最高裁判所第二小法廷 昭和42年(あ)299号 決定 1967年12月02日
被告人 川田和生
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人向江璋悦、同坂本恭一の上告趣意第一点ならびに弁護人馬屋原成男の上告趣意第三点の一について。
論旨は、憲法違反をいう点もあるが、実質は児童福祉法三四条一項九号の解釈、適用に関する原判決の誤りを主張するものであつて、単なる法令違反の主張に帰し、適法な上告理由にあたらない(なお、本件各雇傭契約は、いずれも各児童の親権者の同意を得ていないものである以上、児童福祉法の右条項にいう「正当な雇用関係に基くもの」ではないとした原判決の判断は相当である。)。
向江、坂本両弁護人の上告趣意第二点ならびに馬屋原弁護人の上告趣意第一点の一について。
論旨は、判例違反をいうが、所論引用の各判例はいずれも事案を異にし本件に適切ではないから、前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。
向江、坂本両弁護人の上告趣意第三点の一ならびに馬屋原弁護人の上告趣意第三点の二について。
論旨は、事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない(なお、原判決認定の事実関係のもとにおいて、被告人らに、児童であるミストルコらを自己の支配下に置く行為があつたものと認めた原判決の判断は相当である。)。
向江、坂本両弁護人の上告趣意第三点の二について。
論旨中違憲の主張は原審で主張判断を経ず適法な上告理由とならない(当裁判所昭和三九年一一月一八日大法廷決定、刑事判例集一八巻九号五九七頁参照)。論旨のその余の部分は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、適法な上告理由とならない。
向江、坂本両弁護人の上告趣意第三点の三について。
論旨は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。
馬屋原弁護人の上告趣意第一点の二について。
論旨の(一)は、第一審判決における量刑の情状に関する判示をとらえ、その判例違反をいうものであり、右は原審で主張判断を経ていないものであるから、適法な上告理由にあたらない。論旨の(二)は、判例違反をいうが、実質は、原判決における量刑の情状に関する判示が証拠に基づかないものであるというのであつて、事実誤認、単なる法令違反の主張に帰し、適法な上告理由にあたらない。論旨の(三)は、判例違反をいうが、記録によれば、原審弁護人は、所論の就業規則を、情状証拠としてではなく、本件児童福祉法違反の事実を争う証拠として提出しているものであることが明らかであるから、論旨は前提を欠き適法な上告理由にあたらない。
馬屋原弁護人の上告趣意第二点について。
論旨の一は、憲法違反をいうが、その内容は既に同弁護人の上告趣意第一点において各判例違反として主張されたものと同一であり前示判断の如く、右各判例違反の主張は、あるいは論旨の前提を欠きあるいは実質において事実誤認、法令違反の主張に帰するなど、いずれも適法な判例違反の主張となり得ないものであり、憲法違反の主張としても適法な上告理由たり得ない。次に論旨の二は、憲法違反をいうが、その内容は、原判決の量刑の情状に関する判示文言の一部をとらえ、独自の見解によりその不当をいうものであつて、適法な上告理由にあたらない。また論旨の三は、憲法違反をいうが、その実質は、原審が弁護人の再開申請を容れなかつたことの不当をいうものであり、単なる法令違反の主張に帰し、適法な上告理由とならない。
馬屋原弁護人の上告趣意第三点の三について。
論旨は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない(なお、原審認定の本件ミストルコらの行為を精神面、情操面の発育未成熟な児童の心身に有害な影響を与える行為とした原判決の判断に違法はない。)。
馬屋原弁護人の上告趣意第四点および第五点について。
論旨は、事実誤認、単なる法令違反、量刑不当の主張であつて、適法な上告理由とならない。
また、記録を検討しても、刑訴法四一一条を適用すべきものとは認められない。
よつて、同四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外 裁判官 色川幸太郎)
参考一
弁護人向江璋悦、同坂本恭一の上告趣意(昭和四二年三月一五日付)
第一点憲法違反(法令違反)の主張
原判決は法律の解釈適用を誤つた結果憲法第二七条に違反するものであるから破棄を免れない。
一、児童福祉法第三四条第一項第九号「児童に対する支配が正当な雇用関係に基くもの」の解釈
(一) 「児童に対する支配が正当な雇用関係に基く場合」について、原判決は「いうまでもなく、右の正当な雇用関係というのは、民法及び労働基準法等の関係法規に照らし、これに牴触しない、即ち瑕疵等のない完全な雇傭契約ないし雇傭状態を意味するものと解するを相当とするところ、本件においては児童である……と被告人との間の雇傭契約はいずれもその親権者の同意を得ていないものであることは関係証拠によつて明白であるから、その契約の成立自体に民法上の瑕疵が存し、この事実のみによつても前記児童福祉法の法条にいわゆる『正当な雇傭関係に基くもの』ではないといわなければならない。……
労働基準法五八条は、労働契約の特殊性と未成年者保護の観点から、親権者又は後見人が未成年者に代つて労働契約を締結することを禁じ、その範囲で代理権を制限したものであり、その同意権にはいささかの消長がないものと解すべきであつて、未成年者が労働契約を締結する場合には民法四条の原則に則り法定代理人即ち親権者の同意を得なければならないことは多く論ずるまでもない。」旨判示している。しかし、「正当な雇用関係に基くもの」の概念規定に原判決判示のごとき親権者の同意が要求されるものと解釈すべきではない。
(二) 民法は未成年者の雇傭に関して、その第六二三条に「雇傭は当事者の一方が相手方に対して労務に服することを約し、相手方か之に其報酬を与ふるを約するに因りて其効力を生ず」と、同第四条第一項は「未成年者が法律行為を為すには其法定代理人の同意を得ることを要す」と、同第八二四条は「親権を行う者は、子の財産を管理し、又その財産に関する法律行為についてその子を代表する。
但し、その子の行為を目的とする債務を生ずべき場合には本人の同意を得なければならない。」と規定し、同第八五九条は右第八二四条の規定を後見人に準用している。これらの規定を綜合すれば、未成年者の雇傭については、法定代理人の同意がなければ未成年者は就職できないことになると解することが可能である。しかし、勤労の権利及び義務を強調する憲法第二十七条に基いて制定された労働基準法においては、右憲法の趣旨に則り、その第六章に特に女子及び年少者に関する章を設け、その第五八条には「親権者又は後見人は、未成年者に代つて労働契約を締結してはならない。親権者若しくは後見人又は行政官庁は、労働契約が未成年者に不利であると認める場合においては、将来に向つてこれを解除することができる。」と、第五九条には「未成年者は、独立して賃金を請求することができる。親権者又は後見人は、未成年者の賃金を代つて受け取つてはならない。」と規定している。この規定は未成年者の労働契約締結権について前記民法の規定と根本的に対立するものと解されるべきである。即ち、従来子を食いものにする親の例が多く見られた結果、且つむしろ右のごとき例が行われざるを得ないような社会制度-いわゆる封建的家族制度-から脱皮し、近代的個人主義が現憲法に盛り込まれた結果、被傭者となる国民の大部分の個人的利益を保護するため、法はその根幹となるべき労働契約及び労働条件に深く関心を持たざるを得なくなつたことは当然である。そしてこの法の関与の仕方は、現時点に於いては資本主義体制の中における労働者の地位を資本家と対等の地位にまで引き上げることに主眼を置き、労使関係が円滑に行われるべく規制を加えているものである。このことは所謂市民法的な関点からは把握できるものではなく、所謂社会法的な関点に立脚して把握しなければならないところである。然るに前記民法の諸規定は、対等の地位にある者の間の雇傭関係であり、又親子という全く立場の対立する者の間の規定である。更にその規定の趣旨は、未成年者の所有する財産の管理の面に重きをなし、無産の未成年者の保護には全く関心を示していないのである。
