最高裁判所第二小法廷 昭和53年(あ)1084号 決定 1979年11月19日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人泉川賢次、同畑口絃、同大熊良臣、同川下宏海の上告趣意(総論)第一、第二、(各論)第二について
所論のうち、憲法三一条、三九条違反、判例(昭和四八年(あ)第九一〇号同五〇年九月一〇日大法廷判決・刑集二九巻八号四八九頁)違反をいう点は、刑法一七五条にいわゆる「わいせつ」とは、徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいうこと当裁判所の判例(昭和二六年(れ)第一七二号同年五月一〇日第一小法廷判決・刑集五巻六号一〇二六頁、昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁)とするところであり、同条の構成要件が所論のように不明確であるということはできないから、所論はいずれも前提を欠き、その余の判例違反をいう点は、原判断にそわない事実関係を前提とするものであつて、すべて適法な上告理由にあたらない。
その余の上告趣意について
各所論のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例は、所論の趣旨まで判示するものではないから、所論は前提を欠き、その余は、憲法二一条、三一条違反をいう点を含め、実質はすべて単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。
なお、本件各モーテル用ビデオテープが刑法一七五条にいわゆる「わいせつの図画」にあたるとした原判断は、正当である。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(木下忠良 栗本一夫 塚本重頼 鹽野宜慶)
弁護人泉川賢次、同畑口紘、同大熊良臣、同川下宏海の上告趣意
《目次》
(総論)
第一、猥せつ概念の現代的意義と判断基準
第二、憲法第三一条と刑法第一七条との関係
第三、憲法第二一条(表現の自由)と刑法第一七五条との関係
第四、本件ビデオテープの描写方法
第五、原裁判所が本件に取組む姿勢には根本的に誤りがある。
(各論)
第一、第一審判決と原判決の判断課程
第二、原判決は憲法第三一条及び判例に違反し破棄されるべきである。
第三、原判決は憲法第二一条及び判例に違反し破棄されるべきである。
第四、原判決は猥せつの解釈に関し判例に違反しかつ法令の解釈に誤りがあり著しく正義に反するから破棄されるべきである。
第五、原判決は犯意論につき法令解釈に誤りがあり著しく正義に反するから破棄されるべきである。
第六、原判決には判決に影響を及ぼすべき訴訟手続上の法令(刑事訴訟法第三一七条、第二九四条、第三〇五条)の違反がありこれを破棄しなければ著しく正義に反するので当然破棄されるべきである。
(むすび)
(総論)
第一、猥せつ概念の現代的意義と判断基準
本件は、映画・ビデオテープ等の制作・販売・興行等を業とする日活株式会社の製作・販売に係るビデオテープ「ポルノコンサルタント」、「ワイルドパーテイー」、「火曜日の狂楽―赤坂の女」、及び「ブルーマンシヨン」と各題する四作品が、刑法第一七五条所定の猥せつ図画に該当するものとして、当時同会社のテレビ本部ビデオ事業部長として同社の制作にかゝるビデオテープにつき、その企画・制作・販売等の業務を担当していた被告人鈴木平三郎が、猥せつ図画販売罪の刑事責任を問われている案件であるが、同法案の解釈・適用については幾多の問題がある。その主要なる問題を摘示すれば次の通りである。
刑法第一七五条所定の「猥せつ」なる概念は甚しく不明確であつて把握し難い。
大審院判例の趣旨を踏襲する、昭和三二年三月一三日言渡しのいわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判例の示す三要件によつても、不明確な点では同様である。
しかも、同判例によると「猥せつ性」の判断基準は、社会通念であり、社会通念は時の経過に伴い変化するというのである。
そもそも本件は、昭和四六年十二月二三日頃から同四七年一月一五日頃にかけての行為である。
しかし同判決言渡し後、既に十数年の歳月を経過しているのであるが、偶々この頃は激動の時代といわれたくらいに、我が国の社会情勢は海外の風潮と共に、政治・経済・文化・風俗の各分野において激しく変化しつゝあつた時代である。
性の自由化の風潮も決してその例外ではなかつた。映画「黒い雪」が上映されたのは昭和四十年のことであつたが、性表現の状況はその後一、二年にして映像部門のみに止らず、各分野において世界的風潮として急速な昂りを示し、我が国にも影響を及ぼすに至つた。この性表現(ポルノ解禁)の波は北欧のスエーデンやデンマークに発し、西ドイツを経てアメリカに浸透し、その余波が日本に及ぶという方向を辿つたのである。そして、このポルノ解禁の波は日本国内においては単に映像部門に限らず、むしろ雑誌・週刊誌・小説等の媒体により、ひいては各家庭のテレビにまで及び、深夜並に昼メロ時間帯といわれる時刻に描写、放映されるものゝ中には、俗にいう相当どぎつい場面が公開されるに至つたことは公知の事実である。
従つて、この判決当時における社会通念即ち「猥せつ性の判断基準」と、その後十数年もの長期間激しい社会情勢の変化という洗礼を受けてきた「現代における社会通念」との間には、相当の距りがあるわけで、これを同一に視ることは到底許されないところである。
しかも、この最高裁判例に対しては、幾多有力な刑法学者の反対意見があるばかりでなく、問題の原著書は、同判決の三年八ケ月後の一九六〇年一〇月本場のイギリスにおいて、その無削除版の販売に対して無罪の判決が言渡されている。
また、アメリカ合衆国においては、その前年の一九五九年に自由販売が堂々と許されることになつたのである。
この事実は一体何を示すものであろうか。蓋し、この最高裁判決の判示する「猥せつ性の判断基準」も、決して確定不変のものではなく、既に社会情勢の変化に照し変更さるべき時期が到来したものと思料されるのである。
少くとも、具体的事件に対しこの判断基準即ち社会通念を適用するに当つては、その時点における社会の良識即ち社会通念を適格に把握しなければならない。
第二、憲法三一条と刑法第一七五条との関係
憲法第三一条は、わが憲法が罪刑法定主義を採ることを明かにしていると解するのが一般である。
罪刑法定主義は、必然的に犯罪構成要件が条文上、または条文解釈上明らかにされていることを前提とする。ただ構成要件は、法律の文言によつて一般的に明らかにされることが望ましいが、必ずしもこれに限らず具体的事案における法律文言の解釈及び解釈に関する判例の集積によつて、明らかにされればこの前提は満足されると弁護人は考える。
この点につき、「およそ刑罪法規の定める犯罪構成要件があいまい不明確のゆえに、憲法第三一条に違反し無効であるとされるのはその規定が通常の判断能力を有する一般人に対して禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのためその適用を受ける国民に対して刑罪の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、またその運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等重大な弊害を生ずるからであると考えられる。しかし一般に法規は規定の文言の表現力に限界があるばかりでなくその性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罪法規もその例外をなすものではないから禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえある刑罪法規があいまい不明確のゆえに憲法第三一条に違反するものと認めるべきかどうかは通常の判断能力を有する一般人の理解において具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。」との見解がある。
これは、公安条例中の罰則規定の構成要件の明確性に関する最高裁昭和五〇年九月一〇日、大法廷判決(最判二九巻八号八九頁以下)における多数意見である。
猥せつ罪においても、その具体的適用においては憲法第三一条の観点に即して、構成要件が明らかとなつているか否かについて、充分な検討がなされる必要があるのはいうまでもない。
第三、憲法第二一条(表現の自由)と刑法第一七五条との関係
刑法第一七五条の解釈適用、特に猥せつ性の判断基準の把握に際しては、憲法第二一条所定の表現の自由との関係を離れて考えることは許されない。
弁護人も憲法第二一条の言論、出版その他の表現の自由は、絶対的なもので何らの制限を受けるものではないと主張する考えはない。
しかしながら、憲法第二一条の保障する表現の自由は、憲法の保障するその他多くの基本的人権とは異なり、民主主義の基礎をなす極めて重要なものであると思料する。
公共の福祉の要請に基き、法律によつて制限されることが条文上明らかにされている職業選択の自由や居住移転の自由などとはその性質を異にするものである。
表現の自由を制限できるのは、憲法が要請する他の個々人の基本的人権と抵触した場合にだけ例外的にと考えられるのである。(これを以て公共の福祉に基づく制約といおうと、表現の自由に内在する制約というかの当否はここでは論じない。)
刑法第一七五条はまさに憲法第二一条で保障された表現の自由を制約する規定である。従つて、憲法第二一条の右趣旨を素直に反映すると刑法第一七五条によつて守らるべき法益が過度に侵犯され、法の発動によつてしかその侵犯状況が回復しえない状況に迄達した時点において同条は発動され、従つて又同条にいう「猥せつ」もかゝる限定の下に解釈されなければならないのである。ところで、同条の保護法益は健全な性秩序、性道徳といわれている。およそいかなる思想、感情等も個人の周辺をとりまく環境の変化に伴ない変化することは歴史の示すとおりであり、性に対する思想、感情もその例外ではない。いかなる環境の変化にも拘らず厳として存在する性秩序とか、性道徳とかいうものがある訳でもない。(一、二審において検察官は、チヤタレー事件の判決にいう「性行為非公然の原則」がこれに該当するかの主張をなすが、同判決を熟読してみても結局「性行為を人前でしない」というだけのことで、原則などという大層なものでもないし、まして「性行為を人にさらさないものである」ということが、原則という言葉が本来有する「基準として不動のもの」であるというのは、前述のとおり誤りである。)
従つて、健全な性秩序とか性道徳とは一体何を示すのかを、根元的に問い直す必要も存するのである。しかし、いずれにせよ本来性道徳は宗教、教育、道徳というような社会規範により律せらるべきものであるから、社会規範の律するところに委ねておけない程に性秩序、性道徳が無視された場合に、はじめて同条の保護法益の侵害ありと解されなければならないのである。
因みに、チヤタレー事件最高裁判決もこの点につき正しく判示している。即ち「もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し法は単に法令秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法第一七五条が猥せつ文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのもかような趣旨に出ているのである」と。
すなわち同条にいう「猥せつ」の解釈、適用は、憲法第二一条を正しく適用するうえから、更に刑法が根元的に有する最少限度の道徳の維持という本来の目的から、出来得る限り且つ厳密になされることが要求されるのである。
因みに、昭和四四年一〇月一五日言渡しのいわゆる「悪徳の栄え」事件に関する最高裁判決の少数意見の中に、次に掲げるような傾聴に値いする意見のあることも看過できない。すなわち、「人間と性欲の関係は、深刻かつ微妙なものであるので、正常な性的社会秩序の維持は究極的には宗教、道徳その他社会良識にまつべきものであることに思いをいたすならば、性的刺激を伴う文書についても処罰の対象となる行為は厳にこれを制限することが望ましい。また、言論、出版その他一切の表現の自由は、憲法第二一条の保障するところであり、性的文書の頒布行為といえども右保障の例外ではなく、しかもこの表現の自由は憲法の保障する自由のうちでも極めて重要な地位を占めるものであることに鑑みれば、性的文書についても表現の自由を必要以上に制限することのないよう充分な配慮がなされなければならない。そして、以上述べたところは、刑法第一七五条の適用範囲を判定するに当つても、また違反行為の可能性を論ずるに際しても考慮されるべきものであると考える。」というのである。
まことに卓見であり、傾聴に値する見解と思料せられるのである。
第四、本件ビデオテープの描写方法
本件の各ビデオーテープは、その描写方法がいずれも直接的ないし現実的でなく、間接的、暗示的、連想的方法によるのであつて、俳優の演技場面を描写したに過ぎないものである。男女の性器そのものを描写したものは全くない。性交行為や性器愛撫行為を実際の性交や性器愛撫とわかるように描写したものもないのである。
単なる俳優の演技であつて、いわゆるブルーフイルムとは全く異なるものであることは一見して明らかなものである点、特に留意しなければならない。
第五、原裁判所が本件に取組む姿勢には基本的に誤りがある
原判決は、本件の審理に際し、特に慎重な考慮を必要とする叙上の諸点を全く無視し、或は看過し、第一審の無罪判決を破棄したうえ、改めて被告人に対し有罪判決を言渡したが、この判決には違憲、違法、判例違反の誤りがあつて、破棄を免れないものであるが、この点についての詳論は各論において述べることゝし、茲では、原判決の本事案審理における基本的姿勢の不当性を概観するにとどめたい。
すなわち、原判決は、刑法第一七五条の猥せつの観念についてはいわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判決の示すところの、「猥せつとは、その内容が徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するものをいう。」との趣旨を定義として踏襲すると説示したうえ、「これはその以降に言渡された最高裁判決、高裁判決でも引きつづいて踏襲した定義であつて、いまなおその変更を要する合理的理由はないから当裁判所もこの見解に従うものである。」と説示するのである。
思うに、これが本件に取組む原裁判所の基本姿勢を明示したものとみられるのである。
およそ、下級審裁判所が最高裁判所の判決を踏襲しようとする態度はむしろ当然のことであり、敢えて異論を唱える考えはないのであるが、原判決が「猥せつ性の判断基準」についても、チヤタレー裁判当時における社会通念に従つて判断すべきものであり、この点についてもいまなお変更する合理的理由がないというのであれば、それは正に独断かつ偏見であるというべく、その不可なる所以については既述のとおりである。
本件に取組む、原裁判所の態度は余りにも保守的であり、実体的事実を究めようとする熱意に乏しく、かつまた裁判官としての良心を失い、先例に対する安易な妥協と無批判的な踏襲に終始しているものとしか受取れないのである。
そして、この誤つた態度こそが、性表現に関する社会情勢の把握及び判断を誤り、ひいては本件ビデオテープの猥せつ性に関する認定を誤る結果となつたものと思料せられる。
そもそも、チヤタレー事件の最高裁判決は「性行為の非公然性」は「人間性に由来するものであり、どんなに未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献している。」とし、性行為非公然の原則という恰も「人類普遍の原則」が、刑法第一七五条の猥せつ性の判断基準となると判示しているのである。
