大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

札幌地方裁判所 平成12年(ワ)958号 判決 2004年3月26日

原告

A野太郎

原告訴訟代理人弁護士

新川晴美

高崎暢

新川生馬

同訴訟復代理人弁護士

竹田美由紀

被告

北興化工機株式会社 (以下「被告会社」という。)

同代表者代表取締役

近藤英夫

被告会社訴訟代理人弁護士

田中敏滋

岡崎拓也

被告

B山松夫(以下「被告B山という。)

被告B山訴訟代理人弁護士

佐々木泉顕

古山忠

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  被告らは、原告に対し、連帯して金一一五〇万円及びこれに対する平成一二年一月二〇日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  仮執行宣言

第二事案の概要

本件は、被告会社の元従業員であった原告が、左脳出血を発症して重障害を負うことになったのは、被告会社において、原告の健康保持増進のための措置をとらず、労働契約に基づく安全配慮義務違反の責任又は注意義務違反による不法行為責任があるとし、被告B山において、原告の主治医としての医療契約の債務不履行責任又は不法行為責任があるとして、両者に対し、逸失利益、慰謝料等の合計七〇二二万円の内金として一一五〇万円及びこれに対する症状固定の日の翌日から支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

一  前提となる事実等(争いのない事実以外は証拠方法を末尾に記載する。)

(1)  被告会社は、機械器具装置の設計、製作、請負を主たる業務とする法人であり、札幌市に本社を置き、札幌市、石狩市、苫小牧市に工場を設け、東京都内に営業所を設けている法人である。

被告B山は、医師として、札幌市西区発寒所在の医療法人社団鉄工団地診療所(以下「鉄工団地診療所」という。)の理事長の職にあり、被告会社の産業医である。

(2)  原告は、昭和一六年四月二二日生まれの男子である。原告は、昭和四一年被告会社に入社し、以来二七年間勤務を続け、平成四年一二月五日の時点で、技術営業部技術営業第二課長の職にあった。

原告は、平成四年一二月五日の被告会社の幹部会議(以下「本件幹部会議」という。)の席上で、左脳出血のため倒れ(以下「本件発症」という。)、医療法人秀友会札幌秀友会病院(以下「秀友会病院」という。)において治療を受け、平成六年二月一七日に西村病院に転院した。

(3)  原告は、平成五年四月二日、脳内出血後遺症による右上下肢機能の全廃及び体幹機能障害により、身体障害者福祉法施行規則別表第五号の身体障害者障害程度等級表一級(以下「障害等級一級」という。)に該当するとして、身体障害者手帳の交付を受けた。

(4)  原告は、被告会社を平成六年一一月三〇日に退職した。

二  争点

(1)  業務と本件発症との因果関係

(2)  被告会社の安全配慮義務違反の責任又は不法行為責任の有無

(3)  被告B山の債務不履行責任又は不法行為責任の有無

(4)  過失相殺

(5)  原告の損害

(6)  被告会社の不法行為責任の時効消滅の有無

三  争点についての当事者の主張

(1)  争点(1)(業務と本件発症との因果関係)について

(原告)

ア 原告の担当業務

(ア) 原告が本件発症時所属していた被告会社本社業務部門は、専務取締役や技術営業部次長のC川竹夫(以下「C川」という。)が統括し、原告は、その下で技術営業第二課長の地位にあって、主として道内の製糖工場、澱粉工場などのプラントの設計、積算、請負工事などを担当していた。同じ技術営業課の第一課長であったD原梅夫(以下「D原」という。)は、課長代理など四名の部下を擁していたが、原告には部下は与えられていなかった。被告会社の組織図上原告の部下として記載されているE田春夫(以下「E田」という。)は、札幌工場の製缶部門に属する作業員であり、原告を援助する部下ではなかった。したがって、原告は、労働基準法四一条二号の管理職には該当しないのであるが、それにもかかわらず、被告会社は、原告について残業もなく、時間外労働の記録を付さない扱いとした。

(イ) 原告の担当業務には、以下のような特徴がある。

a 本社の事務と現場出張の兼任状態

原告の業務のうち、本社において行う事務は、製糖工場や澱粉工場の設計、積算、契約書等の作成、営業活動、下請業者の指定や打合せ、現場出張に関する仮払出張報告や会議参加などである。原告は、本社へは、札幌の自宅から通勤していた。

しかし、一年の過半は、道内各地にある顧客先工場を訪問し、数週間常駐する現場出張を行い、現場で顧客と営業活動を行い、既設の施設の保守点検や補修工事を行った。補修は原告一人で行ったり、下請業者を指揮して作業した。また、営業活動を密にして、数千万円から一億円を超えるプラント施設の受注合戦を行っていた。この期間は、相手方工場に付している職員寮の一画や、簡易旅館などに宿泊し、家庭にいるときと同様の生活は全くできなかった。また、現場出張期間は、肉体労務が中心となるため、本社で行う設計などの事務処理との格差が大きく、その両者の差異が原告の体調を乱す原因となっていた。

b 一人作業

大型プラント工事の着工時には下請業者や被告会社からの数日の応援はあったが、保守点検、補修工事や営業活動には一人の部下もおらず、原告一人で作業をしていた。そのため、落ち着いて受診する時間を作ることができなかった。

c 現場出張期間の兼任

原告が現場出張する期間は、一か所の顧客(工場)を担当して常駐するのではなく、道北の場合は、斜里、網走、帯広などの数社や数工場もあわせて、保守、点検、補修を行い、その作業の間隙を縫って新規受注活動を行い、受注した工事については数週間にわたって工事監督指揮をするというものであった。そのため、新規工事の現場指揮をしながら、他社や他地域での補修や営業を行わなければならなかった。

原告には、部下がいないため、その兼務作業を常に一人で処理しなければならず、そのストレスは多大なものであった。

d 現場監督者としての重責

原告は、①保守、補修工事、②営業、③新規受注工事の監督のほかに、④既に施工した製糖工場の操業開始準備作業も担当した。

③の新規受注工事を遂行するためには、顧客との工程打合調整、数十社の下請業者の手配及び工事開始後の施工監督の業務が必要であった。建築工事の現場の場合、通常は、現場代人の下に、事務担当者、工事進行を指揮する者、安全衛生を担当する者が配置されるが、原告にはそのような補助業務の係員は付されなかった。

また、④の製糖工場の操業開始準備業務は、機械の停止などの発生によって、工場全体の重大なトラブルとなり、担当者の所属会社が今後発注を受けられなくなる事態も生じ得るから、そのような事態が生じないように、専門分野を担当する各社の上に立ってプラント工事全体の設置、総合的な指揮、管理を行う必要があり、ストレスが大きいものであった。

e 現場出張中の雑用

現場出張中、原告は、雑用もすべて一人で行わざるを得なかった。たとえば、平成四年二月から一一月までの間、原告は、レンタカーの手配、JRや航空券の手配、顧客への手みやげ、テレホンカード、ガソリン、ワッシャー、ガムテープ、ジャンパー、万力、図面カバー等の購入などを業務の合間に行っていた。

f マイカー、レンタカーの使用

原告は、札幌から網走方面への現場出張の際には、マイカーやレンタカーも使用していた。設計図、安全靴、ヘルメット、ポット、下着、毛皮、作業服、巻き尺、スパナー、水平器、鉄製道具類など現場で使用する装具類を運ぶために、自動車が必要であった。被告会社の下請会社であるニューロング株式会社の所長も現場への往復は自動車を使用しており、自動車の利用は現場に臨む技術者の習性となっている。