かような見地から前記労働基準法の諸規定を解釈すれば、第五八条の規定は未成年者は単独で労働契約を締結し、就労することができ、親権者又は後見人には代理権は全くなく、講学上のいわゆる未成年者の行為に関する同意権も、未成年者にとつてその労働契約が不利であると認められる場合の解除権として現出するに過ぎないものと解さざるを得ないところである。原判決は安易に労働基準法によつて、民法上の親権者又は後見人の代理権は制約されるが、同意権は何ら制約を受けるものではない旨判示しているが、これは余りにも形式的な解釈であり、労働基準法第五九条その他の諸規定を無視したものである。未成年者は自身で労働契約を締結して就労し、自身でその対価たる賃金を受領することが、労働関係法規の主旨であり、それが未成年者であるからと云つてこの原則を変更する要はない。未成年者であるが故に保護を要するのは、主として労働条件であり、-この点については前述のごとく諸々の規定が設けられている-契約自体については、それが特に不利な条件である場合にのみ親権者の解除権を認めることによつて充分保護されるものである。
(三) かように十八歳未満の未成年者の労働契約締結権について、親権者又は後見人の代理権及び同意権を認める民法の諸規定は、特別法たる労働基準法によつて制約され、右の代理権は全くなく、その同意権も前述の形態でのみ認められるところであり、本件における三名のミストルコとの労働契約は親権者又は後見人の同意が存しなくとも有効に成立しているものであり、ひいては正当な雇用関係であると解しなければならない。
(四) 原判決によつて全面的に支持された第一審判決は右の「正当な雇用関係」に児童福祉法上の正当性を要求しているかのごとくである。しかし雇用契約の内容は成人たると未成年者たるとを問わず、憲法第二七条の要請から一切を労働基準法に規定しているのであり、児童福祉法は児童保護の見地から列挙事項に触れた者を処罰するだけであつて、その契約内容或いは労働条件には何等影響を及ぼすものではない。もし契約内容或いは労働条件に不当なものがあれば、これは労働基準法に基いて判断されるべきものである。即ち児童福祉関係においても、労働条件に関する限りは労働基準法が児童福祉法の特別法であり、もし児童福祉施設において、児童保護につき労働関係が併存する場合にはその範囲で労働基準法の適用があるとされている。このことは昭和二六年六月の児童福祉法の改正により第三四条の「児童の労働に関する他の法令の趣旨を尊重して」との文言を削除したことからも明らかである。
(五) 以上述べた如く本件雇用は正当な雇用関係に基くものであり、児童福祉法第三四条第一項第九号の除外事由に該当するものであつて、この点に関しても原判決は破棄を免れないところである。
第二点判例違反の主張
(一) 児童福祉法第六〇条の適用を受ける者について
原判決は「千一夜」の営業者について「営業名義人川田静子が単に名義のみで、実際の営業者が被告人である」旨判示し幾多の証拠を挙げている。これは同法第六〇条は実質的な営業者について適用されるものと解しているが如くである。しかし右規定は形式的にも且つ実質的にも営業者である者についてのみ適用されるものと解すべきである。
(二) 行政官庁の許可を受けることにより営業が可能な業種については所謂届出名義人が形式的営業者と見られ、この名義によつて保健所、税務署、労働基準局への届出等をなすものである。そして通常の場合にはこの名義人が実際上も営業の担当者となつて事業を経営するところであり、形式実質をとりわけ分離して論ずる要がないのである。しかし、届出名義人が他人であり、実質的な営業者と異る本件の如き場合には、そのいずれに法の適用があるのか、或いは双方に適用があるのか疑問となる。原判決は前述のごとくいわば営業の実質的な面に重きをなしているものと解されるが、その形式的な面を全く無視することは不可能である。特に本件のごとき処罰法規の適用に当つては猶更のことであろう。即ち処罰法規の適用についてはその要件を厳格にして法的な安定性を重視することが法の大原則であり、その適用が区々にならぬよう充分配慮されねばならない。そしてそれには取締りに急な余り実質的な営業者であるとの一事をもつて決すべきではなく、その形式的な面を加味することによつて、はじめて処罰対象となりうると解すことが、個人の尊重ともなり、又法的安定性の維持ともなるものである。かように解すれば、児童福祉法第六〇条の適用対象は形式的にも実質的にも営業者である者についてのみとなり、特に同法第四項の両罰規定の適用に当つては猶更その形式面を重視せざるを得ないところである。とすれば本件被告人が実質的に営業者である旨をもつて同法条の適用がなさるべきでないことになる。
判例も、行政法令中処罰の対象たるべき業務主、営業者とは「……事業につき行政官庁の許可を受け、取締上の責任を負担したる者を悉く包含する」と解し又「必らずしもその事業に依り経済上の利害関係の帰属すべき主たることを要しない」と判示し(昭和九年四月二六日刑集一三巻五二七頁)、更に「実際営業をなす者の誰たるを問わず政府の免許を受けたる者を以て製造営業人と認むべきものとす」との判例もあり(明治四一・三・二六)、これらの判例も実質面よりは形式面に重きを置いて行政処罰法規を解しているものであつて児童福祉法の適用についても同様に解すべきものである。
第三点憲法違反、事実誤認、法令違反の主張
原判決は証拠の取捨選択を誤つた結果、事実を誤認し、又法令の解釈適用を誤りこの事実誤認及び法令適用の誤りは重大なもので判決に影響を及ぼすことが明らかであり、かつ正義に反するものであるから破棄されなければ正義に反ずることになる。
一、児童を自己の支配内に置く行為
(一) 児童福祉法第三四条第九号は児童を自己の支配下におく行為を禁止し、同法第六〇条が同条項違反を処罰している。
(二) ところで原判決は児童を自己の支配内に置く行為について「児童の意思を左右できる状態のもとに児童を置くことにより使用、従属の関係が認められる場合」と判示し、本件における具体的内容として、採用決定については、面接の上仮採用を決定し、見習期間を経た後、履歴書等を提出して本採用となること、出勤時間については出勤簿が設けられ、無断欠勤、遅刻に対しては一定の制裁金が科せられること、週に一、二回点呼があり支配人等から注意がなされていること、出勤中の自由な外出が認められないこと、収入は客からのサービス料のみであること及び就業規則が定められていたことを認定し、これらの事由を総合考察した結果、被告人のミストルコに対する使用関係は「指導、監督につき相当程度強力な措置を包含し、その指導、監督のもとにミストルコに対し、労務に服すべき義務を科する意図を有しており、ミストルコにおいてもこれを受け入れていたものと認められ、被告人とミストルコとの間には前記使用、従属の関係があつたもの」と認定している。しかし、自己の支配内に置く行為についての制度趣旨の解釈についても疑問があり、更に原判決判示のごとき具体的内容の総合判断として使用従属の関係を認定することが可能としても、前提となる右具体的事実の認定に誤りが存し、いずれにしても原判決の右判示は誤まつているといわねばならない。
(三) 児童福祉法第三四条第九号の趣旨は、本来児童を利用して不当の利益をむさぼる者を取締ることを目的とする規定である。右規定に関する判例も自己の支配下に置くということについて前借金を支払つて自己の管理する家屋の一室に宿泊させ、自己経営の特殊飲食店に稼動させ売春をせざるを得ない立場に置く場合(昭和三一年一二月一九日福岡高裁宮崎支部)或いは劇団が児童をストリップショー等に出演させる目的で雇入れ、各地を転々として出演させていた場合(昭和三五年一一月一七日)等、主として四六時中支配者の管理下におかれているような場合について適用されており、同法は児童をかような精神的肉体的に苛酷な条件から保護することを目的とするものと解すべきであり、後述するような条件における使用関係の如き軽微な従属関係には適用されないものと解すべきである。
