大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和52年(オ)362号 判決 1977年6月28日

上告人(被告)

小柳良一

被上告人(原告)

藤原金二郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人宮本誉志男の昭和五二年三月一一日付及び同月一七日付各上告理由書記載の上告理由について

本件交通事故の発生について加害者である上告人に過失があり、被害者である被上告人との過失の割合が七対三であるとした原審の認定判断は、原判決の挙示する証拠及びその説示に照らし、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 岡原昌男 大塚喜一郎 吉田豊 本林讓 栗本一夫)

上告理由

上告代理人宮本誉志男の上告理由書記載の上告理由

論旨第一点

法令違反

原判決は本件事故における上告人と被上告人との過失割合を被上告人の三に対して上告人七とし、被上告人の受けた損害合計金四二九〇、五五二円の七割である、

金三〇七三、三八六円の限度で上告人に負担させることとし、これに対し上告人の弁済金、保険金合計金二五二〇、〇〇〇円を支払つたこととなるから、これを控除し結局、金五五三、三八六円の残額を賠償すべきであるとした一審判決を認容して控訴棄却の判決をした。

然し、これは原判決の重大な事実を誤認した法令の適用を誤つたものである。

その理由

その(一) 法令(並びに条理経験則)の違反

(イ) 原判決は上告人に七割の過失があるとし、停車中のバスの後方から老幼を問わず、人が路上に出て来ることがあるのを当然予測して安全な方法で運転すべきであつた、とするのであるが、かくの如き原審の見解は自動車というものに対する認識の十分でなかつた当時における社会観念である。

仮りに然らずとしても、事故の発生を未然に防止するため理想的方法を想定した見解である。

然し今日においては、自動車に対する社会的の認識は進歩し、原判決の見解と異り、バスの後方から対向車線の安全を確認しないで道路を横断せんとすることの危険であることは今日では社会的の常識となつて、このような危険を犯すものは皆無とはいえないにしても稀有のこととなつておる。特に行政の末端である町内会には、交通安全母の会というものを設け事故を防止し交通の安全を図る手段を講じてあり、小学校、幼稚園に至るまで交通安全教育が施され道路交通上何が危険であるかについては周知徹底されておる。

従つて一審判決及びこれを認容した原判決の云う如く停車せるバスの後方から飛び出して道路の横断を企てるもののあることは当然のことの如き見解にて、自動車運行を規整せんとすることは、過去においてはともかく、今日の国民感情には適合しない。

これでは自動車の運転者に対する不当の注意義務を強いることとなる。

夜間幼児が道路上を歩行するものは先づないであろう、誰にしても前照燈をつけておれば、その進路前面に飛び出すものがあるなどと考えるものは先づあるまいからである。

下級裁判所の判例においても六、七歳の幼児と雖も、停車中のバスの後方から飛び出して道路を横断せんとすることの危険の認識あるものとして幼児の過失を対向車以上に認めておる。(後記参考判例参照)

原判決にしろ、一審判決にしろ、停車中のバスの後方から飛び出して、道路を横断しようとすることは、当然あることであるから、これを予想して疾走しなかつた運転者に七割の過失があるなどとする見解は今日の交通秩序を無視し一般運転者に及ぼす影響は重大なものがある。

(ロ) 原判決は重大な錯覚に陥入つたものである。

(1) 原判決は本件事故現場を交差点と誤認したものではあるまいか。

被上告人が飛び出して横断を企てたところは、横断歩道ではない。

従つて歩行者たる被上告人に優先通行権はないところである。

(2) 本件は停車中のバスであるが、道路端には普通乗用車が停車しておることもあれば、トラツクが停車しておることもある。

これらの車から下車し、これらの車の後方から飛び出して、横断を企てる場合もあるかも知れない。

本件の場合と大差はないが、これらのすべての場合、対向車に徐行義務があり、飛び出した者の過失は徐行義務を怠つたものの過失より軽減して考えてくれるとすれば誰しも当然とは云うまい。

(3) 原判決は被上告人に対する認識を誤つたものではあるまいか、被上告人は当時まだ五〇歳に満たない思慮分別ある成年男子であるが、前にあげた参考判例の場合は、みな幼児に関するものである。(しかも昼間の出来事である)被上告人を幼児以上に保護する結果となることは奇怪である。

