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札幌地方裁判所 平成10年(行ウ)16号 判決 2001年10月01日

原告

松本阿さ子

訴訟代理人弁護士

伊藤誠一

高崎暢

被告

地方公務員災害補償基金

北海道支部長

堀達也

訴訟代理人弁護士

安西愈

込田晶代

伊藤隆道

主文

1  被告が原告に対して平成五年一月二六日付けでした公務外認定処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

主文と同旨

二  被告

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  事案の概要

一  本件は、北海道虻田郡喜茂別町立××小学校の教頭であった松本橡隼(以下「橡隼」という。)が、学校行事であるクロスカントリースキーの練習コース設営等の作業に従事した後、心筋梗塞の発作を起こし、その後、再発性心筋梗塞による急性心不全により死亡した(以下、心筋梗塞の発作から死亡までをまとめて「本件発症」という。)ことについて、橡隼の妻である原告が、被告に対し、橡隼の死亡は公務上災害であると主張して、地方公務員災害補償法(以下「法」という。)に基づき公務上災害の認定の請求をしたところ、被告が公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をしたため、所定の行政不服審査手続を経たうえ、その取消しを求めた事案である。

二  前提となる事実(争いのない事実以外は証拠を併記)

1  原告は、橡隼(昭和八年八月一七日生)の妻であるが、橡隼は、昭和二七年九月から北海道の小学校助教諭ないし教諭として稼働し、昭和六二年四月一日から××小学校において教頭として勤務していた。

被告は、法に基づき、地方公務員の公務上の災害又は通勤による災害に対する補償を行う地方公務員災害補償基金の北海道支部長である。

2  ××小学校は、××山のすそ野にある畑作中心の農村を学区としており、昭和六三年当時、校下地区には三五戸の世帯が生活し、全校児童数は九名、教職員数は校長を含めて四名で、複式学級制を採用していた(甲16)。

3  平成元年三月四日(以下「本件発症当日」ともいう。)、橡隼は、午前七時三〇分、××小学校に出勤し、校舎を見回った後、××小学校校庭隣接地において、児童の体力づくりのため毎朝実施していたクロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事していたが、雨が強くなったことなどから、当日の練習のみならず当シーズンの練習を終了することとし、作業を中止して、ポール、コースカッター等のコース設営用具を物置に格納し、午前八時一〇分ころ校舎に入ったが、間もなく心筋梗塞の発作を起こした(証人久恒重尚)。

4  橡隼は、直ちに倶知安厚生病院に緊急入院し、治療により急性期を脱したが、同年四月九日、仮退院中に再び心筋梗塞の発作を起こして北海道循環器病院に転入院し、同月二四日午後九時三五分、心筋梗塞の発作を起こし、再発性心筋梗塞による急性心不全により死亡した(甲1、甲81。なお、証人飯村攻によると、橡隼の死亡は、初めの心筋梗塞の発症から一連の経過によるものと認められる。)。

5  原告は、平成三年四月二三日、橡隼の死亡は公務上災害であるとして、法に基づき、公務上災害の認定の請求をしたが、被告は、平成五年一月二六日付で、橡隼の死亡は公務によるものではないとして本件処分をした。原告は、これを不服として、同年三月一九日、地方公務員災害補償基金北海道支部審査会に対し審査請求をしたが、同審査会は、平成九年三月一八日、この請求を棄却し、原告は、同年四月二三日、地方公務員災害補償基金審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は、平成一〇年五月二〇日、この請求を棄却する裁決をし、この裁決書は、同年六月二九日に原告に郵送された(弁論の全趣旨)。

三  主たる争点とこれに関する当事者の主張

1  法三一条、四二条は、「職員が公務上死亡した場合」に災害補償を実施すべきことを定めているが、「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係のあることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならない。したがって、本件の争点は、本件発症が公務に起因するか否か、すなわち、本件発症と公務との間に相当因果関係があるか否かであり、これを具体化すれば、①公務の過重性の有無・程度、②それを前提としつつ医学的知見に照らして公務起因性があるか否かの二点である。

2  公務の過重性の有無・程度

(原告)

(一) 橡隼は、教頭として校長を補佐し、校務を整理するとともに、校長に事故があるときはその職務を代理・代行する職責を有し、三、四学年の学級担任として直接児童の指導・教育に当たっていた。すなわち、毎朝七時三〇分ころ出勤した後、管理職として校内の管理・保全に気を配るとともに、午前八時二〇分から二五分までの職員朝会に出席し、午前八時二五分から午後三時四五分まで(ただし、木曜日は午後二時四〇分まで、土曜日は午前一一時三五分まで)毎日授業(週合計二〇時間)を担当し、児童の指導・教育に当たり、その後は校務処理に従事し、午後五時三〇分ないし午後六時ころに退勤する日常であった。橡隼は、このほか、校内事務の分掌として、環境美化係、校内外研修係、町費関係係、庶務係、職員厚生係、PTA関係係、社会教育関係係を担当し、スキー学習の補助をする地位にあるとともに、「私たちの広場」編集発行の責任者でもあった。そして、××小学校においては、児童の体力づくりのため、一年を通じて行われる「業間体育」(授業と授業の合間を活かして体育をする)や、夏期(五月から一一月)のマラソン、冬期(一二月から三月)のクロスカントリースキーをほぼ毎日行うなど、スポーツ活動に積極的に取り組んでおり、その他、創意工夫を活かした特別活動として、「私たちの広場」や「心の広場」(生活指導)が重視され、紙版画によるカレンダーづくりの指導、「発表朝会」「読書タイム」が行われており、橡隼は、これらの指導にも当たっていた。なお、学校を運営していく上で必要な校務は、学校の規模に拘わらず存在するものであるが、××小学校においては、教員の数が少ないことから、一人あたりの分掌の量は必然的に多かったといえる。

また、××小学校においては、地域、児童、町の教育方針の特性に応じて、PTAと協力した活動、校外教育活動に参加することが多かった。PTA関係の活動については、昭和六三年度から赴任してきた甲野太郎校長が参加に消極的であったことから、学校を代表して参加するのはほとんどの場合橡隼であった。喜茂別町は、体育教育ないしその心得のある教師に依拠する傾向が強く、体育教育の心得のあった橡隼は、喜茂別町体育指導委員、生涯教育セミナー「きもべつ」企画運営委員、喜茂別町スポーツ貢献賞表彰審議委員等の重要な役職に任命され、これらに関する校外教育活動に参加していた。

(二) 本件発症の約一年前からの業務について

橡隼は、昭和六三年四月以降、教頭及び学級担任としての日常校内活動のほか、別表記載の校内活動、PTA行事及び校外教育活動等に従事した。新年度早々から、××小学校では同年五月二九日に予定されていた町内ジュニアマラソン大会及び同年七月六日に予定されていた第一六回小学校陸上競技大会に向けて基礎トレーニングが開始され、橡隼は、連日、業間体育や放課後においてもその練習指導に当たった。ジュニアマラソン大会については、同年五月一一日、二八日に準備のための会議が開かれ、同年六月二二日には反省会が開かれたが、橡隼はいずれにも参加した。

文化面では、同年七月七日、八日と宿泊学習が実施され、橡隼ら教員は、ほとんど睡眠もとらずに指導に当たった。さらに、橡隼らは、同年一一月六日の学芸会を地域の人々とともに成功させたほか、同年一〇月一五日(土)には第一二回音楽交歓会に、同年一一月一九日(土)には第六回親子読書の集いにそれぞれ児童を参加させた。

その他、橡隼は、同年四月一八日の体育指導委員会、同月二〇日の生涯学習セミナー企画運営委員会議等に出席し、そこで決定された年間計画に基づいて、以下のとおり諸活動に参加した。すなわち、同年六月四日(土)には町民健康ラジオ体操ジュニアリーダー講習会に指導者として参加し、同年六月二三日、同年九月三〇日のいずれも勤務時間外に開かれた体育指導委員会に出席し、同年八月一七日、一八日の両日には江差町への研修旅行に参加した。また、同年六月一八日の町営水泳プール開き以降、学校教育の合間を縫うようにして参加者に指導を行い、同年七月一三日から一五日までは夜間水泳教室の講師も務めた。また、橡隼は、同月一七日(土)、スポーツ少年団の水泳大会の指導に当たり、同月二六日開催のPTA海水浴、同月三一日開催の校下地区の三世代交流レクリエーション、同年八月一〇日開催のスポーツ少年団サイクリングにも参加した。さらに、橡隼は、同年一〇月八日、町教育長杯ゲートボール大会の運営に当たり、同月二一日及び同年一一月二日には親子読書感想文・感想画審査会議に出席し、審議に当たった。

