札幌地方裁判所 平成6年(ワ)795号 判決 2002年6月14日
原告
甲野一郎
同法定代理人後見人
甲野花子
外二名
原告ら三名訴訟代理人弁護士
中山博之
同
千葉悟
同
石黒敏洋
被告
北海道
同代表者知事
堀達也
同訴訟代理人弁護士
丸尾正美
同指定代理人
加藤修
外八名
主文
1 被告は、原告甲野一郎に対し、一億〇八〇二万二七五〇円及びこれに対する平成三年四月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告甲野花子に対し、三〇〇万円及びこれに対する平成三年四月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 被告は、原告甲野二郎に対し、二〇〇万円及びこれに対する平成三年四月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
4 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
5 訴訟費用はこれを五分し、その三を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
6 この判決の1ないし3項は仮に執行することができる。
7 被告において、原告甲野一郎に対して六〇〇〇万円、原告甲野花子に対して一八〇万円、原告甲野二郎に対して一二〇万円の担保を供するときは、その原告について、前項の仮執行を免れることができる。
事実及び理由
第1 請求
1 被告は、原告甲野一郎に対し、一億七一四四万四七一六円及びこれに対する平成三年四月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告は、原告甲野花子及び同甲野二郎に対し、それぞれ五〇〇万円及びこれらに対する平成三年四月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は、原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)と、その妻である原告甲野花子(以下「原告花子」という。)及びその長男である原告甲野二郎(以下「原告二郎」という。)が、原告一郎が被告の開設した病院においてイレウス(腸閉塞)の手術のために施行された麻酔の導入時に心停止をきたし、脳虚血による大脳皮質障害を原因としていわゆる植物状態に陥ったのは、被告の被用者である同病院の医師の医療行為中の過失によるものであると主張して、被告に対し、不法行為(使用者責任)ないし債務不履行に基づき、損害賠償を請求した事案である。
1 前提となる事実(争いのない事実は証拠を掲記しない。)
(1) 当事者
ア 原告一郎は、昭和一七年九月二九日生まれの男性であり、原告花子(昭和二一年生まれ)及び同二郎(昭和四五年生まれ)は、それぞれ原告一郎の妻及び長男である。
イ 被告は、北海道紋別市緑町<番地略>において北海道立○○病院(以下「被告病院」という。)を開設する地方公共団体である。
(2) イレウスの手術までの経過
ア 原告一郎は、昭和五四年一〇月、電柱の下敷きとなり、腹部を負傷し、被告病院外科において、小腸を三〇センチメートル切除する手術を受けたことがある(乙2・一〇頁)。
イ また、原告一郎は、昭和六三年五月、動悸を訴えて被告病院内科を受診し、心房細動との診断を受けたことがある(乙7・二頁、三頁)。
ウ 原告一郎は、黄疸症状のため、平成三年一月二一日、川崎市の清水内科を受診し、さらに同月二五日、被告病院内科を受診したところ、結膜黄疸及び皮膚黄染が認められたため、同日、同病院同科に入院した。なお、その際、心房細動が認められたが、治療は不要と診断された。
原告一郎は、同年二月七日、胆石症(ミリッツィ症候群)と診断され、同月一二日、その治療のための手術を目的に、被告病院外科に転科した。
エ 原告一郎は、同年三月一四日午後一時五七分から午後四時〇二分まで、脊髄硬膜外麻酔(以下「硬膜外麻酔」という。)と全身麻酔との併用下で、胆のう摘出術及び総胆管切開・Tチューブドレナージ術の手術(以下「第一手術」という。)を受けた。木村弘通医師が執刀を、佐々木一晃医師及び中野昌志医師(以下「中野医師」という。)が助手を、被告病院に出張して来ていた旭川医科大学麻酔科助手である乙川三郎医師(以下「乙川医師」という。)が麻酔をそれぞれ担当した。
第一手術の執刀までの麻酔等の経過は、次のとおりである。
(ア) 午前一〇時四五分
手術に備えて血管を確保するため、原告一郎の左手首静脈に静脈留置針を挿入し、ラクテック注(電解質輸液)五〇〇ミリリットルの点滴を開始した。
(イ) 午後一時〇〇分
手術前投薬として、分泌物増加、迷走神経反射抑制作用を持つ硫酸アトロピン0.5ミリグラム、鎮静、抗ヒスタミン作用を持つアタラックスP一〇〇ミリグラムを筋肉注射により投与した。
(ウ) 午後一時一五分
原告一郎の血圧は最高一二八、最低八〇、脈拍は七二、体温は37.5度、中心静脈圧は3.8水柱圧であった。
(エ) 午後一時二〇分
原告一郎は、手術室に入室し、心電図モニターを装着した。心房細動及び不整脈が認められた。入室時、原告一郎の血圧は、最高一四七、最低一二一であった(乙3・四頁)。
(オ) 午後一時三二分
硬膜外麻酔施行のため、原告一郎の胸椎に硬膜外チューブを挿入留置の上、硬膜外チューブから二パーセントキシロカイン(局所麻酔剤)一二ミリリットルを注入した。
(カ) 午後一時三五分
原告一郎に吸入用マスクを装着した。
(キ) 午後一時三六分
イソゾール(全身麻酔剤)一二ミリリットル及びマスキュラックス(麻酔用筋弛緩剤)四ミリグラムを静脈留置針から注入した。
(ク) 午後一時四〇分
気管内挿管をし、静脈留置針からイソゾール二ミリリットルを追加注入した。
(ケ) 午後一時四五分
血圧が麻酔剤のため最高七三、最低三五まで下降したため、補正のためにエフェドリン(昇圧剤)五ミリグラムを静脈留置針から注入した。
(コ) 午後一時五五分
血圧が最高六九、最低四二と低下した状態であり、補正のためにエフェドリン五ミリグラムを注入した。
(サ) 午後一時五七分
執刀を開始した。
オ 原告一郎の第一手術後の経過は、次のとおりである。
(ア) 平成三年三月一七日
手術後の経過は順調であり、食事の経口摂取を開始した。
(イ) 同月二九日
昼食後、普通便の排泄があったが、下腹部痛を起こし、下剤が使用されたものの、排便、排ガス等の効果はなかった。夕食には味噌汁とみかん二分の一個を食べたが、嘔吐感が発生し始めた。鎮痛剤の投与により腹痛は軽減した(乙1・二三頁、二四頁)。
午後三時三〇分に行った腹部レントゲン検査により、小腸内ガス像及びニボー像(鏡面像)を確認した(乙1・二三頁、乙5・一頁)。
(ウ) 同月三〇日
午前三時過ぎころ、前胸部の苦しさ、動悸、呼吸苦、軽度の下腹部痛及び軽度の腹満感があり、排ガスはなく、嘔吐感もなかった。午前七時ころ、少量の排便があったが、軽度の腹満感があり、排ガスはなかった。午前八時ころには、痛みは持続していたが、動きはよく会話に活気があった。午前一〇時ころ、腹痛、軽度の嘔気、軽度の腹満感があり、排ガスはなかった。午前一〇時四五分ころ、嘔吐したが、嘔吐後に嘔気は軽減した。午後二時四〇分ころ、軽度の腹痛があったが、前日より楽であると言っていた。午後二時五〇分ころ、排ガスがあった。また、この日から絶食となり、輸液を開始した(乙1・二四頁、二五頁、乙2・三六頁)。
腹部レントゲン検査により、小腸内ガス像の移動が認められた(乙5・一頁)。
(エ) 同月三一日
午前八時三〇分ころ、少量の排便があった。午前九時ころ、嘔吐し、その後、嘔気、むかつきはなかったが、軽度の下腹部痛が持続していた。午後二時二〇分ころ、排ガスがあり、水約一五〇ミリリットルを飲んだが、軽度の下腹部痛が持続していた。午後六時五〇分ころ、番茶を湯呑みに半分程度飲んだが、排ガスはなく、下腹部に痛みないし重苦感があった(乙1・二六頁)。
(オ) 同年四月一日
