札幌地方裁判所 平成19年(ワ)683号 判決 2009年3月18日
原告
甲野花子
外4名
上記原告ら訴訟代理人弁護士
中島一郎
同
野口幹夫
被告
北海道厚生農業協同組合連合会
同代表者代表理事
奥野岩雄
被告
北川昭夫
被告
南野和夫
上記被告ら訴訟代理人弁護士
黒木俊郎
同
坂本大蔵
主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 被告らは,各自,原告甲野花子に対し,5578万8191円及びこれに対する平成16年11月17日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは,各自,原告乙川圭子,原告甲野一郎,原告丙山葉子及び原告甲野二郎に対し,それぞれ1394万7047円及びこれに対する平成16年11月17日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,被告北海道厚生農業協同組合連合会(以下「被告厚生連」という。)の開設するJA北海道厚生連札幌厚生病院(以下「被告病院」という。)において,同病院の医師である被告北川昭夫(以下「被告北川」という。)及び被告南野和夫(以下「被告南野」という。)らによりS状結腸癌治療の目的で同結腸切除術を受けた亡甲野太郎(以下「亡太郎」という。)が,同手術後の縫合不全から腹膜炎,敗血症を発症して死亡したことにつき,亡太郎の相続人である原告らが,被告北川及び被告南野には,同手術後,亡太郎に対して早期の開腹手術等の治療を行わなかった過失があると主張して,被告らに対し,不法行為(被告北川及び被告南野に対しては民法709条,719条1項,被告厚生連に対しては同法715条1項)に基づく損害の賠償を請求した事案である。
1 前提事実(争いのない事実並びに後掲各証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定することのできる事実)
(1)当事者等
ア 亡太郎は,昭和10年11月*日生まれ(前記手術当時69歳)の男性であり(争いがない),前記手術当時,医療法人札幌平岡病院(以下「札幌平岡病院」という。)副院長(循環器内科の医師)として勤務していた(甲A1の1添付の複写記録1頁(以下,単に「甲A1の1の1頁」などと表記する。),C2,原告甲野花子の尋問調書1頁(以下,「原告花子1頁」などと表記する。))。亡太郎の前記手術当時の体格は,身長178cm,体重90kgであった。(甲A1の1の157頁)
イ 原告甲野花子(以下「原告花子」という。)は亡太郎の妻であり,原告乙川圭子,原告甲野一郎,原告丙山葉子及び原告甲野二郎はいずれも亡太郎の子であって(争いがない),他に亡太郎の相続人はいない。(弁論の全趣旨)
ウ 被告厚生連は,札幌市内に被告病院を設置している。(争いがない)
エ 被告北川は,昭和46年に医師免許を取得した後,外科を中心に臨床経験を重ね,平成4年から被告病院副院長を務めていた。被告北川は,消化器外科を専門とし,日本外科学会指導医,日本肝臓学会指導医,日本消化器外科学会指導医,日本大腸肛門病学会指導医の資格を有し,前記手術の行われた平成16年の時点で,大腸癌を含む開腹手術の症例経験を3000件以上有していた。(乙A6)
また,被告南野は,昭和61年に医師免許を取得した後,外科を中心に臨床経験を重ね,平成11年から被告病院外科に勤務していた。被告南野は,大腸を中心とした消化器外科を専門とし,日本外科学会専門医,日本消化器外科学会専門医の資格を有し,前記手術の行われた平成16年の時点で,大腸癌を含む開腹手術の症例経験を2000件以上有していた。(乙A7)
(2)診療経過等
ア 亡太郎は,平成16年9月24日(以下,平成16年については年を省略し,月日のみで表記することがある。),札幌平岡病院で健康診断を受けたところ,貧血及び便潜血が認められたことから,10月27日,被告病院消化器科を外来受診した。亡太郎は,10月29日,同科で大腸内視鏡検査及び注腸バリウム検査を受けたところ,S状結腸部分に強い狭窄部分が認められたことから,11月1日,被告病院消化器科に入院し,同月4日,手術目的で同外科に転科した。(甲A1の1の1ないし6・12・13・18・24・28・50・51頁,原告花子2頁)
イ 被告北川及び被告南野らは,11月9日,亡太郎に対し,S状結腸切除術(以下「本件手術」という。)を行った。しかし,亡太郎は,縫合不全から腹膜炎,更には敗血症を発症し,同月14日には,結腸亜全摘・回腸ストーマ(人工肛門)造設術(以下「本件再手術」という。)が行われたが,同月17日に被告病院で死亡した。なお,被告南野作成の死亡証明書には,亡太郎の直接死因は敗血症であり,その原因は汎発性腹膜炎である旨の記載がある。(甲A1の1の4・5・11・91・92・101・102頁)
(3)被告病院における亡太郎に対する診療経過の概要は,別紙診療経過一覧表の「診療経過(入通院状況・主訴・所見・診断)」欄に記載のとおり(ただし,「原告の反論」欄に否認ないし不知である旨の記載のある事項を除く。)である。
2 争点及びこれに対する当事者双方の主張
(1)11月14日午前9時30分ころか,遅くとも同日午後0時ころの時点で開腹手術等の治療を行わなかった過失の有無(争点1)
(原告らの主張)
ア 亡太郎には,11月13日午後7時ころの時点で,同日午前中のドレーン抜去によりドレナージが無効となっている下で,38.3℃の発熱と多量の発汗が認められた。また,亡太郎は,同日午後3時ころから同日午後10時ころまでの間に700ないし800ccの水分を摂取したにもかかわらず,尿量は200cc程度と少なく,導尿しても排尿されない状態(乏尿)であり,同日午後10時ころから同月14日午前10時ころまでの間の尿量も約100ccと異常に少なく,尿量が減少していた。さらに,亡太郎には,11月14日午前0時15分ころには水分摂取困難,同日午前4時ころには血尿,同日午前6時30分ころには胃痛や嘔気が見られ,内服薬を服用した上で微量の朝食を摂取したところ,その直後の同日午前9時30分ころには,冷汗多量,頻呼吸,顔色不良,血圧低下(収縮期血圧100mmHg台),四肢末端チアノーゼ,冷感等の症状が見られた。これらの症状は,重度敗血症性ショック(コールドショック)の典型的症状に合致する。
さらに,亡太郎には,11月14日午前中に実施された血液検査において,白血球好中球増加,リンパ球減少,CRP高値等の敗血症を含む感染症を疑うべき所見が現れていた。また,血液ガス検査の結果から,高乳酸血症を基礎とする代謝性アシドーシスが確認されたところ,その原因としてもショックや敗血症の影響が十分考えられた。
なお,腹痛や発熱は重症腹膜炎の場合には必発とはいえないので,亡太郎にこれらの症状が見られなかったとしても,腹膜炎と診断することが妨げられるものではない。
イ したがって,被告北川及び被告南野は,11月14日午前9時30分ころか,遅くとも同日午後0時ころの時点では,亡太郎が重度敗血症性ショックであることを認識することが可能であったから,この時点で,亡太郎に対し,開腹手術,抗生剤投与,エンドトキシン(感染巣から血中に流入する細菌又は細菌成分)吸着法(PMX)等の血液浄化法,体液管理や強心・昇圧剤の投与による循環管理,呼吸管理,代謝性アシドーシスの補正,体温管理,栄養管理等の治療を行うべきであったのにこれを怠った過失がある。
なお,仮に,被告北川及び被告南野が,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎が重度敗血症性ショックであることを疑うのに十分な情報を得ていなかったとしても,それは,被告北川及び被告南野が,本来行うべき腹部造影CT検査及び注腸ガストロ造影検査を実施しなかったためであるから,これによって前記過失が否定されることはない。また,亡太郎の血清クレアチニンは1.85mg/dlであり,この程度の数値であれば,造影剤使用による腎機能低下の発生頻度は1.9%と低く,回避するほどのリスクとはいえないから,腎機能低下を理由に腹部造影CT検査を実施すべき義務はない旨の後記被告らの主張は失当である。
