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札幌地方裁判所 平成14年(ワ)1717号 判決 2004年3月23日

原告 A ほか11名(仮名)

被告 国 ほか1名

国代理人 小尾仁 中園浩一郎 藤谷俊之 中野渡守 牧野浩和 前田武志 宮田誠司 石川さおり 澁谷勝海 高橋孝信 原克好 中泉英和 松島晋 奥村耕一 曲渕公一 高橋紀雄 赤塚雅行 ほか1名

主文

1  被告国及び被告株式会社リンコーコーポレーションは、原告らに対し、連帯して、それぞれ別紙2「認容額一覧」の「認容額」欄記載の各金員及びこれらに対する同別紙の「損害金起算日」欄記載の各日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は、別紙3「訴訟費用一覧」記載のとおりとする。

4  この判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。ただし、被告国は、別紙4「担保一覧」記載の担保を供するときは、それぞれの原告らによる上記執行を免れることができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告らは、原告らに対し、連帯して、別紙5「請求額一覧」の「請求額」欄記載の各金員及びこれらに対する同別紙の各被告の「損害金起算日」欄記載の各日(いずれも各被告への訴状送達日の翌日である。)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2(1)  被告らは、甲事件原告に対し、それぞれ、別紙6「謝罪広告目録」の(1)ア記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に、二段抜きで、同別紙の(2)ア記載の謝罪広告文案の謝罪広告を、見出し及び被告らの名は4号活字をもって、その他は5号活字をもって、1回掲載せよ。

(2)  被告らは、乙事件原告らに対し、それぞれ、別紙6「謝罪広告目録」の(1)ア記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に、二段抜きで、同別紙の(2)イ記載の謝罪広告文案の謝罪広告を、見出し及び被告らの名は4号活字をもって、その他は5号活字をもって、1回掲載せよ。

(3)  被告らは、丙事件原告らに対し、それぞれ、別紙6「謝罪広告目録」の(1)イ記載の新聞の各朝刊の全国版下段広告欄に、二段抜きで、同別紙の(2)ウ記載の謝罪広告文案の謝罪広告を、見出し及び被告らの名は4号活字をもって、その他は5号活字をもって、1回掲載せよ。

第2事案の概要

1  事案の要旨

本件は、中華人民共和国(以下「中国」という。)の国民である原告らが、第二次世界大戦中に当時の日本政府の政策に基づき日本に強制連行され(以下「本件強制連行」という。)、被告らによって新潟港での強制労働(以下「本件強制労働」という。)に従事させられる等したとして、被告国及び被告会社に対して、損害賠償及び謝罪広告を求める事案である(賠償額は、原告1人あたり2500万円〔但し、原告A1は2000万円、同A2は500万円〕、なお、原告A1及び同A2は、強制労働に従事させられる等したAの相続人である。以下、原告B、同C、同D、同E、同F、同G、同H、同I、同J、同K及びAを合わせて「原告ら」ということがある。)。

原告らは、その請求の根拠として、

(1)  被告国に対して、

<1> 陸戦ノ法規慣習ニ関スル条約(以下「ハーグ陸戦条約」という。)3条の国内法的効力

<2> 当時の中華民国民法上の不法行為(同法184条1項前段、188条1項、195条1項)

<3> 奴隷条約、強制労働ニ関スル条約(ILO29号条約、以下「強制労働条約」という。)及び人道に対する罪などの国際慣習法違反としての不法行為(民法709条、723条)

<4> 安全配慮義務違反(民法415条)

<5> 強制労働条約25条違反の行為等を継続したことによる国家賠償法上の責任(同法1条1項)

(2)  被告会社に対して、

<a> 上記(1)<1>及び<3>の違法行為と共同または荷担したことによる不法行為(民法709条、715条、723条)

<b> 当時の中華民国民法上の不法行為

<c> 安全配慮義務違反(民法415条)

をそれぞれ主張している。

2  前提事実(争いのない事実並びに証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実〔証拠により認定した事実には証拠を掲げた。〕)等

(1)  当事者

ア 原告ら

(ア) 原告らは、中国の国民であり、同国に居住している。

(イ) Aは、平成12年○月○日、死亡した(<証拠略>)。

原告A1はAの配偶者、原告A2はAの子であり、両名以外にAの相続人はいない(<証拠略>)。原告A1と同A2との間で、平成12年7月28日、Aが本件強制連行・強制労働に基づいて取得した損害賠償請求権を、原告A1が80パーセント、同A2が20パーセントの割合でそれぞれ取得する旨の遺産継承約定協議が成立した(<証拠略>、なお、中華人民共和国「相続法〔1985年4月10日第6期全国人民代表大会第3会議採択・同日中華人民共和国主席令第24号公布・同年10月1日施行〕」〔<証拠略>〕参照)。

イ 被告国は、昭和17年11月27日、「華人労務者移入ニ関スル件」を閣議決定した(<証拠略>)。

ウ 被告会社は、明治38年10月13日に設立された株式会社である(<証拠略>、なお、昭和35年10月30日に商号を「新潟臨港開発株式会社」から「新潟臨港海陸運送株式会社」に、平成3年6月27日に「株式会社リンコーコーポレーション」に、それぞれ変更した〔<証拠略>〕。)。

新潟港運株式会社(以下「新潟港運」という。)は、昭和17年に設立された株式会社であるが(設立当時の商号は「新潟港湾運送株式会社」)、新潟海陸運送運送株式会社に吸収合併され、昭和25年2月28日にその旨の登記がされた(<証拠略>)。

被告会社は、昭和35年、新潟海陸運送運送株式会社を吸収合併し、同年11月21日にその旨の登記がされた(<証拠略>)。

(2)  中華民国民法及び条約等の規定(<証拠略>)

ア 中華民国民法

中華民国民法(民国18年〔1929年〕公布、翌年施行)には、以下のとおりの規定がある。

(ア) 第184条1項前段

故意又ハ過失ニ因リテ不法ニ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ損害賠償ノ責任ヲ負フ

(イ) 第188条1項

被用者カ職務ノ執行ニ因リテ不法ニ他人ノ権利ヲ侵害シタトキハ使用者ハ行為者ト連帯シテ損害賠償ノ責任ヲ負フ但被用者ノ選任及ヒ其職務ノ執行ノ監督ニ付キ相当ノ注意ヲ為シタルトキ又ハ相当ノ注意ヲ為スモナホ損害ノ発生ヲ免ルヘカラサリシトキハ使用者ハ賠償ノ責任ヲ負フコトナシ

(ウ) 第195条1項

不法ニ他人ノ身体、健康、名誉又ハ自由ヲ侵害シタル者ニ対シテハ被害者ハ財産以外ノ損害ニ付テモ又相当ノ金額ノ賠償ヲ請求スルコトヲ得其名誉ヲ侵害セラレタル者ハ併セテ名誉回復ニ適当ナル処分ヲ請求スルコトヲ得

イ ハーグ陸戦条約

被告国は、1911年11月6日、ハーグ陸戦条約を批准し、1912年1月13日に「条約4号」として公布し、同年2月12日にこれを発効させた。ハーグ陸戦条約には、以下のとおりの規定がある。

(ア) 第1条

締約国ハ、其ノ陸軍隊ニ対シ、本条約ニ附属スル陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則ニ適合スル訓令ヲ発スヘシ。

(イ) 第3条

前記規則(陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則)ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ。

(ウ) 条約附随書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(以下「ハーグ陸戦条約規則」という。)第42条

一地方ニシテ事実上敵軍ノ権力内ニ帰シタルトキハ、占領セラレタルモノトス。

占領ハ右権力ヲ樹立シタル且之ヲ行使シ得ル地域ヲ以テ限トス。

(エ) ハーグ陸戦条約規則第43条

国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ。

(オ) ハーグ陸戦条約規則第46条

家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スヘシ。

私有財産ハ、之ヲ没収スルコトヲ得ス。

(カ) ハーグ陸戦条約規則第52条

現品徴発及課役ハ、占領軍ノ需要ノ為ニスル非サレハ、市区町村又ハ住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス。徴発及課役ハ、地方ノ資力ニ相応シ、且人民ヲシテ其ノ本国ニ対スル作戦動作ニ加ルノ義務ヲ負ハシメサル性質ノモノタルコトヲ要ス。

右徴発及課役ハ、占領地方ニ於ケル指揮官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ、之ヲ要求スルコトヲ得ス。

現品ノ供給ニ対シテハ、成ルヘク即金ニテ支払ヒ、然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク、且成ルヘク速ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノトス。

ウ 強制労働条約

被告国は、1932年(昭和7年)10月15日、強制労働条約を批准し、同年12月6日に「条約10号」として公布し、1933年(昭和8年)11月21日にこれを発効させた。強制労働条約には、以下のとおりの規定がある。

(ア) 第1条1項及び2項

1 本条約ヲ批准スル国際労働機関の各締盟国ハ能フ限リ最短キ期間内ニ一切ノ形式ニ於ケル強制労働ノ使用ヲ廃止スルコトヲ約ス

2 右完全ナル廃止ノ目的ヲ以テ強制労働ハ経過期間中公ノ目的ノ為ニノミ且例外ノ措置トシテ使用セラルルコトヲ得尤モ以下ニ定メラルル条件及保障ニ従フモノトス

(イ) 第2条1項

本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ講フ

(ウ) 第4条1項

権限アル機関ハ私ノ個人、会社又ハ団体ノ利益ノ為強制労働ヲ課シ又ハ課スコトヲ許可スルコトヲ得ズ

(エ) 第25条

強制労働ノ不法ナル強要ハ刑事犯罪トシテ処罰セラルベク又法令ニ依リ科セラルル刑罰ガ真ニ適当ニシテ且厳格ニ実施セラルルコトヲ確保スルコトハ本条約ヲ批准スル締盟国ノ義務タルベシ

エ 日本国との平和条約(<証拠略>、以下「サンフランシスコ平和条約」という。)

被告国は、1951年(昭和26年)9月8日、連合国との間で、サンフランシスコ平和条約を締結し、1952年(昭和27年)4月28日、これを条約5号として公布し、同日に発効させた(なお、同条約について討議されたサンフランシスコ講和会議に中華民国及び中華人民共和国は参加していない。)

(ア) 第10条

日本国は、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意する。

(イ) 第14条

(a) 日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。

よって、

1 日本国は、現在の領域が日本国軍隊によつて占領され、且つ、日本国によつて損害を与えられた連合国が希望するときは、生産、沈船引揚げその他の作業における日本人の役務を当該連合国の利用に供することによつて、与えた損害を修復する費用をこれらの国に補償することに資するために、当該連合国とすみやかに交渉を開始するものとする。その取極は、他の連合国に追加負担を課することを避けなければならない。また、原材料からの製造が必要とされる場合には、外国為替上の負担を日本国に課さないために、原材料は、当該連合国が供給しなければならない。

2(I) 次の(II)の規定を留保して、各連合国は、次に掲げるもののすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生の時にその管轄の下にあるものを差し押え、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。

(a) 日本国及び日本国民

(b) 日本国又は日本国民の代理者又は代行者 並びに

(c) 日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体

この(I)に明記する財産、権利及び利益は、現に、封鎖され、若しくは所属を変じており、又は連合国の敵産管理当局の占有若しくは管理に係るもので、これらの資産が当該当局の管理の下におかれた時に前記の(a)、(b)又は(c)に掲げるいずれかの人又は団体に属し、又はこれらのために保有され、若しくは管理されていたものを含む。

(II) 次のものは、前記の(I)に明記する権利から除く。

(i) 日本国が占領した領域以外の連合国の一国の領域に当該政府の許可を得て戦争中に居住した日本の自然人の財産。但し、戦争中に制限を課され、且つ、この条約の最初の効力発生の日にこの制限を解除されない財産を除く。

(ii) 日本国政府が所有し、且つ、外交目的又は領事目的に使用されたすべての不動産、家具及び備品並びに日本国の外交職員又は領事職員が所有したすべての個人の家具及び用具類その他の投資的性質をもたない私有財産で外交機能又は領事機能の遂行に通常必要であつたもの

(iii) 宗教団体又は私的慈善団体に属し、且つ、もつぱら宗教又は慈善の目的に使用した財産

(iv) 関係国と日本国との間における千九百四十五年九月二日後の貿易及び金融の関係の再開の結果として日本国の管轄内にはいつた財産、権利及び利益。但し、当該連合国の法律に反する取引から生じたものを除く。

(v) 日本国若しくは日本国民の債務、日本国に所在する有体財産に関する権利、権原若しくは利益、日本国の法律に基いて組織された企業に関する利益又はこれらについての証書。但し、この例外は、日本国の通貨で表示された日本国及びその国民の債務にのみ適用する。

(III) 前記の例外(i)から(v)までに掲げる財産は、その保存及び管理のために要した合理的な費用が支払われることを条件として、返還しなければならない。これらの財産が清算されているときは、代りに売得金を返還しなければならない。

(IV) 前記の(I)に規定する日本財産を差し押え、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利は、当該連合国の法律に従つて行使され、所有者は、これらの法律によつて与えられる権利のみを有する。

(V) 連合国は、日本の商標並びに文学的及び美術的著作権を各国の一般的事情が許す限り日本国に有利に取り扱うことに同意する。

(b) この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。

(ウ) 第19条

(a) 日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。

(b) 前記の放棄には、千九百三十九年九月一日からこの条約の効力発生までの間に日本国の船舶に関していずれかの連合国がとつた行動から生じた請求権並びに連合国の手中にある日本人捕虜及び被抑留者に関して生じた請求権及び債権が含まれる。但し、千九百四十五年九月二日以後いずれかの連合国が制定した法律で特に認められた日本人の請求権を含まない。

(c) 相互放棄を条件として、日本国政府は、また、政府間の請求権及び戦争中に受けた滅失又は損害に関する請求権を含むドイツ及びドイツ国民に対するすべての請求権(債権を含む。)を日本国政府及び日本国民のために放棄する。但し、(a)千九百三十九年九月一日前に締結された契約及び取得された権利に関する請求権並びに (b) 千九百四十五年九月二日後に日本国とドイツとの間の貿易及び金融の関係から生じた請求権を除く。この放棄は、この条約の第16条及び第20条に従つてとられる行動を害するものではない。

(d) 日本国は、占領期間中に占領当局の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は当時の日本国の法律によつて許可されたすべての作為又は不作為の効力を承認し、連合国民をこの作為又は不作為から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないものとする。

(エ) 第21条

この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する。

オ 日本国と中華民国との間の平和条約(以下「日華平和条約」という。)

被告国と中華民国は、1952年(昭和27年)4月28日、日華平和条約に署名し、被告国は、同年8月5日、これを条約10号として公布し、同日に発効させた(なお、同条約は、1972年〔昭和47年〕9月29日に失効している。)。同条約11条には以下の定めがある。

この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ平和条約の相当規定に従って、解決するものとする。

カ 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(以下「日中共同声明」という。)

被告国と中華人民共和国は、1972年(昭和47年)9月29日、日中共同声明に署名した。同声明第5項には以下の定めがある。

中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

3 争点

(1)  ハーグ陸戦条約3条に基づく請求(前記1の<1>)について

ア 原告らがハーグ陸戦条約3条に基づく請求権を取得するか否か。

イ 日中共同声明等により原告らの請求権が消滅するか否か。

(2)  中華民国民法に基づく請求(前記1の<2>、<b>)について

ア 本件強制連行及び強制労働について法令11条1項が適用されるか否か。

イ 本件強制連行及び強制労働について法令11条2項が適用され、国家無答責の法理により被告国の責任が否定されるか否か。

ウ 被告らの不法行為責任が法令11条3項による民法724条後段の適用によって消滅するか否か。

エ 日中共同声明等により原告らの請求権が消滅するか否か。

(3)  強制労働条約違反ないし国際慣習法違反による不法行為(民法709条、715条、723条)に基づく請求(前記1の<3>、<a>)について

ア 被告国の責任について

本件強制連行及び強制労働について民法による不法行為責任が発生するか否か(国家無答責の法理により被告国の責任が否定されるか否か。)。

イ 本件強制連行及び強制労働が被告らの共同不法行為となるか否か。

ウ 被告らの責任が民法724条後段の適用によって消滅するか否か。

エ 日中共同声明等により原告らの請求権が消滅するか否か。

(4)  安全配慮義務違反に基づく請求(前記1の<4>、<c>)について

ア 安全配慮義務の内容が特定されているか否か。

イ 原告らと被告らとの間における「特別な社会的接触の関係」の有無

ウ 被告らによる安全配慮義務違反の有無

エ 被告会社による時効の援用が権利濫用にあたるか否か。

オ 日中共同声明等により原告らの請求権が消滅するか否か。

(5)  強制労働条約25条違反の行為等を継続したことによる国家賠償法上の責任(前記1の<5>)について

ア 国家賠償法1条1項の違法性が認められるか否か。

イ 日中共同声明等により原告らの請求権が消滅するか否か。

4 争点に関する当事者の主張

当事者の主張の概要は以下のとおりである。

(1)  原告らの主張

別紙7「原告らの主張」記載のとおり

(2)  被告国の主張

別紙8「被告国の主張」記載のとおり

(3)  被告会社の主張

別紙9「被告会社の主張」記載のとおり

第3認定事実

1  本件強制連行及び強制労働の背景(以下の事実は公知の事実である。)

(1)  日中戦争

被告国は、昭和6年9月18日、関東軍に、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖の北にあった中華民国軍の兵営を攻撃させた(柳条湖事件)。その後、関東軍は、満州の主要部を占領し、満州の各省長らによって構成される東北行政委員会に、満州国の建国を宣言させ、被告国は、昭和7年9月、満州国を承認した。被告国は、こうした経緯をめぐって国際的な孤立を深め、昭和8年3月、国際連盟から脱退した。

こうした中で、昭和12年7月7日に、北京郊外の蘆溝橋において、日本軍と中華民国軍との間で武力衝突が生じ、その後、両軍の武力衝突は、中華民国各地に拡大し全面的なものとなった。

(2)  太平洋戦争

被告国は、昭和16年12月8日、米国及び英国に対して宣戦布告をし、太平洋戦争を開始した。

日本軍は、戦争初期には戦果をあげたが、昭和17年6月にミッドウェー海戦で敗北してからは次第に劣勢になり、昭和20年8月9日にはソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソ連」という。)が対日参戦した。

被告国は、昭和20年8月15日、米国、英国、中華民国及びソ連によるポツダム宣言を受諾して、降伏した。

(3)  戦時下における日本の労働力事情

日中戦争及び太平洋戦争の拡大、激化とともに、日本国内の労働力は逼迫した。

2  中国人労務者移入政策

(1)  被告国による閣議決定

上記認定事実1、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

ア 日中戦争及び太平洋戦争の拡大、激化により、労働力不足が顕著となったため、日本企業から、中国人労働者の移入を求める動きが現れた。

イ その中で、昭和15年3月、商工省燃料局石炭部において、中国人労務者移入についての会議が開催され、民間からは、北海道炭礦汽船株式会社、三井鉱山株式会社、三菱鉱業株式会社及び石炭鉱業聯合会の代表者が出席した。こうした協議等を経て、興亜院(1938年12月に内閣の外局として設置された中国占領統治の中央機関で、現地に連絡部が存在した。)は、昭和17年8月ころ、「華北労務者ノ対日供出ニ関スル件」と題する極秘文書を作成した。同文書には、<1>日本国内における労働力不足の現況に鑑み、華北労務者によってこの充足を図り、もって戦時経済の円滑な運営を実現するとともに、供出労務者に対し、将来華北において必要とされる労働技術に習熟させることを目的とすること、<2>募集、輸送、就労中の労務管理の一部及び帰還を一貫して華北労工協会が行うこと、<3>募集は華北労工協会が新民会、華北交通その他の関係機関と緊密な連携を保持し、これらの機関組織を通じて募集工作を実施すること、<4>供出に要する一切の費用は事業者の負担とし、募集費は一人あたり単価を協定し華北労工協会に一括前納することなどが記載されていた。

ウ さらに、被告国は、昭和17年11月27日、下記の内容の「華人労務者移入ニ関スル件」を閣議決定した(以下「本件閣議決定」という。)。

第一方針

内地ニ於ケル労務需給ハ愈々逼迫ヲ来シ、特ニ重筋労働部面ニ於ケル労力不足ノ著シキ現状ニ鑑ミ、左記要領ニ依リ華人労務者ヲ内地ニ移入シ、以テ大東亜共栄圈建設ノ遂行ニ協力セシメントス

第二要領

一  本方策ニ依リ内地ニ移入スル華人労務者ハ、之ヲ国民動員計画産業中鉱業、荷役業、国防土木建設業及び其ノ他工場雑役ニ使用スルコトトスルモ、差当リ重要ナル鉱山、荷役及工場雑役ニ限ルコト

二  移入スル華人労務者ハ主トシテ華北ノ労務者ヲ以テ充ツルモ、事情ニヨリ其ノ他ノ地域ヨリモ移入シ得ルコト、但シ緊急要因ニ付テハ、成ル可ク現地ニ於テ使用中ノ同種労務者竝ニ訓練セル元俘虜、元帰順兵ニシテ質素優良ナル者ヲ移入スル方途ヲモ考慮スルコト

三  移入スル華人労務者ノ募集又ハ斡旋ハ、華北労工協会ヲシテ新民会其ノ他現地機関トノ連繋ノ下ニ之ニ当ラシムル

四  移入スル華人労務者ハ年齢概ネ四〇歳以下ノ男子ニシテ、心身健全ナル者ヲ選抜スルコトトシ、家族ハ同伴セシメザルコト

五  華人労務者及其ノ指導者ハ移入ニ先立チ一定期間現地ノ適当ナル機関ニ於テ必要ナル訓練ヲ為スコト

六  華人労務者ノ使用ヲ認ムル事業場ハ、華人労務者ノ相当数ヲ集団的ニ就労セシムルコトヲ条件トシ、関係庁協議ノ上之ヲ選定スルコト

七  華人労務者ノ契約期間ハ原則トシテ二年トシ、同一人ヲ継続使用スル場合ニ於テハ二年経過後適当ノ時期ニ於テ希望ニ依リ一時帰セシムルコト

八  華人労務者ノ管理ニ関シテハ華人ノ慣習ニ急激ナル変化ヲ来セザル如ク特ニ留意スルコト

九  華人労務者ノ食事ハ米食トセズ、華人労務者ノ通常食ヲ給スルモノトシ、之ガ食糧ノ手当ニ付テハ内地ニ於テ特別ノ措置ヲ講ズルコト

十  労務者ノ所得ハ、支那現地ニ於テ通常支払ハルベキ賃銀ヲ標準トシ、残留家族ニ対スル送金ヲモ考慮シテ之ヲ定ムルコト

十一  華人労務者ノ移入ノ時期、員数、輸送、防疫、防諜、登録其ノ他移入ニ必要ナル具体的細目ニ付テハ関係庁協議ノ上決定スルコト

十二  華人労務者ノ家族送金及持帰金ニ付テハ原則トシテ特別ノ制限ヲ付セザルコトトシ、本方策ノ実施ニ依リ日支間国際収支ニ重大ナル影響ヲ及ボスベキ場合ニハ可能ナル範囲ニ於テ内地ヨリ支那向適当ナル裏付物資ノ給付ニ付考慮スルコト

第三措置

本方策ノ実施ニ当リテハ之ガ成否ノ影響大ナルベキニ鑑ミ、別ニ定ムル要領ニ依リ試験的ニ之ヲ行ヒ其ノ成績ニ依リ漸次本方策ノ全面的実施ニ移ルモノトスルコト

備考

支那ニ於ケル技術労務者不足ノ現況ニ鑑ミ、本方策ノ実施ニ関連シ、別途華人青少年労務者ノ内地工場ニ於ケル使用ヲ認メ之ガ使用ニ付特ニ技術的訓練ニ意ヲ用ヒ、将来支那ニ於ケル基幹労務者タルベキ者ヲ養成スル措置ニ付テモ併セ考慮スルコト

エ また、被告国は、昭和17年11月27日(本件閣議決定と同日)、企画院(内閣総理大臣に直属し戦時経済の企画と推進にあたった官庁)において、本件閣議決定の「第三 措置」に基づいて、「華人労務者移入ニ関スル件第三措置ニ基ク華北労務者内地移入実施要領」(以下「本件移入実施要領」という。)を定めた。

これは、本格的な移入に先立って、試験的な移入の実施を定めたものであり、華北運輸股file_4.jpg有限公司から荷役業に500名を、華北労工協会から炭鉱業に500名を、それぞれ満1年の契約期間で移入することを計画するものであった。

オ 被告国は、昭和17年末に、企画院の主催により、北支労働事情視察団を現地に派遣した。この視察団には、被告国側からは厚生、商工、内務、運輸及び外務の各省の関係係官が、企業側からは石炭、鉱山、海運及び土木建築の各統制団体の関係者が参加した。同視察団は、北京大使館を拠点として現地視察、生活実態視察及び収容所の労働訓練実情視察等を行った。

(2) 試験移入の実施

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

ア  被告国は、本件閣議決定及び本件移入実施要領に基づいて、昭和18年4月から同年11月までに、石炭鉱業及び港湾荷役のために1411名の中国人労務者を日本国内に移入した。

イ  被告国は、試験移入の結果は、「概ね良好」であったと評価し、昭和19年2月28日、次官会議において、下記の内容の「華人労務者移入ノ促進ニ関スル件」を決定した(以下「本件次官決定」という。)。

昭和十七年十一月二十七日閣議決定ニ係ル「華人労務者内地移入ニ関スル件」ニ依リ実施シツツアル試験移入ノ成績ハ概ネ良好ナルヲ以テ本件第三措置ニ基キ左記要領ニ依リ本格的移入ヲ促進セントス

第一通則

一  本件ニ依リ内地ニ移入スル華人労務者(以下単ニ華人労務者ト称ス)ノ供出又ハ其ノ斡旋ハ、大使館現地軍竝ニ国民政府(華北ヨリノ場合ハ華北政務委員会)指導ノ下ニ現地労務統制機関(華北ヨリノ場合ハ華北労工協会)ヲシテ之ニ当ラシムルコト

二  華人労務者ハ、訓練セル元俘虜又ハ元帰順兵ノ外募集ニ依ル者トスルコト

前項ノ労務者ハ、年齢概ネ四〇歳以下ノ男子ニシテ質素優良、心身健全ナル者ヲ選抜スルコトトスルモ可成三〇歳以下ノ独身男子ヲ優先的ニ選抜スル様努力スルコト

三  華人労務者ハ、移入ニ先立チ可成一定期間(一ヶ月以内)現地ノ適当ナル機関ニ於テ必要ナル訓練ヲ為スコト

移入未経験労務者ニ付テハ、内地ニ於テモ之ヲ使用スル工場事業場ヲシテ必ズ一定期間必要ナル訓練ヲ為サシムルコト

四  華人労務者ハ、之ヲ国民動員計画産業中鉱業、荷役業、国防土木建築業及重要工業其ノ他特ニ必要ト認ムルモノニ従事セシムルコト

尚、就労地ニ付テハ可及的分散セシメザル如ク留意スルコト

五  華人労務者ノ契約期間ハ原則トシテ二年(但シ往復途中ノ日数ヲ含マズ)トシ、同一人ヲ継続使用スル場合ニ於テハ、二年経過後適当ノ時期ニ於テ希望ニヨリ一時帰国セシムルコト

六  華人労務者ハ毎年度国民動員計画ニ計上シ、計画的移入ヲ図ルモノトスルコト

七  華人労務者ニ対スル取扱及待遇ニ関シテハ、其ノ民族性ヲ考慮シ特ニ注意ヲ払フト共ニ、業種又ハ就労地ニ依リ著シク差等ヲ生ゼザル如クスルコト

八  華人労務者ノ家族送金及持帰金ニ付テハ、原則トシテ特別ノ制限ヲ附セザルコト

第二使用条件

一  華人労務者ノ使用ヲ認ムル工場事業場(以下単ニ工場事業場ト称ス)ハ華人労務者ノ相当数ヲ集団的ニ就労セシムルコトヲ条件トシ、関係庁ト協議ノ上厚生省之ヲ選定スルコト

移入ニ関スル細目手続ハ別ニ定ムル所ニヨルコト

二  華人労務者ノ管理ニ付テハ、特ニ左ノ諸点ニ留意ノ上、華人ノ慣習ニ急激ナル変化ヲ来サザル如クスルコト

1  工場事業場ハ、現地ヨリ同行セル日系指導員ヲ華人労務者ノ直接責任者トシテ之ガ連絡世話ニ当ラシムルコト

2  華人労務者ノ使用ニ当リテハ、可及的供出時ノ編成ヲ利用スル如クシ、且作業ニ関スル命令ハ日系指導員及華系責任者(隊長又ハ把頭)ヲ通ジ之ヲ発スルコトトシ、華人労務者ニ対スル直接ノ命令ハ厳ニ之ヲ慎ムコト

3  華人労務者ノ作業場所ハ朝鮮人労務者又ハ俘虜トハ厳ニ之ヲ区別スルコト

4  就労地到着後ハ充分ナル休養ヲ与ヘタル上就労セシムルコト

5  住宅ハ湿気予防ニ留意ノ上、朝鮮人労務者住宅ト近接セザル如ク一廊ヲ画シ設置スルコト

6  食事ハ可成華人労務者ノ通常食ヲ給スルモノトシ、之ガ食糧ノ手当ニ付テハ農商省ニ於テ特別ノ措置ヲ構ズルコト

7  慰安所竝ニ娯楽施設ニ付テハ、工場事業場ニ於テ適当ナル施策ヲ講ズルコト

三  華人労務者ノ賃金ハ、内地ニ於ケル賃金ヲ標準ト為スモ、内地ト現地ノ賃金及物価ノ間ニ甚ダシキ懸隔アル実情ナルヲ以テ残留家族ニ対スル送金及持帰金ヲ確保スル為、所要ノ措置ヲ講ズルコト

賃金手当其ノ他ノ給与ノ具体的細目及之ガ支払方法、防疫、保健、衛生、保護救済等ニ付テハ、別ニ之ヲ定ムルコト

四  就労時間ハ内地ノ例ニヨルコト

五  四大節ノ外旧正月三日竝ニ端午節、中秋節各一日ハ必ズ公休日ノ取扱ヲ為スコト

第三移入及送還方法

一  移入及送還ニ要スル経費ハ労務者ノ賃金ヨリ控除セザルコトトシ、原則トシテ工場事業場ノ負担トスルモ、差当リ要スレバ国家補償等適当ノ方途ヲ講ズルコト

二  華人労務者ノ輸送ハ日満支関係機関ニ於テ之ガ手配ヲ為スコト

三  華人労務者ハ契約期間満了後工場事業場ニ於テ、原則トシテ之ヲ集合地迄送還スルコト、疾病其ノ他ノ理由ニ因リ就労ヲ継続シ能ハザルニ至リタル労務者ニ付テモ同様タルベキコト

第四其ノ他

一  工場事業場ハ華人労務者ノ防諜竝ニ逃亡防止ニ付特段ノ配慮ヲ為スコト

二  工場事業場ノ職員ヲ指導員トシテ現地ニ於テ訓練スル為、適当ナル措置ヲ講ズルコト

訓練完了セル指導員ハ順次円滑ニ之ヲ共ニ現地ヨリ同行セシメタル日系指導員ト交代セシムルモノトス

三  華人青少年ノ内地ニ於ケル委託養成ニ関スル措置ニ付テハ別ニ之ヲ定ムルコト

四  国家補償ノ方法及限度等ニ付テハ別ニ之ヲ定ムルコト

(3) 本格移入の実施と中国人労務者移入政策の概要

ア  本格移入の政策決定

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

被告国は、上記(2)の経緯で、中国人労務者の移入を本格実施することとし、昭和16年8月16日、本件次官決定第一の六項に従い、「昭和十九年度国民動員実施計画策定ニ関スル件」を閣議決定した(以下「本件計画策定」という。)。本件計画策定には、「朝鮮人労務者ノ内地移入ヲ飛躍的ニ増加スルト共ニ、華人労務者ノ本格的移入ヲ行フ」と規定され、中国人労務者3万人の移入が計画されていた。

また、被告国は、「華人労務者内地移入手続」(本件次官決定を受けて作成された手続要領)において、中国人労務者移入の細則を定めた。同手続には、中国人労働者の移入手続について、<1>庁府県が厚生省から華人労務者の事業主別移入雇用員数の割当予定通報を受けた時には、事業主に「華人労務者移入雇用願」(華人労務者斡旋申請書)正副2通を所轄庁府県経由で提出させること、<2>厚生省が割当を決定した場合には、「華人労務者斡旋申請書」を添付してその旨を大東亜省に通報するとともに、事業場別割当表を内務省に送付すること、<3>大東亜省が<2>の通報を受けた際には、その労務者の引継輸送月日等を決定し、その都度厚生省に通報すること、<4>厚生省が<3>の通報を受けた際には、関係庁府県を通じてその内容を事業主に通報し、移入労務者の引継・輸送・到着後の措置について遺憾ないよう期するとともに、引率責任者を選定して、大東亜省に通報することなどが定められていた。

さらに、被告国は、昭和19年4月4日、厚生次官及び内務次官の連名で、各府県長官宛に「華人労務者内地移入ニ関スル方針」(次官決定)及び「華人労務者内地移入要領」(次官決定)を添付した「華人労務者内地移入ニ関スル依命通牒」を発出し、中国人労務者本格移入の方針を伝えた。

イ  中国人労務者移入政策の実際

試験移入及び本格移入による中国人労働者移入の実際は以下のとおりである。

(ア) 移入人数

<証拠略>によれば、中国人労務者移入政策により日本国内に移入された中国人労働者の数は、以下のとおりである。

a 総計

169集団      3万8935名

b 移入時期別の内訳

<1> 試験移入期(昭和18年4月から同年11月)

8集団         1411名

<2> 本格移入期(昭和19年3月から昭和20年5月)

161集団      3万7524名

c 供出地域別の内訳

<1> 華北    3万5778名

<2> 華中      2137名

<3> 満州(関東州) 1020名

(イ) 移入機構

<証拠略>によれば、中国人労働者の供出にあたった移入機構について、以下の事実が認められる。

a 現地において、労務者の供出にあたった供出機関には、以下のようなものがあった。

<1> 華北労工協会

華北労工協会は、昭和16年7月、華北政務委員会(中華民国臨時政府の管轄下に設置された華北における被告国の代表機関)の指導監督を受ける財団法人として、華北政務委員会及び北支那開発会社の出資により設立された。華北労工協会は、華北において労働者の募集、供給及び斡旋を一元的、独占的に行う機関を設置するという被告国の政策に基づいて設置された労働統制機関であった。

華北労工協会本部は、昭和19年3月、「対日供出ニ関スル指示・注意事項」を作成し、<1>業者との契約は少なくとも供出の1か月前までに行い、可及的速やかに予納金を納めること、<2>訓練所出身供出の契約時においては、必要とする医療について特別な配慮をする約束をすること、<3>本部は年度毎の供出予定の決定と同時に公使に対しその年度における食糧の必要量の配給に関する申請を行うこと、<4>隊編成は出発に先立ち編成を整備することとするが、事業体から現場管理人が到着した場合には、協議の上なるべく現場の作業組織に適合した編成とすること、<5>労工選出にあたっては、事業体向けの適格者を求めるため、引率者(業者)を参加させること、<6>訓練所供出の労工には供出に先立って、本部が指示する範囲(約10日間1日1円を予定する。)の栄養を与えることなどを定めた。

<2> 日華労務協会

日華労務協会は、日本人により、東京に本部を置いて設置された社団法人である。主に華中での供出にあたった。

<3> 華北運輸股file_5.jpg有限公司(以下、単に「華北運輸公司」ということがある。)

華北運輸股file_6.jpg有限公司は、北支那開発会社の関連会社であり、自社に勤務していた労働者を供出した。

<4> 福昌華工株式会社

福昌華工株式会社は、満州鉄道傘下の荷役労働を主な業務とする会社であり、満州(関東州)からの供出にあたった。

<5> 国民政府

国民政府の機関も供出にあたった。

b 供出機関ごとの供出数は以下のとおりである。

<1> 華北労工協会      3万4717名

<2> 日華労務協会(中華)    1455名

<3> 華北運輸股file_7.jpg有限公司    1061名

<4> 福昌華工株式会社(関東州) 1020名

<5> 国民政府           682名

c 日本国内における移入の企画・受入の態勢は、以下のとおりであった。

<1> 関係官庁

関係各庁が相互に緊密に連絡を取りつつ、移入連絡は大東亜省が、労務の割当及び管理は軍需省及び運輸省との協議のもと厚生省が、取締は内務省が、それぞれ担当する。

<2> 民間

華北労工協会及び関係統制会が主として実務の連絡・斡旋にあたる。

(ウ) 供出方法

上記認定事実2(3)イ(イ)、<証拠略>によれば、中国人労働者の供出方法について、以下の事実が認められる。

a 供出方法には、行政供出、自由募集、訓練生供出及び特別供出の4つの方法があった。

<1> 行政供出とは、中国側行政機関の供出命令に基づく募集で、各省、道、県、郷村へと上級庁から下部機構に対し供出員数の割当をして責任数の供出を行わせる方法であった。

行政供出の実態は、現地の行政機関及び日本軍が密接に連携して行う強制徴収であった。

<2> 自由募集とは、主要労工資源地において、条件を示して希望者を募る供出方法であった。

<3> 訓練生供出とは、日本現地軍において作戦により得た俘虜、帰順兵で一般良民として釈放しても差し支えないと認められる者及び中国側地方法院において微罪者を釈放した者を、華北労工協会が、同協会の労工訓練所において、一定期間(約3か月)、来日に必要な訓練を実施した者を供出する方法であった。

<4> 特別供出とは、現地において特殊労務に必要な訓練と経験を有する特定機関の在籍労務者を供出する方法であった。

b 供出機関ごとの移入者数は以下のとおりである。

<1> 華北運輸股file_8.jpg有限公司、福昌華工株式会社(関東州)及び国民政府により供出された2763名は特別供出であった。

<2> 日華労務協会(華中)により供出された1455名は自由募集であった。

<3> 華北労工協会により供出された者のうち1万0667名は訓練生供出で、元俘虜、帰順兵、土匪または囚人を訓練した者であった。

華北労工協会により供出された者のうち2万4050名は行政供出であった。

c 契約関係

個別の事業所ないし統制会と供出機関との間で、供出機関が中国人労働者を供出し、事業所等が中国人労働者を使用する旨の契約が締結されたが、事業所等と中国人労働者との間で労働契約が締結されることはなかった。

d 俘虜収容所

行政供出及び訓練生供出により集められた中国人労働者は、石門、塘沽、済南、青島及び邯鄲にあった俘虜収容所に収容された。

その後、中国人労働者は、俘虜収容所から出発港まで運ばれ、そこから日本へ出航した。

(エ) 中国人労働者の素質等

<証拠略>によれば、移入された中国人労働者の素質等について、以下の事実が認められる。

<1> 年齢

年齢は、20代の者が最も多く約4割を占め、30代の者も約3割いたが、最低の者が11歳、最高の者が78歳であった。

<2> 職業、教育等

中国人労働者の職業は、農業が圧倒的に多く、次いで商業が多かったが、無職の者も相当数いた。

学歴については、文盲の者もいたが、中等学校、専門学校ないし大学を卒業した者もおり、また、軍官学校を卒業し医師資格を有する者もいた。

<3> 健康

特別供出ないし自由募集による者は、健康は概ね良好であった。

行政供出ないし訓練生供出による者(特に昭和19年後半以降供出の者)は、健康が極めて悪く多くの疾患を有し、衰弱が甚だしいため本邦上陸時にかろうじて歩行できる程度の者も極めて多数いた。そのため、作業能率は低く、死亡率は高かった。

(オ) 輸送状況

<証拠略>によれば、中国人労働者の輸送状況について、以下の事実が認められる。

当時の逼迫した船舶事情及び危険な航行事情の下で、石炭、塩等多量の原料の輸入の要請も充足する必要があったため、中国人労働者の輸送には、以下のような様々な問題が起こった。

3万8935名の乗船人数のうち、船中において564人、本邦上陸後事業場到着前に248名、合計812名(2.1パーセント)が死亡した。

a 船待ちの予定がつかず急遽乗船したため、食糧その他の準備不足となったことがあった。また、予定以上に船待ちしたため、備蓄食糧が不足することもあった。

b 航海日数の予定がつかなかったため、集団輸送169件のうち(但し、未詳のもの26件を除く。)、86件は問題がなかった(4日から9日で到着した。)が、48件は航海に10日から19日を要した。そのうち、20日以上かかったものが6件、30日以上かかったものが3件あり、最高39日を要したものがあった。

c 飲料水、食料等が欠乏することが度々あり、食糧、特に白麺に砂のような不純物が混入することもあった。

d 船は概ね貨物船であり、最初は医師の付き添いがあったが、その後は事情により付き添いはなくなった。

e 長期間、船倉内の石炭、塩、鉱石等の上で寝起きしなければならなかった。

f 上陸後、直ちに長時間の汽車による輸送を受けた。

(カ) 中国人労働者の配置

前記認定事実2(3)ア、<証拠略>によれば、中国人労働者の配置状況について、以下の事実が認められる。

昭和18年4月からの試験移入以降、本件閣議決定、本件次官決定及び本件計画策定などに基づき、3万8935名の中国人労働者が、35事業者、135事業場に配置された(前記「華人労務者内地移入手続」にあるとおり、事業主が「華人労務者移入雇用願」を厚生省に提出し、厚生省が中国人労働者の割当を決定することにより配置された。)。

その内訳は以下のとおりである。

a 事業主産業別

事業者数 事業場数   移入数

鉱山業   15   47  1万6368名

土木建築業 15   63  1万5253名

造船業    4    4    1215名

港湾荷役業  1   21    6099名

合計    35  135  3万8935名

b 事業目的別

産業   事業目的  事業場数 配置数(のべ人数)

鉱工業 石炭採掘    42  1万7433名

銅鉱採掘     9    4382名

水銀鉱採掘    7    3077名

鉄鋼採掘     6    1397名

その他鉱石採掘  5     999名

精錬       1     132名

造船       4    1210名

合計      74  2万8630名

土建業 発電所建設   13    6076名

飛行場建設    8    3428名

鉄道港湾建設   6    1575名

地下工場建設   6    2148名

工場建設     1     580名

鉄道除雪     2     666名

合計      36  1万4473名

荷役業 港湾荷役    25    8073名

総計         135  5万1176名

c 地域別

事業場数   配置数

北海道  58  1万9631名

奥羽    9    4008名

関東    7    3505名

中部   25  1万0188名

近畿    7    2708名

中国    5    1332名

四国    1     678名

九州   23    9126名

(キ) 中国人労働者の就労事情

<証拠略>によれば、中国人労働者の就労事情について、以下の事実が認められる。

a 配置期間

事業場における中国人労働者の配置期間は、平均13.3か月であり、最長で28.4か月、最短で1.3か月であった。

港湾荷役及び土建業においては、事業場を移動した中国人労働者が多かったが、鉱山等においては、事業場の移動はほとんどなかった。

中国人労働者の労働可能日数は、終戦後の稼働停止、移入のための移動等を考慮すると、平均9か月であり、さらに実労日数は平均7か月と推算され、実労人員は受入人員の7割5分程度と推定された。これを作業率について見ると、稼働人員から見る作業率は75.1パーセント、稼働日数から見る作業率は78.0パーセント、両者の総合作業率は59.7パーセントであった。このように、作業率が低迷した原因は、中国人労働者は、勤勉実直な働きぶりではあったが、熟練者や経験者が少なかったことに加え、素質ないし健康が不良な者が相当数を占めていたためであると考えられる。

b 作業内容

作業の種別は、港湾荷役、採炭採鉱、各種運搬、坑道隊道掘進、造船、切土盛土整備、骨材採取、除雪、機械選鉱、農耕及び雑役等に大別することができるが、その内容は、いずれも知識や技術・経験を必要としない単純な筋肉(肉体)労働であった。

c 労働時間

戦後調査した結果、1日平均9ないし10時間であるという報告があった。

d 処遇

<1> 管理等

気候風土その他の生活環境の変化が、移入当時相当衰弱していた中国人労働者の健康に影響を及ぼした。また、戦時下での食糧等物資の不足も相当影響した。

指導取締については、思想容疑事件及び逃亡事故が続発する趨勢にあったことから、取締・指導が強化され、その取扱に対する中国人労働者の反感は相当強かった。指導の行き過ぎ、虐待及び不正な取扱等もあった。

また、警察による管理・取締が行われていた。

<2> 食糧

戦時中、重筋肉労働者に対する支給量は2500キロカロリー程度であったが、中国人労働者に対する支給はこれを超えることはなかった。そのため、空腹に耐えかねての逃亡と認められる事件が多発した。

食用油、獣肉の支給は、中国人の通常食からすると十分な量が行き渡らなかった。冬季においては、ビタミン類が欠乏し、また、質のよくない食糧があったこともあって、疾病や病死の原因となった。

<3> 衣料

衣料の支給は、十分ではなかった。蒲団の準備、地下足袋の配給等が遅れたため疾病や凍傷の原因となった。

<4> 宿舎

宿舎は、135事業所中67事業所で、中国人労働者のための宿舎が特設され、改造や転用をしたものもあった。

居室は、1人あたり平均0.63坪であり、敷物は、畳敷き、アンペラ敷き、ござ敷き、板敷きなどであった。逃亡防止のため、通風採光は十分ではないものが多く、一般に設備は十分ではなかった。受入までに準備が整わなかったため、疾病、病死を誘発したものもあった。

<5> 医療・衛生

戦時下においては、一般に、医師、医薬品その他衛生材料が不足していた。健康診断、防疫施設等に行き届いた事業場もあったが、事業場側の措置に問題があり死亡者数に対して受診数が極めて少ない事業場もあった。

e 死亡

移入により、中国各地の港から乗船させられ、終戦により中国送還用の船に乗船するまでに死亡した中国人労働者の総数は6830名(移入された者の総数3万8935名の17.5パーセント)であった。

死亡の具体的状況は以下のとおりである。

<1> 死亡の時期及び場所

移入時船中での死亡       564名

日本上陸後、事業場到着前の死亡 248名

事業場到着後3か月以内の死亡 2282名

事業場到着後3か月以後の死亡 3717名

集団送還後、乗船前の死亡     19名

<2> 原因

疾病によるもの 6434名(94.2パーセント)

傷害によるもの  322名

自殺        41名

他殺        33名

f 疾病

疾病に罹患した中国人労働者の総数は467名であった。

特異な現象として、失明が圧倒的に多く、217名(46.4パーセント)であった。これに次いで視力障害が多く、79名であった。肢指欠損またはその機能障害は合計162名であり、そのうち全く労働能力を失った者は153名(32.7パーセント)、過激な労働に耐えられない者は9名、労働に支障のある程度の者は305名であった。

