札幌地方裁判所 平成17年(ワ)167号 判決 2008年1月30日
本訴原告兼亡甲野一郎訴訟承継人本訴原告(反訴被告)
甲野花子
亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告
甲野二郎
亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告
甲野葉子
上記3名訴訟代理人弁護士
髙﨑良一
同
片岡清三
同
繁礼子
本訴被告(反訴原告)
医療法人乙川病院
同代表者理事長
春野大雄
同訴訟代理人弁護士
黒木俊郎
同
坂本大蔵
主文
1 本訴原告兼亡甲野一郎訴訟承継人本訴原告(反訴被告)の請求を棄却する。
2 本訴原告兼亡甲野一郎訴訟承継人本訴原告(反訴被告)は,本訴被告(反訴原告)に対し,321万2574円及びこれに対する平成19年9月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告甲野二郎は,本訴被告(反訴原告)に対し,80万3143円及びこれに対する平成19年9月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告甲野葉子は,本訴被告(反訴原告)に対し,80万3143円及びこれに対する平成19年9月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
5 訴訟費用は,本訴反訴を通じ,本訴原告兼亡甲野一郎訴訟承継人本訴原告(反訴被告),亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告甲野二郎及び亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告甲野葉子の各負担とする。
6 この判決は,2項ないし4項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
1 本訴
本訴被告(反訴原告)は,本訴原告兼亡甲野一郎訴訟承継人本訴原告(反訴被告)に対し,4億2143万9308円及びうち2億1168万5135円に対する平成16年1月6日から,うち2億0975万4173円に対する平成17年5月1日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 反訴
主文2項ないし4項と同旨
第2 事案の概要
本件は,本訴被告(反訴原告。以下,単に「被告」という。)との間で診療契約を締結し,被告の開設する乙川病院(以下「被告病院」という。)において,左頸部膿瘍切開排膿手術(以下「本件手術」という。)を受けた亡甲野一郎(以下「亡一郎」という。)が,同手術の際に気道閉塞に陥り,その後,重度の低酸素脳症(蘇生後脳症)になったことにつき,亡一郎及び同人の妻である本訴原告兼亡甲野一郎訴訟承継人本訴原告(反訴被告。以下,単に「原告」という。)が,被告に対し,被告病院の医師には,本件手術を行うに際し,気管切開又は気管穿刺を行うのが遅れた過失ないし注意義務違反(以下,単に「過失等」という。)があり,その結果亡一郎が重度の低酸素脳症になったと主張して,亡一郎については債務不履行又は不法行為(民法715条1項)に基づき,原告については不法行為(民法715条1項)に基づき,それぞれ損害を賠償するよう求めた(本訴)のに対し,被告が,亡一郎に対し,前記診療契約に基づき,未払治療費の支払を求めた(反訴)事案である。
なお,亡一郎は,平成19年5月16日に死亡し,同人の訴訟上の地位は,本訴については原告が,反訴については原告並びに亡一郎の父母である亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告甲野二郎(以下「反訴被告二郎」という。)及び亡甲野一郎訴訟承継人反訴被告甲野葉子(以下「反訴被告葉子」という。なお,以下,反訴被告二郎と反訴被告葉子を総称して,「反訴被告ら」という場合がある。)がそれぞれ承継した。
1 前提事実(争いのない事実並びに後掲各証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定することのできる事実)
(1) 当事者等
ア 亡一郎は,昭和46年5月*日生まれの男性であり,平成16年1月6日に実施された本件手術の後,重度の低酸素脳症に陥っていわゆる植物状態になり,平成19年5月16日に死亡した(争いがない)。
イ 原告は亡一郎の妻であり,反訴被告らは同人の父母であって(争いがない),他に亡一郎の相続人はいない(弁論の全趣旨)。
ウ 原告及び反訴被告らは,亡一郎の死亡に伴い,同人の本訴請求債権については,平成19年9月4日,原告が単独で承継する旨を合意し(甲C9),反訴請求にかかる債務については,法定相続分の割合(原告3分の2,反訴被告二郎6分の1,反訴被告葉子6分の1の各割合)に従ってそれぞれ承継した(争いがない)。
エ 被告は,北海道苫小牧市に被告病院を開設している医療法人である(争いがない)。夏川正記医師(以下「夏川医師」という。)は,平成元年に医師免許を取得し,平成6年に日本耳鼻咽喉科学会専門医の資格を取得していたところ(乙A4),本件手術当時,耳鼻咽喉科主任科長として被告病院に勤務しており,平成16年1月6日(以下,特に断らない限り,平成16年については月日のみで表示する。),本件手術に先立ち,被告病院耳鼻咽喉科外来で亡一郎を診察するとともに,本件手術の際,同人に対する気管切開を行った。また,秋山昭夫医師(以下「秋山医師」という。)は,昭和53年に医師免許を取得し,昭和60年2月に麻酔指導医の認定を受けていたところ(乙A3),本件手術当時,診療部部長として被告病院に勤務しており,本件手術の際,亡一郎に対する気管挿管を試みた(乙A3,4)。
(2) 診療契約の締結
亡一郎は,1月6日,被告との間で,被告病院が亡一郎に対して適切な診察・治療を行うことを内容とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した(弁論の全趣旨)。
(3) 治療費の発生
被告は,本件診療契約に基づき,被告病院において,平成16年1月6日から平成19年5月16日までの間,亡一郎に対して入院治療を行った。平成16年1月6日から平成17年4月30日までの治療費のうち,亡一郎の自己負担部分は合計359万3919円である。
2 争点及びこれに対する当事者双方の主張
(1) 気管切開又は気管穿刺を行うべき時期を誤った過失等の有無(争点(1))
(原告の主張)
ア 秋山医師の過失等について
(ア) 秋山医師は,1月6日午後3時50分の数分前ころ(以下,1月6日については,日付を省略して時刻のみを記載することがある。),亡一郎の喉頭蓋の左側付近にあった直径4ないし5mmの黄色の膿状の塊を除去するため,これを無鉤長摂子でつまんだところ,喉頭蓋の左側から突然出血し,亡一郎は,これを契機に呼吸困難を訴え,マスクによる補助換気も困難に陥り,口腔内の血液をカテーテルで吸引しようとしても吸引しきれず,すぐに咽頭に血液が溜まり,喉頭蓋の観察も不可能な状態になった。また,午後3時50分には,亡一郎の動脈血酸素飽和度(SpO2)は88%まで急激に低下して,低酸素血症となり,午後3時50分過ぎには,同人の意識は消失するに至った。以上の事実経過に照らせば,秋山医師が,黄色の膿状の塊を除去しようとしてこれをつまんだ際に,膿状の塊又は塊及びその周辺組織が気管に落下して気道をふさぎ,その上に血液が貯留したことにより,又は,喉頭鏡ブレードの挿入,表面麻酔薬の散布や出血等のわずかな物理的刺激により,遅くとも午後3時50分過ぎ(午後3時52分ころ)には,亡一郎の気道は完全に閉塞状態に陥っていたと考えられる。
そして,異物が気管に落下して気道をふさいだ状態で,無理に気管内に挿管しようとすれば,異物をますます奥に落下させることになるし,そうでないとしても,亡一郎の喉頭・声門部付近には本件手術前から高度の浮腫が存在しており,無理に挿管しようとすれば,浮腫を増悪させ,気道の狭窄・閉塞を招くことになるところ,秋山医師は,このような危険性を予見することが可能であった。
(イ) したがって,秋山医師には,亡一郎が出血により呼吸困難を訴え始めた時点で,可及的速やかに気管挿管を断念し,夏川医師に対し,直ちに気管切開又は気管穿刺の指示を出すべき注意義務があったにもかかわらず,これを怠り,午後4時05分ないし午後4時15分ころまで気管切開又は気管穿刺の指示を出さなかった。
イ 夏川医師の過失等について
(ア) 過失等の内容について
上記ア(ア)の事実経過に照らせば,夏川医師には,秋山医師が気管挿管を断念し気管切開を指示した時点で,直ちに気管切開又は気管穿刺を試みるべき注意義務があったというべきである。ところが,夏川医師は,これを怠り,気管切開の指示のあった午後4時05分から10分も経過した午後4時15分まで気管切開に着手しなかった。
(イ) 時機に後れた攻撃防御方法に該当するか否かについて
原告は,夏川医師の証人尋問実施後になって初めて,手術室看護記録(乙A2の54・55頁)が事実に反しており,麻酔記録(同52頁)の記載が正確であるとの確信に至ったものであり,その確信に至ったからこそ,上記(ア)の夏川医師の過失等を主張することが可能となったのであるから,この点に関する上記(ア)の主張は,時機に後れて提出されたものとはいえない。
また,夏川医師は,その証人尋問において,秋山医師から気管切開の依頼を受けた後,亡一郎の頸部の消毒等を行った上で,速やかに気管切開に着手した旨供述しているところ,同供述内容に照らせば,既に,被告にとっては,上記過失等の主張に対する反論として十分な供述が得られているといえるし,同医師は,証人尋問の際,時刻については分からない旨供述していることに照らせば,気管切開に着手した時刻について,改めて同人に対する証人尋問を実施する必要はない。さらに,夏川医師は,その証人尋問において,気管穿刺について何ら供述をしていないものの,これは,単に被告代理人がこの点につき質問をしなかったからにすぎず,原告が,同医師につき上記主張をすることとは関係がないから,改めて夏川医師を証人として尋問する必要はない。以上の点に照らせば,同主張をすることは,訴訟の完結を遅延させるものではない。
よって,本件において,夏川医師に関する過失等の主張は,時機に後れた攻撃防御方法には当たらないというべきである。
(被告の主張)
ア 秋山医師の過失等について
(ア) 秋山医師は,午後3時50分ころ,亡一郎の喉頭蓋付近にあった黄色の膿状の塊を摂子の先端でつまもうとしたところ,その基部付近から出血したが,この際に,膿状の塊又は塊とその周辺組織が気管に落下したことはない。また,上記出血の直後も,亡一郎の意識は清明であり,呼吸困難は訴えていたが,呼吸は保たれていたし,動脈血酸素飽和度(SpO2)についても,午後3時50分ころに出血した際には,88%まで急激に低下したものの,午後3時53分ころ,右側臥位に体位を変換した後,約2分間にわたり改善がみられ,バッグによる換気もできていた。したがって,午後3時50分過ぎの時点で,亡一郎の気道が完全に閉塞状態に陥ったことはない。
