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最高裁判所第二小法廷 平成19年(れ)1号 判決 2008年3月14日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

被告人5名の弁護人大島久明ほかの上告趣意のうち,最高裁昭和22年(れ)第73号同23年5月26日大法廷判決・刑集2巻6号529頁を引用して判例違反をいう点は,原判断が同判例の趣旨に沿うものであることが明らかであって,実質において単なる法令違反の主張にすぎず,東京高裁昭和36年(お)第1号同40年12月1日決定・高刑集18巻7号836頁を引用して判例違反をいう点は,同判例が,所論のような趣旨までをも示したものではないから,前提を欠き,その余は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反の主張であって,いずれも適法な上告理由に当たらない。

なお,所論にかんがみ,職権で判断する。

1  本件は,第二次世界大戦下,言論・出版関係者数十名が,治安維持法違反の被疑事実で検挙され,うち多くの者が,同法違反の罪により起訴されて,昭和20年9月までの間に有罪判決を受けたという,いわゆる「横浜事件」に関する再審事件であるところ,記録によれば,本件の経過は,次のとおりである。

(1)  A,B,C,D及びE(以下「被告人5名」という。)は,いずれも治安維持法違反の罪により横浜地方裁判所に起訴されたが,同裁判所は,昭和20年8月29日から同年9月15日までの間に,被告人らの自白を証拠として,同法1条後段及び10条違反の事実を認定し,被告人5名に対して,いずれも懲役2年,執行猶予3年の各有罪判決を言い渡し,各判決は上訴されることなく確定した(以下,被告人5名に対するこれらの判決を総称して「原確定判決」という。)。

(2)  その後,被告人5名はいずれも死亡したが,平成10年8月14日,被告人5名の妻又は子である請求人らは,原確定判決につき,無罪又は免訴を求めて本件再審請求を横浜地方裁判所に行った。

(3)  横浜地方裁判所は,平成15年4月15日,本件再審請求につき,取り調べた鑑定書等の証拠によれば,昭和20年8月14日に我が国がポツダム宣言を受諾し,同宣言が国内法的効力を有するに至ったことにより,本件で適用された治安維持法1条,10条は実質的にその効力を失ったと解され,旧刑訴法363条2号にいう「犯罪後ノ法令ニ因リ刑ノ廃止アリタルトキ」に当たるから,同法485条6号にいう「免訴ヲ言渡(ス)…ヘキ明確ナル証拠ヲ新ニ発見シタル」場合に該当すると判断して,被告人5名の再審を開始する決定をした。

(4)  これに対し,検察官が各即時抗告を申し立てたところ,東京高等裁判所は,平成17年3月10日,上記(3)の判断には疑問があり,免訴を言い渡すべき明確なる証拠を新たに発見した場合に当たるとした上記再審開始決定は,にわかに是認できないけれども,請求人らの提出した証拠によれば,原確定判決に証拠として挙示された被告人らの自白の信用性には顕著な疑いが生じたといえ,上記請求人らの提出証拠は,被告人5名に対し,無罪を言い渡すべき,新たに発見した明確な証拠であるといえるとし,結局,旧刑訴法485条6号の事由があるので,本件再審請求は理由があるから,上記再審開始決定は結論において正当であるとして,検察官の各即時抗告を棄却し,同決定は確定した。

(5)  本件再審の第1審が,横浜地方裁判所で開始されたところ,同裁判所は,平成18年2月9日,要旨,(ア) 被告人5名は,治安維持法1条後段,10条に該当する行為をしたとして起訴された,(イ) 同法は,昭和20年10月15日に「治安維持法廃止等ノ件」と題する昭和20年勅令第575号が公布・施行されたことにより,同日廃止され,また,同月17日,同年勅令第579号による治安維持法違反の罪についての大赦令が公布・施行されたことにより被告人5名は大赦を受けた,(ウ) 公判裁判所が公訴について実体的審理をして有罪無罪の裁判をすることができるのは,当該事件に対する具体的公訴権が発生し,かつ,これが存続することを条件とするのであり,免訴事由の存在により公訴権が消滅した場合には,裁判所は実体上の審理を進めることも,有罪無罪の裁判をすることも許されない,(エ) そうすると,本件被告事件について,被告人5名には,旧刑訴法363条2号(刑の廃止)及び3号(大赦)に該当する免訴事由があるから,免訴判決をもってのぞむのが相当であるとして,被告人5名をいずれも免訴する判決(以下「本件第1審判決」という。)を言い渡した。

(6)  これに対し,弁護人が各控訴を申し立てて,被告人5名を免訴した本件第1審判決は違法,不当であると主張し,無罪判決を求めたところ,原審の東京高等裁判所は,平成19年1月19日,免訴判決は,被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するものであり,これによって被告人はもはや処罰されることがなくなるのであって,このことは再審の場合においても通常の場合と異なるところはないから,免訴判決に対し,被告人の側から,免訴判決自体の誤りを主張し,あるいは無罪判決を求めて上訴の申立てをするのはその利益を欠き,不適法であるとして,旧刑訴法400条により各控訴を棄却する判決(以下「本件原判決」という。)を言い渡した。

(7)  そこで,弁護人が,同日,本件各上告に及んだ。

2  弁護人は,無この救済という再審制度の趣旨に照らし,再審の審判においては,実体的審理,判断が優先されるべきであるから,その判断をせず,旧刑訴法363条2号及び3号を適用して被告人5名を免訴した本件第1審判決は誤りであり,被告人の側には本件第1審判決の誤りを是正して無罪を求める上訴の利益が認められるべきであるのに,本件第1審判決の判断を是認した上,上訴の利益を認めなかった本件原判決は,同法511条等の解釈適用を誤っていると主張する。

しかしながら,再審制度がいわゆる非常救済制度であり,再審開始決定が確定した後の事件の審判手続(以下「再審の審判手続」という。)が,通常の刑事事件における審判手続(以下「通常の審判手続」という。)と,種々の面で差異があるとしても,同制度は,所定の事由が認められる場合に,当該審級の審判を改めて行うものであって,その審判は再審が開始された理由に拘束されるものではないことなどに照らすと,その審判手続は,原則として,通常の審判手続によるべきものと解されるところ,本件に適用される旧刑訴法等の諸規定が,再審の審判手続において,免訴事由が存する場合に,免訴に関する規定の適用を排除して実体判決をすることを予定しているとは解されない。これを,本件に即していえば,原確定判決後に刑の廃止又は大赦が行われた場合に,旧刑訴法363条2号及び3号の適用がないということはできない。したがって,被告人5名を免訴した本件第1審判決は正当である。そして,通常の審判手続において,免訴判決に対し被告人が無罪を主張して上訴できないことは,当裁判所の確定した判例であるところ(前記昭和23年5月26日大法廷判決,最高裁昭和28年(あ)第4933号同29年11月10日大法廷判決・刑集8巻11号1816頁,最高裁昭和29年(あ)第3924号同30年12月14日大法廷判決・刑集9巻13号2775頁参照),再審の審判手続につき,これと別異に解すべき理由はないから,再審の審判手続においても,免訴判決に対し被告人が無罪を主張して上訴することはできないと解するのが相当である。以上と同旨の本件原判決の判断は相当である。

なお,当裁判所の調査によれば,被告人(故)Dについて本件再審請求を行ったFは,本件原判決後の平成19年9月2日に死亡したことが認められるが,再審の審判手続が開始されてその第1審判決及び控訴審判決がそれぞれ言い渡され,更に上告に及んだ後に,当該再審の請求人が死亡しても,同請求人が既に上告審の弁護人を選任しており,かつ,同弁護人が,同請求人の死亡後も引き続き弁護活動を継続する意思を有する限り,再審の審判手続は終了しないものと解するのが相当であるから,当裁判所は,被告人(故)Dに対しても,本判決を言い渡すものである。

よって,刑訴法施行法3条の2,刑訴法408条により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官今井功,同古田佑紀の各補足意見がある。

裁判官今井功の補足意見は,次のとおりである。

私は,本件各上告を棄却すべきものとする法廷意見に同調するものであるが,弁護人の所論にかんがみ,再審の審判手続において免訴事由が存在する場合の実体的審理,判断の可否について,補足して述べておきたい。

通常の審判手続においては,免訴事由があるときは,有罪無罪の実体判断をすることは許されず,免訴の判断をすべきであるとするのが,法廷意見で引用する昭和23年5月26日大法廷判決を始めとする当裁判所の確定した判例である。再審の審判手続についてこれと別異に解すべきか否かが,本件において問われている問題である。弁護人は,被告人は有罪の確定判決によって様々な不利益を受けているのであるから,無この救済という再審制度の趣旨に照らし,再審の審判手続において,無罪判決という有罪の確定判決を否定する判決を得なければ,有罪の確定判決により被った不利益を解消することはできないとして,免訴事由があっても実体的審理判断が優先されるべきであると主張する。

再審は,有罪の確定判決に対し,有罪の言渡しを受けた者に有利であるような証拠が新たに発見された場合等に,改めて審理をし直し,裁判をする制度であり,再審が開始され,再審の審判手続における裁判が確定したときには,先にされた有罪の確定判決は,完全にその効力を失うことは異論を見ないところである。そして,免訴判決は,有罪無罪の実体判決をする訴訟条件がないことを理由とする形式裁判であり,免訴事由が存在するときには,さらに実体についての審理判断をすることなく,その時点で審理を打ち切ることが被告人の利益にもなるのであって,このことは再審の審判手続においても通常の審判手続と変わることはない。本件のように有罪の確定判決を受け,死亡した被告人にとっては,審理打切りによる利益はほとんどないということができるであろう。しかし,再審の審判手続において免訴事由が存在する場合の実体的審理,裁判の可否については,本件のような再審事由の場合のみでなく,他の再審事由により開始された場合も含めた再審の審判手続全般を通じて考察しなければならず,再審の審判手続においても審理打切りによる被告人の利益は存在するものと解される。そして,再審の審判手続において免訴判決がされることによって,有罪の確定判決がその効力を完全に失う結果,これによる被告人の不利益は,法律上は完全に回復されることとなる。

もちろん有罪の確定判決があったという事実自体は,再審の審判手続における免訴判決があったからといって,覆しようのないことであるが,このことは仮に再審の審判手続において弁護人の主張するような無罪判決があったとしても同様である。再審制度は,有罪の確定判決の誤りを正し,これによって様々な不利益を受けた被告人を救済するものであるが,それは,有罪の確定判決の効力を失わせることによって実現されるにとどまるといわなければならない。

もっとも,旧刑訴法515条の規定を考慮すれば,免訴を有罪を前提とする実体判決とした場合には,弁護人の主張にも傾聴すべき面もないわけではないが,前記のとおり,免訴は有罪を前提としない形式判決であり,かつ,刑事補償法25条において,免訴の裁判を受けた者は,もし免訴の裁判をすべき事由がなかったならば無罪の判決を受けるべきものと認められる充分な事由があるときは,無罪判決を受けた者と同様の刑事補償を請求することができるものとするとともに,補償決定の公示の規定も定め,免訴判決を受けた被告人に対する刑事補償や名誉の回復について一定の配慮をしているところ,再審の審判手続において免訴判決があった場合にも同条が適用される(本件の場合にも同条が適用されるものと解されることは,古田裁判官の補足意見のとおりである。)ことからすれば,明文の規定がないにもかかわらず,他の再審事由による再審と取扱いを異にして免訴の規定の適用を排除すべき理由に乏しいものといわざるを得ない。

裁判官古田佑紀の補足意見は,次のとおりである。

私は,法廷意見に同調するものであるが,第1審判決が本件における刑事補償の可否について述べていることにかんがみ,この点に関し,以下の点を敷えんして述べておきたい。

第1審判決は,刑事補償法附則9項により,本件についても,刑事補償の対象となり得るとするものであって,私もこの説示を正当と考えるものであるが,免訴の裁判に関しては,同法施行後に裁判があった場合でも,施行前に行われた勾留等については,同法附則3項により補償されないこととなるとする同法制定当時の見解(横井大三「新刑事補償法大意」187頁)も存するところである。

確かに,附則3項は刑事補償法施行前に生じた事項全般についての経過措置を定めたものであり,「施行前に生じた事項」には,補償の原因である無罪等の裁判だけではなく,補償の対象となる抑留等も含まれると解されることからすれば,同項の文言からは上記のような見解も成り立たないわけではない。

