最高裁判所第二小法廷 昭和63年(オ)5号 1990年11月26日
上告人
渡邉寛
右訴訟代理人弁護士
大西佑二
渡邉寛破産管財人
被上告人
天野実
被上告人
日新製鋼株式会社
右代表者代表取締役
甲斐幹
右当事者間の大阪高等裁判所昭和六一年(ネ)第七九八号、同六二年(ネ)第九九号退職金等請求、同請求参加事件について、同裁判所が昭和六二年九月二九日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人大西佑二の上告理由について
労働基準法(昭和六二年法律第九九号による改正前のもの。以下同じ。)二四条一項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁昭和四四年(オ)第一〇七三号同四八年一月一九日第二小法廷判決・民集二七巻一号二七頁参照)。もっとも、右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行われなければならないことはいうまでもないところである。
本件についてこれをみるに、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実及び原審が確定したその余の事実関係によれば、上告人は、被上告人日新製鋼株式会社(以下「被上告会社」という。)の担当者に対し本件各借入金の残債務を退職金等で返済する手続を執ってくれるように自発的に依頼しており、本件委任状の作成、提出の過程においても強要にわたるような事情は全くうかがえず、本件清算処理手続が終了した後においても被上告会社の担当者の求めに異議なく応じ、退職金計算書、給与等の領収書に署名押印をしているのであり、また、本件各借入金は、いずれも、借入れの際には抵当権の設定はされず、低利かつ相当長期の分割弁済の約定の下に上告人が住宅資金として借り入れたものであり、特に、被上告会社及び三和銀行からの各借入金については、従業員の福利厚生の観点から利子の一部を被上告会社が負担する等の措置が執られるなど、上告人の利益になっており、上告人においても、右各借入金の性質及び退職するときには退職金等によりその残債務を一括返済する旨の前記各約定を十分認識していたことがうかがえるのであって、右の諸点に照らすと、本件相殺における上告人の同意は、上告人の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたものというべきである。
してみると、右事実関係の下において、本件相殺を有効であるとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はないものというべきである。論旨は、採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤島昭 裁判官 香川保一 裁判官 中島敏次郎 裁判官 木崎良平)
(昭和六三年(オ)第五号 上告人 渡邉寛)
上告代理人大西佑二の上告理由
第一点 原判決には、上告人渡邉が昭和五八年九月一四日なした意思表示の法的性格につき、著しく経験則に反して解釈し、ひいては労働基準法二四条一項本文(賃金直接払いの原則)の解釈適用を誤った法令違反があり、右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。
一 主張の要旨
本件の最大の争点は、上告人渡邉が昭和五八年九月一四日被上告人日新製鋼株式会社(以下単に被上告人という)に対してなした意思表示の性格である。この意思表示は書面(<証拠略>)でなされており、その内容は、被上告人大阪工場業務課長宛に「委任状」との表題のもとに「今般私儀退職に伴い、会社債務(住宅融資ローン残高)及び労働金庫債務の弁済の為、退職金、給与等の自己債権一切を会社に一任することに異存はありません。」旨の記載があり、その下に「昭和五八年九月一五日 渡辺寛」と記載されているものである。
右上告人の意思表示に至るまでの原判決認定の事実関係を総合すれば、右意思表示は、被上告人借入金を除いて、三和銀行借入金及び労働金庫借入金については、上告人が被上告人に対し、被上告人においてこれらを弁済することを委託し、その原資としては上告人に支払うべき退職金及び給与等をもってあてることを指定したものであり、被上告人は同日上告人のかかる意思表示を承諾したというべきであって、上告人が原審で主張したとおり、被上告人と上告人との間で三和銀行借入金債務及び労働金庫借入金債務につき、いわゆる弁済委任契約乃至履行の引き受け契約(この両者は、実態として同じ契約をそれぞれの当事者からみたものであるとするものに於母・債権総論二三二頁)が成立したとみるのが至当である。