不当である。

(4) 事故時に関する認識を欠いておる。

事故時は夜八時二〇分頃とされておる。又この時刻に老幼がバスの後ろから飛び出して道路を横断せんとするものは普通ではあり得ないことである(この点が顧慮されていない)況んや上告人は前照燈をつけて疾走していた、しかも対向車に対する関係上これを点滅しつつ疾走していたという、すると上告人の車がバスの影になつていても、点滅の前照燈は地面にそのまま照射されるから、誰にもすぐ判る筈である。

すると被上告人は、上告車に対しては一片の顧慮も与えずして飛び出したことを証明しておる(原判決は前照燈の光がその前方におる車や人に対して最上の警戒になるということの認識を欠くものである。)

歩行者の過失を判断する場合に顧慮すべき肝要事である。

(5) 本件は上告人が徐行すると否とに関係なく惹起していたものである(被上告人の無謀の飛び出し事故である。)

(一) 上告人の前照燈を見ていない。

(二) 被上告人は乙第五号証(実況検分調書)によると、上告車が<1>に来たとき(A)に飛び出し×において衝突しておるようである。

すると<1>~(A)の間隔は僅かに五・五米にすぎない。これでは仮令上告人が四〇粁の速度を三〇粁に落していたとしても停車することは不可能であるが、上告車を全然見ていないのであるから、上告車の速度には関係がない、また(A)~×の間隔は二・二米となつておる、

然し被上告人には制動距離というものは不必要であるから危険だと見ればいつでも足を停めるか、はたまた一、二歩方向を変えさえすれば、上告車との衝突は充分避けられる筈である。

前段の説明の如く前照燈の光を見ていないこと(見ておれば飛び出すまい)と右のことを合せ考えると被上告人は自分だけの道路とでも考えてか、左方のことは全く考えないで右斜めの方向にある灘崎町農協給油所に向つて飛んで行かんとしていたものと断じて差支えない。

被上告人は思慮分別盛りの年輩に達しておりながら道路交通の危険に対して警戒心は一切有していないかの如く無謀な横断方法を採つたものである。このようなものの存在を念頭において運転しなければならない注意義務はない、―危険分担の原則無視―信頼の原則違反の横断方法である、このような者の相手となつた者は誠に迷惑至極の話である。裁判に当つてはこのようなことは理解して貰ねば救れない自動車運転者に特別に老幼者だと判り得る何かがあれば格別だが、普通の常識あるものは誰でも前照燈に向つて来るような者はなく安全な通行方法をとつてくれるものとの信頼と期待とを以つて運行すれば足るものとすべきである。この信頼と期待なくして自動車交通の安全は保たれない。信頼の原則は夜間前照燈をつけて走つておる場合には最も適切に適用されなければならない。

その(二) 原判決の重大な事実誤認と法令違反の要約

前段にて説明の如く原判決は

(イ) 停車中のバスの後方から飛び出して道路を横断せんとすることの危険なることの認識は今日においては周知徹底しておるから原審(一審裁判所も又然り)の認定するように当然なことと考えないで徐行しなかつた対向車の前面に出て、これに衝突したものとの過失割合について、重大な誤認の違法を犯しておる。

昼間における幼児の場合以上に思慮分別ある成人を有利に保護することとなるが如き原審の判断は自動車運行に関して重大な悪影響を及ぼすこととなる

(ロ) 右の如き原審の重大な誤認は

(1) 事故現場を交差点と同様に錯覚に陥入り、歩行者なるが故に優先横断権あるものと考えたのではあるまいか。

(2) 原審は本件事故時を夜昼の区別なく同様に律し得るとの錯覚に陥入つたものではあるまいか。

七月の夏とはいえども八時二〇分ともなれば真暗の時刻である。こんな夜幼児が保護者なくバスの後方から飛び出して道路の横断を企てるものもあるまい。

特に夜間は前照燈をつけて疾走しておる自動車の前面に飛び出すような無謀者は先づない筈である。それは対向車が速度を遅くとも、早くとも同様である。

然るが故に夜間前燈をつけて疾走しておれば、その前面に走り出てこれと衝突の危険を敢てするようなものはないと信じて運行したとしても断じて常識外とは云えない。

それが幼児でもあれば格別、五〇歳近い成人の被上告人はそれでも幼児以上に保護せらるべき理由が、どこにあるのであろうか。

被上告人の如き無謀者は上告人が徐行するとしないとに関係なく事故は惹起する可能性はある。

交差点でもない道路において夜間前照燈をつけて疾走する自動車の五、六米前方に飛び出して、それに衝き当つておいて、お前が徐行していないからとは如何なることであろうか。