原因は、公傷が186名、私傷が133名、疾病による者が147名であった。

(ク) 中国人労働者の送還

<証拠略>によれば、中国人労働者の送還について、以下の事実が認められる。

中国人労働者のうち、終戦前に1180名が、終戦後に3万0737名が、それぞれ送還された。

3 新潟港への中国人労働者の移入

(1) 港湾荷役業における労働力事情

前記認定事実1、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

日中戦争が長期化するにつれて、港湾荷役業においても労働力が不足するようになり、昭和13年ころから、被告国による統制が始まった。

(2) 港運業界の動向

ア  海陸連絡中央会の設立

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

昭和15年5月、港湾倉庫業者の団体として、海陸連絡中央会が設立された。

海陸連絡中央会は、国策に協力して日本の港湾における海陸連絡業の改善・合理化を図り、併せて、会員の共同利益を保護・増進することを目的とし(定款第2条)、その目的を達するために、<1>日本の港湾における海陸連絡業の統制、<2>官庁その他関係諸機関との連絡協調、<3>海陸連絡業の経営施設の改善・合理化に関する調査研究等を行うこと(同第3条)としていた。なお、昭和16年6月7日の第2回総会において、定款第2条の「併せて、会員の共同利益を保護・増進すること」という趣旨の部分は、「港湾運営能率の増進を期すること」という趣旨に変更され、第3条の事業は、逓信大臣の監督の下に行うこととされた。

海陸連絡中央会は、昭和15年6月、当局の諮問に答えて、港湾荷役対策についての業界の意見をとりまとめた。そこには、労働力確保について、<1>港湾荷役の重要性に鑑み、労働及び資材の供給については、炭鉱用に準ずる優先的取り扱いを受けること、<2>港湾労力の不足を緩和するため、労務動員計画に基づき、港湾向け半島労務者所要員数の移入を確保することなどが挙げられていた。

イ  日本港運業会の設立

前提事実、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

(ア) 国家総動員法を受けて、昭和16年9月16日、港湾運送業を統制運営して荷役力を増強することを目的とした港湾運送業統制令(勅令第860号)が公布された(同月20日から施行)。また、同年9月19日、統制方針要綱が発表され、同要綱には、各主要港に港湾運送業の一元的運営を目的とする港湾作業会社を設立することなどが定められていた。

これらをもとに、主要港には統制会社が設立され、新潟港でも、昭和17年に、新潟港湾運送株式会社(後に「新潟港運株式会社」に商号変更)が設立された。

(イ) 昭和18年1月ころには、主要港の港湾作業会社の設立がほぼ完了したため、港湾作業会社の中央統制団体を設立することが下命され(逓信省告示第58号)、その設立委員に、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸及び関門の各地区別団体の代表者並びに清水港湾運送、新潟港運、若松港運及び小樽港運作業の代表者が任命された(同告示59号)。

同年2月10日、港湾作業会社の中央統制団体として日本港運業会が設立された(なお、新潟港運のRがその評議員に就任した。)。日本港運業会は、港湾荷役の総力を最も有効に発揮するため、港湾運送業の総合的統制運営を図り、かつ、港湾運送業に関する国策の遂行に協力することを目的とし(定款第1条)、この目的を達するために、<1>会員及び会員たる団体を組織する者の港湾運送業に関する統制指導、<2>本部における港湾運送業の整備確立、<3>会員及び会員たる団体を組織する者の港湾運送業に要する資材、資金、設備、労務等に関する実施計画の設定及びその遂行などの事業を行うこと(定款第8条)とされていた。

また、昭和17年4月、船舶運航事業の一元的統制機関として、船舶運営会が設立された。

ウ  日本港運業会の対応

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

被告国は、昭和17年11月10日、「戦時港湾荷役力ノ緊急増強ニ関スル件」を閣議決定し、<1>主要港の荷役能率の5割引上げを目標とすること、<2>総揚制(直取を認めず船載船貨を一括陸揚げして作業時間を短縮すること)を実施すること等が決定された。これを受けて、船舶運営会は、実施要領を定めた。同要領には、厚生省が、港湾労務要員の優先割り当てを行うとともに、必要であれば華人労務者の移入を考慮することが定められていた。

日本港運業会は、昭和19年4月1日の運輸通信省通牒「華人労務者ノ取扱方ニ関スル件」による委任に基づいて、「港湾荷役華工管理要領」を定めた。同要領には、<1>労務の需給状況及び中国人労働者の受入態勢の適否を考慮の上、主管官庁の承認を得て配置港を決定すること、<2>中国人労働者を配置する港には、業会華工管理事務所を設置し、華工管理に関する事務を処理させることなどが規定されていた。

このようにして、日本港運業会は、運輸通信省から一切を委任され、港湾への中国人労働者の移入及び管理の主体となり、大東亜省、その他の関係官庁並びに北京及び上海の大使館とともに、中国人労働者の移入及び管理に協力した。日本港運業会は、現地の供出機関と協議・合意の上で、中国人労働者の移入を受け、華工管理事務所は、各港において、各事業場と協議・合意の上で、各事業場とともに、中国人労働者の生活管理及び使役・労働管理をしていた。

日本港運業会は、5455名の中国人労働者を移入し、さらに、函館東日本造船株式会社からの転換により402名を加え、合計5875名を港湾労務者として利用した。これらの中国人労働者は、小樽、函館、室蘭、船川、酒田、新潟、伏木、七尾、東京、清水、大阪、神戸、広島、門司及び八幡の15港に配置された。

(3) 新潟港への中国人労働者の移入

ア  新潟港の役割

前記認定事実1及び3(1)、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

日中戦争及び太平洋戦争が進展すると、太平洋側の諸港は爆撃を受けて使用不能となったため、これに代わって日本海側の港が使用されるようになった。新潟港は、戦争末期において、戦時下の主要動力源であった石炭の輸送について重要な役割を果たした。

戦局が進むと、新潟港に荷揚げされる貨物量は増加の一途をたどったが、労働力不足は深刻化していった。

イ  新潟港への移入

前提事実、前記認定事実3(2)ウ、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

新潟港にも、日本港運業会によって、華工管理事務所として、新潟華工管理事務所が設置された。

新潟華工管理事務所は、新潟港運と協議・合意の上で、同社とともに、日本港運業会が移入し新潟港に配置した中国人労働者の生活管理及び使役・労働管理をしていた。

なお、新潟港運は、昭和18年ころ、被告国(運輸省)から、港湾荷役増強非常動員奨励金として約29万9900円の支給を受けた。

4 新潟港における強制労働の実態

(1) 移入の概要

前記認定事実2(3)イ、<証拠略>によれば、新潟港への中国人労働者の移入について、以下の事実が認められる。

新潟港には、以下のとおり、華北運輸股file_9.jpg有限公司及び華北労工協会により供出された中国人労働者合計901名が移入された(第4次は東京から中途転入)。この中には、新潟港から直江津港に移送された者もいた。

ア  供出時期別の人数

供出機関    移入年月日     配置人数

第1次 華北運輸公司 昭和19年6月17日  207名

第2次 華北労工協会 同年11月9日、10日 300名

第3次 華北労工協会 同年12月10日    294名

第4次 華北労工協会 昭和20年5月28日  100名

イ  出身地別の人数

移入時期 出身地 人数

第1次  山東省 207名

第2次  河南省 207名

その他、安東省、山東省、河北省の出身者がいた。

第3次  山東省 258名

その他、file_10.jpg西省、河北省、河南省、江蘇省の出身者がいた。

第4次  山西省 49名

河北省 20名

河南省 15名

その他、山東省、file_11.jpg西省、四川省、安徽省、湖北省の出身者がいた。

(2) 中国人労働者の素質等

前記認定事実2(3)イ(エ)、<証拠略>によれば、新潟港に移入された中国人労働者の素質等について、以下の事実が認められる。

ア  年齢

平均年齢は29歳であったが、最高齢で53歳、最年少で17歳の者もいた。

イ  職業

第1次移入者は、筋肉労働に熟練した者であった。

第2次以降の移入者の職業は、農業が75パーセント、商業が20パーセント、その他(教員、軍人等)が5パーセントであった。

ウ  体格・健康

(ア) 1次移入の者

1名を除いては、一般に体格・健康とも良好であった。

(イ) 2次ないし3次移入の者

体格、栄養ともに不良であり、筋骨の発達が不十分な者が多かった。

医師の健康診断結果は以下のとおりであった。

a 2次移入の者

甲  130名

一乙  114名

二乙   43名

丙    12名

丁     1名

b 3次移入の者

甲  127名

一乙   99名

二乙   48名

丙    18名

丁     2名

(ウ) 4次移入の者

体格・健康とも概ね良好であった。

エ 教育

中等学校程度の教育を受けた者が約80名、小学校程度の教育を受けた者が約300名いたが、他は、特に教育を受けていない者であった。

また、日本語に堪能な者が約10名いた。

(3) 輸送状況等

前記認定事実2(3)イ(ウ)及び(オ)、<証拠略>によれば、新潟港に移入された中国人労働者の移送状況等について、以下の事実が認められる。

ア 供出された中国人労働者は、俘虜収容所(多くは済南にある新華院)に収容された後、港(多くは青島)まで汽車で運ばれ、そこから日本へ向かう船に乗船した。

新華院には、通電した鉄条網が張られた高い塀などがあり、日本兵が見張りをしていた。そこに収容された中国人労働者は、日本に移入されるにあたっての訓練を受ける等していた。

イ 第1次移入者は、神戸港に入港して健康診断を受けた後、直ちに汽車に乗車し、新潟へ移送された。第2次及び第3次移入者は、下関港に入港し、下関市に1泊ないし2泊した後、汽車に乗車して新潟へ移送された。

ウ 少なくとも、乗船前に逃亡した者が2名、船中で死亡した者が4名いた。

(4) 中国人労働者の就労事情

前記認定事実2(3)イ(キ)、<証拠略>によれば、新潟港における中国人労働者の就労事情について、以下の事実が認められる。

ア 作業内容

中国人労働者は、新潟港運に管理されながら、石炭、木材、食料の積み降ろしなどの港湾荷役作業に従事した。

イ 労働時間

作業時間は概ね10時間前後であったが、昼食の時間以外に休憩はなく、徹夜で作業をすることもあった。

ウ 処遇

(ア) 管理等

新潟華工管理事務所は、20数名の職員を、庶務、厚生、会計または指導の各科に配置し、医師及び看護師を置くとともに、華北運輸股file_12.jpg有限公司から派遣され常駐していた日本人指導者1名により中国人労働者の生活管理等をしていた。新潟港運は、労務関係職員ないし警備作業指導職員として30名程度を配置し、中国人労働者の作業指導監督等にあたらせていた。

また、警察から常時5名程度の警察官の派遣を受け、中国人労働者の規律・管理にあたっていた。

(イ) 契約関係及び賃金

中国人労働者と新潟華工管理事務所ないし新潟港運との間で労働契約が締結されることはなかった。

また、中国人労働者は、一切賃金を支払われなかった(被告会社は、新潟港運が、賃金として75万6873円を、終戦後の休業手当として20万7670円をそれぞれ支払ったと主張し、甲総3の5にも同旨の記載がある。しかし、新潟華工管理事務所及び新潟港運により作成された強制連行・強制労働についての報告書〔<証拠略>〕では、<1>上記のとおり、実際には中国人労働者と新潟華工管理事務所ないし新潟港運との間で労働契約が締結されることはなかったにもかかわらず、給与は労働契約に従って支払われていたと記載され、虚偽の報告がされていること、<2>給与は銀行預金とする方法により支払われていたとされているがそれを裏付ける証拠は何らないことからすると、上記記載を信用することはできず、被告会社の主張を採用することもできない。)。

(ウ) 食糧

移入から送還までの1人あたりの支給量は月平均33.075キログラム、移入から終戦までの1人あたりの支給量は月平均27.985キログラム、最高支給月量は36キログラム、最低支給月量は23キログラムであった。

主として配給されたのは、麺粉(小麦粉)に雑穀を混入したものであったが、豪雪と情勢悪化のため昭和20年2月ころに米食を支給したことがあった(冬季に作業から帰って冷たい握り飯を食べたため下痢患者が続出した。)。昭和20年5月ころから麺粉に粗悪な雑穀粉を混入した物を配給したため、下痢患者が続出したことがあった。

副食物及び調味料については、当時の内地事情のため余り恵まれなかった。また、野菜は特に不足した。

(エ) 衣料

衣料はほとんど支給されず、雨天作業後の着替えすらなかった(もっとも、衣料と称して麻袋が支給されたことがあった。)。

寝具は、移入当時に持参した毛布1枚の他は、畳及びアンペラ1枚が支給されたのみであった。

(オ) 宿舎

中国人労働者の宿舎は、木造2階建瓦葺本建築で、敷地約1000坪、炊事場、医務室、浴室、倉庫等を備えていた。建築坪数は、661坪半で、事務室等を除いた宿舎面積は1階、2階とも245坪の計490坪であったが、移入人数が増えるに従って、次第に狭隘となった。

中国人労働者の暖房施設は、2、3個のストーブが設置されていただけであった。

(カ) 医療・衛生

嘱託医1名が隔日で診療にあたったほか、看護婦1、2名が常駐していた。しかし、医薬品等の入手に困難をきたし、また、中国人労働者の間で担当医師に対する不信・反発があった。

新潟は、中国大陸に比べて湿度が高く、乾燥地帯出身の中国人労働者の健康に大きな影響を与えた。

(キ) 天候

昭和19年10月1日から昭和20年3月31日までの新潟気象台における平均気温(1日3回〔午前6時、午後2時、午後10時〕の平均〔単位は℃〕)、最高気温(1日の最高の値〔単位は℃〕)、最低気温(1日の最低の値〔単位は℃〕)、平均風速(1日3回〔午前6時、午後2時、午後10時〕の平均〔単位はm/s〕)、最大風速(1日の最大の値〔単位はm/s〕)、風向(最大風速出現時の風向)、平均湿度(1日3回〔午前6時、午後2時、午後10時〕の平均〔単位はパーセント〕)、降水量(1日の合計値〔単位はミリメートル〕)、最深積雪(1日の積雪の最大値〔単位はセンチメートル〕)及び天気は、別紙10「気象状況」記載のとおりである。

エ 死亡

新潟港に移入された中国人労働者の死亡者数は、合計159名(死亡率21パーセント)であった。その内訳は以下のとおりである。特筆すべき点は、移入後相当期間後死亡者が続出したこと及び栄養失調(その併発症を含む。)による死亡者が続出したことの2点である。

(ア) 移入期別の死亡者数

第1次 11名

第2次 65名

第3次 66名

第4次 13名

(イ) 原因

栄養失調     43名

胃腸疾患     12名

呼吸器疾患その他 90名(うち自殺1名)

公傷死      10名

オ 疾病

新潟港に移入された中国人労働者の疾病(栄養失調と関係のある疾病)への罹患者数は、905名であった(のべ人数、死亡者を含む。)。その内訳は以下のとおりである。

病名    人数

栄養失調症  90名

胃腸疾患  261名

角膜潰瘍  242名

夜盲症   312名

5 新潟港に移入された中国人労働者の中国への送還

前記認定事実2(3)イ(ク)、<証拠略>によれば、中国人労働者の新潟港からの送還について、以下の事実が認められる。

新潟華工管理事務所及び新潟港運は、昭和20年8月15日の終戦後、関係官庁からの命令により、中国人労働者の稼働を停止した。

新潟港に移入された中国人労働者は、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した(塘沽に到着した。)。これにより帰国した中国人労働者の数は、第1次移入者(207名)のうち196名、第2次移入者(300名)のうち234名、第3次移入者(294名)のうち227名、第4次移入者(100名)のうち87名の合計744名であった。

6 原告ら各自に関する事情

(1) 原告Bについて

前提事実、前記認定事実4、<証拠略>によれば、原告Bについて、以下の事実が認められる。

原告Bは、1921年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Bは、祖父母、両親、姉及び3人の弟とともに中国河北省鶏澤県要東庄村に居住し、冀南銀行(日本軍に抵抗する抗日政府が経営する銀行)で会計業務に従事していた。

原告Bは、1944年4月15日(旧暦)の早朝に、河北省企之県四合寨村で、冀南銀行の各支店主任会議に参加しようとしたところ、日本軍に包囲された。原告Bは、銃を持って村の外へ逃げようと試みたが、いたるところに日本軍とその傀儡軍がいることがわかったためもう逃げ出せないと考え、銃を草むらの中に隠して日本軍に捕らえられた。原告Bとともに10数名が捕まった。

原告Bらは、後ろ手で縛られて数珠繋ぎにされ、日本軍及び傀儡軍に監視されながら歩かされた。原告Bらは、企之県から山東省との境にある臨清県まで4日間歩かされた。原告Bは、行き先も目的も告げられず、また、水や食料も殆ど与えられない状態で歩かされた。

原告Bらは、臨清県にある傀儡軍の警察署で、縄をほどかれコーリャンの餅1個と杓1杯の水を支給されたが、その後は、午後に1度トイレに行く以外は、部屋の中に閉じ込められる状態であった。原告Bらは、20数日間に渡って閉じこめられたが、その間、食料は1日につきコーリャンの餅1個と杓1杯の水だけであった。また、原告Bは、警察署の者から、氏名、住所、家族及び職業などを聞かれたが、抗日政府の仕事をしていたことから、名前は「高清珍」、職業は「教師」と答えた。

原告Bは、その後、済南に連れて行かれると聞かされ、警察署の者が運転するトラックに乗せられた。トラックには、銃を持った日本兵が同乗していた。トラックは、朝に出発したが、その日の夕方に済南に到着した。

(イ) 原告Bは、済南に着くと、新華院(俘虜収容施設)に収容された。

新華院は、高い塀で囲まれ、塀の上には電気を流した鉄条網があり、常時、日本兵が見張っていた。

原告Bは、教育を受けたことがあるということで幹部チームに配属され、労働訓練を受けたり日本語を習ったりした。食事は、朝は茶碗1杯のお粥、昼と夜は茶碗1杯のコーリャン飯だけであった。板張りの部屋で着の身着のままで就寝し、衣料の支給もなかった。原告Bは、新華院に着いたばかりのころに、華北労工協会の中国人から、日本に送られ働かされると聞いたが、どこでどんな仕事をするのか、給料をもらうことができるのかどうか等について話はなかった。

原告Bが滞在中に、新華院からの脱走に失敗して捕まった者がいたが、その脱走者は、原告Bらが見ている目の前で、日本兵から何度も銃剣で刺され、軍用犬に噛みつかれて死亡した。日本軍の将校は、「見たか。逃げようとする奴は同じ目に遭うぞ。」と言った。

原告Bは、約3か月間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Bら(約300名)は、1944年9月中旬ころ(旧暦)、済南駅から青島駅まで汽車で移動させられた。汽車には日本兵が乗り込んで監視をしていた。原告Bは、済南を出発する際に、黄色い服1着と綿が入った蒲団を支給された。

原告Bらは、青島に到着した翌日、日本の石炭貨物船に乗せられた。原告Bは、甲板に張られたテントの中で過ごし、台風が来ると船倉内の石炭の上に座らされた。食事は、50グラム程度のトウモロコシの餅子1つだけであった。原告Bらは、10数日間乗船していた。

石炭貨物船は、昭和19年11月17日ころ、日本の下関港に到着した。原告Bらは、到着の翌日に船から降ろされたが、服を脱がされて体に液体を塗られた。脱いだ服は蒸されたが、蒸し終わると再び服を着せられ、汽車に乗せられた。その後、汽車は、大阪を経由して新潟駅に着いた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Bは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。新潟華工管理事務所には警察官もいた。

原告Bは、木造2階建ての宿舎に収容され、第2中隊の中隊長となった。

(イ) 原告Bは、毎日、午前8時から正午ころまで作業をしたら現場で食事をとり、食事が終了したらすぐに作業を再開して午後5時ころまで作業に従事し、午後9時に就寝する生活をした。作業内容は、主に船から石炭や木材を降ろしてトロッコに積んで倉庫に運び込む作業、倉庫内の石炭や木材をトロッコに積み込む作業であった。昼食時間以外に休憩はなく、休日は一切なかった。

日本人監督員の監視下で作業をさせられ、作業の速度が遅いと言われて、日本人監督員から殴られた者もいた。

(ウ) 食事は1日3食あったが、小麦粉で作った拳くらいの大きさの饅頭のみで、おかず等はなかった。そのため、ひもじさの余り雑草を食べたこともあった。

衣料は、麻袋1枚と地下足袋1足以外に支給されたことはなく、原告Bは服の代わりに麻袋を身に纏っていた。

宿舎の床には藁が少し敷いてあったが、暖房設備はなかった。

原告Bは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。

(エ) 原告Bは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 広島への連行

(ア) 原告Bは、昭和20年3月15日、作業に従事していたところ、警察官から近くの警察署に連行され、当時広島で逮捕された抗日団体の首領と目される中国人(N)を知っているかと尋問された。原告Bが知らないと答えると、いきなりベンチに押し倒され押さえつけられたまま、やかんの水を鼻と口に注ぎ込まれた。原告Bは、その後、手錠を掛けられ汽車で広島まで連れて行かれた。

(イ) 原告Bは、警察署で、その中国人を知っていると認めろ、日本に不満を持っていないか、中国政府の指示で破壊工作をしたのではないかと尋問された。原告Bは、身に覚えのないことであったためそれらを否定したところ、正座をさせられて股の内側に棒を挟んだ上から強く踏みつけられたり、サーベルで右の手を切る仕草をされたりした。原告Bは、20数日間に渡り拷問を受け自白を強要されたが、それを拒んだ。その間、食事はおにぎり1個だけであった。

その後、原告Bは、広島の裁判所で懲役4年の有罪判決を受け、広島刑務所に収監された。原告Bは、刑務所で封筒を作る作業をさせられた。食事は1日3食出たが、1食につきおにぎり1個だけであった。

(ウ) 原告Bは、昭和20年8月6日、広島刑務所にいたところ、米軍が落とした原爆により被爆した。

原告Bは、その日の午後に、山口刑務所に移監された。

オ 帰国

(ア) 昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したが、原告Bはしばらくの間、山口刑務所に収監されたままであった。原告Bは、昭和20年9月、広島刑務所に移監されたが、同刑務所に収監される前に、護送してきた警察官から「今は平和になった。中国に帰っていい。」と言われ、釈放となった。

したがって、原告Bの実質的身柄拘束期間は、約1年6か月(うち強制労働に従事させられた期間は約4か月)である。

原告Bは、汽車で広島から下関まで行き、米軍の指示に従って、船で朝鮮半島へ渡った。その後、汽車や徒歩で朝鮮半島を渡って中国へ入り滄州まで行き、さらに20数日間歩いて故郷へ帰った。

(イ) 原告Bは、帰国後も、被爆による後遺症と思われる疾患に悩まされている。

(2) 原告Cについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Cについて、以下の事実が認められる。

原告Cは、1922年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Cは、両親及び2人の弟とともに住所地に居住し、農業に従事していたが、1943年の暮ころ、抗日挺進隊第6支隊に参加した。

数か月後、抗日挺進隊第6支隊が日本軍に降伏したため、原告Cらは日本軍の管理下に置かれていたが、1944年7月ころ(旧暦)、原告Cら(約250名)は、別な場所に移動させられ訓練を受けた。その後、原告Cらは、陽武県の北関駅に集められ「山東省の蚌埠市に行って仕事をする。」と言われ、汽車に乗せられた。原告Cらが汽車に乗ると、日本兵がドアを締め、開封駅に着くまで締め切られたままであった。汽車は、その日の午後10時ころには、山東省の済南駅に着いた。

(イ) 原告Cらは、汽車から降りると、数10人の日本兵に囲まれた。原告Cらは、整列させられ人数を確認された後、新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。

新華院では、午前6時に起床して、午前7時ころに朝食をとり、その後、昼食を挟んで訓練を受けたり訓話を聞いたりしていた。食事は1日3食で、朝は粟粥2椀、昼は粟1椀、夜は粟粥2椀が出た。トイレに行く際には、監視員の許可を得る必要があり、1人が行って帰ってくると次の1人が行くようにと指示され、それに従わないと殴られた。原告Cは一繋がりの大きなベッドで就寝させられたが、1つのベッドに約20人が寝ていたため、詰め込まれたような状態で寝返りをうつのにも苦労した。

原告Cは、約1か月間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Cらは、1944年10月ころ(旧暦)、日本人によって済南駅から青島駅まで汽車で移動させられた。

原告Cは、青島に数日滞在した後、日本の貨物船に乗せられた。船には、200名以上の中国人が乗せられていた。原告Cが乗船していた場所のすぐ隣には石炭が積まれていた。乗船中は満足な食事が出ることはなかったが、乗船から数日後にトウモロコシの粉をお湯で溶いた物が出た。乗船中は、日本人から厳しく監視された。原告Cらは、9日間程度乗船していた。

貨物船は、昭和19年11月17日ころ、日本の下関港に到着した。原告Cらは、下船した後、プールに入れられて消毒された。原告Cらは、その後、汽車に乗せられ、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Cらは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Cは、木造2階建ての宿舎に収容され、第2隊2班の所属(班長)となった。

(イ) 原告Cは、毎日、午前6時に起床して食事をとり、午前8時に作業に出かけ、正午ころに現場で食事をとり、午後6時ころに作業を終了して夕食をとり、午後8時に消灯となる生活をした。作業内容は、主に大きな船から小さな船や貨車に荷物(大豆、米、缶詰、石炭等)を載せ替えるというものであった。残業をさせられることはあったが、昼食時間以外に休憩はなく、休日は一切なかった。

作業には、1班につき1人の日本人監督員が付いたが、何か気に入らないことを見つけると、中国人労働者を殴ったり罵ったりしていた。原告Cも作業中に肩、尻、腰、頭などを殴られた。原告Cは、朝食及び昼食の際に水の支給がなかったため、喉が渇いて水道の水を飲んだことがあったが、日本人監督員に見つかるとひどく殴られた。また、原告Cは、石炭が入ったかご2つを天秤棒で担ぎ汽車に積み込む作業中、幅約20センチメートル程度の鉄板を渡る際に、足を滑らせて鉄板から落ちてかごを壊したことがあり、その際、日本人監督員から、かごを壊したことについて、「心が悪いからだ。」と言われ、顔、肩、尻、腰等を殴られたことがあった。さらに、麻袋に入った大豆の荷下ろし作業をしていたときに、原告Cが麻袋を落としたため袋が裂けて大豆が散らばったことから、日本人監督員から「お前は悪い。」、「死んでしまえ。」と言われて、長さ1メートル、太さ5センチメートルくらいの木の棒で頭を殴られたことがあった。

(ウ) 食事は、朝と昼は1つ100グラムにも満たない黒饅頭2つと僅かな量の干し大根の漬け物が、夜は黒饅頭が支給された。残業で午前0時を過ぎたときにはおにぎりが支給された。

衣料が支給されたことはなく、原告Cは麻袋の切れ端を身に纏っていた。麦わらで作った靴が支給されることはあったが、それが破れた際には、素足で作業しなければならなかった。

原告Cらは1部屋に100程度入れられた。床に麻袋を敷いて就寝したため非常に寒かったが、部屋には暖房器具が1つしかなかった。

原告Cは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。そのため、体中にシラミがわき、痒さに悩まされた。

(エ) 原告Cは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Cらは働かなくてもよくなり、食事も改善された。

したがって、原告Cの実質的身柄拘束期間は、約1年1か月間(うち強制労働に従事させられた期間は約9か月)である。

原告Cは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Cは、塘沽に到着したが、そこで国民党軍に拘束され、国民党の部隊に参加させられた。その後、原告Cは、解放軍の部隊で土地改革が行われるまで働き、1950年(昭和25年)ころ、自宅へ帰った。しかし、原告Cの家族は全員死亡していた。

(3) 原告Dについて

前提事実、前期認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Dについて、以下の事実が認められる。

原告Dは、1923年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Dは、1944年8月か9月ころ、原陽県城で物乞いをしていたところ、日本兵が2名来て、強制的に駅まで連れて行かれた。原告Dは、貨物列車に乗せられ、済南に連れて行かれた。車両に窓はなく、日本兵から監視されていた。

済南に着くと、新華院に収容された。

(イ) 新華院では、日本軍の厳しい監視下で、駆け足をさせられたり山で穴を掘らされたりする収容生活を送った。食事は少量(2椀程度)のお粥が出ただけであった。トイレから帰るのが遅いと殴られる等日常的に暴力を振るわれた。

原告Dは、1か月間程度新華院に滞在した。

イ 移入

原告Dは、汽車に乗せられ、青島まで移動させられた。

原告Dは、青島で貨物船に乗せられた。原告Dは1日中船倉に乗せられた。食事は、トウモロコシで作った饅頭とタマネギが出る程度であった。原告Dは、約10日間乗船していた。

貨物船は、昭和19年11月17日ころ、日本の下関港に到着した。原告Dは、下船した後、服を脱がされ消毒された後、木箱に入ったご飯を支給された。原告Dは、その後、汽車に乗せられ、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Dは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Dは、木造2階建ての宿舎に収容され、第3隊に配属された。

(イ) 原告Dは、毎日、朝から晩まで働かされた。作業内容は、主として列車や船に石炭を積み込む作業であった。石炭を入れたかごを天秤棒で運びながら幅30センチメートル程度の板を渡らなければならなかったため、そこから転落したこともあった。残業をさせられることはあったが、現場での昼食時間以外に休憩はなく、休日は一切なかった。

作業中は、常に日本人の監督員から監視されていた。監督員は、気に入らないことがあると中国人労働者を拳骨や長さ1メートル、太さ5センチメートルくらいの棒で殴っていた。

(ウ) 食事は、3食出たが、饅頭のような物2個と大根の葉っぱの煮物のような物が出る程度であった。午前0時過ぎまで残業をすると、おにぎりが支給された。

衣料が支給されたことはなく、麻袋を服がわりに纏い、麻袋の切れ端や藁で作った靴を履いていた。

床の上に藁を敷いて寝ていた。

原告Dは、目の病気にかかったことがあったが、看護師が治療にあたってくれた。

(エ) 原告Dは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

日本に連れて来られたときに、1日あたり、普通の人は5円、班長は6円、隊長は8円の賃金を支払うと言われたことがあったが、その支払は一切なかった。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Dは働かなくてもよくなり、生活も改善された。

したがって、原告Dの実質的身柄拘束期間は、約1年間(うち強制労働に従事させられた期間は約9か月)である。

原告Dは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Dは、塘沽に到着し、しばらくの間、天津で生活したが、その後、実家(住所地)に帰った。

(4) 原告Eについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Eについて、以下の事実が認められる。

原告Eは、1924年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Eは、両親、3人の弟及び2人の妹とともに住所地に居住していた。原告Eは、国民党第6支隊の兵士であったが、所属していた部隊が日本軍に投降したため、剿共自衛団(以下「自衛団」という。)に所属することになった。

1944年、原告Eが、自衛団で訓練をしていると、日本軍がやって来て、自衛団のリーダーを通して、食事をきちんと与えるから日本軍の仕事をするようにと指示してきた。原告Eら約200名は、日本軍に指示され、2時間程度歩いて陽武県北関の駅に連れて行かれた。

原告Eらは、北関の駅から2日間くらい汽車に乗り済南駅に着いた。汽車は2、3両編成であったが、車両に窓はなく扉には鍵がかけられ、汽車の先頭には日本兵が立っていた。

(イ) 原告Eらは、汽車から降りると、銃を持ち大きな犬を連れた日本兵に取り囲まれ、新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。原告Eは、新華院に着くと、それまで着ていた服や履いていた靴を全て脱がされ、綿の服と草で編んだ草履を与えられた。原告Eは、新華院で体操をさせられたりしたが、労働を強いられたりすることはなかった。新華院では、食事として、朝と晩には茶碗1杯分のお粥が、昼にはご飯が出された。寝具は、板でできた長いベッドに布が敷いてあるものがあるだけであった。

新華院では、夜遅くまで起きていると、見回りに来た日本軍の監視員から、木の棒や手で殴られた。また、トイレに行く際には、監視員の許可を得る必要があり、服を全て脱いでからでないと行くことを許されず、また、帰りが遅いと監視員から棒で殴られた。

原告Eは、約1か月間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Eは、開封へ行くと聞かされていたが、汽車で新華院から青島へ連れて行かれた。朝に新華院を出て夜には青島に到着したが、汽車の中では銃を持った日本兵が監視をしていた。

原告Eは、青島に約3日間滞在したが、その後、貨物船に乗せられた。貨物船には約200名が乗せられたが、原告Eらは、石炭が積まれた船倉内の石炭の上で寝起きした。食事はいつもトウモロコシの粉とニンニク1個だけで、換気が悪く衛生状態も悪かった。原告Eらは、約10日間乗船した。

貨物船は、昭和19年11月9日ころ、日本の下関港に到着した。原告Eらは、下船した後、風呂に入れられ、脱いだ服も消毒液に漬けて消毒された。原告Eらは、その後、汽車に乗せられ、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Eらは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Eは、木造2階建ての宿舎に収容され、第1隊3班の所属となった。

(イ) 原告Eらは、毎日、日本人の監督下、港や駅へ行き、貨物船からの石炭の荷下ろし、貨物船への石炭の積み込み、食料や紙の積み下ろし等の仕事をさせられた。汽車に石炭を積む際には、天秤棒で竹かごを2つ(1つ25キログラム程度)持って、幅の狭い板の上を歩かなければならなかった。

仕事をしている間、仲間と話をしているのを見つかると、日本人の監督員から殴られたり蹴飛ばされたりした。また、水を飲む際にも監督員の許可を得なければならなかった。

原告Eは、大きな竹かごで石炭を運ぶ際、重さのあまり動かせないことがあったが、その時に、Lという日本人の監督員から、木の棒で3回くらい頭を強打された。また、雨が降った際に、板の上で滑って竹かごをひっくり返したことがあったが、その時も、上記Lから、木の棒で腰や背中を叩かれた。原告Eは、これら以外にも、仕事中に日本人の監督員から暴行を受けることがあった。

原告Eは、朝早くから夜暗くまで、1日10時間以上働かされた。昼食時間以外に休憩はなく、休日もなかった。

(ウ) 毎日3食の食事があったが、米ぬかやドングリの粉を練った饅頭2個を与えられただけで、たまに大根の葉っぱの漬け物が出る程度であった。

衣料としては、麻袋1枚及び地下足袋1足が支給されただけであり、地下足袋を履き潰した後は、靴の代わりに草を編んだ物を使った。寝具は与えられず、木の板の上に麻の袋を敷いて寝た。寒いときには、2人が向き合いお互いに体を寄せ合うようにして寝た。

原告Eは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。

原告Eは、紙のロールの積み下ろし作業をしていた際に紙のロールを足の甲の上に落として3センチメートルくらい腫れ上がる怪我をし医師に診てもらったことがあったが、簡単な薬(ヨーチンのようなもの)を塗られただけで仕事を続けるようにと指示されたため、やむなく仕事を続けた(今でもこの傷がときどき痛むことがある。)。原告Eの班には20名の中国人労働者がいたが、6名が病気で死亡した。

(エ) 原告Eは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Eらは働かなくてもよくなり、食事も改善された。

したがって、原告Eの実質的身柄拘束期間は、約11か月間(うち強制労働に従事させられた期間は約9か月)である。

原告Eは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Eは、塘沽に到着し、汽車に乗った後、歩いて実家へ帰った。

(5) 原告Fについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Fについて、以下の事実が認められる。

原告Fは、1923年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Fは、弟及び2人の妹とともに住所地に居住し、農業に従事していたが、義軍(日本軍の傀儡軍)第6中隊に参加していた。

1944年の秋ころ、第6中隊に日本兵が来て、仕事に行くからと言われ、陽武駅に集められた。陽武駅には250名程度が集められていた。原告Fらは、そこから汽車で新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。

(イ) 新華院では、毎日、走らされたり日本語を教えられたりする訓練を受けた。日本兵から監視され、トイレに行く際には、裸にならなければならなかった。新華院に収容された際に、着ていた服を没収され、代わりに古着を支給された。風呂に入ることはできず、狭いところに藁を敷いて寝た。寝る際には左を向いて寝てはならないと指示され、左を向いて寝ると殴られた。

原告Fは、約1か月間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Fら(約300名)は、汽車に乗せられ青島駅まで移動させられた。

原告Fらは、青島に着くと、日本の貨物船に乗せられた。原告Fは、鉱石や食料が積まれた船倉に乗せられ、寝る際には鉱石の上に寝た。食事はトウモロコシのお粥だけであった。乗船中は日本人から監視された。原告Fらは約23日間乗船した。

貨物船は、昭和19年12月10日ころ、日本の門司港に到着した。原告Fらは、下船した後、風呂に入れられて消毒された。原告Fらは、その後、汽車に乗せられ、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Fらは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Fは、木造2階建ての宿舎に収容された。

(イ) 原告Fは、毎日、午前7時に起床して食事をとり、午前8時に作業に出かけ、正午ころに現場で食事をとり、午後6時ころに作業を終え、午後7時ころから夕食をとる生活をしていた。作業内容は、主に船から石炭や食料を下ろしたり汽車に荷物を積んだりする作業であった。残業をさせられることはあったが、昼食時間以外に休憩はなく、休日は一切なかった。

現場には日本人の監督員がいて、荷物の重さの余りふらふらしたりすると、長さ1メートルくらいの棒で殴られたり蹴られたりした。

(ウ) 食事は1日3食あったが、何かの粉でできた饅頭2個かコウリャンの蒸しパンのようなもの2個とたくあんが出る程度であった。

衣料が支給されたことはなく、麻袋を服の代わりにして着ていた。皆シラミがわいていた。

原告Fは、床に藁を敷いて、蒲団代わりに麻袋をかけて就寝した。それでも寒かったため、お互いに体を寄せ合って寝た。

原告Fが新潟華工管理事務所にいる間、入浴は1回しかなかった。

(エ) 原告F、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

原告Fは、日本に着いてから、うまく仕事をすれば給料がもらえると言われたことがあったが、結局何ももらえなかった。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Fらは働かなくてもよくなり、食事も改善された。

したがって、原告Fの実質的身柄拘束期間は、約11か月間(うち強制労働に従事させられた期間は約8か月)である。

原告Fは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Fは、日本で、天津に着いたら給料を精算してやると言われていたため、天津で給料を支払ってくれる人を探したが、結局見つけることはできなかった。

原告Fは、天津で国民党から徴兵されたが、その後、すぐに逃げ出し、あちこちで仕事をし、約1年後に自宅へ帰った。

(6) 原告Gについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Gについて、以下の事実が認められる。

原告Gは、1927年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Gは、両親及び妻とともに中国山東省平原県張老虎村に居住し、農業に従事していた。

原告Gは、1944年9月上旬ころ(旧暦)、同県梨園村の姉の家に滞在し、ある日の午前9時ころ、1人で畑仕事をしていたところ、突然銃声が聞こえた。村人が逃げるのが見えたため、原告Gも逃げようとしたが、日本軍や傀儡軍に囲まれ捕まった。原告Gと一緒に20名くらいの男性が捕まった。

原告Gらは後ろ手に縛られて数珠繋ぎにされ2時間程度歩かされ、平原県の西南にある腰站に連れて行かれた。その間、日本兵や傀儡軍が監視していた。腰站で休息と食事をとった後、再び平原県に連れて行かれ、午後8時ころ、全員が駅に停車していた空の貨物列車に乗せられた。原告Gは、どこへ連れて行かれるのか聞いていなかった。

車両では、銃を持った日本兵が監視をしていた。原告Gは、縄をほどいて逃げようとしたが、日本兵に見つかり足蹴りにされた。汽車は、同日午前10時ころ、済南駅に着いた。

(イ) 原告Gらは、済南駅から、後ろ手に縛られたまま白馬山という丘にあった日本軍の駐屯地に連れて行かれ、10畳くらいの部屋に閉じ込められた。原告Gは、そこに1週間程度いた。その間、日本兵に監視されていた。食事は1日2食あったが、日本人が残した残飯を後ろ手で縛られた状態のまま容器に顔を突っ込んで食べさせられた。

その後、原告Gらは、新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。新華院では、駆け足の訓練や上記日本軍駐屯地の飛行場の格納庫建設の工事をさせられたりした。食事は1日2食で、茶碗半分くらいの粟のお粥と白菜の浅漬けのようなものが出た。収容される際に服を脱がされ、代わりに古い服を渡され、また、薄い灰色の綿蒲団1枚を支給された。就寝の際には、数10人が寝床を並べ、支給された蒲団をかけて寝た。

原告Gは、1か月半程新華院に滞在した。

イ 移入

原告Gは、日本に行かされることとなり、汽車に乗せられ青島に連れて行かれた。日本で何をするのか等の話は全くなかった。新華院を出発する際に、上着(綿入れ)1着、蒲団1枚、石鹸1つ、靴下1組及び靴1足が支給されたが、靴は出発前に底が抜けてしまったがかわりの物はもらえなかった。

原告Gは、青島に到着した翌日、貨物船に乗せられた。原告Gは、船倉に積まれた鉱石の上に麻袋を敷いて寝かされた。船倉は換気が悪く、衛生状態も悪かった。食事は1日2食であった。航海の間、日本人に監視されていた。原告Gは、約24日間乗船した。

貨物船は、昭和19年12月10日ころ、日本の下関港に到着した。原告Gらは、下船した後、衣服を全て脱がされ消毒液の入った風呂に入れられた。その後、汽車に乗せられ、京都を経由して新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Gらは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれ、木造2階建ての宿舎に収容された。

(イ) 原告Gは、毎日、午前7時ないし午前8時に作業を始め、10時間以上働いて宿舎に帰る生活をした。作業内容は、主に石炭の積み下ろし作業であった。残業をさせられることはあったが、船の入港のない日に休む程度で休日はほとんどなかった。仕事が一段落付くと休憩することはあった。

作業現場には、日本人や朝鮮人の監督員がいたが、日本人の監督員は、原告Gらが作業を止めていると竹竿で頭を叩いた。原告Gも1度叩かれたことがあった。

(ウ) 食事は1日3食であったが、米ぬか及びドングリの粉を練って作った饅頭2個とたまに大根の葉っぱの漬け物が出る程度であった。

衣類が支給されることはなく、裸足であった原告Gは、草と麻袋で足を覆って靴の代わりにしていた。後に、ゴム靴と足袋が支給された。

寝具の支給はなく、木の床の上に麻袋を敷いて、新華院で支給された蒲団をかぶって就寝した。

原告Gは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは1度もなく、ノミやシラミがわいた。また、原告Gは夜盲症にかかった。

原告Gは、裸足で作業をしていたため右足が炎症を起こし腫れて歩けない状態になり、医師の診察を受けたことがあったが、膿を出す治療をしただけで「早く出て行け。」と言われた。

(エ) 原告Gは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したことを知らされた。

したがって、原告Gの実質的身柄拘束期間は、約1年間(うち強制労働に従事させられた期間は約8か月)である。

原告Gは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Gは、塘沽に到着し、そこから汽車で天津に行き、しばらくそこで生活したが、その後、故郷の張老虎村へ帰った。

(7) 原告Hについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Hについて、以下の事実が認められる。

原告Hは、1923年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Hは、両親、2人の姉、2人の妹及び弟夫婦とともに居住し、農業や医療に従事していたが、1943年に、国民党の第6部隊(遊撃部隊)に参加した。

1944年6月(旧暦)ころ、所属していた部隊が日本軍に降伏したため、原告Hは日本軍に捕らえられた。原告Hの部隊は自衛団に再編され、原告Hは約2か月弱の間、麦を刈り取る作業や新郷での工事などに従事させられた。その後、原告Hは、仕事に行くと言われて、新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれ、そこに収容された。

(イ) 新華院では、起床後、体操をしてから朝食をとり、講義を受けた後に昼食をとり、その後は、体操をしたり講義を受けたりした後、夕食をとって就寝するという生活をしていた。食事は、少量の粟のご飯と野菜のスープまたはお粥(お粥の場合はスープは出ない。)が出た。新華院に滞在中に衣類と掛け蒲団1枚が支給されたことがあった。トイレに行く際には監視員の許可を得る必要があった。原告Hは、教室の黒板を壊した犯人と疑われ、手のひらを棍棒で殴られたことがあった。

原告Hは、約50日間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Hらは、汽車で青島まで移動させられた。車両の窓は鉄錠で閉められ、日本兵が監視をしていた。

原告Hらは、青島で、3日間程度施設に収容された後、船に乗せられた。船倉の石炭の上にむしろを敷いて寝ていた。船には300名程度の中国人が乗船し、1週間程度航海した後、昭和19年11月17日ころ、日本の下関港に着いた。

原告Hらは、下船した後、汽車で新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Hらは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Hは、木造2階建ての宿舎に収容され、第2大隊第1中隊の所属(第2大隊長兼第2大隊第1中隊長)となった。

(イ) 原告Hは、毎日、朝食をとった後、午前8時ころに仕事へ行き、現場で昼食をとって、午後6時ころに宿舎に帰る生活をしていた。作業内容は、主に船から石炭を下ろし、貨車に載せ替えるというものであり、原告Hは、日本人の指示を中国人労働者に伝える仕事をしていた。残業をさせられることはあったが、休日は一切なかった。

作業には、常に日本人監督員が付き、作業が遅い等と言って、中国人労働者を殴ったりしていた。もっとも、原告H自身は殴られたことはなかった。警備室には警察もいた。

(ウ) 食事は1日3食あったが、ぬかとドングリの粉などを混ぜて作った握り拳くらいの大きさの饅頭2個だけであった。

衣料が支給されたことはなく、麻袋1枚が支給されただけであった。

床には何も敷かれていなかったため、草を敷いて就寝した。部屋に暖房器具はなかった。

原告Hは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。もっとも、消毒のために浴槽に入れられることが2回あった。原告Hは、皮膚病にかかった。

(エ) 原告Hは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

原告Hは、新潟華工管理事務所に収容された際に、当時の所長から、賃金について、「隊長は1日8円、班長は1日6円、普通の労働者は1日5円である。」と言われたことがあったが、月末に給料をもらいに行っても「中国に帰るとき払う。」と言われた。帰国前に、所長に給料をもらいに行ったこともあったが、結局支払ってもらえなかった。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Hらは働かなくてもよくなり、所長から「帰ってよい。」と言われた。

したがって、原告Hの実質的身柄拘束期間は、約1年間(うち強制労働に従事させられた期間は約9か月)である。

原告Hは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Hは、塘沽に到着後、石家荘で2年間医療に従事したりした後、郷里へ帰った。

(8) Aについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、Aについて、以下の事実が認められる。

Aは、1927年○月○日(旧暦)生まれの中国国民であったが、2000年(平成12年)○月○日、脳出血のため死亡した。

ア 供出

(ア) Aは、済南の印刷彫刻局で、植字作業員として稼働していたが、1944年6月(旧暦)のある夜の午前0時ころ、上記印刷彫刻局で寝ていたところに日本兵が来て、同局マネージャーとともに捕らえられ、日本憲兵隊看守所に連れて行かれた。Aは、牢獄に40日間あまり閉じこめられた。

その後、Aは、済南にある新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。

(イ) 新華院では、駆け足をさせられたり訓話を聞かされたりした。寝るときは地べたに寝かされ、中国人同士で話をすることは禁止されていた。日本兵から監視されており逃げることはできなかった。

Aは、約100日間新華院に滞在した。

イ 移入

Aら(約300名)は、済南駅から汽車に乗せられ、青島駅まで移動させられた。新華院を出発する際に、綿入れの服1セット、ズボン及び小さい蒲団が支給された。

Aらは、青島で1泊した後、貨物船に乗せられた。Aは鉱石や食料が積まれた船倉に乗せられた。食事は、毎日トウモロコシの粉で作った粥のようなもの2杯が出るだけであった。船倉の通風口が小さかったため衛生状態は悪かった。Aらは、乗船中、日本人から監視されていた。Aらは、約23日間乗船していた。

