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札幌地方裁判所 平成5年(わ)390号 判決 1994年2月07日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中二〇〇日を刑に算入する。

この裁判確定の日から五年間刑の執行を猶予する。

被告人を猶予の期間中保護観察に付する。

理由

(認定事実)

被告人は、自己の飲酒等が原因で昭和五九年ころから妻子と別居し、平成二年八月ころからは心因反応、アルコール依存症のため神経科の病院に通院し、そのころから仕事もせず、生活保護を受給して生活していた。

ところで、被告人は、なかなか寝つかれないまま平成五年五月四日の朝を迎え、同日午前九時ころ、札幌市中央区内のパチンコ店「マルイシ」に赴いて遊技を始め、また、同日午前一〇時ころから同店の外で日本酒のワンカップを飲んでは遊技を続け、ワンカップを八本位飲んだ同日午後一〇時三〇分ころ、隣の台で遊技していた客に球をあげたことが原因で、同店店員に以後の来店を断られ、内心同店員の態度に腹立ちを覚えたものの、恐くて強く文句を言うこともできず、ほどなく同店を出た。それから、被告人は、居酒屋でビールを中ジョッキで二杯飲んだ後、翌五日午前二時ころ、以前に行ったことのある居酒屋「洋子」を訪れ、ウイスキーの水割り一杯を飲みながら先刻の「マルイシ」の店員の態度等について愚痴をこぼしていたが、同店での前回の会計に対する不満まで言い出したため、同店経営者に愛想を尽かされ、キープしていたウイスキーのボトルを渡されたうえ、以後の来店を断られて同店を追い出された。その後、被告人は、同日午前四時三〇分ころ、スナック「幸子」を訪れ、ウイスキーの水割り一杯を飲みながら、同店経営者に「マルイシ」の店員の態度等について愚痴を聞いてもらったが、同日午前五時前ころ、「幸子」の経営者と一緒に同店を出て、同日午前五時ころ、同区南五条東四丁目九番地先所在の札幌方面中央警察署豊平橋警察官派出所(コンクリートブロック造亜鉛メッキ鋼板葺平家建事務所。所有者北海道、床面積四〇・一八平方メートル)前で同人と別れた。

被告人は、一人になって寂しく感じていたところ、同派出所が目に入り、今度は、同派出所の警察官に、昨夜来の出来事、更には自分の家族や今後の人生等について話を聞いてもらおうと考え、同派出所内に入ったが、警察官は不在であり、しばらく待っても警察官が来ないため、次第に、「マルイシ」の店員や「洋子」の経営者の態度についてだけでなく、自分自身の人生、更には警察官に対しても腹立ちを覚え、遂にそれらの気持ちを晴らすため同派出所に火を放とうと思い立ち、同日午前六時ころ、同派出所事務所内において、同派出所が現に人の住居に使用せずかつ人の現在しない建物であるとの認識をもって、同室内にあった新聞紙に所携のライターで点火し、これを同室内に設置されていたポット式石油ストーブのゴム製送油管上に置き、同管を燃え上がらせて同派出所に火を放ち、その結果、同管内から流出した灯油、同事務室内壁などに燃え移らせ、床面積約二〇・五平方メートルの同事務室内部を全焼させ、もって警察官が現に住居に使用する同派出所を焼燬した。

なお、被告人は、本件犯行当時心神耗弱の状態にあった。

(証拠)<省略>

(証拠説明)

一  被告人は、公判廷において、本件犯行当時豊平橋警察官派出所が寒かったことから、暖を取るために派出所内にあった新聞紙に火を点けて燃やしただけであり、派出所を燃やそうというつもりはなく、また、派出所に火が燃え移るとも考えていなかった旨供述し、弁護人も、被告人には派出所に放火するという故意がなかったのであるから、被告人は無罪である旨主張しているので、以下若干の説明を加える。

二  前掲各証拠によれば、以下の事実を認めることができる。

(1) 本件火災現場である札幌方面中央警察署豊平橋警察官派出所の事務室は、床面積が二〇・五一二平方メートルである。同事務室の床面はコンクリートであるが、壁面は化粧ベニヤ板張りであり、内部には、西側角に木製戸棚一棹、その東側にスチール製机が二卓あり、南側角にスチール製机が二卓、その北東側にスチール製ロッカーが二本、更にその北東側にポット式石油ストーブが一台ある。また、事務室の東側角及び北側角にはそれぞれ二人掛のソファーが各一脚置かれている。