しかしながら、右判決における真野毅裁判官の補足意見が正しく指摘するとおり、歴史的にも性行為非公然の原則は存在しないし、また現今他国においてはいわゆるポルノ解禁といわれて性交や性器それ自体を直接観覧させ、又は映像の対象として上映しても、刑事罰の対象としていないことは前述のとおり公知の事実である。
右の一事をとつてしても、チヤタレー事件の最高裁判決も――それが後に他の裁判において踏襲されているといつても――、常に変遷する社会情勢に照らして、検討され直す必要があるのはいうまでもないことである。
しかるに、そのような根拠も示さず、「変更する合理的な理由がない」との一言を以つて、チヤタレー事件の最高裁判決のいう抽象的な三要件に固執し、かつそこにのみ、判決の結論に対する正当性を求めようとする原判決は、極めて不当であること明白である。
(各論)
第一、一審判決及び原判決の判断過程
一、一審判決の判断過程
(一) わいせつの概念は時代の一般文化を背景として変遷する社会通念により定まる(判決書二丁表乃至二丁裏「わいせつの面画(又は文書)とは、これを看る者をして徒らに性欲を刺激興奮させ、又は正常な性的羞恥心を害せしめるという他人に対する心理的影響を与えるものであるから、わいせつの概念は社会通念によつて定まり、時代の一般文化を背景として変遷することを免れ得ない」)。
(二) この社会通念を知るには、巷間で公然と上映されている成人映画、一般書店で販売されているポルノ雑誌・官能小説の内容にあたることが確実な方法である(判決書二丁裏乃至三丁表「本件起訴の対象になつたビデオテープがわいせつ物に該るかどうか判断するに当つては、まずこれらが製作・販売された昭和四六年頃から現在に至るまでの間における一般市民の意識、感情をとらえなければならないわけであるが、これを直接的に把握することは不可能に近いので、巷間で公然といかなる内容の成人映画が上映されているか、また一般書店でどのような内容のポルノ雑誌や官能小説類が陳列販売されているかをみることが確実な方法である」)。
(三) そこで、ビデオテープ六本(「空中セツクス」「新妻」「華麗なる情事」「媚楽と女子大生」「愛欲天国」「うまい話にご用心」)、映画フイルム二本(「団地妻昼下りの情事」「女紋交悦」)、公訴権濫用の主張証拠のポルノ雑誌類、小説二冊(「ばれないように」「恋ざかり」)にあたつたところ、これら多数のものが公然と上映され、一般書店で販売されており、しかも取締りの対象ともなつておらず、一般大衆が特段の抵抗を感じない以上、もはやこれらをわいせつ物とみることができないというのが社会通念である(四丁表「公然と上映されたり、一般書店で販売されているからといつて当然にそれがわいせつ物とならないわけではない。しかしそれが数多くあつて長い期間取締りの対象にならず一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧、又は閲覧しているという状況があればそれはもはやわいせつ物とみることはできないというべきである」)。
(四) そこで、本件ビデオを右ビデオテープや映画フイルムと比較検討する(右社会通念にてらして検討するのと同義である)と「火曜日の狂楽」を除き両者を区別できるほどの質的相違又はいちじるしい量的相違があるとまでは認められない。従つて「ポルノコンサルタント」「ワイルド・パーテイ」「ブルーマンシヨン」はわいせつ物ではない(四丁表、裏「たしかに起訴されたビデオテープの方が演技の程度や表現の仕方について露骨さが強いということはできるが、弁護人提出のものについても露骨さはあるのであつて、その両者には本件起訴にかゝるものにはわいせつ性があつて弁護人提出のものにはそれが無いとか、又は本件起訴にかゝるものは公訴提起に価するほど違法性が強いが弁護人提出のものはそれほどのものでないとかいつた程度に両者を区別できるほどの質的相違又はいちじるしい量的相違があるとまでは認められない」)。
(五) 「火曜日の狂楽」についてはわいせつ物であると評価されても己むを得ないものであるが、被告人はわいせつ物に該当しないと信じて販売し、そう信ずるについて客観的に合理的理由があつたものと認め、犯意がなかつたものとする。
二、原判決の判断過程
(一) わいせつの定義はチヤタレー事件最高裁判決に示されたものを変更する合理的理由はないから、同定義をそのまゝ踏襲する。
(二) 右定義に合致するかどうかどうかの判断基準は社会通念であり、その社会通念とは「個々人の認識の集合又はその平均値ではなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものではない」ものである(三丁表、裏「そして、前示最高裁判決の掲げる定義に合致するかどうかを判断するための基準は、その説示のように「一般社会において行なわれている良識すなわち社会通念である。この社会通念『個々人の認識の集合又はその平均値ではなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものではない』こと原判決が判示しているごとくである」といえる」)。
(三) すなわち社会通念とは規範的概念である(六丁表「わいせつ性の判断基準としては、チヤタレー事件の最高裁判決が述べているように、一般社会において行なわれている普通人の社会通念であること、この社会通念は個々人の認識の集合は平均値でなく、これを超えた集団意識であること、社会通念は時代的・場所的の事情によつて変化することを是認しなければならないのである。このことは、すなわちわいせつ性の判断基準たる一般社会における社会通念とは規範的概念といわねばならないことに帰着する」)。
(四) 一審が定めたところの一般市民の意識・感情というものは、右の規範的概念たる「良識・社会通念」とは必ずしも合致しない。
(五) しかも、前一(三)記載の一審の判断(わいせつ物とみることはできない)は不当である。
(七丁裏乃至九丁表「たとば一定の期間)(この犯行の公訴時効の期間は三年)にわたり、ポルノ映画・ポルノ写真類等が検挙、起訴されなかつたとしても、それは全くわいせつ性がないからではなく、わいせつ性の度合が薄いから、取締当局において検挙、起訴を控えたとも考えられるし、また次から次に全国的に多数のポルノ映画・同ビデオテープや、数え切れない程のポルノ雑誌類がうたかたの如くに大衆の前に現われ、また姿を消して行くなかでどの映画、ビデオテープ、雑誌を検挙するか、なおどの程度以上のものを特に起訴するかについては、他への影響もあつて細密周到な考慮を払わねばならないのである。従つて不検挙、不起訴がそのまゝ、取締当局においてわいせつ性がゼロでると判定したことに結びつくものとはいえないのである。また「一般の大衆が特段の抵抗も感じないで、観覧又は閲覧しているという状況」があつた点についても、一般大衆は、映画、ビデオテープ、雑誌類を「つくる人」「与える人」ではなくて、主として営利企業体たる映画、ビデオテープ等の製作、販売会社ないし雑誌会社から「与えられる人」「提供される人」(もつとも有償ではあるけれども)である。そして、これらの映画、ビデオテープ、雑誌類を観覧、閲読して、或は著しく性欲を刺激せしめられるものがあるかと思えば、自分は快感を覚えながらも、未経験、未熟な青少年がこれを観覧すると、悪い影響を与えると考えたり、また嫌悪感と快感とを交錯して覚えたりするなど、多種多様であることが推定されるけれども、これらの大衆は、映画評論家等とは異なり、観覧、閲読後の感想、感情及び読後感を敢て表示することは稀であるし、またこれを公表する機会はほとんどないといえる。これらの事情を念頭におくとき原判決のいうように、直ちに「一衆大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧しているという状況があれば、それはもはや、わいせつ物とみることはできないというべきである」と説示することは、不当といわざるを得ない」)
(六) 一審が一般市民の意識・感情すなわち社会通念をとらえるに用いた方法及び本件ビデオテープのわいせつ性を判断するに用いた方法(社会通念を確定するのに巷間で公然と上映されている成人映画、一般書店で販売されているポルノ雑誌、官能小説にあたりこれを確定しようとした方法、並びに本件ビデオテープのわいせつ性を判断するのに証拠物たる映画、ビデオテープ等と比較したという方法)はその方法自体誤りであり、かつこれら成人映画、ポルノ雑誌等をわいせつ物でないとしたその基準も又誤りである(九丁裏「以上のように原判決が弁護人提出のビデオテープ、映画フイルム等につきわいせつ性の有無を判断するに際し、用いた方法ないし基準について誤謬がある……」)。
(七) 本件四本のビデオテープは刑法第一七五条にいうわいせつ性をもつ(一二丁裏「これら本件四本のビデオテープを前示の規範的な意味合いをもつ社会通念、すなわち良識に照らして判断すれば、いずれも刑法一七五条にいうわいせつ性をもつものと認めるのが相当である」)。
(八) 「火曜日の狂楽」について被告人に犯意があつたことは明白である(一八丁表「完成した本件ビデオテープの性愛場面の内容はすでに明らかにしたとおり全体としてきわめて大胆、露骨、執ように表現されているから、被告人が本件ビデオテープにおける性的描写のもつ意味内容を充分に知悉していたことは明らかであるといわねばならない」)。
第二、原判決は憲法三一条及び判例に違反し、破棄されるべきである。
一、総論第二で述べた公安条例に定められた構成要件の明確性の問題に関する前記最高裁判決は、本件においても重要な意味を持つものである。
(一) 弁護人は、前記公安条例判決の多数意見には後に述べるような問題があるものの原則的には賛成であり、まず右見解に従つて、刑法第一七五条の構成要件の明確性を考える。
すなわち、右事案ではデモ行進等につき「交通秩序を維持すること」と定める公安条例の規定が犯罪の構成要件として明確かが争そわれたのであるが、多数意見は、「文言だけからすれば『単に抽象的交通秩序を維持すべきこと』を命じているだけでいかなる作為不作為を命じているか、その義務内容が明らかにされていない」ことを認めながら、条例の目的等からして右規定で禁止されるのは、「殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為で」あるとし、「起訴された行為がそれに該当するか否か」は、「通常さほどの困難なしに判断しうるから、犯罪の構成要件として明確を欠くとはいえない」(傍点弁護人)と判示している。弁護人は、これらの判示は本件においても極めて重要と思料する。
何故ならば、わいせつ罪特に刑法第一七五条は、「性的社会秩序」を維持するために設けられた規定(チヤタレー事件最高裁判決はこの解釈を前提とする)であり、わいせつとは、性的社会秩序の維持に反するものをいう以上、この点は右の「交通秩序を維持すること」と全くパラレルに考えられるのである。
すなわち、右公安条例判決において、「交通秩序の維持」に反する行為というのは「殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為」を指すというが、わいせつ罪においては、「わいせつ」とはチヤタレー事件の量高裁判決にいう、いわゆる「三要件」に該当するものを指すというように云えるのである。この前提に立つて本件を考えると、起訴されたビデオテープ四本における性表現がわいせつの三要件に該当すると、「通常さほどの困難なしに判断しうる」と云えなければ「わいせつ」概念としての三要件、ひいては刑法第一七五条が、本件では犯罪の構成要件として明確でないと云わなければならないのである。
右公安条例事件においては、具体的行為例えばいれゆるうず巻きデモ、フランスデモをすれば殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為に該当し、「交通秩序の維持」に反すること「通常さほどの困難なしに判断しうる」と判示されている。
わいせつ罪の成否が問われる際に、具体的行為として例えば性器の結合を描写することは、現今の社会においては右におけるうず巻きデモ、フランスデモと同様わいせつの三要件に該当し、刑法第一七五条に違反すると判断するのに、「通常さほどの困難はない」とするのには異論はない。しかし、本件ビデオテープにおける性表現がわいせつの三要件を充足すると判断するのに、「通常さほどの困難がない」といえるであろうかという点については検討する必要がある。
弁護人申請の証人は、本件ビデオテープは、現今社会に存在する他の性表現と変らないものであるし、わいせつと思わない旨証言している。
これらの証人が「通常の判断力を有する一般人」でないという証拠はどこにもない。
そして、一審の裁判官は原判決と異なつて、本件ビデオテープは三要件を充足せず「わいせつ」でない(ただし、一本のビデオテープについてわいせつである疑いが強いと判示している)と判断しているが、一審の裁判官も「通常の判断力を有しない」というのであろうか。しかし、裁判官には一般人以上の客観的判断能力を要求されていると考えられるが、原審と異つた判断をなした一審の裁判官が、その後「通常の判断力を有しない」ということで、裁判官として資格を奪われたという話は聞いていない。それでは、一審の裁判官は「通常の判断力を有していた」が、たまたま解釈を誤つたというのであろうか。裁判官も人間であるから誤りはありうるものの、職業裁判官が判断を誤るような本件ビデオテープのわいせつ性について、一般人に「正しい」判断を求めることが、「さほどの困難がなかつた」といえるのであろうか。ましてや、当然のこととして、一審裁判官は時間をかけ、多くの証拠を調べた後判断しているのに拘らず、誤つた判断をしたというのであろうか。一般人がそのような判断の必要を生じた場合には、本件裁判において提出された如き十分の資料がないのが通常であるが、職業裁判官が多くの資料に基づいて誤つた判断をするような対象につき、一般人が「正しい」判断を「さほどの困難なしに、なしうる」というのであろうか。
確かに、「わいせつ」か否かは法的評価であり、その判断の基準につき、多審級の裁判官、同一審級における合議体の裁判官の間で必ずしも意見が一致しない(チヤタレー事件最高裁判決)ことはありえよう。しかし、法的評価において裁判官によつて見解が分かれるのは当然といつても、右公安条例最高裁判決が構成要件の明確性の問題として、具体的行為が法律に違反すること、法律解釈上、「通常さほどの困難なしに判断をしうる」ことを必要とすると判示している以上、本件においても、ビデオテープ四本が三要件に該当すると「一般人において、さほどの困難なしに判断しうる」ということが明らかにされなければならないのは当然である。
この点、原判決は何も触れていないし、後に述べるような抽象論のみを以つて「有罪」と認定しているが、弁護人は一審以来構成要件の明確性につき問題がある旨主張しているのに拘らず、この点を判断していない原判決は憲法第三一条、同第三九条及び右公安条例判決に違反し、破棄を免れえない。
(二) 次に、右公安条例に関する最高裁判決の多数意見に従うという前提ですら原判決は破棄を免れえないのであるが、右公安条例判決においても問題があるのである。
それは、同判決における高辻裁判官の意見に示されている点である。すなわち、「いうまでもなく刑罰法規の定める犯罪構成要件が明確であるかどうかの判断は、主として裁判規範としての機能の面でなく、その行為規範としての機能の面に着目しなければならない」という点である。
行為規範としての面に着目すれば、より一層、前述の「わいせつ」に該当するか否かが、行為者にとつて法律の文言及びその文言について示された裁判例(わいせつでは、右の三要件)に該当するか否かが、多数意見にあるような種々の考慮を重ねた結果の理解でなく、「素ぼくに感得するところの常識的理解」(高辻裁判官)によつて、可能でなければならないのである。果して、本件四本のビデオテープは、一般人が「素ぼくに感得するところの常識的理解」によつて現今の社会状勢下に照らしわいせつの三要件を満すといえるであろうか。
