札幌地方裁判所 平成元年(行ウ)9号 判決 1990年11月06日
原告
共永交通株式会社
右代表者代表取締役
草場英一郎
右訴訟代理人弁護士
向井諭
同
澤野正明
被告
札幌東労働基準監督署労働基準監督官巻田卓雄
右指定代理人
大沼洋一
同
出村恭彦
同
坂本弘満
同
伊原則夫
同
大島健一
同
樺沢敏行
同
中島秀司
同
高橋好文
主文
一 本件訴えを却下する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の申立
一 原告
1 被告が原告に対し、平成元年三月二〇日付けでなした是正勧告を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 被告
1 本案前の申立
主文と同旨
2 本案に対する答弁
(一) 原告の請求を棄却する。
(二) 訴訟費用は原告の負担とする。
第二事案の概要
本件は、被告が、平成元年三月二〇日付け是正勧告書によって、原告が労働基準法二四条に違反するとしてなした後記一2の是正勧告の取消を求めるものである。
一 争いのない事実
1 当事者
原告はタクシーによる旅客運送を業とする株式会社であり、被告は札幌東労働基準監督署所属の労働基準監督官である。
2 被告による是正勧告
被告は、原告に対し、平成元年三月二〇日付け是正勧告書によって、原告が法定の除外事由がないのにも拘わらず従業員(タクシー乗務員)である訴外大内好幸、五十川満、横山拓司ら(以下「訴外人ら」という。)の二月分の賃金について、一回の客待ち時間が一五分を超えることを理由として、超過時間に相当する賃金を支払っていないのは労働基準法二四条に違反するとして、是正勧告(以下「本件是正勧告」という。)をなした。
二 争点
本件の争点は、被告の本案前の主張の当否で、双方の主張は以下のとおりである。
1 被告の本案前の主張
被告の本件是正勧告は行政事件訴訟法三条二項にいう「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」(以下「処分」という。)には該当しないから、その取消を求めることはできず、本件訴えは不適法である。
すなわち、労働基準監督官の行う是正勧告は、労働者保護の実効性を確保するために行われる労働基準行政上の一つの行政指導手段たる性質を有するにすぎない。労働基準監督官は、労働基準法及び関係諸法令を施行するため、日常活動の一環として法適用事業場に対する監督・指導を実施し、関係者に対する質問、関係帳簿、書類の点検等を行うこと等により、関係諸法令に違反する事実を認めた場合に、使用者に対し違反事実を指摘した是正勧告書を交付するものである。
したがって、是正勧告は法違反者に対しその反省を促し、自主的是正を求めるための指導処置にとどまり、それ自体なんらの法的効果を生じさせるものではないから、取消しの訴えの対象となる処分には当たらない。
2 原告の反論
(一) 「処分」の解釈
裁判を受ける権利を保障するという見地から、たとえ法的拘束力がなく、直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することのない行政庁の行為であっても、その内容が国民の権利義務ないし法律上の利益に重大なかかわりを持ち、かつ、その影響が国民の権利義務や法律上の利益に変動を来し、その行政庁の行為そのものを争わせなければ国民の権利救済ができない場合には、かかる行政庁の行為も「処分」に含まれ、訴訟においてその取消を求めることが許されると解釈すべきである。
(二) 是正勧告取消による救済の必要性
(1) 刑事処分の可能性
労働基準監督官が労働基準法違反の事実が存在するとして是正勧告を発し、使用者が右勧告に従わない場合には、相当数の事件が送検、起訴され、ほとんどが有罪の判決となっている。右の状況のもとでは、使用者が右是正勧告に従わない場合には、ほぼ必然的に刑事処分へ移行するといってよく、社会的に大きな負担を受ける。
(2) 社会的評価の毀損
役所のすることは正しいという風土が存在する現在、労働基準監督官が是正勧告をなしたという事実は会社の業務運営に違法な点があり、直ちに改善する必要があるという評価を社会に与えることになり、原告の社会的評価を毀損する。
(3) 労使関係等に対する悪影響
是正勧告を受けると、労働基準監督官の事実認定は一種の公的認定として労働運動に利用され、労働者らないし組合等はこの是正勧告を大義名分とし、労働者と使用者との間に不信感が醸成され、正常な業務と労使関係に悪影響を与える。原告においても本件是正勧告以来、訴外人らが日常の他の業務命令に対し違法であると主張して従わないなどの影響が出ている。