貨物船は、昭和19年12月10日ころ、日本の下関港に到着した。Aらは、下船した後、服を脱がされ風呂に入れられて消毒された。Aらは、その後、汽車に乗せられ、神戸及び大阪を経由して、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) Aらは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

Aは、木造2階建ての宿舎に収容された。

(イ) Aは、毎日、夜が明けると働き始め、1日10数時間働いた。作業内容は、主に雪かきや荷物(石炭、鉱石、食料等)の積み下ろしであった。休日はなかった。

現場には日本人の監督員がいて、気に入らないことがあると中国人労働者を木の棒で殴る等した。Aは、現場へ行く際に歩くのが遅いと言われ足を殴られたり、落ちていた豆粒を拾って食べたため殴られたりしたことがあった。また、Aは、疲れのあまり海に落下してしまったことがあったが、他の中国人労働者から救助された。

(ウ) 食事は1日3食あったが、ドングリの粉等で作った饅頭2個とたまに大根の葉っぱの漬け物が出るだけであった。

衣料が支給されたことはなく、麻袋2枚が支給されただけであった。

Aは、寝床の上に藁を敷いて寝た。暖房設備はなかった。

Aは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。

(エ) Aは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、Aらは働かなくてもよくなり、食事も改善された。

したがって、Aの実質的身柄拘束期間は、約1年2か月間(うち強制労働に従事させられた期間は約8か月)である。

Aは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。Aは、塘沽に到着し、国民党政府から旅費をもらって実家へ帰った。

(9) 原告Iについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Iについて、以下の事実が認められる。

原告Iは、1927年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Iは、両親及び祖母とともに住所地に居住し、農業に従事していた。

1944年8月末(旧暦)のある夜、日本兵が来て、原告I、原告Iの父及び伯父が捕まえられた。原告Iらは、後ろ手に縛られて、日本軍の兵営があった泗馬河へ連れて行かれ、大きなかごの中に10日以上閉じ込められた。その後、原告Iは、莱城監獄に連れて行かれた。原告Iは、同監獄で拷問を受け八路軍であると認めるよう強要され、やむなくそれを認めた。原告Iは、同監獄に10数日収容された後、泰安にある日本軍の駐屯地に連れて行かれ、監獄に入れられた。原告Iは、そこに1か月あまり閉じ込められた。その後、原告Iは、泰安駅から汽車に乗せられ、済南に連れて行かれた。

(イ) 原告Iは、済南駅で汽車から降りると、日本兵に監視されながら、新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。

新華院に着くと、着ていた服を脱がされ、代わりに古着を支給された。新華院では、体操をさせられたり講義を受けたりしていた。日本兵から厳しく管理され、体操に行くのが遅かったりすると殴られたりした。新華院に着いてから6日目に、身体検査をされ、日本に行かされることを告げられた。その後、新しい服に着替えさせられ靴を支給された。靴はすぐに壊れてしまったが、代わりは支給されなかった。

原告Iは、6日ないし7日間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Iら(約300名)は、長い縄で数珠繋ぎにされ、日本兵に監視されながら汽車に乗せられ、済南駅から青島駅まで移動させられた。

原告Iらは青島で1泊し、一組ずつ蒲団を配られた後、貨物船に乗せられた。原告Iは、鉱石が積まれた船倉に乗せられ、鉱石の上に蒲団を敷いて寝た。食事は、1日にトウモロコシの粉のお粥2杯が出るだけであった。原告Iは40日間程度乗船していた。

貨物船は、昭和19年12月10日ころ、日本の下関港に到着した。原告Iらは、下船した後、練薬を塗ったり体を洗ったりして消毒された。消毒をされている間、衣服も蒸して消毒された。原告Iは、下関に1泊した後、汽車に乗せられて新潟へ移動させられた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Iらは新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Iは、木造2階建ての宿舎の2階に収容され、第3中隊3班に配属となった。

(イ) 原告Iは、数日間休んだ後、作業に従事させられた。原告Iは、毎日、朝まだ暗いうちに起きて朝食をとった後、現場に行って作業を始め、現場で昼食をとった後、暗くなるまで1日10数時間は働いた。作業内容は主に石炭や大豆などの食料の積み下ろしであった。残業をさせられることはあったが、昼食時間を除いて休憩はなく、休日もなかった。

現場には、日本人の監督員がいて、仕事が遅くなったりすると木の棒で殴られたりした。また、原告Iは、作業中に積み下ろしの機械に引っかけられて、左尻を怪我したことがあった。

(ウ) 食事は1日3食あったが、米ぬかとドングリの粉を混ぜて作った饅頭2個が出る程度であった。

衣服が支給されたことはなかった。麻袋3枚が支給されたことがあったため、原告Iはそれを服の代わりに纏っていた。原告Iは靴を持っていなかったため、藁や麻袋を足に巻き付けて靴のかわりにしていたが、昭和20年の初春に黒い足袋1足が支給された。

原告Iは、藁が敷かれた床の上に小さな蒲団を敷いて寝た。暖房設備はなかった。

原告Iは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。海に入って体を洗ったことはあったが、シラミがわいた。

石炭の荷下ろしの際に、もっこが右腰にあたって怪我をしたことがあり、何針も縫う治療を受け半月くらい仕事ができなかった。また、皮膚に10センチメートルくらいの膿瘍ができたことがあった。

(エ) 原告Iは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Iらは働かなくてもよくなり、食事も改善された。

したがって、原告Iの実質的身柄拘束期間は、約1年間(うち強制労働に従事させられた期間は約8か月)である。

原告Iは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Iは、塘沽に到着し、国民党に世話になりながら、天津で約20日間生活した。その後、原告Iは、汽車に乗って滄州まで行き、さらに河北呉橋県まで歩いた。そこで、八路軍の世話になりながら1か月ほど宿泊した後、20日間ほど歩いて帰宅した。

(10) 原告Jについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Jについて、以下の事実が認められる。

原告Jは、1918年○月○日生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Jは、父、妻及び息子とともに住所地に居住し、農業に従事していた。

原告Jは、1944年9月(旧暦)のある夜、村長に指示され、名前の知らない八路軍の人を王庄まで送った。原告Jは、その帰りに、自分の村の入口のところで、7、8人の日本兵に捕まった。日本兵から八路軍であると疑われていたため原告Jはそれを否定したが、日本兵は信用しなかった。原告Jは、背中に銃を押しつけられた状態で、村長の家まで連れて行かれた。

その後、原告Jと村長は、日本兵から監視されながら、麻峡村を経由して王庄まで連れて行かれ、原告Jが先に送って行った八路軍の人とともに、部屋に閉じ込められた。翌日の午前9時ころ、原告Jらは、再び麻峡村まで歩かされ、そこからトラックに乗せられて、張庄まで連れて行かれた。張庄に3日ほど滞在した後、汽車に乗せられて、泰安に連れて行かれた。

泰安では、10日間ほど部屋に閉じ込められた後、腕を縛られて数珠つなぎにされた。その3日後、原告Jらは、汽車に乗せられ、済南に連れて行かれた。汽車には監視の日本兵が乗っていた。

(イ) 原告Jらは、汽車から降りると、新華院(俘虜収容施設)に連れて行かれた。

新華院では、訓話を聞く等した。食事は1日3食あったが、粟ご飯2杯が出るだけであった。原告Jは、着ていた服を没収され、代わりに古着を着せられた。木の板で組んだ大きな寝台の上に薄い布をかけて寝た。

原告Jは、約半月間新華院に滞在した。

イ 移入

原告Jは、ある日の午前中、日本に行かせると言われ、済南駅から汽車に乗せられ、青島まで移動させられた。

原告Jら(約300名)は、青島に数日滞在した後、日本の貨物船に乗せられた。原告Jは、船倉に乗せられ、鉱石の上に寝た。食事は1日2食で、1食につき2杯のお粥が出るだけであった。原告Jらは、20日余りの間乗船していた。

貨物船は、昭和19年12月10日ころ、日本の門司港に到着した。原告Jは、下船した後、練薬を塗られたり池に入れられたりして消毒された。原告Jは、門司で1泊した後、汽車に乗せられ、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Jは、新潟駅に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Jは、木造2階建ての宿舎の2階に収容された。

(イ) 原告Jは、10日ほど休んだ後に働かされた。毎日、夜が明けるとすぐに起きて、朝食をとった後、すぐに作業を始め、暗くなったら作業を終えて宿舎に帰る生活をした。作業内容は、主に除雪、船や貨物列車の荷物の積み下ろし作業であった。

作業には、日本人の監督員が付き、作業が遅くなる等すると、棒で殴られた。

(ウ) 食事は、1日3食あったが、約100グラムの饅頭2個と漬け物が少し出ることがある程度であった。

衣料が支給されたことはなく、麻袋2枚が支給されたのみであった。原告Jは、麻袋を身に纏い、藁や麻袋を足に巻き付けて靴の代わりにしていた。

床の上に板が敷かれており、その上に藁を敷いて蒲団をかけて寝た。暖房設備はなかった。

原告Jは、10数日間熱を出したことがあった。

(エ) 原告Jは、上記労働につき、何らかの労働契約を結んだことは一切なく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Jらは働かなくてもよくなり、食事も改善された。

したがって、原告Jの実質的身柄拘束期間は、約1年間(うち強制労働に従事させられた期間は約8か月)である。

原告Jは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Jは、塘沽に到着した後、天津で1か月ほど生活した後、歩いて呉橋県へ行った。そこで、八路軍の世話になりながら数泊した後、20数日間歩いて自宅へ帰った。

(11) 原告Kについて

前提事実、前記認定事実4及び5、<証拠略>によれば、原告Kについて、以下の事実が認められる。

原告Kは、1926年○月○日(旧暦)生まれの中国国民である。

ア 供出

(ア) 原告Kは、両親、4人の兄、2人の兄嫁、1人の姉、1人の妹及び2人の姪とともに生活していたが、1943年4月ころ(旧暦)、家が貧乏であったため青島に出稼ぎに行くことになった。

原告Kが青島に行ったところ、同じ村出身のMと会い、日本に出稼ぎに行くポスターが貼ってあるから一緒に行かないかと誘われた。Mの話では、日本で1か月働けば500元もらうことができるが、働く場所や仕事の内容ははっきり書いていないとのことであった。原告Kは、日本で働くことによって少しでも楽な生活ができるのではないかと考え、日本へ行くことを決意し、Mとともに青島の大港の近くにあった事務所へ行き、日本へ出稼ぎへ行く申込みをした。申込みをすると、服1セットを支給され、1週間後に大港から船で出発することを知らされた。

原告Kは、その後、青島の従兄の家に滞在したが、従兄は原告Kが騙されているのではないかと心配し、日本へ行くのを辞めるようにと言ってきた。しかし、原告Kは、ポスターに書いてあったということを信じていたため、決意は揺らがなかった。それでも従兄が説得をしてきたことから、原告Kはそこに居づらいと感じ、同郷の友人の所へ行って、出航まで泊めてもらった。

(イ) 原告Kは、出航の日に港へ行ったところ、出稼ぎに応募した約150名の中国人が集まっていた。

イ 移入

原告Kは、貨物船の船倉に乗せられた。

乗船中の食事は、1日2食で、饅頭2個と白菜の漬け物のようなものが出ただけであった。原告Kは船酔いをし、あまり食べることができなかった。原告Kらは、10日間程度乗船していた。

貨物船は、昭和19年6月16日ころ、日本の神戸港に到着した。原告Kらは、下船した後、貨物列車に乗せられ、どこかへ連れて行かれ、そこで風呂に入れられた。その後、原告Kらは、トラックに乗せられ、新潟に連れて行かれた。

ウ 新潟港での就労状況等

(ア) 原告Kらは、新潟に到着後、新潟華工管理事務所に連れて行かれた。

原告Kは、木造2階建ての宿舎の1階に収容され、第15班の所属となった。

(イ) 原告Kは、毎日、午前6時に起床して食事をとった後、作業に出かけ、現場で食事をとり、午後8時ないし9時ころまで作業を続けた。作業が終わらないときには残業をした。

作業には、日本人の監督員がついてきた。作業内容は、主に船からの石炭や食料等の積み下ろしであった。昼食時間以外に休憩はなく、休日は一切なかった。

(ウ) 食事は、1日3食出たが、朝昼晩とも100グラム程度の饅頭2個とスープだけであった。

衣料は、麻袋1枚と地下足袋1足の他は支給されなかった。

部屋の両側に長い板を渡した寝台の板の上に薄い毛布1枚を敷いて寝たが、蒲団も枕もなかった。部屋には暖房施設はなかった。

原告Kは、新潟華工管理事務所にいる間、入浴することは一度もなかった。

原告Kは高熱を出したことがあった。

(エ) 原告Kは、上記労働につき、被告らと何らかの労働契約を結んだことはなく、賃金を受け取ったこともない。

エ 帰国

昭和20年8月15日、日本が連合国に降伏したため、以後、原告Kらは働かなくてもよくなった。

したがって、原告Kの実質的身柄拘束期間は、約1年3か月間(うち強制労働に従事させられた期間は約1年2か月)である。

原告Kは、昭和20年10月9日に新潟港発の江ノ島丸に乗船して、同月18日に帰国した。原告Kは塘沽に到着したが、大隊長に連れられて汽車に乗って天津へ行った。その後、青島へ行って、日本での労働に対する賃金を支払ってくれる人を探したが、結局、賃金の支払いを受けることはできなかった。原告Kは、従兄の家に滞在していたところ、2番目の兄が迎えに来てくれたため、実家へ帰宅した。

7 日本港運業会に対する補償

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

(1) 戦時中に中国人労働者の強制連行・強制労働にあたった土木建設業者は、戦後、日本建設工業統制組合を結成した。土木建設業者は、同統制組合理事長を中心として、被告国に対して、中国人労働者の強制連行・強制労働に関する補償を要求することとし、それに伴い華鮮労務対策委員会が設置された。

華鮮労務対策委員会は、石炭統制会理事長、鉱山統制会部長、造船統制会理事長及び日本港運業会常務理事の参集を得て、「華人及鮮人使用上より生じた損害に対しては、国家補償の途を講ずる様政府に懇請する事」を決定した。

(2) 被告国は、華鮮労務対策委員会等からの陳情活動を受け、昭和20年12月30日、移入華人及朝鮮人労務者取扱要領を閣議決定した。この閣議決定では、「終戦後政府管理トナル迄華人又ハ朝鮮人ナルカ故ニ已ムヲ得ス事業主ニ於テ負担セル休業手当其ノ他ノ損失ニ付テハ、実情調査ノ上政府ニ於テ必要ナル補償ヲ考慮スルモノトス」とされていた。

これにより、日本港運業会(21事業場)は、被告国から、合計534万0445円の補償金の支払いを受けた。(平均すると、1事業場あたり約25万4307円となる。)。

8 強制連行及び強制労働についての被告国の対応

(1) 華人労務者就労事情調査報告書(<証拠略>、以下「外務省報告書」という。)

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

ア 外務省報告書等の作成・焼却

被告国は、昭和21年2月ころ、近い将来に予想されていた中国側からの調査に備える目的で、中国人労働者の強制連行及び強制労働について、諸般の実情を精密に調査することとした。

この方針に基づいて、外務省管理局は、中国人労働者を使役した135事業所の全てに調査を命じ、報告書(華人労務者就労顛末報告書等〔<証拠略>はその一部である。以下「事業所報告書」という。〕)を作成・提出させた(新潟港における強制連行・強制労働についても、新潟華工管理事務所及び新潟港運により、事業所報告書〔<証拠略>〕が作成された。)。外務省は、これらに加え、調査員らによる現地調査報告書や被告国が所蔵していた関係資料を踏まえて、昭和21年6月ころまでに、外務省報告書を作成した。外務省報告書は30部のみ作成され、極秘扱いとされていた。

その後、外務省は、外務省報告書が、強制連行・強制労働の官民の関係者について戦犯としての責任を追及する際の資料として使われるおそれがあったことから、これら関係者の便宜を図るために、外務省に残っていた外務省報告書を全て焼却した。昭和35年3月ころ、当時の外務省アジア局長は、以後、外務省報告書等が問題となったときには、外務省報告書等は、強制連行・強制労働の関係者に迷惑がかかることを避けるために全て焼却され、外務省には1部も残っていない旨答えることとした。

しかし、外務省報告書の作成に携わった調査官のうち幾人かは、「これだけの資料を葬り去るのは忍びない。将来いつかは世に問わねばならない。」と答え、これらの保管を東京華僑総会に委託することとし、昭和25年、外務省報告書及び事業所報告書を密かに持ち出し、これらを東京華僑総会に持ち込んだ。東京華僑総会は、外務省報告書及び事業所報告書を保管していたが、これらを公表することによって、中国人労働者の強制連行・強制労働に関係した者が戦犯として追及されることや日中間に新たな紛争が生じることを危惧し、その公表を控えてきた。

イ 外務省報告書等の公表

日本放送協会(以下「NHK」)という。)の記者は、平成5年ころ、東京華僑総会に外務省報告書等が保管されていることを知ったため、東京華僑総会の名誉会長を訪ねて、外務省報告書等を公表するよう説得した。その結果、同名誉会長が、外務省報告書等を公表することを承諾したため、外務省報告書等が公表されることとなった。

NHKは、平成5年5月17日に「クローズアップ現代」において、同年8月14日に「NHKスペシャル」において、それぞれ外務省報告書等の存在及び内容について報道を行った。

ウ 外務省の対応

上記報道を受けて、外務省は、調査・検討を重ねた結果、上記報道にかかる外務省報告書等が外務省が作成した報告書であることを認めた。

(2) 被告国の答弁等

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

被告国は、戦後一貫して、<1>中国人労働者の供出・移入は、任意の契約に基づくものであり、強制連行や強制労働の事実はなかったこと、<2>詳細は資料がないため明確でないことなどを繰り返し答弁していた(第19回国会参議院厚生委員会における外務省アジア局長の答弁〔昭和29年9月6日〕、第28回国会衆議院外務委員会における内閣総理大臣の答弁〔昭和33年3月12日〕、第28回国会参議院厚生委員会における内閣総理大臣の答弁〔昭和33年3月29日〕、第28回国会衆議院外務委員会における内閣総理大臣、内閣官房長官及び外務政務次官の答弁〔昭和33年4月9日〕、第29回国会衆議院外務委員会における外務省アジア局長の答弁〔昭和33年7月3日〕、第34回国会衆議院日米安全保障条約等特別委員会における外務省アジア局長の答弁〔昭和35年5月3日〕、第126回国会参議院厚生委員会における外務省アジア局地域政策課長の答弁〔平成5年5月11日〕など)。

しかし、上記の経緯で外務省報告書等が公表されたことから、外務省は、調査・検討の結果、平成6年6月22日、第129回国会参議院外務委員会での答弁(外務大臣及び外務省アジア局長)において、外務省報告書等の存在を認め、中国人労働者の供出・移入が半強制的なものであったことを認めた。

9 戦争賠償問題に関する被告国及び中国の対応

(1) 被告国の認識

前提事実及び<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

被告国は、強制連行・強制労働を含む中国との間の戦争賠償問題について、政府見解として、昭和47年9月29日に署名された日中共同声明の発出後、個人の請求権の問題も含めて、中国側に請求権はないと認識している。

(2) 中国の対応

ア 民間での動き

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

山東省張家楼村の200名以上の村民は、昭和63年9月、日本に対し戦争賠償を求める賠償請求書簡に署名をし、同村委員会の公印を押してもらった上で、同書面を駐中国日本大使館に送付した。同年中には、江蘇省、山東省及び浙江省の各省から、合計28通の賠償請求書簡が駐中国日本大使館に送付された。

また、いわゆる花岡事件の生存者4名は、平成元年12月21日、鹿島建設株式会社に対する公開状を発表した。

イ 全国人民代表大会への提案

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

中国科学工業部幹部管理学院法学部教員Sは、平成3年3月28日(第7期全国人民代表大会第4回会議開催期間中)、大会信訪局(民衆からの陳情・投書を受け付ける部局)に、<1>1931年から1945年にかけて日本の侵略者が中国に対して与えた損害に基づく賠償は約3000億米ドルであり、その内訳は、戦争賠償が約1200億米ドル、被害に基づく賠償が約1800億米ドルであること、<2>1972年に中国政府は、日本人民の負担を軽減する趣旨から日本に対する戦争賠償請求は放棄したが、日本の侵略者が侵華戦争の過程において戦争規則及び人道上の原則に違反して中国人民及びその財産に対して犯した重大な罪業に関する賠償要求、つまり1800億米ドルの被害に関わる要求に関しては、中国政府は如何なる状況においても放棄すると宣言していないことなどを内容とする意見書を提出した。

同大会に参加していた安徽代表団が、Sの話を聞いて、同大会に対し、対日賠償問題に関して提案を行ったところ、甘粛、台湾、山東及び貴州の代表団がSの意見書を支持する建議を行い、江西、湖北及び浙江の代表団が意見書を提出した。

ウ 全国人民代表大会への議案提出

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

安徽代表は、平成4年3月に開催された第7期全国人民代表大会第5回会議において、日本に対して民間賠償を請求する議案を提出した。この議案は、法定の支持者数を確保し、第7号議案として上程された。

エ 江沢民国家首席(当時)の発言等

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

(ア) 江沢民国家首席(当時)は、平成4年4月1日、日本人記者団との会見において、「日本軍国主義が発動した侵華戦争は、中国人民に巨大な損害を引き起こした。戦争が残したいくつかの問題に関して、我々は、従来から事実に基づいて真実を求める、厳粛に対処するという原則を主張し、相互に協議してこれらの問題について条理にかなう形で妥当に解決すべきだと主張してきた。このようにすることが、両国の友好協力、共同発展及び両国人民の友好増進に有利である。戦争賠償問題に関しては、中国政府は既に1972年に発表した中日共同声明の中で自らの立場を明らかに述べており、この立場は変わらない。」旨発言した。

(イ) 江沢民国家首席(当時)は、平成7年5月4日、村山首相(当時)との会見についての記者ブリーフの中で、香港アジアTVの記者からの「国交正常化以来、中国政府は日本に対する賠償請求を正式に放棄したが、最近民間組織が賠償請求を提起している。これに対する中国政府の見方如何。」という質問に対し、「賠償問題は既に解決している。この問題におけるわれわれの立場に変化はない。もちろん日本の中国侵略戦争は未だ問題を残しており、これら問題は今に至っても関係する中国人に精神的損害を残している。これら問題について日本側は真剣に対応し、適切に処理し、必要なことを行うよう希望する。」旨述べた。

オ 中国外交部長の発言

(ア) <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

a 銭其file_13.jpg外交部長(当時)は、平成4年3月23日、記者会見で、チャイナ・デイリーの記者からの「日本軍国主義勢力は、中国侵略の間、中国人民に深刻な災難をもたらした。一部の全人代・政治協商会議の代表者及び委員は、日本政府が中国に対し民間賠償を行うよう要求していると承知しているが、本件に対する銭外交部長の考え如何。」という質問に対し、「日清戦争から抗日戦争勝利に到るまで、日本軍国主義は半世紀もの長きにわたって中国人民に深刻な災難を被らせた。中国侵略戦争によってもたらされた幾つかの複雑な問題に対し、日本側は適切に処理を行うべきである。戦争賠償の問題については、中国政府は、1972年の『日中共同声明』の中で明確に表明を行っており、かかる立場に変化はない。人民代表は、議案と建議を提出する権利を有しており、人民代表大会書記局が議案に責任を有する機構であって、規定に従って議案と建議を処理することとなろう。」旨述べた。

b 銭其file_14.jpg外交部長(当時)は、平成7年3月8日ころ、<1>対日戦争賠償問題について、1972年の日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の補償請求は含まれない、<2>補償の請求は国民の権利であり政府は干渉できない旨の発言をした。

(イ) <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

唐家file_15.jpg外交部長(当時)は、平成10年12月2日ころ、記者から、民間人の対日賠償請求に関する見解について質問された際に、「中国の対日賠償問題は、既に解決済みであり、国家と民間(国民)は一つの統一体であるので、民間(国民)の立場は、国家の立場と同じであるべきである。」旨述べた。

10 戦後の中国の国内事情

(1) 日本と中国の外交関係

前提事実、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

日本は、終戦後、中華民国を「中国」とする立場をとり、1972年(昭和47年)9月29日に日中共同声明に署名するまでの間は、中華人民共和国とは国交のない状態であった。

(2) 中国における出入国規制

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

中国では、建国以来、一般の国民は自由に海外渡航できない状態が続いた。

1985年(昭和60年)11月22日、中華人民共和国公民出境入境管理法が制定され、1986年(昭和61年)2月1日に同法が施行されて初めて、一般の国民が自由にパスポートを取得できるようになった。

第4争点に対する判断

1  争点(1)(ハーグ陸戦条約3条に基づく請求〔事案の要旨<1>の請求〕)について

(1)  原告らがハーグ陸戦条約により請求権を取得するか否かについて(争点(1)ア)

ア 国際法の一般原則

国際法は、国家と国家または国際機関等との関係を定め、国家と国家または国際機関等との間の権利義務を規律するものであるから、国際法上の権利主体性は、原則として、国家または国際機関に認められる。もっとも、このことから直ちに個人が条約に基づき権利ないし請求権を取得することが否定されるわけではない。すなわち、生命、身体及び財産等個人の権利義務に直接影響を及ぼすような条約において、当該条約が個人に法主体性を認め、その権利の実現手続を規定している場合などには、個人は当該条約に基づき権利ないし請求権を取得する。

結局、ある条約に基づいて、個人が権利ないし請求権を取得するか否かは、その条約の解釈によって決せられるべきである。

イ ハーグ陸戦条約による個人の請求権取得の可否

ハーグ陸戦条約3条及びハーグ陸戦条約規則46条1項の文言によれば、ハーグ陸戦条約3条は、交戦当事国である国家に、その軍隊の構成員が行ったハーグ陸戦規則違反の行為によって生じた個人の損害について損害賠償責任を負わせた規定であり、同規則46条は、占領国が被占領国の国民の権利を尊重すべきことを定めた規定であると解される。また、ハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦条約規則の他の条項に、占領国側が順守すべき事項を定めたもの(ハーグ陸戦条約規則51条、52条等)はあっても、個人から交戦当事国に対する請求権を認めるような条項はない。さらに、ハーグ陸戦条約及びハーグ陸戦条約規則には、被害を受けた個人が権利を行使する方法を定めた手続規定は存在しないし、ハーグ陸戦条約の起草過程においても個人の請求権の存在を想定していたとは認め難い。

以上のようなことからすると、ハーグ陸戦条約3条の文言及び趣旨は、各国軍隊やその構成員にハーグ陸戦条約規則を遵守させるために、他方交戦当事国である国家に同規則違反によって生じた損害の賠償責任を課したものであると解され、それ以上に、個人の権利を保護することまで定めたものであるとは解し難い。

ウ したがって、ハーグ陸戦条約3条により個人が加害国に対する損害賠償請求権等を取得することはない。

(2)  以上より、原告らのハーグ陸戦条約3条に基づく請求は、その余について判断するまでもなく理由がない。

2  争点(2)(中華民国民法に基づく請求〔事案の要旨<2>及び<b>の請求〕)について

(1)  本件強制連行・強制労働への法令11条1項の適用(争点(2)ア)

ア 法令11条1項が適用されうる行為について

前記認定事実1ないし6によれば、原告らに対する中華民国内での身柄拘束、新華院(俘虜収容施設)等への収容及び汽車等による強制的な移送、その後の貨物船による日本への移送、新潟港への汽車等による移送並びに新潟港における強制労働は、一連の行為とはいうものの多数の関係者が関与したものであり、また、いずれも独立して不法行為となりうるものであることが認められるから、それぞれについての不法行為の成否は個別に検討すべきであり、これらを一括して準拠法を決定することは相当でない。

そして、原告らが強制連行され強制労働させられた上記経過のうち、原告らに対する中華民国内での身柄拘束、新華院(俘虜収容施設)等への収容、汽車等による強制的な移送及び貨物船による日本への移送については、中華民国国内において不法行為の原因となる事実が発生したものと認められるが、新潟港への汽車等による移送及び新潟港における強制労働については、日本国内において不法行為の原因となる事実が発生したものであると認められる。

したがって、本件において、法令11条1項による中華民国民法が適用されうるのは、原告らに対する中華民国内での身柄拘束、新華院(俘虜収容施設)等への収容、汽車等による強制的な移送及び貨物船による日本への移送に限られる。

イ 被告国について

(ア) 前記認定事実1ないし6のとおり、被告国は、政策として中国人労働者の強制連行・強制労働を実施し、その一環として、中華民国内において、日本兵らを用いて、原告らを身柄拘束し、新華院(俘虜収容施設)等へ収容し、汽車等により強制的に移送し、さらに、貨物船により日本へ移送したのであるから、被告国のこれらの行為について、法令11条1項による中華民国民法の適用が問題とされる余地がある。

(イ) しかし、本件において問題とされているのは、被告国が実施した本件強制連行・強制労働についての国家賠償であるところ、本件において問題とされている法律関係は、個人の私的利益の救済が問題とはされているものの、他方で、公法的性質が極めて強く、被告国の公益とも密接な関連を有するものであるので、国際私法によってその準拠法を決定すべき法律関係ではないといわざるをえない。

すなわち、本件においては、不法行為を行った日本兵等個人の責任ではなく、政策としてこれを行わせた被告国の責任が問題とされているところ、被告国による政策の決定・実施という行為の性格自体が極めて公法的性質の強いものであり、私法による規律に馴染み難いものである。本件強制連行・強制労働の実態は被告国による適法な権力的作用とは到底言い難いものではあるが、被告国が政策として行ったという限度においては、公法的性質が強いものであることを否定できない。

また、国家賠償は、公権力の行使についての適法性を問題とするものであり、その適否についての判断が国による権限行使のあり方に重大な影響を及ぼすものであるから、当該国家の公益と密接な関連を有する公法的性質を持つものであるといえる。各国において、国家賠償制度の存否、責任の要件・効果等について、各国の事情に応じて様々な制度が採用されていることは、このことを裏付けるものである。

(ウ) したがって、被告国の上記各行為について、法令11条1項により中華民国民法が適用されることはない。

ウ 被告会社(新潟港運)について

上記アのとおり、法令11条1項により中華民国民法の適用の対象となりうるのは、中華民国内で行われた行為のみであるところ、前記認定事実1ないし6のとおり、新潟港運は、中国人労働者の供出に直接は関与せずに日本国内において原告らを強制労働に従事させたのであるから、中華民国内においては何らの行為も行っていない。

したがって、被告会社が中華民国民法の規定により不法行為責任を追及される余地はない。

(2)  以上より、原告らの中華民国民法に基づく請求は、その余について判断するまでもなく理由がない。

3  争点(5)(強制労働条約25条違反による国家賠償法に基づく請求〔事案の要旨<5>の請求〕)について

(1)  国家賠償法上の違法性の有無(争点(5)ア)

前提事実(2)ウによれば、被告国が、強制労働条約25条に基づき、強制労働を行った者を処罰すべき義務を負うことは明らかである。

しかし、上記義務は、被告国が強制労働条約の締約国に対して負う国際法上のものであって、強制労働の被害者個人に対して負うものではない。また、国家が犯人に対して行う刑事制裁手続は、公益的見地から行われるものであり、犯罪被害者の個人的利益のために行われるものではない。

以上のことからすると、被告国に上記の義務の懈怠があったと仮定しても、被告国が原告らの権利を違法に侵害したと認めることはできない。

(2)  したがって、原告らの国家賠償法に基づく請求は、その余について判断するまでもなく理由がない。

4  争点(3)(不法行為に基づく請求〔事案の要旨<3>及び<a>の請求〕)について

(1)  被告会社(新潟港運)の責任

前記認定事実3ないし6のとおり、新潟港運は、日本港運業会(新潟華工管理事務所)と共同して、強制連行されてきた原告らを新潟港における港湾荷役業等の強制労働に一方的に従事させ、その間、生活管理においては、警察の援助を受けながら監視をし、別紙10の気象状況のとおりの厳しい気候にもかかわらず衣料・寝具・暖房設備をほとんど準備せず、過酷な労務に見合わない栄養の偏った不十分な食事しか与えず、原告ら自身や宿舎の衛生に一切配慮せず、また、労働管理においては、暴力を用いて一方的に監視をし、ほとんど休憩・休日を与えず、別紙10の気象状況のとおりの厳しい気候の中、十分な防寒装備をさせないで労務に従事させていたのであるから、新潟港運が原告らの身体、自由等にかかわる権利を違法に侵害したことは明らかである。

したがって、被告会社(新潟港運)には、民法709条、715条に基づいて、原告らに対する不法行為責任が発生する。

(2)  被告国の責任(争点(3)ア)

ア 国家無答責の法理について

被告国の不法行為責任の成否については、本件強制連行・強制労働が国家賠償法(昭和22年10月17日公布、同日施行)施行前の行為であることから、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」という同法附則6条により、公権力の行使には民法の適用がないという戦前の法理(国家無答責の法理)が適用され、被告国には民法上の不法行為が成立し得ないのではないかが問題となる。

(ア) この点、戦前において、国家無答責の法理が存在していたことは認められるが、これを本件に適用することは相当でない。

すなわち、戦前においては、行政裁判所法が「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と定め(同法16条)、司法裁判所も国による公権力の行使に関連する行為については民法の不法行為に関する規定を適用しないとしており、司法裁判所及び行政裁判所ともに国の公権力の行使に関連する不法行為に基づく損害賠償請求を受理しなかったため、そのような請求を行うことはできなかった。しかし、このようにして、国に対する損害賠償請求を否定する考え方自体が、行政裁判所が廃止され、公法関係及び私法関係の訴訟の全てが司法裁判所で審理されることとなった現行法下においては、合理性・正当性を見出し難い。また、国の公権力の行使が、人間性を無視するような方法(例えば、奴隷的扱い)で行われ、それによって損害が生じたような場合にまで、日本国憲法施行前、国家賠償法施行前の損害であるという一事をもって、国に対して民事責任を追及できないとする解釈・運用は、著しく正義・公平に反するものといわなければならない。本件は、被告国が政策として、法律上・人道上およそ許されない強制連行・強制労働を実施したという悪質な事案であり、これに従事した日本兵らの行為については微塵の要保護性も存在しない。また、前記認定事実8のとおり、被告国は、強制連行・強制労働の事実を隠蔽するために、外務省報告書等を焼却するなどを極めて悪質な行為を行っているのである。

このような事情を総合すると、現行の憲法及び法律下において、本件強制連行・強制労働のような重大な人権侵害が行われた事案について、裁判所が国家賠償法施行前の法体系下における民法の不法行為の規定の解釈・適用を行うにあたって、公権力の行使には民法の適用がないという戦前の法理を適用することは、正義・公平の観点から著しく相当性を欠くといわなければならない。

(イ) 以上より、少なくとも本件事案において国家無答責の法理を適用することは許されないというべきであるから、国家賠償法附則6項の「従前の例」によることを前提にしても、被告国の行為について民法の不法行為に関する規定が適用されることとなる。

イ 民法の適用

被告国は、政策として本件強制連行・強制労働を実施し、中華民国内において、日本兵らを用いて、原告らを身柄拘束し、新華院(俘虜収容施設)等へ収容し、汽車等により強制的に移送し、さらに、貨物船により日本へ移送するとともに、政策の実施として、日本港運業会(新潟華工管理事務所)及び新潟港運らをして、新潟港において、原告らを強制労働に従事させたのであるから、被告国が原告らの身体、自由等にかかわる権利を違法に侵害したことは明らかである。

したがって、被告国には、民法709条、715条に基づいて、原告らに対する不法行為責任が発生する。

(3)  民法724条後段の適用の問題(争点(3)ウ)

ア 724条後段の法的性質

民法724条後段の規定は、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨からして、被告者側の認識の如何を問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であるから、同条後段の20年の期間は、不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である(最高裁判所平成元年12月21日第1小法廷判決・民集43巻12号2209頁)。

イ 除斥期間の起算点と経過

不法行為に基づく請求権の除斥期間は、「不法行為ノ時」から起算されるものであるところ、前記認定事実6によれば、本件における原告らに対する不法行為は、遅くとも原告らが中国に帰国した昭和20年11月ころには終了したものと認められる。

したがって、被告らの原告らに対する不法行為責任の除斥期間は、昭和20年11月ころから起算され、遅くとも昭和40年11月末日の経過によって完成していたものと認められる。

ウ 除斥期間の適用制限

ところで、原告らは、本件において除斥期間の適用により被告らの責任が消滅することを認めるのは著しく正義・公平に反するので、本件においては除斥期間の適用は排除されるべきであると主張する。

(ア) 確かに、これまで認定・説示してきたとおり、本件不法行為の態様は悪質で被害実態は深刻であるから、こうした不法行為について被告らが免責されることは正義・公平に反すると認められる。

しかし、除斥期間は純然たる請求権の存続期間であるので、当該請求権の発生原因の如何にかかわらず、その期間の経過により当該権利は消滅する。これを不法行為に基づく損害賠償請求権についてみれば、その発生原因の性質に左右されることなく、民法724条後段の20年の期間の経過により消滅すると解する他ない。

(イ) 原告らは、除斥期間の適用を制限した最高裁判所判決(最高裁判所平成10年6月12日第2小法廷判決・民集52巻4号1087頁)を引用して、本件においても正義・公平の観点から、除斥期間の適用は排除されるべきであると主張する。

しかし、上記最高裁判決は、不法行為の被害者が不法行為の時から20年を経過する前6か月内において当該不法行為を原因として心神喪失の常況にあるのに法定代理人を有しなかった場合に、その後当該被害者が禁治産宣告を受け、後見人に就職した者がその時から6か月内にその損害賠償請求権を行使したという民法158条が想定する事態と類似の特段の事情がある事例について、例外的に、民法158条の法意に照らし、同法724条後段の効果は生じないとしたものである。ここでいう民法158条類似の事態とは「特段の事情」の例示に過ぎないが、こうした「特段の事情」による除斥期間の制限が、民法724条後段という明文規定による法律効果を例外的に制限するものであることからすれば、この「特段の事情」は法意等を援用すべき明文規定という拠り所を有するものでなければならない。正義・公平という理念のみから、除斥期間の適用を全面的に排除することは、法律の明文規定を無視することに他ならず、解釈の域を超えるといわざるをえない。

そこで、本件事案を前提として、法意等を援用すべき明文規定の有無を検討すると、天災その他避けることができない事変による時効の停止を定めた民法161条の法意を仮に援用する余地があるが、同条の法意を援用したとしても、除斥期間の効果発生が猶予されるのは2週間に過ぎず、原告らが時効ないし除斥期間の起算点とすべきであると主張する原告らと原告弁護団との出会いのとき(最も遅い時期)から仮に起算したとしても、その猶予期間が経過していることは明らかである。そして、民法161条以外に、法意等を援用すべき明文規定は見あたらない。

したがって、本件事案においては、除斥期間の適用を排除することはできない。

エ 以上のとおり、被告らの不法行為責任は、除斥期間の経過により消滅したといわざるをえない。

よって、原告らの不法行為に基づく請求は、その余について判断するまでもなく理由がない。

5  争点(4)(安全配慮義務違反に基づく請求〔事案の要旨<4>及び<c>の請求〕)について

(1)  安全配慮義務についての一般論

安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方または双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものである(最高裁判所昭和50年2月25日第3小法廷判決・民集第29巻2号143頁)。上記法律関係として労働契約や雇用契約等の就労を予定する関係を前提とすれば、使用者は、労働者に対し、労務提供のために設置すべき場所・施設もしくは器具等の設置管理、または、労働者が使用者もしくは上司の指示のもとに遂行する労務の管理にあたって、労働者の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務を負っているものと解すべきである(上記最高裁判所昭和50年2月25日第3小法廷判決、最高裁判所昭和59年4月10日第3小法廷判決・民集38巻6号557頁参照)。

また、上記安全配慮義務の具体的内容は、労務の職種、労働者の地位、労務の内容及び労務提供場所等の安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によって異なるべきものであるから、事故等が発生した具体的状況を踏まえて、その義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張立証する必要がある。そして、安全配慮義務違反を理由とする損害賠償を請求する訴訟においては、その義務内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張立証する責任は、義務違反を主張する原告らにある(最高裁判所判所昭和56年2月16日第2小法廷判決・民集35巻1号56頁)。

(2)  安全配慮義務の内容の特定について(争点(4)ア)

上記(1)のとおり、本件において、安全配慮義務の内容を特定し、義務違反に該当する事実を主張立証する責任は、義務違反を主張する原告らにある。

そこで、本件について、原告らの主張が特定されたものであるか否かをみると、原告らは、人として生きていくことすら困難とされた本件強制連行・強制労働の実態を踏まえて、原告らが生命・身体の最低限の安全及び人としての尊厳を保ちうる労働条件・生活条件を確保するという観点から、<1>原告らに与える食料について、少なくとも1日3000キロカロリー以上に相当する食料を与える義務、<2>原告らの労働条件として、1日の就業時間が6時間を超える場合には少なくとも30分、10時間を超える場合には少なくとも1時間の休憩時間を与えるとともに、毎月少なくとも2回の休日を設け、監督にあたっては暴力をふるわせないようにさせる義務、<3>原告らの生活環境について、十分な余裕のある就寝場所を提供し、十分な暖房設備を整え、蒲団や毛布等の寝具、衣服を与え、洗濯の機会を与え、風呂を備え、十分な入浴の機会を与え、病気になったときには医師の治療を受けさせ治るまで治療に専念させる義務などを主張するものであるから、安全配慮義務の内容は十分に具体化されているというべきである。

したがって、本件における原告らの主張は、安全配慮義務の内容を十分に特定して主張するものであると認められる。

(3)  安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の有無

ア 被告会社(新潟港運)について

(ア) 安全配慮義務の成否について(争点(4)イ)

a まず、新潟港運が原告らに対し安全配慮義務を負っていたか否かを検討すると、前記認定事実4(4)及び6のとおり、新潟港運と原告らとの間に何らの契約関係もなかったことは明らかである。

しかし、前記認定事実2ないし6によれば、<1>中国人労働者の移入・使用については、華北労工協会と日本港運業会、日本港運業会(新潟華工管理事務所)と新潟港運との間に、それぞれ中国人労働者使用契約とでもいうべき契約が締結されていたこと、<2>日本港運業会はもともと港湾作業会社の中央統制団体であった上、新潟港運の関係者を評議員として受け入れる等日本港運業会と新潟港運との間には密接な関係があったこと、<3>原告らは、生活管理を新潟港運及び新潟華工管理事務所により、一方的・全面的に支配されていたこと、<4>原告らは、新潟港運の従業員等から指示・監視されながら、そこに設置されていた設備・器具等を使用して労務に従事させられていたこと、<5>新潟港運は、本来は、中国人労働者と労務契約等を締結することを予定されていたのにあえてこれを怠り、中国人労働者と労務契約等の法律関係を設定しなかったことが認められる。

以上のような事情を総合すると、本件においては、新潟港運と原告らとの間に、新潟港運と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者使用契約を媒介とした労働契約に類似する法律関係が存在したと認めるのが相当であり、これに基づく特別な社会的接触の関係の存在により、新潟港運は、信義則上、原告らに対し安全配慮義務を負っていたと解するのが相当である。新潟港運は中国人労働者を強制労働に従事させる目的で日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間で中国人労働者使用契約を締結しておきながら、本来は予定されていた原告らを含む中国人労働者との労働契約を一切締結しなかったのであるから、新潟港運と原告らとの間に何らの契約関係がなかったという一事をもって、特別な社会的接触の関係の存在を否定することは、上記の本件特殊事情の下では相当でない。

b そして、新潟港運及び新潟華工管理事務所が原告らの生活管理及び労働管理を一方的・強制的に行い、別紙10の気象状況のとおりの新潟での厳しい気候の下、冬季も屋外で港湾荷役作業という重労働に従事させられたという本件強制労働の実態を踏まえれば、安全配慮義務の内容としては、原告らが人として尊厳を保ちながら安全に生活・労働できる程度のものとする見地から、<1>食事については、港湾荷役作業に従事するに相応しい栄養バランスのとれた食事を、少なくとも1日3000キロカロリー以上に相当する分量だけ与え、<2>衣料については、新潟の冬に屋外で港湾荷役作業に従事しても凍えない程度の衣料を与え、雪等で濡れた場合に備えて十分な着替え等を準備し、<3>宿舎については、冬季に過ごすのに相応しい設備、特に、就寝する際の蒲団や宿舎内で暖をとれる程度の暖房設備を用意し、<4>衛生管理については、少なくとも週に1回ないし2回は入浴及び洗濯の機会を与え、<5>医療については、中国人労働者が疾病にかかったときには、医師の治療を受けさせ治癒するまで治療に専念させ、<6>労働管理については、中国人労働者が不慮の事故に遭わないようにするために労働訓練・教育を実施した上で、海への転落等の事故を防止するための措置を施すと共に、適宜休憩・休暇を与え、現場での指示・監督にあたっては、暴力を用いないよう配慮すべき注意義務が課されていたというべきである。

(イ) 安全配慮義務違反の有無について(争点(4)ウ)

新潟港運による上記義務の履行状況を検討すると、新潟港運は、前記認定事実4及び6のとおり、原告らに対し、<1>食事については、1日3食の食事は与えたものの、その内容は1食につき饅頭2個と大根の葉っぱの漬け物が出ることがあったという程度のもので、分量及び栄養バランスのいずれの点からも甚だ不十分なものであり、しかも本件においては、重労働というべき港湾荷役作業に従事していたのであるから、栄養バランスは極めて悪質であったというべきであり、<2>衣料については、麻袋を支給した他は、地下足袋等がごく稀に支給されただけであり、<3>宿舎については、蒲団、暖房等の設備は全くないに等しい状態であり、<4>衛生管理については、入浴及び洗濯の機会は全くなく、<5>医療については、疾病にかかった者を治療に専念させるような状態ではなく、<6>労働管理については、労働訓練・教育等を全く実施しないまま、石炭が入った重いかごを天秤棒で運ばせながら幅30センチメートル程度の板の上を渡らせる等危険な労務に従事させ、また、休憩・休暇はほとんど与えず、現場での指示・監督にあたっては、日常的に暴力を用いていたのであるから、その義務違反は明らかである。

ところで、被告会社は、日本全国において衣食住の環境が劣悪であったという当時の社会情勢からして、上記のような処遇もやむを得なかったと主張するが、法律上・人道上およそ許されない本件強制労働を強要された状況下にある者とそのような状況下にない者とを同列に論じることは、次元の異なる議論を混同するものである。法律上・人道上およそ許されないことを行う以上は、社会情勢の如何にかかわらず、上記(ア)bの程度の最低限の措置をとるべきことは当然であり、仮に、社会情勢からそれが困難であったのであれば、そもそも本件強制労働を行わなければよかったのであるから、被告会社の上記主張は失当である。

(ウ) 消滅時効の援用について(争点(4)エ)

被告会社は、平成15年7月18日の本件第12回口頭弁論期日において、昭和20年8月15日に本件強制労働関係は終了したので昭和30年8月15日の経過によって原告らの安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は時効により消滅したと主張して、消滅時効を援用するとの意思表示をした。

