札幌地方裁判所 平成24年(わ)1003号 判決 2014年2月18日
主文
被告人を懲役3年に処する。
この裁判が確定した日から4年間その刑の執行を猶予する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,平成18年12月以降,左上下肢麻痺のためいわゆる寝たきりの状態であった妻Aに対し,献身的な介護を行っていたものであるが,平成24年11月9日夕方頃,準備した食事を同人が嫌がったことやおむつ交換に同人が協力しなかったことに立腹し,札幌市<以下省略>の当時の被告人方において,鉄製のサイドレールが取り付けられた介護用ベッドで仰向けに寝ていた上記A(当時72歳)に対し,同人の左肩付近を両手でつかみ,その顔面及び頭部を同ベッドのサイドレールに数回打ち付けるなどの暴行を加え,同人に硬膜下出血及び硬膜下血腫の傷害を負わせ,よって,同月10日午後2時28分,同市<以下省略>所在のa病院において,同人を同傷害による脳機能障害により死亡させた。
(証拠の標目)省略
(事実認定の補足説明)
1 弁護人は,①A(以下「被害者」という。)は,脳が一般成人女性より小さく,橋静脈が外力の影響を受けやすかったことと,一度出血すると血が止まりにくくなる副作用があるワーファリンという服用中の薬が効き過ぎていたこととが相まって,被告人が被害者に対して日常的に行っていた介護上の動作により同人の頭部に軽微な外力が加わって,その頭部に見られる皮下出血や硬膜下出血・血腫が生じた可能性がある,②被告人が捜査段階で行った自白は,捜査機関が,被告人が被害者に暴力を振るったと決め付けた上,被害者の脳の特殊性やワーファリンの副作用を看過したずさんな捜査を行って被告人に強要した供述であって信用できないとして,被告人は無罪であると主張するので,以下に検討する。
2 主張①について
(1) 被害者の解剖医である証人B(以下「B」という。)の証言等によれば,解剖時,被害者の額の左側から左側頭部にかけての部分,眉間及び下顎の真ん中辺りに皮膚変色があり,頭皮下には額の左側から左側頭部にかけて3つ又は4つに区別できる約1ないし2センチメートルの間隔でほぼ平行に並んだ棒状の出血があったことが容易に認められる(以下,被害者の頭皮下に認められた上記の形状の皮下出血を「本件皮下出血群」ということがある。)。
そして,Bは,解剖時の所見に基づき,前記皮膚変色は,いずれも,数時間から数日以内の大体同じ時期に生じた皮下出血である,また,本件皮下出血群は,皮膚に表皮剥脱などが見られないことから,表面が平たんなものにぶつかってできたものと考えられ,被害者が寝ていたベッドの柵の横に長い棒にぶつかったと考えるのが考えやすく,その棒が1本しかないことから,少なくとも4回はぶつかったと考えられる,と証言する。
以上の解剖時の所見に基づくBの証言内容に不自然・不合理な点はなく,被害者の死因が他の行為によって生じた可能性を指摘する法医学者である証人C(以下「C」という。)も,Bの証言内容が被害者の遺体の損傷状況と矛盾するものではない旨証言しており,上記可能性の大小をおくとすれば,それぞれの証言の間に明確に矛盾を来している点は見当たらない。
(2) 次に,弁護人が主張する,被告人が日常的に行っていた介護上の動作により被害者の頭部に皮下出血が生じた可能性について検討すると,被告人の供述及び被告人自身が被害者に対する介護動作を再現した内容(弁護人請求証拠番号6)に照らせば,被告人が介護動作を行った際,被害者の頭部がベッドのサイドレールにぶつかる可能性は高くはない。
また,仮に被害者の頭部が同サイドレールにぶつかったとしても,1回でもぶつかれば,被告人自身が気付いたり被害者からの指摘を受けたりするなどして,その後の介護動作の際には注意深くなるはずであって,繰り返し被害者の頭部を同サイドレールにぶつけることは考えにくい。そして,被告人が日常の介護動作としてベッド上の被害者の身体をベッド上方に引き上げる動作を再現していることを踏まえると,ベッド上の被害者の身体と同サイドレールとの位置関係がいつもほぼ一定であったと考えることは不自然であり,このことからしても,被害者の頭部の相当狭い範囲に集中して,たまたま本件皮下出血群が生じたとは考え難い。
