最高裁判所第二小法廷 平成6年(オ)1082号 判決 1998年7月17日
上告人
本多勝一
右訴訟代理人弁護士
尾山宏
小笠原彩子
桑原宣義
浅野晋
渡辺春己
加藤文也
被上告人
株式会社文藝春秋
右代表者代表取締役
安藤満
被上告人
堤堯
同
殿岡昭郎
同
村田耕二
右四名訴訟代理人弁護士
植田義昭
佐藤博史
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人尾山宏、同小笠原彩子、同桑原宣義、同浅野晋、同渡辺春己、同加藤文也の上告理由第二について
一 本件は、上告人の著作物について被上告人殿岡昭郎の執筆、公表した評論が上告人の名誉を毀損するものであるとして、上告人が被上告人らに対して損害賠償等を請求するものであり、前提となる事実関係の概要は、次のとおりである。
1 上告人は、昭和五二年一二月に株式会社朝日新聞社から発行された「ベトナムはどうなっているのか?」と題する書籍を執筆し、その一七六ないし一七八頁において、「一二人の集団“焼身自殺”事件」との見出しの下に、「去年の六月一二日」にカントーでベトナムの僧尼が焼死した事件(以下「本件焼死事件」という。)が堕落・退廃した僧侶の無理心中事件であるなどとするベトナム愛国仏教会副会長ティエン・ハオ師の談話の紹介等を内容とする記述(以下「本件著作部分」という。)をした。
2 被上告人殿岡は、被上告人株式会社文藝春秋発行の月刊雑誌「諸君!」昭和五六年五月号に、「今こそ『ベトナムに平和を』」と題する評論を執筆し、その五八ないし六三頁において、本件焼死事件はベトナム政府の宗教政策に抗議する集団自殺であったとした上、本件著作部分に関する上告人の執筆姿勢を批判する内容の記述(以下「本件評論部分」という。)をした。
3 本件評論部分は、全体で三〇〇行を超える分量のものであり、「本多記者の報道」という見出しが付された部分、「焼身自殺か無理心中か」という見出しが付された部分(以下「中段部分」という。)及び「真実の探究」という見出しが付された部分(以下「後段部分」という。)の三部分から構成されている。
4 中段部分は、全体の長さが五五行であり、その内容は、「この事件について、本多記者は『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物』、『堕落と退廃の結果』であるといっている。」という三行の文章で始まり、続いて、本件著作部分がその第一段落及び末尾の注を除いて引用されており、その引用部分は、若干の加除訂正があるものの、おおむね本件著作部分を正確に表現している。
5 後段部分は、全体の長さが七六行であり、その内容は、「何より問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」、「従ってカントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。」、「もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。」、「誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。」などとして、本件焼死事件が無理心中事件であるとするティエン・ハオ師の談話をそのまま紹介した上告人の執筆姿勢を批判するものである。
二 他人の言動、創作等について意見ないし論評を表明する行為がその者の客観的な社会的評価を低下させることがあっても、その行為が公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出たものであり、かつ、意見ないし論評の前提となっている事実の主要な点につき真実であることの証明があるときは、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱するものでない限り、名誉毀損としての違法性を欠くものであることは、当審の判例とするところである(最高裁昭和六〇年(オ)第一二七四号平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二五二頁、最高裁平成六年(オ)第九七八号同九年九月九日第三小法廷判決・民集五一巻八号三八〇四頁参照)。そして、意見ないし論評が他人の著作物に関するものである場合には、右著作物の内容自体が意見ないし論評の前提となっている事実に当たるから、当該意見ないし論評における他人の著作物の引用紹介が全体として正確性を欠くものでなければ、前提となっている事実が真実でないとの理由で当該意見ないし論評が違法となることはないものと解すべきである。
三 これを本件について見ると、本件評論部分は、被上告人殿岡が上告人の著作物である本件著作部分を論評するものであり、その前提として中段部分において本件著作部分の内容を引用紹介している。そのうち冒頭の三行は、本件焼死事件に関する本件著作部分の記述がティエン・ハオ師の談話をそのまま紹介したものではなく上告人自身の認識、判断であるかのような内容となっており、これが本件著作部分の内容を要約して紹介するものとして適切を欠くものであることは否めない。しかし、前記一5記載の後段部分の記述を併せて読むならば、本件評論部分は、専ら上告人が本件焼死事件に関するティエン・ハオ師の談話をその真偽を確認しないでそのまま「鸚鵡返しに」紹介したことを批判するものであって、その内容が上告人自身の認識、判断であるとしてこれを批判するものではなく、そのことは、本件評論部分を通読する一般読者にとって明白であるということができる。中段部分冒頭の三行が本件著作部分の引用紹介として適切を欠くものであることは、前記のとおりであるが、その適切を欠く引用紹介の内容が右批判の前提となっているわけでもない。したがって、本件評論部分は、全体として見れば、本件著作部分の内容をほぼ正確に伝えており、一般読者に誤解を生じさせるものではないから、本件評論における本件著作部分の引用紹介が全体として正確性を欠くとまではいうことができず、その点で本件評論部分に名誉毀損としての違法性があるということはできない。そして、被上告人殿岡の本件評論部分の執筆、公表は、公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出たものであり、また、意見ないし論評としての域を逸脱するものであるともいえないから、これが不法行為に当たらないとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は採用することができない。
上告代理人尾山宏、同小笠原彩子、同桑原宣義、同浅野晋、同渡辺春己、同加藤文也の上告理由第三及び上告人の上告理由について
著作権法二〇条に規定する著作者が著作物の同一性を保持する権利(以下「同一性保持権」という。)を侵害する行為とは、他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴を維持しつつその外面的な表現形式に改変を加える行為をいい、他人の著作物を素材として利用しても、その表現形式上の本質的な特徴を感得させないような態様においてこれを利用する行為は、原著作物の同一性保持権を侵害しないと解すべきである(昭和五一年(オ)第九二三号同五五年三月二八日第三小法廷判決・民集三四巻三号二四四頁参照)。
これを本件について見ると、被上告人殿岡が執筆した本件評論部分の中段部分冒頭の三行は、前記のとおり、上告人の本件著作部分の内容を要約して紹介するものとして適切を欠くものであるが、本件著作部分の内容の一部をわずか三行に要約したものにすぎず、三八行にわたる本件著作部分における表現形式上の本質的な特徴を感得させる性質のものではないから、本件著作部分に関する上告人の同一性保持権を侵害するものでないことは明らかである。また、論旨は被上告人殿岡により本件著作部分の改ざん引用及び恣意的引用がされたというが、その趣旨は、いずれも、本件著作部分がティエン・ハオ師の談話をそのまま掲載したものであるにもかかわらず、被上告人殿岡によりこれが上告人自身の判断であるかのように利用されたというものであって、その外面的な表現形式における改変をいうものではない。したがって、被上告人殿岡の行為が上告人の本件著作部分に関する同一性保持権を侵害しないとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するものであって、採用することができない。
上告代理人尾山宏、同小笠原彩子、同桑原宣義、同浅野晋、同渡辺春己、同加藤文也の上告理由第四について
原審の適法に確定した事実関係の下においては、上告人の本件反論文掲載請求に理由がないとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するものであって、採用することができない。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官河合伸一 裁判官福田博)
上告代理人尾山宏、同小笠原彩子、同桑原宣義、同浅野晋、同渡辺春己、同加藤文也の上告理由
目次
第一 はじめに
第二 原判決が名誉毀損の成立を否定した判断の誤り
一 「執筆姿勢批判」論の誤り
1 原判決がいう「執筆姿勢」批判とは
2 本件評論部分は「決して『執筆姿勢』に対する批判にとどまるものではない」
3 本件評論部分の「執筆姿勢批判」は正当性の範囲を逸脱している
4 被上告人殿岡が「ハオ師の発表した愛国仏教会の調査結果に原告が好意的であるとの認識を持ったこと」という原判決の判示の誤り
(一) 発表モノであることを認めていることとの矛盾
(二) 採証法則違背
二 引用・要約の正確性についての判断の誤り
1 引用・要約の正確性についての判断基準の誤り
2 本件評論部分の引用の不正確性は、正当性の範囲内にあるものとして、法的に許容されるか。
三 本件評論は評論としての許容限度を逸脱している
四 被上告人殿岡は相当な資料を有していたとする原判決の誤り