(被告らの主張)
ア 亡太郎には,11月13日午後7時ころ,38.3℃の発熱が見られたものの,クーリングの実施により,同日午後10時15分ころまでには解熱しており,同月14日午前9時30分ころの時点では発熱はなかった。また,亡太郎は,11月14日午前0時15分ころに点滴を開始した後,同日午前4時ころには尿が確保されていた。尿意があるにもかかわらず,膀胱内に尿が貯留していないのであれば,腹膜炎を疑うが,亡太郎には11月13日午後10時ころ以降尿意がなかったことに照らすと,亡太郎に見られた乏尿は,縫合不全や腹膜炎を疑うべき所見とはいえない(乏尿の原因は,同日午後7時ころの発熱による多量の発汗に起因する脱水と考えられる。)。さらに,亡太郎の血尿は導尿によって生じたと考えられ,縫合不全とは無関係であるし,亡太郎は,11月14日午前8時ころには胃痛,嘔気も軽減し,朝食を全量摂取していた。なお,同日午前9時30分ころの時点で,亡太郎に冷汗多量,頻呼吸,顔色不良,四肢末端チアノーゼ,冷感が見られたことは認めるが,血圧の低下は見られず,ショック状態ではなかった。亡太郎の容態は,11月14日午前9時30分ころ以後,被告北川及び被告南野が輸液や酸素投与等を実施したこともあり,同日午後0時ころまでの時点で,増悪傾向を示していなかった。
また,被告北川及び被告南野は,本件手術後,亡太郎の腹部所見の確認等の診察を行い,特に,11月14日午前9時30分ころ以降は,亡太郎に対し,腹部所見の確認等を中心とした診察に加え,直腸指診,胸腹部レントゲン検査,腹部単純CT検査,血液検査等の検査を実施したが,亡太郎には,同日午後4時07分ころ左側腹部に圧痛が認められるまでに,急性腹膜炎であれば必発とされている激しくかつ持続的な腹痛や腹膜刺激症状等は認められず,腹膜炎を疑うべき検査所見も見られなかった。なお,11月14日午後0時30分ころに採血した血液ガス検査の結果が判明したのは,同日午後0時37分ころであり,その結果を担当医師が把握したのは,同日午後1時ころと考えられる。したがって,11月14日午後0時ころの時点で開腹手術等を行わなかった過失の有無を判断するに際して,上記検査結果を基礎資料とすることは許されない。
イ したがって,被告北川及び被告南野が,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎を急性腹膜炎と診断し,開腹手術をすべき義務はない。
また,抗生剤は,急性腹膜炎と診断した場合又は臨床症状(特に発熱の有無)や血液検査の結果等から感染が強く疑われた場合に投与すべきとされるところ,亡太郎については,11月14日の血液検査の結果,CRPの数値が同月12日よりも改善していたことや,発熱・腹部症状等が見られなかったことに照らせば,被告北川及び被告南野には,同月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎に対して抗生剤を投与すべき義務はない。また,腹膜炎と判断した場合には,全身管理のほか,開腹手術による原因除去が優先され,腹膜炎を原因とするエンドトキシン血症に対する血液浄化法は,開腹手術により原因を除去してもなお敗血症が遷延する場合に初めて適応となるから,エンドトキシン吸着法等の血液浄化法を行わなかったことが過失であるということはできない。
さらに,被告北川及び被告南野は,11月14日午前9時30分ころ,亡太郎がプレショック状態に陥った(ただし,収縮期血圧は100mmHg台を保っていた。)後,直ちに診察を開始し,輸液や酸素投与等の処置を行ったほか,原因探求のため,腹部所見の確認等を中心とした診察や,直腸指診,胸腹部レントゲン検査,腹部単純CT検査,血液検査等の検査を実施しており,適切な全身管理及び原因探求を行った。
なお,亡太郎には,腎機能低下や脱水が認められたところ,腎機能が低下している患者に造影剤を使用すると,更なる腎機能低下を招くおそれがあるから,腹部造影CT検査を実施すべき義務はない。また,術後早期の患者に対して注腸ガストロ造影検査を実施すると,病態の悪化を招く危険性があり,他方で,縫合不全による炎症や膿瘍の広がりについてはCT検査で容易に診断できることから,腹部所見がなく,腹部単純CT検査等の画像所見上も腹腔内に明らかな異常が認められなかった亡太郎に対して,注腸ガストロ造影検査を実施すべきではない。
ウ したがって,被告北川及び被告南野には,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で開腹手術等の治療を行わなかった過失はない。
(2)争点1の過失と亡太郎の死亡との間の相当因果関係の有無(争点2)
(原告らの主張)
ア 亡太郎は,縫合不全に起因して,吻合部から腸の内容物が漏れ出し,血中に病原菌や毒素が入ったことにより重篤な敗血症性ショックに陥り,そのショック状態が長引いて血流再分配(重要臓器への血流優先)が起こって,腸管が虚血状態となり,血管攣縮や播種性血管内凝固(DIC)等の阻害要因によって血流が回復しなかったために,非閉塞性腸管虚血(NOMI)又はこれに類似する壊死型虚血性腸炎を発症し,これにより死亡した。
このことは,敗血症性ショックでは,初期には高熱,悪寒戦慄,尿量減少,血圧の軽度低下,過呼吸等の症状が認められ(ウォームショック),その病変が進行した状態では,四肢冷感,冷汗,頻脈,血圧低下,尿量減少等が見られ,低酸素血症,代謝性アシドーシスが認められる(コールドショック)とされているところ,亡太郎の臨床症状及び検査結果(11月13日午後7時ころ以降,発熱や多量発汗,乏尿の症状が見られ,同月14日午前6時30分ころには胃痛,嘔気,血尿が,同日午前9時30分ころには多量の冷汗,頻呼吸,顔色不良,血圧低下,四肢末端チアノーゼ,冷感等の症状が見られたこと,同日午前9時50分ころにはCRPが15.59mg/dlと異常高値を示し,同日午前11時ころには血液濃縮傾向が見られ,同日午後2時25分ころには血圧が更に低下したこと,血液データ上重度細菌感染を疑うべき症状が認められ,血液ガス分析データから代謝性アシドーシスが認められること)は,敗血症性ショックが進行している状態(コールドショック)を示していること,亡太郎に見られた代謝性アシドーシスの基礎となっている高乳酸血症は,再手術以前からの腸管虚血を強く示唆する所見であること,病理所見では,非閉塞性腸管虚血の特徴である分節的壊死に相当する症状を呈していることなどに照らし,明らかである。
なお,フィブリン血栓の存在は,非閉塞性腸管虚血等を否定する根拠とはなり得ないから,この点に関する被告らの後記主張は失当である。
イ 重症腹膜炎や敗血症性ショックに対しても,エンドトキシン吸着法等の有効な治療法が確立されていた上,亡太郎は,基礎疾患であるS状結腸癌を除けば全身状態は良好であり,本件手術後の経過も順調であったから,被告北川及び被告南野が,11月14日午後0時ころまでに開腹手術や抗生剤投与等の治療を実施していれば,亡太郎を救命することは十分に可能であった。
ウ したがって,争点1の過失と亡太郎の死亡との間には相当因果関係がある。
(被告らの主張)
ア 亡太郎は,潜在的血行不良が原因で吻合部付近の血流が悪化し,これにより吻合した粘膜が壊死し,壊死した粘膜を覆う吻合部周囲の漿膜筋層に腸液が接触することとなったために,漿膜筋層にも炎症が生じ,漿膜筋層の一部に穴が開き(縫合不全),その結果,汎発性腹膜炎が生じて敗血症に罹患し,敗血症性ショックにより死亡したと考えられる(吻合部付近の血流悪化が潜在的血行不良に起因することは,被告病院の病理組織検査報告書に照らし,明らかである。)。
