最高裁判所第二小法廷 昭和63年(行ツ)161号 判決 1989年1月20日
岡山市十日市一番一二号
上告人
河田益一
右訴訟代理人弁護士
三宅正雄
同弁理士
大滝均
岡山市西市五五二番地の一
被上告人
株式会社すわき
右代表者代表取締役
洲脇誠司
右当事者間の東京高等裁判所昭和六三年(行ケ)第一号審決取消請求事件について、同裁判所が昭和六三年七月二八日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があつた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人三宅正雄、同大滝均の上告理由について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤島昭 裁判官 牧圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 香川保一 裁判官 奥野久之)
(昭和六三年(行ツ)第一六一号 上告人 河田益一)
上告代理人三宅正雄、同大滝均の上告理由
上告状記載の上告理由
本件は、登録第一二〇三二二五号商標(指定商品第三二類中華そばめん、そばめん、うどんめん)(昭和四八年三月二四日出願、昭和五一年六月一日設定登録、昭和六一年八二月五日存続期間の更新登録)に関し、上告人の登録無効審判の請求に基き、特許庁において昭和五六年審判第七二七号事件として審理され、昭和六二年一〇月三〇日に「本件請求は、成り立たない。」との審決があり、これに対し、上告人において審決取消の訴を提起したところ、東京高等裁判所は、同所昭和六三年(行ケ)第一号審決取消請求事件として審理の結果、昭和六三年七月二八日、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決言渡がされたものである。
しかしながら、右判決は、その判断の理由として、「スワキ」と呼ばれる氏は極めて珍しい氏である旨認定しているが、この事実は、裁判所にとって顕著な事実でもありえないのみならず、争点ともされていなかった。もし、上告人に適切な釈明がされたならば上告人は、当然これを争い、主張、立証できた筈である。これは明らかに原審が釈明権の行使を怠ったものである。その他、原審判決には、経験則違反、採証の法則を誤った違反がある。 以上
上告理由書記載の上告理由
原判決は、次の点において、法令に違背するものである。
第一点 原判決の判断は、経験法則に違反するものである。
今日の我が国の商品流通社会においては、既存の登録商標の上に個人の氏姓又は商号を冠しても、指定商品の新たな識別力を生ずるものとは評価されないのが一般である。例えば、「ソニー」という既存の登録商標の上に、「三宅」又は「みやけ」の氏を冠し、「三宅ソニー」あるいは「みやけソニー」という商標(結合商標)を構成しても、当該商標を付した指定商品に接した取引者・需要者は、「三宅」又は「みやけ」が個人の氏姓又は商号である限り、その部分に重きをおかず、「ソニー」商標の一つの表現形態と理解するのが、一般常識的理解である。平たくいえば、「ソニー」の商標を付した商品を三宅又はみやけ商店(会社)で取り扱っているものと理解するのが一般であるといって、決して誤りではない、と信ずる。それは、取引業者・需要者の多年の経験から生まれた評価方法なのである。「さとうソニー」、「ささきソニー」と呼んでみても、商品識別の機能からいえば、ソニーの一族としてしか評価されないのが、我々の経験則なのである。上告人が(原審においても)本件登録商標から「コウラク」の称呼を生ずると主張し、「後楽」の部分を本件「すわき後楽」という商標の要部であると主張したものは、そのことなのである。
更に卑近な例を挙げると、「三越」という既存の登録商標があった場合、これに、「横浜」とか、「京神」とかいう地理的名称を冠し、「横浜三越」、「京神三越」と表示しても、一般取引者・需要者は、横浜店で扱われている「三越」の商品、京神地区で取り扱われている「三越」の商品と観念し、「三越」とは違った出所から流出した商品とは、まず、理解しないのが一般なのである。地理的名称も、氏姓も、いずれも「三越」を規制する個性を持たないことに変りはないのである。
