札幌地方裁判所 平成13年(ワ)285号 判決 2003年3月14日
主文
1 被告は、原告に対し、924万0668円及びこれに対する平成9年5月27日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、これを5分し、その1を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
4 この判決は、第1項に限り仮に執行することができる。ただし、被告が700万円の担保を供するときは、その仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第1請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、5007万0870円及びこれに対する平成9年5月27日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
第2請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 仮執行免脱宣言
第3事案の概要
本件は、札幌刑務所に在監している原告が、ソフトボールの練習中、顔面に打球の直撃を受け左眼を負傷し、その結果、視力が著しく低下したが、これは、札幌刑務所の職員が安全配慮義務を怠ったためであるとして、札幌刑務所を設置運営する被告に対し、国家賠償法1条1項に基づいて損害賠償を請求した事案である。
1 前提となる事実(争いのない事実は証拠を掲記しない。)
(1)当事者
ア 原告は、昭和36年1月29日生まれの男性で、平成8年6月13日、刑事被告人として札幌刑務所管下札幌拘置支所に入所し、平成9年1月28日、懲役6年及び罰金60万円の刑が確定したため、同年2月7日、札幌拘置支所から札幌刑務所に移監収容された者である。
イ 被告は、公務員である刑務所職員を擁して札幌刑務所を設置し、管理運営している。
(2)札幌刑務所における受刑者の運動内容
ア 監獄法38条は、在監者の運動について「在監者ニハ其健康ヲ保ツニ必要ナル運動ヲ為サシム」と定めているところ、札幌刑務所においては、休日及び入浴日を除いて、毎日、工場と運動場との間の往復に費やす時間を含めて40分間を運動のための時間とし、受刑者に運動をする機会を与えている。
イ 平成9年度の札幌刑務所におけるグラウンドでの受刑者の屋外運動は、同年4月21日から開始されたが、屋外運動の都度、同年6月中旬に開催が予定されていた工場対抗春季ソフトボール大会に備え、出場予定の選手たちによってソフトボールの練習が行われていた。ソフトボールの練習に参加しない受刑者は、ランニングや散歩、あるいは、休憩所で座って休んだり、囲碁・将棋をするなどしており、運動時間中の過ごし方を受刑者が自由に選択できることとなっていた(乙2、乙3、弁論の全趣旨)。
なお、上記ソフトボール大会は、第1ショートと第2ショートのいる10人制で行われるものであった(乙4、弁論の全趣旨)。
(3)事故の発生とその後の治療等
原告は、平成9年5月27日の午前中、屋外運動でのソフトボールの練習において、第1ショートの守備につき、シートバッティングでレフト方向に打球が飛んだので、バッターに背を向けるようにして、レフトからの返球を捕球し、投手に返球しようと振り向いたところ、折り悪しく打者の打った打球が顔面を直撃し、左眼の瞼の鼻に近い部分が切れて出血した(以下「本件事故」という。)。
原告は、本件事故後直ちに札幌刑務所の医務部においてA医師による診察を受け、同医師により、左瞼の縫合処置(2針)を受けるとともに、左眼窩裂傷により全治7日間であるが、一般就業は可能であると診断された(甲2の18)。原告は、上記処置を受けた後、自分の配属先である第7工場に戻って刑務作業を行ったが、本件事故の当日は、月1回の眼科診療の日に当たっていたため、同日午後2時ころ、眼科専門医であるB医師による診察を受けた。
原告は、B医師により、左眼瞼裂傷・左角膜切創のため、約7日間の休養、加療を要すると診断され、同年6月19日までの休養処遇となった(甲2の17、甲6)。
2 争点
(1)争点1(本件事故の発生に関する安全配慮義務違反の有無)
ア 原告の主張
被告(被用者である刑務所長及びその指揮監督下にある刑務所職員を含む。)には、監獄法上、受刑者を管理監督し、その生命身体の安全や健康の確保に努めなければならない安全配慮義務がある(監獄法40条、43条参照)。
受刑者は、刑務所職員の監視、管理の下でソフトボールの練習を行い、その練習方法については監督及びキャプテンが決定し、一般の選手はこれに従うほかなかったのであるから、上記のような安全配慮義務を負う刑務所職員としては、ソフトボールの練習方法が危険なものであれば、これをやめさせるべきである。