なお,原告らは,亡太郎の直接死因は非閉塞性腸管虚血又はこれに類似する壊死型虚血性腸炎であると主張するが,肉眼的に,本件再手術時には吻合部を除き腸管の色調は良好であり,分節的壊死は認められなかった。また,病理学上も,非閉塞性腸管虚血であれば小静脈に血栓は認められないとされているところ,亡太郎には,縫合不全部の一部組織の小静脈にフィブリン血栓が認められたから,非閉塞性腸管虚血である可能性はないし,亡太郎が壊死型虚血性腸炎であったことを裏付ける証拠もないから,原告らの上記主張は失当である。
イ 一般に,急性腹膜炎の予後は,腹膜炎の進展程度,起炎菌の種類,縫合不全を起こした部位,患者の年齢・抵抗力・全身状態等によって左右されるところ,本件では,亡太郎には,急性腹膜炎であれば通常見られるはずの激しくかつ持続的な腹部所見が認められておらず,特異な経過をたどったといえ,腹部所見が見られて開腹手術を実施すべき注意義務が発生する時点では,既に腹膜炎は相当程度進行していたと考えられる。また,亡太郎の腹膜炎の起炎菌はグラム陰性桿菌であるところ,グラム陰性桿菌の細胞壁外膜を構成するエンドトキシンは,ごく微量でも血中に入ると,発熱やショックなど多くの生物活性を有するため,治療困難な症例であった上,縫合不全を起こした部位はS状結腸摘出後の吻合部であり,漏出物が多量の混濁した液体であったため,腹膜炎から敗血症に移行した。さらに,亡太郎は69歳であり,S状結腸癌摘出術を受けていたため,感染症等に罹患しやすい状態であった。以上の諸点に加え,十分な腹腔内洗浄,ドレナージ,エンドトキシン吸着法等最善の治療を行ったにもかかわらず,亡太郎が死亡したことからすれば,同人の全身状態は悪化していたと考えられ,また,亡太郎は,口側及び肛門側の吻合部粘膜が全周にわたって緩徐に輪状壊死に陥っており,開腹手術を実施すべき時点では,汎発性腹膜炎は避けられない状態であった。
したがって,被告北川及び被告南野が,11月14日午前9時30分ころないし同日午後0時ころの時点で開腹手術等の治療を行っていたとしても,亡太郎を救命することができた高度の蓋然性は認められない。
ウ したがって,争点1の過失と亡太郎の死亡との間に相当因果関係はない。
(3)原告らの損害(争点3)
(原告らの主張)
亡太郎は,本件における被告らの不法行為により,以下のア及びイの損害を被ったところ,亡太郎が死亡したことにより,原告らは,その法定相続分の割合に応じて,原告花子においてその2分の1(4851万1471円),その余の原告ら4名においてそれぞれその8分の1(1212万7867円)の各損害賠償請求権を取得した。また,下記ウについては,上記取得割合と同一の割合で,原告らがそれぞれ負担した。
よって,原告らは,被告らに対し,不法行為(被告北川及び被告南野に対しては民法709条,719条1項,被告厚生連に対しては同法715条1項)に基づく損害の賠償として,原告花子について5578万8191円,その余の原告ら4名についてそれぞれ1394万7047円並びにこれらに対する平成16年11月17日(不法行為の後の日)から各支払済みまでいずれも民法所定の年5分の割合による遅延損害金の連帯支払を求める。
ア 逸失利益6702万2943円
亡太郎は医師として稼働していたから,逸失利益の算定に当たっては,平成13年から平成15年までの収入額の平均である年収1654万6990円を基礎収入とするのが相当である。また,生活費控除率は30%とするのが相当であり,亡太郎の就労可能年数(7年間)に対応するライプニッツ係数を用いてその逸失利益の死亡当時の現価を計算すると,下記計算式のとおりとなる。
(計算式) 16,546,990×(1-0.3)×5.7863734=67,022,943
イ 慰謝料 3000万円
ウ 弁護士費用 1455万3440円
原告らは,原告ら訴訟代理人弁護士に対し,本件に関する弁護士費用として,原告花子については前記4851万1471円の15%に当たる727万6720円,その余の原告ら4名についてはそれぞれ前記1212万7867円の15%に当たる各181万9180円を支払うことを約したところ,同費用(合計1455万3440円)は,本件における被告らの不法行為と相当因果関係のある損害に当たる。
(被告らの主張)
いずれも不知ないし争う。
第3 当裁判所の判断
1 前記前提事実並びに証拠(甲A1の1,B4,15,16,18,21,25,26,乙A1,2,4の1ないし3,5ないし7,B4,7,8,被告北川,被告南野)及び弁論の全趣旨によれば,以下の各事実を認めることができ,同認定を左右するに足りる証拠はない。
(1)本件手術の内容
被告北川及び被告南野らは,11月9日,亡太郎に対し,S状結腸癌治療の目的で,本件手術を実施した(執刀医は被告北川であり,被告南野らが助手を務めた。)。被告北川及び被告南野らは,開腹後,肝臓・腹膜への癌の転移がないことを確認した上で,S状結腸を切除し,吻合後に出血のないことを確認した。また,大腸内のガスを吻合部に移動させて,吻合部の口側・肛門側を手指で遮断して吻合部に圧力を掛け,縫合不全がないことを慎重に確認した。被告北川及び被告南野らは,吻合部周囲の色調に変化がなく,吻合部の血流が良好であることを確認した上,左側腹部から左傍結腸溝に向けてドレーンを挿入して閉腹した。(甲A1の1の87・91・158頁,乙A6,7,被告北川昭夫の尋問調書2・3頁(以下,「被告北川2・3頁」などと表記する。))
(2)本件手術後の経過
ア 被告病院では,被告北川,被告南野及び東田医師を含む6名の医師が主治医となって,亡太郎に対する術後管理を行った。亡太郎は,11月10日,朝の回診時において,体温は38.0℃であったが,特に痛みや嘔気を訴えることはなかった。また,血液検査の結果,亡太郎の白血球数は9700/μl(被告病院における基準上限値は9000/μlである。以下,白血球数については,単位を省略し,「9700」などと表記する。),CRPは5.25mg/d(l被告病院における基準上限値は0.70mg/dlである。以下,CRPについては,単位を省略し,「5.25」などと表記する。)であり,軽度の炎症反応は見られたが,被告南野は,術後に一般的に見られる軽度の炎症反応と判断し,経過を観察することにした。なお,同日実施された胸部レントゲン検査では,無気肺の部分はなく,また,腹部レントゲン検査では,横行結腸ガスが映っていたが,それ以外に特別な症状は見られなかった。(甲A1の1の56・57・226頁,乙A5,7,被告南野和夫の尋問調書1・2頁(以下,「被告南野1・2頁」などと表記する。))
イ 亡太郎は,11月11日,朝の体温は37.7℃であり,回診時には,痛みは自制内で体調は良好である旨述べた。また,亡太郎の体温は,同日午後8時ころ,一時的に38.0℃まで上昇したものの,同月12日朝には36.9℃まで解熱した。被告南野は,11月12日に亡太郎に対する水分投与を開始したが,亡太郎には,飲水後も腹部症状等は見られず,経過は良好であった。なお,同日に実施された血液検査の結果,亡太郎の白血球数は8400,CRPは17.26であった。(甲A1の1の57ないし59・178・227頁,乙A5,7,被告北川4頁,被告南野4頁)
ウ 亡太郎は,11月13日午前8時ころ,朝食の流動食を全量摂取した。被告南野は,同日午前10時20分ころ,亡太郎の回診を行ったところ,痛みの訴えはなく,ドレーンからの排液にも汚染が見られなかったことに加え,食事開始後もガスの排出が見られていたことから,腹腔内の状態は安定していると判断した。そして,この亡太郎の症状に加え,結腸癌等の場合にはドレーン留置が逆行性感染をもたらす可能性があることなどから,ドレーンを抜去した。亡太郎には,同日午後7時ころ,38.3℃の発熱があり,多量の発汗も認められたため,看護師がクーリングを実施したところ,亡太郎の体温は,同日午後9時ころには36.4℃まで下降した。また,亡太郎は,同日午後3時ころから同日午後10時ころまでに水分を700ないし800cc程度摂取し,その間の尿量は200ccであったところ,同日午後10時15分ころ,看護師に対し,尿意は特にないが,尿量は少ないと訴えた。そこで,看護師は,亡太郎に対して導尿を実施したが,尿は排出されなかった。(甲A1の1の4・60・61・177・178・199ないし207頁,乙A2,5,7,被告南野5・6頁)