午前六時五〇分ころ、排ガスはなく、下腹部痛及び倦怠感があったが、下腹部痛は自制内であった。午前一〇時四〇分ころも、排ガスはなく、嘔気、腹満感、腹部全体の痛み及び倦怠感があったが、腹部全体の痛みは自制内であった。午後二時二〇分ころも、排ガスはなく、顔色不良で腹満感、下腹部圧痛、嘔吐及び倦怠感があったが、下腹部圧痛は自制内であった。午後三時三〇分ころ、飲食を禁じられた。午後七時ころ、排ガス、排便がなく、顔色不良で、嘔気、左側腹部の圧痛程度の腹痛、腹満感及び倦怠感があった。午後一〇時ころ、三回目の嘔吐があった。午後一一時ころ、下腹部から左側腹部の痛みが強まり、鎮痛剤を注射した(乙1・二七頁、二八頁)。
午前一〇時、午後零時及び午後二時にガストログラフィン追跡造影検査を行ったが、造影剤が大腸に到達せず、小腸の通過障害が疑われた(乙1・二七頁、乙5・二頁)。
被告病院の医師は、原告一郎をイレウスと診断した(乙2・一三頁)。
(カ) 同月二日
午前二時一〇分ころ、上半身の発汗が著明となり、息苦しい、胸が苦しい、動悸があると訴えたが、嘔気は軽度で、腹痛も自制内であり、トイレまで歩行した。午前六時一〇分ころ、茶色の水様物を大量に嘔吐した。午前六時四〇分ころ、排ガスはなく、嘔気が持続し、腹満感があり、倦怠感が強かったが、腹痛は自制内であった。午前八時半ころ、二回嘔吐した。午前一〇時ころには、腹痛、腹満感、嘔気及び胸部症状はなく、排ガスもなかった。午後三時三〇分ころ、イレウス管を挿入し、高カロリー輸液による中心静脈栄養を開始した。午後七時一五分ころには、嘔気及び腹部膨満感はなく、腹痛は軽度で自制内であった(乙1・二八頁、二九頁、乙2・一四頁)。
午前一〇時に行った腹部レントゲン検査では、イレウスの改善がみられなかったが、午前一〇時五〇分に行ったTチューブ造影検査では、特に問題は見られなかった(乙1・二八頁、乙2・一四頁、乙5・三頁)。
(キ) 同月三日
午前〇時一〇分ころ、嘔気及び腹痛はなかった。午前三時三〇分ころ、眠ろうとすると嘔気があったものの、胸腹部症状はなかった。午前六時ころ、イレウス管から乳白色の便臭の液を排出した。午前七時一五分ころ、排ガスがなく、軽度の嘔気があったが、嘔吐、腹痛、腹満感及び胸腹部症状はなかった。午前一〇時ころ、排ガスはなく、嘔気及び倦怠感が持続していたが、胸部症状、下腹部痛及び腹満感はなかった。午後二時一〇分ころ、排ガスはなく、軽減気味だが倦怠感があり、下腹部痛もあり、嘔気が持続していたが、胸苦及びめまいはなく、腹満感は軽度であった。午後七時ころ、左下腹部痛は仰臥位のときにはなかったが、左側臥位のときにはあった。午後一〇時五〇分ころ、足下がふらつきながら、自力歩行によりトイレに行き、二五〇ミリリットルの濃縮尿を排泄したが、排ガスはなかった(乙1・二九頁ないし三一頁)。
午前一一時四〇分に行ったガストログラフィンによるイレウス管造影検査では、前記(2)アの小腸の手術瘢痕部に閉塞が認められた(乙1・三〇頁、乙2・一四頁、乙5・四頁)。
(ク) 同月四日
午前一時四〇分ころ、強い喉頭部痛により唾液を飲み込むのも困難である旨訴え、鎮痛剤を投与された。午前四時ころ、腹痛及び咽頭部痛があり、自制できない旨訴えた。午前六時五〇分ころ、自制できない腹部と咽頭部の疼痛を訴え、ホリゾンを投与された。午前七時二〇分ころ、腹部全体、咽頭部の激痛が持続し、全身倦怠感も著明に持続していた。午前九時ころ、疼痛を訴え、鎮痛剤を投与された。午前一〇時ころ、疼痛を訴えていた。午前一〇時〇五分、イレウス管から一一〇〇ミリリットルの排出液があった(乙1・三一頁、三二頁)。
(ケ) なお、同年三月一五日から同年四月三日までの、原告一郎の血液検査における白血球数、赤血球数、ヘモグロビン、ヘマトクリット、クレアチニン、電解質カリウム、電解質ナトリウム、電解質クロール、血清尿素窒素、尿素窒素クレアチニン比の各数値及び各正常値は、別紙のとおりである(甲17、18、乙4、証人花岡、弁論の全趣旨)。
(3) 被告病院におけるイレウスの手術の決定と手術のための麻酔の経過
ア 平成三年四月四日午前一〇時過ぎころ、原告一郎の担当医であった被告病院の田中実医師(以下「田中医師」という。)は、原告一郎にガストログラフィンによる造影検査を施行し、小腸の通過障害の改善が見られないことを確認したため、別の手術を行っていた被告病院の外科医長であった丙山四郎医師(以下「丙山医師」という。)及び中野医師と打合せを行い、直ちに原告一郎のイレウスの手術(以下「第二手術」という。)を行うことを決定した(乙1・三二頁、乙2・一五頁、証人丙山)。
第二手術の麻酔は、乙川医師が担当することになり、このとき、乙川医師は、丙山医師らから原告一郎の状態について説明を受けた(乙3、証人乙川、証人丙山)。
田中医師は、原告一郎及び原告花子に対し、第二手術を行うことについての同意を得た。
イ 第二手術のために行った麻酔(以下「本件麻酔」という。)の経過は、次のとおりである(乙1・三二頁、三三頁、乙2・一五頁、乙3、証人乙川、証人丙山、鑑定の結果)。
(ア) 午前一一時
手術に備えて血管を確保するため、原告一郎の左手首静脈に静脈留置針を挿入し、ラクテック注五〇〇ミリリットルの点滴を開始した。
(イ) 午前一一時二五分
手術前投薬として、硫酸アトロピン0.5ミリグラム、アタラックスP一〇〇ミリグラムを筋肉注射により投与した。
原告一郎の血圧は最高一〇八、最低九〇、脈拍は七二、体温は36.4度であり、脈拍が不整であった。
(ウ) 午前一一時三〇分
原告一郎は、手術室に入室した。原告一郎の血圧は、最高一〇八、最低七三であり、腹痛を訴えていた。
(エ) 午前一一時三五分
原告一郎に心電図モニターを装着した。この際、心電図上、心房細動が認められた。
(オ) 午前一一時四五分
硬膜外麻酔施行のため、原告一郎の胸椎に硬膜外チューブを挿入留置の上、硬膜外チューブから二パーセントキシロカイン一〇ミリリットルを注入した。この時点で、原告一郎の血圧は、最高九五、最低五〇であった。
(カ) 午前一一時四八分
原告一郎に吸入用マスクを装着し、これと並行してイソゾール一〇ミリリットル及びマスキュラックス六ミリグラムを静脈留置針から注入した。この時点で、原告一郎の血圧は最高一〇五、最低五一であった。
(キ) 午前一一時五七分
気管内挿管をし、挿管チューブの固定を終了した。
(ク) 午前一一時五八分
自動血圧計で測っていた原告一郎の血圧が測定不能になり、触診を試みたが測定不能であったため、エフェドリン一〇ミリグラムを静脈留置針から注入した。チアノーゼが出現した。
(ケ) 午後零時〇〇分
さらに、エフェドリン五ミリグラムを静脈留置針から注入した。
(コ) 午後零時〇四分
触診したところ、原告一郎の血圧は八〇であり、さらにエフェドリン五ミリグラムを静脈留置針から追加注入した。
(サ) 午後零時〇六分
原告一郎は著明な徐脈を呈したため、心拍数を増加させるため、硫酸アトロピン(昇圧剤)0.2ミリグラムを静脈留置針から注入した。
(シ) 午後零時〇七分
心電図モニター及び聴診により、原告一郎の心停止を確認した。
心拍再開のため、心臓マッサージを開始し、硫酸アトロピン0.3ミリグラムを静脈留置針から注入した。
(ス) 午後零時一〇分から二五分まで
心拍再開のため、ボスミン(昇圧剤)等の薬剤を頻回にわたり静脈留置針から注入した。
(セ) 午後零時二五分
心臓マッサージを停止し、除細動器を用いて直流電流二〇〇ジュールの電気刺激を与え、さらに午後〇時三〇分から再び心臓マッサージを開始した。
(ソ) 午後零時三一分
原告一郎の心拍が再開したため、心臓マッサージを中止した。
(タ) 午後零時三五分
原告一郎の血圧は最高一三五、最低五四であった。
(チ) 午後零時三八分
原告一郎の血圧は最高一〇四、最低五四であった。
(ツ) 午後零時四〇分
原告一郎の自発呼吸が再開した。原告一郎の血圧は、最高九八、最低四九であった。
(テ) 午後零時五九分
このころまでに、丙山医師、田中医師、中野医師及び乙川医師が協議の上、第二手術の中止を決定し、麻酔覚せいのため、ワゴスチグミン(筋弛緩剤の拮抗薬剤)を静脈内に注入した。
(ト) 午後一時三〇分
原告一郎が手術室から病室に戻った。