(三) 刑法第一七五条における構成要件の明確性については、昭和四六年一二月二三日最高裁判決が、チヤタレー事件最高裁判決にいう三要件のみを以つてその内容が明らかであり、罪刑法定主義を宣した憲法第三一条に違反しない旨判示しているが、この判決は、右公安条例最高裁判決に示される理由の限度において変更されたものというべきである。
なお、チヤタレー事件最高裁判決は厳密に云えば、憲法第三一条と刑法第一七五条との関係を正面から採りあげて判断していないが、チヤタレー事件最高裁判決も右三要件の抽象的定義は、判例の集積により意味内容が具体化されていくことを明らかに判示しているのである。
しかるに、原判決は抽象的な三要件を以つて事足れりとし、本件ビデオテープ四本の中のどの表現が三要件に該当するということも明らかにしないまま、単に刑法第一七五条に違反するとしているのは、具体的事案における、具体的表現が法に違反するか否かを明らかにしていくことを前提とするチヤタレー事件の最高裁判決にも違反する。
即ち、本件においては、一、行為時ないし裁判時における社会通念が何であるかを具体的に把握し、二、具体的に把握した社会通念を基準として、本件ビデオテープにおける表現の何れがチヤタレー事件判決の三要件に該するか否かが判断されておらず、刑法第一七五条の適用において憲法第三一条及びチヤタレー事件最高裁判決に違反があり、破棄されるべきである。
第三、原判決は、憲法第二一条、刑法第一七五条に違反し、破棄されるべきである。
憲法の保障する表現の自由と刑法第一七五条との関係については、総論第三で既に述べたところである。
この点に関し、アメリカにおいては表現の自由との関連が問題とされる場合、いわゆる「明白かつ現在の危険」の法理が検討されているが、本件の如き場合においても、この法理が当然適用されて然るべきものと思料する。チヤタレー事件最高裁判決が前記のとおり刑法第一七五条の処罰の根拠として「わいせつ文書は……性道徳・性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している」と判示するものの、法はそれらのうち「最少限度の道徳」のみを取入れたものであるとして、法の謙抑性を唱つていることは、単に法に違反するというには、性秩序を無視する危険性が存するというだけでは足りないことを云つていること明白であり、表現は異るものの、実質的には右「明白かつ現在の危険」の法理と同様の事柄を指向しているものということができる。
更に、右に述べた観点から、本件ビデオテープはモーテルという限られた目的の限られた場所において上映されたものであることにも着目しなければならない。
モーテルとは、日本においては一組の男女が宿泊又は使用する施設という概念は定着しており、本件ビデオテープはその一組の男女が宿泊又は使用する場所にのみ売られていたという点である。検察官は下級審でビデオ機器を設置すれば家庭でも放映しうると主張したが、上告人は、会社の方針に従い本件ビデオテープを右にいうモーテルに販売するよう指示し、他の顧客には売ることは考えておらず、現実にも販売してはいないのである(なお、モーテルが一般客の宿泊に利用され、青少年がビデオを見に行つたというが如き証言が一審であるが、これは証人の直接体験する事実に基づく証言でなく、証拠として価値がないばかりでなく、捜査をなした捜査官の証言であり、信用するに足らない)。
モーテルに限つて販売された本件において、憲法第二一条の表現の自由を規制するだけの内在的制約というか、公共の福祉による制約を正当化しうる法益の侵害又は明白かつ現在の危険は、一体どこに存するというのであろうか。付言すれば、モーテルが男女の性交を目的として利用されるものである以上、かような性表現をなしても「徒らに性欲を刺激する」という要件を具備しないとさえいいうるのである。
しかるに、原判決はこの点に関し、明白かつ現在の危険は勿論のこと、保護法益侵害に関する現実の危険性については全く顧慮することなく刑法第一七五条を適用したものであり、憲法第二一条に違反しているといわざるをえない。
ちなみに、わいせつ性は客観的に判断すべしというのがこれまでの判例であるが、例えば昭和四八年四月一二日最高裁判例は本に関するものであり、本はいかに学術書というような特殊の目的で作られても、書店に並べれば全ての顧客の目にふれる可能性があるのだから、学術書というだけでは、客観的に判断するべきであるという判旨も理解できる。
しかし、本件は右にいうモーテルで放映されるため販売し、それ以外には用いられることは考えられておらず、また販売されていなかつたのであるから、モーテルにおける使用を前提として、わいせつ性を判断することが右の判例には抵触することにならないと考える。
第四、原判決は判例に違反しかつ法令の解釈を誤り著しく正義に反するから破棄されるべきである。
一、刑法第一七五条の解釈とその適用について、チヤタレー事件最高裁判決を検討する。
すなわち、同判決では、(一)「著作自体が刑法第一七五条のわいせつ文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。問題の著作は現存しており、裁判所はたゞ法の解釈適用をすればよいのである」として、(二)「右判断をなす基準は社会通念であり(同判決書に「裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行なわれている良識すなわち社会通念である。この社会通念は「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものではない」こと原判示が判示しているごとくである」とある)、(三)「その社会通念の判断は裁判官に委ねられている」(同判決書に「かような社会通念が如何なるものであるかの判断は現制度の下において裁判官に委ねられている」とある)というのである。
弁護人は右判例の持つ正確な意を明確にするため、まずこれに関し数点述べておく。
(一) 法解釈と適用は厳密に区別して考える必要がある。
判示は右に引用したとおり「法解釈の問題である」なる文言を受けて、これ、すなわち「法の解釈・適用をすればよい」ことであると結んでいる。ということは、厳密な意味での法の解釈(刑法第一七五条の「わいせつ」をどう解釈するかという解釈)と法の適用(当該著作が果してかゝる「わいせつ」に該当するか否かの法の適用)を合せて、「法解釈の問題」と表現しているものである。
刑事法における厳密な意味での「法の解釈」については、基本的人権の保障という憲法上の大原則から、できうる限り客観的厳密になされなければならないという条件下に裁判所に委ねられているものであり、これ自身極めて難しいことではあるが、一方厳密な意味での法の適用については、「適用をすればよい」との表現から酌みとれるようなしかく簡単なものでないことを力説しておきたい。
適用に際しての基準も裁判官個人の主観ではなく、「裁判官としての良心」という裁判官個人の人格とは離れた、いわば別人格の有する主観だからである。
チヤタレー事件最高裁判決において真野裁判官は実に理論的にこのことを述べておられるので、茲に引用する。即ち、「一般的にいつてわいせつの法律上の意義内容を明らかにする正確な解釈を打ち立てることは、はなはだ困難な仕事であるが、それをいかように定義を定めてみたところで、さて問題となつた具体的の描写が、その定義として解釈された事柄に該当するかどうかの第二次の判断は裁判官に負わされた一層困難な仕事である。というのは裁判官個人としての純主観によつて判断すべきものではなくして、正常な健全な社会人の良識という立場にたつ社会通念によつて客観性をもつて裁判官が判断すべきものである。純主観性でもなく、純客観性(事実認定におけるごとく)でもなく裁判官のいわば主観的客観性によつて判断さるべき事柄である」
(二) 社会通念とは何か。
社会通念とは社会一般に行きわたつている常識または見解(新村出編広辞苑)であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。「社会一般に行きわたつている」という以上、社会一般において具体的にどのように認識されているかという「事実」を可能な限り確定することは、「社会通念」が何であるかを決める重要な要素となる。
社会通念の何たるかを判断・決定すべき裁判官が、存在する社会事象をかえりみず、理念として「こうあるべきである」と創造することが許されないのは当然である。
もちろん、社会通念は事実そのものでなく、事実の上に立つた評価・判断によつて確定されるこというまでもない。
二、次に右に述べた点を前提として、原判決を検討する。
(一) 原判決の判断過程は既に述べたとおりであり、これはA「原審独自の判断基準が何であるか」ということゝ、B「一審のどこが誤りであるか」の主張とに大別できるものといえる。
A 原審独自の判断基準とは、
(一) 「わいせつ」の定義はチヤタレー事件最高裁判決のそれを踏襲する。
(二) 右定義を以つて本件ビデオテープのわいせつ性を判断する基準は社会通念即ち規範的な意味をもつた社会通念である。
(三) 右の規範的意味をもつた社会通念を基準として本件ビデオテープ四本を判断すると、これらは右わいせつの定義を充足するものと認められる。というものであり、
B 一審のどこが誤りであるかについては、
(一) 一般市民の意識・感情をとらえてみても、それは一定の状況ないし事実そのものにすぎず、規範的概念たる社会通念をとらえたことにはならない。しかも一審が一般市民の意識・感情をとらえるに用いた方法(間接的な方法)及び本件ビデオテープのわいせつ性を判断するに用いた他の同種表現との比較という方法はいずれも誤つたものである。
(二) しかも一審が一般市民の意識・感情をとらえるに用いた資料及びわいせつ性判断のために比較に供した資料は、いずれもわいせつ性がないとはいえないものであり、資料の選択にも誤りがある。
というのものである。
何とずさんな不親切な理論構成であろうか。以下詳述する。
(二) まず、原審は、わいせつを判断する社会通念につき、チヤタレー事件の最高裁判決の「個々人の認識の集合又は平均値でなく、これを超えた集団意識である」との概念を踏襲し、これは「規範的概念」であると判示する。チヤタレー事件最高裁判決は必ずしも規範的概念という言葉は用いていないが、右に述べた社会通念が如何なるものかについて裁判官において意見が分かれる可能性のあるのは「他の法解釈の場合と同様である」と判示しており、これは社会通念が単なる事実ではなく、原審と同様規範的概念であると考えていることを示している。
この点、原判決は前述のとおり一審判決を、社会においてどの程度の表現がわいせつでないとされているかという事実を確定し、規範でなく、その事実に基づいて、右三要件の有無を判断しているから誤りであるという。
しかし、一審判決の社会通念に関する説示にやゝ不十分な点がないわけではないが、「わいせつ性の判断基準」は社会通念であり、ここにいう社会通念は規範概念であるということは法律実務家の初歩的知識である。従つて、一審判決がこの点に関する判断につき価値判断を度外視するわけではないのに拘らず、原判決はこれを正しく理解せず批判をしているが、この批判こそ独断と偏見に満ちた謬論であることは多言を要しないところである。
現に、一審判決は事実を確定した上で、「一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧・閲覧している状況にあれば云々」と規範的な概念に基づく評価をしているのであり、これすなわち最高裁判決のいわゆる社会通念であり、わいせつ性の判断基準であるというべきであつて、第一審判決こそ極めて妥当な判断といわなければならない。
なお、原判決は( )内に「或は、原判決は右の現実の状況そのものは単なる事実の域を脱し、社会通念として一種の規範化されたものと解釈しているのであろうか」と、一審判決が社会通念を規範概念と考えていると認めうることを前提としながら、一審の認定・解釈した社会通念が規範概念であると考えた場合に、一体上級審としてどう考えるかの判断をしていないのは不当であるし、この判断逸脱が判決の結果に影響を及ぼすことは明らかである。
弁護人は、原判決の右の態度は、一審の判決も原判決と同様規範概念としての社会通念を確定・解釈したという前提を認めると、社会通念としては、本来一つしかないものが裁判官により異なつたものとなる結果、社会通念が犯罪の構成要件の解釈の基準としては明確を欠くという一審来の弁護人の主張に反論しえなくなることをおそれ、敢て、一審認定の社会通念は「事実」であり、原審認定のそれは「規範概念」であるとしたのではないかと推測するが、誤りであろうか。
原点に戻つて考えるに、一審判決は、社会通念が何であるかを具体的に求める努力をしている。「(一般市民の意識・感情)を直接的に把握することは不可能に近い」と判示している点は、裁判官が社会通念の確定に当つて感じるであろう意識を素直に物語つている。そして、一審裁判官は、弁護人提出の証拠を仔細に検討するにとゞまらず、更に、公立図書館等にまで出向き、性表現に関する社会情勢把握のために真剣な取り組みをしており、まことに納得のいく審理の方法であるといわなければならない。
これに対し、原判決は、「これは、一定時期における、一般成人のわいせつ性に関する意識を統計的に集種調査して、数量的に得られたもの(正確にして完全なものを把握することは不可能であるけれども)自体とは異なるのであり、これも一つの有力な資料として定められる、普通人のもつ社会通念、すなわち規範的性質を備えたものといわねばならない」と判示する。
ここで、原判決は明らかに、「成人のわいせつ性に関する意識の統計的な集種調査」が「普通人の持つ社会通念を定めるのに「一つの有力な資料になる」旨判示している。しからば、原判決は社会通念の確定につき、有力な資料の一つであるかのような成人の意識の統計的集種調査を用いたのであろうか。これは断じて「否」である(そもそも弁護人は、刑法第一七五条のわいせつ性を判断する基準となるような成人の意識調査の存在を知らない。
自ら、社会通念の確定のため「一つの有力な資料」という資料を用いないで、一体、いかなる資料を用いて社会通念を定めたというのであろうか。「一つの有力な資料」の代わりに「他の有力な資料」を用いたという判示もないし、「一つの有力な資料」を用いないで、どうしても社会通念を確定しうるかという納得ある説明も全くない。
したがつて、原判決は、自らの説示において矛盾している。
このように「わいせつ性の判断基準」は何か、またその基準を如何なる方法で把握すべきかにつき、何ら具体的な見解を示すことなく単に第一審判決を論難するに過ぎない態度こそ強い非難に値するものである。性表現に関する社会情勢を探求し、わいせつ性の判断をする方法として、第一審判決が示す以外に如何なる方法が考えられるであろうか。
(三) 規範的意味をもつ社会通念なるものを基準として、それのみで直接的に本件ビデオテープ四本を判断したことについて。
原審は前に(一)Bに記したとおり、一審の判断はその方法と基準において誤つたものであると長々と論難した後、原審自身はそれならば正しい方法、基準は、如何にあるべきかを説くこともなく、本件四本のビデオテープは規範的意味をもつた社会通念を基準として判断した結果わいせつ物であると認定したものである。
即ち、原判示は何も長々と文字を連ねることなく、その要点は一、二行で足りるものである。即ち「わいせつの定義はチヤタレー判決のそれで足りる。判断基準は規範的社会通念である。同基準を以て本件ビデオテープを判断すると右定義を充足するものであることが解つた。よつて有罪」と。
右判決は少なくとも判決書としての要件は満たすものであろうし、誤つた理論に立つものではあつてもそれなりに理屈はついているものでもある。だが、弁護人は一審以来、刑法第一七五条の解釈・適用については憲法との関係で慎重な考慮が払われなければならないことを強く主張してきており、一審判決はこれを真剣に受けとめ、結論を出すまでの思考過程を懇切に説示した。