(四) 原判決判示の具体的内容のうち児童の従属関係について、その影響力が大なるものは出勤時間に関するものに特に出退勤に関する制裁金の制度、外出の制限であるが、出勤時間については早番遅番の定めがあり特にそれによつて苛酷という程度のものではなく、制裁金について、原判決は被告人がその制度を設け徴収しているかの如く判示しているが、証人大野薫、同木村貢、同服部キヨの証言及び被告の供述によれば、「千一夜」にはミストルコ全員により、みどり会という自主的な会が組織され、経営者及び支配人と、ミストルコ間並びにミストルコ相互間の緩和をはかることを目的として、右制裁金の制度及び実行も右みどり会が自主的に決定し運営しており、この制裁金もプールして忘年会等に使用するものであつて被告人と直接関連のないことは明らかである。又勤務時間中の外出制限についても、一応の定があつたようにも窺われるが、証人○島婦○好の証言にもあるごとく「自分は出る用事がなかつたから外出しなかつたに過ぎない」程度の拘束であつてさほど強力な拘束ではないことは明らかである。
かように「千一夜」の経営はミストルコの意思を抑制束縛しているものではなく、更に本件「千一夜」の経営形態は、ミストルコを雇入れそれを使用する関係と云うよりはむしろミストルコに浴室を貸与している関係に近いものと云わねばならない。特にミストルコは本件において証拠上明らかなように、経営者から賃金を支給されてはおらず、かえつてタオル等の使用料を利用した数に応じて店に支払つているのであつて、意思の拘束等は極く軽微なものと解されるべきである。本件においてミストルコとの間に雇傭契約書が存在し、又就業規則が定められてはいるが、これはミストルコ等の意思を拘束する程度の内容を有するものではないことは一件記録に編綴されている契約書等の内容からも明らかである。
(五) これらの事情を総合的に考察すれば原判決判示のごとく、直ちに被告人が児童の意思を左右できる状態のもとに児童を置くことにより使用、従属の関係が認められるとは解されず、児童福祉法第三九条第九号の趣旨が前述のごときものである点を合せ考えるとその禁止の範疇外にあるものと解されるべきである。
二、○井ハ○江の採用に当り年齢確認をしなかつたことについて過失がない。
(一) 児童福祉法第六〇条第三項は「児童を使用する者は、児童の年齢を知らない事を理由として、第二項の規定による処罰を免れることができない。但し、過失のないときはこの限りでない。」旨規定し、雇用者に児童の年齢を知らないことにつき過失がないときは処罰を免がれることができるとしている。本件において○井ハ○江を採用した当時の支配人木村貢は右○井ハ○江の年齢確認をしなかつたことにつき過失がないのであるから、被告人も当然に処罰を免れるところである。
(二) この点につき原判決は「木村貢らが○栗ら児童を雇入れるに際し、客観的な資料として戸籍謄本、食糧通帳若しくは父兄等について正確な調査をなすなど、同女らの年齢を確認する措置を採つた形跡のないことが証拠上明らかである以上、同女らの年齢を知らなかつたことについて過失がないというべき筋合ではない。」旨判示している。しかし、本件においては後述するように○井ハ○江の雇入れに関し特殊の事情が存在することが証拠上認められるのであるから、原判決はこれらの事実を全く無視或いは誤認した結果の判断であり、又原判決は客観的な資料に基いて年齢確認をしなかつた場合には同条但書の過失がある旨の論理構成を採つているがそれも後述するように誤つた解釈であるといわねばならない。
(三) 証人木村貢、同○井ハ○江の証言によれば、○井ハ○江を面接し採用したのは当時の支配人木村貢であるが、これに先立ち当時「千一夜」にミストルコとして勤務していた右○井の叔母○瀬多○子が(当会みどり会班長)、当時前記みどり会の会長浅岡某と共に右○井を紹介し、面接をさせたものであることが認められる。そして右○井が昭和一九年七月生れである旨の履歴書を持参していることも認められるところである。そして右木村は履歴書を信用し、又風貌も一八歳以上に見えたから採用したものであり、面接の際「若いなあと思つたら採用しないし、若いぞと思う時は戸籍謄本等を取り寄せていた」旨証言しているのである。即ち木村はみどり会の会長及び班長○瀬の保証の下に○瀬の姪にあたる○井ハ○江を採用したものであり且つ履歴書の記載を信用して採用したものである。現に使用している従業員は使用者にとつては最も信用するに価する者であり、当時「千一夜」においてミストルコ等から信望のある地位についている前記浅岡、○瀬の二人の紹介且つ保証があれば支配人としてはそれを信用することは最も常識的なことといわねばならない。従つて木村貢が当時○井ハ○江の年齢確認の方法をとらなかつたことは、全く同人の責に帰すべきでないところである。この場合履歴書の生年月日欄に虚偽の記載をしたのは○瀬であり同人が専らその責を負うべきものである。
(四) 原判決は前述の如く客観的な資料に基いて年齢確認をしない以上過失もある旨判示しているが、同法条は本文において年齢確認を要求し、その実行をせず、年齢を知らないことは理由にならない旨そして但書においては年齢確認をしなかつたことにつき過失がないときは処罰をしない旨の規定である。かような規定の方法は刑法をはじめ多くの処罰法規に見られるところであり、かく解することが、本条項の趣旨にも添うものである。
ところで原判決判示の客観的な資料に基いて児童の年齢を確認することは同法条本文の要求するところであり、確認しなかつたという事実が当然に同条但書の過失の有無までをも規定するものと解されない。
同条但書に所謂「過失がない」とは、年齢確認の方法をとらなかつたことにつき何らかの理由があり、その理由が当時の状況から止むを得ないものである場合には過失がないものと解すべきである。
(五) ところで本件においては、前述のごとく、木村貢が年齢確認の方法を採らなかつたことについて特殊の事情があり、この事情により前記○井ハ○江が一八歳以上であると信ずるのが当然であり、且つ信用することが一般的に考察しても止むを得ない状況であつたのであるから、前記法条の趣旨を加えて勘案すれば、同条但書の適用を受けるものと認められるべきである。
なお、児童福祉法第六〇条(第三項)は、過失と故意とを同列においているのは罪刑法定主義に違反し、憲法第三十一条に違反している。
三、被告人は○島婦○好を雇入れた事実はない。
(一) 原判決は「関係証拠によれば被告人は当初竜崎某の紹介で同人と同道した右○島に面接したが、その場においては同女を直接雇傭せず、竜崎に原判示の『千一夜』の支配人大野薫宛の書面を持たせ、大野に○島を雇入れるように指示したことが認められるのであるから、被告人が○島を雇入れた責任者であると解すべきものである。」旨判示している。しかしこの点に関する証拠を些細に検討すれば、被告人が右○島婦○好を採用した責任者とは認定しえないところである。
(二) 被告人は証拠として採用された警察官或いは検察官に対する供述調書及び公判廷における供述において、○島を採用した経過について「五反田の事務所に○島を紹介のため連れて来た竜崎なる者から、トルコに使つてくれと頼まれたが、年齢も分らないし、顔もまずいので内心感心しなかつたが、竜崎には葬式の時世話になつたりしていて無下に断ることも義理が悪いので体裁上大井の大野マネージャーの方へ廻して断つて貰えばよいと思い、面接して決済してくれという意味を書いてそれを竜崎に持たせ○島を大井の方にやつた」旨供述している。これは被告人自身は当初から右○島を採用する意思がなく、雇入れを断る一方便として紹介状を書いて渡したものであつて、右○島も公判廷において被告人に紹介の紙を書いて貰つた時に使つてやるとかやらないとか被告人が云つたか否かについては記憶がない旨、又その際雇つて貰えるかどうかについては答がなく、半信半疑の状態であつたものであり、この時点で被告人が○島を採用した事実は到底認定しえない。更に被告人が右○島を採用する意思がなかつたことについて、証人関口重雄は「二人が帰つたあと、ママの葬式の時世話になつたので紹介状書いてやつたよ、大井町の大野から電話がある筈だ。あつたら断つておけと云われた」旨「それから三、四日後お前電話しておいたか、何故しなかつたか、大井にこの前の女がいるじやないかと叱かられた。」旨供述しておりこの点をも合せ考えると、被告人が○島を採用する意思を有していなかつたことを認めることができる。そして更に右関口の証言は○島の『点呼の際川田から「あなた誰だつたかなあ、見なれない人だが」と云われたことがある』旨の証言及びその後に退めさせられた事実とも付合するものであつて、被告人の供述は信用しうるものである。