1 問題の所在と原判決の判示
2 本件評論と「殿岡テープ」との間には重大な食い違いが存在する。
3 原判決の誤り
第三 原判決の著作権法解釈・適用の誤りと判例違背<省略>
第四 本件反論文掲載請求を許容しなかったことの誤り<省略>
第一 はじめに
原判決は、本件評論部分が上告人に対する名誉毀損に当たらない―「名誉毀損の不法行為における違法性を阻却されるもの」としたが、これは法の解釈適用を誤ったものである。
原判決が右のような誤った結論に至った根本の要因は、第一に、原判決が本件評論部分は上告人の執筆姿勢を批判したものであるとして、本件評論部分の趣旨をことさらゆがめていること、第二に、本件評論部分の引用に不正確な点があるとしながらも、結局は右引用は「正当な範囲内にある」、としていること、第三に、本件評論部分における上告人誹謗の言辞が「やや適切を欠く部分」があるにとどまるとして、結局、本件評論部分は「評論としての域を逸脱している」とはいえず、違法とはいえないとしている点にある。
また原判決は、第三点の一環として、被上告人殿岡の取材内容の信憑性について「殿岡テープ」などを根拠に「信憑性を疑うべき何らの事情もなかった」として第一審の内容をそのまま維持している。
しかし、原判決の右判断は「殿岡テープ」の内容や被上告人殿岡の資料改ざん行為を全く無視したものであって、採証法則を誤った判断であるといわざるをえない。
次に、原判決は、著作権法違反の主張についても「本件評論部分における原著作物の引用は、公正な慣行に合致し、かつ、正当な範囲内にある」として「違法性を阻却される」としている。しかし原判決の右判断は著作権法の解釈・適用を誤ったものである。
以下順次批判する。
第二 原判決が名誉毀損の成立を否定した判断の誤り
一 「執筆姿勢批判」論の誤り
1 原判決がいう「執筆姿勢」批判とは
原判決がいう「執筆姿勢」批判とは、本件評論部分は上告人がファム・ヴァム・コー事件について自ら調査をし確かめていないのに、「政府御用の仏教団体の公式発表を(そのまま)活字にしている」というその執筆姿勢を批判したに過ぎないものであって、それ以上の中傷誹謗を上告人に加えたものではない、ということなのである。
2 本件評論部分は「決して『執筆姿勢』に対する批判にとどまるものではない」
確かに、本件評論部分をみると、それが原判決のいう趣旨での「執筆姿勢」を非難している部分がないわけではない。原判決も、そういう「部分が存する」と判示している。逆にいえば、本件評論部分には、それ以外の趣旨の部分があることを、原判決も認めているわけである。上告人側も、「執筆姿勢」批判とみられる言辞があることを全面的に否定しているわけではない。だから原判決が「控訴人は、本件評論部分は控訴人の執筆姿勢を非難したものではない旨主張する」と判示しているのは、控訴人側の主張を正確に受けとめたものとは言い得ない。
このことは、控訴人の一九九三(平成五)年六月四日付の準備書面(以下単に原審最終準備書面という)で、本件評論部分は「決して『執筆姿勢』に対する批判にとどまるものではない」(二七頁)と書き、その趣旨を具体的に敷術して述べているとおりである。
いまここでそれを再度繰り返して述べるのはまことに遺憾と言わざるを得ないが、原判決がその点を無視し、誤った判断を行っている以上、やむを得ない。
すなわち、本件評論は、本件評論部分の前で、マン・ジャック師から送られてきたいわゆる「殿岡テープ」に基づいて、抗議の焼身自殺であるとする事実を、極めて具体的にかつ詳細に書いている。次いで、本件評論は、本件評論部分に「焼身自殺か無理心中か」という小見出しをつけ、この事件について「本多記者」が本件著作部分でどう言っているかを書き、その部分の末尾で次のように書いている。
「国難、法難に殉ずるための焼身自殺と、尼僧との性的関係を清算するための無理心中とでは天地の違い、これ以上の落差は考えることも難しいくらいだが、真実は一つである。どちらが本当なのだろうか」(傍点代理人)。
次いで、「真実の探求」という小見出しを設けて、「本多記者の紹介する話しはいかにもインチキ臭いではないか。……といった小道具からしていかがわしい。」「いま本多記者を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。」「誤りは人の常と言っても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言い訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」(傍点代理人)と書いている。
以上をみれば、本件評論部分は、原判決がいうような意味での上告人の「執筆姿勢」批判にとどまるものではなく、むしろ上告人がベトナム「政府御用の仏教団体の公式発表」を無批判に鵜呑みにし、右のいかがわしい―あるいは真実に反する―「公式発表」の“セックス・スキャンダル”説を真実であると断定し、これを鸚鵡返しに本件著作部分で書いた、といって上告人を誹謗しているのである。
本件評論部分が、上告人が“セックス・スキャンダル”説を真実であると断定しているということは本件評論部分に「断定して書いている」という文章があることからして明らかである。「断定して」とは“セックス・スキャンダル”説を真実であると断定しての趣旨以外に理解しようがないし、通常の読者もそのように読むことは明らかである。
また本件評論部分の全体をみれば、それがマン・ジャック師から聞いた話や「殿岡テープ」による殉教説を真実とする立場に立って、上告人自らが“セックス・スキャンダル”を真実と断定しているという歪んだ決めつけを前提として、“本多説”を虚偽、「誤り」、「インチキ」と誹謗することが、本件評論部分の趣旨・基調であることは否定の余地がない。だからこそ本件評論部分は、「誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言い訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」、「報道記者としての堕落」とまでいい、口を極めて上告人を罵っているのである(この部分では上告人の“セックス・スキャンダル”説を「誤り」と決めつけ、「十二人の殉教」が真実であるとしていることは、一読しただけで明らかであろう)。すなわち、右に述べたような前提があって初めて、右のような口を極めた罵言が成り立ちうるのである。
従って原判決が「執筆姿勢」批判が本件評論部分の「主要なテーマとなっているとみて差し支えない」と判示しているのは、明らかに誤りである(この誤りは、事実誤認というものではない。事実自体は本件評論が乙第二号証として証拠に出ているのであるから、事実誤認のしようがない。原判決の右の誤りは、本件評論部分の評価、法の適用上の誤りなのである)。
3 本件評論部分の「執筆姿勢批判」は正当性の範囲を逸脱している
本件評論部分は、右のように単なる「執筆姿勢」批判にとどまるものではなく、上告人が虚偽の事実を真実と断定して書いているという非難こそが、その主要な趣旨なのであるが、原判決のいう「執筆姿勢」批判なるものの中にも、重大な問題が含まれている。
このことも原審最終準備書面(二七?三〇頁)で詳述したとおりである。この点の控訴人側の主張を、原判決は全く無視しているので、同じことを繰り返し述べざるを得ない。
すなわち、原判決が援用する一審判決(但し原判決が一部修正)は、「愛国仏教会というベトナム統一政権に協力する仏教会の組織の会見発表をそのまま本件著作部分に記載している」「それ(無理心中説、すなわちハオ師の発表内容)をそのまま伝えた原告の執筆姿勢を評論のテーマとしたもの」「無理心中とする見解の報道源の根拠を示している」、「ベトナム当局の情報をそのまま伝達したに過ぎないその執筆姿勢を非難した」(いずれも傍点は代理人)と判示している。
これらの判示によれば、原判決がいう「執筆姿勢」批判とは、結局、発表モノは書くなという批判だということに帰着する。
すなわち発表者(原判決がいう「報道源」)を明示した上で、発表者の発表内容をそのまま書くのが発表モノにほかならないのである。発表者―例えばクリントン大統領とか河野洋平自民党総裁とか池田大作創価学会名誉会長とか―を明示しなければ、発表モノにはならない。また発表された内容をそのまま正確に伝えなければ発表モノにならない。発表者の発表内容を勝手に歪めたり、不正確に伝えたりするのでは発表モノとしては無価値であるどころか、読者に発表内容を歪めて伝えるという意味で有害である。また発表モノである以上、記者はその発表内容が真偽のいずれであるとも自らの判断を加えていない。記者が自らの判断を一切まじえていないからこそ発表モノなのである。この場合の記者の使命ないし役割は、発表者の発表内容をそのまま正確に読者に伝えることにつきる。その発表内容が真偽いずれであるか、いかがわしいと思うか、信用するかは、読者各人の判断に委ねられている。発表内容が虚偽だと判断する人は、あるいは後日虚偽であることが判明したときには、非難すべきは発表者であって、発表モノを書いた記者を非難するのはおよそ筋違いである。「政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしている」といおうと「鸚鵡返しに本に書いた」といおうと、それがまさに発表モノなのである。
アメリカ国防省がトンキン湾事件を発表したとき、各国の記者は、その発表をそのまま発表モノとして記事にした。しかし数年後に、トンキン湾事件はアメリカ軍が北爆開始を正当化するためのアメリカ国防省の捏造事件であることが判明した。そのとき発表モノを書いた記者が非難されたことはなく、アメリカ国防省が非難を浴びた。これは発表モノである以上当然のことである。