裁判においては、その結論はいう迄もないが、それにも増して、結論に至る経過が納得しうることによつて国民の信頼を得られるものであるこというまでもない。
しかるに、原審は弁護人主張のそして一審も採用した「本件ビデオテープと他の同種表現との比較によつてわいせつ性の判断をする方法」が理論上誤つているのかの説明を全く省き、抽象的な「規範的概念」なるものを独自に創出し、これを以て本件ビデオテープを判断したとなすのは、正に、裁判官が独断と偏見を以て裁判をなしたものといえるのである。
しかも、右規範概念の適用にあたつても、前述した適用上必要な考慮を全く払うことなく、「規範概念に照らして刑法第一七五条に違反する」と述べるに止まつている。
また、前にも述べたように、チヤタレー事件最高裁判決は社会通念に関する裁判所の具体的事件の判断が集積して判例法となる旨判示しているのであるにも拘らず、原判決はこれを無視し、いきなり抽象的な規範概念としての社会通念を前面に出し、これに反するから違法と判示しているのである。
(四) 「一般市民の意識・感情を探究するのに直接これを探究せず、巷間で公然と上映されている成人映画、一般書店で販売されているポルノ雑誌、官能小説にあたつたという方法及び本件ビデオテープのわいせつ性を判断するのに他の同種表現と比較したという方法が誤りである」との指摘について、一般市民の意識・感情を探究するには理論上直接的な方法であるべきであるにも拘らず、一審はいわゆる間接的な方法をとつたから同方法は誤りであるとか、一審のあたつた証拠ではその数が少なすぎるから一審のとつた方法は誤りであるとかというのならそれなりに理解もできるが、原審の判示は専ら一審が同方法適用に際して用いた証拠がけしからぬというにある(判決書五丁表・裏に「原判決は直接に本件ビデオテープのわいせつ性を判断する方法をとらず、弁護人が提出したビデオテープ、映画フイルム、ポルノ雑誌の証拠品は「もはやわいせつ物とみることはできない」との法的判断、次にこれらの証拠品と本件ビデオテープとを対比して「いちじるしい量的相違があるとまでは認められない」との比較という、二段階法を用いたのであるが、ここで問題となるのは第一審段階たる弁護人提出の証拠品に関するわいせつ性判断の当否である」とある)。
即ち原判決は、結局のところ「証拠が不合理であるから方法が誤つている」というのであつて、理論的には無価値な説示である。要するに何の理由も述べずに「方法が誤つている」と説示しているのと同一なのである。
なお、原判決が誤りであると摘示する「原判決が弁護人提出のビデオテープ、映画フイルム等につきわいせつ性の有無を判断するに際し用いた方法」(九丁裏)の「方法」は、「本件ビデオテープと右証拠物とを比較をした」というその方法を指すとも読めるので、それについて言及しておく。
一審は「社会通念」を確かめるため又「本件ビデオのわいせつ性」を判断するための共通の資料として右証拠物を用いている。
わいせつ性判断は社会通念に基づいてなされるのであるから、わいせつ性判断のために社会通念を確かめるための資料を用いて比較検討したということは、とりもなおさず社会通念に照らしてわいせつ性を判断したともいえる。が、そもそも「社会通念」及び「わいせつ性」の判断のために証拠を用いていけないということはないのであるから(わいせつ性判断のためには比較対照が不可欠であり、むしろ証拠がなければならないことは前に述べたとおりである)、本件ビデオテープを証拠物に照らしたこと自体何ら誤つたものではない。原審も又、このことには何も触れていない。となると、仮りに原審のいう「方法」がわいせつ性判断に際し本件ビデオを証拠物たる他作品と比較したというその「方法」を意味するものであつたとしても、結局前に述べたと同一結論、即ち「証拠物が不合理であるからその方法が誤つている」との結論に帰着し、要するに何の説明を加えず、理由も述べることなく「方法が誤つている」と説示していることにしかならないものである。
従つて、「方法」なるものを「社会通念確定のための方法」ととろうと、「本件ビデオテープのわいせつ性判断の最終方法」ととろうと、原審がそれが誤りであるとする右摘示には、全く理由がないのである(理由が示されていて、それが誤つたものであるというのではなく、そもそも何の理由も示されていないのである)。
(五) 「弁護人提出の証拠物を以てわいせつ物に該当しないと判断したのが誤りである」との摘示について
この点につき原審は、大要次の如き弁解に終始している。
1 一定の期間にわたりポルノ映画等が検挙されなかつたのには、取締当局にそれなりの考慮があつたからである。だから不検挙、不起訴が、取締当局のわいせつ性ゼロの判定に結びつくものではない(七丁裏乃至八丁表)。
2 一般の大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧している状況があつたからといつて、それは大衆が観覧・閲覧後の感想、感情等を表示することが稀であり、またこれを公表する機会がないから、かゝる状況を現出しているだけのことである(八丁表乃至八丁裏)。
3 「検察官も弁護人提出の証拠物に関してわいせつ物でないという前提に立つて論告している」と一審はいうが、「本件ビデオテープと比較するとわいせつ性の度合において相当」と述べているだけである。
(六) 以上総合して「弁護人提出の証拠物をわいせつ物とみることはできない」とした一審判断は誤りである。
原審の右説示は、何としてでも本件を有罪に導かんとする苦しい言い訳にすぎない。なるほど、不検挙、不起訴になつものゝうちわいせつ性を有するものがあるかも知れない、又大衆には観覧・閲覧後の感情等を公表する機会がないかも知れない。が、事は蓋然性、常識の問題である。一定の期間にわたり、それこそ「次から次に全国的に多数のポルノ映画、同ビデオテープや、数え切れない程のポルノ雑誌類」(判決書七丁裏)が検挙、起訴されず存在し、一般の大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧している状況を目して、一審の如くこれらが「わいせつ物とみられない」と判断するのが正常なのか、原審のいうが如き仮定、推測の事情をあえて加味して「わいせつ物とみられないとはいえない」と判断するのが正常なのか、あえて理屈を述べる迄もなく明白な事柄である。有罪が確定する迄は無罪である。まして起訴はおろか検挙すらされていないかゝる多数のポルノ映画、雑誌等(弁護人提出のものを含む)に推測を働らかせて、「わいせつ性あり」とまで云わんとするその態度は誠に苦々しいものである。検察官は無論のこと、原審裁判官も弁護人提出の証拠にわいせつ物が含まれていると信ずるのなら、それを指摘し、明らかにすべきである(検察官が機会をとらえてわざわざ「本件ビデオテープと比較するとわいせつ性の度合において劣る」とか、「本件ビデオテープの性的描写はいずれも数段その表現方法がエスカレートしている」と述べているのは、かゝる意味において「わいせつ物でない」と述べたのと同じことであり、前記一審の判断に誤りはない)。推測、仮定はいくらでも考えられるのである。かゝる推測、仮定を羅列し、弁護人提出の証拠物を非難することは、裁判官の真意何としてでも本件を有罪にしようとする)を被瀝するだけのものであつて、法律的には何の価値も有さぬものである。
そもそも、刑事裁判における「疑わしきは被告人の利益に」という原則を思い起すべきである。
(七) その他原判決の誤りを指摘する。
1 物語の筋が単純である(判決一一丁裏)ことをわいせつ認定の根拠の一つとしているようであるが、芸術作品であつてもわいせつ罪に該当しうるというチヤタレー事件の最高裁判決に従えば、物語の筋が単純という点を、わいせつ認定の一要素にすることは誤りである。
2 原判決は、一審判決につき、指摘する刺激の強い場面には重要な場面が欠落しているし、特定場面の継続時間を過少にした部分が何ケ所かあり、音声については触れていないから、その把握は十分でないと非難する。
しかし、一審において本件ビデオテープ四本全体の証拠調をしたことは争いのない事実であり、少なくとも「把握が十分でない」という非難はあたらない。重要な欠絡場面の指摘が、或は継続時間の正しい時間の記載が、音声へ触れることが、本件において一審判断は異なつた判断につながつたというのであれば、具体的な場面のどこが刑法第一七五条に反するというその根拠を示すべきである。徒らにあげ足をとるような原判決の態度は、極めて不当である。
原判決は、刺激の強い場面を別紙に文章化したり、「ぼかし」、「遮蔽物」、「全景」、「音声」等について一応触れてはいるが、いずれも極めて抽象的であり、指摘場面の描写のうちどれが許されず、また「ぼかし」、「遮蔽物」等はどの部分をどの程度行わねばならないのか、「全景」はどの程度の長さの描写になると許されないのか、音声はどの程度のものが執ようとされるのか等について、何らの基準も示していない。
(なお、これら、原審と一審の認定の相違、更には、一審が「本件ビデオテープのうち三本は、弁護人提出のものと比較して、露骨さにつき『質的相違』又は『いちじるしい量的相違があると認められない』」と判示しているのに対し、原審が「本件四本のビデオテープはその露骨さ等において弁護人提出のビデオテープ、映画に比べてかなり甚だしいものと認められる」と判示している点を前提にするとき、第二において論じた、本件に刑法第一七五条を適用するとき、通常人によつて構成要件が明確といえるかとの問題を改めて、想起すべきである。)
3 原判決は、「電動式擬似陰茎は一般に販売されれば、取締の対象となる蓋然性もあろう」などと述べているが、取締の対象となつていないのは公知の事実であること一審判決の認定したとおりである。ましてや、男性または女性の性器を模して作つたゴム又はスポンジ製の張型はわいせつ物にあたるという判例(最高裁昭和三四年一〇月二九日)が存在するにも拘らずである。
原審裁判所は、社会の変遷を知ることなく、また知ろうともしないで、何れの時期か不明であるが、知得した基準に基づき、それに反するものは法的に全て許されないと考えているようである。
取締の対象となる蓋然性もあろうというのは傍論であろうが、そのような物の存在を認容している社会情勢を正しく把握すべきである。若し、この公知の事実がチヤタレー事件の「多数の国民層の倫理的感覚が麻痺している」というならば、その事実を明らかにした上で、「それ故本件ビデオテープはわいせつ物である」と判示すべきである。
三、以上のように、原判決は、チヤタレー事件最高裁判決に違反し、また刑法第一七五条の解釈を誤つたものであり、原判決に従い本件四本のビデオテープをわいせつ物とすることは著しく正義に反するから、原判決は破棄されるべきである。
ちなみに、弁護人は一審以来、罪刑法定主義、表現の自由の重要性、被告人の人権保障の観点から、本件ビデオテープ四本が何故刑法第一七五条に違反するかを具体的、客観的に示すよう主張してきた。
この点、本件と同じ頃同じ映像による表現である映画のわいせつ性が問疑された東京地裁昭和四七年刑(わ)第四九三七号事件において、同地裁刑事第二部は、具体的な表現を仔細に検討した結果無罪の判決(同五三年六月二三日宣告)を下していることにご留意願いたい。
第五、原判決は証拠価値の判断を誤り事実を誤認し、ひいて判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の適用を誤つたものであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものである。
一、原判決は、被告人の犯意の有無に関し、第一審判決には事実誤認があり、ひいて判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈、適用を誤つたものであるとしてこれを覆えし、被告人の犯意を認めた。
そこで、争点を明確にするために、犯意の点に関して第一審、原審がいかなる事実を認定したかを、まず明らかにする。
第一審の認定した事実の要旨は左のとおりである。
① 被告人は各作品のオールラツシユや試写に立会つた。
② その際、ライトの照写工合からして陰毛、陰部、尻の割れ目などのような錯覚を与える部分のように描写に不適当であるものを被告人の判断において削除させた。
③ 本件各ビデオテープにつき、猥せつ物であるとの嫌疑により徳島県警の捜査をうけるや、自主的に支社又は営業所に指示しその販売をとりやめてこれを回収せしめ、警察の捜査、取調べに対しては積極的に協力した。
④ 公然上映されている成人向けの映画や実演に対するわいせつ性の有無に関する評価の仕方が、各地方の土地柄もさることながら、取締担当者によつて異なり、必ずしも一致していない(証拠に基づく推察)。
⑤ 本件各作品の製作当時、ビデオテープには、未だ映画における映倫に相当する機関がなく、本件検挙後に、これをきつかけとして設置されるにいたつた。
⑥ 本件の検挙と相前後して、映倫の審査を終た映画も検挙され、その後になつて映倫の審査基準がきびしくなつた。
⑦ 日活が以前から販売していたビデオテープについては、本件起訴にかかるものに至るまでのものについてはもとより、本件作品についても取締当局より警告等の措置がとられなかつた。
⑧ 性風俗を露骨に描写した映画、写真雑誌類、小説等が氾濫している中でこの種の作品を制作販売する者が他のものとの比較において許容される限界内にあると信じてなしたことが取締る側からみてその限界を超えていると判断されることは度々ある。
⑨ 取締当局から注意又は警告があれば、あえてそれに反してまで本件作品を製作販売するまでには至らなかつた(推察)。
以上の結果、被告人はわいせつ物に該当しないと信じて販売し、そう信ずるについて客観的に合理的な理由があつたと認められるから、被告人に犯意がなかつたというべきものとした。
これに対する原審の認定した事実の大要は次のとおりである。
① 被告人は各作品の企画に関与したほか、撮影、オールラツシユ、試写に立会つた。
② 被告人は右①の各段階で陰部等のように錯覚を与えるおそれのある場面の一部削除を指示したことが窺われる。
③ 本件ビデオテープの性愛場面の内容等は全体としてきわめて大胆、露骨、執ようである。
以上の結果被告人は本件ビデオテープにおける性的描写のもつ意味内容を充分知悉していたと述べ、磯部陽子証言の一部がこれを裏付けるとしてこれを引用し、被告人の犯意を認めた。
右の如くして両判示を一見しただけで、原判決が第一審判決を覆すに犯意の点に関しても極めても荒つぽい言い方によつて排斥している点が注視される。要するに原判決は本件ビデオテープが猥せつ物であるとの前提に立つて、被告人は、その内容を知つていたから犯意ありという論理と思料される(尤も原判決判示中「性的描写のもつ意味内容を」とある点は、具体的にはどの程度のことを意味するのか曖昧であるが、この点は法律論として重要な問題点を含むものであり、後に一括して論ずる)。原判決も、それだけではいかにも不十分と考えたのか、磯部陽子証言の一部を引用した。
しかしながら、原判決摘示の磯部証人の証言内容については、被告人は第一審以来これを事実無根のことであると否認している。なるほど磯部陽子に対する検察官の主尋問に対する答として原判決摘示の如き供述記載はあるものの、その後の弁護人、被告人の反対尋問に対する答をみれば、その記憶が曖昧であることを露呈しているのである。即ち、原判決摘示の言葉のやりとりがあつたという状況が前後矛盾していることは勿論のこと、同証人は被告人を知つていると供述しながら、開廷前被告人が同証人にあいさつした時に被告人が誰であるか全くわからなかつたのである。しかも本件において被告人は企画・制作に関与したとされているが、実際の制作はプリマ企画株式会社と近代放映株式会社の二社に制作を委託していたのであり、かかる場合、撮影現場における最高責任者は監督であり、殊に俳優の演技に対する指示、注文は監督の専権であり、スポンサーといえども容喙は絶対に許さないのが、この映画業界の慣行である(三吉静一証言、渡辺輝男証言)。被告人が撮影現場に立ち寄るのは、制作委託した作品が期日までに順調に完成するかどうかを確かめるためであり、日活株式会社という映画会社に永年在籍し、撮影現場における右慣行を熟知していた被告人が演技に口出しすることはありえないし、実際にそのようなことはしていないのである。現に、磯部陽子が出演した作品の監督をした証人渡辺輝男は、磯部陽子の右証言を否定し、被告人が撮影現場を見に来て話したことは、要するに「お疲れさん」とか「ご苦労さん」とかいうことであると証言している。このような状況であるから、単なる出演者が監督に演技上の打合せ意見交換等をすることはありえても、被告人に対してそのような話をすることもありえないわけである。