しかも停車せるバスの後方から老幼に至るまで飛び出して道路の横断を企てるもののあることは当然でもあるかの如き論法を以て無謀者が保護せられる裁判がなされるにおいては交通秩序は保たれまい。この意味から云うなれば、両者の過失割合は原審とは全く逆にならなければならない。

(3) 原審は被上告人の損傷に対し五十数万円の補償を命じたこの些細なことを争うとは以つての外のこととでも考えられた上の判決かも知れない。

然し、如何に少額と雖も裁判は正義の実現であることは大小に拘らず、公正に処理さるべきである。

況んや高等裁判所の判決は多くの下級裁判所の模範とされるべきものである。原審が客観性のない一審判決を誤認し、上告人と被上告人間の過失の割合の認定を誤つたことは、法令、条理、経験則に違反するものであるが、この違反は判決に影響することが明かである。

依て原判決は破棄さるべきものである。

その(三) 上告人の過失を認定の前提をなす注意義務は重大な誤認であり、違法である。

原判決は一審が支払を命じた些細な金額を執抑に争うことに反発の意味で請求棄却の判決をされたのではないかと疑われる。

然し如何に小額の裁判と雖も当事者にとつては精神上物質上重大な関係をもつものであるし、同種の先例ともなるわけである。

然るに本件の如く一般の常識から云うならば、横断歩道でも交差点でもないところで、前照燈をつけて走つてくる対向車線に飛び出すような無謀なことをした思慮分別ある大人が対向車線を正常に走つておる自動車にぶつかつておるのに、それの過失は後者七対前者三というように扱われて、運転者以上に保護されるということは、金額の大小に拘らず、納得いたしかねるものがある。

こんな無謀者は、対向車線を走る車は全然眼中におかないで、横断しようとしたものであるから、対向車線を前照燈をつけて走る車の速度如何に関係なく事故は起つておる筈である。自動車運転者が居眠りをしていたり、脇見運転をして走行者に向つて突込んで来たのであれば、運転者を責められても止むを得ないかも知れないが、自動車は正常に運転していたものである。

歩行者は立ち停るか或は一、二歩左右に移動することによつて事故の危険は簡単に避けられることである。

原審はこの現実を正視しないで対向車の責任を重視し歩行者の無謀を看過されるのであろうか。

七対三という過失割合の前提は本件の如き夜間の道路交通には適合しない誤つた見解であり、判断の誤りである。

原判決の前提をなす上告人に対する注意義務では夜間の自動車交通を規整することは甚だしく不当である。

自動車事故に対する過失責任を究明するためには原判決の如き現実の事態と現実の社会感情に妥当しない見解を以つてせられることは、今日の自動車交通に関与しておるものは、裁判に衡正を疑わざるを得ないこととなる。

被上告人は、上告人の父と小学校の同窓ではあるが、普通の人ではない。上告人の父は後難を恐れて、云われるままに金を出した。然し際限のないこととて打ち切つたところ、調停に出し、裁判を起して来た、上告人の方で支払つた金すらも明かにせず、上告人の方で指摘するまで黙ておるほど不誠実なものである。

被告人の症状、得べかりし利益については、そのまま真実とは受取れない。

原審において、これらの証拠調を申請したが、却下された上の当を得ない過失割合の判断である、このような誤つた裁判が判例として遺されるならば、今後同種の裁判に当つて、公正な基準がなく、裁判官の主観によつて如何様にも左右されることになりかねない。

要するに、原判決の上告人の過失を認定すべき注意義務は架空というか、抽象的というか、現実に即しない誤つたものである。即ち夜間前照燈をつけて、疾走する上告人と歩行者たる被上告人との関係における注意義務を前提として両者の過失割合を判断すべきである。原判決のこの点の誤りは法令の適用の誤りに当り、しかもこの誤りは判決に影響することが明かであるから、原判決は破棄すべきものである。