ところが、本件評論部分は、上告人が発表モノを書いたのは報道記者として許せないと非難し、原判決もそのような非難を正当な批判として是認しているのである。報道記者がしばしば発表モノを書いていることは公知の事実に属する。上告人の原審での陳述書(甲第一二五号証。以下単に陳述書という)によれば、現在の新聞や雑誌の全紙面の九〇パーセントまでが発表モノでしめられている。それなのに数ある報道記者の中でなぜ上告人だけが発表モノを書いたからといって「報道記者としての堕落」、「筆を折るべきである」とまで非難されなければならないのか。なぜそのような「批判」が正当な批判として、裁判所によって是認されるのか。それははなはだ奇異なことだといわねばならず、これを正当化する根拠がないことは極めて明白である。
原判決が援用する一審判決によれば、本件評論部分は、「足で書く」記者であった筈の上告人が「事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに……書いた」こと、あるいは「事実かどうか判らないものを活字にする」ことを批判したのだとし、本件評論部分を正当な批判活動だとしている。これは、裏のとれない発表モノは書くなという非難に他ならないし、原判決はそれを正当な批判活動と評価しているのに他ならない。しかし報道記者がしばしば裏のとれない発表モノを書いていることもまた公知の事実である。
例えば先にあげたトンキン湾事件の場合、報道記者がトンキン湾の現場まで行ってアメリカ国防省の発表内容の真偽を確かめた上で記事を書くということは不可能である。
原審最終準備書面でも引用したように、上告人は原審での陳述書の中で次のように述べている。
「トンキン湾事件の発表をアメリカをはじめとする報道陣が大々的にとりあげたのは、のちに捏造とわかる内容であってもそのときは知る由もなく、検証の時間的余裕もないまま、国防省という責任ある立場からの発表モノだからでした。一般マスコミとして、それ以外にどんな手段がとれたことでしょう」。
事実の確認ができないから、「事実かどうかわからないもの」だからこそ、上告人は本件著作部分を発表モノとして書くにとどめたのである。原判決が援用する一審判決は、被上告人殿岡は、上告人が「自らの調査結果に基づき『足で書く』記者として社会的に高い評価を得ていた」と考えていたと判示しているが、本件著作を一読すれば明らかなように、上告人は、本件著作でも「足で書く」記者としての本領を遺憾なく発揮している。しかしいかに「足で書く」記者だからといって、上告人も報道記者の一人である以上、発表モノ―裏のとれない発表モノを書くことはいくらでもある。従って上告人が「『足で書く』記者として社会的に高い評価を得ていた」からといって、裏のとれない発表モノを書いたことを理由に、上告人が「報道記者としての堕落」「筆を折るべきである」とまで非難される合理性は全くない。つまり本件評論部分は、この点でも批判的言論として許容される限度を逸脱していると言わざるを得ないのである。この点にも原判決の重大な誤りがある。
ここで関連して、上告人がハオ師の発表内容を発表モノとして本件著作中でとりあげた理由を、参考までに述べておく。
そのことは上告人の原審での本人尋問、陳述書及び原審最終準備書面(四二?四五頁)でも述べたところである。すなわち上告人は、ハオ師の発表内容が真偽不明であるが、以下の理由から参考資料としては意味があると判断したのである。
すなわち、第一に、本件著作部分の直前に、上告人は「仏教徒の周辺」というタイトルで、ホーチミン市人民委員会がアンクァン派に対して公然と対決する構えを見せ、責任者を「厳罰に処せざるを得ない」とする長文の警告を発したことを記述した上で、その警告文を全文紹介している。
アンクァン派とはどういうものかということについては、上告人の原審での本人尋問でも、また本件著作物(一六六頁、二四六から二五一頁)でもかなり詳細に説明されている。それによれば、アンクァン派は、ベトナム戦争中サイゴン政権に対して焼身自殺など強烈な反対行動、抗議行動をとったことで有名な宗派である。ところが同派は、戦争が終わってハノイ政権が南北を統一してからは、今度はハノイ政府に対しても断固として従わないという態度をとった。そこでその後アンクァン派がどういう運命をたどるのかが、世界的に注目されていた。
従って、ホーチミン市人民委員会が前述のように同派に対して厳しい警告を発したことは重要な報道価値があると考え、上告人は、本件著作の中で右の事実と警告文を紹介したわけである。
そして右の警告文の中で、ファム・ヴァム・コー事件が取り上げられていた(一七〇?一七一頁)。
その関係で、上告人は次の章で「十二人の集団“焼身自殺”事件」のタイトルで、「前章に出てくるファム・ヴァム・コー(フェ・ヒエン師)の事件とはどういうことであろうか。」と前を受ける形で、ティエン・ハオ師がこの事件の調査結果として発表したものを、発表モノとして掲載したのである。つまりそれは、警告文にあるファム・ヴァム・コー事件を当局側がどうとらえているか―それには当局側発表を紹介するほかない―を敷衍して説明することによって、右の警告文でホーチミン市人民委員会が何をいわんとしているか―その是非の判断は別として―を、読者が理解するための便宜として書かれたものである。
第二に、上告人も、原審での本人尋問や陳述書(四一?四三頁)で述べているように、上告人は、真偽不明であるけれども、次の二点でニュース価値があると考えたからである。
一つは、当局の発表であるということ、及びこの事件について対立する解釈があるということである。当時既にフランスで発表された「抗議の焼身自殺」説があり、それは日本でも朝日新聞で報道されていたことを、本件著作部分は注記している(一七八頁)。
それは、「記者が自分で調査した結果ではない以上、対立する二つの発表モノがあったら可能な限り双方をとりあげる必要がある。真相はのちに明らかになるにしても、その時点では双方をとりあげて、国民のいわば『知る権利』に属する判断のための資料として記録しておくべきなのです」(陳述書一五頁、四一?四二頁)という考え方に基づくものである。
いま一つは、上告人が陳述書(四二?四三頁)で書いているように、「この事件は、いずれ真相がわかるときが必ず来るでしょう。きっと明らかになるときが来ます。できれば私自身でやりたいことは第一審でも述べてきたとおりですが、真にふさわしい正確なルポを書ける人なら誰でもかまいません。」という点である。
そして「この事件の真相がいずれ明らかになったときのことを考えるとどちらにしてもニュース性があります。つまり①ベトナム当局の発表のような無理心中だとすると、アンクァン派の関係者が『抗議の焼身自殺』と捏造して吹聴し、反革命による現政府転覆に荷担したことになります。しかし②本当に抗議の焼身自殺だったら、革命政府の側が捏造して事実を隠蔽したことになり、これではベトナムもまたソ連型の腐敗権力国家になりつつあることの証明となりましょう。
後者②の場合がニュースになるとき、もし私の記録が公表されていなかったとしたら、どういう書き方になるでしょうか。何も記録がないのですから、『ベトナム当局はこんな大ウソを捏造した』と報道するにしても、その“証拠”がありません」(四二頁)。
上告人が陳述書の別の箇所(一一頁)で書いているトンキン湾事件の例を想起されたい。トンキン湾事件はアメリカの捏造であったが、各紙はこれをアメリカ国防省の発表モノとして報道した。この発表モノの記事があったからこそ、その後同事件が捏造であることが判明したときに、そのことが初めてニュース価値をもちえたのである。すなわちアメリカは、トンキン湾事件を捏造し、これを口実として北爆を強行したことを、世界の人々は知ることができたのである。
なお、事件当時、あるいは最初の報道当時は真偽不明であっても、後になって―それも場合によっては相当長年月を経た後に―真実が判明するという例は、上告人が陳述書(四三?四四頁)で書いているように、南京大虐殺事件、消滅前の東ドイツの実情、ポルポト政権によるカンボジア大虐殺事件など、いくらでもある。
4 被上告人殿岡が「ハオ師の発表した愛国仏教会の調査結果に原告が好意的であるとの認識をもったこと」という原判決の判示の誤り
(一) 発表モノであることを認めていることとの矛盾
原判決は、一審判決を援用して、被上告人殿岡が「ハオ師の発表した愛国仏教会の調査結果に原告が好意的であるとの認識をもった」と判示している。しかしこの判示が、本件評論部分の引用は、「これを全体的に考察してみて主要部分において原著作物の趣旨から逸脱していない」という原判決の結論的判断に、どういうわけで結びつくのかはっきりしない。しかも原判決は、一審判決の「被告殿岡が前示の判断をしたことは是認できないものでもないこと」という判示部分を削除しているのである。ともあれ、前述の問題の判示は、本件評論部分の不正確引用を正当化する一事由として提起したものであることは、明らかである。しかしこの判示は、原判決が同じく一審判決を援用して―但し重要な修正を加えている―「原告は、本件著作物において、ベトナムでの取材について、取材の自由が確保されていないことを指摘し、本件事件についてもいわゆる『発表モノ』であって、原告自身の『直接的ルポとするわけにはゆかない』(甲第一号証二六八頁)としているのであるから、これを原告が『いっている』とか『断定している』と表現するのは不正確の誹りを免れず、この点は引用の適否を判断するに際して軽視できない」と判示していることと決定的に矛盾している。
蓋し原判決は、被上告人殿岡も本件著作の右部分(二六八頁)を読んで、発表モノとして書かれたことを承知している、ということを前提にしている。発表モノであり、自らの「直接的ルポとするわけゆかない」のだから、上告人がハオ師の発表内容を真実だと断定して書いているわけではなく、ハオ師の発表内容について上告人自身の判断を一切交えないで書いていることを原判決は認めているわけである。したがって、上告人がハオ師の発表内容に好意的であると判断する余地はないのである。だからこそ原判決は、「これを原告が『いっている』とか『断定している』と表現するのは、不正確の誹りを免れず……軽視できない」と判示しているのである。
