札幌地方裁判所 平成16年(ワ)155号 判決 2005年8月18日
主文
1 被告は、原告に対し、15万円及びこれに対する平成16年2月6日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、これを5分し、その1を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
4 この判決は、第1項に限り、仮に執行することができる。ただし、被告が10万円の担保を供するときは、その仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第1請求
被告は、原告に対し、70万円及びこれに対する平成16年2月6日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は、北海道警察旭川方面旭川中央警察署(以下「旭川中央署」という。)の捜査用報償費に係る平成9年9月12日付け支払精算書(以下「本件支払精算書」という。)中に、旭川中央署の捜査員が、原告から窃盗に関する捜査情報の提供を受け、同人に対し謝礼として現金1万円を支払った等の虚偽の記載があり、それにより、原告の氏名権が侵害され、精神的損害等を被ったとして、原告が、被告に対し、国家賠償法1条1項に基づき、慰謝料及び弁護士費用の損害並びにこれらに対する訴状送達の日の翌日である平成16年2月6日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めたものである。
1 争いのない事実等(証拠により認定した事実は括弧内に掲記した。)
(1) 当事者等
被告は旭川中央署を設置する普通地方公共団体であり、Aは、平成9年9月当時、旭川中央署の警部補であり、同署の刑事第1課盗犯第3係長として勤務していたものである。
(2) 捜査用報償費の概要
北海道財務規則(昭和45年北海道規則第30号)、北海道警察財務会計事務取扱規程(昭和40年3月29日北海道警察本部訓令甲第6号)及び平成15年度版捜査用報償費経理の手引き(乙3)によれば、捜査用報償費の性格、使途及び平成9年9月当時の警察署内における正規の執行手続は次のとおりである(甲3)。
ア 性格及び使途
捜査用報償費は、犯罪の捜査等に従事する職員の活動のための諸経費及び捜査等に関する情報提供者、協力者等に対する諸経費であり、経費の性質上、特に緊急を要し、又は秘密を要するため、通常の支出手続を経ては警察業務上支障を来すものを対象として、現金管理により執行している。捜査用報償費の使途は、捜査本部等を設置したことにより必要となる施設、什器等の借上費、自動車、船舶等の応急的な借上費などの経費並びに捜査員の活動に伴い必要となる捜査協力者、情報提供者に対する謝礼及び聞き込み、張り込み、追尾等の際に必要となる諸経費などの経費とされている。
イ 執行手続
(ア) 前渡資金の交付及び支払
警察署長が、方面本部長から予算の内示を受け、警察署の事件等の捜査状況を勘案して、方面本部長に対し、毎月初めに予算の範囲内で1か月分の所要額を要求し、方面本部長は、前渡資金の支出命令を行い、支出命令書を支庁出納員に回付する。支庁出納員は、支出命令書を審査後、警察署の資金前渡員である副署長の口座に前渡資金を振り込み、交付する。捜査用報償費の取扱者である警察署長は、資金前渡員である副署長に対し、前渡資金支払決定書により所要額を請求し、副署長は、前渡資金を上記口座から払い戻して現金化した上、警察署長に交付する。警察署長は、受領確認した現金を補助者である副署長に管理させ、副署長は、現金の出納を現金出納簿によって管理する。
(イ) 捜査用報償費の交付及び支払
警察署長が、捜査員から必要の都度捜査用報償費の交付申請を受けて交付額(概算額)を決定し、副署長が、報償費支出伺を作成して警察署長の決裁を受けた後、捜査員に現金を交付する。現金の交付を受けた捜査員は、捜査用報償費を執行した後、支払精算書を作成して領収書等を添付し、副署長を経由して警察署長に報告し、併せて、情報の内容、入手経緯及び捜査協力者の立場等も報告して精算する。
(3) 本件支払精算書の作成者及び記載事項
本件支払精算書は、A作成にかかる旭川中央署のB警察署長(以下「B署長」という。)宛の捜査用報償費についての支払精算書であり、作成年月日欄に「平成9年9月12日」、捜査員の官職及び氏名欄に「旭川中央警察署警部補A」、支払年月日欄に「平成9年9月12日」、支払金額欄に「1万円」、償主名欄に「旭川市a b-c C」、支払事由欄に「情報提供謝礼」及び備考欄に「領収書発行拒否」と記載されている(甲2の1)。