本件事故の発生時、グラウンド内には6個のボールが出され、打球が投手のもとに戻らないうちに次の打撃練習が行われており、これは危険な練習方法であるから、上記のような義務を負う刑務所職員としては、このような危険な練習方法に対して注意をし、やめさせるべきであった。それにもかかわらず、何ら注意をすることなく放置していたのであるから、刑務所職員は、安全配慮義務を尽くしたということはできない。
イ 被告の主張
刑務所長及び刑務所職員は受刑者の生命身体について安全配慮義務を負うものであるが、その内容は、一義的に定まるものではなく、受刑者の行う運動の性質・内容、受刑者の当該運動の経験・能力等に応じて、具体的に決定されるものである。
原告の経験・能力は十分なものであり、本件事故の際に行われていたシートバッティングも一般的によく見られる練習方法であって、原告の経験・能力からすれば、危険な練習方法ではない。
また、刑務所職員は、ソフトボールの練習を含めた屋外運動における安全を確保するために一般的な指示・指導を行い、事故防止に必要な注意事項の周知徹底を図っていた。
屋外運動に立ち会う刑務所職員の職務は、受刑者全体を監視して規律違反行為の摘発及び防止を図ることにあり、ソフトボールの練習中の個々のプレーについて逐一監視することはその役割ではない。本件のソフトボールの練習は、受刑者が自主的に練習方法を取り決めて実施していたものである。
本件事故は、バッターの打席の状況を確認することなくレフトからの返球を受けるため、自己の判断で安易にレフト方向を向いたという原告の油断と過失によるものである。
以上から、被告の刑務所職員に本件事故の発生を予見して、ソフトボールの練習を注意し、やめさせるべき安全配慮義務があったとはいえず、刑務所長又は刑務所職員に安全配慮義務違反はない。
(2)争点2(損害の発生と額)
ア 原告の主張
(ア)本件事故後の札幌刑務所の対応に対する慰謝料 150万円
被告は、監獄法上、受刑者を管理監督し、その生命身体の安全や健康の確保に努めなければならない安全配慮義務がある。そして、角膜を傷つけた者に対しては、角膜が破れて内容物が漏出していない限り、安静にして、雑菌が受傷部位に入り込んで角膜の透明性を失わせることがないよう注意しなければならない。それにもかかわらず、刑務所職員は、本件事故後、診察を受けた原告に対し、直ちに工場に戻って刑務作業に従事するよう指示したので、原告は、縫製作業が行われ雑菌が多数存在していた工場内での作業に従事することを余儀なくされた。
したがって、被告は、監獄法上の安全配慮義務に違反した措置を採り、原告に精神的苦痛を与えたものであり、これに対する慰謝料は150万円が相当である。
(イ)後遺症慰謝料 850万円
原告は、本件事故により左眼の視力を失い、その視力は0.02若しくはこれを下回る程度であって、これによる慰謝料は850万円が相当である。
(ウ)後遺症逸失利益 3547万0870円
原告は、左眼の視力を喪失したことによりその労働能力の45パーセントを喪失した。現在の症状が固定したのは平成12年春のことであり、その後2年間は服役することになるが、その後は67歳に至るまで、症状固定時の年齢(39歳)の産業計・企業規模計・男子労働者の平均年間給与額(604万5400円)に相当する収入を得られた蓋然性があったのに、原告は本件事故のため、その45パーセントを得ることができなくなったものであるから、ライプニッツ方式により中間利息を控除して、その逸失利益の額を算定すると、3547万0870円となる。
(計算式)604万5400円×(14.8981-1.8594)×0.45=3547万0870円
14.8981は、39歳から67歳までの28年間のライプニッツ係数
1.8594は、39歳から服役終了までの2年間のライプニッツ係数
(エ)弁護士費用 460万円
原告は、本件訴訟の提起と追行のため、原告代理人と訴訟委任契約を締結したが、弁護士費用のうち、上記損害額の合計約4600万円の1割程度にあたる460万円を被告に負担させるのが相当である。
(オ)損害額合計 5007万0870円
上記(ア)ないし(エ)の損害額を合計すると、5007万0870円になる。
イ 被告の主張
(ア)本件事故後の刑務所の対応に対する慰謝料について