しかしながら,刑事補償は,無罪等の裁判があった場合に,その事件に関して刑事手続により行われた身体の拘束について補償をすることを目的とするものであるから,無罪等の裁判が施行後にあった以上,拘束が施行前に行われたものであるかどうかを問わないのが合理的であって,旧刑事補償法についても同様の理解がなされており,現行刑事補償法の制定に際してそのような考えが否定されたような事情はうかがえず,附則3項中,補償の対象に関する部分は確認的なものにとどまるというべきである。また,同項の規定の位置や,同項については,国会における修正により刑事補償法25条が加えられたことに伴い,同条が施行後に裁判があった場合に限り適用することとされたことに関連して,政府原案が修正されたものであることなども考慮すれば,同項は,専ら無罪等の裁判が現行法施行前にあった場合に関する規定と解することが相当であって,同法施行後に,刑訴法施行法2条により旧刑訴法によって無罪等の裁判があったときは,附則9項のみが適用されると解すべきものと考える。

(裁判長裁判官 今井功 裁判官 津野修 裁判官 中川了滋 裁判官 古田佑紀)

弁護人大島久明ほかの上告趣意

原審東京高等裁判所平成19年1月19日判決(以下「原審判決」という。)は、「免訴の判決に対し、被告人の側から、免訴の判決自体の誤りを主張し、あるいは無罪の判決を求めて上訴の申立をするのはその利益を欠き、不適法である。」と判示して、本件控訴を棄却した。

しかし、原審判決は、本件が再審の開始決定が確定した後に開始された再審公判事件であるという事案の特殊性を看過した結果、

Ⅰ 刑訴法405条1号に規定する上告理由

原審判決には、再審公判における被告人の裁判を受ける権利(憲法32条)と法定手続に関する保障(同31条)についての憲法解釈の誤りが存し、

Ⅱ 同法2号に規定する上告理由

原審判決は、免訴判決に対する上訴の利益に関する最高裁判例の解釈を誤って適用した結果として、これと相反する適用をあえてしており、

Ⅲ 同法3号に規定する上告理由

再審の裁判において、原確定判決後に行われた大赦等について旧刑訴法363条2号、3号が適用されるか否かに関しては未だ最高裁の判例が存しないところ、原審判決は、これに関して既に存する東京高等裁判所の判例と相反する判断をしたものであって、

本件上告には刑事訴訟法405条各号に規定する上告理由がある上、

Ⅳ 原審判決は、旧刑訴法511条ないし同363条2号、3号の解釈を誤っており、これにより判決に影響を及ぼすべき法令の違反が存し、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するのであって、刑事訴訟法411条1号に規定する破棄事由が存する。

よって、原判決を破棄し、被告人らに対して直ちに無罪の判決をされるよう求める。

第1 上告趣意第1点(刑訴法405条1号にもとづく上告理由)

原審判決は、原原審のなした免訴の判決に対し、被告人の側にこれを是正し無罪を求める控訴の利益があるとは認められないとして、請求人らの控訴を棄却したが、この判断は次のとおり、憲法第32条及び同第31条に違反しており、破棄されなければならない。

① 再審開始決定が確定し、過去の確定有罪判決に合理的な疑いが存することが裁判所によって明らかにされた、再審公判という段階における「裁判を受ける権利」は、実体裁判を求める権利であり、畢竟無罪判決を求める権利である。請求人らのその権利に基づいた上訴を「上訴の利益なし」として退けるのは、裁判の拒絶であり、憲法第32条違反に当たる。(一で詳説)

② 訴訟条件を具備しているのに、その存否についての判断を原審が誤って免訴判決を下した場合、その免訴判決自体の誤りを正し、実体裁判を求める権利が当事者にはある。その権利に基づいた上訴を「上訴の利益なし」として退けるのは、裁判の拒絶であり、憲法第32条違反に当たる。(二で詳説)

③ 再審公判手続と通常の刑事公判手続を合理的理由もなく同一視し、再審制度の趣旨や法的構造、またそれらによって必然的に生じる通常審との差異を顧慮せずに、再審公判における免訴判決に対する「上訴の利益」を通常審と全く同様に判断することは、適正手続の最後の砦として存在する再審制度の趣旨を没却するものであって、憲法第31条違反に当たる。(三で詳説)

一 憲法第32条違反 その1

~ 再審公判における「裁判を受ける権利」

原審判決は「免訴判決に対し被告人の側にこれを是正し無罪を求める控訴の利益はない」と、こともなげに控訴を退けたが、その理由はあまりに単純な形式論理のみで構成されており、再審制度の趣旨や憲法で保障された国民の「裁判を受ける権利」等には些かの配慮の痕跡も認められない。

原審の判断は、再審制度の趣旨を無視して単純な形式論理に終始した結果、被告人ら請求人らの再審公判における「裁判を受ける権利」を侵害したと言わねばならない。

1.本件の再審公判はどのように開始されたか

この点について論じる前提として、まず本件のこれまでの流れを確認しておきたい。

本件は、周知のごとく、治安維持法下の言論弾圧事件として神奈川県特高によりフレームアップされ、凄惨な拷問に曝された被告人ら被害者が、自らの自由な意思に反して官憲の用意したシナリオに沿う虚偽の自白調書作成を強いられ、挙げ句は敗戦直後の混乱の中でまともな裁判すら受けられずに治安維持法違反に問われ有罪とされた事案である。

戦後ながい年月をかけて被告人らは無罪を訴え続け、ようやく平成15年4月15日、横浜地方裁判所の再審開始決定で再審の扉が開かれ、さらに検察官の即時抗告を平成17年3月10日東京高等裁判所が退け、検察官は特別抗告を断念、再審開始が確定した。

この抗告審における東京高等裁判所は、次のように述べている。

「(元被告人らは)いずれもが治安維持法違反被疑事件により勾引されて警察署に引致された直後ころから、警察署留置場に勾留されている間、その取調べ中、相当回数にわたり、拷問を受けたこと、そのため、やむなく、司法警察官の取調べに対し、虚偽の疑いのある自白をし、訊問調書に署名押印したことが認められる。」(決定書19頁)

・・(中略)・・

「各被告事件につき、当該被告人の自白が挙示証拠のすべてであることがいわゆる横浜事件関係被告人の判決の特徴であり、そのために、当該被告人の自白の信用性に顕著な疑いがあるとなると、直ちに本件確定判決の有罪の事実認定が揺らぐことになるのである。要するに、治安維持法1条後段、10条違反の各行為につき、個々の具体的行為を、国体を変革することを目的とし、かつ、私有財産制度を否認することを目的とする各結社の目的遂行のためにする意思をもってなしたことなどの主観的要件等につき、当該被告人の自白を除くと、これを証すべき証拠が何ら存在しないことになる。しかも、何らかの間接事実等により、これを推認できるとも考え難い。

以上の理由により、上記3名の司法警察官に対する1審、2審、3審の各判決写し、木村亨らの口述書写しを含む31通の口述書写し、「警察における拷問について」と題する書面写し及び陳述書等は、木村亨らに対し、無罪を言い渡すべき新たに発見した明確な証拠であるということができる。」(決定書21~22頁)

2.本件の経緯をふまえると再審公判には何が求められるか

この抗告審決定からも認められる本件の本質と、再審開始決定の確定した時点での本件の具体的到達点(=確定有罪判決に合理的な疑いが存することが裁判所によって明確にされた地点)をしかと見据えるならば、その後の再審公判段階において何がなされるべきなのかは自ずと明らかになってこよう。

過去の誤った裁判によって下された有罪の烙印を、司法自らの手によって払拭されることをひたすら求めて、元被告人ら請求人らは長年にわたって闘ってきた。上記のように抗告審の東京高等裁判所は、その主張に理由があると認め、「無罪を言い渡すべき新たに発見した明確な証拠がある」と判断したのである。そして過去の誤った裁判の「やり直し」をすべきことを決定したのである。再審開始決定が確定したことは、被告人ら請求人らには「やり直し裁判を受ける権利」があることが確定したことを意味する。

やり直し裁判とは、すなわち、過去になされた実体審理とその結果誤って言い渡された有罪判決をいったん白紙に戻し、再度、実体審理を適正手続に則ってやり直したうえ改めて適正な判断をすることである。少なくとも、誤った有罪判決確定の後に行われた立法作用(法の廃止)や行政作用(大赦)による趣旨の異なる救済を楯に、本来の司法によるやり直し裁判を拒絶することが裁判所に許されるはずがない。なぜなら、再審開始決定は、過去に誤って有罪判決を下した裁判所に対し、その裁判のやり直しを命じるものだからである。

3.「裁判を受ける権利」に関する学説

そもそも「裁判を受ける権利」とは、およそ「政治権力から独立の公平な司法機関に対して、すべての個人が平等に権利・自由の救済を求める権利」であり「『法の支配』を実現するための不可欠の手段としての意義を有する」(芦部信喜『憲法Ⅲ 人権(2)』275頁)。

この「裁判を受ける権利」について中央大学名誉教授小島武司は次のように述べている。

「裁判を受ける権利は、国民のすべてに対し独立の裁判所へのアクセスを保障することを通じて、基本的人権の保障と法的正義の確保を図ろうとする、思想の実現に他ならない。(中略)裁判請求権の保障が憲法に取り込まれるとき、人間の理性と歴史の経験の産物とも言うべき裁判原則の「憲法化」が行われることになる。(中略)憲法化という選択の意図に忠実な内容を裁判請求権に含ませようとするならば、この基本権は、独立の裁判所によるとの主体面の保障と並んで、適正かつ効果的な手続によるとの過程面の保障を予定しているものとみなければならない。」(小島武司「裁判請求権」『ジュリスト638号』374頁)

「その権利の内容(=裁判に求められる手続の相当性)は、『手続正義の感覚』いかんによって決まるものであり、(中略)この法感覚は、対象となる事件の内実に応じて多様に変化するはずであり、この変化する弾力的な手続保障を図式化するだけではさして意味を持ち得ないが、『各事件類型に適合した審理方式』とでも表現できよう。」(小島、前掲書375頁)

「国民は、その地位に伴って裁判を受ける権利を保障されているが、同時に、個別事件の内部においても、当事者として司法行為を要求する権利を有するとみるべきである。この権利は、単に法律上必要な審理を求める権能としてではなく、憲法に裏打ちされたデュー・プロセスに従った審理と判断を求める権利として構成されなければならない。つまり、受動的に現行の法律手続による裁判を求めるものではなく、憲法に反する手続を補正し合憲的な裁判を求める創造的な権利として把握されなければならない。(小島、前掲書377頁)

4.再審公判における「裁判を受ける権利」

憲法によって保障された「裁判を受ける権利」は、上記のように「法の支配」の実現を支える不可欠の手段としての存在価値を持ち、各事件類型に適合したデュー・プロセスに従った審理と判断を求める権利として理解されるべきものである。

してみれば、誤判からの無辜の救済を本質的理念とする刑事再審の、しかも既に再審開始が確定した(=確定有罪判決に合理的な疑いが存することが裁判所によって確認された)ことにより開始された再審公判(やり直し裁判)の段階における「裁判を受ける権利」とは、具体的にどのような内容の権利なのか。

それは、過去の有罪判決を正す裁判を受ける権利である。具体的には、過去になされた実体審理とその結果誤って言い渡された有罪判決をいったん白紙に戻し、適正手続に則った実体審理をやり直したうえ改めて適正な判断をすることを裁判所に求める権利である。過去に司法によって誤って押された有罪判決の烙印を、司法手続のなかで完全に払拭されることを求める、すなわち明確な無罪判決を求める権利である。

そこまでの司法手続とその手続の経過でつけられた道筋に忠実に歩を進めれば、法の支配を実現し、基本的人権の保障と法的正義の確保を図るためには、必然的にその結論に収斂せざるを得ない。再審公判という特殊な非常救済手続に適合したデュー・プロセスに従った審理・判断とは、そのような権利に呼応するものであらねばならない。

5.本件の再審公判控訴審における「裁判を受ける権利」

本件の場合、抗告審決定に認められるごとく、再審公判(原原審)の段階で、無罪判決言渡の機もすでに十分に熟していたのであり、かつ、再審公判が二度にわたって開かれ、証拠調べが行われたという経緯がある。その審理のあとに裁判所が下すべき判断は無罪判決以外にあり得ない。

