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札幌地方裁判所 平成24年(わ)670号 判決 2014年5月15日

主文

被告人は無罪。

理由

1  本件公訴事実は,「被告人は,ガイドダイバーとして,ダイビング客の引率業務に従事していたものであるが,平成21年4月20日午前10時8分頃,沖縄県島尻郡座間味村aのbから真方位c度dメートル付近海中において,甲(当時48歳)外2名をスクーバダイビングに引率するに当たり,そもそもスクーバダイビングは圧縮空気内の限られた空気をもとに水中高圧下で行う活動であり,些細なトラブルから溺死等の重大な事故につながり兼ねない危険性を内包している上,前記甲は潜水経験が少なく,長期間海中でのダイビングを行っておらず,かつ,潜水技術が未熟であり,被告人の引率により船舶から入水した際も,これに失敗して自ら対処することができず,パニックに陥ったことがあり,水中での不安感等から再びパニック状態に陥ったり,技量不足により,自ら適切な措置を講ずることができないまま溺水するおそれが高かったのであるから,引率者である被告人としては,前記甲に異常な徴候がないかに配慮し,同人に不測の事態が発生した場合には直ちに適切な救助措置ができるよう,絶えず同人の側にいて,その動静を注視しつつ引率して,同人の安全に配慮すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,同人と自らバディを組むことなく,同人から約3.7メートル先を先行し,魚の観察等に傾注して同人の動静注視不十分のまま漫然進行した過失により,同日午前10時14分頃,前記付近海中において,同人が異常を訴えたことに直ちに気付くことができず,同人をして自ら適切な措置を講ずることができないまま,その異常を発見した同人の夫である乙と共に海面に急浮上するのを余儀なくさせ,前記甲らが約6メートル海面方向に浮上した時点に至って初めて発見し,同人の救助措置を採ろうとしたが間に合わず,その頃,パニック状態に陥った同人を溺水させ,よって,同人に入院加療44日間を要し,両上肢及び体幹の機能障害等の後遺障害を伴う低酸素脳症,急性肺水腫等の傷害を負わせた」というものである。

2  本件における争点は,被告人が,甲が口の中に水が入っても誤飲しないで空気を吸うこと(以下「気道コントロール」という。)をできずに溺水するおそれのあることを予見できたかどうか(争点1),被告人が,甲と互いに組になって行動するバディを組んで同人を1メートル以内に置き,5ないし10秒に1回,同人の目の状態及び水中サインに対する反応速度等を確認すべき注意義務があったかどうか(争点2),被告人が上記の注意義務を尽くしていれば,公訴事実記載の傷害(以下「本件傷害」という。)の結果が生じることを回避できたかどうか(争点3)である。

3  当事者間に争いがなく,関係証拠上,容易に認められる事実は以下のとおりである。

(1)  被告人は,スクーバダイビング(以下単に「ダイビング」ということがある。)のガイドダイバーとして,ダイビング客の引率業務に従事していたものであるが,公訴事実記載の日時場所において,ダイビング客である甲,その夫乙及び甲ら夫婦の知人である丙(以下,甲,乙及び丙の3名を「甲ら3名」ということがある。)を引率し,ダイビングを行った。

(2)  甲ら3名は,皆ファンダイビングを行うことのできる資格であるいわゆるCカードを取得していたが,本件当日までのダイビング経験は,使用した空気タンクの本数(以下「経験本数」という。)に換算すると,甲については,約1か月前に本件のダイビングに備えて行ったプールでの練習を含め15本で,海でのダイビングは約6年ぶりであった一方,乙については45本であり,丙については11本で,ダイビングは約1年ぶりであったが,そのうち八,九本は被告人のガイドの下で行ったものであった。被告人は,引率を始める前に,甲ら3名の上記のダイビング経験を確認した。

(3)  被告人は,甲ら3名を引率して,本件当日午前8時30分頃,ダイビング船で出港し,その船上において,甲ら3名に対し,ダイビング中の注意事項等を伝えるブリーフィングを行うとともに,被告人と丙,乙と甲がそれぞれバディを組むよう指示した。本件現場であるeと呼ばれるダイビングポイントに到着した後,午前10時2分頃,被告人,丙,乙,甲の順で,船尾から大きく足を踏み出して入水するジャイアントストライドエントリーという方法でエントリー(入水)した。

