付近に立入禁止の貼り札をした」の意)共同住宅においても、しばしば立入禁止の表示に反して、集合郵便受けや玄関ドア郵便受けに商業的宣伝ビラ、時にはいかがわしい内容が記載されたいわゆるピンクチラシが投函されていることもあるが、おおむね放置されているのが現状である」(一審判判決)というのが、ビラ配布、投函の実態である。この実態を受けて、一戸建て建物であると集合住宅であるとを問わず、各戸へのビラの配布、投函のための立入行為は、違法と認識されることはなく、社会的にも是認されている行為である。被告人らの認識においても同様であった。

このように、ビラ投函のための立入という一般に広く行われ、社会的に是認されている行為に対して、ビラ投函のための立入行為に対して刑法130条を適用することは、不意打ちであり、全く予測不可能な自体である。「事前の警告」を欠き、「自己防衛の余地」を奪うものである。

本件のように、ビラ投函のために必要な最小限度の穏当な立入行為について住居侵入罪が成立するとすれば、集合住宅について戸別ビラ投函を禁ずる新たな規制を作るのと同じ効果が生じる。端的にいえば、原判決で被告人らに有罪の判決が下されたことによって、今や、有罪とされる危険性を頭の片隅に置きながらでなければ、ビラ投函を行うことができなくなってしまったのである。これは、特に、政治的な内容のビラ投函を行おうと考える人たちに広く認められる。憲法21条について論じた項で詳述してきたとおり、本件によって、本来合憲的に行うことのできる表現行為をも差し控えさせてしまう萎縮効果が現実に生じたのである。

これは、いわば、住居侵入罪が言論弾圧のために「目的外使用」されたことによって生じた効果である。ビラ投函は、一般的に広く許容されている情報伝達手段であり、かつ、大衆にとってきわめて重要な表現手段である。大都市圏において集合住宅が増加している中で、公安警察・検察庁の表現弾圧の意思を追認する高裁判決がこのまま確定するようなことがあれば、裁判所が、予測可能性を欠く刑法の適用を行ったことになる。これは、憲法31条の趣旨のうち、③及び④に抵触する。

このような刑法130条の適用は、刑法の安定した適用を害するものであり、憲法31条に抵触することは明白である。【文末補足説明※5参照】

第3 原判決の最高裁判例違反~可罰的違法性の不存在

原判決は、被告人らの行為に可罰的違法性がないという一審判決の判断を覆し、違法性阻却を認めなかった。しかし、この判断は、可罰的違法性に関する基準を示した最高裁判例(久留米駅事件判決)に反するものであり、破棄を免れない。

1 原判決の判断

原判決は、違法性阻却について、① 構成要件該当性が認められた場合でも、違法性が阻却される場合があること ② その際、考慮されるべき要素としては、動機の正当性、行為態様の相当性、法益侵害の程度があること、を認めている。その上で、「本件各立入行為について、刑法130条を適用してこれを処罰しても憲法21条に違反するということにもならない」として動機の正当性を否定し、防衛庁の宿舎管理者が対策をとっていたこと、被告人らが玄関ドアポストにビラを投函したこと、居住者2名から抗議を受けたことなどを理由として、行為態様が相当性を逸脱したと認定し、居住者らのとった対策、受けた不快感、管理者のとった対応からすると法益侵害の程度も軽微とは言えないとして、「いわゆる可罰的違法性を欠くとして違法性が阻却されるとはいえない」と結論づけた。

2 一審判決の判断

これに対して、一審判決は、「一般に社会通念上の違法有責行為類型たる構成要件に該当する行為は、それ自体、違法性の存在が推定されるというべきである。しかし、構成要件に該当する行為であっても、その行為に至る動機の正当性、行為態様の相当性、結果として生じた被害の程度等諸般の事情を考慮し、法秩序全体の見地からして、刑事罰に処するに値する程度の違法性を備えるに至っておらず、犯罪が成立しないものもあり得るというべきである。」として(20頁)、構成要件に該当する行為といえども、違法性が認められない場合があるという前提に立ち、被告人の各立入行為につき検討している。

一審判決は、まず、動機について、「被告人らは、テント村の活動の一環として、自衛隊のイラク派遣に関する同団体の見解を自衛官らに直接伝えるため、同団体が発行したビラを立川宿舎各室玄関ドアポストに投函する目的で、同宿舎に立ち入ったもの」と認定し(20頁)、ビラの具体的内容を検討して「1つの政治的意見」と評価し(21頁)、「動機自体は、テント村の政治的意見の表明という正当なものである。」とした(22頁)。

次に、態様について、ビラ投函に伴う立入りの頻度、人数、時間帯、手段、ビラ投函の際の行動、滞留時間などから、「態様自体は、立川宿舎の正常な管理及びその居住者の日常生活にほとんど実害をもたらさない、穏当なものといえる。」とし(24頁)、「居住者のプライバシーを侵害する程度は相当に低いものとみるべきである。」と評価し(26頁)、これまでのテント村によるビラ投函の実績や貼り札の形状、被告人らと居住者の応酬の経緯からして、「被告人らがことさらに居住者・管理者からの反対を無視して各立入行為に及んだとはいえない。」として(26頁)、「態様について、相当性の範囲を逸脱したものとはいえない。」と判断した(29頁)。

結果については、「立ち入ったことによって生じた居住者及び管理者の法益の侵害は極めて軽微なものというべきである。」とした(31頁)。

以上の検討に加えて、一審判決は、憲法21条1項にも言及した上で、「被告人らが立川宿舎に立ち入った行為は、法秩序全体の見地からして、刑事罰に処するに値する程度の違法性があるものとは認められないというべきである。」と結論づけた(32頁)。

3 原判決のおかしさ

毛利透が、「高裁判決は、上で批判した一般論に続けて、被告人らのビラ投函のための立入りが相当な範囲内とはいえず、また法益侵害も極めて軽微とはいえないと判断している。しかし、ここでは一般論で示された姿勢に影響され、住居侵入による法益侵害と表現の自由保障の必要性とを衡量する態度が見られない。しかし、当然のことながら、どの程度の行為が可罰的となるかは、その行為の憲法上の価値と関連しており、この点を抜きにして違法性論を進めることはできないはずである。」(毛利意見書・3頁)と指摘しているように、原判決は「表現の自由が尊重されるべきことはそのとおりであるにしても、そのために直ちに他人の権利を侵害してよいことにならない」という一般論にのめり込み、住居侵入罪で刑法が保護しようとする法益と、表現の自由を保障することによって得られる利益を比較衡量しようという態度が全く見られない。

4 久留米駅事件判決

最高裁諸判決が引用あるいは参照する久留米駅事件は、最高裁大法廷が、1973(昭和48)年4月25日に下した判決である。

検察官は控訴趣意書において、あえて、この大法廷判決を先例として紹介せず、無視するが、同判決は、「勤労者の組織的集団行動としての争議行為に際して行われた犯罪構成要件該当行為について刑法上の違法性阻却事由の有無を判断するにあたっては、その行為が争議行為に際して行われたものであるという事実をも含めて、当該行為の具体的状況その他諸般の事情を考慮に入れ、それが法秩序全体の見地から許容されるべきものであるか否かを判定しなければならないのである。」として、違法性阻却事由の判断の一般的基準を示している(刑集27巻3号)。

同判決の判例解説は、「およそ刑法上の違法性阻却事由の有無の判断が行為の個別的、具体的事情に基づきつつ、法秩序全体の観点から行われるべき性質のものであることは、ここにあらためて説くまでもない。」(昭和48年最高裁判例解説・178頁・大久保太郎)とあるように、可罰的違法性ないし実質的違法性の判断枠組みを大前提としている。

「諸般の事情」を考慮に入れて、「法秩序全体の見地」から違法性判断を行うというこの基準は、「久留米駅事件方式」と呼ばれ、その後の事件に広く適用され、判例上定着するに至った。このことは、検察官が控訴趣意書で引用する判例を概観すれば明らかである。また、「この『久留米駅事件方式』は、その基準が一般的なものであるだけに、公労法違反の争議に際して行われた行為の可罰性の判断基準として広く用いられるようになっただけでなく、民間企業の一般の争議行為についても(さらにはそれ以外の事件についても)、その可罰性判断の基準として採用されることになり、判例上定着をみるに至ったのである。」(別冊ジュリスト33号・山口厚)と指摘されている。

たとえば、弁護人の弁護活動に関連する言辞が名誉毀損罪に問われた、いわゆる丸正事件では、弁護人が被告人のためにした行為につき刑法上の違法性阻却を認めるための基準が論点の1つとなったが、最高裁は「その行為が弁護活動のために行われたものであるだけでは足りず、行為の具体的状況その他諸般の事情を考慮して、それが法秩序全体の見地から許容されるべきものと認められなければならないのであり、かつ、右の判断をするにあたっては、それが法令上の根拠をもつ職務活動であるかどうか、弁護目的の達成との間にどのような関連性をもつか、弁護を受ける刑事被告人自身がこれを行った場合に刑法上の違法性阻却を認めるべきかどうかという諸点を考慮に入れるのが相当である。」(最高裁1小昭和51年3月23日決定・刑集30巻2号229頁)とした。この判断基準については、その判例解説において、「他の権利行為を根拠とする違法性阻却の場合と同様に、弁護権本来の内容に含まれる内在的行為とそれを実効あるものとし又は意義あるものとする手段的行為とを区別することが必要だと考えられる。内在的行為については、それ自体が権利であるから、原則として、違法性の阻却が認められるべきであるのに対し、弁護権の手段的行為については、手段の面での正当性の存在も要求されるため、それが弁護権の行使のために必要なものであり、かつ法秩序全体の精神からみて許容される相当な方法と認められる限度で違法性の阻却が認められるにとどまるからである。」と説明されている(昭和51年最高裁判例解説・109~110頁・香城敏麿)。

また、沖縄返還協定に関する取材が、国家公務員法の秘密漏洩のそそのかしにあたるかどうかが問題になった、いわゆる西山記者事件で、最高裁は、「報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。」と基準をたてた上で、取材行為が違法性を帯びる場合として「取材の手段・方法が贈賄、脅迫、強要等の一般の刑事法令に触れる行為を伴う場合はもちろん、その手段・方法が一般の刑罰法令に触れないものであっても、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する等法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合にも、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びるものといわなければならない」として(最高裁1小昭和53年5月31日決定・刑集32巻3号457頁)、実際には、「違法性の有無の判断に際し、その一要素として性倫理の問題がとりいれられ」(昭和53年最高裁判例解説・174頁・堀籠幸男)、有罪との判決が下された。

5 違法性について検討すべき要素

では、具体的事例について、「刑罰に値する程度の違法性が存在するか」を判断するに際しては、どのような要素を検討するべきか。

この点については、大法廷判決であり、その後の判例変更がなされていない「久留米駅事件」方式によるべきである。同判決は、前述のとおり、争議行為に際して行われた構成要件該当行為について、その行為の性質を含めて、「当該行為の具体的状況その他諸般の事情」を考慮し、「法秩序全体の見地から許容させるべきものであるか否か」を判定しているものである。

ただし、同判決においては、その考慮要素については、必ずしも明確にはされていないが、その後の裁判例では、「社会通念上必要かつ相当な行為」であるか、「目的の正当性、行為態様の相当性、必要性」が認められるかなどの基準が立てられてきた。また、可罰的違法性論に関する包括的な研究として知られる前田雅英の「可罰的違法性論の研究」では、判例の分析結果として、①結果・手段の軽微性 ②目的の正当性 ③手段の相当性 ④法益衡量 ⑤必要性・緊急性などの要素が掲げられる。

一審判決は、①動機の正当性 ②行為の相当性 ③法益侵害の軽微性の3つの要素をあげ、それらを総合し「法秩序全体の見地」から違法性について判断している。これらの要素は、前述した従来の判決の流れとも適合する妥当なものであり、原判決もその枠組みを否定するものではないから、以下、この判断要素に従い、被告人らの行為にいささかの違法性も存しないことを論じる。

6 本件へのあてはめ

(1) 動機の正当性

ア 原判決の判断

動機の点に関して、控訴審段階で、検察官は、「政治的意見を表明するために他人の住居に無断で侵入することが許されるか」という問題設定をし、「政治的意見の表明のために他人の住居に侵入する必要はなく、居住者に他人の意見の発表を受け入れる義務はない。思想を外部に発表するための手段であってもその手段が他人の権利を不当に侵害することは許されない」と主張し(控訴趣意書・5頁)、原判決も、「表現の自由が尊重されるべきことはそのとおりであるにしても、そのために直ちに他人を権利を侵害してよいことにならないことはもとよりである。本件のビラの投函行為は、自衛官に対しイラク派遣命令を拒否するよう促す、いわゆる自衛官工作の意味を持つものであることは、ビラの文面からも明らかであるが、ビラによる政治的意見の表明が言論の自由により保障されるとしても、これを投函するために、管理権者の意思に反して邸宅、建造物等に立ち入ってよいということにはならないのである。つまり、検察官の所論が主張するように、何人も、他人が管理する場所に無断で侵入して勝手に自己の政治的意見等を発表する権利はないというべきである。したがって、本件立入り行為について刑法130条を適用してこれを処罰しても憲法21条に違反することにもならないと解される。」と判示した。

名誉毀損に対して刑事罰があり、民事上も損害賠償や謝罪広告などが認められていることを考えれば、表現の自由は民主主義社会の根幹をなすものとして最大限尊重されるべきものではあるとしても、絶対的なものではないことは明らかである。従って、表現の自由があるからといって、直ちに他人の権利を侵害してよいことにならないことは、当然のことである。

本件ビラ配布行為が、他人の権利を侵害したと言えるかということ自体が問題であるが、仮に他人の権利を侵害したとしても、必ずしもそのたびにペナルティを科す必要はないし、何らかのペナルティを科す必要が生じたとしても、それは刑事罰に限られるものではないことは言うまでもない。

原審答弁書で指摘したように、現在の日本社会はビラ社会であり、自分には関係のないビラが配布されることについては迷惑だと感じることも少なくないが、通常は読まずに捨てるだけであり、配布者などに何らかのペナルティを科す必要があるとまで考える人は殆どいない。

原判決の上記判示は、そもそも立入が禁止された場所でのビラ配布に対するペナルティが刑事罰しかないという前提に立ったときに初めて容認できるものであり、表現の自由の重要性を考慮すると、根本的に誤っている。

イ 立論のおかしさ

一審判決は、処罰に値する程度の違法性の有無について判断するための要素として「動機の正当性」というファクターがあること、被告人らの行為を「動機の正当性」という観点から虚心にみれば、いかにも正当性が認められるということを、単純に指摘した。しかし、検察官、高裁裁判所はそれを理解しない。

検察官は、原水協ビラはり事件(最高裁大昭和45年6月17日判決・刑集24巻6号280頁)と吉祥寺駅構内ビラ配布事件(最高裁3小昭和59年12月18日判決・刑集38巻12号3026頁)を参照して、「たとえ思想を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の権利を不当に害するごときものは許されない」とするが、2つの判例は、「他人の権利を不当に害することはできない」という当然のことを前提として、具体的事案に即して、(他者の法益を守るため)刑罰を科すことが「表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限」といえるかを判断しているものである。

表現の自由が絶対無制限に保障されるものでないことについては、争いないところであろう。その意味で、「居住者に他人の政治的意見を受け入れる義務はない」のは、当然である。しかし、被告人らは、自己の政治的意見そのものの受け入れを居住者らに求めているのではなく、自己の政治的意見を表明したビラを投函するために建物の共用部分に必要最小限度の立入を行ったにすぎないのである。

ウ ビラ投函という動機

本件立入行為の動機はビラ投函であり、被告人らは、ビラを投函することによって、自衛隊のイラク派兵に対する反対の意思を表明するとともに自衛隊関係者に情報を提供することを意図していた。これは、まさに、憲法21条によって保障された表現の自由の行使である。

検察官は、ビラの内容が危険思想であること、被告人らが過激な手段に及ぶ意図があることを、立入行為の違法性を強める要素であるという(控訴趣意書・6頁)。しかし、このような主張は、検察官が前提とする、違法性について実質的な解釈を入れないという立場と矛盾するものである。

また、一審判決は、ビラの内容が「1つの政治的意見」であること、被告人らが(ビラ投函に際して)「何らの不当な意図も持っていなかったこと」が、動機の正当性に関係してくるという限度で、ビラの内容やテント村の性格について触れているのであり、検察官がいうように、その2つの事実を、動機の正当性を認める根拠としているわけではない。

一審判決が認定したように、被告人らのビラ配布の目的は、「テント村の活動の一環として、自衛隊のイラク派遣に対する同団体の見解を自衛官に直接伝えるため、同団体が発行したビラを立川宿舎各室玄関ドアポストに投函する目的」(20頁)のみであり、それ以外になかった。

検察官は、「いうまでもなく、本件は、被告人3名が自衛隊のイラク派兵に反対との政治的意見を持つこと自体について刑事責任を問うものでないし、また、そのような政治的意見を表明することについて刑事責任を問うものでな」い(控訴趣意書・5頁)と述べる。

しかし、集合住宅の玄関ドアポストにビラを投函する目的だけを有し、その目的実現のために必要不可欠な限度で共用部分に立ち入った行為について、「住居侵入罪」をもって問擬することは、実質的には、住居侵入罪を利用して、民主主義社会において存在してはならない「ビラを配布することを禁止する罪」というのを作り出していることに他ならない。