第二点 原判決には、理由不備の違法がある。
原判決は、本件登録商標を不可分一体の商標をみることは何の妨げもないと断固として結論するのが、その理由とするところは、その結論の勇しさとは裏腹に、支離滅裂、理山としての体をなしていない。したがって、理由として不備というほかはないのである。
詳述するに、原審は、本件登録商標を「すわき」と「後楽」の結合した商標であると認めながら、本件登録商標をもって、「すわき」と「後楽」とが不可分一体であるという。両部分が一体となって一つの商標を形成していることは、一目して誰にもわかることで、あえて理由を挙げつらう必要はない。すなわち、本件登録商標が一体として称呼され、使用(外観)されることがあることは、音数だとか、語調だとかの議論を用いるまでもなく、明らかなところである、(しかし、それは、字の大きさだとか、並べ方にも関係のないことである)。問題は、何故、不可分なのか、である。結合商標は、読んで字のとおり、複数の語句を結合したものであるから、常に分離は可能である(化学におけるように化合したわけでなく、併存するだけなのである)。それを、これぞという理由もなしに、不可分とは何事であろう?「一体として一連に称呼、観念されるべきである」とか、「一体として一連に表示されるのが通例である」とかいうのなら、実務上、そういいならわしていることでもあるし、意味は通ずる。そういう限定なしに、不可分な結合商標とはどういうものなのか、もう少し詳しく説示していただかないと、わかろうにも、わかりようがない。理由不備という所以である。
例えば、「いろは」という商標は、本質的に不可分なのであろうか。こんな音数の少ない単一商標でも、「い」、「ろ」、「は」と、あるいは、「いろ」と「は」に分割することは可能である。原審の考え方によれば、このような例のものも、不可分一体なのであろうか。特に上告人として遺憾にたえないのは、審決は「全体をもって一体のものと理解されるものとみるのを相当とする」と、結論の当否は別として、筋の通った説示をしているのに、原審は、何を感違いしたか、「これを不可分一体の商標とみることに何の妨げもない」という。商標をどうみるかは、取引者、需要者の受け止め方によるのであり、特許庁及び裁判所は、それを客観的に推定して類否の判断をする立場にあるのであって、原審がいきなり(審決の筋を立てに立言を見習うこともなく)、しかも、審決が「一体のものと(取引者・需要者によって)理解されるとみるのを相当とする」といっているのを飛躍、拡大して、「不可分一体」の商標と裁判所がみることに何の妨げもないと、見えを切っているのは、どうみても、いただきかねる。多分、そういう趣意ではなかったと思うし、そう信じたいが、それなら、社会が注目する東京高等裁判所の判決としては、オソマツの感を免れない、と惜しまれてならない。しかも、本件審決は、本件登録商標をもって一体のものと理解されるとみるを相当とする、というに止まり(したがって、上告人は、原審において、右の認定判断を不当であると攻撃した)、原判決のように、不可分とまでは判定していない。原審がそれを越えた認定・判断をしたのは、権限逸脱である。原審としては、須く、本件審決の認定・判断が、それが挙げた理由からみて正当かどうかを判断すべきものであり、それを越えて、独自の判断をすることは、本件行政事件に関する原審の立場としては、法律上許されるべきものではない。現に、上告人は、特許庁以来問題とならなかった問題に、上告審において、初めて対面せざるをえない立場におかれてしまった。審級の利益を奪ったものである。