エ 東田医師が,11月14日午前0時15分ころ,亡太郎に対する回診を行った際,亡太郎は,水分摂取が困難である旨訴えた。東田医師は,前日に発熱が見られたことから,腹膜炎や感染症等の可能性も考慮して,慎重に腹部所見等を確認したが,亡太郎には,腹痛(自発痛),圧痛,反跳痛,板状硬等の腹膜刺激症状は認められず,また,カテーテル感染を疑わせる輸液ルート跡の発赤も認められなかった。そこで,東田医師は,多量の発汗による脱水状態であると考え,亡太郎に対し,再度末梢部から点滴による輸液を開始した。
亡太郎は,11月14日午前6時30分ころ,胃痛や嘔気を訴えた。そこで,東田医師が内服薬(プリンペラン,ガスター)を処方したところ,同日午前8時ころには胃痛や嘔気が軽減し,朝食を全量摂取した。また,亡太郎には,同日午前4時ころに血尿が見られたが,これは導尿の影響と考えられ,また,同日午前7時ころにごく少量の排尿があった際には,血尿は軽減していた。なお,亡太郎の体温は,同日午前7時ころには36.7℃あった。(甲A1の1の61・83・177・199ないし205頁,乙A5ないし7)
オ 亡太郎は,11月14日午前9時30分ころ,レントゲン検査のため,一人で歩いて検査室へ向かう際に,冷汗,頻呼吸,顔色不良が見られたことから同検査を実施せず,車椅子で帰室した。亡太郎に腹部症状はなく,意識は清明で,気分不快はないと述べていたものの,多量の発汗が見られ,収縮期血圧は100mmHg台まで低下し,四肢末端にチアノーゼ,冷感が出現した。なお,同日午前9時40分ころの時点では,亡太郎の体温は37.0℃であり,血圧は収縮期108mmHg,拡張期60mmHg(以下,血圧については単位を省略して「108/60」などと表記する。)であった。また,亡太郎に呼吸苦は見られなかったものの,経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)が90%台前半に低下したことから,酸素投与が開始された。
被告南野は,同日午前9時50分ころ,亡太郎に対する問診及び腹部触診を行い,圧痛や反跳痛,板状硬の有無等を確認した。その際,高齢の患者の場合には,腹膜炎があっても,腹痛が見られない場合があることや,肥満の患者の場合には,圧痛所見が取りにくいことがあることにも留意しつつ,亡太郎の側腹部等を押して痛みの有無を慎重に確認したが,自発痛はなく,また,左側腹部に軽度の圧痛が見られたものの,腹部膨隆や腹膜刺激症状はなかった。その後,電話連絡により駆け付けた被告北川も,亡太郎に対する問診を行ったところ,亡太郎は,腹痛はなく気分も悪くないと答えた。また,被告北川は,亡太郎に声を掛けながら腹部触診を行い,その際には,患者が高齢の場合には,腹膜炎が発生していても,腹痛や圧痛が軽かったり,全く見られない場合もあることにも留意しつつ,圧痛や反跳痛の有無等を慎重に確認したが,腹部所見は認められなかった。さらに,被告北川は,ダグラス窩の腹膜炎の有無を確認するため,亡太郎に対して直腸指診を実施したが,亡太郎はダグラス窩の痛みを訴えず,また,炎症があれば見られるはずの肛門の弛緩も認められなかった。そのため,被告北川及び被告南野らは,亡太郎の軽度圧痛は,開腹手術(本件手術)後の痛みであると判断した。
また,血液検査の結果,亡太郎の白血球数は8700(好中球91.4%),CRPは15.59であり,CRPは同月12日の数値より低下していたが,血清クレアチニンが1.85mg/dl(被告病院における基準上限値は1.2mg/dlである。),血液尿素窒素(BUN)が17.9mg/dlと高値を示しており,脱水状態が見られた。そこで,被告北川及び被告南野らは,亡太郎に対し,11月14日午前11時ころから,脱水を補正する目的で中心静脈栄養法(IVH)による輸液を行うとともに,同日午前11時28分ころ,腹膜炎の可能性を除外する目的で胸腹部単純CT検査を実施した。その結果,腹部単純CT検査では,画像上,腸間隙,膀胱,直腸腔内に少量の腹水又は生理食塩水の像が認められたが,腹膜炎を疑われる有意な腹水は見られなかった。また,胸部単純CT検査では,両下肺野に仰臥位による肺含気量低下に伴う肺野の陰影増強や軽度の炎症所見が見られたことから,被告北川及び被告南野らは,亡太郎を軽度肺炎と診断した。被告北川及び被告南野は,その後,肺炎では冷汗やチアノーゼ等の症状について十分な説明がつかないことから,なお腹膜炎による敗血症性ショックや心原性ショックの可能性も疑いながら,慎重に経過を観察することとし,被告北川及び被告南野を含む6名の医師が,亡太郎の病室のある病棟の詰所に待機して,代わる代わる亡太郎を診察したが,亡太郎には,同日の午前中に著名な圧痛や腹膜刺激症状は認められなかった。また,亡太郎の体温は,同日午前10時30分ころの時点では36.8℃であり,また,血圧についても,昇圧剤を使用しない状態で,同日午前10時30分ころの時点では110/72,同日午前11時50分ころの時点では102/72と100台を維持しており,呼吸状態も改善してきていた。(甲A1の1の4・5・61・62・141・143・177・206ないし209・228頁,乙A4の1・2,5ないし7,被告北川4ないし7・34頁,被告南野8ないし15・19ないし21頁,弁論の全趣旨)
カ 亡太郎は,11月14日午前11時50分ころ,多量の発汗は見られたものの,体温は36.7℃と平熱であり,顔色はやや改善して呼吸回数も落ち着いており,発熱や腹部症状も見られず,気分不快の自覚はないと述べた。被告南野は,同日午後0時37分ころ判明した血液ガス検査の結果,亡太郎には代謝性アシドーシスと呼吸性の代償が認められたことから,敗血症の疑いを強めたが,依然としてその原因は不明であったことから,引き続き原因を探索することとした。また,同日午後2時25分ころ,亡太郎の発汗は落ち着き,冷感の改善も見られたが,収縮期血圧が90台とやや低下したことから,被告北川及び被告南野らは,亡太郎に対して強心剤であるカタボンHiを投与し,酸素投与を再開した。また,被告北川及び被告南野らは,同日午後3時ころに判明した血液検査の結果,CRPが26.86と高値を示したため,感染を強く疑い,スペクトル(感受性菌の範囲)の広い抗生剤であるチエナムを投与した。なお,被告北川は,同日午後3時ころ,亡太郎を診察をしたが,亡太郎は意識清明で,腹痛を訴えることもなく,同日午前9時50分ころの診察時と比較して,腹部所見の経時的な変化・増悪は認められなかった。(甲A1の1の5・62・63・177・210・230頁,乙A5,7,被告北川7・8頁,被告南野17ないし19・44頁,弁論の全趣旨)
キ 亡太郎には,11月14日午後4時07分ころ,39.0℃の発熱が認められ,左側腹部に圧痛が認められた。そこで,被告北川及び被告南野らは,亡太郎に対し,同日午後4時34分ないし35分ころ,腹部単純CT検査を再度実施したところ,腹水がやや増加していたものの,同日午前中の検査と比較して著しい変化は認められなかった。しかしながら,同日午後5時18分ころ,注腸ガストロ造影検査を実施したところ,造影剤が腹腔内に漏れ出したことから,被告南野は,亡太郎の症状を縫合不全による汎発性腹膜炎であると診断し,被告北川らと協議した上,緊急手術の実施を決定した。(甲A1の1の5・63・142・171頁,乙A4の3,6,7,被告北川23・24頁,被告南野20・21頁)