(三) 本件発症の約三か月前からの業務について

橡隼は、校内外の職務や、連日の関連事務会議で帰宅が遅くなりがちであった。

××小学校においては、一二月から三月までの冬期間、スキー学習に力を入れており、このころから、毎朝、校庭隣接地において、クロスカントリースキーの練習を行っていた。そのため、教職員は、毎朝午前七時四〇分ころよりクロスカントリースキーの練習コースの設営作業をしたうえ、児童に対する走行指導をし、重さ約二〇〇キロのスノーモービルを物置に格納する作業をしていた。これらの作業は、橡隼と新任教員であった久恒尚重教諭が交替で行っていたが、その割合は、橡隼が七割、久恒教員が三割であった。上記コース設営作業は、一キロメートル以上のコースをスノーモービルで数周走行して圧雪し、さらに、スノーモービルでカッターを牽引してメインコースと追い抜きコースをカッティングするというものである。スノーモービルで雪原を地面すれすれに数十分間走行する作業は、顔面にまともに雪が当たり、全身が冷える過酷なものであり、重さ約五〇キロのカッターを寒冷の中で着脱する作業は、身体的負荷が大きいといえる。スノーモービルの格納作業も、スノーモービルを物置に入れてエンジンを止めた後、人力で、重さ約二〇〇キロのスノーモービルを持ち上げてその方向を一八〇度変えるというものであり、多くの場合久恒教諭の助力があったとしても、かなりの重筋労働であった。

また、橡隼は、このころ、日曜、祝日、冬期休校日のほとんどを公務に当てていた。すなわち、同年一二月二五日(日)、スポーツ少年団を引率して全道クロスカントリースキー大会に参加し、昭和六四年一月一日(日)、午前八時三〇分に登校して校務整理をした後、校下地区新年会に参加し、同月一五日(日・祝)、喜茂別町主催の成人式に出席し、同月二二日(日)、スポーツ少年団を引率して中山峠でスキーの指導を行い、同月二九日(日)、余市町で開催された後志スポーツ少年団指導者研修会に参加した。冬期休校期間である同年一二月二七日から翌平成元年一月三〇日までは、管理職である校長及び教頭は、学校施設の維持管理に努めるべき任務を有しており、この間、日曜祝日を除いて、いずれか一人は学校から離れないように努めるというのが不文律になっていたところ、甲野校長が、昭和六三年一二月二九日から平成元年一月七日まで、橡隼と打合せもせずに、江別市の自宅に帰ってしまったため(同月四日には、町の新年会に出席するためいったん喜茂別町に戻ったものの、すぐまた帰宅してしまった。)、橡隼は、昭和六三年一二月二七日から翌平成元年一月八日まで連日出勤した。

昭和六三年の秋以降、橡隼は、同僚の齋藤豊子教諭に疲労による体調不良を訴え、学校の常備薬であるバファリンを頻回に服用するようになった。また、橡隼は、昭和六四年一月三日ころ、友人であり××小学校のPTA役員である磯田喜春に疲労を訴えたところ、磯田は、喜茂別町教育委員会に対し、電話連絡により善処を求め、同月五日には、教育長が、××小学校を訪れて調査したが、橡隼に対し、もう少し我慢するよう述べるのみであった。

(四) 本件発症の約一か月前からの業務について

橡隼は、平成元年二月ころから、学年末の学校行事の準備にとりかかり、同月末には、同年四月の異動で転勤することが決まったことから、後任者に対する引継事務も加わり、繁忙となっていた。また、このころは、××小学校の特色ある教育の一つであるスキー学習とその成果を確認する唯一絶好の機会である各種大会が集中的に行われ、橡隼は、平日は一週当たり二度のスキー学習等(同年二月七日、八日、一五日、一八日、二〇日、二一日、二二日、二八日)を行ったほか、日曜祝日は各種スキー大会の指導等にあたり(同月五日、一一日、二六日)、その余の休日は喜茂別町生涯教育セミナーへの参加(同月五日)、日直登校(同月一九日)、学校関係文書の作成に充てていた(同月一二日に昭和六三年度予算見込等の文書作成、一九日には校内スポーツ大会に対する協力お礼の文書作成)。その他、橡隼がこの間に行った活動の状況は、別表記載のようなものであった。

そして、橡隼は、このころから食欲が落ち始め、本件発症当日までの間、朝食後に嘔吐したことが三度あった。なお、橡隼は、昭和六三年八月ころ、疲労により発症する頚腕症候群に罹患しているが、上記のような疲労の訴えがあったことから、被災直前まで、同傷病は継続していたものと考えられる。

(五) 精神的ストレスについて

教頭は、校長を助け、校務を整理し、必要に応じ児童の教育を司るとされており(学校教育法二八条四項)、学校の教育目標の実現に向けた教育活動、学校組織内の種々業務の整理、組織上の葛藤の調整という役割を担い、これに加えて、多くの場合、通常の教職員と同様に学級担任、教科指導をも行っており、教頭の職務自体、本来的に極めて多忙で精神的緊張度の高いものであった。

××小学校においては、昭和六三年度は、教員四名のうち校長も含めて二名が新任であり、橡隼は、特に新任の甲野校長との関係で精神的ストレスを抱えていた。すなわち、校区内の地元住民と共同の学校行事や関連行事は、土、日曜日や祝日を利用して行われることが多かったが、同校長は、前任校の引継が残っているとか、娘が入院する等の理由で、とかく週末になると江別市の自宅に帰り、学校を空けたため、校下地区住民は同校長を批判し、とりわけ平成元年二月一八日の校内スキー大会にも同校長が年休をとって出席しなかったため、校下地区住民の批判は頂点に達し、その矛先が教頭である橡隼に向けられたことから、橡隼は、同校長との関係について精神的ストレスを抱えていた。

また、前記のとおり、管理職には冬期休校中も学校を管理する任務があったにもかかわらず、甲野校長が、冬季休校開始早々、橡隼と十分な連絡をとらずに帰省するなどしたため、橡隼が冬期休校開始日であった昭和六三年一二月二七日から平成元年一月八日まで学校を離れることができなかったことも、同人の精神的ストレスの一因となった。

(六) 本件発症前一週間の業務について

(1) 平成元年二月二五日(土)

午前七時三〇分 出勤し、クロスカントリースキーの練習コース設営作業をした後、児童に対しクロスカントリースキーの指導をする。

午前八時二〇分 職員朝会

午前八時三五分 学級朝会

午前八時四〇分から午前一一時まで

担当学級の図工の教科指導を行う(一教時から三教時)。

放課後 再び児童にクロスカントリースキーの指導を行う。

午後三時すぎまで 当日は日直であったため、残って校務にあたる。

午後五時すぎ 学校に近接した自宅(教頭用公舎)で夕食をとる。

午後六時ころ 入浴

午後七時ころから午後一〇時三〇分まで 学校関係の文書を作成する。

午後一〇時三〇分 就寝。

(2) 同月二六日(日)

午後七時ころ 冬季道民スポーツ大会に参加する児童の指導及び関係事務処理のため、ルスツ高原スキー場に出かけて指導に当たる。

午後三時三〇分ころ 帰宅して、仮眠をとる。

午後五時三〇分ころ 夕食

午後六時すぎ 入浴

午後七時ころから午後一〇時三〇分ころまで 学校関係の文書を作成する。

午後一〇時三〇分ころ 就寝

(3) 同月二七日(月)

午前七時三〇分 出勤し、クロスカントリースキーの練習コースを設営し、児童に対する指導をした後、スノーモービルを格納する。

午前八時二〇分ころ 職員朝会

午前八時二五分ころ 全校朝会で久恒、齋藤両教員とともに生徒指導を行う。同月二二日に実施された町内小学校スキー大会の表彰を行った。

午前中 担当学級に対し、国語、算数、社会、国語の教科指導を行う。

午後〇時二〇分から午後一時まで 給食指導を行う。

午後一時五〇分からの五教時、午後二時四〇分からの六教時 全校読書の時間

午後三時 齋藤教諭に児童の指導を委ね、久恒教諭とともに双葉小学校で行われた第八回小学校体育振興会理事会に出席する。

午後五時三〇分すぎ 帰宅し、夕食をとった後、入浴と休憩をする。

午後八時ころから午後一〇時ころまで 学校関係の文書を作成する。

午後一〇時三〇分ころ 就寝

(4) 同月二八日(火)