エ 「自衛官工作」について

原判決は、本件ビラの投函行為は、「自衛官に対しイラク派遣命令を拒否するよう促す、いわゆる自衛官工作の意味を持つものである」旨判示する。

政治的なビラに限らず、あらゆるビラは、ビラ作成者の意見等への賛同・共感などを得ることを目的としており(商業ビラでも、ある商品やサービスに興味を示させ、さらに進んで商品を購入したい、あるいはサービスの提供を受けたいという気持を起こさせることを目的としている)、その意味では全てのビラが「工作」を目的としている。また、ビラにとどまらず、「民主主義社会において自己の意見を表明して他者の思考に対し影響を与えようとする行為が許され、かつ強く保障されるべきであるのは当然である。最高裁も外務省機密漏洩事件判決(最1小判昭和53年5月31日刑集32巻3号457頁)で、報道記者が公務員に対し、秘密漏洩をそそのかす行為につき、取材の自由の価値からして『報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会通念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠』くと述べている。ビラ配りが公務員に対する働きかけとして是認される行為であることは、言うまでもない。」(毛利意見書・10~11頁)

しかし、原判決のいう「自衛官工作」なる文言は、そのような「働きかけ」の意味で使われているのではないことは明らかである。即ち、原判決は、自衛隊のイラク派遣という政府の政策への反対意見を問題としているのであり、ビラの内容を問題にし、これを規制することを正当化しようとしている。しかし、ビラの内容を判断してポスティングを事前に規制することが許されないことは言うまでもない。原判決は、政府にとって都合の悪いビラの配布を取り締まろうとしているのであり、まさに表現の自由に対する侵害を容認するという根本的な誤りを犯している。

(2) 行為態様の相当性

ア 原判決の判断

検察官は控訴趣意書において、本件行為態様についての一審判決の判断(①被告人らの各立入り行為の態様自体は、立川宿舎の正常な管理及びその居住者の日常生活にほとんど実害をもたらさない、穏当なものといえる。② 被告人らの本件各立入り行為が居住者のプライバシーを侵害する程度は相当に低いとみるべきである、③ 被告人らがことさらに居住者、管理者からの反対を無視して各立入り行為に及んだとは言えない)について、逐一反駁した。しかし、検察官の主張は、行為態様の相当性の範疇で検討すべき要素を無視し、逆に、検討すべきでない事項を取り込むものである。

原判決も、一審判決の上記判断について、「平成15年12月の自衛隊イラク派遣の閣議決定以降、さらには、同年12月13日ころなされたテント村関係者による立川宿舎へのビラの投函を受けて、これを防止するためなどに防衛庁の宿舎管理者らが様々の対策を取り、禁止事項表示板・標示物を設置・掲示し、居住者にも注意を喚起したことは、前述のとおりであること、いずれの場合にあっても、被告人らは、立川宿舎の敷地に立ち入った上、各号棟の階段を1階出入口から4階の各室玄関前まで立ち入って、各室ドアポストにビラを投函したこと、また、2004年1月17日においては、被告人らが、居住者らからビラ回収の指示及びビラ投函が禁止されていることの抗議等を受けながら、その日、その居住者の目の届かないところで、引き続きビラの投函を続行し、居住者からこのような抗議等を受けた事実を被告人3名とも認識するに至っていたのに、さらに同年2月22日にも、同じ行為を繰り返していることなどに照らすと、上記①ないし③の判断は是認できない。」と判示する。

イ 立入行為の態様

被告人らの立入行為は、フェンスなどを乗り越えたものでもなければ、閉ざされていた門扉をこじ開けて入ったものではなく、居住者を追尾してオートロックのドアを通り抜けたりしたものでもない。本件自衛隊宿舎1~8号棟部分は、一部金網フェンスで囲まれてはいるものの、門扉は存在せず、出入口は8ヶ所あり(幅約6~9m)、出入りを監視する者もおらず、自由に出入りできる。本件宿舎の敷地は、外界に開かれたスペースとして存在しており、被告人らは、門扉の設備のない出入り口から普通に徒歩ないし自転車で、宿舎敷地に立ち入った。また、玄関前までも門扉のない各棟1階出入り口から、徒歩で階段を昇降している。

そして、被告人らの本件宿舎への立入りの頻度は、毎月1回程度にとどまり、立ち入った時間帯も、白昼であった。また、短時間でビラを全戸に投函するのに必要な3名程度で、ビラ投函を行っており、多人数で押し掛けたりしたことはなかった。

また、被告人らは、居住者などに面会を求めたりせず、外から玄関ドアポストにビラを投函するだけでその場を立ち去っていて、立ち入った場所は、外部の者も立ち入ることが予定されている共用部分だけだった。投函されたビラも1戸あたり1枚(外部からみて明らかに不在と思われる居室には投函していない)のみであった。

さらに、被告人らが敷地内に滞在するのは、ビラ投函の所要時間の30分程度にすぎず、その間もビラ投函をするだけで、ことさら目立つ行動をするなどして、周囲の静謐を害したことは全くない。

以上の事実は、被告人の行為態様の平穏性を認定する際、一審判決があげた8点とほぼ重なる(23~24頁)。

これに対して、検察官は、「強盗犯、窃盗犯が犯行の下見に行く場合も同様の事実が認められる場合があるのに、どうしてそれら要素で『実害をもたらさない、穏当なもの』と評価できるのか全く理解し難い」と難癖をつける(控訴趣意書・7頁)。

しかし、行為の態様が穏当なものであるかは、目的・動機と関わりなく行為の外観から判断できることである。下見のような不法な目的を有していれば、行為の動機に問題があることになり、違法阻却はありえないことになり、不都合はまったく生じない。

被告人らの行為は、他の人の立入りと比較しても、態様において普通であり、穏当である。たとえば、ポスティングのための団地やマンション敷地内への立入行為は、商業的宣伝活動の目的で、宅配ピザや寿司や不動産・個人ローン等の業者がチラシを配布するためや、自らの主義主張を広く知らせる目的で、政党や宗教団体等がビラを配布するために、日常的に行われており、これが犯罪行為に該当するなどと考えるものはいない。立川宿舎も同様で、ビラ配布のために、さまざまな配布者が敷地内に立ち入っていることは、一審における居住者証言などから明らかである。本件立入行為は、それらの配布者の立入行為と何ら変わるところがない。

一審判決が正しく認定したように、「被告人らの立入行為は、暴力や騒音を伴うものではないのはもちろん、社会で一般にみられる、居住の玄関先まで訪れるのみならずインターホンを鳴らすなどして居住者を呼びだし、面談を求めるいわゆる訪問販売や各種勧誘行為、いきなり個々人に架電して応答を促す電話による勧誘などに比して、居住者に被らせる迷惑は少ないといってよい」(24頁)のである。

毛利透は、「本件のような市民による直接の政治活動の場合、相手にコミュニケーションを拒む機会が十分に存在したか否かが、その表現行為としての正当性、裏から言えば住民の居住権侵害の可罰性の程度をはかる上で重要となる。そして、本件ではビラは各戸に投函されたにとどまり、誰も議論を強要されていない。これは、明らかに意見の表明として適正な程度にとどまっている。立入りが共用部分にとどまっているのも、被告人らが自分の意見を知らせることのみを求め、居住者に自己の意見を押しつけようとはしなかったことの現れである。このように、表現の自由の穏当な行使にとどまり居住者のプライバシーをことさらに侵害しない行為は、原則として不可罰にとどめるべきだというのが、1および2で考察した表現の自由保障の論理からの帰結であることはいうまでもない」(意見書・7頁)と指摘するが、まさに正鵠を得ている。

本件立川宿舎の1~8号棟東側とフェンスの間の部分は通学・通勤などの通路として利用されている。すなわち、本件立川宿舎東側道路は、8号棟より北の道路には歩道があるが1~8号棟東側道路には歩道がないため、通学・通勤時に北側歩道から南下してきた小学生・中学生などは歩道から本件立川宿舎敷地内に入り込み、上記部分を通路として利用している(北上する場合には、敷地内の上記部分を抜けた上で歩道を利用している)。原判決によれば、これらの小中学生も住居侵入罪を、日々、犯していることになる。

ウ 「実害」について

原判決は、立川宿舎の正常な管理にどのような実害が生じたと考えているのか全く不明である。

検察官は、テント村の継続的なビラ投函によって、管理者は、「立入りを防止する対策を講じることを余儀なくされていた」ことなどを指摘して、「管理や居住者の日常生活に対し、実害をもたらすに十分なものであ」ると主張し(控訴趣意書・9頁)、原判決も、管理者らが貼り札などの措置をとったことなどの事情にも照らすと、被告人らの立ち入り行為によって生じた管理者らの法益侵害の程度が極めて軽微なものであったとはいえないとして、これを支持する。しかし、管理者のとった「対策」は、その実情を見れば、専ら「反自衛隊的ビラ」の投函を規制することを目的としたものであって、このことは、立入行為が穏当かどうかということとは全く無関係である。

たしかに、2003年12月になって、フェンス出入口に禁止事項を記載した掲示板が設置され、各階段1階の掲示板にも立ち入り禁止などの貼り札が掲示されている。もし、被告人らによる本件ビラ配布行為がなければ、そのような掲示などをする必要はなかったというのであれば、管理者は余計な仕事をさせられたのであり、実害があったと言えるかもしれない。しかし、そうだとすれば、管理者は、住居侵入の保護法益とされる住居の平穏を守ろうとしたのではなく、住居侵入の名目で、本件ビラの内容を規制しようとしたものである。

ビラの内容に関係なく、ビラ入れ目的の立入を禁止する必要があったのであれば、そのような措置はとっくの昔に実施されていなければならないことである。しかるに何十年にもわたって何らの措置もとられていなかったことは、長年にわたって管理上も何らの不都合も生じていなかったことを物語っている。2003年12月時点でも、以前と特に変わった状況はなかったのである。

本件立入行為は、いずれも、土曜日の昼前に行われたものであり、時間的にも約30分間である。態様も、被告人大西と被告人大洞は徒歩で、被告人高田は自転車で、門扉などはなく常時開いている出入口から、普通に出入りしたにすぎないし、本件敷地内に入った後も、ただビラを配布しただけで、居住者に話しかけたり面会を求めたりしたこともない。このような状況での立入行為が居住者の日常生活に対し何らかの実害を与えるということは考えられないし、何らかの実害が生じたという証拠もない。

原判決は、一審判決の実害を与えていない旨の判断を是認できないと判示するが、何らの理由もあげずにただ是認できないと述べているにすぎない。

エ プライバシー侵害の程度

被告人らが各室玄関前まで立ち入ったことは事実であるが、たんにドアポストにビラを投函しただけで、ドアをノックしたりブザーを押したりして面会を求めるような行為は全くしていないのであって、居住者のプライバシー侵害行為は全くなかったことは明らかである。

立入行為の態様は、日常的に行われているごく普通の態様であり、プライバシー侵害などはあり得ない。一般に、プライバシーとは、私事をみだりに公開されない権利と言われているが、その意味では、一審判決の「居住者のプライバシーを侵害する程度は相当に低い」旨の判断も誤っているというべきである。この点は原判決も同様であって、原判決は、どのような形で居住者のプライバシーが侵害されたのか全く指摘していない。

本件ドアポストは、各戸に設けられた情報を受け取るための「外界に開かれた窓」として存在するものであり、そこに各人が情報の受領を拒否する意思を明示していない以上、各居住者は情報を受領することを黙認していると考えるのが当然である。とすれば、この情報受領に当然に随伴する行為はプライバシー侵害と評価されるべきでない。

一審判決も、「居住者及び管理者においても、関係者以外の者が同宿舎敷地内に立ち入り、場合によっては各室玄関前まで立ち至ることは十分に予期していたはずである」と認定している(25~26頁)。

実際にも、一審で明らかになったように、本件ドアポストには、禁止事項の貼り札が掲示された前後を通じて、テント村のビラの他にも宣伝ビラが投函されていたし、貼り札掲示後に、宗教の加入を目的とする外部者が居住者に面会を求めたこともあった。

検察官は、「対策」をとっていたことを持ち出すが、「対策」の有無は、行為態様の中で検討すべきプライバシー侵害の程度とは、まったく無関係な事項である。

一審では、居住者からの要請・「対策」という外見をとりつつ、実際には公安警察主導で本件ビラ投函行為の摘発が行われたことが、明らかになった。

被害届の提出についてみると、防衛庁の管理権を代行していた者の一審における供述によれば、イラク派兵の実現化に係る警備強化のために立川警察署の警察官と思われる者が自衛隊に来て「何か(問題は)ないか」と言われたので、テント村のビラの話をしたところ、「是非被害届を出してくれ」と言われ、上司と相談して被害届を提出することになり、2003年12月13日のビラ投函について、警察官が自衛隊の事務所まで、署名捺印すれば完成する状態になっていた被害届を持参したので、署名捺印して提出している。

また、本件で問題にされた2004年1月、2月のビラ入れが行われる前に、入口と階段部分に「掲示」がなされた直後の、2003年12月24日には、実況見分調書が作成され、テント村が翌月以降もビラ投函を行うことを予定した捜査がなされている。

防衛庁側は、被害届の提出や掲示の貼出し、通知の配布を、ビラ投函に対する「対策」であると強弁する。しかし、上記の事情からは、被告人らは、公安警察主導で作られた「罠」の中に飛び込んでしまったというのが、本件の実情であることが分かる。このことは、まさしく、本件捜査・起訴の目的が、ビラの発行主体である立川自衛隊監視テント村とその周辺の動向を調査し、最終的には、運動に介入して全国的な反戦活動を抑圧することにあったことを示している。

オ 居住者及び管理者の反対の意思表示との関係

検察官は、貼り札の存在、居住者からの注意を根拠として、被告人らの立入行為が、居住者及び管理者の反対の意思表示をことさら無視したものであると主張し(控訴趣意書・10頁)、原判決もこの点を重視するようだが、この点は、そもそも、「侵入」にあたるかという構成要件該当性の部分で論じられるべき事項である。

貼り札についてみると、一般の共同住宅においてよく見られる立入禁止の表示と変わったところはなく、本件では目につきにくい場所に、注意を喚起しにくい方法で掲示されており、一審判決が認定するように「外形上、立ち入り禁止につきさほど強い警告を与えるものとはいえ」なかった(28頁)のである。

毛利透が指摘するように、「「宿舎地域内での禁止事項」として「ビラ貼り・配り等の宣伝活動」を挙げる表示板や表示物は、第一審判決のいうように、多くの共同住宅出入口付近に設置される表示と変わるものではない。このような掲示があっても、一戸建て住宅なら許されるような単なるビラ配りは通常許されている。本件でも、この掲示を、共同住宅の居住者全員が一切のビラを欲しない旨の意思表示をしたものと理解するのはあまりに非現実的であり、実際にもそのような趣旨の決定がなされたわけではない。居住者の生活に支障をきたすような宣伝活動はお断りするというのが、常識的な意味理解であろう。また共同住宅の場合、一戸建てとは異なり、各戸にビラを配布するにはどうしても敷地内の共用部分に立ち入らざるをえない。しかし、これは住居形態の特性からしてやむをえない通過であり、それが居住者による共用部分の使用を妨げていない限り、表現の自由行使に不可避的に付随する行動として許容されるべきである。当該掲示が本件立入りの違法性との関係でもつ意味は、このような共同住宅の特性もふまえ、穏当な表現活動を必要以上に制約しないような形で解されなければならない。この掲示の存在でもってビラ配りすべてを、つまり各戸に投函するのみで直接の個人的説得を伴わない形態のビラ配りまでも居住者が強く拒否していたと解釈することは、到底できない」(意見書・7~8頁)。

1月17日のビラ投函時には、被告人大洞と被告人大西は居住者から「注意」を受けている。

しかし、被告人大洞に「注意」した居住者は、ビラ投函が禁止事項であることしか言ってないし、被告人大西に「注意」した居住者も自分自身が迷惑だとは言わずに、管理人から注意するように言われている旨述べている。とすると、居住者の「注意」は、住居の平穏を害されたという意識のあらわれではないと見るべきである。

また、一審判決が認定したように、「自衛官らの中にもイラク派遣に関して多様な意見を有する者がいる可能性は否定できないのであるから、被告人らが受けた注意が居住者の総意に基づくものとはいえない」(29頁)のであり、被告人らが、その「注意」を「居住者の意思」ととらなかったことはきわめて当然のことである。

居住者と接触した際の被告人らの態度も常識的である。すなわち、被告人と話をした居住者は、被告人大洞に威圧感を感じたり、怖いと感じたことはないと証言した。被告人大西も、居住者から回収するように言われて、素直に従って、当該階段で配布したビラについては回収している。また、被告人大洞は、公判で、「居住者から正式な抗議があれば、ビラ投函をそのまま続行したとは考えにくい」と述べており、両人の対応にはなるべくトラブルを引き起こしたくないという態度が窺われる。

(3) 結果として生じた被害の程度

ア 原判決の判断

検察官は控訴趣意書において、一審判決は「立川宿舎の居住者及び管理者らが現実に感じた不快感を著しく軽視するものであって失当である。」と非難し(9頁)、原判決もこれを受けて、「原判決(第一審判決)は、被告人らが居住者及び管理者の意思に反して立川宿舎に立ち入った結果、『居住者、管理者ら立川宿舎関係者のうち、少なからぬ者が、ビラの内容が自衛官らに不安を与えるなどして、ビラの投函に不快感を抱くに至ったと思料される。』などとした上で、法益の侵害は極めて軽微なものであるとするのであるが、この点は、必ずしも首尾一貫しない判断と思われる。被告人らの本件各立入り行為の目的・態様、これに対して居住者らがとった対応及び受けた不快感が上記のとおりであったほか、テント村関係者によるビラ投函のために立川宿舎敷地などへの立入りが本件に先立つ2003年10月から月1回のペースで反復して行われていて、これに対して管理権者らが上記の措置をとっていたことなどの事情にも照らすと、被告人らの本件立入り行為によって生じた管理者らの法益侵害の程度が極めて軽微なものであったということはできない。」と判示する。

