最高裁判所第二小法廷 平成4年(オ)1504号 判決 1995年7月07日
上告人
真木美佐子
外七三名
右七四名訴訟代理人弁護士
小牧英夫
高橋敬
佐伯雄三
田中秀雄
深草徹
筧宗憲
松山秀樹
足立昌昭
伊東香保
上原邦彦
浦井勲
大搗幸男
小貫精一郎
垣添誠雄
河瀬長一
川西譲
堅正憲一郎
木下元二
木村祐司郎
木村治子
小谷正道
田中治
田中唯文
土井憲三
中川内良吉
永田力三
西村忠行
野澤涓
野田底吾
羽柴修
古本英二
福井茂夫
藤本哲也
藤原精吾
本田卓禾
前田修
前田貢
山崎満幾美
山内康雄
渡辺勝之
渡辺守
渡部吉泰
増田正幸
石橋一晃
井上善雄
大音師建三
金子武嗣
木村保男
須田政勝
原田豊
真鍋正一
山崎昌穂
峯田勝次
樋渡俊一
被上告人
国
右代表者法務大臣
前田勲男
被上告人
阪神高速道路公団
右代表者理事長
大堀太千男
右両名指定代理人
増井和男
外一一名
被上告人国指定代理人
秦康夫
外一八名
被上告人阪神高速道路公団訴訟代理人弁護士
原井龍一郎
吉村修
占部彰宏
田中宏
小原正敏
同代理人
岸田孝治
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
一 上告代理人小牧英夫、同高橋敬、同佐伯雄三、同田中秀雄、同深草徹、同筧宗憲、同松山秀樹、同足立昌昭、同伊東香保、同上原邦彦、同浦井勲、同大搗幸男、同小貫精一郎、同垣添誠雄、同河瀬長一、同川西譲、同堅正憲一郎、同木下元二、同木村祐司郎、同木村治子、同小谷正道、同田中治、同田中唯文、同土井憲三、同中川内良吉、同永田力三、同西村忠行、同野澤涓、同野田底吾、同羽柴修、同古本英二、同福井茂夫、同藤本哲也、同藤原精吾、同本田卓禾、同前田修、同前田貢、同山崎満幾美、同山内康雄、同渡辺勝之、同渡辺守、同渡部吉泰、同増田正幸、同石橋一晃、同井上善雄、同大音師建三、同金子武嗣、同木村保男、同須田政勝、同原田豊、同真鍋正一、同山崎昌穂、同峯田勝次、同樋渡俊一の上告理由第一点について
所論は、要するに、一般国道四三号、兵庫県道高速神戸西宮線及び同大阪西宮線(以下、これらを「本件道路」という。)の供用に伴い自動車から発せられる騒音、排気ガス等により、その近隣に居住する上告人らが聴覚障害、呼吸器疾患等の身体的被害を被っているのに、これを認めなかった原判決には、経験則違反、採証法則違反、審理不尽、理由不備、理由齟齬の違法があるというものであるところ、所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づき若しくは原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。
二 同第二点について
所論は、要するに、大気中に含まれる窒素酸化物について人の健康に影響を与える濃度を確定しないまま、本件道路からの排ガスによる現状の大気汚染が沿道住民の健康に影響を与えることを認めるに足りないとし、本件道路からの騒音、排気ガス等によりその近隣に居住する上告人らが被っている被害が生活妨害にとどまるものであるとし、他方、本件道路を走行する自動車台数が増加していること、すなわち需要があることをもって本件道路に公共性があるとし、また、上告人らが本件道路の供用廃止を求めているわけではないのに、代替道路がないとし、これらを理由として上告人らの差止請求を棄却した原判決には、差止請求における受忍限度の判断につき、法令の解釈適用を誤った違法があり、採証法則違反、経験則違反、判断遺脱、理由不備の違法があるというものである。
原審は、その認定に係る騒音等がほぼ一日中沿道の生活空間に流入するという侵害行為により、そこに居住する上告人らは、騒音により睡眠妨害、会話、電話による通話、家族の団らん、テレビ・ラジオの聴取等に対する妨害及びこれらの悪循環による精神的苦痛を受け、また、本件道路端から二〇メートル以内に居住する上告人らは、排気ガス中の浮遊粒子状物質により洗濯物の汚れを始め有形無形の負荷を受けているが、他方、本件道路が主として産業物資流通のための地域間交通に相当の寄与をしており、自動車保有台数の増加と貨物及び旅客輸送における自動車輸送の分担率の上昇に伴い、その寄与の程度は高まっているなどの事実を適法に確定した上、本件道路の近隣に居住する上告人らが現に受け、将来も受ける蓋然性の高い被害の内容が日常生活における妨害にとどまるのに対し、本件道路がその沿道の住民や企業に対してのみならず、地域間交通や産業経済活動に対してその内容及び量においてかけがえのない多大な便益を提供しているなどの事情を考慮して、上告人らの求める差止めを認容すべき違法性があるとはいえないと判断したものということができる。
道路等の施設の周辺住民からその供用の差止めが求められた場合に差止請求を認容すべき違法性があるかどうかを判断するにつき考慮すべき要素は、周辺住民から損害の賠償が求められた場合に賠償請求を認容すべき違法性があるかどうかを判断するにつき考慮すべき要素とほぼ共通するのであるが、施設の供用の差止めと金銭による賠償という請求内容の相違に対応して、違法性の判断において各要素の重要性をどの程度のものとして考慮するかにはおのずから相違があるから、右両場合の違法性の有無の判断に差異が生じることがあっても不合理とはいえない。このような見地に立ってみると、原審の右判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。
三 同第三点について
所論は、要するに、上告人藤川美代子、同檜田八重子、同吉田岩吉、同藤井隆幸が本件道路からの騒音及び排気ガスによって受けている被害は、損害賠償請求を認容すべきものとされた者の被害とその深刻さにおいて差がないのに、右上告人らの損害賠償請求を棄却すべきものとした原判決には、法令の解釈適用を誤った違法があり、理由不備、採証法則違反、経験則違反の違法があるというものであるところ、所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。
四 よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官河合伸一 裁判官中島敏次郎 裁判官大西勝也 裁判官根岸重治)
上告代理人小牧英夫、同高橋敬、同佐伯雄三、同田中秀雄、同深草徹、同筧宗憲、同松山秀樹、同足立昌昭、同伊東香保、同上原邦彦、同浦井勲、同大搗幸男、同小貫精一郎、同垣添誠雄、同河瀬長一、同川西譲、同堅正憲一郎、同木下元二、同木村祐司郎、同木村治子、同小谷正道、同田中治、同田中唯文、同土井憲三、同中川内良吉、同永田力三、同西村忠行、同野澤涓、同野田底吾、同羽柴修、同古本英二、同福井茂夫、同藤本哲也、同藤原精吾、同本田卓禾、同前田修、同前田貢、同山崎満幾美、同山内康雄、同渡辺勝之、同渡辺守、同渡部吉泰、同増田正幸、同石橋一晃、同井上善雄、同大音師建三、同金子武嗣、同木村保男、同須田政勝、同原田豊、同真鍋正一、同山崎昌穂、同峯田勝次、同樋渡俊一の上告理由
《目次》
はじめに
上告理由第一点
一 原判決の被害把握の観点と因果関係の判断における基本的誤り
二 騒音に関する被害認定の誤り
1 はじめに
2 睡眠妨害
3 聴覚障害(難聴と耳鳴り)
4 その他の身体的被害
三 排ガスに関する被害認定の誤り
1 排ガスの汚染レベル
2 排ガス汚染についての判断の遺漏
3 侵害作用における排ガスの位置づけ
4 排ガスの人体・健康影響
上告理由第二点
一 被害の内容・程度を「生活妨害に止まる」と判断した誤り
二 排ガス差止めのレベルを指摘しない誤り
三 「公共性」判断の誤り
上告理由第三点
一 騒音曝露の実情
二 排ガス曝露の実情
三 個別の被害の実情
はじめに
一 国道四三号は、阪神間の人口密集地を貫通して大阪と神戸を結ぶ、幅員五〇メートル上下八車線、延長約三〇キロメートルの巨大な一般国道である。阪神高速道路大阪神戸線は、その兵庫県部分の大部分が国道四三号の上に単柱橋脚による高架構造で築造されており、尼崎部分は上下六車線、西宮〜神戸部分は上下四車線の自動車専用道路である。
この両道路は、一日二〇万台という膨大な自動車交通量があること、大型車の混入率が極めて高いこと(とりわけ深夜・早朝に高い)、二階建構造であるため、四三号を走行する自動車の騒音が阪神高速の床に反響し、かつ排ガスが滞留して拡散しにくいこと等のため、沿道住民に騒音、振動、排ガス等による深刻な被害をもたらしている。かつて沿道を視察した石原慎太郎元環境庁長官が、その情況を「黙示録的惨状」と評したことは広く知られている。
国道四三号は一九六三年に上下一〇車線で全線開通となったが、建設当初から沿道の公害対策は全く考慮されていなかった。阪神高速の西宮以西は、突貫工事で大阪万博に間に合わせ、一九七〇年に供用開始となったが、その建設途上において、公団は沿道住民に対し、「阪神高速の開通によって沿道の自動車公害は大巾に軽減される」等と、とんでもない虚偽の説明をした。沿道の悲惨な道路公害が顕著になり、沿道住民による訴訟提起の動きが報じられるころになって、公団はようやくいくつかの防止対策を行い始めた。しかしながら、そのいずれもが後手後手にまわり、かつ、抜本的なものでなかったため、実効に乏しかった。国と公団は、道路公害を野放しにしながら、両道路の供用を続けてきたのである。
二 原判決が、沿道住民の被害を認め、騒音・排ガス等による複合的な侵害行為を違法と断じて、原告らの損害賠償請求を認容したことは正当であるが、原判決は次の三点において重大な誤りを犯している。その第一は、被害の性質・程度を「生活妨害に止まる」として差止めの必要性を認めなかったことである。第二は、「両道路の公共性が非常に大きく、かつ代替道路がない」ことを理由に差止め請求を退けたことである。第三は、沿道からの距離が二〇メートルを超える一部原告について損害賠償請求を認めなかったことである。
