札幌地方裁判所 平成12年(ワ)1478号 判決 2003年7月25日
主文
1 被告は,原告Aに対し,1100万円及びうち1000万円に対する平成8年9月11日から,うち100万円に対する平成12年7月12日から,各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告Aのその余の請求並びに原告B,原告C,原告D及び原告Eの請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用中,原告Aと被告との間に生じたものは,これを10分し,その1を被告の負担,その余を原告Aの負担とし,原告B,原告C,原告D及び原告Eと被告との間に生じたものは,同原告らの負担とする。
4 この判決の第1項は仮に執行することができる。
事実及び理由
第1原告らの請求
1 被告は,原告Aに対し,1億0645万0376円及びうち9545万0376円に対する平成8年9月11日から,うち1100万円に対する平成12年7月12日から,各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は,原告B,原告C,原告D及び原告Eに対し,それぞれ250万円及びこれに対する平成8年9月11日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,被告の経営する病院において脳動脈瘤根治手術等の手術を受けた原告Aが,手術後,脳梗塞による左上下肢の機能が全廃するなどの後遺障害を負ったことについて,原告らが,原告Aの後遺障害の原因は被告の被用者である医師らの手技上の過失にあると主張し,また,同医師らには上記手術に際して説明義務違反があると主張して,被告に対し,債務不履行ないし不法行為に基づき,損害賠償を求めた事案である。
1 前提となる事実(争いのない事実は証拠を掲記しない。)
(1) 当事者
原告Aは,昭和18年4月2日生まれの女性である。原告Bは,原告Aの夫であり,原告C,原告D及び原告Eは,いずれも原告Aの子である。
被告は,札幌市a区bc丁目において,F病院(以下「被告病院」という。)を設置,運営している。
(2) 事実経過
ア 原告Aは,平成8年8月2日,北海道苫前郡d町において,財団法人G研究所の検診車で脳の検査を受けたところ,脳の血管に異常があると認められた。
原告Aは,同月5日,H病院の脳神経外科において再度脳の検査を受けたところ,脳動脈瘤の存在が疑われた(原告B本人)。
イ 原告Aは,同年9月2日,脳の検査を行うため,被告病院に入院した(原告B本人)。被告病院の医師であるI(以下「I医師」という。)は,原告Aの脳を検査した結果,未破裂の右内頸動脈後交通動脈分岐部動脈瘤(以下「本件脳動脈瘤」という。乙2,4)の存在を認めた。
原告A及び原告Bは,同月7日,被告病院において,I医師及び同じく被告病院の医師であるJ(以下「J医師」という。)から,原告Aの脳の検査結果,治療方法及び手術内容についての説明を受けた(乙3,4,原告B本人)。
ウ 原告Aは,同月11日午前9時ころから,被告病院で,J医師の執刀のもと,脳動脈瘤根治手術(開頭して,動脈瘤茎部のクリッピング及び接着剤等を用いて動脈瘤壁の補強(コーティングあるいはラッピング)を行う手術。以下「本件第1手術」という。)を受けた。J医師は,2本の窓付クリップを用いて,本件脳動脈瘤にクリッピングを行ったが,その際,本件脳動脈瘤から出血が生じたため,一時血流遮断を行うなどして,止血に努めた。本件第1手術は,同日午後4時ころ終了した。
エ 本件第1手術の後,原告Aの頭部のCT検査を行ったところ,脳室内出血が認められた。このため,原告Aは,同日午後10時ころから,被告病院において再びJ医師の執刀のもとに,出血源の確認及び止血のための開頭手術(以下「本件第2手術」という。)を受けた(乙2)。上記脳室内出血は,本件脳動脈瘤からの再出血であった。J医師は,これを止血するため,クリップを用いて一時血流遮断を行った上で,本件第1手術でかけたクリップを外し,改めて本件脳動脈瘤にクリップをかけ直す処置を行ったが,その際,脳腫脹が起こったため,術野における視界不良の状態での操作ながらクリップを閉鎖して,本件脳動脈瘤のクリッピングを終了した。本件第2手術は,翌12日午前3時ころ終了した。
オ 原告Aは,同日午前8時ころから,外減圧手術(開頭した骨弁を戻さず外したままとし,脳腫脹による頭蓋内圧亢進を緩和させる手術。以下「本件第3手術」といい,本件第1ないし第3手術を併せて「本件一連の手術」という。)を受けた。
カ 本件一連の手術の結果,原告Aに脳梗塞が生じた(以下,原告Aに脳梗塞が生じた事故を「本件事故」という。)。原告Aは,本件一連の手術の後,被告病院で治療及びリハビリテーションを受け,その後,K病院及びL病院に入院した。
原告Aは,現在,肩書住所地の自宅において,原告Bと2人で生活している(原告B本人)。
(3) 原告Aの後遺障害
原告Aは,現在,以下のとおり,身体障害者等級の1種1級に該当する後遺障害があり,その症状は固定した(甲4,5,9,原告B本人)。