イ 不快感は法的保護に値するのか

原判決は、居住者らがビラの内容に不快感を覚えたと認定しながら、法益侵害の程度は極めて軽微なものとする第一審判決は首尾一貫しない旨批判する。

しかし、原判決の論理は、不快感が法益であるという誤った前提に立っている。

もちろん感情の中でも、法的保護に値するものがあることは否定できない。例えば、刑法231条の侮辱罪である。そこでは人の名誉感情が保護法益と解されている。

検察側証人らは、本件ビラについて、その内容が反自衛隊的であり、不愉快であるとか、迷惑であるとか証言した。しかし、本件ビラの内容は、自衛隊のイラク派遣という政府の政策を批判するものであり、自衛隊そのものを批判するものではないし、ましてや特定の自衛官やその家族を批判・非難したり、あるいは愚弄したり嘲笑したりするものではない。一緒に考え直してみようという論調のもので、威圧的でも威嚇的でもない。自衛官や家族の中には、本件ビラが勤務先である自衛隊を批判するものと受け止め、不快感を覚えたものがいたかもしれないが、それはそもそも本件ビラの読み方が誤っていると言わざるを得ず、そのような不快感は刑事罰をもって保護すべき法的利益とは言えないことは明らかである。そもそも、本件ビラ配布当時、自衛隊のイラク派遣についての国論は二分されており、本件ビラ配布以前から、イラク派遣の問題性や危険性は繰り返し報道されており、イラク派遣を批判する新聞や文書はちまたに溢れていた。本件ビラは、その内容や表現においてこれらのマスコミ報道と大差がないのであって、本件ビラがことさら「不安感」を煽るような特異な主張をしていた訳でもない。ことさら本件ビラのみを取り上げること自体が誤っている。

一審判決は、本件ビラを読んだ多くの居住者らの率直な感情を「不快感」と表現しただけのことであり、それが法的保護に値する利益に該当すると判断していた訳でないことは明らかであって、首尾一貫しないという原判決の批判は的はずれである。

ウ 「被害」は何か

検察官が、「被害」を何ととらえているのか、必ずしも明確ではない。

しかし、刑法上問題になる「被害」は保護法益が何かによって決定される。刑法130条の保護法益については、周知のとおり、争いがあるところであるが、保護法益については、いわゆる東大地震研事件において、「建造物の平穏」を保護すべき法益とし、これについて大槌郵便局事件において、何ら判例変更をしていないことからして、「住居・建造物の平穏」とみてよい。

そこで、被告人らの立入行為によって「住居の平穏」が害されたか否かを検討すると、本件立入行為は、宅配ピザや寿司などのビラ配布のための立入行為と外形的には何らの違いもなく、立入行為自体は日常的なものであり、被告人らの立入行為を見た者が、生活の平穏が侵害されたと感じるということはおよそ考えられない。

保護法益について「住居権」であると解した場合も、被害が生じたか否かの判断としては、同様の結果になることは明らかである。

居住者の中には、本件宿舎がプライベートな空間であることを強調する者もいる。たしかに、ドアポストへの投函の際に、ポスティングの音に気付き、何らかの思考や作業が中断されることはあり得る。しかし、そのようなことは、大音量の音楽、マイクによる商業宣伝・選挙演説、飛行機などの爆音などいくらでもあることで、多くの場合受忍せざるを得ないのである。

検察官は、本件ビラの内容について、「自衛官やその家族に向けての意見としては、十分に過激で挑発的なものというほかない。」(控訴趣意書・13頁)と主張するが、そのような評価は、独断的で全く根拠のないものであって、被害届は居住者個人からは1通も出ていない。

エ 「不快感」の本質

居住者の中には、本件ビラに対して不快感を持った者がいたと思われるが、しかし、2004年1月17日に、被告人大西及び被告人大洞が居住者から見咎められてビラの投函を止めるよう要求された以外は、その不快感は各個人の内心の意思にとどまっていたのであり、対外的に表明されたことはなかった。また、被告人大西及び被告人大洞に対して、ビラの投函を止めるよう要求した居住者の行動はいずれも個人的なものであり、一審判決が判示するように、立入行為が許されないとする理由としては、政治的意見を異にするビラ投函のためであるという程度のものにすぎない。自衛官らの中にも、イラク派遣に関しては多様な意見があることは否定できないのであって、被告人らが受けた注意は、立川宿舎の居住者の総意に基づくものとは言えない。

原判決は、管理者の反対の意思なるものは、禁止事項表示板・標示物の設置・掲示で行われていた旨認定しているが、一審判決が認定したように、出入口フェンスの貼り札はさほど目に付きやすいものではなかったし、1階階段出入口掲示板の貼り札は居住者以外の者はあまり気に留めないものであった。さらに重要なことは、本件禁止事項表示板・標示物は、一般のマンションなどで見られる立入禁止の表示と特に変わったところはなく、かつ立入禁止の掲示がなされていても、オートロックのマンションであればともかく、そうでないマンションなどでは、掲示を無視して商業ビラなどが郵便受けなどに配布されているのであって、本件禁止事項表示板・標示物に格別の意味を見いだすことはできない。本件の場合でも、表示板・標示物の設置後も、被告人以外の者も立ち入っていたことは記録上明らかである。

本件言論を規制する際の対立利益として、居住者の「ビラを受け取りたくない」という利益を仮に考えることができる。

しかし、これは、表現の自由の制約根拠となる「プライバシー権」とは異なる事実上の利益にすぎない。また、これは、住居侵入罪の保護法益である「住居において平穏に生活する権利」とも異なる。もちろん、個々の居住者がビラ投函に対して拒否の意思表示をすることは自由である。その意思表示は、個々のポストに「ビラを入れないでほしい」というステッカーを貼るなどの方法によって行うことができる。しかし、このステッカーを貼っていたからといって、常識的に考えて、ビラ投函をされたことを原因に、民事的な損害賠償を請求することはできないはずである。刑法の謙抑性からいって、民事で保護されない利益について、刑事で保護されることは、考えられないのであって、表現を受け取らないという効果を実現するために、国家が、ビラ投函に伴う立入行為を住居侵入であるとして、刑罰を科することは許されない。

現代社会は、個々人にとっては無価値なものも含む多数のメッセージが飛び交うメッセージ社会となっている。もちろん、情報の送りつけが受け手の権利に抵触するような場合、そのメッセージの送付が問題とされることはありうる。しかし、ビラを投函されることは、現代社会の中では社会生活に随伴する軽微な不利益にすぎず、しかも、ビラ投函を受けた者は、ビラを捨てる・捨てない、読まない・読むという選択をする自由がある。本件宿舎においても、ビラを不要だと感じる人、不愉快だと考える人は、そのままビラを捨ててしまっているのが通常であることを、居住者自身が認めている。仮に意に添わない内容のビラ投函があり、それにより一部の居住者らに「不快感」が生じたとしても、そのことは「ある種の生活の慣行として受忍」されているといってよいのである。

民主主義社会では、各個人に情報の処分権がゆだねられていることを前提に、それぞれに「寛容」が求められている。何でも警察に持ち込んで公権力に判断をゆだねる社会ではなく、寛容と自律が根幹にある社会が、現行憲法下ではめざされてきたのではなかったのか。

オ 漠然とした危惧感

検察官は、「ビラの投函以上の過激な行為に出て何か不測の事態が生じるのではないかという不安を感じ、子供を含む家族にも危険が及ぶのではないかと危惧するのも十分に肯ける。」(控訴趣意書・14頁)と主張し、原判決もこれも肯定する。

しかし、そのような漢然とした危惧感を根拠にして、言論の自由にかかわる行為が、刑罰をもって禁止されることになれば、表現の自由の保障は、まったく無に帰する。

一審判決が認定するように、「過去にテント村が暴力行為や破壊活動等周辺を害する違法行為に及んだことはなく、今回投函されたビラの内容も今後テント村がそのような行為に出ることをうかがわせるものではないことからすれば、前述の危惧についても根拠に乏しい」(31頁)のであり、漠然とした危惧感には全く合理性は認められない。

原判決は、一審判決が「投函したビラにテント村の連絡先が明記されているにもかかわらず、2004年1月17日に至るまで、それらの配布につき、テント村やその構成員に対して、自衛隊ないし防衛庁関係者や警察からの連絡、接触が一切なかったから、被告人らがビラ投函のための立ち入り行為が許されないとの認識を持ちがたい状況にあった」と判示したことについて、「禁止条項表示板・表示物によって立川宿舎への関係者以外の立入禁止の意思は明確に示されており、ビラに記載された連絡先に直接連絡して禁止の意思を告知すべきものであったとまでは言えない。」と判示する。

しかし、本件逮捕が一般国民やマスコミに衝撃を与えたのは、ビラ配布のためのマンションなどへの立ち入りは日常的に行われており、しかも殆ど問題とされておらず、ましてや令状逮捕されるという事態はこれまでなかったからにほかならない。たしかにビラ配布行為に不快感を覚える人はいるであろうが、だからといって刑事罰で処罰するほどのことではないと受け止められているからこそ、本件逮捕・起訴に衝撃を受けたのである。

誰が見ても犯罪行為であることが明らかな言動を警察が取り締まることは当然のことであり、私人による逮捕も認められている。しかし、ビラ配布目的の立ち入りは、一般的には犯罪行為とは受け取られていないのであって、これを犯罪行為として取り締まるのであれば、事前に警告を行うなどのしかるべき措置をとることは当然のことである。

そして、より重要なことは、テント村メンバーによる立川宿舎へのビラ配布は、自衛隊のイラク派遣が国民的問題となった2003年10月から始まったのではなく、20年以上にわたって何ら問題視されることなく、ずっと行われてきたということであるが、原判決はこの点を一切無視している。

(4) 「法秩序全体の見地」

久留米駅事件方式によって、違法性を検討する際に重要なのは、「法秩序全体の見地」から、上述したような各要素を検討することである。そして、このような検討によって、「法秩序全体、特に刑法の上位規範である憲法規範を考慮に入れて判断されなければならないので、実質的違法性を考慮することによって、適正な刑罰権の行使という憲法上の要請を犯罪論に取り入れることができる」(佐伯仁志、法学教室202号・13頁)のである。

ア 憲法上優越的な地位を占める「表現の自由」

被告人らの本件立入行為の目的は、ビラ投函のみにあった。そこで、被告人の行為がはらむ「違法性」の量と質を検討するに際しては、ビラ投函行為、すなわち憲法で保障される被告人らの「表現の自由」(21条)との関係を問題にせざるをえない。

政治的表現の自由の重要性、ビラ投函という手段が保護されるべき必要性、自由な情報の阻害に関する問題点については、憲法21条違反を論ずる項で展開したので、あえて繰り返さない。

本件のように、目的において正当で、手段において相当な表現活動に対し、強制捜査を行い、さらに公訴を提起することは、表現の自由に対する重大な侵害であり、本件は特定の表現行為の内容を問題にし、これをねらい打ちにするものであった。

住居侵入罪の適用が問題になる場合、本来的には、立入行為そのものに着目すれば足りるはずであり、本件について検察官の起訴が正当であるというのであれば、ポストへのビラ投函のためのすべての立入行為が、住居侵入罪にあたるということになる。しかし、本件宿舎には、多くの商業的なビラが投函されているにもかかわらず、それらの投函に伴う立入行為は問題にされず、政治的表現である本件ビラ入れだけが、警視庁公安部主導の膨大な労力をかけた捜査を経て、起訴されるに至っているのである。

さらに、本件逮捕・起訴には、被告人ら及び被告人らの所属団体を始めとする広汎な市民に対する政治的表現の抑制という政治的意図があったことは、前述したとおりである。

本件は、被告人ら自身の表現行為に対する抑圧であることは言うまでもない。しかし、それにとどまらず、このような起訴は、被告人以外の全ての市民が今後行おうとする表現行為についてきわめて強力な萎縮効果を与えるもので、その及ぼす影響には図りしれない。

イ 憲法保持のための行為

本件のビラ投函は、表現の自由の行使であることについては、これまで主張してきたとおりであるが、本件ビラ投函には、憲法12条の「憲法保持のための行為」の側面もある。

イクラ戦況が泥沼化し、多数の死傷者の発生が続き、当初派兵していた国の半数以上が撤兵を余儀なくされている現在、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を隠匿しているとして、アメリカによって一方的に開始されたイラク戦争が国際法上も違法であること、イラク特措法による自衛隊のイラク派兵が日本国憲法に違反することが、ますます明らかになっている。いつイラクに派兵されるかもしれない自衛官や家族に対し、自衛隊派兵に反対する市民の声を届け、自衛隊内部では接することのできない情報を提供し、一緒に考えていこうと呼びかけることは、平和主義を謳い、民主主義国家を掲げる憲法を持つ日本の市民にとって必要かつ、緊急性があるものであり、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定められている「憲法保持義務」にもかなう。

(5) 小括

以上のごとく、被告人らの行為については、行為の目的が正当で、かつ、その態様は相当であり、一方で、実質的な「被害」は発生していないのであり、「法秩序全体の見地」からみて、いささかの違法性も見いだすことはできない。

原判決の違法性に関する判断は、久留米駅事件の最高裁判決に違反するもので、破棄を免れない。

第4 原判決の破棄事由

1 被告人らの行為は構成要件に該当しない

原審は、被告人らの行為は、刑法第130条の「人の看守する邸宅」への「侵入」であり、住居侵入罪の構成要件に該当すると判断する。しかし、原審の判断は、刑法第130条の解釈を誤ったものであり、刑訴法411条1号に該当するので、破棄を免れない。

前述のごとく、被告人らの行為は憲法21条1項の保障を受けるものである。とすれば、構成要件該当性の判断にあたっても、行為の憲法的価値を考慮した緻密な判断がなされるべきであり、たとえば、「侵入」にあたるかの判断にあたっても、これを「意思に反する立入り」とするにせよ、「住居の平穏を害する態様の立入り」とするにせよ、その「意思」や「平穏」の解釈にあたっては、憲法的価値に留意した解釈がなされなければならないのである。

(1) 立入対象についての判断

起訴状によれば、被告人らの行為は、「同宿舎(弁護人注・防衛庁立川宿舎)の敷地に立ち入った上」、特定の号棟の特定の「階段の各階段1階出入口から4階の各室玄関前まで立入り、もって正当な理由なく人の住居に侵入した」ものであるとされた。つまり、被告人らの立入対象については、集合住宅の共用部分とされている。

立入対象については、弁護人は、2004年4月27日付求釈明書において、①本件の罪名は住居侵入罪ということであるが、公訴事実のうち、その部分が「住居」にあたるか明らかにされたい。仮に、敷地と階段・通路部分がそれぞれ「住居」にあたるのであるとすれば、敷地と階段・通路部分との関係を明らかにされたい ②仮にそれぞれが「住居」であると主張するのであれば、これらの部分について、「邸宅」や「建造物」であると主張しない趣旨なのか明らかにされたい と求釈明を行った。

検察官は、同年5月6日の第一審第一回公判において、①について、双方とも刑法130条にいう「住居」であり、敷地と階段部分は別個独立ではなく一体と考えると釈明し、②については釈明せず、裁判所も特に釈明を求めなかった。

集合住宅の敷地や階段・通路部分のような共用部分が、刑法130条の立入対象となるのか、なるとして条文上何にあたるのかについては、下級審の判断が分かれており、最高裁判決が存在しない領域である。そして、本件については、一審判決と原判決の判断は結論を異にした。この点について、最高裁は、判断を示す必要がある。

ア 一審判決の判断

一審で、弁護人は「住居」とは人の起臥寝食に使用する場所であり、敷地及び階段・通路部分はこれにあたらないし、また本件敷地は囲繞地ではないので、「住居」とはいえないと主張した。

一審判決は、①本件立川宿舎の敷地は各出入口部分を除き、フェンスで囲われて外部から明確に区画されていること、②敷地及び通路・階段部分は、「外界と各居室を結ぶ道などとして同宿者の居住者らの日常生活上不可欠なものといえ、また、もっぱら同人らやその関係者らの用に供されていると推認できることをあげ、居室と一体をなして「住居」に該当するとした。

イ 原判決の判断

これに対して、原判決は、本件立川宿舎の敷地部分について、「その周囲を、一般道路から出入りする通路のための各開口部(出入口)を除き、鉄製フェンス又は金網フェンス等で囲繞されており、上記各開口部には門扉等の設備はないが、出入口から入る通路は各集合住宅建物に関係ある者のみが通行の用に供することを許された通路であって、もちろん通り抜けのできる通路ではない」と認定した上で、敷地の囲繞地性を認め、「住居である各号棟の各居室に付属し、主として居住者の利用に供されるために区画された場所というべき」であり、通路・階段部分についても同様の性格を有する場所であるとした。そして、敷地は、陸上自衛隊東駐屯地業務隊長が現に管理しており、建物共用部分については、各集合住宅建物の管理権者(1号棟から4号棟までは、航空自衛隊第1補給処立川支処長、5号棟から8号棟までは陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊長)が現にこれを管理している」から、両者は「人の看守する邸宅」に該当するとした。

ウ 敷地部分について

A 「住居」にあたらない

「住居」とは、人の起臥寝食に使用される場所とされ、本件立川宿舎の各居室が「住居」にあたることについてはおそらく争いがない。

しかし、集合住宅の敷地部分が、人の起臥寝食に利用する場所ではないことは明らかである。

そして、一審判決自体が指摘するように、「場所によっては各居住者らによる利用が一部重複したり、あるいはほぼ占有的になるなど、必ずしもその利用形態は一様ではないことから、前記敷地等(弁護人注・「等」とは、立川宿舎敷地及び階段通路部分の意)のどの部分がどの居室の一部にあたるか個別具体的に特定することはできないそれぞれがどこの部分について住居権を及ぼすのか個別具体的に特定することはできない」という問題が存するのである。