(三) 本件○島の雇入れについては、他のミストルコの採用と同じく支配人大野薫の権限であり、現に一〇日間の見習いの後右大野がテストをした上履歴書を提出させて採用したものであることは証拠上明らかである。そして大野の証言によれば、その後いくら戸籍謄本や住民票をもつて来いと請求しても同女は遂に持つて来ず、又身体が悪いといつては休むので退めさせたことが認められる。又被告人からも退めさせろといわれていることが認められるのである。
(四) 被告人の供述及び証人関口の証言から認められる○島を退めさせた事実と証人大野及び同○島の証言から認められる退めさせるに至つた経緯から被告人が当初から○島を採用する意思がなかつたことは容易に推認しうるところである。とすれば原判決の○島雇入れの責任者であるとの認定は事実誤認であると云わねばならない。そして被告人は大野が○島を雇入れたことについて児童福祉法第六〇条第四項の責任を追及されることは格別、同法第六〇条二項の責任を負はせることはできない。この点でも原判決は破棄を免れないところである。
結局本件被告人については無罪の判決をなすべきである。以上
参考二
弁護人馬屋原成男の上告趣意(昭和四二年三月一〇日付)
原判決には、判例違反、憲法違反があり、且法令の適用、事実認定、従つて量刑の諸点において重大な違法があつた、これを破棄しなければ著しく正義に反するものがある。
第一点判例違反
一、被告人は、株式会社川田商会の代表取締役社長であつて、「トルコ温泉千一夜」の業務主又は営業者ではない。同千一夜は浴場営業法に基き、被告人妻静子がその営業名義人として経営上の一切の責任者である。
しかるに、原判決は、その営業名義人でない被告人自身を、営業者ないし業務主として、本件の刑責を負わしめたが、これは業務主又は営業者の意義に関する次の判例の趣意に反する違法がある。即ち
(一) 昭和九年四月二十六日大審院判例(刑集一三巻五二七頁)は、銃砲火薬類取締法違反に関するものであるが、同法第二十一条に所謂銃砲火薬類に関する事業を行う者たるには、必らずしも、その事業により経済上の利害関係の帰属すべき主体たることを要するものにあらずして銃砲火薬類の営業者を除く外、凡そ銃砲火薬類に関する取締に服すべき事業につき、行政官庁の許可を受け、取締上の責任を負担したる者を悉く包含するものと解するを至当なりとす。而して、被告人が警察署の許可を受けて火薬を譲受け且之を使用して施行したる判示……工事は、利害計算上の関係においては素より判示会社に属するものにして、被告人の事業に非ずといえども、右取締法第二一条の意義においては、これを被告人の事業なりと認むべく、即ち警察署の許可を受けて判示火薬に関する事業を行いたる者は被告人なりと認むるを正当なりとす……」。
(二) 酒造税法違反につき、明治四十一年三月二六日大審院判例(録一四輯七巻三二六頁)は「酒造税法においては実際製造営業を為す者の誰たるを問わず、政府の免許を受けたる者を以て製造営業人と認むべきものなれば、良しや被告人の代理人名義を藉りて、自己の為製造営業を為したるものなりとするも、その反則行為については免許人たる被告人に於てその責に従ぜざるを得ず」として、形式上の営業主は、被告人であるが、実際の製造営業者は別人であつた事件に対し、その実際上の製造者を処罰せずして、形式上の営業名義人を処罰した。
(三) なを牛乳営業名義人につき、
大正八年五月十二日(刑録二五輯六二九頁)大審院判例は、「甲が牛乳営業の免許を受け、その後乙にその営業を譲渡したが、その譲渡につき届出を怠つていたために行政上の帳簿の上では甲がなを営業名義人となつていた場合は甲が営業人であるとして、曰く、
「牛乳の搾取販売に付営業の主体となりて、行政官庁の認可を受けたるものは、即ち、牛乳営業取締規則にいわゆる牛乳営業者にして、その営業行為を為すと、他人をして己れに代つてこれを為さしむるとを問わず、右営業取締規則の規定を遵守するの義務あるは勿論、その代理人、雇人、従業員等を監督し、違反行為を為さざらしむるの義務あるものとす」と。そして以上三つの判例とも、すべて法令上営業者とは営業者自身の計算において当該営業を行う者を指称するものであつて、単なる形式上の名義人を指称するものではないとした各上告理由を排斥し、行政官庁の営業許可又は免許を受けた営業名義人が営業者だとする見解を一貫させているのである。
ただ、行政法令上の業務主又は営業主の観念につき、右判例の上告理由の主張の如き、業務主とは、自己の計算において、その事業を経営しているものをいい、名義上の形式的な営業者ではないとする判例や、学説があるが、それは、すべて、純然たる営利会社や、公益に関係のない私的企業の場合をいうのであつて、前記各判例の事案からも明らかなように、その営業自体が公衆衛生、公共の安全に関し、その業務遂行、営業責任をすべて国家又は公共団体の許可もしくは免許にかからしめている事業にあつては、単なる営利追及のみを目的として経営せられる私企業の場合とは異るのである。
たとえば、実質上の名義を指すとした判例では、昭和十七年九月十六日(刑二一巻、四一七頁)の靴の販売価格違反事件がその好例である。しかも、時は戦時中国家総動員法下の違反事件であつて、かかる事案に対する見解が今日通用せざるべきではないこと当然である。
これを本件について見れば、「トルコ千一夜」は、判示の如く被告人妻川田静子名義をもつて、東京都知事によつて、公衆浴場許可(昭三七・一二・二〇附)を受けているのであつて、明らかに被告人ではない。いやしくも公衆浴場法が公衆の衛生、風俗を保持する為に行政官庁の許可によつて、その経営権を附与するものである以上、これが経営権者たる営業名義人は同法令は勿論、その関係法令に違反せざる法令遵守義務を負うていること当然であつて、かりに夫たる被告人又は支配人、使用人等の過失によつて、十八歳未満の児童を雇用したとしても、同人等が行為者としての責任は格別として、法律上は営業名義人たる妻の責任に帰すべきこと理の当然である。
しかるに、その名義人を処罰せずして、別経営に属する株式会社川田商会の代表者たる被告人を処罰したことは、正に右各判例違反の違憲ありといわなければならない。
二、証拠に基づかずして、被告人の不利な情状を判断していること。即ち
(一) 一審判決は、「地元において色々のつながりの中に声望と実力とを有し、政界方面にも有力な知友を持つているもののようである。」と記載しており、被告人は、如何にも地元のボス的実力者の如く認定しているが、これは全く一方的な一審裁判官の推測に過ぎず、一件記録中何等の証拠がない。
情状に関することは、必らずしも、厳格な証明を要しないが、少くとも判決に摘示する以上は、記録上の証拠に基いて行わなければならないことにつき、左の如き判例がある。
(1) 昭和二五・一〇・五最高判(四巻一〇号)
(2) 昭和二四・二・二二最高判(三巻一号)
右の判決要旨は
「刑の量定に関する事項については、記録上、これを認むべき証拠あるをもつて足り訴訟法上判決に証拠をかかげてこれを説明するを要しない」とある。
これは、情状に関する証拠は、犯罪事実の認定の用に供する証拠のように厳格な証拠は必要としないで、自由なる証明で足りる意と解するが、しかし自由なる証明であつても、それが刑訴法上(三一七条)事実の認定は証拠によることを要する以上、その証明の用に供すべき何等かの証拠がなければならない。
即ち、右判例の趣旨は、情状事実に関しては厳格な証拠調を経た証拠による必要がないことを判示しただけであつて、犯罪構成事実以外の事実だからとて、証拠なくして判断してよいとなす趣旨でないことは刑訴法三一七条の趣旨から当然であるといわなければならない。
しかるに、一審が説示しているような前記の如き被告人の社会的地位に対する推測は何等証拠なき裁判所の憶断であつて、かかる憶断を以て被告人の量刑資料とすることは、たとえ情状に関する事項であるとしても許されないのである。いわんや、被告人の不利の証拠とするをや。
一審判決がかかる説示をした根拠を推測するに、恐らく、大山証人の証言中、同証人が被告人を当時の東京都知事安井謙氏に紹介した云々のことを指すと思われるのであるが、その外政界方面の知名の士とじつ懇であるかの如き証拠は何処にもないのである。かりにあつたとして何処が悪いのか、弁護人はむしろ、これを被告人の有利に解するものである。