そしてかかる契約により、被上告人は退職金、賃金等を上告人に支払わずに、これを三和銀行及び労働金庫(乃至組合)に支払ったものであり、右取扱は明らかに労働基準法二四条一項本文に定める賃金直接払いの原則に違反しており、前記契約はこの限りで無効であることが明らかである。
次に、被上告人借入金に関しては、右のような弁済委任乃至履行の引き受け契約とみることができないことは当然であり、右借入金については上告人と被上告人との間の合意相殺契約とみるほかない。そしてこの契約は労基法二四条一項本文に定める賃金全額払いの原則に違反して無効である。
二 原判決の認定について
しかるに、原判決は右意思表示の法的性格について相互に矛盾する解釈をしているのみならず、経験則に違反するこじつけともいうべき解釈をしているのであって、判決に影響すべき法令違反のあることは明白である。
1 原判決はこの意思表示につき、次のとおり判示する。
「そして、渡邉は、(証拠略)の委任状等による前記意思表示により、右返済及び返済の委任を確認すると同時に、その具体的支払方法として、自己の給与、退職金等をもってその支払に充ててもらうべく、その処理のための手続き一切を被告に一任し、被告がする手続きに同意したものであり、被告がおこなった被告借入金の清算処理は、被告が渡邉の右意思表示に基づき渡邉の退職金ないし退職金及び八月分給与から右借入金の一括返済額を控除(その法的性格は、渡邉の被告に対する右退職金ないし退職金及び八月分給与の支払請求権と被告の渡邉に対する右借入金の一括返済請求権とを対当額で合意相殺したにほかならず、これによって被告は渡邉の右各債権の支払義務を免れたものと解される。)したものであり、又、三和借入金、労金借入金の清算処理も、被告が渡邉の右意思表示に基づき渡邉の退職金ないし退職金及び八月分給与(労金借入金については更に九月分給与先払金及び共済会脱退餞別金)から右各借入金の一括返済額を控除(その法的性格は、渡邉の被告に対する右退職金、給与等の支払請求権と渡邉から右各借入金の返済を一任(委任乃至準委任)されたことに基づく被告の渡邉に対する返済費用の前払請求権(民法六四九条)とをそれぞれ対当額で合意相殺したにほかならず、これによって被告は渡邉の右各債権の支払義務を免れたものと解される。)したうえ、渡邉に代わって右控除額を三和銀行に支払い、また組合を通じて兵庫労働金庫に支払ったものということができる。」
というのである。
右引用判示部分前段では、前記上告人の該意思表示は「被告借入金、三和借入金、労金借入金についてその返済乃至返済の委任の確認」、「自己の給与、退職金をもってその支払に充てることの具体的指定」及び「その処理のための手続きを被上告人がなすことの委任乃至同意」である旨認定しており、その限りでは前述した上告人の主張する弁済委任乃至履行引受とその法的性格において隔たりのない認定であるのに対し(そして、この認定が極めて常識的、妥当な認定というべきである。)、後段部分では、上告人の右意思表示に基づいて被告借入金と退職金等の合意相殺並びに三和借入金及び労金借入金返済のための費用前払請求権と退職金等の合意相殺がなされたと認定するのである。
2 被上告人借入金について、上告人は右認定の如く合意相殺契約が存在し(<証拠略>)、かつその履行がなされたことを争うものではない。
しかし三和借入金及び労金借入金について、上告人と被上告人との間で、前記の如く被上告人の費用前払請求権と上告人の退職金とを対立する債権とみて、この二つの債権を相殺する旨の契約があったということは到底是認し得ないのである。
右認定には次の問題点がある。
<1> まず原判決のいう「合意相殺」乃至相殺契約の性格は、一般に債務免除契約といわれているところ、九月一四日の前記上告人の意思表示の中に、かかる相殺契約が含まれていたとみることは到底できない。原判決は「被上告人が上告人の意思表示に基づいて」前記合意相殺をなしたと認定するのであるが、上告人の前記意思表示に相殺の合意を含ましめることは(証拠略)の文理に反し、著しく飛躍した認定といわなければならない。
<2> 合意相殺された一方の債権は、弁済委任(準委任)契約に基づく弁済費用前払請求権であるというのであるが、抑々被上告人の経理責任者が上告人の退職金や借入金の処理を行うにつき、かかる「費用前払請求権」の「相殺」なる観念を抱いていた筈はないというべきである。原判決の前記法律構成は極めて技巧的に過ぎ、当事者の意思及び法律関係の実態から遠く離れたものといわなければならない。そして民法六四九条にいう受任者の費用前払請求権は、受任者において委任者に対し「請求」をしなければならないところ、被上告人が上告人に対してかかる「請求」行為をなした事実は証拠上認められないのであって、この点においても原判決の前記認定は誤りである。