三 原判決の被害のとらえ方については、二つの問題がある。一つは健康被害を認めなかったことである。WHOが一九四六年に採択した世界保健憲章は、「健康とは、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることをいい、単に疾病や虚弱の存在しないことではない」との基本的な考え方を明らかにしている。多くの沿道住民が疾病に至らなくとも、騒音や排ガス等によって身心に様々な変調をきたしていることは原判決も認めるとおりであって、これは健康被害そのものである。今一つは、被害がどの程度に至れば差止めを認めるべきかという問題である。被害が生命・健康など絶対的損失に及ぶ危険があれば無条件に差止めるべきことは言うまでもない。しかし、その段階に至らなくても、睡眠妨害を始めとする平穏な生活の妨害、臭気や汚染による環境の破壊等の違法な侵害行為に対しては、権利の濫用にならない限り、差止めを認めるべきである。このような考え方は、既に多くの下級審判例に示されている(千葉地裁一宮支部昭五四・一一・三〇判決<判時九六三―七九>、横浜地裁昭五六・二・八決定<判時一〇〇五―一五八>、大阪地裁昭六二・三・二六<判時一二四六―一一六>、大阪地裁昭六二・四・一七判決<判時一二六八―八〇>、東京地裁昭六三・四・二五判決<判時一二七四―四九>等)。いかなる性質・程度の侵害行為についてこれを違法とし、差止めを認めるべきかは、その国の文化的な発展水準に深くかかわっている。この点について、最高裁は「先進国」日本に恥じない判断を示すべきであろう。
四 公共性をめぐる原判決の判断には、以下の問題がある。本件両道路の供用によって、原告らは現に様々な健康被害を受けており、あるいはこれを受ける現在の危機に晒されている。かかる場合には、侵害行為の差止めは無条件に承認されるべきであって、公共性判断の入り込む余地はないはずである。
仮りにそうでないにしても、次の点が指摘されなければならない。両道路の公共性は、いみじくも原判決がこれを「需要の大きさ」と同義に解していることによっても明らかなとおり、両道路が社会に提供する便益であって、国民の日常生活の維持存続に不可欠な役務の提供のように絶対的ともいうべき順位を主張し得るものでないことは明らかである。のみならず、両道路の公共性を利益衡量する場合、両道路の社会的需要という価値は、両道路によって破壊される環境―アメニティの価値と対比されるべきであり、沿道住民の個別的被害と比較衡量されるのは、両道路の個々の利用者の便益に過ぎないことを原判決は看過している。さらにまた、原判決は、何ら具体的理由を示すことなく、代替道路のないことを挙げている。しかしながら、原告らの請求している騒音・排ガスの差止めは、両道路の供用廃止や通行の全面禁止ではなく、車線の削減や通行の部分的規制及び道路構造の改善によって優に達成し得るものであり、かつ、代替手段の有無は、道路だけでなく、鉄道や海上輸送を含めて検討されるべきであって、原判決の右判断は明らかに失当である。
五 原判決が損害賠償請求を認めなかった原告が被っている被害の質、量は、他の原告のそれと比較して実質的な差異のないものである。この点においても原判決の判断は誤っている。
以下に上告理由を詳述する。
上告理由第一点
原判決は、原告らが騒音・排ガス暴露等により被っている被害の認定・判断につき、以下に指摘するとおり理由不備もしくは判決に影響をおよぼすことが明らかな採証法則違反ならびに経験則違反の違法を犯しており、この点において破棄を免れない。
一 原判決の被害把握の観点と因果関係の判断における基本的誤り
原判決は、一方で、「騒音、排気ガス、及び粉塵等は、それ自体が身体的被害を招く危険性を孕んでいる」とし(二六三頁)、騒音被害を例にあげて、これに排気ガスが伴って「複合的に影響するとすれば、その悪循環により身体的被害を招くことが懸念される段階に達」することがあるとしている(二六四頁)。
しかし、結論的には、原判決は、被害の総まとめの部分で「原告らの共通の被害として把握されるのは、健康被害にまではいたらないものの、それに近接した段階の生活妨害」(三七四頁)であるとし、本件道路公害による健康被害や身体的被害の存在を否定した。
すなわち、まず、身体的被害の存在については、本件道路からの騒音が原因で難聴や耳なりが発生したと認定する証拠はないとして、これを否定し(三二一頁ないし三二四頁)、次に、その他の頭痛、貧血、めまい、鼻血、動悸、息切、血圧変調、自律神経失調症についても独立の被害として因果関係を否定した(二三五頁)。
しかし、原告らの被る道路からの公害被害は、原告らが一審以来主張してきたように、被害が沿道一帯において普遍的に存在するもので、騒音や排気ガス等による被害が独立・各別に存在するものではなく、重量的・相関的に存在し、被害の原因たる侵害要因そのものも複雑に相関し複合しているのであり、さらに、これら侵害行為と被害が間断なく継続しているものである(原告ら一審最終準備書面第一分冊三四八頁ないし三五〇頁)。
原判決は、一方で、被害把握の視点の部分(二六三頁)で、騒音、排気ガスが複合的に影響するとすれば身体的被害を招くことが懸念される段階に達することを認め、この段階においては「現実の身体的被害が生じなくても、その原因となりうる深刻な加害性をみてとるのが相当であ」るとしている(二六四頁)。
そして、原判決は本件道路からの騒音、排気ガス、及び粉塵等が複合して、身体的被害を生じさせる可能性を肯定し、かつ、「健康被害にまではいたらないものの、それに近接した段階の生活妨害」(三七四頁)をも一方で認めながら、結論的には身体的被害や健康被害の存在を否定した。
そもそも、健康被害に近接する程度の生活妨害が存在すること自体、健康被害の原因となる深刻な騒音・排気ガス等による複合的影響の存在を意味するものであり、原判決の認定する騒音・排気ガス等の人体に対する危険性を前提にすれば、経験則上、当然、これらが健康被害や・さまざまな身体的被害を引き起こしていると推認すべきである。
したがって、各原告の健康被害や身体的被害については、特にこれら道路からの騒音、排気ガス等による複合的な影響とは別個の原因によって発生しているものと認定できないときは、これが、道路からの影響によるものとすることが経験則にかなった判断である。
しかるに、原判決は、本件各道路からの騒音・排気ガス等による複合的な影響の存在を認めながら、原告らの身体的被害や健康被害が、道路からの複合的な影響とは別個の独立した原因から生じている等の特段の理由を何ら示すことなく、前述の各被害と騒音、排気ガス等の暴露と因果関係を否定してしまった。
この点において、原判決には、判決の結論に影響をおよぼす経験則違反と理由不備の違法がある。
二 騒音に関する被害認定の誤り
1 はじめに
(一) 原判決は、騒音暴露による被害把握の観点として、被害レベルを三段階に区分して論じている。第一段階としては、騒音の程度が許容限度をかなり下回り、「うるささ反応」程度にとどまる段階を想定し、この段階でも「少なくとも不快の念を抱くのが通常であろう。殊に、連日、しかも最も静謐が望まれる休息の時間を中心として恒常的にその状態が続くとすれば、疲労の回復を遅らせるなど、それだけで不快の域を超えた心理的負担を受けたとしても不思議なことではない」と評価する。第二段階として、かなり高レベルの騒音に、濃度はそれほどでないにしても排ガスが伴って、複合的に影響するとする段階を想定し、この段階では「その悪循環により身体的被害を招くことが懸念される段階に達し、しかも、その状態の低減することが必ずしも望み得ない状況にあったとすれば、不安感を醸成するというにとどまらず、深刻な心理的影響を受けて精神的苦痛を被り、疲労の蓄積、食欲不振、内臓の働きの変調を来して、日常生活の阻害を招くなどの生活妨害を生ずるに至ることは十分に考えられるところというべきである」とし、「この段階に達すれば、現実の身体的被害が生じなくとも、その原因となりうる深刻な加害性をみてとるのが相当であり、それにより被る精神的苦痛は慰謝されるに価するというべきである」と評価する。第三段階としては、さらに進んで危険性が増幅し、身体的被害が生じ、もしくは身体的被害を招くことが相当の蓋然性をもって身に迫って来ることが予測される段階を想定し、この段階に達すると「その原因除去の対応が検討されなければならなくなることは、いうまでもない」と評価する(二六二頁ないし二六五頁)。
このような原判決の段階区分によれば、本件各道路における騒音暴露の被害レベルは優に第三段階に達している。然るに、原判決は、これを未だ第二段階にとどまるものと評価した。
(二) 原判決は、「騒音による個々の被害の全貌を定量的に明らかにすることが殆ど不可能なことであるうえ、事柄の性質上、その主観的な受け止め方を度外視しては、騒音被害の実体を認識、把握することはできないという制約がある」(二六六、二六七頁)として、原告らの陳述書、アンケート調査等は、被害把握に不可欠な証拠資料と評価している。
騒音被害把握のための資料について、このような正しい考え方を示しながら、原判決は、騒音被害の具体的認定において、こうした考え方を貫くことができず、被告らの誤った主張に引きずられ、原告らの陳述書、アンケート調査等を結果的に無視してしまい、原告らの訴える被害のいくつかを否定もしくは軽視し、その結果、騒音の被害レベルにつき、前述の誤った結論を導き出してしまった。