原判決は、本件登録商標は、「すわき」の平仮名文字と、「後楽」の漢字との結合よりなるものであるところ、「その音数、語調及び表示態様(個々の文字の大きさがほぼ同じで、横一列に配置されていること」等から考えると、不可分一体の商標であると認定したが、(本件審決は、そうはいっていないことは、先に指摘したとおり)、音数、語調(その正確な意味は余り明らかでないが)は、商標を称呼する場合のエレメントであり、表示態様は、外観を問題にする場合のエレメントである。しかしながら、称呼、外観における一体性は、両部分を極端な距離間隔に配置でもしたものでない限り、常に保たれるのであり、音の数が多いとか、少ないとか、語調-音読した場合の調子(トーン)が、なめらかだとか、ごつごつしているとか、この文字の大きさが揃っているとか、大小まちまちであるとか、横一列であるとか、二段書きであるとかと関係なく、決められ、ほとんど常に一体的なのである。例えば、「東京ローブ」という商標は、横二段であろうが、縦一列であろうが、その間隔が余り離れていない限り外観・称呼とも一体なのである。問題は観念である。「美しい人」という商標があった場合に、「美しい」と「人」を分離しては商標としては意味をなさないから、この二つの語句は、相関連するもの、原判決のいう不可分一体のものと理解されるのが社会常識なのである。東京地方裁判所判決(民事第二九部)は、昭和六二年一〇月二三日言渡の判決(昭和六一年(ワ第)一三二二号(本訴)同年(ワ)第七九九八号反訴)において、「特選街」の商標権者が「おとなの特選街」(後日、登録になった)が、自己の登録商標に類似するとした主張を排斥して、後者における「おとなの」は「特選街」という言葉を強く限定する働きをもつものと認められるとして、商標権者の「特選街」要部論を排斥したのであった。こういうものこそが、原判決のいう「不可分一体の商標」として、世人の承認する一体的結合商標なのである。もち論、事案を異にはするが、商標の見方、考え方について、この東京地裁の判決のそれを正当と信ずる者からみれば、原判決のいうところは、その理解を越えたものといわざるをえない。上告人本人などは「東京高裁の裁判官殿(彼はなぜか、そういう呼び方をする)は、わかっていないですね」と嘆くのである。
もう少し、具体的な例を挙げて説明する。
「あがりゃんせ さがりゃんせ」(登録第一四九四〇〇)という登録商標は、多くの人々は、一体のものと称呼し、理解するであろう。ここでは音数の多い少ないなど考慮する余地はない。文字商標とか標語というものは、人が読むものであるから調子よく一体となるものが多い。「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」、「危いと子を叱るより手を引こう」という場合、一体として、称呼、表示(外観)しなければ、標語として意味をなさない。「広告商品のことなら何でも揃ふ」(登録第一四二七九九一)にしても、「THE WIMBLEDON CHAMPION SHIP(登録第一五八〇六〇六)にしても、かなり音数が多いが、一体として称呼し、観念し、表示されるのである。音数など無関係である。「本州・北海道を結ぶ海峡トンネル(登録第一三四九五九四号)、などは、余りトーンがなめらかとはいえない感じを受ける。字の大きさが同じであるとか、配列が横一列であるということも関係がない。たまたま身近かにあった化粧箱に「いの一番」という商標が「い」の部分が、他の文字の三倍位大きく、その横に「の」「一」「番」と三段に表示してあった。当代理人には、それを一体のものと称呼、観念するのに、何の苦労もなかった。
このように、たまたま手許にあった登録例等を見ても、原判決が不可分一体論の根拠として挙げた三つのポイントは、一つとして理由があるものではないのである。ゼロには何倍してもゼロである。「等」などと、あいまいなことをいってみても、根拠とはなりえないことは、誰の眼にも明らかであろう。そもそも、原審が本件登録商標をもって、不可分一体のものと断じたことが根拠のない独断であった。このことは、以下に挙げる若干の判例からも窺いえて余りあるものがあろう。上告人といえども、原判決が、これらの通説的商標の考え方、見方に反する見解を判示したことを非難するつもりはない。それらの考え方を採るに値しない俗説と一蹴したであろうことを批判するものでもない。それが、原審裁判所の見解であり、結論である以上、何人も一つの判断として受け入れる他はない。しかし、もしこれらの過去の判例からも窺える考え方を採るに足らずとするなら、上に詳説したような、採るに値しない事項などを挙げることなく、堂々と、この俗説的見解を根拠(理論と証拠)を挙げて論破すべきである。原判決は、上告人が原審において、本件登録商標から「スワキコウラク」の称呼も生ずる、と主張した肝腎の問題につき、一言半句を答えていないのである。原審が「スワキ」(洲脇)を代表者の姓であると同時に、会社の商号でもあることに気付かなかったこととともに、痛恨にたえないのは、このことである。理由不備、判断逸脱、釈明権不行使の法則違背を唱え、その破棄を求めるのは、この理由によるものである。
