大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和54年(あ)2018号 判決 1980年11月28日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人川端和治、同竹内康二、同松井るり子の上告趣意第一の一について

所論は、憲法二一条違反をいうが、刑法一七五条が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所大法廷判例(昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日判決・刑集一一巻三号九九七頁、同三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。

同第一の二について

所論は憲法二一条、三一条違反をいうが、刑法一七五条の構成要件は所論のように不明確であるということはできない(前掲最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決参照)から、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第一の三、四について

所論は、憲法三一条違反をいうが、刑法一七五条には合理的な存在根拠があり、したがつて、これが憲法三一条に違反するものでないことは、当裁判所大法廷判例(前掲昭和三二年三月一三日判決)の趣旨に徴し明らかであるから、所論は理由がない。

同第二の一、二について

所論は、憲法三一条違反をいうが、いずれも実質は単なる法令違反の主張であり、適法な上告理由にあたらない。

同第二の三について

所論は、判例違反をいうが、所論引用の各判例は、事案を異にし本件に適切でなく、適法な上告理由にあたらない。

同第三の一について

所論は、判例違反をいうが、原判決は、わいせつ文書販売目的所持罪の故意の要件として、当該文書の問題となる記載の存在の認識が必要でないというまでの判断をしているものでないことは、判文上明白であるから、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第三の二について

所論は、憲法二一条違反をいうが、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四〇八条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(宮崎梧一 栗本一夫 木下忠良 塚本重頼 鹽野宜慶)

弁護人川靖和治、同竹内康二、同松井るり子の上告趣意

第一 刑法第一七五条の違憲性

一、憲法二一条違反

原判決は、「表現の自由も絶対無制限なものではなく、権利の濫用が禁ぜられ、公共の福祉に反することは許されないのであるから、性生活の秩序及び健全な風俗を乱し、国民生活全体の利益に反する内容の文書を販売する目的で所持するなどの行為をした者を、事後に処罰することまでも認めない趣旨のものとは思われない。刑法一七五条は、右のような行為を処罰する規定であつて、憲法二一条に違反するものではない(最判昭和三二年三月一三日・刑集一一巻三号九九七頁、最判昭和四四年一〇月一五日・刑集二三巻一〇号一二三九頁参照)。」と判示する。

しかしながら、「公共の福祉」というような抽象的でかつ漠然とした基準による言論の自由の制限を許容することは、事実上明治憲法の時代まで逆行して法律の留保を認めるに等しいものであり、また表現の自由が基本的人権の中で占める優越的地位を理解しないものである。この意味で原判決が援用する最高裁判例は当然変更されるべきものである。

表現の自由は、その獲得に至るまでの流血の歴史をひもとくまでもなく現代民主主義体制の存立の要であり、政治・文化・経済のすべての基盤として最大限に尊重されるべきであることは言うまでもない。従つて、他の人間の人権の保護と矛盾する限りにおいてのみ、個別的、限定的に表現の自由を制限することだけが、かろうじて許されるにすぎないのである。

刑法一七五条の問題に即して言えば、ある文書の出版・流通がその「わいせつ」性の故に処罰されうるのは、その文書が正常な成人に法律上犯罪とみなされている行為を直接誘起することを合理的疑いの余地なく証明された場合に限られるべきである。ところが、現代の性科学の急速な進展はわいせつ文書と性犯罪の間の因果関係を否定するに至つていることは、弁護人が既に主張・立証したとおりであるから、結局、この原理も働く余地はないのである。

これを「性生活の秩序及び健全な風俗を乱し、国民生活全体の利益に反する内容」であれば処罰の対象とすることが許されるというのでは、事実上、現在思想表現の自由市場において流通している性に関する文書の大半を処罰の対象としても憲法問題とならないことになつてしまうであろう。

最高裁の判例の基準に従えば、「風俗壊乱」を要件として戦前思想表現の弾圧に猛威をふるつた出版法・新聞紙法も、事後処罰の制度に改めさえすれば、合憲ということになるのである。

しかし、現行憲法の下で戦前のように、モーパッサンの「女の一生」やフローベルの「マダム・ボヴァリー」の出版を許さないとする立法が合憲でありうると考えられるだろうか。銃後の兵士の妻の姦通の報道を許さないとする立法を合憲的になしうると考えられるだろうか。そこまで行かなくても、例えば、サディズムやマゾヒズムを扱う表現、近親相姦や動物姦を扱う表現、同性愛を扱う表現といつた、「性生活の秩序及び健全な風俗を乱す」表現を許さないとする立法が現憲法に違反しないなどと考えられるだろうか。

これらの立法が現在許されるはずのないことは、全く疑問の余地がないであろう。

原判決及び最高裁の憲法二一条に関する一見もつともらしい解釈が誤りであることは、このことからも明らかである。

この他に、いわゆる「とらわれの聴衆」に対する配慮から表現の自由の規制を考える余地はあるが、写真や図画と違い、わいせつ文書の場合、読みたくない自由を侵害してしまうケースを考えることは出来ないから、この原理による規制を考える余地もない。