したがって、被上告人殿岡が「ハオ師の発表した愛国仏教会の調査結果に原告が好意的であるとの認識をもった」との判示は、右の判示と正面から矛盾するのであり、このことを本件評論部分の不正確引用を正当化するための一事由とすることは、論理的に許されないことなのである(このことが事実誤認の問題でないことは、いうまでもない)。
(二) 採証法則違背
被上告人殿岡が、本件評論を書くに先立って、本件著作全体を通読していることは、原判決も認定しているところである。
そして本件評論部分が、上告人をベトナム社会主義政権寄りの“偏向”記者であると読者に印象づけようとしていることは、本件評論部分をみれば一読しただけで明白である。
ことにその趣旨は、「政府御用の仏教団体の公式発表」を、事実を確かめもしないで、真実だと「判断して書いている」、「いま本多記者を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない」、「鸚鵡返しに本に書いた」(傍点代理人)という文章や用語からしても明白である。
しかし本件著作の全体を通読している被上告人殿岡が、上告人が事実を無視してでもベトナム社会主義国を美化する“偏向”記者であるとか、本件著作をそのような書物であるという認識に到達することはあり得ない。そのことは、本件著作全体を通読してみれば、上告人が“偏向”記者でもなければ、本件著作物が“偏向”記事で占められているわけでもなく、逆にジャーナリストとして事実を直視する冷徹な目を失うことなく、批判すべき点は厳しく批判していること、否、厳しく批判している部分が多く、全体としてはベトナム社会主義政権批判の書といっても良い程であることが容易にわかる。
本件著作物全体を読むのが大変だというのなら、せめて本件著作物の抜粋である甲第一二六号証(『ベトナムはどうなっているのか?』における統一後のベトナムの批判的記述)だけでも読んで頂きたい。原審最終準備書面(二?一三頁)でも詳述しているので、これを読んで頂くこととして再述しないが、上告人は、原審での陳述書(二五?二六頁)でも、本件著作物における上告人の基本的な立場について「ともかくジャーナリストの目で現場をまず見る、と言うものです。事実をよく見なければ真相は分からない、とする立場。演繹的ではなく帰納的でなければならないとする立場。」(二五?二六頁)だと述べ、「私もまた最前線でつぶさに米軍のひどさを体験した結果、帰納的にベトナムの『古き友』とされていたと言えましょう。そのような『古き友』にとっては、ベトナムが戦後も立派であってほしいと心情的に願うのは少しも変なことではありますまい。」、「けれども私の取材と報道の原則は、さきに引用したように、あくまで現場の民衆の声から積み上げることであり、正確な事実に依拠することにあります。私個人の心情としていかに残念なことであっても、事実は冷徹に受けとめなければならない。だからこそ本書では、ベトナムに対する極めて強い批判が基調になっているのです。一九七七年のこの時点で正式のベトナム取材をハノイ当局に認められた西側の記者の中に、これだけ強い批判をあえてやった例はおそらくないでしょう。」(三八?三九頁)と述べている。こうして「幹部達の役得」、「運賃体系の矛盾」、「やみドル市場、売春婦の存在」、「充満する汚職」、「官僚主義」などの多くの批判的記事が書かれた。そして上告人がとりわけ厳しい批判の筆を多く費やしたのが、統一後のベトナムでは取材の自由がないということである。この点は本件著作物の中で繰り返し書かれているが、例えば次のような部分がある。すなわち上告人は、ハノイ、サイゴン、ダラト現地の責任者など七、八人の当局側の人々が、上告人の取材についてまわったことについて次のように書いている(甲第一二六号証二六頁、三二?三三頁)。
「これは、これまでに私がルポルタージュを書くためにとってきた取材方法によれば、到底『取材』ではあり得ない。しいて分類すれば『儀式』に近いだろう。儀式の中では、民衆はホンネを語らぬものだ。タテマエだけを聞いて歩いて、あたかも自由な取材であったかのようなルポを書くわけにはゆかぬ。それではいわゆる“盲従分子”になるだけであり、ジャーナリストの自殺行為になろう」。
「要するに結論として、本格的『社会主義国』になったということではないか。社会主義国はいままでのところ、どの国も取材が不自由です。南ベトナムもそうなった。……そうすると、ベトナムだけの問題でなくなってくる。『社会主義国になれば必ず取材は不自由になる』ということが事実としてあるわけです」。
そして上告人が、取材の自由がないことの典型例(上告人の原審における本人尋問)としてあげたのが、本件で問題になっている「十二人の焼身自殺事件」である(本書二六八頁)。そこでは取材の自由がないことを指摘した上で、次のように書いている。
「私は困った。これでは説得力あるルポルタージュによって『新生ベトナムのすばらしさ』を描くことができない。『現場で実情をよく見る』(ヴー・コク・ウィ氏)ことが、これではできない。表面的な『取材』による限りでは、たぶんすばらしい方向に進みつつあるようだ。そう信じたい。しかしラクチュールの危惧が完全に杞憂だったと、確信を抱いて報告するわけにはいかない。ベトナムのために、ひいては社会主義のために、これは残念なことだと思う。サイゴンでは、新経済地域に関するいろんなマイナスのうわさや体験談も聞いた。しかしそれが単なる例外かデマだとして否定するためには、自由な取材をどうしても必要とする」。
その上で「十二人の焼身自殺」事件を例にあげ、自分自身が現地に行き取材できない以上「『当局によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる。……私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない」と書いているのである。
このように本件著作物全体を見れば、本件評論部分が上告人を“偏向”記者であるかのように、また本件著作部分を“偏向”記事であるかのように読者に印象づけようとしたことは、事実を無視してまで悪意をもって上告人を中傷誹謗したものと言わねばならない。また被上告人殿岡が何と弁解しようと、同人が、上告人はハオ師の発表内容に好意的であるとの認識をもつ筈はないのである。好意的であるとの認識をもったという原判決の事実認定は、明らかに採証法則に違背している。
いわんや、本件著作部分が“セックス・スキャンダル”説を真実だと「断定して書いている」というのは、正当な批判活動の範囲を逸脱したものであることは明らかである。
なお原判決は、右の誤った事実認定の根拠として、本件著作物の中に、「西側で宣伝された事件」、「悪意ある反動側のベトナム攻撃、中傷」といった表現があることをあげているが、これは本件著作物の全体に目を覆い、且つ当該部分の片言隻句を全体の文脈から切り放して論じているものであって、本件著作物全体や当該部分の文章全体の趣旨を歪めた誤った理解であり、評価であると言わねばならない。このことも原審最終準備書面(三五?四〇頁)で詳述したので、ここではそれを引用するにとどめる。
二 引用・要約の正確性についての判断の誤り
1 引用・要約の正確性についての判断基準の誤り
原判決は、引用の正確性の判断基準について、次のように判示している。
「引用の許される基準をあまり厳格に定立すると、事実上評論の自由が制約を受ける結果となるおそれもある。この種評論が現代民主社会において果たしている役割にかんがみると、委縮効果を生じさせるような基準は避ける必要がある。……評論の前提となる引用が、その一部において原著作物と相違している場合であっても……当該引用は……正当な範囲内にあると言うべきである」。
この判示を読むと、不可思議な感じを受ける。そして不可思議な感じを受けるのは、何も上告代理人だけではあるまい。つまり右の判示は、評論の前提となる引用は少々不正確でもかまいはしないという感じを与え、言論の「委縮効果」の防止どころか、逆に不正確引用の助長効果を持つと言わざるを得ないからである。
およそ他人の著作物から引用する場合、その引用は正確でなければならないというのは自明の理であろう。そして引用を正確に行うことがなかなか難しいことだということであればともかく、引用を正確に行うことは、極めて容易なことなのであるからなおさらのことである。正確な引用を要求したからといって、言論に委縮効果を生じさせることなどおよそあり得ない。判決が正確な引用を要求したために、杜撰な者や悪意で改ざん引用する者が正確な引用を心がけるようになるとすれば、言論の自由のために甚だ喜ばしいことである。
裁判官・判事あるいは弁護士が判決や準備書面を書き、あるいは著書・論文を書く際に、判例や他の人の著書・論文を引用することがしばしばある。その場合に他の判例や著書・論文を積極的に評価する場合もあれば批判する場合もある。いずれの場合でも、引用は正確に行う。不正確な引用を行えば―まして自らの論旨展開を有利にするためにあえて不正確な引用を行えば―その人あるいはその文書は信用を失う。そのようなことを何度もやれば、法律家としての信用を失う。これは当然のことである。このことは法律家だけでなく、すべての物書きに共通して言えることである。
まして人の書いたものを批判する場合、さらには罵倒する場合には、その前提として正確な引用を行うべきは当然の事理である。人の書いたもの、あるいは書いた人を批判する場合、まずは自分の襟を正してかからなければならない。このことはなにも物書きのモラルとしてだけ言っているのではなく、名誉毀損の成否が問われているケースでの、引用の正確性の有無の法的判断にも密接にかかわる基本的事項である。
従って、引用の正確性にかかわる原判決の前引部分の法的判断基準は、引用のイロハをも忘れた暴論であるというほかない。かりそめにも、裁判所が不正確引用に対して甘い態度をとっていると社会一般に受けとめられ、不正確引用の助長効果をもたらすような判示は、厳密性、公正性を使命とする裁判所としては、厳に慎まなければならない。
2 本件評論部分の引用の不正確性は、正当性の範囲内にあるものとして、法的に許容されるか。