ア 障害部位
右大脳(前頭葉,側頭葉,頭頂葉)梗塞による障害
イ 意識状態
意識は覚醒しているが,広範な大脳高次機能障害(作話,注意力欠如,判断力欠如,左半側空間失認,認知障害,病識欠如等)がある。
ウ 運動機能
左上下肢高度運動麻痺のため,起立不能,歩行不能であり,車いすによる自立駆動もスムーズにはいかない。
エ 現在の障害及び生活状況
全く寝たきりの状態で,着衣,食事,排泄等において介助を必要とする。
2 争点
(1) J医師の手技上の過失の有無
(原告らの主張)
J医師には,本件一連の手術に関して,以下のとおり手技上の過失がある。
ア 本件第1手術における本件脳動脈瘤からの出血について
動脈瘤の手術をする際,医師には,クリップが動脈瘤を破裂させないように細心の注意を払いながらクリッピングを行う注意義務がある。特に,本件で原告Aが受けた脳動脈瘤根治手術(本件第1手術)は,将来的に動脈瘤が破裂しないようにするためのいわば予防的な手術であり,その手術によって動脈瘤を破裂させてしまうのは本末転倒であるから,医師が上記手術の際,動脈瘤を破裂させないようにすべき注意義務は高いというべきである。
J医師は,本件第1手術において,本件脳動脈瘤と内頸動脈との間にクリッピングをしようとした際,漫然とクリップの操作を行ったため,クリップを本件脳動脈瘤に接触させてこれを破裂させてしまい,当該破裂部位から出血を招いているのであるから,この点についてJ医師には過失がある。
イ 本件第1手術における止血について
たとえ動脈瘤が破裂してしまった場合であっても,医師には,破裂した部位からの出血を防ぐために,適切な事後処置を施して,再度の出血を防止し,併発症の発生を防止する注意義務がある。
J医師は,本件第1手術において,自らの操作により出血を招いたのだから,確実に止血する義務を負っていたというべきであり,もし,止血の可能性がないというのであれば,手術を行ったこと自体が誤りであるといわなければならない。そうであるにもかかわらず,J医師は,本件脳動脈瘤からの出血を止めるに際し,クリップ鉗子の選択あるいは使用方法を誤ったために,速やかに止血することができず,また,止血ができたかどうかの確認も十分に行わなかったのであるから,J医師には,止血を確実に行わなかった過失がある。
ウ 本件第2手術における前脈絡叢動脈の閉塞について
長時間,頻回にわたって内頸動脈を一時遮断すると,急激な脳腫脹が起こり,動脈瘤のクリッピング部分が確認できなくなる危険があるから,医師には,内頸動脈の一時遮断の回数と時間を極力少なくする注意義務がある。
J医師は,本件第2手術において,漫然と長時間にわたり,7ないし8回も内頸動脈を一時遮断したために脳腫脹を出現させ,しかも十分な確認をすることなく本件脳動脈瘤にクリッピングを行った結果,前脈絡叢動脈を塞いでしまったのであるから,J医師には,不適切なクリッピングにより前脈絡叢動脈を閉塞させ,脳梗塞を招来させた過失がある。
(被告の主張)
以下のとおり,本件一連の手術に関して,J医師には手技上の過失は認められない。
ア 本件第1手術における本件脳動脈瘤からの出血について
本件脳動脈瘤は,内頸動脈の背側面に及ぶ動脈瘤であり,2本の窓付クリップを内頸動脈の長軸方向に平行に使用する必要のある広い茎部を持っていて,さらにその茎部は前脈絡叢動脈と密に接していたことから,本件脳動脈瘤の茎部を完全にクリップし,かつ,前脈絡叢動脈及び後交通動脈のいずれも温存するためには,単に2本のクリップを直列に使用するだけでは不十分であり,2本目のクリップを再度かけ直す必要があった。そして,その際,本件脳動脈瘤にクリップの先端部の圧力がJ医師ら手術スタッフも想定しない部位に加わったため,茎部付近の前脈絡叢動脈付近から出血を来したと考えられる。
イ 本件第1手術における止血について
J医師は,止血の際,クリップ鉗子が一時腰砕けの状態になった後も,出血部位を含めて確実にクリップをかけるよう試み,最終クリップは適切な鉗子を用いて行っているのであるから,クリップ鉗子が一時腰砕けの状態となったことが,手術結果に直接影響を与えたとは考えられない。
また,J医師は,顕微鏡下による直視下の確認,クリップ周囲の探索確認,ミラーによる確認を最大限行っているし,さらに,血圧上昇により出血が発生しないかという点についても確認を行っているのであるから,本件第1手術において,さらなる脳損傷を来さないで行い得る止血の確認を可能な限り行っているというべきである。
結果的に本件脳動脈瘤から再出血を来したが,それは本件脳動脈瘤が大きいため動脈瘤茎部が広く,しかも原告Aが術後に頻回嘔吐したことによって血圧が上昇し,クリップが当初の止血部位からずれたためと考えられる。
ウ 本件第2手術における止血について
J医師は,脳腫脹の進行により本件脳動脈瘤にクリッピングを完了することが不可能な状態となる前に,それまでの手術操作による動脈瘤,母血管のオリエンテーションを頼りにクリッピングを行い,止血に成功している。