そこで、被告会社による消滅時効の援用の可否について検討する。

a 消滅時効の起算点

債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は10年であり(民法167条1項)、その起算点は「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」である(同法166条1項)。そして、ここでいう「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、法律上の障害がない状態を指し、事実上の障害があるに過ぎない場合には、消滅時効の進行は妨げられない(最高裁判所昭和49年12月20日第2小法廷判決・民集28巻10号2072頁参照)。

安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権は、その損害が発生したときに成立し、同時にその権利を行使することが法律上可能となるから、そのときから消滅時効の進行が始まる。

b 時効時期の経過

上記aを前提に本件における消滅時効の起算点を検討すると、前記認定事実6のとおり、本件における原告らに対する強制労働は、遅くとも原告らが中国に帰国した昭和20年11月ころには終了したものと認められるので、同時点において原告らに安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権が発生し、かつ、同時点から消滅時効の進行が開始する。

そうすると、原告らの被告会社に対する安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は、遅くとも昭和30年11月末日の経過によって消滅時効が完成していたものと認められる。

c 援用の可否

原告らは、被告会社が本件において消滅時効を援用することは、原告らの被害実態等からして正義・公平に反し、権利濫用として許されないと主張する。

ところで、時効にかかる損害賠償請求権の発生原因事実が悪質であったことや被害が甚大であったことなどは、損害額の算定にあたって考慮されることはあっても、これにより、当該損害賠償請求権について消滅時効を援用することが、直ちに信義に反するものとして権利濫用にあたることとなるわけではない。しかし、債権者による権利行使・時効中断措置との関係において、債務者が消滅時効を援用することが、社会的に許容された限界を逸脱すると認められる事情が存在する場合には、消滅時効の援用は、信義に反するものとして権利濫用になると解するのが相当である。具体的には、<1>債務者が違法・不当な行為によって債権者による権利行使・時効中断措置を妨害した場合や、<2>債権者と債務者との特別な関係から、債権者が権利行使・時効中断措置を不要と信じるについてやむを得ない事情があり、債権者による権利行使・時効中断措置を期待し得ない場合などがこれにあたると解される。

これを本件についてみると、新潟港運は、前記認定事実3ないし6のとおり、本件強制労働に直接関与するとともに、前記認定事実8のとおり、終戦直後の昭和21年に、被告国の指示により、新潟港における強制連行・強制労働について詳細な調査を実施して、その全貌を把握していたにもかかわらず、事業所報告書(<証拠略>)の作成に際し、中国人労働者が契約に基づいて就労していた等の虚偽の記載をし、その後、新潟港における強制連行・強制労働について、何らその実態を明らかにせず、また、被告会社も、新潟港における強制連行・強制労働について、何らその実体を解明しようとしなかったことが認められる。

このような態度は、新潟港における強制労働に事業者として直接関与して、極めて悪質な態様で甚大な被害を発生させた一方で、前記認定事実3(3)イのとおり、港湾荷役増強非常動員に関連して被告国から奨励金を受け取るとともに、前記認定事実7のとおり、戦後、日本港運業会が被告国から受け取った補償金について、その一員として実質的な利益を受けた者として、はなはだ不誠実である。そして、新潟港運ないし被告会社が、新潟港における強制連行・強制労働の実態を把握していたにもかかわらず事業所報告書(<証拠略>)に虚偽の記載をし、その後、何ら真相を解明しようとしなかったという一連の不当な態度は、何の事情もわからずに新潟での強制労働に従事させられ、また、戦争直後の混乱期に帰国せざるをえなかったため、何らの証拠も収集することができず、その後も証拠収集手段を有しなかった原告らとの関係では、実質的に提訴を妨害したものと評価できる。

さらに、前記認定事実10のとおり、日本と中華人民共和国は昭和47年の日中共同声明まで国交すらない状態であり、その後も一般の中国国民はパスポートの発給すら受けることができず、原告らは長期にわたって事実上権利行使・時効中断措置が不可能な状態に置かれていたことをも考慮すれば、被告会社が、悪質な態様で重大な被害を発生させた本件において消滅時効を援用することは、原告らによる権利行使・時効中断措置との関係においても、社会的に許容された限界を著しく逸脱するものであるといわざるをえない。

d 除斥期間の適用制限を認めないこととの均衡

なお、上記のように、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権について、消滅時効の援用を制限することと、前記4(3)のとおり、不法行為に基づく損害賠償請求権について除斥期間の経過による請求権の消滅を認めることとは何ら矛盾しない。

すなわち、不法行為に基づく損害賠償請求権と安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権とは別個の請求権であり、それぞれの発生・消滅等は個別に検討されなければならないから、それぞれについて検討した結果、その帰趨が別個のものとなることがあるのは当然のことである。特に、不法行為に基づく損害賠償請求権と債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅原因についてみれば、前者には3年の消滅時効の他に20年の除斥期間が規定されているのに対し、後者には10年の消滅時効のみが規定されているのであるから、消滅時効の期間の長さ、除斥期間の有無という点において、そもそも制度として異なっている。さらに、除斥期間と消滅時効をその効果の発生が妨げられることがあるか否かという観点から比較すると、除斥期間は、債務者による援用を待つまでもなく一定の期間の経過により当然に権利消滅の効果が発生する純然たる請求権の存続期間であるから、これについてその効果の発生が妨げられるのは、極めて例外的な場合に限られるといわざるをえない。これに対し、消滅時効は、債務者による援用権の行使(援用の意思表示)という権利行使を待って初めて効果が発生するものであるから、権利濫用等を理由として、その権利行使(援用の意思表示)が制限され、その効果の発生が妨げられることがあるのは解釈上当然のことであり、その結果、除斥期間の場合と比較して、権利消滅の効果の発生が制限される余地が大きくなる場合もあるのである。

本件において、不法行為に基づく損害賠償請求権については除斥期間の適用制限を認め難いとする一方で、安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく損害賠償請求権については消滅時効の援用を制限することになるとしても、上記のとおり、両請求権の消滅原因・消滅の効果の障害要件が別個のものである以上、法の解釈・適用として何ら矛盾するところはない。

(エ) 被告会社の原告らに対する責任

以上より、新潟港運の権利義務を包括承継した被告会社は、原告らに対し、新潟港運の安全配慮義務違反に基づいて原告らが被った損害を賠償すべき責任を負う。

イ 被告国について

(ア) 安全配慮義務の成否について(争点(4)イ)

a 次に、被告国が原告らに対し安全配慮義務を負っていたか否かを検討すると、前記認定事実1ないし6のとおり、被告国と原告らとの間には、何らの契約関係もなかったことは明らかである。

しかし、前記認定事実1ないし6によれば、被告国は、<1>中国人労働者の強制連行・強制労働を政策決定し、中国人労働者の使用、管理の詳細についても定めていたこと、<2>日本軍を用いて、また、華北労工協会と協力して中国人労働者の供出にあたったこと、<3>日本港運業会に中国人労働者の移入・管理について一切を委任し、中国人労働者移入・管理委任契約とでもいうべき契約を締結していたこと、<4>警察官を派遣する等して中国人労働者の管理に協力していたことが認められる。また、当時のような戦時統制下においては、被告国の政策に基づき原告らを直接・排他的に管理していた新潟華工管理事務所及び新潟港運(前記ア(ア)のとおり原告らに対する安全配慮義務を負っていた。)を監督し、是正等を促すことができたのは被告国だけであったことが認められる。

以上のような事情を総合すると、本件事情のもとにおいては、被告国と原告らとの間に、被告国と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者移入・管理委任契約を媒介とした労働契約に類似する法律関係が存在したと認めるのが相当であり、これに基づく特別な社会的接触の関係の存在により、被告国は、信義則上、原告らに対し安全配慮義務を負っていたと解するのが相当である。

被告国は、本来は到底許されない本件強制連行・強制労働を政策として実施し、それを実施させるために日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間で中国人労働者移入・管理委任契約を締結し、また、戦時統制下において新潟港運及び新潟華工管理事務所に対して原告らの待遇を唯一是正させうる立場にあったのであるから、被告国と原告らとの間に何らの契約関係がなく、また、被告国が原告らを直接管理していたわけではないということを考慮しても、上記のような本件の特殊事情の下では、被告国と原告らとの間の特別な社会的接触の関係の存在を否定することは相当でない。

b そして、政策として本件強制連行・強制労働を実施し、新潟港運及び新潟華工管理事務所に原告らの待遇を唯一是正させることができた被告国の立場からすれば、被告国は、原告らに対し、新潟港運に上記ア(ア)の義務を履行するよう十分に指示・監督をし、また、新潟港運が十分にその義務を果たさない場合には自らそれを履行すべき義務を負っていたというべきである。

(イ) 安全配慮義務違反の有無について(争点(4)ウ)

被告国は、上記ア(イ)のとおりの新潟港運による安全配慮義務違反を、何ら監督・是正せず、また、自らも何らの措置もとらず、原告らを人として生きていくことすら困難な状態に置いたのであるから、被告国による安全配慮義務違反は明らかである。

(ウ) 消滅時効の援用について(争点(4)エ)

なお、被告国は、本件において安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権については消滅時効を援用していないが、仮に消滅時効を援用したとしても、以下のとおり、これは信義に反するものとして権利濫用となり許されないというべきである。

すなわち、時効にかかる損害賠償請求権の発生原因事実が悪質であったことや被害が甚大であったことにより、当該損害賠償請求権について消滅時効を援用することが直ちに信義に反するものとして権利濫用にあたることとなるわけではないことは前述のとおりであるが、被告国には、以下のとおり、消滅時効を援用することが社会的に許容された限界を逸脱すると認めるに足りる事情がある。

前記認定事実8のとおり、被告国は、終戦直後の昭和21年に、強制連行・強制労働について詳細な調査を実施して外務省報告書等を作成し、その全貌を把握していたにもかかわらず、強制連行・強制労働の官民関係者の戦争責任追及を免れるために、これを全て焼却した。しかも、その後、被告国は、一貫して、強制連行・強制労働について、中国人労働者の供出・移入は任意の契約に基づくものであり強制連行や強制労働の事実はなかったこと、詳細は資料がないため明確でないことなどを繰り返し答弁してきた。

このような態度は、被告国が外務省報告書等の作成により本件強制連行・強制労働の実態を把握していたことに照らせば、極めて悪質な態様で甚大な被害を発生させた本件強制連行・強制労働を政策として実施した者としてはなはだ不誠実であるばかりか、何の事情もわからずに日本での強制労働に従事させられ、また、戦争直後の混乱期に帰国せざるをえなかったため、何らの証拠も収集することができず、その後も証拠収集手段を有しなかった原告らとの関係で実質的に提訴を妨害したものと評価できる。

以上のような事情に加え、前記認定事実10のとおり、原告らが長期にわたって事実上権利行使・時効中断措置が不可能な状態に置かれていたことをも考慮すれば、被告国が悪質な態様で重大な被害を発生させた本件において消滅時効を援用することは、原告らによる権利行使・時効中断措置との関係においても、社会的に許容された限界を著しく逸脱するものであるといわざるをえない。

(エ) 日中共同声明等により原告らの請求権が消滅するか否かについて(争点(4)オ)

上記のとおり、被告国は、原告らに対し、安全配慮義務違反に基づく損害賠償責任を負うが、被告国は、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権を含め、原告らの請求権は、日華平和条約11条、サンフランシスコ平和条約14条(b)及び日中共同声明5項によって、中華人民共和国により放棄され、消滅したと主張する。

そこで、この点について検討すると、<1>中華人民共和国と中華民国との関係からして、両国との間の問題は、明確に分けて別個に検討されなければならないこと、<2>「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」という日中共同声明5項の文言上、中華人民共和国が個人の被害賠償まで放棄したとは直ちには解し難いこと、<3>戦争による国民個人の被害についての損害賠償請求権という権利の性質上、当該個人が所属する国家がこれを放棄し得るかどうかにつき疑義が残る上、日中共同声明の署名にもかかわらず、中国国民は戦争被害について何らの補償、代償措置を受けていないこと、<4>前記認定事実9(2)のとおり、中国要人が、日中共同声明により中国が個人の被害賠償まで放棄したと認識しているとは必ずしもいえないこと(特に、認定事実9(2)オ(ア)bの銭外交部長〔当時〕の発言)などに鑑みれば、日本政府の認識の如何にかかわらず、中国国民個人が被った損害についての被告国に対する損害賠償請求権、特に、安全配慮義務違反という債務不履行に基づく損害賠償請求権までが、日中共同声明によって放棄されたとは解し難い。

したがって、原告ら安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権が、中華人民共和国により放棄され、消滅したという被告国の主張は採用できない。

(オ) 被告国の原告らに対する責任

よって、被告国は、原告らに対し、その安全配慮義務違反に基づいて原告らが被った損害を賠償すべき責任を負う。

(4)  被告らの責任の連帯性

以上のような新潟港運及び被告国が原告らに対して負っていた安全配慮義務の性質・内容からすれば、被告らは、原告らに対して、連帯して損害賠償責任を負うべきである。

すなわち、被告国は政策として本件強制労働を行い、新潟港運はそれと共同して原告らを強制労働に従事させたのであるから、被告国及び新潟港運は、一体となって、原告らに対して安全配慮義務を負っていたというべきである。そして、新潟港運及び被告国は、ともにその義務を怠り原告らに損害を生じさせたのであるから、新潟港運を包括承継した被告会社及び被告国は、連帯して、原告らが被った損害を賠償すべき責任を負うものというべきである。

6  原告らの損害

(1)  上記の被告国及び新潟港運による安全配慮義務違反の結果、原告らが被った損害は以下のとおりである。

ア 原告Bについて

原告Bは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(1)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Bは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約4か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

イ 原告Cについて

原告Cは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(2)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Cは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約9か月)、厳しい気候の中、屋外で危険・過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から度々暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

ウ 原告Dについて

原告Dは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(3)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Dは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約9か月)、厳しい気候の中、屋外で危険・過酷な労務に強制的に従事させられたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、目の病気にかかったことがあったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

エ 原告Eについて

原告Eは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(4)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Eは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約9か月)、厳しい気候の中、屋外で危険・過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、足の上に紙のロールを落として怪我をしたことがあったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

オ 原告Fについて

原告Fは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(5)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Fは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約8か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すらほとんど許されなかったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

カ 原告Gについて

原告Gは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(6)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Gは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約8か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、夜盲症や足の炎症等の疾病に罹患したこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

キ 原告Hについて

原告Hは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(7)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Hは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約9か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、皮膚病に罹患したこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのか相当である。

ク Aについて

(ア) Aは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(8)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、Aは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約8か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から度々暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

(イ) 前記前提事実(1)ア(イ)のとおり、Aは平成12年○月○日に死亡したが、Aを相続した原告A1と同A2との間で、Aが本件強制連行・強制労働に基づいて取得した損害賠償請求権について、原告A1が80パーセント、同A2が20パーセントの割合でそれぞれ取得する旨の遺産継承約定協議が成立したのであるから、原告A1は640万円の損害賠償請求権を、同A2は160万円の損害賠償請求権をそれぞれ取得する。

ケ 原告Iについて

原告Iは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(9)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Iは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約8か月)、厳しい気候の中、屋外で危険・過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、作業中に左尻を怪我したことがあったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

コ 原告Jについて

原告Jは、前記認定事実1ないし6及び上表5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(10)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Jは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約8か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、日本人監督員から暴力を振るわれたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、10数日間にわたって熱を出したことがあったこと、強制連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

サ 原告Kについて

原告Kは、前記認定事実1ないし6及び上記5に認定、判断したとおり、被告らの安全配慮義務違反により極めて劣悪な環境下での生活・労働を余儀なくされ、前記認定事実6(11)のとおり、その生命・身体の安全、自由等を違法に侵害されたということができる。

そして、原告Kは、被告らの安全配慮義務違反によって相当の精神的苦痛を被ったということができるが、強制労働に従事させられた期間(約1年2か月)、厳しい気候の中、屋外で過酷な労務に強制的に従事させられたこと、満足な食事・衣料等を支給されなかったこと、入浴すら一切許されなかったこと、高熱を出したことがあったこと、日本への連行・強制労働につき何らの謝罪・補償等を受けていないこと等本件に顕れた一切の諸事情を考慮すれば、この精神的苦痛に対する慰謝料は、800万円とするのが相当である。

(2)  謝罪広告について

なお、原告らは、損害賠償とともに新聞への謝罪広告の掲載も請求しているが、前記のとおり、原告らの請求は、安全配慮義務違反(債務不履行)に基づく請求についてのみ理由があるところ、債務不履行の効果として、謝罪広告の掲載を求めることはできないと解されるから、原告らのこの請求は理由がない。

7  結論

以上の次第で、原告らの本訴請求を主文第1項の限度で認容し、その余の請求はいずれも理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 片野悟好 太田武聖 佐藤康憲)

(別紙2)<略>

(別紙3)<略>

(別紙4)<略>

(別紙5)<略>

(別紙6)<略>

(別紙7)

原告らの主張

第1はじめに

1 原告らは、強制的に日本に連行され、あるいは騙されて連行され、新潟で強制労働をさせられた。原告らは、日本軍によって拉致あるいは騙されて日本に連れて来られた当時、年若く、人生で最も楽しい伸びゆく青春時代を迎えたばかりの青年であったが、突然、親兄弟とも引き離され、遠くの異国の地にまで運ばれた。そこに待っていたものは、生きていくばかりの粗末な食事と人間扱いしない監禁部屋での生活、暴力を背景とした重労働の日々であり、いつ帰れるあてもない強制労働のもとで、栄養失調やストレス、労働災害等で病気になり死亡する者が続出した。そこで受けた肉体的・精神的打撃は生涯忘れられず、その後遺症は50年以上経過しても未だ癒されない。とりわけ、未だにそのことを謝罪もせず、補償もしない日本国と企業らの無反省な態度のために、受け続ける苦しみは大きくなるばかりである。

原告らは、日本各地に強制連行され、強制労働させられた中国人約4万人を代表して、日本政府と企業に対し正式な謝罪と損害賠償を求めるものである。

2 既にドイツでは、ナチス時代に行われた大量虐殺や迫害に対して、これまでに約1000億マルク(約5兆2000億円)の戦後補償を行ってきたが、改めて強制労働についても補償することを決断し、約100億マルク(約5200億円)の基金を設立し、政府と企業が各々2分の1を負担した上で、被害者への支払を始めている。この基金に関し、ラウ大統領は、「国と企業が、かつて行われた不正から生じた共同責任と道義的義務を表明」し、「奴隷労働・強制労働は、正当な賃金未払を意味するだけでなく、強制連行、故郷の喪失、権利の剥奪、人間の尊厳に対する暴力的蹂躙を意味した」ことを指摘し、「奴隷労働と強制労働を行わねばならなかった全ての人々に思いを馳せ、ドイツ国民の名において許しを請います」と声明し、この基金の思想と被害者に対する謝罪を表明している(1999年12月16日)。また、シュレーダー首相は、上記補償基金法案を審議する連邦議会において、「収容所や工場での強制労働では、飢え、虐待、拷問が日常的に行われた。私たちは、犯罪的なナチス体制が強制労働抜きに存在できなかったこと、それだけに我々ドイツ人には歴史的な責任があることを認識しなければなりません。過去に対する明確な認識があってこそ、未来もあるのです。」と述べたという。

21世紀における国際社会と国際市場で、日本という国と日本の企業が、諸国民の信頼を得て、平和で豊かな国際関係を築くには、可及的速やかに「強制連行・強制労働」事件を解決することが不可欠である。特に、今後、アジアの国民から信頼され共に発展するためには、日本の過去の犯罪的行為に対して、その事実を認め、謝罪し、補償をやり抜かなければならない。そのことが、中国をはじめとして、アジアの国民に悲惨な被害を与えた日本政府と企業の最低の義務であり出発点である。

アメリカでは、事実上日本をターゲットとする強制労働賠償法が、カリフォルニアに次いで、ロードアイランド州、そしてニューヨーク州において、可決・成立し、その流れは全米に広がりを見せつつある。西暦2010年までは時効もなく損害賠償の提訴ができること、遺族であってもアメリカ合衆国国民以外の外国人であっても補償を求めることができるとするものである。このようにアメリカ国内においても日本の戦争責任を曖昧にする昨今の動向に対する強い警戒感と批判が急速に高まりつつある。

また、ILO等が、日本政府は旧日本軍の戦争犯罪とりわけ慰安婦と強制労働について自らの責任を明らかにし、被害者への謝罪と補償を行うべきだとする見解が度々表明されている。

原告らは、日本政府や企業が、これらの世界の世論から糾弾されてから渋々補償をするような恥ずかしい行為に出るのではなく、率先してその責任を認め、一日も早く謝罪し、その罪を償って新しく出発することを強く求める。

3 中国人強制連行、強制労働関係で最初の訴訟提起となった「劉連仁訴訟」は、本件訴訟を含む強制連行、強制労働関係訴訟の代表的な訴訟であったが、この最初の訴訟で、平成13年7月12日に原告勝訴判決が示された意義は極めて大きい。この判決は、<1>強制連行、強制労働を国の違法な行為ととらえ、これからの労働者の保護の必要性と国の保護義務違反を認めた点、<2>時効と除斥期間を正義、公正と条理の視点から排斥した点、<3>被害の重大性を認めて請求金額の全額である2000万円の賠償額を認容した点で極めて重要な意義を持っている。

この判決は、日本国内のみならず、中国のあらゆるメディアで大きく取り上げられ、CCTV(中国中央電視台)は、強制連行と劉連仁事件の経緯、判決当日の裁判所の模様、判決の内容と意義についての遺族と被連行者、康健弁護士等による座談などを特集した40分の特別番組を作成し放映した。この判決を受けて、今中国国内でも、中国人強制連行、強制労働問題についての全面解決を求める気運が高まってきている。東京地裁の劉連仁事件判決の成果を踏まえつつ、その弱点を克服して中国人強制連行、強制労働問題を抜本的に解決する基礎を作っていくという歴史的、国際的な役割を本件訴訟は担っている。

戦後積み残された強制連行、強制労働の問題の解決を行って、初めて真の日中友好関係を実現することができるのであり、今の中国の人々はこの点を見守っているのである。

4 このような国際的状況を踏まえると、本件訴訟における被告らの対応は極めて遺憾と言わざるをえない。

日本の侵略行為や強制連行と強制労働の事実が裁判の中心の焦点になっているときに、当事者である被告らが、その事実に答えずに黙秘したり、知らない、わからないなどということで逃げることができるのであろうか。このような真摯さを欠く訴訟における被告らの対応は、強制連行・強制労働によって人生を台無しにされた中国人被害者に対して、さらに怒りと苦しみを倍加させるものであり、国際的な憤激を呼ぶものであり、裁判制度を実質的に蹂躙するものである。

被告らは、正々堂々と訴訟の舞台に上がるべきであり、それができなければ、直ちに原告らの要求を認めるべきである。

第2被告国の違法行為

1 本件で原告らが違法かつ有責であると主張する被告国の行為は、原告らを含む中国人に対する強制連行・強制労働政策の計画・実行そのものであり、仮にそれが認められないとしても、同政策の具体的実行に関与した日本軍人や警察官など被告国もしくは国の機関に雇用されていた被用者の個々の行為であるが、その内容は概略以下のとおりである。

2 中国人強制連行・強制労働の背景(戦争遂行に伴う国内労働力不足の進行)

当時、被告国は、1937年(昭和12年)7月に始まった日中戦争(中国侵略戦争)が長期化するだけでなく、1941年(昭和16年)12月からは太平洋戦争に突入し、戦争拡大の中で戦時経済の維持とりわけ戦争遂行に不可欠なエネルギー確保という点で、石炭の増産確保及び外地輸入や内地輸送を担う港湾荷役業務の強化が至上命題であった。しかし他方で、それら産業を担うべき成人男性労働力は軍隊への招集により極端な不足状態に陥っていた。

このため、石炭業界や土建業界からの激しい突き上げにより、被告国は、1939年(昭和14年)ころより、当時植民地であった朝鮮半島から労働者の内地移入政策を進めてきたが、深刻な労働力不足の解消には至らず、戦争相手国である中国の労働者の大量移入、すなわち強制連行・強制労働を立案・推進するに至った。

3 閣議決定

(1) 1940年(昭和15年)3月、被告国の商工省燃料局内に「華人労務者移入に関する官民合同協議会」が設置され、石炭産業における中国人労働者移入に関する協議・対策が図られていき、1942年(昭和17年)に入ると、被告国及び関係業界は、中国人労働者の必要人員、供出・輸送・労務管理などの具体的方法につき政策化を進めた。

(2) この動きを受けて、被告国(政府)は、1942年11月27日、「華人労務者移入に関する件」を閣議決定した(外務省報告書第1分冊43頁)。この閣議決定は、第1「方針」、第2「要領」、第3「措置」から成っており、第1「方針」には、「内地に於ける労務需給は愈々逼迫を来たし特に重筋労務部面に於ける労力不足の著しき現状に鑑み左記要領により華人労務者を内地に移入し以って大東亜共栄圏建設の遂行に協力せしめんとす」とし、「大東亜共栄圏の建設」=侵略戦争を維持遂行するための労働力不足を補う必要から、侵略先の国民を強制的に移入し利用することが明示されていた。第2「要領」では、<1>華人労務者を「国民動員計画」産業中の重筋労働部門の労働力として使用すること、<2>主に華北地方の労務者を利用し、「移入」には華北労工協会等の現地機関と協力して進めることとされた。第3「措置」には、閣議決定を実施するにあたっては、まず試験移入を行いその成否を確かめた上で本格的実施に踏み込むこととされていた。

4 閣議決定の実行

(1) 前記閣議決定に基づき、被告国は、各官庁間で密接な連絡を保持しつつ移入連絡を大東亜省、労務の割当て及び管理を軍需省及び運輸省との協議の下に厚生省、取締は内務省に、それぞれあたらせ、中国現地における労務者の供出・斡旋は大使館、日本軍並びに国民政府(華北では華北労工協会)にあたらせた(外務省報告書第1分冊11及び12頁)。

(2) 試験移入の実施

前記閣議決定後の1942年(昭和17年)11月27日、被告国は、試験移入の実施要領を策定し、さらに同年12月下旬、華北労働視察団を組織して、各関係省庁の担当者、石炭・海運などの関係業界の統制団体の担当者らを華北地方に送り、現地の労働事情を把握させ試験移入をどのように行うかを検討させた。

この成果を受けて、被告国は、1943年(昭和18年)4月から同年11月までに、炭坑に4集団557名、港湾荷役に4集団1420名を試験移入させ使用した(外務省報告書要旨編、以下「要旨」という。)。

(3) 本格実施

試験移入に続く本格実施にあたって被告国は、1944年(昭和19年)2月28日、「華北労務者内地移入の促進に関する件」と題する次官会議決定をし、「華人労務者は毎年度国民動員計画に計上し、計画的移入を図るもの」とし、中国人労働者の移入を本格化させた。そして、「昭和19年度国民動員計画実施計画」(1944年8月16日閣議決定)において、朝鮮人労働者29万人とともに、中国人労働者3万人を供給することを決定した。

5 強制連行(「ウサギ狩り」、「労工狩り」)の実態

(1) 国民動員計画に組み込まれ、失敗を許されない国策となった中国人労働者の移入を実現するため、華北を中心に多数の中国人が強制的に連行された。中国人労働者の供出の形態として、「行政供出」、「訓練生供出」、「自由募集」、「特別供出」があったとされ、供出総数3万8935人のうち、その61.8パーセントの2万4050人が行政供出であり、27.4パーセントの1万0667人が訓練生供出であり、他はごくわずかであった(外務省報告書第1分冊15頁)。

行政供出は、中国側行政機関が供出命令を発し責任数の供出をさせるやり方であり、訓練生供出は、日本軍隊が捕らえた捕虜や裁判で微罪処分を受け釈放された者を中国各地の訓練所で一定期間訓練を受けさせた場合を言う。訓練生供出は、日本軍隊が、実際は「掃討作戦」などと称して無抵抗の農民ら一般庶民を銃剣で脅しながら捕獲・拉致した場合(「ウサギ狩り」、「労工狩り」と呼ばれた。)を多数含むのであり、行政供出も、実際は、日本軍の意向に従った中国側行政機関(華北政務委員会)が半強制的な欺罔・虚言あるいは脅し・暴力などの強制力によって住民を連行していたのである(外務省報告書にも「華北政務委員会の行政命令に基づく割り当てに応じ都市郷村より半強制的に供出せしめた」と記されている〔要旨7頁〕。)

(2) こうして捕らえられた中国人らは、日本軍や傀儡政府軍らに護送され、いったん華北労工協会が設置した収容所(山東省の済南、青島、河北省の石門、塘沽など)に強制収容され、その後日本に送り出された。収容所内での生活は苛酷で、栄養失調や病気などで多数の中国人が死亡した。

(3) さらに、収容所から日本へ送られる途中においても、石炭輸送船の船倉内に長期間押し込められ、満足な食料も支給されず、多数の中国人が死亡した。外務省報告書によれば、乗船人員3万8935名のうち、船中死亡564名(1.5パーセント)、事業場到着前死亡248名(0.6パーセント)、合計812名(2.1パーセント)が死亡した(要旨)。

6 外務省報告書に見る中国人強制連行・強制労働の悲惨な人権侵害の事実

(1) かろうじて死亡を免れた中国人労働者は日本各地に送られ、苛酷な生活条件の中で強制労働に従事させられた。労働させられた場所は、業種別では、鉱山業に15社47事業場1万6368名(炭坑が圧倒的であった。)、土木建築業に15社63事業場1万5253名、港湾荷役業に1社21事業場6099名、造船業に4社4事業場1215名であった(外務省報告書第1分冊25頁)。

(2) 連日苛酷な重労働を強制された中国人らに対する処遇は劣悪であった。出された食料は熱量換算で1日で2500カロリーを超えず、空腹に耐えかねて逃亡する事件が相当発生し、衣料の支給は十分ではなく、特に蒲団や地下足袋の支給が遅れたことが原因と思われる疾病や凍傷の例があり、宿舎の居室は1人当たり0.63坪平均で、畳敷きのものの他、アンペラ敷、藁敷き、板敷きのものもあり、逃亡防止の見地から通風・採光の点が不備なものが多かった(要旨12ないし14頁)。

(3) 外務省報告書は、原告ら中国人労働者が強制連行・強制労働させられた結果、どのような悲惨な人権侵害を受けたかにつき以下のとおり記載している。

ア 「華人労務者は昭和18年4月より同年11月迄の間に移入せられたる所謂試験移入8集団1,411名及び昭和19年3月より昭和20年5月に至る間移入せられたる所謂本格移入161集団37,524名総計38,935名に上れり」、「移入に見たる華人労務者は閣議決定の方針に従い、国民動員計画産業中、鉱業、荷役業及び国防土木建築等に就労せしめたるが、其の雇用主数35社配置事業場135事業場に上れり」

イ 「此等事業場に於ける華人労務者の配置期間は平均13.3ケ月、最長28.4ケ月、最低1.3ケ月にして港湾荷役及び土木業にありては事業場を異動せるもの多きも鉱山等にありてはほとんど移動をなさず送還に至る迄同一事業場に定着就労せるもの大部分なり」

ウ 「華人労務者が移入時現地諸港より乗船して以来各事業場において、就労し送還時本邦諸港より乗船する迄の間生じたる死亡者総数は6,830名にして移入総数38,935名に対し、実に17.5パーセントと云う高死亡率に示し居れり、これを場所別に見れば、移入途次の死亡812名、事業場内死亡5,999名、集団送還後死亡19名なり」

エ 「不具廃疾に付見るに総数467名にして特異な現象として失明が圧倒的に多く217名46.4パーセントを占め、視力障害之に次79名16.9パーセント、視力に関するもの合計296名63.3パーセントの多数を占め、肢指欠損又は其の機能障害は合計162名32.6パーセントなり」(以上、要旨)

7 以上のとおり、被告国は、原告ら中国人労働者の強制連行・強制労働を国策の重要な柱として位置付け、関係業界と一体となって企画・実行してきたことは明らかであり、その違法性は明白である。

第3被告会社(前身である新潟港運)の違法行為

1 被告会社と新潟港運との関係

(1) 戦争が拡大するにつれ、食糧・鉱物資源などの軍需物資の移送の役割を担う港湾荷役作業はその重要性が高まり、効率的遂行が強く求められるようになった。そこで、1941年(昭和16年)9月には港湾運送業等統制令が制定され、「一港一作業会社」の方針がとられることとなった。新潟における荷役会社集約の核となるべく、1942年(昭和17年)6月19日に新潟港湾運送株式会社が設立され、同社は新潟港運株式会社と商号変更した。

(2) 終戦後の1950年(昭和25年)2月28日には新潟海運陸送株式会社が上記新潟港運株式会社を吸収合併し、さらに1960年(昭和35年)5月23日には新潟臨港開発株式会社が上記新潟海運陸送株式会社を吸収合併した。

上記新潟臨港開発株式会社は、同年10月30日、新潟臨港海運運送株式会社に商号変更し、さらに1991年(平成3年)6月27日には、株式会社リンコーコーポレーションと商号変更し、現在に至っている。

(3) 本件は、新潟港運における原告らに対する強制連行・強制労働につき、その後継会社である被告会社の責任を問うものである。

2 港運業界が国と一体となって行った中国人労働者の強制連行・強制労働の実態

(1) 1938年(昭和13年)の国家総動員法を受けて、1941年(昭和16年)9月に勅令「港湾運送業統制令」が公布され、各港ごとに企業合同による統制会社が設立された。前記のとおり、新潟港でも1942年6月に新潟港湾運送株式会社が設立された。

さらに、これらの港湾作業会社を会員として、1943年(昭和18年)2月、「港湾荷役の総力を最も有効に発揮せしむるため、港湾運送業の総合的統制運営を図り、且つ港湾運送業に関する国策の遂行に協力するをもって目的とす」(定款第1条)る半官半民の中央統制団体「日本港運業会」が設立された。その際、設立委員の1人に新潟港運の代表者が就任し、設立後の役員の1人として同社からRが就任している。

また、前述した1941年(昭和16年)8月の閣議決定に基づき、「戦時海陸管理令」が施行され、翌42年(昭和17年)4月には特別法人「船舶運営会」が設立され、船舶の運航管理、運送と港湾会社の荷役業との統一した連携作業が実施されていった。

(2) このように、全国的に港運業の統制が進められるとともに、港運業界も国策に協力するとの名目で進んでこれに呼応し体制を整え港湾運送業を遂行していったが、他方で、戦争の激化に伴い日本の労働者の徴兵が進むにつれ、港湾作業においても労働力の逼迫はいよいよ深刻になっていき、被告国に対し、中国人(華人)労働者の移入を求めるようになった。

ア 1942年(昭和17年)11月、前述した「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定と相前後して、「戦時港湾荷役力の緊急増強に関する件」が閣議決定され、<1>主要港の荷役能率の5割上げを目標とすること、<2>総揚制(船舶貨物を一括に荷揚げして作業時間を短縮すること)の実地等が指示され、これに応えて、前記船舶運営会は「実施要領」を定めたが、その中に「港湾労務要員の優先割り当てを行うとともに、要すれば華人労務者の移入を考慮すること」を挙げている。

イ 日本港運業会発行の「日本港湾運送事業史」は、「日華事変が勃発してからは港湾荷役方面の人的資源は、徴兵、徴用、軍需工場方面への離散といったことで枯渇して行き、一方には、荷役の緊急を要する事情が切実さを加えたので、労務者確保の問題は不断の課題となっていた」、「(昭和)18年末頃から、半島労務者の募集が積極的に実行された。・・・繁忙時において、囚人を港運関係の作業に就業させたこともあった。」、「半島からの労務者の移入も限界に達した状況になったので、(昭和)18年末頃から満鉄を通じて満州からの移入が開始された。続いて、北支、および中支からの華工の移入も始まったが、この満州及び中国からの労務者移入については、日本港運業会も移入事務の推進ならびに人員の適正配置について重要な役割を演じている」と記録し、日本港運業会も国策に積極的に協力し、中国人労働者の移入について重要な役割を担ってきたことを自認している。

(3) さらに、港湾作業への補強として、中国人労働者を活用する必要に迫られた港運業界は、むしろ移入と管理の主体にさえなった。「船舶運営会史」(前編下)は当時の状況を以下のとおり述べている(311頁以下)。

一、港湾労務確保の一環の施策としての華工並びに半島人移入の件

・・・昭和19年度に入り、港湾労務状況が極度に逼迫するに及び、政府当局に於ては、前年度中試験的に伏木港に配置せしめたる華工の稼働成績良好なるに鑑み、昭和19年2月28日次官会議に於て予算19年度2,263,000円をもって実施法決定をみたる華工の本格的移入を促進することになったが、この港湾華工の移入並びに管理に関しては、その一切を運輸通信省より日本港運業会に委任せられ、日本港運業会が移入ならびに管理の主体となった。本会としては、港運業界が華工移入実施に際し大東亜省その他の関係官庁、並びに北京、上海両大使館とともに側面より是に協力したのである。

而して、上記移入計画は5,500名のところ、5,450名を移入し、更に函館東日本造船株式会社からの転換により402名を加え、合計5,875名が港湾労務者として利用し得ることとなった。

而して、これら華工は、小樽、函館、室蘭、船川、酒田、新潟、伏木、七尾、東京、清水、大阪、神戸、門司、八幡の15港に配属し、荷役力確保に大なる貢献をしたのである。難局に処し、強力なる集団労務として港湾労務の面に於ける抜くべからざる存在となったのである。

尚、右華人労務者の移入と並行して半島人労務者の移入も行われた。半島人労務者の移入は厚生省の斡旋と港運業界の援助とにより港運会社が各自の費用に於いて朝鮮総督府より移入管理した。当初の移入予定数7,000名に対し、実際に移入せるものは総数3,798名であった。

このように中国人労働者は港湾作業において不可欠の労働力とされ、その移入と管理を日本港湾業会が担っていたものである。

3 中国人労働者の移入を積極的に推進した新潟港運

中国人労働者の強制連行政策の実施と新潟港運とは、以下のとおりの深い関わりがあった。

(1) 新潟港運は、中国人労働者の移入と管理を二元的に担った前記日本港運業会の役員にRを派遣したが、同人はその後まもなく同社の代表取締役や監査役に就任した。

(2) 「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定された直後の1942年12月、国と鉱山・荷役業界などから総勢27名が、華北労働事情の調査と労務者の使用条件を検討するために「華北労働事情視察団」を組織して北京に赴いたが、新潟港運も総務部長のTを派遣した。

(3) 強制連行された中国人労働者らは日本港運業会が各港に設置した華工管理事務所で管理され、新潟港においても新潟華工管理事務所が設置されたが、初代、二代の所長は新潟港運の役員が兼務し、日常的な管理を行っていた。

(4) 新潟港は、戦争が激化し太平洋側の港湾が機能不全に陥る中、その重要性が一層増していったが、新潟港運は、進んで中国人労働者の受入れを求め、それによって枯渇していた労働力の確保が可能となり、会社は大きな利益を受けた。その間の事情については、同社の記録は、以下のとおり率直に総括している(新潟港運株式会社沿革史〔昭和22年10月〕「五、本社業態の推移」より)。

ア 第5期(自19・4・1至19・9・30)

「前期に引続き内外諸情勢の展開と軍需産業の飛躍的拡充に伴う労務の供給難は依然として甚だしく、之が応急対策として、勤報隊員その他の協力を得たるも一時的移動労力の補充にして、当時一定荷役の遂行には多大の困難なるものありたり。幸い、関係当局の斡旋により華人労務者207名の配置を受けたる結果、労務の季節的移行による影響を辛うじて免れ得たるも深刻なる労務不足を切り抜けるには相当なる事情あり之が対策に多大の犠牲を払いたる」

イ 第6期(自19・10・1至20・3・31)

「国内体制の緊迫化に伴い労務資材共に深刻なる供給難にあり之が克服には常に苦心を要するところにして、労務面に於ては関係当局の斡旋により11月及び12月中2回に亘り合計594名の華工を受け入れ、また季節労務の移入により僅かに労務不足を切り抜け得たり」

ウ 第7期(自20・4・1至20・9・30)

「8月15日終戦の大詔渙発せられ此の結果特殊労務の使用は全面的に不可能となり港湾作業は従来の陣容を建直し再出発の余儀なき事態に直面せり」

(5) 以上のとおり、被告会社の前身である新潟港運は、当時、強制連行された中国人労働者の強制労働なくしては成り立たない状況にあったのであり、それがため、国と一体となって、あるいは国策に進んで協力し、原告らを含む多数の中国人労働者を強制労働させて利益を得ていたものである。企業としても、被告国とともに、その不法な強制連行・強制労働について大きな責任を負わねばならないことは明らかである。

4 新潟港運における中国人強制連行・強制労働の実態

(1) 公式統計による強制連行された中国人労働者の数

外務省報告書によれば、新潟に強制連行された原告ら中国人労働者は、1944年(昭和19年)6月17日に到着した第1大隊207人を皮切りに、同年11月17日に第2大隊の第1陣150人、同月19日に同第2陣150人、さらに翌12月20日に第3大隊294人、合計901名に達した。これら中国人労働者は、新潟港運の管理のもと、主に新潟港の臨港埠頭で石炭荷役作業に従事させられたが、中にはさらに直江津港へ移送され、直江津港での荷役作業に従事させられた者もいた。

(2) 強制労働の悲惨な実態

ア 外務省報告書の一部をなす外務省嘱託Uの「華人労務者移入ニ関シ調査メモ」(昭和21年5月1日作成)によれば、新潟華工管理事務所に収容された中国人労働者の死亡者数は159名で、死亡率21パーセントであり、他の事業所に比較してその死亡者数及び死亡率は比較的僅少であったものの、特筆すべき特徴として、<1>移入後相当期間後に死亡者が続出したこと、<2>栄養失調症及びその併発症による死亡者が続出したことを挙げている。この「調査メモ」によれば、中国人労働者の強制労働が始まった1944年(昭和19年)6月から江ノ島丸で全員の帰国が実現した1945年(昭和20年)10月までの間の、病気罹患者数及び死亡者数は次のとおりであった。

〔病気罹患者数〕

栄養失調症 90名

胃腸疾患 261名

角膜潰瘍 242名

夜盲症  321名

合計   905名

〔病死者数〕

栄養失調症     43名

胃腸疾患      12名

呼吸器疾患その他  90名(うち自殺1名)

公傷死       10名

合計       155名

イ 前項の「調査メモ」は、上記死亡者発生の原因を5つ指摘している。

その第1として、死者159名のうち原告ら華北労工協会から供出された中国人労働者が149名を占めたから、「入所当時その体格及び健康の点においていかに劣弱なるかを証明すると共に、入所後の種々の悪条件に対しても又抵抗が弱」いことが重大な原因であると述べている。

第2として、食糧の支給状況につき、主に麺粉に雑穀を混入したものが支給されたものの、1944年末から45年当初にかけての50年ぶりの降雪のため、配給事情が逼迫し、やむなく冷たい握り飯や粗悪な雑穀を入れた麺粉を配給したため下痢患者が続出した。また、副食物及び調味料は余り恵まれず特に野菜の欠乏のためビタミンAが欠乏した。このため、夜盲症や角膜潰瘍、胃腸疾患、栄養失調が続出した。

第3として、衣料その他の支給状況につき、まず衣料はほとんど支給されず、雨天作業から帰ってきても着替えはなく、濡れたものを再度着ていたし、寝具については、各自が持参した毛布1枚と管理事務所が支給した畳及びアンペラ1枚だけであった。さらに、暖房設備については、石炭不足のため全宿舎に2、3のストーブが設置されていただけで、700名に及ぶ中国人労働者に対してはほとんど皆無に近かった。

第4として、医療設備その他につき、嘱託医1名と看護婦1、2名があたったが、薬品等の入手困難や担当医師に対する中国人労働者らの不信・反発があった。

第5として、日本内地は中国大陸に比べ湿度が高く、乾燥地帯出身の中国人労働者の健康に大きな影響を与えた。

(3) 敗戦後の帰国

新潟に強制連行された中国人の多くは、1945年10月9日に新潟港から江ノ島丸で故国へ向かい、同月18日に帰国した。

第4原告らに対する具体的な違法行為と原告らが受けた損害

1 原告B

(1) 拉致・監禁

原告Bは、1921年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、82歳であった。

原告Bは、強制連行当時、祖父母、両親、姉、3人の弟と一緒に河北省鶏澤県要東庄村に住んでいた。

原告Bは、1938年から政府の経営する銀行で会計係の仕事をしていたが、1944年4月15日(旧暦)早朝、河北省企之県四合寨村で銀行の各支店の主任会議を開こうとしたところ、日本軍に包囲され捕えられた。原告Bは、銃をもって村の外へ逃げ出そうとしたが、至るところに日本軍とその傀儡軍がいることがわかり、もう逃げ出せないと思い、銃を畑の中に隠し、その後捕えられた。原告B以外にも10数名が捕まった。

原告Bらは、全員、後ろ手に縛られ数珠つなぎになって、日本軍とその傀儡軍に監視されながら歩かされ、企之県から丘県へ、丘県から館陶へ、さらに衛河を渡り冠県へ、その後再び衛河を渡って尖庄村へ、最後に山東省との境にある臨清県まで、丸4日間歩かされた。どこへ行くとも、何をするとも、聞かされず、飲み水も食べ物もほとんど与えられなかった。4日目の午後2時ころ、臨清県にある傀儡軍の警察署で、ようやく縄をほどかれ、コーリャンの餅子(ビンズ)と杓1杯の水が与えられた。しかしその後、全員、警察署の40数平方メートル程度の広さの部屋に20数日間も閉じ込められた。閉じ込められている間、1日に小さなコーリャンの餅子(ビンズ)1個(50グラム程度)と杓1杯の水が与えられただけであった。何日もしないうちに、連行された人の中から死人が出るようになり、原告Bが知っているだけで2人が死亡した。閉じ込められている間に、警察署の人間が「登録のためだ」と言って、一人一人から名前、出身地、家族、職業などを聞いたが、原告Bは、抗日政府の仕事をしていたことから、名前を「高清珍」、職業を教師と言った。

その後、収容所である新華院に連行されたが、原告Bらは何日も満足な食事を与えられていなかったため、激しく衰弱し護送中に2人が衰弱死し、死亡した者は走るトラックの上から道端に投げ捨てられた。新華院は、刑務所のように周りには高い塀と電流を流した鉄条網が張りめぐらされ、東側の塀の外には100人以上の日本軍が駐屯し、入口には銃を持った日本兵が見張りに立ち、塀の中の建物には日本軍の事務室があった。新華院に着いたばかりのころ、傀儡の労工協会の中国人から、日本に送られ働かされることを聞いた。しかし、どこでどんな仕事をするのか、給料をもらうことができるのかなどという話は全くなかった。原告Bは、教育を受けたことがあるということで幹部チームに配属され、毎日労働訓練を受け、日本語を少し教えられた。新華院での食事は、朝は小さな茶碗1杯のおかゆ、昼と夜は小さな茶碗1杯のコーリャン飯だけで、おかずも塩もなかった。寝泊まりは板張りの小さな部屋に、着の身着のままの状態でゴロ寝であり、着替えもなく捕まった時の服のままであった。毎日のように病気で死ぬ人が出て、死体は建物の外の穴に埋められた。