従つて、刑法一七五条は、憲法二一条に違反して無効とされるべきであるのに、原判決はこれを看過したものであるから破棄を免れない。

二、漠然性の故に無効

1 表現の自由を規制する法規の極成要件が漠然としていて、規制の範囲が広汎すぎるときはそれだけで、表現の自由に対する侵害として無効となり刑罰法規としてはデュープロセスオヴロー違反及び白地刑法として憲法三一条違反となる。そして、「ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである」とするのが、判例(最判昭和五〇・九・一〇刑集二九-八-五〇四)の説くところである。

米国の連邦最高裁は、この「漠然性の故に無効」の原理について、「この原理は、公明正大な告知と警告の概念と結びついている。そしてそれ以上に、この原理は、立法府に対して、法の執行官や事実の審問官が勝手なあるいは差別的な執行をするのを防ぐため、合理的に明確な指標を設けるよう要求しているのである。」(Smith v. Gouguen, 4/5 U.S.566, 572-573, 94S. Ct. 1242, 1247 39L.Ed.2d 605(1974) )と述べている。

又、左記の最高裁の判例においても、規定の「適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、また、その運用がこれを適用する国又は地方公共団体の機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるからであると考えられる」と指摘しているところである。

いいかえれば一般市民が自らの行動が犯罪になるかどうかが明確にわかる構成要件でなければならないというだけでなく、官憲の勝手な執行を防止できるだけの明確さがなければならないということである。

2 原判決は、わいせつ文書の定義について、いわゆるチャタレイ事件の最高裁判所判決(最判昭和三二・三・一三刑集一一-三-九九七)を踏襲する旨宣言し、第一審判決がチャタレイ判決の「定義」の詳細化、具体化を図り提示した新たな定義に依拠することなくダイレクトにチャタレイ判決の定義に依拠して、「四畳半襖の下張」の文書のわいせつ性を認定した。

しかしチャタレイ判決の定義は、結局のところ「わいせつ」なる漠然とした多義的な言葉を同じように多義的で漠然とし、しかも主観的な価値概念を含む「いたずらに」とか「普通人」とか「正常な性的しゆう恥心」とか「善良な性的道義観念」といつた言葉で置き換えたものにすぎない。これでは、さまざまの異つた性的生活歴や幼児体験を持ち、従つてさまざまに異つた「性欲」の発現と「性的しゆう恥心」と「性的道義観念」を持つた裁判官が、その偏つた目で「わいせつ」になるかどうかを判断することになるのであり、判断の恣意性を防止する途は全くないのである。多くのわいせつ文書事件において、同一事件に審級毎に「わいせつ」かどうかにつき異つた判断が示されているのは、このことを何よりも明らかにしている。

もつとも、原判決は、第一審判決が同一定義を同一文書にあてはめ、わいせつ文書に該当しないと結論したのは、わいせつ文書の定義の適用について、「社会通念」に従つて判断した結果であり、わいせつ文書の定義そのものが揺れ動いていることを示すものではないとしている。

3 それでは、「社会通念」とは官憲の主観的判断にゆだねられることのない明確な指標たりうるであろうか。

「愛のコリーダ」判決(東京地判昭和五四・一〇・九)は、「社会通念」により、わいせつには該当しないと判示した。又、「ふたりのラブ・ジュース」について、「社会通念」に照らしわいせつ文書には当らないとした大阪地裁判決(昭和五一・三・二九判例時報八一二・一二五)を、控訴審(大阪高裁)は、「社会通念」に照らし有罪であると判決した(昭和五四・三・八判例時報九二三・一三七)。

すなわち、一方で「愛のコリーダ」や「ふたりのラブ・ジュース」をわいせつ性なしとするのに多数の国民の「社会通念」が判断基準として使われているが他方、チャタレイ判決のように「相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である『社会通念』の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。」という「社会通念」のとらえ方も又存在する。

仮に、チャタレイ判決の「定義」自体は、客観的に明確であるとするなら、同一定義により、Aおよび非Aの双方を導くことを可能とする「社会通念」こそが定義を定義たらしめる機能を喪失させ、原判決がいみじくも指摘したとおり「揺れ動」いているのであり、構成要件を不明確とする元凶ということになり、裁判官の主観的判断に対する歯止めとはならないことに帰着する。