(4)  甲は,エントリーの際,頭部に装着していたマスクと口にくわえていたレギュレータが共に外れ,更に海水を飲み込んだことで手足をばたつかせるなどして慌て,パニック状態に陥り,マスクやレギュレータを自分で装着し直すリカバリができなかった。甲は,助けを借りつつ船尾まで海面を移動し,船尾端のはしごにつかまりながら,二,三分の間落ち着くのを待った。

(5)  午前10時5分頃,潜降するに当たり,被告人は,甲と至近距離で向かい合い,同人の身体をホールドし,その表情や呼吸に異状がないことや耳抜きができていることを確認しながら,ゆっくりと深度約7メートルの海底まで潜降した。海底に着くと,被告人は,甲及び既に着底していた乙と丙に対して大丈夫かと確認する水中サインを出し,その表情や気泡も確認した。被告人は,甲ら3名の動静や反応等に異状はないと判断し,午前10時8分頃,海中での進行を開始した。進行中は,被告人が先頭,丙がその後方,乙と甲が更にその後方をほぼ一列に並んで泳ぎ,被告人と甲との距離は,魚の説明等のために集合するときを除き,おおむね三,四メートル程度を保っていた。

(6)  海中での進行を始めてから約6分後の午前10時14分頃,乙は甲の身体に異変が生じたと感じた。その時点で被告人が甲の異変に気付くことはなかった。乙は甲と2人だけで浮上しようと決断し,向かい合いながら海面まで浮上していった。被告人は,乙と甲が浮上しているのに気付き,2人に向けて両手を前に差し出して止まるよう合図を出した。乙は,これに気付いたが,甲と共に浮上を続けた。被告人が乙と甲の浮上に気付いた時点で,被告人は水深約9.4メートルの海底に,乙と甲は水深約3.4メートル,被告人から約8.5メートル離れた所にいた。被告人は急浮上して2人に追い付こうとしたが,海中では追い付けず,乙と甲が海面に達した二,三秒後に追い付いた。

(7)  午前10時15分頃,被告人が海面に上がった時点で,甲は,口が半開きでレギュレータをくわえておらず,口から泡を吐き,呼吸せず,意識もない状態であり,被告人が声を掛けたり人工呼吸を試みたりしても返答はなかった。甲は,直ちにダイビング船に引き上げられ,再び人工呼吸を受けている最中,泡を吐いて自発呼吸を取り戻したが,意識は戻らなかった。

(8)  その後,甲は,病院に搬送され,入院治療を受け,意識は戻ったものの,本件傷害を負った。本件傷害は,海水を誤飲して溺水したことにより肺水腫が生じ,また,脳に酸素が供給されなくなって低酸素脳症を生じたことが原因である。

4  争点の検討に入る前に,以下の各事実関係については当事者間に争いがあるので,証拠によって認められる事実の範囲を検討する。

(1)  甲がエントリーに失敗した際の状況について

ア  甲がエントリーに失敗したとき,乙は,自分が被告人よりも早く失敗に気付いたと思う,自分のエントリーの時点でも甲の失敗に気付いた時点でも,周りを見て被告人を確認できなかったので,被告人は先に海中に入っていたと思う,それで自分が甲に近寄り,マスクを付け直すなどして船のはしごまで連れていった,自分がフィンを脱いで船上に上がろうとしていたら被告人が近寄ってきたので,船上に上がることを伝えた,被告人ははしごにつかまって休んでいる甲に「大丈夫」と声を掛けたが,それに対する甲の声は聞いていない,そうするうちに被告人と甲が急に潜降し始めたので,驚いて慌ててフィンを履いて追い掛けた旨証言する。

また,丙は,甲がエントリーに失敗した具体的な状況は見ていないが,ちょっとパニックになっていたのは見ている,乙と被告人のどちらかが甲を支えていた,被告人がエントリーの場所から関係のない所にいたということはない,被告人は甲を船のはしごにつかまらせて,「大丈夫か」というふうに聞き,甲は「大丈夫」と言っていた,このときに乙がどこにいたかは曖昧である旨証言する。