ク 被告北川及び被告南野は,亡太郎に対し,11月9日から同月14日まで,電解質製剤(ヴィーンD,ソリタ―T3号),輸液(アミノフリード),ビタミン製剤(マスチゲン)等を投与したほか,11月9日から同月12日まで,術後の感染予防のための通常の処置として,セフェム系抗生剤であるセフメタゾンを投与した。(甲A1の1の71・72頁,被告南野44頁,弁論の全趣旨)
(3)本件再手術の内容
被告北川及び被告南野らは,11月14日午後6時30分ころから,亡太郎に対し,本件再手術を開始したところ,手術室入室時,亡太郎は強い腹痛を訴えた。被告北川及び被告南野らは,亡太郎には,ダグラス窩に多量の混濁した液体の貯留が見られたほか,右側結腸・右横隔膜下に比較的多量の腸液が見られたため,生理食塩水で洗浄した。また,亡太郎には,縫合線上に直径約5mmの穴が開いており,そこから腸液が漏れていたため,被告北川及び被告南野らは,吻合部を含む大腸を切除した。被告北川及び被告南野らが,大腸を切開して内腔を観察したところ,口側及び肛門側の双方とも,吻合部の粘膜が全周性に2ないし3mm程度の幅で変色・壊死していたが,吻合部以外の腸管には異状は認められず,肉眼的に分節的壊死は認められなかった。被告北川及び被告南野らは,吻合部を切除した後,横行結腸でストーマを作成し,同日午後11時ころに閉腹して,本件再手術を終了した。なお,本件再手術時に採取された縫合不全部の標本について,病理組織検査を行った結果,粘膜下層の小静脈にフィブリン血栓が認められた。(甲A1の1の64・97・101ないし103・160頁,乙A6,被告北川9ないし11頁)
(4)本件再手術後の経過
被告北川及び被告南野らは,血流不全のおそれがあったため,11月15日午前0時10分ころ,再度開腹して亡太郎の結腸をほぼ全部摘出し,回腸にストーマを造設した。その後,被告北川及び被告南野らは,亡太郎を集中治療室(ICU)に入室させ,人工呼吸器を装着した上,エンドトキシン吸着法や持続的血液濾過透析(CHDF)による血液浄化や,強心剤であるノルアドレナリンの投与等の治療を行った。しかしながら,亡太郎は,11月17日午前5時ころ,血圧が低下して,同日午前5時30分ころに心停止に至り,同日午前7時18分に死亡した。(甲A1の1の5・11・64ないし67・78ないし80・82・147ないし156・163ないし166頁,乙A6,被告北川11ないし13頁)
(5)本件に関連する医学的知見
ア 腹膜炎及び敗血症について
(ア)「内科診断検査アクセス」と題する文献(甲B4)には,腹膜炎について,以下のような記載がある。
a 急性汎発性腹膜炎の臨床症状としては,腹痛,悪心・嘔吐,発熱,脱水等が挙げられ,大部分の症例では,患者は激しい腹痛(自発痛・何もしない状態でも患者自身が痛みを感じること)を訴えるが,老人や糖尿病症例では,疼痛が軽微であったり,全く見られない場合がある。また,急性汎発性腹膜炎では,圧痛(押されて痛みを感じること)は腹部全体に認められ,原発巣の付近で最も著明なことが多いが,老人では圧痛も軽微なことがある。なお,直腸指診によるダクラス窩の圧痛,波動,腫瘤の有無を確認することも重要である。
b 急性汎発性腹膜炎の検査所見として,大部分の症例では,白血球数の著明な増加と核の左方移動を認めるが,老人では左方移動を示すものの,白血球数はあまり増加せず,正常域に留まることもしばしばある。また,腹部CT検査では,腹水,膿瘍,ときに遊離ガスを検出することができる。
(イ)「急性腹症ハンドブック」と題する文献(甲B15)には,腹膜炎について,以下のような記載がある。
a 腹膜炎の患者は腹痛を訴え,身体所見では腹膜刺激症状を認めるので,臨床的に診断が可能である。腹膜炎症例の多くは早期の手術適応となる。
b 腹膜炎の臨床所見は,反射性と毒性に分けられ,反射性の所見としては,自発痛と圧痛,嘔吐,筋性防御等が,毒性の所見としては,体温の変化,急性循環不全,腹部膨満,腸管麻痺等が挙げられる。腹膜炎の患者は,強い腹痛を常に感じ,痛みは体動により悪化する。圧痛は腹膜に炎症があれば必ず認められ,腹膜炎を診断する際に最も大切な所見となり,汎発性腹膜炎の患者では広い範囲で圧痛を認めるが,重篤な敗血症や広範な筋性防御を伴う場合には,例外的に圧痛は認められない。また,腹膜炎の検査所見では,左方移動を伴う11000/mm3以上の白血球数増多が特徴的である。
c 続発性腹膜炎と診断し,手術を予定した場合には,補液と抗生物質の投与が必要となる。腹膜炎の診断が臨床的に得られれば,できるだけ早急に抗生物質を投与する。米国外科感染症学会の示している腹膜炎に対する抗生物質の選択指針によれば,続発性腹膜炎と腹腔内膿瘍に対して推奨される抗生物質として,単剤で投与する場合にはセフメタゾンが挙げられており,また,術後の腹膜炎や腹膜炎の進行による重篤な合併症を有する患者に対しては,チエナム又はアミノ配糖体薬に抗嫌気性菌薬を加えた複合投与が勧められるとされている。
(ウ)「急性腹症の早期診断」と題する文献(甲B16)には,術後早期の腹膜炎の痛みは,創部痛との鑑別が困難であり,この痛みは,しばしば鎮痛薬や抗生物質によって緩和されて不明瞭になることや,術中に膿瘍を吸引し,腹腔内の感染細菌を希釈することによって,一時的に腹膜炎の痛みが隠蔽されることがあることから,意外であるが,早期の腹膜炎の診断においては,疼痛の有無はあまり重要ではなく,激烈な痛みがないからといって腹膜炎を否定すべきではないとの記載がある。
(エ)兵庫県立淡路病院外科の梅木雅彦医師らは,「重症腹膜炎への対応―大腸穿孔を中心として」と題する論文(甲B18)において,重症腹膜炎に対する治療に際しては,外科的に感染巣を完全に除去することが最も重要であるが,既に生じている敗血症性ショックと高サイトカイン血症をはじめとする各種メディエーター対策も念頭に置く必要があり,平成7年11月からエンドトキシン吸着法を施行したところ,ほとんどの症例で平均血圧の上昇,時間尿量の増加等の効果が見られたとの結果を報告した上で,エンドトキシン吸着法による血液浄化法は,その作用機序にいまだ明らかでない面もあるが,臨床的にはショックを伴う重症腹膜炎の病態改善をもたらす効果があるので,早期に実施すべきと考える旨の意見を述べている。
(オ)愛媛大学医学部第一内科の長谷川均医師は,「敗血症の診断,症状,治療」と題する論文(甲B21)において,敗血症について,以下のように述べている。
a 敗血症は,さまざまな基礎疾患を有する患者に発症する細菌性感染症の代表で,感染巣から細菌などの病原微生物及びその産生毒素が血液中に流入することにより引き起こされる重篤な全身性疾患である。多くの敗血症は,悪寒・戦慄を伴う高熱で発症する。そして,進行すると,数時間のうちに血圧低下,乏尿,無尿を来たし,敗血症性ショックとなり,敗血症性ショックでは,特徴ある臨床症状を呈する。初期はウォームショックと呼ばれる病態を呈し,心拍出量の著明な増加と末梢血管抵抗の低下が特徴である。すなわち,血圧は軽度低下,中心静脈圧は正常又は増加する。皮膚は温かく乾燥し,四肢にはまだチアノーゼは見られず,意識も保たれている。ショックが遷延すると,心拍出量の低下,末梢血管抵抗の増大を来たし,予後不良なコールドショックに移行する。皮膚は蒼白で冷たく湿潤し,四肢にはチアノーゼが見られ,血圧は著明に低下する。
b 敗血症の治療としては,感染巣を検索し,外科的に排膿・切除するのが第一であるが,併せて強力な抗菌療法を行う。臨床的に敗血症と診断されたら,直ちに適切な抗菌薬を使用することが重要であり,起炎菌が判明していないときには,菌の侵入部位や原疾患から菌を想定し,菌が判明した後は,薬剤感受性に基づいて抗菌薬を決定する。
(カ)東北大学医学部老人科の矢内勝医師は,「高齢者の敗血症とその治療」と題する論文(甲B21)において,高齢者の敗血症について,以下のような意見を述べている。