さらに,平成24年11月8日に被告人方を訪れた訪問看護師であるD(以下「D」という。)の証言によれば,同日午前中,被害者の顔に前記皮膚変色及び本件皮下出血群はなかったと認められるところ,それ以降の一両日中に,偶然,複数回にわたり被害者の顔がベッドのサイドレールにぶつかったと想定することは,関係証拠上,約6年間にわたる介護の期間中に,被害者の顔にあざが生じていると認められる機会が多くとも数回程度にとどまることに照らすと,余りにも不自然である。なお,被害者が何らかの物を自分の顔面に落下させるなどの過失行為が重なって本件皮下出血群ができた可能性も,同様の理由により否定される。
(3) そして,同日のDによる訪問看護以降,被告人以外に被害者と接触した人物はいなかったと認められることから,被告人が,意図的な行為により,被害者の顔面や頭部に対して何らかの外力を数回加えた可能性が高いと認められる。
(4)ア 他方,Cは,被害者の脳は通常人と比べて極めて小さく,硬膜下出血の原因となる橋静脈の切断を生じやすい状態にあったから,被害者の頭部に意図しない何らかの軽微な外力が加わったことで本件の死因である硬膜下出血及び血腫が形成された可能性があり,その出血及び血腫の量が,通常の場合に比して多量であるから,ワーファリンの影響があった可能性が高いと証言し,証人E(以下「E」という。)も,ワーファリンが被害者に強く効き過ぎていた影響により,何らかの軽微な外力が加わっただけで被害者の顔面等の皮下出血が生じた可能性があると証言する。
イ 両名が証言するとおり,平成17年に被害者が脳梗塞を起こした際の手術で,その脳のうち右側の一部が切除され,通常人に比べて相当程度小さくなっており,硬膜と脳とをつなぐ橋静脈の露出部分が多くなっていたことで,その血管が切れやすくなっていた可能性はあるといえる。
また,被害者の解剖時には全身にわたるあざがあった上,血液の凝固能を示し,ワーファリンの処方に際して重要な指標となるPT-INRの値は,体調その他様々な要因により急激に上昇することもあること,同値が正常範囲内にあったとしてもワーファリンの副作用として出血傾向を高めるのは否定できないことから,被害者についてワーファリンの副作用が強く現れた可能性もあるといえる。
ウ しかしながら,被害者の橋静脈が軽微な外力によって切れる状態にあった可能性に関しては,ワーファリンには一旦出血すると止まりにくくなる副作用があるものの,血管自体を切れやすくする効果は認められないこと,加えて証人F(以下「F」という。)の証言によれば,被害者の切除した脳は右側であり,脳の左側は従前どおりであるから,左側の橋静脈の露出が多くなってはいないところ,あざは被害者の額の左側にあり,それに対応するとみられ,主たる死因である硬膜下血腫は脳の左側に生じていること,手術以外の要因により被害者の脳が萎縮していた可能性につき,その可能性自体は否定できないものの,その所見は見られないことなどからすると,被害者の脳が外力の影響を受けやすくなっていたとしても,それが同人の死亡に作用した可能性は高いものとまではいえない。
エ また,ワーファリンの副作用が強く発現した可能性に関しては,被害者に対してワーファリンを処方していた4年弱の期間,PT-INRの値が一貫して正常範囲内に保たれていたこと,Fが,被害者の本件皮下出血群はそれぞれ限局されているが,ワーファリンが作用していればそれが均一かつ広範に広がるはずであるから,被害者の場合はその影響は限定されていた可能性が高いと証言していること,被害者がワーファリンを過剰に摂取した可能性につき,被告人自身が毎日の処方量をきちんと管理していたと述べているほか,Eが,ワーファリンを過剰に摂取したとしても即日影響が出るものではなく,約三,四日後に効果が現れるのが通常であると証言していること,被害者の体調が影響した可能性につき,被害者は本件当日まで数日間にわたり下痢気味であった旨,被告人やその娘であるGは供述するものの,Dが記載した診療録(弁護人請求証拠番号25)によれば,その程度は軽いものであったと認められること,そして,皮下出血が生じるかどうかは様々な要因に左右され得ることをも考慮すれば,本件当日に至るまでにPT-INRの値が急激に上昇した可能性,すなわち被害者にワーファリンが強く効き過ぎていた可能性は,否定されないまでも低かったといえる。
オ そうすると,本件において,被害者の脳の小ささやワーファリンの副作用が,被害者の死因に寄与した可能性は否定できないものの,既に検討したとおり,被害者の頭皮下に見られる本件皮下出血群の形状等によれば,偶然の外力が数回にわたって加えられた可能性は想定し難いことから,弁護人の指摘を踏まえても,被害者の頭部等への数回の外力が日常の介護動作により加わった可能性は認め難いというべきである。