次に、本件に深い係りを持つと認められる若干の判例を揚げて、原判決の認定・判断が、如何に一般の経験則に違背する独断的なものであるかを明らかにしたい。
1 たとえばA+Bのような結合商標に対して、このうちBを共通にする商標があるときは両者がただちに類似すると単純にいうことはできないが、この結合商標の構成中、比較されるべき引用商標と共通の発音がある場合においては、前者は後者の商標が使用された商品のうちの一分類であるかのような誤解を生ぜしめ、混同誤認を生ぜしめるおそれがあるというべきである(昭和二四年三月九日東京高裁昭和二二年(行ケ)第六号)
2 数語からなる商標は、商取引の実情においては、必ずしもその全体をもってのみ指称されず、その一部が省略されて指称されることもまれではない。したがって、「籐四郎延国」の全部から称呼の生ずることも少なくはないが、単にその一部である「籐四郎」ことに「延国」から称呼の生ずることも否定することはできない(昭和三〇年五月三一日東京高裁昭和二七年(行ケ)第四六号)
3 いくつかの語の組合せからなる商標が、常に必ずしも正確にその全体をもって称呼されるとは限らず、一部が省略され称呼されるのは、しばしばあることであって、外観においていくつかの語が一連に組み合せられている商標についても、称呼、観念の点からみれば例外ではないから「Hollywoodshine」なる商標においては、称呼がその全体から生ずることもあるが、「Hollywood」また殊に、ひかり、かがやきの観念をもつ「shine」からも生ずることは少なくなく、したがって、「シャイン」の称呼を有する引用商標とは類似する(昭和三七年六月一九日東京高民六昭和三六年(行ケ)第一一二号)
4 商標は、その構成部分の全体によって他人の商標と識別するように考案されているものであるから、その構成部分の安易な抽出は許されないが、簡易迅速を尊ぶ取引の実際においては、各構成部分がそれを分離して観察することが、取引上不自然と思われる程不可分に結合しているものと認められない商標は常に必ずしも構成部分の全体として称呼・観念されるものではなく、一個の商標から二個以上の称呼・観念が生ずることもあり得るのである(最同昭和三八年一二月五日小昭和三七年オ第九五三号)
5 構成部分が不可分に結合していない商標において、その一部だけによって簡略に称呼・観念され、一個の商標から二個以上の称呼・観念を生ずる可能性のあることは経験則である(最高昭和三八年一二月五日小昭和三七年(オ)第八五三号)
6 文字商標が複数の構成部分からなり、しかもその各構成部分が密接強固に結合したものでない場合、殊に全体として音数が多い場合には、その一部をもって略称され、一部だけでも観念を生ずることは顕著な事実で「はごろもロケット」なる商標も例外ではないというべきであるから「ロケット」の称呼・観念を生ずる商標と類似する(昭和四三年一月二五日東京高裁民一三部昭和四二年(行ケ)第五四号)
7 商人がその氏名または商号の一部をとって商標構成の一要素とすることは、わが国商取引の実情に照らしてまれでないから、そのような商標にあっては、自然的称呼のみでなく、これを使用する商人の氏名または商号との関連にいても考察しなければならない(昭和二九年五月三一日東京高裁昭和二九年(行ケ)第九号)
8 出願人の姓をあらわすにすぎない語は重要な意味を持たないから、これと他の要素を結合した商標にあっては、他の要素が重要視され、そこから、称呼・観念が生ずるものである(昭和三〇年二月一七日東京高裁昭和二八年(行ケ)第三二号)。