a 敗血症の典型的所見として,発熱,悪寒,頻脈,白血球増多等があり,組織での血液環流低下の徴候として,乏尿,四肢冷感,更に進行するとショック症状となるが,高齢者では,敗血症に罹患しても典型的所見を欠いて,非定型的徴候を示すだけのことがある。
b 高齢者の敗血症の治療の原則は,早期診断と早期治療開始に尽きる。敗血症が疑われたら,診断のための諸検査を始めると同時に補液を開始すべきである。最も重要なことは,敗血症を生じさせた原因感染症対策であり,腹腔内感染症の場合は外科的処置が必要なことも多い。敗血症の原因菌が同定されなくても,早期からスペクトルの広い抗生剤を使用する。
(キ)「今日の診療 Vol.14 CD―ROM版」(乙B4)には,急性腹膜炎・腹腔内膿瘍(急性限局性腹膜炎)について,以下のような記載がある。
a 急性汎発性腹膜炎の局所症状として,腹痛及び圧痛は必発である。腹痛は激しく持続性で,疼痛のため,体動や呼吸が制限される。圧痛は炎症の初発部位に強いが,進行とともに腹部全体に波及する。また,筋性防御及び反跳圧痛は,腹膜刺激症状として重要である。急性汎発性腹膜炎の診断は,上記症状・所見,特に腹部の局部所見を正確にとらえれば容易である。また,急性汎発性腹膜炎の検査所見としては,白血球数の増加(11000/mm3以上)・左方移動,血液尿素窒素(BUN)の上昇,アシドーシス等が参考になる。
b 急性汎発性腹膜炎に対しては,適切な術前管理により全身状態の改善を図り,できる限り早期に緊急手術を行うのが原則である。術前管理については,輸液のための静脈確保,消化管内容の排除のための胃管挿入・吸引,尿量測定のための膀胱内バルーンカテーテル留置等を行い,抗生物質の投与を速やかに開始する。輸液は循環不全,電解質異常,アシドーシス等の改善のため,中心静脈圧又はスワン・ガンツカテーテルで肺動脈圧,肺動脈楔入圧(左房圧)をモニターしながら,急速・大量に行う必要がある。抗生物質は,起炎菌が不明の場合には,主としてグラム陰性桿菌及び嫌気性菌を目標とし,スペクトルの広いセフェム系を第一選択とする。また,手術操作としては,感染源の処置,排膿・腹腔内洗浄,ドレナージが原則である。
(ク)被告北川の臨床経験上,腹膜炎が発生している場合には,患者の状態が反応もないほど悪くない限り,痛みが見られないことはなく,また,被告南野の本件手術までの臨床経験上も,患者に腹膜炎が発生しているのに腹痛が見られないという例はなかった。また,患者が老人の場合に,腹膜炎があっても痛みが軽微であったり,全く見られなかったりする場合があるとされているのは,神経反射の低下によって痛みを感じにくくなるからである。なお,肥満の患者については,圧痛の所見は取りづらいが,意識障害のある患者や高齢の患者でない限り,自発痛は認められる。(被告北川18頁,被告南野1・10頁)
イ 検査数値等の評価について
(ア)CRP(C反応性蛋白)は,病原微生物の侵入,循環障害等による細胞や組織の傷害・壊死,手術や外傷,免疫反応障害等で炎症が発症すると,血中に速やかにかつ鋭敏に増加するが,疾患特異性には乏しい。CRPの基準値は施設によって異なり,0.3ないし0.6を基準上限値としている施設が多いとされるが,被告病院では0.7を基準上限値としていた。(甲A1の1の225頁,B25,被告南野31頁)
(イ)白血球の好中球増加症の原因としては,感染症,炎症,薬物・ホルモン・毒物等が挙げられている。(甲B26)
ウ 注腸ガストロ造影検査及び造影剤腎症について
腹部造影CT検査及び注腸ガストロ造影検査は,いずれも造影剤を使用して画像診断を行うための検査である。造影剤腎症(CIN)とは,造影剤投与により発現する腎機能低下をいうところ,既存の腎障害及び糖尿病合併と造影剤腎症の発現頻度との関係については,血清クレアチニンが1.2ないし1.9mg/dlの腎障害があり,糖尿病がない患者の場合,造影剤腎症の発現頻度は1.9%であるという報告があり,また,腎機能低下例に対する造影の適応判断については,血清クレアチニンが1.5ないし2.0mg/dl以上の腎障害がある場合には,造影剤腎症のリスクを考慮し,造影剤を使用しない代替検査を考慮すべきであろうとされている。(乙B8,被告北川19ないし21頁,被告南野34ないし36頁,弁論の全趣旨)
(6)本件に関する専門家の意見
秦史壯医師(以下「秦医師」という。日本消化器外科学会指導医,日本外科学会指導医,日本大腸肛門病学会指導医)は,本件に関し,鑑定意見書(乙B7)において,以下のような意見を述べている。
ア 開腹手術を実施すべき注意義務が発生するのは,縫合不全が確定診断され,汎発性腹膜炎の状態にある場合と考える。発熱や腹痛等の臨床症状がなく,腹膜炎が限局している場合には,縫合不全と診断されても,その度合いは軽度と考えられ,抗生剤の投与や輸液等で保存的に経過を観察することも選択肢の一つである。また,腹部所見がなく,腹部CT等の画像所見上も腹腔内に明らかな異常を認めない結腸癌切除術後患者に対して,注腸ガストロ造影検査を施行すべき注意義務はない。CT検査により縫合不全による炎症や膿瘍の広がりを容易に診断できる上,術後早期の患者に対して注腸ガストロ造影検査等を実施することは病態の悪化を招く危険があるからである。また,注腸による縫合不全の検査は,造影剤を逆行性に注入するため,大量の造影剤を使用する上,大きな穿孔部位でも存在しない限り,その診断は不明確なものとなる。したがって,本症例のように腹痛等の臨床症状がなく,CT検査でも腹膜炎が疑われない症例において,結腸癌切除後の注腸ガストロ造影検査を行うべきであったとの結論は採り得ない。
イ 11月14日午前9時30分ころ,亡太郎の体温は37.0℃であり,多量の発汗,血圧の低下(同日午前9時40分の時点で108/60),四肢末梢のチアノーゼ,経皮的動脈血酸素飽和度の低下(93%)が認められた。しかしながら,亡太郎の意識は明瞭で,腹部症状はなかった上,同日午前9時50分ころ,被告北川及び被告南野が亡太郎を診察した時点で,亡太郎は,クーリング処置のみで解熱しており,全身状態は安定していた。被告北川及び被告南野は,縫合不全による腹膜炎,肺炎,創部感染,尿路感染のすべてを疑いながら,亡太郎の腹部所見の有無を確認したが,腹膜刺激症状や自発痛はいずれも認められず,軽度の圧痛が認められたにすぎなかった上,直腸指診でも異常は認められなかった。したがって,被告北川及び被告南野らは,同日午前9時50分の時点で直ちに,亡太郎を縫合不全と確定診断することはできず,更なる原因探求のために,中心静脈栄養法で脱水を改善させ,血圧を安定させながら胸部・腹部CT検査等を行ったものであり,これは妥当な指示と考える。
11月14日午前11時28分ころ撮影された腹部CTでは,少量の腹水が認められたが,術後早期の状態としては矛盾しない程度の量であった。また,胸部CTでは軽度肺炎が疑われたが,被告北川及び被告南野らは,なお縫合不全等の可能性を疑い,亡太郎の診察を繰り返している。亡太郎は,同日午前11時50分ころ,大量の発汗が認められたものの,呼吸回数は改善し,腹部症状も認められなかった。また,亡太郎には,同日午後0時37分ころの時点でも発熱は認められず,改善傾向が認められたから,この時点で,被告北川及び被告南野らが,亡太郎に対して,更なる検査を実施すべき理由はない。
ウ 本件再手術時に発見された腸管壊死については,本件手術時の手術操作によって腸管に刺激が加わり,末梢血管に血栓が形成された結果,腸管の血流障害が生じ,これによって生じた腸管の壊死(縫合不全)からの敗血症性ショックが,更なる吻合部の壊死を招いたものと考えられる。S状結腸癌摘出術は,非閉塞性腸管虚血の原因となり得るが,非閉塞性腸管虚血は,高齢者や意識障害者,認知症患者を除くと,強い腹痛を伴うものであるところ,亡太郎は本件手術当時現役の医師であり,意識障害はなく認知症でもなかった。また,最近(1980年代以降)のほとんどの学会・論文では,手術リスクや医学的問題点の検討を行うに当たり,少なくとも70歳,多くは75歳以上を高齢者として分類している。これらの点(意識障害がなく,認知症でもなく,高齢者でもないこと)を考慮し,亡太郎が本件再手術に至るまで強い腹痛を訴えていなかったことに加え,手術所見,切除標本の病理組織学的所見に血栓が認められたことなどに照らすと,非閉塞性腸管虚血は否定的である。