午前七時三〇分 出勤し、クロスカントリースキーの練習コースを設営し、児童に対する指導をした後、スノーモービルを格納する。

その後、職員朝会に加わる。この際、当日は、四月に新一年生として入学する予定の二人の子供が午前一一時から午後三時三五分まで父母とともに在校して一日体験入学をし、あわせて知能テストを行うことになっていたので、これについての打合せが中心となる。

一教時から四教時 算数、国語、社会、音楽の教科指導を行う。

午後〇時二〇分から午後一時まで 給食指導を行う。

五教時から六教時 国語の教科指導、心の広場(生活指導)

放課後 クロスカントリースキーの練習指導

午後五時三〇分すぎ 帰宅し、夕食、入浴を済ませた後、若干の休憩をとる。

午後八時前 就寝

(5) 同年三月一日(水)

午前七時三〇分 出勤し、クロスカントリースキーの練習コースを設営し、児童に対する指導をした後、スノーモービルの格納を行い、職員朝会に出席する。

一教時から四教時   国語、道徳、算数、理科の教科指導を行う。

午後〇時二〇分から午後一時まで 給食指導を行う。

六教時 体育(スキー)の指導を行う。

午後六時まで 校務整理のため在校する。

午後六時 帰宅し、夕食をとり、入浴する。

午後八時から翌日午前五時まで 学校関係文書を作成する。そのまま仮眠もとらずに仕上がった書類に目を通す。

(6) 同月二日(木)

午前七時三〇分 出勤し、クロスカントリースキーの練習コースを設営し、児童に対する指導をした後、スノーモービルを格納する。

午前八時二〇分 職員朝会

一教時から四教時 算数、音楽、国語、理科の教科指導を行う。

午後〇時二〇分から午後一時まで 給食指導を行う。

五教時 児童会、係活動の指導を行う。

午後三時から午後四時すぎ 職員会議。この際の主要なテーマは、同月二四日に予定されている卒業式関係であり、前日の夜から朝にかけて橡隼が作成した資料に基づいて協議がなされた。この資料は、相当ボリュームのあるものであった。

午後四時すぎから 校務処理を行う。

午後六時三〇分 帰宅し、夕食、入浴の後三〇分程度休憩する。

午後八時から翌日午前四時ころまで学校関係文書を作成する。

午前四時過ぎ 就寝

(7) 同月三日(金)

午前七時 起床

午前七時三〇分 出勤し、クロスカントリースキーの練習コースを設営し、児童を指導し、スノーモービルを格納し、職員朝会に出席する。

午前八時二五分 発表朝会(高学年対象)

一教時から四教時 国語、社会、体育、算数の教科指導を行う。

午後一二時二〇分から午後一時まで給食指導を行う。

五教時から六教時 理科、国語の教科指導を行う。

午後四時 町教育委員会で開かれたスポーツ貢献賞審議会に参加する。

午後五時三〇分ころ 喜茂別町冬まつりレクリエーションの会場準備の状況を見分する。

同町中井旅館で開かれていた喜茂別町社会教育委員会・体育指導委員会の合同会合に参加する。

午後九時ころ 帰宅し、入浴する。

午後九時三〇分 就寝

以上のうち、学校関係文書作成事務については、いずれも、この時期××小学校にとって最重要の学校行事である卒業式にかかわる文書であり、作成に緊張を要するものであった。また、上記の文書の中には、同じ文字の繰り返しが印字されており(例えば、甲40の四枚目「ここここことと」、同五枚目「ののののにより」等)、これは、文書作成中、橡隼が疲労で眠りに落ちたことを窺わせる。

(七) 本件発症当日(平成元年三月四日)の業務について

橡隼は、いつもどおり、午前七時三〇分に出勤し、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事したが、途中で雨が強くなったため、当日の練習を中止することとし、設営作業を止めた。さらに、橡隼は、当シーズンの練習を終了させることとし、コースに設置してあった四本のポールを集めて物置に収納し、重さ約五〇キロのコースカッターを一人で持ち上げてスノーモービルに積んで、物置の前まで運び、物置の前で待機していた久恒教諭と二人でカッターを降ろして所定の位置に戻し、重さ約二〇〇キロのスノーモービルの方向を二人で一八〇度転回させるなどして格納した。コース設営作業が重労働であることは、前述したとおりであるが、当日は、さらに重さ約五〇キロのコースカッターを一人で持ち上げるという作業もしており、身体的負荷はいっそう大きかったといえる。橡隼は、この直後に、心筋梗塞の発作を起こした。

(八) まとめ

橡隼は、本件発症一週前までの業務による肉体的精神的負担により過労状態になっていたところ、平成元年三月二日及び三日の未明に及ぶ教育関係文書作成による負荷、本件発症当日の早朝、低温下の雨中における練習コース設営作業等による負荷が加わり、本件発症直前には過重負荷の状態に至っていたものであるから、本件発症前の橡隼の公務は過重負荷であったというべきである。

(被告)

(一) 橡隼は、教職歴三五年のベテラン教師であり、小規模学校での経験も豊富であった。××小学校は、教員四名に児童九名であり、他の小学校に比しても教員の受持ち児童数は極めて少なく、複式学級制とはいえ、教員の負担は通常学校に比して軽いものであった。また、同小学校は、児童数が少なく、児童の性格も従順なため、全校的に和やかで家庭的雰囲気にあふれており、都会校あるいは大規模学校にみられるような非行問題、進学問題等の懸案事項もなく、生徒・父母・教員の関係も良好であり、橡隼の公務は、決して過重なものではなかった。PTA関係の活動について、甲野校長が不熱心であった事実はなく、校外活動については、橡隼が自主的に参加していたもので、公務ではない。その他、スポーツ活動への積極的な取組や、特別活動については、他の教員も担当していたものであり、校内分掌も、橡隼が単独で担っていたのは、町費関係係、職員厚生係のみであり、他は甲野校長又は久恒教諭と共同で担当しており、他の小学校に比して決して過重なものではなく、実際に行っている具体的校務は、教員としての職務に随伴する通常業務として予定された範囲内のものであった。

(二) 本件発症の約一年前からの業務について

町内ジュニアマラソン大会(昭和六三年五月二九日)及び小学校陸上競技大会(同年七月六日)について、橡隼がこれらの大会のために具体的にどのような職務を行ったか、記録上明らかではない。また、仮に原告主張のとおり橡隼が連日業間体育においてマラソンの指導をしていたとしても、もともと××小学校の日課として、月曜から金曜の毎日午前一〇時一五分から三五分までの間は業間体育と定められていたのであるから、通常の授業であり、上記の各大会の準備のため数回程度会議が開かれたとしても過重な職務とはいえない。宿泊学習(同月七、八日)、音楽交歓会(同年一〇月一五日)、学芸会(同年一一月六日)については、年間学校行事の中で当初から予定されており、他の学校においても見受けられる行事である。そのための準備もあらかじめ予定され、全教員が行っているものであり、これらの行事に参加することは教員としての通常業務であって、何ら特段の負荷を伴うものではない。PTA海水浴(同年七月二六日)については、橡隼が参加したこと自体明らかでないが、いずれにしても、一日の海水浴で過重な負荷が生ずることはあり得ない。原告は、橡隼が参加した活動として三世代交流レクリエーション(同年七月三一日)、スポーツ少年団サイクリング(同年八月一〇日)等を挙げているが、これらについては、実施されたこと自体明らかでなく、仮に実施されていたとしても、橡隼がその職務上行ったものではなく、公務の過重性と何ら関連がない。また、校外教育活動は、橡隼が個人として自由な意思で参加していたものであるから、公務ではない。

(三) 本件発症の約三か月前からの業務について

この間の橡隼の出勤状況をみると、昭和六三年一二月は出勤日数二五日、特別休暇二日(三〇日、三一日)であり、平成元年一月は出勤日数二三日(うち自宅研修五日)、特別休暇一日(三日)であり、同年一二月二七日から平成元年一月二〇日までは、冬季休校期間であり、通常の学校業務はなかったのであるから、このころの業務が過重であったとはいえない。そして、橡隼は、おおむね午前七時三〇分ころ出勤し、午後五時ころ退勤するという通常の勤務状態に終始しており、学校におけるカリキュラムも特段の変化はなく、何ら肉体的精神的負荷を受け、あるいは疲労を蓄積するような状態にはなかった。