(添付書類省略)

上告代理人宮本誉志男の上告理由書(追加分)記載の上告理由上告理由第二点

原判決は、理由不備又は判決に付すべき理由を付けないか乃至は理由に齟齬がある。

(一) 原判決は前上告理由書記載の如く「停車せるバスの後方から老幼を問わず、人が路上に出て来ることがあるのを当然予測して安全な方法で運転すべきであつた」

(二) 「上告人は対向車の前照燈灯により前方状況の把握が困難になつていたのである」

からなおさら、減速運転すべきであつたのに、前記速度のまま進行したのであるから、被上告人が分別のある成人であり、時刻が夜であることを考慮しても、上告人七、被上告人三の過失割合を変更すべき要を見ないと判断しておる。

一 然し本件は夜間の事故である。上告人は前照燈をつけて疾走していたものである。

その速度が大であろうと、小であろうと前照燈をつけて疾走しておる上告車の前面に飛び出して、これに衝突しておいて、どうして飛び出したものの過失が軽減せられるという理由が不明である。

若し上告人を責めるのであれば、何故原審は上告人が前照燈をつけて疾走中であつたという具体的事実を前提として、上告人の過失を認定すべき注意義務を想定して、被上告人との過失と対比して論ずべきではあるまいか。

原審の認定した上告人の注意義務は、本件事故に対する上告人の過失を判断をなすべき注意義務ではない。

原審の上告人に科した注意義務を以つてしては、本件事故に関する上告人の過失の判断は不可能である。

上告人が前照燈をつけて疾走しておるその前面に、老幼にしても成人にしても苟も常識あるものは、車のその前面に飛び出して、これに衝突の危険を犯すものはない筈である。然るに原判決は老幼はもとより、人は誰でも飛び出すもののあることは当然なことの如く、架空の注意義務を想定して上告人の過失を断定したことは、原審の錯覚であつて理由不備か乃至は理由の齟齬あるものである。

二 又原判決は昼間であると夜間である、はたまた分別ある成人であると否に拘らず、上告人の過失が七で被上告人であることに変りない、とは自動車事故を公正に処理せんとの意思を窺い知ることができないと自動車事故の原因はこのように大ざつぱに片付けられるのでは困ることである。

上告人は何故徐行しなければならないか、その理由を知ることができない即ち

(1) 上告人は前照燈をつけて疾走しておるのであるから、正常な意識をもつものである限り、その前面に飛び出してくる無謀者はないと信じて疾走して可なる筈である。

(2) ここは横断歩道でもなければ、交差点でもない。

そこを前照燈をつけて疾走したとて少しも間違はあるまい。

(3) 前照燈をつけて疾走中の上告車の前面に飛び出した被上告人の過失が重大視されずに上告人の過失が大なりと責められるのか合点が行かない。

(4) 況んや昼であろうと、夜であろうと上告人の過失に変りないとする理由は何一つとして説明されてもおらない。

(5) 被上告人が分別ある成人である否とは関係がないとはこれ又無謀な話である。

原審は本件事故が夜間で上告車は前照燈をつけて疾走していたことに対する認識を欠いたものである。

前照燈をつけて走つてくる自動車に対する危険感こそは幼児であろうと成人であろうと変りはないかも知れない。

然し、これとの衝突を回避せんとする判断能力に至つては同一とはいえまい。

以上原判決の理由は本件事故に関する右の(1)~(5)の如き、特種性に適合する注意義務を想定しないであり得ない架空の事実を前提として、上告人及び被上告人の過失を不当に比較判断したことは、判決の理由不備乃至理由をつけないか、はたまた理由齟齬の違法がある。この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄すべきである。(夜間前照燈をつけて疾走する自動車に向つて、老幼はおろか、成人に至るまで飛び出すのが当然だとするような判決理由は許されない。)

上告理由第三点

法令違反

具体的に本件に妥当する注意義務が架空である。

原判決が上告人の過失を認定するに当り、上告人の遵守すべき注意義務として掲げるところは、夜間前照燈をつけて、疾走中の出来ごとである、かくの如き場合に妥当する注意義務を前提としないで、不当な注意義務を想定して、上告人の過失を不当に認定したことは、法令の違反に当るが、同時に理由不備か乃至審理不尽に基いて理由をつけないか又は理由の齟齬の違法があることとなる。