札幌刑務所では、本件事故の発生後、直ちに原告を医務部に連れて行き、A医師の診察を実施し、問診等によって原告の視力に異常がないことを確認して、同日午後から予定されていた眼科専門医による診察を受診させることとした。A医師は、原告の作業内容が軽作業であること、工場が衛生上問題のないことを勘案して、ごく短時間、原告を同工場で就業させることは差し支えないと判断した。角膜の切創は、眼科専門医が専用器具を用いて検査しなければ発見することは困難であるから、本件において外科医であるA医師が角膜切創を発見できなかったとしてもやむを得ないことであり、A医師の行為に違法があるとはいえない。また、軽作業を行う工場が一般的な病室等と比較して角膜に炎症を起こす可能性が特に強いということもできない。
また、原告は、A医師の診断後、刑務作業を再開するに当たって、工場副担当職員に対して作業をすることができる旨述べており、原告が刑務作業に従事したことによって精神的苦痛を被ったということはできない。
(イ)後遺症逸失利益について
原告は、本件事故後も運動大会で活躍するなど、左眼を負傷したことを他覚的には全く感じさせない動きを示しているし、また、矯正両眼では必要十分な視力(1.5)があり、社会復帰後は車の免許を取得することができるのであって、原告の場合は視力障害の認定を受けることはできない。したがって、原告が本件事故により労働能力の一部を喪失したということはできない。
第4争点に対する判断
1 争点1(本件事故の発生に関する安全配慮義務違反の有無)について
(1)前記前提となる事実に後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる。
ア 工場対抗ソフトボール大会及び受刑者の屋外運動は、昭和54年2月1日付け達示第1号「収容者レクリェーション実施基準」(乙5)に基づいて実施されるもので、レクリェーションの目的は、受刑者に対し、余暇時間を善用させるとともに、健全な心身を培わせることにあるとされている(1条)。そして、レクリェーションの企画、実施、指導等は刑務所職員によって行われるが(3条)、レクリェーション委員会を開催して、受刑者の自主的参加を図ることになっていて、厚生課長が掌理する同委員会においては、累進処遇第2級以上の作業成績及び行状良好な者の中から区長の推薦によって厚生課長が分類審査会に付議したうえ指名する委員によって、レクリェーションの企画、実施等について協議することとなっていた(4条)。
イ 札幌刑務所では、平成9年の屋外運動を実施するに当たり、平成9年4月18日付け事務連絡(乙3)において、屋外運動実施上の留意点について、首席矯正処遇官から担当職員に対して指示があり、同事務連絡には、受刑者間のトラブル防止のための注意事項に加えて、「けが防止のため、次の事項を特に厳守させること。」として、準備体操を十分行わせること、キャッチャーや審判には、マスクやプロテクターを装着させること、バッター及びネクストバッター以外の者は、バッターボックス及びネクストバッターズサークルに近寄らないことのほか、「バット及び予備のボール等は、プレーに支障ない安全な場所に置かせること。」と定められている。
また、同事務連絡は、平成7年4月20日付け首席矯正処遇官(処遇担当・教育担当)指示第12号「屋外運動の実施について」(乙1)及び平成7年5月15日付け首席矯正処遇官(処遇担当・教育担当)指示第15号「屋外運動中における受刑者の行動について」(乙2)に基づいて運動を実施させるよう指示しているところ、これらに記載してある注意事項は、毎年、屋外運動の始まる4月下旬の朝、工場の正担当職員から受刑者に告知されることになっていて、平成9年度においても、屋外運動の始まる4月下旬ころ、正担当職員から受刑者に訓示された(証人C)。
上記の「屋外運動中における受刑者の行動について」においては、上記事務連絡と同様の規定があるほか、「屋外運動の実施について」においても、屋外運動は、団体で行うレクリェーションであることから、集団の一員としての自覚をもって行動するよう受持ち受刑者に指導すること、運動を始めるに当たっては、別に定める集団行動訓練を実施し、屋外グラウンドへの往復に際しても、同訓練に準じた歩行を指導することと明記し、負傷事故の防止について、ソフトボールの試合は5月12日まで固く禁止することや、十分な準備運動を行わせて負傷事故防止に努めるなど、担当職員に対して屋外運動中の事故防止に努めるべきことを求める規定が置かれている(乙1、2)。
ウ また、本件事故が発生した札幌刑務所のグラウンドのフェンスには「ソフトボール実施上の注意事項」と題する掲示板があり、そこには、「競技中はボールから眼を離さないこと。」、「ボールを捕球する場合は、声をかけ合い行うこと。」、「キャッチャー及び審判は、危険防止のために保護具をつけること」、「ソフトボールのルールを確実に守ること。」などの注意事項が記載されていた(乙8)。