即ち、かかる地元での声望と実力とをもち、有力な知友をもつておればこそ、身を謹しみ、業務を誠実に行つていることが期待されるのではあるまいか。それを一審判決は、何等証拠なき憶断を以て、「かかる有力な地位声望にあるものが何故かかる犯行をしたか」というが如く、悪意にこれを援用していることは到底黙視出来ない違法である。
(2)の判例は、刑の執行を猶予すべきや否やの情状の証拠に関するもので、これも、証拠調をした証拠のみによるを要しないとする判示であるが、その理由は「刑の執行を猶予すべき情状の有無といえども、必らず適法なる証拠に基いて判断しなければならない。ただ、犯罪事実に関する判断と異り、必らずしも、刑訴法上の一定の法式に従い証拠調を経た証拠のみに因る必要のない」ことを宣言したまでで、証拠によらざる情状判断を許した趣旨ではないのである。
この事は執行猶予に関するだけでなく、本件の如く、懲役と罰金刑とを併科すべきや否や、双方併科するとしても懲役刑につき執行猶予を附すべきや否や、いな、懲役刑と罰金刑の何れを選択すべきや否やについても事は同様であると思料される。
(二) 次に原判決(二審)では、
「被告人は、所論指摘の通り或る程度経済力を有し、公共事業に尽力した実績を有し乍ら、私益追及のため、次の時代を担うべき児童の健全な育成に寄与しようとする児童福祉法の精神に違背したものであつて、犯情悪質といわなければならない。特に原判示のスペシァルと称するいかがわしい行為は、女性の人権を無視した非人間的業態というも過言ではなく、かかる行為を、児童にさせていた被告人の社会的責任もまた軽視を許さないものがある」と説示しているが、これまた何等の証拠に基かざる盲断である。
先づ「私益追及のため」とあるが、一体何を指すのであるかトルコ嬢がサービスとして浴客から相手の報酬を貰うことは毫も私益追及を以て目さるべきではない。労務に対する報酬として当然トルコ嬢の収入に帰しているのであつて、被告人が搾取しているのではない。ただ、設備利用の代償として一定の歩合を出させていたことは営業保持業務遂行上当然の経営形態であつて、毫も不法ではないのである。かくの如き経営は全国トルコ風呂経営の常態であつて、あに独り千一夜のみのやり方ではないのである。
次に「スペシァルを児童をしてさせていた」と判示しているのは全く証拠なく、むしろ然らずとしている証拠を逆用してかかる認定をしているのであつて、実に虚無の証拠を以て悪質な情状の資料たらしめているのである。
現に木村貢、高橋ミヨ、服部ミヨ、○島婦○好、○栗ふ○子、○井ハ○エ等何れも、この店でスペシァルをしてはいけないことは教わつており、知つていた」と供述しているのである。
ただ、使用人大野薫の証言中「スペシァルをしなければやつて行けない」という内容の言葉があるが(二二六丁)、赤線地帯等トルコ風呂の密集せる競争地帯一般についてであつて、被告人方や「千一夜」が然りであるとする証言ではないのである。むしろ、千一夜は被告人証言の如く、厳戒を発していたのであつて、たまたま、トルコ嬢等が行つていたとしてそれは全く、プライベイトの事で、知る由もなかつたのである。(服部ミヨ、公判三六三丁)
(三) 原判決では、原審に於て、本件の有利な情状の一端として、弁護人が提出した「就業規則」を、採つて以つて、被告人に不利な犯罪事実の認定の証拠に逆用している。これは、次の判例に違反している。
昭和二七・六・四・福岡高裁判決(昭二七(う)五三七号、五三八号、高裁刑特報一九号九六頁)に曰く、
「情状に関する証拠として提出されたものを犯罪事実認定の証拠とすることは出来ない。けだし、もし情状に関する事実の証拠とすることに同意した書面又は供述を以て、なお且つ罪となるべき事実を認定することができるものとせんか、被告人は情状に関する事実の証拠とすることに同意したるの故を以て、刑訴法三二六条により同法三二一条ないし三二五条所定の条件ないしは任意性若しくはその調査につき何等顧慮されることなくして、罪となるべき事実を認定されると共に、検察官においてこれらの証拠につき罪となるべき事実のため証拠調の請求をしたとすれば、被告人においてなし得べき意見弁解ないしは、異議の申立の機会をも剥奪する等被告人に不利益を招来する結果となるからである・・・・・・」
第二点憲法違反
一、前項第一点に述べるような(一)営業者又は業務主の解釈に関する判例違反及び(二)情状事実に関する証拠法の原則を無視した判例は、何れも同時に憲法第三十一条の法定手続の保障に違反している。
憲法第三十一条にいわゆる法律に定める手続とは、正当な法定手続のことであつて、それは、手続法令が適正に履行されることを要求しているのみならず、その前提たる実体法が適正に適用されなければならぬとすること通説である。
しかるに原判決では刑罰実体法たる児童福祉法第三四条第六〇条のいわゆる「人」又は「者」である営業者の観念につき、判例に違反した誤つた解釈の下に被告人を処罰している。また、(二)情状事実についても刑事訴訟法第三一七条の原則に違反し何等証拠なくして、重い情状事実を認定していることは、重大な正当手続違反であると思料される。
惟うに、正当な訴訟手続とは、要するに裁判における公正な審理を担保する手続を指すのであるから(昭二五・一二・二〇大法廷)、誤れる実体法の解釈の上に立つて、裁判所自ら、直接審理主義や証拠裁判主義、ないし当事者主義の原則を無視する原判決の如き手続違反は、単なる法令違反を以て目すべきでなく、実に憲法第三十一条違反であると思料される。
二、特にここで、特記強調を要する事項は、原判決が、被告人の社会的、道徳的責任を追及している点である。即ち
原判決の末段において「スペシァルと称するいかがわしい行為は、女性の人権を無視した非人間的業態というも過言ではなく、かかる行為を児童にさせていた被告人の社会的、道徳的責任もまた軽視を許さないものがある」とする。
被告人がかかる行為をさせたものでないこと、それは従業員が被告人や支配人等の目をかすめて内密にしていたものであることは前項記載の通りで、更に後に事実誤認の点で述べることであるが、たとえ客観的に本件で、かかる行為があつたにせよ、これを被告人の責に帰せしめて、社会的、道徳的責任まで追及することは、法定犯たる児童福祉法違反としての罰則の適用上越権であるといわなければならない。勿論、
自然犯といわれる一般刑事事犯は、それが同時に道義違反を伴うこと当然であつて、その故に刑法犯は重い刑罰を以て臨んでいるのである。
児童福祉法が、健全なる児童の心身の発育を悪い環境から守る為の立法趣旨であること同法一条ないし三条において明記するところである。しかし乍ら、その故を以て、同法は児童を守る為の成人の道徳的責任や、社会的責任に対する義務違反を処罰するものではないのである。かかる義務はむしろ、児童福祉の為にこれを擁護する国及公共団体が負うているのであつて(同法二条)、かかる道徳的義務違反を各雇用者たる成人に科しているのではないのである。法定犯たる同法違反は法律違反としての裁判たるに過ぎず決して道徳的社会的義務違反を処罰するものではないのである。
特に同法六〇条四項の両罰規定の如く、自然人にあらざる法人そのものを処罰するというようなことは全く、道義に関係なく単なる技術的規定であることによつても明白である。
本件についていえば、たまたま十八歳未満の児童を公衆浴場たるトルコ風呂のトルコ嬢に使用したというにすぎないのである。
年齢を確かめ十八歳以上のものであればトルコ嬢に採用することは毫も児童福祉違反として罪をとわれているにすぎない。しかるに同法六〇条の罪が、自然犯たる刑法犯の如き道義犯と目さるべき何等の根拠はないのである。
現判決は被告人の同条の罪を論断するにあたり、その道徳的、社会的責任まで追及しているのは、正に憲法第三十一条の正当手続違反というの外はない。
三、原審で正当な被告人の主張弁解を封じたこと
第一審に於て、立会検察官が公判中急に転任することになつた為第一審裁判所は結審を早め、論告弁論を一期に終結せしめた。
当時本弁護人は公務(国際法律家協会会議)外遊中で、弁論をする機会がなかつた。