被告会社の旅費精算書には、JRや航空機を使用したかのような記載があるが、出張仮払金の精算書類上のことであり、多くは、マイカーやレンタカーを使用しており、激しい疲労蓄積となっていた。

g 顧客と被告会社とのトラブルの板挟み状態

原告は、現場出張中に生じた顧客とのトラブルについては、全く処理権限が与えられておらず、専務以上の幹部でなければ解決できなかった。

その例として、平成四年、ホクレン農業協同組合連合会(以下「ホクレン」という。)の製糖工場におけるA結晶缶取替工事実施についてトラブルが発生したが、その解決には操業開始直前まで約三か月(同年六月二五日から同年九月二一日まで)を要している。この製糖工場の操業開始の準備終了は同年一〇月初旬が予定されていたから、原告にとっては著しいストレスであり、ダイアリーに何回も記載がされている。専務が現場に来て取替えを承認したが、原告はその結果を待つ以外に方法がなかった。

(ウ) 原告にとって、最も疲労とストレスが蓄積する要因となったのは、現場出張と休日労働の多さである。

a 比較的記録が残っている平成四年二月から同年一二月までの勤務状況を見ると、年間所定労働日のうち六七パーセントが現地出張期間であり、特に、現地出張期間の休日二〇日のうち、八月九日を休みとした以外の一九日はすべて休日出勤している。

b 被告会社は、原告の労働者災害補償保険(以下「労災保険」という。)請求の際に、労働基準監督署の求めに応じて提出した報告において、平成四年ころまで、原告は現場出張時に一日一、二時間の残業と休日出勤を行っていたとしており、平成三年までの原告の勤務状況も、平成四年と同様であった。

イ 原告の疾病

原告の定期健康診断のデータとして現存する昭和六三年三月以降のものや診断書によれば、本件発症に至った病歴は、別紙のとおりである。

原告の高血圧症は、昭和六三年や平成元年三月当時は、ステージ一度程度であったが、平成元年一一月ころは、ステージ二度であって要治療状態になっていた。平成二年三月当時は、再びステージ一度に戻ったが、安定はしていなかった。平成二年五月一二日は、原告が被告B山の病院で受診した際は、ステージ三度との境界線状態にあり、かつ、冠動脈硬化症も発症していた。

その後、定期検診が実施されていないため、その間の病変の把握はできない。特に、本態性高血圧症だけであったのか、心臓などの他の臓器との合併症が出ているのかは判断できない。しかし、平成四年六月三日の健診によれば、明らかに心臓を中心とした循環器系の疾患も増悪している。

本件発症は、同年一二月であるから、平成二年五月一二日から二年七か月で脳出血症に至ってしまったもので、著しい増悪といえる。

ウ 本件発症の直近原因

本件発症当日の被告会社における本件幹部会議は、原告の蓄積していたストレスが一気に突出したものである。

(ア) 原告は、専務とホクレンとの間で生じていたA結晶缶の取替工事の問題を無事乗り越え、平成四年一〇月一二日からホクレン、日本甜菜製糖株式会社(以下「日甜」という。)の工場で操業開始を行い、同年一一月四日に帰札した。その後は、翌年に始まるビート工場の新築工事の開始準備と、一一月中に行う予定であった現場出張の計画もあった。この間は、現場作業から本社での事務作業に切り替わる時期であり、原告の体調も生活ペースも崩されていた。

(イ) 原告にとって、本件幹部会議は、同年の実績を整理し、翌年度の受注計画をまとめたものを提出、報告し、また、他の全幹部の眼前で社長自らの質問にさらされる日であった。

被告会社の社長は、成績主義を中心とするワンマン社長で通っており、組合委員長を辞めた以降の原告を、学歴は低く、技術も低い成績不良者と評価していた。そのため、原告は、社長から、かつ、幹部の前で自らの実績に言及されることを極度に嫌っていた。さらに、原告が苦労して大口受注に成功しても、社長はこれを他者の実績と評価して、原告の実績を常に低く算定し、原告は不満であった。平成四年度の原告の受注契約実績は七億円余であるが、社長はこれを認めず、五二〇〇万円に過ぎない旨述べている。

(ウ) 本件発症当日、原告の体調は悪く、定時(午前八時一五分ころ)に出社したのちに、会社に提出しなければならない社債を取りに午前一〇時ころ自宅に戻った際の顔面は充血状態にあった。原告の妻は、原告が上気しており、頭が痛いと言っていたので、お酒でも飲んだのと問うたところ、原告は、「違う、体調が悪い。」と説明した。その後、被告会社で報告の準備をしたり、車に積んであった道具の移動準備をした。

(エ) 同日、午後二時ころから社長主催の本件幹部会議が始まり、社長、次長、課長以上二〇数名が出席した。社長は翌年の被告会社の方針などを説明した。その後、個人から同年度の実績発表、反省や翌年度の受注見込み等を発表したり協議し、社長からは個別に質問があり、発言を求められた。原告にとっては、ホクレンとの間のA結晶缶取替トラブルでは専務の手を患わせ、思わぬ出費もさせた直後でもあり、また、普段から、D原やA田夏夫(以下「A田」という。)などの同僚の営業実績と比較されて、技術が劣っている、営業実績が低い、と評価されていたから、苦痛な会議であった。被告会社にとっても、一年の営業を決算し、翌年度の各自の営業目標を樹立する、一年で最も重要な会議であった。

(オ) 本件幹部会議中、原告の隣の席に座っていたB野秋夫(以下「B野」という。)は、原告の様子がおかしいので話しかけたが、原告の舌がもつれていてうまく話ができなかった。原告は、緊張のため席をはずすこともできず、救助されることもなく席に座り、本件幹部会議の終了まで耐えていた。原告が発症したのは、午後三時から三時半の間であると思われる。

(カ) 本件幹部会議は終了したが、原告はすでに右側麻痺が発症していたため動けなかった。被告会社が手配した救急車は午後三時五〇分ころ到着した。

以上の事実経過によれば、原告は、極めて高い血圧状態にありながら、業務文書を自宅に取りに戻り、車内の道具の片づけを行い、重要な幹部会議で不満のある報告をし、質問されて答えるという厳しい会議の雰囲気があり、会議を欠席したり、途中で帰宅することの出来ない状況にあった。