2 争点
(1) 原告による捜査情報の提供及び謝礼受領の有無
(原告の主張)
平成9年9月当時、原告がAに対して窃盗に関する捜査情報を提供したり、同人から謝礼として現金1万円を受け取ったり、また、領収書の発行を拒否したりした事実(以下「本件事実」という。)はいずれもない。
(被告の主張)
原告の上記主張事実は、不知である。
本件支払精算書は、北海道警察文書管理規程54条所定の保存期間を経過して既に廃棄処分となっているため、本件事実の存否を確認することはできない。また、Aは、本件事実の存否について記憶がないと供述しているところ、本件支払精算書が作成されてから既に7年以上が経過していることに加え、Aは、旭川中央署に勤務中、多数の捜査協力者から窃盗に関する捜査情報の提供を受け、謝礼を支払っており、同一の捜査協力者との接触は1回限りである場合も多かったため、捜査協力者の氏名等が記憶に残らないことはやむを得ないというべきである。
(2) 本件支払精算書の作成が不法行為を構成するか。
(原告の主張)
ア 氏名は、社会的には個人を識別する機能を有しているが、当該個人の側からみれば、人格と深く結びついてこれを表象する側面を有している。このように氏名は人が個人として尊重される基礎であるから、人は、人格権の一部として自己の氏名を独占的排他的に使用し、これを他人に冒用されない権利(氏名権)を有する。そして、本人の承諾を得ることなく、他人の氏名を使用し、真実に反する事実を記載した文書を作成することは、日記等の個人的なものにされる場合を除き、当該文書が外部に公開されたか否かとは無関係に、それ自体で不法行為を構成すると解すべきである。
イ 本件支払精算書には、Aが原告から窃盗に関する捜査情報の提供を受け、同人に対し謝礼として現金1万円を支払い、かつ、原告が領収書の発行を拒否した旨の虚偽の事実が原告に無断で記載されている。支払精算書に氏名を記載されることは、犯罪行為に関わりのある又は犯人の周辺者であることをもうかがわせる情報であること、本件支払精算書が会計手続に関する公文書であり、捜査用報償費の執行手続や監査、会計検査院の検査等の過程において複数の者の目に触れる性質の文書であることに照らせば、本件支払精算書を作成した行為自体が、原告の氏名権を侵害し不法行為を構成するものというべきである。
ウ そして、意図的に他人の氏名を冒用して文書を作成している以上、警察関係者以外の者に公開される以前に不法行為は成立しており、この点について故意又は過失が認められるのは当然のことである。また、本件支払精算書を作成したA又は旭川中央署の他の職員が、他人の氏名を冒用した文書を作成することが自己の職務上の義務であると考えるはずはなく、違法性についてもその要件を充足することは明らかである。
(被告の主張)
ア 他人の氏名を無断で使用して真実に反する事実を記載した文書を作成したとしても、直ちに氏名権を侵害するわけではなく、同文書が外部に公開されない限り、不法行為は成立しないと解すべきである。
イ 支払精算書は、特定の個人が特定の事件捜査に関して特定の捜査員に協力したこと及び特定の捜査員から捜査協力の謝礼を受け取ったこと等の事項が記載された文書であり、かかる情報は、個人のプライバシー及び名誉に関する情報であるとともに、警察の具体的な捜査手法に関する情報でもあるため、北海道情報公開条例10条2項によって非開示文書として規定されており、実際にも、北海道警察では、捜査協力者との信頼関係を保ち犯罪の捜査等に重大な支障が生ずる結果を回避するために、過去において捜査協力者の氏名を開示した例はない。また、支払精算書を取り扱う警察職員は、警察署長、副署長及び会計担当職員など特定の職員に限られている上、北海道警察文書管理規程によって同文書の厳重な管理を義務づけられている外、支払精算書の記載内容は、地方公務員法34条所定の「職務上知り得た秘密」に当たるため、これを外部に漏洩することは法律上禁止されている。さらに、住民監査請求に基づく北海道監査委員による監査においては、支払精算書中の捜査協力者の氏名欄に付せんを貼るとともに、北海道警察の会計担当職員が監査に立ち会い、付せんが外れるなどして捜査協力者の氏名等の情報が漏洩しないように配慮している。以上によれば、本件支払精算書、殊に捜査協力者の氏名等に関する部分は、外部に公開されるはずのない内部文書である。
