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札幌地方裁判所 平成10年(わ)989号 判決 2001年5月30日

《目次》

主文/279

理由/279

第一 本件公訴事実の要旨/279

第二 当裁判所の判断/279

一 はじめに/279

二 太郎が行方不明になったこと及び被告人が太郎の最終接触者であることについて/279

1 太郎が何者かに電話で呼び出されたこと/279

(一) 太郎の外出状況について

(二) 小括

2 太郎が当時の被告人方を訪れ、その後行方不明になったこと/280

(一) 捜査状況について

(二) 目撃状況について

(三) 被告人の供述について

(四) 太郎の所在が判明しなかったことについて

(五) 小括

3 まとめ/282

三 被告人の嫁ぎ先から発見された人骨片と太郎との同一性について/282

1 被告人の嫁ぎ先から人骨片が発見されたこと/282

(一) 骨片様の物の発見について

(1) 昭和六三年六月一九日に四郎方南側納屋から発見された骨片様の物について

(2) 昭和六三年六月一九日に南側納屋出入口付近から発見された骨片様の物について

(3) 昭和六三年七月二一日ないし同月二三日の検証時に発見された骨片様の物について

(二) 発見された骨片様の物が人骨片であることについて

(1) 骨Aについて

(2) 骨Bについて

(3) 骨Cについて

(4) 小括

2 発見された本件人骨片が太郎のものと推認できること/285

(一) 発見された本件人骨片と太郎との身体的比較について

(二) 各種の鑑定について

(1) 久司鑑定について

ア 鑑定書(甲一一二)の要旨

イ 鑑定書(甲一一九)の要旨

ウ 久司鑑定の信用性

(2) 福島鑑定について

ア 鑑定書(甲二四一)の要旨

イ 福島鑑定の信用性

(3) 歯牙様物の鑑定について

ア 鑑定書(甲一〇六)の要旨

イ 検討

(4) スーパーインポーズ法による鑑定について

ア 鑑定書(甲一一〇)の要旨

イ 検討

(5) 毛髪鑑定について

ア 鑑定資料

イ 鑑定書(甲一八九)の要旨

ウ 検討

(6) その他の残焼物の鑑定について

ア 鑑定書(甲一三〇)の要旨

イ 鑑定書(甲一三二)の要旨

ウ 検討

(三) 太郎以外に該当する行方不明者がいないことについて

(四) 被告人が太郎の遺体を四郎方に持ち込んだと推認できることについて

(1) 被告人が太郎の最終接触者であることについて

(2) 被告人が○○荘から親族方に段ボール箱を運び込んだことについて

ア 関係者の供述

イ 検討

(3) 被告人が××ハイツから段ボール箱を運び出したことについて

ア 関係者の供述

イ 検討

(4) 被告人が四郎方付近で物を燃やしていたことについて

ア 関係者の供述

イ 検討

(5) 小括

(五) 被告人が本件人骨片を本件ビニール袋に入れて南側納屋に隠し置いていたと推認できることについて

(1) 四郎ないしその親せきと太郎ないしその家族との間に何ら接点がないことについて

(2) 被告人以外の者が本件人骨片を南側納屋に持ち込む可能性が低いことについて

(3) 被告人が本件ビニール袋を入手することが可能であることについて

(4) 小括

3 まとめ/296

四 被告人が太郎を死亡させたことについて/296

1 被告人が太郎を電話で呼び出したこと/296

2 被告人が太郎の死亡につながる行為に及んだと考えられること/296

3 まとめ/296

五 被告人が殺意をもって太郎を死亡させたか否かについて/296

1 太郎の死因が特定できないこと/296

(一) 太郎の遺骨の状況について

(二) 犯行の痕跡について

(三) 小括

2 被告人が太郎を電話で呼び出した目的の解明が困難であること/297

(一) 検察官の主張の要旨について

(二) 被告人が身代金目的で太郎を呼び出したといえるか否かについて

(1) 被告人の生活状況、負債状況等について

ア 事実関係

イ 検討

(2) 被告人の甲野家の資産等に対する認識について

ア 事実関係

イ 検討

(3) 被告人の言動の不可解さについて

ア 太郎を電話で呼び出した状況

イ 男児用の机等の所持

ウ 供養の様子

エ 太郎の遺骨の放置

(4) 小括

3 被告人が殺意をもって太郎を死亡させたとは認められないこと/301

(一) 検察官の主張の要旨について

(二) 殺意を抱くような動機の有無について

(三) 被告人の供述態度等について

(1) 取調べ中の言動について

(2) ポリグラフ検査について

(3) 黙秘の態度について

(4) 小括

第三 結論/302

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実の要旨

被告人は、昭和五九年一月一〇日、札幌市豊平区福住一条<番地略>の○○荘二階一号室の当時の被告人方において、甲野太郎(当時九歳)に対し、殺意をもって、不詳の方法により、太郎を殺害した。

第二  当裁判所の判断

注・以下の説明では、証拠の記載について、次の例による略称を用いる。

(1)  甲野太郎、甲野二郎(名前の署名が「弐郎」のものもあるが、身上調査照会回答書[甲一<添付の戸籍謄本及び戸籍の附票写しを含む。>]によれば、「二郎」となっているので、以下「二郎」と表示する。)、甲野花子、甲野春子、甲野三郎、乙野四郎、丙野五郎、丙野夏子、丁野六郎、丁野秋子、丁野冬子、甲山桜子→順次、太郎、二郎、花子、春子、三郎、四郎、五郎、夏子、六郎、秋子、冬子、桜子

(2)  鑑定人福島弘文の公判供述(第二九回公判期日におけるもの)→福島供述(第二九回公判)

(3)  証人戊野七郎の公判供述(第二四回公判期日におけるもの)→戊野七郎供述(第二四回公判)。他の証人についても同様である。

(4)  第一七回公判調書中の証人鈴木滋の供述部分→鈴木(滋)供述(第一七回調書)。他の証人についても同様である。

(5)  検察官請求の証拠等関係カード記載の甲三号証、乙二号証→甲三、乙二

(6)  弁護人請求の証拠等関係カード記載の弁一五号証→弁一五

(7)  証拠番号及び項等を記載した後掲各証拠は、主要な証拠及び部分を掲記した趣旨である。

なお、以下、年の記載を省略した月日のみの記載はいずれも「昭和五九年」を表し、札幌市内の「区」については当時の「区」を表すものとする。

一  はじめに

検察官は、要するに、被告人が信販会社等からの借金の返済に窮して、身代金目的で太郎を誘拐し、警察に発覚することを防ぐため、一月一〇日、当時の被告人方において、殺意をもって太郎を殺害したことは明らかである旨主張している。

これに対し、被告人は、罪状認否において、起訴状にあるような事実はない旨陳述し、被告人質問においては本件に関し黙秘しており、弁護人は、被告人の有罪を立証する証拠は存在しないから、被告人は無罪である旨主張している。

二  太郎が行方不明になったこと及び被告人が太郎の最終接触者であることについて

1 太郎が何者かに電話で呼び出されたこと

(一) 太郎の外出状況について

二郎(甲三)、花子(甲四)、三郎(甲六)、春子(甲七)、丙山梅子(甲一七)の検察官調書、二郎(甲一四七、一四八)、花子(甲一四九ないし一五一)、三郎(甲一五三ないし一五五)、春子(甲一五六、一五七)の警察官調書、身上調査照会回答書(甲一[添付の戸籍謄本及び戸籍の附票写しを含む。])、「地番の確認について」と題する書面(甲九)、「誘拐容疑事件捜査報告」と題する書面(甲一〇、一六)、実況見分調書(甲八、一二)によれば、次のような事実が認められる。すなわち、

ア 太郎(昭和四九年二月二八日生)は、一月一〇日当時、札幌市豊平区福住一条<番地略>において、父二郎、母花子、姉春子及び兄三郎と共に居住していた。(甲一、三)

他方、被告人は、同日当時、同区福住一条<番地略>の○○荘の二階一号室に長女菊子(昭和五七年六月一三日生)と共に居住していた。(甲九、一〇)

イ 一月一〇日午前九時(あるいは同九時過ぎ)ころ、甲野方に電話が掛かり、二郎が出たものの、相手は何も言わずに無言のまま電話を切った。当時、甲野方には度々無言電話が掛かってきていたが、朝早く掛かってきたのはこの時が初めてであった。(甲三[六項]、四[二項]、七[四項]、一四八[五項]、一五〇[二、三項]、一五六[五項]、一五七[三項])

ウ 同日午前九時三五分(あるいは同時刻の前後)ころ、再び甲野方に電話が掛かり、太郎が居間東側のサイドボード上の受話器を取り、最初はいつもの口調で「もしもし、甲野ですが、どちら様ですか」などと言っていたが、その後、太郎は、電話の相手に対して、沈んだ、緊張して相手の命令に一方的に従うような感じで「はい。はい」と返事をするだけで、花子から電話を代わるように言われても背を向けるようにして受話器を渡さず、また、三郎が台所にある電話器で会話を聞こうとしても秘話スイッチを操作して聞けないようにし、約二、三分後(あるいはせいぜい数分以内)に電話を切った。(甲三[七項]、四[二項]、六[四項]、七[四項]、一四七[四〜六項]、一四八[六項]、一四九[四、六項]、一五三[五〜七、一四項]、一五四[三項]、一五五[四、五項]、一五六[五項]、一五七[四項])

エ 太郎は、電話を切ると着替えをして外出しようとし、花子から、だれからの電話だったのか、また、どこへ行くのか問いただされると、急いでいる様子で、「ヘイヤマさんのお母さんが、僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている。函館に行くと言っている。車で来るから、それを取りに行く」「一〇〇メートルくらい離れた所に、おばさんが持ってきてくれる」などと答え、紺色のスノーコートを着て同日午前九時四〇分ころ外出した。(甲三[七項]、四[二項]、六[五項]、七[四項]、一四七[七、八項]、一四八[六項]、甲一四九[七、八項]、一五一[四項1]、一五三[八、九項]、一五四[三項]、一五五[六項]、一五六[五項]、一五七[四項])

オ 太郎は、自宅を出ると、南方にある羊ヶ丘マンションに通じる道をまっすぐ走って行った。そして、三郎も、花子から太郎の跡をつけるように言われ、眼鏡を掛けず、コートも着ないまま家を出て、太郎から八〇メートルほど遅れて追い掛けた。(甲四[二、三項]、六[五、六項]、七[四、五項]、八、一二、一四七[八、九項]、一四八[六、七項]、一四九[八、九項]、一五一[四項1]、一五三[九、一〇項]、一五四[四項]、一五五[七、八項]、一五六[六項]、一五七[五項])

なお、花子は、この時、丙山方ないし○○荘の前辺りに上下どちらかが赤でどちらかが黒っぽい服装の女性が腕組みをして自宅(甲野方)の方を向いて立っているのを自宅の窓から目撃した旨述べている(甲四[三項]、一五一[四項2])が、二郎、三郎、春子はこのような女性を見たとは述べておらず、警察官鈴木滋(当時札幌方面豊平警察署に勤務し、太郎の捜査に従事)も、鈴木供述(第一七回調書)において、「花子が現場付近で女の人を見掛けたという情報を聞いた記憶がない(六九、七〇頁)」旨供述しており、その真偽は不明である(ただし、花子の述べる女性の服装は同日の被告人の服装に似ている。)。

カ 三郎は、太郎を追い掛けている途中で、太郎が約六〇メートル先の丙山方(甲野方から約一一二メートル南方にある。)付近で左に曲がるのを目撃し、太郎が見えなくなったことから、丙山方前路上ないしその向かいの空き地等で約二、三分太郎が現れるのを待った。(甲六[六項]、八、一二、一四七[九、一〇項]、一五三[一一項]、一五四[四、六項]、一五五[八、一〇項])

なお、丙山方の南隣には○○荘がある。(甲八)

キ 三郎は、コートと眼鏡を取りにいったん自宅に戻り、その際、花子に、「そこの丙山さんの家の付近に入って行った。左に曲がって見えなくなった」などと言い、約三〇秒ないし一分後には再び自宅を出て丙山方前路上に戻り、花子も数分後に丙山方付近に赴いた。(甲三[七項]、六[六、七項]、一四七[一〇項]、一四八[七項]、一四九[一〇項]、一五一[四項4]、一五三[一一、一二項]、一五四[六項]、一五五[一〇項]、一五六[六項])

ク 花子は、丙山方を訪ね、一人で在宅していた当時高校三年生の丙山梅子に小学校四年生くらいの男の子が来ていないか尋ねたが、丙山から来ていないと言われた。(甲四[三、四項]、六[七項]、一七、一四九[一一項]、一五一[四項5]、一五三[一二項]、一五四[六項]、一五五[一一項])以上の事実が認められる。

(二) 小括

以上によれば、太郎が何者かに電話で呼び出されたことは明らかである。

2 太郎が当時の被告人方を訪れ、その後行方不明になったこと

(一) 捜査状況について

被告人の警察官調書(乙二)、米森淳(甲一四)、八田井武(甲一五)の検察官調書、二郎(甲一四七、一四八)、花子(甲一四九)の警察官調書、「誘拐容疑事件捜査報告」と題する書面(甲一六)によれば、次のような事実が認められる。すなわち、

ア 一月一〇日午前一〇時四〇分ころ、花子から札幌方面豊平警察署西岡交番に、太郎が出掛けたまま帰って来ない旨の電話があり、さらに、同日午後零時三〇分ころ、花子が同交番を訪ね、まだ太郎の行方が分からない旨言ったため、警察官米森淳(当時同交番勤務)が花子から事情を聞いた後、同日午後一時ころ、甲野方に赴いた。

(甲一四[二、三項])

イ 米森は、甲野方で三郎から事情を聞いた後、丙山方を訪ねたが太郎は来ていないと言われた。米森は、同日午後二時ころ帰宅した二郎からも太郎が外出した時の様子を聞いた上で、三郎の説明から、丙山方に行ったのでなければその右隣の○○荘に行った可能性が最も高いと思い、○○荘の住民に太郎が訪ねて来たかどうかを尋ねることとし、一人で○〇荘に赴いた。○○荘は、一階に一世帯、二階に三世帯が入居していたが、一階の一世帯と二階の一世帯では、そのような子供は来ていないと言われ、二階の別の一世帯は不在だった。(甲一四[三項])

ウ 米森は、被告人方に赴くと、被告人が子供をおぶったままドアを開けたので、紺のコートを着た小学生くらいの子供が来なかったか尋ねたところ、被告人は、「その子なら午前中に来たよ」と答え、さらに、「『ヘイヤマさんっていう家知りませんか。階段を上ってすぐの家と聞いてきたんですが』って聞くから、『隣の家が丙山さんっていうから、そこじゃない』と教えてあげた。そうしたら、『分かりました』とか何とかぶつぶつ言って出て行ったよ」などと答えた。米森が、その子がどこに行ったか尋ねると、被告人は、「私は外に出なかったから、どっちに行ったかは分からない」と答えた。(乙二、甲一四[四項])。

エ 警察官八田井武(当時札幌方面豊平警察署勤務)は、米森から連絡を受け、同日午後四時ころ、作内巡査長と共に被告人方に赴いたところ、被告人が子供をおぶって○○荘の階段を上がって来たので、太郎が訪ねて来た時の状況を聞こうとすると、被告人は、「またですか。さっき来たお巡りさんに全部話ししたよ」などと言っていたが、室内に入るのを拒まなかったので作内と被告人方に入った。八田井らは、被告人に太郎の写真を見せ、訪ねて来た子供か確認すると、被告人は、「こんな感じの子供だったよ」と答え、さらに、子供が訪ねて来た時の状況について、「(自分が空気を吸いに外出して)五分くらい経ってから部屋に戻った。部屋の空気も入れ換えようと思って、玄関を開けたまま中に入ろうとしたんだけど、その時、玄関の前に男の子が立っていて、その子と目が合った。そうしたら、その子供が『ヘイヤマさん……、知りませんか』と声を掛けてきた。自分が『このアパートにはいないんでないの』と言うと、『まっすぐ行って、階段を上る家なんだけど』と答えた。このアパートの隣に丙山という表札が付いているのを何度か見たことがあったので、『隣の家じゃないの』と言うと、子供は何かぶつぶつと聞き取れないことを言っていたが、そのうち『どうも』と言って出て行った」旨説明し、訪ねて来た子供のことについて、「小学校四年生くらいかな。紺色のヤッケみたいなものじゃなかったかな。ほそぼそと話す子供だったな」などと答えた。(乙二、甲一五[三、五項])。

以上の事実が認められる。

(二) 目撃状況について

当時小学三年生であったAは、警察官調書(甲一九三)において、「一月一〇日午前八時ころから、(○○荘の道路を挟んだ向かいにある)空き地で、Bと二人でミニスキーをして遊んでいる際に、太郎が丙山方の門の所に立って自分たちの方を見て立っていたのを見た。太郎は、そのまま何も言わずに(南方の)丁山方の方に歩いて行ったが、それからどちらに行ったかは見ていない(四項)」旨供述し、また、当時小学五年生であったBも、警察官調書(甲一九六)において、「一月一〇日午前八時ころから、Aと二人で空き地で遊んでいると、太郎が一人で丙山方の門の前辺りを自分たちの方を見ながら歩いて行った。太郎は(南方の)羊ヶ丘マンションの方に行ったが、どっちに曲がったかは見ていない(三項)」旨供述している。右両名の供述によれば、太郎は、丙山方ないし○○荘付近より、更に南の方へ歩いて行った可能性も否定できないことになる。