亡一郎の気道が完全に閉塞状態に陥ったのは,午後3時57分ころであり,その原因は,本件手術の前から,高度の浮腫により腫脹し,組織損傷しやすい状況にあった同人の咽頭部に,秋山医師による喉頭鏡ブレードの挿入,表面麻酔剤の散布,出血等のわずかな物理的刺激が加わったことによって浮腫が急速に増悪したことなどであると考えられる。しかしながら,秋山医師は,本件手術の時点で,亡一郎の咽頭,声門付近に炎症・浮腫があったことは認識していたものの,同人の浮腫は,抗生剤が発達した現代においては前例がないほど進行した症例であったことや,麻酔導入時に同人が呼吸困難を訴えるようなこともなかったことなどに照らせば,同医師が,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴え始めた時点で,亡一郎の浮腫が上記のようなわずかな物理的刺激によって増悪し,気道閉塞が生じることを予見することは不可能であった。
したがって,秋山医師には,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴え始めた時点で,気管挿管を断念し,気管切開又は気管穿刺を試みるべき注意義務はない。
(イ) また,秋山医師は,前記(ア)のとおり,午後3時50分ころ,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴えた後,同人の体位を右側臥位に変換しており,これにより同人の換気は一時的に改善したものの,その後同人の呼吸状態は悪化し,午後3時57分ころには気道が完全に閉塞するに至ったところ,この時点で本来の喉頭展開を最後まで行っていなかったことから,速やかに直視下経口気管挿管等4種類の気管挿管を順次試みた。しかし,これがいずれも成功しなかったことから,秋山医師は,午後4時の時点で挿管不能と判断して気管挿管を断念し,直ちに夏川医師に対して気管切開を指示したものである。秋山医師が上記のとおりまず気管挿管を試みたのは,本件手術前のCT検査及び内視鏡検査の所見上,亡一郎の頸部に,ほぼ全周にわたって厚さ2,3cm程度の膿瘍が見られ,触診上も気管の位置が分からなかったため,気管切開は極めて危険性が高いと考えられ,他方で,同人の気道は,狭窄していたものの一応開通していたことから,気管挿管は困難ではあるが,気管切開よりは安全であると考えたためであり,午後4時まで気管切開を指示しなかった同医師の判断には,何ら不適切な点はない。
(ウ) したがって,秋山医師が,午後4時まで,気管挿管を不可能と判断せず,夏川医師に対して気管切開又は気管穿刺の指示を出さなかったことに過失等があったということはできない。
イ 時機に後れた攻撃防御方法に当たるか否かについて
(ア) 夏川医師の過失等に関する原告の主張は,本件訴え提起後2年以上にわたって争点整理を行い,争点を絞って実施された夏川医師の証人尋問終了後に初めてなされたものであるところ,同主張は,結局は,本件訴え提起直後に書証として提出された被告病院の診療録のうちの手術室看護記録(乙A2の54・55頁)と麻酔記録(同52頁)の記載に齟齬があり,原告が後者の記載が正しいと判断したことに基づくものであって,夏川医師の証人尋問実施後に新たに明らかになった事実に基づくものではない。したがって,原告は,本件訴え提起後,夏川医師の証人尋問前の時点で,いつでも夏川医師に関する過失等の主張をすることが可能であったというべきであるから,同主張は時機に後れて提出されたものというべきである。
(イ) また,原告の従前の主張は,秋山医師が,夏川医師に対し,気管切開又は気管穿刺の指示をすべき時期の遅れを問題視していたのに対し,夏川医師の過失等に関する主張は,同医師が,秋山医師の指示を受けてから気管切開に着手するまでに時間を要したことや,気管穿刺をしなかったことを問題視していることに鑑みると,夏川医師の過失等に関する主張の当否を判断するためには,秋山医師からの指示後,夏川医師が行った気管切開の準備の内容及びこれに要した時間や,気管穿刺を試みなかった理由等につき,改めて夏川医師の証人尋問を実施する必要があると解される。したがって,同主張をすることは,訴訟の完結を遅延させるものである。
(ウ) よって,本件において,夏川医師に関する上記過失等の主張は,時機に後れた攻撃防御方法に当たるから,同主張は却下されるべきである。
(2) 上記(1)の過失等と,亡一郎に生じた重度の低酸素脳症との間の相当因果関係の有無(争点(2))
(原告の主張)
ア 夏川医師が気管切開に着手した後,短時間で挿管に成功したことに照らすと,亡一郎が呼吸困難を訴えた時点で,秋山医師が,挿管不可能と判断し,直ちに夏川医師に対して気管切開又は気管穿刺の指示を出すことにより,同医師が直ちに気管切開等を行っていれば,午後3時55分過ぎには換気ができたと考えられるから,換気不能による低酸素脳症という重篤な結果の発生を避けることができた。ところが,秋山医師による挿管不可能の判断が遅れ,しかも,夏川医師による気管切開の開始が遅れたため,換気不能状態が継続することとなって,重度の低酸素脳症を発症した。
イ なお,通気が回復した後,亡一郎が心停止の状態にあった間は,心マッサージによって脳に酸素が供給されていたところ,脳にわずかでも血流量があれば,比較的長時間その状態が続いても脳に障害を残さないとされているから,心停止が脳に与えた影響は極めて小さいというべきであり,したがって,亡一郎に生じた重度の低酸素脳症は,上記秋山医師ないし夏川医師の過失等により生じた換気不能に起因するものと解すべきである。
ウ よって,上記(1)の過失等と亡一郎に生じた重度の低酸素脳症との間には,相当因果関係がある。
(被告の主張)
ア 本件手術前の時点で,亡一郎の頸部の全周及び喉頭蓋付近には顕著な発赤・腫脹が見られ,咽頭腔から上縦隔の高さにかけて広範囲に膿瘍が及び,その一部は,進行が極めて早く組織破壊の程度が高いガス産生菌を含んでおり,夏川医師の本件手術までの臨床経験上,最も酷い状態の頸部膿瘍であった。また,頸部には,半回神経,総頸動脈等の重要な神経,血管等が存在し,これらを損傷した場合には,窒息,半身麻痺等を引き起こすことになるため,気管切開の際には,頸部構造を正確に認識する必要があるところ,亡一郎の頸部には,広範囲にわたって腫脹・壊死が見られ,膿が常に切開創から流出し続ける状態であったため,気管軟骨の位置の確認や術野の確保ができず,気管切開は極めて困難な状態であった。したがって,夏川医師が午後4時02分に気管切開を開始し,わずか5分後の午後4時07分に挿管を完了させたことは,単に幸運の結果にすぎない。
さらに,気管切開の際には,患者の頸部を伸展させた状態で固定する必要があるところ,午後4時02分ころ夏川医師が気管切開をした際には,亡一郎の意識は消失しており,頸部伸展や体位の固定が可能であったのに対し,午後3時50分ころの時点では,亡一郎には意識があり,体動も認められたのであるから,気管切開を行う数分間にわたって頸部を伸展させ,体位を固定することは不可能であった。
以上の事実に照らせば,午後3時50分ころの時点で気管切開を行ったとしても,挿管に成功する可能性は極めて低かったというべきである。
イ また,午後4時の時点では,亡一郎は,低酸素状態ではあったものの,脳にも酸素が供給されており,その後も心マッサージが行われていたことから,同人に完全な脳虚血が生じた時間は,午後4時以降から午後4時07分までの7分間よりは短いと考えられる。さらに,亡一郎に生じた重度の脳障害は,窒息により換気不能の時間が続いたことのみに起因するものではなく,気管切開による通気再開後も長時間にわたり心停止の状態が続き,その間,気管切開時に併発した右緊張性気胸などにより,心マッサージの効果が十分に現れなかったことなどによる脳血流低下の関与が強いと考えられる。
ウ 以上のとおり,亡一郎が出血により呼吸困難を訴え始めた午後3時50分の時点で直ちに気管切開を行ったとしても,挿管に成功して重度の低酸素脳症の発症という結果を回避することができた可能性はきわめて低かったし,亡一郎の低酸素脳症の原因としては,換気不能状態であったことよりも,気管切開後の心停止の影響が大きいと考えられるのであるから,上記(1)の過失等と,亡一郎に生じた重度の低酸素脳症との間には相当因果関係はない。
(3) 亡一郎及び原告に生じた損害(争点(3))
(原告の主張)
亡一郎は,本件における被告の債務不履行又は不法行為(民法715条1項)により,以下のアないしカの各損害を被ったところ,平成19年5月16日に亡一郎が死亡し,同年9月4日,同人の法定相続人である原告及び反訴被告らの間で成立した合意により,原告は,亡一郎の被告に対する損害賠償請求権を全部取得した。また,原告は,本件における被告の不法行為(民法715条1項)により,以下のキ及びクの各損害を被った(なお,亡一郎は,平成17年6月21日の本件第2回弁論準備手続期日において,本訴請求債権のうち下記アの治療費に相当する部分を自働債権として,反訴請求債権とその対当額において相殺するとの意思表示をした。)。
よって,原告は,被告に対し,債務不履行又は不法行為(民法715条1項)に基づく損害の賠償として,下記イないしクの合計4億2143万9308円及びうち2億1168万5135円に対する本件手術日である平成16年1月6日から,うち2億0975万4173円に対する平成17年5月1日から各支払済みまでいずれも民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
ア 治療費 359万3919円
平成16年1月6日から平成17年4月30日までの被告病院における亡一郎の治療費のうち,患者自己負担分。
イ 将来の治療費 2億0975万4173円
平成16年1月6日から平成17年4月30日まで(481日間)の被告病院における亡一郎の治療費合計1555万1729円を診療日数で除した1日当たりの治療費額は,3万2332円となるから,同金額を基礎として,平成17年5月1日を起算日とした亡一郎の平均余命45年に対応するライプニッツ係数17.7740を用いて将来の治療費を計算すると,下記の計算式のとおりとなる。
なお,亡一郎は,重度心身障害者医療制度による治療費の補助を受けているが,同制度は,将来にわたって保障されたものではなく,現に,平成16年10月に改定により,患者本人負担分が増額されていることを考慮すると,将来の治療費の算定に当たっては,下記計算式のとおり,同制度の適用がないものとして算定すべきである。また,亡一郎は,同年6月以降はリハビリを中心とした治療を受けていたものの,将来にわたってリハビリを中心とした治療のみが施されるとは限らないから,将来の治療費額を被告の主張する範囲に限定することは妥当ではない。