本件一連の手術の後,原告Aに脳梗塞が生じているが,これは,内頸動脈をクリップで閉塞したためではない。原告Aは,再出血を起こしたことと脳腫脹が著しく生じたことで脳血管攣縮が生じ,右中大脳動脈の血流が不十分となって重症右脳梗塞となり,重篤な後遺障害が生じたと考えられる。
(2) 被告病院の医師の説明義務違反の有無
(原告らの主張)
医師には,患者に対し,患者が受け得る治療について,最終的な決定権を有効に行使するに足りる十分かつ重要な情報を提供する義務があり,医的侵襲を伴う治療の場合には,症状,診断の結果,医的侵襲行為の目的,内容及びその必要性,治療をせずに放置した場合の危険性,発生の予想される危険性及び副作用を説明するべきである。
しかるに,被告病院の医師は,脳動脈瘤根治手術の危険性を十分に原告らに説明していないばかりか,動脈瘤を放置した場合の危険性についても説明しておらず,被告病院の医師には説明義務違反がある。
(被告の主張)
本件第1手術の4日前である平成8年9月7日,原告A及び原告Bに対して,I医師から原告Aの脳の検査結果,動脈瘤を放置した場合の危険性及び手術による治療方法についての,J医師から手術の内容及びリスク(術中破裂,一時血流遮断の可能性,穿通枝血管の閉塞の可能性等)についての各説明がされ,その結果,原告Aは,最終的に,本件脳動脈瘤の根治手術を行うことを承諾した。
したがって,被告病院の医師には説明義務違反はない。
(3) 損害
(原告らの主張)
ア 原告Aの損害
(ア) 逸失利益 2981万3593円
逸失利益算定の基礎となる原告Aの収入については,平成8年度女子全労働者の平均賃金額(301万1900円)によるのが相当である。原告Aは,本件事故当時53歳で,67歳までの14年間就労が可能であったところ,本件事故により,労働能力を100パーセント喪失したのであるから,ライプニッツ方式(14年に対応するライプニッツ係数は9.8986)により中間利息を控除すると,その逸失利益は,2981万3593円となる。
(イ) 入院雑費 225万4200円
原告Aは,本件事故から平成12年4月28日までの1326日間,1日当たり1700円(日用品代800円,おむつ代900円),合計225万4200円の入院雑費を支出した。
(ウ) 付添看護料 3338万2583円
原告Aは,終生他人の介護を必要とするところ,定山渓病院に入院中の平成12年6月1日から平成13年3月末日までの304日間,1日当たり2486円,合計75万5744円の付添看護料を支出した。
原告Aは,平成13年4月以降,自宅において,原告Bと2人で生活しているところ,同月当時の平均余命年数である28年間は介護を要し,介護料は1日当たり6000円が相当であるから,ライプニッツ方式(28年に対応するライプニッツ係数は14.8981)により中間利息を控除すると,自宅での介護費用は,3262万6839円となる。
(エ) 慰謝料 3000万円
本件事故による原告Aの精神的苦痛に対する慰謝料は3000万円が相当である。
(オ) 弁護士費用 1100万円
(カ) 合計 1億0645万0376円
イ 原告B,原告C,原告D及び原告E(以下「原告Bら」という。)の損害原告Bらは,原告Aの夫あるいは子として,今後,原告Aとともに生涯にわたって苦しんでいかなければならず,その精神的苦痛は原告Aの生命を害された場合に等しいか,それ以上の程度に達しているから,原告Bらには固有の慰謝料請求権が存在し,その金額はそれぞれ250万円を下らない。
第3争点に対する判断
1 争点(1)(J医師の手技上の過失の有無)について
(1) 証拠(甲4ないし6,乙1の1ないし4,乙2,3,5ないし7,証人M,原告B本人,鑑定結果)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 脳動脈瘤とは,脳動脈が瘤状あるいは紡錘状に拡大したものをいい,その多くは,くも膜下出血で発症する。放置すると再出血して死亡する場合が多く,また,外科的処置により再出血の危険がなくなった場合でも,続発する脳血管攣縮(くも膜下腔に出血した血液(赤血球)の分解産物が,くも膜下腔を走る動脈を刺激して血管の攣縮が誘発されること)により命を失う症例も多く,再出血防止のための根治手術は,初回出血後できるだけ早期に行う必要がある。
未破裂の脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血の頻度は,これまでのデータによると,年間1ないし2パーセントであるとされているが,それよりもさらに頻度が低いとのデータもあり,現在,その研究が進められている段階にある。また,動脈瘤のサイズが大きくなればさらに破裂率は高くなるとの見解もあれば,巨大動脈瘤(最大径が2.5センチメートル以上のもの)であってもくも膜下出血を起こす率は普通の動脈瘤と変わりがないとの見解もある。