したがって、本件幹部会議が原因となって原告の高血圧を増悪させたもので、それ以外に本件発症を説明する直近原因はない。

エ 被告らの主張に対する反論

(ア) 被告会社は、原告が定期検診を勝手に懈怠したと主張するが、被告会社は六か月に一回実施すべき定期検診を実施せず、一年に一回の定期検診について単に計画して通知するだけであった。原告は、平成四年五月の定期検診に行けなかったために同年六月三日に検診しているが、業務の都合でやりくりが難しい場合には、被告会社の定期検診受診の措置がされない限り、やむなく受診できないことになる。また、原告の健康保険は組合保険であるが、被告会社は原告に対し、遠隔地用健康保険証は用意していないため、出張先の病院には行き難い事情にあった。そのため、原告は、被告会社が指定する健診センターでしか受診できないと思いこんでいたのである。このように、原告が受診できなかった原因は、被告会社が①受診指導をせず、②業務縮減措置を講ぜず、③出張先での健診センターを手配せず、④遠隔地用保険証を交付しなかったことである。

(イ) 被告会社は、原告の出張や休日出勤もすべて原告に任せていたと主張するが、原告は管理職ではなく、時間規制外の対象労働者には該当しないから、これによる被告会社の責任は免れない。

(ウ) 被告会社は、原告には肥満、家庭内でのトラブル、飲酒の習慣があり、くも膜の動脈りゅう破裂が原因となって本件発症が起こった旨主張するが、これらの一般的危険因子が原告の業務状況に匹敵するものであったといえるかが検討されなければならない。

原告の体重は一定しており、業務の大半は肉体労働であるし、原告は毎日の体操を欠かさず、折りあればダンスで汗を流していた。少年柔道の相手も務めており、肥満というより頑丈な体格というべきである。

家庭内のトラブルは、子どもに関することが考えられるが、本件発症の一七年前に納まったものであるし、妻との対立はなく、別居をしたり、家事調停を提起することもなかった。

原告の飲酒量は他のサラリーマン以下であり、平成四年六月の健診においても肝臓機能検査の数値は低く、心配なしとされている。

本件発症は、脳幹部である脳室穿孔であり、くも膜下出血は、その血圧によって誘発されたものである。

もとより、本態性高血圧については、考えられる危険因子は多数あるが、四〇歳以上の労働者にこの疾病による脳障害が多発する実態をみれば、業務過重や業務上のストレス蓄積が最大の原因になっていることは明らかである。

(エ) 被告らは、原告が鉄工団地診療所での受診をやめ、また、他の病院に行かなかったと主張するが、被告B山は、診療所や産業医として、原告に対し、被告会社において指導票に基づいて詳しく説明したり、継続的に受診を行うべきであると強い勧告を行うことはなく、被告会社のE原衛生管理者も再検査や精密検査の指示等をしていない。

また、原告は、本態性高血圧と診断されているが、平成二年五月一二日の検査では冠動脈硬化症と診断されているし、平成四年六月の健診で高血圧症の他に左房肥大があり、同年一二月には左脳出血症を発症しているから、心臓疾患によって脳の血管障害と合併した可能性が高い。そうすると、合併症の状態変化に即して精密検査、投薬、手術等を行う必要があるが、そうであれば鉄工団地診療所では対処することができなかったと考えられるところ、被告B山は総合病院受診等を原告に指示せず、また、被告会社に対し、原告の出張制限や受診時間の確保などを指導しなかった。

(被告会社)

ア 原告の主張ア(ア)のうち、原告に部下がいなかったとの点、原告が主として道内の製糖工場、澱粉工場等のプラントの設計、積算、請負工場などを担当していたとの点は否認し、その余は認める。

平成四年当時、原告の業務は主としてプラント機器の現場据付工事の監督業務であり、設計を行うことはなく、顧客とは工事の工程打合せなど工事に関係するものが主であり、受注業務を行うことはほとんどなかった。

被告会社内組織図によると、原告の部下としては、平成二年四月度に課長代理としてB野、同年九月一日度と平成三年四月度に課長代理としてC山冬夫(以下「C山」という。)がそれぞれ配置されていた。E田は、平成四年四月度の組織図上原告の部下であった者である。

原告は、昭和四六年一二月に労働組合委員長を辞めた後、昭和四七年四月A田と共に設計部課長補佐に昇格し管理職者になった。その後、設計部が技術営業部と分離し、同部の課長代理となり、平成二年四月には技術営業部第二技術営業課長となっており、適正な評価を受け、しかるべきポストに就いているものである。原告は、課長補佐就任により管理職者となり、管理職としての役職手当と課長職としての諸待遇を受け、幹部会議に出席し、被告会社の重要事項を決定する会議で意見を述べ、決議に参加してきたものであり、単なる名目的な管理職者ではない。原告は、他の管理者と同様の扱いを受けてきた。被告会社代表者は、昭和四九年七月、原告とA田の希望により住宅用地を紹介し、銀行借入の個人保証をしている。

また、管理者に与えていた退職金の上積みのための社債を原告にも与えていた。

イ 原告の主張ア(イ)のうち、aの本社業務のうち設計、積算、契約書等の作成、営業活動については否認し、その余は認めるが、出張先の業務については否認する。原告の本社業務は、現地工事の計画と下請業者との打合せが主なものであった。原告は、現地での据付工事や補修工事を実際に行う現地の下請業者に対し、監督指導をするに過ぎない。また、現地の宿泊先は、原告の自由意思により選択していたものであり、被告会社が制限したことはない。ホクレン職員宿泊施設は、単身赴任の工場長を初め幹部職員も利用する施設である。

bの一人業務について否認する。原告は、被告会社の上司、同僚、担当設計部員や工場の者などの応援を得ながらチームワークを組んで仕事をしており、原告が孤立して一人で仕事をしなければならないようなことはなかった。

cの現場出張期間の兼任について、前段のうち、その作業の間隙を縫って新規受注活動を行い、受注した工事については数週間にわたって工事監督指揮をするというものであったとあるのを否認し、その余は認め、後段は否認する。原告は、主として現場工事の監督者としての打合せを行うことはあっても、受注業務を行うことはなかった。

dの現場監督者としての重責について、原告に現場監督者としての責任があったことは認めるが、その程度は、被告会社の他の従業員が現場監督として負っていた責任と同程度である。

eの現場出張中の雑用については、原告が他の従業員と比べて特別なことをしていたわけではない。

fのマイカー、レンタカーの使用について、原告が現場への往復の多くにマイカーやレンタカーを使用したとの点は否認する。主たる交通手段はJR又は航空機である。原告がレンタカーを使用して現地から札幌に戻ってきたと思われるのは平成四年は三回程度であり、マイカーの使用は厳禁とされていたのであり得ない。ニューロング株式会社の所長が自動車を使用したのは、工業用ミシンや包装設備の微調整や部品交換など同社固有の仕事の特性から必要であったに過ぎず、現場にのぞむ技術者全員の習性によるものではない。

gの顧客と被告会社とのトラブルの板挟み状態については、平成四年のホクレン製糖工場における問題は、工場側と被告会社本社が直接交渉していたものであり、原告が追及を受ける立場にはなかった。