9 商標が商号・屋号と一体となって呼ばれている事実があっても普通は、商号・家号と無関係に商標の構成から生ずる自然的称呼によって取引されると解すべきである。(昭和三三年六月三日東京高裁昭和三二年(行ケ)第四一号)
第三点 原判決は、商標法第四条第一項第一一号の法意を誤解ないし曲解している。
商標法第四条第一項が、その第一一号で定める商標の登録を許さないものとしたのは、指定商品と同一又は類似の商品について、先出願に係る既登録の商標と同一又はこれに類似する商標の登録を許すことは、これを商品に使用した場合、先登録者の商品と誤認・混同を生ずる恐れがあり、商品の流通秩序を紊る危険性があるからであり、その商標自体に識別力があるとか、ないとかを問題にしているのではないことは、右本条全体を読めば、極めて明らかなところである。
しかるに、原判決は、「すわき後楽」のうち、特に「後楽」の部分が独立して自他識別機能を有するとはいえない旨判示するが、右法条で問題にするのは、前述のとおり、自他商品の識別機能ではないのである。上告人としても、本件登録商標がなにがしかの識別機能をもつことを争うものではない。本件登録は、上告人の保有する登録商標(審判でいう引用商標)との関係においては、商品の混同・誤認を招来する恐れがある、いわゆる類似の関係にあることを理由に、その登録の無効を主張しているのである。原判決の応答は、見当はずれである。
第四点 原判決は、「商標の要部」という法律上の概念を誤解した上に立って、されたものである。
「商標の要部」という用語は、我が国における商標実務上、「商標の重要な構成部分」、「商標の主要部」、「商標の重要部分」というような意味で慣用されているものである。特許庁の審決などでは、要部の代わりに「看者の注意を最も強く惹く部分」といったような用語例もしばしば見かける。上告人が原審で主張したのも、そのような趣旨であり、それ以上のものではない。上告人は、要するに、「すわき後楽」という商標に接した場合、取引者、需要者、すなわち一般世間の人々、特に岡山地方の人々は、彼らが誇りとする天下の名園後楽園を敏感に連想することもあって、「後楽」の部分がすぐ目に、耳に、とび込んでくると推測されるので、この部分が「すわき後楽」の表示の中でも、特に注意を強く惹く部分であると主張したのであり、「すわき」と「後楽」の結合状態、すなわち、その一体性を否認したものではない。むしろ一体に構成されていることを前提として、既登録商標「後楽」との関係においては、その強く注意を惹く部分・要部を共通にするから、称呼、観念のいずれにおいても、両者、「すわき後楽」と「後楽」とは、互いに類似の関係にあると、理を分けて主張したのであったが、原審は、そのことを理解しないまま、原判決に及んだのである。
第五点 原判決には、採証の法則に違反した違法がある。
裁判所に顕著な事実及び当事者間に争いのない事実以外の事実の認定は、事柄の大小に関係なく、すべて証拠に基づくべきものであることは、民事訴訟の鉄則である。
原判決は、「スワキ(洲脇)という氏は、極めて珍しい氏である、」と認定した(審決は、流石にそのような問題になる認定はしなかった)。被上告人も、原審において、本件審決は、そのような認定をしていないのに、事新しく同様の趣旨の主張をした。原審においては、審決がした認定判断のみが審理判断の対象であると確信する上告人は、被上告人の的はずれの主張に係わりをもつことを要しないと考えて、そのような事情論は無視した。しかるに、原審は、立証を促すでもなく、上告人の認否を確かめるでもなく、審理を終結した。そして、突然、原判決において、右のように認定したのである。よもや、右の事実(仮に事実だとして)は、原審裁判所に顕著な事実でもなかったと思うのに(少なくとも、原判決には、そう書いてない)、右事実を上告人の不利益な判断の資料としている。上告人にとっては、不意打の打撃である。