しかしながら、A(甲一九四)、B(甲一九七)の検察官調書によれば、両名とも遊びに夢中で○○荘付近を注視していたわけではないこと、両名は太郎と同じ小学校に通っていたものの太郎とは学年が異なり、Aは太郎を通学途中にしばしば見掛けていたが付き合いは全くなく、一度だけ二言三言話ししたことがあった程度にすぎず、Bも太郎と同じ学習塾に通っていたものの、一緒に遊んだことはなかったこと(甲一四[三項]、一九七[二項])、当時、三郎は眼鏡を掛けており、AもBも三郎を眼鏡を掛けた顔で記憶していたこと(甲一九四[五項]、一九七[二項])、Aは、平成一〇年に検察官から眼鏡を掛けていない三郎の写真と太郎の写真を見せられ、同じ人物のように見える旨供述し(甲一九四[五項])、Bも、同年に検察官から三郎が写っている写真を見せられたところ、太郎と間違え、三郎と太郎がよく似ていると感じた旨供述していること(甲一九七[五項])が認められ、これらの事実に照らせば、右両名が眼鏡を掛けていなかった三郎を太郎と見間違えたことも十分考えられる。しかも、仮に、右両名の目撃状況が、昭和五九年一月当時に警察官に対し供述したとおり(甲一九三、一九六)としても、前述したとおり、太郎は○○荘の階段を上って被告人方を訪れていることが認められるのに、右両名が○○荘の階段を上り下りする太郎の目撃状況について一切供述していないことからすれば、右両名の供述も、太郎の動向についてそれほどの証拠価値を認めることはできないといわざるを得ない。

したがって、三郎及び花子の前記供述をも併せ考えると、三郎が甲野方に戻っている間に太郎が丙山方ないし○○荘付近から更に南の方へ歩いて行きそのまま行方不明になったとは認めることができない。

(三) 被告人の供述について

被告人は、二月三日付け警察官調書(乙二)において、「一月一〇日午前九時ころから午前一〇時ころまでの間、外の空気を吸いに行こうと思い、菊子を部屋に寝かせたまま、赤色のセーター、グレーのスカートを着て外に出た。空き地で小学生くらいの子供二人が雪遊びをしており、かまくらしないのなどと声を掛けた(二、三項)。五分くらい外に出た後、玄関ドアを開けて自宅に入ろうとした際、『おばさん』と声を掛けられたので見ると、○○荘の外階段を上って来る子供がいた。その子供は表札を見たような素振りをした後、『ヘイヤマさん……知りませんか』と聞いてきた。このアパートにはいないのでないのと言うと、『まっすぐ行って階段を上る家だと聞いてきたんだけれども』と言い、隣の家は丙山さんだけどその家でないのと言うと、ぼそぼそ言った後『どうも』と言うのでドアを閉めた、その子供と会話したのは三分くらいだと思う(五項)。その子供は初めて見る子供で、紺色のヤッケみたいなものを着ており、小学四年生くらいの男子だった。写真(太郎のもの)の子供によく似ている(八項)」などと、太郎が被告人方を訪れたものの、被告人方には入らなかったという趣旨の供述しているので、この点について検討する。

花子及び三郎立会いの下で実施された実況見分調書(甲八)によれば、甲野方から丙山方ないし○○荘に通じる道路は直線道路で見通しがよいところ、三郎の指示説明によると、三郎が太郎を追い掛け右道路に出た時に太郎がいた②地点とその時の三郎の位置であるfile_3.jpg地点との距離は約78.6メートルであり、その後太郎が左に曲がったのを三郎が認めた位置であるfile_4.jpg地点とその時の太郎の位置である③地点との距離は約六〇メートルであったことが認められる。この点、当時の三郎の視力が、両眼とも裸眼では0.08程度であったこと(「捜査関係事項照会書の回答について」と題する書面[甲二〇四<添付の五八年度学級健康診断簿写しを含む。>])を考慮しても、実況見分調書(甲一二)、診断書(甲二〇五)によれば、三郎が約六〇メートル先の太郎のおおまかな行動について視認することは十分可能であったと認められ、太郎が丙山方付近で左に曲がるのを見た旨の三郎の前記供述は十分信用することができる。

そして、三郎は、前記のとおり、丙山方付近路上で太郎を二、三分待っていたが、太郎が現れないので眼鏡とコートを取りに行くためいったん自宅に戻っており、花子は三郎が太郎を追い掛けたのを見た後台所に行き、その時二郎や春子は○○荘の方向を見ていなかった(甲三[一八頁]、七[一四頁])というのであるから、○○荘の方向を注視している者がいなかった時間があるものの、三郎は自宅に戻る際何度も後ろを振り返って太郎が道路に出て来ていないか確認したが、太郎が道路に出て来ることはなかったこと(甲六[六項]、一五五[一二項])、花子は台所に戻ってから二、三分後に再び自宅の窓から○○荘方向を見ており、その時三郎が自宅に戻って来るところだったこと(甲四[三項])、三郎が自宅にいた時間は三〇秒ないし一分程度だったこと、三郎は花子から眼鏡とコートを受け取った後すぐに丙山方付近に戻ったことからすれば、三郎がいったん甲野方に戻ろうとしてから再び丙山方付近に戻るまでの間に太郎が自ら更に遠方へ行ったり、何者かに連れ去られたとは考え難いというべきである。

これに対して、被告人の右供述によれば、太郎が被告人方玄関口で被告人に「ヘイヤマ」のことを知らないか尋ねてきたので、被告人は隣の丙山方を教え、この間三分くらいだったというのであるが、そうであれば、三郎が太郎を追い掛け丙山方付近で二、三分待っていた間やいったん自宅に戻ろうとしてから再び丙山方付近に赴くまでに太郎を見掛けたり、太郎が実際に丙山方を訪ねたりしていると思われるのに、そのような事実はなく、太郎は丙山方付近で左に曲がった後だれにも目撃されていないのであるから、結局、被告人は、太郎が○○荘を訪れたことを認めながら、その際の状況については警察官に虚偽の事実を述べていた疑いが強いといえる。

しかも、前述したとおり、被告人は、警察官からの事情聴取や警察官調書(乙二)において、太郎が家族に言い置いた内容と同趣旨のことを述べており、このことからすれば、被告人が太郎と直接会ったことは間違いないものと認められる。

そうすると、被告人の右供述は、太郎が被告人方を訪れたとする限度でしか信用できないというべきである。

(四) 太郎の所在が判明しなかったことについて

鈴木滋供述(第一七回調書)によれば、一月一〇日から一〇日間くらい、甲野方に捜査員を泊まり込ませたが、犯人と思われる者からの脅迫電話や身代金を要求する電話は掛かってこなかったこと(二六、二七頁)、同月一一日からは、聞き込み捜査、地取り捜査、検索作業、太郎及び家族の出入り関係の捜査、定時通行者の捜査、ハイヤー、バスなどの交通機関の捜査等をしたが、太郎の所在は明らかにならず、目撃情報も得られなかったこと(二七〜四七頁)、所在不明から三、四日後に、合同発表、看板立て、ビラ配りなど公開捜査に踏み切ったが、有力情報はなく、太郎の所在は明らかにならなかったこと(四七〜四九頁)が認められる。

したがって、太郎が一月一〇日に行方不明になった後もその所在が判明しなかったことは明らかである。

(五) 小括

以上によれば、太郎が当時の被告人方を訪れ、その後行方不明になったことは明らかというべきである。

3 まとめ

以上を総合すれば、太郎は、一月一〇日午前九時四〇分ころ、何者かに電話で呼び出されて外出し、その直後に当時の被告人方を訪れた後、警察による広範囲にわたる捜索にもかかわらず、その行方が不明のままであったことが認められるところ、太郎を電話で呼び出した者がだれなのかを特定する客観的な証拠はなく、また、太郎が被告人方を訪れたのを目撃した者もいないとはいえ、太郎が被告人方を訪れたとする被告人の供述は十分信用できるから、被告人が太郎の最終接触者であると認めることができる。

三  被告人の嫁ぎ先から発見された人骨片と太郎との同一性について

1 被告人の嫁ぎ先から人骨片が発見されたこと

(一) 骨片様の物の発見について (1) 昭和六三年六月一九日に四郎方南側納屋から発見された骨片様の物について

桜子(甲三七)、五郎(甲六九)の検察官調書、阿部勇一(甲五一[引越会社の社員で、被告人が○○荘から××ハイツ、さらに四郎方に引っ越しした際に見積り等を担当])、C(甲五三[謄本。不同意部分を除く。])の警察官調書、除籍謄本(乙一〇)、「乙野宅における焼死火災発生報告」と題する書面の謄本(甲六八)、「骨片の発見について」と題する書面(甲七〇)、「ビニール袋の任意提出について」と題する書面(甲七一)、札幌市豊平区福住に於ける殺人被疑事件捜査報告書(甲八五)、実況見分調書(甲七四、七五)、検証調書(甲七九)によれば、次のような事実が認められる。すなわち、

ア 被告人は、昭和六〇年秋ころ、姉の桜子とその知り合いであり四郎のいとこのCを介して、四郎と見合いをし、昭和六一年五月一九日、北海道樺戸郡新十津川町字総進<番地略>の四郎方に転居し、同年六月二日、四郎と婚姻した。(甲三七[八項]、五一、五三、七九、乙一〇)

イ 昭和六二年一二月三〇日未明、四郎方で火災が発生し、四郎方母屋が全焼して四郎が焼死し、四郎方敷地内にあった二棟の納屋は焼けないで残り、四郎の兄妹らが管理することになった。(甲六八、六九[二、三項])

ウ 昭和六三年六月一九日、四郎の兄弟姉妹らが集まった際、四郎の姉夏子の夫五郎は、夏子の妹Dの夫Eから四郎方南側納屋(以下「南側納屋」という。)にある物干しざおが欲しいと言われ、Eと共に南側納屋に入り、間仕切り壁の東側にある窓の辺りの物を見たところ、ポットが入った段ボール箱の陰に灰色のビニール袋(以下「本件ビニール袋」という。)に入った骨のような物を発見した。(甲六九[二〜四、六項])

そこで、五郎は、警察に通報し、同日、札幌方面滝川警察署の警察官が南側納屋に赴いたところ、南側納屋の東側窓から西側に四〇センチメートル、北側壁(間仕切り壁のこと)から南側に七二センチメートルの位置に、焼けた骨片様の物約五〇〇片(以下、これらの骨片様の物を「骨A」という。)及びおわんで約二杯分の灰(以下「本件骨灰」という。)が入った破れた本件ビニール袋(二枚重ね)が床上に置いてあり、これらは、同日、五郎から任意提出され領置された。(甲六九[七、八項]、七〇、七一、七四、七五)

エ 同月二〇日、医師沢田孚立会いの下、骨A及び本件骨灰について実況見分を行った結果、骨片と識別できるものは五二七片であり、また、本件骨灰の中からは、歯牙と思われるもの六片、塊状となった毛髪と思われるもの二塊、段ボール紙片と思われるもの五片、段ボールの留金と思われるもの一個、繊維片と思われるもの四片、木片と思われるもの八片が確認された。(甲七五)

さらに、本件ビニール袋には、いずれも濃いシルバーグレー色地に赤色で円形、正方形のマーク三個が左斜め下方に配列され、左上部には「Ishiguro HOMA」「Home Amenity Center」との表示、その下に赤色で「石黒ホーマ」との表示、下部中央部には30との表示、下部右端部側に赤色地で濃いシルバーグレーの色抜きをした「ホーマバッグ」との表示があることが確認された。(甲七五)

以上の事実が認められる。

ところで、「写真撮影報告について」と題する書面の謄本(甲一六六)には、昭和六三年二月一六日に撮影したとされる写真が九枚添付されているが、そのうちの写真7には同年六月一九日に五郎が発見した本件ビニール袋と同じ物と思われるビニール袋が同日と同じ場所に置かれている状況が撮影されている。

この点、甲一六六を作成した警察官矢田敏男(当時札幌方面滝川警察署勤務)は、矢田供述(第五回調書)において、「昭和六三年二月一六日、自分の上司であった京藤刑事課長から、南側納屋内のポリタンクの状況を明確にしておくように指示されて写真を撮影した(七頁)。同月一八日、撮影時に撮影日時、撮影時間、場所を記載した鑑識手帳を見ながら写真撮影報告書を作成した(一一、一二頁)。甲一六六添付の写真7は、左下の青いポリタンクを写すために撮影した写真であり(一四、一五頁)、南側納屋の間仕切りされた南側を撮影したもので、撮影に際して動かした物はない(一五頁)。この写真を撮影した時、灰色のビニール袋があることに気が付かなかったし、撮影の前後にこのビニール袋に触ったことはない(一七頁)」旨供述しているところ、矢田の右供述には特段不自然、不合理な点がなく、また、甲一六六の体裁自体からも矢田が写真撮影報告書を作成するに当たり、写真の撮影日時や報告書の作成日付等に虚偽の記載をしたとは考えられない。

したがって、本件ビニール袋は、昭和六三年二月一六日には、同年六月一九日に五郎が発見した時と同じ場所に置いてあったことが認められる。

さらに、警察官木村正幸(当時札幌方面滝川警察署勤務)は、木村供述(第三回調書)において、「昭和六三年六月一九日に南側納屋から発見された人間の骨らしきものが入った、石黒ホーマの灰色のビニール袋と同じような袋を、昭和六二年一二月三一日にも南側納屋で見ている(四、五頁)。火災に遭った四郎方の検証を開始する直前に、上司の京藤課長から納屋等に被告人の衣類や貴重品等が置かれていないか確認するように指示され、同僚の千葉隆と一緒に南側納屋に入った際、このビニール袋を見た(六、七、一一〜一三頁)。南側納屋は半分に間仕切りされており、その北側はコンバインなどがあり、その南側は雑然といろんなものがあった(一五頁)。南側納屋の北側を見た後、南側に入り、隅の方まで歩いて行って見た。南側納屋の間仕切り板のすぐ南側の東壁の方で、石黒ホーマの灰色のビニール袋に入った炭化した骨のような物があった。ビニール袋の周りには、キャタピラ、スチールトタンが巻かれて縛ってある物、段ボール箱などがあったと思う。ビニール袋は、口が縛られておらず、上から見ただけで中に何が入っているか分かる状態で直接床に置かれていた(一六〜二〇頁)。ビニール袋の中には、灰のような物、黒く炭化した骨の一部のような物が入っていた(一九頁)。そのビニール袋は千葉も見ており、二人で犬や猫に食べさせた豚や鳥の骨を焼いた残がいかななどと話ししたと思う(二一頁)。このビニール袋には直接手で触わって開けて見るようなこともせず、そのままに南側納屋に置いてきたと思う(二二頁)。このことについては、昭和六三年六月一九日に南側納屋で骨を見付けたという届出があった後に千葉と連名で捜査報告書を作成した(二七〜二九頁)。同月二〇日、発見されたビニール袋に入った骨を滝川警察署で見たが、石黒ホーマのビニール袋に入っていたという状態、五郎が見付けた場所、炭化して黒く褐色した状態からして、自分たちが見た物と同一の物と思った(三一、三二頁)。実況見分調書(甲七四)添付の写真7ないし12を見ると、ビニール袋が置かれた位置や状態は自分たちが見た物と同じだと思うが、自分たちが見た時は口はこれほど大きく開いてなく、袋の破損の状態もこれほどではなかった(三六、三七頁)」旨供述し、警察官千葉隆(当時札幌方面滝川警察署勤務)も、千葉供述(第三回調書)において、「昭和六二年一二月三一日、京藤警部から納屋の中をもう一度確認するように指示され、四郎方の検証を行う直前に同僚の木村正幸と一緒に南側納屋に入った(六、七頁)。南側納屋の間仕切り板の南側部分の東側の窓のそばで、石黒ホーマの灰色のビニール袋に入った骨を木村が見付けた(一二、一三頁)。このビニール袋は口が開いた状態で、床上に無造作に置かれており、上からのぞいただけだが、何かの骨と思われる、黒褐色というか、焼け焦げたような状態の物が入っていた(一四〜一六頁)。木村とは、豚の骨か鳥の骨の焼いたやつでないのかなどと話ししたが、詳しい話はしなかった(一七、一八頁)。このビニール袋には手を付けずにそのままにして南側納屋から出た(一八頁)。このことについては、昭和六三年六月二一日に木村と連名で捜査報告書を作成した(二一、二二頁)。同月二〇日、滝川警察署で同月一九日に発見された骨を見たが、発見された場所、石黒ホーマのビニール袋、骨片の焼けの状態からして、昭和六二年一二月三一日に南側納屋で見た骨と同一の物だと思った(二四、二五頁)」旨供述している。

木村及び千葉の右各供述は、いずれも供述内容が具体的で、自然な流れにも沿い、互いによく符合しており、他の証拠との矛盾もなく、十分信用することができる。

そうすると、木村及び千葉の右各供述によれば、本件ビニール袋は、昭和六三年六月一九日に五郎が発見した時とほぼ同じ状態で、既に昭和六二年一二月三一日に南側納屋に置かれていたものと認められる。

(2) 昭和六三年六月一九日に南側納屋出入口付近から発見された骨片様の物について

五郎の検察官調書(甲六九)、札幌市豊平区福住に於ける殺人被疑事件捜査報告書(甲八五)、任意提出書(甲八二)、領置調書(甲八三)によれば、昭和六三年六月一九日、骨Aとは別の骨片様の物一片(以下「骨B」という。)が五郎から任意提出され領置されたことが認められる。

この点について、五郎は、検察官調書(甲六九)において、「(昭和六三年六月一九日)警察官に南側納屋の中のビニール袋に入った骨(骨Aのこと)を見せて説明した後、南側納屋の外に出たところ、警察官が『ここにも骨がある』と言うので見ると、南側納屋入口前の土の上に長さ二〇センチメートルくらいの骨があった。その時、別の警察官が、『この骨は前の検証の時にあった』と言っており、自分も同年五月一八日から二〇日までの間の検証の際、焼けた住宅から出た木片や壁土などを警察官がふるいに掛けていた時、長さ二〇センチメートルくらいの骨が出てきたのを見た(九項)」旨供述している。