原告が主張する橡隼の休日における諸活動は、それを裏付ける客観的資料が存在せず、その内容も明らかでないが、仮に原告の主張どおりであったとしても、公務の過重性と関連がない。すなわち、校下地区新年会(昭和六四年一月一日)、成人式(同月一五日)は、何ら職務とは関係がなく、その出欠は全くの任意であり、スポーツ少年団の引率(昭和六三年一二月二五日、平成元年一月二二日)も、同団体は地域の少年を対象とした任意団体であり、その加入、構成も自由であって、職務として活動が義務づけられているわけではない。さらに、スポーツ少年団研修会(平成元年一月二九日)等の参加についても職務として行われたものではない。

昭和六三年一一月ころから本件発症当日まで、早朝のクロスカントリースキーの練習のため、橡隼ら教職員がコース設営作業をしていたが、コースの設営作業は、人力ではなく雪上をコース設営用カッターを牽引したスノーモービルで運転走行するというものであり、比較的単純な作業であって、所要時間も約一五分ないし二〇分にすぎず、同僚の久恒教諭も共同で行っていたのであるから、過重な業務とはいえない。

(四) 本件発症の約一か月前からの業務について

平成元年二月の橡隼の出勤状況は、出勤日数二二日、年次休暇三時間というものであり、特に過重とはいえない。

原告は、学年末行事及びスキー学習等の業務について過重性を主張するが、学年末行事は、小学校で一般的に行われるものであり、また、スキー学習等は、北海道においては他の小学校でも通常行われ、××小学校でも毎年実施される通常の行事であり、橡隼以外の他の教職員もこれらに関する業務を担当していたのであるから、これらに関する業務は、通常の業務にすぎず、その質、量に照らし、特に過重であったとはいえない。喜茂別町生涯教育セミナー(同年二月五日)、喜茂別クロスカントリー大会(同年二月一一日)、道民スポーツ冬季大会(同年二月二六日)等への参加は、職務として行われたものではない。

(五) 精神的ストレスについて

教頭は、校長を補佐する職務を負っているが、かかる職務は抽象的なものであって、橡隼が教頭であるがためにしていた具体的職務はない。また、甲野校長が、教育活動やPTA活動に不熱心であったという事実はない。仮に、橡隼がそのような印象を抱いたとしても、職場における人間評価の一端にすぎず、そのことにより特段の精神的ストレスを生じるという事柄ではない。××小学校は、児童の性格が従順で、非行、進学等の問題もなく、父母、教職員間の関係も良好で、教職員が精神的ストレスを抱くような職場環境ではなかった。

(六) 本件発症前一週間の業務について

橡隼の本件発症前一週間の業務は、以下のようなものであり、教職員の日常業務として極めて一般的なものであり、何ら特段の過重負荷を受けるものではない。

(1) 平成元年二月二五日(土)

午前七時三〇分ころ出勤し、一教時から三教時まで校務事務を行い、午前一一時三〇分ころに退勤した。

(2) 同月二六日(日)

出勤しなかった。

(3) 同月二七日(月)

午前七時三〇分ころ出勤し、一教時から五教時まで校務事務を行った後、小学校体育振興会理事会に出席し、帰校した後、午後五時ころ退勤した。

(4) 同月二八日(火)

午前七時三〇分ころ出勤し、一教時から六教時まで校務事務を行い、午後五時ころ退勤した。なお、この日は、新一年生の一日入学が行われた。

(5) 同年三月一日(水)

午前七時三〇分ころ出勤し、一教時から六教時まで校務事務を行い、午後五時ころ退勤した。

(6) 同月二日(木)

午前七時三〇分ころ出勤し、一教時から五教時まで校務事務を行い、六教時に職員会議に出席した後、午後五時ころ退勤した。

(7) 同月三日(金)

午前七時三〇分ころ出勤し、一教時から六教時まで校務事務を行った後、午後四時ころ町スポーツ貢献賞審議会に出席するため退勤した。

なお、原告が、この間に行われたと主張する学校関係文書作成は、そもそもそのような事実が認められないが、仮にその事実があったとしても、業務に要した時間の特定や業務の過重性については、成果物をもとに合理的に推認する必要があるところ、上記各文書は、ほとんどが案内文書等の定型文書であり、その分量も多くなく、これらの成果物から合理的に推認すれば、その作成業務が過重であったとは到底いえない。また、仮に原告主張のとおり上記各作業が行われたとしても、橡隼は、三月一日、二日は、学校内においては通常どおりの業務を行っていたにすぎず、翌三日には、午後九時三〇分に就寝して十分な睡眠をとっていたのであるから、本件発症当日である翌四日の朝までには体力は回復されていたものというべきである。多少疲労が残っていたとしても、心筋梗塞の発症をもたらすほどのものであったとはいえない。

(七) 本件発症当日の業務について

コースカッターは、元来一人で持ち上げられる程度のものであり、また、持ち上げる作業は一時的なものにすぎず、コースカッター及びスノーモービルの物置への格納作業は久恒教諭と共同でしており、特段の加重負荷とはいえない。

3  公務起因性について

(原告)

橡隼は、過重な公務による心理的・肉体的ストレスにより、冠動脈の動脈硬化が促進されていたところ、本件発症直前の未明に及ぶ文書作成作業、本件発症当日に受けた寒冷ストレス及び身体的負荷により、交感神経系が亢進し、冠状動脈が攣縮し、血管の内径が狭小化して、心筋梗塞を起こしたものである。

すなわち、心身の疲労は、自律神経系の身体機能の恒常性維持機能を低下させて自律神経系の異常な亢進を引き起こすが、この疲労によるストレス、自律神経系の亢進は、動脈硬化を促進する要因である。そして、橡隼が心身ともに疲労状態に陥っていたことは、昭和六三年八月五日、疲労によって発症する頚腕症候群と診断されていること、齋藤教諭らに対して疲労を訴え、学校の常備薬を服用するなどしていたこと、平成元年二月以降、朝食の機会に嘔吐することが三度あったことから認められ、前記のような公務の過重性に鑑みれば、かかる疲労が、公務によるものであることは明らかである。したがって、公務による疲労が、橡隼の動脈硬化を促進していたとみるべきである。さらに、自律神経系の亢進は、血管廉縮を招くものであるところ、本件発症当日、早朝の血圧が上昇する時間帯(モーニングサージ)に、数十分にわたって寒冷ストレス(交感神経系の亢進を助長するもの)にさらされ、重さ約五〇キロのコースカッターを単独で運搬し、重さ約二〇〇キロのスノーモービルを二人で転回させるという強度の身体的負荷を受けたことにより、橡隼の冠状動脈は廉縮し、血管の内径が狭小化して血流が阻害され、心筋梗塞に至ったと考えられる。

これに対し、被告は、橡隼は、本件発症当日までに、高度の動脈硬化症に陥っており、既に形成されていた粥腫がいつ破綻してもおかしくない状態に至っており、たまたま本件発症当日に粥腫が破綻したために心筋梗塞が発症した旨主張するが、橡隼の基礎疾患の程度に照らして、かかる主張は受けいれ難い。すなわち、橡隼は、喫煙習慣があり、総コレステロール及び中性脂肪(トリグリセライド)は、正常値を上回っていたものの、著明ではなく、その他に高血圧症、糖尿病、高尿酸血症、アルコール性肝障害等、冠動脈硬化を促進させる危険因子が認められず、本件発症以前に狭心症等を発症したこともなかったものであり、高度の動脈硬化症に至っていたとは考え難い。仮に、橡隼が、当時、高度の動脈硬化症に至っていたとすれば、それは、公務による疲労、ストレスによって自然的経過を超えて促進されたものと考えるべきであり、いずれにしても本件発症は公務に起因するものというべきである。

(被告)

法による補償責任は、使用者の過失の有無に関わりなく負うものであるから、公務の遂行に際して発生した災害のうち、その責任を使用者たる地方公共団体に帰属させるべきか否かを適正かつ客観的に判断するべきであり、公務と災害との間に相当因果関係がある場合に限って公務起因性を認めるべきである。そして、脳心疾患は、職業と無関係に加齢や日常生活における諸々の発症要因により増悪して発症に至ることが多いといえるから、かかる疾患に公務起因性が認められるためには、使用者の支配下にあったことを単なる機会原因として発症したというだけでは足りず、当該公務に従事していたことの必然的帰結として生じたことが必要である。