2 睡眠妨害
(一) 原判決の睡眠妨害に関する実験研究に対する評価、判断の誤り
原判決は、「我国をはじめ、各国でも様々な環境基準等が提唱されているが、騒音の人体に及ぼす影響の複雑性のため、当該基準を超えると必ず何らかの被害が出るとか、当該基準以下であれば被害は発生しないとかの絶対的な数値は確立されていない」(二七三頁)として、騒音の睡眠に対する悪影響を示す多くの研究が存するにもかかわらず、量―影響関係については未だ十分解明されたとはいえない(三一六頁)との判断に立っている。しかし、原判決の各種研究に関する評価、判断には明らかな誤りがある。
(1) バーバラ・グリーファンによる「夜間高密度道路交通騒音の限界負荷」について
右実験的研究の結果バーバラ・グリーファンは、睡眠の評価は第一に騒音を意識していることによって決定される、そのため、客観的な数値はそうではないにもかかわらず、主観的にはよく眠れないと評価している、よく睡眠がとれないという感じは、長期的には気分、精神的安定、そして健康に直接影響をあたえる、レム睡眠の減少が精神安定上有害であるならば、レム睡眠の突然の減少は四四デシベル以上の騒音レベルはもはや耐えられないことを示している。として、高密度道路交通騒音にとってLeq四〇dB(A)(屋内値)の限界が妥当と結論付けている。
右の実験的研究について、原判決は、被告らからの批判をそのまま引用している。
被告らの右実験的研究に対する批判の内容は、要するに①レム睡眠の減少をもって直ちに有害とすることに疑問があること、②主観的睡眠感の悪化は認められるが客観的指標の悪化の裏付けがなく、客観的睡眠指標の悪化の裏付けのない主観的睡眠感の悪化が健康被害をもたらすとは到底考えられない、と言うことに尽きる。
しかし、確かに、レム睡眠とメカニズム自体については未だ定説がないが、レム睡眠の減少が睡眠への悪影響であることは多くの学者も認めており、控訴審における鈴木庄亮証人も証言においてこの点は認めている。また、レム睡眠の減少は精神安定上有害であることも既に多くの学者が認めており(甲A七六〇号証の二、四頁、甲A七六一号証、三五頁)、レム睡眠が減少したことは睡眠への有害な影響であることは明らかである。
更に、原判決が正当に指摘するように、騒音の影響は情緒的側面が大きく、騒音による被害は、被暴露者の主観的受け止め方を度外視しては十分に把握できない。客観的睡眠指標の悪化がなくとも主観的睡眠感の悪化が健康被害を生じることは十分に予想できることであり、右実験的研究はまさに原判決が示した騒音による影響の捉え方が正しいことを裏付けているのである。
このように右実験的研究は十分な評価を与えられるべきであるにもかかわらず、原判決がその点を看過しているのは誤りである。
(2) J・L・エバーハートらによる「連続的及び間欺的交通騒音の睡眠に及ぼす影響」について
右実験的研究によれば、四五dB(A)を超える道路交通騒音によって男子若年成人に睡眠妨害が生じ、覚醒的反応及び睡眠段階のパターンの変化がもたらされた、このレベルの連続交通騒音は、レム睡眠の減少をもたらし、主観的睡眠感を悪化させ、気分を悪くさせる、間欺騒音は徐波睡眠を減少させ、体動の総数を増加させ、浅い睡眠へと移行させる、レム睡眠の減少があった夜の後は、主観的な睡眠の質は低く、気分は悪くなるという影響を受けた、との結果が得られた。右実験的研究により、他の既存のデータとを総合して、WHOの睡眠を確保するための推奨値(Leq三五dB(A))は適切であるといえるが、この推奨値は、超えてはならないピークレベルもしくはL1で表示されるような最大の騒音レベルにより補完されなければならないことが示唆されている。
右実験的研究に対しても、原判決は被告らの批判を引用している。
被告らの批判は、①間歇騒音は、連続騒音に比較して有害であることを右実験は明らかにしているが、そこで問題とされた間歇音は本件道路のような交通量の多い道路交通騒音では考えられない、②連続交通騒音四三dB(A)ないし四七dB(A)、Leq四五dB(A)において、レム睡眠の減少、ステージW及び1並びにMTの増大は認められたが、それ以外に客観的睡眠指標の悪化は認められないこと、③主観的睡眠感の悪化は重視すべきでないこと、等にある。
しかし、まず、右実験は間歇騒音による睡眠への悪影響のみならず連続交通騒音による悪影響も明確に示しているのであり、ただ連続交通騒音より間歇音による悪影響の度合いが高いことも併せて示しているのである。また、本件道路の道路交通騒音は、原判決が第六「侵害状況等」、一「交通の事情」の項(一九七頁以下)で明らかにしているとおり、大型車に由来するものであり、その特徴は、もともと車体自体が重量物であるうえ、さらに重量物を積載するため、強力なエンジンが搭載されている関係上、発進、加速の際のエンジン音は八〇ホンを超えるレベルに達し、全体として重量物が高速で走行するためタイヤが路面を擦過し、空気を切る音も相当なもので、積載物の遊び等に伴い時に衝撃音を出すという凄まじいものである。したがって、通常の定常音である連続交通騒音とは異なり、大型車の信号待ちからの発進、加速時のエンジン音、信号待ちの際の空ぶかしの音、積載物の遊びから積載物が車体にぶつかって生じる音等間歇音も含まれているのである。
また、連続交通騒音によりレム睡眠が減少したのみならず、浅い睡眠であるステージW、1並びにMTが増加したということは、とりもなおさず睡眠への悪影響が明確に存在したことを示すものである。
また、主観的睡眠感を重視すべきことは既に述べてきたとおりである。
右のとおり、被告らの批判はいずれも理由のないものであり、原判決が右実験的研究に対し十分な評価を与えなかったことは誤りである。
(二) 睡眠妨害の閾値についての判断の誤り
右に挙げた外国の最近の実験例、及び既に一審原告らが提出してきたアンケート調査や各種実験結果からみても、睡眠を確保するのに最低限要求される値は、寝室内の騒音レベルでピークレベル四〇ホン未満かつLeq三五dB(A)未満であり、家屋の遮音量を環境基準設定根拠とされた一〇ホンと見積もれば、屋外ではピークレベル五〇ホン未満でかつLeq四五dB(A)未満である。
なお、これら実験結果と矛盾する鈴木実験は原判決も正当に指摘しているとおり、特異な一仮説に過ぎない。
原判決は、騒音による被害の捉え方においては騒音の影響の情緒的側面が大きく、騒音による被害は、被暴露者の主観的受け止め方を度外視しては充分に把握できないとして正当な判断に立っているにもかかわらず、騒音が睡眠妨害を生じる閾値を判断するにあたっては、右騒音の捉え方の判断と矛盾した証拠の評価をなし、各種アンケート調査や実験結果の評価を誤り、経験則違反をおかしているのである。
更に、右のように騒音が睡眠妨害を生じる閾値に関する判断を誤った結果、原判決は、本件道路騒音が原告らに深刻な睡眠妨害を及ぼしていると断ずることについては疑問が残る(三一六頁)として、原告らの騒音による睡眠妨害の被害が深刻であることを看過し、原告らの被害が生活妨害に止まるという誤った結論を導き出したのである。
3 聴覚障害(難聴と耳鳴り)
(一) 原判決は、聴覚障害についての医学的知見や各種アンケート調査、勧告・実験等についての判断は一審判決二四六丁裏二行目から二七一丁裏末行までに説示するとおりであるとして、「多数の調査研究結果によると、従来の職業性騒音暴露に加え、環境騒音暴露についても研究が進められているが、未だ騒音と難聴との定量的な関係については十分解明されたとは言い難いものがある。しかしながら、聴力保護のための許容値として、原審の説示どおりほぼ七〇ないし九〇ホンのレベルが推奨されているといってよいところ、前記認定にかかる原告ら居住地における屋外、室内の認定値、現実の生活様式(騒音に曝されている場所とその時間の割合)などを考慮すると、本件道路からの騒音によって少なくとも恒常的な聴力低下や難聴になる可能性は、殆ど考えられないといわなければならない」として、「原告らの供述や主観的な訴えのみでは、本件道路からの騒音が原因で聴力低下がもたらされたとするには、証拠不十分と言わざるを得ない」と判示している(三一八頁ないし三二〇頁)。
しかしながら以下に詳論するとおり、原判決が全面的に支持する一審判決の前記部分の判断は誤りであり、聴覚障害についての医学的知見や各種アンケート調査、勧告・実験等をまともに検討すれば、本件道路沿道における騒音暴露により、聴覚に影響を生じる危険性は否定できない。原判決は自ら原告らの供述や陳述書を被害認定の資料として重視すべきことを承認しながら、これらの中で多数の原告らが訴える聴覚障害を否定してしまったのは採証法則及び経験則に違反するものといわねばならない。
(1) まず、各種のアンケート調査であるが、一審判決の採用した、本件各道路沿道地域で実施された兵庫県四九年調査(乙F第二四号証)、環境庁五〇年調査(甲A第一三三号証)、野田調査(甲A第一五五号証の二、同第一二〇号証)、その他の地域で実施された相沢調査(甲A第二三二号証)、川崎市四九年調査(甲A第一五八号証)、東京都五〇年調査(甲A第一五九号証)、村松調査(甲A第五七三号証)は、いずれも道路騒音の大きい地域では、そうでない地域に比べ、聴覚障害に関する訴え率が高いことを示しており統計的な有意差を認め得たものもある。