そもそも本件の被告人らは、あの終戦直後の昭和20年8月29日から9月15日にかけてまともな裁判手続を受けることもなく有罪判決を下されたが、その段階で、もし適正手続を伴う刑事裁判を受ける機会さえ保障されていれば間違いなく無罪判決を受けていたはずである。その法的地位が再審請求の段階で東京高等裁判所によって明確に認められたのである。その決定によって開かれた次のステージ(=再審公判)で、被告人ら請求人らが実体審理と無罪判決を求めるのはあまりにも当然のことである。

「裁判を受ける権利」が「政治権力から独立の公平な司法機関に対して、すべての個人が平等に権利・自由の救済を求める権利」であり「『法の支配』を実現するための不可欠の手段としての意義を有する」(芦部、前掲書)ものであり、「国民のすべてに対し独立の裁判所へのアクセスを保障することを通じて、基本的人権の保障と法的正義の確保を図ろうとする、思想の実現に他ならない」(小島、前掲書)のであるならば、本件のごとく再審公判の段階に進んだ地点では、過去の裁判の誤りを正し、今は亡き被告人らに対し明確な無罪判決を下すことこそが、法の支配の実現であり、法的正義に合致した方法である。それ以外の道はない。

ところが、原原審はこれに対し免訴判決を言い渡した。(その免訴判決自体、二で後述するとおり誤った判断であったのであるが、ここではまずそれを措くとしても、)この免訴判決に対し、被告人ら請求人らにはさらに実体審理と無罪判決を求めて異議を唱える権利がある。これが本件の控訴審における被告人ら請求人らの「裁判を受ける権利」に他ならない。

司法が司法としての本質的な機能を果たし法の正義を実現させるためには、控訴審で被告人ら請求人らの異議を真摯に受け止め、それまでの経緯に見合った適正手続により審理が行われなければならなかったはずである。

ところが原審は、本件が再審公判の段階にあることをほとんど顧慮することなく、「およそ免訴判決に対しては控訴の利益がない」という形式論に立脚して、控訴を退けた。これは、端的に裁判の拒絶であり、「裁判を受ける権利」を侵すものであって、憲法第32条に違反する。

二 憲法第32条違反 その2

~ 違法な免訴判決に対する上訴の利益

原審は、「およそ免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するものであり、これによって被告人はもはや処罰されることがなくなるのであるから、免訴の判決に対し、被告人の側から免訴の判決自体の誤りを主張し、あるいは無罪の判決を求めて上訴の申立をするのはその利益を欠き、不適法である。」と判断し、その根拠として最高裁昭和23年5月26日大法廷判決(以下、「プラカード事件大法廷判決」という。)、同昭和29年11月10日大法廷判決、同昭和30年12月14日大法廷判決をあげる。

しかし、この原審の判断は、上告趣意第2点で詳述するようにプラカード事件大法廷判決を誤って解釈適用し、その結果、被告人ら請求人らの正当な上訴の利益を不当に否定したものであって、憲法第32条に違反する。

1.違法な免訴判決に対し免訴判決自体の誤りを主張してなした上訴を「上訴の利益なし」として退けることは裁判の拒絶に当たる

そもそも免訴事由を欠くにもかかわらず、それを「あり」としてなされた違法な免訴判決に対しては上訴する利益がある。裁判所が訴訟条件の存否判断を誤り形式裁判を下したのであるから、被告人の側にはその誤りを正し実体裁判を求めて上訴する権利があるのである。

その権利に基づいた上訴を退けるのは、裁判の拒絶であり、憲法32条違反にあたる。

この理について、団藤重光元最高裁判事は、昭和53年10月31日最高裁第1小法廷決定において次のように述べている。

「訴訟条件は実体的審判の条件であって、訴訟条件が具備するかぎりは、被告人は自己に利益な実体的裁判(ことに無罪判決)を求める権利を有する。憲法32条に規定する『裁判を受ける権利』は、刑事訴訟においては、被告人のかような権利を意味するものといわなければならない。」

本件はまさに、原原審が訴訟条件の存否について判断を誤り免訴判決を下したのであって、後述するように、訴訟条件は本来具備しているのであるから、被告人らは、みずからに利益な実体的裁判(無罪判決)を求める権利を憲法によって保障されている。その権利に基づく上訴をゆえなく退けた原審の判断は、裁判の拒絶に他ならず、憲法第32条に違反する。

2.本件は訴訟条件を具備しており、免訴事由は存在しない

~ 再審公判において、原確定有罪判決「後」に行われた刑の廃止ないし大赦について、旧刑訴法363条2号及び3号を適用して、免訴判決を言い渡すのは誤りである

原審は、弁護人らが「一度有罪の判決が確定し刑罰権の具体的成立を見た後においては、刑の廃止あるいは大赦があっても、その判決の存在や効果そのものに直接何らの影響を及ぼすものではないから、その適法性又は合法性が疑われて開始されることになった再審の公判においては、いまだ判決がなく刑罰権の成否未定の状態にある通常の公判の場合とは異なり、刑の廃止あるいは大赦を事由にして免訴によって審理を打ち切ることなく、有罪の判決による既成の効果を根本的に除去するため、無罪の判決を言い渡す途を認めるべきであり、したがって、また、そのような判断をしなかった違法な免訴の判決に対し、被告人の側に控訴の利益を認めるべきである」旨主張したことに対し、「刑の廃止あるいは大赦の時期と刑罰権の成立の先後に応じ、免訴の判決に対して被告人の側に控訴の利益があるか否かの結論に差を認めるべき理由は見出し難い」としてその主張を退けた(原審判決5~6頁)。

しかし、原審の理由づけは、上告趣意第2点ないし第4点でも詳述するように、判例及び法令の解釈適用を誤り、その誤謬の積み重ねの上に成り立っているものである。

詳論は後(上告趣意第4点)に譲り、ここでは敢えて結論だけを述べてしまえば、再審公判において原有罪判決確定「後」に行われた刑の廃止ないし大赦について、旧刑訴法363条2号及び3号を適用し免訴判決を下すことは、それ自体誤りである。

すなわち、原原審及びその判断を肯定した原審は、旧刑訴法511条の解釈を誤り、通常の刑事公判手続に関する規定は特に除外を定めた規定がない限り再審公判手続でも適用されるべきものと解釈し、旧刑訴法363条2号及び3号を再審公判の手続に適用したが、

① まず、通常の刑事公判手続に関する規定が「特に除外を定めた規定がない限り再審公判手続でも適用されるべきもの」とする論理は、再審制度の趣旨(無辜の救済)を没却するばかりでなく、再審制度の具体的構造(前提となる法的事実及び再審制度を支える法的理念が通常の公判とは全く異なることから必然的に生じる客観的構造上の差異)と著しく矛盾し現実的ではない論理であって、およそ「旧刑訴法の規定状況から認められる再審の公判の制度設計」(原審判決4頁)と合致するといえるようなものではない。

② つぎに、判決確定後の刑の廃止あるいは大赦は、すでになされた有罪判決言渡の既成の効力に何ら影響を及ぼさないものであることは法も定めるとおり(恩赦法第11条)であって、だからこそ本件の再審開始決定が下されたのであることに鑑みれば、いまなお有効に存在する確定有罪判決の誤謬を正す再審公判において、それらの事由が訴訟遂行の障害事由とはなりえない。

③ また、原審はその判断の実質的な根拠として「およそ免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するものであり、これによって被告人はもはや処罰されることがなくなる」という点を挙げているが、過去の誤った確定判決からの救済を求めて敢えて再審請求を行っている被告人ら請求人らには、「刑事裁判手続からの解放」や「もはや処罰されることがなくなる利益」など観念しえないことは三、1、(1)でも述べるとおり、あまりにも明白である。

④ さらに、原原審は「公判裁判所が公訴について実体的審理をして有罪無罪の裁判をすることができるのは、当該事件に対する具体的公訴権が発生し、かつ、これが存続することを条件とするのであり、免訴事由の存在により公訴権が消滅した場合には、裁判所は実体上の審理をすすめることも、有罪無罪の裁判をすることも許されないのであり、この理は、再審開始決定に基づいて審理が開始される場合においても異なるものではないと解される。」(原原審判決9頁)とし、原審も、③で挙げたとおり「免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして・・(中略)」云々と論じ、ともに本件の審理のあり方があたかも公訴権の存否に関わるものであるかのように論じている。しかし、これも誤りである。再審の公判は、検察官の公訴によって審理が開始されるものではなく、被告人側の再審請求が裁判所によって認められ再審開始決定が確定することで開始されるものであり、一方、公訴権はいったん有罪判決が確定し国家刑罰権の実現が図られ公訴の目的が達成されれば目的の達成により消滅するものであって、憲法が定める「二重の危険の禁止」の法理に照らしても、再審公判において、公訴権の復活、存続をストレートに観念することは許されない。公訴権の帰趨について仮に諸論あろうとも、少なくとも、再審公判が検察官の公訴権の発露として存在するものでないことは、憲法第39条と刑事訴訟法第452条(不利益再審の禁止)に照らし争いようのない真実である。であるから、再審公判における審理のあり方を、公訴権の存否によってもって判断すること自体が誤りであると言わねばならない。

以上のようなことから(ただし、原審の理由づけの誤りについては上告趣意第2点ないし第4点において詳述する)、有罪判決確定後の「刑の廃止」や「大赦」は、再審公判における実体審理の妨げにはなりえず、本件に免訴事由となるものは存在しないのである。

したがって、原原審は実体審理ののちに無罪判決を下すことは十分に可能であったし、またそれのみが法の正義にかなった方法であった。原原審の免訴判決は明らかに誤りである。

3.免訴判決自体の効力を争う上訴の利益

上述のように、原原審は、判決確定後の刑の廃止、大赦をもって免訴事由とし「公判裁判所が公訴について実体的審理をして有罪無罪の裁判をすることができるのは、当該事件に対する具体的公訴権が発生し、かつ、これが存続することを条件とするのであり、免訴事由の存在により公訴権が消滅した場合には、裁判所は実体上の審理をすすめることも、有罪無罪の裁判をすることも許されないのであり、この理は、再審開始決定に基づいて審理が開始された場合においても異なるものではない。」(原原審判決9頁)として形式的に免訴判決を下した。

この原原審の免訴判決は、再審制度の趣旨、制度設計について十分に検討することを怠り訴訟条件の具備についての判断を誤って、訴訟条件を具備している(免訴事由の存在しない)本件において免訴判決で裁判の扉を閉じてしまったものである。その判断を不服とし、免訴判決自体の当否を争って上訴することには重大な利益がある。その上訴を「上訴の利益なし」として退けた原審の判断は、憲法第32条に違反するといわねばならない。

三 憲法第31条違反(再審制度の趣旨の没却)

~ 原審判断の誤りの根本にあるもの

1.原審判断の誤り

原審は、上記のようにあくまで形式論で控訴を退けた。原審判断についての詳細な検討は上告趣意第4点に譲るが、たとえば次のような理由づけは全く合理性を有しないし、一で述べた再審公判に求められる法的正義に合致しないことを、ここで再度指摘しないわけにはいかない。

たとえば、

(1) 原審判決は、本件控訴が上訴の利益を欠く実質的理由として、

① およそ免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するものであり、

② 免訴の判決によって被告人はもはや処罰されることがなくなること、を挙げ、プラカード事件大法廷判決、同昭和29年11月10日大法廷判決、同昭和30年12月14日大法廷判決を各引用し、原審判決がプラカード事件大法廷判決をはじめとしたこれら大法廷判決に従った判断であることを示している。

しかし、再審公判では、被告人の「刑事裁判手続からの解放」や「もはや処罰されることがなくなる利益」を観念しえないことは、多言を弄するまでもなく明白であろう。

再審開始決定確定後の再審公判手続における被告人にとっては、原確定有罪判決の誤りを正す実体審理が行われることこそが利益であって、実体審理をすることなく「刑事裁判手続から解放」されることや「もはや処罰されることがなくなること」には何の利益も認められない。

そもそも再審公判における被告人らは、既に確定した有罪判決を受けているのであるから二重の危険の禁止の法理の保護下にあり、自らの意思に反して新たに刑事裁判手続に拘束されることも、さらに処罰されることもあり得ない。再審公判では、元被告人らが自ら敢えて(二重の危険の禁止の法理の保護を受けているにもかかわらず)誤判からの救済を目的として、再度の実体審理を求めているのである。被告人らは、原原審の免訴判決の効果によって初めて「刑事裁判手続から解放」されたり「もはや処罰されることがなくなる」わけではない。

したがって、原審の言うように「刑事裁判手続からの解放」や「もはや処罰されることがなくなる利益」が、免訴判決の誤りを主張する被告人ら請求人らの上訴の利益を否定する実質的理由には決してなり得ないことは、あまりに明らかである。