本件発症の心筋梗塞については、最近の医学的知見によると、動脈硬化症による粥腫(プラーク)の形成、破綻による血流阻害によって発症するものとされているから、橡隼は、本件発症前に高度の動脈硬化症による粥腫形成に至っていたと考えるべきである。そして、この粥腫の形成は、高血圧症、高脂血症、喫煙、糖尿病、高尿酸血症、年齢、家族歴、肥満、ストレス、A型性格、運動不足、性別(男性)等様々な因子により時間的経過を経て進行するものであるところ、橡隼は、本件発症当時五五歳であり、長期にわたる喫煙習慣を有しており、肥満度は5.9パーセント(昭和六三年七月現在)と高く、コレステロールは、正常値一二〇ないし二二〇mg/dlのところ、二四八mg/dl(昭和六二年)ないし二四五mg/dl(昭和六三年)と高く、要治療の一歩手前であり、中性脂肪は、正常値五〇ないし一四〇mg/dlのところ、一五五mg/dl(昭和六二年)ないし一七九mg/dlと高く、これらの危険因子が時間的経過の中で徐々に動脈硬化を進行させ、本件発症当日までに既に粥腫が形成されていたものと推認される。そして、形成された粥腫は、特段の負荷を要せず、日常動作の中でいつでも破綻する危険性を有しているものであるから、粥腫の破綻が、本件発症当日のクロスカントリースキーの練習コース設営作業等により生じたということはできない。したがって、本件発症は、公務に起因するものではなく、公務が機会原因になっているものにすぎない。

第三  当裁判所の判断

一  公務の過重性の有無・程度

1  前記前提事実に証拠(甲4ないし34、37ないし80、85ないし87、93の1、2、乙3、証人齋藤豊子、証人久恒重尚、原告本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、以下の事実が認められる。

(一) 校内における教育活動等

(1) ××小学校における昭和六三年度の教職員は、甲野校長、教頭の橡隼、斎藤教諭、久恒教諭の四名であったが、甲野校長は同年四月に赴任したばかりであり、久恒教諭は新任であった。

橡隼は、教頭として校長を補佐し校務を整理するとともに、校長に事故のあるときはその職務を代理・代行する立場にあり、教育活動及び校内事務全般を円滑に運営する職務を担うとともに、三、四学年(児童三名)の学級担任をしていた。そして、橡隼は、校務分掌として、環境美化係、校内外研修係、庶務係、職員厚生係、PTA・社会教育関係係、スキー学習補助係、「私たちの広場」編集発行責任者等の割当を受けていた。

××小学校における勤務時間は、午前八時五分から午後四時五〇分(土曜日は午後〇時五分)までであり、休憩時間は四五分間であったが、橡隼は、通常、午前七時三〇分に出勤し、午後五時三〇分ないし午後六時ころに退勤していた。

(2) 授業は四五分間で、月曜日、火曜日、水曜日、金曜日は各六教時、木曜日は五教時、土曜日は三教時(うち一教時はクラブ活動)であり、橡隼は、このうち、三、四学年の授業を週二十数教時担当するほか、業間体育指導(毎日午前一〇時一五分から午前一〇時三五分までの間に児童に体育を指導)、生活指導(心の広場)、通知票作成等をしていた。

また、××小学校においては、児童の体力づくりのため、昭和六三年五月から同年一〇月ころまで毎日、早朝マラソンをさせ、同年一一月中旬ころから毎日、授業開始前、業間体育時間帯及び放課後にクロスカントリースキーの練習をさせていたが、橡隼は、児童の指導をするほか、久恒教諭とともに練習コースの設営作業に当たっていた。久恒教諭が新任であること、橡隼の方が通勤時間が短いことなどから、七割方は橡隼が上記設営作業に従事した。橡隼は、出勤時刻前の午前七時三〇分に登校して前記の指導や作業に当たった。

(3) その他の校内行事への参加

橡隼は、以上のほかに、別表の校内行事欄記載のとおり、運動会、町複式集合学習、宿泊学習、習字学習、写生会、学芸会、読書会(親子読書の会)、版画カレンダー製作、授業参観、スキー学習、校内スキー大会、町内スキー大会等の校内行事に携わった。

(二) PTA行事及び校外教育活動

××小学校は、児童数が少なく、PTAの支えや協力なくして重要な教育活動ができない状況であり、教員にとって、PTAと意思疎通を図るためにもその関係活動に参加することは重要であり、橡隼は、別表のPTA行事欄記載のとおり、PTA理事会、PTA指導者研修会等のPTA関連活動に出席した(ただし、飲食の伴う新年会、観桜会等は公務とは認められない。)。

××小学校の属する喜茂別町は、町ぐるみの生涯学習として町と学校が連携し又は一体となって教育活動を実施しており、橡隼は、別表の校外教育活動欄記載のとおり、水泳教室、少年教室、ジュニアマラソン大会、小学校陸上競技大会、町民ラジオ体操会、ジュニアリーダー養成講習会、読書感想文・感想画コンクール(審査委員)、親子読書の集い等の教育活動に参加したほか、喜茂別町が実施する生涯教育セミナー「きもべつ」の企画運営委員会の健康・福祉増進専門委員会の体育指導委員として、別表の校外教育活動欄記載の諸活動に参加した。また、喜茂別町内の小中学校の教員らは、喜茂別町教育研究会、小学校体育振興会、町内音楽交歓会等をつくり、それらの活動を通じて、同町の提唱する生涯学習の実践に努めており、橡隼も、別表の校外教育活動欄記載のとおり、これらの活動に参加した。さらに、喜茂別町で活動する各種スポーツ少年団は、生涯学習の一端を担う活動をしているものであり、橡隼は、××地区スポーツ少年団事務局長、喜茂別町ジュニアアルペンスキー少年団の指導員として別表の校外教育活動欄記載の諸活動に参加した。

そのほか、橡隼は、別表の校外教育活動欄記載のとおり、教頭会議、複式教育研究会、町経理担当者会議、喜茂別郷土学習帳編集委員会、学校開放運営委員会、スポーツ貢献賞審議会等の諸活動に参加した(以上の校外教育活動は、××小学校の教育活動に密接に関連するものであり、おおむね同小学校の教員業務分担一覧表(甲47)及び学事報告(甲50)に記載されていたものであるから、公務に該当するものと認められる。形式的には一応参加するか否かは自由とされていた活動ないし行事が少なくはないけれども、そのことのみをもって公務でないと判断することはできない。それに対し、夏期休校中のラジオ体操会への参加、成人式への出席は公務とは認められない。)。

(三) 昭和六三年四月から平成元年一一月中旬ころまでの勤務状況

橡隼は、昭和六三年四月から前記のような様々な教育活動に従事しており、年度当初はマラソンの指導に力をいれ、比較的多く開催される校外教育活動にも積極的に参加するなどした。

ところで、教頭は、校務全般にわたって校長を補佐するとともに、校長と一般教職員との調整、校長とPTA及び地域との調整を図らなければならず、比較的精神的緊張を強いられる立場にあった。橡隼は、着任一年目の昭和六二年度は、地元の事情に精通した外山俊彦前校長の指導や援助もあって(外山前校長は、教頭職の負担が過大であることに配慮して、教頭担当の授業の一部を引き受けたり、学校から各家庭に配布される文書を自ら作成するなどしていた。)、比較的スムーズに教頭の職責を遂行した。しかし、甲野校長は、おおむね校務全般について消極的であり、PTAや地域との交流活動には橡隼が××小学校を代表して参加することが少なくなく、PTAや地域住民から批判が生じた。同年六月ころには、町内の校長会議が開催されるに当たり、甲野校長は、橡隼から事前の打合せの申入れを受けたが、並行して開催される教頭会議と協議内容が同一であるから、今後一切その必要がないとして事前打合せを拒否した。また、××小学校においては、管理職である校長又は教頭が、学校に隣接する一戸建ての公舎に居住し、学校施設の維持管理に努めており、土曜日の授業がない時間帯及び日曜日は、いずれかが公舎又は周辺地域に滞在し、夏期休校期間及び冬季休校期間は、日曜祝日及び昭和六三年一二月三〇日から昭和六四年一月三日の五日間を除いて、いずれかが出勤するか、周辺に滞在することになっていたが、甲野校長は、週末や休校期間中に江別市の自宅に帰り、公舎を離れることが多く、必然的に橡隼が出勤するか、公舎又は周辺地域にとどまる結果となり、同年度の夏期休校期間中もほとんど出勤していた。甲野校長は、昭和六三年六月中旬から同年九月ころまでの間、公舎の建替えに伴い、町内の借家から通勤していたが、定刻より遅く出勤し、定刻より早く退勤することが目立った(甲野校長は、同年八月二六日、翌日の第六回町P連役員研修総会にそなえ、PTAがその準備をしてくれているのに、午後四時四八分のバスで帰宅したため、齋藤教諭から不満が出たりしたことがあった。)。橡隼は、以上のような甲野校長の出退勤状況や帰省状況等について、昭和六三年七月三一日の出来事から自己の予定表に書き留めておくようになった(例えば、甲野校長は夏期休校中の昭和六三年七月三一日から同年八月三日までの間、橡隼に連絡することなく釧路市に出かけ、同月八、九日には日直であるにも拘わらず江別市の自宅に草取りに行くとして出勤せず、同月一三日から同月一六日までの間、江別市及び小樽市に出かけたりしたこと等が記載されている。)。