(三) 本件是正勧告の処分性
以上のような社会的評価の低下等を防止するには、是正勧告の適法性を刑事事件になってから争うのでは遅すぎるし、仮に、労働基準監督官がこれを送検しなかった場合、原告にとってこれを争う機会は全くなくなり、極めて不合理な結果を生ずることになる。したがって、これらの不利益を排除するためにも、本件是正処分を行政事件訴訟法三条二項にいう「処分」に該当すると解するのが正当である。
三 本案についての主張
本案についての双方の主張の要旨は以下のとおりである。
1 原告の主張
本件是正勧告は以下の理由により違法である。
(一) 被告が本件是正勧告により指摘する賃金の不払いは、原告が訴外人らに対して就業規則に基づき懲戒処分としてなしたものである。
(二) 適正手続違反の違法
憲法三一条は行政手続にも適用されるから、行政手続をなすにあたっても適正な手続を履践する必要がある。労働基準監督官が是正勧告をなすには事前に当事者双方に対し十分な事情聴取を行い、さらに客観的な資料の検討を行ったうえで、事実を慎重に認定し、使用者に弁解や是正の機会を与えることが必要である。
しかるに、本件是正勧告にあたっては右の手続が履践されていない。
(三) 信義則違反
被告は、原告に対し、本件是正勧告をなす以前に、賃金不払いが訴外人らの業務命令違反に対する懲戒処分としての減給処分であって、労働基準法二四条違反の問題ではないとの原告の説明を了解していた。それにも拘らずなされた本件是正勧告は、右了解を得られたという原告の信頼を破るものであり、信義則に反するから、違法である。
2 被告の主張
被告は、荏原交通株式会社(昭和六三年八月九日原告に吸収合併)の労働者側からの申告に基づいて事情を調査し、種々の指導を行ったが改善がみられないので本件是正勧告に及んだものである。
第三争点に対する判断
一 本件是正勧告の処分性
是正勧告が「処分」に該当するかどうかについて判断する。
1 労働基準監督官の発する是正勧告というのは、一般に労働基準監督行政を実施した際に発見した法違反に対する行政指導上の措置に止まるもので、何らの法的効果をも生ずるものではないと解されている。
すなわち、是正勧告は、これにより法違反の状態を当然に変更するものではなく、また、勧告を遵守しない使用者に対し、罰則を科するとか、その他これの遵守を強制する制度も設けられておらず、あくまで、勧告を受けた使用者が自主的に勧告にしたがった是正をするのを期待するものに過ぎない。使用者は、勧告に従った是正をしなかったとしても、その法的地位に何らの影響も受けないのである。
なお、原告主張の本件是正勧告の内容からして、本件是正勧告も右の意味での是正勧告といえる。
ところで、行政事件訴訟法三条二項の抗告訴訟の対象たる処分とは、当該措置がそれ自体において直接の法的効果を生ずる行為、すなわち、直接に国民の権利自由に対する侵害の可能性のある行為に限られると解される。したがって、何らの法的効果も生じない本件是正勧告が抗告訴訟の対象とならないことは明らかである。
2 この点について、原告は是正勧告に従わない場合必然的に刑事処分に移行する等の不利益を被り、その他是正勧告を取り消させなければ救済をはかれないと主張する。
(一) しかしながら、労働基準監督官が検察官に事件を送致するのは、使用者が是正勧告に従わなかったという事実に基づくのではなく、使用者に労働基準法違反が存するという嫌疑に基づくのである。また、労働基準法違反の事実の態様、労働基準監督官の抱く嫌疑の程度によっては、是正勧告を発せずに直ちに検察官に事件を送致することもあれば、是正勧告を発しても事件を検察官に送致しないこともある。さらに、送致された事件が当然に起訴されるわけでもない。
以上のように是正勧告と刑事処分に伴う不利益とを法律上結び付けることができない以上、原告の主張を採用することはできない。
(二) また、原告の掲げる社会的評価の毀損、労使関係等への悪影響は、仮に主張のような影響がありうるとしても事実上のものに止まり法律上の不利益と解することはできないから、前記の判断を覆すものではない。
二 結論
よって、本件訴えは不適法であるからこれを却下することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 畑瀬信行 裁判官 石田敏明 裁判官 鈴木正弘)