イ  被告人は,捜査段階又は当公判廷において,最初に自分が手本を見せるためにエントリーし,甲ら3名が続いてエントリーする船尾方向を見ていた,エントリーした甲は,海面に顔を出してバシャバシャともがきだし,マスクやレギュレータが外れ,パニックになっていた,この時,乙はまだ海中にいた,被告人は甲のそばに泳ぎ着き,タンクのバルブ付近をつかんで落ち着かせ,マスクを着け直すのを手伝った,その時,乙もマスクを着け直したり,レギュレータをくわえさせたりするのを一緒に手伝ってくれた,その後船のはしごに甲をつかまらせた,乙から甲を一度船に上げようかとの問い掛けがあったが,甲から船に上がりたいという発言はなかった,二,三分すると,甲の表情が落ち着き,呼吸も整った,ダイビングを続行しても大丈夫だと思い,甲に対して「大丈夫ですか,平気ですか」と何度も聞いたが,「大丈夫です」という答えだったので甲を連れて潜降することにした旨供述する。

ウ  被告人が最初にエントリーしたことは,前記3(3)のとおりであるが,これはガイドダイバーの通常の業務として,引率しているダイビング客に手本を示すとともに,ダイビング客のエントリーが問題なく行われるかどうかを確認するためであったと考えるのが自然であり,被告人がそれを見届けることなく潜降し始めたとは考えにくい。また,エントリーの際の甲の様子についての被告人の描写は具体的であって,実際に目撃していたのでなければ語り得ない迫真性がある。そして,潜降するに先立ち,甲が被告人に対して「大丈夫」と答えたとする被告人の供述は,これを聞いたとする丙の証言と合致しており,乙は聞いていないとするものの,乙が聞こえなかった可能性もある。そうすると,乙の証言を考慮しても,甲がエントリーに失敗した際の状況についての被告人の供述が信用できないとはいえない。

エ  したがって,潜降直前の甲の表情が落ち着いておらず,呼吸も整っていなかったとの事実や,甲が被告人に対してダイビングを続けたい旨の意思を自発的に示さなかったとの事実,これらの甲の状態や意思を確認せずに被告人がダイビングの続行を決めたとの事実を認めることはできない。

(2)  海中を進行中に被告人が甲の動静を確認した頻度について

ア  潜降した後,被告人と甲ら3名が着底し,海中での進行を始めてから,被告人が甲ら3名を振り返った頻度について,乙は,被告人が振り返ったのは1回だと思う,ただ振り返っているのに気付かなかった可能性はある,しかし,基本的に被告人を見て進んでいる以上,5秒や10秒に1回という頻度で振り返ったことはなかった旨証言する。また,丙は,被告人が魚を紹介したのは一,二回くらい,甲ら3名の方を振り返ったのは四,五回くらいだったと思う,被告人が5秒や10秒に1回といった程度で頻繁に振り返っていた印象はない旨証言する。

イ  他方,被告人は,当公判廷において,甲ら3名に異状がないと判断し,海中で進行を開始した当初は大体5秒に1回程度,甲の様子が落ち着いてきた後は10秒に1回程度,甲の様子を確認した,確認方法は,上体を反らして大きく振り向くか,方向転換をするときに横目で見るというものである,甲の吐き出す気泡の量や間隔,泳ぎ方に異状はなかった旨供述する。

ウ  ガイドダイバーはその通常の業務として,引率しているダイビング客の動静に注意するものであるし,頻繁にないし何度も振り返っていた,最初は5秒に1回くらいの間隔で後ろを振り返っていたとする被告人の供述は,捜査段階から一貫している。また,主として景色や魚を観察しているダイビング客がガイドダイバーから目視により確認を受けたことを逐一認識できるものとはいえないし,前記のとおり横目で見るような確認方法もあったのであるから,乙や丙が被告人による確認の大半に気付かなかったことも十分あり得る。そうすると,甲ら3名の動静を確認していた頻度についての被告人の供述は信用できないものではない。

エ  したがって,被告人が甲の吐き出す気泡の量や間隔,泳ぎ方を見て甲の動静に異常がないかどうかを確認していた頻度が,海中での進行を開始してからは大体5秒に1回程度,落ち着いてきた後は10秒に1回程度という被告人が供述するものよりも少なかったとは認められない。