右のとおりであるから、右磯部陽子証言は信用できないものというべきであり、これを信用した原判決は重大な事実誤認があるものといわざるをえない。しかも原判決自体、被告人は本件各作品について陰部等のように錯覚を与えるそれのある場面の一部削除を指示したことが窺われると判示しているのであり、さらに、前記のとおり第一審判決において被告人の犯意を否定する論拠となる多くの事実が認定されているにも拘らず、これらについて判断をしなかつたのであるから、右の事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである。
二、さらに弁護人は原判決における刑法第一七五条の犯意のとらえ方について問題があるものと思料する。
すなわち、原判決は、第一審判決が「火曜日の狂楽――赤坂の女」について「被告人はわいせつ物に該当しないと信じて販売し、そう信ずるについて客観的に合理的な理由があつたものと認められるから右作品について犯意がなかつた」としたことに対する、検察官の前記チヤタレー事件最高裁判決に反するとの主張に対し、検察官主張の判示に続いて、さらに「猥せつ性に関し完全な認識があつたか、未必の認識があつたに止まつていたか、または全く認識がなかつたかは……犯意の成立には関係がない。」と述べている点などについて考えると、右判決の趣旨を忖度しても本件ビデオテープの性的描写の意味内容に関する認識がない場合も犯意が成立するということまでを意味しているとはいえないし、また右判決の趣旨が本人において猥せつ性がないと信じ、かつそのように信じたことについて、どのような客観的明白な事情があつても常に犯意を阻却しないことまでを含むかどうかについては、多分に議論の余地を残すところである、と判示した。
それにも拘らず、原判決は、本件ビデオテープの性愛場面の内容等は全体としてきわめて大胆、露骨、執ように表現されているから、被告人がその性的描写の意味内容を充分知悉していたことは明らかであるとし、(前記磯部陽子証言の一部を付加するものの)そうであるとすればその余の判断をするまでもなく本件につき被告人に犯意があつたことは明白であるとして、第一審判決を排斥した。
右原判決の判示は、前記チヤタレー事件最高裁判決の趣旨の解釈について、本人が猥せつ性がないと信じ、かつそのように信じたことについての客観的合理的な事情があつた場合について犯意を阻却しないことまでも含むか否かの点につき、どのような解釈によつているのか必ずしも明白でない。
そこで、右の点に関する第一審以来の弁護人の見解を以下述べて、後に再度原判決にふれることとする。
① まず刑法第三八条一項の問題として考えてみる。
有力な学説として故意が成立するためには、構成要件に該当する客観的事実の認識を必要とする。しかしこの事実の認識は単に外形的表面的に表象しただけでは足らず、「事実の意味内容」をも認識すること、即ち所謂「意味の認識」が必要である。そしてこの意味での「事実の認識」が欠けたときは、所謂事実の錯誤として刑法第三八条一項により故意を阻却することになると説くのである。
しかも右の「意味の認識」はこれを猥せつ文書販売罪に例をとれば、当該文書(図画)が一般人をしてその差恥感情を害するものであることの認識、換言すれば、一般人の見解において猥せつとせられるであろうことの認識が必要であるとされる(福田平「注釈刑法」(2)のⅡ三一七頁乃至三一八頁、団藤重光「刑法綱要」総論二一五頁)。
なお、この学説は、前記チヤタレー事件最高裁判決に対してもこの判決が被告人において本件著書につき単に客観的に猥せつ性を有する記載のあることだけを認識していれば足りるものとするのであれば、これを故意における「意味の認識」を度外視するものであつて妥当ではない」との批判がなされていることを付言する。(福田平前掲書同頁、木村亀二「チヤタレー事件の裁判」法律時報二九巻六号六八八頁)
② 次に刑法第三八条第三項の問題として考えてみる。
検察官は前記最高裁判例が故意の成立には違法性の認識は不要であるとの所謂違法性の認識不要説を基本的態度としていると主張しているものと認められるが、今日この考え方を採る学説はなく、法律の錯誤に関して右判例の態度は全ての学説から孤立している。
また、大審院以来法律の錯誤について過失がなかつたとき、ないし相当の理由があるときは、故意を阻却するとする見解を採用した一連の判例が存在することが注目されるのである。
例えば古くは、大判昭和七年八月四日集一一巻一一五二頁に登載されている区有林の伐採被告事件。その後同旨のものとして、漁業法違反事件につき大判昭和九年二月一〇日集一三巻七六頁、住居侵入事件につき大判昭和九年九月二八日集一三巻一二三〇頁、背任事件につき大判昭和一三年一〇月二五日集一七巻七三五頁、輸出入品等に関する臨時措置に関する法律違反事件につき大判昭和一五年一月二六日新聞四五三一号九頁があり、政令第一六五号違反事件について最高判昭和二四年四月九日集三巻四号五〇一頁も同旨と思われる。
また、同旨の高等裁判所の判例は数多くあるので、以下主たるものを摘示すると左の通りである。
広島高裁松江支判決昭和二五年五月八日判特七巻一五頁、名古屋高裁判決昭和二五年一〇月二四日判特一三巻一〇七頁、仙台高裁判決昭和二五年一一月二五日判特一四巻一九三頁、同右昭和二七年九月二〇日判特二二巻一七二頁、東京高裁判決昭和二七年一二月二六日高刑集五巻一三号二六四五頁、東京高裁判決昭和二八年九月九日判特三九巻九六頁、名古屋高裁判決昭和二九年七月二七日裁特一巻二号九三頁、高松高裁判決昭和二九年八月三一日特裁一巻五号一八二頁、大阪高裁判決昭和三一年一一月二八日裁特三巻二二号一一九八頁、広島高裁岡山支判決昭和三二年八月二〇日裁特四巻一八号四五六頁
以上掲記の判決はいずれも刑法における責任主義を貫こうした場合、違法性の意識を不要とする立場に従うことができなかつたものと考えられる。
また、検察官が第一審判決の判断を反駁する論拠として掲げる昭和四四年九月一七日の映画「黒い雪」事件に関する東京高裁控訴審判決は、その理由中において、前記「チヤタレー」事件最高裁判決の前記該当部分を引用したうえで、
「しかし前記判例といえども被告人らの如き映画の上映者において、該映画の上映が同条所定の猥せつ性を具備しないものと信ずるにつき、いかに相当の理由があるが場合でもその一切につき犯意を阻却しないものとして処罰する趣旨とは解し難いのみならず、ここでも映画の上映における特殊性即ち、文書その他の物の場合とは異なる規制機関の存在、しかもそれは憲法の改正に伴い日本国憲法の精神に合致する制度として発足し、国家もまたそれを是認している制度であることを考慮せざるを得ない。(中略)
被告人らはいずれも映倫管理委員会の意義を認めて本件映画を審査に付し審理を通過したものである。
この規制機関の審査を経たうえで本件映画を上映した被告人らにおいて、本件映画の上映もまた刑法上の猥せつ性を有するものでなく、法律上許容されたものと信ずるにつき相当な理由があつたものというべきであり、前記最高裁判例が犯意について説示するところは当裁判所においても十分これを忖度し尊重するとしても、映倫審査制度発足以来一六年にして多数の映画の中からはじめて公訴を提起されたという極めて特殊な事情にある本件においてもなおこれを単なる情状と解し、被告人らの犯意は阻却しないものとするのは真に酷に失するものといわざるを得ない。
してみれば、被告人らは、本件行為につきいずれも刑法第一七五条の罪の犯意を欠くものと解するのが相当である。」と判示した。
即ち同判決は違法性の認識を欠く場合においても、その認識を欠くことつき、客観的な合理性がある場合には刑法第三八条三項の問題として犯意を阻却するものと判示したのである。
なお最近の判例としては、東京地裁昭和五一年四月二七日判決(所謂「四畳半襖の下張」判決)においても「……行為者にいかに相当な理由があるときでも故意を阻却しないとして処罰することは表現の自由に対する侵害となるおそれがある。又猥せつの定義がある程度抽象的な基準を設けざるを得ないことからくる不利益をひとり行為者にのみ負担させることは妥当ではない。それ故行為者が猥せつでないと信じたことについて相当な理由があるときは故意が阻却されると解すべきである。」旨判示している。
翻つて原判決をみるに、第一に、「被告人が本件ビデオテープにおける性的描写のもつ意味内容を充分に知悉していた」との判示の「性的描写の意味内容」というのは、単に本件作品にどのような性的場面の描写が存在するかを知つたというにすぎないものと解せられ、これは外形的な事実の表象にすぎず、刑法第一七五条の意味の認識を充足しないものである。第二に、本件各作品が猥せつであるとの前提に立つとしても、その描写内容を知つていたというだけで被告人に犯意ありとして、直ちに被告人に猥せつ物でないと信ずるについて合理的な理由があつたか否かまで否定するのは、右に述べた判例の趣旨に反するものである。
弁護人は前記チヤタレー事件最高裁判決が、「被告人がわいせつ物に該当しないと信じ、そう信ずるについて客観的に合理的な理由のある場合」にまで、犯意を認めたものではないことを確信する。法律家の叡智の結果であり憲法の番人とまでいわれるわが最高裁判所であるから、憲法第二一条、憲法第三一条との関連を再度繰り返すまでもないことと考えるのである。ただ、右判決の解釈について下級審判決が統一されていないようであるから、チヤタレー事件最高裁判決以後二〇年以上経過しているが、今後のために、右犯意の点についても是非とも明確なご判断を賜りたいと思うものである。
しかるときは、原判決は前記第五、一、に述べた如く事実誤認があり、また、第一審判決が示した被告人の犯意を否定する論拠となる多くの事実がありながらこれを無視したものであるから、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の適用を誤つたものというべく、破棄されなければ著しく正義に反するものである。
第六、原判決には、判決に影響を及ぼすべき訴訟手続上の法令(刑事訴訟法第三一七条、第二九四条、第三〇五条)の違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するので、当然破棄されるべきである。
刑事訴訟法第三一七条は、事実の認定は証拠による、と規定し、証拠裁判の原則を宣言した。そして茲に証拠というのは、厳格なる証拠即ち適法な証拠調を経た、証拠能力のある証拠によることを意味するものであることは論を俟たないところである。
この原則に照し、原審裁判所の審理の方法、特に原審検察官の提出に係るコマ撮り写真の取扱いに関しては、明らかに訴訟手続の法令に違反した重大な誤りがあると思料せられる。
一、映像と写真との相違
本件において、審判の対象となつているのはビデオテープの映像自体であつて、コマ撮り写真ではないのである。
コマ撮り写真は、ビデオテープの影像の特定場面を映写機の操作により一時停止の状態に設定し、これを撮影するものであるから撮影技術の巧拙、撮影方法の如何によつては、見る者に与える印象が全く違うものになる場合がある。しかも、映像と写真ないしは文章とを作用の点から比較してみても、その間に大きな相違があることは明らかである。
映像は、直接視覚に訴える力が強いので瞬間的には明確な印象を与える可能性がある反面、一秒間に二四コマもの映像が動くというものであるから、一瞬にして変化し去ることにより印象を稀薄にする可能性がある。これに反し写真ないし文章は、画面を静止の状態で自分の理解し得るまで閲覧、閲読できるから、その内容を明確にし得る反面、見る者、読む者の想像が加わり、その印象は人によつて異なるものというものである。
従つて、映像と写真とでは本質的にも、また作用の点から考えても別個のものであることに留意し、本件審判に際しては、それが証拠調のためであれ、弁解のためにせよ、ビデオテープの映像に替えてコマ撮り写真を使用することは、証拠裁判主義の原則にもとることになるのである。
二、原審裁判所が受理したコマ撮り写真の性格と証拠調の誤り
検察官は弁論に際し、その弁論書に別紙(一)乃至(三)として本件ビデオテープのうち、「ポルノコンサルタント」、「ブルーマンシヨン」、「ワイルドパーテイー」につき、各一〇番面をコマ撮りした写真一〇葉を添付して裁判所に提出した。
この各写真には夫々につき、音声、せりふを含めた詳細な筋書が極めて誇張的に記入され、かつ検察官の見解をも註記されているのである。
弁護人は、このよう弁論書の提出は違法であるとして異議を述べたが、原裁判所は弁護人の異議を斥け、これを受理したのである。
検察官が証人調の際使用したり、或は弁論書に添付したコマ撮り写真が、影像とは全く異質のもである関係上、元々証拠能力を欠くが故に本件審理にこれを使用することは許されないことについては既に述べたところであるが、これらの写真は見方によつては検察官作成の証拠書類であるということもできる。
果して、これが検察官作成の証拠書類であるとするならば、弁護人の同意がなければ証拠とすることはできないわけである。
しかるに原裁判所は前記二掲記の如く、検察官提出のコマ撮り写真につき何らの証拠調をすることなく、また弁論書に添付して提出するに当りても、適切な訴訟指揮を講ずるこなく漫然これを許可したのである。
このことは明らかに原裁判所の怠慢であり、刑事訴訟法第二九四条(訴訟指揮)、第三〇五条(証拠書類の証拠調の方式)、第三一七条(証拠裁判主義)に違反することはもとよりのこと、ひいては憲法第三一条(法定手続の保障)にも違反するものと思料せられるのである。
もつとも、原判決がこの写真を証拠として採用した形跡は、外見的には認められないが、裁判官の心証形成の上で相当の影響力を及ぼしたであろうことは、蓋し推測に難くないところである。
よつて、原判決には、判決に影響を及ぼすべき訴訟手続上の法令違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するので破棄せらるべきものであると同時に、また憲法第三一条違反として当然破棄せらるべきものであると思料せられるのである。
(むすび)
以上のとおりであるから、刑事訴訟法第四〇五条二号、第四一〇条一項本文、及び第四一一条一号により、原判決を破棄し、相当の裁判を求めるため、本上告に及んだ次第である。
<参考・原審判決>
(東京高裁昭五一(う)第九九号、猥せつ図画販売控訴事件昭和53.3.2第二刑事部判決、破棄自判)
〔主文〕
原判決を破棄する。
被告人を罰金二〇万円に処する。
被告人において右罰金を完納することができないときは、金四〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。
原審及び当審における訴訟費用の全部は、被告人の負担とする。
〔理由〕
論旨第一について
一(一) 所論は、原判決において本件カラー・ビデオテープのうち、「ポルノコンサルタント」、「ワイルド・パーテイ」及び「ブルーマンシヨン」の三作品(すなわち「火曜日の狂楽―赤坂の女」を除いもたもの)の猥せつ性を認めなかつたのは失当である、すなわち原判決はその論拠として「本件起訴の対象となつたビデオテープが猥せつ物に該るかどうか判断するに当つてはこれらが制作―販売された昭和四六年頃から現在に至るまでの間における一般市民の意識、感情をとらえなければならない。」とし、「右一般市民の意識、感情は、巷間でどのようなポルノ映画や官能小説類が上映販売されているかをみることが確実な方法である。」と述べ、さらに弁護人提出の証拠物等を検討した結果、「ポルノ作品は大衆娯楽として定着しているということができる。」と説明したうえ、このことから本件ビデオテープの三作品の猥せつ否定を導き出しているが、これは刑法一七五条にいう「猥せつ」の要件の解釈、適用を誤つたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