ウ 原告の主張ア(ウ)は否認する。被告は、原告に対し、試運転などで休日が取れない場合は、帰社後代休をとることを指導していたし、原告も代休を取っていたものである。

エ 原告の主張イのうち、健康診断の明細については認め、その余は争う。

オ 原告の主張ウは否認する。

原告は、平成四年一〇月二六日から同年一一月四日までの一〇日間ホクレン中斜里に出張、同月一九日及び二〇日の二日間ホクレン中斜里に工事の打合せで出張し、また、同月二五日小清水や網走に日帰り往復して工事の打合せに出かけており、同月中の出張日数は七日間で、その余の二三日間は札幌にいた。同月一九日及び二〇日は、サイロⅠ期工事は終了しているので、サイロの底面の越冬最終養生の挨拶廻りであったと推測される。いずれにしても、この時期の原告の出張における業務は緊張を要するものではなくストレスがたまるようなものではなかった。

そして、原告は、同月二六日ころから被告会社を休み(代休を取得したものと理解している。)、同年一二月四日に出社している。

このとおり、原告は、本件発症前の一週間程度、被告会社には出社していない。

原告は、職人肌の技術屋であり、CAD設計はできず営業も苦手としていた。原告の平成四年の受注実績は、オホーツク網走農業協同組合(以下「オホーツク網走農協」という。)の契約金四七〇〇万円と四澱粉工場への部品納入合計約五〇〇万円である。

原告は、CAD設計ができず営業が苦手であることを自覚し、得意分野である現場工事監督の技術力で自分の持ち味を活かそうと努めていたと思われる。したがって、原告が苦手分野である営業で成績をさほど上げることができなかったとしても致し方なく、その分を他の社員が補っていたものである。

平成四年一二月五日については、原告の出社時間及び社債を取りに自宅に戻った点は認め、その余は不知。本件幹部会議の状況については否認する。

被告会社において、毎年一二月第一土曜日の午後に行われる幹部会議は、被告会社の本社、札幌工場、苫小牧工場、石狩工場、東京営業所の幹部(課長以上)を集め、社長より、慰労の言葉や一般的な世の中の情勢の講話があるもので、その後幹部全員で忘年会を開催することが慣例となっていた。本件幹部会議の際も、出席者二三名で、午後二時開始、午後四時終了予定で、午後六時から忘年会開催の予定であった。本件幹部会議は忘年会の前座的なもので事前に会議の次第も議案も作成されず、メモをとる必要もない気楽なものであった。重要議題を審議するには、物理的な時間が足りず、当年度の実績及び翌年度の営業目標等に関する会議は、正月休み明けから一月末に、二月から始まる新年度に向けて時間をかけて行われていたものである。

また、本件幹部会議の途中で原告の様子がおかしく舌がもつれてうまく話ができなくなったということはなく、会議終了後に問いかけられた原告が、手がしびれると答えており、本件発症は、本件幹部会議の終了後である。

なお、D原は、本件幹部会議中、原告が酒臭かったと明確に記憶しており、B野も原告が朝から顔が赤く、二日酔いかと思った旨述べている。

カ 原告の基礎疾患である高血圧症は、原告の体質によるものであり、その増悪原因は、原告が高血圧の治療を継続していなかったこと、飲酒、肥満(原告の肥満度はBMIの基準値二三・三三に対し二九・三)、夫婦仲が良くなかったことである。

(被告B山)

ア 業務と本件発症との因果関係についての原告の主張のうち、エ(エ)は否認し、その余は不知である。

イ 原告は、平成二年五月一二日、全身倦怠感を主訴にして、鉄工団地診療所に来院した。被告B山は、原告に対し、検尿、肝機能等の検査を行い、その結果原告に対し、血圧は極めて頻度の高い危険領域であり、近い将来、脳出血、心筋梗塞の合併症の発症が考えられるので、一生を通じて治療を続けるよう指導した。

ウ 被告B山の治療の結果、原告は、平成二年五月一八日には危険域を脱出したものの、同年六月一〇日以降受診しなかった。鉄工団地診療所は、被告会社から徒歩一〇分程度の距離にあり、診療時間は午前八時三〇分から午後一時まで、午後二時から午後五時三〇分までであり、昼休みを利用すれば十分通院可能であった。

また、被告B山は、時間外の診療にも応じていたのであって、原告が治療を受けようと思えば、いつでも受けられたはずであり、原告が平成二年六月一〇日以降受診しなかったことは、原告が健康に対する自己管理を怠ったに過ぎない。

よって、被告B山は、医師として、原告に対し、適切な治療、指導を行っていたものであり、本件発症はすべて原告の責任である。

(2)  争点(2)(被告会社の安全配慮義務違反の責任又は不法行為責任の有無)について

(原告)

ア(ア) 被告会社は、原告の事業主として、原告の疾病の存在や原告の業務が多忙で検査や継続的治療を受けられない状態にあることを知りながら、原告の疾病が増悪し、脳出血などの重篤な障害に至らないよう労働契約に基づく安全配慮義務があったのにその履行を怠った。

(イ) 原告の所属する被告会社本社は、常時五〇人以上の労働者を有する事業場であったから、産業医を選任し、産業医により健康保持増進計画を策定し、原告を含む全社員に対する指導票交付とそれに基づく指導を行い、毎月一回の事業場巡回や衛生委員と健康保持増進専門委員会を主催するなどの義務があるが、それを遂行しなかった(労働安全衛生法一二条、一三条、一三条の二、一八条、六六条の五、六九条、七〇条の二、告示指針)。

(ウ) 運動指導担当者を選任せず、社員の個人別運動プログラムを策定せず、具体的指導を行わなかった(告示指針)。

(エ) 平成三年三月ころに行うべき定期健康診断を実施せず、原告に対し受診すべきことを命じなかった(労働安全衛生法六六条)。

(オ) 原告の疾病程度にそう出張制限、検査及び受診時間の付与などの健康保持増進のための措置をしなかった(告示指針)。

(カ) 原告に対し、休職、就業制限などの、被告会社の就業規則九六条四号で定められた措置をとらなかった。

イ 被告会社は、ア(ア)の状況を知りながら、(イ)ないし(カ)の各項目の措置を講じなかった注意義務違反により、民法七〇九条による不法行為責任がある。

(被告会社)

原告の主張は否認ないし争う。

(3)  争点(3)(被告B山の債務不履行責任又は不法行為責任の有無)について

(原告)

ア 主治医としての医療契約に基づく請求

(ア) 原告が受診した鉄工団地診療所は、医療法人社団であるが、その開設者も理事長も、同診療所医師も被告B山であって、同診療所の実態は被告B山の個人事業と同一である。したがって、原告が医療契約を行った当事者は、被告B山である。