仮に「すわき(洲脇)」という氏が全国にいくつもない稀な姓だとしても、岡山地区では、洲脇という姓の人、商号の会社が多年にわたって、箪笥等の製造販売を続けて来たので、裁判所が東京で考えるような、そんなに、びっくりするほど珍しい姓とはなっていなかったようである。例を挙げれば、「金田一」という姓も珍しい、おそらく数の少ない姓ではないかと思うが、それを称する方の知名度の高まりにつれて、広く知られる氏姓となっているのと似た関係であろう)。しかも、数は、多いにしろ、少ないにしろ「すわき(洲脇)は、個人の氏姓であり、会社の商号である。商標として、自他商品の識別力はないに等しいほど微弱であることは、すでに述べたとおりである。原判決は「スワキ」と呼ばれる氏は極めて珍しい、というが、全国で何人くらい、この氏を用いているのであろうか。また、さらに、どの程度珍しければ、需要者等の注意を惹くとみられるのであろう?勿論、原判決は、上告人のこれらの疑問に答えることはできない。ということは、原判決には、主文に影響を及ぼすべき重大な事項につき、釈明権不行使、審理不尽、理由不備の違法があるということなのである。
第六点 原判決には、裁判所のすべき審理範囲を逸脱した違法がある。
東京高等裁判所が、特許庁がした審決の取消変更をするのは、審決に違法性が認められた場合に限ることは、いうまでもない。しかして、審決の違法は、実質的判断については、その結論を支えた理由の違法によって招来される。したがって、原審がする審決の違法点の有無の審理・判断は、当事者の申立てを前提として、審決理由に違法点があるか、どうかに、そして、それだけに指向されるべきである。したがって、審決の結論(主文)が結果において、正当とみられる場合でも、それを支える理由が十分な正当性、合理性をもつのでなければ、審決を取り消すことによって、特許庁の反省を求め、更に審理のうえ、理由が整ったとき、審決に違法点なしとすべきであることは、審決には結論を支える理由を掲げるべきことを要求する商標法の規定(第五六条第一項により特許法第一五七条第二項を適用)を援用するまでもなく、審決取消訴訟という行政事件訴訟の本質上、極めて、当然のことに属する。もとより、民事訴訟法第三八四条第二項の適用又は準用の余地などあるべきものではない。
このような考え方に立って、上告人は、原審において、本件審決の認定、判断が誤っており、審決は、結局、その故に違法であるとして、具体的個別的に、理由として掲げられている説示について、その誤りを指摘・主張した。しかるに、原審は、原判決において、本件審決の理由を構成する認定ないし判断が誤りであるかどうかを判断することなく、独自、別個の理由を挙げて、本件商標登録が商標法第四条第一項第一一号に違反してされたものとはいえないとした審決に違法はないと判示した。折角東京高裁に出訴し(当然、費用と手数をかけて)、正しいと信ずる論理を展開して、裁判所の明快な判断を仰ぎ、商標行政の反省を求めようとした上告人としては、全く肩すかしを食った思いを禁じえない。理由不備をいい、審理範囲逸脱を主張する所以である。
第七点 原判決には、特許庁のすべき審理権限に関する法律の解釈を誤った違法がある。
原判決は、判決書一一丁裏において、上告人の、本件審決には、結論に影響を及ぼす重要な事項につき判断を逸脱した違法がある旨の主張に対し、「その登録無効の理由として請求人の主張するところに従って逐一判断していないからといって、審決に判断逸脱の違法があるとすることはできない」と判示した。しかしながら、この判示は、登録無効審判、したがって、その審決の法的性格について、大きい誤解に基づくものである、といわざるをえない。
そもそも、法が登録無効審判につき、民事訴訟類似の当事者対立構造の審理方式を採ったのは、いまさらいうまでもなく、当事者双方に互いに攻撃防御の方法を尽させ、その相争う姿から、登録処分に無効事由があるかどうかを判定させようとしたものである。したがって、この法意からすれば、特許庁は、請求人、被請求人の主張立証につき、逐一特許庁としての認定判断を明らかにすべきは主管行政官庁として極めて当然であり、「最終判断の根拠を証拠により具体的に明らかにすれば足りる」ものではない。最終的判断さえ示せば足るなどという法理は、どこからも出て来ない。