一審判決は右のうち環境庁五〇年調査について「耳鳴りがしたり、耳が痛かったりする」旨の訴えは、騒音の推定物理量、七〇ないし八〇ホンの地域では、六五ないし七〇ホンの地域に比較して、かえって減少していたとして、これを聴覚障害に関する訴え率と道路騒音との関係を認め得ない事例と評価したのかもしれないが、左の表を見ればそうではなく関連性を認めうる資料であることは明らかである。この表でB欄の数値は、数量化理論Ⅱ類を用いて意識の程度を正規化得点で表したものであり、正の値が大きいほど騒音の影響が少ないこと、負の絶対値が大きいほど騒音の影響が大きいことを意味する(甲A第一三三号証二三頁)。
A
騒音の推定物理量
L50
B
耳鳴りがしたり
耳が痛かったりする
~50
0.54
50~55
0.38
55~60
-0.31
60~65
-0.62
65~70
-1.14
70~80 ホン
-0.94
(甲A第133号証76~77ページ)
また一審判決は、東京都五〇年調査について、「耳鳴りがする」旨の訴え率について道路からの距離(回答者の主観による)とはあまり関係がない旨考えられたと指摘しており、これも聴覚障害に関する訴え率と道路騒音の関係を認めえない事例と評価したのかもしれないが、この調査では、道路からの距離は客観的に測定されていないので、距離区分ごとの訴え率は、副次的な意味をもつに過ぎず、道路沿道地区と対照地区と比較をし、道路沿道地区の方が、訴え率が高かったことに注目しなければならないのである。
これだけ多数のアンケート調査の結果が、いずれも道路騒音と聴覚障害の訴え率との相関関係を認めうることを示していることは極めて重要である。一審判決は兵庫県四九年調査と野田調査について、厳密なアンケート調査のあるべき理想型を想定し、それと比較して、不適切な点があることを指摘するが、そもそも実証的にみて、指摘された不適切な点が調査結果にどのような偏りをもたらすのか検討されているわけではないし、多数の同一傾向を示すアンケート調査結果とあわせて総合的に評価をする立場に立てば、一審判決の指摘する不適切な点は、それほど重視する必要はない。
(2) つぎに一審判決が各種の勧告・実験等として採用し、検討したISOの勧告、宍戸調査(甲A第一五七号証)、EPAインフォーメーション(甲A第二八三号証)、環境庁五〇年調査(前出)、岡田実験(乙E第二六号証)、鈴木実験(甲A第二八五号証)、山本実験(甲A第一六〇号証、同二九一号証、同五七一号証)、山村実験(甲A第二六九号証)、戸塚実験(乙E第二七号証)、日本産業衛生学会の勧告や諸外国における許容値を総合的に評価すれば、車道端から一〇メートル前後離れたR四三道路端における騒音レベル(L50)が、一審判決認定の如く「日曜や年末年始の一部の期間を除いて、朝方が七〇ホン前後から八〇ホン余り、昼間が七〇ホン台から八〇ホン余り、夕方が七〇ホン前後から八〇ホン、夜間が六〇ホン台から七〇ホン台の間を示し、その平均値は、朝方及び昼間が七〇ホン余り、夕方及び夜間が六〇数ホン、二四時間平均値は七〇ホン前後」の本件各道路沿道の騒音暴露により、沿道住民のなかに聴力障害を生じる蓋然性が高いことは容易に認めることができるのである。
ところが一審判決は、道路騒音により聴力障害を生じうるとの結論に結びつく知見に対しては無理な理由をこじつけて疑問を呈し、逆にこれを否定する唯一の実験結果を示す戸塚実験は無条件で採用するなど、極めて偏頗な態度をとっているのみならず、各種の勧告や許容値の評価についてもこれを正当になし得ず、聴力障害に関する因果関係の判断において根本的な誤りを犯したといわざるを得ない。
(ア) 宍戸調査について一審判決は、①聴力検査の場所の騒音レベルが高く、不適切であり、検査結果に影響を及ぼしていないとはいえない、②対照地区の選定が不適切であるのみならず、道路騒音以外の騒音の検討が不十分であり、疫学調査として十分なものとはいえない、③C5ディップが一部の年代にしかみられないので、難聴の原因を騒音に帰するのは早計である、などときめつけている。しかし、こうした一審判決の指摘は、自然科学研究者間の批判に類するものであり、自然科学論争の場でもない裁判で又その能力もない裁判所の行うべきものではない。のみならず、自然科学の厳密な批判としてみても、独断的で全く根拠を有しないものである。
まず①の点であるが、たとえば二〇〇〇Hzの聴力調査に有害なのは、一二〇〇〜二四〇〇Hzの周波数の四七デシベル以上、もしくは38.5デシベル以上の騒音であり、四〇〇〇Hzの聴力検査に有害なのは二四〇〇〜四八〇〇Hzの周波数の五七デシベルもしくは五一デシベル以上の騒音である(甲A第二八九号証)。ところで聴力検査をした場所の騒音(L50)が全周波数帯域のトータルで五二ホンもしくは五六ホンであったとしても、右の如く聴力検査に有害な周波数帯域の騒音は、それよりずっと低い。たとえば六五ホン(L50)の道路騒音の場合、二〇〇〇Hzを中心とする1/3オクターブバンドレベルは約五四ホン(L50)、四〇〇〇Hzを中心とする1/3オクターブバンドセベルは約四七ホン(L50)である(乙E第一九号証)。これから類推すると、この調査において聴力検査をした場所の騒音のうちで、聴力検査に有害な周波数帯域の騒音レベルは、全周波数帯域のトータルの騒音レベルより一〇数ホン低いとみてさしつかえないことになり、前記の有害レベルと比較するとき、とりたてて問題にするには及ばないことがわかる。
次に②の点については、対照地区の選定の問題は、交通騒音の激しい地区との騒音レベルの差がもっと大きければ、結果はもっと明確になっていたであろうという意味に解されるのであり、対照地区の選定が不適切であるから、この調査結果の信頼性が低くなるなどと短絡することの誤りは明白であり、道路騒音以外の騒音として、鉄道騒音が含まれていることが「交通騒音」の聴覚影響にかかる疫学調査として、何故不十分なのか理解に苦しむところであるし、他の騒音暴露まで検討せよというのは、「交通騒音」に着目し、これを指標として、調査地区と対照地区とを選定した調査に対し、別の指標も用いるべきだと要求するもので、この調査の内在的批判ではなく、別の調査もやってみるべきだというに過ぎないのである。
最後に③の点であるが、これは、騒音による聴力低下は必ずC5ディップを生じるのかということが検討されなければならない。確かにC5ディップは騒音性難聴の典型的なパターンであることに異論の余地はないようである。しかし、それ以外のパターンはないのかというと決してそうではなく、二〇〇〇Hzの周波数(C4)のディップ型、高音急墜型などがかなりの頻度で見出されることが報告されている。従ってC5ディップがみられないことは騒音による聴力低下を否定することにつながらない。
(イ) EPAインフォメーションは、環境騒音により聴力低下をきたさないための基準として、既存の資料を用いて、一定の仮説に基づく推定を行い、Leq七〇ホンを提言しているのであるが、この仮説・推定は一審判決の指摘するが如く、「従来の学説に従ったものではない」どころか、「異なる意見を考慮にいれ、…最近の科学的思考の主流であることを明らかにする試みが続けられてきた(乙E第四二号証)」ものなのである。一審判決は、「Which are not all universally accepted by the scientific community.」という科学的節度を示す文言を自己流に解釈して、「従来の学説に従ったものではない」と転用して、この提言の価値を低めてしまったと言わねばならない。
一審判決は、このEAPインフォメーションの基準について、更に七〇数ホンの騒音により四〇〇〇Hzで五デシベルの聴力損失を生じるポイントは、実測の資料によるものではなく、八〇ホン程度の騒音の実測値を外挿して得られたものであるとか、個人暴露量の調査結果からみて、四〇年後にほとんどの人々が難聴になることになり非現実的だという指摘を無批判に受け入れている。しかし、外挿をすることにより、どのような欠陥が生じるのか何も明らかにされてはいない。EPAインフォメーションの中で、既存の資料を最近の科学的思考の主流であることを明らかにする試みが続けられてきた手法で推定したことを明らかにしているのに、単に「推定をしている」だけだと言うのでは言い掛かりに過ぎないのではないだろうか。また前記の如く、個人暴露量の調査なるものは極めて疑問であるのに、これに基づいてEPAの提言を批判しても、適正な批判とは言えないし、Leq(24)で、本当にほとんどの人々が七〇ホンを超える騒音に暴露されているとすれば、四〇年後にほとんどの人々が四〇〇〇Hzで五デシベルの聴力損失をきたしたとして、何も非現実的ではない。EPAは四〇〇〇Hzで五デシベルを超えない聴力損失を生じさせないための基準を提言しているのであって、一般的に難聴を生じさせないための基準を提言しているわけではないことを一審判決は見落としてしまっているのである。
(ウ) 一審判決は環境庁五〇年調査に対して、①あらゆる年代の聴力損失の平均値がC5ディップの傾向を示しているわけではない、②他の原因が全て除外されているわけではない、③三〇才代では全く有意差が認められていないなどの指摘を無条件で受け入れ、④調査報告書自体の中で、地域住民の聴力と騒音との関係について、医学的に説明することは現段階では困難とされていることをあげて、この調査結果の価値を減殺している。