右のとおり、上告人の被上告人との間で昭和五八年九月一四日に成立した弁済委任契約の内容は、文字どおり上告人が退職金等をもって三和借入金及び労金借入金の弁済をなすことを被上告人に委任したにとどまり、この範囲を超えて被上告人の弁済費用前払請求権と退職金とを後日合意相殺する旨の契約が存したと認めることは到底できないのである。
なお右費用前払い請求権については、原判決及び被上告人は既に三和借入金及び労金借入金が成立した段階において、上告人の退職時点で発生する要件が備わり、上告人の退職とともにその具体的内容も確定して請求権を行使しうることとなった旨認定しているが、右認定も証拠に基づかない違法な認定であるので、次に項を改めて論ずる。
3 費用前払請求権について
(一) 三和借入金について
原判決は次のとおり認定する。「前記認定事実によると、右各借入金借入の段階で(1)・・・・(2)三和借入金については、渡邉が退職のときには被告は残債務全額を直ちに三和銀行に償還する、渡邉は右約定を承認し、右償還を被告に委任する旨、各約され・・・・。そうすると、右(1)乃至(3)の各借入の段階において、渡邉の退職時点での、被告借入金については融資残金の一括支払を求める請求権が、三和借入金及び労金借入金については融資残金の一括支払をするための費用前払請求権が、それぞれ発生する要件が備わり、渡邉の退職とともにその具体的内容も確定して各請求権を行使しうることとなり、」というのである。
しかしながら、三和借入金については上告人が退職する時に、残債務全額の支払を上告人が被上告人に委任したことを認めるに足る証拠は存在しない。
この関係の証拠をみるに、(証拠略)の一乃至四の「住宅財形融資規則」乃至「住宅財形融資規程」はいずれも被上告人借入金に関するものであって、三和借入金に関するものではなく、(証拠略)には成るほど「甲(被上告人のこと)は丙(従業員のこと)の償還金の支払に関し、丙の委任に基づき丙が乙(三和銀行のこと)に支払うべき償還元利金を取りまとめ、・・・・入金し、・・・・・・。甲は丙の毎月賃金または賞与から丙の償還金を天引する。」旨の規定はあるが、右規定は通常の支払に関するものであって、退職時に関するものではないばかりか、右契約はもともと、被上告人と三和銀行との間の契約であって、上告人と被上告人との間の契約ではない。(証拠略)の一は被上告人と上告人との間の契約書であるが、これは三和借入金に切り換えられる前の段階のものであって、被上告人借入金について定めるものであり、その中に「乙(上告人のこと)が甲(被上告人のこと)より退職するときは、乙の退職金その他により、直ちに貸渡金の元金の残額の全部及び利息を甲に返済するものとする。」という規定はあるものの、それは被上告人借入金についてである。(証拠略)の二は上告人と三和銀行との間の契約書であり、その中には「借入金の返済及び利息、損害金の支払については、この債務を完済するまで会社を借主の代理人とし、銀行と代理人との間の約定にもとづき右記代理人名義返済用預金口座から元利金、損害金を引落のうえ、この債務の弁済に充当するものとします。」という約定はあるが、右約定も通常の弁済に関するものであって、しかも右契約は上告人と三和銀行との間の契約である。
右以外に三和借入金に関する契約書は提出されていない。
そうとすると、被上告人と上告人との間において、三和借入金の弁済に関する約定がなされていることを示す証拠はないといわなければならず(証人富松の証言は根拠も示さず、措信し難い。同人の第一審第八回口頭弁論証人調書五八項参照)、ましてや上告人が退職するときにおいて、上告人が被上告人に三和借入金の弁済を委任していることを示す事実は全く立証されていないことが明らかである。原判決の前記認定は証拠に基づかない認定であって、明らかに理由不備の違法がある。
(二) 労金借入金について
右借入金に関する原判決の認定は次のとおりである。<1>「前記認定事実によると、右各借入金借入の段階で(1)・・(2)・・(3)労金借入金については、被告は渡邉の委任により、同じく渡邉から労働金庫への支払を委任された組合に対し、所定の金員を支払う旨、渡邉は、退職のときには退職金等により残債務全額を直ちに兵庫労働金庫に支払うべく、退職金等により所要額を受領して支払うことを組合に委任する旨、各約されていたということができ、」<2>「これによれば、渡邉の退職のときには、被告は渡邉の委任のもと残債務全額を直ちに組合に交付して支払う旨約されていたということができる。」というのである。