「社会通念」によつて、憲法三一条違反の問題が解決されないことにつき、奥平教授は正当にも次のように指摘される。

「ある文書、フィルムがわいせつか否かを『社会通念』から判断するという場合、具体的判定は、結局のところ『裁判官まかせ』になつてしまう。ということである。特にフローティング・システムをとつた場合、『社会通念』が変化し、性表現は自由化しているということを認めても、ではどの程度自由化しているのか、つまり、フロートしている(浮いている)部分が、どの程度なのかは、客観化されえないのである。その判断は、裁判官にまかされているため、このような方法は、憲法論の立場から言えば、デュー・プロセスの原則に反し、むしろ好ましくないと思われる。」(法学セミナー一九七九・一二月号五頁)

すなわち、「性表現の自由化にフローティングする『社会通念』と、性表現の自由化に抵抗するものとしての『社会通念』があ」り、いずれの「社会通念」が正しいのかが、客観的に、ゆるぎない根拠を示して論証されなければ、『裁判官まかせ』であり、構成要件の識別基準足りえないとの批判からは、「社会通念」を持ち出したところで、免れることは不可能である。

以上述べたところから、刑法一七五条は、漠然性の故に憲法三一条、二一条に違反して無効であることが明らかであり、これと異なる判断を示した原判決は破棄を免れない。

三、刑法一七五条の存在根拠たる「性行為非公然性の原則」の虚構性

1 合理的な存在根拠を持たない刑罰法規は、憲法三一条違反として無効である。

原判決は、チャタレイ判決のいう「性行為非公然性の原則」が根拠のない非合理なものではないとし、右の原則に反するわいせつ文書の販売の実行により「短期的には、これを見たり読んだりする者の性欲を興奮または刺激させ、長期的には、一般人の性的しゆう恥心をまひさせ、性及び愛の純粋性が失われ、善良な性的道義観念が廃れ、遂には性的秩序さえ維持されなくなる虞があることは、われわれの経験上顕著な事実であり」、「当審における事実取調の結果によつても左右されるものではな」く、右原則が刑法一七五条の存在根拠として合理的であると断言してはばからない。

「性行為非公然性の原則」なるものは「人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露」であるとの前提命題そのものが、アプリオリに成り立ちえないものであり、従つて、又それは「超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められ、また一般的に守られている規範として存在している」「原則」とは到底いいえない性質のものであることは、原審の最終弁論においても、証拠に基づき詳論したところである。

2 「性行為非公然性の原則」が「いずれの社会」においても認められる原則か否かは、何よりもまず、社会人類学・文化人類学等の研究領域により、検証されるべきことがらである。

我々人間は、二〇世紀後半、遂に月面に到達したが、我々自身について知るところは少なく、人間の個体及び種としての存在及び行動について、自然科学及び社会科学の研究は、未だその緒についたばかりというべきである。自然科学・社会科学の発達、諸領域の学際協力により、我々が俗に正しいと信じている命題が、学問上正しい命題ではないことが証明され、かつ現に証明されつつある。ポルノグラフイが正常な成人に法律上犯罪とみなされている行為-「性犯罪」-を直接誘起するという仮説命題は、一九七〇年のアメリカ合衆国の大統領委員会の実証的研究に基づく報告、デンマークにおける現実、により否定されるに至つている。右大統領委員会の報告以前に、かつて如何なる政府がこの眼を洗われるような成果をもたらした実証的研究に着手したであろうか。

3 右のような事情は、文化人類学の領域にわたる事項についても同様である。文化人類学は、「性行為非公然性」なるものがまずもつて日本では、歴史的・伝統的に否定されるものであり、その故に「原則」たることを主張しえないことを教えているばかりでなく、日本以外の地域-チャタレイ判決のいう「未開社会」-においてもそれが否定されうるものであり、従つてその点からも「原則」たることを到底主張しえないことを教えているのである。このことは原審において、証人野口武徳教授の証言及びその引用する文献において、明らかになつたと確信している。

したがつて、原審の野口証人により文化人類学の長年の調査・研究の到達点の結果として証言された事実にもかかわらず、尚「性行為非公然性の原則」が原則であるというためには、野口証人により、文化人類学の調査研究の到達点として述べられた事実が、文化人類学の領域においては研究の到達点として承認されていない学問的には誤まつた事実であることが、立証されなければならない。又、野口証人が引用された文献は、すべて文化人類学者がチャタレイ判決のいう「未開社会」に関して、フイールド・ワークの結果観察された事項に基づくものであるから、それらを否定するためには、右の観察が誤まりであること又は異なるフイールド・ワークの結果の存在する事実が立証されなければならない。文化人類学における学問的真理の決定権が裁判所の判断に委ねられているわけではなく、野口証人の証言に反する事実を認定する為には右のような立証が必要なことは、当然のことである。原審裁判所は、右の初歩的ことがらを無視して、自らの信じる「性及び愛の純粋性」を貫徹せんとするあまりに、「性行為非公然性の原則」を盲信してやまないが、野口証人の証言により明らかになつた客観的事実を謙虚に事実として受け入れ、これを冷静に直視することができるなら、鬼の首をとつたかのように「原則」であるとか「普遍の規範」であるとか吹聴することが誤まりであることに気づくであろうし、それを他人に刑罰をもつて強制することの合理的根拠を見出しえないことも了解できるはずである。