そして、警察官玉置金夫(当時札幌方面滝川警察署勤務)は、玉置供述(第四回調書)において、「昭和六三年六月一九日、五郎から南側納屋に骨らしいものがあるとの届出があり、四人くらいで南側納屋に赴き、ビニール袋に入った骨の実況見分を行った(一四、一五頁)際、南側納屋出入口から三、四メートルくらい離れた場所に置いてあった、長さ二〇センチメートルくらい、片方が太く、一部焦げたように黒くなった骨片一片も、五郎から任意提出を受けて領置した(一七、一八頁)。この骨片は、同年五月一九日、四郎方敷地において、放火及び殺人容疑で再検証をした際、自分が発見し南側納屋出入口付近に置いたものである(一八、一九頁)。この時は、恐らく動物の骨だろうと考えたので、領置せずに南側納屋の前に置いた(一九頁)。同日、大きい残焼物を取り除き、小さい残焼物を熊手やスコップでかき集め、ふるいに掛ける作業をしていた際、焼失した母屋の茶の間の南側の花畑のようになった場所で、その骨片を発見した(二一〜二三頁)。同日骨片を置いた場所と六月一九日に骨片が置かれていた場所は同じである(二七、二八頁)。骨片を発見したのは検証の立会人五郎も見て知っている(三四頁)。五月一九日に骨片を発見した状況について、六月二〇日に捜査報告書を作成した(三六頁)」旨供述している。

五郎及び玉置の右各供述には、特段不自然、不合理な点がなく、互いに符合しており、十分信用することができる。

そうすると、五郎及び玉置の右各供述によれば、骨Bは、既に昭和六三年五月一九日に四郎方敷地内の母屋南側の花畑付近で発見されていたものと認められる。

(3) 昭和六三年七月二一日ないし同月二三日の検証時に発見された骨片様の物について

札幌市豊平区福住に於ける殺人被疑事件捜査報告書(甲八五)、検証調書(甲八四、八六、八九、九二)によれば、次のような事実が認められる。すなわち、

ア 前記のとおり、骨Aが発見されたことから、昭和六三年七月二一日から同月二三日までの間、四郎方焼失家屋及び付属する納屋二棟、車庫一棟及びその敷地内について、新たに検証が実施された。(甲八四、八六、八九、九二)

イ 同月二一日、南側納屋(間仕切り壁北側、同南側の床上、壁の間)から、骨片様の物六五片等が発見され、五郎から任意提出を受けて領置した。(甲八六)

ウ 同月二二日、南側納屋(間仕切り壁南側の床下)から、骨片様の物五片、歯牙片様の物一片が発見され、乙野八郎から任意提出を受けて領置した。(甲八九)

エ 同月二三日、南側納屋出入口付近から、骨片様の物一片が発見され、五郎から任意提出を受けて領置した。(甲九二)

以上の事実が認められる(なお、鑑定嘱託書謄本[甲一〇一]において、医師寺沢浩一[当時北海道大学医学部法医学教室助教授。以下「寺沢医師」という。]に鑑定嘱託された骨片様の物を合わせて、以下「骨C」という。すなわち、同月二一日に発見された骨片様の物のうち五六片、同月二二日に発見された骨片様の物のうち三片、同月二三日に発見された骨片様の物一片の合計六〇片)。

(二) 発見された骨片様の物が人骨片であることについて

豊平区内小学生殺人被疑事件捜査報告書(甲一二三)、鑑定嘱託書謄本(甲九七、九九、一〇一)、鑑定書(甲九八、一〇〇、一〇二)によれば、寺沢医師は骨A・B・Cについていずれも人骨片であると鑑定したことが認められる。個別に各鑑定書を概観する。

(1)  骨Aについて

寺沢医師は、骨Aに関し、①人骨か否か、②人骨とすれば、その部位(単体か複数体か)、性別、年齢、体格、血液型、歯の治療状況、死後の経過年月、骨の切断の有無、骨Bとの共通性、③その他参考事項について鑑定嘱託を受け、次のとおり鑑定している(甲九八。甲一二三で一部訂正)。まず、概観検査において、資料は五〇〇個ほどの骨片と、さらに細かな骨片様物からなっており、歯牙の付着している骨片、毛髪も認められ、これらの多くは熱変化を受け、淡褐色から黒色に変色しており、また、骨、歯牙、毛髪以外に異物として、繊維様物、金属様物及びプラスチック様物が含まれているとしている。そして、鑑定結果において、①骨片は人骨である、②骨片の属する部位がほぼ全身にわたっていること、骨の大きさ、発育程度、同側同名骨がないこと、熱変化・死後変化の程度に差のないこと、血液型検査の結果から考えて、単数の人体に由来すると考えられる、③骨片の形態から性別を判定することはできない、④年齢は九歳から一〇歳くらいと推定される、⑤身長は幅広くは一四四から一六四センチメートル、幅を狭めて一五〇から一五六センチメートルと推定される、⑥血液型はAB型の反応を呈した、⑦残存する歯牙に治療の痕跡は認められない、⑧死後経過時間は、幅広くは一年から一〇年、幅を狭めて一年から六年くらい経過しているものと推定される、⑨損傷あるいはその治療痕は認められない(生前に発生したと考えられる骨折、切痕、鋸断の痕跡並びに骨折の治療痕等の異状は認められない)、⑩黒褐色直毛で長さ三センチメートル以上の頭髪を有していたものと考えられる、⑪前歯部の被蓋はほぼ正常(受け口ではない)と思われる、上顎右側で中切歯、側切歯及び第一大臼歯が萌出している旨結論付けている。

(2)  骨Bについて

寺沢医師は、骨Bに関し、①人骨か否か、②人骨とすれば、その部位、性別、年齢、体格、血液型、死後の経過年月、骨の切断の有無、骨Aとの共通性、③その他参考事項について鑑定嘱託を受け、次のとおり鑑定している(甲一〇〇)。すなわち、①骨Bは人骨である、②部位は左大腿骨骨幹部の上部である、③骨片の形態から性別を判定することはできない、④血液型はAB型の反応を呈した、⑤死後経過時間は、幅広くは一年から一〇年、幅を狭めて一年から六年くらい経過しているものと推定される、⑥損傷あるいはその治療痕は認められない、⑦骨Bは骨Aの中には存在しない部位であり、骨Aの中にある左大腿骨頭部が骨Bに結合していたものと考えられ、骨Aの中にある右大腿骨上部は、骨Bと同形・同大の左右対称形を呈しており、それらの発育の程度、推定死後経過時間も同様であり、血液型検査結果も一致することから、骨Bは骨Aの由来した人体と同一の人体から由来したものと考えられる旨結論付けている。

(3)  骨Cについて

寺沢医師は、骨Cに関し、①人骨か否か、②人骨とすれば、その部位、性別、年齢、血液型、死後の経過年月、骨の切断の有無、骨A・Bとの共通性、③その他参考事項について鑑定嘱託を受け、次のとおり鑑定している(甲一〇二)。すなわち、①骨Cには、人骨と認められるもの、人獣の判別ができないもの、ゴム片などが含まれている、②そのうち人骨と認められるものについては、部位は右上腕骨の中央部から下部にかけての骨幹部、これに近接する部又は長幹骨の一部、大腿骨あるいは脛骨の一部、長幹骨(大腿骨あるいは脛骨)の一部、腰椎(ほぼ完全な原形)、長幹骨の一部などである、③性別を判定することはできない、④右上腕骨の中央部から下部にかけての骨幹部及び腰椎からすれば、体格は小さく、年齢は若い(五歳から一八歳くらいを表す)、⑤腰椎及び長幹骨の一部の血液型検査結果では、AB型の反応を呈した、⑥死後経過時間は、右上腕骨の中央部から下部にかけての骨幹部、腰椎及び長幹骨の一部については一年から五年くらい、その他の部位については一〇年以内である、⑦骨A・Bと重複する同側同名部位が認められず、推定年齢、血液型検査結果、推定死後経過時間及び熱変化の程度に差がないことから、同一人に由来する可能性がある、⑧腰椎には圧挫痕、破損(動物咬傷も可)があり、長幹骨の一部には破損(動物咬傷も可)がある旨結論付けている。

(4)  小括

以上のとおり、寺沢鑑定からすれば、骨A・B・C(以下、骨A・B・Cを総称して「本件人骨片」という。)を全体的にみると、これらは同一人に由来するものと考えられ、その想定される人物としては、年齢が九歳から一〇歳くらい、身長が幅広くは一四四から一六四センチメートル、幅を狭めて一五〇から一五六センチメートルくらい、血液型がAB型、死後経過時間が幅広くは一年から一〇年、幅を狭めて一年から六年くらいと認められる。

2 発見された本件人骨片が太郎のものと推認できること

(一)発見された本件人骨片と太郎との身体的比較について

まず、太郎の行方不明時の身体的特徴についてみるに、二郎(甲一四八)、花子(甲一五〇ないし一五二)の警察官調書、「行方不明児童甲野太郎の身体特徴の割出し捜査について」と題する書面(甲一七五)、殺人・死体遺棄容疑事件捜査報告書(甲一七六)、「殺人容疑事件捜査報告」と題する書面(甲一七七)、「殺人被告事件捜査報告」と題する書面(甲一七八)によれば、太郎は、一月一〇日当時、九歳で札幌市立福住小学校四年に在学し、身長はおよそ一四五センチメートル前後、血液型(ABO式)はAB型であったことが認められる。

そして、前記寺沢鑑定(昭和六三年六月ないし同年八月実施)から認められる、発見された本件人骨片から推定される年齢、身長、血液型、死後経過年数と、太郎の行方不明時の身体的特徴や行方不明時期を比較しても、本件人骨片と太郎の身体的特徴との間に同一人としても特に矛盾がないことが認められる。

(二)  各種の鑑定について

(1)  久司鑑定について

ア  鑑定書(甲一一二)の要旨

技術吏員久司篤志(当時北海道警察本部刑事部科学捜査研究所[以下「科捜研」という。]法医科勤務。以下「久司吏員」という。)は、骨Aの一部及び骨Bについて、そのDNA型を鑑定しているところ、その鑑定の経過、考察及び結果の要旨は次のとおりである(資料番号は当該鑑定書の資料番号を表す。以下同様である。)。

① 外観検査

資料(1)(左大腿骨の一部と称する骨片二片)は、形態学的特徴から、左大腿骨の近位骨端(上端)から大腿骨体の一部までの部分と認められ、小転子付近で二つに切断された近位骨端側の骨片と大腿骨体側の骨片と認められる。資料(2)(骨盤の一部と称する骨片二片)は、形態学的特徴から、腸骨翼の一部が欠損した左腸骨と認められ、腸骨体の部分で二つに切断された腸骨翼側の骨片と腸骨体側の骨片と認められる。資料(3)(右上腕骨の一部と称する骨片二片)は、形態学的特徴から、左上腕骨の遠位骨端(下端)から上腕骨体の一部までの部分と認められ、骨体と骨端の間付近で二つに切断された遠位骨端側の骨片と上腕骨体側の骨片と認められる。資料(4)(腰椎の一部と称する骨片一片)は、形態学的特徴から、椎弓板や突起部の多くが欠損した腰椎と認められる。資料(5)(右上顎部と称する骨片一片と歯牙片二片)は、形態学的特徴から、骨片は右上顎骨の一部と認められ、歯牙片は、それぞれ犬歯と臼歯の歯冠部の一部と考えられる。

なお、これらの資料は、程度の差はあれおおむね褐色から黒褐色に変色あるいは炭化ないし灰化しているものの、一部には乳白色の部分(脂肪感も残る)も認められる。

② DNA型検査

a DNAの抽出、精製

資料(1)からは、資料部位、脱灰処理の有無により、海綿質未脱灰画分、海綿質PK後脱灰画分、緻密質全体画分、緻密質内側画分、緻密質外側未脱灰画分、緻密質外側PK後脱灰画分及び緻密質外側脱灰画分の七種類のDNA抽出液を得た(なお、いずれもプロティネースK及びSDSを加えたTNE緩衝液で蛋白質分解処理を行った)。また、資料(2)の海綿質と皮質、資料(3)の皮質、資料(4)の海綿質及び資料(5)の第一大臼歯(大部分のエナメル質を取り除いたもの)からは、いずれも脱灰処理を行った後、右同様の蛋白質分解処理を行いDNA抽出液を得た。

各DNA抽出液(未精製のもの)は、フェノール処理、フェノール・クロロホルム処理、クロロホルム処理を行った後、エタノール沈殿及び限外ろ過により精製した。

b 右のとおり精製したDNAについて、MCT118型検査、HLADQα型検査、TH01型検査及びPM検査を行った。

c また、資料(1)の緻密質の外側の一部について、凝集素価二五六倍のヒト由来抗A、抗B血清及び凝集素価二五六倍のユーレックス抗Hレクチンを用いて解離試験による血液型検査を行った。

③ 考察及び鑑定結果

資料(1)について、MCT118型は不明であり、HLADQα型は、型検出できた三画分が同じ型であることから、一・一―一・三型と判定され、TH01型は、型検出できた五画分が同じ型であることから、七―七型と判定される。また、PM検査の結果、型判定が可能な一画分と型判定に至らないが発色の認められた四画分を比較すると、いずれの型も矛盾しない発色パターンを示していることから、LDLR型がAB型、GYPA型がBB型、HBGG型がBB型、D7S8型がAA型、GC型がAB型と判定される。なお、ABO式血液型はAB型と判定される。

資料(2)について、MCT118型は不明であり、HLADQα型は、二画分とも同じ型であり、一・一―一・三型と判定され、TH01型は、二画分とも同じ型であり、七―七型と判定される。また、PM検査の結果、二画分とも同じ型であり、LDLR型がAB型、GYPA型がBB型、HBGG型がBB型、D7S8型がAA型、GC型がAB型と判定される。

資料(3)及び(4)について、MCT118型、HLADQα型、LDLR型、GYPA型、HBGG型、D7S8型及びGC型は不明であり、TH01型は七―七型と判定される。

資料(5)について、MCT118型は不明であり、HLADQα型は、Cドットの発色が極めて弱いため型判定は不能であり、型は不明である(なお、1 3 1.1 1.2・1.3・4 1.3 All but 1.3のドットに弱い発色が認められるが、この発色パターンは、少なくとも三種類の対立遺伝子[1.1 1.3 3]の存在を示唆するもので、通常一人が持つ対立遺伝子は一種類か二種類であり、この三種類の対立遺伝子が一人に由来するとは考えられず、検出された発色パターンは本来の型を反映していないものと考えられる。)。TH01型は、七―七型と判定される。また、PM検査の結果、GC型において、A、B、Cのドットが陽性の反応を示しているが、これは三種類の対立遺伝子(A、B、C)の存在を示唆するもので、通常一人が持つ対立遺伝子は一種類か二種類であり、三種類の対立遺伝子が一人に由来するとは考えられず、検出された発色パターンは本来の型を反映していないものと考えられ、LDLR型、GYPA型、HBGG型、D7S8型及びGC型はいずれも不明である。

なお、本鑑定では、MCT118型はいずれの資料からも検出されず、また、その他のDNA型についても資料(画分)により検出できるものとできないものがあるが、これは各資料から得られた骨由来のDNA(DNA抽出液)の状態の違いによるものと考えられる。また、各資料は、いずれも死後ある程度経過し(陳旧化が進み)、いずれも熱の影響を受けているものと考えられ、どの資料も骨由来のDNAはある程度変性(低分子化)が進んでいるものと考えられる。

資料(5)については、PCR反応において非特異的な増幅が起きていると考えられ、その原因としては、PCRの特異性を低下させる物質の影響が考えられる。

以上によれば、資料(1)ないし(5)の骨片が同一人に由来すると考えて矛盾する成績はない。

イ  鑑定書(甲一一九)の要旨

久司吏員は、二郎から採取した血液(資料(1))、花子から採取した血液(資料(2))のそれぞれの血液型及びDNA型、さらに、資料(1)を父親の血液、資料(2)を母親の血液とした場合、血液型及びDNA型において、鑑定書(甲一一二)の資料(1)ないし(5)は二郎及び花子の子供の骨片として矛盾があるかについて鑑定しているところ、その鑑定の経過、考察及び結果の要旨は次のとおりである。

血液型検査については、資料(1)及び資料(2)の一部を遠心分離により血球画分と血清(血漿)画分とに分け、血球画分は生理的食塩水で洗浄後、二パーセント血球浮遊液を調製し、凝集素価二五六倍のヒト由来抗A、抗B血清及び凝集素価二五六倍のユーレックス抗Hレクチンを用いて凝集反応により検査した。DNA型検査については、資料(1)及び(2)から分取したものについて、それぞれBlood Cell Lysis緩衝液により前処理を行った後、プロティネースK及びSDSを加えたTNE緩衝液で蛋白質分解処理を行いDNA抽出液(未精製)を得た上、フェノール処理、フェノール・クロロホルム処理、クロロホルム処理を行った後、エタノール沈殿により精製し、鑑定書(甲一一二)と同様の方法で各種DNA型検査を行った。

検査の結果、資料(1)のABO式血液型はA型と判定され、DNA型は、MCT118型が二四―二八型、HLADQα型が一・一―三型、TH01型が六―七型、LDLR型がAA型、GYPA型がAB型、HBGG型がAB型、D7S8型がAB型、GC型がBB型と判定された。また、資料(2)のABO式血液型はB型と判定され、DNA型は、MCT118型が二四―二四型、HLADQα型が一・三―三型、TH01型が七―九型、LDLR型がBB型、GYPA型がBB型、HBGG型がAB型、D7S8型がAB型、GC型がAB型と判定された。

そして、資料(1)を父親の血液、資料(2)を母親の血液とした場合、この両親から生まれる子供のABO式血液型はA型、B型、O型、AB型のいずれの型でもよく、DNA型については、MCT118型は二四―二四型、二四―二八型のいずれかであり、HLADQα型は一・一―一・三型、一・一―三型、一・三―三型、三―三型のいずれかであり、TH01型は六―七型、六―九型、七―七型、七―九型のいずれかであり、LDLR型はAB型、GYPA型はBB型、AB型のいずれかであり、HBGG型はAA型、AB型、BB型のいずれかであり、D7S8型はAA型、AB型、BB型のいずれの型でもよく、GC型はAB型、BB型のいずれかである。