更に交差点でもないし、横断歩道でもないところを、疾走中、歩行者が自ら上告車の前面に飛び出して、これとの衝突した以上飛び出したものの責任は重大である。

原判決は夜間前照燈をつけて疾走中である対向車に歩行者が、ぶつかつたとしても、それは夜間も昼間もないと十把一束的に対向車の責任だとする見解は誤つておる。

横断歩道でも、交差点でもないところで、どうして徐行義務が、あるというのであろうか。

厳格に云うなれば、上告人は免責さるべき立場にあるものである。

上告理由第四点

法令違反

原判決は上告人がバスの後方から老幼はもとより人が出て道路を横断せんとするもののあることは、当然予測し得るのに拘らず、同じ速度にて前進したとか、或は又対向車の前照燈にて前方状況の把握が困難になつていたのに、徐行せずに同じ速度にて進行したための事故であるから、被上告人が成人であるとか、時刻が夜間であることを考慮しても上告人と被上告人との過失割合を変更すべき要を見ないとするのである。

然し、これはこれまで反復説明した如く、本件において、上告人の過失を認定すべき前提即ち過失の構成要件に該当する事実は全く架空のことをあげて、事実認定をしたものである。

その理由をあげると

その(一) 自動車運行に関する過失を認定するに当つては、その時刻が夜間であるか、昼間であるかによつて重要な差異があるのであるから、夜も昼も変りがないというのは、余りにも経験則に反する。

その(二) 昼間においても、今日の社会常識では、バスの後方から飛び出して対向車線を横断しようとするものは、先づないと信じて差し支えない、信頼の原則はこの場合に妥当する。

然るに本件の場合には、夜間である、前照灯をつけて疾走する車の前面に飛び出すような、無謀者があるなどと考えるものは先づあるまい。

その(三) 上告人は対向車が前照灯を上に向けて疾走して来ておるのを、見て自車の前照灯を点滅させていたとは、云つておるが、そのために前方の状況把握が困難になつておるのに、徐行しなかつたというのであるが、然しそのために前方の把握が困難になつていたとか、徐行しなければ、ならぬような事態になつていたというような事を云われるような状態ではなかつた。

仮りに、かくの如きことを供述した如く記載されてあつたとしても、そのようなことはあり得ないことである。

このようなことで、対向車(それが停車していようとも、疾走していようとも)と擦れ違う都度、徐行しなければならないこととなれば、自動車交通は、一体どうなるであろうか。

自動車運行の実際を離れての理想にてことを断ぜられるのでは、当事者は立場に窮することとなる。(現実の事態に即したことが、前提とされなければならない)

その(四) 仮りに上告人の前方の状況の把握が困難だつたとしても、その進路前方五、六米のところに、右斜めから飛び込んで来られるのでは、どうにも防ぎようもない筈である。

被上告人は上告人の対向車の通過を待つて、上告人の前面に飛び出したものであるから、寧ろ事故の責任を被上告人が全面的に負うべき性質のものである。

その(五) 次に成人であろうとなかろうと関係がないというのも暴論ではあるまいか。

特に下級裁判所の判例においても六、七歳の幼児に至るまで、危険に対する認識あることを認めておる以上成人たる以上、尚一層危険の認識はある筈である。老幼とは格段の相違がある。

その(六) 本件事故現場は交差点でもないし、横断歩道でもない。すると、上告人の徐行義務は加何なる根拠によるものであろうか。

以上の諸事情に照らすときに、上告人は前照灯をつけて疾走しておる自動車の前面に飛び出して来るものがあるなどと、誰が想像するであろうか。

以上原判決の云うところの上告人の過失認定をなす注意義務は、上告人の場合には符合せず全く架空の事実をあげて、上告人の過失を認定したものである。

従つて、原判決は過失を認める前提を誤り、あり得ない、架空の事実を想定して、上告人の過失を認定した違法を犯したものである。

このことは、過失の有無の判断は事実誤認の問題であると同時に、法令の適用の誤りにも当る。もとより、この誤りは、判決に影響を及ぼすことが明かであるから、原判決は破棄すべきものである。

以上

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