このような非合理的な根拠に基づいて刑罰を課することは、刑罰の内容の適正を要求している憲法三一条に違反する。よつて原判決はこの点からも破棄を免れない。

四、刑法一七五条は「性行為非公然性の原則」の遵守とは無関係な行為を禁止するものである故に、違憲無効である。

仮に、どうしても「性行為非公然性の原則」を守らなければならないと仮定しても、この原則に反することは、「性行為を公然と実行するということに帰着する」はずであり、更に「性行為を公然と実行する」ことと、「公然と実行されている性行為を表現する」ことは異なる範疇に属するものであるから、「表現」」することが、「性行為非公然性の原則」に反することはあり得ない。

ギリシアの哲学者アリストテレスはその文芸批評「詩学」において、古代ギリシア文学の悲劇を「行為の模倣」と定義したが、この古典的指標は、小説論の場合にこそ適用されるべき、有用かつ基本的概念であること丸谷才一氏の指摘するとおりである。小説には、舞台もなければ韻律もなく、読者の眼前にあるのは、散文による言語のみであり、「行為」ではなく、「行為の模倣」であるということは更に明確であるといえる。すなわち小説の作中人物の行為は、小説空間に存在し、実生活の行為空間とはその範疇を異にしている。

殺人、窃盗等々の刑法により禁止されている犯罪が描かれているところの、推理小説・犯罪小説の作者やそれらの作品の発行者及び販売した書店主が、すべて殺人罪、窃盗罪に該当しないということは、自明の理として承認されている。レイモンド・チヤンドラーや、アガサ・クリステイが殺人罪に問われたことはない。本件「四畳半襖の下張」で描かれている性行為は、街路等で公然と行なわれているものではなく、その意味で全く「非公然性の原則」に違反するものではない。脱糞とか排尿あるいは政治家に賄賂を送る行為は、公然と行なわれるものではないが、脱糞とか贈賄を描いた小説が、罰せられることはないのであり、このようなことはわざわざ確認する必要のない当然の前提といえよう。したがつて、チヤタレイ判決が、性表現に関してのみ、にわかにアリストテレス的範疇の識別能力を喪失し、「行為」それ自体と「行為の模倣」とを混同したことは、国家の権威を危うくするものであるから、是正されなければならない。

よつて、刑法一七五条は内容において適正を欠く刑罰法規として、憲法三一条に違反し、無効である。

第二 原審の没収の裁判の違憲性及び最高裁判例違反

一、原審の訴訟手続(没収の裁判の実体要件の認定に関する手続)には憲法の違反がある。

1 原判決は、弁護人の控訴趣意(没収の裁判の理由不備及び理由そご。没収の裁判の違憲・違法性)に対し、次のとおり判断した。

(一) 「そして、後に、弁護人川端和治の控訴趣意第四等において詳述するように、被告人両名と本件文書三五冊の所有者との間には、本件犯行について共謀共同正犯の関係があるものと認められるのである。従つて、原判決は、被告人両名及び本件文書三五冊の所有者以外の者に属しない右文書を没収する、としているのであつて、主文と理由との間にも理由相互の間にもくい違いはないのである。」(原判決書第八丁表三行目以下第九行目)。

(二) 「原判決の掲げる関係各証拠によると、本件文書は、昭和四七年七月六日ころ東峰企画というものから販売の委託を受け、シコシコ模索舎において被告人両名が所持していたものであるが、東峰企画というものの実体がわからないため、所有者があることは間違いないが、それが何人であるかが明らかでないものである。ただ、刑法一九条二項にいう犯人に共犯者が含まれることはさきに述べたとおりであるから、その所有者が被告人両名と共犯関係にあることが認められれば、実体法上の没収の要件には欠けるところがないことになる。ところで、前記各証拠によると、その所有者は、それが本件文書の製造者、中間取引者、被告人両名への販売委託者のいずれであつても、本件文書の記載内容を了知し、少なくとも未必的にはそのわいせつ性を認識していたこと、被告人両名への販売委託の際、直接あるいは販売委託者を通じて、被告人両名と、被告人両名が本件文書を販売の目的で所持することを共謀していたことが推認されるのであるから、実体法上没収の要件に欠けるところはないわけである。」(原判決書第一四丁裏三行目以下第一五丁表第八行目)。

2(一) ところで、被告人両名に対する訴因は、起訴状において「被告人両名は共謀のうえ、昭和四七年七月六日ころ、前記『シコシコ模索者』店舗において、販売の目的をもつて……冊子一〇〇冊を所持したものである」とされていた。さらに、検察官が、第一審第一回公判期日(昭和四八年三月二三日)で行つた訴因の変更は、共謀の日時を変更したのみで、共謀した人数などその余の態様に変更を加えるものではない。公判調書によれば、「起訴状記載公訴事実中『昭和四七年七月六日ころ』とあるを、『昭和四七年七月六日ころから同月一一日ころまでの間』と変更する」という程度である。