(3)  乙が甲に異変が生じたと感じた時点における甲の動静について

ア  乙は,左手で甲の右手を引きながら海中を進行していたが,甲が手を引っ張ったので振り返った,四,五十センチメートルくらいの距離で真正面から甲を見ると,その目がふだんの半分くらいに細まった状態で,とろんとしていると感じた,甲の口元から気泡が出ていたので呼吸はしていたと思う,そのほかに手足をばたつかせるなど苦しそうだったりもがいたりする行動は一切なかった,右手を広げてその甲を上に向け,小指と親指を交互に上下させる水中サインでトラブルはないか尋ねると,甲はうなずいた,甲の異変を被告人に知らせようとタンクをたたくための石を探したが見付からなかった,そこで2人だけで浮上することを決断し,右手の拳を差し出して親指だけを上に立てる水中サインで浮上するよう伝えると,甲はうなずいたと思う,石を探し始めてから浮上を決断するまでの時間は5秒,10秒といった短い時間ではなく1分くらいだったと思う旨証言する。

イ  この甲の動静を目撃したのは乙のみであるところ,乙の証言のうち,甲が乙の手を引っ張り,その目を見てとろんとしていると感じたという点は,捜査段階から当公判廷までを通じて供述が一貫していること,2人だけで浮上している以上,何らかのきっかけがあったはずであることからすると,信用することができる。

これに対し,乙の証言のうち,被告人に対して自分のタンクをたたいて甲の異変を知らせるため,その場で石を1分くらい探したという点については,前記3(6)のとおり,被告人が乙と甲の浮上に気付いた時点で,被告人と乙及び甲との距離は約8.5メートルであったところ,上記証言を前提とすれば,その距離にとどまることはあり得ないから,信用できない。

ウ  上記アに示した乙の証言によれば,甲が乙の手を引っ張ったことと,乙はその際の甲の表情からその身体に異変が生じたと感じたことが認められる。そして,本件傷害の原因が海水を誤飲しての溺水であることも踏まえると,この時点で甲には何らかの異変が生じていたと考えられる。弁護人は,甲が異変を訴えるために乙の手を引っ張ったわけではない可能性があるとも主張するが,採用できない。

もっとも,医師であり自らも約600本の経験本数を有する丁の証言によれば,ダイビング中のダイバーの目の状態は,マスクで締め付けることや水圧の影響を受けることなどにより,マスクを着けていない地上での状態より細くなることが多いと認められる。また,本件当日,甲に手を引っ張られる前の時点で,海中で甲の目の状態を確認したことはないとする乙自身の証言や,経験の少ないダイバーが海中でマスク越しに観察して見開いているとか視点が合わないとかいった目に異状が現れている状態に気付くのは困難であるとする丁の証言なども踏まえると,実際に甲の目に意識低下をうかがわせる,とろんとしていたりうつろであったりというような徴候が現れていたと認定するには疑問が残る。

(4)  浮上中の乙と甲の動静について

ア  乙は,甲と共に浮上する際,甲のBCジャケットにも自分のBCジャケットにも空気を少しだけ入れた,向かい合う体勢で浮上したが,吐く泡より先に上へ行かないよう浮上速度に気を付けた,浮上している間,甲はレギュレータをずっと口にくわえたままであったし,気泡も出ていた旨証言する。また,丙は,甲と乙の浮上について,特に変わった様子は感じず,普通に浮上していくようだった,速度もそんなに速くは感じなかった旨証言する。

イ  被告人は,捜査段階において,乙と甲の浮上の様子は尋常でなかったと供述し,当公判廷においてその意味はスピードが速かったということであると説明し,実際,乙と甲は急浮上した旨供述する。

ウ  被告人が乙と甲の浮上に気付いた時点における被告人と甲ら3名との位置関係は,前記3(6)のとおりであるが,乙と甲が気泡を追い越さない程度の毎分18メートルに満たない速度で浮上していれば,被告人は,三,四秒のうちには浮上中の2人に追い付けたはずであること,10秒に1回程度は甲の様子を見ていた被告人が目を離していた隙に,乙と甲は海底から約五,六メートル浮上していたことからすれば,泡を追い越さない速度で注意しながら浮上したとする乙の証言は直ちに信用することができず,乙と甲が急浮上したとする被告人の供述が信用できないとはいえない。

そうすると,乙と甲が浮上する際の速度が,乙の証言するような気泡を追い越さない程度のゆっくりとした速度であったと認めることはできない。

エ  また,甲の口元を見て,レギュレータをくわえて気泡も出ていることを確認していたという乙の証言部分についても,十分なダイビング経験を備えているわけではなく,甲の異変に気付いて海面まで急浮上しようとしていた乙が,冷静かつ的確に甲を観察できていたか疑問である。そして,ダイバーがくわえたレギュレータから気泡は出ていても自発呼吸はしていないという状態も十分あり得るという丁の証言に照らしても,甲が浮上中に自発呼吸していたとは断定できない。