脳動脈瘤根治手術は,脳動脈瘤からの初回の出血あるいは再出血を防止するためのものである。もっとも,意識障害が強い重症例では,脳腫脹が強く,根治手術の操作によってさらに症状の悪化を招くことがある。根治手術としては,動脈瘤茎部のクリッピングが理想的であるが,動脈瘤の茎部が広かったり,動脈瘤から分枝が出ていてクリップがかけられない場合には,接着剤等を用いて動脈瘤壁の補強(コーティングあるいはラッピング)を行うこともある。
内頸動脈後交通動脈分岐部動脈瘤は,脳動脈瘤の中でも最も頻度の高い動脈瘤の一つであるが,この部の脳動脈瘤手術は,動脈瘤近傍から分岐する前脈絡叢動脈の関与により,ときに大変難しい場合がある。すなわち,前脈絡叢動脈は,脳動脈瘤のクリッピング操作により直接,間接の影響を受けやすく,同動脈の狭窄あるいは閉塞により,強い片麻痺,感覚障害,視野障害,言語障害,構成失行,病態失認等の重篤な後遺症を残す可能性があるため,クリッピングの際には,前脈絡叢動脈に血液が十分に流れ,同動脈が温存されていることを確認することが肝要であるが,同動脈は,内頸動脈に比べてはるかに細く,内頸動脈の裏側に位置して術野から見えにくい場合が少なくないため,その確認は非常に難しい。
本件脳動脈瘤は,原告Aの右内頸動脈後交通動脈分岐部に位置し,比較的大きな脳動脈瘤であるから,そのクリッピングに際しては,前脈絡叢動脈を温存することが重要となるが,特に本件の症例の場合,前脈絡叢動脈が本件脳動脈瘤の茎部近傍から分岐していて同動脈が本件脳動脈瘤自体に癒着していたため,本件脳動脈瘤のクリッピングは難度の高い複雑なものであった。
イ 原告Aは,平成8年9月2日,被告病院において脳のMRI検査を受けたところ,右内頸動脈後交通動脈分岐部動脈瘤の存在が疑われたため,同日,被告病院に検査入院することとなった。入院後,MRアンギオグラフィー,CT検査,脳血管造影等により原告Aの脳を検査した結果,本件脳動脈瘤の存在が認められたが,その他の脳動脈瘤の存在は明らかではなかった。
ウ 原告Aは,同月11日午前9時ころから同日午後4時ころまでの間,本件第1手術を受けた。
(ア) 執刀医であるJ医師は,本件第1手術中に,本件脳動脈瘤のほかに2つの脳動脈瘤の存在を認めた。そのうちの一つ(以下「第2脳動脈瘤」という。)は,本件脳動脈瘤にクリッピングを行うための一時血流遮断をする際の近位内頸動脈を確保する位置にあり,一時血流遮断により破裂する可能性のあるものであった。
(イ) J医師は,本件脳動脈瘤から前脈絡叢動脈を剥離する操作を執拗に行った上で,本件脳動脈瘤のクリッピングを開始した。
まず,J医師は,本件脳動脈瘤に1本目の窓付クリップをかけた。そして,内頸動脈及び後交通動脈を形成ないし温存するように同クリップをかけ直してから,2本目のクリップをかけた。J医師は,ドップラー血流計で前脈絡叢動脈の血流を計ったが血流を確認できず,2本目のクリップを外すと同動脈の血流が再開するのを確認した。そこで,J医師は,塩酸パパベリン(血管拡張薬)を塗布し,機械的刺激で収縮した前脈絡叢動脈を拡張させ,斜めアングルのクリップを追加してクリッピングを行い,血流計で前脈絡叢動脈の血流が温存されていることを確認した。
J医師は,クリップ鉗子で2本目のクリップを開き,さらに奥に挿入しようとしたが,この際,本件脳動脈瘤の茎部から出血が起こった。J医師が不用意に本件脳動脈瘤を傷つけたというような動きはなかった。一般的に,クリッピング操作においては,閉じる2枚のクリップのブレードに挟まれた動脈瘤壁あるいは茎部と母血管の間が伸展され,動脈瘤と動脈の間に亀裂が生じ,そこから出血が起こることがある。なお,クリッピング手術において,クリップのかけ直しは通常よく行われる操作である。
(ウ) J医師は,上記出血を止血するため,クリップをそのまま閉じようとしたが,クリップ鉗子の選択あるいは使用法が適切ではなかったために,クリップが腰砕けのようにクリップ鉗子から外れてしまい,出血部位を含めて迅速にクリッピングをすることができなかった。そのため,J医師は,その約1分後,内頸動脈にテンポラリークリップをかけ,血流の一時遮断等を行いながら,出血部位を含めてクリッピングをすることを試みた。
原告Aの脳は,術中操作や血流の一時遮断等により,軽度の脳腫脹が起こり,本件脳動脈瘤周囲の術野が狭くなり,クリッピング操作が困難な状況となった。J医師は,再度,2本目のクリップを挿入して本件脳動脈瘤にクリッピングを行い,ドップラー血流計やミラーを用いてクリッピングを確認した。また,第2脳動脈瘤に対しては,コーティングを施した。
(エ) 本件脳動脈瘤にクリッピングを完了した後も,原告Aの脳のどこからか小出血が持続していた。J医師は,クリッピング部位からの出血を疑い,何度か同部位を覗き込んで確認を図ったが,軽度の脳腫脹のためにせり出してきた脳によって,その視認は困難であった。J医師は,上記の持続する小出血は,本件脳動脈瘤の周辺の脳表からの出血であると判断し,脳表の止血を行って本件第1手術を終了した。
エ 本件第1手術の直後,原告Aの脳血管造影を行ったところ,内頸動脈及び前脈絡叢動脈の狭窄や閉塞はなく,同両動脈が温存されていることが確認され,本件脳動脈瘤の残存も認められなかった。また,術後のCT検査でも,前脈絡叢動脈領域に明らかな低吸収域(梗塞像)は見られず,脳梗塞の兆候を示す異常は認められなかった。