(計算式) 15,551,729÷481=32,332
(小数点以下切捨て)
32,332×365×17.7740=209,754,173
(小数点以下切捨て)
ウ 将来の介護費用 6563万0650円
亡一郎は,本件手術当時32歳であったところ,同手術により重度の低酸素脳症となったため,平均余命までの47年間にわたり介護が必要となった。その費用としては,1日当たり1万円が相当である。そこで,亡一郎の平均余命47年に対応するライプニッツ係数17.9810を用いて将来の介護費用を計算すると,以下の計算式のとおりとなる。
(計算式) 10,000×365×17.9810=65,630,650
エ 後遺障害逸失利益 9255万4485円
亡一郎は,本件手術後,重度の低酸素脳症になって,いわゆる植物状態となり,自動車損害賠償責任保険の後遺障害別等級表別表第1所定の後遺障害等級1級1号に該当する後遺障害が残存した。よって,その労働能力喪失率は100%となる。そこで,基礎収入を565万2493円とし,亡一郎(本件手術当時32歳)の67歳までの労働能力喪失期間35年に対応するライプニッツ係数16.3741を用いて逸失利益の現価を計算すると,以下の計算式のとおりとなる。
(計算式) 5,652,493×16.3741×1.00=92,554,485
(小数点以下切捨て)
オ 後遺障害慰謝料 3000万円
カ 弁護士費用 1800万円
キ 原告固有の慰謝料 500万円
原告は,夫である亡一郎が植物状態となったことにより,甚大な精神的苦痛を被ったところ,その精神的苦痛を慰謝するための金額としては,500万円が相当である。
ク 原告固有の弁護士費用 50万円
(被告の主張)
すべて不知ないし争う。
なお,将来の治療費(上記イ)につき,原告は,本件手術直後の期間を含む高額の治療費を基礎に日割計算を行っているが,被告病院は,平成16年6月以降,亡一郎に対し,リハビリを中心とした治療を実施しており,その後も処置内容に変更はないから,亡一郎の将来の治療費を算定するに当たっては,平成16年11月以降の平均治療費である月額約6万8000円を基礎とすべきであり,これによれば,亡一郎が平均余命に相当する期間生存したと仮定しても,患者本人が負担する将来の治療費の合計額は約4000万円にとどまる。
(4) 反訴請求の当否(争点(4))
(被告の主張)
ア 平成17年5月1日から平成19年5月16日までの亡一郎に対する治療費のうち,亡一郎の自己負担部分は合計122万4943円となる。
イ よって,被告は,本件診療契約に基づき,平成19年5月16日に死亡した亡一郎の相続人である原告及び反訴被告らに対し,上記アの122万4943円に前記争いのない359万3919円(平成16年1月6日から平成17年4月30日までの治療費のうち自己負担部分)を加えた合計481万8862円の治療費請求権につき,その法定相続分(原告3分の2,反訴被告二郎6分の1,反訴被告葉子6分の1)の割合に応じて,原告に対して321万2574円,反訴被告二郎及び反訴被告葉子に対してそれぞれ80万3143円(いずれも小数点以下切捨て)並びにこれらに対する反訴請求拡張の申立書送達の日の翌日である平成19年9月13日から各支払済みまでいずれも民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。
ウ 相殺の抗弁については,自働債権が存在しないから,理由がない。
(原告及び反訴被告らの主張)
ア 知らない。
イ 相殺の抗弁
亡一郎は被告に対し,平成17年6月21日の本件第2回弁論準備手続期日において,本訴における請求債権のうち,当事者間に争いのない治療費に関する部分(359万3919円)をもって,被告の反訴請求債権とその対当額において相殺するとの意思表示をした。
第3 争点に対する当裁判所の判断
1 前記前提事実並びに証拠(<証拠等略>)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができ,同認定を左右するのに足りる証拠はない。
(1) 被告病院受診前の亡一郎に対する診療経過等
ア 亡一郎は,平成15年12月25日ころ,咽頭痛や39℃の発熱があったことから,同月26日,医療法人社団誠医会早来病院を受診し,トミロン等の抗生剤の投与を受け,一時的に症状が良くなった(乙A1の20頁)。
イ ところが,亡一郎は,平成16年1月1日ころから,再び咽頭痛や40℃近い発熱等の症状が現れ,飲水も困難となったことから,同月4日から6日まで,医療法人社団木村医院(以下「木村医院」という。)を受診した。木村医院の木村菊子医師は,同月4日に亡一郎を診察した際,同人の症状を左扁桃炎と診断し,抗生剤チエナムを静脈注射したが,同月5日にも,亡一郎には高熱があり,白血球数は37200/μl,CRP値は8.3mg/dlと高値であった。同医師は,同月6日の診察の際,頸部の腫脹と強い熱感を認めたことから,亡一郎に対し,耳鼻咽喉科のある被告病院の受診を勧め,被告病院耳鼻咽喉科外来担当医師あての診療情報提供書(乙A1の20頁)を作成し,これを同人に交付した(乙A1の16・20頁,乙A2の131頁)。
(2) 被告病院における本件手術前の亡一郎に対する診療経過等
ア 亡一郎は,1月6日午前10時ころ,上記診療情報提供書を持参して,被告病院耳鼻咽喉科を外来受診し,診察した夏川医師に対し,喉が腫れて咽頭痛があり,咳が出るなどの症状を訴えるとともに(乙A1の2・3・6・12頁,乙A2の134・135頁,乙A4),仰臥位になると呼吸しづらいと訴えた。同医師による診察の際,亡一郎の頸部(顎下部から鎖骨上まで)には全周性に腫脹・発赤が見られ,触診すると皮膚に圧痕が残る状態で,頸部構造(甲状軟骨・気管壁・胸鎖乳突筋)は触知困難であったが,触診に際して亡一郎が強い痛みを訴えることはなく,座位の状態で呼吸苦を訴えることはなかった。また,やや含み声(口の中に多少唾液が溜まったような声)ではあったものの,正常に会話をすることが可能であった。
夏川医師は,舌圧子を使用して亡一郎の口腔内を観察したところ,同人の症状につき扁桃炎が中心であると記載された木村医院からの診療情報提供書とは異なり,扁桃腺自体が激しく腫脹しているような感じはなく,むしろ,口腔内の粘膜全体が赤くなって,軽度の浮腫(間質(血管外)に貯留する体液量の増加。乙B4)が見られる状態であった。夏川医師は,亡一郎の咽頭の状態が,その症状に比べてそれほど悪くなかったことから,腫脹の中の状態を確認する目的で,緊急でCT検査を実施することとした(乙A4,証人夏川正記の証人尋問調書2ないし4頁(以下,「証人夏川2ないし4頁」などと表記する。))。
イ 夏川医師は,午後0時14分ないし15分ころ,亡一郎のCT検査を行ったところ,CT画像(乙A5の1ないし3)上,同人には,咽頭腔から上縦隔,大動脈弓(心臓から直接出ている太い血管)の前面にかけて膿瘍が認められ,炎症はそれよりさらに広範囲に及んでいるものと考えられた。特に,頸部は全体が腫脹し,ほぼ全周が膿瘍で占められ,気管軟骨(気管壁)周辺部には,両側胸鎖乳突筋裏面から前頸部にわたり厚さ2ないし3cm程度のガス産生菌を含む膿瘍が認められた(乙B11,証人夏川4ないし7頁)。夏川医師は,上記のとおり,膿瘍の範囲がかなり広く,縦隔にも入りかけており,もし膿瘍が心臓周囲に入って感染を起こせば,縦隔膿瘍となり,切開しても救命できないことがあることなどから,早急に頸部切開排膿手術を行う必要があると判断した(乙A1の13頁,証人夏川5ないし8・10頁)。
ウ 夏川医師は,亡一郎に対し,検査目的で採血した後,抗生剤ダラシンSの投与と輸液の点滴,入院等を指示した上で,同日午後3時前ころ,喉頭ファイバーを使用した内視鏡検査を実施した(乙A1の4頁,証人夏川8頁)。内視鏡検査の結果,亡一郎の喉頭蓋は発赤・腫脹し,喉頭蓋の左側は化膿して壊死しており,声門部付近(喉頭蓋の気管側)にはかなり強い炎症や浮腫がみられる状態であって,声門・声帯は確認できたものの,気管の中の状態は確認できなかった(乙A1の2・4頁,乙A4,証人夏川9頁)。
エ 夏川医師は,午後3時過ぎころ,CT画像・内視鏡写真を秋山医師に見せ,亡一郎の喉頭は,全体が腫脹して気道が狭窄しており,軽度膿性物の付着もあるものの,ファイバー内視鏡下で声門・声帯は確認できる状況であること,頸部腫脹が強く,局所麻酔下では安全に気管切開を行える状態ではないと思われることを説明した上で,秋山医師に対し,気管挿管が可能か否かについて意見を求めた(乙A4,証人夏川12頁,証人秋山昭夫の証人尋問調書1・2頁(以下,「証人秋山1・2頁」などと表記する。))。
秋山医師は,気管切開を行うためには気管周囲の血管や神経等の位置関係を正確に把握する必要があるところ,亡一郎には,CT画像上,頸部に厚さ数cmに及ぶ膿瘍が見られ,また,触診上も気管をまったく触知できない状態であったことから,気管切開は極めて困難かつ危険であると考え,他方で,CT画像上,亡一郎の声門付近には炎症・浮腫があり気道が狭窄していたものの,気道は一応開通しており,同医師の本件手術以前の臨床経験上,甲状腺腫瘍により甲状腺部分の気管が狭窄し,麻酔導入前から呼吸困難を訴えていた患者についても,気管挿管に成功した経験があったところ,亡一郎は呼吸困難を訴えていなかったことから,同人の気道狭窄は気管挿管の障害となるほどのものではなく,経口気管挿管は可能であると判断した。もっとも,CT画像や内視鏡写真上,強い炎症を伴う所見であったことから,通常行われている静脈麻酔薬による全身麻酔薬導入・筋弛緩薬投与後の気管挿管では,患者の意識がある間は,咽頭や頸部の筋肉が緊張することによって気道が開通されるものの,意識がなくなって筋緊張が開放されると,膿の誤嚥や急速な気道狭窄の危険があり,意識消失と同時に気道閉塞を生じて窒息する可能性があると判断した。
そこで,秋山医師は,患者に多少の苦痛を伴うことは避けられないが,操作中ずっと意識があり,呼吸が保たれ,患者が自ら分泌物を喀出することも可能であること,何か問題が発生しても,その時点で操作を中止すれば,それ以上の悪化をもたらすことはないことから,意識下経口気管挿管が最も安全性が高いと考え,この方法による気道確保を行うこととした(甲A1の1・2,乙A2の64・69頁,乙A3,4,乙B11,証人夏川8・11頁,証人秋山2・3頁)。
(3) 手術室入室後の亡一郎に対する診療経過
ア 亡一郎は,午後3時42分ころ,車椅子に乗せられて手術室に入室した。手術室内には,その時点で,秋山医師,夏川医師,夏川医師の助手の耳鼻咽喉科医師,外科の根岸医師,冬木薫看護師(以下「冬木看護師」という。),林原桜子看護師がいた。この時点での亡一郎の血圧は,収縮期137mmHg,拡張期87mmHg,心拍数は毎分110回,SpO2は100%であり,頸部の発赤・腫脹は著明であった。亡一郎は,意識は清明で,強い呼吸困難は訴えなかったが,秋山医師は,亡一郎に対し,苦しくないかを確認しながら,同人の体位を仰臥位にして,マスクで酸素投与を開始した。亡一郎は,仰臥位になると痰(分泌物)が流れ込むようだと訴えたため,秋山医師は,仰臥位のまま痰を喀出させ,亡一郎に血圧計・心電図・パルスオキシメーターを装着し,モニタリングを開始した。また,夏川医師は,手術室入室後,手術器具の確認を行ったほか,CT画像を見ながら,根岸医師や助手の耳鼻咽喉科医師と,亡一郎の状態や手術方針につき,最終的な確認を行っていた(甲A1の1,乙A2の54頁,乙A3,4,6,証人夏川13頁,証人秋山3・6頁,証人冬木薫の証人尋問調書8頁(以下,「証人冬木8頁」などと表記する。))。