ところで、①の点については、C5ディップが生じていないことは、騒音による聴力低下を否定する論拠になるわけではないことは既に述べたとおりである。②については、道路近傍地区と道路から離れた地区とで、聴力損失の平均値に有意差もしくは有意ではない差があっただけでは、道路騒音が、その要因であるとは言えないというに尽きる。これは自然科学論争の場で、より完全な調査を進めるためになされる批判としてみれば妥当かもしれない。しかし現実的に可能な範囲でなされた調査結果を、裁判のうえで評価する際には、このような科学的厳密さを要求することは必ずしも妥当ではない。何故ならば、他の要因全てを除外しうる調査をせよというのは、たやすいことではあるが、現実にこれをするとなると極めて困難或いは不可能とすらいえるのであり、道路騒音の深刻化にともなって、現実的に可能な調査として、この調査が実施されたのであるから、最初から自然科学的厳密さを要求することはできないのである。この意味で、④の如く、調査報告書が結果を限定的に理解しようとしているのは当然であるけれども、裁判の場でこれを他の多数の研究成果と総合勘案のうえ、道路騒音により、聴力低下を認めうる知見として評価する妨げとなるものではない。
最後に、③の点であるがこれは「有意差があった」或いは「有意差がなかった」という意味を正しく理解しない立場からの批判である。有意差検定というのは、一定数のサンプルの比較により、そのサンプルの属する母集団についての推論を行う統計的手法であり、「有意差があった」という場合には母集団についての積極的意味のある推論となるが、「有意差がなかった」という場合には母集団に関しての推論は無意味である。もう少し詳しくいえば、有意差検定は各母集団について差がないという仮説(帰無仮説)をたて、これを否定した場合に誤りを侵す確率=言い過ぎの危険率を検定するものである。一方、逆の検定、つまり各母集団について、差があるという仮説をたてて、これを否定した場合に誤りを犯す確率=見逃しの危険率は検定されない。しかも、有意差が生じるか否かは、サンプルの数、平均値の差の大きさ、ばらつきの大きさ(標準偏差の大きさ)によって左右されるので、「有意差がなかった」というのは差が本当にないのか、或いはサンプル数によるのか、標準偏差の大きさによるのか不明なのであり、本当に差がないことを意味するものではない。従って「有意差があった」ことは積極的に評価すべきであるが、「有意差がなかった」ことは評価のうえで無視されなければならないのである。
(エ) 一審判決は、岡田実験や鈴木実験をどのように評価したのか不明であるが、いずれも道路騒音により、聴覚障害が発生しうることを示す知見として評価するべきである。このうち鈴木実験について、「筆者自ら実際に七五ホンの騒音に一日六時間以上暴露されている住民は多数いるとはいえない旨の指摘をしている」と注釈を加えているが、この筆者は証人として反対尋問を受けたときにまさか外国の専門誌に英文で発表した文献を利用されるとは思ってもおらず、答えに窮して、前記の如く口走ったのであり、筆者がこの実験結果を発表した昭和五四年当時、既に道路騒音の調査をしていた(甲A第二八〇号証)のであるから、多くの住民が七五ホンの道路騒音に一日六時間以上暴露されていると、この実験成果のまとめの中で述べているところに従うべきであろう。
(オ) 山本実験について、一審判決は、①暴露レベル七〇デシベルでTTSの増大が認められていないことからすれば、同六五デシベルでTTSの増大が認められたとするのは早計である(量―反応関係の逆転)、②実験に用いた暴露騒音の周波数特性は低音域より高音域の方が大きいので、これと逆の周波数特性を有する本件道路騒音について、実験結果はそのまま妥当するものではない、③一般にTTSとは騒音暴露開始前の閾値と暴露終了二分後の閾値との差をいうものとされているが、この実験では対照実験における閾値移動の各瞬時値との差を求めているため従来の学説と異なる結果が得られたとの指摘をし、この実験成果の価値を減殺している。
しかし、①暴露騒音七〇デシベルでTTSの増大が認められないというのは、全くの誤解である。七〇デシベルのTTSの増大はあるけれども、各実測値をグラフ上にプロットして、最小自乗法により曲線を引くと、暴露騒音六五デシベルのときの同様の曲線がやや上位に位置するというに過ぎない。これを「量―反応関係の逆転」という概念にあてはめ、暴露騒音六五デシベルでTTSの増大を否定する意味に解するのは誤りである。何故なら、六五デシベル、七〇デシベルというわずかな暴露騒音レベルの差によって、明確にTTSの増大の差が生じるということは必ずしも期待できず、いずれのレベルの騒音暴量においても、TTSの増大があったことが重要なのである。
また、②この実験で用いた暴露騒音の周波数構成の問題であるが、「TTSの研究動向をみると周波数構成およびレベルの時間的変動が任意である騒音暴露に起因するTTSを予測する方法は、すでに確立されたと我々は考えている。この方法では、周波数構成の問題に対しては、TTSの臨界帯域説を適用する。すなわち、ある特定のテスト周波数におけるTTSは、暴露騒音のある一定の周波数帯域影響のみによって発生するもので、この周波数帯域からはずれた部分の音響エネルギーには、無関係であるとみなす、この臨界帯域の中心周波数と帯域幅は実験的に決定されている」と指摘されている(甲A第五七一号証)ように、現実の暴露騒音の周波数構成が任意に変わる場合も射程範囲におさめた実験であることが明らかにされており、一審判決の批判は当を得ていないものといわねばならない。
最後に、③の点であるが、この実験は、低レベル長時間暴露によるTTSの増大が確認しうるか否か、確認しえた場合にはどのような予測式が成り立つかをテーマにしたものであり、従来の学説の欠点・限界を克服することを目的としてなされたのであるから、この批判もあたらない。そもそもTTSの一般的なとらえ方が確立しているわけでもないし、従来の学説などという確個としたものがあるわけでもない。低レベル長時間暴露による聴覚影響というテーマは、専門領域においても未開の分野なのである。この点については、「現在用いられているTTSのgrowthの式は暴露レベルと暴露時間の対数との線形結合として、重回帰式で表示されているが、これを導出する基礎となった実験条件は、暴露レベル八五デシベル以上、暴露時間八時間以下の範囲に限られていた。従って、低レベル長時間暴露の場合への、この式の適用の妥当性に関しては、なお疑問が残されていると言わざるを得ない。それゆえ、低レベル長時間暴露のTTS実験を追加し、より適用範囲の広いgrowthの式に改良することが必要と考えられる」との指摘がなされている(甲A第五七一号証)。
このように一審判決の山本実験に対する批判はいずれも正当ではなく、この実験結果は、道路騒音の暴露により聴力障害が生じることを肯定しうる知見として正しく評価されなければならない。
(カ) 一審判決は山村実験についても、①聴力検査の場所の背景騒音、②自記オージオメーターに習熟していないために生じる不正確な測定値が得られている可能性、③TTSの平均値はわずかで難聴といえるほどの聴力損失ではないし、TTS増大の回帰が有意であっても、直ちに騒音暴露によりTTSが発生したと断定できないことを指摘している。まず、①については、単なる憶測であるが、それにしても既に述べたとおり、全周波数帯域のトータルの騒音レベルが約五〇ホンだとしても、聴力検査に有害な影響を与えるわけではない。②については批判のための批判であって、このように言えばどのような実験でも、正確性が保障されていないと言えるであろう。③については、道路騒音のみによって難聴になるわけではないであろうし、誰もそのような結論を下しているわけでもない。道路騒音によって聴力低下が生じうることが実験的に証明され得るかということがテーマなのである。道路騒音を暴露したところではTTS増大の回帰が有意であり、そうでないところではそのような結果が生じなかったという実験結果が得られたのであれば、道路騒音によってTTSが発生すること、即ち聴力低下が生じうることが実験的に証明されたと理解するのが当然ではないだろうか。原判決は、無理にこの実験的成果の価値を減殺しようとしているのである。
(キ) 戸塚実験は、多数の実験や調査の中で道路騒音によって、聴力障害が生じ得ないとの結論を示す唯一のものである。一審判決はこれを無条件で採用しており、逆の結論を示す他の実験や調査に様々な批判を行い、消極的評価しかしていないのとは対照的である。
しかし、この戸塚実験なるものは、本件訴訟において証拠とする目的でなされたものであり、真に学問的研究としてなされたものではない。しかもこの実験は、被告らによって戸塚元吉の証人申請がなされた後に、企画立案され、実験に要する費用は全て被告らが支弁し、道路騒音の録音位置の選定、録音作業について被告らの担当者が関与し、立ち会っている。こうした実験を、真に学問的研究目的で、原告ら、被告らと何らの利害関係を有しない研究者が行った他の実験や調査の結果と同列に扱うことさえ不当なのである。
それだけでなく、実験内容や結論においても著しく妥当性を欠いている。まず第一に、この実験用に録音した道路騒音は、本件各道路の騒音を代表しうるものではない。第二に、騒音暴露時間を八時間もしくは一二時間にとどめているが、環境騒音の場合は、二四時間暴露の結果TTSの増大が認めうるかということも検討すべきである。第三には、「有意差がなかった」ということをもって、実際に差は生じない=TTSの発生は認められないという結論を出しているのであるが、これは既に有意差検定の問題について論じたとおり誤りである。「有意差がなかった」というだけでは、差が現実にない=TTSが生じうる可能性がないとは断定できないのである。
(ク) 一審判決は、各種の勧告や許容基準の基準値を本件道路騒音によって聴力障害が生じない論拠として用いているのであるが、これは、それらが産業職場において、騒音性難聴を生じさせないことを目標として定められたものであることを忘却した議論である。