したがって、資料(1)を父親の血液、資料(2)の母親の血液とした場合、鑑定書(甲一一二)資料(1)ないし(5)は、ABO式血液型及びDNA型おいて、この両親から生まれた子供であっても矛盾がない。

ウ  久司鑑定の信用性

① DNA型鑑定手法の修得

久司供述(第九回ないし第一一回調書)、捜査報告書(甲一七四)によれば、次のような事実が認められる。すなわち、

a 都道府県警察で行われるDNA型鑑定は、警察庁科学警察研究所(以下「科警研」という。)法科学研修所において所要の研修課程を修了し、科警研所長がDNA型鑑定に必要な知識、技能を修得したと認めて資格認定書を交付した鑑定員が行うものとされている。そして、鑑定員は、DNA型鑑定専用施設において、科警研所長があらかじめ定める検査機器及び検査試薬を用いて行うものとされている。しかも、鑑定対象資料、その採取上の手続及び留意事項、鑑定手順、検査実施上の留意事項、検査結果の確認、鑑定書の作成方法等については、DNA型鑑定の運用に関する指針に定めるところによるとされている。このようなDNA型鑑定による個人識別は、広く実用に供されている手法といえる(甲一七四)。

b 久司吏員は、平成七年に科警研法科学研究所において所定の研修を受け、試験に合格して資格を認定され、平成八年一月からMCT118型検査とHLADQα型検査を実施するようになり、同様に平成九年に所定の研修を受け、その際、骨からDNAを抽出する手法も学び(久司供述[第九回調書<二〜九、五三頁>])、試験に合格して資格を認定され、平成一〇年二月からTH01型検査とPM検査を実施するようになった。久司吏員が、TH01型検査とPM検査を加えた四種類のDNA型検査を行ったのは、本件の鑑定が初めてであったものの、平成八年一月から平成一〇年三月までの間、MCT118型検査及びHLADQα型検査については三七件行っている(久司供述[第九回調書<四〜一〇頁>])。TH01型検査とMCT118型検査、PM検査とHLADQα型検査は、それぞれ同様の手法を用いて行われる検査である(久司供述[第一〇回調書<六九、七〇頁>])。

以上の事実が認められる。

以上によれば、久司吏員は、DNA鑑定の実施に必要な知識、経験及び技量を十分有しているものと認められる。

② DNA鑑定の実際

久司供述(第九回ないし第一一回調書)を前提に、久司鑑定についてみるに、久司吏員は、DNA鑑定を行う際、電気泳動以外の操作はクリーンルームと呼ばれる独立したDNA実験室において、履物を取り替え、専用の白衣に着替え、マスクや使い捨て手袋を着用するなどし、また、資料を入れて操作する際に使用する容器も資料ごとに色を分け、資料の別を記載し、ふたの付いたものを使用するなどの一般的な注意事項を遵守した上で定められた手法に従い、それぞれの鑑定に専従して鑑定を行ったこと(第九回調書[三四〜三六頁])、鑑定書(甲一一二)の鑑定をする際、鑑定資料が熱の影響を受けているように見えたものの、資料の中には脂肪感が残っているものもあり、表面が焦げていても内部に炭化していない部分が残っていればDNA型を検出できる可能性があるので、できるだけ熱の影響の少ないところを採取するよう心掛けたこと(第九回調書[四二〜四五頁])、脱灰処理を行うとより多くのDNAが抽出されるが、骨の中にはPCR増幅を阻害する物質も含まれているという報告もあり、阻害物質の影響を強く受ける可能性もあるため、鑑定書(甲一一二)資料(1)については脱灰処理するものとしないものに分け、資料(2)ないし(5)については、通常は脱灰処理を行いより多くのDNAを取り出す方がよい結果を得られるといわれていることから全部脱灰処理を行ったこと(第九回調書[四九〜五一頁])、表面の汚れを取り除くため、やすりやダイヤモンドディスクでできるだけ表面を削り取り、資料自体も十分に洗浄し(第九回調書[五四頁])、PCR増幅の作業に際しては、阻害物質の影響を弱くするためBSAを添加し、資料間のコンタミネーションにも気を付け(第九回調書[五五頁])、資料について安定した検出結果を出すためそれぞれ少なくとも二回はDNA検査を行ったこと(第一一回調書[四二頁])が認められる。

そうすると、久司吏員は、鑑定書(甲一一二)の鑑定資料が焼かれた古い骨であることにも十分配慮して慎重にDNA検査を実施していることが認められ、また、鑑定書(甲一一九)の鑑定の際にも、血液からDNAを抽出する方法として一般的な方法を採用した上で型判定を行っていることなどが認められ、その手法も的確であったということができる。

なお、鑑定書(甲一一二)によれば、DNA型によっては資料から検出されなかったものもあるが、それらは資料自体の陳旧化が進んでいたり、熱の影響を受けたためであるなど、いずれもその原因が究明されており(久司供述[第九回調書<五九〜六四頁>])、検査に不適切な点があったためではないことが認められる。

また、鑑定書(甲一一二)の資料(5)については、HLADQα型検査において少なくとも三種類の対立遺伝子の存在が示唆され、PM検査におけるGC型において、三種類の対立遺伝子の存在が示唆され、通常一人が持つ対立遺伝子は一種類か二種類であり、三種類の対立遺伝子が一人に由来するとは考えられず、検出された発色パターンは本来の型を反映していないものと考えられるとされているのに対し、TH01型検査については七―七型と判定されるとの結論に至っている(甲一一二[六丁裏及び七丁表])。この点について、久司吏員は、久司供述において、「対立遺伝子が三つ出るということは通常考えられない。例えば、骨由来のDNAのほかに別の人のDNAが混じってしまったという可能性が考えられる(第九回調書[六七頁])」旨供述する一方、「TH01型検査においては、七のバンドしか検出されていないので、たとえ何が混じっていても七しか存在しないと考えられた。歯自体のDNA型は、ほかの型の検出状況から検出されていると判断したので、仮に別人のDNA型が混じっていても骨本来のDNA型は七であることは間違いないと考え、七―七型と判定した(第一一回調書[二〜五頁])」「資料の状態からいって、TH01型が検出されても当然いい状態だと思った。HLADQα型、PMの各型について、型が混じったように、資料本来のDNA型に何かが混じったような検出状況になっており、TH01型も本来の骨のDNA型は検出されていると判断した(第一一回調書[八六頁])」旨供述している。

以上の鑑定経過を踏まえ、久司吏員は、鑑定書(甲一一二)の資料(1)ないし(5)から判定されたDNA型がいずれも同じ型に判定されていること、判定には至らなかったもののHLADQα型検査やPM検査で発色の認められたものについて、検出された各型に当てはめてもいずれも矛盾しないことから、右各資料はいずれも同一人に由来すると考えて矛盾しないと判断したこと(久司供述[第九回調書<六八頁>])、二郎及び花子の血液型及びDNA型から生まれる子として可能性のある型を推定し、その型と鑑定書(甲一一二)の資料から判定された血液型及びDNA型を比較した結果、両者の型が矛盾しなかったことから、鑑定書(甲一一二)の各資料は二郎を父親、花子を母親として生まれた子に由来するものであるとしても矛盾はない旨結論付けたこと(久司供述[第九回調書<七六〜七九頁>])が認められる。

③ 小括

以上によれば、久司吏員の行った鑑定手法はもとより、その型判定についても誤りがあるとは認められず、それに基づく判断も適切であると認められる。したがって、久司鑑定の結論は十分信用することができ、発見された本件人骨片が太郎に由来するものであるとしても矛盾しないというべきである。

(2)  福島鑑定について

ア  鑑定書(甲二四一)の要旨

鑑定人福島弘文(信州大学医学部法医学教室教授。以下「福島教授」という。)は、骨Bである大腿骨の断片(甲二一三[平成一一年押第七号の三])、骨Aのうちの腸骨の断片(甲二一四[同押号の四])、骨Aのうちの上腕骨の一部(甲二一五[同押号の五])に関し、①DNA型判定、②①のDNA型と二郎との父子関係の存否、③①のDNA型と花子との母子関係の存否、④その他参考事項について鑑定しているところ、その鑑定の経過及び結果の要旨は次のとおりである。

右各骨片からフェノール抽出法、ヨウ化ナトリウム液を用いた抽出法及びシリカビーズ抽出法の三種類の方法を適宜用いてDNAを抽出し、五種類のSTR分析(本鑑定では四塩基繰り返し配列を有するSTR多型[LPL、D5S818、vWA、D13S317、TH01、D7S820]を検討した。)及びミトコンドリアDNA分析(母子鑑定と個人識別には多型性に富むDループの分析が最も重要であり、本鑑定においては、DループのHVⅠ領域のうち一五九九七番目から一六四〇〇番目までの塩基配列をプライマーを用いて分析した。)を行った。また、花子の血液についてもシリカビーズ抽出法を用いてDNAを抽出し、ミトコンドリアDNA分析を行った。

その結果、STR分析については、大腿骨と腸骨からの抽出液から一部のSTRでいずれも一本のピークが検出された(一般に一本[ホモ型]ないし二本[ヘテロ型]のピークが検出される)ものの、陳旧化、劣化などによる資料の状態によっては二本ヘテロ型のピークが十分に増幅されずに一本のホモ型として誤って判定される恐れがあり、本鑑定で検出されたSTRが真のホモ型かどうか断定できないため、領置した骨片のDNA―STR分析から推定される人物と二郎との父子関係は証明されなかった。ミトコンドリアDNA分析については、領置した骨片及び花子の血液のミトコンドリア分析の結果と世界で最初に全ミトコンドリアDNA塩基配列を解読したアンダーソンの配列とを比較した結果、五個の部位(一六〇三七番目[A→G]、一六〇九三番目[T→C]、一六二二三番目[C→T]、一六三六二番目[T→C]、一六三九九番目[A→G])で変異が証明され(ただし、上腕骨の一六〇九三番目の変異は解読不明瞭であった。)、この変異は大腿骨、腸骨、上腕骨、花子の血液の間で完全に一致し、かつ、日本人のミトコンドリアDNAについて報告されている論文に照らすと、右のような五個の部位の変異がすべて一致する人は鑑定当時までに報告されておらず、今回検出された型は極めてまれと考えられる旨説明し、このように、領置した骨片の由来する人物と花子のミトコンドリアDNA分析の結果、HVⅠ領域の極めてまれな五個の変異部位が完全に一致した結果が得られたことから、領置した骨片に由来する人物と花子が母子関係にある可能性は極めて高い旨結論付けている。

イ  福島鑑定の信用性

福島供述によれば、福島教授は、DNA関係の研究を中心に行い、DNA多型学会の運営委員を務め、これまで約一〇〇件のDNA型鑑定ないしそれを基にした親子鑑定を行ったほか(第二九回公判[一、二頁])、裁判所及び警察の依頼により一〇件前後のミトコンドリアDNAの分析を行った経験を有していること(第二九回公判[一〜三頁])が認められ、したがって、福島教授は、本件鑑定に当たり必要な専門的知識経験と技術水準を有しているものと認められる。

そして、福島教授は、福島供述において、本件ミトコンドリアDNA分析について、「細胞の中には非常に多くのミトコンドリアが存在し、DNAもそれだけ多くなるので、非常に劣化した資料でもミトコンドリアDNAは比較的容易に抽出され、増幅も比較的容易である。ミトコンドリアのDループ領域は、非常に個人差があり、その塩基配列が個人で異なるが、母子は完全に一致する。本件では、ミトコンドリアのDループ領域のうちHVⅠ領域の塩基配列を分析した。それは、今まで日本人を対象としたHVⅡ領域の報告が余りされていないこととHVⅠ領域が非常に有用性があるということからである(第二八回公判[六〜八頁])」旨供述し、また、検査に当たっては、DNAを抽出する際には、一般に採用されている三種類の方法により、試薬やキットも市販のものを使用してマニュアルどおりの手順で行ったこと(第二九回公判[二三頁])、作業中は福島教授と助手以外の者は部屋に入れず、滅菌した手袋、マスク、キャップ、白衣等を用いたこと(第二九回公判[二八、二九頁])、ミトコンドリアDNAの分析の際には、クリーンベンチと呼ばれる箱形のベンチを、使用前にはアルコールでふくなどして用いたこと(第二九回公判[四三、四四頁])、塩基配列の解読の際にも、試薬、キット、チューブ等は市販のものを用い、クリーンベンチの中で行ったこと(第二九回公判[五三〜五六頁])などを供述しており、本件鑑定が一般的に確立された手法で行われ、その手順も的確であったことが認められる。

さらに、福島教授は、福島供述において、「本件では、一万五九九七番目から一万六四〇〇番目までの分析をすべて複数回行い、無理な解読はせずに完全に読める部分だけを解読し、大腿骨、腸骨、上腕骨すべて一致した結果が得られた(第二八回公判[八、九頁])」旨供述し、また、いわゆるヘテロプラスミーが疑われる部分について、福島教授は、鑑定書(甲二四一)や福島供述において、シークエンス・データ上二つのピークが認められる場合でも、小さい方のピークが四〇パーセント以下であること及び複数回検査をした結果他のチャートで単独のはっきりしたピークが検出されていることからヘテロプラスミーの可能性を否定しており(鑑定書[甲二四一]第三節検査結果と説明[(1)、(2)、(3)、(6)、(17)、(27)<六〜九頁>]、第二九回公判[六四〜六七頁]、第三〇回公判[一一五〜一二七、一五八〜一六〇頁])、そのデータの解読も、変異部位の判定も不適切であったことをうかがわせるような事情はない。

福島教授は、花子の血液からもDNAを抽出し、ミトコンドリアDNAの分析を行い、解読、判定の前記結果と照らし合わせた結果、HVⅠ領域の極めてまれな五個の変異部位が鑑定資料(大腿骨の断片、腸骨の断片二個、上腕骨の一部)と花子の血液との間で、解読できない一個の部位を除き完全に一致したことから、鑑定した骨の由来する人物と花子との間に母子関係がある可能性が極めて高い旨結論付けている。この点、これまで報告された日本人のミトコンドリアDNAの分析件数を考慮すると、右五個の部位が変異する例が極めてまれとまで評価できるかどうか疑問の余地がないわけではないが、少なくとも福島教授が解読した鑑定資料と花子の血液とのミトコンドリアDNAのHVⅠ領域の変異部位が一致していることからすると、本件鑑定資料が太郎に由来するものであるとしても矛盾しないということができる。

(3)  歯牙様物の鑑定について

ア  鑑定書(甲一〇六)の要旨

警察庁技官吉野峰生、同三宅文太郎(当時いずれも科警研法科学第一部法医第一研究室勤務。吉野については、以下「吉野技官」という。)は、骨Aのうちの骨片と思われるもの二点、歯牙片と思われるもの一二点及び歯牙の付着している顎骨と思われるもの一点(以上の一五点は、殺人被疑事件歯牙よう物の写真撮影報告書[甲一〇三]添付の写真に撮影されたもの)に関し、①人間の歯か否か、②人間の歯とすれば、その性別、推定年齢、血液型、歯の治療の有無、あればその部位、名称、各資料の部位、名称、③その他歯の特徴、④その他参考事項について鑑定嘱託を受け(鑑定嘱託書謄本[甲一〇四])、①鑑定資料はすべてその形態学的特徴からヒトの骨片及び歯片である、②性別は男性と推定される、③年齢は八ないし九歳と推定される、④血液型はAB型と判定される、⑤鑑定資料の歯のうち破損を受けていない歯に関する限り治療処置は認められない旨鑑定している。なお、鑑定資料についてその部位、名称をそれぞれ特定している。

イ  検討

吉野供述(第六回調書)によれば、吉野技官らは、白骨死体の個人識別等の鑑定業務を日常的に行っており、その専門的知識経験を有していたところ、右鑑定では、永久歯五本の歯冠部について解剖学的計測検査を行い、永久歯の萌出状態及び歯根の形成状態を検査した結果を各種統計と比較検討して性別や年齢を判定していることが認められるのであって、比較対照した数値が昭和三四年ないし昭和三七年のものであり、あくまで平均値にすぎないことを考慮しても、右判定が不合理とはいえず、本件歯牙等が太郎に由来するものと判断しても矛盾しないという限度では右鑑定結果の信用性を肯定できるというべきである。

なお、弁護人は、歯の大きさにより性別を判定する場合には歯の大きさの平均値に性差があるだけではなく性差に有意差がなければならないところ(吉野供述[第六回調書<八一頁>])、右鑑定で計測された歯のうち統計上性差に有意差が認められるのは上顎第二大臼歯の歯冠の長さと厚さについてのみであり、これだけで男性と推定する結論は信用性がない旨主張するが、吉野吏員は、上顎第二大臼歯に加えてその他の四本の歯の大きさについても男性の平均値を超えていることを総合的に勘案して男性であると判断した(吉野供述[第六回調書<八〇〜八六頁>])というのであるから、弁護人の主張には理由がない。

(4)  スーパーインポーズ法による鑑定について

ア  鑑定書(甲一一〇)の要旨

吉野吏員は、右(3)アの鑑定資料一五点と太郎の写真(殺人並びに死体遺棄被疑事件捜査報告書[甲一〇七<不同意部分を除く。>]参照。二郎が太郎の公開捜査に利用するポスター内に掲載するため昭和五八年に撮影した太郎の写真を業者に依頼して拡大転写したもので、使用後に札幌方面豊平警察署で保管していたもの)との異同識別について鑑定嘱託を受け(鑑定嘱託書謄本[甲一〇九])、右鑑定資料のうち上顎骨の一部及び右側切歯と太郎の写真の鼻部、上唇部及び右側切歯の解剖学的位置関係をスーパーインポーズ法により比較検討した結果、両者の側切歯の形状がよく合致していること、太郎の写真の右中切歯に対する上顎骨の中切歯歯槽窩の位置関係、太郎の写真の外鼻孔及び鼻尖部に対する上顎骨の梨状口下縁の位置関係、太郎の写真の上唇部に対する上顎骨の上顎間縫合の位置関係は解剖学的に矛盾が認められないことから、上顎骨の一部は太郎のものと考えられる旨鑑定している。