本弁護人の外遊に関しては、法廷に於て、口頭で裁判官に告げ期日指定の場合に予め考慮を願つており、また外遊先からも、帰朝の日をお知らせして、弁論の機を得たかつたのであるが、高橋主任弁護人は、被告人に対しその弁論に先立ち、本件は無罪確実故相弁護人の弁論を放棄するよう奨ようし、一審裁判官も亦被告人の意向を尋ねた処、被告人は主任弁護人の言を盲信した結果、これを放棄するに至つたこと、原審に於ける本弁護人の再開申請書添附の同人の上申書によつて、明白である。
しかるに、第一審判決の結果は全く、予期に反し、有罪でしかも重刑であつた。
しかし翻つて、高橋主任弁護人の弁論要旨を見ると、単なる法律論のみに終り、何等情状の点に触れていなかつたことは、少くとも一審弁護人として、被告人に有利な弁論を尽したものとはいえないのである。
この点を補充すべく、本弁護人は控訴審たる原審において、法律点の外事実論、情状論を展開した控訴趣意書を提出し、公判では更に被告人の本人尋問を求める予定であつた処、被告人はたまたま肝臓疾患のため入院病臥した為、第一回公判に出廷不能であつた(丁診断書)
よつて、書証を提出し、書証は採用されたが証人は却下され、次回に判決言渡期日が指定された。
被告人は是非とも事実審の最終たる原審に於て、自ら発言したい為、判決言渡期日に先立ち本弁護人から再開申請をしておいたが、当日もたまたま、被告人は開廷時問を取りちがえたことと、交通事故の故四十分出廷おくれ原審の審理を四十分待つていただいたが遂にその間、再開は却下され直ちに控訴棄却の判決が下されてしまつた。
原審に於て、本人尋問を求めたのは、第一審における弁護人の本人尋問が不十分だったからである。少くとも有利な情状や、罪体に関しては殆んどきいていない。犯後の情状などを中心としてなされているだけである。しかも立会検察官からは、全く関連性なき別件に関して、あらぬ追及を受けているのである。
以上の如き第一審の事情であつたので、これを補正する為に被告人がたつての原審での再開申請の意見を表明したのに、これを却下し、被告人に再度の意見弁解の機会を与えなかつたことは、事実審たる原審裁判所として、甚だしい専断というの外なく、当事者主義に違反した訴訟手続であつて、これまた正に憲法第三十一条違反であるといわなければならない。
第三点法令違反
原判決には児童福祉法第三十四条第一項第九号の解釈を誤つた違法がある。
一、原判決には、弁護人の「本件ミストルコ雇入れ行為は、児童福祉法三四条一項九号の除外事由たる児童に対する支配が正当な雇用関係に基く場合にあたる」との主張を排斥して曰く、
「本件児童等と、被告人らとの間の雇傭契約は、いずれもその親権者の同意を得ていないものであることは関係証拠によつて明白であるから、その契約の成立自体に民法上の瑕疵が存し、この事実のみによつても、前記児童福祉法の法条にいわゆる「正当な雇用関係に基くもの」ではないとしている。
そしてその理由として、「労働基準法五八条は、労働契約の特殊性と未成年者保護の観点から、親権者又は後見人が未成年者に代つて労働契約を締結することを禁じ、その範囲で、代理権を制限したものであり、その同意権にはいささかの消長がない、と解すべきものであつて未成年者が労働契約を締結する場合には民法四条の原則に則り法定代理人即ち親権者の同意を得なければならない」とするものである。
しかし乍ら、右論旨は、未成年者の労働契約につき、親権者締結の禁止(労基法五八条)や未成年者の賃金請求権及賃金受領権(同法五九条)を認め、これに違反する場合には罰則を以て制裁を科している未成年者保護の精神に徹する労働基準法の立法趣旨の解釈を誤つたものというの外はない。
おもうに労働基準法は、憲法二五条、二七条二項に基いて、制定されたもので、労働条件を契約当事者の自由に放任せずしてその基準は法律で定めることにした。憲法自体が、一方で団体交渉を通じて契約の自由を認め乍ら、他方で、労働基準法の強行性を宣言しているのであるこのような憲法と同法との関係は、同法の解釈運用上十分に理解されなければならない(有泉、法律学全集(47)労働基準法一〇頁)。
よつて、これを未成年者の労働契約について見れば、契約一般について民法の規定があり、未成年者の場合親権者の同意を要することが原則であるが(民法四条)、事労働契約に関する限り、労働基準法に従わなければならないのである。
即ち民法によれば、親権者が未成年者に代つて労働契約を締結するには、本人の同意があればよいのであるが(民八二四条但書)、労働基準法では、親権者が未成年者に代つて労働契約を締結することは、本人の同意の有無に拘らず、これを禁止しているのである(法五八条一項)これは正に民法八二四条の例外をなし、これに違反する契約は無効と解されている(有泉、前掲九三頁、三九二頁)。
本来一般の契約では、親権者や後見人は、未成年者が、思慮経験不足のために第三者との取引において不測の損害を蒙らないよう保護の為に附せられているのであるが、「こと、労働契約に関する限りは、皮肉にも、法は親権者、後見人から未成年者を守らなければならないのである。かくして労働基準法は、未成年者を保護するのに、親権者等を名宛人として、未成年者に代つて労働契約を締結し、賃金を受領することを禁じているのである(五八、五九条・有泉、前掲三九二頁、三九三頁)。
原判決は、労働法五八条の「親権者は未成年者に代つて労働契約を締結してはならない」という規定を、「親権者が未成年者に代つて労働契約を締結することを禁じた」法意であつて、未成年者自身が労働契約を締結する場合には同条の適用なく民法四条の原則により親権者の同意を要するものと解釈している。これは労基法の精神をじゆうりんする誤つた解釈であつて、もし、未成年者が労働契約を締結する場合にも親権者の同意を要するものとすれば、実は親権者が未成年者に代つて契約しておき乍ら、表面上は、契約当事者を未成年者名にし、法定代理人として、これに同意する形をとれば、脱法的に同条違反の禁に触れないことになる。(有泉、前掲三九六頁)。
かくては、同法同条の法意は全く没却せられ脱法行為が横行するに至ること必定であつて、かくして、同条の真の解釈は、「未成年者が契約当事者になつて、親権者がこれに同意する形をとろうと、親権者が未成年者の法定代理人という形をとろうといやしくも実質的に親権者が労働契約の締結の決定権をもつてはならないものといわなければならない(有泉、前掲三九三頁)。
けだし、親権者が法定代理人として締結した契約を有効とすることは、-たとえ未成年者の同意があつても-、契約期間や前借金によつて未成年者を不当に拘束することになるからであつて、それは、未成年者が親権者の同意を得る形式をとつた場合でも同様であるからである。ただ、親権者の同意があった場合は、当該労働契約に関連する一般的な同意を含むと解せらるるに過ぎないのであつて、ここにいわゆる親権者の同意なるものは未成年者の労働契約締結については、全く民法の特例をなし、労働契約上の要件と解すべき何等の理由はない。
よつて、本件○島、○栗、○井等の児童の雇傭契約は民法上親権者の同意がなかつたにせよ、これが特別法たる労働基準法上適法の労働契約であつで、児童福祉法三四条一項九号の除外事由たる「児童に対する支配が正当な雇用関係に基く場合」にあたるものといわなければならない。
二、原判決は、児童福祉法三四条一項九号にいわゆる「児童を自己の支配内に置く行為」を解して、児童の意思を左右できる状態のもとに児童を置くことにより、使用、従属の関係が認められる場合と解する」として、本件ミストルコが何れも採用に際し、面接をなし、履歴書を提出させ、就業時間がきまつており、早番、遅番がきめられており、出勤簿があり、無断欠勤遅刻に一定の制裁をなすことや、出勤に対して点呼を行い、被告人等から客に対する扱い態度を注意したこと、出勤中(自由外出禁止等詳細な就業規則を定めてあつたことを自己の支配内においたとなすものの如くである。
しかし乍ら、かかる出勤者に対する厳正な規正は正当な労働契約に基く雇傭関係にあればこそ、労働基準法に基いてかかる就業規則を定めたのであつて、もしこれを児童を自己の支配内においた」ものと見るならば、あらゆる会社、銀行、営利商社の従業員はみな、営業者が、使用人を自己の支配内に置いたことになるのである。
詳細な就業規則は実に労働基準法の要求し、これが作成を命じており、これが違反には罰則さえあるのである。(労基法一〇六条、一二〇条)