(2) また、原審がここで引用するプラカード事件大法廷判決をはじめとする3件の最高裁大法廷判決はいずれも通常の刑事手続における上訴の利益を論じたものであり、その一点のみに注目しても、再審公判のステージにある本件に、その理をそのまま適用できるものでないことは明白である。

本件では、あくまで再審公判という特殊な非常救済手続における上訴の利益、ひいては「裁判を受ける権利」が問題となっているのであって、それを無視しての論述は、それだけですでに法的根拠を持たず、法的正義に合致しない。

(なお、プラカード事件大法廷判決をはじめとする最高裁判例の解釈適用について原審は他にも重大な誤りをおかしているが、その点は上告趣意第2点で詳述する。)

(3) さらに、原審は、弁護人らの「本件は再審事件であって、原原審が免訴事由とする刑の廃止あるいは大赦は有罪判決確定後に行われたものであるため確定有罪判決の存在や効果そのものに直接何らの影響を及ぼすものではないから、刑の廃止あるいは大赦を事由にして免訴によって審理を打ち切るべきではない」という主張に対して、「再審の公判が開始され、再審の判決が確定すると、当初の確定した有罪の判決は当然に効力を失うことになる。有罪の判決が確定した後に刑の廃止あるいは大赦があった場合でも、結局は、いまだ判決がなく刑罰権の成否未定の間において刑の廃止あるいは大赦があった場合と同様の状態となるのである。刑の廃止あるいは大赦の時期と刑罰権の成立の先後に応じ、免訴の判決に対して被告人の側に控訴の利益があるか否かの結論に差を認めるべき理由は見出し難い」(原審判決5-6頁)としてその主張を退けた。

しかしこの原審の説く理は、理論としての形すら備えておらず、結論に対しまともな理由づけすら伴っていない。そして何より、法の正義にも合致しないものである。

(ア) まず原審は、免訴判決と実体判決を区別することもなく「再審の判決が確定すると、当初の確定した有罪の判決は当然に効力を失うことになる。」と断言するが、実体判決と当然には相矛盾することのない免訴判決に、実体判決と同様の理屈を当てはめて、「当初の確定した有罪判決は当然に効力を失うことになる」と断定することはそもそも不可能ではないのか。

(イ) のみならず、仮に上記の点を措くとしても、次の点は如何とも理解し難い。

すなわち、原審は、次の二つの場合(a)と(b)を、理由づけもなしに「結局は同様の状態となる」といっているのである。

(a) 有罪判決が確定する前(=無罪推定が機能している状態)に刑の廃止あるいは大赦が行われて、通常の刑事手続の途上で刑事手続から解放され、その後処罰される危険がなくなった場合

(b) 有罪判決が確定した後(=無罪推定は全く機能せず、有罪の烙印が押されている状態)で刑の廃止あるいは大赦が行われて、しかし、過去に言い渡された有罪判決の既成の効力にその効果は及ばず、冤罪を訴えて再審を請求し、しかもその再審開始が「無罪を言い渡すべき新たに発見した明確な証拠」ありとして認められた場合

この二つの全く異なる状況において、それぞれに「刑の廃止」や「大赦」が行われたとして、その二つが、なにゆえ「結局は同様の状態になる」のであろうか。

本件の被告人らはすでにその全員が亡くなっている。彼らが無念のままに亡くなるまで、あくまで冤罪を晴らすことを求め続けたのは、判決確定後の「刑の廃止」や「大赦」が彼らにとって何の救いも意味しなかったからに他ならない。当然である。過去の確定した有罪判決の既成の効力には何の効果ももたらさないその後の「刑の廃止」や「大赦」が、彼らの救いになるはずもない。なぜなら、彼らの要求は冤罪を晴らすことであり、無罪を明らかにすることであり、過去の裁判の誤りを明確に裁判所に認めてもらうことだからである。

そして長い年月を経て、ようやく裁判所自ら過去の裁判に合理的疑いが存することを認めて再審開始を決めたにもかかわらず、後で「刑の廃止」や「大赦」が行われたから、結局は「有罪判決」はなかったのと同様だとするのでは、再審制度の意味はどこに行ってしまうのか。原審の論理に乗って敢えて極論すれば、過去の司法の誤りも、その後の「刑の廃止」や「大赦」によって「結局はなかったのと同様の状態」ということになってしまいかねない。

「刑の廃止」や「大赦」によって、過去の司法の誤りがなかったことになることなど、もちろん決して許されることではない。再審制度は、過去の誤った裁判の被害者である無辜の救済のために、法的安定を犠牲にしても法が定めた制度である。「法の支配」を実現するために、「司法による」「司法内の」非常救済を定めた制度である。その制度の健全な機能は、憲法が予定する適正手続の砦として正しく保障されなければならない。その後の「刑の廃止」(立法作用)や「大赦」(行政作用)の存在は、再審制度の枠外の出来事である。それら枠外の事柄にこと寄せて、その機能を司法自ら放棄することは許されないのである。

(4) ところで、原審は、この二つの場合(上記(a)と(b))において、「免訴の判決に対して被告人の側に控訴の利益があるか否かの結論に差を認めるべき理由は見出し難い」ともいうのである。

原審判断は、そこでまたも、理由すら添えていない。「およそ免訴判決に対する上訴の利益は認めない」という形式論理を持ち込んだにすぎないのであろうか。再審制度が司法の誤りを司法の手続のなかで回復して無辜を救済する手続であることを、原審は全く忘れている。

原審の採るこの形式論理は明らかに誤りである。このような形式論理のみで再審の裁判がすすめられるのであれば、再審制度の存在意義は失われたも同然である。

2.原審の上記誤りの根本にあるもの

1の(1)ないし(4)で指摘した点を見て明らかとなるのは、原審が、本件が再審公判にあることをおよそ無視した理論構成を採っている事実である。何故ここまで通常手続と同視し得たのか、その理由は、残念ながら詳述されておらず、不明である。

しかし、再審制度は、言うまでもなく、法が定めた正式な非常救済手続であり、憲法的な要請からひもとけば、適正手続を定めた憲法第31条に依拠する究極の人権救済手続である。その理念は、無辜の救済にあり、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」ことの最後の、そのまた最後の砦として機能する手続である。この点は異論のないところであろう。

言い換えれば、憲法第31条の直接の要請として、刑事再審制度の健全な機能が保障されなければならないのである。

したがって、その再審制度の趣旨を全く無視して、合理的な理由を付すことなく、形式的に、これを通常の刑事手続と同視することは、すなわち適正手続を定めた憲法第31条違反となることをここで指摘せざるを得ない。

ところが、原審は、上記のように、再審公判と通常の刑事公判手続を混同し、通常の公判手続に関する最高裁判例(プラカード事件大法廷判決、最高裁昭和29年11月10日大法廷判決、同昭和30年12月14日大法廷判決)をそのまま形式的に引用したうえ、有罪判決確定後の「刑の廃止」や「大赦」と判決確定前のそれらの差異を主張する弁護人らの主張を、「再審の公判が開始され、再審の判決が確定すると、当初の確定した有罪の判決は当然に効力を失うことになる。有罪の判決が確定した後に刑の廃止あるいは大赦があった場合でも、結局は、いまだ判決がなく刑罰権の成否未定の間において刑の廃止あるいは大赦があった場合と同様の状態となるのである。刑の廃止あるいは大赦の時期と刑罰権の成立の先後に応じ、免訴の判決に対して被告人の側に控訴の利益があるか否かの結論に差を認めるべき理由は見出し難い」(原審判決5-6頁)として、合理的理由すら付すことなく通常審と同視することで、退けた。

これらの判断は、まさに再審制度の趣旨の無理解に基づくものであり、再審制度の存在価値をゆがめるものであって、その趣旨を没却し、ひいては憲法第31条に違反する。

第2 上告趣意第2点(刑訴法第405条2号にもとづく上告理由)

原審判決には、プラカード事件大法廷判決の解釈を誤って適用して本件上訴の利益を否定し、同判例と相反する判断をした誤りが存する。

原審判決は、本件控訴が上訴の利益を欠く実質的理由として、

① およそ免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして、被告人を刑事裁判手続から解放するものであり、

② 免訴の判決によって被告人はもはや処罰されることがなくなること、

を挙げ、

同判決において、プラカード事件大法廷判決、同昭和29年11月10日大法廷判決、同昭和30年12月14日大法廷判決を各引用し、原審判決がこれら大法廷判決に従った判断であることを示している。

しかし、原審判決は、再審開始決定が確定した後に開始された再審の公判における被告人の実体審理を求める利益、ないし上訴の利益についての解釈を誤っており、プラカード事件大法廷判決の解釈をも誤った結果、本件被告人らの上訴の利益についても誤った判断を行ったものである。

一 まず、原審判決は、プラカード事件大法廷判決が違法な免訴に対する上訴を違法とはしていないにもかかわらず、同判決の論旨を誤って適用して、本件控訴を違法と判断した判例違反の誤りが存する。

1.原審判決は、弁護人らが、本件一審判決が再審開始決定確定後に開始された再審公判手続において、免訴の判決をしたのは違法であることを理由として控訴したのに対し、プラカード事件大法廷判決外二つの判決を引用して、「免訴の判決に対し、被告人の側から免訴判決自体の誤りを主張し、あるいは無罪の判決を求めて上訴の申立をするのはその利益を欠き、不適法である。」と判示している。

(1) しかし、プラカード事件大法廷判決は、「原審がした免訴の判決に対して無罪を主張して上訴することもまた違法であるといわなければならない。」と判示しているのみであって、「免訴判決自体の誤りを主張」して上訴することについてこれを否定する判断までは示しておらず、免訴事由そのものを争うと同時に無罪を主張して上訴することは上記判例が不適法とするところではないと解される。

にもかかわらず、前記プラカード事件大法廷判決に依拠する形で、被告人の側から免訴判決自体の誤りを主張し、併せて無罪を求めて上訴の申立をすることを違法とするのは、上記判決の読み方ないし解釈の誤りに立脚した原審判決の独自の誤った見解である。

プラカード事件大法廷判決についての研究者の判例評釈でも、「この判例によって明らかにされたもう一つの点は、免訴の裁判に対しては、無罪を理由として上訴することはできない、といことである。ただ免訴事由を争って、無罪を主張することはできる。本件ではまさにそうであるが、免訴事由ありと判断され、上告は理由がなかったのである。」と解説されている(坂口裕英「別冊ジュリスト」214~215頁)。

なお、原審判決が引用する最高裁昭和29年11月10日大法廷判決、同昭和30年12月14日大法廷判決は、何れもプラカード事件大法廷判決を引用して、「免訴判決に対しては被告人から無罪を主張して上訴できないこと当裁判所の判例の趣旨とするところ」と判示しているが、これら何れの判決も、免訴判決自体の誤りを主張して上訴の申立をすることを違法としているわけではない。

上記2判例がおよそ免訴の判決に対しては上訴できないと判示しているようにも読める点について、上記の坂口裕英による判例評釈は、「免訴の判決に対してはおよそ上訴できないと言うのは判例の誤解である。」と指摘し(同上論文)、

また、田宮裕が別のプラカード事件大法廷判決の評釈において、上記2判例を挙げて「なお、最高裁はその後、本判例を引用して免訴判決に対しておよそ上訴できないとしているが、本判示は、免訴事由がある場合は無罪を主張して上訴できないといっているだけだから、誤解であろう。」と解説していることが参照されるべきである(田宮裕「別冊ジュリスト」182~183頁)。

(2) 上述したように、プラカード事件大法廷判決は、違法な免訴判決に対して免訴事由の存在を争って上訴することについてまで上訴の利益がないとは述べていないのであって、免訴判決自体の誤りを主張して上訴することには上訴の利益が存しないとする原審判決は、全く独自の見解であるが、この見解の誤りは、田宮裕が昭和29年11月10日大法廷判決について行った判例評釈において、以下のように明快に指摘している。