(2) 事務室内の石油ストーブに灯油を供給する送油管は、派出所玄関前にある灯油タンクから銅管によって事務室内に入り、北側角に設置されたソファーの裏側を通って中間コックに至り、その先は灯油用ゴムホースとなって石油ストーブ方向に延び、中間コックから三・七七メートルの地点で切断されている。

(3) 事務室内にあった石油ストーブは、油量調節器のリセットレバーが下がった状態で、コントロールバルブのつまみは消火の位置にあり、点火タイマーのつまみも「切」の位置にあったことから、使用された状態になかった。

なお、被告人は、事務室内にあった石油ストーブと同種のストーブを以前使用したこともあり、ストーブの油量調節器の分解清掃をした経験がある。

(4) 被告人は、平成五年五月五日午前五時ころ本件派出所に赴いてから、同日午前六時ころまでの間、何度となく派出所事務室内に出入りしており、被告人自身も、事務室内正面右側に机二卓が、同左側にはロッカー二本が設置されており、東西の壁にそってソファー各一脚があったこと、事務室内のほぼ中央部に石油ストーブが置かれ、ストーブに灯油を送るゴムホースがストーブから机の下を通って西側の壁の方に延びていることを認識しており、更に、事務室内の床面はコンクリートであるが、壁や天井は木製と思っていた。

(5) 被告人は、派出所玄関前に設置された灯油タンクに赴き、被告人自身が送油管の元栓であろうと思った部分を左側に回してみて、同部分が回転しなかったことから元栓は全開になっているものと考え、同日午前六時ころ、派出所事務室内にあった新聞紙に持っていたライターで点火し、これを石油ストーブのゴムホース製送油管の上に置いた。そして、被告人は、新聞紙が燃えている状態であるにもかかわらず、何らの消火措置を取らずに派出所を出た。

(6) その後、被告人は、火災の発生を通報するため付近の公衆電話ボックスから一一〇番通報し、派出所の状況を確認するために派出所付近に戻っている。

三  以上の事実を前提とすると、被告人は、事務室内の壁や天井は木製であると認識し、また、ソファー等も設置されていることを認識しながら、わざわざ灯油タンクの送油管の元栓が全開になっているかどうかを確認し、そのうえで新聞紙に火を点け、これを事務室中央付近にある石油ストーブのゴム製送油管上に置いているのであるから、被告人としては、送油管内に灯油が流れてくる状態であること、新聞紙が燃えることにより送油管が焼き切れ、流出した灯油に火が燃え移り、灯油が流れ広がることによって派出所の建物に火が燃え移ることを十分に認識しながら、敢えて新聞紙に火を点けてこれを送油管の上に置いたと推認することができる。そして、被告人がその後直ちに一一〇番通報をしていることや、派出所の状況を確認に戻っていることなど、火の点いた新聞紙を送油管上に置いた後の被告人の行動をも合わせ考慮すると、被告人は、当初から派出所の建物に放火する意図であったことを十分に推認することができる。

被告人は、捜査段階においては、派出所の建物に放火する意図であったことを認めながら、公判廷においては、単に暖を取るためだけに新聞紙に火を点け、床がコンクリートだったためすぐ火が消えないように送油管の上に新聞紙を置いたにすぎないなどと供述するが、仮に暖を取るのであれば、石油ストーブを点けるのが最も簡便かつ安全であり、しかも、被告人は同種の石油ストーブを使用したことがあるのであるから、この方法を取ることが容易であるにもかかわらず、実際に石油ストーブを使用しようとはしていないこと、派出所を出る際にも新聞紙の火を消していないこと、派出所を出て直ちに一一〇番通報をしていることなどからして、被告人の公判廷での供述は到底信用することはできず、捜査段階の供述こそ信用できるというべきである。