しかうして同法は就業規則に記載すべき事項は、法八九条において本件「千一夜」の如く、詳細に列挙してあり、更にこの規則違反には自治的制裁権に基く懲戒権の発動が許されているのである。(法九一条、九二条、二〇条、二四条等)
本件「千一夜」がかかる就業規則や、内部規律を設けたのは、実に労働基準法の遵守に忠ならんとすればこその善意であるのに、それを悪意にとつて、児童を支配内に置いたことの証拠にしているのは正に本末顛倒というの外はない。
労働基準法にも未成年者や、十八歳未満者の取扱いについて就業規則があるのであつて、もし、それにつき、深夜就業等の違反ありとせば、その限度において労働基準法違反が成立するのであつて、児童福祉の問題ではないのである。
三、問題は、本件十八歳未満の児童等をトルコ嬢として、トルコ風呂の営業に従事せしめることが「心身に有害な行為」なりや否やである。
しかし児童福祉法三四条九号にいわゆる、身心に有害な行為とはどこにも具体的に規定がなく、これは専ら他の法令に規制されている風俗上の問題を前提として、決すべきものであつて、トルコ風呂営業は公衆浴場法による行政官庁の許可の下に行う業務であつで、同法所定の風紀に必要な規制を守つている以上営業自体には何等の不法はない筈である。即ち、部屋は個室でも鍵はなく、人は自由に出入出来るのであつで、密室ではなく、更に全室見透可能のように素通しのガラス窓をつけてある。ミストルコの服装も単なる水着ではなく、その上にパンツをはく、(○島九七丁、一二〇-一二一丁・大野二二三丁、○井一四九丁)あるいは袖なしブラウスのユニホームを着ている(○栗警察)のであつて、「たとえ独立した浴室において浴客一名限り入浴させ、婦女がサービスをなすものであつても、公衆を入浴させることを主とするものであれば公衆浴場法の適用をうける場合が多い。しかもマッサージ行為も、それが単にいわゆる入浴に附随するサービスとしての限界に止まる場合においては、これを以て直ちに風俗営業取締法第一条第一号の風紀上好ましくない営業の対照となる行為と見なすことは出来ない」ことは、警察当局の通牒によつてもすでに明らかにされている(警察庁参事官町田充著「防犯警察全書」一六六頁・昭二七、九、二五国警本部長横浜市警本部長宛回答)。
このようにトルコ風呂にミストルコを就業せしめることは風俗上何等規制ないし禁止された事項ではない。したがつて労働基準法六三条違反にも風俗営業法の対象ともならないから、かかる場合を前提として規定されている児童福祉法違反とはならないのである。
第四点事実誤認
一、スペシァルをさせた事実、及びこれをさせる目的はなかつたしかしながら、単に浴客に対する通常個所のマッサージのみを行うのであれば、公衆浴場としてのサービスとして当然であるが、オーバーサービス、たとえば、本件のいわゆるスペシァルの如きサービスを行う場合には、これは通常の業務以上の行きすぎ業務であつて、公衆浴場としては放置、黙認すべきものでないから、かかる行為が未だ心身の発育不十分で、風紀上から保護を要すべき十八歳未満の児童に行わせる如きは、当然、児童の心身に有害な影響を与える行為として禁止さるべきは当然であろう。
ところで、本件事案に於て、○島婦○好、○栗ふ○子等はかかる行為をしたことを自供しているが、これが補強証拠として、かかる行為を行わしめた相手方の浴客は一人もいないのである。もしかかる行為をした事実があれば、何故浴客の取調べをしないのであるか、何等の反証なくして、単にひ弱い児童をして、かかる行為をしたことを無理強いに言わせて調書にとつているにすぎない。
いわんや、本件「千一夜」の営業所でかかるスペシァルをさせたという証拠が何処にありや、児童等がスペシァルをしたとすれば、自ら進んでしたのではなく、浴客に求められてさせられたのである。(○井ハ○エ一七六丁・○島婦○好一二〇丁ウラ)原判決には、「かかる行為をさせていた被告人云々」とあるがかかる行為をさせたのは浴客自身であつて、毫も被告人や店自体ではないのである。
千一夜のトルコ嬢と使用者又は支配人との間の雇傭契約書には過剰サービス(スペシァル)や売春行為があつた場合には、退店を命ずる旨の規約があり、本人もこれを誓約しており(昭四一・一一・二八附証拠申請書(四)及(五)二〇八丁)被告人も常時他の店と異り厳禁している事を掲示したり訓示している(三五八丁・三六三丁)ことは証人木村貢(一八七丁-一九二丁、二〇二丁、二〇〇丁)同大野薫(二二五丁-二二六丁)、同高橋ミヨ(公判三七一丁)同服部ミヨ(三五六丁-三五七丁)同○井ハ○エ(一六七丁)等の各公判証言によつて明白である。
かくの如き本件千一夜の営業方針を以てして、なおかつ、スペシァルの如き、児童の心身に有害な行為をさせる目的があつたとする原判決の認定は、如何なる証拠によるのであろうか、事実誤認も甚だしいものであつて到底首肯出来ない。
たまたま、内密に被告人や支配人不知の間にスペシァル行為が客観的になされたにせよ、その客観的に存在した事実を、採つて以てその事実を知り乍ら、本件ミストルコ等をして之を為さしめたという教唆の主体を被告人等に押しつけるが如きは、全く論理則、経験則違反の謬論である。
いわんや、ミストルコの業務は、もし十八歳以上の者が従事する場合には、法禁止業務ではないから、何等恥ずべき職業でないこと、服部ミヨの証言の如くである(公判三六六丁)。実に「立派な紳士が楽しむ」娯楽の一つであり、赤線禁止の今日では売春の防波堤にさえなつているのである。
それにも拘らず、公判において立会検事は「自分の娘をトルコ嬢にさせるかとか」(三九七丁)、現に勤務中の○井ハ○エに対して迄、「トルコ嬢として働いていることを風紀上好ましくないと思うか」とか、「全裸の男の身体を洗うことに羞恥心を抱かないか」とか問うている(一五三丁)ことは、如何にもミストルコの職業が下賤であつて、法律上許されざるものとの誤れる認識の下にかかる尋問をしているものとしか思われない。
正規の年齢以上の者が公衆浴場法による正規のトルコ風呂内で浴客の身体を洗うことが許されざる悪業なりとせば全国のトルコ風呂は尽く、閉鎖されなければならないのである。
トルコ風呂存在の一部に弊害は行政措置によるべきものであつて、法律上これを許しているのに、これに従事する家庭事情等同情すべき環境下に働いている社会的弱者たる地位にある彼女等に対してかかる尋問をすることは労働の神聖に対する侮辱であつて、それ自体が正に憲法保障の職業選択の自由(憲法二二条)の侵犯といわざるを得ない。
裁判官その他の公務員は憲法遵守の特別の義務を負うべきこと憲法に明記するところである。(憲九九条)
しかるにかかる尋問を為した検察官及これが尋問を許していた一審裁判官こそ、この憲法遵守義務違背といわざるを得ない。
要するに、一審二審とも、浴場風俗を強調するの余り、事実を曲解して、あらぬ責を被告人に転嫁せしめている各判決は如何なる論点からも重大な事実誤認、法令違反ありといわなければならない。
二、本件千一夜の経営者は被告人にあらずして被告人の妻川田静子である。
被告人は、大井町所在の株式会社川田商会の代表者でこれあれ、「千一夜」トルコ温泉の経営者でないことは、証拠として提出採用された会社の登記謄本(証(一))及その業務種目や定款中にも浴場経営が載つていないことによつて明白であるしかも千一夜の経営者が被告人妻川田静子であることは、トルコ千一夜公衆浴場許可証等(証(七)(八))によつて明白である。
そして事実の経営者は妻の弟浜田徳光並に支配人木村貢であつたのである。(木村一九四丁、○栗二五五丁、木村一八八丁公判、被告人警察、四四〇丁、四一二丁、四三三丁、服部ミヨ三五七丁公判)
被告人は五反田所在のトルコの個人経営者で時々大井のヘルスセンター会館内にある川田商会事務所に行き、事務をとつているにすぎず、千一夜は同会館内の一隅にあり、被告人は会館の事務全般を監督する立場にあるため、千一夜の業務についても、監督目的、あるいは経営者妻の助力的立場から、その手助けをしているのであつて、法律上の経営責任者は、たとえ実務にタッチせずとしても妻川田静子であるといわなければならない。
これは一審判決が、如何なる、どの業務に関する違反行為かを明らかにしていないことによつても、被告人妻名義の「トルコ千一夜」と被告人個人経営の五反田トルコの業務とを混同している事実誤認を証明している。
即ち、第一、第二事実ともにミストルコの傭入行為は、被告人の名実共に経営者である五反田トルコに関するものにあらずして、被告人妻名義の「千一夜」の業務に関するものである。