イ  検討

吉野供述(第六回調書)によれば、吉野技官は、その専門的知識経験に基づき、一般的に確立した手法であるスーパーインポーズ法を用いて資料と太郎の写真に写っている鼻部、上唇部及び右側切歯についての異同識別を判定したものであるが、スーパーインポーズ法においては顔写真の撮影方向と同じ方向に資料を向けて合わせることが重要であるところ、右鑑定では、粘土を用いて上顎骨を固定した上、その角度を少しずつ変えながら写真を撮影し、また、両者の右側切歯の大きさが同一になるようにしたというのであり、その鑑定の手法も的確であったと認められるのであって、鑑定書(甲一一〇)に「鑑定資料は上顎骨の一部であるため、通常の頭蓋と顔写真を用いたスーパーインポーズ法による検査結果よりもその信頼度はやや低下する」旨の記載があり、また、吉野吏員が「スーパーインポーズとしては全体を合わせる一般のスーパーインポーズと違うので、その信頼性は落ちる(第六回調書[五七頁])」、「正面の顔が合い、歯が出て全部が合ったものを一〇〇とすると、……歯だけ合ってその周辺部が合っていたものは七〇くらい、大まかな感覚のパーセントで言えばそんな感じである(第六回調書[一二六、一二七頁])」旨供述していることを考慮しても、資料の上顎骨の一部が太郎のものであっても矛盾しないという限度では右鑑定結果の信用性を肯定できるというべきである。

(5)  毛髪鑑定について

ア  鑑定資料

「誘拐容疑事件在宅資料の採取について」と題する書面(甲一七九)、任意提出書(甲一八〇、一八二、一八五)、領置調書(甲一八一、一八三、一八六)、殺人並びに死体遺棄被疑事件捜査報告書(甲一八四、一八七)、鑑定嘱託書謄本(甲一八八)によれば、鑑定資料は、甲野方二階の太郎の居室から採取したスキー帽付着の毛髪五本(資料(2))、日本海洋少年団訓練帽子付着の毛髪四本(資料(3))、ボストンバッグ付着の毛髪二本(資料(4))、水色毛布付着の毛髪二本(資料(5))、掛布団付着の毛髪一本(資料(6))及び敷布付着の毛髪二〇本(資料(7))、任意提出を受けた二郎の頭髪二二本(資料(8))、花子の頭髪六本(資料(9))、春子の頭髪六本(資料(10))、三郎の頭髪一一本(資料(11))及び乙山椿子(花子の母[甲一])の頭髪一〇本(資料(12))、骨Aと一緒にあった毛髪五〇本(資料(1))である。

イ  鑑定書(甲一八九)の要旨

技術吏員南條勝治(当時科捜研法医科勤務。以下「南條吏員」という。)は、資料(1)ないし(12)に関し、①資料(2)ないし(7)は人毛か否か、人毛であればその発生部位、及び資料(8)ないし(12)との異同識別、②資料(1)は人毛か否か、人毛であればその発生部位、血液型、③資料(2)ないし(7)中に資料(8)ないし(12)とは類似しないものがあれば、資料(1)との異同識別、④その他参考事項について鑑定嘱託を受け、①資料(2)ないし(7)はいずれも人頭毛で、形態学的観察に基づき比較検討すると、②資料(2)の五本中二本は血液型も考慮すると資料(9)によく類似しているが、残る二七本の頭毛は資料(8)ないし(12)とは類似性に乏しい(なお、資料(3)及び資料(4)のうち一本については、細くて色調も薄く異同識別が困難と考えられたので比較検討を実施しなかった。)、③資料(1)はいずれも人頭毛であるが、これらの頭毛の一端はぜい弱になっており、皮質、髄質内に小気泡の発生がみられたり、頭毛全体の膨隆が認められたことから、これらの頭毛は熱的変化を受けているものと考えられ、毛先部及び毛根部の形状は熱的変化を受けているため大部分は凹凸の激しい断端となっており、元の形状を知ることができず、長さについても、頭毛本来の長さであるのか、熱的変化を受けたものか判断できない、④資料(1)のうち一五本の血液型はいずれもAB型であり、資料(1)の頭毛は形態学的に相互に類似した所見を示しており、右一五本の血液型がいずれもAB型であることから、相互に類似した頭毛と考えられる、⑤資料(2)、(4)ないし(7)のうち資料(8)ないし(12)とは類似性に乏しい二七本について形態学的観察に基づき資料(1)と比較検討すると、二三本が資料(1)に類似しており、そのうちの一二本は血液型がAB型であり、資料(1)によく類似している、⑥血液型検査の結果、資料(8)及び(10)はA型、資料(9)はB型、資料(11)及び(12)はAB型である旨鑑定している。

ウ  検討

南條供述(第一二回、第一四回調書)によれば、南條吏員は、その専門的知識経験に基づき、一般的に確立した手法で鑑定をしたことが認められるものの、骨Aと共に発見された毛髪は、熱的変化を受けて本来の毛先部及び毛根部の形状や本来の長さを知ることができず、色調も変化していた上、人の頭毛の特徴点をとらえるには、前後、左右、頭頂部の五か所から三本ないし五本を採取してその人の頭の傾向をつかむという方法による(第一二回調書[八二頁])べきところ、骨Aと共に発見された毛髪はどの部分の頭髪か明らかでなく、南條吏員も、各資料の異同識別について、鑑定書(甲一八九)添付の表だけでは判断しかねる旨述べている(第一四回調書[二九〜四一頁])ことから、各資料の形態学的検査及びそれに基づく判断、鑑定書(甲一八九)の記載の正確性には疑問の余地があるといわざるを得ない。

そうすると、骨Aと共に発見された毛髪が太郎に由来するものであると推認することはできない筋合いである。しかしながら、鑑定書(甲一八九)は、骨Aと共に発見された毛髪が太郎に由来するということと矛盾する結論を導き出しているわけではないから、骨Aと共に発見された毛髪と太郎との関係が積極的に否定されることにはならないというべきである。

(6)  その他の残焼物の鑑定について

ア  鑑定書(甲一三〇)の要旨

技術吏員山平真、同田村徹、南條吏員(当時いずれも科捜研法医科勤務。以下、山平については「山平吏員」、田村については「田村吏員」という。)は、本件骨灰に関し、①その中に骨片以外の物があるか否か、あればその名称、種類、②その他参考事項について鑑定嘱託を受け(鑑定嘱託書謄本[甲一二九])、本件骨灰の中からプラスチック様物の残焼物(発砲スチロールの燃焼溶解物に類似)、繊維様物の残焼物(炭化のため繊維の種類は不明だが、織物状として認められる。)、紙片様物の残焼物(段ボール紙と認められる。)、段ボールのステープルと思われる物、塗膜、植物片、獣毛様の物及び金属薄板(箔)状物の残焼物(材質はアルミニウムと認められ、金属薄板[箔]状物には繊維質[繊維、紙、木質と思われる物など]の付着が認められる。)を抽出した旨鑑定している。

イ  鑑定書(甲一三二)の要旨

技術吏員長尾康美、同池田俊朗、同木村英一、田村吏員、山平吏員(当時いずれも科捜研法医科勤務。以下、長尾については「長尾吏員」、池田については「池田吏員」、木村については「木村吏員」という。)は、右アの金属薄板(箔)状物の残焼物(資料(1))は緑色お守り袋(昭和六二年一〇月以前使用のもの[資料(2)])、赤色お守り袋(資料(3))、紫色お守り袋(資料(4))、緑色お守り袋(昭和六二年一〇月以降使用のもの[資料(5)])、お守り(木札[資料(6)])、お守りを包む紙(御守という文字が印刷[資料(7)])と同種の物が焼燬したものかについて鑑定嘱託を受け(鑑定嘱託書謄本[甲一三一]。資料(2)ないし(7)については、「誘拐容疑事件捜査報告」と題する書面[甲一二四]、任意提出書[甲一二五]、領置調書[甲一二六]参照)、資料(1)と資料(2)ないし(4)には、①箔・糸・紙等の構成物及びこれらが三層の構造をなしている点が同じであること、②箔の材質、幅、厚さ、裁断痕が同じであること、③糸と箔が一重の平織りと朱子織りが用いられた織り方が同じであること、④資料(1)には資料(2)ないし(4)の両端折り返し部分と同じか所が認められること、⑤資料(1)の箔には資料(2)ないし(4)の箔がナイロン糸と交錯して生ずる浅い凹凸と同じ形状・間隔をもった部分が認められること、その他資料(1)に含まれる木質は厚さ、木目の幅が資料(6)とよく似ていることなどから、資料(1)が焼燬前の資料(2)ないし(4)と同様のものであったことが強く示唆され、資料(1)の平織り(「平織りと朱子織り」と訂正[木村供述<第七回調書《一七頁》>])によって表現されている模様は、資料(2)、(3)とは異なり資料(4)に似た部分であったことが推察されることから、資料(1)は資料(2)ないし(7)と同様のお守り袋が焼燬したものと考えられる、資料(1)は資料(2)ないし(5)のうち資料(4)と同種のものが焼燬したとしても矛盾はない、資料(1)と資料(2)、(3)は模様がそれぞれ相違し、資料(1)、(5)は材質、織り方がそれぞれ相違している旨鑑定している。

ウ  検討

まず、山平供述(第五回、第七回調書)によれば、鑑定書(甲一三〇)は、物質の化学的な分析を専門に行っていた山平吏員が中心となり、山平吏員の専門外の事項についてはそれぞれの専門である南條吏員、田村吏員に依頼して、その専門的知識経験に基づき、目視、顕微鏡観察を行い、更にX線マイクロアナライザーや赤外分光光度計などの分析器械を用いて鑑定を実施したもので、鑑定の手法、考察の内容ともに不適切な点は認められないから、鑑定書(甲一三〇)の鑑定結果は十分信用できる。

また、木村供述(第七回、第八回調書)によれば、鑑定書(甲一三二)は、木村吏員が中心となり、長尾吏員、池田吏員、山平吏員、田村吏員と共に、それぞれの専門の事項について、鑑定資料に対し目視、顕微鏡や拡大投影機による観察、X線マイクロアナライザーによる計測などを行い、それぞれの材質や構造を観察した上比較をし(第七回調書[九、一〇、一二、二〇、二二〜二八頁])、その結果を基に一定の考察を加えたもので、その手法が不適切であったとは認められないから、資料(1)が残焼物でほぼ完全に炭化し細片化しており、量的にも少ないことから焼燬前の形・色・大きさ等の全体像を推測することはできないこと(甲一三二[4考察]、第八回調書[一五、一六頁])、鑑定事項が対照資料との異同識別に限られていたこと(甲一三二[2鑑定事項]、第八回調書[一一頁])などを考慮しても、資料(1)は太郎が行方不明時に所持していたとされる紫色のお守り袋(中に木製のお守り札とそれを包む紙が入ったもの)が焼燬したものの一部だとしても矛盾はないと認めることができる(なお、花子の検察官調書[甲四]、花子[甲五]、越智淳介[甲一二七、一二八]の警察官調書によれば、太郎は、花子が昭和五八年一一月に石鎚神社の行者越智淳介から購入した紫色で金糸入りの模様の付いたお守り袋[中に木製のお守り札とそれを包む紙が入ったもの]を行方不明時にも首から下げていたことが認められる。)。

(三) 太郎以外に該当する行方不明者がいないことについて

田渕静秀供述(第一八回調書)、「未成年者誘拐殺人、死体損壊、同遺棄被疑事件捜査報告」と題する書面(甲一九八)、「未帰宅家出人(所在不明者)の捜査について」と題する書面(甲一九九、二〇〇)、「未帰宅家出人に対する捜査結果について」と題する書面(甲二〇一)、「犯罪の被害者となっている疑いのある所在不明者の捜査について」と題する書面(甲二〇二)、「未成年者誘拐殺人、死体損壊、死体遺棄被疑事件捜査報告」と題する書面(甲二〇三)によれば、家出人発見活動要綱に基づき作成された家出人票を調査した結果、警察が昭和五二年から昭和六二年までの北海道内における家出人等の行方不明者として把握していた者は三四七三名であり、このうち行方不明当時七歳から一二歳の者は、北海道警察札幌方面管内では一一名(うち男児三名)で、父母等の同伴者がいない者は太郎のみであり、同旭川方面管内では七名(うち男児一名)で、父母等の同伴者がいない者はおらず、同函館方面管内、同釧路方面管内及び同北見方面管内では該当者はいなかったこと(田渕供述[第一八回調書<一八、一九頁>])、右一八名のうち昭和六三年当時も所在が不明な者は、太郎の外は女児一名であり、同女児については母親及び妹と共に無理心中した可能性が高いと考えられていたこと、昭和五二年から昭和六二年までに家出人発見活動要綱に基づき警察庁に報告のあった犯罪の被害者となっている疑いのある行方不明者は全国で七四名であり、このうち行方不明当時七歳から一二歳の者は六名(うち男児は太郎一名)であったことが認められる。

そうすると、警察が把握していた行方不明者のうち、発見された本件人骨片から推定される年齢に該当する者は太郎以外にいないことが認められる。

(四) 被告人が太郎の遺体を四郎方に持ち込んだと推認できることについて

(1)  被告人が太郎の最終接触者であることについて

被告人が太郎の最終接触者であり、その後の太郎の行方が不明のままであったことは前述したとおりである。

(2)  被告人が○○荘から親族方に段ボール箱を運び込んだことについて

ア  関係者の供述

① 昭和五九年当時、被告人の兄六郎の妻であった秋子(昭和六一年ころ六郎とは離婚)は、検察官調書(甲二六、二七)において、「一月一〇日だと思うが、一度だけ被告人が自分の家に泊まりに来たことがある。その日の夕方、被告人から突然電話が掛かり、『寂しいから行ってもいい』と言われた。午後七時過ぎくらいに家を出て、娘冬子を連れてホンダアコードサルーンという車で被告人のアパート(○○荘のこと)に迎えに行き、被告人方に入った。被告人は、かばんや紙袋のほかに段ボール箱も持って行くと言っていた。自分が被告人のかばんや紙袋を持って下に下り、車に積んで再び二階に戻ると、階段の上の所に段ボール箱が置いてあった。自分と被告人の二人でその段ボール箱を抱え上げ、車まで運んだ。その段ボール箱の大きさは、長さが約七、八十センチメートル、幅が約四、五十センチメートル、高さが約三、四十センチメートルだった。重さは覚えていないが、二人がかりで持って、『重いね』と自分で言った記憶があるので、重かったのだと思う。段ボールを持って(階段を)下りながら、自分は、『重いね。何が入ってんの』と言うと、被告人は、『古いアルバムとか本が入っているの。昔のこととか嫌だから、静内の実家に送っちゃおうと思って』などと言っていた(甲二六[二項])。その段ボール箱を車に積み込み、自分の自宅に戻ったはずである。その段ボール箱は、その日は(自宅の)玄関を入ってすぐ左側の洗濯機の横辺りに置いてあった。翌日、一階和室の押入に入っていた自分の荷物が出されて、代わりにその段ボール箱が入れてあった(甲二六[三項])。その後、被告人は桜子方に行ったと思う。桜子から、被告人が桜子方の物置に段ボールを置いており、中身は大麻だと言っていたと聞いた(甲二六[四項])」、「被告人は自分の家に一、二週間は寝泊まりしていたと思う(甲二七[一項])。しかし、自分の家に持ち込まれた段ボール箱が置かれていたのはせいぜい二、三日くらいだったと思うが、被告人がいつ持ち出したのかは思い出せない(甲二七[二項])」旨供述している。

② また、秋子の娘冬子は、検察官調書(甲二八、二九)において、「自分が小学生三年生から五年生のころに被告人が自宅に泊まりに来たことがある。母(秋子)と共に被告人を車で迎えに行った際、被告人が居間の和室寄りの所にあった段ボール箱も持って行くと言い、母と被告人がその段ボール箱を抱えて階段を下りた。取っ手がないので、二人共手を箱の下に入れて持ちづらそうに抱えていた。母と被告人は、『重いね。いやー、重い』などと声を上げていた。被告人は中にはアルバムや本が入っていると言っていた(甲二八[三、四項])。自分は車の後部座席左端に座り、自分の右隣には段ボール箱が横向きに置いてあった(甲二八[五項])。自宅の玄関を入ってすぐ左側の壁際に、被告人が家から持ってきた段ボール箱が置いてあった(甲二八[六項])」、「被告人の家から運んだ段ボール箱は、八〇センチメートル×四五センチメートル×四五センチメートルの箱よりは八〇センチメートル×四五センチメートル×三五センチメートルの箱に近かったと思う(甲二九)」旨供述している。

③ さらに、被告人の姉桜子は、検察官調書(甲三七)において、「一月中旬ころ、被告人が当時の自分の家に泊まりに来た。その日の夜警察官が来て、太郎が行方不明になったことで被告人から事情聴取をしたが、その日が一月一三日ということなので、その日に間違いない。警察官が帰った後、被告人は、『荷物を物置に置かせてもらった』『(中に)大麻が入っている』『一緒に働いている人から頼まれ、預かった』などと言っていた。その後、被告人は大麻は処分したというようなことを言っていた(六項)。被告人から大麻を物置に置いたと聞いたので、秋子や妹Fなどに電話か何かで、被告人が自分の自宅に大麻を持ち込んだという話をしたと思う(七項)」旨供述している。

④ 秋子、冬子及び桜子の右各供述は、右にみたようにそれ自体として具体的で、かつ、自然の流れにも沿い、合理的と考えられる上、相互にその内容が符合していることに加え、当時秋子が使用していた乗用車の後部座席に、縦四五センチメートル、横八〇センチメートル、高さ四五センチメートルの段ボール箱を載せた上、小柄な体格の子供が乗車することが十分に可能であることは、殺人・死体遺棄容疑事件捜査報告書(甲三三)、「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面(甲三四)により、被告人が一月一二日に秋子方にいたことは、被告人の義姉Gの夫Hの「一月一二日に長男I、長女J及び冬子をスキー場に連れて行ったことがあったが、冬子を迎えに行った時か帰りに送って行った時かは忘れたものの、秋子方に上がった際、一階の居間の長いすに一歳くらいの女の子を抱いて座っている二五歳前後くらいの女性がおり、秋子から『主人の妹です』と言って紹介された」旨の検察官調書(甲三五)により、被告人が一月一三日に桜子方で警察官の取調べを受けたことは、「誘拐容疑事件捜査報告」と題する書面(甲一六)により、それぞれ裏付けられていることからも、いずれもその信用性は高いものと認めることができる。