原告と被告B山との間の医療契約は、被告B山が主治医として善良な管理者の注意をもって、診療当時の臨床医学の実践における医療水準に従い、原告の病的症状の医学的解明をするとともに適切な治療行為を施すか、又は適切な転医措置を施し、また産業医として、原告の病的症状に即し被告会社に対し病状増悪防止措置を立案して実施せしめ、かつ、原告に対し、疾病の現状、改善方法及び増悪防止方法を具体的に示して、受診を継続させる措置を講ずることを債務の内容とする準委任契約である。

(イ) 被告B山は、鉄工団地診療所の医師として被告会社から産業医の選任を受けているのであるから、被告会社に所属する原告の疾病を増悪させないため、自ら、また被告会社を督励して、争点(2)原告の主張ア(イ)から(カ)までの措置を万全に実施すべきであるのに、それを怠った。

(ウ) 被告B山は、平成二年五月一二日、原告を診察し、原告には本態性高血圧症と冠動脈硬化症が存することを知り、かつ、被告会社の産業医でもあったから、同年六月一〇日以降も原告に対し受診を督促すべき義務があったが、これを怠った。

イ 産業医としての労働安全(原告の健康保持増進措置)指導契約に基づく請求

(ア) 被告B山は、被告会社の産業医であり、事業主である被告会社との関係で労働者の生命、健康を守り、保持すべき安全配慮義務を負う立場に置かれているのであって、被告B山と原告との間には、労働契約類似の安全配慮義務による指導契約という法律関係が成立していた。

(イ) 前記の法律関係に基づいて産業医である被告B山が原告に対して負う義務の内容は、原告の病状や勤務との関係を原告や被告会社から聴取し、原告の健診データを点検して、これらに基づいて原告に対して指導票などを交付して指導するというものである。

(ウ) 被告B山は、前記義務に違反し、全く原告の指導にあたらず、原告を放置したものである。

ウ 被告B山と被告会社間の昭和四八年三月一五日付契約に基づく第三者のための契約による請求

(ア) 被告B山は、昭和四八年三月一五日、被告会社との間で、労働安全衛生法一三条に基づく産業医としての義務事項(告示事項も含む。)を履行することを約する契約を締結した。

原告は、平成二年五月一二日、被告B山を受診し、前記契約上の受益の意思表示をした。

(イ) 被告B山は、前記義務を履行せず、原告を放置したものである。

エ 被告B山の不法行為に基づく請求

前記アからウまでの被告B山の行為は、不法行為を構成するものであり、原告は、被告B山に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権を有する。

(被告B山)

ア 原告の主張は争う。

イ 被告B山と被告会社との主たる契約内容は、以下のとおりであり、原告が主張する各措置を実施する義務は、被告会社に対しても存在しないし、原告に対する関係で実施する義務は存在しない。

① 健康診断については健康管理センター等の外部業者に委託することになっており、健康診断の結果、異常のある者の二次検査については、本人の希望があれば被告B山が行う。

② 労働基準監督署に提出する健康診断事後処置の書類の作成に参画する。

③ 被告会社の環境管理、従業員の健康に関する相談にはいつでも応ずる。

④ 被告B山の報酬は規定の一〇分の一とする。

(4)  争点(4)(過失相殺)について

(被告会社)

争点(1)の被告会社の主張カのとおり。

(原告)

争点(1)の原告の主張エのとおり。

(5)  争点(5)(原告の損害)について

(原告)

原告の損害は、以下のとおり、合計七〇二二万円である(本件では、このうち一一五〇万円を請求している。)。

① 逸失利益 四三七二万円

原告は、症状固定時五九歳の男子で年額五〇九万円の収入を得ていたもので、本件発症に遭わなければ、満六七歳まで収入を得ていたはずであるから、新ホフマン式計算法によって中間利息を控除した金額である四三七二万円が損害となる。

509万円×8.59=4372万円

② 慰謝料 二五〇〇万円

原告の被った精神的損害を慰謝するための慰謝料としては二五〇〇万円が相当である。

③ 弁護士費用 一五〇万円

(被告会社)

すべて否認する。

(被告B山)

すべて争う。

(6)  争点(6)(被告会社の不法行為責任の時効消滅の有無)について

(被告会社)

被告会社に不法行為責任があるとしても、原告が損害発生を知ったときから三年以上が経過しており、被告会社は、平成一二年七月一二日の本件口頭弁論期日において、消滅時効を援用する旨の意思表示をした。

(原告)

ア 被告会社の主張は否認する。

イ 原告は、平成五年四月二日に一級の身体障害者手帳の交付を受けたが、身体障害者福祉法の一級は労働者災害補償保険法の障害等級の一級から五級程度に該当するのであるし、原告は、脳軟化が進行し、手足の拘縮、直立及び歩行不能、会話困難という症状が日々増悪している状態であり、労災保険法による一級障害の症状固定の時期は、西村病院において、脳内出血による右上下肢機能の全廃及び体幹機能障害の後遺障害がある旨の診断がされた平成一二年一月一九日ころとすべきである。

ウ 本件発症による障害の結果、原告には自らの業務内容を調査し再現する能力がないこと、被告会社が原告の業務文書を隠秘していること、被告会社は被告会社の行為と本件発症との因果関係を否定していること、平成一一年ころに労災保険の不支給採決がされていることからすると、原告は、障害と加害行為との因果関係を認識しているとは言えないし、加害行為の違法性、加害者を認識したのも平成一一年一二月ころである。

エ 被告会社による消滅時効の主張は、権利の濫用である。

第三争点に対する判断

一  争点(1)(業務と本件発症との因果関係)について

(1)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

ア 原告は、昭和一六年四月二二日生まれの男子であり、昭和四一年六月、二五歳時に被告会社に入社した。当初設計課に配属され、設計及び現場監督の業務に従事し、昭和四七年四月に設計課長代理となり、平成二年四月に技術営業部に異動して技術営業第二課長となった。

イ 被告会社の組織図によると、平成二年四月度は、技術営業部の課長として、第一課長のD原、第二課長の原告がおり、両者の下に課長代理のB野、その下に主任職の職員二名が配置されていた。平成二年九月度には、D原の下に課長代理としてB野、その下に主任職の職員が二名配置され、原告の下には、課長代理としてC山が配置されていた。そして、平成三年四月度も、平成二年九月度と同様であった。平成四年四月度は、原告の下に、上記C山に代わり、一般職としてE田が配置された。E田は、退職後、再度一般職員として被告会社との雇用契約を締結した者であった。E田は、原告の下に位置づけられていたが、技術営業部全体について、現場作業を補助するという役割を果たしており、実際にE田が原告の現場作業を補助することはほとんどなかった。

ウ 被告会社の受注営業は、北海道内の製糖、乳業、澱粉等の企業については、専務のD川一郎(以下「D川専務」という。)のもとで、技術営業部が担当していたが、大型の受注案件や、海外技術に関わるものは、D川専務が設計部を使って自ら担当していた。そして、その他の取引先の担当については、徐々に取引先別の担当者が決まるようになり、C川が北海道糖業の本別、北見、道南の三製糖所と関連会社、ホクレンの農務部、農協等を、D原が、日甜の芽室、美幌、士別の三製糖所と関連事業所を、B野がホクレンの清水・中斜里の二製糖工場の工務部と札幌市ほかの官庁と環境機器メーカーを、原告が澱粉関係を、それぞれ担当するようになっていった。