本件評論部分の引用が不正確であることは否定のしようがない。一審判決も原判決も、このことを認めている。従って問題は、本件評論部分の不正確引用が、名誉毀損あるいは著作権法違反が問われているケースで、正当な範囲内にあるものとして、法的に許容しうるものであるか否かの点に絞られる。
そこでもう一度本件著作部分と本件評論部分の「引用」、「要約」とを対比してみよう。これを見れば、本件評論部分の「引用」、「要約」が、極めて重大な点で不正確な引用・要約であることが歴然としていることが理解されよう。
まず本件著作部分は、次のようなものである。
「私たちは愛国仏教会とのインタビューでこの件(ファム・ヴァム・コー事件を指す。代理人注)について詳しく聞いていた」。
「愛国仏教会副会長で、日本にも来たことのあるティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて、『外国に逃げた仏教徒が歪曲した宣伝をしていますから、事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です』として、ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」として、以下にハオ師の発言内容を要約して書いた上で、最後に、「この事件は解放のあとで外国へ逃げた一部の反動的な僧侶たちによって絶好の利用価値がありました。とくにパリに多い反動分子たちは、革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を、“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう」とカッコに入れてハオ師の言葉を書き、「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」としめくくっている。
以上をみれば、上告人が記者会見でハオ師の発言をそのまま発表モノとして書いたものであることは、以上の本件著作部分の記載内容自体からして客観的に明らかである。
しかも上告人は、「『古き友』はなぜ背を向ける?――新生ベトナムと取材の自由」の章のなかで、ベトナム社会主義政権下で取材の自由が奪われていることをきびしく批判しつつ、取材の自由がないことの具体例として、本件著作部分でとりあげた「一二人の焼身自殺」事件の場合をあげ、「これは新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中をしただけのことだ。しかし、西側の宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ『当局によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる。」(本件著作物二六八頁。傍点代理人)として、本件著作部分が発表モノであること、取材の自由がないので発表モノとして書くほかなかったことをわざわざ明記している。
ところが本件評論部分は、「焼身自殺か無理心中か」という見出しのもとで、いきなり「この事件について、本多記者は『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物』『堕落と退廃の結果』であるといっている。少し永い引用が続くが、比較のためにその部分を引用してみよう。」(傍点代理人)と書いた上、一重カッコを付して「事件は去年の六月一二日……ヒエン以外の一一人は、絶望的になった彼の自殺の巻き添えをくったものとみられる。」と書き、続いて二重カッコを用いて『この事件は解放のあとで外国に逃げた反動的な僧侶たちによって絶好の利用価値がありました。特にパリに多い反動分子たちは革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう』と書いた上で、「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」と書いて、一重カッコを閉じている。
ここでは、はっきりと「本多記者」自身が「『焼身自殺事件などというものとは全く無縁の代物』、『堕落と退廃の結果』であるといっている。」と書いているのである。従って当然のことながら通常の読者は、本件著作部分で「本多記者」が「……といっている」と文言通りに読み、そのように受け取ることは明らかである。原判決も、「本件事件が焼身自殺とは無縁の代物で、堕落と退廃の結果であるとの言葉も控訴人が自己の見解として述べているかのように記載し」と判示している。
次いで「少し永い引用が続くが、比較のためにその部分を引いてみよう。」と書いて「事件は去年六月一二日……」と書いているので、これまた通常の読者は一重カッコで引用した部分は、前引の二重カッコで引用した部分と、それに続く、「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」の部分を除き、「本多記者」が本件著作部分で「いっている」ことを、具体的に詳しく引用したものと読むことも明らかである。
そして二重カッコを付した部分は、ティエン・ハオ師が述べたことと読むであろう。逆に言えば二重カッコを付した部分だけが、ティエン・ハオ師の言葉で、それ以外は、「本多記者」が「いっている」ことと読むであろう。このような書き方では、それ以外に読み方はない。
この点について原判決が援用した一審判決は「原告がそう言っているというようにも読める」(傍点代理人)と判示しているが、「ようにも読める」(傍点代理人)という判断は、被上告人殿岡のかばいすぎといわざるを得ない。「としか読めない」と判断するのが当然であり、少なくとも読者の多くがそのように読む蓋然性が極めて高いと判断しなければならない。また同じく原判決が援用する一審判決は、「本件評論部分の括弧、二重括弧の付け方が原文である本件著作部分と異なり、そのため『ティハマンマ・ハオ師は以上のように語った。』とある対象がやや不明確になっている。」(傍点代理人)と判示しているが、やや不明確どころではないであろう。最初からみてきたように「本多記者は……といっている」として一重カッコの引用が始まるのだから、そして右のように二重カッコの引用がなされたあとで「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」としているのであるから、通常の読者はティエン・ハオ師が語ったとする対象は、前述のように本件評論部分が二重カッコで囲った部分だとしか読めないであろう。百歩譲ってみても、ティエン・ハオ師が語った部分が極めて曖昧にされ、通常の読者に対し、本件著作部分について混乱した、あるいは誤った認識をもたせる危険性は、極めて大きいと言わなければならない。
更に本件評論部分には、「なにより問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」(傍点代理人)と非難している部分がある。「断定して書いている」とは、集団焼身自殺事件を虚偽と断定し、色事師の無理心中事件を真実と断定して書いているということである(「断定して書いている」という文章は、それ以外に読みようがない)。
以上の本件評論部分の「要約」及び「引用」は、通常の読者に対し、本件著作部分について誤った認識をもたせる極めて不正確な「要約」であり「引用」である。
原判決が、一審判決を援用し、且つこれに重要な修正を加えた部分で、「原告は、本件著作物において、ベトナムでの取材について、取材の自由が確保されていないことを指摘し、本件事件においても、いわゆる『発表モノ』であって、原告自身の『直接ルポとするわけにはゆかない』……としているのであるから、これを原告が『いっている』とか『断定している』と表現するのは、不正確の誹りを免れず、この点は引用の適否を判断するに際して軽視できない。」と判示して、右のように本件評論部分の要約や引用の不正確さが重大な程度のものであることを認めている。
ちなみに一審判決は右の箇所で「不正確であり、やや軽率であったというべきである」と判示していたが、原判決はこれをわざわざ修正し、右のように「不正確の誹りを免れず、この点は引用の適否を判断するに際して軽視できない」と判示しているのである。
既に述べたように、上告人は、ティエン・ハオ師の発言をそのまま発表モノとして書いているのに、本件評論部分は、こともあろうに、ティエン・ハオ師が言ったことを「本多記者がいっている」と書き、それに沿うような不正確な引用の仕方を敢えて行い、また本件著作部分はあくまでもティエン・ハオ師の発言をそのまま報道した発表モノであって、その内容については真偽いずれとも断定していないのに、本件評論部分は、上告人自らが集団焼身自殺説は虚偽、色事師の無理心中説を真実と断定して書いている、と書いているのである。このような「要約」、「引用」、そしてそれについての評価(「断定して書いている」)は、本件著作部分を極めて重要な部分で歪め、通常の読者に対し本件著作部分について大変に誤った認識を与え、ジャーナリスト「本多記者」についても、大変に誤った、且つマイナスの認識を与えるものであることは否定の余地がない。