しかし<1>の判示から<2>の結論は到底導き出せない。なぜなら<1>でいう被上告人が組合に支払うよう組合員から委任を受けていた範囲は、毎月の組合費及び組合より申し出のあった費用で会社が妥当と認めたものであって、会社はこれを組合員の賃金から控除して一括組合に交付するのである(乙七号証、労働協約一一条)。これは労基法二四条一項但し書の控除規定に該当し、毎月の賃金からの控除を約したものであって、退職金からの控除を約したものでないことは、原判決が認めるとおりである。したがって、右規定から退職時において被上告人がその組合員から労金債務の残債務全額の支払を委任されているなどとは到底認めることはできないのである(原判決は、前述のとおり「渡邉は、退職のときには退職金等により残債務全額を直ちに兵庫労働金庫に支払うべく、退職金等により所要額を受領して支払うことを組合に委任する旨、」約したことを認定しているが、右約定は組合員と組合乃至労働金庫との間の約定であって、組合員と会社との約定ではない。かかる無関係の約定を持ち出して、会社との間でも同様であることを仄めかす原判決はフェアーとはいえない。)。
(三) 結局のところ、三和借入金及び労金借入金について、「借入の段階において、渡邉の退職時点での融資残金の一括支払をするための費用前払請求権が発生する要件が備わり、渡邉の退職とともにその具体的内容も確定して各請求権を行使しうることとなる」などということは、証拠に基づかない極めて恣意的な認定というべく、原判決はこの点で重大な誤りを犯しているといわなければならない。
4 本件清算処理の実態及び法的性格について
前述のとおり、昭和五八年九月一四日なされた(証拠略)の意思表示は、上告人と被上告人との間の弁済委任契約乃至履行引受契約というべきであるが、その後に被上告人においてなされた処理は一体どういうものであったかが問題となる。原判決はこれを費用前払請求権と退職金等との合意相殺と認めているのであるが、それが失当であることは既に述べたとおりである。
そこでこの点に関して原判決が認定した事実関係をみると、「そこで、被上告人は、渡邉の退職日を昭和五八年九月一五日と取扱ったうえ、同月二〇日(八月分給与支給日)、渡邉の退職金三九二万一二二一円及び八月分給与二二万八三一一円を計上し、即日これから被上告人借入金の一括返済額六九万六七九一円を控除するとともに、三和借入金の一括返済額二二九万五一三四円を控除したうえ、右控除額を三和銀行の被上告人名義の預金口座に振り込んで支払い、同月二二日には労金借入金の一括返済額一二九万七一五四円を控除したうえ、右控除額を組合に交付し、これを組合が兵庫労働金庫に支払った。」というのである。
原判決は右認定にいう「控除」の法的意味として合意相殺というのであるが、前記事実経過からすると、被上告人は、上告人に支払うべき退職金及び給与を上告人に支払わずに、そのうちから三和銀行借入金の元利金を同銀行に支払い、残った退職金等を更に労金借入金の返済分として組合に支払ったと解するのが極めて自然で、ことの実態に沿った解釈というべきである。要するに、上告人は被上告人に対し、自己に支払うべき退職金等を自己に支払わずに留保して、これを三和銀行借入金及び労働金庫借入金の弁済金として支払って欲しい旨被上告人に委任したのであるから、被上告人は右委任の趣旨に沿って、九月二〇日退職金等を具体的に計上したうえ、被上告人から三和銀行に対し上告人の同銀行に対する債務を支払ったものであり、同月二二日同様に組合に対して労働金庫債務を支払ったのであって、この関係について何も費用前払請求権と退職金債権等の合意相殺などとまわりくどい認定をする必要はないばかりか、それは誤りというべきである。
5 そうとすると、上告人と被上告人との間の弁済委託乃至履行引受契約及びこれに基づいて退職金及び賃金を上告人に支払わずに三和銀行乃至労働金庫に支払った処置は、明らかに労働基準法二四条一項本文に規定する賃金直接払いの原則に違反して無効である。本件弁済委任乃至履行引受は、その目的、実態において債権譲渡とかわりないところ(債権者、債務者、第三債務者間の債権の清算という点で)、貴庁昭和四三年三月一二日第三小法廷判決(小倉電話局事件)では、賃金債権につき債権譲渡がなされて対抗要件が具備しても、使用者は直接労働者に対し賃金を支払わなければならない旨判示されたのであって、本件でも全く同様のことがいえると信じるものである。
この点につき原判決は、三和借入金及び労金借入金の清算処理は、返済のための費用前払請求権と退職金とが対当額で相殺され、退職金等の支払請求権はこれにより消滅したものであり、被上告人は三和銀行、労働金庫に対し上告人の退職金等を支払ったことにはならないと解されるから、賃金直接払いの原則に違反しないと判断した。