原審は、大変遺憾に思えてならないのだが、どうもこの辺の考え方が、失礼ながら、大雑把にすぎるようである(判決書三の結びの部分でも、「審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求云々」というが、原告は、そんな大雑把な主張をしたわけではない。須く、「審決にその主張の点に違法ありとして、その取消を求める云々」というべきである)。いうまでもなく、登録無効審判の請求は、その理由とする個々の事由ごとに(あたかも、裁判上の離婚請求が民法第七七〇条第一項各号ごとにできるのと同じように)、成立するのであり、登録無効事由一般にまとめて成立するものではない。当事者の主張に逐一応答することを要しないなどとは、何かの問違いとしか上告人には思えない判示である。だいいち、それでは、安からざる審判請求費用を支払って、それぞれの事由による登録無効を主張した請求人の立場は、どうなるのか。審査に対する協力にしかすぎない異議についてさえ、一つの異議を理由ありとする場合に限り、他の異議申立てについては、決定を要しないこととした(商標法第一七条において準用する特許法第六一条第一項参照)特許庁の立場は、ここでは、どう理解したらよいのか。当然に、特許庁としては、請求理由なしとするときは、審決によって請求の目的を達しえないこととなる請求人が挙げた理由については、逐一、責任主管官庁として、特許庁の認定・判断を示すべきは、特許庁としての当然の権限であると同時に職務である。よもや「切り捨て御免」でよいとするものではあるまい。原判決は、この間の法理を誤解したものであり、違法といわざるをえない。
第八点 原判決には事実誤認、判断逸脱又は理由不備の違法がある。
上告人は、本件審決が、本件登録商標は、全体をもって一体のものと理解するのが相当であるとして挙げた五項目の事由は、すべて審決の結論的判断を支持するのに足りないものであると主張した。原判決は、上告人のこの主張に応答することなく、顧みて他をいう如く、本件登録商標は、「その音数、語調及び表示態様(個々の文字の大きさがほぼ同じであって、横一列に配置されていること)等から考えると、これを不可分一体の商標とみることに何の妨げもない」と判示した。
この判示が、すでに申し述べたとおり、審決取消事件裁判所としての権限を逸脱したものであるばかりでなく、これらの三項目の事実(…「等」は何か不明であるので、取り上げないこととする)から本件登録商標が不可分一体のものであると断ずることはできない。ましてや、取引者、需要者がこれらの事実から、そう判断するであろうなどと推測することは到底、できることではない(卒直にいって、同じ無力な根拠ながら、審決の説示の方が、まだましであると上告人は評価する)。そもそも、本件登録商標のような、相互に何の実質的つながりのない結合商標を、その公報の記載を机上に並べて観察して、不可分一体かどうかを判断しようとすることが無理なことなのである。常に不可分一体に称呼され、観念されるというためには、取引の実際において、そうだとか、両者が互いに規制し合い、単なる二つの語句の組合わせ以上の新たな観念が生ずるとかいう場合でなければ、不可分一体の商標と認めえないことは、商標実務に携わる者の常識的な理解である。特許の実務では、公知技術の単なる寄せ集めは、新規性なし、とするのが一般であるが、本件登録商標のように、「すわき」という氏・商号と「後楽」とを寄せ集めたとしても、それだけでは、そのいずれとも違った識別力は生まれでないのである。このことは、「スパイラルカレッジ」と「カレッジ」とは称呼類似とした判例(東京高裁昭和四五・七-二一判決)、「ダイヤユニワック」と「ダイヤモンド」、「ダイヤ」とは称呼、観念において類似とした判決(同裁判所昭和四七・四-二八判決)などに徴しても明らかであろう(ちなみに、これら判決は、審決に違法点なしとしたものである)。