そうすると、仮にAが原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成したとしても、同人において、本件支払精算書が外部に公開されることにより原告に精神的損害を生じさせるという結果を予見することは不可能であったから、故意又は過失はないというべきである。
ウ そして、国又は公共団体の公務員による一連の職務上の行為の過程において、他人に被害を生じさせた場合、それが具体的にどの公務員のどのような行為によるものであるかを特定することができなくても、一連の行為のうちいずれかに行為者の故意又は過失による違法行為があったのでなければ損害が生ずることはなかったであろうことが明確にされなければならないと解すべきである。前記のとおり、本件において問題とすべき行為は、原告が主張するような本件支払精算書を作成した行為ではなく、当該文書を外部に公開した行為であるところ、原告は、本件支払精算書を外部に公開した公務員を何ら特定しておらず、仮に旭川中央署の現役職員が外部に公開したとしても、それは職務行為又は職務に付随して行われた行為でないことは明らかであるから、被告が国家賠償法1条1項所定の損害賠償責任を負ういわれはなく、また、当該文書の公開者が同署の元職員であったとしても、被告が損害賠償責任を負ういわれはない。
エ さらに、Aが前記のとおり本件支払精算書を作成したとしても、同文書を作成することが自己の職務上の義務であると信じ、又はそのように信じることにつき相当の理由がある場合には、違法性の意識を欠くといえるから、本件支払精算書の作成行為自体を職務上の義務違反と評価すべきではなく、また、本件支払精算書の外部流出が、A又は旭川中央署の他の職員の内部告発によるものでないことは明らかであり、A又は同職員に文書管理義務の懈怠があったと評価することもできないから、国家賠償法1条1項所定の違法性は認められないというべきである。
(3) 原告に生じた損害の有無等
(原告の主張)
ア 慰謝料
(ア) A又は旭川中央署の他の職員が、原告の氏名を無断で使用して真実に反する事実を記載した本件支払精算書を作成したことによって、原告は、氏名権を侵害され、精神的損害等の非財産的損害を被った。
(イ) さらに、被告は、平成15年12月、北海道議会において、旭川中央署における捜査用報償費の不適正な執行の有無が問題になった際、本件支払精算書の写し(甲2の1)の出所が明らかでないなどとして、調査を開始しようとせず、また、住民監査請求に基づく北海道監査委員による監査に対して、一貫して非協力的な態度を取ったばかりか、現在に至るまで原告に対して一言も謝罪をしていないなど、不誠実な態度に終始したことにより、原告の損害を拡大させた。
(ウ) 以上の事情を考慮すると、本件における慰謝料の額は50万円が相当である。
イ 弁護士費用
原告が本件訴訟を提起し、これを維持するために必要な弁護士費用は、20万円を下らない。
(被告の主張)
ア 他人の氏名を無断で使用して真実に反する事実を記載した文書を作成したとしても、それにより直ちに精神的損害が発生するわけではなく、同文書が外部に公開され、被冒用者において氏名冒用の事実を知ったときに初めて精神的損害が発生すると解すべきである。そうすると、仮にAが原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成したとしても、それによって直ちに原告の精神的損害が発生したということはできない。
イ そして、原告は、本件支払精算書の写し(甲2の1)を入手した報道機関によって氏名冒用の事実を知らされたのであるが、争点(2)に関する被告の主張のとおり、本件支払精算書は外部に公開されるはずのない内部文書であるため、Aにおいて、本件支払精算書が外部に公開され原告に精神的損害を生じさせるという結果を予見することは不可能であったから、本件支払精算書の作成行為自体と損害の発生との間に相当因果関係はない。
第3争点に対する判断
1 平成9年9月当時の旭川中央署における捜査用報償費の執行状況証拠(甲3、10~12、乙4、11、証人A)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(1) 捜査用報償費の執行状況