以上のとおり、被告人には本件派出所の建物に放火する故意があったものと認めることができる。

四  ところで、検察官は、起訴状記載の公訴事実において、「被告人は、平成五年五月五日午前五時ころ、警察官に自己の境遇等について話を聞いてもらい日頃のうっ屈した気分を晴らそうと考え、札幌市中央区南五条東四丁目九番地先所在の札幌方面中央警察署豊平橋警察官派出所に赴いたところ、警察官が不在でしばらく待っても来ないことに立腹し、日頃のうっ屈した気分や警察官が不在であることに対する腹立ちをうっ散するため右派出所に放火することを企て、同日午前六時ころ、右派出所事務室内において、同所にあった新聞紙に所携のライターで火をつけ、これを同所にあった灯油ストーブのゴム製送油管上に置いて同管に火を放ち、同管内の灯油、右事務室板壁等に順次燃え移らせ、よって、札幌方面中央警察署長角地覺が管理し現に警察官が勤務に使用している右派出所の事務室内部(床面積約二〇・五平方メートル)を焼燬したものである。」との訴因を掲げ、冒頭陳述においても、本件は現住建造物等放火罪である旨主張しているので、更に、被告人に、本件派出所が現住建造物であるとの認識があったか否かを検討する。

1  前掲各証拠によれば、以下の事実を認めることができる。

(1) 本件派出所には、五名の警察官が配置され、一名又は二名の勤務員が二四時間勤務しており、同勤務員の休憩、仮眠の施設として二段ベッドを備えた休憩室のほか、流し場があり、流し場にはガスコンロ、冷蔵庫の設備がある。休憩室等は事務室の南西側にあり、事務室とは木製ドアで仕切られているが、本件当時、木製ドアは施錠され、開放できない状態であった。

(2) 本件派出所の勤務員は、同派出所を拠点として、警ら、巡回連絡、立番、見張りなどの活動を行い、休憩ないし仮眠も同派出所内でとるのを原則としているが、夜間、札幌方面中央警察署薄野警察官派出所に配転を命じられて応援に赴くことがあり、平成五年五月四日も午後五時五〇分に薄野警察官派出所に配転を命じられて勤務員二名は薄野警察官派出所に赴き、以後、豊平橋警察官派出所には同日午後七時四〇分、午後一〇時、午後一〇時三〇分、翌五日午前二時三〇分にそれぞれ同派出所の勤務員等が事件処理、見回り点検等に赴いたが、それ以外は無人の状態であった。

(3) 被告人は、同月五日午前五時ころ、豊平橋警察官派出所に赴き、派出所内に声をかけたが、その際警察官は在所せず、以後、被告人は、同日午前六時ころまで同派出所事務室に出入りしながら警察官の来所を待ったが、結局、警察官は来なかった。

2  右認定の事実に照らすと、本件派出所は、勤務員の仮眠休憩施設があり、また、現に仮眠等に利用されていたのであるから、本件犯行当時警察官等が現在していなくとも現住建造物と認めることができる。

そこで、現住性についての被告人の認識を検討するに、被告人は、捜査段階において、検察官に対し、事務室の奥に警察官の寝泊まりする所があるとは全く知らなかった、逮捕されてからその旨聞かされびっくりするとともに、警察官が寝ていなくてよかったと思ったなどと供述し、また、交番というのは、昼も夜もいつも警察官がいて仕事をしているところだから、たまたま被告人が火を点けた時には誰もいなくとも現住建造物にあたるというのは分かる旨の供述をしている。確かに、前記認定のとおり、被告人は派出所の事務室内にしか立ち入っておらず、また、実際にも事務室と休憩室の間のドアは施錠されていたこと、後述のように、被告人は本件当時相当量の飲酒をし、最後に立ち寄ったスナックの経営者とともに豊平橋のそばまで来て派出所のあることに気づき、派出所事務室内に立ち入ったもので、特に、派出所建物の外周を確認した様子も窺われないことから、被告人が、本件派出所に仮眠休憩施設があることを知らなかったとしても、この点は無理からぬところである。そして、警察官が現在していない官公署である本件派出所に対する放火について、現住建造物放火の故意があるといいうるためには、被告人において、本件派出所が人の住居に使用されているという点、すなわち、派出所内に勤務員が寝泊まりできるような施設があり、実際にも、そこで寝泊まりをする勤務態勢が取られていることを認識していることが必要であるが、少なくとも、被告人が、本件派出所内に仮眠休憩施設があることの認識を欠いていることからすると、被告人に現住建造物放火の故意を認めることについては、合理的な疑いが残るといわざるを得ない。

もっとも、他方で、被告人も、交番には夜中でも早朝でもいつでも警察官がいるはずであり、いるはずの警察官がいなかったことから立腹した旨の供述をしており、被告人においても、派出所には常に警察官がいるという認識があったと認められるのであるから、被告人において、夜間等派出所勤務員が仮眠休憩する施設が派出所にはあることを認識することは可能であったとも一応は考えられる。