原告Aは,本件第1手術からしばらく経過した後も,時々嘔吐し,開眼してもすぐに目を閉じてしまう状態であった。同日午後9時ころ,再び原告Aの頭部のCT検査を行ったところ,脳室内出血が認められ,クリッピング部位の周囲から血腫の連続性があった。そこで,原告Aは,再度,出血源の確認及び止血のための開頭手術(本件第2手術)を受けることになった。
オ J医師は,原告Aに対し,同日午後10時ころから翌12日午前3時ころまでの間,本件第2手術を行った。
J医師は,術中の所見で,上記脳室内出血はクリッピングを行った本件脳動脈瘤からの再出血であると判断したが,詳細な出血源までは確認することができなかった。上記再出血が,本件第1手術の際の出血が持続したものであるか,あるいは,一時止血されていたものが術後の嘔吐等をきっかけとして起こったものであるかは不明である。
J医師は,約30分間,7ないし8回の内頸動脈の一時血流遮断を行いながら,種々のクリッピングを行って止血を試みたが,出血源を確認できず,止血は困難であった。最終的に,本件脳動脈瘤にクリップをかけて明らかな出血は消失したが,この際,多数回及び長時間にわたる内頸動脈の血流遮断ないし脳圧排等が原因で急激な前頭葉の腫脹が起こり,術野における視界が不良で,クリッピングの状態を視認することは非常に難しかった。J医師は,部分的に原告Aの脳の内減圧(脳切除)を行ったが脳腫脹は治まらず,結局,脳腫脹のために後交通動脈と前脈絡叢動脈の起始部の確認ができないまま,外減圧を行って本件第2手術を終了した。
カ 本件第2手術の直後に行ったCT検査では,前脈絡叢動脈領域に低吸収域は見られなかった(なお,梗塞は,その発生直後のCT検査では判定できないことが多い。)が,同日午前8時ころからの本件第3手術の前に行ったCT検査では,同領域に低吸収域が見られた。本件第3手術は,外減圧を拡大する手術であり,同手術により前脈絡叢動脈の狭窄あるいは閉塞が起こるとは考え難い。
本件第3手術後の同月13日のCT検査で,前脈絡叢動脈領域だけでなく前大脳動脈と中大脳動脈の分水嶺領域にも低吸収域が出現し,以後,その範囲は,脳腫脹や脳血管攣縮等の関与も加わって徐々に拡大した。
被告病院の入院診療録(乙2)には,上記低吸収域が出現し拡大した原因として,クリップによる内頸動脈の狭窄を疑う旨の記載がある。
キ 原告Aの後遺障害の原因は,上記の過程により発生した脳梗塞によるものである。
(2) 上記前提となる事実及び認定事実を前提に,争点(1)について検討する。
ア 前記認定事実のとおり,原告Aの後遺障害は本件事故に起因するものであると認められる。そして,本件第1手術の後の検査では前脈絡叢動脈領域に脳梗塞の兆候を示す異常は認められなかったこと,J医師は後交通動脈と前脈絡叢動脈の起始部を確認できずに本件第2手術を終了したこと,本件第3手術の前には既に前脈絡叢動脈領域に低吸収域が出現していたこと,本件第3手術により前脈絡叢動脈の狭窄あるいは閉塞が起こるとは考え難いこと,前脈絡叢動脈の狭窄あるいは閉塞により強度の片麻痺等の後遺症が生じる場合があること,被告病院の医師も脳梗塞が出現し拡大した原因としてクリップによる内頸動脈の狭窄を疑っていること,鑑定結果も本件第2手術のクリッピングで前脈絡叢動脈を閉塞させたために同動脈領域及び前大脳動脈と中大脳動脈の分水嶺領域に脳梗塞が出現し拡大した可能性があるとしていることからすれば,本件事故の原因は,J医師が本件第2手術の際にクリップで前脈絡叢動脈を閉塞させたことによるものと推認するのが相当である。
イ そこで,上記の本件事故の原因を前提に,J医師の手技上の過失の有無を検討する。
(ア) まず,上記のとおり,J医師は,本件第2手術の際にクリップで前脈絡叢動脈を閉塞させているが,このことのみをもって直ちにJ医師の過失を認めることはできず,当該手技の難易度,結果回避の可能性,結果回避のために施した処置の内容等も考慮して,J医師に結果回避義務違反が認められるか否かという観点からJ医師の過失の有無を判断するべきである。
前記認定事実のとおり,本件第2手術は,術者において出血源を特定することが難しく,さらに,脳腫脹のため術野を十分に確認することができない状態での手技であり,非常に難易度の高い手術であった。このような状況の中で,J医師は,後交通動脈と前脈絡叢動脈の起始部を確認するために,内減圧(脳切除)を行い脳腫脹を抑えることを試みるなど,必要かつ適切な処置を施している。J医師が多数回及び長時間にわたり内頸動脈の一時血流遮断を行ったことが急激な脳腫脹の原因であると認められるけれども,上述した手術の困難性に鑑みれば,J医師の上記処置も必要かつやむを得ない処置であったといわざるを得ない。鑑定結果も,本件第2手術における一連の操作は難しいものであり,このような状態に至る前に未然に防ぐことが現実的な予防策であるとしている。
これらの事情からすると,J医師が本件第2手術の際にクリップで前脈絡叢動脈を閉塞させたことをもって,J医師の過失を認めることはできないというべきである。