原判決は、本件登録商標は、不可分一体であるから既登録の「後楽」とは類似しないと断定したが、現実には、岡山市内において、うどん、そばを供する「後楽」といううどん屋に(中華麺は扱わない)、「すわき後楽」が中華麺でした宣伝広告をみて(誤認混同して)、「後楽」が「すわき後楽」と同じ店又はその系列と思い込んで中華麺を注文する客がいまだに跡を絶たないのである。原審が、机上の空論に終始することなく、取引社会の実際ではどうだろうかと思慮をめぐらせば、容易に、この事実を知りえたでたであろうに……と残念に思われてならない。まさに審理不振・釈明権不行使、事実誤認の難を免れないのである。
原審において、原告(上告人)は、特許庁がした本件審決における理由たる判断及びその根拠として挙げた五項目を争い、その法律的当否について、原審の裁断を求めたのである。しかるに、原判決は、それに全く答えていない。原告(上告人)としては、原審裁判所が独自に本件登録商標をもって不可分一体のものとみるに妨げないなど判断することを期待して審決取消の訴を提起し、訴訟活動を展開したのではない。原告(上告人)は、特許庁が本件登録商標をもって一体のものとみるのを相当すると判定したのに対し、その理由たる事実を争い、その理由から、当然に、特許庁のいうような結論は生れてこない、と主張して、原審の判断を求めたのである。
なるほど、原判決は、本件商標において「後楽」が要部をなすとの原告の主張は採用できない、と判示した。しかし、それは原審が勝手に原告の主張を関係なしに、結論づけだけで、原告(上告人)が挙げた理由については、当とも不当とも判断していない。原判決にも摘示してあるとおり、原告(上告人)は、本件登録商標から「スワキコウラク」の称呼を生ずることは当然ありうることとし、そのほかに「スワキ」及び「コウラク」の称呼も生ずると主張したのである。原判決は、「スワキ」又は、「コウラク」の称呼を生ずるとした原告(上告人)の主張に全く答えていない。おそらく「そんなことはありえない」と即断したのであろうが、それなら、それで理由を示すべきである。東京在住の関係審判官や裁判官にはおわかりにならないのかもしれないが、岡山市を中心とする中国地区では、「後楽」といえば、彼らの誇りとする名園後楽園を極めて容易に連想するのが一般であるから、「後楽」といえば、「なに後楽」であろうと、「あゝゝ後楽か」と十把ひとからげに、思ってしまうのが普通と推測されるのである。また、株式会社すわき(被上告人)の店舗に中華麺を買いに行った顧客は、「後楽を〇〇箱下さい」と平気で注文するであろうし、いちいち「すわき後楽をどれだけ下さい」とは、いう人もあろうが、いわない人も少なくないと推測される。そのほかにも、簡易迅速を好む取引社会では、「後楽」で通ることは、ありえると考えられる。原判決のように、そんなことはありえないといわんばかりの態度は、独断であり、結論を何とか理由づけようとする偏ばな姿勢である、と上告人は思料する。取引の実際においても、本件登録商標から単に「コゥラク」、「後楽」の称呼観念を生ずることがなかろうというのなら、審決取消訴訟だって、証拠調べはできるのであるから、それを確かめる努力をすべきが原審の責務である。その責務を尽くすことなく、頭からきめてしまって、上告人の主張に耳を籍さず、逐一判断を示さなかったのは、裁判所に信頼を寄せて来た上告人にとって、何とも耐えがたい不満であり、失望である。釈明権不行使、理由不備、判断逸脱、事実誤認を重ねて主張する理由である。上告人及び訴訟代理人としては、このような不満感がやがて裁判所の国民的信頼に水を差す結果になり、憲法及び裁判所法が司法裁判所に違法な行政処分の取消変更の権限を認めた趣旨が見失われることを何より危惧・懸念するのである。
なお、原判決は、「本件審決理由の要点」の項において、「引用商標が昭和六一年八月二四日存続期間満了によって消滅した」旨を摘示しているが、この事実は(関係者間の連絡ミスによる手読遅怠により更新手続きがとれなかったもの)、本件登録商標出願時を問題とする本件においては、全く関係のないことであるのに、わざわざこれを要点として摘示した理由がわからない(上告人は、再度出願をし、目下公告中であるから、本件登録商標との誤認、混同の問題は、将来とも、依然としてありうる)のである。もし、特許庁又は裁判所に、「どうせ引用商標は消滅しているのであるから」という考えがどこかにあったとしたら、浅慮といわざるをえない。
以上