最高裁判例には、集合住宅の敷地部分について「住居」にあたるとしたものはない。

敷地部分を「住居」にあたるとした下級審裁判例はある(店舗兼住宅の敷地について、東京高判昭和30年8月16日裁特2巻16=17号849頁、寺院の境内について、福岡高判昭和57年12月16日判タ494号140頁)が、これらは一軒家の敷地部分についての判断である。本庄意見書が指摘するように、集合住宅についての判断としては、大判昭和7年4月21日刑集11巻407頁(1棟約10個からなる長屋27棟のほか合宿所その他の建物があり、板塀で囲まれて外部との交通接触を遮断し、正門は昼夜とも開放するが見張人を置き、裏門は見張所がないため昼だけ解放して夜は閉めるとことにしている区域内に立ち入った事案について、邸宅侵入罪を認めた原判決を破棄し、多数人が居住している一角であって、「邸宅」とはいえないとして、「出入ヲ禁止シタル場所」にあたるとした事例)、最判昭和32年4月4日刑集11巻4号1327号(社宅200数戸が石垣又は煉瓦塀で囲まれて一般民家とは区別され、責任者が看守しており、3個の門にはいずれも戸があり、毎晩午後10時過ぎには責任者が内側から戸にかんぬきをして門を閉めることになっている区域内に立ち入った事案について、邸宅侵入とした原判決を正当とし、前記大審院判例に反するという上告趣意について事案が違うとした事例)があるが、これらは、「邸宅」を「人の住居に付属し主として住居者が利用するための区画された場所」であるとして、この定義に敷地部分があたるかを検討している。

敷地部分について「住居」にあたるとするのは、そもそも最高裁判例違反である。原判決が対象を「住居」としなかった点は正しい。

B 「人の看守する邸宅」にもあたらない

しかし、本件敷地は、原判決がいうような「人の看守する邸宅」にも該当するものではない。

a 本件敷地は囲繞地ではない

住宅の敷地部分が「人の看守する邸宅」に該当するといえるためには、まず、囲繞地であることが必要である。では、本件敷地は「囲繞地」に該当するのか。

「建造物」については、最高裁判例が複数出されており、①建物の付属地であること ②周囲に門塀等の物的囲障設備を設置して外部との交通を制限していることの2つであると整理されている(東大地震研事件についての判解研(昭和51)松本光雄34頁)。さらに、囲障の設備の程度としては、塀をめぐらすとか石を積むとか、通常の歩行では越えることができないものをいうと解されている(毛利晴光『大コンメンタール刑法第2版 第7巻』青林書院、2000年・282~283頁)。

囲いをめぐらせた集合住宅の区域が「邸宅」にあたるかについては、結論を異にする最高裁レベルの判決が存在する。それが、上述した大審院昭和7年4月21日判決及び最高裁昭和32年4月4日判決(刑集11巻4号1327頁)である。

本件立川宿舎の建物と敷地の状況は以下のとおりである。

本件立川宿舎1号棟から10号棟までの敷地面積は約2万平方メートルであるが、1号棟から8号棟の建物が建っている敷地は、敷地の周囲のうち公道に接する部分に金網フェンスが、自衛隊東立川駐屯地と接する部分に鉄製フェンスが、一部敷地と空地の境界は木製の杭が設置されている。金網フェンスは、目の粗い高さ1.5メートル程度のもので、敷地内は公道から素通しで観察できる状態である。

そして、東側の公道に接する部分に8カ所に設けられた出入口には、外部との交通を遮断する門扉等の工作物は一切設置されておらず、その間口は4メートルないし9メートルで、昼夜を問わず、外部道路から自由に出入りできる構造となっている。これらの敷地出入口部分は敷地と外の公道が直結するような外観を呈している(甲246号証)。

また、8号棟北側の空き地には公道に面して幅員約2.4メートルの歩道がもうけられており、この歩道を南方向に直進すると同宿舎敷地にそのまま入る形になっている(一審職権4)。そして、宿舎敷地前は車道のみで歩道部分がないので、立川宿舎北側にある立川市立南砂小学校や、同官舎南側にある同市立第二中学校に通学する児童・生徒をはじめとする一般の歩行者は立川宿舎東側の敷地内を通路として自由に通行していた(弁60号証・写真撮影報告書)。

よって、本件敷地は、建物の付属地ではあるが、外部との交通が遮断されておらず、囲繞地にあたらない。原判決はこの点につき、重大な事実誤認を行った上で、刑法130条の適用を誤った。

b 本件敷地には「人の看守」が存在しない

仮に、本件敷地に囲繞地性が認められるとしても、本件敷地には「人の看守」が存在しない。

原審判決は、本件敷地等につき国家公務員宿舎法に基づき管理者を特定し、その者によって現に管理されているとした後、「人の看守」を認めている。つまり、管理者と看守者を無前提に結びつけている。

しかし、管理についての指揮命令系統が明確である建造物の場合は格別、本件のような集合住宅の場合、「看守者とは、観念的な管理者ではなく、実際に看守を行っている者というべきであろう」(本庄意見書21頁)。

さらに、どのような事実によって、看守性が認められるかが問題となる。

最高裁は、いわゆる吉祥寺駅事件(吉祥寺駅構内で拡声器を用いて演説をしながらビラを配布していた人が、助役から制止を受け構内からの退去要求を受けたのにこれに応じなかったという事案)において、「人の看守する」とは、人が事実上管理・支配するということであるとした(最判昭和59年12月18日集38巻12号3026号)。そして、単に戸締まりをしただけとか立入禁止の立て札を立てただけとかいうようなものは、管理・支配の実効性がなく、人の看守するものとはいえないとされる(毛利晴光『大コンメンタール刑法第2版 第7巻』青林書院、2000年・276頁)。

本庄意見書では、看守性が問題となった最高裁判例である最判昭和24年6月16日刑集3巻7号1070頁(警察官の制止があったにもかかわらず大阪府庁舎に続々と立ち入ったという事案)、最判昭和34年7月24日刑集13巻8号1176頁(佐賀税務署内に夜間人糞をまく目的で立ち入ったという事案)、上記吉祥寺事件や、大阪高判昭和25年9月19日判特15号70頁、豊島簡判昭和54年7月13日判時985号136頁、東京高判昭和38年3月27日高刑集16巻2号194頁(闇切符売りの目的で上野駅正面玄関の出札窓口近くのホールに営業時間中に立ち入った事案につき、同ホールの看守性を否定した、いわゆる上野駅事件)などの裁判例を検討し、事実としての管理支配が認められるためには、「そのための物的・人的設備が必要であり、施錠されている場合にはそれだけで要件を満たすが、空別荘や一般に開放されているような場所であれば、人的設備が重要で、管理者またはその代理人が現場もしくはその近くに現存し、いつでも侵入を阻止するための措置をとる体制を整えていることが必要となるのである。…(中略)…重要なのは、開放性の高い空間は、立入りをしてはならないのかどうかが明確ではないために、看守者の側で立入拒絶意思を明確に外部に向けて示すことなのである」(本庄意見書・25~16頁)とする。つまり、裁判例からすると、①外部の人に対する明示と②そのための措置が看守性の要件とされている。

本件立川宿舎は、前述したとおり、形状的に開放性が高い。

原判決は、①2003年11月半ばから下旬にかけてころ以降2人1組になって自衛隊の車両で視察しながら走るという警備を開始したこと ②同年12月18日夜、管理者を補佐する担当者が禁止事項表示板を出入口脇に設置したこと ③同月19日から24日までの間に禁止事項表示物を掲示したこと ④管理者を補佐する担当者がビラ投函について被害届を提出したこと ⑤各居住者に対し、自衛隊のイラク復興支援に関して反自衛隊的内容のビラを投入又は配布している者を見かけた場合には直ちに110番通報するとともに東立川駐屯地、立川分屯基地に連絡するように求める内容の依頼文書(甲376号証、377号証)を配布したこと ⑥航空自衛隊が管理する1号棟から4号棟については、宿舎の連絡員を通じて、居住者に対し、不審者を発見したら警察あるいが自衛隊の当直に連絡を入れるよう連絡したこと ⑦2004年1月16日ころ、各管理者名で宿舎の安全対策について居住者の協力を呼びかける宿舎だよりが配布されたこと を本件宿舎の「管理状況」としてとりあげた上で、管理権者による「現に管理」が認められるとする。

しかし、これらの行為はすべて居住者の意思を排除した中で管理権者によって行われたものに過ぎない。そして、これら列挙事項は「管理状況」を示すものではなく、一審判決がまとめたように、「(弁護人注・ビラ投函に対する)立川宿舎側の対応」である。特に、④と⑤は、テント村の配布するビラについて特に行われたものであり、客観的な「管理状況」とはとうてい言えない。

よって、本件立川宿舎の敷地部分については、看守性が認められない。

エ 階段・通路部分について

A 「住居」にあたらない

階段・通路部分についても、「住居」にあたると考えることはできない。

たしかに、原判決が引用するように、広島高判昭和51年4月1日高刑集29巻2号240頁は、ビル階段通路及び屋上は、住居部分に必要的に従属し、かつその居住者らによる共同の管理が当然に予定されるところであるとして、「住居」にあたると判断したし、名古屋地判平成7年10月31日判時1552号153頁も同様の結論をとった。

しかし、本庄意見書がいうように、「住居」と「人の看守する邸宅」の間には、「人の看守する」という要件が必要かどうかについて大きな差異が存在する。「『住居』とは、それに該当すれば、「人の看守する」という付加的な要件なしに直ちに保護の対象となる特権を有する場所であるため、住居の範囲は類型的にプライバシー性が高度な領域に限定し、それ以外の場所は個別に客体の性質を検討してから、保護の対象とするかを決定すべきなのである」(同意見書・10頁)。

そして、階段・通路部分は、宿舎の各居住者・関係者が利用することが当然前提とされており、さらに、それらの居住者らが部外者の立入を容認することも予定されているのであるから、これらの者に開かれているという意味で、一定の公共的性格を有する。単純に「住居」と同視することは許されない。

B 「人の看守する邸宅」にもあたらない

敷地の部分で論じたように、本件宿舎の通路・階段部分についても、「人の看守」は認められない。よって、本件宿舎の通路・階段部分も、刑法130条の客体とはならない。

(2) 「侵入」行為の不存在

刑法130条が、公共の平穏ではなく、個人法益を保護法益とするものであることについては争いない。

弁護人は、2004年4月27日付の求釈明書で、被告人らの行為は、具体的に誰に対するどのような法益を侵害したのかについて釈明を求めた。これについて、第一審第一回公判において、検察官は釈明不要と回答したが、裁判長から釈明を命ぜられて、「居住者に対する住居権の侵害及び住居を管理する管理権者に対する管理権の侵害である」と釈明した。

ア ー審判決の判断

一審判決は、本件立川宿舎の構造、敷地の利用状況及び管理形態に照らして、「侵入」とは同宿舎の居住者及び管理者の意思に反して立ち入ることとした。ここで、居住者のみならず管理者の意思を考慮したことについては、「管理者が所管科を通じて同宿舎の維持管理に当たっており、また同宿舎の居住者の意思は、通常、管理者を通じて外部に示されると考えられること」を理由としている(18~19頁)。

イ 原判決の判断

これに対して、原判決は、立入行為の客体を「人の看守する邸宅」とするから、「侵入」は管理権者の意思に反した立入りであることが認められれば足りるとする(11頁)。

そして、「立川宿舎の当時の管理状況及び被告人らの立入りの目的などに照らすと、被告人らの立川宿舎敷地及び各号棟建物共用部分への各立入り行為は、その管理権者である陸上自衛隊東駐屯地業務隊長及び航空自衛隊第1補給処立川支処長の意思に反するものであることが明らかである」とする。

ここで問題になるのは、①そもそも、被告人らの立入行為は、管理権者ないしは住居権者の包括的承諾が働く場合ではないのか。②「人の看守する邸宅」が客体とされた場合、住居権者を無視し、管理権者の意思のみを問題にすることで足りるのか(「侵入」の判断にあたって誰の意思が優先されるべきなのか)。③管理権者の意思は、何を根拠にして認められるのか。また、管理権者の意思には、制約はないのか。④本件において、被告人らの立入行為は、管理権者の意思に反するものと認められるのか。などの諸点である。

ウ 包括的承諾の存在

そもそも、本件のようにビラ投函目的のための最小限度の立入行為については、包括的に承諾があり、「侵入」にあたらないと考えるべきである。一戸建て住宅の場合は、通常、公道に向けてポストがあり、ビラ投函に際して住居侵入が問題になることはない。集合住宅の場合には、一戸建て住宅と異なり、建物の共用部分に立ち入ることなく、ビラ投函を行うことはできないのが通常である。一戸建て住宅でなら許される単なるビラ投函が集合住宅の場合は刑事罰の対象となるというのは不合理である。この点については、一般に「門扉が開放されていたり施錠されていない場合には、訪問客等が建物入り口まで立ち入る(弁護人注・「敷地内に立ち入る」の意)ことについては包括的承諾がある」(毛利晴光『大コンメンタール刑法第2版 第7巻』青林書院、2000年・294頁)とされていることが参考になる。

後述するように、管理権者ないし住居権者の「住居権」(「住居権」とは「居住する権利」という意味ではなく、一定の空間への立入りを許可しまたは禁止する権利のことをさす)の内容は、住居権者のまったくの恣意にゆだねられているわけではない。

たとえば、万引き目的でのデパートへの立入りや、鉄道への不正乗車目的での駅構内への立入りが建造物侵入罪にあたるとするのは、妥当な結論とはいえない。これらの場合、「たしかに、入場の際に違法目的を知れば、看守者は立入りを拒否するであろう。しかし、行為が立入りの許容された時間内に通常の形態で行われている場合には、たとえ看守者が入り口に立ってチェックしたとしても、その違法目的を知ることはできないから、当然に立入りを許可したであろうといわざるをえないのである。したがって、一般に公開されている建物については、通常の形態の立入りである限り、それは当該建物管理者の事前の包括的同意の範囲内にあり、本罪は成立しないと解すべきであろう」(西田典之『刑法各論(第2版)』2002年・92頁)。

この点について、松宮孝明は、「『住居権』は、当該空間への立入りの許可ないし禁止を意味する住居権者の形式的な権利であり、その許可ないし禁止の理由を問うものではない。しかし、その行使が全く住居権者の任意ないし恣意に委ねられている純粋主観的なものなら、立ち入った者に違法目的があることを知り得なくても、たとえばデパートの管理者は万引き目的での立入りを許可するはずはないから、それは「住居権侵害」に当たるといえるはずである。にもかかわらず、そのような解釈が正義に適うものではないというのであれば、それは、住居権の行使もまた、行使される相手方の法的安定性を害しないように、何らかの客観的=標準的な制約に服さなければならないということを意味する。」(松宮孝明『立命館法学297号』2004年第5号・8頁)

本件建物は、一般に公開されている建物ではない。しかし、敷地や階段・通路部分のような、集合住宅の共有スペースはパブリックフォーラムとまではいえなくても、そこを通らなければ、各住居にアクセスすることが不可能であるという意味で、「アクセスのための道」として各居住者・各利用者のための特殊な性格を有すると解釈することができる。

「共同住宅の場合、一戸建てとは異なり、各戸にビラを配布するにはどうしても敷地内の共用部分に立ち入らざるをえない。しかし、これは住居形態の特性からしてやむをえない通過であり、それが居住者による共用部分の使用を妨げていない限り、表現の自由行使に不可避的に付随する行動として許容されるべきである。当該掲示が本件立入りの違法性との関係でもつ意味は、このような共同住宅の特性もふまえ、穏当な表現活動を必要以上に制約しないような形で解されなければならない」(毛利意見書・8頁)という視点は、包括的承諾の有無の判断でもいかされなければならない。

エ 管理者の「管理権」とは

一審も原審も、敷地については陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊長が管理しており、集合住宅建物については、1~4号棟は航空自衛隊第1補給処立川支処長が、5~8号棟は陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊長が管理している(=管理権者である)と判示する。

A 管理権者の意思の位置づけ

原判決は、「侵入」の構成要件該当性に関してもっぱら上記管理者の意思を問題にしている。

その前提として、「人の看守する邸宅」が客体とされた場合、住居権者を無視し、管理権者の意思のみを問題にすることで足りるのか、すなわち、「侵入」の判断にあたって誰の意思が優先されるべきなのかが問題になる。

管理権者の意思と実際の居住者の意思は齟齬する可能性がある。一審判決が正当にも指摘するように、ビラ配布について容認したり積極的にこれを受けたいと希望する居住者がいる可能性は常に存在するからである。とすると、これら居住者の意思を無視して、住居権者(管理権者も含む)の意思を云々することはできないはずである。管理権者にとって好ましくない人物であったとしても、居住者が招いたとすれば、共用部分への立入りを禁止するような住居権行使は許されない(松宮孝明『立命館法学297号』2004年第5号・12頁参照)。

この点については、本庄武も意見書の中で、「集合住宅に管理者が置かれている場合でも、管理者は複数の居住者の共同生活が円滑に行われるために存在しているのである。そのため管理者の意思を問題にする場合でも、寮のように共住性が強い場合を除き、原則としてその意思は居住者の意向を受けたものでなければならないであろう。さもなければ、居住者全員の総意をもってしても、管理者の意向に反して、第三者の立ち入りを拒絶することができなくなってしまい、管理者による恣意的な立ち入り制限が許容されてしまうからである」(本庄意見書・17頁)と指摘する。

原判決は、「当裁判所は、立川宿舎の敷地及び建物共用部分を『人の看守する邸宅』と解するので、『侵入』に該当するためには、管理者の意思に反した立入りであることが認められればよいことになる」とする(11頁)。しかし、いったん「人の看守」が認められると、本件のような各室としてはそれぞれ独立した住居権の行使が可能な居住者の住居権が失われることになるというのは、理解しがたい。