ある日、脱走に失敗し捕まった者が、見せしめに殺されたことがあった。日本軍の将校らしい軍人が、被収容者全員を日本軍事務室の前に集め、その前で、縄でしばった脱走者を何度も銃剣で刺し、血まみれになった身体を軍用犬に噛みつかせ殺害した。将校は、「見たか。逃げようとする奴は同じ目に遭うぞ。」などと言った。

(2) 事業場への連行

原告Bは、新華院に入れられてから3か月後、汽車で青島へ連行された。新華院を出発する際、原告Bらは全員黄色い服1着と重さ3ないし4斤の綿が入った布団を配られた。300人は100人ずつ3つに分けられ(中隊と呼んだ。)、各中隊はさらに5つの班に分けられた。原告Bは、第2中隊の責任者(中隊長)にされた。

原告Bらは、青島で日本の石炭運搬船に乗せられ港を出発した。原告Bは、甲板の上のテント(日除け)の中で過ごし、台風が来ると船倉内の石炭の上に座らされた。食事は、毎日50グラム程度のトウモロコシ餅子1つだけで、船酔いでそれすら食べられない者も多く、衛生状態も悪く死亡者も出て、死体は海に投げ捨てられた。

10数日の航行後、下関港に着き、全身を消毒させられた後に汽車に乗せられ、新潟まで連行された。

(3) 事業場での住環境等

原告Bが収容された宿舎は、木造2階建であり、建物が口の字型に建てられ中庭があった。原告Bが隊長をしていた第2中隊は南側の建物の2階に収容された。板張りの床の上に藁が少し敷いてある程度で、暖房設備は一切なく、皆がひしめき合って雑魚寝の状態で寝ていた。宿舎のそばには日本の警察官用の建物があり、警察官が常駐していた。

(4) 事業場での労働条件

原告Bは第2中隊の中隊長として、約100人のまとめ役となり、新潟港のいくつかの埠頭で、運搬船から石炭や木材などの荷を埠頭に下ろし、それを手押し車や人力で倉庫に運び入れ、さらに、倉庫内の石炭や木材をトロッコに積み込む作業をさせられた。

労働時間は、朝8時から12時まで働き、現場で昼食を食べた後すぐに仕事を再開し、タ方5時ころまで働かされた。その後宿舎に戻り9時ころに寝た。正月を含め休日は全くなかった。娯楽や息抜きはなく、手紙も書けず、ただ一日中働き、粗末な食事をし、凍える寒さの中で眠るという繰り返しであった。

(5) 事業場での食事

食事は1日3食あったものの、小麦粉で作った2両もない大きさ(こぶしくらいの大きさ)の饅頭(マントウ)1つのみで、中には何も入っておらず、おかずも塩もなかった。あまりにも粗末な食事だったので、外に生えている雑草を食べたこともあった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、新華院で支給された下着、上着、ズボン1枚ずつで、着替えの支給はなく、防寒用の服も一切与えられなかった。寒さが一番厳しかったころ、原告Bが代表として当時の華工管理事務所所長に綿入りの服を支給するよう要求したところ、後になってゴム靴風の地下足袋と麻袋が配られた。原告Bらは、その麻袋を服がわりにした。風呂はなく、せいぜい朝顔を洗う程度であった。

(7) 広島への連行と拷問、冤罪による受刑、原爆の被害

1945年(昭和20年)3月15日、いつものように作業に従事していた原告Bは、突然、日本の警察官に近くの警察署まで連行され、当時広島で逮捕された抗日団体の首領と目される中国人(N)を知っているかと尋問された。原告Bは全く身に覚えがなかったので、知らないと答えると、いきなりベンチに押し倒され押さえつけられたまま、やかん一杯の水を一気に鼻と口に注がれる拷問を受けた。その後、手錠をはめられ列車で広島まで連行され、加計警察署で、その中国人を知っていると認めろ、日本に不満を持っていないか、中国政府の指示で破壊工作をしたのではないか、と尋問を受けた。原告Bは身に覚えがなかったので否定し続けたが、警察官は、原告Bを正座させ、股の内側に棒を挟み込み強く踏みつけたり、サーベルを抜いて原告Bの右手をテーブルの上に置き斬るしぐさをするなどの拷問を繰り返した。原告Bは、警察署で20数日間拷問を受け、自白を強要され続けたが、その間食事は1食(おにぎり1個)だけであった。

結局、原告Bは、広島の裁判所で4年の懲役刑を受け、広島刑務所に入れられ、Nともう一人の中国人も同じ裁判を受けて広島刑務所に収容されたが、そこでNが拷問に耐えきれず、原告Bが仲間であるとの嘘の自白をしていたことが判明した。広島刑務所では毎日封筒つくりの作業をさせられた。食事は1日3食であったが、1食おにぎり1個だけであった。原告Bは、広島刑務所に収監されていた1945年8月、アメリカ軍が落とした原爆で被爆した。広島刑務所は、爆心からわずか2キロメートルのところにあり、強い爆風で刑務所の建物は倒壊し、収容者の中にも死者が出た。

(8) 日本の敗戦による釈放と祖国への帰還

原告Bは、敗戦後もしばらく山口県の刑務所に収容されたままであったが、1945年9月再び広島刑務所に移され、そこで釈放された。原告Bは、他の2人の中国人とともに、汽車で広島から下関まで行き、アメリカ軍の指示で下関から船で対馬を経由して朝鮮半島に渡り、汽車や徒歩で朝鮮半島を渡り、そこから中国へ入り、安東、瀋陽、錦州、山海関、さらに天津、滄州へ渡った。その後20数日かかって歩き、ようやく故郷に戻った。

帰国後、原告Bは以前の会計部門の仕事につき、1949年に河北省から湖南省へ移り、中華人民共和国建国後も引き続き財政部門の仕事をした。しかし、体調が思わしくなく、1979年、58才で現役を引退せざるを得ず、現在まで自宅療養を続けてきた。

被爆直後から頭がぼんやりし、記憶力が著しく減退した。得意であったはずの数字の計算やそろばんが思うように出来なくなり、帰国後仕事に復帰してもしばらく会計部門ではなく行政関連のポストに回され、めまいや記憶力の減退はその後も続いた。1950年代から胃痛で食欲不振や不眠が続き、体重は40キログラムしかなく、1974年には重症の胃潰瘍と診断され、胃の3分の2を切り取った。また、1950年代から肺結核と肺気腫の治療を受け、1960年初頭に吐血し3か月入院した。また、慢性の気管支炎を患い、気胸の治療で1990年2月から同年10月まで入院した。現在では肺機能は普通の人の10分の1以下である。さらに、極端に白血球が少なく、医者からも「白血病にかかったことがあるか」と何度も聞かれ、その他、胆石、腎臓結石、肝臓肥大、心臓病、低血圧症などが慢性化し、1993年6月には胆石と結腸癌の手術を受け、1994年3月には冠状動脈硬化症の治療のため入院した。

このような度重なる病気治療のため、公費負担による治療だけでは追いつかず、自費で薬や栄養食品を購入せざるを得ず、給料のほとんどがその費用に回され、また入院だけでなく病気療養のため1年の半分以上休職する年が何回もあり、原告Bの一家は経済的に大変な苦しみを味わった。

原告Bは、2002年(平成14年)12月21日から長沙市第三医院に入院している。

2 原告C

(1) 拉致・監禁

原告Cは、1924年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、79歳であった。

原告Cは、20歳過ぎのころに強制連行されたが、当時、河南省原陽県葛埠口郷安庄村に住んでいた。原告Cは、当時、父母、弟2人とともに、農業を営んでいた。

原告Cは、国民党が原陽県に組織した抗日挺身隊第6支部に参加していたが、同支部は、戦場に出ていく前に、日本軍に投降したため、日本軍の指揮下におかれていたところ、1944年7月ころに日本人によって拉致され、列車で収容所である新華院まで連行された。新華院の建物は大きく、通電している鉄条網が張り巡らされた塀で囲まれていた。塀の中の広い敷地には、日本人が銃剣を持ち、番犬を連れて警備をしていたので、そこから脱出することは不可能であった。原告Cは、新華院で訓練を受けていたが、自由な時間は全くなく、トイレに行くときも日本人の許可を得て行かなければならない状況であった。食事は1日3食であったが、朝は粟粥2椀、昼は粟粥1椀、夜は粟粥2椀出たが少量であり、空腹で耐えられなくなることもしばしばであった。新華院での生活は悲惨であり、原告Cは、新華院での屈辱的な生活で気持ちが落ち込み、もう長くは生きられないだろうと思っていたほどである。原告Cは、新華院に収容されてから2か月後、出港地である青島まで連行されたが、行き先は全く知らされなかった。

(2) 事業場への連行

原告Cは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられ、石炭の満載された船倉に押し込められた。船に乗るときも、両側を軍犬のシェパードを連れた日本兵が囲んでいたので、逃げることができなかった。9日間ほどかかったが、その間、一度として満足に食事を取れたことはなく、トウモロコシの粉をお湯で溶いたものが与えられただけであった。日本の下関に着くと、全身を消毒させられた後に、汽車に乗せられ、新潟まで連行された。

(3) 事業場での住環境等

原告Cは、木造の2階建ての建物の2階で寝泊まりしていた。夜は、床にワラと麻袋を敷いて寝ていたが、冬はとても寒く耐え難いものであった。建物の周囲には鉄条網はなかったが、常に警察が見張っていた。原告Cと同じ隊の6名の中国人労働者が脱走をしたが、しばらくすると日本人に捕まえられて戻ってきた。

(4) 事業場での労働条件

原告Cは、貨物船からの荷下ろし、列車への積み込み等の作業をさせられたが、毎日、朝食後すぐに現場へ連れて行かれ、夜暗くなるまで働かされた。仕事が残っているときは残業で遅くまで働かされることも多かった。原告Cは、作業をしているときに日本人の現場監督から数多くの暴行を受けた。

現在も、当時の暴行を受けたときの傷跡が残っており(<証拠略>)、その残虐性を物語っている。

このように、日本人の現場監督は、何か気に入らないことを見つけると、中国人労働者を殴ったり罵ったりしており、原告Cも数え切れない程の暴力を受けた。

(5) 事業場での食事

食事は、非常に粗末なものであり、毎食、小さなマントウが2つ与えられただけであり、満腹にはほど遠いものであった。多くの人が栄養失調によって眼病を患い、失明する人もいたほどであった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、麻袋が支給されただけで、それ以外に作業服等は一切支給されなかった。冬でも同じ格好で働かされた。したがって、冬は寒くても麻袋を身にまとって働くほかなかった。手袋も足袋も支給されず、わずかにワラで作った履物が支給されただけであったが、それが破れると裸足で作業をしなければならなかった。風呂には全く入れず、そのため原告Cは体中にシラミがわき、痒さに悩まされた。日本人は、そのような原告Cら中国人を見て「汚い」という感情を表すように鼻に手をやったりしていた。医務室はあったが、原告Cは、体の具合が悪くても医者に診てもらわないようにしていた。それは、医者から診てもらったり、注射をしてもらったりすると、すぐに死ぬと言われていたからである。

(7) 帰国及びその後

原告Cは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

原告Cは中国に帰ってからも、日本で強制労働をさせられたということで、文化大革命のときに中国の社会で差別を受けた。

3 原告D

(1) 拉致・監禁

原告Dは、1923年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、79歳であった。

原告Dは、強制連行当時は、実家のあった河南省新郷県七里営鎮小張庄村を離れ、原陽県城で物乞いをして生活していた。原告Dの家族は、もともと農業で生計を立てていたが、日照り等で3年間全く収穫ができなくなり、やむなく物乞いをせざるを得なくなっていた。

原告Dは、原陽の駅の近くで日本兵に拉致され、列車に乗せられ収容所である新華院に連行された。新華院は、レンガ造りの建物と広い庭があり、周りは高い塀に囲まれ、その塀の上には鉄線が張り巡らされていた。出入口には日本兵が歩哨に立っており、逃げることはできなかった。新華院では多くの人が暴力を受けていたが、原告Dも何度も殴られた。駆け足をしたときに転倒すると殴られ、トイレに行って帰ってくるのが1分でも遅くなると殴られるという状況であった。新華院から逃げようとして捕まった者がいたが、皆の前で柱に縛りつけられて、2人の日本兵が銃剣で刺し、犬をけしかけてかみつかせるという非常に残酷な行為をしていた。

原告Dは、新華院に1か月間収容された後、貨物列車で青島まで連行された。

(2) 事業場への連行

原告Dは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられた。原告Dは船倉に収容され、横になっていたが、船酔いが酷く、トウモロコシの粉で作ったマントウ、玉葱を与えられたものの食事はのどを通らなかった。原告Dの乗った貨物船は、日本の下関に着くまで10日ほどかかった。下関についてから、全身を消毒させられ、その後、列車で新潟まで連行された。

(3) 事業場での住環境等

原告Dは木造2階建ての宿舎に収容された。宿舎には、まともな寝具はなく、板床の上にワラを敷いて寝ていた。また風呂にも全く入れなかった。行動の自由はなく、常に監視されている状況で、トイレに行く場合も許可を得なければならなかった。

(4) 事業場での労働条件

原告Dは、新潟に到着した次の日から働かされた。朝から晩まで働かされ、仕事が終わらないときは深夜まで働かされた。休日も全く与えられなかった。原告Dは、もっぱら臨港埠頭で荷物を列車に積み込む作業をさせられた。主に石炭を天秤棒で担いで運ぶ仕事であった。貨物列車に渡した狭い木の板の上を天秤を担いで列車に積み込む作業であったが、幅の狭い板から転落するおそれのある非常に危険な仕事であった。原告Dは何度も転落したが、低い位置からの転落だったので大事には至らなかったが、高い位置から転落して大けがをした仲間もいた。仕事の最中に日本人の現場監督から暴力を受けることが頻繁にあった。原告Dも、何度も殴られた。原告Dは、特に人を殴ることが多かったLという日本人の現場監督を覚えており、そのLに頻繁に殴られていた。

(5) 事業場での食事

食事は1日3食であったが、マントウ2個を与えられただけであった。空腹で眠れないときもあり、栄養不足で病気になった者が多く出た。特に目の病気に罹った者が多く、原告Dも目の病気に罹った。栄養失調により多くの中国人が死亡したが、原告Dの隣で寝ていたPという中国人も栄養失調により死亡した。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、麻袋が支給されただけで、それ以外に作業服等は一切支給されなかった。冬でも同じ格好で働かされた。非人間的な労働と生活を強制された結果、多くの人が病気になったが、病気になっても働かされた。働けなくなったときは、死を意味していた。原告Dは、作業が終わってからも仲間と話することもあまりなかった。原告Dを含めて当時の仲間は、家にいつ帰れるかも分からない、毎日殴られて、酷い待遇を受けて、死を待つばかりという絶望的な気持ちになっていたからである。

(7) 帰国及びその後

原告Dは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

原告Dは、中国に帰国後も、日本で働いていたということで周りから差別の目で見られ、厳しい非難にさらされた。

4 原告E

(1) 拉致・監禁

原告Eは、1924年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、79歳であった。

原告Eは、20歳のときに強制連行されたが、当時、河南省原陽県包場郷包北村に住んでいた。

原告Eの家族は、当時父母、弟、妹2人であった。原告Eは、国民党第6支隊の兵士であったが、訓練中に日本軍に拉致され、収容所の新華院まで連行された。新華院は、高い塀で囲まれ、電気鉄条網が張り巡らされていて、逃げることはできなかった。便所に行くときも監視員の許可が必要で、便所からの戻りが少しでも遅いと日本人の監督から捧で殴られるなど行動の自由は完全に奪われていた。新華院では体操をさせられたが、劣悪な環境の影響で多くの中国人が死亡し、死体をリヤカーで運び出すほどであった。

原告Eは、新華院に収容されてから1か月後、出港地である青島まで連行されたが、行き先は全く知らされなかった。

(2) 事業場への連行

原告Eは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられ、石炭の満載された船倉に押し込められた。日本の下関に着くまで10日間かかり、その間食事は満足に与えられず、毎回の食事はトウモロコシの粉とニンニク1個というものであった。船倉に200人くらい詰め込まれ、換気も極めて悪く、衛生状態は劣悪であった。

(3) 事業場での住環境等

原告Eが新潟で収容された宿舎は、木造2階建ての建物で、仕切のない板敷きであった。暖房はなく、冬は寒さに震えていた。原告Eらはお互いに身を寄せ合わなければ寝ることができないような状態であった。

(4) 事業場での労働条件

原告Eは、貨物船から石炭などを下ろし、それを列車に積み込んだりする作業をさせられたが、朝早くから夜暗くなるまで1日10時間以上働かされ、残業で深夜まで働かされたことが頻繁にあった。休日は全く与えられず、家畜のような扱いであった。石炭の詰まった重さ50キログラムもある大きなかごを竹の天秤で担いで板の上を歩き、列車まで運ばされたり、100キログラム近い重さの麻袋に入った大豆を背中に載せて運ばされたりした。また、仕事で少しでもミスをすると木刀で殴られるなどの暴力を受けた。作業中に怪我をしても休ませてもらえなかった。原告Eは、紙のロールを足に落とし、足の甲を怪我したが、働かされ続けた。

(5) 事業場での食事

原告Eに与えられた食事は、非常に粗末なものであった。質の悪い何かの粉で作ったマントウを与えられただけであった。1日3回、1回あたりマントウが2個与えられただけであった。マントウの中には、どんぐりの粉で作ったものがあったが、それを食べると必ず腹痛を起こした。食べないと空腹で耐えられないし、食べれば腹痛を起こすという極限の状況におかれていた。多くの人が栄養失調で死亡したり、病気になったりした。劣悪な食事と過酷な労働に耐えられず、脱走を試みた中国人がいたほどであった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、麻袋が支給されただけで、それ以外に作業服等は一切支給されなかった。冬でも同じ格好で働かされた。毎日の労働で疲労困憊であったが、風呂にも全く入れなかった。港湾での労働は長時間かつ危険な作業であり、事故も多発していた。しかし、診療所に医者はいたものの満足な治療はしてもらえなかった。前述したように原告Eも紙のロールを足に落とし怪我をしたが、赤チンを塗っただけで働かされた。

(7) 帰国及びその後

原告Eは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。新潟で怪我をした足の甲が今でも痛み、新潟で人間扱いされなかったことに深く傷つき、今でもその心の傷は癒されていない。

5 原告F

(1) 拉致・監禁

原告Fは、1923年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、79歳であった。

原告Fは、連行された当時、義軍の第6中隊(日本軍の傀儡軍)に所属していた。原告Fの家族は、弟と2人の妹だけであり、河南省新郷県七里郷南廟庄に住んでいた。

原告Fは、日本軍に拉致され、収容所である新華院まで連行された。新華院は、周りが高い塀で囲まれ、塀の外には壕があり、高い塀の上には電気鉄条網が張り巡らされていた。出入口には銃を持った日本兵が見張っており、逃げることはできない状況であった。新華院にいる間、体操、駆け足などをさせられ、行動の自由はなく、トイレへ行くときも報告をしなければならなかった。太い棒を持って日本兵が見回りに歩いており、寝ているときに少し身を起こしたり、寝返りをしたりしただけで殴られるような状況であった。新華院では、毎日3人から5人の中国人が死亡し、運び出されていた。

原告Fは、2か月くらい新華院に収容された後、出港地である青島まで連行された。

(2) 事業場への連行

原告Fは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられ、鉱石の積まれた船倉に押し込められた。原告Fの乗った貨物船は、日本の門司に到着し、そこで体を消毒させられた後、列車に乗せられ新潟に連行された。

(3) 事業場での住環境等

原告Fは、2階建ての木造の宿舎に収容された。宿舎には暖房も寝具もなく、板の間にワラが敷いてあるだけであり、寝るときにはお互いに体を寄せ合って一緒になって寝なければ耐えられないほどの寒さであった。

(4) 事業場での労働条件

原告Fは、貨物船から大きな鉄のかたまり、穀物などを下ろし、それを列車に積み込んだりする作業をさせられたが、夜が明けると起こされ、朝食後すぐに作業に出掛け、夜遅くなるまで作業をさせられた。休憩時間もなく、昼食を取ったらすぐ働かなければならなかった。原告Fは、1人では抱えられないほどの重さの麻袋を、別の2人に後ろから持ち上げて背中に載せてもらい、腰をかがめたまま運んでいたが、ふらふらしたりすると、監督から棒で殴られた。また、少し仕事の手を休めたり、立ち止まったりしていても棒で殴られた。過酷な労働作業をさせられた結果、作業中に怪我をする者も多く、原告Fは、作業中に列車に轢かれて死亡した現場を目撃している。

(5) 事業場での食事

原告Fに与えられた食事は、非常に粗末なものであった。何かの粉で作ったマントウを1日3回、1回あたり2個(1個は50グラムから100グラム)与えられただけであった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

原告Fの服装は、麻袋と綿が全部抜け落ちてあわせの2枚の布だけが付いているようなものだけであり、到底新潟の冬の寒さに耐えられるものではなかった。原告Fは、支給された麻袋を体に巻き付けて作業をしていた(<証拠略>)。靴は支給されず、ワラを編むことができる人は自分で靴のようなものを作っていたが、できない人は麻袋の切れ端を巻き付けていた。

(7) 帰国及びその後

原告Fは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

6 原告G

(1) 拉致・監禁

原告Gは、1927年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、76歳であった。

原告Gは、17歳のときに強制連行されたが、当時、山東省平原県張老虎村に住んでいた。原告Gの家族は、農業で生計を立てており、当時は父母、妻とともに生活していた。

原告Gは、農業の手伝いをしていたが、姉の嫁ぎ先の畑で仕事をしていたときに、日本軍に包囲され、その後、後ろ手に縛りあげられて、銃を持った日本兵が監視をする中、数珠つなぎのような格好で一列になって歩かされ、列車に乗せられ、収容所である新華院まで連行された。新華院は、レンガ造りの建物で、宿舎と周囲を囲む塀との間には鉄条網が張り巡らされ、高い塀の上には電気鉄条網が設置されていた。出入口には日本兵が歩哨に立っており、逃げることはできなかった。新華院では、病気や暴行によって多くの人が死亡した。原告Gも日本兵から暴行を受けた。暴行を受けたり、病気などで多くの人が死亡し、毎日のように死体が運ばれていた。

原告Gは、新華院に収容されてから1か月後、済南から出港地である青島まで日本兵の監視のもとで列車で連行された。

(2) 事業場への連行

原告Gは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられ、鉱石の満載された船倉に押し込められた。船倉には通風口が一つしかなく、換気が極めて悪く、衛生状態も最悪だった。食事も1日2食であり、多くの中国人が航行中に病気、衰弱により死亡した。原告Gと同じ船室にいた膠東出身のO(日本側資料ではO1)も死亡し、原告Gは、Oの死体が布団にくるまれて海の中に投げ捨てられるのを現認した。原告Gの乗った貨物船は、日本の下関に着くまで24日間かかった。

下関についてから、全身を消毒させられ、その後、列車で新潟まで連行された。

(3) 事業場での住環境等

新潟では木造2階建ての宿舎の2階に収容された。宿舎には、まともな寝具はなく、板床の上に麻袋を敷いて寝ていた。暖房はなく、冬の衣服も支給されなかった。雪や雨に濡れても着替えはなく、濡れた服のまま翌日も働かされた。原告Gが新潟に着いたころには、線路に雪が積もっているような状況であり原告Gの故郷よりもはるかに寒く、しかも満足な衣服を身に付けることができないままで働かされた。また、風呂には全く入れなかった。夏に臨港の海で体を洗うことはあったが、宿舎の風呂に入ったことは一切なかった。

(4) 事業場での労働条件

原告Gは、朝7時か8時ころから現場で仕事を始め、10時間以上働かされた。時間は決まっておらず、船の入港に合わせて仕事をするので、残業もあり、徹夜をさせられることもあった。決まった休憩時間はなく、休日もほとんどなかった。原告Gは、もっぱら臨港埠頭での貨物船からの石炭の積み下ろし作業をさせられた。途中で10日間くらい日満埠頭で、みかんや大豆、魚を倉庫から汽車に積み込む作業をした。仕事の最中に日本人の現場監督から暴行を受けることが頻繁にあった。原告Gは、裸足同然の格好で野外で作業をしていたことから、まもなく足に酷い炎症を起こし、腫れ上がった。そのとき、医務室に行き、医師の診察を受けた。医師は膿を出す治療をしてくれたが、治療が終わり這ってしか動けない原告Gに対し、「早く出ていけ」と聴診器で頭をたたき罵った。

(5) 事業場での食事

食事は1日3食であったが、米ぬかやドングリの粉を練って作ったマントウ2個を与えられただけであった。マントウは、1つあたり100グラム程度の大きさであり、おかずはなく(新潟に着いた当初の頃は、大根の葉っぱ等が少しあったりしたが、しばらくすると一切なくなった)、とても過酷な労働に耐えうるような食事ではなく、栄養失調により多くの中国人が夜盲症に罹り、死亡者も出た。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、麻袋が支給されただけで、それ以外に作業服等は一切支給されなかった。冬でも同じ格好で働かされた。毎日の労働で疲労困憊であったが、風呂にも全く入れなかった。満足な食事も睡眠も与えられず、重労働を強いられたため、仕事中に怪我をした人も少なくなく、死亡した人もいた。

(7) 帰国及びその後

原告Gは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

原告Gが日本政府と企業に賠償を求めることができるのを知ったのは、1999年秋ころ、山東省平原県で強制連行・強制労働の事実を調査する活動が行われたという話を聞いてからであった。原告Gは、日本で日本人のために労働していたのに人間扱いされなかったことに深く傷ついた。

7 原告H

(1) 拉致・監禁

原告Hは、1923年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、79歳であった。

原告Hは拉致された当時、河南省原陽県新堂郷石仏村で、父母、姉2人、妹2人、弟夫婦と一緒に生活していた。

原告Hは、当時、農業と医者の仕事をしていたが、それと同時に国民党の第6部隊(遊撃部隊)の小隊長をしていた。原告Hの部隊は、日本との戦闘に敗れ、日本軍の支配下におかれ、その後、原告Hは日本軍に拉致され収容所である新華院に連行された。新華院の周囲には高さ3メートル以上の壁があって、更に壁の上に高さ1メートルくらいの電気の鉄条網があった。原告Hの新華院での行動は、朝起床ラッパで起床し、体操、朝食、講義、昼食、体操、講義、夕食、就寝という内容であった。他の仲間と自由に話すこともできず、行動一切全てが不自由であった。トイレに行くのにも許可が必要で、トイレに入っているときも監視されていた。食事は少量の粟と野菜のスープ又はお粥であった。

原告Hは、新華院に50日くらい収容された後、列車で青島まで連行された。列車の窓は鉄錠で閉められ、日本軍が厳重に警備をしていた。

(2) 事業場への連行

原告Hは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられ、石炭の積載された船倉に押し込められた。原告Hの乗った貨物船は1週間後、日本の下関に到着した。

(3) 事業場での住環境等

新潟では木造2階建ての宿舎の2階に収容された。宿舎には、暖房はなく、まともな寝具もなかった。板床の上にワラが敷いてあり、その上に寝ていた。冬は、寒さに耐えられず、お互いに身を寄せ合って、お互いのぬくもりを取り合って何とかしのいでいた。風呂に入ることはできなかった。ただ、しらみがわいたので、しらみを退治し、皮膚病を治すための特別の風呂に入ったことはあったが、温かい湯船に浸かって休めるというものではなかった。

(4) 事業場での労働条件

原告Hは、夜が明けるとともに起こされて、朝食を取ってすぐに現場に連れていかれ、夜は暗くなってから帰ってくるような状況であった。船の入港に合わせて仕事をするので、残業をさせられることもあった。決まった休憩時間はなく、休日もほとんどなかった。原告Hは、主に日本人からの指示を伝えるという仕事をした。現場に出て、他の中国人労働者のところをまわっていた。港に仕事がなければ、倉庫などでの仕事もさせられた。また、原告Hは他の者の不満を代弁して管理事務所と交渉する役割であったが、食事、風呂、衣服について、改善するよう何度も交渉したが、全く何もしてもらえなかった。原告Hは、日本人監督が仲間に暴力を振るう場面を数多く目撃し、暴力を止めるよう何度も要求したが、暴力が収まることはなかった。管理事務所にQという日本人医師がいたが、収容者を適切に診察せず、逆に患者に暴力を振るうような医師であった。

(5) 事業場での食事

食事は1日3食であったが、1食あたり、1つ100グラムにもならない位のマントウ2個であった。とても過酷な労働に耐えうるような食事ではなく、栄養失調により多くの中国人が目を悪くし、死亡者が続出した。原告Hは、食事についても改善するよう要求したが、全く改善されなかった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、麻袋が支給されただけで、それ以外に作業服等は一切支給されなかった。冬でも同じ格好で働かされた。靴も支給されなかった。原告Hは何度も服や靴を支給するよう要望したが、全く受け入れてもらえなかった。

(7) 帰国及びその後

原告Hは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

原告Hは中国に帰ってからも、日本で強制労働をさせられたことを理由として、中国の社会で差別を受けた。

8 A

(1) 拉致・監禁

Aは、1927年○月○日(旧暦)、山東省長清県張夏鎮杜庄村で出生したが、2000年○月○日(西暦)、脳出血で死亡した。

Aは、15歳のときに長清県から山東省済南市にある印刷所で3年間修行をした後、同市にある公興号印刷彫刻局に入り、植字の作業員となった。当時、Aの母は死亡していたが、父は生きており、2人の兄と2人の兄嫁、1人の姉と1人の弟と妹が故郷にいて農業をやっていた。

1944年6月のある夜、当時勤めていた印刷彫刻局で日本軍によって捕まえられた。紐で縛られ、トラックの中に投げ込まれ、日本憲兵隊看守所に連行された。同所で40日あまり監禁されたが、食事はカビの生えたご飯が茶碗半分出ただけで、水も満足に飲ませてもらえなかった。Aは、そこで仲間が拷問を受けるのを見た。水と唐辛子の汁を口に注ぎ込まれたり、拷問ベンチを掛けられたりして、気絶する人を見た。その後、収容所である新華院に連行された。新華院では、仕事はさせられなかったが、庭で駆け足をしたり、訓話を受けたりした。日本人からは、「おまえらは自分の家族のことをすべて忘れ、自分が死んだように考えなさい」と言われた。新華院は、電気の通った鉄条網が設けられ、出入口には銃を持った兵隊が立っていた。新華院では日常的に暴力行為が行われていた。毎日のように死亡者が出ており、人力車を使って死人を運び出していた。

Aは、新華院に100日ほど収容されてから、出港地である青島まで連行された。

(2) 事業場への連行

Aは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられたが、どこに行くのか、何をするのか等について何も説明がなかった。Aの乗った貨物船は、23日かかって下関に着いたが、その間、食事はトウモロコシ粉で作った糊状の食べ物しか与えられず、船の通風口が小さく衛生状態も悪かったことから、何人かの中国人が死亡した。日本人は、死体を石と一緒に縛って海に投げ込んだ。

下関に到着後、体を消毒させられ、その後列車に乗せられ新潟に連行された。

(3) 事業場での住環境等

Aは2階建ての木造の宿舎に収容された。暖房の設備もなく、寝床の上にワラが敷いてあるだけであった。

(4) 事業場での労働条件

Aは、新潟に到着した翌日から仕事をさせられたが、毎日、朝から1日10数時間の労働をさせられた。最初の仕事は、道路と鉄道の上の雪を除雪することだったが、1か月後に埠頭で貨物の績み下ろし作業をさせられた。仕事は重労働で、主に石炭、鉱石、食料の荷下ろし作業であった。休日はなかった。作業中には、日本人の職長が棍棒を持って監視し、よく殴ったりした。安全保護の措置もあまり取られず、仕事のときにクレーンの先に触れて海に落ちて溺死する事故もあったが、Aも、仕事が終わって縄の吊り橋から上陸しようとしたとき、疲れのあまりに海の中に落下した。幸い仲間から救助されて、大事には至らなかった。

(5) 事業場での食事

食事は、非常に粗末なものであった。毎食ドングリの粉で作った100グラムのマントウ2つだけで、たまに大根葉の漬け物があった程度であった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は与えられず、麻袋2枚が支給されただけであった。宿舎に診療所があったが、そこの医者は悪くて評判であった。病気で医者に診てもらうと、その医者は必ず患者に何かの薬を注射するが、注射を受けた人は死ぬといわれていた。したがって、中国人は病気になるのを恐れていた。また、重病の中国人は、直接職長によって「死人小屋」の中に運びこまれ、水も食事もあたえずに死を待つしかない状態におかれた。死者が増えると一緒に火葬された。

(7) 帰国及びその後

Aは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

Aは、日本で迫害されたときのショックのため、脳の神経が侵されたのか具合の悪い日々に悩まされた。

Aは、日本政府と企業に対して、強く謝罪と損害賠償を求めていたが、提訴間近の2000年○月○日、脳出血のため死亡した。

9 原告I

(1) 拉致・監禁

原告Iは、1927年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、75歳であった。

原告Iは、20歳のときに強制連行されたが、当時、山東省莱蕪市莱城区方下鎮土楼村に住んでいた。原告Iの家族は、当時父母、祖母の4人であった。

原告Iは、17歳のときに、日本軍に拉致され、収容所の新華院まで連行された。新華院に連行される途中で、3か所監獄のようなところで身柄を拘束され、鞭で打たれたり、棒で殴られたりするなどの暴行を受けた。いずれの監獄も、銃剣を持った見張りが付いていて逃げることが不可能であった。新華院は、周りに壕があり、高い塀で囲まれた場所であり、電気鉄条網が張り巡らされていた。出入口には銃を持った日本兵が見張っており、逃げることはできない状況であった。新華院にいる間、体操、駆け足などをさせられた。満足な食事が与えられなかったので、多くの中国人が死亡した。毎日のように死亡者が出て、1日に数人の死亡者がでることもあった。医者もいないので、重い病気にかかった者はほとんど死んでいった。

原告Iは、新華院に7ないし8日間収容されてから、出港地である青島まで連行された。

(2) 事業場への連行

原告Iは、新華院から出港地である青島まで列車で連行され、青島で強制的に貨物船に乗船させられ、鉱石の積まれた船倉に押し込められた。原告Iの乗った貨物船は、アメリカの潜水艦と飛行機の襲撃で、航海日数が長期化した。冷たく湿った船倉の中に数十日も閉じこめられ、体力が弱り死亡者も出た。原告Iの知っている限りでも2人死亡し、死体は海に投げられた。食事は毎日トウモロコシの粉のお粥だけであり、換気も極めて悪く、衛生状態が劣悪であったため、多くの中国人が疥癬にかかった。原告Iも疥癬にかかった。1か月以上航海し、ようやく下関についたが、そこで体を消毒させられた後、列車に乗せられ新潟に連行された。

(3) 事業場での住環境等

原告Iら中国人労働者は、2階建ての木造の宿舎に収容された。原告Iが新潟に着いたとき、雪が積もっている状態であり、新潟に着いた当初は港で雪かきをさせられた。宿舎に暖房はなく、寝るときにはお互いに体を寄せ合って一緒になって寝なければ耐えられないほどの寒さであった。

(4) 事業場での労働条件

原告Iは、貨物船から石炭などを下ろし、それを列車に積み込んだりする作業をさせられたが、朝暗いうちに起きて作業に出掛け、夜遅くなるまで作業をさせられた。休憩時間もなく、昼食を取ったらすぐ働かなければならなかった。原告Iは、大豆の詰まった重さ70キログラム以上の麻袋を担がされたり、船の中で、もっこの中にスコップで石炭を入れ、岸壁の上では、スコップを使って石炭をコンベヤーに載せる作業をさせられた(<証拠略>)。過酷な労働作業をさせられた結果、作業中に怪我をする者も多く、原告Iも、石炭の荷下ろしをしているときに、もっこが右足にあたり、何針も縫う大けがをした(<証拠略>)。

(5) 事業場での食事

原告Iに与えられた食事は、非常に粗末なものであった。ドングリの粉で作ったウオトウを1日3回与えられるだけであった。ウオトウを食べるとほとんどの人がお腹を壊していた。このような栄養状態で多くの人が病気になり、死亡していった。死に至らなくても栄養不足が原因でほとんどの中国人が病気になっていた。原告Iと同じ班のVも飢えに耐えきれず、拾ったものを食べ、体を壊して死亡した。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

原告Iの服装は、綿が全部抜け落ちてあわせの布2枚だけが付いているようなものであり、到底新潟の冬の寒さに耐えられるものではなかった。新潟華工管理事務所から支給されたのは、1人3枚の麻袋だけであった。一方日本人の監督は、暖かそうな服を着て、帽子も被っていた。暖かくなってから地下足袋が支給されたが、冬の間は麻袋の切れ端を足に巻き付けたりするだけで作業をしなければならなかった。風呂には入れなかったことから、のみ、しらみが大量に発生した。

(7) 帰国及びその後

原告Iは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

原告Iは、中国に戻ってからも、日本で働かされていたことで様々なつらい目に遭っている。

原告Iは、新潟で働かされているとき、祖国にいる家族のことをずっと考えていたが、特に結婚したばかりの妻とも引き離され、深い悲しみの中で毎日を過ごしていた。

10 原告J

(1) 拉致・監禁

原告Jは、1918年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、84歳であった。

原告Jは、27歳のときに強制連行されたが、当時、山東省新泰市谷里郷立庄村に住んでいた。原告Jの家族は、当時父母、妻、生まれて間もない子供1人の5人であった。

原告Jは、1944年9月のある晩、7、8人の日本兵に銃剣を突きつけられ拉致された。その後、何か所かで監禁された後、泰安の拘留所に連れて行かれ、そこで10日間監禁された。監禁されている間、食事はほとんど与えられず、水もごく僅かしか飲むことができなかった。原告Jが水を飲もうとすると、日本人が木刀で頭を殴り飲ませないようにしていた。原告Jは、泰安で監禁された後、新華院に連行された。新華院は、高い赤いレンガの塀に囲まれ、塀の上には電気鉄条網があり、出入口には鉄線網があって、日本兵が見張りをしていた。

新華院では、ボロボロの衣服を着せられ、部屋では話し合うことも禁止され、朝起きると集合して駆け足をさせられた。ある日、日本人が通訳を通じて原告Jらを日本に行かせると告げたが、日本で何をさせられるのかについては何の説明もなかった。

(2) 事業場への連行

原告Jは縛られて監視されたまま、列車に乗せられ、青島に連れて行かれた。青島で貨物船に乗せられ、船倉に積まれた鉱石の上に寝かせられた。船倉の中は冷たく湿っていて多くの人が疥癬にかかった。劣悪な衛生状態の中、死亡した者も少なくなく、1日で3人もの死者が出たこともあった。食事はお粥だけであり、1日2食で1食2杯であった。20日余りの航行の後、門司についたが、そこで体を消毒させられた後、列車に乗せられ新潟に連行された。

(3) 事業場での住環境等

原告Jは、2階建ての木造の宿舎に収容された。宿舎には暖房がないだけでなく、布団もなく、ワラが敷かれただけの板の上に寝かされた。

(4) 事業場での労働条件

原告Jは、最初雪かきの仕事をさせられた後、貨物船の荷下ろしの作業をさせられた。荷物は石炭であり、スコップで石炭をネットの上に載せる作業をさせられた。早朝から夜暗くなるまで働かされ、休みもなかった。日本人の監督から暴力を受けるのは日常茶飯事であり、原告Jも数多くの暴行・暴言を受けた。過酷な労働作業をさせられた結果、作業中に怪我をする者も多く、原告Jも雪の中、手袋もつけずに長時間雪かきをさせられたり、石炭の荷下ろしのときにずっとスコップを持ったまま作業させられたことから、右手の中指が曲がったままになってしまった(<証拠略>)。また、過酷な労働に耐えきれず、自殺を図った者もいた。

(5) 事業場での食事

食事は、非常に粗末なものであった。ぬか、ドングリの粉で作ったウオトウを1日3回、1回に2個与えられるだけであった。粗末な食事しか与えられなかったため、作業中にふらふらになるような状況であったが、仕事をしていないと日本人の監督に殴られるため、仕事を続けなければならなかった。

(6) 事業場における衣服その他衛生状態

原告Jは、新華院で支給された綿入れを着ていたが、新潟に来たころには、中の綿が抜け落ちて2枚の布だけになっていた。新潟では服、防寒具等は一切支給されず、破れた麻袋が支給されただけであった。また、靴の支給もなかったため、麻袋の切れ端を足に巻き付けて作業をしていた。原告Jは靴を履かずに厳冬の中作業をさせられたことから、凍傷にかかり、そのときの後遺症が現在も残っている(<証拠略>)。劣悪な食事と過酷な労働により多くの中国人が目の病気、皮膚病等の病気になり、死亡した。

(7) 帰国及びその後

原告Jは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、新潟で過酷な労働を強いられたことの悔しさ、恨みは消えることがなかった。

11 原告K

(1) 新潟への連行

原告Kは、1926年○月○日(旧暦)生まれで、本件口頭弁論終結当時、76歳であった。

原告Kは、1943年4月頃(旧暦)、父、母、4人の兄、2人の兄嫁、姉1人、妹1人、2人の姪とともに生活していたが、家が貧乏であったことから、青島に出稼ぎに出ることになった。

原告Kは、日本で働けば給料をもらえるという話に騙され、日本人に連行された。青島で貨物船に乗せられ、船倉に押し込められた。船は10日かかって日本に着いたが、その間食事は1日に2回、マントウ2個と塩漬けされた白菜のようなものだけであった。

船が日本に着いた後、列車、トラックに乗せられ、新潟まで連行された。

(2) 事業場での住環境等

新潟では、2階建ての木造建物の1階に収容された。寝るときは、板の上に敷かれたワラ、薄い綿毛布1枚が敷かれたところに寝ていた。布団も枕もなかった。冬でも同じであり、暖房も一切なかった。建物の周りには、身の丈くらいの高さの板塀があり、夜になると門が閉められ、銃を持った2人の警察官が見張りに立っていた。外出はできない状況で、行動の自由は全くなかった。

(3) 事業場での労働条件

朝6時ころに起床し、朝食終了後、すぐに現場に連れて行かれた。宿舎の庭に出て列を作り、2人の日本人の監督の監視のもと、現場まで連れて行かれた。原告Kの主な仕事は、貨物船からの荷下ろしであり、特に石炭、食料品が多かった。休憩時間はなく、昼食も貨物船の中でとることが多かった。作業は暗くなるまで続けられ、作業が終わらないと夜遅くまで残業させられた。

(4) 事業場での食事

食事は、朝昼晩ともいつも同じで、小麦粉と糠で作ったマントウ2個とスープだけであったため、常に空腹の状態であった。

(5) 事業場における衣服その他衛生状態

衣服は、麻袋が支給されただけであり、それ以外に作業服、防寒具などは一切支給されなかった。冬でも同じ格好で働かされた。したがって、雨、雪に濡れてもそのままの格好でいるほかなく、風呂にも入れず、極めて劣悪な衛生状態であった。衛生状態が悪かったため、疥癬に罹った者が多く、病気になって死亡した人も多かった。原告Kは、急性伝染病にかかり、高熱でうなされ、危うく死ぬところであったが、何とか回復した。当時、多くの人が病気になり、病状が重くなると、風呂場みたいなところに運ばれ、食事も食べさせられず、そこで死に至るという状況であった。

(6) 帰国及びその後

原告Kは、終戦後、強制労働から解放され、帰国することができたが、賃金などは一切支給されなかった。

原告Kは、新潟で罹患した病気の影響で、健康状態は非常に悪く、特に気管支炎の状態が酷く、少し歩いただけで息が苦しくなるような状態である。

第5被告らの責任

被告国および新潟港運が強いた原告らに対する強制労働と、それを目的とした強制連行は、被告国の国策に基づき、被告らが形式的にも実質的にも共同し一体となって押し進めたものであり、法的にみて、それぞれの違法原因、責任原因の立論に若干の差異があるとしても、本質的には違法行為を共同したものと評価すべきものであり、その責任においても互いの責任転嫁は許されず共同して責任を負うべきものである。

1 ハーグ陸戦条約違反

(1) ハーグ陸戦条約の存在

日本国は1911年11月6日に1907年ハーグ陸戦条約を批准し、翌1912年1月13日これを「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(明治45年1月13日条約第四号)として公布し、同年2月12日に発効させた。したがって、ハーグ陸戦条約は、本件違法行為の発生時点の前から国際法としてのみならず日本の国内法として効力を有していたものである。

条約の国内的効力については、国内法において一定の方式をもってする公布等の手続の履践を条件に認められることは戦前の判例である(東京控訴院昭和10年2月20日など)。

(2) 被告国のハーグ陸戦条約違反行為とその法的責任

被告国が、現地陸軍部隊および行政機関を通じて、原告ら中国人を多数拉致・拘束し、その意に反して日本に連行し、長期間にわたり苛酷な生活条件の中で賃金の支払もなく強制労働に従事させた行為は、ハーグ陸戦条約の諸規定(同条約前文、1条、42条、43条、46条、52条)に定められた占領地において守られるべき事項に明らかに違反するものであった。

ハーグ陸戦条約は、第3条において「前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ損害アルトキハ之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス交戦当事者ハ其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ」とし、条約違反行為により被害を蒙った個人が当該交戦当事者に対して直接損害賠償請求権を有することを定めており、被告国に原告らに対する損害賠償責任が発生していることは明白である。

被告会社においては、前記被告国の違法行為に加担し、共同してこれを遂行したものであり、もって原告らの生命身体財産等に堪え難い損害を加えたものであって、これが当時の民法上の不法行為を構成することも疑いなく、被告国と連帯して損害賠償すべき責任を免れないものである。

2 中華民国民法違反

(1) 不法行為が複数国にまたがる場合の準拠法については、法例11条1項により「不法行為ニ因リテ生スル債権ノ成立及ビ効力ハ其原因タル事実ノ発生シタル地ノ法律ニ依ル」と定められている(不法行為地法主義)。

原告らは、中国内で違法に拉致・拘束されその後日本に連行され強制労働させられたことを一連の不法行為としてとらえ、被告らに対し損害賠償を請求しているものであるところ、<1>その不法行為は中国における不法拘束が出発点になっており、その時点で既に不法行為の「原因タル事実」が発生していること、<2>加害者と被害者双方にとって最も中立的な不法行為地の法律を準拠法としようとする不法行為地法主義の趣旨からすれば、たまたま連行先か日本だったというだけで日本法を準拠法とすることは加害者の意向で一方的に準拠法を決定する結果となり法律の趣旨に反することからして、中華民国民法を準拠法とすべきである。

(2) なお、法例11条2項は、第1項の適用を制限しており、当時の日本法で「国家無答責の法理」が認められていたことから、日本法では不法ではない以上中国民法の適用が排除されるのではないかが問題となる。

しかし、上記法理の根拠である「国家は悪をなし得ず」あるいは「支配者と被支配者との自同性」という思想は、国家と自国民(あるいは当該国家の管轄に服する外国人)との間の関係だけを前提としており、原告らは日本国の支配の及ばない中国の国民であったのであり、国家無答責の法理の適用はあり得ず、よって法例11条2項の適用はない。