(二) そして、当然のことながら第一審第一回公判期日以降原審最終公判期日に至るまで、検察官の右主張をテーマとして、被告人両名の共謀の日時、場所、共謀の内容、共謀に際しての認識内容等が争点となつて、七年余の期間審理が続けられてきたのである。

(三) 右の経過から明かなように、原判決が摘示する「被告人両名と本件文書三五冊の所有者との間には、本件犯行について共謀共同正犯関係がある」か否かについては、検察官がそのような立証テーマを主張したことがなく、又、第一審裁判所もそのような立証テーマの提供を検察官に求めもしくは自ら選択したことがないことから、原審最終公判期日に至るまで、裁判所を含めた訴訟関係人すべての間で、そのような事実の存否をめぐつて、攻防のなされた経過がなく、さらには、その事実を構成する日時、場所、方法、認識内容など具体的な要素が何であるかを特定する努力がなされた経過もこれまた存在しない。被告人両名は、原判決が冊子所有者と被告人両名の共謀共同正犯という認定をするまで、このような事実構成には無防備のままであつた。

3 ところで、憲法三一条に定める適正手続の保障を如何なる側面に及ぼすかについては、種々の論議のあるところである。結論を急げば、手続の側面並びに実体の側面ともに、成文法の定めを必要とし、かつこれらが、「より高い正義の法、自然法に適合したものであることを要求する」(鵜飼信成・憲法八三~八四頁)とするのが通説である(この外、例えば、佐藤功・日本国憲法概説一四九頁も同旨。団藤重光・「法の適正な手続」及び刑事訴訟法の法源(法律実務講座刑事編第一巻)は、「それでは『適性』かどうかはどのようにして判断されるべきか。これはさきに一言したとおり、基本的人権に関する憲法第三章の各種の規定、憲法全体の精神、さらにさかのぼつてその奥にある正義と合理性の判断を標準とする以外にはないと思う。」とする(三五頁)。さらに、大野盛直・刑事手続に関する憲法上の原則(憲法講座二巻二四一~二四二頁も同旨。)

通説は、このような観点から、手続面並びに実体面それぞれに、その「適正」の具体的な基準を設けようとしてきた。そして、手続面において設けられた「適正」の絶対条件の一つが、「告知と聴聞の機会を充分に与えること」(大野盛直・前掲二四二頁)である。団藤重光・前掲三五~三六頁は、これを、「ところで、刑事手続に関して、もつとも根元的な要請の一つは、被告人-あるいは、ひろく、処分を受ける者-に、弁解の機会を充分に与えることである。憲法三七条は、間接にこれをあきらかにしている。憲法三四条なども、むろん、これを前提とするものである。英米法において、告知と聴聞(notice and hearing)が法の適正な手続の重要部分をなすものとされているのも、同趣旨と考えなければならない。被告事件を知らせ事件について充分な弁護を行わせることが法の適正な手続のもつとも重要な要請の一つである。」という形で展開する。

4 このような考えに照らして考えると、原判決が、本件の審理の経過が2の(一)ないし(三)のとおりであつたにも拘らず、被告人両名に対して、充分なる告知と聴聞の手続を経ずして、1の(一)及び(二)の如く「不意打ち」の認定をして判決した手続には、単に、刑事訴訟法三一二条の違反・三七八条三号に該当する違反など各訴訟法規の違反があるにとどまらず、進んで、右に述べたような憲法三一条の「適正」なる手続の違反が存在するものと言わなければならない。

二、原判決には、憲法三一条の解釈の誤りがある。

1 原判決は、本件冊子三五冊の没収につき、検察官が行つた公告が、刑事事件における第三者所有物の没収手続に関する応急措置法に違反し、「不適法なものという外はない」(原判決書第一六丁裏三行目」と断じながら、次のように認定した。

「しかし、同条項がすみやかに告知または公告をしなければならないとしている趣旨は、没収を必要と認める物の所有者に、問題の被告事件の手続への参加の機会を与え、その権利を擁護しようとするものであるから、仮に右のすみやかにの要件を満たさない告知または公告であつても、右の趣旨に沿うものであれば、なお、告知または公告として有効なものとみてよいものと考えられるところ、本件では、既に弁論は終結されてはいたもののいまだ判決宣告にまでは至つていない間、公告が行われ参加申立の期間が経過したわけであり、適法な参加の申立があれば、請求によりまたは職権で、いつでも終結した弁論を再開して審理を続行することができたのであるから、本件公告はなお有効なものといわなければならない。」(原判決書第一六丁裏四行目以下第一七丁表四項)。