しかしながら、被告人の認識は、あくまでも昼夜を問わず警察官が勤務しているはずであるというにとどまるうえ、後述のように、本件犯行当時、被告人は複雑酩酊の状態にあり、是非善悪の判断能力が著しく低下した状態にあったことを考慮すると、被告人に夜間早朝であっても派出所には警察官がいるという認識があることから、直ちに、そのための仮眠休憩施設まであると認識することが可能であったと認めることにも疑問が残るところである。

3  したがって、被告人の犯行当時の認識を前提とする限り、被告人に現住建造物放火の故意を認めることには合理的な疑いが残り、他方、被告人が非現住建造物等放火の故意を有していたことは明らかであるから、現住建造物等放火の訴因の範囲内で非現住建造物等放火の事実を認定することにする。

(適用法条)

罰条 刑法一〇九条一項

法律上の減軽 刑法三九条二項、六八条三号(心神耗弱)

主刑 懲役三年

未決勾留日数 刑法二一条(二〇〇日算入)

刑の執行猶予 刑法二五条一項(五年間猶予)

保護観察 刑法二五条の二第一項前段

訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項但書(不負担)

(弁護人の主張に対する判断)

一  弁護人は、被告人は、本件犯行当時、複雑酩酊の状態にあり、かつ、長期の飲酒によるアルコール依存症のため、人格障害が増悪した状態であったため、心神耗弱の状態にあったと主張するので、以下この点について判断する。

二  まず、本件犯行当時の被告人の飲酒の点について検討するに、前掲各証拠によれば、

(1) 被告人は、本件犯行前日の午前一〇時ころから飲酒を始め、同日午後一〇時三〇分ころまでの間に日本酒約八合を飲み、その後、本件犯行当日の午前零時三〇分ころから午前二時ころまでの間にビール中ジョッキ二杯を、午前二時ころから午前二時三〇分ころまでの間にウイスキーの水割り一杯を、午前四時三〇分ころから午前五時前ころまでの間にウイスキーの水割り一杯を、それぞれ飲んだこと

(2) 本件犯行後約二時間半を経過した平成五年五月五日午前八時二五分ころに実施された飲酒検知管による呼気検査において、被告人の呼気一リットル中約〇・六五ミリグラムのアルコールが検知され、また、右呼気検査の際、被告人は、警察官の質問に対し、生年月日については正確に回答しているものの、現在の日時などについては分からないと答え、また、しばらく考え込んでから応答しており、更に、当時の被告人は、言語態度状況もしどろもどろで、歩行能力ではふらつきが見られるほか、直立能力についても二秒でふらつき、顔色は赤く、目も充血して、酒臭が強かったこと

(3) 鑑定時における飲酒試験の結果、被告人の血中アルコールの消失率は一時間あたり血液一デシリットルにつき二五ミリグラムであり、犯行後の右呼気検査におけるアルコール濃度及び被告人の血中アルコールの消失率から、本件犯行当時の被告人の血中アルコール濃度は血液一デシリットルあたり約一九〇ミリグラムから二二〇ミリグラムと推定できること

などの事実が認められる。右認定の事実からすると、被告人は、本件犯行当時、相当量の飲酒により酩酊状態にあったことが認められる。

三  次に、本件犯行に至った動機、犯行前後の被告人の行動、犯行後の被告人の記憶の状況等を検討するに、前掲各証拠及び捜査報告書(甲二九)によれば、

(1) 本件犯行に至った動機の点については、被告人は、パチンコ店店員や居酒屋の経営者から、それぞれ以後の来店を断られ、その態度に立腹していたところ、偶々本件派出所前に至り、警察官に、それらの話や自分の今後の人生等についての話を聞いてもらおうと思って派出所内に入ったものの、警察官は不在であり、いくら待っても来ないことから、警察官に対する腹立ちも募り、それらの気持ちを晴らすため、本件犯行を行ったこと

(2) 本件犯行前後の行動については、被告人は、新聞紙に点火して石油ストーブの送油管上に置く以前に、派出所の出入口付近にあった灯油タンクの元栓が全開になっているかどうかを確認しているうえ、犯行後直ちに一一〇番通報をしており、一度は電話を切ったものの、逆信により警察から電話がかかってくるや、派出所が燃えていることを告げ、更に、警察官から名前を尋ねられると「ナガシゲナガノリ」という偽名を告げていること