エ 刑務所職員は、屋外運動時に実施されていたソフトボールの練習内容について、運動開始前に準備運動を行うことや練習開始時期から1週間程度はシートバッティングを禁止するといった大まかな指示をするものの、練習が行われる都度、当日の練習内容を細かく指示することはなく、具体的な練習内容を決めていたのは、練習に参加する受刑者から選ばれた監督及びキャプテンであった(証人C、原告本人)。
しかし、刑務所職員は、ソフトボールの練習中、危険だと判断した場合には、受刑者に対し、投球間隔は十分に空けるように、また、ボールをよく見るようにとの指導をしており、実際に練習をしている受刑者の投球間隔が短くなった場合には、「待てや。」とか「まだ早いよ。」、といった投球間隔を空けた投球の指導注意を与えていた。また、練習に使用していない予備のボールについては、ピッチャーの足元に置くように指示していたほか、個々のプレーのうち、ダイビングキャッチやスライディングなど危険だと思われる行為についてはその都度注意していた。さらに、本件事故のように、守備に参加している者が打者に背を向けたときに、打者の打ったボールがその体に当たるという事例は、原告も何度か経験しており、お互いに声をかけ合っていたほか、監視に当たっていた刑務所職員からも気をつけるように注意されていた(証人C、原告本人)。
オ 原告が配属されていた第7工場は、当時68名からなる比較的大きな工場であったが(証人C)、そのうち、屋外運動においてソフトボールの練習を行う者は、原告を含む15名であった(原告本人)。このうち、試合に参加する正選手は10名で、その他1名が監督、4名が補欠であった。監督は守備・打撃ともに行わず、その他の14名が守備・打撃の練習に参加することとなっていた。練習においては、守備についている正選手が順に打撃練習を行い、監督の指示のもとに4、5球打って交代し、補欠は、打者及び次の打者の代わりに守備につくが、打順は正選手のそれの後であり、練習時間が制限されていたため、練習中には打順が回ってこないこともあった(原告本人)。同工場の受刑者が行っていたシートバッティングは、概ね、<1>内野手が打球を処理したときはファーストに送球し、ファーストがピッチャーに返球する、<2>打球がレフト方向に飛んだときはショートが、ライト方向に飛んだときはセカンドがそれぞれ中継をし、ピッチャーに返球するというルールで行われていて、その他の場合については場面に応じて対処するというものであった(原告本人)。
カ 本件事故が発生した平成9年5月27日における第7工場の受刑者の運動時間は、午前10時10分から午前10時50分までの40分間であったが、この40分間には工場とグラウンドとの間の往復時間も含まれていたため、実際に運動を開始したのは、グラウンド到着後、人員点検、準備体操、訓示等が行われた後である午前10時17分か同18分ころであり、運動を終了するのは午前10時45分ころの予定であった。したがって、実際に運動できる時間は30分弱の間であった(乙5、証人C)。
原告らは、ソフトボールの練習として、上記オのようなシートバッティングを行っており、本件事故が発生したのは、運動開始から20分程度経過した午前10時35分ころであって、そのときの打者は7番目か8番目に打席に立った者であった(証人C、原告本人)。
本件事故当時、グラウンドには3名の刑務所職員が監視のために立ち会っており、そのときの監視の位置及びソフトボールの練習に参加していた原告を含めた受刑者11名の守備位置等は、概ね別紙のとおりであった(乙12、乙15ないし17)。
(2)以上の認定事実を基に本件事故発生に関する安全配慮義務違反の有無について検討する。
ア 被告の雇用する刑務所長及びその指揮監督下にある刑務所職員が、受刑者の生命身体について安全配慮義務を負うことは当事者間に争いがない。
イ そこで、被告側で負う注意義務の内容についてみるに、前記(1)イないしエの認定事実によると、受刑者の屋外運動は、刑務所職員によって企画、実施、指導されるレクリェーションの一環として行われるものであって、屋外運動の監視に当たる刑務所職員に対しては、文書によって受刑者への注意、指導事項が事務連絡され、これらの事項は、刑務所職員を介して受刑者にも伝達されていたほか、グラウンドのフェンスにも、ソフトボール実施上の注意事項が記載されていたこと、これらの事項は、ソフトボールの練習内容を詳細に指示するものではないが、道具の置場所や練習中の声のかけ合いなど、けがや事故の防止のための具体的な方策を含むものであり、これを受刑者に遵守させることを刑務所職員に求めるものであったこと、刑務所職員は、実際上も、ソフトボールの練習中、受刑者がスライディングやダイビングキャッチなどの危険な行為をしないよう監視するほか、投球間隔にも注意を払い、危険な行為や状況がみられたときにはその都度注意や指導をし、受刑者に従わせることによって事故防止に努めていたことが認められる。