原告は、営業よりも、技術力が評価され、現場監督など現場での業務を得意としていたことや、原告の営業相手である澱粉関係企業からの受注案件が減少していたこともあり、他の担当者の案件に関する現場工事を担当することも多かった。被告会社内の者は、原告本人から聞くなどして、原告が営業よりも現場での業務を得意とすると考えていた。

平成四年中に、原告は、オホーツク網走農協の澱粉工場向けの受入設備改修工事の受注に成功した。受注金額は四七〇〇万円であり、実際の営業活動においてはD川専務が原告に同行するなどしていたが、一件で四七〇〇万円という契約の受注は、原告の担当した受注案件のうち最高金額のものであった。

エ 現場の工事や監督の業務は、製糖の工場が、九月下旬ころに試運転が行われ、一〇月ころから本格操業が開始されるため、九月中には、機械の納品、検収や修理などの準備で忙しい期間となり、また、澱粉工場についても、製糖工場よりも早く操業が開始されるものの、近接した時期に同様の作業が行われていたため、それらの操業に先立つ八月、九月ころが繁忙をきわめる時期であった。

原告は、現場監督の業務に従事している際、自ら配管資材やボルト、ナット等を購入することもあった。

オ 本件発症前六か月間(平成四年六月から同年一二月五日まで)の原告の業務状況は、以下のとおりである。

(ア) 平成四年六月、網走、中斜里、旭川及び帯広での打合せ等のため、二日火曜日、五日金曜日、八日月曜日から九日火曜日まで、一一日木曜日から一二日金曜日まで、一五日月曜日から一九日金曜日まで、二三日火曜日から二六日金曜日まで並びに二九日月曜日から三〇日火曜日まで、合計一七日間出張した。このうち、二三日から二六日までの出張は、レンタカーで札幌から帯広に赴き、帯広での業務の後、さらに帯広から中斜里までレンタカーで移動し、復路は航空機を利用して札幌に戻るというものであった。出張以外の勤務は七日であった。

休日勤務はなかった。

(イ) 平成四年七月

帯広での打合せ等のため、同年六月二九日から引き続いて七月二日木曜日まで出張し、その他、網走、斜里、帯広での打合せ、納品等のため、六日月曜日から一一日土曜日まで、二〇日月曜日から二一日火曜日まで並びに二七日月曜日から三一日金曜日まで、合計一五日間出張した。このうち、二七日からのオホーツク網走農協澱粉工場での受入設備改修工事に係る業務のための出張は、札幌から網走の往路がレンタカーによるもので、復路は航空機を利用して札幌に戻るというものであった。出張以外の勤務は一〇日であった。

休日勤務はなかった。

(ウ) 平成四年八月

オホーツク網走農協澱粉工場での受入設備改修工事に係る作業のため、同年七月二七日から引き続いて八月一日土曜日まで、五日水曜日から一三日木曜日まで、一八日火曜日から三一日月曜日まで出張した。合計出張日数は、二四日であった。出張以外の勤務は三日であった。

また、休日勤務は、被告会社の休日八日のうち四日であった。

(エ) 平成四年九月

オホーツク網走農協澱粉工場での受入設備改修工事に係る作業のため、同年八月から引き続いて九月九日水曜日まで出張し、ホクレンの中斜里製糖工場での作業のため、一一日金曜日から一六日水曜日まで出張し、一七日本曜日は中標津での営業を行い、二〇日日曜日から二四日木曜日は再度ホクレンの中斜里製糖工場での作業のため出張し、二五日金曜日に網走で営業を行った。二五日に網走から帰宅する際には、レンタカーを使用した。合計出張日数は二二日であった。出張以外の勤務は七日であった。

また、休日勤務は、被告会社の休日七日のうち六日であった。

(オ) 平成四年一〇月

ホクレンの中斜里製糖工場での作業のため、一二日月曜日から一七日土曜日まで及び二六日月曜日から三一日土曜日まで出張し、日甜の美幌製糖所でのビート洗浄機械試運転立会のため二〇日火曜日から二四日土曜日まで出張した。合計出張日数は一七日であった。出張以外の勤務は九日であった。

また、休日勤務は、被告会社の休日六日のうち一日であった。

(カ) 平成四年一一月

ホクレンの中斜里製糖工場での作業のため、同年一〇月二六日から引き続いて一一月四日水曜日まで出張し、ホクレンの中斜里製糖工場での営業、網走での出張のため、一九日木曜日から二〇日金曜日まで及び二五日水曜日に出張した。合計出張日数は七日であった。出張以外の勤務は一七日であった。

また、休日勤務は、被告会社の休日八日のうち二日であった。

(キ) 平成四年一二月

一二月中には、五日の本件幹部会議まで出張はなかった。

(ク) この間の、原告の主たる業務内容は、よつ葉乳業十勝工場でのドライヤー改造工事、オホーツク網走農協澱粉工場の受入設備改修工事及びホクレン中斜里製糖工場のシュガーサイロ建設工事(平成四年から平成五年にかけて行われることとなっていた工事)のうちサイロ基礎工事等の現場監督並びに日甜美幌製糖所のビート洗浄機試運転立会であり、その他、各現場において、既設機械の補修等もあった。

ホクレン中斜里製糖工場においては、既設のA結晶缶と呼ばれる機械の攪拌機下部軸受メタルの取替えについて、平成四年七月一一日ころからホクレンや被告会社との間で協議が行われ、同年九月七日に取り替えることが決定した。同様に、同機械の吸い込み口の不具合についても同年六月二五日ころから協議が行われ、同年九月七日に改善案が決定された。この間の協議は、被告会社のD川専務が担当した。

オホーツク網走農協澱粉工場の受入設備改修工事や、ホクレン中斜里製糖工場のシュガーサイロ建設工事においては、下請業者の従業員が二、三人ないし一〇人程度作業を行い、原告は、それらの者を監督する立場であった。これらの下請業者のうち、日本通運株式会社釧路支店及び東洋機設は、毎年のように作業を依頼している業者であり、また、下請業者の作業者と原告との間には信頼関係が築かれており、特段のトラブルはなかった。

(ケ) 被告会社の所定労働時間は、毎年四月一日から九月三〇日までの間は、始業が午前八時、終業が午後四時四五分、一〇月一日から三月三一日までの間は、始業が午前八時一五分、終業が午後五時で実働が八時間となっていた。原告は、管理職にあったため、労働時間の報告義務はなく、毎日の労働時間を示す資料はないが、出張時以外の業務では、場合により一日一、二時間残業することがあった。また、出張時の作業時間は、午前八時から午後六時ころまでのことが多く、一時間程度所定外勤務をしていたものと考えられるが、そのほかに、平成四年七月一日(実際には同月二日)は、午前〇時から二時間、同年九月三日は午後六時半から翌日午前六時まで、同年五日は翌日午前一時まで、同月七日は翌日午前〇時まで、同月一五日は翌日午前三時まで、同月二二日及び二三日は午後一一時まで、同年一〇月二一日は翌日午前四時までという深夜の作業を行った。