そこで検討してみるのに、刑法一七五条にいう「猥せつ」の観念ないし定義については、最高裁昭和二八年(あ)第一七一三号、同三二年三月一三日大法廷判決(刑集一一巻三号九九七頁以下)、いわゆるチヤタレー事件最高裁判決が、猥せつ文書に関して、その内容が「徒らに性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」と説示しているが、これはその以降に言い渡された最高裁判決、高裁判決等でも、引きつづいて踏襲してきた定義であつて、いまなお、その変更を要する合理的理由はないから、当裁判所もこの見解に従うものである。
そして、前示最高裁判決の掲げる定義に合致するかどうかを判断するための規準は、その説示のように「一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は『個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない』こと原判決が判示しているごとくである。」といえる。
(二) 検察官の所論にかんがみ、原判決がどのような方法を用い本件ビデオテープの猥せつ性の判断に当つて、「一般社会において行われている良識すなわち社会通念」を探求したかを検討してみよう。
原判決によると、「本件起訴の対象になつたビデオテープが、わいせつ物に該るかどうか判断するに当つては、まずこれらが製作・販売された昭和四六年頃から現在に至るまでの間における一般市民の意識、感情をとらえなければならないわけであるが、これを直接的に把握することは不可能に近いので(検察官申請の証人植野智之、平野俊夫、眞鍋捷宏、山本達雄、林昭夫は、本件起訴にかかるものは見ているが非弁護人提出にかかるものは見ていないので、これら証人の証言、平野俊夫の検察官に対する供述調書によつてはこの点が把握されているとすることはできない。)、巷間で公然といかなる内容の成人映画が上映されているか、また一般書店でどのような内容のポルノ雑誌や官能小説類が陳列販売されているかをみることが確実な方法である。」として、弁護人から提出したビデオテープ六本、映画フイルム二本、ポルノ雑誌類が公然と上映されたり、一般書店で販売されているが、「それが数多くあつて、長い期間取締りの対象にならず、一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧しているという状況があれば、それはもはや、わいせつ物とみることのできものというべきである。」と説示断定している。
次に、原判決は、弁護人提出の右の証拠と本件ビデオテープとを比較対照した結果、「たしかに起訴されたビデオテープの方が演技の程度や表現の仕方について露骨さが強いということはできるが、弁護人提出のものについても露骨さはあるのであつて、その両者には、本件起訴にかかるものにはわいせつ性があつて弁護人提出のものにはそれが無いとか、又は、本件起訴にかかるものは公訴提起に値するほど違法性が強いが、弁護人提出のものはそれほどのものでないとかいつた程度に両者を区別できるほどの質的相違又はいちじるしい量的相違があるとまでは認められない。」と説示しているのである。(本件ビデオテープのうち「火曜日の狂楽―赤坂の女」(以下「火曜日の狂楽」という。)のみは、猥せつ物にあたるとの疑いが強いため、前記判示から除外されていることは、判文全体に徴して明らかである。)
(三) 以上のように、原判決は、直接に本件ビデオテープの猥せつ性を判断する方法を採らずに、弁護人が提出したビデオテープ、映画フイルム、ポルノ雑誌類等の証拠品は「もはやわいせつ物とみることはできない」との法的判断、次にこれらの証拠品と本件ビデオテープとを対比して「いちじるしい量的相違があるとまでは認められない」との比較という、二段階法を用いたのであるが、ここで問題となるのは、第一段階たる弁護人提出の証拠品に関する猥せつ性判断の当否である。
原判決の用いた方法によつて猥せつ性に関し判断するとしても、弁護人提出の本件証拠のみを資料とするのは不充分であるから、原判示の「昭和四六年頃から現在までの間に」おいて、全国に流布されていた。すべての成人映画、これに類するビデオテープ、ポルノ雑誌、官能小説類を蒐集して、これらを総合的に調査検討することが最善の途と考えられるが、それはともかくとして、猥せつ性の判断規準としては、チヤタレー事件の最高裁判決が述べているように、一般社会において行われている普通人の社会通念であること、この社会通念は個々人の認識の集合又は平均値でなく、これを超えた集団意識であること、社会通念は時代的・場所的の事情によつて変化することを是認しなければならないのである。
このことは、すなわち、猥せつ性の判断規準たる一般社会における社会通念とは規範的概念といわねばならないことに帰着する。従つて、これは、一定時期における、一般成人の猥せつ性に関する意識を統計的に集積調査して、数量的に得られたものの(正確にして完全なものを把握することは不可能であるけれども)自体とは異なるのであり、これも一つの有力な資料として定められる、普通人のもつ社会通念、すなわち規範的性質を備えたものといわねばならないのである。
なお、本件ビデオテープが当時、本件の販売相手方から主としてモーテル等の風俗旅館経営者に賃貸ないし販売することが予定されたため、これを観覧する者も主として性交を目的とする男女達に限定されていたとしても、そのために規準となる社会通念が一般観覧者を対象とする通常の映画の場合と異なるものでないことは、もとよりである。
しかるに、原判決は、本件ビデオテープが販売された「昭和四六年頃から現在に至るまでの間における一般市民の意識、感情」を、前示の方法によつてとらえることができたと解したうえ、これを猥せつ性の判断規準と称するけれども、右の「一般市民の意識、感情」という言葉とか、いわゆるポルノ作品は大衆娯楽として定着しているとの「定着」という言葉に注目するとき、原判決は「長い期間取締りの対象にならずに、一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧しているという状況」そのものを目して「一般市民の意識、感情」と解しているらしく、厳密にいえば、右の状況に対して特に価値判断を加えていないといえる。(或は、原判決は右の現実の状況そのものは単なる事実の域を脱し、社会通念として一種の規範化されたものと解釈しているのであろうか。)
従つて、ここにいう「一般市民の意識・感情」というものも、帰するところ、右の一定の状況ないし事実そのものであるから、これは、いわゆる規範的概念たる「良識」「社会通念」とは必ずしも合致しないものといえる。
たとえば、一定の期間(この犯行の公訴時効の期間は三年間)にわたり、ポルノ映画、ポルノ写真類等が検挙、起訴されたなかつたとして、それは全く猥せつ性がないからではなく、猥せつ性の度合いが薄いから、取締当局において検挙、起訴を控えたとも考えられるし、また次から次に全国的に多数のポルノ映画、同ビデオテープや、数え切れない程のポルノ雑誌類が、うたかたの如くに大衆の前に現われ、また姿を消して行くなかで、どの映画、ビデオテープ、雑誌を検挙するか、なおどの程度以上のものを特に起訴するかについては、他への影響もあつて、細密周到な考慮を払わねばならないのである。従つて不検挙、不起訴がそのまま、取締当局において猥せつ性がゼロであると判定したことに結びつくものとはいえないのである。
また「一般の大衆が特段の抵抗も感じないで、観覧又は閲覧しているという状況」があつた点についても、一般大衆は、映画、ビデオテープ、雑誌類を「つくる人」「与える人」ではなくて、主として営利企業体たる映画、ビデオテープ等の製作、販売会社ないし雑誌会社から「与えられる人」「提供される人」(もつとも有償ではあるけれども)である。そして、これらの映画、ビデオテープ、雑誌類を観覧、閲読して、或は著しく性欲を刺戟せしめられるものがあるかと思えば、自分は快感を覚えながらも、未経験、未熟な青少年がこれを観覧すると、悪い影響を与えると考えたり、また嫌悪感と快感とを交錯して覚えたりするなど、多種多様であることが推定されるけれども、これらの大衆は、映画評論家等とは異なり、観覧、閲読後の感想、感情及び読後感を敢て表示することは稀であるし、またこれを公表する機会は、ほとんどないといえる。
これらの事情を念頭におくとき、原判決のいうように、直ちに「一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧又は閲覧しているという状況があれば、それはもはや、わいせつ物とみることはできないというべきである。」と説示することは、不当といわざるを得ない。
更に、原判決は「検察官においても、弁護人提出の前記証拠物に関しては最も刺戟が強いと思料される『うまい話に御用心』も含めて、わいせつ物でないという前提に立つて論告している。」とも述べているが、原審における検察官の論告要旨書の中には「仮に他にも同種の映画やビデオが公開されているとしても、それは単なる取り締りの当否の問題にすぎず、本件テープのわいせつ性を否定する根拠にはなりえない。……まして弁護人申請の映画フイルム二本およびビデオテープ六本は、わいせつ性において数段劣るものであり、これが取り締りの対象にならなかつたとしても、本件ビデオテープと同列に論ずることはできない。」と記載されているのであつて、意味が明確でない嫌いがあるものの、弁護人提出の証拠物は本件ビデオテープと比較すると、猥せつ性の度合いにおいて相当に劣ると述べているのに過ぎないのである。従つて、弁護人提出の証拠物をすべて猥せつ物でないとの論告があつたと、原判決が断定するのは、論告を誤解しているとの譏を免れないのである。
(四) 以上のように、原判決が弁護人提出のビデオテープ、映画フイルム等につき猥せつ性の有無を判断するに際し、用いた方法ないし規準については誤解がある以上、この点において論旨のいうとおり原判決には法令の解釈及び適用に誤りがあるといわねばならない。(その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであることは後に触れることとして)。
二(一) 所論は、「本件カラー・ビデオテープについてみると、原判決は無罪理由の冒頭に、本件カラー・ビデオテープの『内容、特徴』を各テープごとに指摘するとして、(原)判決書添付別紙(一)乃至(四)にこれを掲げているが、その指摘は、『ブルーマンシヨン』につき四箇所(判決書添付別紙(一))、『ポルノコンサルタント』につき四箇所(同別紙(二))、『火曜日の狂楽』につき四箇所(同別紙(三))、『ワイルド・パーテイ』につき三箇所(同別紙(四))に過ぎず、また女のうめき声等の音声には本文でも右別紙でも特に触れておらず、右別紙で指摘した箇所における特定の場面が継続する時間を記載した部分等の一部に誤りがある。さらに悶絶する女の表情の大写し、陰茎が勃起怒張した状態を形どつた動く性具(擬似陰茎)の形状等にも特に触れていない。」、「本件カラー・ビデオは、いずれも筋が極めて簡単で、問題意識というものは全くなく、また経緯の変化等には殆んど重点を置いておらず、従つてそこに出てくる人の声や行動も、性交・性戯中の女のうめき声を除けば、ただ性交・性戯の場面の変転をつなぐための、極めて短い、かつ露骨で直接的なものばかりであるし、また性交・性戯中の背景描写乃至周辺描写というべき程のものが殆んどない。」「実際には性交・性戯中における極度の姿態の動き、悶絶する表情等の描写が徹底を極め、これに女のうめき声等の音声が伴い、刺激的効果が圧倒的に強いものであること、右カラー・ビデオテープそのものにより至極明瞭である。」から、当然猥せつ物と認められるのにかかわらず、原判決が本件カラー・ビデオテープの「ポルノコンサルタント」、「ワイルド・パーテイ」及び「ブルーマンシヨン」の猥せつ性を認めなかつたのは失当であり、法令の解釈、適用を誤つたというのである。
右の三作品に加えて、便宜上、原判決がほぼ猥せつ性を肯定した「火曜日の狂楽」の各猥せつ性を調査、検討するのに、その内容あらすじは後記の別紙(一)ないし(四)の下欄の各(イ)に記載のとおりである。
それらは一見して明らかなように、いずれも男女の性交、性戯、女性の自慰、女性同志のレスビアン(以下「レズ」という。)シーンの場面が大半を占める一方、物語の筋は単純で、それが展開するというよりは右の各性愛場面をつなぎ合わせる程度の意味しかないのである。そして、性愛場面の描写をみると、男女の性器そのものを写さず、また関係証拠によれば、男女の性交や女性陰部に手指や擬似陰茎などをさし入れる場面も、実際に性交をしたり陰部にさし入れたりしているのではなく、俳優があたかもそのような場面にみえるように演技していることが認められる点で(陰部付近と陰部付近とを接触させずに体位をずらしているところもある)、いわゆるブルーフイルムとの違いは肯認されるのであるけれども、それにしても、本件四本のビデオテープの描写は全体としてきわめて大胆、露骨、執ようであり(そのうち、とくに刺戟の強い場面として別紙(一)ないし(四)の下欄の各(ロ)記載のものがあげられる)、一般のポルノ映画などに多くみられる「ぼかし」はなく、腰部付近に遮蔽物を置くなどの措置もほとんどとられず、性交場面等を容易に連想させる全景(フルシヨツト)が多いのみならず、男女とくに女性が喘ぎ悶え、ついに絶頂感に達するまでの音声が克明、執ように録音されているのであり、これらの男女、また女性同志の姿態、動き、色彩、音声などが知的な連想作用をまたず、視覚、聴覚を通じて直接的に訴える効果・迫力は甚だ強いものがあり、このような点でいわゆるポルノ小説類の性愛場面の描写と同一に論ずることはできないものがある。
これらの本件四本のビデオテープを前示の規範的な意味合いをもつた社会通念、すなわち良識に照らして判断すれば、いずれも刑法一七五条にいう猥せつ性をもつものと認めるのが相当である。
(二) 原判決は、本件のビデオテープの内容・特徴として別紙(一)ないし(四)の上欄の記載(原判決別紙(一)ないし(四)と同一。但し、本判決別紙の方では、その順序を変えた。)をあげ、そのうち「火曜日の狂楽」については猥せつ物の疑いが強いと認めているが(但し、その刺戟の強い場面などの指摘は当裁判所の認めるところと比較すると、不十分である)、その余の「ポルノコンサルタント」「ワイルド・パーテイ」「ブルーマンシヨン」の三本についてはいくつかの論拠をあげてその猥せつ性を否定している。
まず、右三本の作品につき、原判決の指摘する、その内容・特徴は「別紙(一)、(二)、(四)の上欄)、当裁判所の認めるそれ(同下欄。なお、前説示参照)と比較すると、重要場面の欠落しているものが少なくないのであり(たとえば、「ポルノコンサルタント」では、男が女の背後からする性交場面、天拘の面をつけた女と別の女との性愛場面((別紙(一)下欄(ロ)の(3)、(4)))、「ワイルド・パーテイ」では立つた一人の女と二人の男との性愛場面((別紙(二)下欄(ロ)の(1)))、「ブルーマンション」では女同志の性愛場面((別紙(四)下欄(ロ)の(2))))、なお、原判決には特定の場面の継続時間を過少に指摘した部分も何か所かあり、また原判決は、その別紙においても本文においても音声に全く触れていないなど、その把握は十分ではないといわなければならない。