橡隼は、甲野校長に代わってする仕事が増え、同校長との対応にも苦慮するようになり、同年七月には、外山前校長を訪ね、学校運営に対し甲野校長の協力が得られず、困っている旨の悩みをうち明けた。橡隼は、従前、風邪引きの場合を除き医者とは無縁の生活をしていたが、そのころからしばしば頭痛を訴え、学校の常備薬を服用するようになった。また、同年八月五日には加療一か月を要する頚腕症候群の診断を受けた。

(四) 昭和六三年一一月中旬ころから平成元年二月下旬ころまでの勤務状況

橡隼は、その後も、甲野校長との関係を含めて従前と同様の勤務振りであったが、昭和六三年一一月中旬ころからは、それに加えてクロスカントリースキーの指導と練習コースの設営作業が始まった。練習コース設営作業は、スノーモービルを学校校庭隣接地に走らせ、スノーモービル約四台分(約四メートル)の幅で長さ四〇〇ないし五〇〇メートルのコース予定場所を最低一二周して圧雪し、その上をスノーモービルで牽引したカッターで二周し、本コースと追い越しコースを分けて作り上げた後、スノーモービルを校庭の隅の物置に収納するというものであったが、これは、早朝の寒冷の中、スノーモービルに乗って顔面に雪を受けながら走行したうえ、スノーモービルを格納する際は、スノーモービルが旧式でバック走行ができず、重量も二〇一キロと重いため、スノーモービルの前方を少し持ち上げて、わずかずつ横にずらしながら後方を動かす作業を繰り返してスノーモービルの向きを一八〇度変え、前方が出口に向くように据え置くというものであり、五五歳の橡隼にとっては重筋労働であった。××小学校のあった地域では、雪が降らないことはほとんどないため、練習コース設営作業はほぼ毎日行う必要があり、クロスカントリースキーの練習は、早朝のみならず、業間体育時間帯又は放課後にも行われていたため、一日数回コース設営作業をしなければならないこともあった。コース設営作業は、昭和六二年度は久恒教諭の前任者である樋原教諭が中心になって行っていたが、前記のとおり、昭和六三年度は橡隼と久恒教諭がこれを担当し、その七割方は橡隼がしていた。

橡隼は、同年一二月には、別紙PTA行事欄及び校外教育活動欄記載のとおり、多くのPTA行事及び校外教育活動に参加したが、この中には勤務時間外になされたものも少なくなかった。また、橡隼は、三学期が開始された平成元年一月二一日以降は、別表の校内行事欄及び校外教育活動欄記載のとおり、戸外におけるスキー学習や校外教育活動としてのスキー指導等に従事した。この間の冬季休校中も、年末年始(昭和六三年一二月二八日、同月二九日には習字教室を指導し、昭和六四年一月二日には落雪のため教室の窓ガラスが破損し、その処理をした。)を含めてほとんど出勤した。甲野校長は、冬季休校が始まるや、橡隼に連絡することもなく、江別市の自宅に帰省し、平成元年一月八日まで戻らなかった(ただし、同月五日の新年会には出席した。)。甲野校長は、校内スキー大会が行われた同年二月一八日に年休を取って欠席したため、PTAから強い批判を受けた(なお、甲野校長は、原告の公務災害認定請求に関して、橡隼の勤務状況を明らかにするための資料として学校日誌(甲12)の写し(甲80)を提出したが、昭和六四年一月一日から平成元年二月二八日までの日誌の写しを作成する際、日番欄に「松本橡隼」と記載されているのを「甲野太郎」と書き改めたり(昭和六四年一月五日、同月六日)、逆に学校日誌の日番欄が空白となっている箇所に「甲野太郎」と書き込んだり(平成元年一月一五日、同月二二日、同月二九日、同年二月五日、同月一一日、同月一二日、同月一六日、同月一九日、同月二三日、同月二六日)、甲野校長の学校不在を理由づけるための「傷病 学校長 九:〇〇〜」(同月一三日)「年休 学校長」(同月一八日)の記述をしたりするなど、自己の執務状況を正当化するための改ざんをしているものであり、このことは、甲野校長が学校日誌の記載により自己の職務怠慢状況が知れることをおそれたことを推認させる。)。

ところで、××小学校PTA副会長の磯田喜春は、PTA活動等を通じて橡隼と接触することが多かったが、昭和六三年末ころ、橡隼が脂汗をかき疲れている様子であったことから、橡隼に対し、休暇をとって休息するように進言した。しかし、橡隼は、「休みたくても休めない」などと答えた。そこで、磯田は、昭和六四年一月四日、喜茂別町教育委員会に電話をかけ、「松本教頭は体調が非常に悪いようなので、教育委員会からも病院に行くように勧めて下さい。」という旨の要請した。これを受けて、同委員会の委員長は、翌五日、××小学校を訪ね、橡隼と面談し、甲野校長との関係等についても聴取したが、結果的には「もう少し我慢してほしい。」と述べたにとどまり、橡隼は、その対応に落胆した。橡隼は、平成元年一月下旬ころから、齋藤教諭に対し、体調の不良を訴えることが多くなり、同年二月一〇日ころから、朝食後に嘔吐することが続いた。その様子を見て心配した原告や齋藤教諭は、橡隼に診察を受けることを勧めたが、橡隼は、職務が繁忙であるため、通院することはなかった。なお、橡隼は、昭和六三年度の年休として、同年四月一八日に三時間、同年六月一六日に五時間、同年八月二四日に二時間、同年一一月一五日に四時間、平成元年二月一〇日に三時間(親戚の結婚式出席のため)とったのみであった。

(五) 発症一週間前の勤務状況等

(1) 橡隼が心筋梗塞を発症した平成元年三月四日から一週間以前の勤務状況は、次のとおりであった。

(二月二五日(土))

・午前七時三〇分に出勤、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、児童に練習の指導

・同八時二〇分から職員朝会、一教時から三教時までの授業

・その後、日番勤務

・午後三時すぎ帰宅

・午後七時ころから同一〇時三〇分ころまで学校関係文書作成

・午後一〇時三〇分ころ就寝

(二月二六日(日))

・午前七時ころに自宅を出て、学校の全児童を引率して道民スポーツ後志大会(ルスツ高原スキー場)に参加

・午後三時三〇分ころ帰宅

・午後七時ころから午後一〇時三〇分ころまで学校関係文書作成

・午後一〇時三〇分ころ就寝

(二月二七日(月))

・午前七時三〇分に出勤、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、児童に練習の指導

・同八時二〇分から職員朝会、一教時から六教時までの授業

・午後三時から第八回小学校体育振興会理事会(双葉小学校)に出席

・午後五時三〇分ころ帰宅

・午後八時から午後一〇時ころまで学校関係文書の作成

・午後一〇時三〇分ころ就寝

(二月二八日(火))

・午前七時三〇分に出勤、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、児童に練習の指導

・同八時二〇分から職員朝会、一教時から六教時までの授業

・午後五時三〇分ころ帰宅

・午後八時ころ就寝

(三月一日(水))

・午前七時三〇分に出勤、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、児童に練習の指導

・同八時二〇分から職員朝会、一教時から六教時までの授業

・午後六時ころ帰宅

・午後八時ころから翌朝五時ころまで学校関係文書作成、仮眠もとれないまま出勤準備

(三月二日(木))