2 ところで、憲法三一条に定める適正手続の保障が意味するところは既に一の3に詳しく述べたとおりである。そこでは、告知及び聴聞の機会が充分に与えられることが、適正なる手続であるための重要なる要件であつた。「充分に」というのは、形式的な機会では足らず、サブスタンシヤルな機会の提供を意味する。原判決は、第三者所有物である本件冊子の没収につき、応急措置法に定める手続の違背があつても、さらに既に、弁論が終結されており判決期日の指定を待つばかりの段階に至つていても、弁論再開の申立そのものは可能であるから、違法な手続ではあつても有効である(違法違憲ではないの意味か)と判断するようである。しかしながら、考えてもみれば、応急措置法二条二項に違反して「すみやかに」告知のなされない期間に、本件では事件の証拠調がすべて終了していたのである。さらに、原判決は、「昭和五〇年七月三日の第二〇回公判期日に取調べられた被告人両名の司法警察員及び検察官に対する各供述調書や昭和五一年二月二〇日の第二五回公判期日における被告人両名の供述によると、本件文書は被告人らの所有に属するものか、それとも第三者の所有に属するものかが必ずしも明らかではない状態になつたと認められる」(原判決書一五丁裏四行目以下)と述べ、これを前提に「遅くとも同年(昭和五一年)二月二〇日の第二五回公判期日以後には公告の手続をしなければならなかつたもの」(原判決書第一六丁表一〇行目以下)と述べるが、そもそも「すみやかに」公告をなすべきは、検察官であつて、裁判所ではないところ、検察官は、被告人両名の警察官及び検察官に対する供述調書を始めとするすべての証拠を当初から確保していた。しかも、検察官は、その冒頭陳述書について、第一審第六回公判期日において、弁護人から「一三、『本件冊子一〇〇冊を……仕入れ』とあるが、検察官は、これを委託販売ではなく、『買い取つた』という主張・立証をなさる所存なのか。」という暗示的な釈明要求を受けている。続けて第一審第七回公判期日では、検察官は右の点は、釈明の必要なしと答弁したものの、再求釈明を受けて、委託販売か否かの答弁を求められた。さらに被告人両名は、意思陳述の段階(第一審第三回公判期日)から、委託販売であることを明かにしている。このようにしてみると、検察官は、第一審公判の開始直後から、被告人両名以外の所有者の存在につき警告を与えられており、検察官自身も判断に困難のあつたことが伺われる(第一審第八回公判期日での釈明)から、合理的かつ慎重なる検察官であつたならば、少くとも応急措置法二条一項の、被告人の所有に属するか第三者の所有に属するかが明らかでない物として、既に、第一審第七回(昭和四八年一二月二五日)もしくは第八回(昭和四九年二月四日)の各公判期日頃に適法なる手続をとりえたものである。然るに本件の検察官は、昭和五一年八月五日に至るまでこのような処置をとらなかつたのである。

適正手続の要請として告知、聴聞の機会が充分に与えられるべきであるという要件は、さらに分解すれば、告知が十分になされ、かつ聴聞も十分になされるということを意味する。この観点からすれば、本件では、公知はなされなかつたに等しいか、少くとも極めて不充分であり、聴聞は、告知を欠く結果、その機会を充分に与えられなかつたということができる。

3 このように、検討を加えると、原判決が、本件冊子の没収につき、前記のような判示に至つたのは、憲法三一条の適正手続の保障に関して、法定の手続である限り、「適正」であるか否かは問題とならないとする解釈、あるいは法定の手続が必要でありかつそれが「適正」であることを必要としながらも、その「適正」の内容を、告知・聴聞の機会は形式的な機会の提供をもつて足り、必ずしも充分なものである必要はないとする解釈、あるいは、告知・聴聞の機会は、告知又は聴聞の一方を欠いてもなお「適正」であるとする解釈のいずれかに依るものと言う外なく、このような立論が、確定した憲法三一条の解釈とは異なる誤つたものであることは既に述べたところから明かである。

三、原判決は、最高裁判所の判例と相反する判断をしたものである。

1 第三者所有物の没収手続については、著名な次の最高裁判所判例がある。

(一) 昭和三〇年(あ)第二九六一号、同三七年一一月二八日大法廷判決、刑集一六巻一一号一五九三頁。

(二) 昭和三〇年(あ)第九九五号、同三七年一一月二八日大法廷判決、刑集一六巻一一号一五七七頁。

2 右(一)の判例は、「所有物を没収せられる第三者についても告知、弁解、防禦の機会を与えることが必要であつて、これなくして第三者の所有物を没収することは、適正な法律手続によらないで、財産権を侵害する制裁を科するに外ならないからである。」と述べている。右各判例については、多くの論説が寄せられており、その射程範囲についても既に明かであるが、本件に関する範囲で述べれば、手続は法定の、かつ「適正」なものでなければならないとしたこと、「告知」「弁解」「防禦」の機会がそれぞれ必要とされていること、これらの機会が充分に与えられることが必要であると解されていることなどが重要である。