イ  検討

したがって、被告人が一月一〇日に○○荘の当時の被告人方から段ボール箱を持ち出して秋子方に運び、さらに、同月一三日に右段ボール箱を桜子方物置に運び込んだことが認められる。

そして、殺人被疑事件捜査報告書(甲三〇、三一)、「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面(甲三二)によれば、縦四五センチメートル、横八〇センチメートル、高さ四五センチメートルの段ボール箱に身長155.1センチメートル、体重四七キログラムのK(二六歳、女性)を収納することが可能であること、身長一四九センチメートル、体重四五キログラムのL(一二歳、男児)を収納するのに必要な段ボール箱の大きさが縦三五センチメートル、横八〇センチメートル、高さ四五センチメートルであること、Lが入った段ボール箱を二名の女性警察官(一名は身長164.5センチメートル、体重53.2キログラム、二四歳、もう一名は身長156.5センチメートル、体重59.5キログラム、二八歳)が持ち上げて運搬することが可能であることが認められ、二郎が昭和六三年、警察官に対し「行方不明時の太郎の身長は一四五センチメートルか一四六センチメートルくらいと思う」(甲一四八[一〇項])旨供述し、花子が昭和五九年、警察官に対し「太郎は身長一四八センチメートルくらい、体重三六キログラムくらい」(甲一五〇[四項])旨供述していること(なお、「行方不明児童甲野太郎の身体特徴の割出し捜査について」と題する書面[甲一七五]によれば、太郎の昭和五八年四月末において身長136.2センチメートル、体重26.8キログラムとされ、同年九月中ころにおいて身長139.2センチメートル、体重28.2キログラムとされていることからすれば、二郎及び花子の右供述内容はおおむね正しいということができる。)に照らせば、前記段ボール箱に太郎の死体が入っていたとしても矛盾しないということができる。

なお、秋子は、被告人が右段ボール箱に古いアルバムや本が入っており、静内の実家に送ろうと思っているなどと言っていた旨供述しているが、被告人の母丁野桃子(甲三八)及び当時桃子と同居していた被告人の兄丁野九郎の妻丁野杉子(甲三九[不同意部分を除く。])は、いずれも、検察官に対し、そのころ被告人から被告人の実家である桃子方に本やアルバム等の重い荷物が送られてきたことはない旨明確に供述していることに照らすと、右段ボール箱に古いアルバムや本が入っていたとは認められない。

(3)  被告人が××ハイツから段ボール箱を運び出したことについて

ア  関係者の供述

① 被告人は、○○荘の賃貸借契約において、その期間を昭和五八年八月六日から昭和五九年八月三一日までとして賃借していたが(本間幸男[○○荘の仲介手続を請け負っていた不動産業者]の警察官調書[甲二三])、一月二六日に、札幌市豊平区北野七条<番地略>の××ハイツ五号棟一階B号室に転居し(M[被告人に××ハイツ五号棟一階B号室を賃貸していた有限会社××商事社長Nの妻]の検察官調書[甲四〇]、阿部勇一の警察官調書[甲五一]、「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面[甲四一])、さらに、前述したとおり、昭和六一年五月一九日、四郎方に転居したことが認められる。

② 被告人が××ハイツを退去した際の状況について、Mは、検察官調書(甲四〇)において、「被告人が、引っ越しが終わったと言って鍵を持って来たので、明渡しの確認をするため、被告人と共に××ハイツ五号棟一階B号室に行き、部屋の鍵を閉め、次に、外にある(被告人が使用していた)物置の鍵を閉めようとすると、物置の戸が開いていて、中に大きな段ボール箱が一つ立てて置いてあった。その段ボール箱の大きさは、約八〇センチメートル×約六〇センチメートル×約六〇センチメートルくらいの大きさに見えた。被告人は、『今車が来るので、来たらこの荷物を積んで私も行くんです』と言っていた。この日の夕方、この物置に鍵を掛けに行ったが、その時には既に物置の中は空になっており、段ボール箱はなかった(四項)」旨供述し、また、P(昭和五七年八月八日から昭和六二年八月二日までの間、××ハイツ五号棟二階D号室に居住)は、警察官調書(甲四七、四八)において、「被告人が引っ越しをした日(昭和六一年五月一九日)の翌日の日中、台所の窓から外を見ると、タクシーが物置の前で止まっており、何分かしてから再び外を見ると、そのタクシーの後部座席には被告人が乗って走り去ったが、タクシーのトランクに段ボール箱が積んであり、トランクのふたが閉まり切らず一五センチメートルくらい浮いた状態になっていた」旨供述し、さらに、Q(昭和五七年一〇月から昭和六一年六月下旬まで、札幌市豊平区北野七条<番地略>の××ハイツ六号棟二階B号室に居住)は、検察官調書(甲四九[不同意部分を除く。])において、「昭和六一年五月ころ、被告人が引っ越しをし、その翌日か数日後、被告人がタクシーに乗って(××ハイツに)やって来た。タクシーは物置の前辺りで止まり、被告人は、『荷物が残っていたので、取りに来ました』と言っていた。その後、被告人は、重そうな段ボール箱一個を抱えてタクシーのトランクに積み込んでいた。段ボール箱の大きさは、長さが八〇センチメートルくらい、奥行きと高さは四、五〇センチメートルくらいでなかったかと思う。段ボール箱は見るからに重そうで、被告人は腰を入れて腕と胸で抱え上げるようにして持ち上げ、トランクに入れていた。被告人は、段ボールを積み込むと、後部座席に乗り込み、タクシーは走り去った。段ボール箱はトランクに入ったが、高さがあるためトランクのふたが閉まらず、半開きの状態になっていた(五項)」旨供述している。そして、寺井道典(昭和六一年五月一九日に被告人の依頼を受けて引っ越し作業を担当)は、検察官調書(甲五二)において、「部屋の荷物をすべて積み終わり、物置を見に行くと、灯油用ポリタンクと段ボール箱の荷物が二、三個入っており、被告人に物置の物で持っていかない物があるか聞くと、ポリタンクと段ボール箱は置いていくと言っていた(三項)」旨供述している。

③ M、P、Q及び寺井の右各供述は、具体的で互いに符合している上、「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面[甲五〇]によれば、約四五センチメートル×約八〇センチメートル×約四五センチメートルの大きさの段ボール箱がタクシーのトランクに積載可能であることを考えると、十分信用できるというべきである。

イ  検討

そうすると、被告人は、××ハイツから四郎方に転居するに際し、引っ越し用トラックとは別に段ボール箱をタクシーのトランクに積み込んで××ハイツから運び出していることが認められる。

(4)  被告人が四郎方付近で物を燃やしていたことについて

ア  関係者の供述

① 被告人が四郎方に転居した後、四郎方付近で何かが燃やされている状況が目撃されている。すなわち、R(四郎方から北側に約七四〇メートル離れた北海道樺戸郡新十津川町字総進<番地略>に居住[「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面<甲六〇>])は、検察官調書(甲五六[不同意部分を除く。])において、「被告人が四郎の家に住むようになった昭和六一年の夏から秋にかけて、四郎方住宅と納屋の間辺りから太い煙が少なくとも一時間くらいは上がっていた(三〜五項)。その一か月くらい後にも、同じ場所から煙が上がっていた。煙は自分が気付いてから四、五時間は上がっていたような気がする。この時、妻S(「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面[甲五五]によれば、平成二年九月八日死亡)が自分の所に近づいて来て、『臭い。嫌なにおいだ。変なにおいだね』などと言っていた(一〇〜一二項)」旨供述し、Rの三男Tも、検察官調書(甲五七)において、「被告人が四郎の所へ嫁にきて、よくごみを燃やしているという話を聞くようになってすぐのころの、昭和六一年の六月から七月又は八月から九月のことだと思うが、母(S)が、『何か変なにおいせんかったか。すごい変なにおいしたんだけど。四郎さんとこで何か燃やしていて変なにおいするけど何だろう』『ビニールや廃油を燃やしているにおいじゃないよ。生臭いようなにおいだ。生ものでも燃やしているのか』などと言っていた(四〜七項)」旨供述している。また、U(四郎方の近所に居住)は、検察官調書(甲六二[不同意部分を除く。])において、「被告人が四郎に嫁いできた昭和六一年の夏から秋にかけて、四郎方の母屋とそこから二〇メートルくらい離れた農道との間に青々とした葉の付いた枝が直径二メートルくらい、高さ一メートルくらいの半球状にこんもりと積み上げられていた(三項)。その数日後、農作業をしていたところ、四郎の家の裏手から煙が上がっているのが見えた。最初のうちは黒々とした煙だったが、時間が経つと黒っぽい灰色の煙に変わっていった。かなりの時間、煙が出ていたように思う。後日、積み上げられていた枝の山がなくなって焼けかすになっているのを見た。被告人は、『四郎さんの使っている布団を燃やしたの』『嫌だから、みんな燃やしたの』などと言っていた(四項)」旨供述し、V(四郎方の近所に居住)は、警察官調書(甲六三)において、「時期ははっきりしないが、二、三日間、四郎方の裏の防風林付近からもくもくと煙が上がっていた。その煙は何か燃えにくい物で大量に燃やしていたと記憶しており、黒っぽい灰色で、もこもこといぶっているような感じで上がっていた。この時期だったと思うが、Sが四郎方の方から流れてくる煙が異様なにおいがすると言っていた(四項)」旨供述し、W(四郎方の近所に居住)は、警察官調書(甲六五)において、「昭和六一年秋ころ、被告人が四郎方納屋の北側に立っており、その付近に黒い塊があり何かが燃え終った状況で、若干の白い煙が上がっているのを見た(四項)」旨供述し、さらに、四郎の姉夏子は、検察官調書(甲六六[不同意部分を除く。])において、「四郎方の西側二〇メートルくらいの空き地に何かを燃やしているらしい煙が上がっているのを度々見掛けた(一二項)」旨供述し、四郎の妹乙野松子は、検察官調書(甲六七[不同意部分を除く。])において、「昭和六一年か昭和六二年のお盆か秋ころ、四郎方北側納屋の裏で煙が上がっており、被告人がその近くに立っていた(一四項)」旨供述している。

② R、T、U、V、W、夏子及び松子の右各供述は、農家においては敷地内で物を燃やすこともしばしばあるものの、その燃え方、時間、におい等が特殊であることから覚えていたというものであるところ、いずれも特段不自然な点はないし、右の者らが同様の供述をしていることに照らし、十分信用することができるというべきである。

イ  検討

そうすると、被告人が四郎方敷地内において、長時間にわたり、黒っぽい煙が出る物を燃やしていたことが優に認められる。また、「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面(甲六一)によれば、被告人が燃やしていた物が何であったかは証拠上確定できないものの、仮に太郎の遺体であったとしても、状況的には矛盾はなく、かつ、何ら不合理でないことが認められる。このことは、鑑定書(甲一三〇)から認められるように、本件ビニール袋の中に骨Aと共に入っていた本件骨灰の中から紙片様物の残焼物(段ボール紙と認められる。)及び段ボールのステープルと思われる物が見付かっていることからも、被告人が燃やしていた物が段ボール箱に入った太郎の遺体であることが強く推認される。

(5)  小括

以上によれば、被告人が太郎の遺体を段ボール箱の中に入れて四郎方に持ち込んだものと推認できるというべきである。

(五) 被告人が本件人骨片を本件ビニール袋に入れて南側納屋に隠し置いていたと推認できることについて

(1)  四郎ないしその親せきと太郎ないしその家族との間に何ら接点がないことについて

夏子(甲六六[不同意部分を除く。])及び五郎(甲六九)は、検察官調書において、「甲野という名前について四郎から聞いたこともないし、親せきのだれからも聞いたことがない」(甲六六[二五、二六頁]、六九[一六頁])旨供述し、二郎(甲三、一四八)及び花子(甲四、一五一)も、検察官調書において、「四郎方から人骨片等が発見される前には四郎のことは知らなかった」(甲三[二三頁]、一四八[一一項]、四[一五頁]、一五一[六項])旨供述しており、四郎ないしその親せきと太郎ないしその家族との間には全く接点がないことが認められる(このことは、戊野七郎供述[第二四回公判<三一、三二頁>]、X供述[第二五回公判<五七、五八頁>]によっても裏付けられている。)。

(2)  被告人以外の者が本件人骨片を南側納屋に持ち込む可能性が低いことについて

夏子(甲六六[不同意部分を除く。])及び五郎(甲六九)は、検察官調書において、「南側納屋は家で使わないものやまき等を置いていたので、四郎、被告人及び菊子の家族以外の者が入ることは考えられない(甲六六[二七頁]、六九[一六、一七頁])」旨供述しており、南側納屋が施錠されていなかったとはいえ(甲六九[四頁])、被告人以外の者が本件人骨片を南側納屋に持ち込んだ可能性は極めて低いといえる(このことは、戊野七郎供述[第二四回公判<五〜三三頁>]によっても裏付けられている。)。他方、被告人は四郎と婚姻し、四郎方に居住していたのであるから、本件人骨片を南側納屋に持ち込むことは十分可能であった。

(3)  被告人が本件ビニール袋を入手することが可能であることについて

葛西正已(当時石黒ホーマ株式会社滝川店店長)の警察官調書(甲一四〇、一四一)、「石黒ホーマ滝川店におけるサミットバッグの領置について」と題する書面(甲一三三)、「乙野四郎方南側納屋から発見された骨片の入っていた石黒ホーマビニール袋の状況及び石黒ホーマ滝川店FCから入手した未使用の同袋の状況について」と題する書面(甲一三六)、「未成年者誘拐、殺人及び死体遺棄被疑事件捜査報告」と題する書面(甲一三九)、鑑定嘱託書謄本(甲一三七)、鑑定書(甲一三八)によれば、骨A及び本件骨灰が入れられていた本件ビニール袋は、石黒ホーマ株式会社の各店舗で買物客に買物品を入れるために交付される「ホーマバッグ」と称されるポリエチレン製手提げ袋のうち三〇号という大きさのもの二枚であり、昭和六二年九月二二日以降北海道内の各店舗で買物客に交付されていたことが認められる。

そして、夏子(甲六六[不同意部分を除く。])、乙野松子(甲六七[不同意部分を除く。])、五郎(甲六九)の検察官調書、葛西正已の警察官調書(甲一四一)、「未成年者誘拐、殺人及び死体遺棄被疑事件捜査報告」と題する書面(甲一三九)によれば、本件ビニール袋は、被告人が利用していた石黒ホーマ滝川店フランチャイズでも同年一〇月一日から使用されていたことが認められる。

そうすると、被告人は遅くとも同年一二月三一日までに本件ビニール袋を入手することが可能であったということができる。

(4)  小括

以上によれば、被告人が本件人骨片を本件ビニール袋に入れて南側納屋に隠し置いていたと推認することができる。

3 まとめ

以上によれば、被告人の嫁ぎ先から発見された本件人骨片が太郎の身体的特徴と符合していること、各種の鑑定結果からも発見された右人骨片が太郎のものと推認できること、警察で把握していた行方不明者のうち、本件人骨片から推定される年齢に該当する者は太郎以外にいないこと、被告人が太郎の最終接触者であること、被告人が太郎の遺体を四郎方に持ち込んだと推認できること、被告人が本件人骨片を本件ビニール袋に入れて南側納屋に隠し置いていたと推認できることが認められ、これらを総合すると、本件人骨片は太郎のものであると合理的に認定することができる。

なお、本件では、久司吏員による血液型検査及びDNA型鑑定(鑑定書[甲一一二、一一九]参照)の結果を前提として、本件人骨片の由来する人物を子と仮定し、二郎をその父親、花子をその母親と仮定した場合の親権肯定確率について、塩野寛(旭川医科大学法医学教室教授)作成の回答書(甲一二一)によれば、親権肯定確率は99.8012パーセントであるとされ(なお、ABO式血液型の出現頻度を本田鑑定で用いられている数値にすると、親権肯定確率は0.9979952となるが、いずれも約99.8パーセントであり大きな違いはない[塩野供述<第一三回調書《一〇八、一〇九頁》>]。)、また、青木康博(岩手医科大学教授)作成の鑑定書(甲二〇八)においても塩野教授の右鑑定結果は妥当とされている。一方、本田克也(大阪大学医学部法医学教室助教授)作成の鑑定意見書(弁一五)によれば、親権肯定確率は8.9パーセントであるとされている。右各結論の違いは、主としてエッセン・ミュラーの式ないし小松勇作の式の解釈、応用の違いによるものと考えられるところ、本件人骨片が太郎に由来するものであることは前記認定のとおりであり、塩野教授及び青木教授の右結論は本件人骨片が太郎に由来することを補強することになるが、他方で、本田助教授の結論によっても本件人骨片が太郎に由来することが否定されているわけではなく、前記認定に反しないものとして理解することができるというべきである。

四 被告人が太郎を死亡させたことについて

1  被告人が太郎を電話で呼び出したこと

前記認定の事実を総合すれば、本件人骨片が太郎のものと認定できることに加え、太郎が電話で呼び出された直後に○○荘二階の当時の被告人方を訪れ、被告人が太郎の最終接触者であること、その後の段ボール箱の搬出、移動、四郎方への持ち込み状況、太郎の遺体の焼損状況、太郎の遺骨を隠し置いていた状況等に照らせば、被告人が右被告人方から搬出した段ボール箱の中には太郎の遺体が入れられていたものと合理的に推認でき、第三者がこれらの被告人の行為ないし太郎の死亡に関与したとうかがわれる状況は何ら認められないから、太郎を電話で呼び出した者は被告人であると優に認定できるというべきである。