2 争点1(11月14日午前9時30分ころか,遅くとも同日午後0時ころの時点で開腹手術等の治療を行わなかった過失の有無)について
(1)原告らは,亡太郎の臨床症状(11月14日午前9時30分ころまでに,発熱,多量の発汗,乏尿,血尿,胃痛・嘔気等の症状が見られ,同日午前9時30分ころには,冷汗多量,頻呼吸,顔色不良,血圧低下,四肢末端チアノーゼ,冷感等の症状が見られたこと)に加え,同日午前中に実施された血液検査の結果,白血球好中球増加,リンパ球減少,CRP高値等の所見が見られたことや,血液ガス検査の結果,代謝性アシドーシスが確認されたことなどに照らすと,被告北川及び被告南野は,同日午前9時30分ころか,遅くとも午後0時ころの時点で,亡太郎が重度敗血症性ショックであることを認識することが可能であったから,この時点で,亡太郎に対し,開腹手術,抗生剤投与,エンドトキシン吸着法等の血液浄化法,体液管理や強心・昇圧剤の投与による循環管理,呼吸管理,代謝性アシドーシスの補正,体温管理,栄養管理等の治療をすべきであったと主張する。
(2)そこで,まず,11月14日午前9時30分ないし同日午後0時ころの時点における亡太郎の臨床症状等につき検討する。
ア 臨床症状について
(ア)亡太郎には,前記1(2)ウないしカにおいて認定したとおり,11月13日午後7時ころ,38.3℃の発熱が見られたものの,クーリングにより同日午後9時ころまでには解熱しており,同月14日午前9時40分ころ,午前11時50分ころのいずれの時点でも,発熱は認められなかった。また,亡太郎は,尿量が少なかったものの,尿意があるのに尿が出なかったわけではなく,尿意がなく尿量が少なかったにすぎないし,血尿については,導尿によって生じたと考えられる。さらに,亡太郎は,11月14日午前6時30分ころには,胃痛や嘔気を訴えていたものの,同日午前8時ころまでには,内服薬の服用等により胃痛や嘔気は軽減し,朝食を全量摂取した。
また,亡太郎には,前記1(2)オにおいて認定したとおり,11月14日午前9時30分ころ,冷汗,頻呼吸,顔色不良,四肢末端チアノーゼ,冷感等の症状が見られたものの,収縮期血圧は100mmHg台であり,同日午前10時30分ころ及び同日午前11時50分ころの時点でも,100mmHg台を維持していた。
原告らは,11月14日午前9時30分ころの時点までに亡太郎に見られた上記症状は,重症敗血症性ショック(コールドショック)の典型的症状に合致すると主張する。しかしながら,前記1(5)ア(オ)aにおいて認定したとおり,多くの敗血症は,悪寒・戦慄を伴う高熱で発症し,初期にはウォームショックと呼ばれる病態を呈するとされているところ,前記のとおり,亡太郎は,11月14日午前9時30分ころまでの間にこのような症状を呈していたとはいえない。また,コールドショックにおいては,血圧が著明に低下するとされているところ,亡太郎の収縮期血圧は,前記のとおり,100mmHg台を維持していたから,この時点で亡太郎がコールドショックの状態にあったと認めることはできない。
(イ)また,前記1(5)ア(ア)a,(イ)a,b,(カ)a,(キ)aにおいて認定したとおり,腹膜炎であれば,患者は激しい腹痛(自発痛)を訴え,また,圧痛が認められるのが通常であるとされているところ,亡太郎には,前記1(2)オにおいて認定したとおり,11月14日午前9時30分ころの時点では腹部症状は見られず,同日午前9時50分ころ以降も,被告北川及び被告南野を含む被告病院の6名の医師が代わる代わる亡太郎を診察したにもかかわらず,軽度の圧痛が見られたにとどまり,腹痛(自発痛)や腹膜刺激症状等は見られなかった。
腹膜炎と腹痛の関係について,原告らは,重症腹膜炎の場合には腹痛が見られないこともあるから,腹痛が見られなかったとしても,腹膜炎と診断することが妨げられるものではないなどと主張し,これに沿う書証として甲B第15号証及び第16号証を提出する。しかしながら,前記1(5)ア(イ)bにおいて認定したとおり,甲B第15号証には,重篤な敗血症や広範な筋性防御を伴う場合に,例外的に圧痛が認められないことがある旨の記載はあるものの,重症腹膜炎の場合に腹痛(自発痛)が見られないことがあるとは記載されておらず,むしろ,腹膜炎の患者は強い腹痛を常に感じる旨記載されている。また,甲B第16号証には,前記1(5)ア(ウ)において認定したとおり,術後早期の腹膜炎の診断においては疼痛の有無はあまり重要でなく,激烈な痛みがないからといって腹膜炎を否定すべきではない旨の記載があるものの,前記1(5)ア(ア)a,(イ)a,b,(キ)a,(ク)において認定したとおり,本件において書証として提出された他の知見文献において,腹痛は腹膜炎の臨床症状として最も重要である旨が一致して指摘されているところである(なお,被告北川及び被告南野は,いずれも,その経験上,腹膜炎の患者に腹痛が見られなかったことはない旨供述している。)。したがって,これらの書証によっても,重症腹膜炎の診断に際し,腹痛の有無が重要な要素となることが否定されるものではない。
なお,本件において書証として提出された知見文献の中には,老人の場合には,急性汎発性腹膜炎であっても疼痛(自発痛)が軽微であったり,全く見られないことがあり,圧痛も軽微な場合がある旨の記載もある。しかしながら,前記1(5)ア(ク),(6)ウにおいて認定したとおり,現在,手術リスクや医学的問題点を検討するに当たって高齢者と分類されるのは,70歳ないし75歳以上であるとされており,本件手術当時69歳であり,医師として活動していた亡太郎について,老人に関する前記記載が直ちに妥当するかは疑問である。また,前記1(5)ア(ク)において認定したとおり,一般に,老人について,腹膜炎があっても痛みが軽微であったり,全く見られなかったりする場合があるとされているのは,神経反射の低下によって痛みを感じにくくなるからであるところ,亡太郎については,前記1(3)において認定したとおり,本件再手術直前には強い腹痛を訴えていたことに照らすと,神経反射が低下していたとも考え難い。そして,被告北川及び被告南野は,前記1(2)オにおいて認定したとおり,11月14日午前9時50分ころ以降に亡太郎を診察した際,亡太郎が69歳で肥満の患者であることから,老人の場合には腹膜炎があっても腹痛が見られない場合があることや,肥満の患者の場合には自発痛は見られるが圧痛所見が取りにくいことがあることに留意した上で,亡太郎の痛みの有無を慎重に確認したが,亡太郎には軽度の圧痛が見られたにとどまり,腹膜炎を発症していれば認められるはずの激しい腹痛を訴えることも,広範囲の圧痛が認められることもなかったところである。
イ 血液検査の結果について
前記1(5)ア(ア)b,(イ)b,(カ)a,(キ)aにおいて認定したとおり,腹膜炎の場合,検査所見としては,白血球数が11000/mm3以上に増加することが特徴とされているが,亡太郎については,前記1(2)オにおいて認定したとおり,11月14日午前中の血液検査の結果,白血球数は,被告病院の基準上限値を下回る8700にすぎなかった。また,同血液検査では,前記1(2)オにおいて認定したとおり,白血球好中球が91.4%と増加し,また,CRPが15.59と高値を示していた。しかしながら,白血球好中球の増加する原因としては,前記1(5)イ(イ)において認定したとおり,感染症のほかにも,炎症・組織壊死,薬物・ホルモン・毒物等が挙げられており,また,CRPは手術後に上昇することがあり,疾患特異性に乏しいとされている。