ウ 平成三年四月四日の心停止後、手術室において採血した原告一郎の血液検査の結果は、白血球数一万九九〇〇、赤血球数四四八万、ヘモグロビン13.8g/dl、ヘマトクリット39.8パーセント、クレアチニン1.7mg/dl、電解質カリウム4.5mEq/l、電解質ナトリウム一三一mEq/l、電解質クロール八八mEq/l、血清尿素窒素58.9mg/dl、尿素窒素クレアチニン比34.647であった(甲17、18)。
エ 原告一郎は、上記イ(シ)から(ソ)までの間の心停止が原因で、脳虚血による大脳皮質障害をきたし、これにより意識障害に陥った。
(4) 旭川赤十字病院におけるイレウスの手術と以後の経過
ア 原告一郎は、平成三年四月五日午後零時五〇分ころ、意識障害が持続したまま旭川赤十字病院に搬送され、入院した(甲7)。
田中医師が旭川赤十字病院の外科医に宛てた同日付けの依頼状には、原告一郎の状態について、「現在脱水強く」との記載がある(甲7)。
イ 原告一郎は、同日午後四時ころから午後七時二〇分ころまで、旭川赤十字病院において、気管内挿管の全身麻酔により、イレウスの手術(以下「第三手術」という。)を受けたが、小腸の一部が既に圧迫壊死し、穿孔があり、汎発性腹膜炎が生じていたため、穿孔部を含めて小腸四〇センチメートルを切除した(甲7、証人菱山)。
ウ 第三手術以後も、原告一郎の意識障害は回復せず、原告一郎は、同年五月二一日、全身管理及び治療を目的として、被告病院外科に再入院した。
エ 原告一郎は、上記(3)エの大脳皮質障害のため、現在まで意識障害が持続し、いわゆる植物状態であり、チューブによる栄養補給等の全身管理を要する状態にあり、現在の医療技術において、回復は困難である。
オ 原告一郎は、同年六月一日、障害者としての認定を受け、重度心身障害者医療給付事業の適用により、同日以降の医療費が無料となった。
2 争点
(1) 第二手術を遅延させた過失の有無
(原告らの主張)
ア イレウスの大部分を占める機械的イレウスの基本療法は、手術的療法であり、特に、絞扼性イレウスの場合には、血行障害を伴って六時間ほどで急速に腸管壊死に移行するため、緊急手術が適応となる。いわゆる保存的治療は、体温上昇、白血球増多等がみられず、全身状態が良好で、疼痛も激しくなく、腹部膨満が増進傾向を示していない場合の治療方法であるが、保存的治療によって症状の改善が得られないときや増悪するとき、又は絞扼性イレウスの疑いが少しでもあるときは、時機を失することなく手術を行う必要がある。このように、初期治療に際しては、単純性イレウスと絞扼性イレウスとの鑑別診断を早期に行うことが最も重要である。
イレウスの疑いがある場合、担当医師は、保存的治療を行いつつ、患者の症状とその経過に対する注意深い観察と検討を怠ることなく、開腹手術の必要性についてできるだけ早期に適切な鑑別診断を行い、必要な場合には直ちに開腹手術を行うべきである。
イ 原告一郎は、第一手術の一五日後である平成三年三月二九日の昼食後ころから腹痛を訴えており、これは術後イレウスによる症状である可能性が高いのであるから、被告病院の医師において、腹痛の原因をできるだけ早期に鑑別診断し、適切な処置を行うべき注意義務があった。特に、絞扼性イレウスの場合には、早期の開腹手術が望ましいから、既にこの時点で手術が検討されるべきであった。
さらに、平成三年三月二九日の原告一郎の腹部レントゲン写真においてニボー像が出現しているほか、同月三〇日から同年四月一日までの間の原告一郎の症状からすれば、被告病院の医師において、この時点で絞扼性イレウスを疑って手術を行うべき注意義務があった。
しかし、被告病院の医師は、上記注意義務を怠り、同月三日まで血液検査ないし必要な観察を行わず、漫然と経過を観察するにとどまったため、手術を必要とするイレウスであるとの診断を遅延させ、適時に適切な手術を施行しなかった。
この結果、原告一郎の全身状態は悪化するに至った。
(被告の主張)
ア イレウスは、急性に腸管内容通過が障害されたために起こる重篤な病的状態であるが、器質的な病変を原因とする機械的イレウスと、器質的病変がないにもかかわらず、腸運動の麻痺又はけいれんが起きたことを原因とする機能的イレウスに大別され、さらに、機械的イレウスは、腸間膜の血行障害のない単純性イレウスと腸間膜の血行障害を伴う絞扼性イレウスとに分けられる。
イレウスの診断は、病歴、症状及び検査成績を総合して行うが、イレウスの有無だけでなく、その種類、原因、閉塞部位等も同時に判定して治療方針を決定しなければならない。機械的イレウスでも単純性のものと絞扼性のものとの判別は必ずしも容易ではないが、絞扼があると、一般的に発病が急激で症状も激烈であり、病変の進行はより速やかで、発病の初期から腹部の激痛を訴え、多くはいわゆる初期嘔吐を伴い、比較的初期から腹部圧痛や腹壁緊張を呈し、また絞扼腸管が蠕動を停止した状態で腫瘤として触知されたりする。
イレウスの治療を行う上では、腸管の血行障害を伴わない単純性イレウスか、血行障害で壊死に陥った状態で腸管を切除しなければならない絞扼性イレウスかを早急に鑑別することが重要である。単純性イレウスと絞扼性イレウスとの鑑別は、①腹痛、②悪心・嘔吐、③排便、排ガスの停止、④腹部所見、⑤全身症状、⑥検査所見、⑦画像診断等により行われるが、病態的にも移行型が存在しうるので、臨床的に種々の症候を示すものが少なくなく、単純性イレウスと絞扼性イレウスとを完全に鑑別しうる方法はない。最終的には、開腹手術によって確認される病態であり、その診断は必ずしも容易ではない。
絞扼性イレウスと診断されないイレウスに対する保存的治療においては、いつまでその療法を継続するかの限界点を見極めることが重要であるが、これは、それぞれの症例によって、イレウスの原因、閉塞の部位あるいは種類等を異にしているので、困難であることが多い。一般的には、吸引療法等を中心とする保存的治療を一週間前後続けて奏功しなかった場合には、外科的治療を考慮する必要があるといわれている。ここで保存的治療とは、①絶飲食、②胃管あるいはイレウス管の挿入及び胃・腸内容の吸引排除、③水・電解質の補正と補給、④全身管理等をいう。
イ 平成三年三月二九日、原告一郎が昼食後に下腹部痛を訴えたため、被告病院の担当医は、食餌に起因した一過性のイレウスを疑い、絶食、輸液等の保存的治療を開始し、経過を観察しつつ、イレウスの状態の判断に最も参考になる腹部レントゲン検査や血液検査を行ったが、同年四月三日まで、絞扼性イレウスを疑わせる所見はなく、緊急手術を必要とする絞扼性イレウスの特徴であるショック症状も認められなかったために、この間、イレウス管を挿入して胃及び腸の内容物吸引を行い、中心静脈栄養(IVH)を開始するなどして保存的治療を行ったものである。
なお、レントゲン写真上のニボー像は、イレウスの存在を示唆する重要な所見ではあるが、これのみをもって絞扼性イレウスであると鑑別診断することはできない。
また、血液検査は、イレウスの場合、患者の状態を把握するための一助になるものの、絞扼性イレウスの確定診断に不可欠なものではない。原告一郎の場合は、その所見から血液検査の必要性を認めなかったものである。
したがって、平成三年四月四日までの間、イレウスの手術を行わなかったことについて、被告病院の医師に過失はない。
(2) 第二手術までの全身状態管理を怠った過失の有無
(原告らの主張)
機械的イレウスの基本療法は、上記(1)のとおり手術的療法であるが、仮に保存的治療で経過を観察するとしても、担当医師において、手術に備えて患者の全身状態を管理し、できるだけ良好に維持、改善すべき注意義務がある。
そして、原告一郎は、イレウスに罹患している可能性が高かったのであるから、被告病院の医師において、水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し、血清中の電解質レベルを毎日測定し、尿比重検査及び尿量検査等を行うなどして、原告一郎の全身状態を管理すべき注意義務があった。
しかし、被告病院の医師は、上記注意義務を怠り、原告一郎に対して必要な検査を行わず、その全身状態の維持、改善を怠り、漫然と不十分な保存的治療を続けた。
