大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和36年(オ)298号 判決 1962年8月10日

上告人 一ノ瀬バルブ株式会社

被上告人 大阪国税局長

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人代表者の上告理由は別紙のとおりである。

論旨は、上告会社が労働契約にもとづき労働者に支給した通勤費は労働者の所得を構成する収入ではなく、従つて、上告会社は所得税法三八条により、通勤費に相応する所得税を源泉徴収する義務を負わない旨を主張するに帰する。

しかし、所得税法九条五号は「俸給、給料、賃金……並びにこれらの性質を有する給与」をすべて給与所得の収入としており、同法一〇条一項は「第九条第五号……に規定する収入金額(金銭以外の物又は権利を以て収入すべき場合に価額以下同じ。)により」計算すべき旨を規定しており、勤労者が勤労者たる地位にもとづいて使用者から受ける給付は、すべて右九条五号にいう給与所得を構成する収入と解すべく、通勤定期券またはその購入代金の支給をもつて給与でないと解すべき根拠はない。上告会社は、労働契約によつて通勤定期券またはその購入代金を支給しているというのであるが、かかる支出が会社の計算上損金に計算されることは勿論であるが、このことによつて、勤労者の給与でなくなるものではない。若し右の支給がなかつたならば、勤労者は当然に自らその費用を負担しなければならないのであつて、かかる支給のない勤労者とその支給ある勤労者との間に税負担の相違があるのは、むしろ当然であつて、通勤費の支給を給与と解し、勤労者の所得の計算をしたのは正当である。従つて上告会社が通勤費に相応する所得税を源泉徴収する義務があることも当然のことといわなければならない。論旨は独自の見解に立つて原判決を非難するに過ぎず採用の限りでない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(裁判官 池田克 河村大助 奥野健一 山田作之助)

上告人の上告理由

所得税法第一条第五号

俸給、給料、賃金、歳費、年金、恩給及び賞与並びにこれらの性質を有する給与(以下給与所得という)はその年中の収入金額

一、通勤費は負担者の費用たるだけで賃金(勤労対償)ではない。此両者は根本的にその性格異なる。

職場が遠いのか、勤労者が近くにいないのか、とも角職場と勤労者の住所とは相当離れてゐ、働くためには通勤費が要る。其通勤費を傭主が負担するか、勤労者が持つかは、労働契約できまる歴史的経済的事実である。(控準一の四頁通勤費の負担と本件労働契約)前者を通勤費傭主持ちといい、後者を通勤費勤労者持という。どちらにしても通勤費は負担者の費用たるだけで、所得ではない。

というのは、通勤費は遠くに住む勤労者の勤労実現を廻って、前者では勤労実現そのものの獲得の、後者では勤労実現の対償即ち賃金の獲得の為め、人(勤労力)を運ぶたゞそれだけの費用で、働きそのものの対償即ち賃金ではない。職場と勤労者の住所との間をいくら往復してみたとて、ただそれだけでは、勤労の実現にならぬし、又賃金を払う者もあるまい。

このように勤労実現を廻って、賃金と通勤費とでは目的と、その為めの手段との違いがあり、此両者の性格は正反対のものである。

勤労の実現又はその対償即ち賃金を求めるとなれば、どちらにしても勤労力に実現の機会を与えなければ成らぬ。働く為めに通勤費が要るである。勤労力と通勤費とはこのように密接に関係してゐる。だからとて、此両者は同じだというは当らぬ。梢に実る柿は、梢と密接に関係してゐるが、梢ではないように。そういう口ぶりが弁論中に聞かれ判断を濁らしてゐるよう思はれるので、蛇足ではあるが書き添える。

二、本件の場合は、ここにいう通勤者傭主持ちの場合であつて、通勤費勤労者らは当訴訟に関係はない。控準一の一頁二頁に渉る陳述は図示を含めて本件上告人の主張の主旨の具体的説明である。(以下用いるA、B、Cや金額及び甲線乙線はこの図示の例そのまま)