よって、共同住宅を「人の看守する邸宅」とみた場合、「侵入」の判断にあたっては、住居権者の意思が優先されるべきである。

B 国家公務員宿舎法の規定

では、上記を前提にして、管理権者の管理権は、何を根拠にして認められるのか を検討する。

立川宿舎は国家公務員宿舎であり、これに関する基本法は国家公務員宿舎法である。

同法は第1~5章で構成されているが、宿舎の管理に関するのは「第4章 宿舎の維持及び管理」である。第4章には、13条の3「被貸与者に対する監督」、13条の4「無料宿舎を貸与する者の選定」、14条「有料宿舎を貸与する者の選定」、15条「有料宿舎の使用料」、16条「宿舎の使用上の義務」、17条「宿舎の修繕等」、18条「宿舎の明渡し等」の7つの条文がある。

第4章の中で、「管理」という言葉(「維持管理機関」「管理者」は除く)が使われているのは、13条の3と18条2項であるが、18条2項は宿舎の使用上の義務に違反した被貸与者の宿舎明け渡しに関する規定であり、本件のような一般的な管理とは無関係である。

同法13条の3は「宿舎の維持及び管理を行う各省各庁の長(以下「維持管理機関」という)は、被貸与者(宿舎の貸与を受けた者及び18条1項の規定の適用を受ける同居者をいう)がこの法律に定める義務を守っているかどうかを監督し、常に宿舎の維持及び管理の適正を図らなければならない。」というものであるが、この管理の対象となっているのは被貸与者であることは条文上明らかである。

同法は、国家公務員宿舎の設置、維持、管理に関する基本的事項を定め、その適正化を図ることにより、国家公務員等の職務の遂行を確保し、もって国等の事務及び事業の円滑な運営に資することを目的とするものであるが(1条)、同法の規定する管理は、被貸与者との関係であり、部外者の立入禁止などのような宿舎の一般的な管理の根拠規定とはならないことは明らかである。また、安達光治が指摘するように、「『邸宅』は居住用の建物に付属する場所であるから、より本質的には各居住者に由来するものといえ」る(安達光治『法学セミナー616号』2006年4月号・7頁)ので、居住者の居住権の存在を無視して、独立・無制約の管理権の存在を認めることはできない。

よって、同法を根拠として、原判決認定の者らに立川宿舎の管理権限が認められるとすることは間違いではないが、これを住居権に含まれる刑法130条上の「管理権」と同一視することは誤りである。

「侵入」概念との関係で問題になる管理権者(立入りを認めるかどうかについて判断する権利を有する者)は、管理権限とは別に、居住権を有する居住者の意思を委託されているかどうかで判断すべきである。

C 管理権の行使に対する制約

仮に、本件宿舎における管理者が「管理権者」であるとされたとしても、その管理権者は本件立川宿舎におけるビラ入れ目的の立入りを禁止できるのか。管理権の行使の範囲が問題になる。

まず、駅構内でのビラ配布の刑事責任が問われた吉祥寺駅事件(最3判昭和59年12月18日刑集38巻12号3026頁)は、「憲法21条1項は、表現の自由を絶対的に保障したものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を容認するのであって、たとえ思想を外部に発表するための手段であっても、その手段が他人の財産権、管理権を不当に害するごときものは許されないといわなければならない」としていることに注目する必要がある。同判決は、「他人の財産権、管理権を害するものは許されない」とはせずに、「不当に害するものは許されない」と限定を付したのである。このことは、管理権の行使が正当なものである限り、保護に値するとの、最高裁の立場を示したものである。つまり、管理権には内在的制約が存するのである。この点については、「公共の建物の場合には、個人の住居の場合と異なり、管理権者の意思は絶対のものではなく、規範的制限を受けると解する…(中略)…(意思を絶対化できないというのは、公共の建物にかぎったことではなく、実は個人の住居においても、複数の承諾権者の調整という形で現れていることがらである)」とされている(毛利晴光『大コンメンタール刑法第2版 第7巻』青林書院、2000年・286頁)のが参考になる。

国家公務員宿舎には維持管理機関が存在し、その下に管理者が存在する。

維持管理機関は、被貸与者の選考(14条)、使用料の報酬からの控除(15条)、宿舎の明け渡し(18条)などの業務を行うことになっており、被貸与者は善良な管理者としての注意義務を負担し、維持管理機関の承認を得ない転貸や改造などが禁止され、その責めに帰すべき自由により宿舎を滅失・損傷・汚損した場合には原状回復や損害賠償の義務を負っている(16条)。

維持管理機関は、上記の権限以外に、庁舎管理者として、宿舎を物理的な意味で維持管理する権限を有していることは明らかであり、管理者は、物理的な意味での管理権限を行使できる。

ビラ配布目的の立入りの許諾は、物理的な意味での建物の維持管理とは無関係であり、専ら居住者の意思を考慮すれば足りる問題である。公務員宿舎の居住者であっても、いろいろな考えの人が居住しているのであり、ビラを受け取るかどうかは個々人の判断に委されている。そして、居住者が表現を受け取る権利を享有することは、憲法21条について論じた項で詳述したとおりである。本件の場合、ビラの内容は自衛隊のイラク派遣に反対するものであるが、イラク派兵については、居住者の中にもいろいろな意見があり、それぞれの意見は尊重されるべきであるから、管理者によるイラク派遣反対のビラ配布のための立入禁止措置は、管理者に与えられた権限を超えるものである。

本件の場合、管理者による立入禁止措置は、居住者の意思とは無関係に行われたものであり、被告人などの第三者に対する効力はないと言うべきである。

団体内部における個人の意思の尊重に関しては、南九州税理士会事件判決(最3判平成8年3月19日民集50巻3号615頁)は、税理士会による政治献金目的の特別会費徴収は構成員の思想の自由を侵害しないかという問題としてとりあげている。すなわち、税理士会が強制加入団体であることを前提にして、政治献金は、「会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべき」であって多数決原理が妥当しないとした。本件のような政治的表現に対する態度についても、同判決の趣旨は妥当する。とすれば、管理者が、特定の政治的表現に対して特定の態度をとり、居住者に押しつける結果となることは、許されない。

安達光治は、管理権の行使に対する制約の問題として、「管理権者は、外部に対しては居住者の意思を代表し、内部においては様々な居住者の意思を調整する役目を負う。管理権はその限りでのみ、有効なものとして機能する。一審判決が認めるように、居住者の中には様々な考え方の者が存在し、被告人らのビラ配布そのものは正当な政治的意見表明であって、なおかつドアポストは、我々の社会では居室と社会とをつなぐ窓と解釈される以上、ビラ入れを認める居住者の意思を、管理権者は尊重せねばならない(ビラを不快に思う居住者は配布を拒否すればよい)。管理権者の意思はその限りで合理的な制限を受ける」とする(安達光治『法学セミナー616号』2006年4月・7頁)が、正当な指摘である。

オ 居住者の意思の位置づけ

以上のように解した時、本件立川宿舎における居住者の意思をどのように位置づけるのかが問題となる。

A 居住者の意思の不一致

自衛隊のイラク派遣に関して国論が二分していた状況においては、自衛官らの中にもイラク派兵に関して多様な意見が存在していたのであり、また、イラク派兵は自衛官らにとってまさに自分たちに関わる切実な問題であるから、自衛官だけでなくその家族も含む数百名が居住していた立川宿舎の居住者の中には、被告人らが自衛隊のイラク派兵に反対するビラを集合郵便受けや各室玄関ドアポストに投函するため、立川宿舎の敷地や通路部分へ立ち入ることを、承諾し、あるいは拒否しないと考えていた者が少なからず存在したと思われる。一審判決が、「自衛官らの中にもイラク派遣に関して多様な意見を有する者がいる可能性が否定できないのであるから、被告人らが受けた注意が居住者の総意に基づくものとはいえない」(29頁)と指摘するとおりである。

このことは、①立川警察署や警視庁公安部の警察官が、立川テント村による本件ビラ投函が行われた直後、立川宿舎の各住居を回り事情聴取を行ったにもかかわらず、被害届は居住者からは1通も出されていないこと、②原審で提出された立川宿舎に居住する被告人らのビラ投函に対する被害感情を訴える「意見書」は、立川宿舎全体では数百人が居住していたにもかかわらず33名でしかなく、そのうち公訴事実に関係する号棟各室の居住者は10名に過ぎなかったことからも、容易に推測できるのである。

そして、立川宿舎において居住者の中に、一人でも被告人らの立入行為について黙示的であれ承諾の意思を有していれば、被告人らの立入行為は、住居侵入罪の「侵入」の構成要件に該当しないと解するべきである。

なぜなら、憲法21条に関する項で詳述したとおり、集合住宅である立川宿舎に居住する居住者である自衛官及びその家族は、憲法21条1項が保障する表現の自由としての情報受領権と情報収集権の権利をそれぞれ有しているのであって、それらの権利は、管理者1人の意思や居住者の多数決の意思によって侵害されるべきものではないからである(前掲南九州税理士事件判決参照)。

したがって、本件のような事案では、仮に立川宿舎の自衛官やその家族の居住者の中に1人でも、被告人らのテント村のビラ投函のための立川宿舎への立入行為を承諾する者が存在すれば、管理者は勿論のこと他の居住者が被告人らの立入行為に拒絶の意思を持っていたとしても、被告人らの立川宿舎への立入行為は、住居侵入罪の構成要件の「侵入」に該当しないとして無罪の判断をすべきである。

B 不明確な居住者意思

原判決は、「立川宿舎の敷地及び各棟建物共有部分を『邸宅』に当たると解するから、むしろ、その管理権者の意思のみを課題とすれば足りるものである。なお、証拠上、立川宿舎の居住者の中に、被告人らの敷地及び建物共用部分への立入りを承諾していた者がいるとはうかがえないところである」と述べる(16頁)。

被告人らが、立川宿舎の集合郵便受けや各室玄関ドアポストに自衛隊のイラク派兵に反対するビラを投函することにつき、事前に明示の承諾を得ていないことは事実である。

しかし、前述のとおり、本件においては、居住者の意思が一致していないと思われる。そして、立入りを認め、または拒否しない居住者は、上官や管理者への絶対服従を強いられる自衛隊内部においては、その意思が上官や管理者へ知られればその自らの自衛官としての身分も危うくすることになるのであるから、当然のことながら居住者が外部へその承諾意思を表示することは極めて困難な状況に置かれていた。

居住者の意思が不明確なのはむしろ当然であり、原判決が、「証拠上、立川宿舎の居住者の中に、被告人らの敷地及び建物共用部分への立入りを承諾していた者がいるとはうかがえない」と単純に言い切るのは、不当である。

C 居住者から被告人への「注意」

2004年1月17日の被告人らのポスティングについては、被告人大洞は3号棟中央階段の出入口付近で3号棟341号室に居住する航空医学実験隊に所属する航空自衛官 C から、「こういうものをまかれると困る」(一審第4回大洞・2頁)と、被告人大西は5号棟東側階段の通路で5号棟541号室に居住する航空自衛隊立川分屯基地第1補給処立川支処業務課に勤務する航空自衛官 D から、「管理者から警察に通報しろというふうに言われている」、「まいたビラを回収しろ」(一審第4回大西・1頁)と「注意」を受けている。

まず、この「注意」は、ビラに対する苦情であって、立川宿舎の敷地及び階段・通路部分から退去しろということを指示したものではないことに注意する必要がある。被告人大洞に話しかけた居住者はビラ投函が禁止事項であることを指摘したにとどまり、被告人大西に話しかけた居住者は「管理人から注意するように言われた」ことを述べたのみである。

また、「注意」を受けた被告人両名はきわめて平穏かつ常識的に対応している。被告人大西は、居住者から回収するように言われて素直に従い、当該階段で配布したビラをその場で回収した。

被告人両名が、「注意」を受けたのは、前年12月19日及び同月26日に、自衛隊によって「最近、自衛隊のイラク復興支援に対し、反自衛隊的内容のビラが宿舎の郵便ポストに投入されておりますが、今後、このようなビラの投入又は配布している者を見かけた場合は、直ちに『110番』通報するとともに東立川駐屯地にご連絡ください。」等と書かれた「反自衛隊的内容のビラ投入等に対する処置について(依頼)」と題するビラ(甲376、377号証)が立川宿舎にまかれたため、航空自衛官である C らがその命令に従って行動したものと思われる(第6回大西・9頁)。

C らのこれらの「注意」は、その上司からの前記ビラの命令に従ったものであって、これらの注意から、同人らが真意として立川宿舎の階段・通路部分への被告人らの立入行為を拒絶する意思を有していたかどうかは大いに疑問が残るところである。

しかし、仮に居住者の C 及び D が、被告人らの本件立川宿舎の階段・通路部分への立入行為を拒絶する意思を有していても、前述したように、立川宿舎の数百人にも及ぶ居住者全員が、ポスティングのための立川宿舎の階段・通路部分への立入行為を拒絶しているとは到底考えられない。

よって、本件立川宿舎の居住者の一部に同官舎の階段・通路部分への立入を拒絶している者がいたとしても、被告人らの立入行為は、住居侵入罪の「侵入」には該当しない。

カ 最高裁判例との関係

以上のように、①ビラ投函のための最小限度の立入行為については、住居権者(管理権者も含む)の包括的承諾が存在する ②集合住宅の場合、管理権者の独断ではもちろん、住居権者の総意であっても、ビラ投函のための最小限の立入行為を禁止することはできないため、被告人らの行為は「侵入」にあたらない。

さらに、実際に立入行為が「侵入」にあたるか判断するにあたってリーディングケースである「大槌郵便局事件」の判断基準にあてはめても、本件の被告人らの行為は「侵入」と評価できないことを論じる。

A 大槌郵便局事件

大槌郵便局事件で、最高裁は、「刑法130条前段にいう『侵入シ』とは、他人の看守する建造物等に管理権者の意思に反して立ち入ることをいうと解すべきであるから、管理権者が予め立入り拒否の意思を積極的に明示していない場合であつても、該建造物の性質、使用目的、管理状況、管理権者の態度、立入りの目的などからみて、現に行われた立入り行為を管理権者が容認していないと合理的に判断されるときは、他に犯罪の成立を阻却すべき事情が認められない以上、同条の罪の成立を免れない」と判示した。

そして、最高裁は、①被告人らは多数のビラを貼る目的で、本件建造物に立ち入ったこと ②ビラ貼りは郵政省庁舎管理規程により管理権者が禁止すべき事項とされていること ③被告人らは深夜土足で立ち入り、ビラ1000枚を庁舎内に乱雑に貼付しており、これは管理権者の許諾しないものであることが明らかであること ④本件ビラ貼付は組合活動の正当性を越えた疑いがあるから、管理権者としてもこれを受忍する義務がないこと ⑤管理権者である局長は、ビラ貼りを警戒し、当夜、補佐役である局長代理とともに交代で局舎に立ち寄り、局舎の外側からビラ貼りを警戒しており、被告人らがビラ貼りをしているのを現認するや被告人らに退去を求めたこと などの具体的事情をあげて、管理権者の意思に反する立入行為であったと認定した。

しかし、本件との比較でいえば、同判決が出た時代背景に着目する必要がある。「本判例(弁護人注・大槌郵便局事件判例の意)が、昭和40年代の正当化を広く認める判例を経た後に出されたものであることが重要である。すなわち、争議行為に関わる事件については、侵入後に為されるビラ貼り、抗議行動、勧誘行動などは、常に争議行為として正当化される可能性がある。…(中略)…大槌郵便局事件でも、ビラ貼り行為についての建造物損壊罪は、そもそも立件されていない」(木村光江『住居侵入罪と住居権者・管理権者の意思』現代刑事法57号、2004年・93頁)のであって、住居侵入後の行為との関連に着目しながら判断を下さざるをえなかったのである。

B 本件の場合

a 立入拒否の意思表示

本件では、敷地出入口付近及び各棟階段出入口付近に、2004年12月、部外者の立入禁止を求める掲示がされている。

この掲示は、「管理者」名義で、「宿舎地域内での禁止事項」として、関係者以外、地域内に立ち入ること、ビラ貼り・配り等の宣伝活動、露天(土地の占有)等による物品販売及び押し売り、車両の駐車、その他人に迷惑をかける行為」をかかげたものである。

しかし、このような一般的な立入禁止の掲示物が団地等の集合住宅の出入口に存在したとしても、ピザ屋等の広告宣伝チラシやセールスマン等の部外者がこれを無視し、団地等の階段・通路部分に立ち入り、各戸のドアポストにポスティングをしたり玄関のドアを叩き玄関内まで入って来ていることは、多くの集合住宅には上記のような掲示があるにもかかわらず、毎日数多くのビラが投函されるという事実、 A が団地等において立入禁止の掲示があってもセールスマンがそれを無視して玄関まで来ていると証言している( A・49頁)こと、商業チラシのポスティングのアルバイト経験がある高田被告人が、部外者以外立入禁止の掲示物は、どこの団地にでも見受けられるものであり、「その張り札自体でポスティングをいちいちやめていたら、商売として成り立たないので、それを見てやめたということはないです」(高田・20頁)と証言していることからも、公知の事実といってよい。本件立川宿舎においても、  C は、立入禁止の掲示板が設置された後、その掲示板を無視して、宗教関係者が自室まで尋ねて来た旨を証言している( C・23~24頁)。

学説は、住居の入口に「セールスマンお断り」の掲示があるにもかかわらず、訪問販売員がその掲示を現認した上で、玄関ベルを鳴らし、玄関内に入ったという事例につき、「その貼紙は、できれば、押売りなどにわずらわされたくないという程度の意思表示であるにとどまり、やはり、消極的にではあっても、洗濯屋・酒屋などの立入りを認めるに準じた『承諾』を与えているのが一般でなかろうか」(内田文昭『刑法各論』・175頁)とし、「これはあきらかに住居者の意思に反する立ち入りであるが、そうだからといって、ただちに住居に『侵入』したものとはいえないであろう。というのは、こうした立ち入り行為は、まだ住居の平穏を害する態様での立ち入りとはいえないからである。」(福田平『注釈刑法(3)』・242頁)として玄関内への立入行為について、住居侵入罪が成立することを否定している。