平成9年9月当時、旭川中央署の副署長(以下「副署長」という。)は、捜査用報償費の正規の執行手続に違反していることを認識しつつ、日常の捜査活動の効率性及び機動性を優先させ、B署長の了承を得て、毎月初めに前渡資金の口座から現金を払い戻して一括管理した上、同署の担当次長(以下「次長」という。)ら又は刑事第1課長(以下「第1課長」という。)を含む捜査用報償費を執行する捜査担当課長らに対し、あらかじめ課の規模に応じて捜査活動に要する経費を現金で交付し、また、重要事件等が発生して個別に要求があった場合には、その都度現金を交付していた。捜査担当課長らは、毎月初めに副署長又は次長らから受領した現金を各捜査担当課の係長らに交付し、同係長らは、受領した現金を係単位で管理し又は係内の各捜査員に配分して、捜査協力者に対する謝礼、通信費及び夜間捜査の補食費等に使用していた。各捜査担当課の係長らが捜査担当課長らから毎月初めに受領する金額は、捜査員1人当たり1000円から3000円程度であった。
(2) 支出関係書類の作成状況
平成9年9月当時、旭川中央署の会計課長(以下「会計課長」という。)らは、実在しない人物又は電話帳から抽出した人物の氏名を架空の捜査協力者として選定して支払精算書の下書き(以下「下書き」という。)を作成した上、第1課長を含む捜査担当課長らに対し、支払精算書の用紙と下書きを交付し、各捜査担当課の各捜査員に下書きどおりに執行事実と異なる支払精算書の作成を指示するよう依頼していた。そして、各捜査員は、捜査担当課長らから支払精算書の用紙と下書きを渡され、その指示に従い、下書きどおりに支払精算書を作成した上、下書きと共に同課長らに提出していた。捜査担当課長らは、各捜査員から提出を受けた支払精算書を会計課長に提出し、さらに、会計課長は、その支払精算書を副署長に提出し、副署長及びB署長が決裁を行っていた。また、現金出納簿と報償費支出伺については、会計課長らが、下書きを作成して副署長に提出し、副署長がその下書きどおりに現金出納簿と報償費支出伺を作成して自ら決裁し、さらに、B署長の決裁を受けていた。さらに、領収書については、会計課長らが、旭川中央署における他の所属に作成を依頼していた。支払精算書及び報償費支出伺を作成するに際し使用する捜査員の印鑑については、旭川中央署の会計課又は各課の庶務係で一括して保管していた印鑑を使用し、また、領収書を作成するに際し使用する捜査協力者の印鑑については、同会計課で保管していた異動者又は退職者の印鑑を使用していた。
(3) ところで、平成9年9月当時、Aは、旭川中央署において刑事第1課盗犯第3係長の地位にあったところ、捜査用報償費の正規の執行手続を経ることなく、毎月初めに第1課長から、捜査活動に要する費用として3000円から5000円を受領して、必要の都度、捜査協力者への謝礼等に自ら使用し、又は係内の捜査員に使用させていた。Aは、捜査協力者から捜査情報の提供を受けた謝礼として、年間2、3件ほど現金を支払っていたが、1回に支払う金額は、犯人逮捕に直接結びつくような情報の場合で3000円から5000円程度であった。
また、Aは、その当時、第1課長から、平均すると毎月1回、支払精算書の用紙と下書きを渡され、その下書きどおりに支払精算書を作成するよう指示されていたところ、Aは、捜査用報償費の正規の執行手続に関する知識が欠如していたこともあり、下書きに捜査協力者として記載されている者について、自ら捜査情報の提供を受けて謝礼を支払った者であるか否かについて全く気にとめることもなく、業務の合間を縫って、事務的に、ただ第1課長から指示されるまま下書きどおりに作成日付を数か月も遡らせるなどして執行事実と異なる支払精算書を作成して第1課長に提出することを繰り返していた。また、Aが第1課長から渡される下書きの支払金額欄には、通常、捜査用報償費として一度に支出することのない金額が記載されていたが、Aは、数件分の執行金額をまとめた金額が記載されているものと認識していた。
2 争点(1)(本件事実の存否)について
(1) 前掲各証拠、前記第3の1で認定した事実及び弁論の全趣旨によれば、平成9年9月当時、旭川中央署では、捜査用報償費の不適正な執行が慣行的、組織的に行われていたこと、平成7年5月及び平成9年9月の捜査用報償費の支払先とされる捜査協力者35名のうち、住所を確認できた12名中11名が、北海道監査委員による監査に際し、捜査員に対して捜査情報を提供した覚えはなく、また、謝礼を受け取ったこともないと回答しており、平成9年9月の3名については、支払年月日の2年前から6年前に既に死亡していたこと、平成7年5月及び平成9年9月に捜査用報償費を執行したとされる捜査員22名のうち13名が、北海道警察による内部調査に際し、当時の会計課長又は上司等から依頼されるまま下書きどおりに支払精算書を作成しており、報償費支出伺に記載