イ 本件でモニタリングに使用した器具は,フクダ電子株式会社製ベッドサイドモニター(DS−5300型。以下「本件モニター」という。)であり,麻酔導入時には,非観血血圧,心電図,SpO2をモニタリングしていた。本件モニターは,SpO2値の変化に伴って音色が変化し,同数値が100%の場合には音色が高く,数値が低下するにつれて低い音色に変わっていく構造となっており,本件手術の際には,SpO2値が90%を下回るとアラームが鳴り,モニターに表示されたSpO2値が点滅するように設定されていた(乙A6,証人秋山22・23頁,証人冬木12頁,弁論の全趣旨)。
ウ 秋山医師は,午後3時44分,意識下経口気管挿管時の苦痛軽減のため,亡一郎に対し,フェンタニル(商品名フェンタネスト)1ccを静脈注射した(甲A1の1,乙A2の50・54頁,乙A3,証人秋山6・33頁)。
エ 秋山医師は,午後3時44分から50分まで,亡一郎の顔にマスクを当てて酸素投与を間歇的に行い,言葉をかけ,開口に協力してもらいながら,表面麻酔薬キシロカインを舌や咽頭に少しずつスプレーしては口腔内を吸引する操作を繰り返し,マッキントッシュ型喉頭鏡(先端を喉頭蓋谷(舌根部と喉頭蓋の谷間)に掛けて持ち上げる弯曲型の喉頭鏡)のブレードを徐々に深く挿入して,舌根部から喉頭蓋にかけて観察を進めていったところ(なお,喉頭鏡を使用した操作中は,術者以外の者が術野を確認することはできない(証人夏川12頁)。),口腔内は,やや粘性のあるさらさらした淡黄白色分泌物(膿汁)が多量に存在することを確認した。この分泌物は,下咽頭・喉頭蓋付近から沸き上がってくるように見え,秋山医師は,1分間に2回程度これを吸引しなければならなかった。
間もなく,秋山医師は,亡一郎の喉頭蓋の先端部分を観察できるようになったが,口腔からの観察では,喉頭蓋の口腔側に気道を閉塞するような著しい浮腫は認められず,あと数回キシロカインをスプレーすれば,喉頭展開をして声門が確認できる状態になった。この時点では,喉頭鏡の先端は,亡一郎の喉頭蓋には全く接触しておらず,喉頭蓋谷までの距離は2ないし3cm程度残っていた。また,亡一郎の呼吸は保たれており,秋山医師は,気道の完全閉塞(窒息)が差し迫っているとは認識していなかったし,浮腫が喉頭鏡ブレードの挿入,表面麻酔薬の散布等のわずかな物理的刺激で気道閉塞を引き起こすとも認識していなかった(甲A1の1・2,乙A2の54頁,乙A3,乙B14,証人秋山4・9頁)。
オ 秋山医師は,亡一郎の喉頭蓋の左側付近に直径4ないし5mmくらいの黄色の膿状の塊があり,声門をきちんと確認する上で視野の妨げとなっていたことから,カテーテルによる吸引を試みたが,膿状の塊は粘性が強く,貼り付いた状態であったため,カテーテルではこれを取り除くことができなかった。そのため,秋山医師は,午後3時50分ころ,粘着性の高い口腔内異物を取り除くときに通常行っているように,無鉤長摂子を用いてその除去を試み,同摂子の先端にわずかな力をかけて膿状の塊を軽く持ち上げるようにつまんだところ,突然その基部から出血した。亡一郎は,出血とほぼ同時に呼吸困難を訴え,SpO2値は88%まで急激に低下し,本件モニターのアラームが鳴った(乙A3,証人秋山6・7・9頁)。
カ 亡一郎の出血の勢いは強く,カテーテルで吸引してもすぐに血液が咽頭に溜まり,喉頭蓋の観察も不可能となったが,この時点では,亡一郎の意識は清明であったし,呼吸困難を訴えたものの,呼吸は保たれていた(甲A1の1・2,乙A3,証人秋山9・11頁)。
秋山医師は,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴えたことから,看護師に対し,吸引カテーテルの使用を補助するよう指示し,マスクによる補助換気を行ったが,亡一郎は,徐々に呼吸困難を強く訴えるようになってきた。秋山医師は,血液の吸引を繰り返すとともに,亡一郎に対し,吸気を強く促し,バッグもより強く押した。亡一郎は,必死に吸気努力をしていたが,もがき苦しむような動きや大きな体動はなかった。その後,しだいに,秋山医師がバッグを押しても空気が入りにくい状態となり,SpO2値も低下し始めた。しかし,この時点で秋山医師が認識できた異常は出血だけであり,通常は血液だけで窒息することは考えられないことから,同医師は,換気困難の発生した原因が全く分からず,出血後数分で窒息に至ることも全く予見していなかったし,他方で,本件手術前のCT検査及び内視鏡検査の結果等に照らし,気管切開は極めて危険であると考えていたことから,この時点で,夏川医師に対して気管切開を指示することもなかった(甲A1の2,乙A3,証人秋山10・11頁)。
キ 秋山医師は,血液の口腔・咽頭内への貯留が亡一郎の換気困難の要因になったものと考え,分泌物や血液の喉頭への流入を少しでも減少させ,気道を確保するため,午後3時53分ないし54分ころ,亡一郎の体位を右側臥位に変換した。右側臥位にしたところ,亡一郎の口から血液が流れ出て,マスクの内面に血液が付着したが,大量吐血時のように噴出するような状態ではなかった。また,側臥位にしたことにより,一時的に,亡一郎の体動は収まり,秋山医師に呼吸音が聞こえたほか,バッグ換気の際にバッグが吸気でしぼむなど,換気が少し改善した。また,SpO2値も1,2分間は90%以上に回復し,本件モニターのアラームも鳴りやんだ(乙A2の54頁,乙A3,証人夏川5・14・38頁,証人秋山14・15頁)。
ク 秋山医師は,引き続き,亡一郎に吸気を強く促し,バッグで補助呼吸を行っていたが,しだいに換気困難は強くなり,右側臥位に体位を変換してから2,3分後には,亡一郎の呼吸音はしなくなり,バッグを押しても入らず,呼気も戻ってこない感じで,ほとんど換気できない状態となった。また,秋山医師が強く息をするよう促してもそれに対する反応がなくなるなど,亡一郎の意識は消失し,脈も弱くなった。そこで,秋山医師は,午後3時57分ころ,亡一郎の気道は完全に閉塞したと判断するとともに,このままでは心停止が避けられないと判断し,意識消失直後,気管挿管を試みるために,亡一郎の体位を再度仰臥位に戻した(乙A3,証人秋山15頁)。
ケ 秋山医師は,午後3時57分ころの時点で,気管挿管は困難であろうと予測していたものの,まだ一度も喉頭展開を試みておらず,自ら声門の状態を確認していなかったため,挿管不可能と判断していなかったこと,本件手術以前に,急性に声門の浮腫が生じ,窒息に至るアナフィラキシーショックの症例において,閉塞ないし狭窄している気管にチューブを押し込むことによって挿管に成功した経験があったことなどから,短時間であれば気管挿管を試みる価値があると考え,他方で,本件手術前のCT検査や内視鏡検査の所見に照らせば,気管切開は気管挿管より危険度が高く,また,通気再開までの時間もより長くかかると考えたことから,引き続き気管挿管を試みることとした。そこで,秋山医師は,午後3時57分ころから,直視下経口気管挿管,直視下経鼻気管挿管,盲目的経鼻気管挿管,気管支ファイバースコープの光ガイドによる気管挿管の順で,合計2,3分間(1種類の挿管につき30秒間程度),挿管を試み,この際,喉頭鏡の先端を初めて喉頭蓋谷付近まで挿入した。しかし,いずれの挿管を試みた際にも,血液により視野が妨げられたことに加え,秋山医師が,直視下経鼻気管挿管のため喉頭展開を試みた際,もう少し声門が見える状態にしてチューブを進めようとして喉頭鏡の先端を少し上方に引き上げたところ,喉頭鏡の先端部分が組織の中にずぶずぶと沈み込んでいき,喉頭蓋付近の組織が崩壊したように見え,通常であれば,喉頭鏡の先端を喉頭蓋谷付近まで挿入すれば見えるはずの声門を確認することができず,そのため,挿管することができなかった(乙A3,乙B14,証人秋山16ないし18頁)。
コ そこで,秋山医師は,午後4時ころ,気管挿管は不可能であると判断し,夏川医師に対して気管切開を指示するとともに,気管切開は危険性が高く,失敗する可能性が高いと考えたことから,同時に,経皮的心肺補助(PCPS)の開始も指示した。また,それまで90台以上であった亡一郎の心拍数が30ないし40台にまで低下して徐脈となったことから,秋山医師は,心停止が切迫した状態であると判断し,体外心マッサージを開始した(甲A1の1,乙A2の54頁,乙A3,証人秋山32頁)。
サ 夏川医師は,秋山医師から気管切開の依頼を受けた時点までに,カニューレの準備を済ませており,また,頸部・肺の切開用に準備された手術器具は,気管切開に流用することが可能であった。夏川医師は,気管切開の依頼を受けた後,亡一郎の体位を気管切開に適した体位に変換・固定し,頸部の消毒,手袋の着用などの必要な処置を行った上で,根岸医師とともに,気管切開を開始した。気管切開の際,実際に執刀したのは夏川医師であり,根岸医師は,切開創を鈎で広げて夏川医師を介助した。なお,気管切開中も,心マッサージは継続されていた(甲A1の2・乙A1の18頁,乙A2の54頁,乙A4,証人夏川5・6・15・26・27頁,証人秋山18頁)。
夏川医師は,触診上,亡一郎の気管の位置が全くわからなかったため,午後4時02分ころ,ほぼ正中と思われるところの皮膚に縦に切開を入れたところ,切開した途端,粘度が高くどろっとした,悪臭を伴う膿汁が大量に流出した。その後も,亡一郎の切開創からは常に膿汁が流れ出ている状態で,夏川医師が実際に確認した頸部の状態は,同医師が事前にCT画像や内視鏡写真等から予測していた状態と比較しても,さらに悪い状態であった。夏川医師は,膿汁のため視野を遮られ,術創の位置関係も全く把握することができなかった上,亡一郎の頸部皮下・脂肪・筋組織は高度に壊死していて,正常な組織の場合とは全く異なり,何を切開しているのかほとんど分からない状態であったことから,なるべく正中と思われる部位を外れないように切開を進めた。夏川医師は,午後4時05分ころ,気管と思われる空間が見えたので,同部位に挿管したが,秋山医師が送気バッグを2,3回押したところ,抵抗が強く換気ができず,カニューレ周囲に空気が漏れたことを確認したため,気管内には挿管されていないと判断し,すぐに抜管した。なお,この際に,亡一郎は,著明な皮下気腫と緊張性気胸を併発した。