この結果、原告一郎の全身状態は、悪化するに至り、平成三年四月三日の血液検査の結果、白血球数(九八〇〇)、赤血球数(五三二)、電解質クロール(九〇mEq/l)、血清尿素窒素(三七mg/dl)、尿素窒素クレアチニン比(三四)は、いずれも異常値を示し、電解質ナトリウム(一三五mEq/l)も限界値を示すなど、かなりの脱水ないし飢餓の状態に陥った。
(被告の主張)
被告病院の医師は、平成三年三月二九日から同年四月三日までの間、静脈点滴、高カロリー輸液及びイレウス管による吸引等の保存的治療を行った。
水分の出納表は、重症患者を治療する際には必要であるが、原告一郎の場合は、イレウスの発症までは、正常に食事を摂取しており、自力歩行によりトイレに行っていたことなどから、被告病院の医師は、水分出納の計測を厳密に行う必要があるほど重篤な状態であるとは判断しなかったものである。しかしながら、イレウスの発症後からは、被告病院の医師は、尿の回数、嘔吐の量、イレウス管からの吸引量、胆汁の排出量等を見ながら、水分の出納のバランスを検討し、さらに臨床症状や心房細動があることも考慮して、一日の輸液量を決定していた。このように、被告病院の医師は、十分な注意を払って適切に原告一郎の全身管理を継続していたものである。
その結果、同年四月三日の血液検査における炎症を示す白血球数及び脱水症状を判断する資料となる血液中の電解質の数値は、同年三月一四日に胆石症の手術を受けていることや、同月の数回の血液検査の結果からみて、特別異常を示すものにはなっておらず、軽度の血液濃縮をみるのみで、原告一郎の全身状態が悪化したとはいえない。
(3) 本件麻酔施行上の過失の有無
(原告らの主張)
ア 本件麻酔施行時の原告一郎の全身状態
上記(2)の平成三年四月三日の血液検査の結果に加え、イレウスに罹患した患者の全身状態は急激に悪化する可能性が大きいこと、本件麻酔施行前に原告一郎に強度の腹痛、咽頭痛及び濃縮尿等の症状が出現していることに照らせば、本件麻酔施行時、原告一郎の全身状態は、同日の検査時よりも更に増悪し、脱水状態を呈していた。ちなみに、原告一郎の白血球数は、第二手術直後には一万九九〇〇という異常値を示した。
また、本件麻酔施行前、原告一郎の血圧は、最高一〇八、最低七三と計測されているが、これは、原告一郎がショック状態ないしプレショック状態にあったことを示している。
さらに、原告一郎は、心房細動という不整脈を有していた。
加えて、原告一郎は、平成三年三月二九日の夕食以降、絶食状態である上に嘔吐が続いていたところ、静脈点滴(DIV)及び高カロリー輸液(IVH)のみで体力を維持することはできないから、本件麻酔施行時には、体力が低下していた。
イ 麻酔医において原告一郎の全身状態の把握が不十分であったこと
麻酔医は、麻酔を施行するに当たって患者の全身状態等を十分考慮に入れなければならないから、被告病院の担当医において、本件麻酔を施行するに当たり、麻酔医である乙川医師に対し、原告一郎の全身状態等についての情報を十分に提供すべき注意義務があった。しかるに、被告病院の担当医は、乙川医師に対し、原告一郎の白血球数及び電解質等の一般的数値に異常がない旨の説明をしたにとどまり、原告一郎の血液、電解質、尿、脱水及び不整脈等の状態について、情報提供義務を怠った。
また、乙川医師においても、原告一郎に脱水ないし心房細動等の症状があれば、麻酔施行にあたり危険性のあることを容易に予見しうるのであるから、原告一郎の全身状態について十分な術前評価をすべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った。
ウ 本件麻酔の方法選択を誤った過失
硬膜外麻酔には、血圧が低下しやすいという特性があり、脱水等により血液循環量が減少している患者に硬膜外麻酔を施行した場合には、麻酔域の広がりが大きく、血圧が著しく下がることがあり得る。そこで、硬膜外麻酔は、原告一郎のように、脱水等により循環血液量が不足している患者、ショック状態の患者ないしイレウスの末期の患者には禁忌であるとされている。
したがって、被告病院の医師において、十分な輸液を行うなどの方法によって原告一郎の全身状態を改善した上で硬膜外麻酔を施行するか、硬膜外麻酔を避けて全身麻酔のみにより麻酔を施行すべき注意義務があったにもかかわらず、乙川医師は、これを怠り、原告一郎の全身状態を改善しないまま、全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失がある。
エ 麻酔剤を急速に注入した過失
仮に硬膜外麻酔を施行するとしても、被告病院の医師が硬膜外麻酔に使用したキシロカインは、最も拡がりやすい性質の麻酔剤であるから、被告病院の医師においては、最初に試験量を注入し、心電図、血圧計、パルスオキシメーター等のモニターを通じて患者の血圧の変化等の全身状態を観察した上で、その感受性に応じて追加量を決定すべきであった。しかし、乙川医師は、こうした慎重な方法を採ることなく、本件麻酔においてキシロカイン一〇ミリリットルを急速に注入した。
また、被告病院の医師が使用した全身麻酔剤であるイソゾールは、循環器に対して血圧降下、不整脈、ショック等をひき起こす副作用がある薬剤であるから、被告病院の医師においては、最初に試験量を注入し、患者の血圧の変化等の全身状態を観察した上で、その感受性に応じて追加量を決定すべきであった。しかし、乙川医師は、こうした慎重な方法を採ることなく、本件麻酔においてイソゾール一〇ミリリットルを急速に注入した。
オ 被告病院の医師において、本件麻酔に当たり、上記のような過失を犯したことにより、原告一郎は、心停止をきたし、これが二〇分以上も継続したため、大脳皮質障害を生じ、現在の症状に至ったものである。
(被告の主張)
ア 第二手術のため手術室に入室した原告一郎は、痛みを訴えてはいたが、腹部に著明な膨満は認められなかった。また、口唇の乾き等の脱水を示す症状がなかったため、丙山医師ら担当医は、著明な脱水症状はないと判断した。
また、乙川医師は、原告一郎の状態について、丙山医師から、血液検査における白血球数及び電解質の数値に異常がないことなど、これまでの経緯について説明を受け、さらに自ら原告一郎の腹部の状態、顔色、痛みの有無等について確認をし、著明な脱水状態が認められないことを確認した。
なお、原告一郎は、第二手術当時、絶飲食していたのであるから、ある程度の脱水は当然予想されるものである。しかし、麻酔との関係では、単に脱水状態にあるかどうかではなく、著明な脱水状態にあるかどうかが問題になるところ、原告一郎が著明な脱水状態になかったことは上記のとおりであるから、乙川医師が硬膜外麻酔を選択したことに誤りはない。
また、中心静脈栄養(IVH)は、これのみでも栄養維持が可能なもので、これによって体力の維持ないし向上を図ることができるものである。
原告一郎の白血球数が一万九九〇〇を示したのは、心停止後であるから、心停止及びその後の蘇生処置等により、身体に著しい変動が生じたためと考えるのが合理的である。
イ 硬膜外麻酔には、①投与量による麻酔域の調節性がよい、②カテーテルを留置した持続硬膜外麻酔では、長時間の手術に利用でき、術後鎮痛にも応用可能である、③循環系変化として血圧の低下が緩徐であるなどの利点がある。硬膜外麻酔の副作用としては、交感神経系を遮断する効果があるため、末梢血管の拡張を招き、血圧を低下させることがあるが、これに対してはエフェドリン等の血管収縮薬で対応することができる。
ウ 乙川医師は、原告一郎の全身状態、術前の検査成績、心臓疾患及び呼吸器疾患による合併症の有無、既往歴、前回の麻酔記録、第二手術の内容等を勘案し、施行する麻酔法として、術後の鎮痛法としても利用でき、頻脈に抑制的に作用する硬膜外麻酔と、吸入麻酔剤による浅い全身麻酔とを併用することとし、局所麻酔剤は二パーセントキシロカインとして、その量は第一手術の際に用いた量よりも減らして約一〇ミリリットルとし、慎重に麻酔を施行したものである。