本件は、上記事例のように玄関内にまで立ち入った事案ではなく、玄関前の階段・通路部分に立ち入っただけの事案である。そして、集合住宅の各戸に設けられたドアポストは、そもそも外からの郵便物や新聞等の情報を住居内に居住する居住者が受け取るために設置されたものであり、その情報の中にはピザ屋等の広告宣伝チラシだけでなく、本件のような自衛隊のイラク派兵反対を訴えるビラ等多種多様な情報も含まれるものである。住居権者の意思としては、部外者以外立入禁止の掲示物にもかかわらず、それらの情報をポスティングするために集合住宅の階段・通路部分への立入行為については、包括的に承諾していたものとみるべきである。

よって、この掲示をもって、管理権者の「明示の意思表示」が存在したとはいえない。

b その他の要素の検討

本件立川宿舎の各居室は住居としての性格を有する。よって、原判決が、「邸宅」に該当するとしたとしても、敷地や階段・通路部分への立入りの許諾に関しては、居住者の意思が尊重されるべきである。

また、管理状況については、客観的に認められる要素から、その厳しさを判断すべきである。そして、本件立川宿舎の客観的な構造は、前述のとおり、開放的であり、しかも、管理人による人の看守も門扉などによる物による看守もなかったのであるから、管理状況はきわめて緩やかであったとみるべきである。

さらに、本件の場合、管理権者の意思のみをとりあげるのに問題があることについては前述したとおりである。

そして、これまで詳述してきたとおり、被告人らの本件立入行為の目的は、政治的表現の自由の行使なのであり、行為の目的の正当性はきわめて明白である。

よって、前掲大槌郵便局事件の判例の基準を適用したとしても、本件立入行為が「侵入」にあたらないことは明白である。

(3) 「正当な理由」の存在

刑法130条の構成要件には、「正当な理由なく」ということがあらかじめ組こまれ、住居侵入罪の構成要件該当性判断においては実質的な法益衡量がなされることが期待されているといえる。よって、本来、前述した可罰的違法性について考慮されるべき事由については、構成要件該当性のところで検討すべきであるという考え方も成り立つ。

そのような見解に立っても、可罰的違法性の項で論じたように、本件では、立入りについては、ビラ投函のための必要最小限度の平穏な立入りであり、立入りに「正当な理由」が認められる。

(4) 構成要件的故意の不存在

被告人らには、本件当時、本件立川宿舎への立入行為が違法であるという認識は全くなく、そのような認識を有する可能性もなかった。

ア 社会的に広く行われているポスティング

奥平証人が述べたように、現在の日本はメッセージ社会であり、新聞への大量の折込広告だけでなく、様々なビラがポスティングによって各家庭に配られている。本件防衛庁宿舎に居住している A 証人も、投函されるチラシの数がとても多いと証言している(61頁)ところである。

マンションなどには「ビラ入れお断り」の掲示があるところも多い。しかし、そのような掲示があるにもかかわらず、日常的に集合ポストやドアポストにビラが投函されているのが現実である。派遣アルバイトでポスティングをしたことがある被告人高田が述べているように、貼り紙を見てポスティングをいちいちやめていたら、商売としても成り立たないし、依頼主からなるべくドアポストの入れてくれと言われる場合もある(第5回大洞・21頁、第6回大西・14頁、第6回高田・20~21頁)。

また、地方公共団体などの行政機関も、地域住民へのお知らせをビラ配布で行うことが多い。原判決が、管理者として被害を受けたとする自衛隊自身が、一審山内証言、大西証言(一審第6回大西・14~15頁、115~117頁)で明らかなように、自衛隊員募集などのビラのポスティングを行っているのである。これらのことからすれば、ビラの投函が、効果的な情報伝達手段として積極的に利用され、社会的に容認されていることは、明らかというべきである。

私たちは、このようにビラによる情報流通が多様される社会で、生活しているのであって、「立入禁止」や「ビラ入れお断り」などの掲示があるにもかかわらず、敷地内に立ち入ってビラを配布した者がいたからといって、配布した人間が「住居」や「人の看守する邸宅」に侵入したとは誰も考えないし、配布する側にもそんな意識がない。

ちなみに、 C 証人は、最初は、本件ビラ入れで被告人らが当然刑事罰を受けるとは感じなかったと証言している( C・42頁)。スピード違反もありふれた行為であり摘発された者は「他の人もやっているのに、なぜ自分だけが摘発されるのか」と自己の不運を嘆くが、少なくとも交通法規に違反したという意識はある。これに対し、ポスティングはそのような意識さえ一般に持たれない行為なのである。

自衛隊が、本件ビラ入れ目的の敷地内立入行為について被害届を出し、住民に対して見かけた場合には110番するようにまで指示しておきながら、一方では自衛官募集のポスティングを行っていることについては、矛盾を感じざるをえない。

イ 20年来継続的に行われてきたポスティング

テント村は、1976年10月から1984年7月まで(第1号から93号まで)「積乱雲」という自衛隊員向けの新聞を毎月1回発行して自衛隊員に配布していたが、本件立川宿舎のドアポストに入れるという方法もとっていた(弁37号証の4枚目「『積乱雲』の配布」参照)。しかし、自衛隊や住民などから抗議や注意などを受けたことは一度もなかった。1979年ころからテント村のメンバーとなった被告人大洞は「積乱雲」の配布に数年間携わっていた(第5回大洞・9頁)。被告人大西と被告人高田がテント村に関与するようになったのは、「積乱雲」のポスティングが終了した後であるが、他のメンバーから「積乱雲」のポスティングでは何も問題はなかったことを聞いて知っていた。

テント村では、本件ビラ以外にも、ここ数年間、不定期ではあるが、本件防衛庁宿舎へのポスティングを行っており、被告人大洞はこれに関与していた(第5回大洞・17~18頁)。

1992年に結成された「自衛隊の海外派兵に反対する立川市民の会」は、同年11月から1998年9月にかけて「STOP!海外派兵」というニュースを36回にわたって発行し本件防衛庁宿舎に配布したが、その方法もやはりドアポストに入れるというものであり、テント村のメンバーも個人的に「STOP!ストップ海外派兵」の配布に関わっていた(第5回大洞・8~10頁)。被告人らは、「STOP!海外派兵」のポスティングでも何も問題は生じなかったことを自らの経験で、あるいは他の人から聞いた知識として、知っていた(大沢・5頁)。

これらのポスティングに対し、住民から止めるようにという注意を受けたことは一度もなかったし、自衛隊からの注意や抗議、警告などもなかった。立川警察署などから、ポスティングは住居侵入に該当するなどという警告を受けたこともなかった(第5回大洞・36頁)。

イラク派兵に反対する反戦ビラのポスティングは2003年10月から始まっており、2004年1月17日のポスティングは4回目であったが、それ以前の3回について、住民や自衛隊からの注意などもなければ、警察からの警告もなかった。

防衛庁宿舎へのポスティングは、長年にわたって、全国各地で、様々な市民団体等によって行われているが、住居侵入として問題になったことは一度もなかったことは、前述したとおりである。

ウ 本件ビラ投函時の被告人らの認識

A 1月17日の投函について

1月17日のポスティングの時点で、被告人ら3名はフェンスの貼り札に気付かなかった。大西被告は、住民から「注意」された際に、1階階段入口の掲示板を示されて、立入禁止の貼り紙が掲示板にあることに初めて気がついた。大洞被告は、配布の途中で貼り紙に気付いている。

しかし、このような貼り紙は、多くのマンションなどでもよく見かけるものであり、これを無視して立ち入ったことが住居侵入になるなどという認識は生じなかった(第5回大洞・22頁)。

この点、原判決は、「本件各立入当時、これらに気づかなかった旨をいう被告人らの原審公判供述は、にわかに措信できない」(14頁)とするが、これば、一審判決が、現場の検証を行った上で、①貼り札についてはさほど目につきやすいものとはいえないこと ②掲示板の貼り紙については、掲示板は居住者への内部連絡用に用いられていることが一見明らかで、通常、関係者以外はあまり留意しない場所であり、しかも貼り札自体が他の掲示物に紛れてかなり目につきにくいと思われる個所があること ③一部の貼り札は2003年12月中旬に貼られた後、2004年2月6日までにはがれ落ちていたこと など、両掲示が注意を喚起しにくいものであることを、非常に具体的に認定している(27頁)ことを、根拠もなく否定するもので、きわめて不当である。

B 2月22日の投函について

1月17日のポスティング後のテント村の会議では、住民から「注意」されたことが話題になった。しかし、住民からの「注意」は個人的なものであり、自衛隊からの抗議や警告などは全くなかったことが確認されたため、テント村はポスティングを継続することとして、2月22日のポスティングを行った。自衛隊にとって、本当にビラ入れが困るのであれば、ビラ入れを止めるようにテント村に抗議や警告をしてくるだろうと考えるのは自然であって(ビラには住所、電話番号、メール・アドレスが記載されており、連絡は容易であった)、被告人らには、2月のポスティング時にも、立入行為が住居侵入に該当するという認識はなかった(第5回大洞・22~23頁、第6回大西・12頁、第6回高田・14頁)。

エ 小括

ポスティングが社会的に広く行われているありふれた行為であること、本件立川宿舎へのポスティングも商業ビラ投函を含め広く行われていたこと、テント村による立川宿舎へのビラや通信のポスティングは20年以上にわたって断続的に行われていたが何らの問題も生じていなかったことから、被告人らは、本件防衛庁宿舎へのポスティングが住居侵入に該当するなどという認識は全くなかったし、違法であると認識する可能性もなかった(第5回大洞・17頁、第6回高田・15頁)。

(5) 弊害の不存在

前述のように、刑法130条の構成要件該当性の判断においては、憲法的観点からの考慮が必要である。

原判決のように、被告人らの立川宿舎への立入行為について、構成要件該当性の有無については形式的類型的に判断すべきであるとの立場に立って、住居侵入罪の構成要件該当性を認めることは、構成要件が可罰的な違法行為・有責行為の類型であり、構成要件自身が「構成要件該当性なければ犯罪なし」という保障機能を持っていることを没却したものであり、刑罰は必要やむをえない範囲においてのみ科せられるという刑法の謙抑主義に反する。

大審院は、価格一厘にすぎない葉煙草を納入しなかったことが煙草専売法違反に問われた、いわゆる一厘事件において、「零細なる反法行為は犯人に危険性ありと認むべき特殊の情況の下に決行せられたるものに非ざる限り、共同生活上の観念に於て刑罰の制裁を加うべき法益の侵害と認めざる以上は犯罪を構成することなし」(大審院明治43年10月11日刑録16輯1620頁)とし、構成要件に該当しないとした。

被告人らの行為について、刑法130条が適用されないとしても、構成要件該当性の判断が困難になったり、解釈が弛緩したりする弊害は生じない。むしろ、本件の場合、社会通念上許容されてきたポスティングのための集合住宅への穏当な立入行為について、突如検挙、訴追して、全国津々浦々まで広汎な萎縮効果を生じさせ、刑法秩序における法的安定性を著しくそこねたのは、公安警察・検察の側である。最高裁が原判決を破棄し、被告人らに対し無罪を言い渡すことは、本件弾圧前の正常な状態に、事態を戻すだけのことである。

最高裁は、原判決の刑法130条に関する適用の誤りを正すべきである。

2 本件は公訴棄却されるべきである

本件起訴は、テント村の自衛隊イラク派兵に反対するビラの配布という言論活動を抑圧し、さらに同様の言論活動を萎縮させることを狙いとしたものであり、検察官の訴追裁量権を逸脱、濫用した違法なものであるから、本件公訴は棄却されるべきである。

この点を看過して被告人らに有罪判決を課した原判決には、判決に影響を及ぼすべき法令の違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するから、刑事訴訟法411条1項を適用して原判決を破棄し、同法338条4号により本件公訴を棄却すべきである。

(1) 原判決の判断

原判決は、弁護人が公訴権濫用による公訴棄却を求めたのに対し、「被告人らの本件立入行為の違法性が阻却されるものでないことは既に述べたとおりであり、また、証拠を検討しても、本件公訴の提起が、被告人らの表現行為の抑圧あるいは被告人らの所属団体の活動を抑圧もしくは停止させることを目的とするものとは到底認められないところであり、それが憲法21条に違反するものとはいえず、もちろん、本件公訴提起につき検察官の職務犯罪を構成するような極限的訴追裁量権の逸脱があるとは認められない。」とこれを否定した。

なお、一審判決は、弁護人の公訴権濫用の主張に対し、本件が起訴された理由について、「本件公訴提起には、ビラの記載内容を重視してなされた側面があることは否定できない」(16頁)としつつ、「テント村による自衛隊のイラク派遣を非難するビラの投函については、平成15年12月の段階で既に被害届が提出されており、本件各公訴事実に係る被害届の提出に至っている。その背景には、同宿舎の居住者中、少なからぬ者が、ビラの内容それ自体が自衛官や家族を動揺させて不安に陥れるものであり、このようなビラを投函するために自らが生活する宿舎内というプライベートな場所に部外者が入り込んできたのは迷惑であるなどと、ビラの投函につき、他の商業宣伝ビラに対するのとは異なる不快感を抱いていたと認められるのであって、このような居住者の感情等に着目すれば、本件各公訴提起が弁護人の主張するような目的のみで行われたとは断定できない」(17頁)として、本件各公訴提起に極限的な訴追裁量権の逸脱は認められないとした。本件公訴の提起が、自衛隊のイラク派兵反対というビラの内容に着目してなされたものであることを認めながら、防衛庁立川宿舎の居住者がビラの内容自体から受けるであろう不安、居住者のビラの投函に対する迷惑、不快感の存在を理由に、表現行為の抑圧あるいは被告人らの属する団体の活動を抑制もしくは停止させる目的でなされたことを否定した。

しかし、本件公訴の提起は、被告人らが配布したビラの内容に着目したに留まらず、自衛隊がイラクに派兵された直後、イラクの自衛隊派兵に反対して直接自衛官にビラを配布して働きかける運動を抑圧することを目的としたものであり、これにより自由な表現行為を制約しようとするものである。このような表現行為に対して異例の刑事罰の発動をもってする規制は、居住者の不安、迷惑、不快感だけを理由に許されるものでなく、それ自体として訴追裁量を大きく逸脱し、原判決及び第一審が先例として引くチッソ川本事件の定立した基準にも反するものである。

(2) 公訴権濫用の判断基準

ア 最高裁の判断

チッソ川本事件最高裁決定(最1決昭和55年12月17日刑集34巻7号)は、原審の東京高等裁判所が公訴権濫用を理由として公訴棄却の判決を下したのに対し、「たしかに、右裁量権の行使については種々の考慮事項が刑訴法に列挙されていること(刑訴法248条)、検察官は公益の代表者として公訴権を行使すべきものとされていること(検察庁法4条)、さらに刑訴法上の権限は公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を全うしつつ誠実にこれを行使すべく濫用にわたってはならないものとされていること(刑訴法1条、刑訴規則1条2項)などを総合して考えると、検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のありうることを否定することはできないが」として、検察官の起訴裁量権による公訴提起が無効となる場合があり、司法審査の対象になりうることを認めた。

その上で、公訴提起が無効になる場合の基準として、「それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的場合に限られるものというべきである」とした。

イ 公訴権濫用の判断基準

A 最高裁決定は、公訴提起が無効となる場合の判断基準を、「たとえば公訴提起が職務犯罪を構成するような極限的場合に限られる」とした。しかし、「極限的場合」に限定される根拠は示されていない。なお、「職務犯罪を構成する」というのは、「たとえば」という語が付されていることから明らかなように、例示としてあげられたものにすぎず、現実に公訴提起が職務犯罪を構成することまで必要とされているものでもない。

B 最高裁が、公訴権濫用に該当する場合を、「極限的場合」とした趣旨は、現行法上公訴権濫用を認める直接的規定がないこと、検察官の自発的な是正が望ましいこと、公訴権濫用と類似の機能を果たすべき可罰的違法性論が最高裁判例としてなお承認されていないこととの均衡、検察内部のコントロール制度のあり方、刑事司法の機能など様々な要素を考慮したためではないかとされている(渡部保夫・川本事件最高裁判例解説)。

その上で、公訴権濫用に該当する場合の一応の基準として、①最終段階まで実体形成を進める必要のない可罰性の軽微な事案、②社会生活の実情に合わなくなった刑罰法規違反で違反量の小さい事案、③一定以上の違反量があって初めて当罰性が肯定されるような取締り法規違反で違反量がそれに達しない場合、④軽微事案でしかも訴追することが社会生活における正義、公平感を著しく害する事案、⑤刑事政策的配慮を著しく欠いたような訴追、⑥軽減してもなおかつ科刑が著しく重いと考えられる事案、⑦可罰性が軽微で、しかも捜査過程に重大な違法があった事案、⑧捜査過程で不相当な遅延が生じ又は訴訟の経過に照らして訴因の変更が著しく不当と考えられる事案等が挙げられている(渡部・前掲)。

検察官の訴追行為も行政行為である以上、法が規定する枠を超えて行使されたり、法が予定する本来の目的と異なった目的で行使された場合、与えられた権限の逸脱、濫用として違法と評価されなければならない。特に、不起訴の場合は検察審査会や付判手続き等によって事後的救済が保障されているのに比べて、起訴された場合は違法な起訴から解放される救済手続きがなく、当事者は常に応訴の強制という極めて重大な負担を強いられることからすると、起訴する場合は、検察官には特に慎重な義務が課されており、当該起訴が法が予定する枠を超えた場合は、違法と判断されるべきである。