その後も,亡一郎の切開創からは膿汁が流出し続けていたため,夏川医師は,同じ部位をさらに深く切開し,根岸医師が同部位を鈎で広げたところ,夏川医師は,皮下約4cmのところに,一瞬,気管軟骨(気管壁)らしきものを確認することができたことから,同部位を切開し,午後4時07分に挿管を完了した。秋山医師が送気バッグをつないで送気したところ,呼吸音が聞こえ,呼気中に炭酸ガスの存在が認められて,気管内に挿管できたことが確認された。これにより,亡一郎は換気することができるようになったが,その後も心停止状態が続いたため,秋山医師は,途中から応援のため手術室に入室してきた麻酔科医である森田医師及び葉山医師と交代で,亡一郎に対する心マッサージを継続し,また,午後4時02分,07分には硫酸アトロピンを,午後4時11分には硫酸アトロピンとボスミンをそれぞれ投与した(なお,森田医師及び葉山医師が手術室に入室してきた時刻は証拠上明らかでない。)(甲A1の1・2,乙A1の18頁,乙A2の54頁,乙A3,4,証人秋山32・33・47・48頁,証人夏川17・18・42頁,弁論の全趣旨)。
シ 被告病院心臓血管外科の枝川平太医師ほかは,午後4時09分,静脈留置針ベニューラを使用して,経皮的に亡一郎の左大腿部動静脈を確保し,午後4時11分には,PCPSの挿入を開始した。午後4時26分,同医師らがPCPSを開始したところ,開始直後に亡一郎が心室細動に陥ったため,電気的除細動を行い,午後4時29分,3回目の除細動でようやく亡一郎の自己心拍が再開したが,この時点で,同人の瞳孔径は,両側とも8.0mmに散大し,対光反応も消失した状態であった。その後間もなく,亡一郎に自発呼吸が出現し,瞳孔も縮小してきた(甲A1の1・2,乙A2の54・56頁)。
ス その後,亡一郎は,全身に皮下気腫が生じ,午後5時10分ころ,胸部X線写真で右肺に緊張性気胸が認められたことから,秋山医師らは,午後5時15分ころ,胸腔ドレーンを挿入して吸引を開始した。また,午後5時31分ころ,亡一郎に痙攣様の体動がみられたことから,同医師らは,抗痙攣薬ホリゾン5mgを投与した。その後は,亡一郎は,血圧が安定し,午後6時03分にはPCPS回路が抜去され,午後7時40分,集中治療室(ICU)へ退室した。なお,亡一郎の瞳孔径は,手術室退室時には両側とも4.0mmであり,午後11時ころには,瞳孔径は両側とも2.0mmであり,対光反応も認められた(甲A1の1・2,乙A2の55・137頁)。
(4) 本件手術後の亡一郎に対する診療経過等
ア 夏川医師は,1月7日,亡一郎の左胸鎖乳突筋前縁と思われる部分に皮膚切開を入れたところ,切開と同時に多量に膿汁が流出した。同医師が,慎重に筋前縁を開放したところ,ほとんどが膿瘍になっていて,結合織,脂肪織,筋膜は壊死に陥っており,膿瘍内を慎重に鈍的に探ると,上方は耳下腺・顎下腺まで,下方は鎖骨上まで,内方は正中を越えて膿瘍が見られた。気管切開部から上下左右に膿瘍を鈍的に開放すると,主に前頸筋の下の高さで左右とも大量に膿汁が流出し,膿瘍内を探ると,胸鎖乳突筋裏面鎖骨上まで広がっており,また,気管前面を探ると胸骨裏面まで膿瘍が広がっていた。上記膿瘍切開排膿術により,亡一郎の膿瘍は治癒したが,蘇生後脳症となり,同人は,意識が戻らないまま,3月11日にICUを退室し,4月30日に,被告病院脳神経外科へ転科した(乙A1の12・17・19頁)。
イ なお,秋山医師は,1月7日の時点で,MRIの検査結果等により亡一郎が植物状態にあり,あまり回復は期待できない旨原告らに対して説明し(乙A2の72頁),さらに,同月10日,脳神経外科の幹本成太医師(以下「幹本医師」という。)とともに,低酸素脳症である旨の説明を行っており(乙A2の76頁),脳神経外科の日野明医師は,同月13日の時点で,低酸素脳症と診断した(乙A2の10頁)。また,亡一郎は,6月22日,北海道から,低酸素脳症による両上肢・両下肢機能の全廃の障害により身体障害者等級1級に相当するとの認定を受け,8月25日には,幹本医師により,遷延性意識障害を呈するいわゆる植物状態であり,症状は固定しており,回復の見込みはないと診断された(弁論の全趣旨)。
(5) 本件に関連する医学的知見
ア 頸部の構造について
人間の頸部は,皮膚の下に広頸筋といわれる薄い筋肉と結合織があり,その中央にある前頸筋群を取り除くと,ほぼ中央に甲状腺がある。気管軟骨は甲状腺の裏側にあり,気管軟骨のすぐ脇をこれに並行して左右の反回神経が走行しているが,反回神経は,声帯を動かす神経であり,これを両方とも損傷すると,声帯が動かなくなって発声困難となり,正中に固定されると窒息状態に陥る。また,気管軟骨に並行して左右の総頸動脈が走行しているところ,総頸動脈は,脳に血液を送る重要な動脈であり,これが切断されれば,右なら右半球,左なら左半球の脳が損傷されて半身麻痺になる。さらに,気管軟骨の前面にはこれをまたぐような形で腕頭動静脈が走行している(乙B13の2・3,証人夏川16・17頁)。
イ 咽頭・喉頭部の構造等について
咽頭とは,鼻腔・口腔から食道・喉頭にかけて広がる管状の部分をいう。喉頭は,気道の一部を構成し,咽頭に開いた空気の取入口であり,その入口の前壁には喉頭蓋がある。喉頭の内部には円筒形の喉頭腔が広がり,喉頭腔の中間部には,声帯に囲まれた声門がある(乙B14,弁論の全趣旨)。
ウ 気管挿管について
気管挿管は,麻酔薬で患者の意識を消失させ,筋弛緩薬を投与して,患者の筋肉を十分に弛緩させた上で,喉頭鏡を用いて声門を直視しながら,経口的又は経鼻的に気管チューブを声門に通して気管内に挿管する方法によって行うのが一般的であるが,このほかに,特殊な挿管方法として,患者の意識を消失させずに行う意識下挿管,気管支ファイバースコープを使用した挿管等がある。なお,気管挿管の際に,喉頭鏡の先端を直接喉頭蓋又は喉頭蓋谷に掛けて長軸方向(前方)に引き上げ,声門を含め,喉頭組織を観察することを,喉頭展開という(乙A2の64頁,乙A3,乙B3,弁論の全趣旨)。
エ 気管切開について
(ア) 気管切開は,気管を手術的に開窓し,気管内腔にカニューレを挿入して気道を確保する方法であるが,気道確保の方法として気管切開を選択するに当たっては,気管挿管よりも気管切開の適応があることを慎重に確認しなければならないとされている。
また,気管切開の際には,仰臥位をとり,肩の下に枕を入れて患者の前頸部を伸展させた上で,正中から皮膚を切開し,前頸静脈を鉤で左右に圧排すると,頸筋膜を通して深部の正中部に白線(左右の胸骨舌骨筋の癒合部)が透見される。そこで,正中部の白線を目標に筋膜を切開し,胸骨舌骨筋を鉤で左右に圧排してさらに深部に進み,胸骨甲状筋を鉤で左右に分けると,甲状腺狭部が露出する。その上で,狭部を気管から剥離し,気管を切開してカニューレを挿入する(乙B12)。
(イ) 気管切開においては,気管周囲に重要な血管・神経等が存在し,これらを損傷した場合には重大な機能障害を来たし,死亡に至ることもあることや,気管周囲の組織は疎な結合組織であって,鈍的に容易に進入できるため,気管前挿管が起こりやすいなどの危険性があることから,これらの危険を避けるため,触診により気管を常に正中位に保ち,切開している層(どこの何を切っているのか)を把握し,気管軟骨(気管壁)を明視下において手術操作を行うことが重要であるとされている(乙A3・4,乙B12,証人夏川16・17頁)。
オ 無脈性心停止について
無脈性心停止を起こす心リズムには,心室細動,速い心室頻拍,無脈性電気活動(PEA),心静止の4つがあり,このうち,PEAとは,偽性電気収縮解離,徐脈性心静止調律等の様々な無脈性心リズムのグループをいう。そして,心リズムのチェックによりPEAが確認された場合には,直ちに心マッサージ等の心肺蘇生(CPR)を再開し,この際にアドレナリン等の血管収縮薬を投与してもよいとされ,また,徐拍性PEAの患者に対しては,心拍数・体血管抵抗・血圧の低下をもたらすコリン作動性を打ち消す作用を有する硫酸アトロピンの投与を考慮することとされている(甲B15)。
カ 経皮的心肺補助法(PCPS)について
PCPSは,当初は,簡易人工心肺システムとして開心術後の循環補助の目的で開発されたものであるが,最近では,心肺停止症例に対する蘇生の目的で救急領域でも応用されてきているところ,「新版経皮的心肺補助法 PCPSの最前線」と題する文献(甲B16の68頁・平成16年7月発行)には,「最近のPCPSの回路は小型で充填量が少ないことから,通常は乳酸加リンゲル液のみの充填で無血体外循環が可能である。当施設では装置の充填を含めた準備に約5分,並行して行う送脱血カテーテルの挿入に約10分で体外循環を開始することが可能であるが,適応の決定,送脱血カテーテルの挿入が律速段階となる。」との記載がある。
キ 脳血流の低下が脳細胞に与える影響等について
(ア) 酸素供給が完全に絶たれた場合における神経組織の生存可能時間は,大脳が約8分間,小脳が約13分間,延髄が約20ないし30分間とされている(甲B4,7)。
(イ) 脳血流量とは,単位時間内に,血液がどの程度組織を灌流するかを数値化したものであり,その正常値は40ないし60ml/100g/分とされている。そして,脳血流量が,20ないし30ml/100g/分程度まで低下すると,意識障害等の神経機能障害が生じるが,これは可逆的なものであって,血流が改善すれば,神経機能は回復する。また,脳血流量が10ml/100g/分以下まで低下すると,細胞内エネルギー代謝が障害され,壊死(細胞や組織構造の不可逆的な破壊)に至るとされている。なお,脳血流の低下による脳への影響を検討するに当たっては,血流量の絶対値だけではなく,血流低下の持続時間も重要であり,また,完全脳虚血と局所脳虚血とを区別して検討する必要があるとされている(甲B8,乙B6の1・2)。
(ウ) 「標準脳神経外科学 第9版」(甲B8)中には,脳虚血時間と脳梗塞発生率に関するジョーンズの実験(サルの右中大脳動脈の周囲にナイロン糸を巻き,緊縛して血流を完全に遮断した上で,15分,30分,2ないし3時間後に糸をゆるめて血流を再開させた3群と,持続的に緊縛して血流を永続的に完全に止めた1群を対象として,緊縛時の局所脳血流と神経学的所見を同時に調べ,後で脳を取り出して組織学的所見を検討した実験)の結果,脳血流量が5ml/100g/分前後の場合,中大脳動脈閉塞が発生するまでに1時間ないし2時間程度の時間を要したことなどを示すグラフが紹介されている(甲B8,弁論の全趣旨)。
(エ) ヨルゲンセンらは,「心肺蘇生後の神経学的な自然経過」と題する論文(乙B7の1・2)において,心血管又は肺に原因のある循環停止から蘇生した231名の患者を対象として,その後の神経学的所見と脳波所見について,1年間にわたり継続的に調査したところ,116例の患者では意識回復は見られなかったが,115例の患者は30日間以内に覚醒し,40例の患者は90日間以内に完全に意識が回復した旨の調査結果を報告している。
(オ) ファブリらは,「5時間以上の心停止から神経学的に完全回復した例外的な1症例」と題する論文(乙B8の1・2)において,5時間以上蘇生処置が行われたもののなお心停止の状態にあり,蘇生処置後も瞳孔散大,対光反応消失,深昏睡の状態にあった60歳の患者が,心停止に陥った翌日に意識を回復し,さらに,4週間後には退院できるまでに回復した症例を報告している。