(イ) もっとも,本件第1手術において本件脳動脈瘤から出血が起こらず,あるいは止血が十分であったならば,再出血は防げたはずであり,したがって,J医師が本件第2手術の際にクリップで前脈絡叢動脈を閉塞することもなかったと解される。そこで,さらに,本件第1手術についてのJ医師の手技上の過失の有無を検討する。
まず,本件脳動脈瘤から出血が起こった点についてであるが,前記認定事実によれば,出血の原因は,クリップのかけ直しにより本件脳動脈瘤と動脈との間に亀裂が生じたことであると推認することができ,J医師がクリッピングの際に不用意に本件脳動脈瘤を傷つけたというわけではない。そして,クリッピング手術においてクリップのかけ直しは通常よく行われる操作であること,特に本件脳動脈瘤のクリッピングについては前脈絡叢動脈の血流を温存するためにクリップのかけ直しが必要であったことからすれば,J医師がクリップのかけ直しを行ったこと自体がその判断を誤ったものであるということはできない。さらには,J医師は,本件脳動脈瘤のクリッピングの困難性,前脈絡叢動脈の温存の必要性を十分認識した上で,難易度の高い本件第1手術を慎重に行っているのであるから,J医師の手技の内容が不適切であったということもできない。そうすると,本件脳動脈瘤から出血が起こったことについて,J医師の手技に何らかの過失を見出すことはできないというべきである。
次に,止血の点について検討するに,前記認定のとおり,本件脳動脈瘤からの再出血が,本件第1手術の際の出血が持続したものであるか,一時止血されていたものが術後の嘔吐等をきっかけとして再び出血が起こったものであるかは不明であるから,再出血が起こったことを理由として,直ちにJ医師の止血処置に過誤があったと推認するのは相当でない。むしろ,J医師が,軽度の脳腫脹のために術野が狭くなりクリッピング操作及びその視認が困難な状況の中で本件脳動脈瘤にクリッピングを行って止血を試みていることや,本件第1手術の直後の脳血管造影やCT検査からは何ら脳の異常は見られなかったことからすれば,本件第1手術におけるJ医師の止血処置は可能な範囲において十分な程度に行われたというべきである。そして,J医師は,血流計やミラーを用いてクリッピングを確認し,クリッピングの完了後もクリッピング部位からの出血を疑い,脳損傷を来さない程度に同部位の確認を試みているのであるから,止血の確認も当時の状況に照らして十分に行われたというべきである。確かに,クリップ鉗子の選択あるいは使用法が適切でなかったためにクリッピングに時間を要したことについて,J医師の手技に多少なりとも落ち度があったことは否定できないが,J医師はクリップが腰砕けになった後すぐに適切なクリップ鉗子を用いてクリッピングを試みているのであり,鑑定結果においても,正しいクリップ鉗子を用いていたとしても速やかに止血ができたか否かは分からないとしていることからすれば,J医師の上記処置をもって,J医師の手技に過失があったと評価するのは相当でない。以上のとおり,止血の点についても,J医師の手技に過失があったとまでいうことはできない。
結局,本件第1手術についても,J医師に手技上の過失を認めることはできないというべきである。
ウ 以上の認定判断によれば,J医師には手技上の過失は認められず,したがって,被告は,原告らに対し,J医師の手技上の過失を理由として損害を賠償すべき責任を負わないというべきである。
2 争点(2)(被告病院の医師の説明義務違反の有無)について
(1) 証拠(甲9,乙2,原告B本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 原告Aは,これまで脳動脈瘤の存在を疑わせるような症状はなかったところ,平成8年8月2日,d町に巡回に来ていた脳ドックの検診車で脳の検査を受け,その結果,脳動脈瘤の疑いがあるとの通知を受けたが,すぐに入院して手術を受けるようにというような指示は受けなかった。
原告Aは,同月5日,H病院の脳神経外科において再度脳の検査を受けたところ,同病院の医師から脳動脈瘤の存在が疑われるとして手術を勧められた。原告Aは,原告Bと相談した結果,H病院よりも設備が整っている被告病院でもう一度検査を受けてから手術を受けるかどうかを決断することとした。
イ 原告Aは,同年9月2日,被告病院に入院して検査を受け,その結果,I医師によって,本件脳動脈瘤の存在が確認された。
原告A及び原告B(以下「原告両名」という。)は,同月7日,被告病院で,I医師及びJ医師から,約1時間,本件第1手術についての術前の説明を受けた。