されている捜査用報償費を受け取っておらず、捜査協力者に対しても支払っていないと説明していること、Aは、平成9年9月当時、捜査協力者に対し、年間2、3件しか謝礼として現金を支払っていないにもかかわらず、第1課長からは平均すると毎月1枚ほど支払精算書の作成を指示されていたこと、その際、Aは、下書きに捜査協力者として記載されている者について、真実自己の捜査協力者であるかどうか全く気にとめることなく、また、その内容について確認することもなく、事務的に第1課長から指示されるまま下書きどおりに執行事実と異なる支払精算書を作成していたこと、本件支払精算書の支払金額欄に記載されている1万円という金額は、通常、捜査用報償費の執行として一度に支出することのない金額であることが認められ、さらに、原告が、本人尋問において、Aを含む警察官に対して捜査情報を提供して謝礼を受け取った経験は一度もなく、そもそもAとは面識がないと明確に供述していることも考慮すれば、平成9年9月当時、原告がAに対して窃盗に関する捜査情報を提供したことはなく、同人から謝礼として現金1万円を受け取ったこともないし、また、領収書の発行を拒否したこともなかったと認めることができる。
(2) これについて、Aは、その証人尋問における供述及び同人作成の陳述書(乙4)の記載(以下、併せて「供述」という。)において、旭川中央署で勤務していた6年間において、捜査協力者から窃盗に関する捜査情報の提供を受け、謝礼として現金を交付したことはあるものの、時期が不明であり、また、原告と会ったことがあるかどうかも分からず、本件支払精算書の写し(甲2の1)の内容にも確かな記憶がないため、原告から窃盗に関する捜査情報の提供を受け、同人に対し謝礼として現金1万円を支払ったかどうか分からないなどと曖昧な供述に終始するにとどまっているのである。
しかしながら、Aは、旭川中央署で勤務していた当時、年間で15、16人いた捜査協力者のうち現金を渡したのは2、3名であり、現金を渡した回数も年間2、3件にとどまること、Aは、捜査協力者として扱うには、人物として信頼性があり、信頼関係が持てることや、提供された情報の信頼性があることを要する旨を供述しているのである。そうすると、Aが旭川中央署在職中に捜査協力者として現金を渡した人数は、延べ12名ないし18名程度にすぎないことになる。しかも、本件事実は、平成9年9月に原告から、窃盗に関する捜査情報の提供を受け、捜査用報償費を支払った等というもので、人物と時期の特定があり、Aが捜査協力者に捜査用報償費を支払う以上、その捜査協力者は、Aが信頼できる人物であるか、又は提供された情報の信頼性が捜査用報償費を支払うに値するものであったはずであることになるから、本件事実が真実であれば、Aは、本件訴訟の証人尋問期日までに、そのような関係にあったか、又はそのような情報提供を受けた人物に関する記憶を喚起するか、又は本件訴訟の証人及び本人尋問の期日において、原告を現認した上で供述した際に、原告についての記憶を喚起することができたはずである。
現に、北海道警察本部本部長が、旭川中央署捜査用報償費問題について調査を行った際に、Aと同様に捜査用報償費の捜査協力者への支払の有無を問題とされ、平成7年5月当時に捜査用報償費を謝礼として捜査協力者に間違いなく支払っていると説明した捜査員1名は、捜査協力者の実名の記憶はないとするものの、当時の事件の内容、捜査協力者と接点を持つに至った経緯、捜査協力者の人物像、情報の内容、謝礼の交付状況等について具体的に説明しており、その事実確認を行った結果、該当する事件の捜査事実が確認されている(乙11)のであり、同様の状況にあり、平成7年5月より近時である平成9年9月の行為が問題となっているにもかかわらず、Aは、前記のようなあいまいな供述に終始しているのである。Aは、自らの現在の記憶が不明確であったとしても、本件事実が存在するのであれば、本件訴訟が提起された後であっても、A自身の証人尋問期日までに相当の期間があったのであるから、平成9年9月当時にA自身が捜査していた事件、その内容や状況等につき子細に再度調査して、当時行っていた事件の捜査と本件事実との何らかの関連性の手がかりや裏付けが得られたはずであると考えられるところ、A自身が調査しても、本件事実と当時の事件の捜査との関連性が確認できなかったとすれば、本件事実が存在しなかった蓋然性は極めて高いものであるといわざるをえないものである。そうであるとすれば、A自身は、調査の結果、本件事実が存在しなかった蓋然性が高いことを認識しながら、あえて、本件事実の存否について断定や判断を避ける供述に終始していることになるのであるし、あるいは、あえて平成9年9月当時の事件や捜査について詳細な調査や記憶喚起は行わず、本件事実の存否について具体的に供述することを避けているものと考えざるをえないのである。このような状況や本件訴訟の経過に照らすと、Aの前記供述によっても、本件事実が存在しなかったとの前記認定を何ら左右するものではないというべきである。