(カ) 閉胸式心マッサージ中の心拍出量は,正常時の約4分の1であり,脳灌流は正常時の約10分の1であるとされている(乙B1の1・2)。
2 手術室看護記録と麻酔記録の齟齬について
以上に認定した手術室内における診療経過に関し,気管切開や心マッサージの開始・終了時刻等について,手術室看護記録(乙A2の54・55頁。以下「本件手術室看護記録」という。)と麻酔記録(乙A2の52頁。以下「本件麻酔記録」という。)の記載内容に齟齬がみられるところ,原告は,本件手術室看護記録の記載は信用性が低く,特に時刻の記載は不正確である旨主張するので,この点について判断しておく。
(1) 証拠(乙A2,6,証人秋山昭夫,証人冬木薫)及び弁論の全趣旨によれば,本件手術室看護記録及び本件麻酔記録の体裁及び作成経緯につき,以下の事実が認められる。
ア 本件手術室看護記録の体裁及び作成経緯
(ア) 本件手術室看護記録の用紙には,患者名,記録者名等の記載欄に続いて,「時刻」,「バイタル及び処置」,「術中経過」の各欄が設けられており,手術の際における患者のバイタルサインや処置内容,手術の経過等をその時刻とともに自由に記載する形式となっているところ,本件手術室看護記録には,空行や修正液等によって修正がされた箇所は存在していない(乙A2の54・55頁,弁論の全趣旨)。
(イ) 冬木看護師は,平成6年に看護師免許を取得し,平成9年から被告病院に勤務するようになって,平成11年1月から被告病院中央手術室担当の看護師として勤務しているところ,本件手術までに3000件以上の手術の介助経験があり,このうち,間接介助者として1000件以上の手術室看護記録の作成に携わった経験があった。同看護師は,本件手術の際,亡一郎が手術室に入室してから退室するまでの間ずっと手術室内におり,主に手術室看護記録の作成と麻酔導入の介助(間接介助)を担当した。なお,本件手術室看護記録は,冬木看護師が,手術室内で1人で作成したものである(乙A6)。
(ウ) 冬木看護師は,本件手術の間,午後4時ころに,秋山医師の指示により手術室師長にPCPSを依頼するため30秒間ほど亡一郎のそばを離れた時間を除き,亡一郎の頭部左横の位置付近にいてその業務に当たっていた。そして,冬木看護師は,本件手術室看護記録を作成するに際し,時刻のずれが生じないようにするため,被告病院の指導を遵守して,時刻を記入するに際しては,本件モニターの時刻表示に従って時刻を記入ないしメモした。なお,冬木看護師の位置からは,本件モニターに表示される時刻や数値を確認することは容易であった(乙A6,証人冬木1・2頁)。
(エ) 冬木看護師は,亡一郎が手術室に入室した後,午後3時50分ころに同人が呼吸困難を訴え,本件モニターのアラームが鳴り出してSpO2が88%に低下するまでの間は,秋山医師の指示に従い,喉頭鏡,キシロカインスプレー,サクションチューブ等の器具を同医師に渡すなどの作業を行いながら,処置が行われる都度,本件モニターで時刻を確認した上で,処置の内容等を本件手術室看護記録に記入した(乙A6,証人冬木3・11頁)。
(オ) 冬木看護師は,亡一郎の容態が急変した午後3時50分ころから,秋山医師が気管切開を指示した午後4時ころまでの間は,亡一郎に対する各種処置の介助に専念する必要があり,処置が行われる都度これを本件手術室看護記録に記載する余裕がなかったことから,手術に使用するテープを切り取って左腕に貼り付け,作業の合間を縫って,手術室内で起きた出来事のうち,重要な所見・処置につき,「50SP 88 R+」(「午後3時50分 SpO2値88% 呼吸あり」という意味),「SP↑」(「SpO2値上昇」という意味)などと,時系列に従って順番に同テープに記載した。同看護師は,秋山医師が気管切開を指示した午後4時以降は,挿管操作を試みていた時間帯と比較すると,処置にとられる時間が減少したため,腕に貼り付けたテープに記載できる内容も増え,モニターで時刻を確認する余裕もあった(乙A6,証人冬木3ないし6頁)。
(カ) PCPSの挿入が開始された午後4時11分ころになると,記録を作成する時間をとることができるようになったことから,冬木看護師は,腕に貼りつけたテープの記載をもとに,午後3時50分以降の手術経過等を手術室看護記録に記入し始め,同テープに記載していた事実をすべてそのままの順序で本件手術室看護記録に転記した。同看護師は,処置の介助と並行して転記を行ったため,転記が終わるまでに5,6分間を要したが,午後4時19分ころからは,処置等があればその都度本件モニターで時刻を確認し,処置内容等を経時的に本件手術室看護記録に記載していった(乙A6,証人冬木4頁)。
(キ) 冬木看護師は,本件手術が終了するころ,本件手術室看護記録に,同手術に関わった麻酔科医や介助看護師の氏名等を記入した上,午後7時40分に亡一郎が手術室を退室した後,ICU担当の株木看護師にこれを手渡した。なお,冬木看護師は,午後7時40分に亡一郎が手術室から退室した旨を記載した後,本件手術室看護記録の記載を追加ないし修正したことはないし,本件手術室看護記録の作成に当たって本件麻酔記録を参考にしたこともない(乙A2の54頁,乙A6,証人冬木6・7頁)。
イ 本件麻酔記録の体裁及び作成経緯
(ア) 本件麻酔記録の用紙には,薬剤等の投与や血圧・脈拍等の変化につき,その投与等の時刻や数値をチェック方式で表示できるような方眼紙形式の部分が設けられており,その部分の横軸は1目盛り(1目盛りの幅は約3mm)を5分間として使用することを前提に1時間ごとの時刻が記載されている(乙A2の52頁)。
(イ) 麻酔記録は,基本的には,麻酔科医が,処置の合間を縫って自ら記載するものであり,麻酔記録の作成に専従する者は存在しない。本件麻酔記録中,亡一郎が手術室に入室した時点から午後4時10分までの脈拍及び血圧は,秋山医師がその都度記入し,その他の部分は,本件手術の途中から応援のため手術室に入室した森田医師及び葉山医師が記入した(証人秋山19・22・25・26・29・30・35ないし37頁)。
(2) そこで検討するに,上記アにおいて認定したとおり,本件手術室看護記録は,手術室看護記録作成の経験が豊富な冬木看護師が1人で作成したものであること,同看護師は,本件手術の間接介助者であり,手術室看護記録の作成は,麻酔導入の介助とともに間接介助者の主要な業務であること,同看護師は,腕に貼り付けたテープに手術経過等を記載していた時間帯を含め,医師の行った処置の内容等を時系列に従って本件手術室看護記録に記載したこと,同手術室看護記録中に記載された時刻については,処置等が行われる都度,同看護師が本件モニターの時刻を確認して記載したものであること,本件手術室看護記録には,外形上も特に改ざん等を疑わせる不自然な点が見られないこと,本件手術室看護記録の記載内容が具体的で細かな時刻が記入されていることなどの本件手術記録の作成経緯,体裁,内容等を総合すると,その記載内容は,処置等の行われた順序のみならず,その時刻についても正確であると考えられる。
これに対し,上記イにおいて認定したとおり,本件麻酔記録の方眼紙部分の記載については,5分間を1目盛りとし,その幅が約3mmしかないことから,血圧や脈拍等については,おおよその時刻を判読できるというに止まるというべきであるし,手書きで記入した処置の内容についても,その正確な時刻を表すのには適していないと考えられる。また,同記録は,秋山医師,森田医師,葉山医師の3名の麻酔科医が記載したものであるところ,前記1(3)サにおいて認定したとおり,午後3時50分に亡一郎の容態が急変して以降,同人に対する挿管や気管切開,救命等の処置が次々とあわただしく実施され,上記3名の麻酔科医も,それぞれ心臓マッサージ等の救急救命処置に直接従事していたと考えられることに照らせば,同記録のうち,秋山医師が測定の都度経時的に記載したことが明らかな入室時から午後4時10分までの血圧及び脈拍のチェック部分を除いたその余の部分については,脈拍及び血圧についてのほぼ5分ごとの数値のチェック部分は別として,森田医師ないし葉山医師が,処置の行われる都度記載していたものとは到底考え難く,救急救命処置が一段落した時点で,記憶を喚起しながら処置等の内容を同方眼紙部分の時刻表示に合わせて記載したものと考えるのが合理的というべきところ,同記録については,本件手術室看護記録とは異なり,作成者が処置のなされた時刻等をメモしていたという事情も窺われないし,仮に,同医師らが処置等の都度記入したものであるとしても,前記のような緊急状況下で,救急救命処置の合間を縫って記入したと考えざるを得ないことに照らせば,その記載内容については,処置等の行われた順序はともかく,その時刻,時間(本件麻酔記録においては,気管切開,心臓マッサージともに,具体的な開始,終了時刻の記載はなく,その実施時間と思われる部分に実線(気管切開については午後4時15分ころから午後4時25分ころまでにかけて,心臓マッサージについては午後4時05分ころから午後4時30分ころまでにかけて,それぞれ実線が引かれている。)と>の印が2か所に表示されているに止まる(乙A2の52頁)。)については必ずしも正確性が十分に担保されているとは言い難いというべきである。
以上のような両者の作成経緯等を比較すれば,特に時刻の点については,本件手術室看護記録の記載の方が,本件麻酔記録の記載よりも正確性が高いというべきであるから,両記録の記載内容に齟齬がある部分については,前記1のとおり,本件手術室看護記録に基づいて認定するのが相当である。
(3) これに対し,原告は,本件手術室看護記録の記載内容は信用性が低く,手術室内での診療経過については本件麻酔記録の記載に基づいて認定すべきであると主張し,その根拠として,本件麻酔記録は,一般的な作成経過・方法等に照らし正確性が十分に担保されていると考えられる上,医学的に合理的な内容であるのに対し,本件手術室看護記録の記載内容は,①亡一郎は,午後4時10分ころから午後4時30分ころまで,無脈性電気活動(PEA)の状態であったと考えられるところ,PEAの場合には,まずボスミンが投与されるべきであるにもかかわらず,硫酸アトロピンを2回にわたって単独投与した後,午後4時11分に硫酸アトロピンとボスミンを投与したとの記載になっていることに加え,午後4時26分にPCPSが開始されるまでの間,特段の蘇生処置が記載されていないこと,②PCPSは,送脱血カニューレの留置からカニューレと回路の接続までせいぜい10分で体外循環が可能であるにもかかわらず,午後4時09分にベニューラにより左大腿動静脈を確保した後,午後4時26分にPCPSを開始するまでに17分間も要したと記載されていることなどの点で,医学的に不合理であることなどを挙げる。