ウ チッソ川本事件と本件との比較

なお最高裁決定は、当該事件に対する適用については、「犯行そのものの態様はかならずしも軽微なものとはいえないのであって、当然に検察官の公訴提起を不当とすることはできない。」「すくなくとも公訴権の発動については、犯罪の軽重のみならず、犯人の一身上の事情、犯罪の情状及び犯罪後の情況等をも考慮しなければならないことは刑訴法248条の規定の示すとおりであつて、起訴又は不起訴処分の当不当は犯罪事実の外面だけによつては断定することができないのである。このような見地からするとき、審判の対象とされていない他の被疑事件についての公訴権の発動の当否を軽々に論定することは許されないのであり、他の被疑事件についての公訴権の発動の状況との対比などを理由にして本件公訴提起が著しく不当であったとする原審の認定判断は、ただちに是認することができない。」とした。①事件が軽微とはいえないこと、②起訴されていない他事件との比較が軽々になされたという点で、公訴権濫用を理由に公訴棄却した原審の判断に法令解釈の誤りがあるとしたのである。

この点を本件との関連で見るに、本件は、一般に犯罪とすら認識されていない、ポスティングのための立入りという行為で、法益侵害の結果も生じておらず、その軽微性に疑問の余地はない。また、本件では、本件が起訴されたことと通常のポスティング行為が起訴されていないことを比較して、本件公訴提起の差別性・違法性を主張するものではない。他のポスティング行為が起訴されていないのは、ポスティングが社会的に違法な行為と認識されていないからであり、交通違反で、偶々取締に引っかかり起訴されたというのとは問題の質を異にする。本件は、政治的表現行為である自衛隊のイラク派兵に反対するというビラの内容を理由にして起訴がなされており、それ自体が憲法21条を犯すものであることが問題なのである。

本件とチッソ川本事件との間には、公訴権の逸脱、濫用判断の前提となる事実に明確な違いがある。

(3) 本件公訴提起の違法

ア 本件公訴提起により侵害される利益

公訴の提起という国家権力の発動において、それが達成しようとしている利益よりも、公訴提起によって侵害される国民の利益がはるかに大きい場合、検察官の公訴権の発動自体が抑制されなければならないのであり、公訴提起によって侵害される国民の利益が優越的であるにも関わらずなされた公訴提起は、それ自体違法性が高い。

一審判決は、本件公訴提起の目的を検討するに当り、宿舎居住者の迷惑、不快感の存在を理由に、公訴提起の目的が被告人らの活動を抑圧することにあったとはいえないとした。しかし、居住者の不安とは、自衛隊がイラクに派遣されること自体に対する不安である(箕輪証言)。この不安感は、本件ビラよりはるかに大きな影響力を持つマスコミ報道によって広く伝えられていたところであり、本件ビラが投函されることによって生じたものではない。また、自衛隊が本件ビラ投函を禁止したのは、ビラの内容が「反自衛隊的」であることに着目したものであって、ビラの投函主体であるテント村の活動に対する不安でもない。また、居住者の迷惑、不快感は、異なる意見に接したときに人が感じる迷惑、不快感以上のものではなく、言論・表現活動に当然伴うものである。従って、居住者が不安、迷惑、不快感を感じていたとしても、それらを解消させるという目的は、公訴提起によって達成される正当な利益とはなり得ない。他方、本件公訴提起によって侵害される表現の自由の重要性は明白である。

本件起訴は、憲法上保障された権利・自由を侵害するものであり、それ自体として著しく違法である。

イ 本件公訴提起の目的

一審判決も判示するとおり、① 本件自衛隊宿舎へのビラ投函は20年以上にわたって行われてきたが、従来一度も問題とされたことはなかったこと、② テント村以外の市民団体による自衛隊宿舎へのビラ投函も同様に問題にされてこなかったこと、③ 飲食店や不動産のチラシが郵便受けに無断で入れられるのは日常茶飯事であるが、これについても摘発などはされていないこと、④ ビラ投函行為は、政治的なビラであろうと、商業的宣伝ビラであろうと、外形的には何ら変わりがなく、住居の平穏への侵害の点では何の違いも見いだせないこと、⑤ 本件ビラと商業的宣伝ビラとの違いは、本件ビラがイラク派兵に反対するものであったのに対し、商業的宣伝ビラは自衛隊とは無関係な内容であること、を考えれば、「自衛隊派遣に反対する内容のビラだったからこそ、逮捕に踏み切った」(2004年3月5日付朝日新聞社説)というのが、まさに本件起訴の本質である。

以下、本件がビラの内容に着目したイラク派兵に反対するビラの投函の規制を目的にした政治的意図に基づく起訴であることを示す事実を列挙する。

A 警察主導による捜査

一審では、本件捜査が住民からの要請という外見をとりつつ、実際には警察主導で行われたことが、明らかになった。

A 証言によれば、警備強化のために立川警察署の警察官と思われる者が自衛隊に来て「何かないか」と言われたので、テント村のビラの話をしたところ、「是非被害届を出してくれ」と言われ、上司と相談して被害届を提出することになり、2003年12月13日のビラ投函について、警察官が自衛隊の事務所まで、署名捺印すれば完成する状態になっていた被害届を持参したので、署名捺印して提出した(25~26頁、53~54頁)というのである。また、 B証人によれば、2003年12月ないし2004年2月にわたる3回の被害届提出時には、全て警察官が同証人の事務室まで、署名捺印すれば完成する状態になっていた被害届を持参したという(29~32頁)。

また、本件で問題にされた2004年1月、2月のビラ入れが行われる前に、入口と階段部分に「掲示」がなされた直後の、2003年12月24日には、実況見分調書が作成され( B ・7頁)、テント村が翌月もビラ投函を行うことを予定した捜査がなされている。

甲336号証は、全国の「同種事案の自衛隊宿舎に対するビラ配布状況」について、警視庁公安二課の捜査員が、「各都道府県警察警備部公安課及び公安第三課を通じて」確認した「電話聴取報告書」であるが、ここでは、テント村が配布した3件を含んで26件の事案が報告されており、少なくとも2003年9月から、全国的に調査が行われていたことは明らかであって、イラク派兵を問題にするビラ投函行為について何らかの事件化を行うことを、警察が予定していたことも窺われる。

一方で、 A 証言によれば、警察官は、官舎にビラが投函されているということを知らなかったことになる(54頁)から、テント村のビラ配布について、各住民からは、前述した2003年12月に配布された、110番通報と立川駐屯地宿直への通報を呼びかける「通知」(甲376、377号証)以前は、警察への被害通報はなかったということになる(このことは、甲336号証の「電話聴取書」でテント村のビラ配布が同年12月から翌年2月の3回分しか記載されていず、警察に2003年10月、11月の投函情報が捕捉されていないことからも明らかである)。つまり、住民は、それまで、ビラ投函について、警察に通報するほどの被害感情を一切持っていなかったのである。

以上の経過を見るに、本件は、当初から事件化することを目的として捜査が開始されたのであり、本件捜査が、テント村ないしその活動をターゲットとしてなされたものであることは明らかである。

B 公安事件としての取り扱い

本件捜査は、被害届の提出の受理という捜査の端緒の段階から、警視庁公安部公安二課の警察官が中心となって行われた。

本件公訴事実に関する被害届の受理、員面調書の作成、実況見分、各種報告書の作成、証拠物の領置等の手続きは、立川警察署に派遣された警視庁公安二課所属の警察官によってなされ、被告人らが逮捕された際行われた捜索差押も公安第二課所属の警察官によるものである。

各書類の作成者を見ても警視庁公安第二課の者は20名になるのであって、警視庁公安部公安第二課が、本件の主たる捜査を担っていたことは明らかであり、警察は、当初から本件を公安事件として扱い、単なる住居侵入事件としては見ていなかったのである。

C 捜査過程の異常さ

まず、逮捕時の異常さである。1ヶ月以上前のビラ投函行為に伴う「住居侵入」について、現行犯逮捕でなく、令状によって逮捕すること自体が異常なことであることは改めて指摘するまでもない。その他、被告人高田の逮捕時には、テント村事務所外にマスコミのテレビカメラが3台来ており(第6回高田・18頁)、いわゆる「引き回し映像」を撮らせるため、被告人ら逮捕に関する情報がリークされたことが疑われる。

また、逮捕当日、被告人ら及びテント村の他のメンバー3名の住居に対して、一斉に行われた家宅捜索では、立会人が抗議したにもかかわらず(第6回高田・18頁)、第三者の住所録など個人情報が多数入ったパソコンや他団体の発行物、集会資料などが、広汎に押収された。現在に至っても、押収されたものは返還されていない。パソコンとその中に入った情報が、現代社会において、業務上も私的な交際においてもきわめて重要であることは改めて指摘するまでもないが、本件では、テント村事務所から2台、被告人ら以外のメンバー宅から3台ものパソコンが押収を受け(弁105、107ないし109号証)、その後のホームページの利用・メールでの情報交換などが困難になり、過去のデータの多くの部分が紛失し、テント村の活動に著しい悪影響を与えた。また、インターネット上で、本件弾圧を告知し、支える陣形を構築するのにも、多大な支障が生じた。

被告人らに対する取調べも異常である。被告人らに対して、逮捕後起訴されるまでの20日余にわたって、接見禁止の状態のまま、連日6~8時間にわたる厳しい取調べが行われたが、ほとんどの時間が、立川テント村及び被告人個人の運動の背景や思想・信条の調査、関係者についての情報の提供の要請、運動をやめるようにという強制に使われた。

被告人高田は、「二重人格のしたたか女」「立川の浮浪児」「寄生虫」などという人格攻撃や「ほかのやつらは、お前に責任をなすりつけようとしている」という友人らに対する誹謗中傷を受けただけでなく、「運動をやめて立川から出て行け」「運動をやめないと、立川の町をふらふら自転車で歩けないようにしてやる」などと取調官から責め立てられた(第6回高田・19頁)。

被告人大西は、ビラ入れ行為とは無関係のことで長時間の取調を受け、「母親が介護保険を利用しているのに、義務を果たさずに権利ばかり主張している」「政府に反対するのなら北朝鮮に行け」などと言われている(第6回大西・18頁)。

被告人大洞は、「家族や職場は心配ではないのか。このままでは首になるんじゃないか」など転向を迫るような言葉を投げつけられ、精神的に圧迫を加えられるとともに、テント村の活動から手を引くように言われている(第5回大洞・24頁)。また、被告人大洞は、検察官から、全国の自衛隊宿舎への他の市民団体による反戦チラシの配布が、本件により、増えたのか、減ったのかを調べてみれば面白いだろうと言われている(第5回大洞・25~26頁)。検察官の発言は、本件逮捕・勾留による他の市民団体への萎縮効果を充分に意識したものであることは明らかである。

以上、実際の捜査の過程からも、弾圧の政治的意図が窺われる。

D 検察官の発言

検察官による発言も、警察主導による捜査と、反戦ビラの配布の抑止を目的としたものであることを裏付けている。

検察官は、本件公訴提起に際し、「反戦ビラが自衛隊関係者である住民に精神的脅威を与えた点にも言及した」(弁113号証2004年3月20日付東京新聞)との報道がなされている。この報道によれば、本件公訴提起にあたっては、配布されたビラの内容が問題とされているのであり、まさに検察官は、表現の自由に対する侵害であることを自認している。

前出の2004年6月3日付毎日新聞には、東京地検八王子支部・相澤恵一副部長の「例えば、宅配ピザのチラシなら、住民は歓迎するかもしれない。だが、居住者の意思に反し嫌がられる場合は、同じチラシ配りでも意味が違う」との発言が報道されており、やはりビラの内容が問題であったことを自認している。

さらに、原判決後の2006年1月10日付朝日新聞には、政治的ビラ配布に対する弾圧の特集記事で、本件捜査に対する検察当局の考え方について、以下のような検察幹部のコメントが掲載されている。

記者「ビラまきの摘発が議論になると思ったか」

検察幹部「なるだろう、なってもいいとは思った」

記者「捜査の主導権は」

検察幹部「警察がやりたいという話だった。だが、何でも検挙というのではなく、ある程度は歯止めが必要だ。今回は検討の結果、検察としても検挙に異を唱えなかった」

…中略

記者「立川の事件後、各地でビラをまいていた人が萎縮していると言われるが」

検察幹部「具体的にはよく知らないが、住居の平穏を害する恐れのある態様でのビラまきが自粛されているなら、よい効果があったと言えるのではないか」

このコメントからすると、検察当局は、本件弾圧が言論の自由との関係で議論になることを十分に承知しながら、警察の主導のもと、萎縮的効果についても予期した上で、逮捕・起訴にふみきったことは明らかである。

E 本件起訴による広範かつ強力な萎縮効果

上記検察官の狙い通り、本件起訴は、ビラ配布、投函に対する広範かつ強力な萎縮効果を生んでいる。これについて、憲法21条違反のところで詳述したとおりである。

F 最近の言論弾圧の手法

現在、本件以外にも、表現の自由に関する重要な裁判が進行している。日本共産党機関誌「赤旗」号外を投函した社会保険庁職員が、国家公務員の政治的行為を禁止した国家公務員法102条違反で逮捕・起訴された事件、本件一審判決が出された直後に葛飾区のマンションで「議会報告」を投函した行為が本件と同様住居侵入罪で現行犯逮捕され、起訴された事件等である。

これらは、適用罪名は別にしていずれもビラ投函が問題となっている事件であり、逮捕したのは警視庁公安部である。このように、公安警察が主導して、表現行為であるビラ投函を規制しようとする動きがある中、本件もその一環として行われたものであり、テント村の活動だけでなく、全国的に行われている多くの政府に批判的な内容の表現活動を抑圧しようとする、極めて政治的目的を持ってなされた公訴提起である。

(4) 小括

本件の問題点は、①行為そのものは極めて日常的かつ、平穏なものであること、②法益の侵害が存在しないか、存在したとしても極めて軽微であること、③実質的な公訴提起の理由は、立ち入りによる住居の平穏の侵害や居住者の意思の侵害にあるのではなく、配布された本件ビラの内容にあること、④本件公訴は、住居侵入における立ち入り行為ではなく、ビラの配布をターゲットとしていること、⑤本件捜査の過程は、通常の刑事事件の捜査と異なり、当初から公安事件として取扱い、事件化を目的としてなされていることである。

これを公訴提起の効力としてみるに、「本件において検察官は、警察捜査の異常性に配慮を欠き(違法捜査の看過ないし黙認)、犯罪の成立が微妙か少なくとも通常犯罪とは考えられない行為に対して(犯罪の軽微ないし不存在)実質的にはビラの内容を重視した(裁量判断の誤りないし悪意)公訴提起を行ったことになる。そして、軽微ないし犯罪の成立が微妙な事件に対し、捜査の適正性を配慮せず、加えて表現の自由と関連する行為について漫然ないし悪意をもって公訴提起を行っているのであるから、本件公訴提起は違法であり、かつその違法性は重大であり、公訴の提起を無効ならしめる域に達しているというべきである」(新屋意見書・12ページ)。最高裁が示した「極限的場合」に正に該当する。

よって、本件公訴提起は、検察官の裁量の枠を逸脱したものとして、公訴権の濫用に該当し、これを破棄しなければ著しく正義に反するので、刑事訴訟法411条1号により原判決を破棄した上、刑事訴訟法338条4号により、公訴棄却の判決を下すべきである。

3 手続違背

原判決は、一審判決が「住居」侵入罪の構成要件該当性を認めたのに対して、訴因変更手続をとらず、また、裁判所としての心証等について当事者に示唆をすることもないまま、「人の看守する邸宅」への侵入罪を認定した。

原判決は、この点につき、「訴因等変更手続などは要しない」とするために、審理経過などを引用して、弁解をする(9~11頁)。

しかし、原審が刑訴法312条に定められた訴因変更手続をとらなかったことは、明白な手続違背であって、その結果、被告人らは防御の機会を奪われ、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められるので、刑訴法411条1号により原判決を破棄すべきである。

(1) 訴因変更の要否について

審判対象たる訴因と立証された事実との間のずれがどの程度にまで達すると訴因変更を要するかについては、事実記載説と法律記載説の対立があるとされるが、判例は基本的には事実記載説の立場をとるとされる。同説は、訴因の機能が当事者の攻撃・防御の対象を明確にし被告人の防御を全うさせることにあるとの観点から訴因の事実的側面が重視されるべきであり、被告人の防御に影響がある限り、訴因の変更を要すると解する立場である。

さらに、「被告人の防御」について、具体的に判断すべきか、抽象的に判断すべきかという点についても対立があるが、結局のところ、「判例の基本的な流れは、抽象的基準に従って判断できるとするものと解されるが、具体的事案においては、被告人の現に行っている具体的な防御に照らし、当該事実のずれが被告人に著しい不利益を生じさせるおそれがあるようなとき、これを考慮して訴因の変更を要すると判断すべき場合があると考えられる、としている。」(藤永幸司他編『大コンメンタール刑事訴訟法第4巻』・756頁~759頁)

(2) 本件について

本件では、同一条文内の行為の客体の認定の変更が、上記の基準に照らし、訴因変更が必要な場合にあたるのかが問題になる。

原判決のように、客体を「人の看守する邸宅」とした場合、「看守性」と「邸宅」のそれぞれの要件について、構成要件該当性を検討することが必要になる。特に「看守性」の概念については、新たな事実認定が必要であり、単なる法的評価の変化とは評価できない。もし、裁判所が訴因変更を示唆するなどしていれば、弁護人としては、新たな立証を準備できる可能性があった。

また、具体的な手続に即してみても、一審第1回公判で弁護人の求釈明に答えて、検察官は、客体について、「『敷地』及び『各室玄関前』はいずれも『住居』である」と明言したのである。弁護人はその検察官の訴追意思に対して、具体的な攻撃防御を行ってきた。