先づ第一事実の○島婦○好の雇入につき、
原判決は、
「この点につき、被告人は、捜査官の取調及原審公判廷を通じ終始、○島を断わるつもりで大野支配人に添書をした旨所論に副う供述をしているけれども、該供述の内容自体合理性に乏しく、又前記証拠に対比して信用し難い」と判示する、しかし乍ら、所論に副う供述とは、被告人が捜査公判を通じて終始一貫して○島を断わるつもりであつたことを指すのであるから、原判決は被告人の供述の一貫性を認めているのである。
また被告人の供述の内容自体が合理性に乏しいというが捜査公判を通じて変らない終始一貫した供述(警察四一五丁、検事四二六丁)のどこが、合理性がないのか、又前記証拠に対比して信用し難いとは何の証拠を指すのか毫も明らかでない。
しかも、○島の供述(公判九三丁)、大野の供述によるも、判示の如く「被告人が大野に○島を雇入れるよう指示した」となす何等の証拠なく、却つて、被告人の捜査、公判を通ずる主張と符合するものがあつて、被告人自体「千一夜」に対しては新採用者に対する決定権はなく、五反田にも使う意思がなかつたが、恩ある竜崎に頼まれた手前、千一夜の大野に廻わし、しかるべく断つてくれとの意思の下に書面を持たせてやつた処、(被告人検事四二一丁、警察四一四丁)大野が不在で、その書面は、経理係の青木に渡され、その意思が十分大野に伝らない儘大野が早合点し、気をきかせたつもりで、被告人の意思に反し一応見習採用をしてしまつたのである。(大野公判二二一丁)
この点に関し、大野は公判で、検事の○島採用の経緯につき、社長から電話がかかつて来たことに関し、「その電話でどんなことをいわれたか」との問に対し
「はつきりわかりませんが、知人の紹介だから、そつちへ廻すというようなことだつたと思う」と答えている。これは五反田から大井の方へ廻すというだけで、そこで使えという意味は毫もいつていないのである。
続いて検事は、「それは使つてやつてくれという意味のことか」との問に対し、「そうです」と答えているが、それは、大野が、後から証言しているように「社長が気が弱く、頼まれると断れない性格」を知つているので、自分の考えで、そう判断したことを証言したのにすぎないので、被告人が○島を使えとの指示をしたという事実があつたことを証言したのではないのである。また○島に持たせたメモにも同人を採用せよということが書いてあつたとは如何なる証拠によつても出ていないのである。
それなればこそ、被告人の方から、十日位の後千一夜で○島の姿を見た時、やめさせろといわれているのである(大野公判)被告人川田が○島を採用する意思のなかつたことは、本人の供述のみならず、関口証人の公判証言で裏付けるのである。即ち、
(1) 「二人が帰つたあと、大井の大野から電話がある筈だ、その電話があつたら断つておけと被告人から言われた事実(三〇七丁)
(2) 「川田社長は、○島を大井の方で採用したことに対し、後で、腹を立て、私が大野に電話で、社長の伝言を忘れていたことにつき、お前電話をしておいたかときかれ、しませんというと、何故しなかつたかと叱られた」事実(三〇七-三〇九丁)
(3) 「川田社長はママの葬式の時の義理で、竜崎に紹介状を書いたので、○島を採用する意思はなかつたと思う」(三〇八丁)
以上によつて、原判決が、被告人は○島婦○好を大野をして採用せしめたとして行為者の責任を認定しているのは全く事実誤認である。
原判決は第一事実、第二事実とも、被告人や木村貢等の行為が如何なる「業務に関するものなりやを一審判決が判示していなくても、「原判決の事実摘示が、所論摘示の文言を包含しているから、自ら明らかである」としているが、原判決を通読しても所論摘示の文言はどこも見出し得ないのであつて、この文言を包含しているとせば、何処にあるのか、指摘されたい。
これを要するに一審も二審も、被告人や木村貢の行為が株式会社川田商会の業務に関するものなりや、被告人妻名義の千一夜に関するものなりやを毫も判別していないのであるから、これを各判決に記載する由もなかつたのである。
もしそれ、第一、第二事実とも大井の千一夜の業務に関するものとせば、その経営名義人は川田静子であるから、第一事実に事実上被告人がタッチしたとしても、それは川田静子の業務に関する使用人的地位における行為者責任と見なければならない。
しかるに、第一事実を被告人自身を自己の業務の行為者と認定している、第二事実も亦自己経営の業務に関する使用人木村貢の行為に対する業務者の責任を認定していることは、重大な事実誤認である。
第五点量刑不当
一審判決は第二事実につき、被告人を使用人の行為に対する業務者責任として罰金二万円に処しているのに対し、第一事実については、業務主被告人自らの行為者責任として、懲役六月(三年間執行猶予)に処している。
これは第二事実が、使用人の行為に対する業務者の両罰責任の転嫁であるのに比し、第一事実の方は業務者被告人自らの行為者責任として犯情を重く見られたためであろう。
しかし乍ら被告人、弁護人が第一審公判以来主張の如く、本件千一夜が被告人妻名義の営業にかかるものである以上、他人名義の営業に関する行為であることにおいて第一、第二事実とも変りはないのである。第二事実は川田静子の業務に木村貢が関与し、第一事実については同じく被告人が間接的に関与したにすぎないのである。
しかも、被告人の意に反して採用された○島は住民票や、戸籍謄本を持参しない為、採用者大野自らこれを督促し、(公判二二八丁、二三〇丁、二三一丁)被告人自ら、同女の姿を大井の千一夜で認め、直ちに解雇を命じ、見習採用後僅か十日にして解雇しているのである(○島公判一〇二丁、川田公判四〇二丁、検四二二丁、大野公判丁)
一方第二事実は、○栗、○井の二名の採用に関するものであるが第一事実は僅かに○島婦○好一名にすぎない。
しかも竜崎なる知人の紹介もだし難く五反田に来た同女を千一夜に廻して遠きよくに断ろうとしたというような事情の下における採用経緯を勘案すれば仮に有罪なりとしても何故第二事実と同じく罰金ではいけないのか、第一事実のみに懲役刑を選択しなければならない何等の理由を見出し得ないのである。
いわんや一審公判で顕出出来なかつた有利な証拠、殊に、原審での証拠申請書中(三)の各種表彰状等((1)-(8))は被告人夫妻が決して、原判決認定の如く私益の追及のみに糾々たるものにあらずして、在住四十年に垂んとする郷土公共社会の為に尽力した功績を物語つている。
おもうに刑の量定は控訴判決時を標準とする。けだし刑訴法三八二条の二、三九三条は、第一審判決後の刑の量定に影響を及ぼすべき情状証拠は、第一審中に止むを得ず提出出来なかつた事由を疏明して、控訴審に提出することが出来、また提出された場合にはこれを取調べなければならないのである。
しかるに控訴審で弁護人は一審で提出出来なかつた、証拠(一)-(十一)までを提出してこれが採用されているのである。
この中には浴場経営者として正規の許可あること(七)、労働基準法に則り詳細な就業規定をつくつていること(四)(五)(十)(十一)及公共事業に尽した功績の証明(三)である。
原判決は、右就業規則を被告人の不利に援用したのみならず、表彰状等の公共への功績に対し「公共事業に尽した実績」や「所論指摘の諸般の情状を被告人の利益に考慮しても、原判決の量刑は相当であつて、当裁判所でこれを過重であるとして軽きに変更すべき事由は発見出来ない」として、第一審の量刑を支持しているが、これだけの有利の情状を原審で考慮しており乍ら、何故第一審の刑を軽減しないのであるか、その理由を解するに苦しむ。
果してかくの如くんばこれら原審にあらわれた有利の証拠を全く無視しているものというに帰する。
第一審と第二審とで、証拠上の差を生じ、それが有利と認定された場合は、一審判決を破棄して、相当な量刑をし直すことが正義に合する所謂であつて、もし、これを破棄しないで一審の判決を維持することは正に明らかに正義に反するものといわざるを得ないであろう。
今や被告人は全く、自己の法の不知不明を恥じ、業務遂行上あらゆる方策を構じて改善更生の途を進めつつあり、家庭では妻静子と共に成人ざかりの子弟の教育に専念しつつあつて、再犯のおそれはたえてない。
以上あらゆる論点から見ても原判決は破棄せざれば著しく正義に反するものがあるから、何卒破棄の上相当の判決賜り度く上告した次第である。