しかしながら,まず,記録の作成経過・方法等については,前記(2)において説示したとおり,本件麻酔記録は,少なくとも処置等の行われた時刻,時間に関しては,必ずしも記載内容の正確性が担保されているとは言い難いところであるし,次に,①の点については,前記1(3)コ,サにおいて認定したとおり,亡一郎は,低酸素状態から心停止に至る過程で徐脈となり,PEAの状態であったと考えられるところ,前記1(5)オにおいて認定したとおり,徐拍性PEAの患者に対しては,硫酸アトロピンの投与を考慮するとされていることに照らせば,亡一郎に対し,はじめに硫酸アトロピンを単独投与したことは医学的に何ら不自然とはいえない。また,前記1(5)オにおいて認定したとおり,PEAの場合には,直ちに心マッサージ等の心肺蘇生処置を実施すべきとされているところ,前記1(3)コ,サにおいて認定したとおり,亡一郎に対しては,午後4時の時点で既に心マッサージが開始され,午後4時26分にPCPSが開始された時点でも,同マッサージは継続されていたことや,本件手術室看護記録中には,「16:00」の「術中経過」欄に「心マ開始」,「16:02」の同欄に「心マ継続」とそれぞれ記載されていること(乙A2の54頁)に照らすと,同看護師が,午後4時19分から午後4時26分までの間の蘇生処置につき何も記載しなかったのは,この間の蘇生処置としては心マッサージが行われており,これについては既に本件手術室看護記録に記載していたことから,重ねて記載しなかったにすぎないと考えるのが合理的であるから,この間に蘇生処置に関する記載がないことは何ら不自然ではない。また,②の点については,前記1(5)カにおいて認定したとおり,前掲の甲B第16号証には原告の前記主張に副うかのような記載部分があるものの,同記載部分は,あくまで同文献の著者がPCPSを行っている特定の施設における現状を紹介したにとどまることは明らかであって,その記載内容が,直ちに本件手術当時の一般的な医療水準を示すものであるとまでは言い難いことに照らせば,本件手術に際し,左大腿動静脈の確保からPCPSの開始まで17分間を要したとの記載部分が医学的に不合理であるとまではいえない。
以上のとおり,原告の指摘する前記のような事情は,いずれも本件手術室看護記録の記載内容の信用性を低下させるものではないから,原告の前記主張は採用できない。
(4)ア さらに,原告は,午後4時29分には亡一郎は昏睡状態に陥っており,昏睡状態は,大脳半球両方全部が障害を受けるか,視床―視床下部が不可逆的な障害を受けなければ発生しないとされていることに照らせば,通気再開までに,同人の大脳の大半,大脳基底核,視床,延髄の一部に不可逆的な障害である壊死が生じていたと考えられ,これらの脳障害の部位・程度と,酸素供給が遮断された後における神経組織の生存可能時間が,大脳では約8分間,脳幹(中脳,橋,延髄)では約20ないし30分間とされていることを考え併せると,脳への酸素供給は,少なくとも10分間より長い時間にわたって遮断されていたと考えられ,上記1の認定事実のように,亡一郎の通気不能時間が10分間(午後3時57分から午後4時07分まで)であるということは,医学的に不合理であるとも主張する。
イ そこで検討するに,前記1(3)ス,(5)キ(イ),(エ),(オ)において認定したとおり,脳血流量が低下すると,まず,意識障害等の神経機能障害が生ずるとされており,脳細胞が壊死に陥る前の段階であっても,神経機能障害により昏睡状態となることはあり得ること,亡一郎の瞳孔所見は,午後4時29分以降回復傾向にあったこと,心停止患者の意識が回復することは珍しいことではなく,深昏睡,瞳孔散大,対光反応消失の程度にまで至った患者であっても,意識が完全に回復した症例が報告されていることなどに照らせば,亡一郎が昏睡状態に陥っていたことから,直ちに同人の大脳半球両方全部が障害を受けたとか,視床―視床下部が不可逆的な障害を受けたなどということはできず,したがって,原告の上記主張はその前提を欠くものといわざるを得ない。
さらに,前記1(3)サ,(5)キ(カ)において認定したとおり,心マッサージ中の脳血流量は,一般的に,正常時の約10分の1程度にまで減少するとされている上,本件では,午後4時05分ころ,夏川医師が挿管した際,亡一郎が著明な皮下気腫と右緊張性気胸を合併したことに照らせば,同人に対する心マッサージは十分な効果を上げることができず,同マッサージ中の同人の脳血流量は,心マッサージによって通常得られる血流量よりもさらに少なかったと考えられること,脳血流量の低下が脳に与える影響については,脳血流量の絶対値のみならず,血流低下の持続時間も重要であるとされていることに加え,甲B第8号証のジョーンズの実験は,限局性脳虚血に関するものであるのに対し,本件における亡一郎のように,心停止や気道閉塞(窒息)の際に生じるのは完全脳虚血であるところ,完全脳虚血と限局性脳虚血とは区別して論ずべきであるとの指摘がなされていることなどに照らせば,同実験の結果が直ちに本件に妥当するということはできず,亡一郎に生じた高度の脳障害については,心停止が相当程度の影響を及ぼしたと解するのが相当であるから,気道閉塞による酸素遮断のみが脳障害に影響を与えたことを前提として,脳に残存した後遺症の程度から通気不能時間を逆算する原告の主張は失当であって,これを採用することはできない。
3 争点(1)(気管切開又は気管穿刺を行うべき時期を誤った過失等の有無)について
(1) 秋山医師の過失等(気管切開又は気管穿刺を指示すべき時期を誤った過失等)の有無について
ア(ア) 原告は,午後3時50分の数分前に秋山医師が黄色の膿状の塊を除去しようとした際に,膿状の塊又は塊及びその周辺組織が気管内に落下したことを前提に,午後3時50分過ぎの時点では,亡一郎の気道は完全に閉塞状態に陥っていたと主張するところ,被告病院の診療録のうち,秋山医師や夏川医師が本件手術後に原告ら親族に対して説明を行った際の説明内容が記載されたインフォームドコンセント記録用紙(乙A2の63ないし66・69頁)には,これに副うかのような記載部分がある。
しかしながら,原告の指摘する上記記載部分のうち,1月6日の夏川医師による説明部分(乙A2の64頁,「挿管の途中で咽のフタの所のくさっていた所が中に落ち込んで入らなくなり,腫れて窒息の状態となりました。」)については,前記1(3)エにおいて認定したとおり,喉頭鏡を使用した操作中は,術者以外の者が術野を見ることはできないことや,同医師の証人尋問における供述(証人夏川20・21・37・38頁)に照らすと,同記載部分は,挿管操作を直接観察していない夏川医師が自己の推測に基づいてした説明であると解されるから,その正確性については疑問の余地がある上,同記載部分の直後に,「すぐに気管切開しましたが,切っても切っても膿が出てきた。」との記載があることに照らすと,同記載部分は,前記認定のとおり,気管切開直前の午後3時57分ころから午後4時ころまでの間に秋山医師が4種類の気管挿管を試みた際の喉頭展開中に発生した出来事を説明したものであって,午後3時50分ころ亡一郎が出血した際の出来事を説明したものではないと解するのが相当であるから,原告の上記主張を裏付けるものということはできない。
また,1月7日の秋山医師による説明部分(乙A2の69頁,「喉頭蓋のフタの直前までいったら,膿が入り口にけっこうあって,すぐ見えず,吸引しようとしたがとれず,ピンセットでとろうとしたら,そこから出血しました。それだけで息ができなくなりました。」)については,出血後直ちに窒息に至ったという趣旨であると理解することができないわけではないものの,前記1(3)において認定した事実経過に照らすと,通常は出血だけが原因で窒息に至ることは考えられないにもかかわらず,亡一郎が出血により窒息に至ったことから,秋山医師が,窒息の原因に着目して「それ(出血)だけで」という表現をしたものと解することも可能であり,その表現のみでいずれの趣旨であるかを判断するのは困難というべきである。
したがって,上記各記載部分によって,秋山医師が亡一郎の黄色の膿状の塊を除去しようとした際に,膿状の塊又は塊及びその周辺組織が気管内に落下した事実を認めることはできず,他にこの事実を認めるに足りる証拠はない。また,前記1(3)カ,キにおいて認定したとおり,午後3時50分ころ生じた出血の後も,亡一郎の意識は清明で,呼吸も保たれており,右側臥位に体位を変換した午後3時53分ないし54分ころの後の時点では,1,2分間にわたりSpO2が回復していたことなどに照らせば,午後3時50分過ぎの時点で,亡一郎の気道が完全に閉塞していたということはできない。
(イ) また,原告は,膿状の塊又は塊及びその周辺組織が気管内に落下した事実がないとしても,秋山医師は,本件手術前の時点において,亡一郎の咽頭,声門付近に浮腫,炎症があることを認識していたのであるから,同人が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴え始めた時点で,その後同人の気道が急速に狭窄ないし閉塞に陥ることを予見することができたはずであるとも主張する。
しかしながら,前記1(2)エ,(3)カ,サにおいて認定したとおり,秋山医師は,本件手術前のCT検査及び内視鏡検査の所見から,亡一郎の咽頭,声門付近に強い炎症及び浮腫があることは認識していたものの,同人の気道は一応開通していたこと,気管切開時に実際に確認された亡一郎の炎症や浮腫の程度は,上記CT検査,内視鏡検査の結果をもとに秋山医師,夏川医師が想定していたよりもさらに重度なものであったこと,亡一郎は,出血とほぼ同時に呼吸困難を訴えたものの,なお呼吸は保たれており,意識も清明であったこと,通常は血液のみで気道が完全閉塞に陥ることは考え難く,同医師は亡一郎の換気困難の原因が全く分からなかったことなどに照らせば,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴え始めた午後3時50分ころの時点で,秋山医師が,その後急速に亡一郎の気道が狭窄ないし閉塞状態に陥ることを予見することはできなかったというべきである。
(ウ) そして,前記1(2)エ,(3)カにおいて認定したとおり,秋山医師は,本件手術前の時点において,亡一郎のCT検査,内視鏡検査上の所見や,同人を診察した夏川医師の診断内容等を総合的に考慮して,本件手術の際の気道確保の方法として,気管挿管は困難ではあるものの気管切開よりは安全であると判断し,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴えた時点においても同様の判断をしたのであるが,前記1(2)エ,(5)エにおいて認定したとおり,気道確保の方法として気管切開を選択するに当たっては,気管挿管よりも気管切開の方が適応があることを慎重に確認する必要があり,気管切開を行うに際しては気管周囲の血管・神経等の位置関係を正確に把握する必要があるとされているところ,亡一郎の頸部には厚さ数cmに及ぶ膿瘍があり,気管を全く触知できない状態であったこと,他方で,気道は一応開通しており,秋山医師は,本件手術以前に,麻酔導入前から呼吸困難を訴えていた患者に対しても気管挿管を成功させた経験があったところ,亡一郎は麻酔導入前には呼吸困難を訴えていなかったことなどの事情を総合考慮すると,同医師が,本件手術前の時点で,気管挿管の方が気管切開よりも安全であると考えたことには合理性があるというべきである。そして,前記1(3)エ,オにおいて認定したとおり,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴え始めた時点においても,同医師は,亡一郎の声門部付近を直接観察できておらず,また,同時点までに口腔から観察した限りでは,喉頭蓋の口腔側に気道を閉塞するような著しい浮腫は見られなかったのであって,この時点において,気管挿管が不可能ないし著しく困難であると判断すべき事情はなかったのであるから,同医師が,同時点において,本件手術開始前と同様,気管挿管の方が気管切開より安全であると判断したことにも,やはり合理性があるというべきである。