(3) 犯行後の被告人の記憶の状況については、本件犯行前日にパチンコ店に赴いてから本件犯行に至るまでの被告人の行動について、放火の原因となった事実を含め概ね記憶しているものの、犯行当日の午前二時三〇分ころ居酒屋を出てから、午前四時三〇分ころスナックに入るまでの間の記憶は欠落しており、また、右スナックに入ってからの派出所に赴くまでの間の出来事は断片的に記憶しているにすぎないこと

などの事実が認められる。

以上の事実関係からすると、被告人は、犯行前後の行動を見る限り、前記認定のような、本件犯行後の呼気検査の際の日時などについての質問には答えられなかったことやしばらく考え込んでから応答している状況などを考慮しても、一応自己の置かれた状況を認識し、その認識に従って行動しているということができ、本件犯行当時、被告人の見当識はかなり保たれていたと認めることができる。

しかし、本件犯行に至った経過を見ると、動機の点では、通常人の行動として了解不能とまではいえないにしても、被告人は飲酒状態になると粗暴になることは認められるとはいえ、前記程度の動機から放火という重大な犯行に至ったということは、通常人の行為としてはそこにかなりの断絶があるものと認めざるを得ない。

そして、被告人の場合そのような断絶が生じたことについては、前掲各証拠、電話聴取書(甲四八、四九)及び捜査報告書(甲五〇)によって認められる被告人の生活歴や入院歴、これまでの飲酒の状況、また、鑑定人齋藤利和作成の精神鑑定書に照らして考えれば、被告人は、本件犯行当時、複雑酩酊の状態にあるとともに、長期間の飲酒によるアルコール依存症のため人格障害が増悪した状態にあったことに基づくものであることも十分肯認できる。いいかえると、被告人は、平素において、本件のような行動に出ることについては自己の意思の力で抑制することが可能であるにもかかわらず、本件犯行の際には、アルコール依存症のため適切な現実把握、問題処理を行う能力が極めて低下した状態下で飲酒の影響が加わり、その意思の抑制力が著しく低下したため、衝動的、短絡的に本件放火行為に及んだものと認められる。すなわち、本件犯行当時、被告人が通常人に比し自己の判断に基づいて自己の行為を抑制する能力に著しい減退のあったことは、これを認定することができる。

四  したがって結局、被告人は、本件犯行当時、是非善悪を識別し、それに従って行動する能力が通常人に比して著しく劣った状態、すなわち心神耗弱の状態にあったと認めるのが相当である。

(量刑事情)

一  本件は、被告人が、本件派出所内において、その場にあった新聞紙にライターで火を点け、これを送油管の上に置いて放火し、同派出所の事務室内部を全焼させたという事案であるところ、その行為の危険性はもとより、警察官の執務場所である公共の施設に対する放火という点でも、犯情は悪質である。また、被告人は、パチンコ店店員や居酒屋の経営者に邪険にされたことで腹の立つ思いをし、それらの話や自分の今後の人生等についての話を警察官に聞いてもらおうと同派出所事務室内に入ったものの、警察官が不在であり、いくら待っても来ないことから、警察官に対する腹立ちもつのり、それらの気持ちを晴らすため、本件犯行に及んだというものであって、動機そのものも短絡的かつ自己中心的なもので、何ら酌量の余地はない。加えて、本件被害額は約三九五万円と高額に及んでいるものの、被害弁償などの措置が一切なされていないこと、近隣住民や一般市民に与えた衝撃、不安感等をも合わせ考慮すると、被告人の刑責は誠に重大である。

二  しかし他方、本件は一時的な衝動に駆られての犯行であること、被告人は、本件犯行当時心神耗弱の状態にあったと認められること、幸い人の生命、身体への被害は生じなかったこと、被告人には罰金刑を除き前科がなく、公判請求は今回が初めてであること、被告人は、現在本件について反省の念を示し、二度とこのようなことはしないと述べるとともに、被害弁償の意思を表明していることなど被告人に有利に斟酌すべき事情もいくつか見出すことができる。

三  そこで、これら被告人に有利不利な一切の事情を総合し、特に被告人のアルコール依存症、人格障害という現在の状態を考慮すると、被告人に対しては、今ただちに実刑を科するよりは、刑の執行を猶予し、専門機関による適切な補導援護、指導監督のもとに社会生活の中で治療を受けさせながら更生の道を歩ませるのが相当であると判断した。

(裁判長裁判官 佐藤學 裁判官 宮崎英一 裁判官 松本明敏)

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