そうすると、屋外運動の監視に当たる刑務所職員に対しては、逃走やトラブル防止のみならず、けがや事故が生じないよう注意すべきことを内容とする事務連絡がされているばかりか、実際に刑務所職員によってされていた監視や注意・指導も、ソフトボールの練習中の個々のプレーや投球間隔等にまで注意を払って行われていたというのであるから、逃走やトラブル防止にとどまらず、けがや事故の防止をも目的とするものであったと認めることができる。したがって、このような監視の任に当たる刑務所職員には、具体的な状況の下で事故発生の危険が予見できる場合には、そのような危険を除去し、受刑者の生命身体の安全を図るよう注意すべき義務があると認めるのが相当である。
これに対し、被告は、ソフトボールの練習方法等、多くの事項が受刑者の自主性に委ねられており、刑務所職員の監視の対象は主として受刑者の規律違反行為等であるから、ソフトボールの練習中の個々のプレーについて逐一監視すべき注意義務はないと主張するが、上記(1)アのとおり、札幌刑務所における受刑者のレクリェーションの企画、実施には受刑者が関与することが認められているものの、レクリェーション委員会の運営や委員の選出は、刑務所職員である厚生課長の主導で行われていること、屋外運動は団体で行うレクリェーションとして位置づけられ、その時間、グラウンドへの往復、準備運動、事故防止については首席矯正処遇官による指示の下に整然と実施されていて、実際にも受刑者の個々の危険な行為に対して注意や指導が行われていたことからしても、その主要な部分を受刑者の自主性に委ねて実施されていたとはいい難く、これを参加者の自主性に委ねられた一般社会におけるレクリェーションと同列に論じることはできないから、被告の上記主張は採用することができない。
ウ すすんで、本件事故の態様をみるに、本件事故は、シートバッティングの最中に、先に打った打球が外野に飛び、外野からそのボールを中継して返球するため、内野手が打者に背を向けたときに、これに注意を払わなかった投手が手元にあった別のボールを投げ、打者がこれを打ってちょうど振り向いた内野手の顔面に当てたというものであり、このような事故は、フィールド内で複数のボールを使用して練習をするときには不可避的に起こりうることで、かつ、このような練習方法を体験し、あるいは監視している者であれば、容易に予見することができたものと考えられる。現に、過去にも、このような状況の下で、内野手の体に打球が当たったという事故については、練習に参加した者のみならず、監視者の側も経験しているのである。このような事故の発生は、ボールをバットで打つというソフトボールの練習においては一面避けがたいもののようではあるけれども、原告のようなソフトボールの球技になれた成人の場合、使用されているボールが1個である限りにおいては、常に打者の側を向き、打者の動静を十分注視して、打者の打った飛球の行方を追うことができれば、余程の近距離で守備をしている場合などを除いては、守備に参加している者の顔面を直撃するという本件事故のような態様の事故は、通常回避できると考えられる。したがって、ソフトボールの試合中には、フィールド内にあるボールは1つであるから、本件事故のような態様の事故はまず起こらないはずであるが、シートバッティングのように、そのような状況が保証されない練習の場合には、上記のような事故が発生した場合には、ときに参加者の生命身体に重大な危険を及ぼす可能性があることが明らかであることに照らすと、そうした状況が現出することのないように、また、そうした状況が現出する可能性がある場合には、可及的速やかにそのような可能性を除去する必要があることは明らかといえよう。そして、そのような状況を現出させないためには、まず、はじめからフィールド内におけるボールの使用を1つに限定するために、ボールを1つしか用意しないという方法により容易にこれを実現することができるし、ボールがファウルグラウンドなどのフィールド外に逸脱したようなときの練習の効率を考えて、予備のボールを用意しておく場合でも、フィールド内の参加者が打者の動静を注視することができるような状況である場合に限って、投手が打者に投球し、あるいは、打者においては、フィールド内の守備状況を見て、バントするとかゴロを打つなどの配慮をするようにすべきである。こうした配慮をすることは、ソフトボールの練習に参加し、それを監視する者にとっては、容易に想到することができるし、また、これを指導し実行させることも、ソフトボールの練習について様々な注意と指導を行ってきた刑務所の側に、格別の困難を強いるものとは思われないところである。