(3) さらに、法例11条3項は、第1項の適用を制限しているため、日本法の不法行為に関する消滅時効・除斥期間の規定が適用されるのではないかが問題となる。

しかし、法令11条3項の文理解釈上「損害賠償其他ノ処分」に消滅時効や除斥期間が含まれると読むことは無理であり、また同項の趣旨は損害賠償の方法やその金額などその救済方法や救済の程度の限度で日本法を認めるというものであるから、消滅時効や除斥期間という債権の効力に関する規定は該当しないというべきであり、法例11条3項の適用もない。

(4) 以上のとおり、被告らの不法行為については、日本民法の適用は排除され全面的に中華民国民法が適用されるところ、不法行為責任を規定した同法184条1項前段、使用者責任を規定した同法188条1項、損害賠償の方法として金額賠償及び名誉回復に適当な処分を規定した同法195条1項によれば、被告会社の前身新潟港運はもちろん、被告国も、法人として、自らが主体となって、あるいはその被用者の行為を通じて、原告らを中国において不法に拉致・拘束し、その意に反して日本に強制連行し、奴隷労働に匹敵する劣悪な環境の中で長期間強制労働させたのであるから、その責任を負うことは明らかであり、また、金銭賠償のみならず名誉回復の適当な処分として謝罪広告の掲載をすべき法的義務がある。

3 ILO第29号「強制労働に関する条約」(強制労働条約)違反

(1) ILO第29号「強制労働に関する条約」(強制労働条約)の存在

日本国は1932年(昭和7年)10月15日、ILO第29号「強制労働に関する条約」を批准、同年11月21日ILOに批准登録し同年12月6日、これを「強制労働ニ関スル条約」(昭和7年12月6日条約10号)として公布し、翌1933年11月21日発効した。

したがって、この強制労働条約は、本件違法行為の発生する以前から、国際法としてのみならず、日本の国内法として効力を有していたものである。

(2) 強制労働の禁止(第1条1項および第25条)

ア 強制労働条約は、第2条1項で、「強制労働」とは「成者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申シデタルニ非ザル一切ノ労務ヲ講フ」と定義したうえで、第1条1項において、各締約国が一切の形式による強制労働を廃止することを約すことを規定するとともに、第25条において、強制労働が刑罰をもって厳格に禁止されるべき文明国家と相容れない重大な犯罪であることを宣明している。

イ 第1条1項違反の事実

原告らが、処罰の脅威の下に強要され、自ら任意に申し出たのではない労務に従事したことはあらゆる点で弁明の余地なく、被告らは、強制労働条約1条1項を真っ向から蹂躙した違法行為を行なったといわざるを得ない。

ウ 第25条違反の事実

また、被告国は、原告らに対し強制労働を強要した新潟港運などの企業に対し何らの刑事制裁措置もとっておらず、この不作為が条約25条の定める締約国としての義務違反に該当することも明白である。

被告国は、戦後間もなくGHQの指令等により、新潟港運を含む全国の企業から、本件原告ら中国人の強制連行と強制労働に関する詳細な報告書を提出させている。したがって、強制労働条約25条により要求されている刑事制裁手続を進行させることが十分可能であった。にもかかわらず、被告国は、この点についての何らの措置もとらなかったばかりか企業に対しては補償措置まで行ってこれを正当化し(外務省報告書)、戦後50有余年が経過した今日まで条約25条違反という異常状態を故意に継続しているのである。

(3) 条約第1条1項違反、同第25条違反と被告らの不法行為責任

ア 第1条1項違反と被告らの共同不法行為責任

被告国は、条約上の義務に基づき本来刑事制裁をもって禁圧すべき立場にある強制労働を、現実には、自ら立案し庇護して新潟港運等の企業に大規模に実行させたものであり、こうした国際的犯罪行為により外国人である本件原告らの生命・身体・財産に対して重大な危害を加えた。

この行為については、国の行為といえども民事上の責任を排除しうる根拠はなく、当然のことながら民法上の不法行為責任(民法709条)を構成すると解すべきである。

新潟港運が原告らに強いた労働が違法な強制労働として民事上の不法行為責任を構成することは、改めて論ずるまでもない。

したがって、被告国と被告会社は、強制労働条約違反の犯罪行為に対する共同不法行為責任(民法719条)を免れない。

イ 条約25条違反と被告国の不法行為責任

前に述べたとおり、被告国における公法上の義務違反行為の継続と無反省な態度それ自身が、被告らの違法行為により蒙った重大な苦痛と困難を引きずりながら慰謝されることなく年老いていく本件原告らに対し、今もなお日々新たなる精神的苦痛を加え続けている。

それが民法上の新たな不法行為を構成することはいうまでもなく、また、現行国家賠償法第1条1項に基づく責任が発生しているのであって、この点でも被告国の損害賠償責任は免れ得ないのである。

4 国際慣習法違反

(1) 国際慣習法の存在

ア 奴隷条約

奴隷制の禁止は、1814年・1815年パリ条約、1841年ロンドン条約、1862年ワシントン条約などが存在し、国際法の中でも最も早く一般国際法の強行規範(エス・コーゲンス)と認められ、1927年には国際連盟の採択により「奴隷条約」が発効した。同条約は、第5条1項で、締約国が、強制労働が奴隷制度に類似する状態に発展することを防止するためにすべての必要な措置をとることを約束することを定め、第5条2項(2)で、強制労働が限定的に許される場合でも、その労働は必ず例外的性質のものでなければならず、常に十分な報酬を受け取るものとし、さらに、労働に服する者を通常の居住地から移動させるものであってはならないことを定めた。

日本国は、上記奴隷条約を締結・批准していなかったが、奴隷制度およびそれに類似する強制労働の禁止は、本件当時すでに国際慣習法として確立していたものである。

イ 人道に対する罪

第二次世界大戦後に設置された2つの国際軍事裁判所の条例は、「人道に対する罪」を確認し、国際的承認がなされている。

特に日本政府が1951年、連合国との間において締結した平和条約において、その判決の正統性を承認した極東国際軍事裁判所条例によれば、人道に対する罪とは「戦前又は戦時中になされたる殺戮、殲滅、奴隷的虐使、追放その他の非人道的行為、もしくは政治的又は人種的理由に基づく迫害行為であって犯行地の国内法違反たると否とを問わず本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又はこれに関連して為されたるもの」(第5条1項)をいい、このいずれかを「犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者、組織者、教唆者及び共犯者は、かかる計画の遂行上為されたる一切の行為に付、其の何人に困りて為されたるとを問わず責任を有す」(同条2項)とされている。

ウ 強制労働条約

1930年6月28日、国際労働機関(ILO)総会第14会期において強制労働条約が採択され、1932年11月21日、日本も同条約を批准した。したがって、強制労働条約は、本件当時、日本の国内法としての効力があるとともに国際慣習法としての効力も存在していたものである。

強制労働条約では、締約国は、可能な限り短期間内に一切の形式による強制労働を廃止することを義務づけられ(第1条1項)、強制労働が廃止されるまでの間においても、経過期間中その目的の為にのみ、かつ、例外的措置として使用することはできるが、その場合でも条約の定める条件及び保障に従わなければならないとされ、その条件の中では鉱山における地下労働のための強制労働は禁止されていた(第21条)。

また、強制労働は締約国である国やその機関が行なう場合だけでなく、私人が強制労働を課すことも禁止され(第4条)、強制労働の不法な強要は刑事犯罪として処罰されなければならず、そのための法令の整備及びこれに基づく犯罪者の処罰が締約国の義務となった(第25条)。

エ 以上の、奴隷条約、人道に対する罪、強制労働条約は、いずれも国際慣習法として、本件発生当時、被告らの行動を規律する法規範となっていたものであり、民法の不法行為の場面においてもその違法性評価基準となっていたものである。

なお、人道に対する罪につき付言すれば、直接的には戦争犯罪のうち特に残虐行為に加担した個人の犯罪の構成要件を規定したものではあるが、そのような戦争犯罪を犯したとして糾弾されるような個人団体の指導者らはもとより、戦争当事者である国家において遂行された人道に対する罪を構成する違法行為が、同時に民事上の不法行為として甚大な被害を受けた個人における損害賠償請求権を発生させることは言うまでもない。

(2) 国際慣習法違反と被告らの責任

原告らに対して行われた被告らによる強制連行と強制労働の実態を見れば、それが奴隷条約が禁止した奴隷労働に類似する強制労働に該当し、人道に対する罪のうち「奴隷的虐使」あいはそれに匹敵する「非人道的行為」に該当し、強制労働条約が廃止を求めた「一切の形式に於ける強制労働の使用」に該当することは明白であり、民法上も違法と評価されるべきものである。

したがって、被告らは民法709条ないしは民法715条に基づき、原告らに損害賠償すべき責任がある。

5 安全配慮義務違反

(1) 原告らと被告らとの関係

原告らと、被告会社の前身である新潟港運や被告国との間には、雇用契約は全く存在しない。存在するのは、被告らが原告らを中国から強制連行し、新潟港で強制労働させたという関係だけである。

しかしながら、原告ら中国人の強制連行は、被告国が戦時経済を支え、戦争を遂行するため、重筋労働部門における労働力不足を補うための政策として実施されたものであるが、これが、1942年(昭和17年)11月27日の閣議決定で「華人労務者内地移入」の政策が決定され、1944年(昭和19年)2月28日の次官会議でその具体的実施要項が定められ、これらが国家総動員体制の一貫として実行されたものであることは、国民総動員法に基づく「昭和19年度国民動員計画実施計画」(昭和19年8月16日閣議決定)に「華人労務者ノ本格的移入ヲ行フ」と定められていたことからも明らかである。

原告らは、中国の現地労務統制機関である華北労工協会によって強制収容施設に収容され、その後、貨物船で日本に連行され、新潟市内の新潟華工管理事務所の宿舎に収容された。原告らは、同所で被告会社の前身である新潟港運が派遣した職員の管理下に置かれ、さらに新潟港の作業場では新潟港運の労務関係職員や警備作業指導員などが原告らの作業を指導・監督し、外に警察官も常時駐在していた。

この華北労工協会が実質的には軍または日本政府関係者が運営していた労務統制団体であることは前記のとおりである。新潟華工管理事務所も、被告国が国家総動員法に基づき統制団体として作らされた半官半民の統制組織である日本港運業会によって設立され、被告国の支配下にあったのである。さらに原告らの生活を管理し、強制労働を指揮・監督していた新潟港運も、国家総動員体制のなかで被告国の統制を受け、原告らの管理条件や労働条件も被告国の指示・命令によって規律されていたのである。

(2) 強制労働関係上の信義則に基づく安全配慮義務

このように被告国と新潟港運は、原告らに対して強制労働条件を一方的に創設し、原告らを使役していたのであって、被告らが原告ら労働者を監督する立場にあったことは疑いのない事実である。したがって、このような被告らと原告ら強制労働に従事させられた労働者との間の法的関係を基礎として、被告らは、原告らに対して、原告らの生命・身体の最低限の安全を配慮すべく、労働条件・生活条件の確保のためのしかるべき措置を取り、かつ強制連行・強制労働下にある中国人の状態を人としての尊厳を保ちうるものとする信義則上の義務があったというべきである。すなわち、被告らには、<1>原告らに与える食料について、少なくとも1日3000キロカロリー以上に相当する食料を与える義務、<2>原告らの労働条件として、1日の就業時間が6時間を超える場合には少なくとも30分、10時間を超える場合には少なくとも1時間の休憩時間を与えるとともに、毎月少なくとも2回の休日を設け、監督にあたっては暴力をふるわせないようにさせる義務、<3>原告らの生活環境について、十分な余裕のある就寝場所を提供し、十分な暖房設備を整え、蒲団や毛布等の寝具、衣服を与え、洗濯の機会を与え、風呂を備え、十分な入浴の機会を与え、病気になったときには医師の治療を受けさせ治るまで治療に専念させる義務などがあった。

(3) 安全配慮義務違反

原告らは、強制労働をさせられている間、いつ死んでもおかしくないような栄養不良状態におかれ、飢餓感にさいなまされる苦痛、いつ過労死してもおかしくないような過酷な労働を暴力でもって強制されるという苦痛、そして耐え難く不衛生で、かつ凍死しかねないほど寒い状況下で暮らすという苦痛を余儀なくされたものである。

よって、被告らは安全配慮義務に違反し、その結果、原告らに対して肉体的にも精神的にも多大な苦痛を与えたものであるから、安全配慮義務違反に基づき原告らに損害を賠償すべき義務がある。

6 国家無答責

中国人に加えた残虐・非道な行為に対するせめてもの賠償について、被告国の国家無答責の主張は、本来、社会常識からしても、国際的常識からしても、到底、受け入れられない主張である。

いかに戦前の行為であるとはいえ、現在の憲法の下で国の責任が問われているときに、どんなに残虐非道の行為があるとしても、戦前の国家無答責の理屈を持ち出して弁解することは、素朴な人間感情からしても相容れないし、正義の感情からしても認められないし、「戦争犯罪に時効はなし」としている国際的常識からしても、かけ離れている。

(1) 戦前の公権力の行使の違法を理由とする国の損害賠償の責任については、一律に有責・無責を決めていたのではなく、事案により民法の解釈に委ねられていたものと解するほかはないものである。したがって、被告国は、民法に基づく不法行為者としての責任、また条理に基づく責任により、原告らに対して損害賠償責任を負担するのは明らかであり、被告の主張する国家無答責なるものは、そもそも論拠を欠くものであるし、仮りに、存在するものだとしても、この事件に当てはめて責任を免れようとすることは、信義則にも反し、かつ権利の濫用として許されない。即ち、国家無答責の法理なるものは、実定法上、明文の根拠を有するものではないものであり、現時点においては、国家無答責の法理に正当性ないし合理性を見いだし難いとされるものである。

国が、政策決定に基づき、「兎狩り」として原告ら多数の中国人青年を拉致し、強制連行・強制労働させた違法行為については、民法709条、715条により不法行為責任を負うべきであり、これに対し、判例上も曖昧な国家無答責なるものを持ち出して、その責任を免れようとすることは、その残虐性、被害の重大性、著しく正義・公平に反すること等からして、信義に反し許されないことであり、また、そのような重大な被害を被った者に対し、国家として損害の賠償に応ずることは、条理にもかなうことである。

(2) 仮に、国家無答責の法理が一般論として存在したとしても、それは保護すべき公務のための権力作用であることを前提とするところ、本件の強制連行・強制労働の違法行為は、到底、公務のための権力作用とは言えず、保護すべき権力作用ではないから、被告国の主張は、その前提を欠き、失当である。

この当然ともいうべき論理は、戦前において、職権濫用や権限逸脱行為があった公務員の違法行為について、公務性を否定し、民法上の不法行為責任を認めた判例の論理に繋がるものである。

本件のごとき、平穏に生活していた中国人農民らを、文字通り「兎狩り」をして、逮捕・拉致し、何千キロも離れた外国である日本にまで強制連行して、強制労働を強いたことは、職権行為とはいえないし、国際的にも断じて容認されない不法行為であって、到底、保護すべき公務とはいえない違法行為そのものである。

したがって、被告国は、原告らに対し、国家無答責の法理なるものを持ち出してきても、その責任を免れることは絶対にできない。

(3) 国家無答責の法理は、憲法98条1項(憲法の最高法規)、憲法17条(国の賠償責任)及び憲法13条(個人の尊厳)に違反する。

戦前の国家無答責の法理の法源は、大審院の国家無答責を認めた判例法にある。

しかし、国家無答責の法理は、ポツダム宣言受諾に基づくポツダム指令及び新憲法の制定により現行憲法98条、17条に真っ向から違反する無効な法理になったのであり、したがって、これを復活させた国家賠償法附則6項の定めも現行憲法に違反する無効な規定というべきである。

我が国の国家無答責理論は、絶対主義的天皇制の下で創出された理論であった。当然なことながら、昭和20年8月15日、我が国がポツダム宣言を受諾し、国民主権を統治原則とした現行憲法を制定したことによって、大日本帝国憲法の基本原理である絶対的天皇制は否定されたのであるから、その法原理であった国家無答責の法理は効力を失ったのである。また、現行憲法98条1項は「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と規定している。「国務に関するその他の行為」の中には判例も含まれるのであるから、戦前の国家無答責の法理を認めた大審院の判例はすべて効力を否定され無効になったというべきである。

したがって、そもそも国家無答責の法理やこれに従った判例は無効となったのであるから、現行憲法秩序の下では同法理を復活させてこれに効力を持たせることは許されない。国家賠償法附則6項を根拠にして、国家無答責の法理なるものを復活させることも、以上の理由により、憲法98条、17条、13条に違反するものであり、同様に認められない。

(4) 仮に、附則6項を限定解釈して活かすとしても、それは、賠償請求権を一切認めないというものではなく、たかだか、通常の過失行為、違法行為を念頭においているものであり、本件のように極めて残虐非道な強制連行、強制労働によって被った損害にまで適用することは憲法秩序に反する。

国家賠償法は、日本国憲法が施行(昭和22年5月3日)されて間もない頃の、いまだ戦後の混乱期にある昭和22年10月27日に制定されたが、本件のような前代未聞の残虐非道な人権侵害行為による損害の賠償をも考慮に入れて、附則6項が制定されたものとは、到底、考えられない。むしろ、国家による通常の過失行為、違法行為を前提として、他の法令同様、行為時法主義を採用し、遡及効を制限する趣旨で定められたものと解するのが自然である。また、国が受諾したポツダム宣言によれば、国が戦争遂行に伴う国家的不法行為による損害の賠償責任と原状回復義務を負うことを前提としていたということができ、このポツダム宣言の要求に沿い、日本国憲法が制定され17条で国家賠償請求権が認められるに至った経緯に照らせば、国家賠償法施行前に生じた戦争犯罪行為についてその損害の賠償責任を一切認めないことは明らかに憲法98条、17条に違反する。

本件のような甚大な被害に対してこそ、杓子定規に附則6項を根拠にして被告国に対する損害賠償請求を否定するのは、少なくともこれが本件に適用される限りにおいて憲法98条、17条に反し、違憲というほかはない。例え、国家賠償法附則6項が全体として違憲でないとしても、本件のように非常に悪質とされる被告国の非人道的な不法行為に対して、同附則6項を根拠に国家無答責を適用することは、憲法13条、17条、98条に違反することは明らかであって許されないことである。

(5) 被告国による本件不法行為は、国家無答責の法理の埒外の行為であり、民法が適用されるべきものである。

ア 被告国の主張は、国家無答責の法理は、公共の安全を保持し人民の幸福を増進するために活動をしている行政機関の活動に障害を及ぼし行政の麻痺を生ぜしめないようにするために、国家は権力作用に基づく賠償の責任を負わないこととするというものである。

とするならば、本件における国家無答責の法理の適用の適否は、常にこの実質的理由に立ち返りながら考察をしなければならない。そして、そうであれば、実質的理由で理由づけられない事例については、国家無答責の適用が排除されることもあるというべきである。その実質的理由が「行政活動への障害、麻痺の回避」にある以上、それに関係しない国の本件不法行為について、国家無答責は埒外のことと言うべきであり、また、法令がなかったから仕方がない、法令がない以上どんな被害も救済することはできないという判断は、上澄みの形式的判断に過ぎないものであり、国家無答責の埒外である以上は、民法の適用を考慮せざるを得ないものである。

大審院判例では、本件のように国家が当時の国際法にも国内法にも明らかに違反して残虐非道な違法行為を犯し多大の被害を及ぼした事案はまったく想定されていなかったのである。それは、第1に加害行為の残虐非道性、被害の甚大さの点でも、第2に通常の国家行政行為を前提としその過程で起こる通常の過失、違法行為ではないという点でも、第3に、被害の対象が外国人という点でも、第4にそれがILO29号条約その他の国際法規に明らかに違反しているという点でも、大審院判例の射程外にあるというべき不法行為なのである。

イ しかも、いうまでもなく、戦前の国家無答責の法理が適用された事例は、全て日本国民に対するものである。そもそも、この法理は、日本国家の管轄外の外国人を対象にすることを予定していなかったはずである。

ここでいう国民は、国家がその権利を保護し、その幸福を増進する対象となる者であり、それは自国の管轄に服する国民であって、外国の管轄に服する国民を含まない。外国の領域に住み、自らの意思で自ら日本国の管轄に服する行為(査証の申請など)をしなかった外国人まで、国家無答責の対象に含めるわけにはいかない。かような外国の管轄に服する国民に対しては、国家がその権利を保護したり、その幸福を増進することは想定されていないのであり、それゆえ国家無答責の前提を欠いていることになる。

換言すれば、国家は、自国の管轄に服する国民に対しては、もともとその権利を保護し、その幸福を増進するものであるから、責任を負う場合がない(国家無答責)とは言えるが、外国の管轄に服する国民に対しては悪をなしうるのであり、その場合には、立法者自身が想定した国家無答責の根拠がない。

公共の安全を保持し人民の幸福を増進するために活動をしている行政機関の活動に障害を及ぼし行政の麻痺を生ぜしめるから、権力作用に基づく賠償の責任を国家は負わないとするこの論理は、これが妥当するのは、明らかに国家がその権利を保護し、その幸福を増進する対象となる者であり、それは自国の管轄に服する国民であって、外国の管轄に服する国民を含まない。

したがって、本件のように外国の管轄に服する中国人に対して国家無答責の法理を適用することは、(仮に、国家無答責の法理を大審院判例が認めていたとしても)、この意味でも、明らかに大審院判例の射程外であって、民法の適用に戻らざるを得ないものである。

(6) 国家無答責の法理は、正義・公平の原則により適用を制限されるべきである。

本件不法行為は、その加害行為が、現行憲法の基本的人権尊重主義に違反するだけでなく、明治憲法の人権保障の精神にさえ明らかに違反するような残虐性の著しい非道行為であり、現在の損害賠償請求訴訟において国家無答責の法理を持ち出すことは、正義・公平の原則に違反するものとして許されない。

当時、権力的作用に基づく損害について国の賠償責任を認める法令上の根拠が存在しなかったというのは、権力的作用には民法の規定が適用されないということが前提にされていたからであり、国家無答責の原則が適用されなければ、この前提自体の当否が問題にされざるを得ない。そして法令上の根拠が存在しなかったと解するのは、権力作用に民法は適用されないという国家無答責の原則を先行させた結果であるから、国家無答責の原則が適用されないとなれば、民法の不法行為規定の適用が前面に出てくるのは当然である。

そうだとすれば、民法の適用に関連して、国家無答責の法理なるものを持ち出して、民法上の不法行為の責任を免れようとすることは、正義・公平の原則に反すると論ずるのは当然の結果である。

それは、戦前の国家無答責原則の適否を問題にしているのではなく、現在の法制度下における訴訟において、国家無答責の原則を適用することは正義・公平の原則に反する場合があるというものである。そして、正義・公平の原則に反する場合とは、司法が権利濫用や信義則違反、公序良俗違反等の判断において、司法の使命にかけて判断するように、決して、抽象的なことで判断できないというものではなく、総合判断によって可能なことであり、現に、司法は、その使命をかけて、権利濫用等の判断をなしてきたものである。

本件は、<1>加害行為の残虐非道性、<2>被害の重大性、そして、<3>明治憲法から新憲法へと大転換をとげた時期であること、<4>被告国が何らの謝罪や反省もしていないこと等に鑑み、まさに、国家無答責の適用が正義・公平の原則に反する場合の典型例というべきである。この場合を除いて、他に、いかなる場合に正義・公平の原則に反する場合があるといえるのであろうか。

(7) 以上、いずれの点からしても、国家無答責の法理の適用は、違憲無効で、その埒外でもあり、かつ、正義公平の観点から許されず、被告国は、民法の規定にのっとって、原告らに対して誠意をもって謝罪し、損害賠償に応ずる責務があると言わねばならない。

7 消滅時効、除斥期間の問題

(1) はじめに

ア なぜ時効が問題になるのか

(ア) 本件訴訟において、被告国は一切の事実について認否をせず、国家無答責の主張と消滅時効・除斥期間の経過の主張を行い、我が国が戦争中に行ってきた残虐非道な行為の責任を免れることに終始している。

被告会社も、被告国の国策に従っただけであるとして、数十年ぶりの大寒波、豪雪といわれた昭和20年冬の厳寒の中で、港湾荷役の重労働をさせ、多くの死者を出した強制連行・強制労働を行いながら、あたかも他人事のように扱い、ひたすら時が経過しているということだけで、残虐非道な行為の責任をとろうとしない。

(イ) 戦争における非人道的行為は戦争犯罪として処罰され、戦争犯罪には時効がないというのが国際法で認められた原則である。1968年(昭和43年)11月26日に「戦争及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」が国連総会で決議され、1970年(昭和45年)11月11日に発効している。我が国はこの決議に対し棄権している。

この条約は前文で「戦争犯罪及び人道に対する罪が国際法における最も重大な犯罪に属することを考慮し、戦争犯罪及び人道に対する罪の効果的処罰がこれらの罪の防止、人権及び基本的自由の保護、諸人民間の信頼の奨励と協力の推進、並びに国際の平和と安全の促進における重要な要素であるを確信し、通常の犯罪の時効に関する国内法規則の戦争犯罪及び人道に対する罪への適用はこれらの犯罪に対し責任を負う者の訴追及び処罰を妨げるがゆえに、世界世論にとって重大な関心ごとであることに注目し、戦争犯罪及び人道に対する罪にとって時効は存在しないという原則を、本条約を通じて、国際法において確認し、並びにその普遍的適用を確保することが必要かつ時宜に適ったものであること」を認めて、協定したとしている。この時効不適用条約でも、「戦争犯罪及び人道に対する罪の効果的処罰がこれらの罪の防止、人権及び基本的自由の保護、諸人民間の信頼の奨励と協力の推進、並びに国際の平和と安全の促進における重要な要素である」として、非人道的な行為、戦争犯罪を時の経過によっても処罰を免れられないことを明確にすることがこれらの罪の防止と国際の平和と安全の促進に寄与するものであるという認識に立っている。

戦争による残虐非道な行為は時が経過したということだけで忘れ去られるものではなく、その責任がなくなるものではない。また、戦争による非人道的行為による被害は再びそのような戦争による惨禍を繰り返さないためにも、忘れてはならない事柄でもあり、残虐非道な行為をした者に責任をとらせ、被害者に賠償をさせることが平和を求めて長い間かけて到達した社会の正義である。

(ウ) 前記のような責任逃れの論理を採用することは、著しく正義・公平の理念に反し許されない。正義の担い手としての司法に求められることは、このような被告国及び被告会社の責任逃れを許さず、日本国の司法機関として、当時の日本国政府・企業が一体となった戦争犯罪による原告らの損害を回復させることである。

イ 本件は時の経過により被告らの法的地位を安定させなければならない問題ではない。

(ア) 消滅時効・除斥期間の制度の趣旨として、一般に時の経過によって債務者・加害者の法的地位を安定させることが挙げられている。

(イ) これを本件についてみると、後述の戦争犯罪、特に強制連行・強制労働事件という本件の特質、被告国による証拠隠滅・提訴妨害等に照らせば、被害者が事態を放置していた場合には該当しない。しかも、自ら証拠隠滅・提訴妨害を行った被告国及び本件不法行為によって多大な利益を得た被告会社を保護することは、消滅時効・除斥期間の制度趣旨を超えて必要以上に加害者の利益を擁護するものであり、到底認められるものではない。

「戦争犯罪には時効はない」という言葉の意味を、いまこそかみしめる時である。

(2) 前提として確認しておくべき法的問題

ア 民法724条前段の3年と後段の20年の両期間は、ともに時効期間と解すべきである。

民法724条後段が前段と同様に消滅時効を定めたものであることは今日の学説では多数説であり、立法者の意思も同様である。すなわち、民法典の立法に際しての法典調査会における起案者穂積陳重の趣旨説明及びその後の法典調査会や帝国議会の法典審議を見ても立法者が20年の期間を時効期間と定めたことについては異論をみない。

また、条文の文言上もそれを裏付けている。724条後段は、前段を受けて「亦同シ」と規定している。「亦同シ」と規定しているから、前段が「時効に因りて消滅す」と規定している以上、後段も「不法行為の時より20年を経過したるとき時効に因りて消滅す」と読むのが規定からいって当然である。

イ 消滅時効、除斥期間は加害者の保護となる加害者の法的地位の安定や確定自体が目的ではない。消滅時効の規定は、究極的には不法行為制度の究極の目的である損害の公平な分担という趣旨から認められているものである。

民法724条後段を適用して「一定の時の経過によって法律関係を確定させ」、「不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する」ことによって保護されるのは加害者であることは民法724条前段の場合と同じである。消滅時効にしても、除斥期間にしても、民法724条後段は不法行為制度の究極の目的である損害の公平な分担という観点から、正義・公平の理念に合致するように解釈し、適用すべきことはいうまでもない。

本件訴訟で問題となっているのは、大規模な中国人拉致事件について、単に時の経過の一事をもって加害者を保護すべきほどの公益があるのか、それが損害の公平な分担を究極の目的とする不法行為制度の正義・公平の理念に合致するのかという点である。

ウ 本件における民法724条後段についての問題の所在

民法724条後段の期間の性質論から「時効」とか、「除斥期間」といういわば解釈の「道具概念」から出発するのではなく、特段の事情の存在が主張され、あるいはその存在がうかがわれるときには、期間経過の一事をもって直ちに権利者の権利行使を遮断するべきではなく、当該事案における諸事情を考究して具体的正義と公平にかなう解決を発見することに努めるべきなのである。

本件のような大規模な中国人拉致事件について、加害者と被害者との諸事情を考慮し、原告らを拉致し、寒風に吹き荒れる異国の地である日本海の沿岸で重労働させた非人道的行為を免責させることが、本件という具体的事案において正養・公平の理念に合致するのかどうか問われているのである。

(3) 平成10年6月12日最高裁判決による民法724条後段の制限

ア 時効・除斥期間の適用の本質的な前提

不法行為制度の究極の目的は、損害の公平な分担を図ることにあり、公平が同制度の根本理念である。

消滅時効、除斥期間といっても、不法行為制度におけるものであり、その解釈と適用にあたっては不法行為制度の究極の目的である、損害の公平な分担によって正義を実現するという大前提がある。

イ 平成10年6月12日最高裁判決による除斥期間の適用制限

平成元年12月21日最高裁判決が判示する除斥期間の適用が、正義公平の理念によって制限があることを示したのが平成10年6月12日最高裁判所第2小法廷判決である。この判決の多数意見は、およそ権利行使が不可能であるのにもかかわらず、単に20年が経過したということのみをもって、権利者の一切の権利行使を許さないとすることで、反面加害者が損害賠償義務を免れる結果となることを「著しく正義・公平の理念に反する」として除斥期間の適用を排除しているのである。

ウ 平成10年6月12日の最高裁判決の判例としての意義

この最高裁判決は民法724条後段を除斥期間と解しながらも、「特段の事情」がある場合には民法724条後段の効果(20年以上の時の経過によって権利が消滅するという効果)が生じないというのである。

問題は、この判決でいう「特段の事情」をどのように解するかであるが、民法724条後段が、<1>被害者が長期間権利を行使しない場合、一般論として権利の上に眠る者との評価が妥当し、<2>副次的に時の経過による法的安定性の要請や攻撃防御・採証上の困難の回避、権利不行使への信頼の保護等の理由から、被害者と加害者との利益の調整の見地に立ち、法律関係の早期確定という公益的政策的観点から設けられたものであることからすれば、<1>権利の性質や加害者との関係などから時の経過の一事によって権利を消滅させる公益性に乏しく、<2>義務の不履行が明白で、<3>被害者の権利不行使につき権利の上に眠る者との評価が妥当しない場合には、著しく正義・公平の理念に反する特段の事情があるものとして、民法724条後段の適用を制限すべきである。

(4) 民法724条後段を適用して、原告らの権利が消滅したとすることは著しく正義・公平の理念に反する。

ア 戦後補償訴訟についての民法724条後段の適用の排除

20年という時の経過のみをもって、民法724条後段の効果を認めることが正義・公平の理念に反する場合があることは、前述の平成10年の最高裁判決が認めることである。そもそも一般に「戦争犯罪には時効がない」という原則は広く承認されており、戦後補償訴訟で問題とされているような、非人道的・残虐非道な行為による被害について、単に時の経過のみをもって、加害者の責任を免れさせるべきではないことが国際社会が今日到達してきた社会正義である。非人道行為を行った加害者(国であれ、企業であれ)は自らの行為による被害者を捜し出し、自らの行為を謝罪し、補償することが非人道的行為を犯した加害者のなすべきことである。

イ 平成10年の最高裁判決が示した「特段の事情」の存在

本件では、中国への侵略戦争を遂行し継続するために、被告国と企業が一体となって、原告らを含む約4万人の中国人を拉致し、全国各地で強制労働に従事させたもので、被害者の個人の尊厳を踏みにじる残虐性・悪質性、非人道的な行為が特徴である。約6000人が死亡し、新潟でも159名が亡くなり、その死亡率は21パーセントである。昭和19年6月17日に第1次207名を受け入れてから昭和20年10月9日に送還されるまでのわずか1年4か月足らずで、2割の人が死亡している。第2次(150名)、第3次(150名)の受け入れは昭和19年11月17日と11月29日であるから、昭和20年9月まで10か月足らずで300名のうち68名が亡くなっている。死亡率は23パーセントと高率である。いかに被告会社における荷役作業の重労働と被告会社の収容所の環境が過酷なものであったかを物語っていると同時に、日本軍によるウサギ狩りと称する無差別な中国人の拉致は過酷な重労働に耐えることができない高齢者や病弱の者まで強制連行していたことを物語っている。

被害も生命身体の安全の侵害、過酷な状態で自由を拘束する、充分な食事も与えられず、厳寒の中で強制的に重労働をさせられ、高い死亡率など、その被害は一般の不法行為に比べ重大であるからである。新潟だけでなく、中国人の強制連行・強制労働を全体として見た場合には約4万人の中国人が拉致され、過酷な労働によって約6000人もの人が亡くなっている。

ウ 消滅時効であれ、除斥期間であれ、一定の時の経過によって被害者の権利を消滅させ、加害者の法的地位の安定、不法行為の法律関係の確定が意図されているが、法律関係を安定させるという加害者の保護が、被害者の事情と加害者の事情によっては公益性がない場合があり、このような場合には時効・除斥期間を適用して被害者の権利を消滅することに合理性がないことは明らかである。制度の趣旨からいっても当然である。

被害者である原告らの置かれた状況、特に日中関係や中国国内での状況などを考慮すると、原告らには権利行使の期待可能性がなく、他方、本件における被告国及び被告会社の加害行為の性質や戦後における被告らの証拠隠滅を含む不誠実な対応などを考慮すると、一定の時の経過のみをもって、被害者である原告らの権利を消滅させることは正義・公平の理念に反するものである。

本件においては、以下のとおり、被害者の権利を消滅させるべきでない「特段の事情」が存在している。

エ 本件における「特段の事情」

(ア) 加害者を保護すべき公益性の不存在

加害者が時の経過のみをもってしては保護するに値せず、保護する公益が存在しない場合には除斥期間や消滅時効を適用して被害者の権利の消滅の効果を認めるべきでない。そのためには加害行為の質と内容及び被害者の被害の内容がまず問題となり、被害者が権利行使することが期待できたかどうかという被害者と加害者の諸事情を考慮して判断すべきである。

(イ) 本件は大規模な中国人拉致事件の一部であり、残虐非道な加害行為は過失によるものではなく、故意によるものである。

一般的に言って、過失の場合とは異なり、故意による加害行為については加害者自身は行為の結果について認識しているのであるから、被害者が権利を行使することが期待できないにもかかわらず、加害者がその責任を認めることもなく、被害者に謝罪もせず、何らの賠償もしないで責任逃れをしている場合、時の経過のみをもって加害者の責任を不問に付すことは不正義である。強制連行・強制労働自体、被告国と企業が一体となって、戦時の労働力不足を補い、中国への侵略戦争を継続するために行ったものである。大規模な中国人拉致事件は当時の国際法であるハーグ陸戦条約及び条規に違反し、人道の罪に違反する戦争犯罪である。被告国及び企業は戦争犯罪に問われることを充分承知して(それゆえ、戦犯として追及され処罰されることをおそれて外務省報告書等の証拠を焼却し、証拠隠滅を因っている)、非人道的かつ残虐な行為を行っている。残された貴重な資料である外務省報告書も戦犯としての処罰を免れる目的で作成している。

(ウ) 加害行為の残虐性・悪質性、被害の重大性

被告らが原告らになした加害行為は、何の罪もない中国人を武力を背景にして強制的に日本国内に移入させて、日本国内の企業で苛酷な労働に従事させ、しかもこの間賃金も支払わず、食事も満足に与えず、暴力と虐待を加え、一切の自由を認めず、長期にわたってその人間としての尊厳を踏みにじり、心身にわたる苦痛と被害を与えたというものである。しかも被告らは戦後においても、原告ら被害者に対して一切の謝罪も、補償もしていないばかりか、この訴訟が提起されている今日においても事実さえ認めようとしないという道理も常識もかなぐり捨てた対応をとって、さらに原告ら被害者の怒りと苦痛を増大させている。

このような原告らの被害者の実情を無視し、被害者の切実かつ正当な要求を時効・除斥期間によって切り捨てることには何の道理もなく、著しく正義・公平の理念に反するものである。

(エ) 証拠の隠滅など権利不行使に対する加害者の関与・加担

被告国の外務省は、外務省報告書を作成したが、後に廃棄を命じている。被告国は外務省報告書等の資料を所持しながら、国会で虚偽の答弁を繰り返し、国民を欺き、強制連行・強制労働の事実を闇から闇に葬り去ろうとした。

消滅時効であれ、除斥期間であれ、その制度趣旨として時の経過によって資料が失われ、その立証や反証が困難となることがあげられているが、被告国の内閣総理大臣及び政府委員らは、昭和29年9月6日以降、本件強制連行及び強制労働の事実関係は、資料がないため明確ではなく、中国人労働者の就労は自由な意思による雇用契約に基づくものであった旨の答弁を国会において繰り返し行っている。さらに、実は外務省報告書は1部が焼却されず外務省内に保管され平成5年に外務省報告書とその関係書類の存在が初めて一般に知られるまでその存在は隠匿されていた。しかも、外務省は中国課作成の文書により外務省報告書の存在に関して計画的に虚偽答弁を繰り返していた。

被告国が関係資料を焼却したのは戦犯として追及されるおそれがあり、「戦犯関係資料として使われる恐れがあり、官民双方の関係者に波及することが考えられたので」と、被告国だけでなく、共同不法行為者である企業が戦犯として追及されないようにするためにも証拠隠滅を因っている。証拠の隠滅など権利不行使に対する義務者の関与・加担があったことは明らかである。

(オ) 加害行為についての認識・行為後の対応など加害者保護の不適格性

被告国は強制労働及び強制連行の事実を明らかに認めず、外務省報告書に対してもその現存を否定する虚偽答弁を意図的計画的に繰り返してきた。被告国は、現在まで原告らを含む強制連行被害者らに対し、なんら慰謝、補償の措置を講じてこなかった。このことから、原告らが中国へ帰国した後も利敵行為をしたとして非難され、裏切り者と迫害されたのである。

戦時に非人道的行為を行った加害国家は自らの行為を認め、被害を被った被害者に謝罪し、補償をしている。それが戦争中に残虐非道な行為を行った国家として、同じことを繰り返さないための道であった。自らの過ちを反省し、それを正すことは50年以上の時が経過しようが、責任がなくなるわけではない。

しかし、被告国は、消滅時効や除斥期間の適用を主張し責任を逃れようとする姿勢に終始しており、誠意のかけらもない対応をしている。こともあろうか、侵略戦争の犠牲者である原告らの請求に対し、被告国は侵略戦争を行った戦前の国家思想である「国家無答責」を持出し、「朕は責任はなし」の主張を現憲法下でも主張しているというあつかましさである。

(カ) 不法行為の存在・義務違反が明白で、時の経過による攻撃防御・採証上の困難性の不存在

本件においては、外務省報告書等の強制連行・強制労働の事実を裏付ける被告国自らが作成した文書の存在、被告会社の社史、各原告の実際に体験したものでなければ語りえないような具体的かつ迫真にとんだ証言に加え、被告らの具体的に事実の認否をしない応訴態度(積極的に争わない)に鑑みると、不法行為の存在・義務違反が明白である。

被告国及び被告会社も強制連行・強制労働の事実そのものは否定できないのである。被告国のように加害の事実については沈黙するか、被告会社のように「不知」(知らない)という責任逃れの答弁をする程度である。本件では加害の事実そのものは明白であり、加害者に時の経過による攻撃防御・採証上の困難性は存在しないものというべきである。

(キ) 権利行使の客観的・法的・事実的困難の存在一権利の上に眠る者という非難性の欠如

被害者による権利行使が実質的に著しく困難である場合は、権利の上に眠る者という非難性が欠如するというべきである。

1978年10月23日の日中平和友好条約の締結までは、法的には日中両国は戦争状態にあり、この時点まで原告らの権利行使は、原告らの主観的個人的事情を離れて客観的・制度的・法的に不可能であった。サンフランシスコ平和条約付属議定書では戦争状態が継続し、国交がない状態では国交のない敵国の裁判所で権利行使を期待することが一般的にできないので、時効や期間制限自体の進行を停止することが定められている。事実、国交が回復し、日中平和友好条約が締結されるまでは国際政治においても我が国は中国を敵視する政策をとっていた。少なくとも中国との戦争状態が終了するまでは原告らが権利のうえに眠るものと評価できないことはいうまでもない。

また、その後も、原告らの権利行使は不可能な状態が続き、原告らが権利行使の可能性を認識するためには、1999年4月の本件訴訟弁護団との出会いが必要であった。そして、中国政府の「お墨付き」(外交部長発言)のあった1995年3月においてはじめて、客観的に権利行使が可能となる必要最低限の条件が具備されたものである。

原告らの権利行使可能性は、最も早い時期を想定したとしても1995年3月以前にはなかったものである。原告らが戦後生きてきた生活状況、教育程度、法的知識、社会情勢などを考えるとき、1990年代後半までは原告ら被害者が被告らに対して訴訟を提起し、その被害回復を求めることは事実上不可能であったというべきである。

(5) 被告会社が債務不履行責任の損害賠償請求権の消滅時効を援用することは権利濫用である。

ア 消滅時効の援用は権利の濫用として許されない。

債務不履行責任については、10年(民法167条1項)の消滅時効の適用があるが、これまで述べた主張より、本件において消滅時効を援用することは、権利の濫用として許されないものである。

特に、安全配慮義務違反の不履行による損害賠償義務について消滅時効の援用が認められるためには、社会的接触関係に基づいて労務提供を受領している債権者と債務者間の公平、信義誠実の原則に合致することが必要である。安全配慮義務違反が問題となる法律関係では民法における大原則が支配するのであり、被害者と加害者の諸事情は充分に考慮され、消滅時効の援用が権利濫用となるか否かが判断される。

消滅時効制度は権利のうえに眠る者を保護しないという趣旨であるが、前述したように、原告らが権利行使をする可能性はなく、権利のうえに眠るものと評価することができない。

イ 消滅時効の起算点

民法167条1項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、法的な障害によって権利行使が不能であるということではなく、事実上権利行使が期待できない場合も含む。

我が国と中国は日中平和友好条約が締結されるまでは戦争状態が継続しており、その間、国交もない状態であった。日中共同声明がなされるまで、国際政治上も我が国は中華民国を「中国」という立場をとり、中華人民共和国を日米安保条約で仮想敵国とする政策をとりつづけてきた。このような状況では法的にも権利行使が不可能と評価できるのである。サンフランシスコ平和条約議定書で、講和条約が発効するまで、時効や制限期間の効力が停止し、発効後に進行するとしている点を考えると、少なくとも、日中平和友好条約が締決された時点までは時効期間は進行しないと解すべきである。

また、権利行使が事実上期待できない場合には消滅時効が進行すると解することはできないのであり、本件のように国際的な拉致事件、しかも、被告国と企業が一体となって原告らを拉致してきた事件については権利行使が現実に可能になった時点をもって消滅時効の起算点とすべきである。

ウ 消滅時効制度の趣旨を踏まえ

時効の援用を認め、10年の経過をもって債権者の権利を消滅させることを認めるかどうかは権利のうえに眠る者を保護しないという消滅時効の制度の趣旨を十分踏まえる必要がある。

債権者が権利行使をしたくてもできない場合、それは法的に不能な場合はもちろん、事実上も権利行使が期待できない場合には、10年以上の時が経過したとしても、債権者は権利のうえに眠るものと評価できない。債務者の故意行為によって重大な被害を受けた債権者の損害賠償請求権である場合にはなおさら、権利行使が期待できなかった被害者である債権者の権利を消滅させることは消滅時効の制度趣旨に反するものであり、正義・公平の理念にも反するものである。

本件では原告らが被告らに対して損害賠償請求権を行使したくても、1990年代の後半までは、その権利を行使することは事実上不可能であった。すなわち、上記のとおり、戦後日本と中国は国交が断絶しており、日中平和友好条約が締結されたのは1978(昭和53)年であった。1978(昭和53)年より以前に、原告らが被告らに対する損害賠償請求権を行使することは到底できないことであった。

エ 原告らの権利行使の障害となった事情

(ア) 1972(昭和47)年に調印された日中共同声明のなかで「中華人民共和国政府は、中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」とされていたこともあって、中国国民が直接日本や日本企業に対して戦争賠償を求めることができるか否か、中国国民にとってはっきりしない状態が続いた。そのため国交回復後も原告ら被害者が被告らに対する損害賠償請求権を行使することは非常に困難であった。

このような状況が変化したのは1991(平成3)年3月の全国人民代表大会におけるSの「民間人の戦争被害についてはその戦争賠償は放棄していない」との発言からである。1995(平成7)年3月に当時の外交部長が「1972年の日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれない」と発言したことによって、はじめて中国国民が日本による戦争被害について、日本や日本企業に損害賠償請求を行うことが政治的社会的に可能となったのである。中国の政治体制のもとでは、このような政府の発言のないままで中国国民が日本に対して戦争賠償を求める裁判を提起することなど、実際にはできないことであった。

(イ) 中国では国内法が整備されず、一般人の海外渡航が自由ではなかった。

一般の中国人が私的な目的のために私人として出国することは改革開放政策の本格化以前は原則として考える余地はなかった。1985年11月22日に「中華人民共和国公民出境入境管理法」が制定され、1986年2月1日から施行され、一般の中国人が自由に海外渡航する根拠となるパスポートの取得が原則的に自由化された。中国国内における法的な面でみた渡航可能性が出てきたのは1986年2月以降である。

(ウ) 経済面でも権利行使が期待できなかった。

1995年当時の中国の農村家庭一人当たりの純収入は月額131.15完(日本円で約1100円)程度でしかない。2000年の都市部集団経営部門の労働者平均給与は年収で6262元でしかなく、1元16円で換算すると約10万0200円でしかない。国有部門の労働者平均給与は年収9552元で約15万2900円でしかない。1985年では国有部門の労働者でも平均年収は1213元で約1万9408円でしかない。原告らが住んでいる農村部はこれよりも少ないことを考慮すると、日本へ来る費用を捻出することはできず、経済面においても権利行使は事実上不可能であった。本件訴訟において原告らが法廷で証言するための来日費用は新潟県内の多くの支援者からカンパによってまかなわれているのであり、原告らが自力で来日することは困難である。