例えばISOの勧告は、五〇〇、一〇〇〇、二〇〇〇Hzの平均聴力損失値が二五デシベル以上になることを危険性とみなし、一日八時間、一週五日、一年五〇週の暴露を受ける場合に、Leq八五ホンでは四〇年でその危険性の発生する確率=危険率一〇パーセントであり、Leq九〇ホンでは四〇年で危険率二一パーセントとしているのである。
ところが、道路騒音など環境騒音については、EPAインフォーメーションの提案するとおり、騒音により、最も影響を受けやすいと一般的にいわれている四〇〇〇Hzの周波数における聴力損失値をゼロ、少なくとも五デシベル以下にすることが目標にされなければならないし、暴露時間も一日八時間、一週五日、一年五〇週ということではなく、一日二四時間、一週七日、一年五二週でなくてはならない。また暴露を受ける集団にいささかの確率でも聴力損失を生じる者があることを許容することはできない。即ち、産業職場においては、労働契約により、労働力を提供し、賃金を受け取るという関係をとり結んでいる労働者に対し、一定の日常生活に支障を生じる程度に至らない聴力損失が生じること、日常生活に支障を生じる程度に至る聴力損失が生じることもある程度の危険率でありうることの受忍を強いることを前提とされる。また暴露時間も就労時間に限定される。ところが、環境騒音においては、このような受忍を強いる根拠はないし、そもそも居住環境は休息にふさわしく、産業職場の騒音暴露などにより進行するTTSを回復し、PTSに進行させないようにしなければならないのに、ここでもTTSが進行することは絶対に認めることはできないのである。また、環境騒音の場合は、老人、幼児、病人などの弱者の存在も考慮にいれなければならないし、当然、毎日二四時間暴露を受ける可能性を想定しなければならない。ISOの勧告に関してのみならず、日本産業衛生学会の勧告や、OSHAをはじめとする諸外国の許容基準についても同様である。
(二) 原判決は、聴覚障害に関連して耳鳴りについても、原因やその性質につき未解明な点が多いことを理由に本件道路からの騒音により原告らの訴える耳鳴りがもたらされたと認定するに足る証拠はないというが(三二〇頁ないし三二二頁)、この点についても、医学的知見や各種アンケート調査、勧告・実験等からみて、本件道路の騒音が耳鳴りの原因となる危険性を否定できず、原告らの供述や陳述書において多数の原告らが訴える耳鳴りを否定してしまうことは、採証法則及び経験則に違反する。
4 その他の身体的被害
原判決は、本件道路騒音が、沿道住民に対し、頭痛、胃腸の不調、高血圧等の自律神経失調の一因を与えている可能性まで否定するのは相当ではないと認めながら、各種の研究によっても、騒音によってもたらされる生理的影響については解明されておらず、本件道路騒音が原告らに対し、身体的症状を発生させていると認めることは困難であると述べ、原告らの供述や陳述書において多数の原告らが訴える身体的被害を否定してしまった(三二二頁ないし三二六頁)。しかしながら、すでに取調べずみの医学的知見や各種アンケート調査によって、本件道路騒音程度の騒音により、原告らの訴える身体的被害が生じうる蓋然性は優に認められるところであり、原判決は採証法則及び経験則に違反する。
三 排ガスに関する被害認定の誤り
1 排ガスの汚染レベル
原判決は、理由第六 侵害状況等 三 排ガス 4 測定値で、R四三の沿道の自動車排ガス測定局の日平均値の測定結果を羅列し、それが現実のR四三の沿道の汚染状況であるとしている(二四〇頁以下)。また、原判決は理由第六 侵害状況等 三 排ガス 5 尼崎市内の交通量の増減と二酸化窒素濃度の変化で、尼崎市の二酸化窒素濃度について、R四三の交通量の三〇%で大型車混入率が低レベルである県道尼崎池田線の測定濃度がほぼ同レベルであることをもって、道路沿道の二酸化窒素濃度が交通量や大型車混入率に必ずしも規定されるものでないとしている(二五三頁以下)。この4、5項の原判決の認定が、それらの測定結果は、測定条件によって測定濃度レベルに差異が生じるという趣旨であれば誤りでないが、4、5項を合わせて考えると、R四三の膨大な交通量や過大な大型車混入率にもかかわらず沿道の二酸化窒素の濃度レベルは自動車排ガス測定局の測定結果程度のものであるという趣旨のようであるから、それは誤りと言わねばならない。
すなわちR四三の自動車排ガス測定局の測定結果は、いずれの測定局も大気汚染防止法第二〇条が「都道府県知事は、交差点などがあるため自動車の交通が渋滞することにより自動車排出ガスによる大気の著しい汚染が生じ、又は生ずるおそれがある道路の部分及びその周辺の区域について、大気中の自動車排出ガスの濃度の測定を行うものとする」と規定している趣旨に相応しい位置に設置されておらず、いずれも交差点からはるかに離れ、かつ風通しのよい汚染物質が拡散されやすい立地条件にあることは一審判決も認め、原判決もそれを受入れているところである。しかもそのことは、全国の自動車排ガス測定局の多くが、大気汚染防止法第二〇条の規定する条件を満たしたところに設置されている(甲A第七二五号証)ことと比較すると際立ったものであり、本件道路沿道の自動車排ガス測定局の特異性が明らかなのである。そのことからR四三の自動車排ガス測定局の測定結果は、沿道の比較的排ガス汚染のレベルが低い部分のものであり、沿道の汚染レベルを反映しているものではないと言える。それは西宮市二酸化窒素移動排出源解析調査(甲A第五八五、六三六号証)や尼崎市窒素酸化物に係る大気汚染解析調査結果(甲A第八六四号証)が、R四三の沿道の二酸化窒素の汚染状況は、尼崎市や西宮市の市域中であたかも山脈のような濃度分布となっていることを明らかにしていることからも裏付けられるし、さらに沿道をきめ細かく測定した尼崎、西宮、芦屋の三市協の調査(甲A第七六六号証の三)や年を隔てた二度にわたり沿道をくまなく調査したカプセル調査結果(甲A第一四九、七七八号証)から、やはりR四三の自動車排ガス測定局の測定結果は交差点にかぎらず、沿道のその他の部分と比較してももっとも汚染の程度が低いところであることを示しているのである。
このように原判決が、R四三沿道の自動車排ガス測定局の測定結果をもって、沿道の排ガス汚染レベルであるとするのは、少なくとも同じ測定主体の行った前記三市協の沿道測定結果と矛盾し、R四三沿道の汚染について説明をすることができないところであり、原判決の認定には経験法則違反があるものと言わねばならない。
2 排ガス汚染についての判断の遺漏
原判決が排ガス汚染の認定にあたって二酸化窒素の自動車排ガス測定局の日平均値の測定結果をR四三沿道の汚染レベルであるとした誤りはすでに指摘したとおりであるが、さらに、原判決が二酸化窒素の汚染レベルについて一時間値について全く判断していないのは、判断の遺漏であるといわなければならない。
本件では、確かに差止め基準値としては、日平均値を用いているが、こと健康影響については、むしろ長期暴露に対応して年平均値、短期暴露に対応して一時間値の影響について様々な研究が重ねられてきていることが、本件審理の経過からあきらかである。すなわち中央公害対策審議会の専門委員会報告(甲A第六七九号証の六、一四一〜一四九頁)によれば、二酸化窒素0.1PPMの短期暴露により呼吸器疾患患者の気道反応性の亢進がみられることが判明している。そして本件審理には、自動車排ガス測定局の測定でもあるいは、特別調査の測定でも一時間値の程度についての測定結果が明らかにされており、それらは常時二酸化窒素の一時間値0.1PPMを超過し続けていることを明らかにしているのである。それにもかかわらず原判決が、R四三沿道の一時間値についての汚染レベルにつき、なんらの認定もせず、「現状の大気汚染が直接に沿道住民らの健康に明確な影響を与えることを認めるにたりる証拠はいまだ十分でないといわざるをえない。」としたのは、原判決が沿道の汚染レベルとした沿道の自動車排ガス測定局の測定結果から住民の健康影響を判断するについて明白な遺漏があるものと言わねばならない。このように原判決が排ガス汚染の認定にあたり、日平均値の測定結果のみにより汚染レベルを認定したのは、訴訟法の解釈適用を誤り、審理不尽の違法をおかしたもので、この違法は、判決に影響を及ぼすことは明らかである。
3 侵害作用における排ガスの位置づけ
原判決は、「本件道路が自動車の走行の用に供せられることによって発生する騒音等のうち原告らに対する直接的な侵害とみられるもっとも重要なのが、騒音であり、これに浮遊粒子状物質であるが、これらに付随し間接的な侵害作用を及ぼすのが、浮遊粒子状物質を除く排ガスと言うべきである。」(二六一頁)とするが、これは、1で述べた排ガス暴露の程度とのちに述べるその成分の健康に対する影響についての証拠評価を誤り、結局著しく経験則にもとる判断に陥ったものであると言わなければならない。
4 排ガスの人体・健康影響
(一) 原判決は、
ア、自動車沿道汚染の人体影響(甲A第六九五号証)は、三万台以上の交通量の沿道において明らかになっている。
イ、その他つけ加えられた調査もすべて道路による沿道住民への健康影響を示唆している。
ウ、東京都調査についても同様のことが言える。
としながら、最後に「以上の各実験や研究、とりわけ、東京都および中央公害対策審議会の各報告を検討すると、現状の大気汚染が直接に沿道住民の健康に明確な影響を与えていると認めるに足りる証拠は、未だ十分でないといわざるをえない。もっとも原告らの供述および陳述書からみられる排ガスを原因とする被害の程度および道路端から二〇メートルを沿道地域とすることに合理性があるとする東京都の報告ならびに本件にあらわれたその他の証拠を総合すると、道路端から二〇メートル以内に居住する原告らは、排ガスにより洗濯物への被害をはじめ有形無形の負荷を受けていると認めるのが相当である。」(三六七ないし三六八頁)とするのである。