2  被告人が太郎の死亡につながる行為に及んだと考えられること

前記認定の事実によれば、被告人が太郎を電話で呼び出したこと、一月一〇日に前記被告人方から段ボール箱を運び出すまでの間、太郎と警察官以外に右被告人方に立ち入った者がいるとはうかがわれず、被告人が太郎の最終接触者であること、被告人が四郎方に転居するまで太郎の遺体を段ボール箱に入れるなどして持ち続け、四郎方敷地内で太郎の遺体を焼損していることが認められ、さらに、太郎が右被告人方に立ち入ったと考えられる時間帯に、被告人が直接又は他人を介して救急車の手配をするなどしたような状況が一切うかがわれないことからすると、太郎が病死、事故死あるいは被告人の過失行為により死亡したとは考え難く、被告人が同日午前九時三五分ころ電話で太郎を呼び出し、太郎が右被告人方に赴いたと考えられる同日午前九時四〇分過ぎころから被告人が秋子及び冬子と共に右被告人方から段ボール箱を運び出した同日夕方ころまでの間に、被告人が、右被告人方において、その手段や方法は特定できないものの、太郎の死亡につながる行為に及んだものと合理的に認定することができるというべきである。すなわち、太郎の死亡は、被告人の何らかの行為により引き起こされたものと認定できる。

3  まとめ

以上を総合すれば、被告人が、一月一〇日、前記被告人方において、何らかの行為により太郎を死亡させたものと認定することができる。

五 被告人が殺意をもって太郎を死亡させたか否かについて

1  太郎の死因が特定できないこと

(一) 太郎の遺骨の状況について

豊平区内小学生殺人被疑事件捜査報告書(甲一二三)、鑑定書(甲九八、一〇〇)によれば、骨A・Bのいずれについても損傷あるいはその治療痕が認められず、また、骨Aについては生前に発生したと考えられる骨折、切痕、鋸断の痕跡並びに骨折の治療痕等の異状が認められないとされている(なお、骨Cについても死因に結び付くような顕著な損傷は認められない。)。

そうすると、太郎の遺骨の状況からは太郎の死因を特定することができない。

(二) 犯行の痕跡について

鈴木滋供述(第一七回調書)、検証調書(甲二〇)によれば、警察官らは、被告人が一月二六日に○○荘から転居した直後、被告人が住んでいた部屋について指紋の採取、毛髪の捜査、血痕のルミノール反応検査などの鑑識活動を行ったものの、犯行の痕跡を証明する指紋、毛髪やルミノール反応も出なかったこと(第一七回調書[五四、五五、六五、六六頁])、平成一〇年一二月二日及び同月三日に○○荘二階一号室の検証を実施したものの、尿斑予備検査及び血痕予備検査がともに陰性であったこと(甲二〇)が認められる。

また、Y(当時○○荘二階三号室居住)は、検察官調書(甲一八)において、一月一〇日の日中部屋にいたが、特に物音や声が聞こえてきたという記憶がない旨供述している。

そうすると、右被告人方からは犯行の痕跡を示すような客観的な物的証拠は何ら得られていないことが認められる。

(三) 小括

以上によれば、太郎の死因を客観的に特定することができないのはもとより、太郎が死亡した場所との関係でも太郎の死因を推論することは困難である。

そうすると、被告人の自白も目撃供述もなく、最も重要な物的証拠である太郎の遺体も焼損されて、太郎の死因を特定することができず、その犯行態様を客観的に確定できない本件においては、前述したとおり、被告人が太郎の死亡につながる行為に及び、太郎を死亡させたと認められるとしても、このことから直ちに、証拠の裏付けもないのに、被告人が殺意をもって太郎を死亡させたとしか考えられないという結論を導き出してはならないのはいうまでもなく、被告人に殺意があったとするためには、被告人が太郎を呼び出した目的が太郎殺害に結び付く蓋然性が高いことや被告人に太郎殺害の明確な動機が認められることが必要というべきである。

2  被告人が太郎を電話で呼び出した目的の解明が困難であること

(一) 検察官の主張の要旨について

検察官は、冒頭陳述において、被告人は、当時居住していた○○荘付近にある甲野二郎方が豪邸で、二郎一家が富裕であると認められたことなどから、偽名を使って年少の太郎を言葉巧みに誘い出した上、その父親である二郎らから何らかの金銭的利益を得ようなどと考えた旨、求釈明において、被告人は、甲野二郎一家が富裕であると認められた上、自己の借金返済のめどが立たなかったことから、二郎らから何らかの金銭的利益を得て、右借金の返済に充てようと考えた(第二回公判)旨、論告において、①被告人は、一月一〇日当時、多額の借金の返済資金や生活費の捻出に追われる一方、これに相応する収入を得られる見込みがなく、金員に窮していたところ、すぐ近所に資産家の家があり、その家には子供がいることも認識していたのであるから、金銭的利益を得る目的で太郎を誘拐する動機、背景があった、②被告人は、右のような事情から二郎らから身代金を得る目的で太郎を電話で呼び出して誘拐した旨主張している。

(二) 被告人が身代金目的で太郎を呼び出したといえるか否かについて

(1)  被告人の生活状況、負債状況等について

ア  事実関係

① aの警察官調書(甲二三)、「誘拐容疑事件捜査報告」と題する書面(甲一六)によれば、被告人は、昭和五五年夏ころ、Zと同棲するようになり、昭和五七年六月一三日長女菊子が出生し、同年七月五日Zと婚姻したものの、昭和五八年六月初めころ、Zとの夫婦仲が悪くなったことから、桜子方(札幌市豊平区月寒東二条所在)に菊子を連れて移り住み、同年八月一日Zと離婚したこと(甲一六)、同月二日、○○荘二階一号室を家賃一か月三万七〇〇〇円で賃借し、同月六日から菊子と共に居住していたこと(甲二三)が認められる。

なお、Yの検察官調書(甲一八)、aの警察官調書(甲二三)によれば、被告人は、何度か家賃を滞納し、賃貸人bやaから催促を受けた(ただし、aも、滞納した家賃がbの口座に振り込まれたかまでは分からないという。)こと(甲二三[一七項])、昭和五八年秋ころ、「タクシー代を貸してください」「お米を買うのでお金を貸してください」などと言って○○荘二階三号室に居住していたYから多いときで二万円くらいを借りたこともあった(ただし、催促を受けなくても一週間くらいできちんと返している。)こと(甲一八[二項])が認められる。

② c(昭和五五年ころから昭和五九年三月までの間、「クラブ△△」を管理)の検察官調書(甲一四三)、誘拐容疑事件捜査報告書(甲一七一)によれば、被告人は、昭和五八年一一月四日から「クラブ△△」において日給一万三〇〇〇円で稼働していたところ、入店時に会社から契約金(三六五日間出勤すると返済する必要がなくなるが、それより前に退職した場合は返済しなければならないという約束で交付される金銭)として二七万円を受け取ったほか、二〇万円を借り入れたものの、一一月分の給料を受け取った後、同年一二月一〇日から全く出勤しなくなったこと、そのため、cから何度も電話や来訪を受けて右契約金と貸付金の返済を催促され、同月二〇日には一月一〇日までに全額返す旨約束したが、同日、cに電話で同月一七日まで待ってほしい旨述べ、さらに、同日ころ、cに電話で北栄リース社長の峰吉裕二が代払するので同月二一日まで待ってほしい旨述べたこと、(××ハイツに)転居した後の二月二七日になって右契約金と貸付金の残金合計四二万九四四二円を返済したことが認められる。

すなわち、被告人は、一月一〇日当時、「クラブ△△」に対し、四二万円余りの返済義務があったことが認められる。

③ 新十津川町における放火殺人被疑事件捜査報告書謄本(甲一四四)によれば、被告人は日本信販株式会社に対し、次のとおり負債を抱えていたことが認められる。すなわち、

A 東京本社分

a 日本信販クレジット会員として、昭和五八年一月一〇日から同年八月一〇日までの間、合計八六万二三六四円の買物をし、順次割賦金の支払をしていたが、同年六月七日に六万三五六〇円を入金した後、全く支払をせず、一月一〇日当時、四九万四一七三円が未払となっていた。

b 花椿クレジット会員として、昭和五八年三月五日に三万四六九〇円、同年八月五日に四六四六円の買物をし、手数料を加えた合計四万〇九八二円について、一度も割賦金が支払われることなく、一月一〇日当時も全額未払となっていた。

c なお、昭和五八年一〇月、同社では被告人が○○荘に居住しているのを確認したため督促したところ、同年一一月一〇日、被告人からカード二枚の送付を受けて回収したが、残債は未払のままその後所在が不明となったため、昭和六二年八月二四日、内部決済をして償却予定となった。

B 池袋支店分

コートの購入代金に手数料を加えた五〇万八五〇〇円について、昭和五八年一月から同年三月までは割賦金が支払われたが、同年四月分ないし一二月分は支払が遅れ、一月一〇日当時、約二八万円が未払となっていた(なお、甲一四四添付の資料三の3によれば、昭和五八年一二月一二日には五万〇二八〇円が池袋支店に支払われている。)。

④ 「殺人、死体遺棄被疑事件捜査報告」と題する書面(甲二一九)、殺人被告事件捜査報告書(甲二三九)によれば、被告人は、昭和五八年一〇月ころ、株式会社丸興のオレンジメンバーズカードの会員になり、同カードを利用して、同年一一月に合計一九万二一四〇円分、同年一二月に合計五万六六〇〇円分の買物をしたほか、同年一一月七日に一五万円、同月一二日に五万円の貸付けを受けており、返済については、同年一二月二七日に返済すべき三万三七四二円の支払がなされず、一月一〇日当時、合計四四万円余りの負債があった(なお、一月分と合わせ一月二七日に六万〇八一九円の支払がなされている。)ことが認められる。

⑤ 新十津川町における放火殺人事件捜査報告書謄本(甲二二七)、「新十津川町農家における現住建造物放火殺人容疑事件捜査報告」と題する書面の謄本(甲二二八)によれば、被告人は、昭和五八年一一月二一日、株式会社三松から毛皮(九八万円相当)を購入し、株式会杜大信販との間で、手数料等を含む一〇五万一六〇〇円について、一月から三万五〇〇〇円を被告人が開設していた北海信用金庫月寒支店の口座から毎月二七日に引き落とす形で支払う旨の契約をし、一月分、三月分、六月分、七月分については右口座から引き落とされているが、その後滞納となり、最終的には昭和六一年二月一七日に完済されたことが認められる。

⑥ dの警察官調書謄本(甲一七二、一七三)によれば、dは、昭和五六年夏ころ、キャバレー「上野○×」(東京都所在)でホステスをしていた被告人と知り合い、その後被告人に現金を貸し付け、一月一〇日当時、四九五万円の貸付金があったことが認められる。すなわち、dは、警察官調書謄本(甲一七二)において、「上野○×に飲みに行った時に被告人から『お金がなくて生活が苦しいのでお金を貸してほしい』と言われ、被告人とこれを機会に交際ができるかもしれないという期待があり、被告人に好意を抱いていたので、次に行った時に一五万円を渡した(三項)。その後再三にわたり借金の申込みを受けて、合計八三七万円を貸している(昭和五六年九月一一日から同年一〇月二一日までの間に五回にわたり合計六三五万円、昭和五九年五月二五日から昭和六〇年八月一二日までの間に四回にわたり合計二〇二万円)。借金の返済を請求しているが特別強い態度で請求したことはない。昭和五八年八月二七日、桜子方に被告人あての内容証明郵便を送ったほか、その後三、四回にわたり内容証明郵便を送って、借金の返済を要求している(四項)。被告人からは、昭和五七年一月二六日に三〇万円、同年二月一日に一〇〇万円、同年三月二日に一〇万円、合計一四〇万円を返済してもらっている(五項)。昭和五六年一〇月一六日に一二〇万円を貸した際、預金通帳、印鑑、委任状を預けたところ、同月二一日に三〇〇万円が勝手に引き下ろされていた(六項)。そこで、同月二六日、被告人に『三〇〇万円については昭和五六年一二月三一日まで返済し、残りは毎月三〇万円ずつ支払う』旨の借用書を書いてもらった。同年一二月に被告人から、『子供ができたので約束の三〇〇万円は返せなくなった。何とか少しずつ返す』という内容の電話がきた(七項)。昭和五七年七月ないし八月ころに被告人から、『不景気で金を払えない。もう少し待ってほしい』という内容の電話がきた。昭和五八年一月ころ被告人から、『北海道に子供を置きに行く。また戻って来て働くので借金を返せる』と電話で言ってきた(八項)。同年八月にZの住民票を取り、被告人がZと結婚し、子供が生まれており、その後桜子方に転居していることが分かった。同年一二月一日に内容証明郵便を送ると、同月一四日に被告人から電話があり、同月二六日には払うと言っていた(九項)」旨供述しているところ、dの右供述は具体的かつ詳細であり、その内容に特段不自然な部分はなく、十分信用することができる。

⑦ 捜査関係事項照会書に対する回答書(甲二三三[添付の「預金元帳調査結果」と題する書面を含む。])、「殺人被疑事件捜査報告」と題する書面(甲二三四)、「豊刑第三六一号捜査関係事項照会書の回答について」と題する書面(甲二三六[添付の要求性預金取引明細照会票を含む。])、「豊刑第三九六号捜査関係事項照会書に関する回答」と題する書面(甲二三八)によれば、被告人の一月一〇日当時の預金として判明しているものは、株式会社東海銀行札幌支店に七五九円、北海信用金庫月寒支店に五円、北洋相互銀行札幌駅前支店に一〇〇円のみであったことが認められる。

⑧ 「新十津川町農家における現住建造物等放火・殺人事件捜査報告」と題する書面の謄本(甲一四六)によれば、被告人は、一月一七日、生活保護の申請をし、同日、生活保護費、住宅手当等として合計二〇万二〇三一円の支給を受け、同月二八日ころ、××ハイツへの引越代として合計八万二七〇〇円の支給を受けたことが認められる。

イ  検討

そこで、被告人の一月一〇日前後の生活状況、負債状況等について検討するに、被告人は、一月一〇日当時、定職に就いておらず、預金もわずかしかなかったとうかがわれる上、信販会社に対し合計二〇〇万円以上、「クラブ△△」に対し約四二万円、dに対し四九五万円の負債を抱えており、金銭的に余裕がなかったことが認められる。しかしながら、dに対する負債については、dから内容証明郵便による督促を受けてはいたものの、被告人とdとの関係、借金をするに至った経緯、一月一〇日以降もdから借金を重ねていること、d自身、被告人に対し特別強い態度で返済を請求したことはない旨供述していることなどにかんがみると、負債の額は多額であるものの、被告人にとって強く支払を迫られている状況にあったとはいい難いし、その他の負債についても、「クラプ△△」に対する四二万円余りの負債についてはcから電話や来訪を受けて返済を催促されていたが、信販会社に対する負債のうち、日本信販東京本社に対する約五三万円の負債については一月一〇日当時は普通郵便による督促を受けていた程度であり(甲一四四資料二の5)、同社池袋支店に対する約二八万円の負債については訴訟申立通知書が送付されているものの被告人が転居していたため被告人が受け取ることなく返送されており(甲一四四資料三の4)、結局被告人の認識としては普通郵便による督促を受けていたのと同程度の認識しかなかったものと考えられ、丸興に対する負債については昭和五八年一二月二七日に返済すべき三万円余りが支払われなかったにすぎず、大信販に対する負債については遅滞がなかったことが認められる。そして、日本信販東京本社分については一月一〇日以降も結局支払をせず、最終的には同社に内部償却を余儀なくさせていること、dから更に多額の借金をしたほか、「クラブ△△」で稼働後親しくなったeから一月一一日までの間に四〇万円くらいの援助を受けていること(「誘拐容疑事件捜査報告」と題する書面[甲一六<五丁裏>])などの状況にかんがみると、被告人の経済状態が太郎の誘拐を決意させるほど深刻な事態にまで立ち至っていたと認めるには多大な疑問が残るというべきである。

(2)  被告人の甲野家の資産等に対する認識について

ア  事実関係

二郎の検察官調書(甲三)、「殺人被告事件捜査報告」と題する書面(甲二四三)、実況見分調書(甲八、二四二)によれば、二郎は、昭和五四年に花子の母から土地を一二〇〇万円で購入し、昭和五五年ころ建物を約三五〇〇万円で建築したこと、甲野家の土地建物は、一月一〇日当時、合計約七〇〇〇万円の資産価値があったこと(甲三[三項])、当時二郎が所有していたポルシェクーぺやBMWといった輸入車を日中は甲野方のへいの前に駐車していたこと、甲野方の土地建物が相当の資産価値のある邸宅であることは付近を通行する者にも認識可能であったこと、○○荘は甲野方から一二〇メートル足らずの距離しかなく、しかも、○○荘前の路上から甲野方を見通せたこと(甲八、二四二、二四三)が認められる。

そうすると、当時○○荘に住んでいた被告人にとっても、右のような相当の資産価値がある甲野方が存在し、甲野方に輸入車があることや太郎が甲野家の子供であることを認識すること自体は可能であったといえる。

イ  検討

以上によれば、被告人がたまたま近所にある富裕な甲野家に目を付け、身代金目的で太郎を言葉巧みに電話で呼び出したということも考えられなくはない。

しかしながら、被告人が認識し得た事情を実際に認識していたとしても、それだけで被告人が甲野家から現実に身代金を取得できると考えたというのは、不自然、不合理の感を免れず、やはり疑問が残るといわざるを得ない。すなわち、被告人が、二郎の職業や仕事内容、甲野方の土地建物及び輸入車以外の財産の存在について、具体的にどれほど認識していたのかをうかがわせる証拠はなく、また、被告人が、甲野一家の家族構成は付近にいて知り得たとしても、その他その身内関係、二郎の会社関係等について認識していたのかどうかも不明であり、被告人がこのような事情を一切知らなかったとすると、太郎を誘拐したとしても甲野家から身代金を確実に取得できるという認識は持ち得ないはずであり、そのような認識がないのに、かかる重大犯罪を行うことを決意するということは考えにくいところである。

