最高裁判所第二小法廷 平成20年(受)1427号 判決 2009年10月23日
主文
1 原判決中,被上告人らの反訴請求に関する部分を破棄する。
2 前項の部分につき,本件を札幌高等裁判所に差し戻す。
3 上告人のその余の上告を棄却する。
4 前項に関する上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人前田尚一の上告受理申立て理由第3の1について
1 上告人の本訴請求は,被上告人らが情報提供して新聞に掲載された記事により上告人の信用及び名誉が損なわれたとして,損害賠償を求めるものである。
被上告人らの反訴請求は,上告人の被用者が上記情報提供等をした被上告人らに対し数々の嫌がらせ行為をした上に上告人が上記のような本訴を提起したことが不法行為に当たるとして,損害賠償を求めるものである。
論旨は,反訴請求に関する原審の判断のうち,本訴を提起したことが不法行為に当たるとした判断の法令違反をいう。
2 原審の確定した事実関係の概要は,次のとおりである。
(1) 上告人は,特別養護老人ホーム「a」(以下「本件施設」という。)を設置・経営する社会福祉法人であり,被上告人らは,平成16年当時,本件施設に勤務していた介護職員である。
(2) 本件施設は,職員の入所者に対する虐待行為の疑いがあるとして,平成16年6月8日に札幌市の立入調査を受けた。本件施設では,これを受けて同月11日に緊急職員会議が開かれ,同月29日には職員からの投書を受け付ける投書箱が設置されるなどし,以後施設として上記虐待の有無についての調査が継続して行われることとなった。
本件施設の施設長であるA(以下「A施設長」という。)は,平成16年6月30日,被上告人Y1から職員の入所者に対する暴行についての報告を受けた。A施設長は,被上告人Y1に,その具体的内容を記載した文書を上記投書箱に投書するよう指示した。
平成16年7月中旬までにあった投書の中に,本件施設の介護職員であるBの入所者に対する暴行を指摘する複数人からの投書が存在した。
(3) A施設長は,平成16年7月28日,副施設長らに,虐待に関してBからの聞き取り調査を行わせ,その結果,虐待の事実を全面的に否定するBの供述を得た。しかし,それ以上に,被上告人Y1のものと思われる投書の内容を指摘するなどして,具体的にBの弁解を聞くことはなかった。
A施設長は,平成16年8月11日から,担当者を決めて本件施設の全職員を対象とした個人面談を実施した。A施設長は,被上告人Y1に対する面談を同月25日に実施した担当者から,Bの入所者に対する暴行の目撃状況についての報告を受けたが,同年6月30日に被上告人Y1から聞いた報告内容や投書の内容と違いがあると感じてこれを不審に思った。
A施設長は,平成16年8月26日に,被上告人Y1同席の下で,Bに事実の有無を確認したが,同人の上記供述は変わらなかった。
上記の全職員に対する個人面談によって,被上告人Y1以外の複数の職員からもBの入所者に対する暴行を目撃したとの供述が得られたものの,入所者の身体に暴行のこん跡があったとの確たる記録がなかったことから,A施設長は,そのことを主たる理由として,虐待の事実はないと確信した。
(4) Cは,被上告人らの情報提供行為等を端緒として,平成16年8月27日から同17年2月24日にかけて,本件施設における入所者に対する虐待行為等に関する各記事を,その発行する日刊新聞「b新聞」に継続的に掲載した。
(5) 被上告人Y1は,平成16年9月28日に開かれた入所者家族説明会において,Bによる虐待の事実をA施設長に申し出たことなどを話し,A施設長は,虐待を目撃した第三者がいないことなどを説明した。また,Bは,暴行行為はしていないと弁明した。
(6) A施設長らは,平成16年8月26日以降,同年12月28日までの間,被上告人らに対して,怒鳴ったり緊急職員会議に出席させなかったりするなどの多くの嫌がらせ行為を行った。また,上告人は,同年10月1日,本訴を提起し,被上告人らが本件施設において入所者に対する虐待が行われている旨の虚偽の事実について報道機関に情報提供した結果,上記各記事が掲載されたとして,被上告人らに対し,不法行為による損害賠償請求権に基づき,連帯して1000万円の慰謝料等を支払うよう求めた。
(7) 実際には,B等の複数の介護職員が入所者への暴行行為を行っていた。
(8) 前記の札幌市の立入調査等では,最終的には,個別の虐待事例について,行為者やその行為を証拠等により特定するには至らなかったとされた。
(9) A施設長らの前記の嫌がらせ行為や上告人の本訴の提起は,上告人の被上告人らに対する計画的な嫌がらせ行為として組織的に行われたものではなかった。
3 原審は,上記事実関係の下において次のとおり判断し,反訴請求を認容すべきものとした。