3 争点(2)(本件支払精算書の作成が不法行為を構成するか)について
(1) 氏名権侵害
ア 氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するものというべきである(最高裁昭和63年2月16日第三小法廷判決・民集42巻2号27頁)。そして、他人の氏名を無断で使用し、真実に反する事実を記載することは、日記等の他人の閲覧を予定しない個人的なものにされる場合を除き、原則として、それ自体で氏名権を侵害するものと解するのが相当である。
イ 本件についてこれをみると、前記第2の1で認定した争いのない事実等及び証拠(甲9、乙3、原告本人)によれば、支払精算書は、捜査員が取扱者である警察署長等に自らが執行した捜査用報償費の精算をするために提出する書類であって、その後、捜査用報償費の証拠書類等の一部として証明責任者によって保管されるという特別の取扱いが認められた公文書であるところ、本件支払精算書に記載された氏名は、原告と同一であり、住所も、平成9年9月当時の原告の住所と同一であり、何人も、本件支払精算書に記載された「C」は原告を指すと理解するものと認められる。そうすると、本件支払精算書は、閲覧の対象者が北海道警察の職員の一部や北海道監査委員などに限定されはするものの、複数の者が目にする可能性のある文書であり、このような性質を有する本件支払精算書中に、原告がAに対し窃盗に関する捜査情報を提供し、同人から謝礼として現金1万円の支払を受け、かつ、領収書の発行を拒否した旨の虚偽の本件事実が記載されたというのであるから、このような態様による原告の氏名の無断使用は、原告の氏名権を侵害するものというべきである。
ウ これに対し、被告は、他人の氏名を無断で使用して真実に反する事実を記載した文書を作成したとしても、直ちに氏名権を侵害するわけではなく、同文書が外部に公開され、被冒用者において氏名冒用の事実を知り得べき状態になって初めて氏名権の侵害が発生すると主張する。
しかし、前記説示の氏名権の趣旨に照らせば、たとえ限られた関係者だけが目にする文書であっても、他人の氏名を冒用し、虚偽の内容の公文書を作成することは、それ自体、私人の権利を侵害すると考えるべきであるから、原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成すれば、同文書が未だ外部に公開されるに至っていなくても、直ちに原告の氏名権を侵害すると解するのが相当である。したがって、被告の上記主張は採用できない。
(2) 違法性
ア 前記認定のとおり、平成9年9月当時、旭川中央署では、捜査用報償費の正規の執行手続を経ず、毎月初めに、又は必要の都度交付された現金を捜査活動に要する経費として使用していた外、関係職員が、執行事実と異なる支払精算書の作成、現金の管理及び執行等に関与していたことから、不適正な予算執行が慣行的、組織的に行われていたものと認められる。そして、その当時、Aは、同署において刑事第1課盗犯第3係長の地位にあったが、捜査用報償費の正規の執行手続に関する知識が欠如していたこともあったため、第1課長から指示されるまま、会計課長らが作成した下書きどおりに執行事実と異なる支払精算書を日常的に作成していたところ、その際、下書きに捜査協力者として記載されている者が、真実自己の捜査協力者であるのか否かについて全く気にとめておらず、架空の支払精算書を作成していたものと認められる。そうすると、Aは、旭川中央署における不適正な予算執行に関与していたというほかなく、その結果、原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成し、原告の氏名権を侵害する事態を生じさせたものと認められる。
以上によれば、Aが、警察官の職務を遂行するに際し、内容虚偽の本件支払精算書を作成して原告の氏名権を侵害したことは明らかであるから、Aによる本件支払精算書の作成行為には国家賠償法1条1項にいう違法があるというべきである。