「本判示を読んで気になることは、昭和23年5月26日大法廷判決を引用して、その趣旨から、免訴に対する上訴を否定していることである。右判決は『大赦の場合には、裁判所としては免訴の判決をする一途であり、被告人の側でも、無罪を主張して、実体の審理を要求することはできないのであるから、原審がした免訴の判決に対して無罪を主張して上訴することもまた違法であるといわなければならない』というのであって、これと本判示とを合わせると、免訴は形式裁判だから上訴を許さないという意味がでてくる。しかし、この考え方はおかしい。免訴を形式裁判と解すると(わたくしは免訴は控訴棄却・管轄違と同様な純形式裁判と解する)、無罪の主張が許されない(むろん有罪の主張も)というのは、無罪の認められうる場合であっても、免訴事由があれば、その方を先に判断するということである。無罪の主張ができないのは、免訴事由を有罪・無罪の判断と無関係に、それよりも先に判断しうるし、また、しなければならないということを前提とするからである。そして、免訴事由が認められる場合には、無罪の主張がきいてもらえないというだけであって、免訴事由そのものを争うことはむろん許されるわけである。ところが、他方、上訴権は被告人に右のように争う利益があるかどうかの問題であって、いわばその一般的な前提であるにすぎない。両者は別個の問題である。したがって上訴権の肯否は、一般的に文句をいう利益があるかどうかで決めればよく、免訴の形式裁判説・実体裁判説とは無関係である。」と評釈されている〔田宮裕「刑事判例評釈集」第16巻(昭和36年刊)350~354頁〕。

2.なお、原審は論及していないが、控訴棄却の決定に対して、その決定の違法、不当を理由として上訴することはできないとする最高裁昭和53年10月31日第1小法廷決定(刑集32巻7号1793頁)が存するが、その趣旨は本件に及ぶものではない。

事案は、検察官が被告人の死亡を理由として公訴棄却を求めたのに対し、弁護人が検察官の主張する死体は被告人とは別人であることを理由に公訴棄却に反対したが、第1審は刑訴法339条1項4号により公訴を棄却したという案件である。

弁護人は、第1審の決定に対し、主として検察官主張の死体が別人であるとして事実誤認を理由として即時抗告の申立をしたが、抗告審は、「刑訴法339条1項各号による公訴棄却の決定に対しては、その決定の当否に拘わらず被告人・弁護人から上訴できないものと解すべき」として弁護人の即時抗告を不適法とし、弁護人が、公訴棄却の裁判について、実体裁判と区別して被告人、弁護人の上訴権を否定するが、それは合理的理由なく、憲法32条に保障された上訴を含む裁判を受ける権利を侵害する等として特別抗告を申し立てた。

上記第1小法廷決定は、特別抗告の趣旨の「実質はすべて単なる法令違反の主張であって刑訴法433条の抗告理由に当たらない。」として弁護人の主張を退けたが、傍論で「なお、公訴棄却の決定に対しては、被告人・弁護人からその違法・不当を主張して上訴することはできないものと解すべきであるから、原決定に所論のような違法はない。」と判示している。

しかし、上記第1小法廷決定の論理は、本件に適用されるべき先例となるものではない。

(1) 刑訴法339条1項に列挙された事由は、「それが欠けた状態のままでは、訴訟追行を許さない」もので、訴訟条件のうちの手続条件といわれるものであり(平野龍一「刑事訴訟法」法律学全集43 143頁)、列挙される事由はいずれも公訴が無効とされる場合であり、不告不理の原則のもとでは公訴が有効に存在しないとされる場合であるから、いったん公訴が無効とされた場合に、被告人・弁護人がさらにこれに対して応訴する権利が認められないとすることにも理由なしとしない。

しかし、免訴の事由として刑訴法337条に列挙される事由は、これら公訴棄却とされる事由とは異なる。刑訴法339条1項に列挙される事由は、訴因を標準として客観的、形式的に判断される場合であるが、免訴とされる事由は、「それが欠けた場合には、およそ訟追行を許さない事由」であるとされ、「訴因に内在した性質に基づく点で、単に一定の条件の下では訴訟追行を許さないにとどまる手続的訴訟条件の場合とは異なるのである。」(同上149~151頁)とされており、公訴手続そのものが無効とされるものではなく、公訴手続自体は有効に存在しており、果たして免訴の判断がなされるべきか否かが問題となるのであるから、刑訴法337条に列挙される事由が存する場合と同列に扱うことはできないといわねばならない。

上記第1小法廷決定の論理が直ちに本件に及ぼされるものではないのである。

(2) 上記小法廷決定に対する有力な反対意見も存する。

団藤重光裁判官は、上記第1小法廷決定の結論に従いつつも、次のような意見を述べておられる。

すなわち、「訴訟条件が具備するかぎりは、被告人は自己に利益な実体判決(ことに無罪判決)を求める権利を有する。憲法32条に規定する『裁判を受ける権利』は、・・・かかる権利を意味する・・・。したがって、・・・もし被告人が実際には生存しているのにかかわらず、死亡したものとして公訴棄却の決定がされたと仮定するならば、被告人・弁護人はその公訴棄却の決定に対して上訴を申し立てて争うことができるはずである。」と。

団藤裁判官は、訴訟条件(手続条件)の場合であっても、原審の訴訟条件が欠如するとの判断に誤りがある場合には、訴訟条件は具備しているとの理由で被告人が実体裁判を求めて上訴しうるとされているのである。

渥美東洋教授は、いったん起訴された被告人は、「告発・起訴による被告人の犯行とされる行為の公表に由来するスティグマ、法廷出頭の義務、防御の準備の必要、地位の低下・喪失に伴う収入の喪失・減少、焦燥感・不安感」(渥美東洋「警察研究」第54巻第4号55頁)などの不利益を受けており、被告人の上訴の利益を認めないとすると、他方で訴訟を打ち切る形式裁判に二重の禁止効が認められておらず、検察官側では再起訴が許されることとの間にアンバランスを生じていることを問題とされ、「このバランスへの配慮から、・・・問題となっている形式裁判に一事不再理効または二重危険禁止効を認めることができない場合には、訴訟条件の欠如を誤って認定した原審判断に対する被告人の上訴を認めるべきことになると思われる。・・・つまり、被告人は、実は訴訟条件が具備しているかぎり、一回の公判審理の手続きで同一の訴追について解放されるべき利益を認められるのが自然であり、公平であるといえるからである。」(同上56頁)と述べられている。

上記第1小法廷決定は、刑訴法339条1項に列挙された公訴棄却とされる事由に関する判断であって、免訴事由に関する本件に直ちに及びうるものでないだけでなく、上記小法廷決定自体に有力な反対意見が存するのであるから、その論理を本件に及ぼすこともできない。

3.以上により、原審判決にはプラカード事件大法廷判決の解釈を誤って本件に適用して、この判例と相反する判断をした誤りが存するといわねばならない。

また、原審判決がプラカード事件大法廷判決外2つの判決を引用して、本件控訴には上訴の利益がないと判示したことには、根拠が存せず、原原審の免訴判決の違法を主張し、併せて無罪判決を求める本件控訴には、上訴の利益が存するといわねばならない。

以上のとおり、原審判決は、原原審が行った免訴判決の適法性についての判断を行うことなく、本件控訴を棄却したものであり、その結果プラカード事件大法廷判決と相反する判断を行ったものである。

なお、以上のような論旨については、原審における弁護人らの冒頭意見・1の第一の三(2頁~5頁)で詳述しているので、参照して頂きたい。

二 次ぎに、再審開始決定が確定した後の再審公判において、原確定判決後に生じた免訴事由を理由とする免訴判決に対する上訴の利益の有無を判断した最高裁判例は未だ存しないにもかかわらず、原審判決は、通常手続の公訴繋属中に行われた大赦に関するプラカード事件大法廷判決の法理における「上訴の利益」論を、上訴の利益の内容がこれとは全く異なる、再審開始が確定した後の再審公判における原確定判決後に行われた刑の廃止ないし大赦の場合に漫然適用したものであり、判例解釈を誤り、同大法廷判決に相反する判断を行ったものである。

1.再審開始決定が確定した後の再審公判手続における被告人にとっては、原確定判決の誤りを正す実体審理が行われることこそが利益であって、実体審理をすることなく「刑事裁判手続から解放」されることや向後「処罰されることがなくなること」には何の利益も存しない。

(1) そもそも訴追を受けた被告人にとっては無罪判決を受けて青天白日の身となることこそが利益であることは言うまでもない。

原審判決が引用し、免訴判決に対して被告人が上訴をすることを許すか否かについてのリーディングケースとなったプラカード事件大法廷判決は、「大赦の場合には、裁判所としては免訴の判決をする一途であり、被告人の側でも、無罪を主張して、実体の審理を要求することはできないのであるから、原審がした免訴の判決に対して無罪を主張して上訴することもまた違法といわなければならない。」として、免訴事由が存する場合には被告人の側から実体についての審理を要求して上訴することは許されないと判示している。

上記大法廷判決については、「大赦発令後なお有罪なりや無罪なりやの判断をしなければならないとすると事実に争いのある様な事件では、被告人の尋問、証人尋問等に相当の時日を要するから、其間被告人には大赦があったに拘わらず釈放せられず審理を続行せられる如き場合も生ずるであろう。これは被告人にとって迷惑な話ではないか。」(上記大法廷判決での井上登裁判官の補足意見)という被告人の側に立った手続負担の検討があり、通常の公判手続きにおいては、有罪の判決があるまで被告人は無罪と推定されるという原則が存するため、これと被告人が早期に刑事裁判手続の負担から解放されることの利益とを合わせ考るとき、免訴の判決に対しては被告人の上訴の利益が存しないとすることの合理性が肯定されないわけではない。

(2) しかし、上記大法廷判決の法理を再審開始が確定した後の再審公判手続について適用することは、誤りである。

ア プラカード事件では、1審判決と2審判決の間に大赦令が施行されており(昭和21年11月3日、昭和21年勅令511号)、同事件は未だ公訴繋属中であって、2審裁判所で実体判決が行われる前の状態にあった。従って、同事件の被告人には無罪の推定が機能し得た状態にあったのであるから、免訴の判決に対する上訴にその利益が存しないとすることにも理由がないわけではない。

しかし、本件は、確定有罪判決の誤りを正すことを求める再審事件であり、再審開始が確定した後の再審公判で確定有罪判決の誤りが正されるまでは、確定有罪判決は有効に存在しているのであり、もし再審の公判が免訴の形式判決で打ち切られた場合には、実体については何ら審理、判断されないのであるから、前の確定有罪判決が破棄されることなく存続することになる。従って、通常の刑事手続きにおける場合と異なって、無罪の推定は機能し得ない。

原審判決が述べる、「被告人を刑事手続から解放するものであ」るという論理も、いったん確定した判決につき二重の刑事負担をあえて引き受けて誤判の是正を求めている再審公判の被告人にとっては、何らの利益を意味するものでないことは明らかであって、このような原審判決の論理のもつ意味は、再審公判の被告人に対する裁判の拒否にほかならない。

イ さらに原審判決は、「これ(免訴判決)によって、被告人はもはや処罰されることがなくなる」ことをもって本件被告人らの利益であるとし、被告人らの上訴の利益を認めない理由としている。

しかし、上記の点は、再審公判における被告人にとって何の利益をも意味しない。

もともと本件被告人らは、既に確定した有罪判決を受け、二重の危険の禁止の法理のもとにおかれていたのであり、更に処罰されることはあり得なかったのである。にもかかわらず、敢えて誤判からの救済を受ける目的のために、その限りにおいて二重の危険の禁止の保障を自ら放棄し、再審の公判における実体審理を求めているのである。

被告人らは既に二重の危険禁止の保障の下におかれていたのであり、原原審の免訴判決によって「もはや処罰されることがなく」なったわけではないのであるから、この点をもって、免訴判決の誤りを主張して上訴する被告人らの利益を否定する論拠とすることはできない。

(3) 再審の制度は、誤判からの救済を図るために被告人の請求によって再度の実体審理を行い、原確定判決の誤判から被告人を救済するところに、制度としての存在意義がある。

再審の裁判は、「有罪ノ言渡ヲ受ケタル者ニ対シ無罪ヲ言渡(ス)ベキ明確ナル証拠ヲ新ニ発見シタルトキ」(旧刑訴法485条6号)に、被告人を誤判から救済するための制度として、確定有罪判決の形式的確定力を破ることを認める非常救済手続である。

このような非常かつ例外的な手続を設けた唯一の目的は、無辜の被告人の救済を図るところにある。

再審開始理由が認められ、再審開始決定が確定した後の再審公判にあっては、確定有罪判決が誤判であったか否かの実体審理が行われることこそが、被告人らの利益である。この再審公判における被告人の利益を無視し、原原審の免訴の形式判決によって実体審理の利益を奪われた被告人らに対して、上訴の利益が存することを認めない原審判決の論理は、再審制度の否定に連なるものといわなければならない。