(3)  被告人の言動の不可解さについて

ア  太郎を電話で呼び出した状況

① 前述したとおり、一月一〇日午前九時ころ、甲野方に電話が掛かり、二郎が出たものの、相手は何も言わずに無言のまま電話を切ったこと、当時、甲野方には度々無言電話が掛かってきていたが、朝早く掛かってきたのはこの時が初めてであったこと、同日午前九時三五分ころ、再び甲野方に電話が掛かり、太郎が電話に出たこと、太郎は、花子から、だれからの電話だったのか、また、どこへ行くのか問いただされ、「ヘイヤマさんのお母さんが、僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている。函館に行くと言っている。車で来るから、それを取りに行く」「一〇〇メートルくらい離れた所に、おばさんが持ってきてくれる」などと答え、同日午前九時四〇分ころ外出したことが認められるところ、太郎は、当時小学四年生の九歳であり、電話の内容を偽りあえて右のような内容の作り話をしたとは考え難く、太郎が被告人と全く面識がなかったというのであれば、だれとも分からない者から右のような内容の電話を受け、家族が電話のやり取りを見聞きしているのに、太郎がその誘いに乗って○○荘に赴いたというのは理解に苦しむところである。

ところで、二郎供述(第三二回公判)、二郎(甲三)、花子(甲四)の検察官調書、二郎(甲一四八)、花子(甲一五一)、三郎(甲一五四)、春子(甲一五七)の警察官調書によれば、二郎ら家族はいずれも被告人とは面識がない旨供述しており(第三二回[四頁]、甲三[九項]、四[六項]、一四八[一一項]、一五一[七項]、一五四[八項]、一五七[七項])、また、鈴木滋供述(第一七回調書[五一〜五八頁])によれば、捜査の結果では、被告人と二郎、その家族、その身内、二郎の会社関係との間で特に接点がある状況もうかがわれない(ただ、唯一太郎からの確認はない。)。しかしながら、前述したとおり、太郎が行方不明になった以後、甲野方に身代金を要求する電話や脅追電話等の不審な電話はなかったことが認められることからすると、前記のような無言電話の主は被告人の可能性も否定し難く、そうであるならば、太郎が電話に出た時は被告人が話をしていることからすれば、被告人と太郎は元々顔見知りであって、二人の間には何らかのつながりがあり、被告人が甲野方に電話を掛けたのも、太郎に用事があって単に太郎を呼び出すためにすぎなかったのではないかとの推測も成り立ち得るというべきである。

② この点に関し、検察官は、被告人は、警察が太郎の捜索を開始したことを察知したため、そのような中で二郎らに身代金を要求する電話をしても、その電話を逆探知されて警察に逮捕されたり、仮に逆探知されなくても現金の授受の時に警察に逮捕されるなどするため、このまま犯行を継続しても警察に自己の犯行が発覚してしまうと懸念したことから、二郎らに身代金を要求しなかったにすぎないと考えられる旨主張している。確かに、検察官主張のような見方もあり得ようが、他方で、被告人が何らの要求もしなかったのは、太郎を呼び出した目的が身代金目当てではなく、別な目的であったため、右のような要求をそもそもしなかったとも考えられるのであり、被告人が太郎を呼び出した目的が身代金目当てといえなければ、検察官の主張はあくまで推測ないし仮説にとどまるというべきである。

③ 以上からすれば、被告人は、家族がいるのに、堂々と太郎を呼び出したことになるが、被告人が身代金目的で太郎を呼び出すためには、太郎の家族や○○荘の住人、○○荘付近にいた者たちに絶対気付かれないようにしなければならないはずであるところ、呼び出し方ひとつをとってみても、発覚の危険性が極めて高く、身代金目的と被告人の選択した太郎の呼び出し方との間には落差がありすぎるといわざるを得ない。したがって、この点からも、被告人が身代金目的で太郎を呼び出したというのは、大いに疑問とされなければならない。

イ  男児用の机等の所持

① 前述したとおり、被告人は、一月二六日、札幌市豊平区北野七条<番地略>の××ハイツ五号棟一階B号室に転居していることが認められる。

② そして、茂木治子(家具店である一光産業株式会社に勤務)は、検察官調書(甲四三)において、「二月一〇日ころ、被告人が、ソファーセット等と一緒に、スーパーマリオだったと思うが、男の子向けのキャラクターがプリントされた男の子用の学童机を買った。被告人は、『菊子のために今から買っておくの』『菊子は男の子みたいな性格だから、男の子用でいいんだ』などと言っていた(二項)。その一〇日くらい後、被告人方(××ハイツ五号棟一階B号室)に行った際、四畳半間の窓側に購入してもらった机が置いてあった(四項)」旨供述しており、また、f(被告人の知人)も、検察官調書(甲四四)において、「五月ころ、被告人のアパート(××ハイツ五号棟一階B号室)を訪ねた。奥の和室に子供用の勉強机といすがあった。机にはスーパーマリオの絵がついていた(四、六項)。菊子が男の子用だと思われる筆入れや小学生用という感じのノートを持っていた。被告人は、『これ、何とかちゃんのだもんね。優しいお兄ちゃんだったんだよねえ。お兄ちゃんに返さないとねえ』などと言っていた(八項)」旨供述している。

茂木及びfの右各供述は、具体的で自然な流れにも沿っており、両名がこの点に関して殊更虚偽の供述をする理由がなく、両名の供述が符合していることも考えると、信用性は高いといえる。すなわち、被告人が一月二六日、突然○○荘から××ハイツに転居し、学校に通う男児がいないにもかかわらず、男児用の学童机及びいすを購入し所持していたことが認められる。

③ 以上からすると、被告人は、何らかの目的があって、男児用の机等を所持していたものと推認できるところ、被告人が顔見知りであった太郎を自らの行為により死亡させたものとみれば、被告人の右のような言動も理解することができないわけではない。

ウ  供養の様子

X供述(第二五回公判)、桜子(甲三七)、丁野桃子(甲三八)、夏子(甲六六[不同意部分を除く。])の検察官調書、Wの警察官調書(甲六四[不同意部分を除く。])によれば、被告人が四郎方の仏壇に水、御飯、花、果物、野菜や生魚を供えたり、手を合わせて拝んだりしていたほか、寝る前に「また明日。お休みなさい」などと言ったりしていたことが認められる。

右の事実に照らせば、被告人が顔見知りであった太郎を自己の行為により死亡させたことから、自責の念や後悔の気持ち、その他もろもろの思いや感情から供養をしていたのではないかと考えられないではない。

エ  太郎の遺骨の放置

前述したとおり、被告人は、太郎の遺体を四郎方に持ち込み、その遺体を焼損した後、本件ビニール袋に入れて南側納屋に隠し置いていたことが認められる。

ところで、被告入は、太郎の遺体の運搬や保管などに注意を払ってきていながら、四郎が亡くなり、その場所を離れなくてはならなかったのに、太郎の遺骨を無造作に南側納屋に置いたままにしていたというのは誠に不可解である。しかも、四郎方の火災や四郎の死亡について、不審な点があるとして捜査がなされており、その捜査の過程で太郎の遺骨が発見されることも十分予想されながら、被告人が太郎の遺骨をそのまま放置していたというのはいささか理解し難いところである。

(4)  小括

以上によれば、被告人の経済状態が太郎の誘拐を決意させるほど困窮したり、負債の返済に追われて深刻な状況にあったとはうかがわれないし、被告人が太郎を誘拐すれば身代金を確実に取得できるといえる程度にまで甲野家に関する情報を持っていたとまでは認められず、また、被告人が太郎と顔見知りでなかったのかとうかがわせる事情もあることを考えると、被告人が身代金目的で太郎を呼び出したと認定するのは困難といわざるを得ない。

3 被告人が殺意をもって太郎を死亡させたとは認められないこと

(一)  検察官の主張の要旨について

検察官は、冒頭陳述において、被告人は、太郎を後刻解放すれば、太郎を誘い出した犯人が被告人であることが直ちに発覚するなどと判断して、太郎の殺害を決意し、太郎を当時の被告人方に引き入れた一月一〇日午前九時四〇分ころから同日午後四時ころまでの間、同所において、太郎の頸部を絞めるなど殺害するに足る手段・方法により、太郎を死亡させて殺害した旨、論告において、①被告人は身代金目的で太郎を誘拐し、当時の被告人方に太郎を引き入れたという事実から、被告人が身代金目的で太郎を誘拐したことが警察に発覚することを防ぐため、殺意をもって太郎を殺害したものであり、被告人には殺意をもって太郎を殺害する十分な動機があった、②被告人には太郎を殺害する機会があり、かつ、殺害を実行することが可能であった、③被告人は身代金目的で太郎を誘拐し、当時の被告人方に太郎を引き入れ、太郎の救命措置を全く講じておらず、太郎を殺害した後も異常なほどの執念で太郎の死体を隠蔽し続け、太郎を殺害したことに良心の呵責を覚え太郎の供養をしていることなどから、太郎は被告人の殺意のない犯行によって死亡したのではなく、被告人の殺意のある殺害行為によって死亡したことが明白である旨主張している。

(二)  殺意を抱くような動機の有無について

前述したとおり、被告人が太郎を電話で呼び出した目的の解明が困難であり、身代金目的を前提として太郎殺害を認定することは、証拠上困難といわざるを得ない。

検察官の主張は、被告人が身代金目的で太郎を誘拐したということを前提としており、この身代金目的が認定できない以上、検察官の主張も、あくまで推測や仮説にとどまり、単なる想定の域を出るものではない。ところで、本件では、前述したように、被告人が太郎を呼び出した目的が太郎殺害に結び付く蓋然性が高いことや被告人に太郎殺害の明確な動機が認められることが、殺意を認定できるために必要というべきであるから、太郎を呼び出した目的や太郎殺害の明確な動機が認められないのに、被告人が当時の被告人方を訪れた太郎を何らかの行為により死亡させたことが認められることをもって、直ちに「被告人が太郎を呼び出したのは最初から太郎殺害の動機があったとしか考えられない」、すなわち「被告人が殺意をもって太郎を死亡させた」ということの証明に置き換えてはならないことはいうまでもない。そして、本件の証拠関係に照らせば、被告人が偶発的ないし衝動的に太郎を殺害したとは認められず、また、個人的な怨恨、犯跡隠蔽行為等を含む他の動機に基づき、被告人が殺意をもって太郎を死亡させたとも到底認められない。

(三)  被告人の供述態度等について

(1)  取調べ中の言動について

検察官は、被告人が、取調べ警察官に対して、自己の犯した罪が死刑に相当する重大なものであることを前提にした供述をしている事実からも、被告人が殺意をもって太郎を殺害したことが明白である旨主張している。

そしてこの点、警察官東栄(昭和六三年八月当時被告人の取調べを担当)は、東栄供述(第三一回公判)において、「昭和六三年八月四日、静内警察署で被告人に対し、どうしてこの人骨があなたの住んでいた所から発見されたのか説明してくれと聞くと、被告人は、『心は開く気持ちはある。だけど、今すぐ開けない。時期がきたら開けると思うよ』と言っていた(二〇、二一頁)。同月五日午後の取調べで説得を続けると、被告人は、『言わないとは言ってないしょ』『気持ちの整理をする時間を欲しい』『話す、心を開く気持ちはある。二、三日でいいんだ』『私が話したら(事件は)解決します』などと言っていた(三〇〜三二頁)。同月一〇日午前中の取調べでは、被告人は、いきなり『夕べ死のうとした。包丁で刺したら痛いし、なかなか死ねないものだね』などと言っており、同日午後の取調べでは、『私の人生に余りにも大きい犠牲を払った。私やり直せるんだろうか』『私どうして狂っちゃったんだろうね』『死刑執行のときに牧師さんや坊さん立ち会うの』などと言っていた(四二〜四八、五一頁)」旨供述している。

確かに、東の右供述によれば、被告人が東に対し、重大な犯罪により太郎を死亡させたことをほのめかしていたとまではいえるとしても、取調べ中の右言動をもって、それ以上に、被告人が殺意に基づく犯行であることを暗に認めていたとみることはできない。

(2)  ポリグラフ検査について

検察官は、ポリグラフ検査の結果、被告人には太郎を誘拐して殺害した容疑があるものと思われるという判定が出ていることからも、被告人が殺意をもって太郎を殺害したことが明白である旨主張している。

この点、村岡章輔供述(第二七回公判)、承諾書(甲二二〇)、ポリグラフ検査結果通知書(甲二二一)によれば、技術吏員村岡章輔(当時科捜研勤務。以下「村岡吏員」という。)は、昭和六三年八月四日午前、あらかじめ被告人の承諾を得た上、ラファイエット社製の携帯型ポリグラフC4型を使用して、警察官松里圭子立会いの下、対照質問法と探索緊張最高点質問法により、被告人が太郎を誘拐して殺害したか否かの容疑の有無を明らかにするためポリグラフ検査を実施したこと、村岡吏員は、その検査結果について、対照質問法における「甲野太郎君を誘拐した犯人を知っていますか」「甲野太郎君を誘拐したのはあなたですか」「甲野太郎君を殺して死体を焼きましたか」という関係質問、探索緊張最高点質問法における「甲野太郎君の首を絞めて殺しましたか」という質問に特異反応に近い反応が見られ心理的動揺が認められたということから、本件に対する容疑があるものと思われる旨結論付けていることが認められる。

そして、村岡吏員は、村岡供述(第二七回公判)において、昭和三七年一月から科警研等でポリグラフ検査の技術についての実務研修を受け、同年四月から、科捜研でポリグラフ検査の検査官としてポリグラフ検査を専門に行い、本件検査までに約一七〇〇件の検査を実施した経験があった旨(一〜一四頁)供述しており、村岡吏員がポリグラフ検査に必要な技術と経験を有していたことが認められる。また、村岡供述(第二七回公判)によれば、本件で使用した検査器具は当時科警研や他の都道府県警察の科捜研でも同型のものが使用されていたもので、故障はなく、村岡吏員自身、検査当時数年間は使用していてその使用法にも習熟しており(一六、一七頁)、検査を実施する室内の環境も検査に適した状態であった上(一八〜二二頁)、検査前の面接では被告人にポリグラフ検査を受けることについての承諾の意思、被告人の体調等を確認し、検査の方法、効果等について説明した(二三、二四頁)というのであって、本件ポリグラフ検査の方法も一般的な方法に従ったといえるし、検査に用いられた質問も不適切であったとは認められない。

しかしながら、本件ポリグラフ検査において、裁決質問を設定することができず探索緊張最高点質問法によっていること(第二七回公判[四一〜四四、八四〜八七頁])、設定した対照質問が本来あるべき質問を作成できないため便宜的、二次的な質問となっていること(第二七回公判[一二四頁])等考慮すべき事情がある点はおくとしても、そもそもポリグラフ検査は、その結果が被検査者の供述の信用性を判断する一つの事情にはなり得るものの、被検査者が有罪意識を有しているからといって、それ自体を被告人が殺意を有している旨供述しているのと同様に評価し、その検査結果を有罪認定の証拠とすることは到底できないといわなければならない。

(3)  黙秘の態度について

検察官は、被告人が殺意をもたずに太郎を死亡させたにすぎないのにあえて自分自身が殺人罪で処罰される危険を冒してまで何らの弁解・反論もしない態度は、検察官の提示した証拠やこれに基づく推論及び判断が正しいために何ら弁解や反論ができない被告人の心境を如実に示すものであり、うかつに虚偽の弁解などをして馬脚を現すよりは沈黙して何とか自己の罪責を免れんとするものであるというべきである旨主張している。

ところで、本件の審理経過をみると、被告人は、その罪状認否において、「起訴状にあるような事実はありません」と陳述したのみであり、その後二度にわたり行われた被告人質問においては、検察官からの多数回に及ぶ質問に対し、「お答えすることはありません」などと供述し、また、裁判官からの質問に対しても同様の供述をして完全に黙秘する態度を取り続け、他方弁護人は被告人質問を全く行わなかったものである。

しかしながら、検察官の右主張を前提に考えても、被告人には黙秘権、供述拒否権、自己負罪拒否の特権が認められているのであるから、被告人が公判廷において、検察官及び裁判官からの質問に対し何らの弁解や供述をしなくても、それは被告人としての権利の行使にすぎず、被告人が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない。他方で、検察官の立証に伴い、被告人が反証の必要に迫られることがあるとはいえ、それは検察官の立証に伴う反射的な効果にすぎず、そのような場合においても、被告人が何ら弁解や供述をしなかったことを犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないことに変わりはない。

(4)  小括

以上によれば、被告人に対するポリグラフ検査で特異反応に近い反応が見られたほか、被告人は、任意の取調べの段階で、自殺をほのめかす供述をしたり、気持ちの整理のために時間が欲しいと述べたりするなど、心の動揺を示していたことが認められ、これらの事実も、被告人に対する疑惑を募らせるものではあるが、だからといって、被告人が殺意をもって太郎を死亡させたと推認する積極的な証拠となるものではない。

第三  結論

以上を総合すると、被告人が何らかの行為により太郎を死亡させ、その後においても、長期間にわたり太郎の遺体を保管したり、焼損した遺骨を隠し置いていたこと、昭和六三年当時の任意の取調べにおいて本件とのかかわりをほのめかす言動を示していたことなどが認められ、このような事情からすれば、状況的にみて、被告人が重大な犯罪により太郎を死亡させた疑いが強いということができるが、その反面、①太郎の死因が特定できない上、太郎を死亡させる原因となった実行行為も認定できないこと、②被告人が電話で太郎を呼び出した目的の解明が困難であり、身代金目的があったとはいえないこと、③被告人に太郎殺害の明確な動機が認められないこと等に照らすと、被告人が殺意をもって太郎を死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残るというべきである。

以上の次第で、結局、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官・佐藤學、裁判官・松井芳明 裁判官・知野明は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官・佐藤學)

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