したがって,甲が,浮上中,レギュレータをしっかりくわえていなかったり,くわえていたとしても口元の隙間から海水を飲んでいたり,呼吸ができていなかったりした可能性は否定できず,甲が,浮上中,海水を飲んでいない,又はくわえたレギュレータによって呼吸ができていたと認めることもできない。

(5)  本件傷害の発生機序について

ア  甲は,乙の手を引っ張って異変を知らせた時点においては意識を失っていなかったことが明らかであるが,海面に浮上した時点においては前記3(7)のとおり既に意識を失っていたから,乙の手を引っ張った直後から海面に浮上するまでの間に意識を失ったものと認められる。

イ  次に,意識を失うまでの間に甲の身体に生じた異変について検討すると,この間の経過には明らかでないところが多いものの,ダイバーが海水を大量に誤飲した場合,丁や,最上級のインストラクター資格を有し,大学で水中安全管理学の研究をしてきた戊が証言するとおり,瞬時に慌ててとにかく海面まで浮上しようともがき,手足をばたつかせるなどの大きな動きが現れるはずであるが,そのような状況は乙の証言をはじめとする関係証拠からは一切うかがわれないから,甲が乙の手を引っ張った時点で,一気に海水を大量に誤飲していた可能性は否定される。

また,丁は,甲の口元に見られた泡沫状の泡から,溺水から心肺停止に至るまでにある程度の時間が経過していたと推測できる旨証言するが,その具体的な時間は明らかでない上,唾液によるものと気管内でかくはんされて発生した泡沫状の泡との区別を医療従事者でない者からの伝聞で判断することは困難である旨の医師己の意見にも照らせば,甲が海水を誤飲してから意識を失うまでの時間については不明というほかない。

ウ  そうすると,乙との浮上を開始する前,甲がどの程度溺水していたかは不明であり,①検察官が主張するとおり,甲が乙の手を引っ張った時点で,少量の海水を誤飲していたためにその意識が徐々に低下しており,心肺停止もひっ迫した状態になっていた可能性がある一方で,②甲の意識が徐々に低下していたということはなくとも,少量の海水を誤飲したことで若干の不調を来し,それを乙に伝えようとした可能性や,③ダイビング中に心理的なストレスを感じ続けたことなどが原因となり,気分が悪くなったり身体に何らかの不調を来したりして,乙にダイビングを中断したいという意思を伝えようとした可能性なども考えられ,いずれかに特定することはできない。

(6)  以上のとおり認定した事実関係に基づいて,各争点について検討する。

5  争点1について

(1)  検察官は,(ア)スクーバダイビングが,圧縮空気内の限られた空気を元に水中高圧下で行う活動であり,ささいなトラブルから溺水等の重大な事故につながりかねない危険性を内包したレジャーであること,(イ)甲のダイビング経験が前記3(2)のとおり乏しく,被告人もそれを認識していたこと,(ウ)甲が,被告人の目の前で,前記3(4)のとおりジャイアントストライドエントリーに失敗してパニック状態に陥ったことからすれば,インストラクターの資格を有する者であれば,甲にダイビングを継続させた場合,同人が気道コントロールをできずに溺水するおそれがあると当然に判断できるから,被告人においてもそのような事態を予見することができたと主張する。また,遅くとも甲の目がうつろになったり,水中サインに対する反応が鈍くなったりする徴候が出現した時点では,上記のおそれのあることを予見することができたとも主張する。

(2)  そこで,予見可能性判断の基礎事情として検察官が主張するもののうち,甲がエントリーに失敗してパニック状態に陥ったことと,甲のダイビングスキルとの関係について検討する。

まず,一般的なダイビングスキルとの関係について,経験本数9000本以上のガイドダイバーである庚は,エントリーの失敗はベテランのダイバーでも気の緩みで起こすことはあるから,主として注意力の欠如が原因であり,ダイビングスキルの低さをうかがわせることにはならないと証言する。しかし,エントリーに失敗したにとどまらず,外れたマスクやレギュレータを1人ではリカバリできなかったことは,甲のダイビング経験の乏しさも踏まえると,本件当日の時点で甲の一般的なダイビングスキルが劣っていたことを示しているといわざるを得ない。