それで本件唯一の問題点なる勤労者の通勤費(前記図示乙線)は、勤労者の所得でない、傭主の費用たるだけで、前記法条適用は当らぬと上告人は主張するに対し、被上告人は、それは勤労者の所得で右法案適用は合法だといはれる。これが当訴訟である。

三、原審のいきさつと上告人の主張

本件の場合傭主Aは勤労者Bの勤労を求めてゐるのである。その為め勤労者Bの通勤費を負担するので、それなくては求める勤労の期待はできぬ。即ち傭主Aは、契約による負担即ち勤労の対象でない通勤費と、勤労対償なる賃金との此二つの費用の統一負担者として、一ヶ月賃金一万円(甲線)と、通勤費千五百円(乙線)計一万千五百円を支払う。此傭主Aの支払ひを、勤労者Bが賃金一万円所得し、運送機関Cは通勤費千五百円収得する。事理極めて簡明である。この運動費については前記所得税法「これらの性質を有する給与(以下給与所得という)」を「常務の提供に関連して受くべき給付も、給付の性格等を検討して、それが労務の対価に準じて評価せらるべき場合には、これを給料俸給賃金と同一の性質を有する給与として前記規定の給与所得に包含せられるものと解すべきである……ところで、本件通勤費は労働条件として使用者たる原告がこれを負担することと定めた労働契約にもとづき、毎月労働者に交付せられる通勤定期券若くはその購入代金相当額の金銭であつて、労務そのものの対価として供与された事情はこれを認むべき証拠がない……と、大阪地裁判決理由に云はれることで、本件通勤費千五百円は検討の結果、前記法条適用対象としての事実と認められぬといはれてゐるのである。

この事実を、被上告人は勤労者Bは賃金一万円の外に、通勤費千五百円までをも収得してゐるとして、年収十二万円のものを十三万八千円だとして勤労者Bに課税する。(控準一の九頁の表、イ、ハ参照)

被上告人のいはれるところによれば、「元来通勤費等は勤労者が負担すべきで、傭主が持つことは理論が成立たぬ」を基本に、通勤費を雇傭者において負担する旨の契約を結び、それを実行したとしてもそれは単に勤労条件を定めたものに外ならないのであつて、前記法条の解釈となんら関係がない。或は労働者の勤労条件の比較的悪いわが国において、低賃金を補足する一方法として慣行されてゐる一現象にすぎない。(被告第一準備書面昭和三二年五月四日)ということで、何等歴史的経済的論拠を示さないまま上告人の自由に取結ぶ約束を無視し、独断的に徴税してゐられるとしか見えぬ。

それが控訴審ともなると、被上告人は戦後の変則的な賃金体系でということで、通勤費と通勤手当とをきよう日の言葉でいえばスリ替えてゐられる。そうして一般職の職員の給与に関する法律第十二条通勤手当の規定を引用(被控訴人準備書面昭和三五年九月一日)してゐられるが、その変則的な賃金体系といはれるはどんなことか詳細はわからぬが、給与体系として考えれば何等変則的なことはないと上告人はいう。変則的と見えるは、戦前の賃金体系に噛りついて、生きてゐる生命の発展形態の根元に当てはめようとせらそるからでなかろうか。というのは、近代大量生産主義の原則の下に時間及資材の節約、浪費の排除をねらう極度の機械主義は、勤労者の人間性の抹殺、人間を機械の部品化に導くことになり、企業の最終目的たる最大の利潤追窮に却て逆効果を来すことに気付いたこと。他方外部からは最近文部大臣ともあろう某がテレビ釈明にならぬ釈明に追い込まそたI、L、O憲章精神の澎湃として押寄せる世界思想に刺戟さそて、人間の気持ちや感情を尊重しなけそばと、内外の切実な事実に直面し、経営者は感情の論理即ち非論理の論理に自覚し、労資協力態勢を調え、人間性と生産性とを一連の問題として採り上げる点に重点をおき、勤労者の福祉を実現しようとしたのが、一見労働とは関係なされうな諸手当即ち家族手当、勤務地手当、住宅手当等々被上告人に変則的な賃金体系に見えるものと成つたので、従つてそれらは給足体係中のおのなることには上告人は曽て反対はしない。が、しかしこそは労働日の給与に関する手当等のことである。