(エ) 原告らの中国における一般人の法意識の問題と日本側の支援の必要性

原告らが被告国や被告会社に対して損害賠償請求訴訟を提超するにはさまざまな障害が存在していた。

原告らの訴訟を支援してくれる弁護士が必要であったが、このような弁護士も1990年代後半になってはじめて現れたのであって、それより前にこのような弁護士の支援は期待できなかった。法的な知識が全くなかった原告らにとって日本や企業に対して損害賠償を求める気持はあってもそのためには、どこに、どのような手続きをとればよいか、全くわからないことであった。

原告らに弁護士としての立場から支援活動を行ったのは中国人弁護士康健であるが、同弁護士が強制連行・強制労働問題に取り組むようになったのは「1996年8月以降」である。

原告らは中国に住んでおり、裁判を日本の裁判所に提起するということになると、訴訟手続きにも様々な問題と困難が予想され、また貧しい農民である原告らが訴訟費用を負担することもできなかった。また、原告らと日本の弁護士の意思伝達には必ず通訳が必要となり、通訳人の確保やその費用負担も問題であった。戦争賠償訴訟では国際法、国際私法、条約などが絡む様々な法的な争点も予想され、これらの問題を解決しながら訴訟を進めてゆくためには、とても1ないし2人の弁護士では無理であり、一定の数の弁護団が組織されることが必要であった。

このように原告らが本件訴訟を提起するためには、中国と日本にこれを支援し、代理人となって活動してくれる弁護士が必要不可欠であったのであり、そのような弁護士の活動が日本で具体化したのは1999年(平成11年)になってからであり、それ以前に原告らが被告らに対して訴訟を提起することは事実上不可能であったといえる。

オ 権利のうえに眠るものと評価できない原告らに対し、立証に不可欠な証拠を隠匿し、提訴を妨害する被告らの対応

(ア) このように戦後原告らの置かれていた状況や日中関係に基づく権利行使の困難性、日本の裁判所に対する本件訴訟提起そのものの困難性を考えると、原告らが1999年(平成11年)以前に本訴を提起することは事実上不可能であったと言ってよい。

ましてや被告会社が主張しているような昭和40年の時点において、原告らが本訴を提起することは到底無理であったのであって、被告らが原告らに対して不可能事を強いる主張をなしていることは明白である。

(イ) この意味では1999年(平成11年)、2000年(平成12年)及び2002年(平成14年)に本訴を提起した原告らは決して権利の上に眠っていたわけではない。原告らは訴訟提起が可能となるやできるだけ速やかに本訴提起に及んでいるのである。このような原告らの権利行使を被告らの主張する時効・除斥期間によって排斥することは、時効制度の趣旨に反し、かつ、その結果においても著しく正義・公平に反するものである。

(ウ) このような原告らの状況に引き換え、債務者である被告ら、特に被告国は前述したように、本件の立証に不可欠な外務省報告書を所持しながら、国会ではこの資料がないことにしようと、強制連行・強制労働の事実を隠し、闇から闇に葬り去ろうとした。本件における立証において、外務省報告書は強制連行・強制労働の事実を立証するうえで不可欠なものである。

また、被告国や企業が外務省報告書や事業所報告書等は作成したのは戦後、戦争犯罪に問われないようにするためであった。この報告書等は、ある部分では真実を反映しているが、戦争犯罪行為としての処罰を免れるという目的で作られている結果、原告らの待遇や労働実態については真実とはかけ離れており、虚偽の部分が多い。中国人の強制連行・強制労働の実態を正確に調査せず、虚偽の報告書等を被害の実態をねじ曲げようとしたこと自体も原告らの立証を困難にさせるという意味では義務者としての誠実な態度とはいえないのであり、信義則に反するものであるといえる。

この責任逃れのための虚偽の内容を含む報告書を作成し、真実をねじ曲げること自体も広い意味では提訴妨害であり、このような被害の実態をねじ曲げ、原告らの立証を困難にさせていることも消滅時効を適用して、加害者である被告国及び被告会社を保護すべきでない悪質な事情といえる。

カ 原告らに対する不誠実な加害者である被告会社に消滅時効を援用させることは正義・公平の理念に反する。

被告会社及びその前身たる企業も、原告らに対し、全く謝罪及び賠償・補償をしていない。被告会社においては、外務省報告書、社史などの記載により、強制連行の事実を調査確認する材料を有しながら、現在まで原告らからの聞き取り等の実態調査をしておらず、国家総動員法を持ち出して終始国に責任を転嫁している。また、原告本人らが一致して証言している通り、被告会社及びその前身たる企業らは、現在まで原告らに対し賃金の支払をしていない。さらに、被告会社は、敗戦により強制労働の継続が不可能となったことについて、日本国政府から補償を受けており、強制労働によって被告会社は莫大な利益を得ており、また、戦時中も中国人の強制労働による港湾荷役によって物資の輸送を円滑にする目的で、港湾整備のために被告国からの莫大な援助を受けており、それらの設備等は戦後も被告会社に引き継がれた。

以上のとおり、莫大な利益を得ながら被告会社及びその前身たる企業も、原告らに対し全く誠実な対応をしてこなかったのであり、このような加害者である被告会社の責任を免れさせることは正義・公平に反することは明らかである。

第6日中共同声明等により原告らの請求権が消滅したとの主張について

1 原告らの損害賠償請求権は、原告らが国籍を有する中華人民共和国と被告国の合意によって放棄したり、剥奪したりすることのできない原告ら固有の私的請求権である。

(1) 原告らの侵害された権利と損害賠償請求権の内容

原告らの損害賠償請求権は、故郷中国で獣を狩るようにして身柄を拘束し、貨物船と貨物列車により海を渡って遙なる異国の日本に強制連行し、衣食住の全てにわたって極めて劣悪な環境の下で、とりわけシベリアから日本海を渡って風雪が吹きつける酷寒の冬の新潟の港において苦役を課せるという、文字通りの奴隷的拘束と苦役を強制し、多数の人命を奪うという被告らの残虐な行為によって、人として享有している「人身の自由」、「奴隷的拘束および苦役からの自由」という基本的人権を侵害された損害賠償請求権である。

(2) 基本的人権の侵害による損害賠償請求権の主体とその処分権の帰属

生命と自由などに対する権利はいかなる契約によっても奪われない。そして、権利侵害の結果発生した損害賠償請求等の私的請求権は侵害された個人に帰属し、侵害された個人の意思によってのみ私的請求権である損害賠償請求権の処分が認められ、侵害した者や第三者による処分は許されないのは当然である。

その請求権の処分については、侵害された個人の帰属する団体の多数決原理が働く余地がなく、また個人の帰属する国家がその構成員である国民個人の私権たる損害賠償請求権を放棄したり剥奪する等の処分することができるという余地もない。

(3) 原告らの被告らに対する損害賠償請求権は、原告らの固有の私的請求権であり、原告らの属する中華人民共和国と被告である日本国の政府の合意によって放棄したり、奪ったりすることのできない原告ら固有の権利である。

2 日華平和条約の条文と日中共同声明の文言からも、原告らの損害賠償請求権は私的請求権である。

本件損害賠償請求権は放棄されておらず、日本の裁判所において権利を行使することが可能である。

(1) サンフランシスコ平和条約第14条(b)の解釈

原告らの損害賠償請求権は、原告ら個人の固有の私的請求権であり、国において放棄したり、剥奪することはできないものである。

また、日本国政府は、かつて国会の場での公式見解として、また裁判所における国の主張として、原告らの損害賠償請求権は、個人に帰属する私的請求権であり、国が放棄したり、剥奪したりすることができないと主張していた。

したがって、サンフランシスコ平和条約第14条(b)は、従前の日本国政府の公式見解のとおり、外交保護権を放棄したものであって、個人の私的請求権を放棄したものではないのである。

(2) サンフランシスコ平和条約の締結と中国の不参加

日本政府は、昭和26年9月8日、戦争状態を終了させ、我が国の主権を完全に回復すると共に、領域、政治、経済並びに請求権及び財産などの問題を最終的に解決するため、連合国との間でサンフランシスコ平和条約を締結した。

しかし、中国は、同条約を締約していない。

(3) サンフランシスコ平和条約第14条(b)の意味解釈

ア 日本国の上記条項に関する解釈

サンフランシスコ平和条約14条(b)について、オランダの全権大使スティッカー外相がオランダの政府見解として、「第14条(b)は連合国政府が自国民の私的請求権を放棄により剥奪することはできない」との見解を示していたのに対し、当時の日本国の全権大使の吉田首相は「日本国政府は、オランダ国政府が本条約の署名によって自国民の私的請求権を剥奪し、その結果条約発効後は、かかる請求権はもはや存在しなくなるとは考えません。」との書簡を送った。

イ その後、日本国は国会や裁判の場において、上記と同様の見解を表明してきた。

(4) 日華平和条約

ア 1952年(昭和27年)4月28日、日本国政府と中華民国政府の間で「日本国と中華民国との間の平和条約」(日華平和条約)が締結され、同条約の議定書1(b)で「中華民国は、日本国民に対する寛容と善意の表徴として、サンフランシスコ平和条約第14条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」と規定した。

しかし、サンフランシスコ平和条約第14条(a)1は、「日本国は、その領域が日本軍隊によって占領され、かつ、日本国によって損害を与えられた連合国のうち、希望する国との間で、生産、沈船引揚げその他の作業における日本人の役務を提供すること(いわゆる役務賠償)によって、与えた損害を当該連合国に補償するために、すみやかに交渉を開始しなければならない。」と規定しており、役務賠償請求の交渉権を放棄するというものである。

また、日本国と中華民国の各代表の間で同意された議事録4では、「中華民国は本条約の議定書第1項(b)において述べているように、役務賠償を自発的に放棄したので、サン・フランシスコ条約第14条(a)に基づき同国に及ぼされるべき唯一の残りの利益は、同条約第14条(a)2に規定された日本国の在外資産である。」と規定した。

このように、日華平和条約では、中華民国の国民個人の私的請求権を放棄することは一切規定されておらず、したがって、中華民国の国民個人の私的請求権が放棄されていないことは明らかである。

イ ところで、被告国は、日本国及びその国民と中華民国及びその国民との間の相互の請求権は、全て放棄されたことになると主張する。

しかし、そもそもサンフランシスコ平和条約第14条(b)や第19条(a)の規定は、前述したとおり、外交保護権の放棄をしたものであり、個人の私的請求権を放棄したものではないし、放棄しえるものでもない。

しかも、日華平和条約の交換公文において、この条約の適用範囲は、「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」であることが確認されているところ、日華平和条約の締結された1952年(昭和27年)には中華民国政府は、大陸の中国本土における支配権を失っていた。

したがって、中国本土に居住する原告らは、中華民国政府の支配下に現にあり、または今後入るすべての領域の外に居住しており、日華平和条約の適用を受けないのである。

また、日中共同声明前文に、「日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場にたって国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。」と明記されている。そして、その復交三原則の第3項は『日台条約』(日華平和条約)は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。」とされており、それが日中共同声明の当事者の意思である。

以上から、日本国政府と中華民国政府の間で締結された日華平和条約と交換公文の条項自体から、原告ら個人の私的請求権は放棄されていないことが明白である。

(5) 日中共同声明

ア 日中共同声明の文言

日本政府と中華人民共和国との間で、昭和47年9月29日、日中間の戦争状態を終結させるため、日中共同声明が発せられた。同声明の5項は、「中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のために、日本国に対する損害賠償の請求を放棄することを宣言する。」と規定した。

日中共同声明は、文言自体からして、中華人民共和国政府の日本国に対する戦争賠償の請求を放棄しただけであり、中華人民共和国の国民個人の日本国に対する請求権を放棄したとは規定されていないのであり、個人の私的請求権は放棄されていない。

イ ジュネーブ第4条条約

ところで、日本は、1953年に1949年ジュネーブ第4条条約に加入し、中華人民共和国も1956年に同条約を批准しているので、1972年の日中共同声明の当時には両国共に1949年ジュネーブ第4条条約の拘束を受けている。同条約第147条は、「身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与え、若しくは重大な傷害を与えること」、「不法に移送し若しくは拘禁すること」などを重大違反行為と定義し、同条約148条は、「締約国は前条に掲げる違反行為に関し、自国が負うべき責任を免れ、又は他の締約国をしてその国が負うべき責任から免れさせてはならない。」と規定している。また、7条では、「いかなる特別協定も、この条約で定める被保護者の地位に不利益な影響を及ぼし、又はこの条約で定める被保護者に与える権利を制限するものであってはならない。」と規定する。

したがって、日中共同声明が原告らの請求権を放棄する内容のものであれば、被保護者の地位に不利益な影響を及ぼし、被保護者に与える権利を制限することになり1949年ジュネーブ第4条条約に違反するものとなるから、日中共同声明によって放棄されたのは、国家間の賠償請求権であると解するのが相当である。

ウ 日中友好条約の締結と日中共同声明5項の厳格な遵守の確認

なお、日本政府と中華人民共和国は、1978年(昭和53年)10月23日、日中平和友好条約に調印した。日中共同声明以来、日中間では、貿易、海運、航空、漁業等様々な実務協定が締結されていたが、本格的かつ正常な国家関係の安定的な基礎が築かれたのは、上記条約の締結によってであった。同条約の前文においては、日中共同声明の5項が「厳格に遵守されるべきことを確認」するとされた。

エ 政府の公式見解で訴権の存在を確認

1992年4月7日に、衆議院内閣委員会で加藤紘一内閣官房長官は、「1972年に日中共同声明によりまして、いわゆる政府対政府、国家間の請求権、国家間の賠償に関する請求権は中国側が放棄された。そして、その際に国民が訴える権利というものは存在するけれども、それを政府が外交保護権をもって日本側に要求する権利は中国側が放棄してくれたというふうに理解しております。」、「訴権は存在する。したがって、日本の司法当局にそれを訴える権利は有するけれども、しかしそれは日本国内法上によって処理されていく。」と答弁した。

オ 結論

このように、日中共同声明は、外交保護権を放棄したとする解釈には賛成できないが、少なくとも、日中共同声明5項は、国家の請求権を放棄したものに過ぎず、中国国民の日本国内法上の請求権を消滅させたものではなく、中国国民は、日本の裁判所において本件損害賠償請求の裁判を行うことが認められるという点においては両国の政府当局者の見解は一致している。

日華平和条約の適用範囲は、交換公文書で、台湾等の当時の国民党政府が支配していた領域に限定されていたのであり、この日華平和条約も日中共同声明で無効であることを日中両国が確認しているのであるから、条約の適用範囲からいっても、その効力からいっても、被告国が主張するように日華平和条約とサンフランシスコ平和条約を持ち出して個人の請求権が放棄されたという主張は全く成り立たないのである。

(6) 中国の見解

ア サンフランシスコ平和条約締結の際の中国首相兼外交部長の見解

中国の周恩来首相兼外交部長は、サンフランシスコ平和条約締結に際し開催されたサンフランシスコ会議に関し、「中華人民共和国中央人民政府は、日本が平和経済を健全に発展させ、また、中日両国間の正常な貿易関係を回復、発展させ、日本人民の生活が二度と戦争の脅威や損害を受けず、本当に改善されることのできる可能性があることを証明されることを望むものである。同時に、かつて日本に占領され、甚大な損害をこうむったことがあり、しかも自力で回復することの困難な国々は、賠償を要求する権利を保有すべきものである。」と述べた。

また、中国政府は、外交部スポークスマンを通じて、「日本軍国主義者が、中国侵略戦争の期間中に、一千万人以上の中国国民を殺戮し、中国の公私の財産に数百億米ドルに上る損害を与え、また、何千、何万もの中国人を捕らえて日本に連れて行き、奴隷のようにこき使ったり、殺害したりした。日本政府は、中国人民がその受けた大きな損害について、賠償を要求する権利を持っていることを理解すべきである。」と表明した。

イ 中華人民共和国内では、昭和62年ころから、対日民間賠償請求問題の研究が開始された。また、民間においては、山東省、江蘇省及び浙江省の住民らが、昭和63年、日本大使館を通じ、賠償請求書簡を日本政府あてに送付し、いわゆる花岡事件の生存者4名が鹿島建設株式会社に対する公開状を発表するなどした。

ウ 1991年(平成3年)3月には、第7期全国人民代表会議第四回会議が開催された。

科学工業部幹部管理学院法学部教員Sは、同月28日、大会信訪局(民衆からの陳情、投書を受け付ける部局)を訪れ、「1931年から1945年にかけて、日本の侵略者が中国に対して与えた損害に基づく賠償は、約3000億米ドルである。その内訳は、戦争賠償が約1200億米ドル、被害に基づく賠償が約1800億米ドルである。1972年に中国政府は、日本人民の負担を軽減する趣旨から、日本に対する戦争賠償請求を放棄した。しかし、日本の侵略者が侵華戦争の過程において戦争規則及び人道上の原則に違反して中国人民及びその財産に対して犯した重大な罪業に関する賠償要求、つまり1800億米ドルの被害に係わる要求に関しては、中国政府はいかなる状況においても放棄するとは宣言していない。」との意見書を提出した。同意見書は、同会議に参加した20の代表団のうち、8の代表団の支持を得た。

エ 1992年(平成4年)3月に開催された第7期全国人民代表会議第5回会議では、日本に対して民間賠償を請求する議案が提起され、法定の支持者数を確保し、第7号議案として上程された。また、上記会議とほぼ同時期に開催された全国人民政治協商会議においても、「民間人および民間団体が日本国政府に対して戦争損害賠償を要求することを許可することに関して」と題する提案が行われた。

オ 当時の江沢民国家首席は、1992年(平成4年)4月1日、日本人記者団との会見において、「日本軍国主義が発動した侵華戦争は、中国人民に巨大な損害を引き起こした。戦争が残したいくつかの問題に関して、我々は、従来から事実に基づいて真実を求める、厳粛に対処するという原則を主張し、相互に協議してこれらの問題について条理にかなう形で妥当に解決すべきだと主張してきた。このようにすることが、両国の友好協力、共同発展及び両国人民の友好増進に有利である。戦争賠償問題に関しては、中国政府は、既に1972年に発表した中日共同声明の中で自らの立場を明らかに述べており、この立場は変わらない。」旨発言した。

1995年(平成7年)5月4日(<証拠略>)の村山総理と江沢民首席との会見についての記者ブリーフでも、「もちろん日本の中国侵略戦争は未だ問題を残しており、これら問題は今に至っても関係する中国人に精神的損害を残している。これら問題について日本側は真剣に対応し、適切に処理し、必要なことを行うよう希望する。」と中国側は述べている。この見解は個人の賠償請求権の問題は残っているという見解に立っているものである。

このブリーフでの「答 賠償問題は既に解決している。」との答えは、「中国政府は日本に対する賠償請求を正式に放棄したが」という質問に対応して、中国政府としては「賠償問題は既に解決している」という見解を述べているに過ぎない。

<証拠略>での銭其堯外交部長の発言も、中国政府としては日中共同声明の立場に変わりがないと回答しているである。日中共同声明は中国政府が戦争賠償を放棄するとしているのであるから、個人の賠償請求権は放棄していない。

カ 当時の銭其堯副首相兼外交部長は、1995年(平成7年)3月9日、全国人民代表大会の開催期間中、各省別の討議において、1972年の日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれず、補償の請求は国民の権利であり、政府は干渉すべきでないとの見解を示した。

キ 個人の賠償請求問題は日中間の遺留問題

今日においても、日中間の諸問題として戦争賠償問題があげられている。中国日本大使館がインターネットのホームページで、全世界に向けての中国の公式の立場を表明している。

すなわち、「(五) 戦争賠償問題」に、「日本は過去中国に対する侵略戦争で中国人民に重大な災難をもたらし、中国とその人民に巨大な損害を与えました。“前事を忘れず、後事の師とする”。われわれはこの痛ましい歴史をしっかりと記憶にとどめなければなりません。しかしそれと同時に、あの戦争を発動したのは少数の軍国主義者であり、日本人民も戦争の被害者であることを認識すべきであります。中国共産党と中国政府は一貫して少数の軍国主義者と日本人民を区別してきました。1972年、中日国交正常化交渉の場で、日本政府が過去の戦争で中国人民に多大な損害をもたらした重大な責任を痛感し、深く反省すると明確に表明しました。この前提の下、中国政府は日本に対する戦争賠償の要求を放棄することを決め、これを1972年に中日両国が署名した“中日共同声明”に載せました。1978年、中国第5回全国人民代表大会常務委員会第3次会議で可決した“中日平和友好条約”は再度法律文書の形で我が国の対日戦争賠償要求の放棄を確認しました。中国攻府は戦争賠償問題に関する立場が一貫して明確であり、それは即ち“中日共同声明”で表明した対日戦争賠償要求の放棄を堅持し、“中日平和友好条約”で承諾した国際条約上の義務を引き続き履行します。しかし、それと同時に、中国に遺棄した日本の化学兵器、中国人女性を強制的に日本の中国侵略軍の従軍“慰安婦”に連行したこと、中国労働者を強制連行したなどの問題に関しては、中国政府は人民の正当な利益を擁護する立場から、日本側に真剣な対応と善処を要求しています。」と記載し、中国も戦争賠償要求を放棄したのは中国の国家としての賠償請求権であることを前提に、個人の賠償問題を日中間の遺留問題としてその解決を我が国に求めている。

(7) 結論

以上のとおり、日中共同声明及び日中平和友好条約により、原告ら中国国民固有の私的請求権は放棄されておらず、日本の裁判所において本件損害賠償請求の裁判を行うことができるのである。

3 被告国の主張は禁反言の法理に違反する。

(1) 被告国は、本件訴訟において、日華平和条約と日中共同声明、サンフランシスコ平和条約等により、原告らの損害賠償請求権が放棄されたものであると主張している。

(2) しかし、被告国は、以下のような答弁・主張等をしている。

ア サンフランシスコ平和条約第14条(b)に関する吉田首相の書簡

サンフランシスコ平和条約14条(b)について、当時の日本国の全権大使の吉田首相は、オランダの全権大使スティッカー外相に対し、「わが政府の見解としては、第14条b項は、正確なる解釈上、各連合政府が自国民の私的請求権を剥奪することを包含しておらず、従って本条約発効後、この種請求権が消滅することにはならないものと考えます」との書簡を送り(<証拠略>)、個人の請求権が14条(b)によって放棄されていないことを表明していた。

イ 平成14年11月12日第155回国会の内閣委員会において、林景一政府参考人は、「御指摘の吉田・スティッカー書簡におきまして、当時の吉田全権が表明いたしましたこの請求権についての考え方というのは、これは単にオランダとの関係ということだけではございませんで、平和条約についての我が国の立場を表明したもの」であると答弁した。

ウ 外務省柳井俊二条約局長は、1991年(平成3年)8月27日の参議院予算委員会において、「いわゆる日韓請求権協定におきまして、両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが、日韓両国において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできないという意味でございます。」と答弁した。

エ 1992年4月7日、加藤紘一内閣官房長官は、衆議院内閣委員会で、「1972年に日中共同声明によりまして、いわゆる政府対政府、国家間の請求権、国家間の賠償に関する請求権は中国側が放棄された。そして、その際に国民が訴える権利というものは存在するけれども、それを政府が外交保護権をもって日本側に要求する権利は中国側が放棄してくれたというふうに理解しております。」、「訴権は存在する。したがって、日本の司法当局にそれを訴える権利は有するけれども、しかしそれは日本国内法上によって処理されていく。」と答弁した。

オ 被告国は、サンフランシスコ平和条約請求権放棄賠償請求訴訟第2審(東京高等裁判所昭和34年4月8日判決)において、サンフランシスコ平和条約第19条(a)項によって放棄された請求権は、「日本国が国際法上外国に対して有する前示いわゆる外交保護権に関するものであり、被害者たる日本国民が本国政府を通じないで、これとは独立して直接に賠償を求める国際法上の請求権あるいは私法上の損害賠償請求権の如きはこれを含まないと解すべきである。即ち後者の権利は本来国家のもつ権利ではないから、国家が外国との条約によってどんな約束をしようとそれによって直接に個人がこの権利を失う結果を生ずるものではない。尤も日本国がその国民の連合国及びその国民に対して個人的請求権を行使することを禁止するため必要な立法的及び行政的措置をとることを連合国に対して約束することは、理論上可能なことであるが、対日平和条約は請求権の放棄条項を規定するに止まり、イタリアその他五カ国の平和条約に規定せられているような請求権の消滅条件と共に補償条項を何ら規定していないのであるから、右平和条項第19条により個人の請求権が消滅したものと論壇することは困難であり、また個人の請求権行使を禁止する約束をしたものとも解することはできない。」と主張した。

カ 被告国は、原爆訴訟(東京地裁昭和38年12月7日判決)において、サンフランシスコ平和条約第19条(a)の規定によって、日本国はその国民個人の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことにはならないと主張し、その理由として、(1)国家が個人の国際法上の賠償請求権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利を国家が外国との合意によって放棄できることは疑いないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異なるから、国家が外国との条約によってどういう約束をしようと、それによって直接これに影響は及ばない。(2)従ってサンフランシスコ平和条約第19条(a)にいう「日本国民の権利」は、国民自身の請求権を基礎とする日本の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。日本はその国民が連合国及び連合国国民に対し請求権を行使することを禁止するために、必要な立法、行政措置をとることを相手国との間で約束することは可能である。しかし、イタリアほか五カ国との平和条約に規定されているような請求権の消滅条項及びこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民自身の請求権はこれによって消滅しない。従って、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日兵務条約により放棄されたものではないから、何ら原告らが権利を侵害されたことにはならない。」と主張した。

(3) 禁反言の法理に違反

被告国の一連の主張は、政府の正式見解に従って主張されたものであり、本件原告らの損害賠償請求権は、国民である個人に帰属し国家の有する権利ではないので、国家が条約等で外国とどのような合意をしても国民の私的な請求権を失わせることはできないこと、また仮に国が他の国との間で個人の私的な請求権を放棄する合意をしたとしても、それは放棄できないものを放棄したと合意しただけであり、国民個人の私的請求権は消滅しないことを認めたものである。

被告国の本件訴訟における請求権の放棄により原告らの被告国に対する損害賠償請求権が消滅したとの主張は、禁反言の法理に違反し、そのような主張をすることは正義・公平の観点から許されない。

第7原告らの損害とその回復の必要性

1 原告らは、いずれもある日突然異国の軍隊の銃剣の下に暴力的に拉致され、あるいは異国の軍隊の手先たちの口車によって騙され、収容施設に連行された。

そして、愛する妻子や親、兄弟と別れる暇も与えられないまま引き裂かれ、ついには愛する祖国を侵略している敵国に家畜のように運ばれ、厳寒の新潟港で、まるで牛馬のように重筋労働に就かされた。被告らは、自らが進めた侵略戦争が敗戦に終わるその日まで、この原告らを奴隷同然に扱い、酷使し続けた。

この強制連行、強制労働それ自体に対する原告らの怒りや悔しさ、悲しさがどれほど大きいものであるかは、その立場に自らを置き換えてみれば容易に想像がつくはずである。

特にここで考えてみなければならない特別の被害として、愛する祖国からその敵国に連れていかれ、最愛の妻子や親兄弟を侵略する側の生産活動に従事させられたということの精神的被害の深刻さ、及び、この被害の回復をどのようにして実現するのかという点を挙げなければならない。原告らは、戦後、祖国へ帰ってから現在まで、「敵国で侵略戦争のための生産に携わった」という消しようのない重大な負い目を背負って生活してきた。この点の特別の被害をどのようにして回復していくかは、本訴訟の重要な課題といえる。

2 この不法な強制連行・強制労働について、被告国は自らの犯した人道に対する罪をいささかも反省せず、原告ら被害者たちの謝罪と償いを受けたいという極くささやかな願いを完全に無視、黙視するという不誠実な態度をとり続けてきている。

また、被告会社も、謝罪や償いはおろか、原告らを奴隷のように酷使したその対価としての賃金すら未払いのまま済ませようとしている。

こうした状況を振り返ってみれば、原告らに対する中国人強制連行、強制労働事件は、日本の敗戦をもって終了したとは到底言えず、いまもなお原告らの怒りや悔しさ、悲しさを増大させ続けていると言わなければならない。

3 以上のような原告らの被害の大きさ及び被害の質の特殊性を考慮するなら、被告らはまず第1に原告ら強制連行被害者に誠意ある謝罪を行い、原告らの苦痛に対する慰謝の措置を講ずるとともに、金銭賠償による償いを行うべきは当然である。

原告らが請求する謝罪広告はこの慰謝の措置に対応するものである。また、本件に妥当する慰謝料額(財産的損害である無報酬労働、逸失利益や精神的・肉体的被害、弁護士費用等一切を含む)は本来2500万円を大幅に越えると考えられるが、誠意ある謝罪がなされることを前提に慰謝料として各原告ともに各2500万円を請求するものである(なお、強制労働に従事させられる等したAは、2000年〔平成12年〕○月○日に死亡し、その妻である原告A1及び息子である同A2が相続人であるところ、同年7月28日、原告A1が80パーセント、同A2が20パーセントを相続する旨の遺産分割協議が成立したので、原告A1については2000万円、同A2については500万円をそれぞれ請求する。)。

(別紙8)

被告国の主張

第1はじめに

原告らは、被告国の中国人に対する強制連行・強制労働政策及び同政策に基づく原告らに対する強制連行・強制労働に関与した個々の日本軍人等が行った行為が違法であるとして、被告国に対し損害賠償及び謝罪広告掲載を請求しているが、以下に述べるとおり、原告らが主張する法的根拠はいずれも理由がないので、原告らの請求は、いずれも棄却を免れない。

第2国際法に基づく損害賠償請求権について

原告らは、国家の国際法違反行為により、原告ら個人が被告国に対して、直接に損害賠償請求権を有するかのごとく主張している。

そこで、まず、国際法上の個人の法主体性に関する基本的な考え方を示し、原告らの主張が失当であることを明らかにする。

1 国際法の基本的な考え方

(1) 国際法は、国家と国家との関係を規律する法であり、条約であれ国際慣習法であれ、第一義的には、国家間の権利義務を定めるものである。したがって、国際法が個人の権利の保護、確保に関する規定を置いていたとしても、原則として、個人に条約に基づいて他国に対する請求権を認めたものと解することはできない。すなわち、一定の条約が個人の権利に関する規定を置いていて、それが個人の権利を保護、確保する趣旨にあったとしても、その条約は、原則的には、国家と他の国家との国際法上の権利義務として、個人の権利に関する規定を遵守し、その結果として個人の権利を保護する趣旨を全うするということを意味するにとどまる。そして、国際法が、個人の権利に関する規定を置いたということから、直ちに、個人に国際法上の権利主体性か認められたとし、これによって当該個人に直接国際法上何らかの請求権が付与されたと解することはできないのである。

(2) このように国際法が原則として国家間の権利義務を規律するものである以上、ある国家が国際法に違反するとして国家責任を負うべき場合に、国家責任を追及できる主体も原則として国家である。

このことは、直接の被害者が個人であったとしても、加害国との関係で国際法違反を理由とする以上、同様である。この場合に加害国に国家責任を問い得るのは、被害者個人やその遺族ではなく、被害者の属する国家であり、当該国家が外交保護権を行使するというのが国際法の基本的な考え方である。すなわち、「国は、その人民が他国の犯した国際法違反の行為により損害を受け、その国から通常の経路を経て賠償を得ることができなかった場合に、その人民を保護する権利をもつ、これが国際法の基本原則である。その一人民の言い分を取り上げ、かれのために外交行動または国際裁判手続に訴えることによって、国は、実は、それ自身の権利―その人民の一身において、国際法規の尊重を確保する権利―を主張しているのである。」(常設国際司法裁判所1942年8月30日判決)とされているのである。

(3) この点については、我が国の裁判例においても、承認されている。

(4) ところで、今世紀に入って、国際法違反行為により権利を侵害された個人が直接国際法上の手続によってその救済を求め得るような制度、すなわち当事国間に特別に設けられた裁判所等に個人の出訴権を認めることなどを内容とする条約が締結される例がある。このような場合においては、例外的に、個人が国家に対し特定の行為を行うことを国際法上の手続により要求できる地位を条約自身が与えているとみることができる。その限りにおいて、個人に国際法上の法主体性が認められたということもあるが、これは当該条約自身がそのように定めたことの効果にすぎないのである。したがって、かかる条項のない条約は、上記原則に立ち返り、個人に条約ないしは国際法上の法主体性が認められないということになる。

(5) また、個人の国際法主体性が認められるには、単にその権利義務が国際法(特に条約)で規定されているだけでは不十分であり、個人がその名において(国家の外交保護権によることなく)国際法上の権利を主張しその義務を追及することができるよう、特別の国際法上の手続(国際裁判所または国際機関における当事者適格)の存在を要する。

(6) したがって、条約自体が、権利を侵害された個人に対し、直接国際法上の手続によってその救済を図る制度を認めているような例外的場合を除いては、個人は、加害国に対し、条約を根拠としても、損害賠償等を請求することはできないのである。

2 原告らの主張する個々の条約等国際法違反に対する反論

上記国際法上の個人の法主体性に関する基本的な考え方を前提に、原告らの主張する個々の条約等国際法について検討する。

(1) 奴隷条約及び国際慣習法としての奴隷制の禁止違反の主張について

原告らは、被告国は国際連盟が1926年に採択した奴隷条約を批准していないが、奴隷制度及びこれに類似する強制労働の禁止は本件当時国際慣習法として確立しており、被告国の中国人に対する組織的な強制連行・強制労働政策は、奴隷条約が禁止する奴隷制もしくはこれに類似するものであり、奴隷条約及び国際慣習法としての奴隷制の禁止に違反する旨主張する。

しかし、奴隷制禁止違反を理由に個人への金銭給付及び謝罪を請求するのであれば、その請求原因として、個人の金銭給付請求権及び謝罪請求権に結びつく具体的主張をしなければならないにもかかわらず、原告らは、これをしておらず、原告らの主張は、それ自体失当である。

(2) 人道に対する罪違反の主張について

原告らは、被告国による中国人に対する強制連行・強制労働は人道に対する罪にあたるものであり、人道に対する罪は個人の犯罪の構成要件を規定したものではあるが、個人が刑事罰に処せられるほどの違法行為から生じた結果については、当事者の国家もその責任を免れない旨主張する。

しかしながら、原告らが、人道に対する罪という戦争犯罪を理由として、原告ら個人への金銭給付及び謝罪広告を請求するのであれば、その請求原因として、個人の金銭給付請求権及び謝罪請求権に結びつく具体的主張をしなければならないにもかかわらず、原告らはこれをしていないので、主張自体失当である。

この点をしばらくおくとして、国際法としての人道に対する罪について検討しても、以下に述べるとおり、人道に対する罪の性質は被害者個人に民事的請求権を基礎付けるものではないから、原告らの主張は失当である。

ア 「人道に対する罪」の性質と法的効果については、学説上種々の見解が存在しているが、同罪を初めて明文化したニュールンベルグ国際軍事裁判所条例6条は、「次の諸行爲若しくはその何れか一つは裁判所の管轄權に属する犯罪であって、之れに對しては個人的責任が存する。・・・C人道に對する罪―即ち、犯行のなされた國家の國内法を侵犯したか否かに拘わらず、本裁判所の管轄内にある、何れかの犯罪の遂行に當り、又は、これに關連して、戰前及び戰争中一般人民に對してなされた謀殺・掃滅・奴隷化・強制移送、及び、その他の非人道的行為、若しくは政治的・人種的・宗教的理由に基づく迫害」と規定する。また、極東軍事裁判所条例5条は、「本裁判所は、平和に対する罪を包含せる犯罪に付個人として又は団体構成員として訴追せられたる極東戦争犯罪人を審理し、処罰するの権限を有す。左に掲ぐる一又は数個の行為は、個人責任あるものとし、本裁判所の管轄に属する犯罪とす。」、「(ハ) 人道に対する罪 即ち、戦前又は戦時中為されたる殺戮、殲滅、奴隷的虐使、追放其の他の非人道的行為、若は政治的又は人種的理由に基く迫害行為であって犯行地の国内法違反たると否とを問はず本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関聯して為されたるもの。」と規定する。

この各条例によれば、「人道に対する罪」とは、一般市民に対する殺りく・絶滅・奴隷的虐待・追放その他の非人道的行為又は政治的・人種的・宗教的理由による迫害をいうものと解される。なお、この「人道に対する罪」は、一般的にいえば、その国籍を問わず一般住民に対する行為で、戦争中であるか否かにかかわらず処罰の対象となるという点が、従来の戦争犯罪(いわゆる戦争法規違反)と比較して特徴的なものである。

イ しかしながら、この「人道に対する罪」は、前記各条項の文言からすれば、明らかに違反行為者個人の犯罪構成要件を規定しているものである上、各条例が、先の第二次世界大戦に関連して行われた(侵略又は国際法違反の戦争への関与行為)非人道的行為・迫害行為を行った行為者個人の刑事責任を明らかにし、これを処罰するために設けられたものであることを合わせて考慮すると、「人道に対する罪」の違反行為は、行為者個人の国際刑事責任が追及されるという効果を有するにすぎず、違反行為者個人の所属する国家の民事的責任を基礎付けるものではない。

この点は、裁判例においても、明確に認められているところである。

(3) ILO第29号条約(強制労働条約)違反の主張について

原告らは、原告らを含む中国人に対する強制連行・強制労働は、日本が1932年(昭和7年)11月21日に批准したILO第29号条約(強制労働条約)が禁止する強制労働に違反するものであった旨主張する。

しかしながら、個人への金銭給付及び謝罪広告を請求する場合の請求原因として、同条約と個人の金銭給付請求権及び謝罪請求権とを結びつける具体的主張をしなければならないにもかかわらず、原告らはこれをしておらず、原告らの主張は、それ自体失当である。

そして、この点をしばらくおくとしても、同条約については、金銭給付請求権、謝罪請求権等についての規定を欠いているのであるから、前記の国際法の原則からすれば、同条約に基づき原告らの損害賠償請求権等が発生するということはできず、原告らの請求の根拠たり得ない。

(4) ハーグ条約違反の主張について

原告らは、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)3条等に基づいて被害を受けた個人が加害国家に対し損害賠償を請求することができるとし、ハーグ陸戦条約3条がこれを規定しているかのように主張する。

しかし、ハーグ陸戦条約3条は、その文言上も、交戦当事国間の国家責任を明らかにしたものにすぎず、国家が、交戦当事国の被害者個人に対して直接損害賠償責任を負う趣旨ではない。

そして、個人は原則として国際法上の法主体とはなり得ないとする国際法の基本原則に従って同条項を解釈する限り、以下のとおり、同条項がこの原則の例外を規定したものとは到底解し得ないのであり、原告らの請求は失当である。

ア 条約の文言解釈

(ア) 条約は、何よりもまず条約文の用語の自然又は通常の意味内容により客観的に解釈されるべきである。このことは、条約当事国の意思は条約文に表明されるのであるから、当然のことである。

そして、このような観点からハーグ陸戦条約3条の規定をみると、同条は、ハーグ陸戦規則(ハーグ陸戦条約に附属する「陸戦法規慣例ニ関スル規則」を指す。)の規定に違反した交戦当事国がその損害を賠償する責任を負う旨を規定するものであるが、責任を負うべき相手方やその実現方法に関する定めは一切なく、ましてや個人が直接自己の権利を主張するための国際法上の手続も定めていないのである。すなわち、ハーグ陸戦条約3条は、その文言上、個人に権利を認めたものとはいえない。

したがって、同条は、交戦当事者である国家が直接個人に対して賠償責任を負うことを定めたものではなく、前述の国際法の一般原則のとおり、国家間の権利義務を規定したものと解するほかはない。

(イ) ハーグ陸戦条約3条のこのような解釈が正しいことは、次の点からも明らかである。

a ハーグ陸戦条約3条に関し、1863年に設立され、戦争・紛争時の人道援助及び国際人道法の普及等を行っている赤十字国際委員会の1952年当時の見解を示す同委員会発行の「ジュネーヴ条約解説I」(<証拠略>)がある。

同委員会は、同書の「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」51条の解説中に、「われわれの見解では、第51条の目的は、敗戦国が休戦協定又は平和条約において、戦勝国の勤務者が行った違反行為に対するすべての請求権の放棄を強制されるのを防止するにある。条約の違反行為に対するこの物質上の賠償に関し、被害者が、違反行為を行った者が所属していた国に対して個人として訴訟を提起することは、少なくとも現存の法律制度の下においては、想像しがたいことである。そうした請求は、国のみが他国に対して提出することができるのである。これらの請求は、通常、『戦争の賠償(war reparations)』といわれるものの範ちゅうに属するものである。」と記述している。

b 同委員会の見解は、上記a以外でも、「ジュネーヴ条約解説II(1959年刊)」における「海上にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」52条の解説(<証拠略>)、「ジュネーヴ条約解説III(1958年刊)」における「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」131条の解説(<証拠略>)及び「ジュネーヴ条約解説IV(1956年刊)」における「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーブ条約」148条の解説(<証拠略>)にそれぞれ同様の記述がされている。

c このように、1952年当時における一般的な解釈は、ハーグ陸戦条約3条による責任が、国際法の原則どおり、国家間のものであると解されていたことを示すものであり、上記の解釈が正当であることを裏付けるものである。そして、この立場は、我が国の裁判例においても採用されている立場である。

イ 事後の実行について

当事国が条約上の権利義務の意味と範囲をどのように理解していたかを示す一つの証拠として、条約締結後に当事国の間で行われた合意や慣行等の事後の実行がある。

しかしながら、このような観点からみても、同条約が締結された後、約90年が経過した現在に至るまで、ハーグ陸戦条約3条に基づく実体的権利があることを理由に個人に対する損害賠償が実行された例は見当たらない。このことは、また前記文言解釈の正当性を裏付けるものである。

ウ 審議経過等について

そもそも、条約文の審議経過や提案考の意図といったものは、条約文が曖昧または不明確等の場合に、補足的な解釈手段として例外的に利用される場合があるにすぎない(ウィーン条約32条(a))。しかし、ハーグ陸戦条約3条に関しては、条約の文言上、国家間の権利義務を定めていることが明らかで、また、事後の実行上も文言解釈の正当性が裏付けられているのであるから、この解釈手段を採用する前提がない。

エ 以上によれば、同条は、そもそも原告らの損害賠償請求権の権利根拠規定とはなり得ない。

オ また、原告らは、中国人に対する強制労働・強制連行は1949年ジュネーブ第4条約に違反するとも主張している。

しかしながら、原告らが主張するところによれば、この条約は1949年に採択されたというのであり、原告らの主張する被告国の行為は、同条約が採択される前のものであるから、原告らの主張にかかる被告国の行為が同条約に違反することはあり得ない。

(5) 国際慣習法の成立について

原告らは、上記のような条約等の違反の効果として個人が損害賠償請求権を有することの根拠を、その旨の国際慣習法の成立にも求めるようでもある。

しかし、国際慣習法が成立するためには、<1>諸国家の実行が反復され、恒常的で均一の慣行となったという「一般慣行」、<2>一般慣行について、国家が国際法上義務的なものとして要求されていると認識しているという「法的確信」がそれぞれ認められることが必要である。

この点については、国際慣習法上も、個人に関する請求であっても、これを国際的に提起する資格を持つのは国家であるとの原則が、今日もなお維持されており、個人の国際法上の請求権を与えた事例はないとされているところであり、裁判例も、そのような国際慣習法の成立を否定している。

(6) 以上のとおり、原告らが主張する条約ないしは国際慣習法は原告らの請求の根拠にはならない。

3 国際法の国内的効力について

原告らは、ハーグ陸戦条約3条等の条約ないしそれらと同旨の国際慣習法が国内法としての効力を有すると主張する。

しかし、ハーグ陸戦条約3条等の条約ないしそれらと同旨の国際慣習法については国家間の賠償責任を定めた規定と解するほかなく、個人の権利義務を定めた規定ではないことは前述のとおりである。このような規定が国内法的効力を有しているとしても、そのことから、原告ら個人が国内法的に賠償請求権を取得するという結論にはなり得ない。すなわち、これら条約等は個人を賠償請求主体として認めたものではないのであるから、これに国内法的効力が認められたからといって、個人の権利が創設されることはあり得ないのであって、国家責任に関する規定が国内法的効力を有していることを根拠に原告ら個人の賠償請求権を認めることは、解釈に名を借りた立法にほかならない。

したがって、原告らのこの点に関する主張も前提を欠き失当というほかない。

第3中華民国民法上の不法行為に基づく損害賠償請求権について

1 法例11条1項の適用可能性について

原告らは、被告国の中国人に対する強制連行・強制労働政策及び同政策に基づく原告らに対する強制連行・強制労働に関与した個々の日本軍人等が行った行為が当時の中華民国国内法に違反しており、この政策及び行為については、法例11条1項により、中華民国民法184条1項前段、188条1項前段、195条1項に基づき損害賠償等を請求する権利を有する旨主張する。

しかしながら、国際私法は渉外的私法関係に適用すべき私法を指定する法則である。

本件で原告らが被告国の原告らに対する加害行為とするのは、戦争遂行のための政策であるとする強制連行・強制労働政策自体及びこれに基づく日本軍人等の行為というのであり、この原告らの主張を前提とすれば、かかる行為は正に権力作用であり、極めて公法的色彩が強いから、これを国際私法上の問題として一般抵触法規である法例を適用すること自体に疑問がある。

また、仮にこれを国際私法の観点から見るとすれば、法例11条にいう「不法行為」という法律概念が、原告らの主張する法律関係を包摂するかどうかが検討されなければならない。換言すれば、同条にいう「不法行為」という法律概念が上記のような法律関係を対象としていないのであれば、同条を適用する余地はない。

法例11条の「不法行為」という法律概念の事項的適用範囲を画定することは、国際私法における法律関係性質決定の問題であるが、この問題は、「不法行為」という国際私法規定の解釈問題であって、具体的には、各国際私法規定の精神・目的ないし趣旨とされるところに従い、各国実質法の比較検討等を通じて決定される事項である。これを差し当たり、我が国の国家賠償法についてみても、同法6条は、「この法律は、外国人が被害者である場合には、相互の保証があるときに限り、これを適用する。」と規定し、民法の不法行為と異なり、いわゆる相互保証主義を採ることを定めている。そして、国家賠償法がかかる相互保証主義を採用したということは、公権力の行使に基づく損害賠償責任の領域は、民法の予定する損害賠償責任の領域とは異なり、国の利害に直接関係する領域を構成することを示すものである。

すなわち、本件のような公権力の行使に伴う国家の責任の有無・程度は、当該国家の公益・政策と密接不可分の関係にあるため、その法律関係に対しては、当該国家の法が最も密接に関係しているとされるのである。そうすると、法律関係の性質決定の問題として、本件の法律関係は、法例11条にいう「不法行為」概念に包摂されないものといわざるを得ず、これに最も密接に関係している我が国の法律が適用されるべきであるから、原告らの本件請求について、法例11条が適用される余地はない。

2 日本法の累積適用について

上記のとおり、本件請求については、我が国の法律に基づいてその根拠たる要件事実が主張されるべきであるが、仮に原告らの主張するように法例11条の適用があるとしても、以下に述べるとおり、不法行為の成立には同条2項、3項により、日本法が累積適用されるから、いずれにしても、日本法の要件事実の主張、立証を欠くことはできない。