・午前七時三〇分に出勤、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、児童に練習の指導

・同八時二〇分から職員朝会、一教時から四教時までの授業

・午後三時から職員会議

・午後六時三〇分ころ帰宅

・午後八時ころから翌朝四時ころまで学校関係文書作成

・その後三時間程度睡眠

(三月三日(金))

・午前七時三〇分に出勤、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、児童に練習の指導

・同八時二〇分から職員朝会、一教時から六教時までの授業

・午後四時から町スポーツ貢献賞審議会出席

・午後六時から町社会教育委員及び体育委員による合同会議

・午後九時三〇分ころ就寝

(2) 自宅における学校文書関係作成作業について

橡隼は、職務上、学校関係文書作成、特に対外的案内文書、依頼文書等を作成することが多かったが、平成元年二月以降は、学年末を控え各種の行事が開催されるのみならず、自ら平成元年四月に異動が予定されていたため同月以降に予定される行事の関係文書をも作成する必要があり、多くの学校関係文書の作成に追われていた。橡隼は、自宅に常置している電動タイプライターと持ち運びできるワープロを使用して文書作成作業に当たっていた(ワープロの方は、購入して間がなかったため、急いで文書を作成する必要がある場合には、使い慣れた電動タイプライターで文書を作成していた。)が、学校内では授業やその他の教育活動があるため十分に文書作成ができず、帰宅後や休日に自宅で文書作成作業をするのが常態となっていた。橡隼は、発症一週間前から(二月二八日を除き)、PTA総会スポーツ少年団後援会案内文書、第六七回卒業証書授与式等の案内文書及び関連文書等の作成に追われ、特に平成元年三月一日及び同月二日には徹夜又は徹夜に近い状態で卒業証書授与式等の実施要項等の作成に当たった(被告は、橡隼が平成元年三月一日、二日に徹夜又は徹夜に近い状態で学校関係文書作成作業に当たった事実は認められない旨主張するけれども、原告本人は、被告に対する公務災害認定の請求段階から一貫して前記認定に沿う明確な供述をしており、橡隼は、当時、相当多数の学校関係文書の作成に追われており多忙であったこと、残された電動タイプライターのリボンを分析すると、同日作成されたと思われる文案に同一文字の繰り返しが散見され、橡隼が強い眠気をおして作業に当たったことが窺われること等に照らし、原告本人の供述は十分に信用することができるものといえるから、被告の主張は採用することができない。また、被告は、同日橡隼は徹夜又は徹夜に近い状態でなくとも文書作成することができたものであるから、公務としての必要性がなかった旨主張するけれども、五五歳の橡隼がその必要性もないのにあえて徹夜又は徹夜に近い状態で文書作成に当たったとは考えられないから、被告の主張は採用することができない。)。

(六) 発症当日である平成元年三月四日の状況

橡隼は、発症当日である平成元年三月四日も、いつもどおり午前七時三〇分に出勤した。当時は、摂氏二度程度であり、霧雨が降っていた。橡隼は、前記のとおり、校舎見回りの後、クロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、スノーモービルに乗って何周かコースを回ったが、降雨が強くなったため、当日の練習のみならず今シーズンの練習を終えることを決め、重さ約五〇キロのコース設営用カッターを独力で持ち上げてスノーモービルにのせ、左手でカッターが落ちないよう抑えながら、立ったまま右手ハンドルでスノーモービルを運転して、物置付近まで進み、物置のそばに待機していた久恒教諭の力を借りてカッターを運び、物置の横に立てかけた。そして、再びスノーモービルを運転してコースに戻り、コース周辺のポールを回収した後、スノーモービルを物置の中まで入れ、久恒教諭とともに重さ二〇一キロのスノーモービルを少しずつ動かしながら前方が出口に向くように一八〇度回転させ、格納を終えた。

橡隼は、その後の午前八時一〇分ころ、職員室に入ると、急に激しく咳き込み、苦しみながら自宅に電話をかけ、原告に対し、同居する原告の母親が服用していた救心を持ってくるように指示した。橡隼は、顔面蒼白で、顔から首にかけて脂汗をかきながらも、自分の机の椅子に座り、かけつけた原告に対し、職員朝会に出席する意思を示したが、容態が悪化したため、救急車を呼ぶことに同意し、間もなく急行した救急車で倶知安厚生病院に運ばれた。

2  以上の認定事実を総合すると、橡隼は、昭和六三年四月以降、教頭として勤務時間内の職務のみならず、勤務時間外のマラソン及びクロスカントリースキーの指導等の校内外の教育活動、PTA活動等に従事するとともに、PTA及び地域との活動等に熱心でない甲野校長をカバーするため、これらの活動に出席したり、休日に待機したりするなどの余分な仕事を余儀なくされ、甲野校長と職務上対立したことも加わって、既に同年七月ころにはストレスを感じるようになり、その後もこれが高じていたところ、同年一一月中旬以降は、寒冷の中、ほとんど連日にわたり、勤務時間前に重筋労働といえるクロスカントリースキーの練習コース設営作業をしたうえ、児童に対する練習の指導をし続け、平成元年一月二一日以降は、これに加えて勤務時間内とはいえ戸外で実施するスキー学習の指導に従事し、かつ、休日には校外教育活動としての冬季スポーツの指導に当たり、次第に疲労が蓄積するうち、学年末及び異動期の繁忙期を迎え、同年三月一日及び同月二日には自宅において徹夜又は徹夜に近い状態で学校関係文書作成作業をしたため、重度の疲労状態に陥り、同日三日は通常の勤務で終わったものの、疲労の回復が十分でないまま、同月四日、いつもどおり、重筋労働であるクロスカントリースキーの練習コース設営作業に従事し、しかも、雨の中、重いカッターをスノーモービルにのせてこれを左手で抑えながら右手でスノーモービルを運転するという緊張を要する作業を強いられたものであるから、本件発症直前には、五五歳の橡隼にとって肉体的精神的にかなりの過重負荷の状態に至っていたものと認めるのが相当である。

二  公務起因性の有無について

1  前記のとおり、「職員が公務上死亡した場合」(法三一条)とは、職員が公務に基づく負傷又は傷病に起因して死亡した場合をいい、負傷又は傷病と公務との間に相当因果関係のあることが必要である。心筋梗塞等の虚血性心臓疾患は、加齢や日常生活における危険因子により基礎疾患が生じ、これが自然的経過の中で進行することによって発症し得る疾病である。したがって、虚血性心臓疾患が公務に起因するといえるためには、公務による過重負荷により基礎疾患が自然的経過を超えて悪化し虚血性心臓疾患を発症したものでなければならない。以下、これを本件について検討する。

2  証拠(甲2、3、34ないし36、75ないし77、79、81ないし84、90ないし92、93の1、2、乙4ないし15、証人齋藤豊子、同久恒重尚、同若葉金三、同飯村攻、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(一) 心筋梗塞は、冠動脈の血流障害により心筋への血液の供給が絶たれて心筋が壊死する病状をいい、心筋の壊死により様々な心臓の障害(突然死、心機能障害、心不全、不整脈等)を発症する。冠動脈の血流障害は、その内壁に粥腫(アテローム)が形成され(動脈硬化)、これが破れて内容物が血液と接するなどして血液が凝固し、血栓が形成されることによって生じる。医学的に未解明な部分があるものの、粥腫形成を促進させる因子としては、高血圧、糖尿病、高脂血症、遺伝的体質、男性、年齢、喫煙、肥満、運動不足、長期間の継続的ストレス等があるといわれている。

また、破綻しやすい粥腫の特徴として、粥腫の中の脂質コア(コレステロールエステル)の量が多く、柔らかいこと、粥腫を覆う線維性皮膜が薄いこと、マクロファージ等の炎症細胞が粥腫の膜に強く浸潤することなどが挙げられ、粥腫の破綻には、血行動態的外力による物理的要因やストレスの関与も考えられ、血管攣縮や炎症細胞の浸潤等により浮腫が生じて粥腫内圧が上昇して破綻が生じやすくなるともいわれている。ストレスが粥腫の破綻に関与する機序としては、ストレスが交感神経系を刺激してカテコールアミンの分泌を促し、血圧上昇、血小板凝集能の亢進、血管攣縮をもたらし、粥腫の破綻を促進させるものと考えられている。心筋梗塞発症時の状態は、睡眠中が約二〇パーセント、約三〇パーセントが安静時であるとされているが、発症前の状態を調べると、疲労、睡眠不足、激務、その他過度なストレスがあったことが多いといわれている。なお、早朝の時間帯は交感神経系が亢進するため、覚醒後三時間(モーニングサージ)の間に心筋梗塞が発症しやすいといわれている。