実際に、本件評論部分は前引部分のほか、「従ってカントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。」、「取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま本多記者を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。」、「誤りは人のつねといっても、誤るにも誤り方があるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言い訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」と書いているが、これらと冒頭の「要約」部分、それに続く「引用」部分とを併せ読むと、通常の読者は、「本多記者」は、ベトナム「政府御用の仏教団体の公式発表」を、自らその真偽を確かめようともしないで、これを鵜呑みにし、日本の朝日新聞やロイター電が報道している抗議の集団自殺事件説を虚偽として退け、色事師の無理心中であったことを真実と断定して日本の読者に伝えようとしている、しかも「十二人の殉教」説の方が真実であり“セックス・スキャンダル”説は「誤り」であるにもかかわらず、という大変に誤った認識をもつことは明らかである。そしてそうであれば、「本多記者」はとんでもない記者だ、新聞記者の風上にも置けない、まさに「報道記者としての堕落」だ、筆を折るべきだ、と通常の読者も考えるに至るのは必定である。上告人は、このような本件評論部分によって、事実に反し到底正当とは言い難い不正確要約、不正確引用、それに対するコメント、そしてそれらを前提とする口をきわめた誹謗により、そのジャーナリストとしての名誉を著しく傷つけられたのである。
この点に関し原判決は、「本件評論部分において本件著作部分の出典及び掲載頁が……として正確に記載されており、通常の読者は、その引用の正確性を確認できる」と判示しているが、これはどういう趣旨であろうか。これが、通常の読者は、本件評論部分を読んだ後、本件著作部分に当たってみるから、本件評論部分で少々不正確な引用がなされていても、本件著作部分に対して誤った認識をもつことはないという趣旨だとすると―そうでなければ右のように判示する意味がない―大いに問題である。果たして、本件著作部分に当たってみる「通常の読者」が、一体どれほどいるだろうか。少なくとも「通常の読者」の圧倒的多数は、本件著作部分に当たるというまでのことはせず―まして「『古き友』はなぜ背を向ける?―新生ベトナムと取材の自由」、「ベトナムで考えたこと―朝日新聞労働組合での講演」、「『盲従』は友をも盲にする」という本件著作の他の部分、少なくともその二六八頁(『当局によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる」)までを読む「通常の読者」は極めて稀であろう。そう考えるのが自然であり、経験則に合致している。
だから、本件評論部分に本件著作部分の出典やその掲載頁が書かれているからといって、それによって、本件評論部分の不正確な「要約」・「引用」等による上告人の名誉毀損の被害が解消されることはあり得ないのである。
原判決はさき引用したように、本件評論部分の表現が]不正確の誹りを免れず、この点は引用の適否を判断するに際して軽視できない」と判示し、また「本件評論部分における本件著作部分の引用には、原文と若干異なって正確を欠く部分があるが(そして、この点は、本件評論部分の冒頭に位置し、その表現に照らしても軽視できないけれども)」(いずれも傍点は代理人)と重ねて判示していながら、(尤も後者の判示では「若干」と述べ、他方で「軽視できない」と判示しているのは矛盾であろう)、そのあとで、「引用された文言のほとんどが原文のままであり、その評論の趣旨からみて、原文の要点を外したものとはいえないし、しかも被控訴人殿岡の引用に根拠がないとはいえない。これら諸事情に基づいて前記二の観点から考察すると、本件において評論の前提とされている引用は、これを全体的に考察してみて主要部分において原著作物の趣旨から逸脱していないと認められる。したがって、右引用は……正当な範囲内にあるということができる」とし、結局、「名誉毀損の不法行為における違法性を阻却されるもの」との結論を導いている。
しかしこれは原判決の理由内部での重大な矛盾である。
繰り返しになるが、本件評論部分の冒頭部分の「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」という部分は、本件著作部分の中のカッコ付で報じられているハオ師の言葉の一部をそのまま引用したものである。ハオ師の言葉の引用としては正確な引用である。また「堕落と退廃の結果」という部分も、ハオ師の発言の一部の要約としては不正確な要約とはいえないであろう。しかし本件評論部分は、右のことを、「この事件について、本多記者は……いっている。」と書いているのである。ハオ師が言ったことが、「本多記者」が言ったことにすり替えられているのである。これでは趣旨が全く異なってくるのであり、到底正確な引用・要約ということはできない。発表モノとして書かれた本件著作部分の趣旨に正面から反する。
右に続く、「事件は去年の六月一二日……」の引用も、本件著作部分がハオ師の発言を要約して報じている部分のそのままの引用である。本件著作部分がハオ師の発言の要旨を報じたものとして引用したのであれば、引用の正確性には問題はない。しかし前述したように、本件評論部分には、一審判決を援用した原判決も指摘しているように、本件著作部分の「……ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした」という部分が欠落しており、前述のように、のっけから「この事件について本多記者は……といっている」とあり、それに続いて「少し永い引用が続くが、比較のためにその部分を引用してみよう。」とあって、「事件は去年の六月一二日……」となっているのである。従ってここでも、ハオ師が言ったことが、「本多記者が言ったことにすり替えられているのである。いくら「本多記者の紹介する話」、「政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしている」、「この部分を全て伝聞で書いている」、「鸚鵡返しに本に書いた」などの表現があるとしても、通常の読者をして、右のような誤った認識をもたせる危険性が高いことは否定できない。従って、右の一重カッコ内の引用が、その引用部分に限定していれば、いかに本件著作部分と完全に一致していても本件評論部分の引用が極めて不正確なものであり、発表モノとして書かれた本件著作部分の趣旨に反するものであることは、否定の余地がない。
被上告人殿岡は、本件評論部分の一重カッコの引用の前に、なぜ「……ハオ師自身が……以下のように明らかにした」という部分を引用しなかったのか。右の部分を引用しておれば、引用は正確なものとなった。しかもそれは極めて容易なことであった。だから被上告人殿岡は、その責任をきびしく非難されても仕方がないのである。被上告人殿岡がなぜ右の部分を引用しなかったかといえば、それは、右のように正確な引用を行ったのでは「この事件について、本多記者は……といっている」という書き出しとつながらないからである。そのことは本件評論部分の構文上、文脈上、客観的に明白である。つまり、被上告人殿岡は、「本多記者」自身が本件著作部分の中でそう言っている、少なくとも本多記者は“セックス・スキャンダル”説を真実だと断定している、という認識を読者に与えようと企図していたのである。
そのようにしなければ、「報道記者としての堕落」、「……言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである」という誹謗が成り立たないからである。
だからこそ原判決も「……不正確であり、やや軽率であったというべきである」という一審判決の判示をわざわざ修正し、「不正確の誹りを免れず、この点は引用の適否を判断するに際して軽視できない」(傍点代理人)と判示したのであろう。そうであれば、原判決は本件評論部分の「要約」・「引用」等は「正当な範囲」を逸脱したものと判断し、結論として名誉毀損の成立を肯定すべきであった。そうでなければ、判決理由は首尾一貫しない。
三 本件評論は評論としての許容限度を逸脱している。
1 原判決は、一審判決の内容をそのまま維持し、「本件評論部分の中には『インチク臭い』、『なげやりな書き方』、『ハノイのスピーカー』、『報道記者としての堕落』、『本多記者は筆を折るべきである』などのかなり激烈な表現が用いられやや措辞適切を欠くきらいはある」としながら、
① 本件評論のテーマである取材内容の信憑性又は執筆姿勢を疑うことを表す比喩的又は挑戦的な表現として用いられていること
② 本件評論の内容(すなわち本件記事内容の信憑性を疑ったこと)に相当な根拠があること
から、「その表現方法に若干適切でない部分があっても、右が原告に対する人身攻撃にわたるなど、評論における許容限度を逸脱した表現とは認められず、これをもって違法とすべきではない。」と判示した。
そして原判決は本件評論内容に相当な根拠があることとして次のように判示している。
「被告殿岡は、本件評論において、本件事件についての被告殿岡の前示の事実認識を前提とし、原告が事実の確認をしないまま、できないまま、これを公表したという執筆姿勢を非難している。その論拠は、被告殿岡本人尋問の結果によれば、原告が事実調査を積み上げた上で、すなわち、自らの『足で書く』記者として高い評価を得ていたという被告殿岡の認識の下に、また、報道記事について『事実かどうか判らぬものを活字にするなどといったことが許されるはずはない。』との被告殿岡の見解を前提とし、本件著作部分がかかる事実の確認のないまま、できないまま報道記事として公表したことを批判したことが認められるが、本件著作部分が愛国仏教会という統一革命政権に協力するための仏教会の組織の副会長であるハオ師の発表をそのまま記述したものであることは、前示のとおりであり、また、被告殿岡が原告の業績についての評価を右のごときものとし理解することには、それなりの根拠があった」
2 しかし原判決の右判示は誤っている。
(一) 前項①については、既に本件評論部分が単に上告人の「執筆姿勢」だけを批判したものではないこと、本件著作部分の引用・要約は著しく不正確なものであることを指摘してきた。
また、同②に関する原判決の判断には二つの重大な誤りがある。
一つは被上告人殿岡の認識及び前提事実に関する判断の誤りであり、もう一つは非難の対象である。以下この点について詳述する。
(二) 被上告人殿岡の認識及び前提事実の誤り