(1) 本訴の提起は,被上告人らの報道機関に対する情報提供の内容が虚偽のものであることを前提とするものであるところ,その内容はいずれも主たる部分において真実であると認められる。また,上告人は,Bから虐待の事実を全面的に否定する旨の簡略な回答を事情聴取によって得ていたものの,虐待の事実に係る投書の内容等を指摘するなどして同人から具体的に弁解を聞くことはなかったものであり,同人からのより詳しい事情聴取等当然行うべき調査を行わないまま,虐待に関する複数の供述等を合理的な根拠もなく虚偽と決め付けて,本訴の提起に及んでいる。本訴は,権利の存在につきわずかな調査をしさえすれば理由のないことを知り得たにもかかわらずこれを怠って提起されたものということができ,違法性が認められるから不法行為に当たる。
(2) 上告人による本訴の提起は,A施設長らによる前記嫌がらせ行為と一体として不法行為を構成し,上告人は,これによって被上告人らが被った精神的苦痛につき慰謝料の支払義務を負うところ,その慰謝料の額は,少なくとも反訴請求額の全額である各100万円である。
4 しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
(1) 法的紛争の当事者が当該紛争の終局的解決を裁判所に求め得ることは,法治国家の根幹にかかわる重要な事柄であるから,訴えの提起が不法行為を構成するか否かを判断するに当たっては,いやしくも裁判制度の利用を不当に制限する結果とならないよう慎重な配慮が必要とされる。このような観点からすると,法的紛争の当事者が紛争の解決を求めて訴えを提起することは,原則として正当な行為であり,訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは,当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,提訴者がそのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど,訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である(最高裁昭和60年(オ)第122号同63年1月26日第三小法廷判決・民集42巻1号1頁,最高裁平成7年(オ)第160号同11年4月22日第一小法廷判決・裁判集民事193号85頁参照)。報道により信用又は名誉が損なわれたとして救済を求める場合,訴えの提起は,紛争解決のための数少ない手段の一つであるから,報道の自由等に配慮する必要があることは当然としても,訴えの提起が不法行為を構成するか否かを判断するに当たっては,上記のとおり,慎重な配慮をもって臨むべきである。
(2) これを本件についてみるに,前記事実関係によれば,Bの入所者に対する暴行については複数の投書や目撃供述が存在していたものの,A施設長は,簡略なものとはいえBから虐待の事実を全面的に否定する供述を得,被上告人Y1同席の下で,Bに事実の有無を確認するなどしたが,その供述は一貫してこれを否認するものであったほか,A施設長は,被上告人Y1のBが行った暴行の目撃状況についての報告内容自体にも矛盾する箇所があるように感じており,本件施設の入所者の身体に暴行のこん跡があったとの確たる記録もなく,後に公表された札幌市の調査結果においても,個別の虐待事例については証拠等により特定するには至らなかったというのである。そうすると,上告人が,特段の根拠もないまま入所者に対する虐待がなかったものと思い込んだということはできず,その主張する権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものであることを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて本訴を提起したとまでは認められないというべきである。なお,前記事実関係によれば,本訴の提起は,被上告人らに対する計画的な嫌がらせ行為として組織的に行われたものともいえない。
以上によれば,本訴の提起は,いまだ裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものとはいえず,被上告人らに対する違法な行為とはいえないというべきである。
5 そうすると,これとは異なり,本訴の提起が不法行為になることを前提として反訴請求をすべて認容すべきものとした原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決中,反訴請求に関する部分は,破棄を免れない。そして,被上告人らの慰謝料の額につき更に審理を尽くさせるため,同部分を原審に差し戻すこととする。
なお,上告人のその余の上告については,上告受理申立て理由が上告受理の決定において排除されたので,棄却することとする。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 竹内行夫 裁判官 中川了滋 裁判官 古田佑紀)