次に、前記被控訴人準備書面に、一般職の職員の給与に関する法律第十二号を引用し、通勤手当の勤労者の所得なることが説かれてゐるが、その前に、この通勤手当は通勤費の負担を前提としてのこと、この前提なしでは通勤手当は考えられぬ。通勤費負担しないものに通勤手当は支給されぬことに注目しなければならぬ。するとこれは前にいうた通勤費勤労者負担の場合の話で、当事件に関係しないことは断つてある通りである。

以上被上告人が控訴審の準備書面に、通勤費の性格についての附言といはれる陳述内容は、通勤費のことでなく、通勤手当の説明だけで、他に何もない。通勤手当が勤労者の収入であることには上告人は反対意見はもたぬ。けれど本件の焦点は度々繰返すごとく、又第一審判決理由にも記さそてゐるように、通勤費のことである。

通勤費は勤労実現という主目的のための手段的費用であることは、既に当時理由書一にのべた通りである。

上告人のいうところは、手当のことでなく、契約により傭主Aが負担する勤労者Bの通勤費は勤労者Bの勤労所得勤労対償でなく、傭主Aの費用であるだけだということである。

乙線は他(A)の費用で、れの収得者は別(C)にあつて、(B)の収得でも勤労対償即ち賃金でもないことは当理由書(一)で述べた通りのものをどうして(B)の所得かというに対し、被上告人は通勤費は本来(B)の負担すべきもので、それを(A)が代払いしたと見(B)の手許で金の出入りなくともAの払つたBの通勤費はBの所得だといはれる。では(A)(B)間の約束はどうなるかと尋ねると、前に述べたように約束なぞどうでもよい、実質は給与と認定する。では認定の根拠はといえば、労働条件の比較的悪いわが国で低賃金を補う現象だとのことだが、これは労働争議等でいう勤労者側の言い分で、わが国の賃金は果して低いか。

今日の日本は一九三〇年代の日本のような低賃金の粗末な工業国ではない。今日の日本は数少ない工業国の一つで、個人所得と消費水準では、ソ連よりもはるかに高い。中共インドは今後三〇年間では到低日本の水準に到達できない。また労務費は新しく工業化しつつある国と比較してもはるかに高い。

とはP、E、ドラッカー博士(米国人)の「明日を経営するもの」の序文三枚目の表に記されてある。固より面識とてなく、資本共産社会主義何れの側の人かわからず、ただ経営学ブームの波に泳ぐ人の説位に思つてゐ、講演集を読む最初のうちは余りにも日本をほめちぎるので気に止めなかつたが、段々と読み込んで信のおける人だと思つた人の話で、これはわれわれの予ての考えを裏書するものである。

このように対立する意見ある吾国を、低賃金国だと被上告人は断定される。上告人はこれを、被上告人の恣意独断だという無理だろうか。

四、結び。通勤費の負担は、傭主と勤労者との労働契約によつてきまる歴史的経済的事実だとの上告人の主張に、何等合理的な意見をのべられることなく、ただ通勤費は本来勤労者が負担すべきものとの被上告人の独断と、吾国を低賃金国だとする被上告人恣意独断、この(イ)二つの独断を固執して(ロ)憲法の保障するわれわれの自由な契約を無視し、(ハ)現給与の実体を掴まず変則的な賃金体系なぞといい、(ニ)法律が教える通勤費と通勤手当の区別を無視し、事件の主題をスリかえ、(ホ)前記法条を曲歪し、税の名において粗朴無力な勤労者から権力の座にいて金を奪る。

これが被上告人である。

税は、特に所得税系の税は、社会を、国を支え、繁栄幸福にするために出しにくい金を、われわれの自覚によつて自ら供出する金である。従つて道理のない金は、たとい一円でも供出できず、又供出すべきでないと上告人は信ずる。上告人は以上述べた被上告人の独断と、歪曲五項目を是認し、認定並びに判断せられた原判決に不服である。これが上告理由であり、且上告主旨の説明である。

以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例