被告人・弁護人にとっては、原判決が刑法130条の客体を、全く予告なく変更して認定したことは、不当な不意打ちであった。

以上のことからして、原判決には重大な手続違背があるため、破棄されるべきである。

第5 まとめ~私は私にできることをしているだけ

1 ビラまきという表現活動保護の重要性

民主主義社会は自己統治の社会である。そこでは自由闊達な議論が保障されることが不可欠である。そして、自由闊達な議論が保障されるためには、多様かつ十分な情報が伝達され、その情報に自由にアクセスできることが保障されていることがこれまた不可欠である。

議論をし、合意形成をなすには多くの時間と労力とを必要とする。また、この過程では、迷惑・不快を感じることも多々あるかもしれない。しかしそのような「面倒・手間を厭うならば政治は王様や貴族に任せるしかない」(吉野作造)のである。その意味で、民主主義社会は、「迷惑」や「不快感」を許容する社会でもある。

現代社会には、習慣や価値観を異にする多くの人々が生活している。このような社会では習慣や価値観の衝突がしばしば起ることは避けられない。日常生活の中でも、他人の行為を迷惑だと思ったり、不快感を感ずることも少なくない。

しかし、だからといって直ちにこれらの行為を刑罰を持って取り締って欲しいと思うだろうか。これらの「迷惑」や「不快感」を直ちに刑罰により取り締まったとしたら、社会全体が権力が前面に出たギスギスしたものになってしまう。

警察用語で「民事不介入」という言葉がある。それは市民社会における些細な紛争、トラブルについては、極力、当事者間での話し合いによる解決に委ねるべきであり、警察が出張るのは、市民の生命、身体、財産に危害が加えられるような場合だけにしようというものだ。

いったい、被告人らによる本件ビラ投函の結果、居住者に如何なる「被害」が発生したというのか。仮に居住者がビラ投函によって「迷惑」や「不快感」を抱いたとしても、それは民事上の損害賠償請求が認められる程度のものですらない。もらいたくないビラは個別にステッカーを貼るなどの方法で拒否し、あるいは受け取っても捨てればいい。「民事」にすらならないことに、どうして「民事不介入」の大原則を掲げる警察が介入するのか。

一審で明らかにされたように、本件では被害届の作成を公安警察が代行したばかりでなく、管理権者の署名・押印をもらうために、警察官がわざわざ東立川駐屯地まで出向いている。公安警察の動きは非常に積極的であった。

結局のところ本件が問題とされるにいたったのは、被告人らによる本件ビラの内容が、国家の政策を批判するもので、立川宿舎居住者らの「不快感」ではなく国家の「不快感」をかったからに他ならない。第1起訴事実のビラは、陸上自衛隊の先遣隊がクウェートに向けて出発した翌日に投函された。国家意思を体現した警察・検察は、この時期に自衛隊の士気が下がることをおそれ、また全国で同様に行われていた反戦運動に萎縮効果を及ぼさせるため、見せしめ的に被告人らを逮捕・勾留、起訴したのである。

本件以降も、葛飾マンションビラ投函逮捕(起訴)、都立高校卒業式における「日の丸・君が代」強制反対ビラ配り逮捕など公安警察主導による「微罪」逮捕・立件が続いているのは、これらの行為を国家が不快に感じているからである。

本件弾圧については、逮捕直後から学者、ジャーナリスト、法律家、市民らから、民主主義を圧殺するものだと危惧の声、抗議の声が挙げられた。

例えば、鵜飼哲一橋大学教授は、

「今回の弾圧は、ビラの配布という、すべての社会運動の呼吸ともいうべき基本作業の圧殺を狙っている。3人が有罪になるなら、いっさいの社会運動が有罪を宣告されるのだ。

郵便受けとは私的な空間が公的な空間に向かって開かれる『窓』である。同じ社会に生きる市民として、そこにみずからの政治的主張を記したビラを投ずることは私たちの譲ることのできない権利である。逆にいえば、『窓』を閉ざす側は、そのことによって、みずから社会的に死ぬのである。自衛官とその家族にとって、この表現は決して単なる比喩ではない。それは、人の身体に喩えるなら、『耳』や『目』以前に、『鼻』や『口』にあたる機関をみずから塞ぐことである。ポスティングの自由がなければ私たちは窒息してしまう。それは自衛官とその家族にとっても真実である」と、本件の本質を指摘している。

ところで、情報伝達の媒体としてすぐに思い浮かぶのは、新聞、ラジオ、テレビ、雑誌などのマスメディアである。そこで「表現の自由」が問題となるのは、ともすればマスメディアにおける表現の自由と思われがちである。

しかし、ビラは民衆にとって最も身近なかつ簡便な伝達手段であることに留意すべきである。昔から地域の伝達手段として利用されている回覧版、チラシなどは、民衆相互の伝達手段として典型的なものである。ピザや寿司の出前配達の知らせなど、商業用チラシももちろんそうである。

ビラに無縁だと思っている人でも、或る日突然、ビラによって自分の思いを周囲の人々に伝達する必要が出てくるかもしれない。例えば、近所に大きなマンションが建設されることになり、日照権を守るために近所の人々と一緒になって立ち上がらなくてはならなくなるかもしれない。補足説明で紹介したように(※1)飼い猫が行方不明になった場合に、近所の人々からの情報を求めて、チラシを作成して撒くことだってあるかもしれない。

ビラは比較的安上がりで、容易に作成できるというだけではなく、マスメディアが伝えない地域性、ローカル性さらには個人的な情報でさえ伝えることができるという利便性がある。必要なところに必要な情報をピンポイントで送ることができるのである。

本件では、「住居侵入罪」という、本来ビラ投函・配布を規制することを目的としていないはずの罪が、「目的外使用」され、民衆にとって、最も簡便かつ利便性に富んだ表現行為であるビラの投函が危機にさらされているのである。それは、民主主義の根幹に対する破壊行為である。

2 他人の見解に耳を傾けることの大切さ

憲法第21条が「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」としているのは、表現行為が民主主義社会の根幹をなす、極めて重要なものであると考えるからである。また、この自由はその性質上、傷つきやすいものである。よって、とりわけ政府の政策を批判する自由は最大限に尊重されなければならない。

したがって、表現行為については、それが仮に他者の権利と衝突するような場合にも、ダイレクトに刑罰権が発動されるべきではない。そして自分が「迷惑」「不快」だと思ったことについても、耳を傾けてみることが必要である。

本件においても、ある立川宿舎居住者は被告人らによるビラ配布を迷惑だと思ったかもしれない。しかし、その人だって投函されたビラの内容に目を通して考えが変わる可能性がある。

たしかに自分と反対の意見に耳を傾けることはなかなか難しい。熱狂的であればあるほど異なる意見に耳を閉ざし、目を閉ざしてしまいがちなのは誰しも経験のあることであろう。自分の意見に情熱を持てば持つほど反対意見に対しては頑なになってしまいがちである。

自分は相手とは異なる見解を持っていながらも、相手の見解に対して真摯に耳を傾ける、このような態度こそが民主主義の基本である。相手の見解に真摯に耳を傾けようとする態度は、当然のことながら相手の見解に説得力があるならば、自己の見解に固執せず、これを訂正して相手の見解を受け入れようとする用意を内包するものでなくてはならない。『少数説が多数説に変わりうる可能性の保障』、これこそが民主主義である。

原審においても述べたように、本件を無罪とした一審判決に対しては、メディア、学界、世論などで圧倒的な支持がなされた。そしてこれを覆した原判決に対しては、一般常識に背を向けた不当な判決というのが専らの評価である。

本件では、被告人らの行った行為の外観については、ほとんど争いはない。その行為が刑法130条で罰せられるのかが問われている。このような場面では、予測可能性を担保するため、一般人の常識による判断が重要である。

裁判所は、「被告人らが犯罪を犯したと評価されるなんて信じられない」という声に耳を傾けるべきである。裁判員制度が導入されようとしている本来の目的も、そのような「市民感覚」を司法に取り込むというところにあるのではないか。

3 自衛隊員及びその家族は「情報」から遮断されて当然なのか

先の大戦末期、米軍機が撒いた海・陸での日本軍の敗退を知らせるビラを当局は拾うことを禁じ、拾った者は非国民、敵のスパイとみなすとしたという。被告人らによる立川宿舎へのビラ投函を、宿舎の個々の居住者の立場からでなく、管理権者の立場から、これを一律に禁じ、さらには110番通報するようになどと内部連絡した自衛隊当局の対応は、このことを連想させた。

B 証人は、本件ビラは反自衛隊的と決め付けた。同人は、「全体的な文脈から反自衛隊的な内容であると判断できる」とし、「自衛隊の仕事自体を否定するような内容でありますので、それはもう、自分の仕事に対して文句を言われているという趣旨の文面から、全体総括といたしまして、反対してるんだなと思われてもしょうがないのではないでしょうか」と述べたのである。

これに対して、元衆院議員で防衛政務次官、郵政大臣を歴任した箕輪証人は、「いい情報も、自衛隊員にとって都合の悪い情報も、情報は幾らでも入ったほうがいいと思います。」と述べた。そして、ビラ投函について自衛官やその家族が不安に感じているのは、ビラ投函自体ではなく、法律違反のイラク派兵であるとして、「自衛隊、あるいは自衛隊の家族の方が、不安があるのは当たり前だと思います。法律違反をして不安がないというのはおかしいんで、不安があるのは当たり前だ」と述べ、「私は不安があったほうがいいと思うんです」と証言した。

本件ビラを反自衛隊的なものと決めつけ、建物管理者の立場において、このビラを排除しようとした管理権者、自衛隊当局のやり方は、立川宿舎の居住者らへの情報遮断し、いわば「特別権力関係」の中に取り込むという点で、先の戦争末期の政府の対応と同じであり、個々の自衛官の人権を尊重するという観点に全く乏しいものである。

4 歴史は薄められて再来する

本件の核心は、民主主義社会の根幹をなす「表現の自由」である。本件のような逮捕・起訴が許されるなら、市民の「表現の自由」が圧殺されてしまう。私達が表現の自由が圧殺された暗黒社会から解放されて、たかだか60余年しか経ていないことを想起すべきである。

このように主張すると、「今日、民主主義社会は定着しており、戦前のように言論弾圧社会に戻ることはあり得ない。大げさすぎる」と反論されるかもしれない。

たしかに、ストレートに、むき出しの暴力立法がなされ、それが直接に運用され、戦前のような言論弾圧社会が到来することは、今すぐには考えにくい。しかし、本件に見られるように、本来保護法益を異にする「住居侵入罪」というような刑罰法規によって言論の自由が脅かされるなど、本来想定していないような刑罰法規の濫用によって言論活動が脅かされようとしている事実を見るとき、『治安維持法なき治安維持法状態』が出来しつつあると思わざるを得ない。また、時あたかも、国会では、「現代の治安維持法」ともいわれる「共謀罪」なるものの新設が議論されてもいる。

まさに、『歴史は薄められて再来する』のである。

5 今止めなければ取り返しのつかないことになる

さらに留意すべきは、一つ一つの言論活動の規制が、それが直ちには全面的な言論活動への弾圧となって現れるわけでないということである。

先の大戦末期、共産党の再建活動をしたとして治安維持法違反で逮捕・立件された横浜事件は神奈川県特高警察のむき出しの暴力による言論弾圧事件としてよく知られているところである。大正デモクラシーの末期、加藤高明を首班とする護憲三派内閣によって普通選挙法(女性は除外)とセットで治安維持法が制定されたとき、同法の危険性が指摘された。しかし、ここまで濫用され、猛威を振るうことになると予測した人はどれだけいたであろうか。

そのときには大した事ではないと目をつむってしまったことが、後に振り返ってみると、大きなターニングポイントであったということはしばしばある。私たちはそれをドイツにおけるワイマール共和国の崩壊過程などに見ることができる。「ドイツでナチが台頭し最初に共産主義者が投獄されたとき、人々は共産主義者だから仕方がないと抗議の声を挙げなかった。次に社会主義者が投獄されたときも、社会主義者だから仕方がないと、やはり抗議の声を挙げなかった。そして最後は自由主義者が投獄される番であった。気がついたときは、すでに遅かった」というのは、よくひかれる言葉である。

「微罪」や別件による逮捕・勾留・起訴、あるいは家宅捜索は、これまでにもなかったわけではない。

そもそもこのような捜査手法は警備・公安警察の常套手段であった。1970年代以降、新左翼諸党派に対する捜査がそれである。

例えば、ある党派のメンバーと目される人物が成田から飛び立つとき、前日に成田のホテルにペンネームで泊まった。彼が海外から成田に戻ってきたところを「旅館法違反」で逮捕する。あわせて身体捜索あるいは「関係者」宅の家宅捜索も行われる。また、京都在住のある党派の活動家が、上京に際してペンネームで事務所に自分の衣類を宅急便で送るために送り状を書いた。後で「有印私文書偽造・同行使」として逮捕される。そして、「関係先」に対する家宅捜索。本件でも同様であるが、微罪逮捕を行い、その後に大々的に家宅捜索を行い、情報を収集しようとするのが、公安捜査の常道である。

オウム真理教の信者に対しても、「治安維持」の名のもとに、違法な捜査方法が横行した。信号無視で逮捕、マンションの1階、開口部分の駐車場に車を入れて停車していたところ、住居侵入罪で逮捕・勾留・起訴されるなど、めちゃくちゃな捜査がなされた。オウム信者に対しては、憲法第31条が保障する適正手続(デュープロセス)条項の適用はなかった。微罪逮捕、別件逮捕、何でもありだった。

このような例を見るとき、逮捕令状・家宅捜索令状・勾留状を発布した裁判官の人権感覚はどのようなものかが問われなければならない。裁判所は人権の「最後の砦」としての存在価値を示しているといえるか。

このような流れに歯止めをかけるためには「法の支配」の復権、「立憲主義」の確立が不可欠であることを理解すべきである。

6 裁判所の責務…裁判所に対する期待

被告人らの本件ビラ配布行為は、自衛隊のイラク派兵という歴代政府の見解をもってしても「一見明白」に違憲な行為をやめさせようと呼びかけたものであることは、これまで述べてきたとおりである。

裁判所は憲法9条の空洞化、法の支配、立憲主義の破壊状況に対して忸怩たる思いはないか。

日本の司法は、立法、行政の暴走に対して制動を掛けることに極めて慎重であった。確かに選挙によって国民から選ばれた議員によって構成される国会において成立した法律が選挙の洗礼を受けていない裁判官によって簡単に否定されてしまうのは不都合である。しかし、行政の暴走もしくは議会の多数派によって憲法の基本原理、立憲主義の根幹が脅かされようとしているとき、裁判所は国民から負託されたその機能を行使することをためらってはならない。

裁判所は憲法の人権条項については、これまで憲法第13条「幸福追求の権利」等を手がかりとして、「知る権利」「環境権」等々判例理論を創造的に発展させてきた。

ところが憲法9条「安全保障問題」に関してはそうではなかった。その結果が現在進行している戦地イラクへの自衛隊の派遣、さらには「多国籍軍」への参加という違憲な事態の出現である。このような事態をもたらした原因は、遠く1959年12月16日の砂川事件最高裁大法廷判決に遡る。同判決が安全保障問題は「一見極めて明白に違憲無効」と認められない限り、司法審査の対象とならないと、いわゆる統治行為論を展開して以降、約半世紀に亘って同問題に関する司法審査が封印されてしまった。

砂川判決から約半世紀、当時の最高裁判事は、今日のような事態―国連憲章、国際法を無視した米国の先制予防攻撃に追随し、政府答弁、国会決議によってくり返し確認した「専守防衛」「海外派兵はしない」の定めを簡単に反古にしてしまう政府の態度―すなわち、憲法の条文は変わらないままに政治状況の変化だけで成文憲法がここまで変幻自在に解釈され、その結果「法の支配」が破壊されてしまうかを予測したであろうか。

7 最後に

もとより「立憲主義」「法の支配」の実現は、一人裁判所の責務だけではない。憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と憲法保持のための行為について定めている。

被告人らが立川宿舎に自衛隊のイラク派遣に反対する旨のビラ配布をしたのは、まさに憲法12条の履行である。被告人らはこの義務の履行を、誰にでもできる簡便なビラ配りという方法によって行った。

南アメリカ先住民に伝わる『ハチドリのひとしずく』(監修・辻信一)という物語がある。短い物語なので全文引用する。

「森が燃えていました

森の生きものたちはわれ先にと

逃げていきました

でもクリキンディという名の

ハチドリだけはいったりきたり

くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは

火の上に落としていきます

動物たちがそれを見て

『そんなことをしていったい何になるんだ』

といって笑います。

クリキンディはこう答えました

『私は、私にできることをしているだけ』」

被告人らの本件ビラ投函は、この「ハチドリのひとしずく」のようなものかもしれない。しかし、ハチドリも一匹では森の火事を消すことはできないが、1匹が10匹、10匹が100匹と数を増やしてゆけば、遂には森の火事を消すこともできるかもしれない。被告人らはそれを信じて、森(世界)の火事を消すために本件ビラ投函をなした。20年以上も前から続けてきた。

裁判所は「そんなことしていったい何になるんだ」と被告人らの行為を笑うこともできる。逆に被告人らの行為がやがては世界の火事を消すための大きな流れにつながっていく可能性に助力することもできる、どちらに与するかは裁判所を構成する判事諸賢の手に握られている。いや、負託されている。

被告人、弁護人らは、本件発生以来、全国各地において本件裁判に支援を寄せてくれた多くの人々とともに、憲法第76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」がわが国において有効に機能していることを確認したい。

原判決を破棄し、被告人らに無罪の判決をなされんことを願う。

(上告趣意補充書(第1)及び上告趣意補充書(第2)は省略)

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