(1) 原判決は被上告人殿岡が原告につき「自らの『足で書く』記者として高い評価を得ていた」と認識していたと判示するが、既に詳述したとおり、一般的にも「ニュース面のうち八割くらいは発表モノ記事で占められている」し(甲第一二五号証 意見書一〇頁)、上告人も新聞記者である以上、これまで多くの「発表モノ」の記事を書いてきたのである。
現に本件著作物においても、上告人自身の取材による報告の例は、第三部「新経済開発地域」の中の終章「新経済地域の隠れた側」だけであり、それ以外は「発表モノ」か「発表モノに近い『玄関取材』である」ことを明らかにしている(同一二頁)。また「カンボジアはどうなっているのか?」にしても、カンボジア国内での現地調査を行ったものではなく、カンボジア難民からの聴き書きによるものであり、「素材として提供」したものである(同四四頁)。
このように現場調査を行うこともできず、かつ「確信が持てない」場合であっても「素材として」記事を活字にすることは、上告人自身数多く経験しているところである。
他方、被上告人殿岡においても「アメリカに見捨てられた国」(甲第五三号証)、「ベトナム難民との二年間」(甲第五四号証)、「難民に会ってみて」(甲第五六号証)などでは難民から聞いただけの話を「活字」にしており、「国家の崩壊」(甲第五七号証)では噂を活字にしている。特に「国家の崩壊」中では、旧ベトナム軍情報将校の「テト攻勢は『同盟国の陰謀であった』」旨の話を記事にしているのである。
したがって、被上告人殿岡自身も現場調査を行なわずに数多くの記事を著しているのである。
(2) また原判決の判示する「『事実かどうか判らぬものを活字にするなどといったことが許されるはずはない』との被告殿岡の見解」は成り立ち得ない。
前記のとおり「発表モノ」とは「確信が持てない」が「素材として提供」することである。従って「事実かどうか判らぬものを活字にする」ことが許されないとしたら、新聞等の報道は不可能となってしまう(甲第一二五号証意見書四九頁)。
しかも、被上告人殿岡は「国家の崩壊」の中で「アメリカ世論の崩壊」と題する評論を著している。右評論ではテト攻勢について旧ベトナム軍情報将校の「……私はアメリカがベトナム軍と国民を試したのだと思っています」との「見解」を掲載しているが(甲第六〇号証の一、二)、右評論は被取材者の発言のみを掲載しているだけであり、被上告人殿岡自身の判断を留保する旨の記載は全く存在しない。にもかかわらず、右旧将校の「見解」について上告人代理人から「(被上告人殿岡が)断定したんだというふうに読みとっていいということにはなりませんか」との質問に対し、被上告人殿岡自身「なりません……」と供述しているのである(第一七回同人調書三七丁)。
右事実をみれば、被上告人殿岡も「事実かどうか判らぬもの」を何らの留保もなく「活字にし」ており、右記事について被上告人殿岡自身が断定したものでないと供述している。すなわち被上告人殿岡自身「発表モノ」の手法によって自らの著作を著し、かつ、本法廷において供述しているのである。
以上からすれば、被上告人殿岡も「発表モノ」の手法を使用しており「事実かどうか判らぬものを活字にする」場合があることを十分に知悉していたことは疑いがない。
(3) 以上の各事実からすれば、上告人殿岡において、「原告が『足で書く』記者」であったとしても、本件著作物中の記事を含め多くの「発表モノ」も著していることを十分に承知しており、上告人が「発表モノ」を書いたからといって非難することはできないことを理解していたはずである。他方、被上告人殿岡自身「事実かどうか判らぬものを活字」にしているのであって、原判決の判示する「被告殿岡が原告の業績についての評価を右のごときものとして理解することにはそれなりの根拠があった」との判示は、証拠上、本件著作物中の記事や被上告人殿岡の著作にも反している全く根拠のない誤った判断である。
(三) 被告上告人殿岡による上告人非難の方法について
「本件著作部分が愛国仏教会という統一革命政権に協力するための仏教会の現職の副会長であるハオ師の発表をそのまま記述したものである」ことは、原判決も認めているとおりである。
とすれば、被上告人殿岡がハオ師の発表に関する記事内容に対して非難を加えるとすれば、ハオ師に対し非難を行うべき性格のものである。
例えば、マン・ジャック師の説明とハオ師の発表との信憑性を比較し、被上告人殿岡が信ずるマン・ジャック師の説明が正しいと考える見解を発表することは被上告人殿岡の自由である。
しかし、ハオ師の見解を上告人の見解、すなわち「本多記者は『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物』『堕落と退廃』の結果であるといっている」とすり替えて、上告人に「筆を折るべき」と非難することは、批評のルールを明らかに踏みにじっているのである。
3 以上のように、被上告人殿岡の右の非難が意図的で不正確な引用・要約を前提としてなされたものであること、非難の対象を取り違えていること、上告人が「足で書く」記者として高い評価を得ていることは、本件の如き非難の根拠とはなり得ないこと等を総合勘案すると、本件評論の「かなり激烈な表現」による上告人非難は「やや措辞適切を欠くきらいがある」、「その表現方法に若干適切でない部分」があるという程度のものではなく、本件評論が「評論における許容限度」を著しく逸脱したものであることは明白である。
従って、本件評論部分が「評論における許容限度を逸脱していない」とする原判決の判断は重大な誤りを犯したものであり、破棄を免れないものである。
四 被上告人殿岡は相当な資料を有していたとする原判決の誤り
1 問題の所在と原判決の判示
本件評論が相当であるために、
① ファム・ヴァム・コー事件について、被上告人殿岡において「抗議のための自殺事件」であることの相当な根拠を有していること
② 上告人が本件著作物中で、右事件について上告人の見解として「無理心中」であると記していること
の二つの要件が必要である。
ところで原判決では、右①の点について次のように判示している。
「マン・ジャック師との会見の結果及び殿岡テープの存在は、本件事件を焼身自殺とする相当な資料であるということができ、被告殿岡が、これを信じ、本件記事内容の信憑性を疑ったことは、相当な根拠があったものというべく、右記述については、違法性を欠くものというべきである。」、
「被告殿岡が本件評論執筆当時本多テープの存在(複数のテープの存在)を知っていたとは、認められない上、本多テープの存在によっても、殿岡テープの信憑性を左右するものではない。また、検証の結果(平成二年一二月四日実施分)によれば、殿岡テープには、録音の中断、再開に際して生じたと思われる機械音が録音されており、右テープにかかる録音が連続してなされたものでないことが認められるが、これによっても、右テープが改ざん又は恣意的に編集し直されたことをうかがわせるものとはいえず、未だ殿岡テープの信憑性を左右するものではない。」
2 本件評論と「殿岡テープ」との間には重大な食い違いが存在する。
(一) 本件評論の内容及び前提事実からすれば本件評論が相当というためには、被上告人殿岡がファム・ヴァム・コー事件について一定の信頼に足りうる取材や資料を有していたか、また、そもそも「殿岡テープ」がその内容からして信用するに足りるものであったか否か等が、厳密に検討されなければならない。
しかし原判決はこの点について厳格な検討を怠っている。
(二) ファム・ヴァム・コー事件と「殿岡テープ」について
(1) 「殿岡テープ」とファム・ヴァム・コー事件との関連性
先述したように被上告人殿岡は、
「取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであればこれは報道記者としての堕落である」と上告人に非難を加えている。
しかし、前記のとおり、被上告人殿岡自身インタビュー記事を書いている(甲第六一号証など)。右記事は単に被取材者の発言を書いた記事であり、事実か否か現地調査をしたわけではない。被上告人殿岡自身「確かめ」ていないことを「活字にしている」のである。
被上告人殿岡が「殿岡テープ」によってファム・ヴァム・コー事件についていかなる心証をとるかという問題と、上告人に対し「報道記者としての堕落である」と非難することとは次元が異なっている。
したがって、上告人に批判を加えるためには、論評者の側に一定の信頼ができる資料が存在しなければならないことはいうまでもない。本件では特に、上告人に対し「堕落している」、「筆を折るべき」などと非難している以上、確実な調査・取材が必要である。このことは、最近の湾岸戦争において原油まみれの水鳥を映したビデオテープが何らの留保もなくイラクが流出させた原油によるものとして世界中に放映されたが、その後の検証によって重大な疑問が提起されている事例、ごく最近の「臓器売買」のテレビ放映において核心部分の証言と映像に「別人による再現」や無関係な映像があったことが判明している例(一九九四年三月六日朝日新聞)や写真についても少なくとも「撮影者が責任を持ち、撮影者が証言しない写真は証拠力は持たない」ことをみれば当然のことである(甲第一三二号証二五二頁)。
このような事例をみるまでもなく、他者に対して激烈な非難を加える以上は「証拠」の価値及び「証拠」と事件の結びつきを調査することは社会的にも常識である。
特にベトナムにおいては上告人自身の体験から情報操作がしばしば行われており、何が真相かは現場調査をしなければ判らない旨上告人の著書で再三指摘しているところでもある(例えば甲第一八二号証「戦場の村」五一頁以下など)。
ところが被上告人殿岡は「殿岡テープ」が現場録音テープであるか否か、その由来等についてほとんど調査していないのである。
(2) 「殿岡テープ」自体の問題性
しかも殿岡テープは三つの異なる内容をもっており、「殿岡テープ」が編集され繋ぎ合わされていることは直ちに理解できることである。従って殿岡テープが真実「現場録音テープ」か否かの調査は不可欠といえる。