右判示は極めて不当であり、無理やり構成した合意相殺論に立って一人相撲をとっている感がある。合意相殺というのは対立する二つの債権につき、両当事者がそれぞれ債務免除をなすものであろう。しかしながら前述のとおり昭和五八年九月二〇日及び二二日に被上告人及び上告人がそれぞれ債務免除をなしたなどという事実は全くない。単に被上告人において同月二〇日に退職金及び八月分給与を計上し、同日三和銀行に上告人の債務を支払い、同月二二日に共済会脱退餞別金及び九月分給与を計上して同日労働金庫に上告人の債務を支払ったに過ぎない。原判決は被上告人が行ったこの処置の中に「合意相殺」の観念を挿入することにより、本来賃金直接払いの原則に反する処置をもって、賃金全額払いの適法性が問題となるような処置にすり替えたといわなければならない。
以上のとおり、原判決は労働基準法二四条一項本文の解釈適用を誤り、本来賃金直接払いの原則に違反する措置をもってこれに違反しないと判断した違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。
第二点 原判決には、労働基準法二四条一項本文(賃金全額払いの原則)の解釈適用を誤った法令違反があり、右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。
一 前述のとおり、上告人と被上告人との間で昭和五八年九月一四日成立した合意のうち、被上告人借入金に関する部分は、上告人と被上告人との間でこれを相殺する旨の趣旨であることについて、上告人は争うものではない。
右被上告人借入金に関する合意は、労基法二四条一項本文に定める賃金全額払いの原則に違反して無効というべきであるが、原判決は、同条項は使用者により賃金が一方的に控除されることを禁止し、もって労働者に賃金の全額を受領させ、労働者の経済生活の安定をはかろうとする趣旨であるから、その趣旨に鑑みると、使用者が労働者の同意を得て相殺により賃金を控除することは、それが労働者の完全な自由意思に基づくものである限り、右賃金全額払いの原則によって禁止されるものではないと解するのが相当としたうえ、上告人のした同意は完全な自由意思に基づくものであると判断した。
二 しかし、抑々労働基準法二四条一項但し書以外に、同項本文に定める賃金全額払いの原則の例外を認めることは、労働者保護を指導理念とする労働基準法の精神に反するものというべきであり、労働者の自由意思に基づく場合であっても、賃金全額払いの原則の例外を認めることは許されないというべきであって、この点において原判決は既に同条の解釈を誤った違法がある。
三 仮に労働者の完全な自由意思に基づくものであれば、相殺の同意が許されると解しても、本件において上告人がなした同意は完全な自由意思に基づくものではない。何故なら、もともと上告人が被上告人を退職するに至った動機は、多額の借財を抱えて、通常の勤務が不可能となったというにあり、この点で既に労働者として経済的危機にあったことが影響しているうえ、更に退職金をもって被上告人借入金の弁済にあてるということに同意したのは、円満に被上告人会社を退職するがためであることが窺われ(第一審 第一一回口頭弁論証人調書参照)、上告人において(証拠略)を作成した最も大きな理由が、労金借入金について保証人となっている同僚に迷惑をかけたくないことであったとしても、退職金等をもって被上告人借入金の弁済をしなければ、円満な退社ができないと考えたこともその一因であったことは否定しがたいのであるから、かかる事案においては、労働者に、完全に自由な意思が存在したとは認められないのである。
更にいえば、賃金全額払いの原則の趣旨が、原判決のいうとおり賃金の全額を受領させてその経済生活の安定を期するものであるとするなら、本件上告人の如く、会社を退職する理由が自己破産を申立るためであり、かかる経済的困難に陥っていることが明らかな労働者が、使用者に対して退職金の相殺を申し出た場合には、その申立について形式的に労働者の自由意思が(ママ)認めるとしても、それは重要視すべきではなく、使用者において労働者が経済的困難を来していることが認識し得るときには、むしろ労働者からの相殺の申出があったとしても、退職金等はこれを全額当該労働者に支払い、もって当該労働者の経済的困難をいささかなりとも緩和すべきとするのが正当な解釈である。
以上のとおり、原判決は労基法二四条一項本文の解釈適用を誤り、賃金直接及び全額払いの原則に違反する本件被上告人の扱いを違反しないとした違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
貴裁判所におかれては、速やかに原判決は破毀され、相当な判決をなされるよう求める次第である。