次に、原判決は、前示のように世間に上映ないし販売されている映画、小説、性具などを猥せつ物ではないと前提したうえ、弁護人提出のビデオテープなどと本件ビデオテープとを比較して本件の方が演技の程度や表現の仕方について露骨さは強いが、それは質的な差異とまでは認められないとするのであるが、右のような前提が誤りであることはすでに述べたとおりであり(世間に上映、上演ないし販売されているものの中には相当いかがわしいものも混つていることは公知の事実といつてもよく、なお、本件の「ブルーマンシヨン」の中に出てくる電動式擬似陰茎((別紙(四)、(ロ)の(1)))はその形状が勃起、怒張した陰茎に酷似しており、この程度に至つたものが一般に販売されれば取締りの対象になる蓋然性もあろうし、また一般の書店や図書館にある書籍の中にたまたまそのような部分が含まれていたとしても、これらの書店等は取締りの機関でもなく、また購入にさいし事前に一々そのような審査をするものでもないことが指摘できるだろう)。また以上の点を度外視してみても、本件の四本のビデオテープはその露骨さ等において弁護人提出のビデオテープ、映画に比べてかなり甚だしいものと認められる。
また原判決は、本件の各ビデオテープの性交等の場面が実際の性交等でなく演技によりそれを暗示させるにすぎないとしてこれを猥せつ性否定の一理由としているが、演技ではあつても実際の性交等とほぼ同じような刺戟的効果をあげることは可能であり、本件の各作品の大半の場面はその程度にまで至つていると認められる。
さらに、原判決は、本件の各ビデオテープの性愛場面は、健全な性生活の経験者たる一般成人からみれば現実の性生活とはかけはなれて作られた演技であることが理解されるため、それが猥せつ感を失わせる一要素ともなつているというが、右のような限られた範囲の者を規準にして猥せつ感を測るのは妥当でなく、また本件の各作品にあらわれる性交、性戯場面等は必ずしも現実にありえないものとまではいえないといえる。
(三) 以上によれば、四本のビデオテープはいずれも刑法一七五条にいう猥せつの図画と認めるに十分であるから、「火曜日の狂楽」をのぞく三本のつきその猥せつ性を否定した原判決の認定、判断には誤謬があるものといわなければならない。
三 そして、前掲の一で述べたように、原判決には猥せつ性の有無を判断する規準及び方法に過誤があるから、ここに原判決には法令の適用に誤があって、その誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであるというべく、この点の論旨は理由がある。
論旨第二について
(一) 所論は、原判決は、本件のビデオテープのうち「火曜日の狂楽」の猥せつ性を認めながら、刑法一七五条の犯意の中には猥せつという「規範的構成要件要素」が含まれると解されるのに、「火曜日の狂楽」については、「被告人はわいせつ物に該当しないと信じて販売し、そう信ずるについて客観的に合理的な理由があつたので被告人に犯意がなかつた」というが、右のような解釈・判断は、刑法一七五条の犯意の成立につき、問題となる記載の存在の認識とこれを頒布・販売することの認識があれば足れりとする、いわゆるチヤタレー事件最高裁判決に違反するのみならず、被告人は本件の各ビデオテープの内容を熟知し、その販売の認識を有していたことは明らかであるうえ、本件の各ビデオテープの内容に徴すれば、原判決がいうように被告人が陰部などと錯覚されるおそれのある部分を削除させたなどとはいえず、むしろ被告人は出演者に対し徹底的かつ極限までの露骨な演技を要求しているし、その他の原判決のあげる理由はすべて猥せつ性を否定する事由とは無関係である、要するに原判決は刑法一七五条の解釈・適用を誤り、刑法三八条一項を適用すべきでないのにこれを適用して被告人を無罪とした違法がある、というのである。
ところで、チヤタレー事件最高裁判決において所論指摘のように判示し、さらに「猥せつ性に関し完全な認識があつたか、未必の認識があつたにとどまつていたか、または全く認識がなかつたかは……犯意の成立には関係がない。」と述べている点などについて考えると、右判決の趣旨を忖度しても本件ビデオテープの性的描写の意味内容に関する認識がない場面も犯意が成立するということまでを意味しているとはいえないし、また右判決の趣旨が本人において猥せつ性がないと信じ、かつそのように信じたことについて、どのような客観的明白な事情があつても常に犯意を阻却しないことまでを含むかどうかについては、多分に論議の余地を残すところである。なお、所論は原判決において「被告人はわいせつ物に該当しないと信じて販売し、そう信ずるについて客観的に合理的な理由があつたものと認められる」ことを理由として犯意がなかつたとした点につき判例違反を主張するけれども、右のような事実関係が認められることを前提として初めて、判例違反の問題が登場するのであつて、この事実が否定されると、判例違反の有無を判断する必要がなくなるのである。従つて、次に被告人が本件ビデオテープについてどのような認識をもつていたか、それが犯意との関係でどう評価されるかを検討し、併せて原判決のいう右の前提事実が認めらるかどうかを究明してみる。
(二) ところで、原判決は、本件のビデオテープのうち、「ポルノコンサルタント」、「ワイルド・パーテイ」及び「ブルーマンシヨン」の三作品についてはその猥せつ性を否定したため、犯意に関しては「火曜日の狂楽」についてのみ判断しているが、すでに述べたとおり右の三作品についても猥せつ性が認められるから、ここで一括して判断する。
関係証拠によれば、被告人は日活株式会社のテレビ本部ビデオ事業部長として、本件の各作品の企画に関与したほか、いずれもその撮影、オールラツシユ(フイルムの荒編集)、試写に立会つたことが明らかであるから、その各内容は熟知していたことが認められる。
もつとも被告人の司法警察員、検察官に対する各供述調書及び原審公判廷における供述によると、前記の各段階で被告人は陰部等のように錯覚を与えるおそれのある場面の一部削除を指示したことが窺われるが、それにもかかわらず完成した本件ビデオテープの性愛場面の内容等はすでに明らかにしたとおり全体としてきわめて大胆、露骨、執ように表現されているから、被告人が本件ビデオテープにおける性的描写のもつ意味内容を充分に知悉していたことは明らかであるといわねばならない。
このことは、本件の「ワイルド・パーテイ」に女優として出演した原審証人磯部陽子の供述により認められる事実、すなわち同女は乱行場面のアクシヨンがかなりオーバーであつたため、渡辺監督及び撮影に立会つていた被告人に対し「やりすぎじやないの」といつたところ、被告人は「日活ではこれから、もつとポルノシーンの多い映画を作つていくから大丈夫だ。」と答えたという事実からも充分に裏付けられるのである。
そうであるとすれば、その余の判断をするまでもなく、本件につき被告人に犯意があつたことは、明白といわねばならない。
他方、以上の事実にかんがみると、本件ビデオテープにつき、原判決がいうような「被告人がわいせつ物に該当しないと信じた」とか、「そう信ずるについて客観的に合理的な理由があつた」などと認めることのできないことはいうまでもないところである。
なお、原判決のかかげるその余の犯意を否定する論拠は、仮にそのような事実があつたとしても、いずれも犯意の成立を阻却する事情にはあたらないものと考えられる。
(三) 以上によれば、所論のうち判例違反の主張については、前示のようにその主張の前提をなす事実関係が認められないのである。従つて、判例違反の有無について判断する必要はないのであるが、原判決において被告人は本件ビデオテープにつきオールラツシユや試写の段階で一部の場面の削除をさせたことやその他の事実を認定したうえ、それらの事由があるため本件のビデオテープが猥せつ物に該当しないと信じて販売し、かつそう信ずるについて客観的に合理的な理由があつたと認めて本件の犯意を否定し被告人を無罪としたのは、結局において事実を誤認し、ひいて判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りがあるものというべく、この点の論旨も理由がある。
(弁護人の公訴棄却の主張について)
弁護人は、原審において、(イ)同種の映画、印刷物などのうち本件の作品だけを、事前の警告もなしに検挙・起訴するのは公正を欠く、(ロ)本件の公訴事実は憲法二一条の趣旨に照らして犯罪を構成しないのに、あえて起訴したのは同条に違反する、(ハ)本件の捜査と起訴は、個人の基本的人権の保障を全うしつつなされなければならないとする刑訴法一条の精神に違反する、よつて本件公訴の提起は公訴権の濫用として公訴が棄却されるべきである、と主張している。
これに対し、原判決は、「……実体上の審理をして被告人を無罪と判断したからには……(右)の申立についての判断を示す必要はないと解する」として判断をしていないが、右主張は実体判決の前提となる問題であるから、原判決の説示判断は不当といえる。
そこで、右の主張に対して簡単に判断を示すと、(イ)本件の各ビデオテープはいずれも猥せつ性が認められ、本件事案の内容・規模などからみて本件の起訴が公正を欠くとは思われない、なお、捜査に事前の警告を要するものではない、(ロ)本件の各ビデオテープは猥せつ物にあたるから、これを販売することが犯罪を構成することはもち論であり(販売の相手方が会社等であつても犯罪の成立には変りがない)、所論違憲の主張はその前提において採用できない、(ハ)記録を精査しても本件の捜査と起訴が刑訴法一条の精神に違反するとは考えられない。
従つて、公訴権濫用の主張は採用できない。
そこで、刑訴法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがい次のとおり自判する。
(罪となるべき事実)
被告人は、映画、ビデオテープ等の製作、配給、販売、興業などを業とする日活株式会社(本店所在地、東京都千代田区有楽町一丁目一番地)のテレビ本部ビデオ事業部長として、同会社の製作にかかるビデオテープにつき、その企画、製作、販売等の業務一切を統轄掌理していたものであるが、同会社関西支社のビデオ事業部課長たる鈴木国雄及びビデオ事業部係長たる中田和彦と共謀のうえ、末尾添付の別表記載のとおり昭和四六年一二月二三日ころから昭和四七年一月一五日ころまでの間、二一回にわたり、大阪市天王寺区小橋町二番地の一の日進電響株式会社ほか一九か所において、同会社ほか一九名に対し、日活株式会社の製作にかかり、男女の俳優をして性交、性戯、女性相互間の性戯などの姿態、発声などの露骨な演技をさせ、これらを撮影、録音した多数の場面を包含する「ポルノコンサルタント」、「ワイルド・パーテイ」、「火曜日の狂楽―赤坂の女」及び「ブルーマンシヨン」と題する猥せつのカラー・ビデオテープ合計八九巻を、代金合計二三〇万九〇〇〇円で売り渡し、もつて猥せつの図画を販売したものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示行為は包括して刑法六〇条、一七五条前段、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号、二条一項(刑法六条、一〇条による。)に該当するので、所定刑のうち罰金刑を選択し、その金額の範囲内で被告人を罰金二〇万円に処し、被告人において右罰金を完納することがきないときは刑法一八条にしたがい金四〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置し、なお刑訴法一八一条一項本文にのつとり原審及び当審における訴訟費用の全部を被告人に負担させることとする。
(量刑の理由)
本件は、日活株式会社のテレビ本部ビデオ部長の立場にあつた被告人が部下と共謀して猥せつなカラー・ビデオテープ四種類、合計八九巻を延べ二一名に対し代金合計二三〇万九〇〇〇円で販売したという事案である。
本件ビデオテープがいわば会社ぐるみで組織的に企画、製作され、販売されたこと、被告人はその中心的人物であつたこと、その販売巻数、代金額が少くないこと、販売先も広範囲に及んでいることなどを徴すると、その刑責は軽視することができないのであるが、ひるがえつて本件のビデオテープはいわゆるブルーフイルムの類とは異なること、その犯行に組織性が認められる反面、この当時の観覧者は主としてモーテルの利用者などが予想されその意味では一般への影響が限定された面もあること、被告人は個人的な動機から本件の挙に出たものでなく、会社の営業方針にしたがい組織の一員としての立場で関与したものであること、本件につき捜査の手が伸びるや被告人は直ちに販売したビデオテープの回収をはかつたこと、被告人には前科・前歴はなく、誠実に勤務し業績をあげてきたものであることをも勘案し、所定刑のうち罰金刑を選択して主文のとおり量刑した。
よつて主文のとおり判決する。
(藤野英一 藤島利行 渡邊達夫)
別紙
原審の認定
当審の認定
(一) ポルノコンサルタント(映写時間三〇分)
冷感症の女性を、性の歓びを得るように指導するというもの。
刺戟の強い揚面
(1) 男が女のパンテイを脱がせ、手指を女性陰部にそう入することを想像させる場面。
(2) 女性の乳房を男および女が口唇、舌先で愛撫する。
(3) 女性同志が重なつて、互に陰部付近を密着させて腰を動かす全景。
(4) 仰臥している男の腰部に女性がまたがつて腰を動かし、女上位の性交を想像させるところ(全景で数秒)。
(二)ワイルド・パーテイ(映写時間三〇分)
新宿の深夜喫茶店で二人の男が体験したというもの。
刺戟の強い場面
(1)全裸女性上位で、男の上に重なつた女性が腰を動かす。
(2)仰臥の男の上に重なつた女性がはげしく腰を動かす(特に女の腰の動きを強調している)。
(3)膝をついている女性(全裸)の背後から男(全裸)が抱きついて腰を動かす。
(三)火曜日の狂楽(映写時間約四〇分)
刺戟の強い場面
(1)パンティ姿の女性が股を開げ、男の指がパンティの上から女性陰部付近を愛撫する。そのあと男女が全裸で重なり、男が腰を動かす(全景)。
(2)男の上に女性が重なり、女性が腰を動かす(数秒)。女性の上に男が重なり、女性の腰に手をあててこれを動かし、また女性の片足をもちあげて腰を動かす(いずれも数秒)。うつぶせの女性の上に男性が重なり腰を動かす(数秒)。
(3)女性同志で、仰臥している女性の股の奥の方にマッサージ器具を押しあてる。
(4)女性同志が互角になつて陰部と陰部を互に密着させて腰を動かしあう。
(四)ブルーマンシヨン(映写時間約三〇分)
若夫婦、女子高校生、大学生の性関係を題材にしたもの。
刺戟の強い場面
(1)男性性器を模倣したバイブレーターを用い、女性同志が互に相手の乳房、陰部付近を刺戟する。
(2)大学生と女子高校生との性交を見ながらもう一人の女子高校生がパンテイの中に手を入れて自慰する。
(3)浴室での性交で、腰を動かしている場面数秒。
(4)男二名、女三名の乱交で、全裸で体を密着させているところ一分乃至二分、乳房をもんでいるところ数十秒。
(一) ポルノコンサルタント(映写時間約三〇分)
(イ) 内容とあらすじ
ポルノコンサルタントの男が性行為を通じて冷感症の女や「レズ」をする女の治療をするというもの。
夫Xが妻Aの冷感症の治療をケンなる男に頼む。ケンがAと性交して絶頂感に到達させる。ケンが別の女Bを愛撫したあとに性交する。Bからケンに友達の「レズ」の女を治してくれと頼む。天狗の面をつけた女Cと女Dとの「レズ」シーンがあり、そこにケンがきてD、ついでCを愛撫したり、これらと性交したりする。
(ロ) とくに刺戟の強い揚面
(1) ケンが長襦袢姿の女Aの股間に手を入れ、その陰部付近らしき所を愛撫するところを股間に焦点をあてて撮影。
(2) ケンが女Aと正常位の体位で重なり、互に腰を動かして、Aは悶絶する(悶絶するまでの場面の大写し)。
(3) ケンが女Bのパンテイを脱がせ、手指をその陰部付近らしき所にさし入れたあと、床に膝をつき手をベツドのへりにかけた全裸のBの背後から、下腹部を密着させ腰を動かすところ。
(4) 天狗の面をつけた女Cが面の長い鼻を仰向けに寝ている女Dの陰部付近らしき所にさし入れ、面をとつてからDの股間に顔を埋めるところ。
(5) 全裸の女C、Dが互に陰部付近らしき部分を密着させて腰を動かし、また仰向けになつた女の腰部付近に他の女が背を向けてまたがり、互に陰部付近らしき所を刺激しあうところ。
(6) 仰向けになつた男の腰部付近に女がまたがつているところ。