次に,気道コントロールのスキルとの関係について,約450名のインストラクターを養成し,自らもダイビング客を引率する辛は,エントリーに失敗した甲は,ダイビングにおける基本的なスキルである気道コントロールもできないかもしれないと考えるべきであったから,甲が溺水するおそれを懸念すべきであった旨証言するのに対し,庚は,海中でのスキルとエントリー時のスキルとは関係がないから,エントリーをやり直した後の潜降に問題がなく,異状もないと確認できれば,海中を進行してダイビングを続けるスキルは備えているといえ,進行を始めても問題はない旨証言し,戊も,エントリーにおいては技術面よりも注意深さが足りなくて失敗することがある旨証言し,丁も,エントリーの失敗が多少のストレスになった可能性はあるが,溺水することには直結しないと考えられる旨証言する。

検察官は,庚は辛に比して経験が浅いし,被告人と親しい関係にあると指摘して,その証言の信用性を論難するが,それらの点を踏まえて慎重に検討しても,直ちに前記証言の信用性が否定されるものではない。また,庚はスキルが心配であればそのダイバーの近くにいることもあるとは認めているとも指摘するが,証言を通してみれば潜降に問題がなかった甲には当てはまらないと解されるので,この指摘も当たらない。また,戊の証言について,検察官は,甲が海水を誤飲したことなどを前提にしていないから信用できないと論難するが,戊は,エントリーに失敗したダイバーに対しては,本人の意思を確認するとともに,少し休ませて落ち着いたと判断すれば,潜降する旨説明していることからすれば,検察官が指摘する点は決定的なものとはいえないし,そのほかの指摘は辛の証言に反しているというにすぎない。したがって,前記の庚や戊,丁の各証言が信用できないことにはならない。しかも,エントリーに失敗してレギュレータ等が外れた場面と,海中を進行している場面とは状況を大きく異にする。

そうすると,甲のエントリー失敗時の動静からすれば,気道コントロールのスキルが不足しており,ダイビングを継続すると溺水するおそれがあると考えるべきであり,これはインストラクターの資格を有する者であれば当然に判断できることであるという主張は,十分な根拠が示されているとはいい難い。それゆえ,甲がエントリーに失敗してパニック状態に陥り,リカバリできなかったことは,予見可能性を判断するに際し,それほど重要な事情になるとはいえない。

(3)  以上の検討に加え,甲がエントリーに失敗した後,被告人に身体をホールドされながらではあるが,特に問題なく海底まで潜降したことも併せ考慮すると,検察官が主張する前記(ア)ないし(ウ)の事情によっては,被告人において,甲にダイビングを継続させた場合,同人が気道コントロールをできずに溺水するおそれのあることを予見することができたと認めることはできないというべきである。

また,前記4(3)ウのとおり,海中を進行中の甲の身体に異変を示す何らの徴候も現れていなかった可能性は否定できないから,甲の目がうつろになったり,水中サインに対する反応が鈍くなったりする徴候が出現していたことを基礎事情として,上記のおそれのあることを予見することができたと認めることもできない。

6  争点2について

(1)  バディの組み方について

甲ら3名のそれぞれのダイビング経験や,甲がエントリーに失敗したのに対し,乙及び丙が失敗しなかったことを考慮すれば,甲ら3名の中で,ガイドダイバーが最も動静に注意を払うべきは甲であったということができる。そして,辛は,被告人はそのような甲とバディを組むべきであったと証言する。

しかし,庚や辛が証言するように,夫婦でバディを組ませることは通常行われている方法であるし,また,夫婦であれば互いの異変に気付きやすく、危険回避につながるという合理性もある。そして,甲のエントリー時の失敗は,溺水のおそれを予見する上でそれほど重要な事情とみることはできないのであるから,上記失敗がバディの組合せを替えるべき決定的な事情になるものではない。さらに,本件において被告人が甲との潜降の際には付きっきりで注意を払っているように,バディの組合せ自体よりも,ガイドダイバーとしてダイビング客の動静に対してどのように注意を払うべきであるかということがより重要というべきであるから,ガイドダイバーに求められる注意義務として自ら甲とバディを組むことが必要であるとはいえない。