(二) 定期健康診断結果によると、橡隼は、血圧は正常範囲内(昭和六〇年七月八日・一二〇〜八〇mmHg、昭和六一年七月七日・一三四〜八六mmHg、昭和六二年七月八日・一二二〜八六mmHg、昭和六三年七月一四日・一二八〜九〇mmHg)で推移していたが、コレステロールが二四八mg/dl(昭和六二年一一月二六日)、二四五mg/dl(昭和六三年一一月二一日)、トリグリセライドが一五五mg/dl(昭和六二年一一月二六日)、一七九mg/dl(昭和六三年一一月二一日)であり、現在の正常値(コレステロールは一二〇ないし二二〇mg/dl、トリグリセライドは五〇ないし一五〇mg/dl)を少し超えていた(しかし、定期健康診断当時の正常値は、コレステロールが一三〇ないし二五〇mg/dl、トリグリセライドが五〇ないし一七〇mg/dlであり、「ほぼ正常値」又は「正常値」の評価がなされていた。)。また、橡隼は、喫煙習慣(本人の申告によると、一日の喫煙本数は、昭和六一年が一一〜二〇本、昭和六三年が一〜一〇本となっている。)、年齢、男性、肥満傾向(昭和六三年七月一四日の診断で肥満度5.9パーセントとされている。)等の粥腫形成の危険因子があった。

橡隼は、心臓疾患について、定期健康診断で特別指導を受けたことはなく、入通院して治療を受けたこともない。また、周囲に対し、胸部の痛みや異常を訴えた形跡は見られない。

(三) 橡隼の本件発症と公務との関係について、次のとおり医師の見解が示されている。

(1) 若葉金三医師(北海道勤労者医療協会札幌病院医師)の見解

橡隼の基礎疾患(動脈硬化)は軽度であった。これまでの健康診断の結果や狭心症の既往がないこと等に照らして、自然経過の中でも心筋梗塞を発症するほど動脈硬化が進行していたとは考えられない。

本件発症前の公務の過重負荷によるストレスによって交感神経が亢進し、冠動脈の血管攣縮が生じ、これが誘因となって血栓が生じ、かつ、血栓融解が阻害され、心筋梗塞が発症したものであり、本件発症は公務に起因するものである。

(2) 飯村攻医師(札幌医科大学名誉教授)の見解

橡隼には、粥腫形成とその皮膜の脆弱化をもたらす危険因子の存在が認められ、いつ心筋梗塞を発症してもおかしくない状況であった。当時の橡隼の勤務内容は、日常のそれを著しく逸脱した過重な労作状況ではない。勤務によって交感神経の亢進があっても、日常生活の範囲内のものにとどまり、著しいものではない。本件発症が心筋虚血発作発症の頻度が高い時間帯(モーニングサージ)のものであること等もあわせ考慮すると、本件発症は、他の日常生活の範囲内にあっても生じた可能性が極めて高く、いわゆる機会発症であり、公務起因性は認め難い。

以上の見解は、橡隼が本件発症の二、三日前に徹夜又は徹夜に近い状態で文書作成作業に当たったことを重要な前提としていない。これが公務であるとすれば、これにより発症を早めた可能性は否定できないが、本件発症の必須要件であるとは考えられない。

(3) その他の医師の見解

北海道循環器病院の大堀克己医師は、「自覚症状(狭心発作)はなかったが、冠動脈には既に狭窄病変があり、本件発症当日の労作業が本件発症の誘因になった可能性はないとはいえない。」とし、倶知安厚生病院の井上恵医師は、「一般的には、心臓疾患は冠動脈硬化に伴う血栓形成によるものと考えられている。公務と本件発症との因果関係は明らかではない。」とする。

3  以上を前提に検討を進めるに、たしかに橡隼に基礎疾患である粥腫の形成(動脈硬化)があったことは否定できないけれども、その程度は明らかでない。橡隼のように心臓疾患の既往症がなく、定期健康診断においても格別の指導を受けたりしたことがない患者の場合、粥腫形成の程度や心筋梗塞発症の相関等について医学的な解明が十分になされているとはいえないのであるから、橡隼の粥腫形成の程度について、飯村見解のように日常生活の中でいつ心筋梗塞を発症しても不自然ではない状態にまで至っていたのか、それとも日常生活の中では心筋梗塞を容易に発症しない状態であったのかは不明といわざるを得ない。そして、公務起因性の要件は、原告側が立証すべき責任を負うものであるとしても、医学的に未解明である粥腫形成の程度や心筋梗塞発症の相関等についてまで原告側に立証責任を負わせることは相当ではない。そうでなければ、粥腫形成があるというだけで、いつ心筋梗塞を発症しても不自然ではないことが強調されて、公務災害を認める余地はない結果になって、不当であり、被告の脳心疾患についての公務上外の認定基準にも反するものである。公務起因性の有無は、医学的知見を前提にしての法的判断であるべきであるから、本件発症前の諸事情から窺える橡隼の身体状態と、公務の過重負荷の状況とを相関的に考慮して、公務によって橡隼の基礎疾病である粥腫の形成・破綻が自然的経過を超えて増悪し本件発症に至ったのか否かを判断するのが相当である。

これを本件についてみると、橡隼には、粥腫形成の因子がいくつかあり、本件発症後に狭窄病変があったことが確認されていることからしても、粥腫が形成されていたことは否定できないが、本件発症前、定期健康診断の血液検査においても「正常値」又は「ほぼ正常値」の判定がなされ、粥腫形成又は心臓疾患に関して治療を受けたことはなく、周囲に対し胸部の痛みや異常を訴えた形跡もなかったものであるところ、橡隼は、前記のとおり、昭和六三年四月以降、教頭として勤務時間内の職務のみならず、勤務時間外の諸教育活動に従事するとともに、職務不熱心な甲野校長をカバーするための余分な仕事まで余儀なくされるなどして、既に同年七月ころにはストレスを感じるようになり、その後もこれが高じていたところ、同年一一月中旬以降は、寒冷の中、連日、勤務時間前に重筋労働といえるクロスカントリースキーの練習コースの設営作業をしたうえ、児童に対する練習の指導をし続け、平成元年一月二一日以降は、これに加えて休日も含めて戸外で実施するスキー学習や冬季スポーツの指導に当たり、次第に疲労が蓄積するうち、学年末及び異動期の繁忙期を迎え、同年三月一日及び同月二日には自宅において徹夜又は徹夜に近い状態で学校関係文書作成作業をしたため、重度の疲労状態に陥り、疲労回復がなされないうち、同月四日、いつもどおり重筋労働であるクロスカントリースキーのコース設営作業に従事し、しかも、雨の中、重いカッターをスノーモービルにのせて左手で抑えながら、右手ハンドルで運転するという緊張を要する作業を強いられたものであり、本件発症の直前には、五五歳の橡隼にとって肉体的精神的にかなりの過重負荷の状態に至っていたものであるから、この公務の過重負荷に伴うストレスより、交感神経系が著しく亢進し、カテコールアミンが分泌され、血圧上昇、血小板凝集能の亢進、血管攣縮が生じて、粥腫の破綻を招いた可能性が高く、基礎疾患である粥腫の形成・破綻が自然的経過を超えて増悪し、心筋梗塞が発症したものと認めるのが相当であり、本件発症は公務に起因するものというべきである。

飯村医師の見解は、医学的知見としては相当であるが、法的判断であるべき橡隼の基礎疾患である粥腫形成の程度と公務の過重負荷との相関関係について十分な考慮がなく、また、本件発症二、三日前の徹夜又は徹夜に近い状態での学校関係文書作成作業による影響を無視ないし軽視しているきらいがあるといえるから、本件発症が機会発症であって公務に起因しないとする点において失当というほかない。

三  以上によると、本件発症は、公務と相当因果関係を有するものであり、橡隼は、公務上死亡したものと認められる。これと異なる本件処分は、違法であり、取消しを免れない。

第四  結論

よって、原告の請求は理由があるから、これを認容することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・坂井満、裁判官・飛澤知行、裁判官・小田桐泉)

別表<省略>

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