札幌刑務所においては、ソフトボールの練習に当たり、事故の防止を徹底すべく、様々な指導を行い、実際の練習に当たっても監視に当たっていた刑務所職員において、危険な行為については適宜注意を与えていたもので、本件事故のような在監者の生命身体に重大な危険を及ぼすおそれのある態様の事故の発生を予見することが容易である一方、これを回避する方策を容易に採ることができたのであるから、在監者の生命身体について安全配慮義務を負う被告の刑務所長及びその指揮下にある刑務所職員においては、当然、上記のような措置を執って、在監中における集団行動のさなかにある在監者の身体に危険が及ぶことのないように配慮すべき注意義務があったというべきである。
前記(1)オ及びカの認定事実によると、第7工場のソフトボールの練習は、実質的な運動時間である30分弱の間に14名の選手全員による打撃練習が予定されており、本件事故発生当時は、運動時間が残り10分程度になり、打撃練習を行っていない者がなお6、7名残っていた状況の下で、投手においては、運動時間内に予定されていたすべての者の打撃練習を終わらせようとして、次第に投球間隔が短くなっていったものと推認できる。また、監視をしていた職員にとって、内野手が外野への飛球を中継して投手に返球するという第7工場におけるソフトボールの練習方法は、それまでの監視経験からして、容易に予見することができ、少なくとも三塁付近で監視していた刑務所職員(別紙○A)には、第1ショートの守備についていた原告や投手あるいは打者の動静をよく認識し得たことからすると、同職員は、投手が、レフトからの返球が未だ完了していないにもかかわらず投球を開始し、この投球が打者によって打撃されれば、レフトからの返球を捕球するため打者に背を向けていた原告の身体に危険が及ぶことを容易に予見し得たものと推認できる。
したがって、被告の刑務所長及びその指揮下にある刑務所職員において、ソフトボールのシートバッティングの練習に当たっては、フィールド内のボールの使用を1つに限定するという最も確実な事故防止方法を採るか、あるいは、本件事故当時、ソフトボールの練習を内野手に最も近い位置で監視していた上記刑務所職員は、フィールド内に複数のボールがあるため、現に原告が打者の動静を確認することのできない状況であったのであるから、このような危険な状況を除去するため、投手に対して投球を一時停止させたり、あるいは打者に対して打撃を行わないように注意をするなどして、本件事故の発生を未然に防止すべき注意義務があったのに、これを怠り、漫然放置したため、本件事故を惹起させたものである。
よって、被告には、国家賠償法1条1項により、原告に対し、本件事故によって生じた損害を賠償すべき責任がある。
2 争点2(損害の発生と額)について
(1)本件事故後の札幌刑務所の対応に対する慰謝料について
ア 前記前提となる事実に後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、本件事故後、原告は、担当の刑務所職員らに連れられて、自力歩行にて札幌刑務所の医務部に行き、A医師の診察を受けたところ、同医師は、外科が専門であったが、原告の受傷状況を確認した上で左眼瞼の受傷部位を縫合し、刑務作業を行っても差し支えないと判断し、眼科専門医を受診させることとしたこと(甲2の18、19、乙9、乙18、証人C)、原告は、本件事故後、第7工場に戻り、革靴の部材に接着剤を塗布する作業を行ったが、第7工場の副担当職員であるCが、原告に対して声をかけたところ、原告は大丈夫ですと答えて作業を行っていたこと(乙16、証人C)、本件事故当日は、眼科専門医であるB医師による診療日に当たっていたため、原告は、本件事故から3時間半ほど経過した時点で同医師の診察を受け、左眼瞼裂傷、左角膜切創により7日間の休養加療を要すると診断され、以後休養となったこと(甲2の17、乙10の1、2、証人C)、一般に外科医が角膜切創を発見することは難しいと考えられること(乙10の1)、第7工場は、革製品を作る工場であり、ほこりが舞っているという状態ではないこと(証人C)がそれぞれ認められる。