すなわち、法例11条1項は、不法行為の成立及び効力に関するすべての問題に不法行為地法を適用するとしている一方、法例11条2項は、不法行為の成立について法廷地法である日本法の適用を規定する。このように法例が不法行為の成立につき1項において不法行為地法主義を採りながら2項を置き、法廷地法主義との折衷主義を採ったのは、内国公序の立場から、日本法に照らして不法行為でない行為を不法行為として救済を与える必要がないとするものである。すなわち、法例の規定は、不法行為地法と日本法との一般的な累積適用を認めたものとして、両者の要件をともに具備しなければ不法行為が成立しないとするものである。

また、前記のように、法例11条1項は、効力に関わるすべての問題についても不法行為地法によるとしている。これら効力に関する問題としては、損害賠償請求権を取得する者の範囲、損害賠償の範囲及び方法といった事項はもとより、発生した損害賠償請求権の譲渡性、相続性、時効等の問題等がある。しかし、効力の問題についても、同条3項は、不法行為の効力の問題全般について、日本法を累積的に適用するものとしている。そして、このような規定を置いた法例の趣旨は、結局、日本の裁判所が日本法上不法行為であると認める範囲内においてのみ不法行為による救済に助力するということにほかならない。

以上のとおり、法例11条1項を根拠とする原告らの請求については、同条2項、3項が適用されることにより、不法行為の成立及び効果の双方について、不法行為地法と法廷地法とが累積的に適用されることになる。したがって、原告らは、その主張する行為が損害賠償請求権の発生根拠としての不法行為に該当するというためには、当該行為に係る日本法の要件事実についても主張立証しなければならない。

3 日本法の適用について

以上のとおり、原告らの前記請求は、いずれにしても日本法の要件を充足しなければならない。

(1) 国家無答責の原則について

ア 原告らが主張する加害行為は、我が国の国家賠償法施行前の行為である。

ところで、大日本帝国憲法下においては、国又は公共団体の権力作用については、私法たる民法の適用はなく、損害賠償責任は否定されていた(国家無答責の原則)。すなわち、この点に関し代表的な判例である大審院昭和16年2月27日判決は、「按ズルニ凡ソ国家又ハ公共団体ノ行動ノ中統治権ニ基ク権力的行動ニツキテハ私法タル民法ノ規定ヲ適用スベキニアラザルハ言ヲ侯タザルトコロ・・・町税ノ滞納処分ハ公共団体タル町が国家ヨリ付与セラレタル統治権ニ基ク権力行動ナルヲ以テ、之ニ関シテハ民法ヲ適用スベキ限リニアラザレバ・・・」と判示し、また、最高裁判所昭和25年4月11日第三小法廷判決も、「国家賠償法施行以前においては、一般的に国に賠償責任を認める法令上の根拠のなかったことは前述のとおりであって、大審院も公務員の違法な公権力の行使に関して、常に国に賠償責任のないことを判示して来たのである。」と判示しているように、権力作用については、公法上の行為として民法の適用は排除され、また、これを規律する法令上の根拠もなかったことから、国の損害賠償責任は認められていなかったのである。

そして、国家賠償法附則6項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と定めたから、原告らの前記請求は、損害賠償請求の根拠を欠くものというほかはない。

(2) この点について、原告らは、外国において日本軍が外国人の民間人を不当に拘束したという事案に、国家無答責の法理を適用することはできないとし、外国人である原告らについては、国家無答責の原則を適用すべきではないと主張するようである。

しかしながら、当時の我が国の法体系においては、軍隊の行為は被告国の戦争行為の一作用として権力作用に属し、権力作用については、民法の適用がなかったことは明らかである。当該行為が権力的作用である以上、そのことは被害者が日本人であると外国人であるとを問わないのであって、これによる損害については外国人も民法に基づきその賠償を請求することができなかったというほかない。

また、国家無答責の法理は、実体法である私法ないし民法の適用自体を排除しているものであって、既述のとおり、行政裁判法及び旧民法が公布された明治23年の時点で、公権力の行使については、国は損害賠償責任を負わないという立法政策が確立していたものであり、当時の我が国の国内法制において、権力作用につき、外国人が被害者である場合には、国家責任を肯定し、日本人が被害者である場合には国家無答責となるといった異なる結果を導くことを許容していたとは到底考えられない。

(3) したがって、原告らの主張する旧日本軍の行為については、被告国は原告らに対して損害賠償責任を負うことはない。

4 民法724条後段の適用

(1) 本件では、仮に法例11条が適用され中華民国民法が準拠法として適用されるとしても、原告らの主張に係る旧日本軍の行為から、本訴提起前に既に20年が経過しているので、法例11条3項、民法724条後段により、不法行為に基づく損害賠償請求権は法律上当然に消滅している。

(2) 民法724条後段についての原告らの主張について

ア 原告らは、民法724条後段の20年の期間は時効期間と解すべきであると主張する。

しかし、民法724条後段は、「(不法行為ニ因ル損害賠償ノ請求権ハ)・・・不法行為ノ時ヨリニ十年ヲ経過シタルトキ亦同シ」と定めている。この20年の期間の性質及び期間経過の効果について、最高裁判所平成元年12月21日第一小法廷判決(以下「最高裁平成元年判決」という。)は、「民法724条後段の規定は、不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である。けだし、同条がその前段で3年の短期の時効について規定し、更に同条後段で20年の長期の時効を規定していると解することは、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨に沿わず、むしろ同条前段の3年の時効は損害及び加害者の認識という被害者側の主観的な事情によってその完成が左右されるが、同条後段の20年の期間は被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当であるからである。」と判示している。

また、最高裁判所平成10年6月12日第二小法廷判決(以下「最高裁平成10年判決」という。)は、最高裁平成元年判決を引用して、「民法724条後段の規定は、不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり、不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間の経過後に提起された場合には、裁判所は、当事者からの主張がなくても、除斥期間の経過により右請求権が消滅したものと判断すべきであるから、除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張は、主張自体失当である」と判示した。

このように、最高裁平成元年判決及び最高裁平成10年判決は、いずれも民法724条後段の期間を除斥期間と解しているのであり、判例は確立しているのであるから、時効期間であるとする原告らの主張は、独自の見解であって失当である。

イ また、原告らは、1995年3月9日の中国外交部長(当時)の発言によって初めて権利行使可能性が開け、1999年(平成11年)4月に原告ら代理人との出会によって具体的な権利行使の可能性が生じたとし、この時点を起算点とするか、それまでは期間の進行ないし完了が停止する旨主張するようである。

しかしながら、民法724条後段の除斥期間の起算点が不法行為の時であることは、その文言上明らかである。そして、「損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」を起算点とする同条前段の規定と対比すれば、原告らが主張するように権利行使可能性の観点から同条後段の「不法行為ノ時」を解釈する余地はない。また、法律関係の早期確定を図るとする前述の法の趣旨からも、当然のことである。

そして、除斥期間の性質とその法意に照らせば、原告らが主張する上記のような事情は、除斥期間の進行を妨げる理由にはなるものではない。

仮に、上記のような事情をもって除斥期間の進行を妨げる事由たり得るとすれば、上記のような事情が継続する限り、権利が消滅することはないという結論になるが、そのような結論は、法律関係の早期確定という法の要請に反するものといわなけれはならない。

したがって、原告らのこの主張もまた失当である。

ウ さらに、原告らは、最高裁平成10年判決に言及し、民法724条後段について、<1>義務者による権利行使の阻害度、<2>権利行使の成熟度、<3>権利保護の必要性、<4>義務保護の不適格性、<5>加害者の地位などを考慮して、この適用を制限すべき場合があるとし、本件については、日本軍の原告らに対する行為が極めて残虐で、原告らが被った被害・損害が深刻で保護の必要性が高く、被告国が原告らの権利行使を阻害した事情が認められ、採証上問題もないなどといった事情があるから、民法724条後段の適用は制限されるべきであると主張する。

しかしながら、不法行為をめぐる権利関係を長く不確定の状態におくことは重大な問題があり、被害者に対して可及的速やかに救済を求めさせ、法律関係を早期に確定させようとすることが法の意図するところといわなければならない。

最高裁平成元年判決も、前述のとおり、民法724条後段の規定が不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解しており、最高裁平成10年判決も最高裁平成元年判決の枠組みを維持しているのである。そして、最高裁平成元年判決は、「裁判所は、除斥期間の性質にかんがみ、本件請求権が除斥期間の経過により消滅した旨の主張がなくても、右期間の経過により本件請求権が消滅したものと判断すべきであり、したがって、被上告人ら主張に係る信義則違反又は権利濫用の主張は、主張自体失当であって採用の限りではない。」と判示しているのである。また、最高裁平成10年判決も、不法行為者の被害者であって不法行為を原因として心神喪失の常況にある者について、民法158条の既存の条項の法意を援用して限定的にその例外を認めたものにすぎない。そして、上記判決が最高裁平成元年判決の枠組みの中でのものであることからすると、その適用の範囲は極めて狭いものというべきである。

したがって、最高裁平成10年判決は、原告らの主張するように除斥期間の適用を制限することを広く認めたものとは解されない。

そして、上記除斥期間の性質とその法意に照らせば、原告ら主張のような事情をもって、除斥期間の適用を妨げる理由になるものではない。

エ よって、原告らの民法724条後段についての主張はいずれも失当である。

第4強制労働条約違反による不法行為または国家賠償法に基づく請求について

原告らは、強制労働条約25条に基づき、被告国は、強制労働を強要した新潟港運などの企業に対して、刑事制裁措置も採るべき義務があるにもかかわらず、その義務を懈怠しており、かかる無反省な態度それ自身が、原告らに新たな精神的苦痛を与えているとし、被告国は、民法上の不法行為責任ないし国家賠償法1条1項に基づく損書賠償責任を免れ得ない旨主張する。

しかし、以下に述べるように原告らの主張は失当である。

(1) まず、原告らの主張する被告国の行為について、国家賠償法1条の適用はない。

すなわち、国家賠償法1条1項にいう違法とは、個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背することであるところ、原告らが国の公務員の義務違反の根拠として主張する条約上の義務は、相手方である締約国に対する国際法上の義務であって、被害者個人に対して負担する義務ではない。したがって、被告国に原告らの主張するような義務違反があったとしても、国家賠償法1条1項上違法を問われる余地はない。

また、犯罪の被害者が、捜査または公訴提起によって受ける利益は、公益の見地に立って行われる捜査または公訴提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないから、被害者は、捜査機関による捜査が適正を欠くことを理由として国家賠償法の規定に基づく損害賠償請求をすることはできない。

(2) さらに、原告らの主張するような公権力の行使については、民法の適用はない。

すなわち、大日本帝国憲法下においては、国の権力的作用については、民法の適用は排除されていたところである。そして、国家賠償法の立法にあたっても、当初民法中の不法行為編を改正して国家賠償に関する規定を挿入するという案が提示されたか、国・公共団体の公権力行使の関係は私法的法律関係ではなく、民法に入れるのは立場が違い不適当とされて、民法へは編入されず、国家賠償法という独自の法律が制定されたという経緯がある。また、国家賠償法は、公務員による公権力行使を萎縮させないようにするために、公務員個人に対し求償できる場合を限定し(同法1条2項)、外国人が被害者である場合は、相互補償のあるときに限って賠償する(同法6条)とし、私法の領域とは異なる特別な法政策が採られているが、これは、民法をそのまま適用することが妥当でないとの判断がその前提にあると考えられる。そうすると、国家賠償法施行後においても、公権力の行使について民法の適用がないことは明らかである。

このように、かかる公権力の行使に基づく損害については、民法709条の適用はないのであり、民法709条の適用を前提とする原告らの主張は失当である。

第5国際慣習法違反による不法行為に基づく請求について

原告らは、被告国の行為は、奴隷条約、人道に対する罪及び強制労働条約に違反するところ、これらの条約はいずれも国際慣習法として、本件発生当時、被告らの行為を規律する法規範となっていたから、被告国の行為は日本国民法上も違法と評価されるとし、被告らは民法709条ないし715条に基づき、原告らに対し、損害賠償責任がある旨主張する。

しかし、前記のとおり、原告らが主張する被告国の行為は、我が国の国家賠償法施行前の行為であるところ、大日本帝国憲法下においては、国の権力的作用については、民法の適用は排除され、また、これを規律する法令上の根拠もなく、国の賠償責任は認められなかった(国家無答責の法理)。また、その後、国家賠償法附則6項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と定めているのであるから、原告らの本件請求は、損害賠償請求の法的根拠を欠くものであり、原告らの主張は失当である。

第6安全配慮義務違反に基づく請求について

(1) 原告らは、被告国と被告会社は、原告らに対して、強制労働条件を一方的に創設し、原告らを使役していたのであるから、かかる被告らと原告らとの間の法的関係を基礎として、被告らは、原告らに対して、原告らの生命・身体の最低限の安全を配慮すべく、労働条件・生活条件の確保のためにしかるべき措置をとり、かつ、強制連行・強制労働下にある中国人の状態を人としての尊厳を保ちうるものとする信義則上の義務があった旨主張する。

(2) しかし、原告らの上記主張は、以下に述べるように、失当である。

ア 安全配慮義務が具体的義務内容の特定を欠くことについて

(ア) 安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別の社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方または双方が相手方に対して信義則上負う義務である(最高裁判所昭和50年2月25日第3小法廷判決)。

安全配慮義務の法的性質は、広い意味での不完全履行の一種と解されているところ、不完全履行とは、履行遅滞や履行不能と異なり、一応の債務の履行はされたが、その内容に債務の本旨に従わない不完全さ(瑕疵)がある場合であるから、瑕疵ありとするためには、履行が完全でないことが損害賠償請求権の発生要件となるのである。そうすると、債権者は、まず履行の内容が不完全であった事実(履行過程に関連する付随的義務の存在)を主張・立証しなければならない。判例も、「国が国家公務員に対して負担する安全配慮義務に違反し、右公務員の生命、健康等を侵害し、同人に損害を与えたことを理由として損害賠償を請求する訴訟において、右義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張・立証する責任は、国の義務違反を主張する原告にある」(最高裁昭和56年2月16日第2小法廷判決)として、このことを明らかにしている。

そして、安全配慮義務違反の成立が問題とされる法律関係は一様ではなく、事故の種類・態様も千差万別であって、その具体的内容は公務員の職種、地位及び安全配慮義務が問題となる当該具体的状況等によって異なるものであるから、安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求訴訟においては、事故発生の具体的状況等を踏まえて、その義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張・立証する必要がある。すなわち、安全配慮義務違反の主張にあたっては、生命、健康等を侵害されたとされる者ごとに、その結果が発生した具体的状況を明らかにした上で、発生した結果との関係から、義務者がそのような結果を予見できたか(予見可能性)、どのような措置を講じていれば結果を回避できたか(結果の回避可能性)、そして、義務者と被害者との法律関係及び当時の社会情勢、技術水準等諸般の事情に照らし、義務者に対し、その結果の発生の防止措置を採ることを義務づけるのが相当であるかといった点を判断するに足りる具体的な事実を明らかにして主張する必要がある。

かかる観点から、原告らの主張を検討すると、原告らの主張は、当時の技術やその他の社会的な諸事情に照らした具体的な内容ではなく、一般的で概括的かつ抽象的な内容にとどまるものであって、それだけでは、被告国が採るべき具体的な措置の内容が明確にされていないし、個別具体的な状況に即した主張ということもできない。また、安全配慮義務が信義則に根拠を置くものであり、その信義則は事件当時の信義則に他ならないことに照らすと、当時の社会水準に照らし、どの程度の水準が最低限であったか、また、原告らの置かれた状況がその水準を下回ったものかどうかを明らかにし、被告国において、信義則上、当時において、どの程度の措置を講じることが義務づけられていたかをより具体的に主張する必要がある。

そうすると、原告らの安全配慮義務違反の主張は、そもそも安全配慮義務違反を問うにあたり不可欠な要件事実の主張を欠くから、主張自体失当として棄却を免れないという他ない。

(イ) 以上述べたように、原告らの主張では、被告国の具体的な義務内容の特定がなく、安全配慮義務違反を主張する上で不可欠な要件事実の主張を欠いているというほかない。

イ 安全配慮義務の前提となる「社会的接触の関係」を欠くことについて

(ア) 安全配慮義務違反は、前述したとおり、ある法律関係に基づき特別な社会的接触に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方または双方が相手方に対して信義則上負担する義務である。

そこで、まず、原告らと被告国がどのような法律関係にあったのかが問題とされなければならない。すなわち、安全配慮義務違反は債務不履行を理由とする賠償責任であるから、上記の「特別の社会的接触の関係」とは、不法行為規範が妥当する無限定かつ社会的な接触関係を意味するものではないことは当然であって、以下のような要件が必要である。

a まず、第一に、安全配慮義務違反は債務不履行を理由とする賠償責任であるから、契約関係ないしこれに準ずる法律関係の介在することが必要であり、このような関係が認められない場合には、上記義務が成立する余地はない。

最高裁昭和55年12月18日第1小法廷判決も、安全配慮義務が成立するためには雇用契約ないしこれに準じる法律関係が存することが必要であるとしている。

b 次に、安全配慮義務は、労務ないし公務遂行にあたって支配管理する人的物的環境から生じ得べき危険の防止について信義則上負担するものである(最高裁昭和58年5月27日第2小法廷判決)。したがって、その成立が認められるためには、当事者間に事実上の使用関係、支配従属関係、指揮監督関係が成立しており、使用者の設置ないし提供する場所・施設・器具等が用いられ、これらの物的側面ないし労務の性質が、労務者の生命・健康に危険を及ぼす可能性がある場合等当該労務に対する直接的な支配管理性が認められることが必要である。

c そうすると、安全配慮義務の成立の前提となる「特別の社会的接触の関係」とは、当事者間に「雇用契約ないしこれに準ずる法律関係」が存在し、かつ、当事者間に「直接具体的な労務の支配管理性が存在する法律関係」に限定されるというべきである。

(イ) しかるに、原告らの主張によれば、原告らと被告国との関係は、被告らが原告らを中国から強制連行し、新潟港で強制労働させたという関係があるだけだというのであり、その社会的接触は、強制連行という事実行為によって設定されたものであって、「ある法律関係」によって設定されたものではない。

また、原告らの主張は、結局、原告らとの間に、国家総動員法に基づく戦時経済体制の下、被告国が被告会社に対して、管理統制を加えたというものであって、原告らとの間に、「雇用契約ないしこれに準ずる法律関係」が存在し、かつ、「直接具体的な労務の支配管理性が存在する法律関係」の存在をいうものとはいえない。

したがって、原告らと被告国との間には、安全配慮義務の前提となる「ある法律関係」に基づく「特別の社会的接触関係」は存在しないというべきである。

第6日中共同声明等による請求権の消滅

1 第2次世界大戦後の賠償並びに財産権及び請求権の問題の解決のあり方

そもそも戦争による被害は、戦争の勝敗とは無関係に、戦争当事国のみならず、その当事国相互の国民に広範囲に発生するものであり、特に第1次世界大戦後の近代の戦争は、国家間の全面戦争の形態をとり、その被害は、全国民が被る結果となっている。

かかる戦争行為によって生じた被害の賠償問題は、戦後の講和条約によって解決が図られるが、一般的に賠償その他戦争関係から生じた請求権の主体は、国際法上の他の行為により生じた請求権の主体と同様、常に国家であり、例外的に条約で、被害者である国民個人に対して、請求権者として直接必要な措置をとる方法を設けた場合以外は、国民個人の受けた被害は、国際法的には国家の被害であり、国家が相手国に対して固有の請求権を行使することになる。

第2次世界大戦後においては、第1次世界大戦後のベルサイユ条約における失敗の反省から、戦後賠償問題の解決にあたって、当事国内部の利害を調整した上で、当事国が国家及びその国民が被った被害を一体としてとらえ、相手国と統一的に交渉することとして賠償問題に最終的な決着を図ることとし、その交渉の結果、締結に至る講和条約等は、戦後の国際的枠組みを構築する上で、適正かつ妥当な解決を目指すものと位置づけられ、当事国及びその国民の相互の真の意味での和解の印として、その後の当事国及び相互の国民の友好関係の基盤となることを目的とした。

そのため、このような講和条約の枠組みの下では、戦後賠償は、原則として国家間の直接処理、または求償国内の旧敵国資産による満足の方法によることとし、解決が図られ、個々の国民の被害については、原則として、賠償を受けた当該当事国の国内問題として、各国がその国の財政事情等を考慮し、救済立法を行うなどして解決が図られている。

2 我が国と中国との間の戦後処理

日本と中国の間においては、戦争状態の終結、賠償並びに財産及び請求権の問題の解決については、当時の複雑な国際情勢を反映して紆余曲折があったが、両国政府の努力によって、サンフランシスコ平和条約における戦後処理の枠組みと同様の解決が図られた。

(1) サンフランシスコ平和条約との関係について

中国は、連合国の一国として、サンフランシスコ講和会議に招待されるべきであったが、昭和24年の中華人民共和国政府の成立や昭和25年の朝鮮戦争の勃発など当時の政治的及び国際状況のために、中華人民共和国政府及び中華民国政府のいずれも講和会議に招待されなかった。

しかし、同条約21条は、「この条約第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有」するものとされ、条約の当事国とならなかった中国も、中国国内領域にある日本国及び日本国民の資産の処分が認められた。中国は、1945年(昭和20年)10月に、「日僑財産処理弁法」を公布して、その領域内にある日本人の財産を没収した(<証拠略>)。

(2) 日本と中華民国との間の処理について

我が国と中国との戦後処理について、1952年(昭和27年)4月28日、我が国は、中華民国との間で、「日本国と中華民国との間の平和条約」(以下「日華平和条約」という。)を締結した。

この条約は、「歴史的及び文化的のきずなと地理的の近さとにかんがみ、善隣関係を相互に希望することを考慮し、その共通の福祉の増進並びに国際の平和及び安全の維持のための緊密な協力が重要である」(前文)という認識の下に、両国間の戦争状態を終了させ、賠償及び戦争の結果として生じた諸問題を解決したものである。すなわち、我が国に対する賠償請求権については、同条約の議定書1(b)で、サンフランシスコ平和条約14条(a)に規定する賠償請求権を放棄した。

そして、中華民国代表と日本国代表との間の「同意された議事録」4により、サンフランシスコ平和条約21条に基づき、中国が同条約14条(a)2の利益を受ける権利を有することについても確認された。

さらに、日華平和条約11条は、「この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ平和条約の相当規定に従って、解決するものとする。」と規定しているところ、この規定にいう「サン・フランシスコ平和条約の相当規定」には、同条約14条(b)および19条(a)も含まれるから、この規定に従って、日本国及びその国民と中国及びその国民との間の相互の請求権は、サンフランシスコ平和条約14条(a)1に基づく賠償請求権と併せて、同条約14条(b)及び19条(a)の規定により全て放棄されたことになる。その法的効果として、日本国及び日本国民は、中国国民による国内法上の権利に基づく請求に対して、これに応ずる法律上の義務が消滅したものとして拒絶することができるのであり、その内容を具体化する国内法を待つまでもなく、我が国の裁判所において直接的に適用が可能であるから、裁判上の請求は同条項の適用によって容認されないこととなる。

(3) 日本と中華人民共和国との間の処理について

ア 日中共同声明署名に至る経緯について

日華平和条約締結後20年を経て、日本国政府は1972年(昭和47年)に共同声明に署名した。共同声明の交渉過程において問題となった点の中に、戦争状態の終了や賠償並びに財産及び請求権の問題がある。これらの問題は、日華平和条約についての両国の立場の違いに起因するものであるが、困難な交渉の結果、以下のとおり、共同声明は、両国の立場それぞれと相容れるものとなった。

イ 日中共同声明5項について

賠償並びに財産及び請求権の問題については、一度限りの処分行為については、日華平和条約によって法的に処理済みであるというのが我が国の立場であり、日華平和条約の有効性についての中華人民共和国との基本的立場の違い(同国は、日華平和条約は当初から無効であるという立場であった。)を解決する必要があった。この点について、日中双方が交渉を重ねた結果、共同声明5項において、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」旨規定されている。日中両国は互いの立場を理解した上で、実体としてこの問題の完全かつ最終的な解決を図るべく、このような規定ぶりにつき一致したものであり、その結果は日華平和条約による処理と同じであることを意図したものである。すなわち、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた中国及びその国民の請求権は、法的には、日華平和条約により国によって放棄されているというのが我が国の立場であり、このような立場は共同声明によって変更されているわけではない(<証拠略>)。

したがって、共同声明5項は、「戦争賠償の請求」にのみ言及しているが、ここには先の大戦に係る中国国民の日本国及び日本国民に対する請求権の問題も処理済みであるとの認識が当然に含まれている。この点については、中国政府も同様の認識と承知している。

このように、共同声明は、我が国の立場と相容れるものとして作成されたのであり、共同声明5項の表面上の文言のみをとらえて中国国民の国内法上の請求権に基づく請求に応じる義務が日本国及びその国民にあると主張することは失当である。

3 中国政府の見解

中国政府の認識も、先の戦争に係る日中間の請求権問題は、中国国民及びその財産に関するものも含めて、日中共同声明発出後存在していないという我が国政府と同様のものである。

以下の事情に鑑みれば、先の戦争に係る日中間の請求権の問題についての日中間の認識は一致していると考えるべきである。

(1) 1955年(平成7年)5月3日、陳健中国外交部新聞司長は、記者から、「国交正常化以来、中国政府は、日本に対する損害賠償を正式に放棄したが、最近民間組織が賠償請求を提起している。これに対する見解如何。」と問われたのに対し、「賠償問題は既に解決している。この問題におけるわれわれの立場に変化はない。」旨発言している(<証拠略>)。

(2) また、銭外交部長も、1992年(平成4年)3月の記者会見において、記者より民間賠償請求の動きについての考え方を問われたのに対し、「戦争によってもたらされた幾つかの複雑な問題に対し、日本側は適切に処理を行うべきである。」と述べつつ、戦争賠償の問題については、「中国政府は、1972年の日中共同声明の中で明確に表明を行っており、かかる立場に変化はない。」と表明している(<証拠略>)。

(3) 1998年(平成10年)12月の香港における報道によれば、唐家file_16.jpg外交部長は、記者から、中国政府の民間人の対日賠償請求について質問された際、「中国の対日賠償問題は、既に解決済みであり、国家と民間(国民)は一つの統一体であるので、民間(国民)の立場は、国家の立場と同じであるべきである。」と述べている(<証拠略>)。

4 以上のとおり、日華平和条約11条及びサンフランシスコ平和条約14条(b)により、中国国民の日本国及び日本国民に対する請求権は、国によって放棄されている。日中共同声明5項に言う「戦争賠償の請求」は、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権も含むものとして、中華人民共和国政府がその「放棄」を宣言したものである。

したがって、原告らの請求権は、サンフランシスコ平和条約の当事国たる連合国の国民の請求権と同様、国によって放棄されており、これに基づく請求に応じるべき法律上の義務は消滅している。

第7まとめ

以上のとおり、原告らの本件各請求は、いずれも失当であるから、棄却を免れない。

(別紙9)

被告会社の主張

第1国家総動員法による従業員の使用

1 我国においては、昭和13年4月1日公布の法律第55号国家総動員法が同年5月5日施行され、昭和14年、同16年の2回の改正があったが、昭和19年当時はこの法律が有効に施行されていた。

この国家総動員法第6条では、「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ従業者ノ使用、雇入(中略)ニ付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」と定められていた。

昭和16年9月公布された港湾運送業等統制令による政府の方針に従い一港一作業会社の建て前から、整備統合を前提とする中核会社として設立されたのが新潟港湾運送株式会社(後に新潟港運株式会社と社名変更)であるが、更に他社と合併して荷役体制を強化した。昭和19年、戦争が苛烈になり労務者の不足が生ずるようになった。当時、男子壮丁者は軍へ徴兵され、15歳以上の少年も、陸軍幼年学校、少年航空兵、海軍予科飛行練習生、海軍予科兵学校などへ進んだり、勤労動員で工場へ勤め、女性も工場の工員や鉄道の駅員などの仕事をしており、新潟港運は自力で労務者を募集し就労させるということは不可能であった。そのため、国家総動員法に基いて国から連れて来られた華工及び俘虜を就労させた。これは法律に基いたものであって、当時の民間企業である新潟港運においてこれを拒否することは不可能であったことは言うまでもない。

また、移入を企画立案したのは被告国であり、港運業会は、移入された中国人労務者を受け入れ、その配置等の管理をするだけであって、積極的にこれを推し進めたということはない。これは全て被告国の統制のもとで行われたのであり、新潟港運が主体的に積極的に移入を行ったのではない。新潟港運は、戦時統制の厳しい中で国策に反することができず、被告国の政策に従っただけである。

したがって、原告らの被告会社における就労について被告会社には責任はない。

2 また、原告らは強制労働とか劣悪な衣食住の環境というが、その当時は、日本全国において衣食住が何れも劣悪な環境にあり、しかも、国家総力戦として国家総動員法のもとで全国民が苛酷な労働条件のもとで労務に服し、中学生(13歳ないし17歳)以上も勤労動員として工場へ通い、早朝から深夜まで働き、中には工場に対する空襲で戦死した中学生もいたのであって、原告らに対して特に苛酷な強制労働が課せられたとは思えない。港湾における輸送や荷役業務は全員が一緒に行うのであって一人とか数人だけに作業を残して働かせることは全く無意味であってそのようなことはあり得ない。

新潟港運による管理の実態は以下のとおりであった。

(1) 設備等

中国人労務者の宿舎は新築であり、木造2階建瓦葺本建築で、敷地1000坪、炊事場、医務室、浴室、倉庫等を備えていた。建築坪数は、661坪半で、事務室等を除いた宿舎面積は1階、2階とも245坪の計490坪(畳数にすれば980畳)であり、最終的には1人あたり畳1.3畳と計算された。人数が増えるに従って、次第に狭隘となったが、蚤取粉の散布や清掃により衛生状態の維持に努めた。

暖房は、7台のストーブを使用し、燃料は主に石炭であった。開所当時は、1人あたり1か月60キログラムの割合で石炭の支給を石炭統制会に申請したが、戦局が益々苛烈となって入手困難となり、さらに人員の増加による暖房、入浴、炊事場の増設もあって消費量は増加する一方であったところ、昭和19年から20年にかけての冬期は50年来の豪雪のため運送ができず結局、全就労期間(暖房不使用期間も含めて)1人あたり1か月26キログラム平均であった。

(2) 衣料等

当初は、衣料等一定の支給を計画していたが、戦争が苛烈となるに伴い料品は甚だしく欠乏し、一般国民には統制配給制としながら、実際は殆ど配給はなかった。

新潟港運は、地下足袋等を支給しても粗悪だったり、靴のない者は凍傷予防のため就労を禁止したりしたが、帰りに靴のない者がいたりした。冬期にはゴム深靴を全員に支給した。その後、相和20年に至り国務大臣の労務者に対する衣料改善策により軍手、地下足袋、衣服が入荷し、直ぐに支給した。

寝具は、宿舎内の敷物としてアンペラむしろ、冬藁を支給し、麻製品を寝具として支給した。畳は購入を計画したが、数が少なかったため、病人及び隊長に支給した。寝具用麻袋は1万枚支給した。

(3) 食料等

ア 新潟華工管理事務所の華人労務者就労顛末報告書(<証拠略>)によると、中国人労務者に対する食料支給状況は、概ね以下のとおりである。

港湾荷役増強のための中国人移入契約規定により、主食22キログラム、雑穀8キログラムの計30キログラムを1人あたり1か月の量とし、主食(小麦粉)は農林省の指令により新潟県食糧営団から購入、雑穀粉(大豆粉)は食糧営団または農業会から購入した。ところが、第2次、第3次と移入が増加し、戦争が苛烈となって物資が不足し、大豆粉は脂肪栄養価値のある米及び麦糠に変わり、小麦粉は昭和20年2月には50年来の大雪で交通機関が止まり、食糧営団から麦混入米が入荷し麦飯として支給した。冬季は豪雪のため交通困難となり、野菜、鮮魚などは不十分であったが、春季には好転し、野菜、鮮魚なども所長以下が極力仕入に努めた。6月以降になると、戦争は益々苛烈となり、軍隊の新潟駐屯増加により、新潟市民の食糧、特に野菜の不足は激しく、その他の食糧の入荷もなかった。それでも病人には、魚、新鮮果実を優先的に与える努力等をした。代用食では中国人に不満があり、新潟港運の担当者を上京させ、農林省と交渉し、小麦粉を入手して支給した。また、大東亜省特配の小麦粉、1人あたり2キログラムの支給もあり、8月初旬には大いに改善され、主食30キログラムを支給できた。1人あたり肉類250グラム、食用油0.5勺を支給した。

中国人の給食状態は、日本人、朝鮮人に比して常に優越し、時には市民から羨望の声があがった。戦後、アメリカ進駐軍将校が来て、実態調査のため各隊長から食糧事情を聴取した際、不満はない旨の回答があったという。

夜間作業に対しては、法人労務者と同様に、残業徹夜の時間別により、以下のとおりの飯米の給食を行った。

(ア) 昭和19年6月下旬から昭和20年6月19日まで

20時から24時     1人あたり 約1合

20時から翌日2時   1人あたり 約1合5勺

20時から翌日2時以後 1人あたり 約2合

(イ) 昭和20年6月20日から終戦まで

20時から24時     1人あたり 約1合

20時から朝      1人あたり 約1合5勺

(ウ) 数回鮮魚支給

清酒、ブドウ酒等を支給

タバコは市民配給のほか労務特配支給

イ 中国人強制連行資料(<証拠略>)によれば、食糧状況は、<1>量においては、移入から送還までの月平均1人あたり支給量は33.075キログラム、終戦までの月平均1人あたり支給量は27.985キログラム、最高支給月量は36キログラム、最低は23キログラムであり、量は特に問題となるものではなかった。<2>質においては、主として配給したものは、麺粉(小麦粉)に雑穀を混入したものであったが、豪雪と情勢悪化のため昭和20年2月ころに米食を支給したことがあった。<3>副食物及び調味料においては、統計資料不足で不明だが、当時の内地事情より余り恵まれなかった。

ウ 外務省報告書(<証拠略>)によれば、新潟では、<1>受入直後の1人1日熱量は3510キロカロリー、<2>終戦直前の1人1日熱量は3247キロカロリーであり、他の食物についても特に劣るということはない。

エ 原告らが荷役作業に出ていたのであれば、1日3000キロカロリー以上の食糧の支給があったと考えるのが相当であり、原告らの食事が、原告らが主張するように、常時1食マントウ2個と大根程度であったとは考えられない。

(4) 賃金

外務省報告書(<証拠略>)に、新潟港運その他の会社の収支や損益の一覧表があり、これによると、新潟港運の「終戦前に於ける経費」の中に「賃金」756,873円、「終戦後に於ける措置」の中に「休業手当」207,670円の記載があることから、これらが各会社においていずれも支払われたことは明らかである。

(5) 医療

医務室を設置し、嘱託医(Q医師)が隔日で診療した他、常勤の看護婦を置いた。薬品類は必ずしも十分ではなかったが、職員がその入手に努力し成果をあげていた。

しかし、多人数を診療したため、形式よりも実をとるスピーディーな診療をしたため、患者からは表面不親切な態度のごとく見られた結果、反感を持たれるに至った。また、診療の順序を第1大隊から順番に行ったため、第2、第3大隊の者を出身地のため後回しにするとの誤解を受けた。さらに、なかなか診療を申し出ず、ようやく治療しても既に遅いという場合があると、医師の悪意によるものであると誤解されることもあった。このように、同医師に対する非難は誤解に基づくものであり、誤りである。

(6) 中国人労務者の死亡原因

新潟港運における全期間中の中国人労務者の死亡者数は159名、21パーセントであり、他と比べて特に多いということはない。

その死亡原因として、考えられるのは以下の5点であるが、いずれも被告会社にはどうしようもないことであるので、被告会社が責任を問われることはない。

ア 死亡者159名中、第1大隊の者は10名、第2及び第3大隊の者は149名であり、死亡者の大部分は第2及び第3大隊の者である。

第2及び第3大隊の者は、第1大隊の者に比して、高齢者が多く、体格・健康の面で脆弱であった。そのため、健康を害して死亡するに至った者が多かったものと思われる。

イ 食糧については、栄養は平時のようにはいかないが、当時、日本全国が同じような状態であったのであり、所長以下職員が冬野菜入手のために努力したがそれでも十分な量は得られなかった。そのため栄養失調やその他の疾患に至ったものと考えられる。

ウ 衣料等の物資不足は、中国人労務者についてだけ生じたものではなく、日本全国で不足していた。むしろ、国務大臣が一般国民よりも中国人労務者に対する優先的な衣料改善策をとったことにより、軍手、地下足袋、衣服が入荷し、皆に配られたのである。

エ 医療については、Q医師に対する不満は誤解に基づくものであり、所員が努力して極力治療に努めていた。

オ その他として、日本は島国で大陸に比して湿度が極めて高く、乾燥した地域から移されれば、相当健康に影響していたと思われる。

当時、新潟における米軍捕虜の死亡率は15パーセントであったというが、屈強の軍人であってもこの程度の死亡率であったのだから、この環境も影響していたと思われる。

第2除斥期間の経過

1 仮に、被告会社の原告らに対する不法行為が成立するとしても、原告らの主張によれば原告らが新潟港運株式会社で働いたのは遅くとも昭和20年8月15日までであるから、その後、昭和40年8月15日の経過をもって民法724条後段所定の20年の除斥期間が経過したことは明らかであり、原告らの損害賠償請求権は当然に消滅している。

2 準拠法について

この点、原告らは、本件では不法行為地である中華民国民法の規定が適用されると主張する。

しかし、新潟港運は、新潟港における原告らの労働に関与したのみであり、仮にこれが不法行為に当たるとしても、不法行為地は日本国内であり、法例11条1項により中華民国民法の適用がなされることはない。

そもそも、法令11条1項が不法行為地法主義を採用したのは、不法行為に関する法律が、自国において行われた行為については、行為者の国籍・住所のいかんを問わず一般に適用されることを目的とするいわゆる一般法であること、不法行為における加害者の責任と被害者の救済の問題は、侵害行為のなされた社会の公益に関係するところが大きいこと、不法行為地法によらない限り、行為者が自己の行為の結果について予測することが困難になること、被害者が賠償を求めるのは通常不法行為のなされた地であるからその地の法によることが被害者の利益に適すること等によるとされる。したがって、ある国において、不法行為の主要な部分が行われ、他の国においては、副次的な部分しか行われていないときは、主要な部分が行われた地の法律によらなければ、最も密接な利害を有する地の公益が維持されないし、行為者の予測も困難になるから、その主要な部分が行われた国の法律が準拠法となると解すべきである。

本件では、被告会社の前身である新潟港運は、臨港埠頭において原告らを強制的に労働させたとの理由で不法行為責任を追及されており、したがって、原告らの主張する新潟港運の不法行為の全てが日本国内で行われていたことは明らかである。

したがって、上記法令11条1項の解釈によれば、本件不法行為の準拠法が日本法となるのは明らかであり、準拠法を中華民国民法とすべきとの原告らの主張は失当である。

3 法令11条3項の解釈について

また、仮に、中華民国民法の適用があったとしても、法例11条3項により不法行為の効力については日本法が累積適用される。すなわち、同条項は、不法行為に関する法が国内の公益秩序の維持に関する法であることから、日本の法律によれば不法行為とならない行為については、これを不法行為と認めてその救済を図る必要がないとの趣旨から、損害賠償の方法及び程度に関して不法行為地法と日本法の累積適用を認めたものであり、不法行為の効力に関して全面的に日本の法律による制限を認めたものと解される。

したがって、同条項により、不法行為の効果の制限に関する時効、除斥期間についても日本法による制限が及ぶことは明らかである。

この点、原告らは除斥期間の累積適用がないとするが、このような主張は立法論としてならともかく、現行法令の解釈としては成り立たない。

4 除斥期間の起算点について

上記のとおり、原告らが主張する新潟港運の不法行為には、民法724条後段が適用されるが、原告らの主張によれば、原告らは、遅くとも昭和20年11月末ころまでに帰国したというのであるから、その時点で原告らの主張する新潟港運の不法行為は終了したのであり、したがって、それから20年が経過した昭和40年11月末ころの経過により、民法724条後段の20年の除斥期間が経過したため、原告らの主張する新潟港運の不法行為による損害賠償請求権は当然に消滅している。

これに対して、原告らは、民法724条後段は、除斥期間ではなく、時効について規定したものであるとの解釈を前提とし、事実上・法律上権利行使が可能になるまでの間は停止の規定が準用され、期間の進行ないし完了は停止するので、起算点は、1999年4月に原告らと原告弁護団が出会って具体的な権利行使の可能性が生じた時点からであると主張する。

しかし、そもそも、民法724条がその前段で3年の時効について規定し、さらにその後段で20年の長期の時効を規定していると解することは、不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する同条の規定の趣旨に反する。同条前段の3年の時効は損害及び加害者の認識という被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるために、請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのがその立法趣旨に沿う(最高裁平成元年12月21日第1小法廷判決)。

このような法律の趣旨から言って、同条後段の文言は、20年の除斥期間の起算点を、画一的に不法行為時と定めたものと解される。法律関係の速やかな確定を図る除斥期間の性質上、原告ら主張のような、民法の時効停止規定の準用の余地は認められないし、具体的な権利行使の可能性が生じたときなどという、事後的に生じた、主観的かつ不明確な個別事情によって、起算点が左右されることはあり得ない。

5 除斥期間の適用制限について

原告らは、平成10年6月12日の最高裁判決を引用し、本件では、1972年の日中共同声明による国交正常化、1978年の日中平和友好条約締結、1991年3月の第7期全国人民代表大会第4会議における民間賠償請求問題の意見書提出、1995年3月の銭外交部長(当時)発言、1999年4月の原告らと原告弁護団との出会い等の事情を経てようやく原告らの権利行使が可能となったのであるから、単に20年の経過だけで権利者の権利行使が一切許されないとし、加害者が賠償義務を免れる結果となることが著しく正義、公平の理念に反すると認められ、その適用を制限することが条理に適うと考えられる場合にあたるので、民法724条後段の適用を制限すべきであると主張する。

しかし、上記判例は、除斥期間経過時において、不法行為の被害者がおよそ権利行使が不可能であって、そのような状態が加害者による当該不法行為に起因するもので、加害者か除斥期間の経過によって損害賠償を免れる結果となることが著しく正義・公平の理念に反すると認められるような特段の事情がある場合に限り、民法158条の法意を援用して例外的に同法724条後段の適用制限を認めたものに過ぎず、かつ、権利行使が可能になった後、訴え提起に要する相当期間として、時効の停止規定に準じる6か月が経過するまでの間に限り、除斥期間の経過を停止する限度においてのみ、同条後段の適用制限を認めたものでしかない。

この点、原告らの主張する前記事情は、単に原告らを取り囲む社会的事情や経済的事情が原告らの権利行使を事実上困難ならしめていたとの主張にとどまり、原告らの一切の権利行使が不可能であったことを主張するものではないし、また、新潟港運が行ったとの不法行為に起因して、原告らの権利行使が不可能になったとの事情を主張するものでもない。したがって、原告らの主張する事情は、上記平成10年最高裁判決が認めた、民法724条後段の適用制限が相当な特段の事情にあたるとは到底言えないし、このような場合にまで適用制限を認めることは、法律関係の確定を図る除斥期間の性質上許されない。

第3安全配慮義務違反について

1 原告らは、新潟港運が原告らを強制的に使役し、原告らを監督する立場にあったのであるから、新潟港運は原告らに対して、原告らの生命・身体の最低限の安全を配慮すべき信義則上の義務(安全配慮義務)を負っていたにもかかわらず、原告らを過酷な状況において肉体的・精神的苦痛を与えたのであるから、被告会社は安全配慮義務違反の責任を負うと主張する。

新潟港運が、中国人労務者に対する対応において、戦時中の物資不足の中において最大限の努力を払っており、したがって、原告ら主張のような安全配慮義務に違反するような事実がなかったことは、前記のとおりである。

さらに、被告会社は、そもそも、原告らと被告会社との間の法律関係から安全配慮義務が発生することはあり得ないこと、及び、万が一、安全配慮義務違反による責任を負うとしても、これを理由とする損害賠償請求権は時効により消滅してることを以下に主張する。

2 安全配慮義務の発生根拠について

安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方または双方が相手方に対して信義則上負う義務である(最高裁昭和50年2月25日第3小法廷判決)。安全配慮義務は、主として雇用関係、労働契約関係において事故が発生した場合の責任を念頭に置いて論じられる義務であって、債権債務関係のある当事者間において、一方または他方が本来的に負う主たる給付義務のほかに、その給付の結果の実現のために密接に関係する行為義務を信義則上負うことを根拠とする付随義務の一種である。したがって、安全配慮義務違反による損害賠償請求権は、債務不履行に基づく損害賠償請求権の性質を有する(最高裁昭和55年12月18日第1小法廷判決)。

このような安全配慮義務の考え方は、契約関係における信義則がその根拠であるが、直接の契約当事者の関係にある者においても、信義則上、契約上の債権債務と同様の規範を設定する点で、狭義の契約責任の主体の範囲を実質的に拡大する側面を有するとされる。

しかし、安全配慮義務が契約法に基づく義務であることに変わりはないから、主体の範囲が無制限に拡大されるわけではなく、直接の契約当事者ではなく、しかも、雇用契約に準ずる法律関係に基づく使用従属関係もない当事者間においては、安全配慮義務違反の有無は問題となり得ない。これらの法律関係が存在しない当事者間における法律関係は、一般の不法行為法によって規律されることになる。

これを本件についてみると、原告らは、日本軍によって強制連行された後、新潟港運によって強制労働を課されたと主張するが、原告らと新潟港運と間の関係は、安全配慮義務の発生が問題となるような雇用契約関係またはこれに準ずる法律関係に基づくものとは到底言えない。原告らは、その意思に反して、新潟港運によって強制的に労働に従事させられたというのであり、被告会社が原告らに対して負担する義務の存否は、契約規範から導き出されるものではなく、不法行為法によって判断される。

したがって、新潟港運が、原告らに対して安全配慮義務を負うことはあり得ず、これを前提とする原告らの主張は失当である。

3 消滅時効の援用

万が一、被告会社の原告らに対する安全配慮義務違反が成立するとしても、これによる損害賠償請求権は、原告らた対する新潟港運の強制労働関係が終了したことが明らかである終戦時の昭和20年8月15日から10年が経過した昭和30年8月15日の経過をもって、消滅時効が完成し、消滅している。

なお、この点、原告らは、少なくとも1978年の日中平和友好条約締結までは時効は進行しないとしているが、仮にそうだとしても、それから20年以上が経過しており、消滅時効の完成は妨げられない。

さらに、原告らは、被告会社が消滅時効を援用することは権利の濫用である旨主張する。しかし、原告らが、本件訴訟提起以前に具体的な権利行使が困難であったと主張する事情は、社会的事情ないし経済的事情が主たるものであるし、新潟港運が虚偽の報告書等で被害の実態をねじ曲げたとの主張に至っては、何らの証拠もない言いがかりに過ぎないのであって、被告会社において、原告らの提訴を妨害したような事情は一切なく、消滅時効を援用することが権利濫用にあたると評価されるような特投の事情はない。

第4結論

以上、原告らの被告会社に対する請求は、不法行為を理由としても、安全配慮義務違反を理由としても、いずれも失当であって、棄却を免れない。

(別紙10)<略>

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