カ 被告会社では、毎年一二月の第一土曜日の午後に管理職の者が集まり、二時間程度の会議が行われている。この幹部会議では、社長から、取引先業界や同業他社の動向、受注案件と業績見通し等の説明があり、出席者に対する労いの言葉が述べられるなどし、出席者はそれぞれ二分から五分程度、担当業務の来年度の予定等を発言することとされている。この発言のために特段の準備は必要とされず、発言に対し叱責されるようなことはない。そして、その後、出席者による忘年会が開催される。本件幹部会議も、この例によって開催されたものであり、社長以下二〇名程度の管理職の者が参加して、平成四年一二月五日の午後二時から行われた。原告も発言し、同年中から開始され、平成五年も継続される。ホクレン中斜里製糖工場のシュガーサイロ建設工事の現場監督の仕事を遂行していく旨が述べられた。会議は予定よりも早く、同日午後三時四六分ころに終了した。

キ 被告会社で行われた健康診断の結果による原告の身長、体重、血圧等は以下のとおりである。なお、被告会社における定期健康診断は、平成三年までは年二回行われ、平成四年から年一回行われることとなった。

① 昭和六三年三月一六日

身長 一六二・七センチメートル

体重 七五キログラム

血圧 一六〇/九〇

医師の注意 要注意

② 平成元年三月一〇日

身長 一六三センチメートル

体重 七五キログラム

血圧 一五〇/一〇二

医師の注意 要注意

③ 平成元年一一月一〇日

身長 一六三・一センチメートル

体重 七八キログラム

血圧 一六〇/一〇四

医師の注意 高血圧

④ 平成二年三月二八日

身長 一六三・二センチメートル

体重 七六キログラム

血圧 一四八/九八

心電図所見 PR延長 陰性T

医師の注意 太りすぎです。体重減少に努めて下さい

血圧値については時々チェックして下さい

尿糖については再検して下さい

心電図検査については経過観察が必要です

⑤ 平成四年六月三日

身長 一六三センチメートル

体重 七八キログラム

血圧 一八〇/一二〇 一六八/一一六

心電図所見 左房肥大、左室肥大

医師の注意《要治療》血圧、《要観察》左房肥大、左室肥大

ク 原告は、平成二年五月一二日に、全身倦怠感を訴えて鉄工団地診療所で被告B山の診察を受けた。その際の血圧は一八〇/一一〇であり、本態性高血圧症、冠動脈硬化症と診断された。そして、降圧剤を処方された。その結果、原告の血圧は、同月一四日の診察時に一六四/一〇四、同月一八日の診察時に一四八/八六、同月二八日の診察時に一六二/九〇と抑えられていた。同年六月一〇日は、投薬のみであった。その後、原告は、被告B山の診察を受けていない。

(2)  以上の事実関係をもとに、労災保険給付における業務起因性に関する認定基準(「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」平成一三年一二月一二日付け基発第一〇六三号厚生労働省基準局長通達)をも参考として、業務と本件発症との因果関係の有無を検討する。前記認定基準では、①発症直前から前日までの間における異常な出来事への遭遇、②発症に近接した時期(発症前おおむね一週間)の過重業務又は③発症前の長期間(発症前おおむね六か月間)の過重業務があげられており、この分類に従って以下検討する。

ア まず、発症直前から前日までの間における異常な出来事への遭遇であるが、原告は、この点、本件幹部会議は、ワンマンである社長以下の幹部が全員参加するもので、年に数回しか行われず、社長が原告以下の主な出席者を名指しして個別に報告させるもので、原告は年間営業実績が低いことが気になっており、これを指摘される恐怖を有しているのであって、本件幹部会議終了直前に原告は発症したことから、異常な出来事に該当する旨を主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、本件幹部会議は、例年一二月の忘年会前に行われるものであり、その内容も、業界の動向や業績見通し等の一般的な話が社長からされるほか、担当業務の来年度の予定等を出席者が発言するもので、個別の案件を検討したり、個別の営業成績を比較するようなことはなく、発言を求められる出席者としても、特段の準備を要する会議ではなかったのであるし、実際にも、予定終了時刻の午後四時よりも三〇分程度早く終了したものであって、これをもって極度の緊張、興奮、恐怖、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす事態と言うことはできない。原告の発言も、平成五年度に担当することが決まっていたホクレン中斜里製糖工場のシュガーサイロ建設工事の現場監督業務の予定を内容とするもので、それに対し、社長や他の幹部から質問がされたりするようなことがあったとも認められない。発言内容となっていたかどうかは明確ではないが、平成四年度は、原告の営業成績として、原告の受注案件のうち最高金額である、オホーツク網走農協澱粉工場の受入設備改修工事(受注金額は四七〇〇万円)を受注し、その作業も終了していたのであるから、この点でも、原告が、本件幹部会議について極度の緊張を強いられる状況にあったとは考えにくい。たしかに、社長以下幹部全員が集まる会議である以上、出席者は一定程度の緊張を感じるということはできるが、強度の精神的負荷を引き起こす事態ということはできない。

イ 次に、発症に近接した時期(発症前おおむね一週間)の過重業務についてであるが、本件発症前の一週間程度については、平成四年一一月二六日付けの被告会社の出張旅費精算書、被告会社の原告に関する出納帳簿及び原告の手帳により、原告が、同月二四日に二万円の仮払を受けて、同日及び同月二五日の出張に関する精算を同月二六日に行っていること及び同年一二月五日に一〇万円の仮払を受けていることが認められるが、前記の原告の手帳には、前記の両仮払が連続して記載されていること、その間に出張に赴いたり、特別な業務を行ったことを示すような資料もないことから、同年一一月二五日に出張から戻った後は、通常の事務所内の業務に従事していたものと考えるのが相当である。そして、前記認定のとおり、出張以外の勤務について一日あたり一、二時間の残業をする場合があったところ、この間に毎日二時間の残業があったと仮定しても、その所定外勤務を加味した業務について、業務量や業務内容、作業環境といった点で過重に精神的、身体的負荷をもたらすものと言うことはできず、過重労働であったとは言えないと解される。