以上の通り、通常訴訟の繋属中における被告人の裁判を受ける権利、利益と再審開始が確定した後の再審公判における被告人のそれとは、その内容が大きく異なるのであり、本件のような再審公判における免訴判決に対する上訴の利益について判断した最高裁判例は未だ存しないのであって、通常訴訟繋属中の案件であるプラカード事件大法廷判決の法理を本件に及ぼすのは全くの誤りであり、同大法廷判決の解釈を誤った結果、同大法廷判決と相反する判断を行ったものといわねばならない。

第3 上告趣意第3点(刑訴法405条3号にもとづく上告理由)

再審の公判手続において、原確定判決後に行われた刑の廃止ないし大赦に旧刑訴法363条2号及び3号が適用されるか否かに関しては未だ最高裁判例が存しないところ、

東京高裁昭和40年12月1日決定は、「旧刑事訴訟法第363条2号は通常手続における規程であり、非常救済手続たる再審には適用のないもの」と判示している。

これに対し、

原審判決は、再審の公判手続に「旧刑訴法363条2号及び3号の適用がないとすることは出来ない。」と判示し、上記東京高裁決定と相反する判断を行っている。

弁護人らの、東京高裁S.40.12.1決定が「刑事訴訟法第363条2号は通常手続における規定であり、非常救済手続たる再審には適用のないもの」としているとする主張について、原審判決は、東京高裁S.40.12.1決定は、再審請求審に関する限りの判断であって、再審の公判に関して同法条が適用されるかどうかを判断したものではないとする。

しかし、上記昭和40年東京高裁決定は、大逆事件の再審請求審において、検察官が刑法73条(大逆罪)が廃止されていることを理由に、旧刑訴法363条2号の免訴の事由が生じており、従ってこの場合には裁判所は免訴の裁判をもって訴訟を終結することを要し、実体の審理を行うことが出来ないから、再審裁判所の訴訟手続は存在理由を失うこととなり、再審請求も無意義となるから、結局再審請求は不適法となるなどと主張したのに対し、「ここではむしろ『刑の廃止』により再審請求権が影響を受けるかどうか、『刑の廃止』にかかわらず再審請求が許されるかどうかが先ず問題とされているのである。しかるところ、刑が廃止されたというだけでは、確定判決の効力に変動があるわけではなく、そのほかに『刑の廃止』により再審請求権が否定されるとする事由は発見できないから」という理由で、「刑の廃止」によっては再審請求権は消滅せず、「ひっきょう旧刑事訴訟法第363条2号は通常手続における規定であり、非常救済手続たる再審には適用のないものと解すべきである。」と判示したのである。

上記東京高裁決定が判示した「刑が廃止されたというだけでは、確定判決の効力に変動があるわけでは」ないという「刑の廃止」と「確定判決の効力」との関係に関する判断、並びに旧刑訴法363条2号及び3号が通常手続における規定であり、非常救済手続たる再審に適用がないと解すべきことについて、再審請求審と再審公判における場合とで異なる理由は存しないのであり、上記東京高裁決定の趣旨が正鵠を得ていることが明らかである。

原審は、昭和40年東京高裁決定と相反する判断を行っているが、同高裁決定の趣旨が再審請求審の審理に関する限りの判断であるとする原審判決にこそ根拠がないと言うべきである。

第4 上告趣意第4点(刑訴法411条1号に規定する破棄事由)

原審判決は、旧刑訴法511条ないし同363条各号の解釈並びに再審公判の性格の理解のそれぞれについて重大な誤りを犯し、判決に影響を及ぼすべき法令の違反があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。

原審判決は、再審公判の場合は、実体審理・実体判断が優先されるべきで、原確定判決後に行われた刑の廃止や大赦等を理由に免訴判決を行うのは違法である、という原審における弁護人らの主張を、以下の理由のもとに排斥した。

すなわち、

① 旧刑訴法511条は、再審開始決定の確定した後の再審の公判については、同条が定める除外事由が存在する場合を除き、通常の公判と同様の手続きに従い、それぞれの審級における一般原則により更に審判を行うこととし、被告人が死亡している場合に旧刑訴法365条1項2号の適用がないことを示す旧刑訴法512条1項及び2項を規定しているが、旧刑訴法363条2号(犯罪後の法令に因り刑ノ廃止アリタルトキ)及び3号(大赦アリタルトキ)の適用がないことを示す規定をおいていないのであって、再審の公判について、免訴事由がある場合に、通常の公判に関する規定を除外し、無罪等の実体判決をすることを予定していないというのがその制度設計であること。

② 免訴事由というものは、それが存在すると、公訴事実の存否について審理、判断することが許されなくなる性質のもの、すなわち公訴事実に内在する訴訟追行の可能性ないし利益がなくなるという性質のものであり、免訴の判決は被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するものであること。

③ 有罪判決が確定した後に刑の廃止あるいは大赦があっても、その判決の存在や効果そのものに直接何らの影響を及ぼすものではないから、刑の廃止あるいは大赦を事由にして免訴によって審理を打ち切るべきではないと弁護人は主張するが、再審の公判が開始され、再審の判決が確定すると、当初の確定した有罪の判決は当然に効力を失うことになり、有罪の判決が確定した後に刑の廃止あるいは大赦があった場合でも、結局は、いまだ判決がなく刑罰権の成否未定の間において刑の廃止あるいは大赦があった場合と同様の状態になること。

④ 刑の廃止あるいは大赦の時期と刑罰権の成立の前後に応じ、免訴の判決に対して被告人の側に控訴の利益があるか否かの結論に差を認めるべき理由は見出し難いこと。

しかし、原審判決が挙げる上記理由は、旧刑訴法511条ないし同363条各号の解釈並びに再審公判の性格の理解のそれぞれについて重大な誤りを犯しているものであって、判決に影響を及ぼすべき法令の違反があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。

一 旧刑訴法511条の解釈について

原審判決は、再審公判の手続は旧刑訴法511条が定める除外事由の場合を除いて、それぞれの審級における一般原則に従い審理するとして、明文の除外規定が存在しない限り通常手続と全く同様に審理を行うとするのが、旧刑訴法における再審公判の制度設計であるとしている。

しかし、再審開始が確定した後の公判の審理手続きに関する旧刑訴法の規定は、同法511条ないし514条が存するのみである。再審の公判では、被告人が既に確定判決を経ていること及び二重の危険の禁止(応急措置法2条、憲法39条)の制約から、通常の公判手続におけると同様ではあり得ない。

通常の審理手続きに関する規定が再審公判手続に適用されるか否かは、再審の理念・目的、既に確定判決を経ていること、再審開始決定が確定していることとの関係及び二重の危険の禁止の制約等との関係を考慮しつつ、具体的検討を経て決定されなければならない問題であって、再審の公判手続が通常の手続と同様に行われることを、原則ないし前提としているとは到底言えないのである。

現行刑訴法に関する論考ではあるが、研究者も以下のように論じている。

井戸田侃「刑事訴訟理論と実務の交錯」有斐閣266頁

「この手続については現行法はわずか2ヶ条の規定しか設けていない。その具体的内容については、あげて解釈に委ねられる。・・・再審公判手続の問題は、原則的には通常の公判手続によるとはいえ、それがひとたび原裁判の確定、そうして再審開始決定という手続を経ているだけに、多くの点で通常の公判手続に修正を加えることになる。」

高田昭正「大コンメンタール刑事訴訟法」(青林書院 第7巻 174頁)

「再審の公判手続については、第一に、(同一審級で)すでに一度審判を経たという事実により、通常の手続と異なってよい部分と、第二に、二重の危険を禁止した憲法上の保障により、通常の公判手続とは違わなければならない部分とがある。」とし、

第一の部分として、起訴状謄本の送達の必要がないこと、予断排除の原則に立ち戻る必要もないこと等を挙げている。

また、第二の部分として、「二重の危険禁止」の権利が機能することから、再審公判における検察官の訴因変更請求や、事実の認定や刑の量定について新たな争点を作る検察官の一再審公判の被告人に新たな応訴活動を強制することになる積極的・攻撃的な一立証活動は、憲法39条の権利を侵害するものとして禁止されること等を挙げている。

井戸田・上掲 275頁「4 再審公判における検察官の地位」も、同旨を述べている。

再審の公判の手続において旧刑訴法363条の免訴判決に関する規定がそのまま適用されるか否かは、再審の公判手続の特殊性、とりわけ既に一度審判を経て有罪判決が確定している事実と、旧刑訴法363条各号の趣旨との関係から検討し、慎重に解釈されねばならないのである。

旧刑訴法511条が、「審級ニ従ヒ更ニ審判ヲ為スベシ」とするところから、当然に通常の手続と同様に審理を行って良いとする原審判決には、同条の解釈適用の誤りが存するといわねばならない。

二 再審の公判手続において、確定有罪判決後に行われた刑の廃止ないし大赦を、刑訴法363条2号ないし3号による免訴の事由として適用することの誤り

1.再審開始の対象となった事件の有罪が確定する前に、当該犯罪に関して刑の廃止ないし大赦が行われ、原確定審が免訴とすべきであったにもかかわらず、誤って有罪の判決をしたという場合には、「有罪ノ言渡ヲ受ケタル者ニ対シテ免訴ヲ言渡」べき場合に該当するので、再審開始決定が確定した後の再審公判で免訴の判決がなされる(旧刑訴法485条6号)べきことは、当然の理であろう。

しかし、有罪判決が確定した後に刑の廃止ないし大赦が行われた場合には、全く事情が異なる。

まず、有罪判決が確定した後に刑の廃止があったとしても、被告人に対する確定有罪判決の効力は全く影響を受けないことは明らかである。

他方、確定有罪判決の後に大赦が行われた場合には、有罪判決の言渡の効力は失われ(恩赦法3条1号)、受刑中の者であれば、釈放されることになるのであるが、有罪の言渡に基づく既成の効果は、大赦・・・によって変更されることはない(同法11条)とされている。

従って、本件の原確定有罪判決は、同判決後に行われた刑の廃止ないし大赦によって影響を受けておらず、有効に存在しているのであって、その確定有罪判決の誤りを正すとすれば再審の手続によるほかないことも明らかである。

2.原審判決は、免訴事由は、それが存在すると、公訴事実の存否について審理、判断することが許されなくなる性質のもの、すなわち、公訴事実に内在する訴訟追行の可能性ないし利益がなくなる性質のものであり、免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するものであるとも説明している。

しかし、原確定判決後に生じた免訴事由が存在しないことをもって、再審開始後の公判手続における訴訟追行条件とし、同じく原確定判決後の免訴事由の存在をもって再審公判における公訴権の消滅事由とすることは、免訴制度の趣旨と相容れない。

(1) 前記の通り、確定有罪判決後の刑の廃止や大赦は有罪判決の存在の効力に影響しないのであるから、本件再審公判においては実体審理と実体判決を行うための訴訟追行条件は有効に存在していると言わなければならない。

原審は、確定有罪判決後に行われた刑の廃止や大赦が、再審公判裁判所である原原審にとって実体審理を行うことを阻止する事由となると解しているようである。

しかし、このような原審の理解には誤りがある。

再審開始決定が確定した後に行われる再審公判裁判所の役割は、原確定審が行った実体審理を同裁判所に既に提出されていた証拠に「新証拠」(旧刑訴法485条6号)を加えて、更に審理することである。原確定判決後に行われた刑の廃止や大赦は原確定判決の存在に何らの影響を及ぼさないのであるから、再審公判を担当する裁判所は、再審開始決定が確定している以上、事件について再度の実体審理を行う義務が存するのである(旧刑訴法511条)。ただ、原確定判決に至る過程で免訴とすべき事由が存したにもかかわらず、原確定審がこれを見落として有罪判決を言渡した場合に、免訴の判決がなされることは、上述したとおりである。

免訴事由が存在する場合には訴訟追行条件が欠けるとされるのは、実体判決に至ることなく被告人を刑事手続きから解放することが免訴制度の趣旨に適し、被告人の利益でもあることを理由とするのであるから、免訴事由の存在を理由に形式判決で手続を打ち切るためには、当該被告人に対する手続において判決確定に至っていないこと、及びその被告人が刑の廃止や大赦の恩恵に浴することが前提になければならない。

しかし、原確定判決後に刑の廃止や大赦が行われても再審公判における被告人には何らの影響もなく、確定した有罪判決が有効に存続し続けており、実質的にも再審公判における被告人は、確定判決後に行われた刑の廃止や大赦によって何らの恩恵にも浴していないのである