カ なお,Cは,Bが被害者を鑑定した際,硬膜下に存在した組織液の量を量らなかった点を指弾するが,これは検討済みのBの証言の核心部分が信用できることに疑いを抱かせる事情とはいえない。さらに,弁護人は,Bは医学上の基本的な知識を欠いており,行われた鑑定もずさんであるし,ワーファリンの副作用を適切に考慮していないなどとも主張するが,Bの証言の趣旨を正解しないものであって,失当というほかない。
(5) そして,そのほかの弁護人の主張を検討しても,検察官が主張する暴行内容と整合するBの証言の信用性を否定すべきものはない。
3 主張②について
(1)ア まず,被告人は,被害者が死亡した当日である平成24年11月10日に行われたH警察官(以下「H」という。)による任意での取調べにおいて,被害者を介護する中で,文句やわがままを言われると腹が立つこともままあり,そのときは平手でたたいたり,物をぶつけたり,ベッドに押し付けたりすることがあった,同月9日には,被害者のおむつを交換しようとした際,同人は被告人の意に沿って交換させず,その態度に怒りを感じた,また,夕食のとき,用意した弁当が嫌だと拒まれて怒りが爆発し,妻の頭や顔を手で何度かベッドにたたき付けた,その行為によって妻が死んでしまったかどうかは分からない旨供述する(乙6)。
イ Hは,被害者が死亡した当日,被害者が死亡した病院からの連絡を受けて同病院に駆け付けたものであるが,その段階で把握していた情報は相当に限られていたといえ,とりわけ,被告人方の冷蔵庫にカツ丼弁当が残されていたことは,いまだ同所の検証等を行っていない捜査機関が把握するところではなかったと認められるから,被告人が暴行を加える契機となった前記の被害者の言動に関する供述が,Hが決め付けや押し付けにより被告人に強要した結果得られたものとは考え難い。
また,病院の中から捜査車両に移動して被告人から事情を聴き取った上,豊平警察署まで任意同行を求めることになった経緯や,被告人が両手を前に出して動かす動作をしつつ被害者に対して行った行為の内容を供述した状況等のHの証言について,不自然・不合理な点は認められず,おおむね信用することができ,被告人に対して記憶に反する供述を押し付けたなどの事情もうかがわれないから,前記の被告人の供述は信用できる。
ウ 弁護人は,Hの証言は詳細過ぎて不自然であると主張する。しかし,Hは主に盗犯事案を扱う業務に携わっており,本件はそれとは大きく異なる事案であったことなどを挙げ,被告人からの事情聴取が特に印象的であった理由を説明するとともに,公判に臨むに当たって自ら作成した報告書を参照して記憶を喚起したと述べているから,詳細に証言できたことが不自然であるとはいえない。
また,同月13日における警察官I(以下「I」という。)による取調べ状況を録音・録画したDVD添付の捜査報告書(甲16)とHの証言内容とは被告人が供述する際の様子が大きく異なるとも主張するが,同DVDにおいても,被告人は飽くまで本件の暴行の内容やその契機について自発的に供述していると認められるから,指摘は全く当たらない。
(2)ア 次に,被告人は,同月13日の取調べにおいて,被害者が頭の中で出血したため死亡した,その理由は頭をたたいたりしたからであると聞き,思い当たることがあるとすれば,同月9日夕方頃,被害者の左肩を両手でつかんで体を揺らし,その顔や額をベッドの手すりにぶつけた旨供述する(乙8)。
イ 前記捜査報告書によれば,Iが被告人に供述を押し付けるような場面は一切見られないほか,被告人の言動の中に被害者に対して暴行を加えたことを否定するものも全くない。その上,被告人は,通常の介護動作とは明らかに異なる,両手を前に差し出して振る手振りも交えながら供述するなど,自らの記憶をたどりつつ自発的に供述しているといえるから,前記の被告人の供述は信用することができる。
(3)ア そして,同月11日の逮捕直後の弁解録取書(乙7)によれば,被告人は,逮捕状の被疑事実について弁解を聴かれた際,同月9日の出来事として,被害者の介護中,食事やおむつの交換に対して不満を言われたりしたため腹が立ち,同人の顔や頭を手でベッドにたたき付けた旨供述しているところ,その内容についても同月10日及び同月13日の供述内容との間に食い違いはないから,それぞれ異なる警察官に対して一貫して被害者に暴行を加えたと供述するこれらの内容は,相互に信用性を高め合うものであるといえる。