(2)  甲との間の距離,同人の状態等を確認する頻度について

ア  検察官は,辛の証言に基づき,甲のダイビングスキルは体験ダイバー程度にとどまるものであったと主張する。確かに甲は一般的なダイビングスキルが劣っていたことは認められるが,前記5(2)で検討したところに加え,Cカードを保有するファンダイバーは基本的には自ら危機を回避することができるスキルを備えているものとみなせなければ資格制度の意味はなくなるから,体験ダイバーとCカードを保有するファンダイバーとを同列に論じることはできない。もちろん,甲のようなブランクダイバーに関しては,ブランクによるスキルの低下は生じ得るが,それでも本件ダイビングに先立ち,事前にプールで練習していることや,潜降は特段の問題なくできていることなどに鑑みれば,甲は体験ダイバーよりは高いスキルを有していたといえるのであって,ガイドダイバーとして,甲を体験ダイバーと同様に扱うべきであったとする前提に立つことは相当でない。

イ  また,ガイドダイバーを職業としている壬は,エントリーに失敗してパニックを起こした甲は技術がビギナーであり,海中では危険なことにつながりかねないダイバーだと判断できるから,約3.7メートルの距離ではなく,よりそばの物理的に手が届く距離程度に甲を置き続ける必要があった旨証言する。

しかしながら,前記4(1)エのとおり,被告人が,甲のエントリー失敗直後のパニック状態は解消されたものと判断し,ダイビングを続けたい旨の甲の意思を確認した上でダイビングの続行を決めたことは否定できない。そして,その後の潜降において被告人は,前記3(5)のとおり,甲の動静を間近で監視しつつその異状の有無に十分な注意を払い,着底した時点でも甲の異状の有無を確認したことも認められる。そして,庚は,初心者にとって海中での進行より潜降の方が難しい旨証言し,戊も,初心者にとって一番心理的なプレッシャーが掛かるのは潜降のときであり,着底して呼吸や心理的な安定を確認できれば,10メートル程度の水深では安定的に行動できると考えられる旨証言しているところ,これらの考え方に不合理な点はうかがわれない。

そうすると,海中での進行を開始するに当たって甲に特段の異状はないと確認し,溺水等のおそれは大分解消されたとみて,そのまま甲ら3名の引率を続け,海中を進行して構わないと被告人が判断したことも,ガイドダイバーとして十分に合理性がある判断であるといえる。

ウ  そして,庚や戊の証言によれば,ダイビング中にダイバー間の距離が近過ぎる場合には,他のダイバーのフィンと接触してマスクやレギュレータが外れてしまったり,姿勢が立つようになってしまうことによりフィンで海底の砂を巻き上げて視界が悪くなったりするといった不都合が生じることもあるから,ガイドダイバーがダイビング客とどの程度の距離をとるかの判断において,これらのマイナス面を考慮することにも一定の合理性がある。

加えて,戊は,ダイビング中ずっとダイビング客との距離を1メートル程度に保つことは現実的に考えられず,近づいたり離れたりを繰り返して距離が変動することはダイビングの過程で当然起こることである旨証言しているところ,その説明もまた合理的である。また,甲のほかに初心者レベルにとどまる乙や丙も引率して海中を進行している被告人が,約1メートル以内というほとんど付きっきりの距離で甲を観察し続けることについて,検察官は,乙や丙に生じる危険は甲よりはるかに小さかったから,自らの側方の近い位置に乙と丙を配置すれば両名の監督も可能であったとも主張するが,抽象的には想定できるとしても,ダイビング客3名を引率するガイドダイバーの採るガイドの手法として現実的であるとはいい難い。

なお,辛は,インストラクターレベルのガイドダイバーであれば,1メートル以内の距離からならマスク越しでもダイバーの目の状態や表情等を確認することは可能である旨証言し,戊も,目が恐怖感に満ちているか安定しているかどうかを見極めるのは1メートルくらいの距離で可能である旨証言するが,他方,丁が,かなり経験を積んだダイバーでなければ目つきが異常かどうか判定するのは難しい旨証言し,庚も,目の状態からダイバーの状態を推測することは難しい旨証言していることからすれば,他の動静と併せてであれば別論,マスク越しに目の状態を確認しさえすれば異状の有無を判断できるレベルまでを通常のガイドダイバーに求めることはできない。