(エ) 以上のとおり,亡一郎が呼吸困難を訴え始めた午後3時50分過ぎころの時点で,亡一郎の気道が完全に閉塞状態に陥っていた事実はなく,また,午後3時50分ころ,亡一郎が呼吸困難を訴え始めた時点で,秋山医師が,その後急速に亡一郎の気道が狭窄ないし閉塞に陥ることを予見することはできなかったし,亡一郎に対する気道確保の方法としては,気管挿管の方が気管切開より安全であるとの判断に合理性が認められることなどに照らせば,秋山医師には,亡一郎が呼吸困難を訴え始めた時点で気管挿管を断念し,直ちに夏川医師に対して気管切開を指示すべき注意義務はなかったというべきである。なお,気管穿刺を指示すべき注意義務については,これを認めるべき証拠がない。
イ さらに,前記1(3)キ,ク,ケ,コにおいて認定したとおり,秋山医師は,午後3時50分ころ,亡一郎が出血とほぼ同時に呼吸困難を訴えた後,気道を確保するため同人の体位を右側臥位に変換したところ,一時的にSpO2値の改善がみられたものの,その後同人はほとんど換気ができない状態となり,意識も消失したことなどから,午後3時57分ころ,同人の気道が完全に閉塞状態に陥ったものと判断したのであるが,この時点までに亡一郎の声門の状態を直接視認していなかったことから,自身の臨床経験に照らし,気管挿管は困難ではあるがなお可能であると考え,他方,前記のとおり,本件手術前のCT検査や内視鏡検査の所見に照らし,気管切開の危険性は極めて高いと考えたことから,2,3分間に限定して,方法を変えながら4回にわたって気管挿管を試み,これが不可能であると判断した午後4時の時点で,直ちに夏川医師に対して気管切開を指示したものである。秋山医師の上記一連の判断及びこれに基づく処置は,前記ア(ウ)で述べたのと同様の理由により,いずれも合理的なものというべきであって,何ら不適切な点はない。したがって,亡一郎が呼吸困難を訴え始めた午後3時50分ころの時点から,秋山医師が実際に夏川医師に対して気管切開を指示した午後4時ころまでの同医師の処置内容を検討しても,同医師に注意義務違反があるとはいえない。
ウ したがって,秋山医師の過失等に関する原告の主張は理由がない。
(2) 夏川医師の過失等(秋山医師から気管切開の指示を受けた後,直ちに気管切開に着手しなかった過失等)の主張が時機に後れた攻撃防御方法に当たるか否かについて
ア 原告は,平成19年6月5日の第2回口頭弁論期日で陳述された同月4日付準備書面(15)において,夏川医師には,秋山医師から気管切開の指示を受けた時点で,直ちに気管切開又は気管穿刺を試みるべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り,午後4時05分に秋山医師から気管切開の指示を受けた後,午後4時15分まで気管切開に着手しなかった過失等があると主張するに至った。
これに対し,被告は,同主張は,故意又は重大な過失により時機に後れてなされた攻撃防御方法に当たるとしてその却下を求めるので,以下この点について判断する。
イ 本件訴えは,平成17年2月2日に提起され,原告は,訴状において,秋山医師には,亡一郎が出血により呼吸困難を訴え出した時点で直ちに気管挿管を断念すべきであったのにこれを怠った過失等がある旨主張し,その後,平成19年6月5日の第2回口頭弁論期日までの間の審理を通じて,夏川医師による亡一郎への気管切開の着手の遅れが過失等に当たるとの主張をしたことはなかった。また,本件は,平成17年5月17日の第1回口頭弁論期日から平成19年3月6日の第16回弁論準備手続期日までの約1年10か月間にわたり弁論準備手続において争点整理を行い,これが終了したことから,同期日において同手続を終結し,同年5月30日の証拠調べ期日には,釧路地方裁判所北見支部において夏川医師の証人尋問が実施され(なお,この間の同月22日には,亡一郎が同月16日に死亡したことに伴い,進行協議期日が開かれ,損害の範囲について協議されたほか,夏川医師の証人尋問については,従前の主張の枠内で行うことが確認されている。),同年6月5日の第2回口頭弁論期日には,秋山医師の証人尋問が実施された(以上の各事実は,いずれも訴訟手続上当裁判所に顕著である。)。
以上の審理経過に照らすと,夏川医師の上記過失等に関する新たな主張は,従前の争点(秋山医師の過失等の有無,同過失等と亡一郎に生じた低酸素脳症との間の相当因果関係の有無,原告の損害の額)につき争点整理,集中証拠調べともほぼ終了していた(なお,秋山医師の証人尋問は未だ終了してはいないが,平成19年3月19日に,同年6月5日に同尋問が実施されることが決定されていて,後は尋問を実施するばかりの状況にあったことが明らかである。)時期において初めてなされたことが明らかであるから,同主張は時機に後れてなされたものといわざるを得ない。
ウ 次に,証拠(乙A2)及び弁論の全趣旨によれば,本件手術室看護記録と本件麻酔記録とでは,気管切開や心マッサージの開始・終了時刻等が異なって記載されており,両者間に齟齬が見られること,両記録を含む被告病院の入院診療録は,平成17年5月17日の第1回弁論準備手続期日において乙A第2号証として取り調べられたこと,原告が,同年9月6日の第4回弁論準備手続期日で陳述された同年8月22日付け準備書面(6)において,両記録の記載内容の齟齬を問題視する内容の主張をし,その後,原告が夏川医師の上記過失等を主張するまでの間,本件手術室看護記録の記載と本件麻酔記録の記載のいずれが正確であるかが本件の重要な争点の一つとして審理が進められ,原告・被告ともこの点に関し多数の準備書面を提出し,主張・反論を続けてきたこと,夏川医師の過失等に関する原告の上記主張は,結局のところ,本件手術室看護記録と本件麻酔記録との記載に齟齬がある部分については,より正確性の高い本件麻酔記録の記載に従って事実認定を行うべきであることを根拠とする主張であること,夏川医師の証人尋問に際しては,これに先立つ平成19年5月22日の進行協議期日において,当事者双方と裁判所の間で,同期日までにされた主張の範囲内で同証人尋問を実施することが確認されていたこと,夏川医師の上記過失等に関する原告の主張は,秋山医師の証人尋問が実施される平成19年6月5日の第2回口頭弁論期日の当日になって初めてされたものであることが認められる。
以上のような経緯を総合すると,医療訴訟の専門性を考慮しても,原告及び原告ら訴訟代理人において同過失等の主張をより早期に行うことが困難であったとは考え難いというべきであるから,同主張は少なくとも重大な過失により時機に後れて提出されたものといわざるを得ない。
なお,原告は,夏川医師の証人尋問実施後に初めて,本件手術室看護記録の記載が事実に反しており,本件麻酔記録の記載が正確であるとの確信に至ったものであり,夏川医師の証人尋問を実施する前の時点において同医師の過失等に関する前記主張をすることはできなかった旨主張するが,前記のとおり,訴訟の早い段階から,本件手術室看護記録と本件麻酔記録の記載内容の齟齬が問題とされ,この点につき当事者双方が意識的な主張・反論を行ってきたという本件訴訟の経緯に照らせば,原告が,本件麻酔記録の記載の正確性につき確信にまで至らなくとも,より早期に上記主張をすることができたことは明らかであるから,原告の上記主張は採用できない。
エ そして,夏川医師の過失等に関する主張につき新たに審理を行うことになれば,被告の認否,反論を待った上で,主張整理を再度行い,また,秋山医師から気管切開の指示を受けた後,気管切開に着手するまでに夏川医師が行った処置の内容・必要性やこれに要した時間,気管穿刺を行わなかった理由等につき,書証の追加提出や,夏川医師に対する再度の証人尋問実施等の証拠調べが必要となり,なお相当程度の期間をかけて審理を継続する必要性が生じることは容易に推測でき,原告の主張するように夏川医師に対する再度の証人尋問を実施しないまま本件の審理を終結することができないことは明らかであるから,同主張をすることが本件訴訟の完結を遅延させることもまた明らかというべきである。
オ よって,夏川医師の過失等に関する原告の過失等の主張は,時機に後れた攻撃防御方法として却下を免れない。
(3) 以上によれば,争点(1)についての原告の主張はいずれも理由がない。
4 争点(4)(反訴請求の当否)について
(1) 前記前提事実(2),(3)のとおり,被告が亡一郎との間で本件診療契約を締結し,同契約に基づき,被告病院において平成16年1月6日から平成19年5月16日までの間,亡一郎に対して入院治療を行い,このうちの平成16年1月6日から平成17年4月30日までの治療費のうち,亡一郎の自己負担部分が合計359万3919円であることは,当事者間に争いがない。
また,証拠(乙2)によれば,平成17年5月1日から平成19年5月16日までの本件診察契約に基づく亡一郎の治療費中,亡一郎の自己負担部分が合計122万4943円であることが認められる。
(2) これに対し,原告及び反訴被告らは,亡一郎が,治療費に関する本訴請求債権のうち当事者間に争いのない359万3919円分を自働債権として,反訴請求債権とその対当額において相殺するとの意思表示をした旨主張するが(相殺の抗弁),前記3において説示したとおり,そもそも自働債権たる本訴請求債権は発生していないから,相殺の抗弁はその前提を欠き,理由がない。
(3) 以上によれば,争点(4)についての被告の主張は理由があるから,原告及び反訴被告らは,その法定相続分に応じて,主文2ないし4項のとおり,被告に対して未払治療費及びこれに対する遅延損害金を支払う義務がある(なお,反訴に関する被告の請求拡張の申立書が平成19年9月12日に原告及び反訴被告らに送達されたことは,訴訟手続上,当裁判所に顕著である。)。
第4 結論
以上に認定,説示したところによれば,その余の争点につき判断するまでもなく,本訴請求は理由がないからこれを棄却し,反訴請求はいずれも理由があるからこれらを認容することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 奥田正昭 裁判官 中野琢郎 裁判官 伊澤大介)