3 原判決は、前記二の1に記載のとおり判示し、その憲法三一条の解釈を前記二の3に記載のとおり展開したものであるところ、これが、右各判例に相反することは自ら明かである。

第三 故意の成立の判断についての最高裁判例違反・憲法二一条違反

一、原判決は、「当該文書の問題となる記載は読んでいないがそのわいせつ性を認識しているという場合を想定することができるとし、取締当局によつて当該文書がわいせつ文書として摘発を受けた事実を知つている者は当該文書を読んでいなくても、特別の事情のない限り、そのわいせつ性を少なくとも未必的に認識しているという評価を免れることはできないとして、被告人両名に、本件文書のわいせつ性について未必的故意を認めた(中略)原判決の判断はおおむね相当であり、原判決の掲げる関係各証拠によると、原判決が、被告人両名に、本件文書のわいせつ性について未必的故意を認めたのは正当であつて、法令適用の誤りや事実誤認があるとは思われない。」と判示する(二三丁裏~二四丁表)。

この判示は、最高裁がいわゆるチヤタレイ事件で「刑法一七五条の罪における犯意の成立については、問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものではない。」(最判昭和三二年三月一三日集一一巻三号九九七頁)と判示したことと、全く相反する判断である。この最高裁判例は、その原審である東京高裁が「刑法第百七十五条の猥褻文書販売罪における犯意の成立については、当該文書の内容たる記載のあることを認識し、且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右文書の内容たる記載の猥褻性に関する価値判断について認識、即ち、右文書の内容たる記載あるが故に当該文書が『猥褻文書』に該当することの認識はこれを必要としないものと解すべきである。即ち、性交等性的行為に関する記載があるが故に猥褻文書販売罪が成立する場合においては、当該性的行為に関する記載のあることを認識し且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右性的行為に関する記載の猥褻性に関する価値判断についての認識即ち、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が『猥褻文書』に該当することの認識はこれを必要としないものというべきである。」と判示した(東京高判昭和二七年一二月一〇日高集五巻一三号二四二九頁)のを是認したものであつて、要するに、文書のわいせつ性の認識を、客観的記載内容の認識(すなわち、どのような性行為の描写があるか)と、そのわいせつ性についての価値判断の二段階に分離し、第二段階の認識は不要としたものである。従つて最高裁の判例ではわいせつ文書に関する罪の成立のためには、行為者が、当該記載内容を認識していることが絶対の前提であるとされていることは疑いのないところである。ところが原審は、第一段階の認識を問うことなく、第二段階の認識、すなわちわいせつ性の判断の認識が出来ることがあるとした第一審の判示を是認したものであつて、最高裁判例と相反する判断を示したものであることは明らかである。

もつとも原審は、第一審判決は「文書の記載内容の認識がなくても」とは言つておらず、「読んでいなくても」未必的故意が成立する場合があると言つているだけで、「読んでいなくても内容を認識することができることは、あえて説明するまでもないことである」と判示している。

これは、第一審判決の論理構成をねじまげ、すりかえて最高裁判例との矛盾を隠蔽しようとしたこじつけにすぎないことはあえて多言を要しない。第一審判決の論理構成では、第一段階の認識を問題とする必要はないので、当然のことながら、「読んでいなくても内容を認識することが出来る」などという独断を持ち出す必要はなかつたのであり、事実、そのような判示は一切していないのである。

それはともかく、「読んでいなくても内容を認識することが出来る」などという議論は、少なくともこと、文書のわいせつ性の認識の前提となる客観的記載内容の認識に関する限り、全く通用しえない議論である。

いつたい文書を読まないで、どんな内容を認識出来るというのだろうか。性行為の描写があるということか。しかし性行為の描写があるというだけでは、わいせつ文書とはなりえない。露骨かつ詳細な性行為の描写があるということか。しかし、「露骨」といい「詳細」といい、既に価値判断を含む概念である以上、誰かが「露骨かつ詳細な性行為の描写があるよ」といつたところで、およそ客観性がない。ある人にとつては、各週刊誌が満載し、店頭にうず高く積み上げられているポルノ小説や「なんとかSEX入門」のたぐいの文書は耐えられない程露骨かつ詳細な性行為の描写にあふれていると感じられるであろうし、ある人にとつては、馬鹿馬鹿しい程空想的な大人の童話と感じられるであろう。そうなると、わいせつ文書と知りながら、あるいはわいせつ性を未必的に認識しながら販売した、として刑事責任を問うためには、人からその概要、部分的描写を聞かされたり、自分でパラパラとめくつてみたりする程度で獲得出来る程度の「内容の認識」では到底足りないと言わなければならないのである。