ウ そこで、次に、発症前の長期間(発症前おおむね六か月間)の過重業務が認められるかどうかについて検討する。

(ア) まず、労働時間の長さの点について見ると、本件発症前六か月間の労働時間を、出張以外の勤務について一日あたり一時間の所定外労働(一、二時間の残業をする場合もあったということから、一日平均で一時間とした。)、出張時は前記のとおり一日あたり一時間の所定外労働がされていたと仮定し、その他、休日勤務、深夜に及ぶ勤務として前記のとおり認められた時間を併せて算定すると、平成四年六月が二四時間、同年七月が二七時間(同月一日の深夜の二時間の労働を含む。)、同年八月が五九時間(四日間の休日勤務を含む。)、同年九月が一二〇・五時間(六日間の休日勤務、同月三日、五日、七日、一五日、二二日及び二三日の深夜労働を含む。)、同年一〇月が四四時間(一日間の休日勤務、同月二一日の深夜労働を含む。)、同年一一月が四〇時間(二日間の休日勤務を含む。)、同年一二月(同月四日まで)が四時間となり、同年九月の所定外労働時間が一〇〇時間を超え、著しく長くなっており、次いで同年八月も所定外労働時間が長時間に及んでいることが認められる。他方、同年九月二五日に出張から戻ったあとは、同年一〇月一二日に出張するまで、二週間は出張もない状況であり、また、同年八月及び同年九月の前後の期間の所定外労働時間は、一か月あたり四五時間以内にとどまっている。

(イ) 次に、原告の業務内容をも含めた作業環境について見ると、本件発症前六か月間の原告の業務のうち、出張が占める割合は所定労働日数の六〇パーセント余であり、出張の多い業務であったと言える。また、納期等との関係で作業が深夜に及んだ場合もあり、不規則な勤務になることもあったと認められる。出張先である網走や、帯広を経由して中斜里まで、あるいは、網走から札幌までの移動手段としてレンタカーによることもあり、長距離の運転による疲労増大があったことも認められる。そして、原告の業務は、現場監督として下請業者を指示し、監督することはあっても、原告の業務を援助する部下が同行するようなことはほとんどなく、被告会社の組織図上原告の下に位置づけられていたE田も、原告とともに現場に入ることもほとんどなかったほか、工具等の不足分と思われる買い出しもしていたことから、一人で雑用等も行う作業であったことが認められる。

他方、出張先はおおむね三か所であり、現場監督として、一か所の現場に長期に滞在することが多く、特に、出張期間、労働時間が長い平成四年八月及び同年九月はその傾向が強いことが認められる(この期間は、オホーツク網走農協澱粉工場の受入設備改修工事及びホクレン中斜里製糖工場のシュガーサイロ建設工事のために、各現場に一定期間滞在するという出張形態であり、短期間の滞在で札幌と現地とを往復するという、長時間の移動を繰り返すものではなかった。)。また、深夜に及ぶ作業も、同年九月は六日に及んでいるものの、その他は同年七月及び同年一〇月に各一日あるのみであった。出張先と札幌とのレンタカーによる移動も、往復レンタカーであったことはなく、往路のみ、あるいは、復路のみであった。さらに、原告が指揮監督をする下請業者は、例年依頼する業者も含まれ、信頼関係も構築されており、常に新規の業者と接するような状況ではなかった。

なお、原告は、ホクレン中斜里製糖工場において、A結晶缶の部品取替えの件で、解決までに三か月程度経過したことから、これにより、原告が相当程度のストレスを受けた旨主張するが、前記認定のとおり、これらの協議は被告会社のD川専務が担当しており、原告も、現場の責任者として問題の帰すうには関心を持っていたことが認められるものの、これをもって、そのストレスが通常の業務の過程で生ずる以上の程度のものであったとまでは認め難い。

これらの諸事情を考慮すると、原告の置かれた作業環境が、恒常的な精神的、肉体的負荷を生ぜしめ、疲労を蓄積させるものであったとは言い難い。

(ウ) 以上から、発症前の長期間(発症前おおむね六か月間)についても、過重業務があったと認めることはできない。

エ そうすると、前記認定のとおり、原告は、遅くとも昭和六三年から血圧が高い状況にあり、平成二年の被告会社実施の健康診断時に高血圧と診断され、同年五月から六月にかけて鉄工団地診療所において本態性高血圧症と診断されて降圧剤の処方を受けるなどし、平成四年度においても血圧については治療を要する旨指摘されていることが認められ、原告の高血圧が増悪して本件発症に至ったことが考えられるものの、業務が自然的な経過を超えて高血圧を増悪させたとは言えず、その他、業務と本件発症との因果関係を認めるに足りる証拠はなく、これを認めることはできないと言わざるを得ない。他の点を論ずるまでもなく、被告会社に対する請求は理由がないこととなる。

二  争点(3)(被告B山の債務不履行責任又は不法行為責任の有無)について

(1)  原告は、被告B山が、①被告会社から選任を受けた産業医として、被告会社に所属する原告の疾病を増悪させないため、原告に定期健康診断の受診を命じたり、原告の出張制限、検査及び受診時間を付与するなどの措置をとらなかった、また、被告会社をして同様の措置をとらせなかった、②産業医として労働安全指導契約に基づく原告に対する健康維持のための指導を行わなかった、③被告会社との間の昭和四八年三月一五日付け産業医に係る契約は第三者のためにする契約であり、第三者である原告は受益の意思表示をしたところ、これに基づいて生じた債務を履行しなかった、と主張し、債務不履行責任がある旨を述べるが、原告が主張する事実は、被告会社の産業医として、被告B山の被告会社に対する債務不履行責任を生じさせることはあっても、原告との間で、個別の医療契約を離れて債務不履行責任を生じさせるものではないと解される。したがって、この点の原告の主張を採用することはできない。

(2)  また、原告は、平成二年五月一二日に被告B山の診察を受け、被告B山との間に医療契約を締結したところ、被告B山が、適切な治療行為や転医措置を施し、生活や業務に関する指導を行い、同年六月一〇日以降受診しなくなった原告に受診を督促する義務に反し、これらのことを実施しなかったとして、被告B山には、債務不履行責任あるいは不法行為責任がある旨主張する。

しかしながら、被告B山は、前記一(1)クで認定したとおり、初診時に一八〇/一一〇の血圧を示した原告に対して降圧剤を処方し、また、パンフレットを交付するなどして説明をしているところ、その後、血圧は抑えられつつあったのであるから、被告B山の処置が不適切であり、医師として求められる注意義務に反していたとは認められず、その他、これを認めるに足りる証拠はない。

原告は、降圧剤による薬物治療を開始するための血圧の状態の基準について、被告B山の供述には誤りがあるとして、異なる解説がされている文献を提出するが、原告の示す基準に従っても、鉄工団地診療所初診時の原告の血圧は薬物治療が開始されるべき状態であったのであり、薬物治療を開始した被告B山の処置に問題は認められない。

また、原告は、平成四年六月一〇日以降被告B山を受診しなくなっていたが、それまでに降圧剤の処方により原告の血圧は抑えられた状態であり、降圧剤を継続する必要はあるものの、緊急に診察を要する状態であったとはいえないことから、被告B山が原告の受診を督促しなかったとしても、そのことをもって医師としての注意義務を怠ったものということはできない。

(3)  以上から、被告B山の債務不履行責任又は不法行為責任を認めることはできない。

三  まとめ

そうすると、他の争点について検討するまでもなく、原告の請求はいずれも理由がない。

第四結論

以上の次第で、原告の請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 山田真紀)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例