エ  続いて,本件で被告人が甲との間で保っていた三,四メートル程度の距離についてみると,壬は,何か起きたときにすぐに対処ができない距離であるからすぐそばにいるとはいえない旨証言するものの,庚や被告人は,当公判廷において,この程度の距離は一,二秒で駆け寄れる距離であり,方向転換を含めても四,五秒程度で駆け付けて対処できると供述しており,これらの供述も不合理とはいえないから,その動静に特に注意を払うべきダイバーとの間の距離として十分に近いものということができるし,その距離が約1メートル以内である場合と三,四メートル程度である場合とで,通常のガイドダイバーがダイビング客に異状が生じたと察知してから対処するまでの時間に有意な差が現れることまで立証されているともいい難い。

(3)  したがって,被告人において,海中を進行中,三,四メートル程度の距離を保ちつつ,甲の排気の泡の状態や泳ぎ方,うかがうことのできる表情等を基に異状がないかどうか確認,判断することを超えて,甲とバディを組んで同人を1メートル以内に置き,同人の目の状態及び水中サインに対する反応速度等を確認すべき注意義務があったということはできない。

なお,被告人が,甲の動静について,海中で進行を開始した当初は大体5秒に1回程度,甲の様子が落ち着いてきた後は10秒に1回程度,確認していたことが否定できないことは,前記4(2)のとおりである。

7  争点3について

(1)  乙との浮上を開始する前,甲がどの程度溺水していたかについては,前記4(5)のとおり,①甲が乙の手を引っ張った時点で,少量の海水を誤飲していたためにその意識が徐々に低下しており,心肺停止もひっ迫した状態になっていた可能性のほか,②甲の意識が徐々に低下していたということはなくとも,少量の海水を誤飲したことで若干の不調を来し,それを乙に伝えようとした可能性,③ダイビング中に心理的なストレスを感じ続けたことなどが原因となり,気分が悪くなったり身体に何らかの不調を来したりして,乙にダイビングを中断したい旨の意思を伝えようとした可能性なども否定できないところである。

(2)  このうち②及び③の場合,海中を進行中の甲の身体に異変を示す何らの徴候も現れていなかったという可能性は十分にあるから,被告人が甲とバディを組んで同人を1メートル以内に置いて,同人の目の状態及び水中サインに対する反応速度等を確認していれば,即座に浮上すべき異変が甲に生じたものと判断できていたはずであるということはできない。

また,①の場合を想定しても,その目の状態の確認を通じて,その異状に気付くかどうかは個々のガイドダイバーの能力に負うところが大きいから,検察官が主張するように通常のガイドダイバーであれば察知できていたはずであるとまではいえないことは前記6(2)ウのとおりであるし,表情や水中サインに対する反応についても同様とみる余地がある。

(3)  そして,浮上中の甲に対する対処方法についても,意識を徐々に失っている状態のダイバーは,いち早く海面まで浮上させることが最優先であると認められるところ,壬は,意識が混とんとしているダイバーに対しては,レギュレータを無理やり押し込んだり,本来はレギュレータ内の排水に用いるパージボタンを利用したりするなどして呼吸を確保し,海水の誤飲を防ぐことができていたはずである旨証言するが,丁や庚が証言するとおり,その試みが功を奏しない可能性も相当程度あり,そのような対処を行ったからといって甲がしっかり呼吸を確保できていたはずであるとまではいえず,結局は乙が行ったのと同様に海面まで浮上すること以外の対処方法はなかった可能性もそれなりにあるといえる。

(4)  よって,被告人が甲とバディを組んで同人を1メートル以内に置いて,同人の目の状態及び水中サインに対する反応速度等を確認していたとしても,甲の異状に気付けていたはずであるとは認められないし,何らかの異状が生じた時点において,即座に被告人が対処していたとしても,甲が溺水に至っていた可能性も残るから,仮に被告人が検察官主張の注意義務を果たしていたとしても,甲に生じた本件傷害の結果が回避できていた可能性は必ずしも高くはなく,ましてや高度の蓋然性があるとはいえない。

8  結論

以上の次第で,検察官の立証は,予見可能性,注意義務,結果回避可能性ないし因果関係のいずれの面においても,不十分であるというほかない。したがって,被告人には本件傷害について過失があったとは認められず,本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから,刑訴法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(求刑 罰金30万円)

(裁判長裁判官 田尻克巳 裁判官 今井理 裁判官 山下智史)

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