原告両名は,同医師らから,本件第1手術を受けるに当たりある程度の危険はあるであろうが,その危険の度合いは5パーセントから10パーセントであると言われ,このまま放置しておくと頭に爆弾を抱えているようなものだから手術をした方が良いと勧められた。原告Bは,手術の危険とは,術中に脳動脈瘤が破裂してくも膜下出血になるようなことであり,その度合いが5パーセントから10パーセントであるのは低い確率であると理解した。そして,原告両名は,本件第1手術の方法,内容及び危険性について図面を示されて説明を受けたが,手術の難しさについては,陰になったりした部分があると難しいという程度の説明しかなく,術中に脳動脈瘤が破裂する危険があることや破裂した場合には母血管の一時血流遮断を行うこと,血管を閉塞してしまうと脳梗塞等の後遺障害が生じる可能性もあることについての具体的な説明はなかった。また,未破裂の脳動脈瘤が破裂する危険については,万一破裂した場合には回復困難な事態になることが予想されるとの説明があったが,その年間出血率について具体的な数字を挙げての説明はなかった。
原告両名は,上記説明を聞いて本件第1手術を受けることを決断し,同日,手術の同意書に署名,押印した。
(2) 上記前提となる事実及び争点(1),(2)について認定した事実を総合考慮した上で,争点(2)について検討する。
ア 一般的に,医師が患者に対して手術等の医的侵襲を伴う医療行為を行う場合は,それが患者の生命や健康,精神に重大な影響を及ぼすものであるから,特段の事情のない限り,当該医療行為について患者が同意していることが必要であるところ,この同意は,自己の人生の在り方は自らが決定することができるという自己決定権に由来するものであるから,医師は,患者の同意を得る前提として,患者が十分な情報に基づいて医療行為を受けるか否かを決定することができるように,患者の症状,医療行為の内容,効果及び必要性,医療行為に伴う困難ないし危険,医療行為を行わない場合の具体的な予後の内容等を患者に説明すべき義務を負っているものと解される。そして,その説明の具体的内容及び程度は,当該医療行為の医的侵襲の重大性,難易度,治療の必要性,緊急性,患者の医学的知識の認識度等に応じて,各医療行為ごとに判断するのが相当である。
イ 以上を前提に検討するに,本件第1手術は,開頭して本件脳動脈瘤にクリッピングを行うというものであり,生命侵害の危険性を多分に有する内容の手術といえ,その医的侵襲の程度は重大であった。また,本件第1手術は,前脈絡叢動脈の関与等のために脳動脈瘤根治手術の中でも難易度の高いものであり,このことは,術前の検査結果等からあらかじめ認識し得た。さらに,原告Aはd町で脳の検診を受けるまで本件脳動脈瘤の存在を知らず,その存在を疑わせる症状も何ら見られなかったのであり,未破裂の脳動脈瘤の破裂による出血率は年間1ないし2パーセントに過ぎないとされていたことも併せ考えると,原告Aが本件第1手術を受けるべき緊急性は決して高いものではなかった。これらの事情からすると,被告病院の医師は,原告Aに対し,本件第1手術を行うに当たって,その内容や危険性,本件脳動脈瘤を放置した場合の予後等を相当な程度に具体的かつ詳細に説明すべき義務を負っていたものというべきである。
I医師及びJ医師は,原告両名に対し,本件第1手術の方法及び内容について図面を示して説明し,その危険性についても,手術中に本件脳動脈瘤が破裂してくも膜下出血となる危険の割合について5パーセントから10パーセントという決して低くない数字を挙げての説明をしているけれども,本件第1手術が難易度の高いものであることや危険の具体的内容及びその結果生じ得る後遺障害等については説明しておらず,同医師らの説明を聞いた原告Bも本件第1手術は危険性の低いものであると理解していることからすると,本件第1手術の危険性についての同医師らの説明が,上記相当な程度に具体的かつ詳細であったとまではいい難い。また,本件脳動脈瘤を放置した場合の出血の可能性についても,同医師らは,その出血率の数字を挙げての説明をせず,かえって,それが年間1ないし2パーセントであるとされているにもかかわらず,「爆弾を抱えているようなもの」との言葉を用いて手術を勧め,原告両名も「爆弾」という言葉が強く心に残り,手術を受け入れた(原告B本人)というのであるから,本件第1手術を受けなかった場合の予後についての同医師らの説明も,正確性を欠き不十分であったといわざるを得ない。
被告は,被告病院の医師には説明義務違反はない旨主張し,これに沿う証拠としてJ医師の陳述書(乙3)を提出する。そして,J医師は,同陳述書の中で,原告両名に対し,手術の具体的な危険の内容や本件脳動脈瘤を放置した場合の年間出血率などを説明した旨述べる。しかしながら,同人の供述記載は,原告Bの本人尋問における供述内容と一致しないし,原告Aの入院診療録(乙2)にも,本件第1手術前の説明内容としてただ「出血の危険(くも膜下出血)」「OPのrisk」との記載があるのみで,それ以上に具体的な説明の内容は記載されていなく,その他にJ医師の供述記載を裏付ける客観的証拠もないのであるから,これをたやすく採用することはできない。仮に,J医師が上記供述記載のような説明をしていたとしても,原告両名は医学的知識に乏しく,専門的な内容を言われてもよく分からず,医師が手術を勧めるのでそれに従うよりなかった(原告B本人)ことからすると,やはりJ医師の説明は不十分であったというほかはない。したがって,被告の上記主張は採用することができない。