イ 以上の認定事実によると、本件事故による原告の受傷内容は、B医師の診察の結果、左眼瞼裂傷及び左角膜切創であったが、これは眼科専門医による診察によってはじめて判明したものである。眼科専門医が常駐していない札幌刑務所において、本件事故の直後に原告を診察した外科医であるA医師が左角膜切創を発見し得なかったことはともかく、眼科専門医による診断をまたずに、刑務作業を行っても差し支えないと判断し、安静の措置を講じなかったことについては、受傷の部位及び程度にかんがみ、問題があったとする余地がないとはいえないが、第7工場内が特段不衛生というわけではなく、本件事故による受傷後の実際の作業時間も2時間程度であることと比較的軽度な作業内容であることに鑑みると、本件事故後、原告が刑務作業を行ったことが、結果として原告の左眼に悪影響を及ぼしたと認めることは困難である。そうすると、刑務所職員の本件事故後の対応により、原告が精神的損害を受けたと認めることはできない。
(2)後遺症慰謝料について
ア 前記前提となる事実に後掲各証拠及び弁論の全趣旨を総合すると、原告の左角膜の切創は、角膜の3分の2程度に及んでいたが、穿孔によって内容物が漏出してはいなかったこと(甲2の22、乙10の2)、本件事故前の原告の左眼の視力測定結果は裸眼で0.3ないし0.4、矯正後で2.0であったこと(甲2の1、8)、本件事故後の平成9年6月25日における左眼の視力測定結果は裸眼で0.03(甲2の23)、同年7月17日においては、裸眼で0.1であったが(甲2の7)、平成10年7月9日及び同月30日には矯正前後ともに0.01となり(甲2の4、5)、平成11年11月9日の時点では矯正前後ともに0.02となって(甲2の68)、その後変化はなく、平成12年5月24日の視力検査においても同様の結果となったこと(甲2の73)、眼科専門医は、平成9年8月21日、原告の左眼の視力について、今後徐々に見やすくなってくるが傷が瞳孔域にかかっており視力障害が残るため、眼鏡では矯正が難しいので、特殊なハードコンタクトレンズを使用し、それでも視力障害が強ければ、出所後に角膜移植という方法がある旨説明したほか、平成12年3月3日にも、左眼には外傷による角膜の瘢痕があるが、緊急性を要する治療は必要がなく、日常生活においては左眼の外傷に注意し、角膜移植については、出所後、どうしても見え方に不満があれば、自分の判断で希望してもよい旨説明したこと(甲2の26、27、72、乙10の1)が認められる。
イ 以上の認定事実によると、本件事故後の原告の左眼の視力は、角膜切創の瘢痕治癒によって、視力障害が生じ、そのため、左眼の視力が著しく低下し、本件事故前には0.3程度(矯正によって2.0)あった視力が、0.02程度にまで低下し、眼鏡による矯正も困難な状態となったというのであるから、原告は、本件事故により、後遺障害等級8級1号に該当する後遺症を負ったもので、そのような後遺症を負った原告の精神的苦痛を慰謝するためには800万円の支払をもってするのが相当である。
ウ これに対し、被告は、原告が矯正両眼で必要十分な視力(1.5)を有しており、労働能力の一部を喪失したとはいえないと主張し、原告が本件事故の後に実施が予定されていた春季ソフトボール大会に正選手として出場していること、その後も卓球やソフトボールの大会において優秀な成績を収めていること、特段の支障もなく刑務作業を行っていることなどの事実を示し、これに沿う証拠も存在するが、他方、前記ア認定の事実によれば、原告の角膜には、平成12年3月3日の時点において瘢痕があったことは明らかであるし、また、証拠(甲2の4ないし7、73)によれば、原告は、前記ア認定の視力測定結果に応じた眼鏡を現に使用していたことが認められることも考え併せると、原告において顕著な視力障害が存在し、したがって、これによる精神的苦痛が生じていることは明らかであるから、被告の上記主張は採用することができない。
(3)後遺症逸失利益について
ア 原告の視力障害について
前記のとおり、原告は、本件事故によって、左眼の視力が0.02程度に低下し、眼鏡による矯正も困難な状態になり、後遺障害等級8級1号に該当する後遺症を負ったものである。したがって、原告は、本件事故によって、労働能力の45パーセントを喪失したものと認めるのが相当である。
これに対し、被告は、原告が、労働能力を失ったことを争うところ、確かに上記(2)ウのような事情が認められるけれども、それは、原告が、得意とするスポーツの分野、あるいは、比較的単純な刑務作業において、原告の主体的な努力と経験により、その能力の不足を補った結果と考えられるのであって、上記のような事情は何ら上記判断を妨げるものではなく、被告の主張は採用することができない。そして、前記(2)アの認定事実のとおり、平成11年11月以降、その矯正視力が0.02から変化していないから、このような症状が固定したのは、遅くとも平成11年11月であると認められる。
イ 原告の収入について