イ(ア) これに対し、被告は、Aが、本件支払精算書を作成したとしても、同文書を作成することが自己の職務上の義務であると信じ、又はそのように信じることにつき相当の理由がある場合には、違法性の意識を欠くといえるから、本件支払精算書の作成行為自体を職務上の義務違反と評価すべきではないと主張する。
しかし、Aの供述を子細に検討しても、同人が、平成9年9月当時、旭川中央署において、捜査用報償費の正規の執行手続に従って支払精算書を作成していると相当の根拠を持って信じていたとは到底認められず、かえって、前記認定のとおり、Aは、第1課長から渡される下書きの支払金額欄には、通常、捜査用報償費として一度に執行することのない金額が記載されていることを認識しており、さらに、下書きに捜査協力者として記載されている者が、真実自己の捜査協力者であるのか否かについて全く気にとめることもなく、またそれを確認することもなく、ただ第1課長から指示されるまま、事務的に支払精算書を作成しており、その結果、原告の氏名を無断で使用して虚偽の本件事実を記載した本件支払精算書を作成しているのであるから、このようなAの行為が警察官としての職務上の義務に違反していたことは明らかである。したがって、被告の上記主張は採用できない。
(イ) また、被告は、本件支払精算書の外部流出が、A又は旭川中央署の他の職員の内部告発によるものではないことは明らかであり、A又は同職員に文書管理義務の懈怠があったと評価することもできないから、国家賠償法1条1項にいう違法があったとは認められないと主張する。
しかし、前記説示のとおり、原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成したこと自体が、原告の氏名権を違法に侵害するものであり、被告の上記主張は、本件支払精算書が外部に公開されて初めて違法となるという前記説示と異なる見解、ひいては、他人の氏名を冒用して内容虚偽の公文書を作成しても、外部に流出させる行為がなければ、違法とはいえないとの特異な見解を前提にしたものであって、到底採用できない。
(3) 故意又は過失
ア そして、前記認定のとおり、平成9年9月当時、Aは、捜査用報償費の正規の執行手続に関する知識が欠如していたこと等のため、第1課長から指示されるまま、会計課長らの作成した下書きどおりに支払精算書を作成していたが、実際に作成するのは作成日付よりも数か月も後であること、下書きの支払金額欄には、通常、捜査用報償費として一度に支出することのない金額が記載されており、Aは、その旨認識していたこと、Aは、捜査協力者に対する謝礼として年間2、3件しか現金を支払っていないにもかかわらず、第1課長からは平均して毎月1枚ほど支払精算書の作成を指示されていたこと、その際、下書きに捜査協力者として記載されている者が自己の捜査協力者であるのか否かについて気にとめておらず、その確認もしていなかったことが認められる。そして、Aは、平成9年当時、自らの捜査協力者に捜査用報償費を現金で渡した場合に、その真実を支払精算書に記載した正規の書類を作成したか否かについて、作成したかもしれないが、記憶はない、また、正規に自らが捜査用報償費を捜査協力者に支払う場合には自らが押印すべき報償費支出伺の「領収印」欄に押印したことはない旨供述していることを勘案すると、Aは、本件支払精算書を作成するに当たり、原告から窃盗に関する捜査情報の提供を受けたり、同人に対し謝礼として現金1万円を支払ったりした事実はない蓋然性があることを十分に認識していたか、又はこれを容易に認識し得たのに、あえて、それを全く気にしていなかったのであるから、氏名権を侵害することについて少なくとも重大な過失があったことは明らかである。
イ これに対し、被告は、Aが本件支払精算書を作成したとしても、本件支払精算書の内部文書としての性質にかんがみれば、同人において、本件支払精算書が外部に公開されることによって原告に精神的損害を生じさせるという結果を予見することは不可能であったから、故意又は過失は認められないと主張する。
しかし、前記説示のとおり、原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成したこと自体が、原告の氏名権を違法に侵害する行為であって、被告の上記主張は、原告の氏名を本件支払精算書に無断で使用すること自体は違法ではなく、本件支払精算書が外部に公開されて初めて違法の評価を受けるという前記説示と異なる見解を前提にしたものであって、結局のところ、他人の氏名を冒用して内容虚偽の公文書を作成しても、通常は外部に発覚するはずのない公文書の作成であるから、発覚しても作成者の責任は生じないとの独自の見解に帰するもので、到底採用できない。