(二)ワイルド・パーティ(映写時間約三〇分)
(イ)内容とあらすじ
二人の男が新宿の深夜喫茶店の特別会員となり、男女の性交、女性の「レズ」、自慰、複数の男女による乱交などをつぎつぎと見たり体験したりする。
(ロ)とくに刺戟の強い場面
(1)全裸の女が片足で床に立ち片足を拡げてカウンターにかけると、男Xが前から女の足の間に膝をついて女の腰を抱き、その股間部らしき所に顔を埋め、男Yは立つて女の乳房を吸う、女は腰を動かし、Xの肩に足をかけて悶える。
(2)仰向けになつた全裸の女の上に全裸の男が正常位の体位で重なるような恰好をし、女の片足を自己の肩にかけるところ。
(3)仰向けになつた全裸の男の上に女が乗馬位の体位でまたがるような恰好をし、激しく腰を動かすところ。
(4)複数の全裸の男女による乱交場面中、全裸の女が自慰するような仕草をするところをその下腹部に焦点をあてて撮影したところ。
(5)複数の全裸の男女による乱交場面中、四つんばいになつた女の臀に男が下腹部を密着させ、互に体を激しく動かし、女が悶える(全身と各部分の大写し)。
(三)火曜日の狂楽(映写時間約四〇分)
(イ)内容とあらすじ
バーのホステス二人と男客との間およびホステス同志の性交渉を描いたもの。
ホステスのナオミとミキは、実際にはマンシヨンの同じ部屋を借りているのだが、ナオミが客の宮内にマンシヨンの部屋を借りて貰う約束をし、ホテルの客室、ついで浴室で性交する、ミキが別の客の立花に同じくマンシヨンの部屋を借りて貰う約束をし、ホテルで性交する、次にナオミがマンシヨンの部屋で宮内と性交する、そして、宮内のくる日を月、水、金曜日とする、ミキが立花と同じ部屋で性交する、そして立花のくるを日を火、木、土曜日とする、最後にナオミとミキとの間でガラス筒にゴムのついたスポンジ式の吸引器や擬似陰茎を使つたりしてのレズシーンがある。
(ロ)とくに刺戟の強い場面
(1)パンテイ姿のナオミが股を拡げ、男の宮内がパンテイの上から女の陰部付近らしき所を愛撫する、二人が全裸で重なるような恰好をし、はじめ女が馬上位となつて共に腰を動かす、ついで四つんばいになつた女の臀部に男が下腹部を密着させて腰を動かすところ。
(2)ミキが立花の上にいわゆる茶臼の体位で乗り、つぎに女上位の体型をとるところ。
(3)宮内とナオミがマンシヨンの部屋で正常位で重なるような恰好をし、男が女の片足を持ち上げるところ。
(4)立花がマンシヨンの部屋でうつぶせになつた女ミキの臀部に下腹部を密着させているところ。
(5)ナオミとミキの「レズ」シーンで、ナオミが前示スポイト式吸引器でミキの股の奥の方らしき部分を吸引するところ。
(6)ナオミとミキが互角となつて相互の陰部付近らしき所を密着させたり、ミキがナオミの臀の方から擬似陰茎をさし入れる、なお、女の肛門の近がく黒ずんでみえるところの大写し。
(四)ブルーマンシヨン(映写時間約三〇分)
(イ)内容とあらすじ
若夫婦、女子高校生、大学生間の性関係を題材にしたもの。
若夫婦が性交し、外出する。妻の妹の女子高校生Aが擬似陰茎を使つて自慰し、つづいて友人Bとの「レズ」シーンがある。大学生XがきてAと性交し、Bはそれをみながら自慰する。浴室でシヤワーを浴びているAの臀部にXが下腹部を密着させ、立つたまま性交する。帰宅した夫がAをベツトに連れ込み、全裸で性交する。帰宅した妻とX、また夫とBのほかにAも加わり、乱行となる。
(ロ)とくに刺激の強い場面
(1)電動式擬似陰茎を口にくわえるようにした女Aと全裸の男Xが股間を交差させる恰好をした姿態、AがBの陰部付近らしき所に右擬似陰茎をさし入れるところ。
(2)女A、Bによる、いわゆるシツクス・ナインの同性愛場面で上になつた女の股間から下の女が顔をのぞかせ、舌で上になつた女の陰部付近らしき所を愛撫するところ。
(3)全裸の男女XとAが重なつて動作するのを目撃した女子高校生Bがパンテイの中に手を入れて陰部らしき所をもてあそぶところ。
(4)浴室の壁に両手をついて体を支えている全裸女のAの臀部付近に裸の男Xが下腹部を密着させる、男が腰を動かし、女が喘ぎ悶える場面。
(5)全裸の男二名、女三名が入り乱れて、重なるような恰好をしたり、抱きついたり、腰を動かしたりするところ。
<参考・第一審判決>
(東京地裁昭四七刑(ワ)第七三〇八号、わいせつ図画販売被告事件、昭50.11.26刑事第一七部一係判決)
〔主文〕
被告人は無罪。
〔理由〕
一 本件公訴事実は、
被告人は、映画・ビデオテープ等の製作・配給・販売・興業等を業とする日活株式会社(本店の所在地、東京都千代田区有楽町一丁目一番地)のテレビ本部ビデオ事業部長として、同社の製作にかかるビデオテープにつきその企画・製作・販売等の業務一切を統轄掌理するものであるところ、同社関西支社のビデオ事業課長である鈴木国雄及び同支社ビデオ事業係長である中田和彦と共謀のうえ、別表記載のとおり昭和四六年一二月二三日ころから同四七年一月一五日ころまでの間、二一回にわたり、大阪府大阪市天王寺区小橋町二番地の一所在の日進電響株式会社ほか一九か所において、同社ほか一九名に対し、日活株式会社の製作にかかり、男女の俳優をして、性交・性戯・婦女相互間の性戯等の姿態・発声等の露骨な演技をさせ、これらを撮影・録音した場面等多数を包含する「ポルノコンサルタント」、「ワイルド・パーテイ」、「火曜日の狂楽―赤坂の女」及び「ブルーマンシヨン」と各題するわいせつのカラービデオテープ合計八九巻を、代金合計二三〇万九、〇〇〇円で売り渡し、もつて、わいせつの図画を販売したものである。
というにある。
二 被告人が公訴事実記載のとおりの身分関係にあつて、公訴事実記載のとおりその年月日に各カラービデオテープ四種類合計八九巻を代金合計二三〇万九、〇〇〇円で売り渡したことは当事者間に争いがなく被告人も認めるところであつて関係証拠によりこれを認めることはできる。
そして、そのカラービデオテープの内容、特徴は別紙(一)乃至(四)のとおりである。
三 ところで、わいせつの図画(又は文書)とは、これを看る者をして徒らに性欲を刺戟興奮させ、又は正常な性的差恥心を害せしめるという他人に対する心理的影響を与えるものであるから、わいせつの概念は社会通念によつて定まり、時代の一般文化を背景として変遷することを免れ得ない。
従つて、本件起訴の対象になつたビデオテープがわいせつ物に該るかどうか判断するに当つては、まずこれらが製作・販売された昭和四六年頃から現在に至るまでの間における一般市民の意識、感情をとらえなければならないわけであるが、これを直接的に把握することは不可能に近いので(検察官申請の証人植野智之、平野俊夫、眞鍋捷宏、山本達雄、林昭夫は、本件起訴にかかるものは見ているが弁護人提出にかかるものは見ていないので、これらの証人の証言、平野俊夫の検察官に対する供述調書によつてはこの点が把握されているとすることはできない。)、巷間で公然といかなる内容の成人映画が上映されているか、また一般書店でどのような内容のポルノ雑誌や官能小説類が陳列販売されているかをみることが確実な方法である。そこでこの点について以下に考察してみる。
四 弁護人は、反証として、ビデオテープ六本、即ち「空中セツクス」(洋画)、「新妻」(日活)、「華麗なる情事」(日活)、「媚薬と女子大生」(日活)、「愛欲天国」(洋画)、「うまい話に御用心」(東映)と、映画フイルム二本、即ち「団地妻昼下りの情事」(日活)、「女紋交悦」(葵)を提出し、また公訴権濫用を主張してその証拠としてのいわゆるポルノ雑誌類を提出した。これらのうち、ビデオテープや映画フイルムの内容、特徴は別紙(五)乃至(一二)のとおりである。
これら弁護人提出のビデオテープ、映画フイルムが公然と上映され、また右の雑誌類が一般書店で陳列、販売されていて、雑誌「女性自身」を除いては取締りの対象とはならなかつたこと、本件起訴されたビデオテープ、弁護人提出のビデオテープ、映画フイルムの各揚面で用いられた「性具」は大人のおもちやとかポルノシヨツプと云われる店頭で一般に販売されていて前同様に取締りの対象とならなかつたこと、以上は公知の事実であるし検察官も争わない。
また、官能小説と云われる作品が単行本となつて書店で販売され、週刊誌にも連載されていて、例えば別紙(一三)と(一四)の小説は公立図書館においてすら閲覧、貸出に供されており、別紙(一五)の小説は一流週刊誌といわれるものに連載されたことも公知の事実である。
公然と上映されたり、一般書店で販売されているからと云つて当然にそれがわいせつ物とならないわけではない。しかしそれが数多くあつて、長い期間取締りの対象にならず、一般大衆が特段の抵抗も感じないで観覧、又は閲覧しているという状況があればそれはもはやわいせつ物とみることはできないというべきである。
このような状況をみると、いわゆるポルノ作品は大衆娯楽として定着しているということができるし、検察官においても、弁護人提出の前記証拠物に関しては最も刺戟が強いと思料される「うまい話に御用心」も含めてわいせつ物でないという前提に立つて論告している。
五 そこで次に、起訴の対象にされた本件各ビデオテープのうち「火曜日の狂楽」を除いてその余の作品を弁護人提出のビデオテープや映画フイルムと比較検討してみると、たしかに起訴されたビデオテープの方が演技の程度や表現の仕方について露骨さが強いということはできるが、弁護人提出のものについても露骨さはあるのであつて、その両者には、本件起訴にかかるものにはわいせつ性があつて弁護人提出のものにはそれが無いとか、又は、本件起訴にかかるものは公訴提起に価するほど違法性が強いが弁護人提出のものはそれほどのものでないとかいつた程度に両者を区別できるほどの質的相違又はいちじるしい量的相違があるとまでは認められない。弁護人提出のビデオテープについても、全裸で男女が重なつて性交を演技している場面(「新妻」「うまい話に御用心」)、腰を動かしている場面(「華麗なる情事」「うまい話に御用心」)、執拗に愛撫をくり返す場面等があり、結局は量的な違いはあつても質的な相違にまでは至らない。
男女の陰部や性行為の場面そのものを直接撮影した作品がわいせつ物であるとみることに争いがないが、性交又は性的行為の間接的又は暗示的な描写をした作品はこれと同視できない。本件各ビデオは、起訴の対象になつたものも弁護人提出のものもともに性戯又は性交を暗示させるような行為を演技したものであつて性行為そのいものではない。この種のもののわせつ性の有無の判断は、この演技から受けた暗示の結果が性欲を著しく刺戟せしめるかどうかという観点からではなく(そうだとすると、いかなる間接的表現方法も許されないこととなる)、演技それ自体の表現方法が如何であるかという点からのみ判断すべきである。従つて、作品のテーマ、題材が、乱交、人妻との不倫な関係、同性愛といつた不健全な性関係を描いたものであるか否かということはその判断に関係のないことである。
本件の起訴の対象となつた各ビデオテープを、もし家庭で映写したら家族でこれを看ることに耐えられないものであるし、また性的に未経験な又は未熟な青少年がこれを観た場合に悪い影響を与えるおそれがあることも否定できない。しかし、これは弁護人提出のビデオテープや映画フイルムについても同様のことが云える。また、弁護人提出の雑誌類の写真では、女性の性器そのものは写つていないものの、尻の割れ目が写つていたり、下着を通して性器のふくらみ又は輪郭がそれと分るもの、女性の全裸でのレズシーン等があつて刺戟が強烈であるし、別紙(一三)乃至(一五)の小説は、女性性器を花びら、つぼみ、オブラート、崖等一見してそれと分る別の言葉で表現し、性器の状態、愛撫状況、それによつて興奮により性器が変化して行く様子を巧みな筆致で描いており、その表現の仕方は具体的であつて直接的刺戟が強いということができる。
六 ところで、本件起訴の対象になつたビデオテープのうち、「火曜日の狂楽」を除く他のものは、健全な性生活を経験している一般成人がみれば、奇異な感じを受けるものであつて、これが意図的に作られた演技であつておよそ現実の性生活とは遠いものであることが容易に看破でき、それがかえつてわいせつ感を失わしめる一要素ともなつているのに対し、右の「火曜日の狂楽」は、現実感のある演技をきわだつて強く表現している個所がある。即ち、パンテイ姿で股を開げた女性の陰部付近を男が指先でパンテイの上から愛撫するところを股部に焦点をあてて撮影した場面、仰向けの女の上に男が重なり、女の片足をもちあげて腰を動かす場面、女性同志が互角になつて相互の陰部付近を密着させて腰を動かす場面がそれである。この程度の表現に至ればわいせつ物であるとの評価を加えられても止むを得ないものと思料される。しかし、この作品についても以下に述べる理由により被告人につき犯罪は成立しないと認めるものである。
七 刑法一七五条の故意の中には規範的構成要件要素が含まれると解されるから、前述のとおり「火曜日の狂楽」がわいせつ物に該るとの疑いが強いので、次に被告人に犯意があつたか否かを考慮してみる。
被告人の当公判廷における供述、司法警察員に対する昭和四七年二月一七日付、同月一八日付各供述調書、検察官に対する供述調書によると、被告人は、各作品のオールラツシユ(フイルムの荒編集)や試写の段階において、ライトの照写工合からして陰毛、陰部、尻の割れ目などのような錯覚を与える部分のように描写に不適当であるものを被告人の判断において削除させたことが認められるし、また、被告人の当公判廷における供述、司法警察員に対する昭和四七年二月一九日付供述調書によると、被告人は、本件起訴にかかる各ビデオテープについてわいせつ物であるとの嫌疑をうけて徳島県警より捜査をうけるや、自主的に支社又は営業所に指示をしてその販売をとりやめてこれを回収せしめ、警察の捜査、取調べに対しては積極的に協力したことも認められる。次に、証人松尾景雄、浜辺正晴に対する尋問調書、被告人の当公判廷における供述を綜合すると、公然と上映されている成人向けの映画や実演に対するわいせつ性の有無に関する評価の仕方が、右地方の土地柄もさることながら、取締担当者によつて異なり、必ずしも一致していないと推察される。更に、証人谷口好雄に対する尋問調書、被告人の当公判廷における供述と検察官に対する供述調書によると、映画の場合における映倫に相当する機関が、ビデオテープに関しては本件の製作当時は未だ無く、本件の検挙後はそれをきつかけとして設置されるに至つたものである、本件の検挙と相前後して、映倫の審査を経た映画も検挙され、その後になつて映倫の審査基準がきびしくなつたこと、等の事実並びに日活が以前から販売していたビデオテープについては、本件起訴にかかるものに至るまでのものについてはもとより、本件作品についても取締当局より警告等の措置かとられなかつたことが認められる。そして、前述のように、性風俗を露骨に描写した映画、写真雑誌類、小説等が氾濫している中でこの種の作品を製作、販売する者が他のものとの比較において許容される限界内にあると信じてなしたことが取締る側からみてその限界を超えていると判断されることは度々あると思料されるところであつて、本件起訴の対象になつた作品はそのようなものに該当したものと認められる。(なお、前記認定事実をあわせ考慮すると、被告人は、取締当局から注意又は警告があれば、あえてそれに反してまで本件作品を製作販売するまでには至らなかつたことも推察される。)
そうすると、「火曜日の狂楽」については、被告人はわいせつ物に該当しないと信じて販売し、そう信ずるについて客観的に合理的な理由があつたものと認められるから、右作品について被告人に犯意がなかつたというべきである。
八 以上のように、「ポルノコンサルタント」「ワイルド・パーテイ」「ブルーマンシヨン」はわいせつ物と認めるまでには至らず、「火曜日の狂楽」については被告人に犯意が無かつたと認められるので、弁護人主張の他の事項につき判断を加えるまでもなく被告人は無罪であるし、また実体上の審理をして被告人を無罪と判断したからには、公訴棄却を求める弁護人の申立についての判断を示す必要はないと解する。
よつて刑事訴訟法三三六条に則り主文のとおり判決する。
(斎藤清美)
別紙(一)~(一五)及び別表<省略>