エ 乙川医師は、まずキシロカイン三ミリリットルを試験注入し、原告一郎に異常がないことを確認した上で、緩徐にキシロカイン七ミリリットルを注入したものであり、イソゾールの注入についても、同様に原告一郎の全身的反応をみながら緩徐に注入したものであって、これらの麻酔剤を急速に注入した事実はない。
オ 以上のとおり、本件麻酔は、当時の医学水準に準拠した適切なものであって、被告病院の医師に過失はない。
(4) 損害
(原告らの主張)
ア 原告一郎の損害
(ア) 入院雑費 九〇一万五五七三円
a 原告一郎は、平成三年四月四日から平成六年三月三一日までの約三年間に、一日当たり一四〇〇円、合計一五三万三〇〇〇円の入院雑費を要した。
(計算式)一四〇〇円×三六五日×三年
b 原告一郎は、本件医療事故のために植物状態となり、平成六年四月一日以降も、死亡するまで入院を余儀なくされ、そのため、一日当たり一四〇〇円、年間五一万一〇〇〇円の入院雑費を必要とするところ、原告一郎の同日からの平均余命は27.62年であるから、ライプニッツ係数(二七年の係数14.6430)を用いて中間利息を控除して、同日以降の入院雑費の現価を算定すると、七四八万二五七三円となる。
(計算式)51万1000円×14.6430
(イ) 休業損害
一六〇〇万八三〇〇円
原告一郎は、平成三年四月四日から平成六年三月三一日までの約三年間休業を余儀なくされたところ、基礎収入を平成三年における男子全労働者の平均賃金である五三三万六一〇〇円として休業損害を算定すると、一六〇〇万八三〇〇円となる。
(計算式)五三三万六一〇〇円×三年
(ウ) 後遺症逸失利益
五八九七万三八九三円
原告一郎は、終生労働不能であり、後遺障害等級一級三号に該当するところ、平成六年四月一日からの就労可能年数は一六年であるから、基礎収入を平成四年における男子全労働者の平均賃金である五四四万一四〇〇円として、ライプニッツ係数(一六年の係数10.8380)を用いて中間利息を控除して、後遺症逸失利益の現価を算定すると、五八九七万三八九三円となる。
(計算式)544万1400円×10.8380
(エ) 後遺症慰謝料 二四〇〇万円
(オ) 将来の介護費
五三四四万六九五〇円
原告一郎は、終生他人の付添介護を必要とし、一日当たり一万円、年間で三六五万円の介護費を必要とするところ、本件訴え提起時である平成六年における原告一郎の年齢は五一歳でその平均余命は27.62年であるから、ライプニッツ係数(二七年の係数14.6430)を用いて中間利息を控除すると、五三四四万六九五〇円となる。
(計算式)365万円×14.6430
(カ) 弁護士費用 一〇〇〇万円
イ 原告花子及び原告二郎の損害
慰謝料 各五〇〇万円
原告花子及び原告二郎は、原告一郎の後遺障害の悲惨さに心を痛め、深甚なる精神的苦痛を受けており、さらに今後の介護の負担も計り知れない。
(被告の主張)
損害については争う。特に、上記ア(オ)に関しては、原告一郎が現在入院している被告病院では、付添看護は不要であるから、付添介護費は認められるべきでない。
第3 争点に対する判断
1 争点(1)(第二手術を遅延させた過失の有無)について
(1) 原告らは、原告一郎が平成三年三月二九日から腹痛を訴えていること、同日の腹部レントゲン写真においてニボー像が出現していること及び同月三〇日から同年四月一日までの原告一郎の症状等から、被告病院の医師において、原告一郎に絞扼性イレウスが発症したことを疑い、適時に適切な手術を施行すべきであったにもかかわらず、これを怠り、手術を同月四日まで遅延させた過失がある旨主張するので、この点について検討する。
(2) まず、イレウスの診断及び治療について検討するに、前記前提となる事実に加え、後掲各証拠によれば、以下の事実が認められる。
ア イレウスの分類
イレウスは、器質的な病変が原因で腸管内腔の閉塞又は狭窄が生じ、腸管内容の通過が障害される機械的イレウスと、腸管腔内外に器質的な病変がないにもかかわらず、腸運動の麻痺又は痙攣が生じ、腸管内容の通過が障害される機能的イレウスとに大別される。さらに、機械的イレウスは、腸管内腔の機械的閉塞のみで腸間膜の血行障害を伴わない単純性イレウスと、腸管内腔の機械的閉塞とともに腸間膜の血行障害を伴う絞扼性イレウスとに分類されるが、イレウスの症例のうち六〇パーセント以上が単純性イレウスとされている(甲2、乙11、13)。
イ 絞扼性イレウスの鑑別診断
絞扼性イレウスは、放置すると急速に腸管の壊死、腹膜炎を招く重篤なイレウスであるため、絞扼性イレウスの疑いがある場合には、緊急手術の絶対的適用となる。このため、イレウスの診断においては、単純性イレウスか絞扼性イレウスかを鑑別することが極めて重要である。
腹部レントゲン写真において腸管の膨満像、ニボー像が認められればイレウスと診断されるから、イレウスか否かの診断は比較的容易であるが、単純性イレウスか絞扼性イレウスかの鑑別は、臨床症状、画像診断(腹部レントゲン写真、CT写真、超音波等)、生化学検査の結果等を総合して行うものの、いずれも決定的なものではなく、その判断は容易ではない。絞扼性イレウスに特徴的な臨床所見としては、激しい悪心、初期の激しい嘔吐、持続性の激しい腹痛、著明な圧痛、筋性防御、腹壁緊張、腸管硬直による有痛性の腫瘤(Wahl症状)、腸蠕動不穏はみられず腸雑音が著明でないなどの腹部所見、発熱、頻脈及びショック等が挙げられる。また、絞扼性イレウスの場合、腹部レントゲン写真上無ガス像を呈することもあるが、一般的に腹部レントゲン写真により絞扼性イレウスと単純性イレウスとを鑑別することは困難である。さらに、絞扼性イレウスに特徴的な検査所見としては、一万を超える白血球数の増加、LDH及びCPKの増多等が挙げられる(以上につき、甲2、乙11ないし14、16、証人丙山)。
ウ 単純性イレウスと保存的治療の限界
単純性イレウスには、開腹手術を要しない症例も多く、治療の基本となるのは、胃管ないしイレウス管による吸引等の消化管の減圧、中心静脈栄養等を始めとした輸液等による水分、電解質及び栄養の補給、抗生物質、腸蠕動亢進剤の投与、高圧酸素療法等の保存的治療である(甲2、乙12ないし14、16)。保存的治療のみにより軽快する症例は、単純性イレウスの六〇パーセント以上に上るという調査結果も存在する(甲2、乙16)。
そして、保存的治療を行う場合でも、保存的治療によっても症状が改善しないときに、いつ手術に踏み切るかという保存的治療の限界の見極めが重要であり(乙14)、手術に踏み切るべき時機については意見が分かれるところであって(甲2)、従来の文献上には、三ないし四日という比較的短期間で手術に踏み切るべきであるとする見解が多かったが、中心静脈栄養等による栄養管理の進歩により、この期間が一般に延長される傾向にあり(乙14)、現在では、一週間程度保存的治療を行っても症状の改善がみられない場合には、保存的治療の限界と判断して手術に踏み切るのがよいとする見解が多い(甲2、乙13、14、証人丙山、証人菱山)。ただし、この期間は、個々の症例ごとに判断されるべきである(甲2。なお、原告らの依頼により本件を検討した淺井登美彦医師は、保存的治療の限界について三日程度であるという見解を示している(甲23)が、前掲各証拠に照らすと、上記見解を直ちに採用することはできない。)。
(3) 上記第3の1(2)イ認定の知見によれば、腹痛を伴い、腹部レントゲン写真においてニボー像が認められれば、イレウスと診断すべきものと認められるところ、前記前提となる事実(2)オ記載のとおり、原告一郎には、平成三年三月二九日、下腹部痛及び嘔吐感が出現し、排ガスが認められず、腹部レントゲン検査において小腸内ガス像及びニボー像が確認されているのであるから、同日の時点で、被告病院の医師において、原告一郎にイレウスが発症したと診断することは可能であったというべきであるが、イレウスであっても、絞扼性イレウスでない限り、その相当数が保存的治療のみで軽快し、開腹手術を要しないというのであるから、担当医師においては、絞扼性イレウスを疑うべき特段の所見が認められない限り、患者への危険と負担の大きい手術を直ちに行うのではなく、患者への危険と負担の小さい保存的治療を行いつつ、その効果の有無や程度を観察するという方法を選択することには、相応の合理性が認められるというべきである。