ウ 血液ガス検査の結果について
前記1(2)カにおいて認定したとおり,11月14日に実施された血液ガス検査の結果が判明したのは同日午後0時37分ころであるから,同日午後0時ころまでの時点で開腹手術等を行うべきであったか否かの判断に際して同検査の結果を基礎とすることは相当ではない(なお,血液ガス検査結果は,代謝性アシドーシスと呼吸性の代償が認められたというものであるところ,これが,敗血症の疑いを強めるデータであり,また,腹膜炎の重症度を判定する際の要素であるとする文献(甲B18)もある。しかしながら,このデータのみで敗血症発生の有無の判定がされるものと認めるべき証拠はなく,上記判定の際に考慮すべき一要素にすぎないと考えられる。)。
エ 検討
確かに,回顧的に見れば,11月14日午前中には亡太郎に腹膜炎が発症していた可能性が高いといえる(被告北川13・14頁,被告南野27頁)。しかしながら,以上亡太郎の臨床症状及び血液検査の結果について検討してきたところからすれば,被告北川及び被告南野は,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎について,腹膜炎の確定診断をすること及び敗血症性ショックの状態にあると認識することは困難であったというべきである(この判断は,上記血液ガス検査の結果を考慮に入れたとしても,左右されるものではない。)。
(3)以上に認定した11月14日午前9時30分ないし同日午後0時ころの時点における亡太郎の症状等に照らし,被告北川及び被告南野に開腹手術等の治療を行わなかった過失があるか否かにつき検討する。
ア 開腹手術について
腹膜炎に対する治療としては,前記1(5)ア(キ)bにおいて認定したとおり,早期に開腹手術を実施して感染部の処置を行うことが重要であるとされている。しかしながら,腹膜炎の確定診断がなく,その疑いがあるにすぎない場合にまで,極めて侵襲性の高い開腹手術を行うべきとはされておらず,秦医師も,前記1(6)アにおいて認定したとおり,その作成にかかる鑑定意見書において,開腹手術を実施すべき注意義務が発生するのは,縫合不全が確定診断され,汎発性腹膜炎の状態にある場合と考える旨の意見を述べている。
以上の諸点に照らすと,被告北川及び被告南野に,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,開腹手術を行わなかった過失があるということはできない。
イ 抗生剤投与について
前記1(5)ア(イ)c,(キ)bにおいて認定したとおり,腹膜炎と診断して開腹手術を予定した場合には,抗生剤を投与するとされているところ,前説示のとおり,被告北川及び被告南野は,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎について腹膜炎の確定診断をすることは困難であった。
以上の諸点に照らすと,被告北川及び被告南野に,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎に対して抗生剤を投与しなかった過失があるということはできない。
なお,被告北川及び被告南野らは,前記1(2)クにおいて認定したとおり,本件手術を行った11月9日から同月12日まで,術後の感染予防のための通常の処置として,亡太郎に対して抗生剤であるセフメタゾンを投与しているところ,セフメタゾンは,前記1(5)ア(イ)c,(キ)bにおいて認定したとおり,スペクトルの広い抗生剤であり,腹膜炎患者に対して,起炎菌が特定されていない段階や開腹手術を行う前の段階において投与することが推奨されているセフェム系の抗生剤である。また,被告北川及び被告南野らは,前記1(2)カ,(5)ア(イ)cにおいて認定したとおり,11月14日午後3時ころに判明した血液検査の結果,亡太郎のCRPが26.86と高値を示し,感染が強く疑われたことから,抗生剤であるチエナムを投与しているところ,チエナムは術後の腹膜炎や腹膜炎の進行による重篤な合併症を有する患者に対する投与が勧められている薬剤である。以上のとおり,被告北川及び被告南野らは,適切な時期に適切な抗生剤を投与したといえる。
ウ 血液浄化法について
前記1(5)ア(エ)において認定したとおり,血液浄化法は腹膜炎に対する治療方法の一つであるところ,前説示のとおり,被告北川及び被告南野は,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎について,腹膜炎の確定診断をすることは困難であった。また,血液浄化法については,前記1(5)ア(エ)において認定したとおり,その作用機序にいまだ明らかでない点もあるとされており,血液浄化法の有用性を説く文献においても,腹膜炎に対する治療方法としては,外科的に感染巣を完全に除去することが最も重要である旨指摘されている。
以上の諸点に照らすと,被告北川及び被告南野に,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎に対して血液浄化法を行わなかった過失があるということはできない。
エ 以上の諸点に加え,被告北川及び被告南野は,本件手術後,亡太郎に対し,前記1(2)アないしキにおいて認定したとおり,主治医6名の体制で,縫合不全による腹膜炎発症の可能性も念頭に置きながら,問診や腹部所見の有無の確認等の診察を繰り返し行った上,輸液等の投与による体液・栄養管理,強心剤の投与,酸素投与による呼吸管理,クーリングによる体温管理等を適切に実施している。
したがって,被告北川及び被告南野に,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎に対する開腹手術等の治療を怠った過失があると認めることはできない。
(4)なお,原告らは,被告北川及び被告南野は,11月14日午前9時30分ころ又は午後0時ころの時点で,亡太郎に対し,腹部造影CT検査及び注腸ガストロ造影検査を実施すべきであったとも主張する。
しかしながら,前記1(2)オ,(5)ウ,(6)アにおいて認定したとおり,腹部造影CT検査及び注腸ガストロ造影検査はいずれも造影剤を使用する検査方法であり,また,亡太郎は血清クレアチニンが1.85と高値で,腎機能が低下していたと考えられるところ,このような腎障害患者に対しては,造影剤腎症のリスクを考慮し,造影剤を使用しない代替検査を考慮すべきであろうとされている(この点に関し,原告らは,血清クレアチニンが1.85の場合,造影剤使用による腎機能低下の発生頻度は1.9%にすぎず,これは回避するほどのリスクではないと主張するが,1.9%という発生頻度を回避するほどのリスクではないと評価することは相当でないから,同主張は採用できない。)。また,秦医師は,その作成にかかる鑑定意見書において,亡太郎に腹痛等の臨床症状がなく,CT検査上も腹膜炎が疑われなかったこと,他方で,術後早期の患者に対して注腸ガストロ造影検査を行うと,病態の悪化を招く危険がある上,注腸検査では大きな穿孔部位でも存在しない限り,明確な診断を得ることは困難であることなどを理由に,本件では注腸ガストロ造影検査を実施する必要はなかった旨述べている。
以上の諸点に照らすと,被告北川及び被告南野が,11月14日午前9時30分ころ又は同日午後0時ころの時点で,亡太郎に対し,腹部造影CT検査や注腸ガストロ造影検査を実施すべきであったとはいえない。
(5)よって,争点1に関する原告らの主張は採用できない。
第4 結論
以上に認定,説示したところによれば,その余の争点につき判断するまでもなく,原告らの請求はいずれも理由がないから,これらを棄却すべきである。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 古久保正人 裁判官 中野琢郎 裁判官 伊澤大介)
別紙診療経過一覧表<省略>