証拠(甲11の1、原告本人)によれば、原告(昭和36年1月29日生)は、札幌刑務所に入所する以前は暴力団の構成員であり、職歴としては鳶職であるが、その収入を認めるに足りる資料はないこと、原告は少なくとも3件の前科を有し、症状固定時には38歳に達していたことが認められ、こうした点のほか、昨今の雇用情勢、経済情勢を考えると、原告が出所後に正業に従事して得られる収入は、相当程度に制限を受け、就労可能年齢から継続的に稼働してきた者が大半を占めると考えられる賃金センサスにおける平均賃金に及ぶ蓋然性があると考えることは困難である。そこで、原告の後遺症逸失利益算定に当たっては、症状固定時の平成11年の賃金センサスにおける産業計・男性労働者学歴計35歳~39歳の平均賃金(595万9200円)の3分の2である397万2800円(同年の女性労働者の産業計、学歴計の同年代のそれを下回らない程度)を基礎とするのが相当である。
したがって、後遺症逸失利益を算定するに当たって基礎とすべき原告の収入は397万2800円である。
ウ 就労可能年数について
原告は、平成15年1月に満期で出所することが予定されているところ(甲6、弁論の全趣旨)、上記イの収入(年額397万2800円)を得られるのは満期出所後であるから、後遺症逸失利益を算定するに当たって基礎とすべき就労可能年数は、満期出所時の42歳から67歳までの25年間である。
エ 後遺症逸失利益の算定
以上の認定を基に、ライプニッツ方式によって中間利息を控除して原告の後遺症逸失利益を算定するに、原告が本件事故によって喪失した利益は、1880万2229円である。
計算式 397万2800円×0.45×(15.5928-5.0756)=1880万2229円
(なお、本件事故時の36歳から67歳までの31年間のライプニッツ係数は15.5928、36歳から満期出所時の42歳までの6年間のライプニッツ係数は5.0756である。)
(4)以上合計額
以上(2)、(3)の合計額は2680万2229円である。
(5)過失相殺について
証拠(証人C、原告本人)によれば、原告は、第7工場のソフトボールの選手の中では技術も人望もあったため、その影響力も小さくなく、主導的な地位にあったといっても過言ではなかったこと、原告は、これまでのソフトボールの練習において、内野手による中継中に打者が打撃をし、打球が内野手の身体に当たったことを何度か現認していて、危険を感じたこともあったことが認められ、これらの事実に照らせば、原告は、本件事故の発生以前から、ソフトボールの練習中に投球間隔が狭くなり、複数のボールがグラウンド内を飛び交い、本件事故を惹起する可能性のある危険な状況に陥ることを十分に認識していたということができる。
そして、成人が行うスポーツにおいては、第一義的には参加者の注意、協力によって事故の防止が図られることが期待されているところ、本件においては前記のとおり在監関係という特殊事情にあり、監視者である被告にも一定の責任が認められるということを勘案しても、原告において、フィールド内で使用するボールを1つに限定するよう提言するとか、自ら投手や打者の動静に十分に注意を払い、場合によっては、投手や打者に対して投球や打撃を待つよう声を掛けるなどすれば、本件事故の発生を防ぎ得たといえる。にもかかわらず、原告においてこのような行動に及ばなかったことを勘案すると、原告には7割の過失があったものとして過失相殺をするのが相当である。
(6)弁護士費用
原告が本件訴訟の提起と追行を弁護士に委任したことは当裁判所に顕著な事実であるところ、前記(4)の損害額合計2680万2229円に7割の過失相殺をすると、804万0668円となることに加えて、本件訴訟の審理期間、難易その他の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用の額は、120万円と認めるのが相当である。
(7)まとめ
以上のとおりであるから、原告は、被告に対し、国家賠償法1条に基づく損害賠償として924万0668円の支払を求めることができる。
第5結論
以上の認定判断によれば、原告の本件請求は、924万0668円及びこれに対する不法行為の日である平成9年5月27日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は理由がないというべきであるから、訴訟費用の負担については民事訴訟法61条、64条本文を、仮執行宣言については同法259条1項を、仮執行免脱宣言については同条3項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 佐藤陽一 裁判官 村田龍平 裁判官 片山博仁)