イ 加えて,被告人自身は,取調べの様子について,覚えていない,分からない旨の公判供述を繰り返しており,また,前記捜査報告書によれば,Iに対し,それまでの取調べにおける取調官の態度等に不満を述べておらず,取調べにおいて記憶や意思に反した供述をさせられたり,取調官が暴行を否定する自らの話を全く聴き入れてくれなかったなどとは一切供述していないが,もしも被告人が暴行により妻を死なせた犯人と扱われたことが事実に反するのであれば,そのような被告人の態度は不自然というほかない。
(4) 続いて,弾劾証拠である,同月13日のJ検察官による取調べ状況を録音・録画したDVD添付の捜査報告書(弁護人請求証拠番号22)を検討すると,被告人の供述には,直接的な記憶に基づくものか推論を述べたものか曖昧な点があることは否めないものの,被害者に対して行った暴行内容やその契機といった核心部分については,ほとんど警察官に対して従前供述したのと同様の内容(乙6ないし8)が繰り返されているから,供述に変遷があるとはいえず,これらの内容である自白の信用性に疑問を抱かせることにはならない。
(5) なお,弁護人は,暴行内容自体が不自然であると主張するが,怒った者のとっさの行動として理解できないものではなく,介護を行う動作の流れの中で暴行を加えたと捉えれば不自然さもないから,指摘は当たらない。
また,被告人は漢字を読めず,振り仮名が振られていない供述調書(乙6,7)については被告人はその内容を正確に把握することができなかったから,このような状況で作成された供述調書は信用できないとも主張するが,取調官が被告人に読み聞かせを行った上,内容に相違ないか確認をとったことはHの証言及び供述調書の記載から明らかであるから,指摘は当たらない。
さらに,同月10日及び同月11日の取調べ状況を録音・録画していないことは捜査機関が不都合な事実を隠すためであったなどとも主張するが,そのような事情をうかがわせる証拠はなく,ましてや既に検討した被告人の自白の信用性を損なわせるものではない。
加えて,献身的な介護を行っていた被告人には被害者に暴行を加える動機がないとも主張するが,約6年間にわたる介護状況が被告人にとって大きな精神的負担となっていたことは容易に想像できるほか,介護を行う中で被告人が被害者に対して怒りを覚えたり,暴力を振るうことがあったことは,証人Kの証言及び同人が職務上作成していた稼働報告書(甲9)の記載によって認めることができるから,被告人に本件の犯行動機がなかったとはいえない。
(6) したがって,被告人の捜査段階の自白(乙6ないし8)は十分信用することができる。そして,主張①に関し,被害者の頭部に加えられた外力の回数等について検討したところは,この自白の内容を強く裏付けるものである。
4 そのほかの弁護人の主張を検討しても,認定を左右するものは認められないから,取り調べた証拠に基づき常識に照らして間違いないといえる程度に証明されている限度で,判示罪となるべき事実を認定した。
(法令の適用)
罰条 刑法205条
刑の執行猶予 刑法25条1項
訴訟費用の不負担 刑事訴訟法181条1項ただし書
(量刑の理由)
本件犯行は,抵抗できない人間に軽くはない暴行を加えたものではあるが,被告人は,約6年間にわたりほぼ1人で寝たきりの被害者の介護をするいわゆる老老介護を続けていたものであり,そのような状況下で介護時における被害者の言動にかっとなった突発的な犯行であることや,その介護の実情が献身的かつ充実したものであり,被告人にとって大きな負担となっていたと考えられることからすれば,犯行態様の悪質さを重視すべきではなく,むしろこれまでの経緯を被告人に有利に評価すべきである。このような事情に照らすと,本件は,家族関係上の動機に基づく配偶者に対する傷害致死事案の中で軽い部類に属するものであると評価される。
そして,被害者の家族が被告人の処罰を望んでいないこと,被告人に前科はなく,これまで犯罪とは無縁の人生を歩んできたことなどをも併せみれば,実刑を科するのはふさわしくなく,社会内において立ち直りの機会を与えるべきであると判断し,主文のとおり量刑した。
(検察官 武内弘樹・進藤勇樹,国選弁護人 本多良平〔主任〕・平尾功二 各出席)
(検察官の求刑 懲役4年)