そこで、原告一郎において、絞扼性イレウスを疑うべき特段の所見が認められたか否かが問題となるが、前記第3の1(2)イ認定の知見によれば、腹部レントゲン写真に小腸内ガス像及びニボー像が認められただけでは、絞扼性イレウスを疑うべきであると認めるのは困難である。また、前記前提となる事実(2)オ記載のとおり、原告一郎において、同日から同年四月三日までの間、下腹部痛、腹満感、嘔吐及び嘔気等の臨床症状を訴えることがあったものの、下腹部痛は自制内のものであって鎮痛剤によって抑制することが可能であり、腹満感、嘔吐及び嘔気についてもさほど激しいものではなかったのであるから、上記第3の1(2)イ認定の知見に照らせば、これらの臨床症状が絞扼性イレウスを疑うべき症状であるということはできないし、また、同日までに施行された腹部レントゲン検査、各種造影検査の結果も、上記第3の1(2)イ認定の知見に照らせば、絞扼性イレウスを疑うべきものであるということはできない。そして、他に、被告病院の医師において、同日までの間に、原告一郎に絞扼性イレウスが発症したことを疑うべきであったと認めるに足りる証拠はない。したがって、遅くとも同日までの間に、原告一郎に絞扼性イレウスが発症したことを疑い、手術を施行すべきであったとの原告らの主張は、理由がない。
さらに、上記第3の1(2)ウ認定の知見に照らせば、絞扼性イレウスを疑うことができない場合、イレウス治療の基本となるのは保存的治療であるが、一週間程度保存的治療を行っても症状の改善がみられないときには、保存的治療の限界と判断して手術に踏み切るべきであるというべきところ、被告病院の医師は、原告一郎にイレウスが発症したと診断することが可能であった同年三月二九日の六日後である同年四月四日に第二手術を施行しようとしたのであるから、保存的治療の限界という観点からみても、被告病院の医師において、手術を遅延させた過失があると認めることはできない。
(4) 以上によれば、争点(1)についての原告らの主張は、理由がない。
2 争点(2)(第二手術までの全身状態管理を怠った過失の有無)について
(1) 原告らは、被告病院の医師において、水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し、血清中の電解質レベルを毎日測定し、尿比重検査及び尿量検査等を行うなどして、原告一郎の全身状態を管理すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠り、第二手術までに原告一郎の全身状態を悪化させた過失がある旨主張する。
(2) そこで、平成三年四月三日までに被告病院の医師が行った原告一郎の全身管理についてみるに、前記前提となる事実(2)オに加え、証拠(甲16、乙4、証人丙山)によれば、次の事実が認められる。
第一手術後、同年三月二八日までの原告一郎の経過は順調であったが、翌二九日になって、原告一郎が下腹部痛、嘔吐感を訴えたため、被告病院の医師は、腹部レントゲン検査を行い、小腸内ガス像及びニボー像を確認した。この段階で、被告病院の医師は、食べ過ぎに起因するイレウスを疑い、同月三〇日に絶食とし、輸液を開始し、腹部レントゲン検査を行った。同年四月一日、丙山医師が主治医となり、ガストログラフィン追跡造影検査を行い、イレウスと診断し、飲食を禁止した。同月二日、丙山医師は、イレウスの原因が胆汁の漏れにあるのではないかと疑い、Tチューブ造影検査を行ったが、胆汁の漏れが認められなかったので、第一手術の影響がイレウスの原因ではないかと考え、同日、高カロリー輸液による中心静脈栄養を開始するとともに、経鼻的にイレウスチューブを挿入して腸液、ガス等を吸引する保存的治療を開始した。同月三日、丙山医師は、ガストログラフィンによる造影検査を行い、小腸が完全に閉塞していることを確認し、閉塞部位を小腸の手術瘢痕部と特定した。この間、被告病院の医師は、同年三月一五日、同月一八日、同月二三日、同月二八日及び同年四月三日に血液生化学検査を行い、原告一郎の血清中の電解質レベル等を測定したが、それ以外の日には、血液生化学検査を行わず、尿比重検査及び尿量の検査も行わなかった。
(3) ところで、イレウスの患者は、消化管内外への水分の貯留ないし漏出、嘔吐、発熱により、脱水、電解質不均衡、血液濃縮、高窒素血症、乏尿等が生じやすいこと(甲2、36)、体液の分布、体液及び消化液の電解質組成並びに水分の出納を知ることが輸液管理の基本であるとされていること(甲21)に鑑みれば、被告病院の医師において、原告一郎の水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し、血清中の電解質レベルを毎日測定し、尿比重検査及び尿量検査等を行うことが、望ましい全身管理の方法であるというべきである。
しかしながら、①被告病院の医師において、腹部レントゲン検査の結果等から、原告一郎にイレウスが発症したことを疑い、その後は毎日のように腹部レントゲン検査ないし造影検査等を行い、原告一郎を絶飲食とし、高カロリー輸液による中心静脈栄養を開始して水分、電解質及び栄養の補給を行うとともに、イレウスチューブによる吸引を行って消化管を減圧するなど、保存的治療として必要な措置を講じていること、②高カロリー輸液による中心静脈栄養は、これのみでも食事をするのと同程度の栄養維持が可能なものと解されること(乙17、証人菱山)、③前記第3の1(3)で認定したとおり、平成三年四月三日まで、原告一郎に絞扼性イレウスが発症したことを疑うべき所見はなかったこと、④前記前提となる事実(2)オ記載のとおり、原告一郎は、同日まで、自力歩行によりトイレで排尿していたこと、⑤丙山医師は、この点について、「血液検査は、絞扼性イレウスか否かを判断する一つの参考指標にすぎないから、絞扼性イレウスの所見がなければ、毎日のように血液検査を行う必要まではないと考える。原告一郎の場合には、歩行してトイレで用を足しており、イレウスの患者についてはなるべく歩いて腸を動かすことが重要であるから、膀胱にチューブを入れて尿量を厳密に測ることまではしなかった。」という見解を示しており(証人丙山)、一般的見解としてこれを否定すべき証拠もないことに照らせば、被告病院の医師において、同日までの間、水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し、血清中の電解質レベルを毎日測定し、尿比重検査及び尿量検査等を行うべき法的義務があったとまで認めることは困難である。
(4) 以上によれば、争点(2)についての原告らの主張は、理由がない。
3 争点(3)(本件麻酔施行上の過失の有無)について
(1) 原告らは、本件麻酔施行時、原告一郎の全身状態が悪化し、脱水状態に加えてショック状態ないしプレショック状態を呈していたにもかかわらず、麻酔医において、原告一郎の全身状態の把握を怠り、全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失あるいは麻酔剤を急速に注入した過失により、原告一郎を心臓停止に陥らせ、その結果、大脳皮質障害に陥らせた旨主張するので、この点について検討する。
(2) 前記前提となる事実に加え、後掲各証拠によれば、以下の事実が認められる。
ア(ア) イレウスによる脱水について
イレウスの患者においては、時間の経過とともに細胞外液に含まれない液体が腸管内に貯留し、腸管内容が口側に逆流して嘔吐となって現れるため、脱水、電解質不均衡、血液濃縮、高窒素血症、乏尿等が生じやすく、中心静脈圧、心拍出量、循環血液量等が低下し、著しいときはショックに陥る危険がある(甲2、36)。
脱水状態を十分に改善しないまま、イレウスの患者に麻酔を施行した場合、患者がショック状態に陥る危険があるため、麻酔医は、イレウスの手術に当たり、術前に患者の全身状態をよく把握し、患者に脱水があれば、輸液等により水分、電解質、酸塩基平衡の補正を行い、患者の循環血液量を正常に戻した上で、麻酔を施行すべきである(甲2、3、21、35、38)。