原確定判決後に行われた刑の廃止や大赦を再審公判における免訴判決の理由とすることは、免訴の制度趣旨を大きく逸脱したものといわねばならない。

原審判決は、本件被告人らに対しては全く刑事手続からの解放という影響・効果を及ぼしていない原確定判決後の刑の廃止や大赦をもって、再審公判における実体審理と実体判決を拒む理由としてだけ援用しているのであって、このような原審判決の論理は、余りにも偏頗であり、免訴の制度趣旨からも離れた見解と言わねばならない。

再審制度の趣旨からは、原確定審の審理に訴訟条件や訴訟追行条件が具備されていたならば、再審公判裁判所としては、同事件について更に実体審理を行わなければならないのである。

(2) また原審判決は、「およそ免訴の判決は、被告人に対する公訴権が後の事情で消滅したとして被告人を刑事裁判手続から解放するもので」あるとしている。

しかし、再審の公判の審理を公訴権をもとに考えることは誤りである。

すなわち、

「公訴権」とは実体判決請求権といわれるものであり(支配的学説)、適法な公訴権が存続しない限り公訴棄却、管轄違い、免訴等の裁判が行われるという意味で、審理の始めから終わりまで一貫して存在することが公訴の有効要件として要求される訴訟条件ないしは訴訟追行条件の中に解消されるともいわれるもの(田宮裕編著「刑事訴訟法 Ⅰ 捜査・公訴の現代的展開」615頁~617頁)である。

しかし、いったん判決が確定し、有罪判決として国家刑罰権の実現がはかられ、公訴の目的が達成されれば、目的の達成により公訴権が消滅することは明らかである。

再審の公判は、被告人らの再審開始請求にもとづく再審請求審の再審開始決定の確定にもとづいて開始されるものであり、検察官の公訴権にもとづいて審理が開始されるものでないのであるから、いったん消滅した公訴権が再審の公判で再度復活することはあり得ない。

しかも、「二重の危険の禁止」の法理の制約もとでは、再審の審理において、刑罰権の実現に向かう実体判決請求権という意味での公訴権が復活し機能することはあり得ないのである。

検察官は、原確定判決の維持のために、防御的にのみ行動し得るのであり、通常の審理におけると同じ意味での訴追権限を内容とする公訴権を有するとはいえないのである。従って再審の公判を公訴権をもとに考えることは誤りといわねばならない。

なお、以上の論旨については、原審における弁護人の冒頭意見・1の第三の二の2「再審制度の根本的な特殊性」及び同3「再審公判の手続的構造の特殊性-片面性・限定性」(20頁~21頁)において詳述しているので、参照して頂きたい。

三 原審判決は、弁護人らの、確定有罪判決後に刑の廃止あるいは大赦が行われたとしても、その判決の存在や効果そのものに直接何らの影響を及ぼすものではなく、未だ判決がなく刑罰権の成否未定の状態にある通常の手続中に刑の廃止あるいは大赦が行われた場合とは異なって、免訴の判決によって審理を打ち切ることはできないとの主張に対して、「再審の公判が開始され、再審の判決が確定すると、当初の確定した有罪の判決は当然に効力を失うことになる。有罪の判決が確定した後に刑の廃止あるいは大赦があった場合でも、結局は、いまだ判決がなく刑罰権の成否未定の間において刑の廃止あるいは大赦があった場合と同様になるのである。」から、原確定判決後に刑の廃止あるいは大赦が行われた場合であっても通常の刑事手続中にこれらが行われた場合と同様に免訴の判決ができるとしている。

しかし、当初の確定有罪判決が効力を失うのは再審公判裁判所によって実体審理が行われ、実体判決が確定した時である。実体判決が確定するまでは確定有罪判決は存在しているのであるから、再審の実体判決が行われる前に免訴の形式判決を行う場合に同様の理屈を当てはめることはできない。

いまだ判決がなく刑罰権の成否未定の間において刑の廃止あるいは大赦があった場合には、被告人に対する刑事手続きは打ち切られて釈放され、被告人は無罪の推定を受ける状態におかれる。また受刑中の者について大赦があれば釈放される。

これに対して再審公判における被告人は長年にわたって有罪の烙印を背負い続けているだけでなく、刑の執行さえ受け終わっている者が大半であって、刑事手続の負担と刑の執行に関して、刑の廃止や大赦による利益を全く受けることはないのである。

原審判決の上記の理屈は、あまりにも観念的な考え方であるだけでなく、実際には刑の廃止や大赦の恩恵に浴していない被告人らに対して、再審公判における実体審理を打ち切るという被告人らの不利益のためだけに、免訴事由による免訴を適用しようとするものであって、極めて不合理かつ不公平であって、正義に反するといわなければならない。

四 原審判決は、上記に引き続いて、「刑の廃止あるいは大赦の時期と刑罰権の成立の先後に応じ、免訴の判決に対して被告人の側に控訴の利益があるか否かの結論に差を認めるべき理由は見いだし難い。」と述べる。

原確定判決の後の刑の廃止あるいは大赦が行われた場合に、免訴の判決ないしこれに対する上訴が問題となるのは再審の裁判に関する場合だけである。

これに対して、確定判決前に刑の廃止あるいは大赦が問題となるのは、判決が確定する前の通常の手続の場合であり、この場合に被告人に対する手続が打ち切られ、被告人は刑事手続から文字通り解放される。

通常の手続の場合、被告人は免訴判決によって刑の廃止ないし恩赦の恩恵に浴し、有罪判決の烙印を押されることなく釈放されるに至っている。

しかし、原確定判決後に刑の廃止や大赦があった場合は、これらの恩恵は再審公判における被告人には全く及んでいないのである。被告人についての有罪の判決が確定しており、被告人は長年にわたって犯罪者の烙印を背負い続け、多くは刑の執行さえも受けているのである。このような確定有罪判決を受けた被告人が、再審請求審で「無罪を言渡」すべき「明確ナル」「新証拠」を主張立証して再審開始決定の確定をみて、前の有罪判決がえん罪であることを明らかにするための再審公判にようやく漕ぎ着けているのである。

通常手続における免訴判決に対する上訴を認めるか否かの問題と再審公判における免訴判決に対する上訴を認めるか否かの問題との間に差を設ける理由は十分に存するのである。

仮に、差を設ける理由がないとすれば、通常手続における免訴判決に対する上訴の利益を認めることで差異をなくすのでなければ、再審請求審における再審開始決定を経てようやくえん罪を晴らす場である再審公判に漕ぎ着けた被告人にとって余りに酷である。

原審判決の上記の判示は再審の制度理念に余りに反するものであり、再審の制度を支える正義の理念に反すると言わねばならない。

五 原審判決は、括弧内で(なお、再審の公判は、確定した有罪判決の当否を審査し、これを是正することを目的とするものではない。)と述べている。

原審の上記判示の趣旨は必ずしも明らかではないが、上訴が原審の判断の当否を判断するのに対して、再審の公判が上訴とは異なる制度であり、再審公判裁判所が原確定判決の当否を審査することを直接の目的としないことから、直ちに原確定判決を是正することをも目的とするものではないと解釈しているようである。

しかし、再審の公判が原確定判決の誤りを是正するための裁判手続であることを否定する原審判決は誤りである。

再審の理念が「無辜の救済」にあることは既に確立した判例の流れであり(例えば仙台高裁決定昭和51年7月13日いわゆる弘前大学教授夫人殺し事件等)、無辜の救済とは、原確定判決の誤りを是正して被告人の名誉回復の救済を図るところに存する。再審が通常の刑事訴訟手続が判決の確定により、上訴の方法によっては争えなくなった後に、「これとは異なる是正原理に基づき」(田宮裕「刑事訴訟法」有斐閣498頁)認められる限定的な救済としての裁判是正の制度であることは、学説が一致して認めるところである。

再審の公判が確定した有罪判決を是正することを目的とするものではないとする原審判決は誤りと言わなければならない。

六 再審判決は、「旧刑訴法は、免訴を言い渡す場合を定めた旧刑訴法363条2号及び3号の適用がないことを示す規定をおいていない。」ので、同条2号及び3号は再審の公判にも適用されると判示している。

しかし、旧刑訴法が再審の公判に適用がないことを明示する規定をおいていないのは旧刑訴法363条2号及び3号だけでなく、同条1号及び4号も同様であるから、原審判決に従えば、同法1号及び4号も再審の公判手続に適用されるとすることになる。

1.しかし、旧刑訴法363条1号を再審の公判手続に適用するとすることは、再審の制度と矛盾する。

(原確定審が、既に確定判決が存することを見落として有罪判決を言渡した場合に、再審の公判で、同条1号により免訴とされる場合があることは、確定判決前の刑の廃止や大赦の場合と同様である。)

再審の公判が開始される場合には、既に確定判決を経ている場合だけなのであるから、もし原審判決の論理に従うとすれば、「再審の判決が確定すると、当初の確定した有罪の判決は当然に効力を失うことになる」(原審判決5頁下から5行目~4行目)が、その反面で、再審の判決が確定するまでの間は原確定判決が効力を有しており、旧刑訴法363条1号に言う「確定判決を経たるとき」に該当し、必ず免訴を言い渡さなければならないことになる。

しかし、上記のような結論は、無辜の救済を目的とし、再審無罪判決の存在を予定している再審制度の存在と明らかに矛盾する。

再審の公判手続に関して、旧刑訴法363条1号を適用することは誤りと言わねばならない。

2.原確定判決後の時効完成を理由に旧刑訴法363条4号を再審の公判手続に適用することも、再審の制度と適合しない。

(原確定審が、公訴の時効が完成していることを見落として有罪判決を言い渡した場合に、再審の公判で、同条4号により免訴とされる場合があることは、確定判決前の刑の廃止や大赦の場合と同様である。)

旧刑訴法363条4号は、「時効完成」の場合に免訴の判決をするとしているが、判決が確定した場合には、既に公訴の提起が有効に行われて公訴の目的を達成したのであるから、その後に公訴の時効が更に進行するという観念を容れることはできないであろう。

再審の公判の場合に、原確定判決後の時効完成を理由に上記法条が適用されるとするならばどのような場合なのか、全く不明である。確定した判決の後に時効の観念を容れる余地があるとして、それは何時から進行し、何時完成するのであるのか、全く不明である。この様な観念を刑事訴訟法は予定していないと言うべきであって、再審の公判手続に旧刑事訴訟法363条4号を適用できる場合を想定することも出来ない。

旧刑訴法363条4号は、通常の手続における規定であって、再審の公判に適用されることを予定した規定でないと考える外ないのである。

再審で同法同号が問題となり得るのは、原確定審における公訴の提起までに時効が完成していたか否かという問題のみである。

3.さらに、旧刑訴法363条2号ないし3号の場合に限っても、原審判決の立場からは、有罪判決後に刑の廃止ないしは大赦が存する場合には再審の公判において免訴の判決がなされるとするのであるから、確定有罪判決を受けた者は、その後に刑の廃止ないしは大赦が行われた場合には、再審の裁判で有罪判決よりも軽い免訴の判決を受けることが出来るのであるから、有罪判決確定の後に刑の廃止ないし大赦があることを理由に再審の請求が出来ることになる。しかし、この結論が不当であることは明らかであろう。

旧刑訴法363条各号は、判決が確定する前の状態における通常手続において同条各号の定める事由が存在した場合には刑事手続きを打ち切って被告人を解放するとする趣旨の規定であって、判決が確定した後になお適用することを予定したものではないと考えるのがその趣旨に適する。このことを否定するならば、旧刑訴法363条各号は、再審開始が確定した後に開始される再審の公判において再審の実体審理と実体判決を拒むためだけに存在する規定ということになるが、法がそのような不合理かつ不公平な考え方をとっていると考え得る根拠は存しない。

従って、旧刑訴法363条各号の定める事由の不存在が訴訟追行条件とされるのは通常の刑事手続きの場合だけであって、再審の公判に当然に適用されるとはいえず、再審の公判の訴訟条件ないし訴訟追行条件(というものがあり得るとすればそれらは、)は、再審の公判の性格等から、通常の手続の場合とは別個に検討されなければならないのである。