(4) 責任主体
前記認定のとおり、Aは、職務を行うについて本件支払精算書を作成し原告の氏名権を違法に侵害したと認められるところ、その当時、Aは、被告の公権力の行使にあたる公務員であったことは明らかであるから、被告は、Aの不法行為につき、国家賠償法1条1項に基づく責任を負う。
4 争点(3)(原告に生じた損害の有無等)について
(1)ア 前記認定のとおり、支払精算書は、捜査員が取扱者である警察署長等に自らが執行した捜査用報償費の精算をするために提出する書類であって、その後、捜査用報償費の証拠書類等の一部として証明責任者によって保管されるという特別の取扱いが認められた公文書であるところ、窃盗に関する捜査情報を提供し、謝礼の支払を受けることは、当該情報提供者が窃盗に関連する犯罪行為又は犯罪者にかかわりを持っていることをうかがわせる行動とみられるのは避け難く、支払精算書中に、当該事実がないにもかかわらず、捜査員に対して窃盗に関する捜査情報を提供し、謝礼として現金の支払を受けたことが記載され、無断で氏名を使用された者は、これにより無形の損害を受け、かつ、同損害は金銭に評価することができるというべきである。ただし、通常、支払精算書の記載事項の内容を知り得る者の範囲は前記のとおり自ずから限定されたものとなることを考慮すれば、支払精算書に虚偽の記載がされ、氏名を冒用されたとしても、これによる損害の程度は自ずと限定されたものにとどまると解するのが相当である。
以上によれば、本件において氏名権が侵害されたことによって原告が被った無形の損害に対する賠償の額としては、10万円をもって相当とすべきであり(なお、原告は慰謝料という表現をしているが、客観的に生じる財産的損害ではない損害であると主張しており、それは、原告の氏名権が侵害されたことにより原告の被った無形の損害の賠償を求める趣旨であることは明らかである)、また、本件事案の内容、本件訴訟の審理経過及び認容額その他諸般の事情を考慮すると、本件の不法行為と相当因果関係のある損害としての弁護士費用としては、5万円であると認めるのが相当である。イ これに対し、被告は、本件支払精算書は外部に公開されるはずのない内部文書であり、実際にも原告は本件支払精算書の写し(甲2の1)を入手した報道機関によって氏名冒用の事実を知らされたのであるから、Aにおいて、本件支払精算書が外部に公開され原告に精神的損害を生じさせるという結果を予見することは不可能であり、Aによる本件支払精算書の作成行為自体と精神的損害の発生との間に相当因果関係はないと主張する。
しかし、前記説示のとおり、Aが、原告の氏名を無断で使用して本件支払精算書を作成したこと自体によって、直ちに無形の損害が発生すると解するのが相当であって、被告の上記主張は、本件支払精算書が外部に公開され、原告において氏名冒用の事実を知ったときに初めて精神的損害が発生するという前記説示と異なる損害論を前提にして因果関係の有無を論じるものであって、採用できない。
(2) なお、証拠(甲3、9、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、北海道警察は、平成15年12月、北海道議会において、旭川中央署における捜査用報償費の不適正な執行の有無が問題になった際、本件支払精算書の写し(甲2の1)の出所が明らかでないなどとして、調査に消極的な姿勢を示したこと、住民監査請求に基づく監査に際し、北海道監査委員が捜査用報償費の執行に関わる捜査員の事情聴取を再三にわたり強く要請したにもかかわらず、一貫してこれを拒否するなどして非協力的な態度を取り続けたこと、本件訴訟においては、本件事実の存在を認めるに足りる証拠は何ら提出されておらず、前記認定のとおり、本件事実は存在しないものと認められるにもかかわらず、被告は、本件事実の存否は分からないとの認否に終始し、原告に対して一切の謝意を表明していないことが認められるものの、かかる事情が本件で認められた損害の金額の算定に直ちに影響を与えるものと解すことはできない。
第4結論
以上によれば、原告の請求は、15万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成16年2月6日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 生野考司 裁判官 宮島文邦 裁判官 藏本匡成)