患者が脱水状態にあるか否かを評価する上で、病歴からは健康時との体重の変化量、絶飲食の時間、嘔吐や下痢等の体液異常喪失等が、身体所見からは血圧、心拍数等のバイタルサインのほか、皮膚粘膜の状態、倦怠感、尿の色、尿比重等が、検査所見からはヘモグロビンの上昇、ヘマトクリットの上昇、電解質ナトリウムの変化、血清尿素窒素の上昇、尿素窒素クレアチニン比の上昇等がそれぞれ重要な基準となる(甲35、38)。
(イ) 硬膜外麻酔について
硬膜外麻酔には、①任意の分節の麻酔が得られること、②持続麻酔によって手術中及び手術後も長時間にわたって除痛することが可能であること、③脊椎麻酔に比べ、呼吸系や循環系に与える影響が小さく、合併症の危険が小さいこと、④全身麻酔と併用することにより応用範囲が拡大することなどの利点がある一方、①手技が難しく、硬膜外腔を確認する手技に熟達している必要があること、②麻酔が広範囲になると血圧が低下し、全身麻酔を併用した場合、使用吸入麻酔剤によっては著明に血圧の低下をみることがあることなどの欠点がある(甲3、22、34、乙15)。
硬膜外麻酔が血圧の低下を招くのは、交感神経の遮断により血管の拡張及び心筋の被刺激性の低下をもたらすためであり、血圧の低下の程度は、循環血液量が不足している症例において著明である(甲3、22、33、34)。
このため、硬膜外麻酔は、①ショック状態の患者、例えば消化管穿孔やイレウスの末期の患者、②高度の脱水、貧血等で循環血液量が不足していると思われる患者に対しては、禁忌であるとされており、循環血液量が不足している患者については、術前に十分な輸液を行い、循環血液量を補正することが必要である(甲22、34)。
麻酔剤の中でも、キシロカインには、麻酔の作用の発現が早く、麻酔力が強く、拡がりやすいという性質がある(甲3、22)。
(ウ) 全身麻酔を併用する場合の注意点について
全身麻酔剤イソゾール(バルビタール剤)には、心筋抑制作用によって心拍出量を減少させ、血管運動中枢を抑制し、末梢血管を拡張させる作用があるため、血圧の低下をもたらす。このため、循環血液量が減少している患者に対しては、少量にとどめるべきであり、ショック状態の患者に対しては、禁忌であるとされている(甲3、33)。
また、硬膜外麻酔により腹部や下肢の血管が拡張し、代償的に上肢の血管が収縮を起こしているようなときに、全身麻酔の併用によって全身の血管の拡張作用をもつ麻酔剤を投与すると、この代償作用をも消失させ、血圧を大幅に下降させ、心拍出量も低下させるため、注意が必要であるとされている(甲25)。
(エ) 麻酔剤の量及び注入速度について
硬膜外麻酔の施行に当たっては、まず、麻酔剤二ないし三ミリリットルを試験量として注入し、その後三ないし四分待ち、これによる異常が認められないことを確認した上で、必要な量の麻酔剤を本格的に注入する(甲3、乙15)。
硬膜外麻酔において二パーセントキシロカインを投与した場合、投与後二ないし三分で温覚が消失し、四ないし五分後に痛覚鈍麻が起こり、さらに二ないし三分で無感覚となり、一五ないし二〇分で麻酔域が概ね固定する(甲3)。
脱水、イレウス等により循環血液量が減少している患者は、循環抑制を生じやすいため、麻酔剤を急速に注入すると、心停止の危険がある(甲21)。
硬膜外麻酔のみを施行する場合には、十分量の麻酔剤を投与するが、硬膜外麻酔に全身麻酔を併用する場合には、硬膜外麻酔のみを施行する場合の半分の量の麻酔剤の投与で足りる。全身麻酔を併用する場合に、十分量の硬膜外麻酔剤を投与すると、硬膜外麻酔による交感神経の遮断に全身麻酔による交感神経の遮断が加わり、血圧が著しく低下する(甲34)。
イ 本件麻酔を施行した被告病院の乙川医師は、本件麻酔について概ね次のような見解を示す(乙22、証人乙川)。
(ア) 硬膜外麻酔には血圧を下げる作用があり、イソゾールには循環抑制作用がある。
(イ) 第二手術の前に、丙山医師らから、当日施行した造影検査の結果通過障害があったこと、それまでの治療経過並びに一般血液検査及び生化学検査の結果等について説明を受けた。手術室に入室した原告一郎を見たところ、腹痛を訴えており、第一手術の時に比べて体重が減少している印象を受けたが、全身の皮膚、口唇等の状態は、著明な脱水症状と判断されるものではなかった。また、術前に既に強度の脱水症状その他の異常所見があれば、担当の外科医から申し送りがあるはずであるが、格別のものはなかった。自ら看護記録を点検したりはしなかった。
(ウ) 平成三年四月三日の血液検査の結果は、同年三月一五日の血液検査の結果と比べて赤血球、ヘモグロビン、ヘマトクリットの数値がそれぞれ上昇しており、循環血液量が減少したことがその一因とも思われるが、特に異常な数値ではない。同年四月三日の白血球数(九八〇〇)は、腹部に異常のある患者の数値として特に異常な数値であるとはいえない。また、同月四日の白血球数(一万九九〇〇)は、心停止後に採血した結果であると考えられるが、心臓マッサージ等により循環動態に著明な影響があった後であるために高い数値になったものと考えられる。
(エ) 原告一郎の全身状態、体重の減少及び丙山医師らの申し送り事項等を考慮し、第一手術よりも二ミリリットル減量した二パーセントキシロカイン一〇ミリリットルを乙川医師が自ら注入した。
麻酔の範囲は、麻酔施行後五ないし一〇分後に判明するところ、当初は硬膜外麻酔の単独施行を考えていたが、硬膜外麻酔施行後に腹部の筋弛緩が不十分であると考えられたため、硬膜外麻酔だけでは十分でないと考え、全身麻酔を併用することにした。そして、原告一郎の全身状態、体重の減少及び丙山医師らの申し送り事項等を考慮し、第一手術よりも四ミリリットル減量したイソゾール一〇ミリリットルが乙川医師の指示の下に看護婦により注入された。この際、看護婦の注入方法に問題があったという記憶はない。
(オ) 結果から逆推すると、原告一郎は、同日の段階では、既にプレショック状態ないし強度の脱水状態で、麻酔剤の量を控え目にしたとはいえこれにも持ちこたえられない程度の重篤な状態であったとも考えられる。
ウ 原告一郎の主治医であった被告病院の丙山医師は、本件麻酔施行時の原告一郎の状態について概ね次のような見解を示す(証人丙山)。
ショック状態であれば、レントゲン検査等はできないので、原告一郎はそこまで重篤な症状ではなかったと考えられる。また、イレウスの場合、必ず脱水を伴うが、第二手術の時点で、原告一郎の脱水は軽度であったと判断している。原告一郎が歩行してトイレに行っていること、車椅子で検査に行っていることや血圧、脈拍、体温及び呼吸状態等のバイタルサインから、全身状態が第二手術の時点で特に悪化しているとは考えなかった。
エ 旭川赤十字病院で第三手術を担当した菱山医師は、同病院を受診した際の原告一郎の状態等について概ね次のような見解を示す(証人菱山)。
(ア) 旭川赤十字病院を受診した際、原告一郎は既にショック状態で、血圧は八〇台であり、脈拍は一九〇台と頻脈を呈していたが、脱水もその因子の一つと考えられる。初診時、菱山医師は、原告一郎のイレウスの状態について、これは大変なことだなと理解した。
(イ) 平成三年四月五日に開腹した第三手術の際の腸管の壊死、穿孔の状態は、穿孔が始まって一両日程度経過した状態であると考えられる。
(ウ) 原告一郎の心停止の原因としては、脱水症状が非常に強かったこと、敗血症になっていたこと、心房細動があったことなどの因子が重なったものと考えられる。
オ 鑑定人である花岡一雄医師(以下「花岡医師」という。)は、本件麻酔について概ね次のような見解を示す(証人花岡、鑑定の結果)。
(ア) 硬膜外麻酔には、末梢血管を拡張させ、血圧を低下させる作用があるため、ショック状態の患者については禁忌であり、高度の脱水の症例については脱水を補正しない限り禁忌である。
(イ) イレウスの患者の場合、急激に脱水が進行することも考えられる。急激に脱水が進行した場合、外見上、皮膚や口唇の状態から脱水の程度を推測することは難しい。