ウ 以上の認定判断によれば,I医師及びJ医師の原告両名に対する本件第1手術についての術前の説明は,原告Aが本件第1手術を受けることを選択するに当たっての意思決定のためのものとして,不十分なものであったといわざるを得ず,被告病院の医師には診療契約上ないしは不法行為上の説明義務違反が認められ,被告は,これにより生じた原告らの損害を賠償すべき責任を負うものというべきである。
3 争点(3)(損害)について
(1) まず,原告らは,上記の被告病院の医師の説明義務違反により,原告Aが前記のとおりの後遺障害を負うに至ったとして,これに伴う損害(逸失利益,入院雑費,慰謝料等)を請求する。しかしながら,前記認定事実のとおり,本件脳動脈瘤は比較的大きなものであり,放置した場合の出血の危険も高くない確率ではあるが認められたのであり,原告両名も,I医師及びJ医師から本件第1手術についての術前の説明を受ける以前に既にH病院の医師から手術を勧められていたことや,手術中にくも膜下出血となる危険があることについて事前にある程度の予測がついていたことを併せ考えると,仮に,同医師らから原告両名に対し十分な説明がされていたとしても,原告Aが本件第1手術を受けることを選択する可能性が高かったと考えられるところである。そうすると,被告病院の医師の説明義務違反と原告Aが後遺障害を負うに至ったこととの間に相当因果関係があると認めることは困難であるから,原告Aの後遺障害に基づく損害賠償請求は認められないというべきである。
(2) しかし,他方,原告Aとしては,I医師及びJ医師らの説明が十分なものであったならば,本件第1手術を受けるか否かについて,手術の具体的危険性や本件脳動脈瘤を放置した場合の出血の危険性等を慎重に考慮し,手術を受けないことを選択すべき余地もあったというべきであるところ,同医師らの不十分な説明のために,自らの疾病の治療方法として本件第1手術を受けることの当否,ひいては,自らの今後の人生の在り方を自らの権利と責任において選択する機会を奪われたというべきであり,これに基づく原告Aの被った精神的損害は重大である(原告Aの慰謝料請求は,かかる精神的損害に対するものをも含む趣旨と解される。)。
そして,本件第1手術を受けずに放置した場合に本件脳動脈瘤が破裂してくも膜下出血を起こす確率がそれほど高いものともいえないこと,他方,本件第1手術によってくも膜下出血を起こす可能性も相当にあることが予想されたこと,原告Aの本件事故当時53歳という年齢等からすれば,十分な説明を受けていれば原告Aが本件第1手術を受けないという選択をした可能性もある程度はあったといえる。また,その場合,本件脳動脈瘤が破裂する確率が比較的低いことからすれば,原告Aは,当面はくも膜下出血を起こさず,上記の後遺障害を有するには至っていなかった可能性が相当高かったというべきである。
したがって,原告Aのこの精神的損害に対する慰謝料については,単に本件第1手術を受けるか否かの選択の機会を奪われたということだけではなく,原告Aは本件事故により左上下肢の運動麻痺,意識障害等の後遺障害を負い,寝たきりの生活を余儀なくされ,着衣,食事,排泄等の日常生活の大部分において介助が必要な状態となってしまったこと,将来的に症状が回復する見込みもなく今後の余生を上記の後遺障害と共に送らなければならないこと,原告Aが本件第1手術を受けるべき緊急性は乏しかったのであり,同手術を受けさえしなければ現在も何らの支障なく日常の生活を送ることができた可能性が相当高かったと考え得ること,本件第1手術は未破裂の脳動脈瘤が破裂することを防止する目的で行われた手術であるところ,この期待を裏切られた原告らの喪失感は計り知れないほど重大であること,今後の原告Aの介助に携わる原告Bらの心労も容易に察せられることなど諸般の事情を勘案して,その金額は1000万円と認めるのが相当である。
(3) 弁護士費用については,原告Aは本件訴訟の追行を同訴訟代理人に委任している(争いのない事実)ところ,本件事案の性質,事件の経過,上記慰謝料の認容額等に鑑みると,その費用のうち100万円を被告病院の医師の説明義務違反と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。
(4) 以上によると,原告Aは,被告病院の医師の説明義務違反により,合計で1100万円の損害を被ったと認められる。
4 結論
以上によれば,原告らの本件請求は,原告Aの被告に対する1100万円及びうち1000万円に対する不法行為の日である平成8年9月11日から,うち100万円に対する訴状送達の日の翌日である平成12年7月12日から,各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し,その余はいずれも理由がないからこれを棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条,64条,65条を,仮執行の宣言について同法259条をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 笠井勝彦 裁判官 寺西和史 裁判官 本多健司)