しかしながら、原判決の言うところの中央公害対策審議会の各報告とは、「大気汚染と健康被害との関係の評価等に関する専門委員会」が取り上げた各報告のようであるが、それらは、一般大気汚染の影響に関する報告であり、決して道路沿道での健康影響について検討をしたものでなかったところである。原判決のまとめによっても、右報告の結論として判決が整理しているのは、持続性せき・たん症状(すなわち単純性慢性気管支炎)、喘息様症状などいわゆる慢性閉塞性肺疾患と大気汚染の関係の評価(三六四頁)である。そしてその評価自体、中央公害対策審議会の専門委員会報告の結論に対する理解を誤った結果の所産であることは、すでに原審準備書面で詳しく指摘(原告ら原審最終準備書面 三四六ないし四一四頁)したところであり、おって補充書において、さらに詳述する予定であるが、原判決の窒素酸化物を指標とする大気汚染と慢性閉塞性肺疾患等健康被害との関係を認めるに足る証拠はないとした一審判決の認定の追認は経験則に違背した判断の誤りがある。また、百歩ゆずって一般大気汚染と慢性閉塞性肺疾患との関係についてそのような評価や判断が可能であっても、本件で原告ら住民が排ガス被害として指摘するのは、原告ら住民の慢性閉塞性肺疾患ではなく、「粘膜刺激症状から呼吸器疾患までさまざまな態様をしめす沿道に居住するものなら誰もが帯有する症状とそんな状態にならざるをえないほどの排ガス暴露にさらされていること」なのであるから、原判決の右評価は、本件道路沿道での原告ら住民の症状と排ガス暴露の関係に当てはまるものでない。実際右の専門委員会報告は、報告の一応の結論にかかわらず、留意事項として一般大気と比べて汚染状況の様相の違う局地汚染(道路沿道が典型である。)については特に留意――各報告の一応の結論に係わらずさらによく検討する――べきであるとしているところである。そして本件道路沿道は、わが国でも比類のない大型ディーゼル車の集中する道路沿道であり、一般大気の影響に関する検討では、論じきれないものであることは、右中央公害対策審議会の各報告の検討からも明らかなところである。そこで原判決は、慢性閉塞性肺疾患でなく原告らの指摘する健康影響について判断するべきであり、そのため、本件道路沿道での健康影響およびそのおそれのある状態の判断については、2の(一)〜(一〇)および、3の東京都調査の検討に基づいておこなうべきところであるのに、そのいずれをもおこなわず判断し認定を行っているのであるから、原判決の認定には判断の遺漏があり、理由の齟齬が存在する違法なものと言わねばならない。
(二) また時間的に言っても、東京都の調査や国立公害研究所の調査は、右中央公害対策審議会の専門委員会報告がまとめられた後に、報告されたものであり、専門委員会では検討の対象となっていなかったものである。そして右各調査は専門委員会が今後の検討課題として留意すべき問題とした局地汚染の健康影響問題に、その検討の恰好の対象になるものである。そうであるから原判決は、それぞれの研究、報告の目的、問題意識、その提出時期について十分な検討をすることなく研究の進展によって道路沿道の排ガス暴露による沿道住民への健康影響が解明されてきたのを見逃し、判断を誤るという経験則違反を犯したものなのである。
なお、原判決は東京都調査についても幹線道路沿道の排ガス暴露と住民への健康影響をみとめるにたりる十分なものでないとするようである。その理由は、東京都調査の昭和五九年分の調査対象者の訴えの再現性が昭和五七年調査の半数程度であったという事実を根拠とするものと思われるが、これは被告国、公団の的外れな東京都調査に対する論難を鵜呑みにした誤ったものである。なぜなら昭和五九年調査の結果もそれ以前の調査と同様地域診断として、住民集団への健康影響についての調査として一貫したものであり、その評価についてはかわるところはないからである。被告国・公団が東京都調査への攻撃の口実とする調査対象者の訴えの再現性の問題は、仮にそのような議論がなりたつとしても、それはせいぜいのところ、このような調査によって地域診断はできても、個別の住民の健康状況の鑑別にまでは汎用できないということを意味しているにすぎないのであり、幹線道路沿道の排ガス汚染と沿道住民への健康影響の検討にはなんら不都合はないものであることが明らかであるからである。
(三) さらに付言すると右中央公害対策審議会の専門委員会報告の中心的委員であった常俊義三宮崎大学教授が自動車沿道の人体影響(甲A第六九五号証)を概説としてまとめたのも同教授が参加して検討がなされた専門委員会の結論として、さらに検討を要することとした留意事項について、自動車道路沿道の排ガスによる大気汚染問題の深刻化のもと、それに専門委員会報告以後の東京都調査なども含めて検討の素材として一応の見解を提示するためであったのである。そして常俊義三宮崎大学教授は、検討の結果なんの留保もなく、原判決が引用するとおり、「三万台以上の交通量の沿道における影響、ならびに様々な観点から影響の顕現」がみられるという評価をだしたのでありこれが現在における幹線道路沿道の住民への健康影響についての科学的評価の到達点である。そうであるから、むしろ専門委員会報告も東京都調査も国立公害研究所の調査などその他の研究も本件道路沿道を含む幹線道路沿道住民への健康影響を明らかにするものであり、原判決の認定には、理由齟齬、理由不備の違法があり、この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるといわなければならない。
上告理由第二点
原判決は差止請求に関する加害行為の違法性ないしは受忍限度を判断するにあたり、理由不備もしくは理由齟齬または判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤り、採証法則違反、経験則違反の違法を犯しており、この点において破棄を免れない。
一 被害の内容・程度を「生活妨害に止まる」と判断した誤り
原判決は「差止請求の場合には、損害賠償と異なり、社会経済活動を直接規制するものであって、その影響するところが大きいのであるから、その受忍限度は、金銭賠償の場合よりもさらに厳格な程度を要求されると解するのが相当というべきである。」と説示し、本件差止請求を棄却した重要な根拠の一つとして、原告らの被害が「生活妨害に止まるものである」ことを挙げている。
しかしながら、原判決の右判断は、上告理由第一点で詳述したとおり、騒音や排ガスの暴露レベルを見誤り、騒音や排ガス等の被害に関する数多くの知見の評価を誤り、かつ、騒音、振動、排ガス等による局地的な複合的侵害行為が、沿道住民の人体や健康に及ぼしている現実の影響を看過ないしは過少評価した結果によるものである。
原判決の右判断には、理由不備もしくは判決に影響を及ぼすこと明らかな採証法則違反ないしは経験則違反の違法があることは明白である。
二 排ガス差止めのレベルを指摘しない誤り
1 原判決は「たとえば排ガスの成分である窒素酸化物は刺激性を有し、それだけでも嫌悪感を招くのが通常であろうが、さらに人の健康への被害をもたらす性質があるから、‥」(二六一頁)と排ガスの危険性を正しく指摘している。ところで原判決は、排ガスについての認定の末尾で「現状の大気汚染が直接に沿道住民らの健康に明確な影響を与えることを認めるに足りる証拠は未だ十分でないと言わざるを得ない」(三六七頁)と健康影響を否定し、原告ら沿道住民の被害を生活被害として道路の公共性と利益衡量のうえ差止めを認めていない。
このことからすると原判決は、窒素酸化物の人の健康に影響が生ずるレベルでは、もはや公共性との利益衡量も許されず、沿道住民の健康を保護するため差止めがなされなければならない、しかしR四三沿道の排ガス汚染はそのレベルに達していないとしていることがわかる。そうであるから、原判決は人の健康に影響を及ぼす窒素酸化物の濃度レベルというものについて一定の判断をなしてそれに到達の有無を健康影響の有無の基準としていることが明らかである。ところが原判決には、結論にいたった前提たる窒素酸化物の影響濃度レベルについての記載が欠落しており、沿道の窒素酸化物汚染が健康影響濃度と比較してどの程度低位にあるから、住民に健康影響が発生していないし、発生のおそれがないといえるのかが当事者に理解のできないところであり、理由不備の違法があるものと言わねばならない。
2 そもそも住民の権利救済の方法として、過去の損害賠償のみならず、差止めを求めるのは、健康など住民の金銭支払では回復できない権利が侵害されるのを事前に防止するところにあり、それによりはじめて憲法第一三条や二五条のもとめる国民の人権が確保されるものであると言わなければならない。そのような差止めの趣旨からすれば、沿道の大気汚染の状態が原告ら住民の健康に影響を及ぼすおそれのある窒素酸化物の濃度レベルにあれば仮に健康影響が顕在化していなくても差止めが認められるべきであり、そのことが差止めの趣旨にかなうものである。さて、原審の審理の結果明らかなとおり、尼崎市、西宮市、芦屋市の三市協議会は、じつに二〇年余に渡り、国に対してR四三沿道で住民の健康調査を行うように求めてきたのである。それにも関わらず、国はこの住民の切なる願いを体現した三市協議会の要望を無視してきたところである。そうであるから、国の怠慢で沿道住民に健康影響が調査研究の欠除のため顕在化しないからといって、そのことを口実に差止めが認められないことになるのはあまりに不合理であり、このことからも沿道の大気中の窒素酸化物の汚染レベルが健康に影響を及ぼすおそれがあれば、差止めが認められなければならない。