仮に、文書のわいせつ性の成否のメルクマールが「おまんこ」といつたわいせつ語とか、「いく、いく」といつた発語の描写等特定の性描写の有無にあるという単純なものであれば、文書を読まなくても、わいせつ性を認識しうることはありうるであろう。しかし、判例はそのようなことは言つていないのである。

わいせつ性を認めた確定判決があるという事実はどうだろうか。しかし、判例は、わいせつ性は「社会通念」によつて判断しなければならず、その「社会通念」は時代によつて変遷するというのであるから、ごく最近になつて確定判決が出た文書でもない限り、わいせつとした確定判決があるということを知つただけでわいせつ性を認識したことにはならないことは明らかである。最高裁が大上段にかまえてわいせつだとしたあの「チヤタレイ夫人の恋人」ですら、現時点ではわいせつ性が無いとされているのである。ましてそれ以前に下級審の確定判決があつたにすぎない本件文書については、確定判決のあつた事実は、わいせつ性の認識の基礎たる内容の認識を構成しえないのである。

確定判決がある場合ですらこうなのであるから、まして、単に取締当局が捜査に着手したという事実を知つたからといつて、わいせつ性の認識の基礎としての内容の認識をなしうるだけの情報を与えられたとはとても言えないのである。

二、原判決は、取締当局の摘発の事実を知つている者は、その文書のわいせつ性を少くとも未必的に認識しているという評価を免れることは出来ない、とした第一審判決を是認して、このように判断しても、何の問題もない旨判示している(二四丁裏~二六丁表)。

しかしながら、この判示は、事実上、取締当局の判断によつて思想の自由流通市場からある文書を追放してしまう効果を是認してしまうものであり、表現の自由の優越的な価値を無視し、裁判所が基本的人権の守護者として果すべき義務を放棄するものである。

そのことは、仮に、本件の第一審及び原審の判断が是認された場合、どのようなことが起るかを考えてみただけで明らかである。摘発の事実を知つた取次店、小売店は、それだけで、以後その文書のわいせつ性について未必の故意をもつていたという評価は免れないのであるから、文書の具体的内容のいかんにかかわらず、その本の卸販売を一斉に取り止め、文書を市場から引き上げざるを得ないことになつてしまうのである。摘発をうけた文書について、何年かたつて、わいせつ性なしとの裁判所の判断が出たとしても、少くともその間その文書は、判決なしに思想の自由流通市場からの追放を免れないのである。あるいは無罪になつた時点では、時代の移り変りにより市場価値を失つてしまつていて、ついに流通しないまま闇に消え去るということも起るであろう。もつとひどい場合、取締当局が摘発後、相当期間処分を留保しておけば、それだけでその文書を市場から追放しておけるのである。

原判決は「取締当局が言論及び出版の自由に注意を払うことなく、ほしいままにわいせつ文書として摘発をしているような事情はなく、むしろ、判例の示すところに従つて具体的に吟味し、裁判官の発する令状によつて摘発するのが実情である」というが、本件審理の過程で、このような事実は一度たりとも立証されていないことは記録上明らかである。むしろ、右のような判断が事実に反することは、単に警視庁ばかりでなく、検察庁まで充分に検討して起訴までした「愛のコリーダ」がおよそわいせつ性がないとされた(東京地裁昭和五四年一〇月一九日判決)最近の事例からも明らかであろう。

そもそも、取締当局は「言論及び出版の自由に注意を払うことなく、ほしいままにわいせつ文書として摘発を(する)」「ことがありうるから、裁判所による判断が憲法上要求されるのであり、原判決のいうように取締当局が信頼できるなら、検閲制だつていいということになるはずである。原判決の判示は、表現の自由の確立のために先人の流した血の価値を理解せず、その保障のために裁判所が果すべき役割を全く認識しないものである。

原判決の判断が維持される限り、それは文書の流通関係者に、取締当局が問題にする文書は取扱わない、というチリングエフエクトを与えるのであり、これが表現の自由にとつて重大な脅威となることは明らかである。また、このような判示が是認されると、取締当局が何らかの不当な意図をもつて、性描写を含む文書を摘発した場合に、それだけで文書が流通市場から事実上追放されてしまうという不当な結果を防止出来ない。言いかえれば、取締当局は、摘発してみせるだけで、文書の流通を事実上阻止出来ることになるのである。これは、文書の検閲制の復活とほとんど同じであると言える。

これを否定する原審の論理は、実態についての法社会学的認識を拒否して形式論理だけで判断するという、悪しき概念法学の典型であり、表現の自由の歴史とその価値を認識せず、基本的人権と取締当局の間の緊張関係すら理解出来ないでいるものである。

従つて、原判決の未必の故意の成立に関する判断は、それがもたらすチリングエフエクトによつて表現の自由を侵害し、取締当局に事実上検閲制と変らない権限を付与するものであり、憲法第二一条第一・二項に違反する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例