また殿岡テープのなかの歌唱部分は「替え歌」があり「余り真面目なものとはいえず抗議の自殺にふさわしい内容であるかどうか疑問」が呈されるしろものである(甲第一一五号証)。
被上告人殿岡が真実ベトナム人に依頼し、「殿岡テープ」の内容を検討させたとしたら、こうした疑問が生じないことはあり得ないのである。
(三) 「殿岡テープ」をもって相当な根拠とするのは誤りである。
(1) すでに述べたとおり、被上告人を非難するためには一定の資料・根拠が必要である。しかし、本件評論と「殿岡テープ」とを比較すれば、「殿岡テープ」に真迫性、臨場感、信憑性を付与する上できわめて重要な部分が、実は「殿岡テープ」には存在しない。これは被上告人殿岡の創作によるものであることが明らかであって、このことは被上告人殿岡が「殿岡テープ」を根拠に被上告人殿岡が抗議の焼身自殺事件であると信ずるについて「相当な理由があ」ったとすることは誤りであることをきわめて明白なものにしている。
(2) 本件評論内容と「殿岡テープ」との比較
本件評論では、「テープは再び勤行が始められたことを示している。一人の僧、多分は全員の指導者であるフェ・ヒエン師の独唱を中心に木魚のどっしりとした響き、幾種類もの、あるいは高く、あるいは低く音を響かせる鐘が結び合い背き合い、そこに僧尼の無心で晴れやかな合唱が加わる。とても焼身自殺を直後に控えた人たちの最後の勤行とは思われないほどの音律の豊かさ、永遠に続いていきそうな気持ちとは思われないほどの音律の豊かさ、永遠につづいていきそうな気持ちになる。」と記されている(乙第二号証六一頁上、中段)。
しかし、提出された「殿岡テープ」には「再び勤行」の音声、「木魚のどっしりとした響き」「僧尼の無心で晴れやかな合唱」は存在しない(平成二年一二月四日付検証調書、甲第一一五号証)。また、女性信者の一人が「無名戦士をたたえる歌」を歌っている部分も存在しない(検証調書、甲第一一五号証)。
要するに、本件評論の内容である「再び勤行」した音や「木魚の響き」、「僧尼の合唱」は、「殿岡テープ」には存在しないのである。
とすれば、本件評論は「殿岡テープ」を根拠にして記載したものとは到底理解し得ない。
(3) 「殿岡テープ」の内容と「殿岡テープ」についての被上告人らの検証指示とは全くくい違っている。
被上告人殿岡の所持する「殿岡テープ」の検証結果は、被上告人殿岡らの対照表とも大きく食い違っている。すなわち、被上告人らの検証指示書の対照表によれば、勤行部分はカウント数にして七四二存在し、その余の部分は五七三となっており、勤行部分とその余の部分の割合は1.2対一となっている。ところが実際には上告人の指示によれば、勤行部分のカウント数は八〇二、その余の部分は三九九となっており、勤行部分とその余の割合は二対一となっている(上告人の検証指示と裁判所の検証調書とは一致している)。
このように、提出された「殿岡テープ」と被上告人らによる検証指示とを具体的に比較すれば、勤行部分とその余の部分との全体構成そのものからしても、別種のテープであるかのように全く異なっている。
被上告人らが検証指示した「一〇一五歌(女性)」及び「一二八四歌四」に該当する歌は、提出された「殿岡テープ」には存在しない。
ところで、被上告人らが検証指示した内容のうち「歌(女性)」や「歌四」の部分は、あたかも本件評論部分の「僧尼の……合唱」等に照応しているようにみえる。そうだとすれば被上告人らの検証指示は、あたかも本件評論が「殿岡テープ」の内容に基づいて書かれているかのように装うため、存在しない「一〇一五歌(女性)」及び「一二八四歌四」を偽って検証指示をしたものとみるほかはない。
(4) 被上告人殿岡の資料内容及びねつ造行為の常習性について
更に被上告人殿岡が資料内容のねつ造・作出を常習的に行っていることは、以下の点をみれば容易に理解できる。
(a) すなわち一月号評論において「ところが原告側は何を思ったのか、別の新しい争点を提起してきた。マン・ジャック師から私が受け取り、集団焼身自殺を殉教とする立場から本多記者を批判した証拠資料であるカセット・テープの眞贋論争がそれである」と書いた(傍点代理人)。しかし当時上告人が問題として指摘したのは次の点である。
被上告人殿岡が所持しているとした録音テープの中に自殺を図ったという一二名の名前が存在しないにも関わらず、被上告人殿岡は、右テープの内容に反しテープの中で一二名の名前が読み上げられているとして、テープの内容をねつ造を行ったのではないか、という被上告人殿岡の資料内容ねつ造の疑いであった。
にもかかわらず、一月号評論の右部分において、被上告人殿岡はカセット・テープの眞鷹問題と殿岡自身の資料内容のねつ造の問題とをすり替えているのである。
(b) また、被上告人殿岡は、ベトナム難民に関する著作の中でもベトナムの子供達の養育の問題に関する発言主体を「夫」や「妻」や「親」にしたり(甲第五八号証)、爆弾の投下についての発言主体を「私の祖母」や「道で泣き叫ぶ老婆」にする(甲第五九号証)など、発言主体や発言場所等、その内容を各著書の中で自由勝手に創作している。こうした事実をみても、被上告人殿岡は資料内容のねつ造・創作を常習的に行っている人物であり、本件評論においても悪意によりハオ師の発言を上告人の発言にすり替えていることを容易に推認することができる。
先述した如く被上告入殿岡自身、一種の「発表モノ」の手法を使用して記事を書いており、しかも、右記事内容について被上告入殿岡が「断定した」ものではないと供述しているのである。
このように被上告人殿岡は資料をねつ造したり、事実を作出することを常習的にくり返してきた人物としか理解し得ないのである。
(5) 以上の各事実を総合すれば、被上告人殿岡は「殿岡テープ」の内容について厳格な検討や「殿岡テープ」とファム・ヴァム・コー事件との関連性についての調査や現場調査も行わなかったばかりか、「殿岡テープ」に依拠して本件評論を書いたとするには極めて不自然な点が多い。
ところが、原判決はこうした被上告人殿岡の意図的改ざん行為を無視し、無批判に「殿岡テープ」の信憑性を認めているものであって、ひっきょう、採証法則を誤った結果であるとしか評し得ない。
3 原判決の誤り
(一) 原判決の判示
原判決はこの点について「被告殿岡が本件評論を執筆した当時において、この信憑性を疑うべきなんらの事情もなかったのであるから、被告殿岡がこれを信じたことを咎めるべきでない」とする一審判決の判示をそのまま維持している。
しかし、被上告人殿岡は「殿岡テープ」とファム・ヴァム・コー事件との関係について十分な調査をした証拠はどこにもなく、提出された「殿岡テープ」の内容自体からしても編集・つなぎ合わせがなされていることが歴然としており、しかもその内容も抗議の焼身自殺事件の現場録音テープとするには疑問な点が多々存在しているのである。
しかも、本件評論の内容と「殿岡テープ」には「木魚の響き」、「再び勤行」した音声、「僧尼の無心で晴やかな合唱」などは存在しない。これは、被上告人殿岡が「殿岡テープ」が現場録音テープであるかのような臨場感や信憑性を創出するためにねつ造したものとしか解しえない。
また、被上告人らの「殿岡テープ」に関する検証指示は現に提出された「殿岡テープ」の内容とは全く異なっている。
しかもその検証指示の内容は、あたかも「殿岡テープ」の内容に本件評論が付合しているかのような誤った指示を行っているのである。
これらの事実は、被上告人殿岡が本件評論を書くにあたり「殿岡テープ」を根拠にしていたかどうか極めて疑わしいばかりでなく、被上告人殿岡は、「殿岡テープ」だけでは現場録音テープか否か十分な確証がとれなかったが故に臨場感や「殿岡テープ」の信憑性を創出するため、「木魚の響き」や「僧尼の無心で晴れやかな合唱」等をねつ造したと解する他はないのである。
こうした各事実からすれば、マンジャック師の説明や「殿岡テープ」の存在だけでは、到底信用するに足りる資料があったとは解されない。ちなみに前記「臓器売買」のテレビドキュメントに関する検証報道でも映像に種々の加工がなされていたことによって、「臓器売買の疑惑について『そういう事実があったという確認はできない』」としているのである。
こうしたあり方は常識的態度といえよう。
ところが原判決は単に「被告殿岡が本件評論執筆当時本多テープの存在(複数のテープの存在)を知っていたとは認められない上、本多テープの存在によっても殿岡テープの信憑性を左右するものではない」と判断しているにすぎず、先述した本件評論内容と「殿岡テープ」との比較、「殿岡テープ」とファム・ヴァム・コー事件との結びつき、「殿岡テープ」内容の不自然性などについての検討が全くなされていないのである。
原判決は、「殿岡テープ」の存在を根拠として相当性を認めているが、本件評論と「殿岡テープ」の信憑性に関する判断を行うに際しては単に、本多テープの存在だけが問題ではない。
「殿岡テープ」に編集等不自然なあとがあること(右事実は原判決も認めている)、本件評論には「殿岡テープ」に存在しない内容があたかも事実であるかのように記載されていること、更には検証指示と「殿岡テープ」の食い違いの意味などを検討したうえで、上告人を非難するにつき、被上告人殿岡において相当な資料が存在したか否かを厳格に判断しなければならなかったのである。
こうした各事実を検討すれば、被上告人殿岡が本件評論を執筆したのは、不充分な資料しか存在しなかったが故に、上告人への非難を可能にし、且つ、その非難を正当化するため、最大の根拠たる「殿岡テープ」の内容を創作してまで上告人非難を行ったと判断する他はないのである。
特に原審において上告人は本件評論と「殿岡テープ」との食い違いを詳細に指摘したものにもかからず(原審最終準備書面五七頁以下)、原判決にはこの点について検討した形跡は全く見られない。
原判決はこのように本件評論と「殿岡テープ」との関係等についての検討を全く看過して、資料の相当性の有無につき判断を行ったことは明白であるから、この点からしても原判決は取り消されるべきである。
第三、第四<省略>
上告人の上告理由<省略>