3 窒素酸化物に限らず健康影響濃度がどのようにして認定されるべきかについても差止めの趣旨に適うものでなければならない。すなわちそれは住民の健康について影響が生ずるか否かについても厳密な科学的真理を究明することではなく、法律的にどのレベルで差止めを認めればまずは住民の健康への影響が生じるのを未然に防止できるかということである。
そこで窒素酸化物の健康影響濃度を検討すると、原告の原審最終準備書面三九六頁以下で詳述したとおりその認定の参考となるものは、①窒素酸化物等に係る環境基準専門委員会報告(一九七二年六月二〇日)、②WHOガイドライン(一九七六年)、③二酸化窒素に係る判定条件専門委員会報告(一九七七年三月二八日)、④大気汚染と健康被害との関係の評価等に関する専門委員会報告(一九八六年四月)にほぼ網羅されているところであり、それぞれの結論は相矛盾しあうものでないことは四つの報告の内容から明らかである。
そうすると窒素酸化物の健康影響濃度について直截に基準を提示しているのは、③の指針値であり、二酸化窒素の長期暴露につき年平均値0.02〜0.03PPM及び短期暴露につき一時間値0.1〜2PPMとして提示されたところである。専門委員会はこれを「影響が出現する可能性を示す最低の濃度レベルである」と判断したところである(一審判決四〇一丁表)。
この指針値の上限の値はその基礎資料の解析結果と比較すると、緩いものであり、その濃度レベルでは、すでに健康影響濃度の下限を超えていることを指摘してきたところであるが、すくなくとも右指針値をもって法律的に差止めを認めれば、現在の研究の到達点からすれば、まずは住民の健康への影響が生じるのを未然に防止できるレベルであるものといえる。たしかに窒素酸化物の健康影響を認めたがらないものは、右指針値には安全の幅があるとか主張し、研究、報告をしている者ではないが前田和甫元東大教授は、本件の一審の証拠調べにおいても右指針値について健康影響濃度たることに疑問を呈している。
このように右指針値は一点の疑問もない科学的な原理や法則ではなく今後の研究の進展によってはさらに精密な健康影響濃度が判明し、その結果見直されることになるかもしれない。しかしながら本件は原告ら沿道住民の健康への侵害を未然に防止できるかどうかという法的判断をもとめるものであるから、これまでの様々な調査研究によっても健康影響濃度に定説がないなどと涼しい顔をしてすますことができるところでなく、裁判所に付託された国民の権利救済機能を果たすために、少なくとも我が国のトップレベルの研究者が合意をした右指針値をその専門性を尊重して人の健康影響濃度であると判断するのが合理的であり、その余の健康影響濃度を認める余地はありえないといわなければならない。
そうすると原判決が、①〜④で示された我が国の専門家による検討結果から差止めの趣旨にかなう健康影響濃度を見出せないとしたことは、訴訟法の解釈適用を誤ったものであり、その違法は明らかに判決に影響を及ぼすものと言わねばならない。
三 「公共性」判断の誤り
1 原判決は、受忍限度判断のもう一つの重要な要素として「公共性」を挙げ、「本件道路沿線においても走行する自動車の台数は増え続け、ますます公共性が高くなるに至っている」(三八〇頁)と判示した外、本件道路の重要性を被告の主張のまま認め、結局、差止め請求の関係では「本件道路は、その公共性が非常に大きく、しかもこれに代替しうる道路がないこと等を考慮すると」「原告らの被害は、未だ社会生活上受忍すべき限度を越えているとはいえないものである」(四〇三、四〇四頁)とした。
しかし、原判決は、一審判決が誤ったのと同様に、走行する自動車の台数が増え続けていることをとらえ公共性が高くなっているとする誤りをおかし、また本件道路に代替しうる道路がないことを理由に未だ社会生活上受忍限度を越えていないという誤った判断をしている。
すなわち、原判決は、単に需要があるとの一事をもって公共性があるとして「公共性」の意味内容を誤解し、かつ原告らが本件道路の走行に支障が生じる差止め方法のみを求めていることを前提として判断した誤りがある。
2 需要あることをもって公共性があるとすることの誤り
原判決は、本件道路は走行する自動車台数が増加していること、すなわち需要があることをもって本件道路に「公共性」があると言っている。単に需要があることをもって本件道路の公共性の指標としているものである。
しかし、資本主義社会においては、需要は利潤追及の手段であり、利潤追及の有効な手段であるかぎり、場合によっては不必要なものでも「需要」がつくり出されるということがしばしば現象する。すなわち、需要を公共性の尺度とするなら、全ての「需要」あるものに、つまり全ての事象に公共性があるということになる。
私的企業の営むあらゆる経済行為に公共性が認められることになってしまう。しかし、仮にそれら私的企業の経済行為の需要が大きくても公害被害を発生させれば損害賠償の義務を負い営業停止等の差止めを受けることになることは誰しもが認めるところである。現代日本の公共事業は私的企業の営業行為と同視しうる側面は大であり、であるから、環境破壊を行った公共事業は私的企業と同じ論理でもって裁かれなければならないのである。逆に、「公共性」を強調する事業であれば、より一層公害被害を発生させない責任を負うというべきである。需要があることは何ら公害被害住民に被害の受忍を強いる論拠にはならない。
そして、何よりもその需要たるや所与のもの、絶対的なものとは言えない。車優先の政策、輸送量を抑制することのない自由放任の結果、道路を工場の中のベルトコンベアの一部と化したり、多品種少量生産による多頻度の輸送の結果、また工場と消費地とのミスマッチによる無駄な輸送やアイドルキャパシティの発生は、いわば作られた需要の側面が濃厚である。やるべきことをやらずして、「需要」があるとして公共性を認め、ましてや差止め請求を退ける最大の論拠の一つにすることは許されない。
3 代替道路がないことをもって差止め請求を排斥した誤り
(一) 百歩譲って、仮に需要があることをもって公共性があるとの考えにたったとしても、「代替道路がないこと」をもって差止め請求を排斥することは許されない。
原判決は、差止め請求を棄却する論拠として、原告らの被害は生活妨害に止まると言うのであるが、原告らの被害は原判決が言うような生活妨害に止まらない。騒音についても単にうるさいから生活妨害になるというような生易しい程度の音ではなく、原告らは騒音のために人間にとって不可欠である睡眠が妨げられたり、健康に大きな影響をきたしているのであるし、排ガスについても健康に大きな影響をもたらしているのである。
また、原告らは、本件道路の供用を廃止せよとか本件道路を他地区へ移せなどと求めているわけではない。被告らが、原告らに与えている甚大な被害について真摯に反省し、例えば原告らがその方策の一例として指摘した車線削減なりシェルターの設置なりの本格的な対策をとる気になれば決して不可能ではない。被告らが「やる気」になれば、本件両道路の廃止などせずとも原告らの求めている範囲内の数値まで騒音や排ガスを抑えることは十分可能なのである。
よって、代替道路がないことなどは差止め請求を排斥する理由にはならない。
(二) 原判決のいう「代替しうる道路がないこと等を考慮すると」というのは、一審判決が述べている「何ら代替措置のないままその通行に支障が生じた場合、産業経済活動ひいては国民の日常生活に及ぼす影響の重大性は計り知れないものであることが明らかであり」(一審判決四三一丁表)というのとほぼ同じである。
原判決は一審判決と同様に原告らの主張を誤解している。当初建設するときに地下化したり、シェルター化したりすることはできたのであり、現在においてもその気になればやれないことはないのである。物理的に不可能なことはなく、財政的な制約は理由にならないことは明白である。この方法をとれば原判決のいう「本件道路の公共性」を損なうことは全くない。とすれば本件道路に需要があることを公共性の指標とした原判決の考え方を取ったとしても原判決の判断が維持できないことは明らかである。
また、原告らは予てから当面の対策として一車線削減(片方向につき、両方向合わせれば二車線削減となる)を中心とする「ライフロードプラン」を提示している。片側を実質四車線から三車線にするものであるが、さらにもう一車線が生活道路として供用されること、R四三は片側五車線を本件訴訟提起により一車線削減した経緯があること、現在も建前としては夜間は内側二車線のみの走行規制があること等から真剣に本件道路公害問題を考えるならば是非実現されなければならないものである。原告らは「現在」の本件道路に需要があり、従って原判決の論理でいけば公共性があることになったとしてもその機能を損なうことのない方法での差止めをも提案しているのであり(なお、本件道路は自動車の騒音等が周辺住民に及ぼす影響に意を配った構造にすべきであり、その影響も十分に予測できたのに、十分な環境対策を行うことなく、住民の生活領域を貫通する本件道路が開通されたことは原判決が認定しているとおりである)、原判決の認定、判断は前提とする事実において誤っており、すなわち原告らが主張している事実につき判断を遺脱しているものであり、ひいては理由不備の違法あること明らかであるから破棄されなければならない。
上告理由第三点 <省略>