以上から、再審の公判の場合にも旧刑訴法363条が適用されるとする原審判決の誤りは明白と言わねばならない。

第5 最高裁判所における本件審理にあたって

一 現憲法における最高裁判所の使命-司法における横浜事件の解決にあたって

1.最高裁判所は憲法の番人であり、人権擁護の砦である。

昭和22年8月4日、初代の最高裁判所長官に就任した三淵忠彦氏は、全国民に向けてメッセージを送り「最高裁判所は憲法の番人たる役目を尽くさなくてはならない」と述べ、戦後新しく発足した最高裁判所の使命を確認して、宣言した。日本国憲法は、近代民主国家の憲法理念にもとづき、基本的人権を保障することを要として成り立っている。憲法が守られることによって、基本的人権も守られることになる。そして、最高裁判所が戦前の大審院と決定的に異なる特色として、憲法によって違憲審査権を与えられており、この機能が行使されることによって憲法が守られてゆく。かくして、最高裁判所が良き憲法の番人であるならば、最高裁判所は、また同時に人権擁護の砦の役割を果たすはずである。

そのことの重要性、すなわち最高裁判所が憲法の番人として人権擁護の使命を全うすべき重要性は、人権の抑圧を可能とさせた旧時代の歴史的経験を省みることによって、よりよく理解されるのである。

2.明治憲法下の人権

明治憲法においても、その第2章は「臣民権利義務」として、わが国ではじめての人権宣言をしている。けれども、これは徳川封建体制を脱して近代立憲国家へ向かう体制を整えるための外形的人権宣言の域を出ていない。このことは、具体的な人権規定自体からも、また、のちの運用の歴史的経過からも論証される。

すなわち、明治憲法においては、法律をもってすれば、人間特有の基本的人権もこれを剥奪し、制限することが可能であった。そして、明治憲法施行後、人権を制限する法律が順次制定されていった。

明治憲法施行後、まもなくの明治33年に施行された「治安警察法」は、結社、集会、多衆運動について、警察官署への届出、警察官または内務大臣による制限・禁止・解散の宣言、制服警察官による集会への「臨監」等、刑罰を背景として厳しく取り締まることとした。また明治42年施行の「新聞法」は、言論・出版の自由にとって重要な発言形式である新聞について、その発行紙を内務省・地方官庁・検事局に納めさせ、また予審内容、検事の差し止めた捜査事項、公開なき官公署の会議事項等の掲載禁止をしたり、さらには安寧秩序をみだすと認めるものについては、発行差止、発売及び頒布の禁止、差押えができるものとした。

大正期に入ると、一面では大正デモクラシーを謳歌する世相もあったが、進んで昭和の軍国主義的統制下に入って、人権制限は加速化され、官憲側の運用悪化も重なって、政治的結社はもとより、自由主義運動に対するものまで、熾烈な弾圧へと移った。

その典型が、昭和3年の勅令「治安維持法改正ノ件」であり、昭和16年の全面改正法律「治安維持法」である。「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シテル者は又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者」については、その最高刑は実に死刑をもってなされた。そして、現実の運用においては、結社にいたらない個人の思想的自由、すなわち、人間が人間として存立する価値そのものまで否定されていった。治安維持法にもとづく捜査、裁判の過程で、被疑者あるいは被告人の多くが「転向」という思想的変節を事実上強いられていったことは周知の通りである。

治安維持法では、主として思想的活動家が弾圧を受けたが、国家総動員法では、国民のすべてが多かれ少なかれ関係するような規制が行われ、裁判機関さえ、本来の司法的機能を麻痺させられ、特殊国家目的に奉仕するものとなっていったのである。

3.戦後司法改革と人権保障制度の確立

戦後司法制度の改革は、上記にみた明治憲法下の人権抑圧の歴史の反省の上に立って行われた。その基本理念は、司法制度をして人権保障の担保たらしめることにあった。

戦後の司法制度改革は、昭和20年8月1日受諾されたポツダム宣言のなかで、すでに方向付けがされていた。ポツダム宣言は、我が国に「民主主義的傾向の復活強化」を敗戦後の諸改革の基本にすえることを要求していた。ついで同10月11日、マッカーサー連合国最高司令官は、弊原喜重郎首相に対し、「日本の伝統的社会秩序の匡正」「憲法の自由主義化」「秘密の検察およびその濫用が国民をたえざる恐怖に曝してきた諸制度の廃止」等を戦後改革の指標とするよう示唆した。司法改革制度の理念は、すでにこの段階で決まったのである。

このため、司法権の独立が一貫して求められ、昭和22年5月現憲法施行によって、司法権の独立は完全な形で実現されることになり、最高裁判所は名実ともに独立した司法部の頂点を形成するに至ったのである。(以上、『最高裁判所』日本弁護士連合会編より)

二 本件再審上告事件(横浜事件第三次再審請求)と最高裁判所の役割

1.治安維持法被告再審事件の最高裁係属の意義

上記の通りであり、最高裁判所は、明治憲法下での人権抑圧の歴史の反省に基づきなされた戦後司法改革において、人権保障制度として格別の地位・役割を担っているのである。

本件横浜事件第3次請求事件は、上記の通りの戦後の司法体制の確立のための反省の大きな原因と認識された治安維持法に関する最高裁係属の初の事件である。また、再審公判(しかも死後再審)としても、上告審である最高裁まで争われた極めて希な事案である。

明治憲法下での人権抑圧の典型例であり、抗告審でも確認された通り、拷問による虚偽の自白に基づく冤罪事件の本質を持つ。

まさに、最高裁判所としては、本件においてこそ、司法制度としての人権保障機能を果たすべきである。徒に形式的な法解釈・判例解釈に溺れることなく、事件の本質を見据え、事の本質を明らかにすること、それは、本件では無罪を明白にすることであり、免訴判決を確定させることではないのである。

2.横浜事件の真実-本件再審開始決定抗告審の認定

横浜事件とは、1942(昭和17)年から終戦直前にかけ、雑誌「中央公論」編集者ら60人以上が「共産主義を宣伝した」などとして、治安維持法違反容疑で神奈川県警察部特高課(特高)にでっち上げで逮捕された戦時下最大の言論弾圧事件の総称である。

30人以上が起訴され、多くは終戦直後に有罪判決を受けた。4人が獄死。警察官3人が戦後、拷問を加えたとして有罪が確定した。

この、官憲の拷問により自白を迫られたという事実は、本件抗告審(2005年3月10日東京高裁)においても以下の通り確認されている。すなわち、「いわゆる横浜事件の被検挙者のうち33名は、昭和22年4月、同人らを取り調べた元神奈川県警部A、同B及び元神奈川県警部補Cを含む警察官多数を横浜地方裁判所検事局に対し、特別公務員暴行傷害罪により告訴したところ、A、B及びCの3名が横浜地方裁判所に特別公務員暴行傷害罪により起訴され、・・・・最高裁判所第一小法廷は、昭和27年4月24日各上告棄却の判決を言い渡し、上記有罪判決は確定した。・・・認定した事実の要旨は、『被告人ら3名は、神奈川県警察部特別高等課に勤務していたもので、被告人Aは左翼係長警部、被告人B、同Cは同係取調主任警部補の地位にあって各司法警察官として思想事件の捜査に従事していたが、その職務に従事中、昭和18年5月11日、治安維持法違反事件の被疑者として検挙された辰森七郎(当時世界経済調査会員)の取調べに際し、同人が被疑事実を認めなかったので、被告人らはその他の司法警察官等と共謀して同人に拷問を加えて自白させようと企て、同月12日ころから約1週間位の間、数回にわたって、神奈川県神奈川署の警部補宿直室において、辰森七郎に対し、頭髪をつかんで股間に引き入れ、正座させた上、手拳、竹刀のこわれたもの等で頭部、顔面、両腕、両大腿部等を乱打し、これにより腫れ上がった両大腿部を靴下ばきの足で踏んだり揉んだりする等の暴行陵虐の行為をなし、よって、辰森の両腕に打撲傷、挫傷、両大腿部に打撲挫傷、化膿性膿症等を被らせ、そのうち両大腿部の化膿性膿症についてはその後治療まで数ヶ月を要せしめたのみならず長くその痕跡を残すに至らしめた。』というものであった。」とし、この確定判決が直ちに本件に該当するといえないとしても、このような拷問が、「いわゆる横浜事件の司法警察官による取調べの中で例外的出来事であったとみるべきものではない。」と認定している。

そして、さらに「請求人についての原判決原本及び訴訟記録は裁判所及び検察庁に保存されておらず(当裁判所の事実取調べの結果によれば、太平洋戦争が敗戦に終わった直後の米国軍の進駐が迫った混乱時に、いわゆる横浜事件関係の事件の記録は焼却処分されたことが窺われる)」とも認定する。

本件再審公判は、このような東京高裁抗告審の決定が故に、開始された公判である。

本件は、特高警察による拷問、その自白に基づく終戦直後に拙速になされた裁判、そして司法機関自身による戦争責任追及を回避する為の記録の焼却という、まさに戦時司法体制の暗部を焦点とする事案なのである。司法が本来の警察行政に対するチェック機能を麻痺させ、むしろ加担していたことに対する戦後の司法としての反省を明確にすべき事案である。

ポツダム宣言受諾後であるにもかかわらず、占領軍の到着前に有罪判決を性急に下すという司法の態度は、「いわば敗戦のどさくさに紛れて、横浜事件などに対して治安維持法による司法処分を断行したことは、治安維持法自体が失速しつつあったこと、その法益である『国体』観念も形骸化しつつあったこと、という二重の意味で、ポツダム宣言から『人権指令』に流れていた『市民的自由・権利』復活という精神に、完全に逆行するものであった。(萩野富士夫『横浜事件と治安維持法』)」と批判されるべき事態である。

最高裁判所としては、この司法自身による治安維持法体制への協力・隠蔽という過去に向かい合い、本件再審請求における司法における解決を図ることが必要なのである。本件につき、無罪判決を裁判所が下すことが、まさに「裁判所が歴史的負の遺産として背負う『戦争責任』を自らの手で清算する道(小田中聰樹・『法律時報二〇〇五年七月』)」なのである。

3.被害の救済-無罪判決を得ること

そもそも本件事案において、無罪を主張しての再審請求が認められ、開始決定がなされたのは「名誉回復や刑事補償等との関連では、再審を行う実益がある。(東京高裁平17.3.10)」との理由に基づく。この認定は、そもそも請求人らの意思に合致し、元被告人らの意図に沿うものであり、また、多くのメディアで公表された社説等の意見にも合致する常識に属する認定である。

どのような判決を得れば、名誉回復等の利益が得られるかに関しては、本件のような事案において再審請求を肯定する学説においても、

「ひと度刑の言渡しによって失われた名誉を回復するという社会的効果の面から見て利益があるだけでなく、再審によって無罪の判決を受ければ、判決の公示、刑事補償等の点においても法律的実益があるところからみて、積極説に賛したい。(臼井滋夫・総合判例研究叢書14)」

とか、

「再審の請求は、刑の執行が終り、またはその執行を受けることがないようになったときでも-これをすることが出来る。けだし、かような場合にも名誉回復の利益があるだけではなく、再審で無罪の判決を受ければ、判決の公示(453条)・刑事補償(刑補1条1項、2項)をはじめ、有罪の判決に伴う付随的効果の除去など、種々の法律的利益があるものである。刑の言渡が効力を失ったのちにも、再審の請求はゆるされるものと解しなければならない。この場合にも法律的実益が全然ないわけではなく、また、名誉回復の利益はおなじだからである。(団藤刑訴綱要)」

と述べられている。

すなわち、再審公判において「無罪」判決を得ることによってこそ、名誉回復等の利益、すなわち再審を行う実益が認められる、ということである。現実の無罪判決が、免訴判決による「無罪の推定」よりも有利であることは疑う余地はない。

本件において、再審一審の免訴判決を放置し、上訴の道を閉ざすことは、決して本件の解決にふさわしくなく、被害の救済にも繋がらない。本件においては、被告人らは全て死亡し、ここでの救済は、まさに被告人らの名誉回復そのものである。

治安維持法の施行・運用に関し、警察そして、司法機関(検察及び裁判所)も一度も、その過ちを率直に認め、責任の所在を明確にしたことはなく、このことは結局は、現在の司法制度の信頼を損なわさせているのである。

戦後、新憲法の下において、人権の砦として期待されている最高裁判所は、その役割にふさわしい、明快かつ説得力のある判断を本件に下されたい。

既に事件からは、60年以上の時が経過し、被告人らは皆、亡くなり、関係者も高齢に及んでいる。早期の解決が必要である。最高裁判所における破棄自判による無罪判決を強く求めるものである。

以上

[添付書類省略]

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