(ウ) 平成三年四月三日の血液検査におけるヘモグロビン、ヘマトクリット、尿素窒素クレアチニン比の上昇から、原告一郎は、ある程度の脱水状態にあったと考えられ、これらの数値の推移からみると、脱水の度合いがかなり上昇した可能性もある。また、クロール値の低下から、かなりの嘔吐がみられたと考えられる。同月四日の第二手術の前に、できれば原告一郎の血液検査をすべきであった。
(エ) 原告一郎には心房細動があり、血栓を作りやすい状態にあるが、麻酔管理上それほどのリスクは伴わないと考えられる。心停止により白血球数が増加することもあるが、仮に、原告一郎の手術時の白血球数が一万九九〇〇と高値を示していたとしても、その原因が手術部位であるイレウスにあると考えれば、原因を元から絶つために手術に踏み切ることに特に問題はない。
(オ) 絞扼性イレウスという状況であっても、痛みの遮断や全身麻酔剤の軽減という利点を考えると、硬膜外麻酔が不適当とは考えない。イレウスの患者については、フルストマック状態にあることを念頭に置き、誤嚥性肺炎を予防するため、意識下に手術を行う麻酔方法がしばしば選択され、この点からも硬膜外麻酔を選択することに問題はない。
(カ) 硬膜外麻酔を施行するに当たっては、脱水状態が強いと血圧が急激に低下する危険性があるため、十分な輸液を行うべきであるところ、原告一郎の場合、硬膜外麻酔のためのチューブを挿入するまでの約三〇分間にグルコース二〇〇ミリリットル(中心静脈栄養)、ラクテック二五〇ミリリットル(末梢)が点滴投与されており、また、原告一郎は、手術室入室時の血圧が最高一〇八、最低七三であり、硬膜外麻酔の施行に必要な体位をとっているから、少なくともショック状態ではなく、原告一郎に対して硬膜外麻酔を施行したことは妥当である。また、硬膜外麻酔に全身麻酔を併用したことについても、バランス麻酔として適切である。
(キ) 結果的に心停止が起こったことから逆推すると、末梢血管を拡張させて血圧を下げる作用のあるキシロカインと心臓の収縮力を弱めて血圧を下げる作用のあるイソゾールの効果がある一点で合わさって相乗的に作用し、予想を超えた血圧下降反応を示したのかもしれず、また、原告一郎には心房細動があったため、血栓を生じ易かった可能性もある。いずれにしても、原告一郎が心停止に陥ったのは、通常の一般的概念を逸脱したものであったと考えられる。
(ク) 本件麻酔において、キシロカインを投与してからイソゾールを投与するまでの時間が余りないが、硬膜外麻酔の効果は、五分ないし一〇分程度後に現れることが多いので、少し待つのが普通であると思う。イソゾールには、血圧を低下させる作用があるので、全身状態が悪い場合には慎重に投与しなければならない。
(3)ア 本件麻酔施行時、原告一郎が脱水状態にあったか否かについて
(ア) 原告らは、本件麻酔施行時、原告一郎が脱水状態にあった旨主張するので、まずこの点について検討する。
(イ) 血液検査の結果について
前記第3の3(2)ア(ア)及び第3の3(2)オによれば、患者が脱水状態にあるか否かを評価する上で、血液検査の所見からは、ヘモグロビンの上昇、ヘマトクリットの上昇、電解質ナトリウムの変化、血清尿素窒素の上昇及び尿素窒素クレアチニン比の上昇等が重要な基準となることが認められる。
そこで、原告一郎の血液検査の結果について検討するに、前記前提となる事実(2)オ(ケ)記載のとおり、本件麻酔施行前日である平成三年四月三日、原告一郎のヘモグロビンは、それまでの検査数値の中で最も高い一七g/dlの数値を記録しているが、これは正常値のほぼ上限の値である。次に、同日、原告一郎のヘマトクリットは、正常値の範囲内にとどまっているものの、それまでの検査数値の中で最も高い47.7パーセントの数値を記録している。また、同日、原告一郎の電解質ナトリウムは、それ以前の検査数値の中で最も低い一三五mEq/lの数値を記録しているが、これは正常値の下限の値である。そして、同日、原告一郎の血清尿素窒素は、それ以前の検査数値の中で最も高い三七mg/dlの数値を記録しているが、これは正常値の上限の二倍近い異常値である。さらに、同日、原告一郎の尿素窒素クレアチニン比は、それ以前の検査数値の中で最も高い33.636の数値を記録しているが、これは正常値の上限の三倍を超える異常値である。
また、本件麻酔施行後、原告一郎が心停止した後に採血した同月四日の血液検査の結果について検討するに、前記前提となる事実(3)ウ記載のとおり、原告一郎の電解質ナトリウムは、一三一mEq/lと前日よりもさらに低い数値を示し、原告一郎の血清尿素窒素は、58.9mg/dlと異常値を示した前日に比しても急激に上昇しているし、原告一郎の尿素窒素クレアチニン比は、34.647と前日よりもさらに高い数値を示している。
さらに、前記第3の3(2)オによれば、電解質クロールの低下は、嘔吐があることを示していると認められるところ、前記前提となる事実(2)オ(ケ)及び(3)ウ記載のとおり、同月三日及び同月四日の原告一郎の電解質クロールは、それぞれ九〇mEq/l、八八mEq/lと正常値を大きく下回る数値を記録していて、原告一郎にかなりの嘔吐があったことを裏付けるものである。
以上のような血液検査の結果に加えて、花岡医師が、前記第3の3(2)オ記載のとおり、同月三日の血液検査におけるヘモグロビン、ヘマトクリット及び尿素窒素クレアチニン比の上昇から、原告一郎がある程度の脱水状態にあったと考えられ、これらの数値の推移からみると、脱水の度合いがかなり上昇した可能性もある旨の見解を示していることに照らせば、本件麻酔施行時、原告一郎の脱水状態は相当進行していたと推認することができる。
(ウ) イレウスの悪化とそれに伴う脱水状態の変化について
前記第3の3(2)ア(ア)によれば、イレウスの患者においては、時間の経過とともに細胞外液に含まれない液体が腸管内に貯留し、嘔吐も現れるため、脱水に陥りやすいことが、また、前記第3の1(2)イによれば、持続性の激しい腹痛及び白血球数の増加等は、絞扼性イレウスに特徴的な所見であることが認められる。
そして、①前記前提となる事実(2)オ(ク)及び(3)イ(ウ)記載のとおり、原告一郎は、本件麻酔施行当日である平成三年四月四日午前四時ころから、それまでの自制の範囲内のものとは異なる自制不可能な腹痛を訴え始め、この腹痛は、鎮痛剤を投与されたにもかかわらず手術室に入室するまで続いていたこと、②前記前提となる事実(2)オ(ケ)記載のとおり、同月三日の血液検査において、原告一郎の白血球数が、それ以前の検査数値の中でも最も高い九八〇〇の数値を記録しているところ、これは正常値の上限値であること、③前記前提となる事実(4)イ記載のとおり、本件麻酔の施行から一日余りしか経過していない同月五日の第三手術の際、原告一郎の小腸の一部が既に圧迫壊死し、穿孔及び汎発性腹膜炎が生じていたところ、前記第3の3(2)エ記載のとおり、執刀した菱山医師は、この状態について、穿孔が始まって一両日程度経過した状態であると考えられる旨の見解を示していることに照らせば、本件麻酔施行時、原告一郎のイレウスは悪化し、既に絞扼性イレウスに至っていた可能性も否定し難く、仮に絞扼性イレウスに至っていなかったとしても、原告一郎の腹部の炎症が相当程度亢進していたものと推認することができる。
そうすると、本件麻酔施行時、原告一郎において、イレウスの悪化及び腹部の炎症の亢進に伴い、脱水の度合いも一段と悪化していたものと推認することができ、この点は、上記(イ)の血液検査の結果からの推認と一致するということができる。
(エ) 原告一郎の脱水状態の程度とその認識可能性について
前記前提となる事実(2)オ(キ)記載のとおり、原告一郎は、平成三年四月三日午後一〇時五〇分ころ、二五〇ミリリットルの濃縮尿を排泄している。また、前記前提となる事実(4)ア記載のとおり、被告病院の田中医師は、旭川赤十字病院の外科医に宛てた同月五日付けの依頼状において、原告一郎の状態について、「現在脱水強く」と記載しているところ、甲11号証(本件麻酔施行後旭川赤十字病院に搬送されるまでの間の被告病院における看護記録)によれば、原告一郎は同月四日午後七時三五分ころに一回嘔吐したことが認められるほかは、本件麻酔施行後、旭川赤十字病院に搬送されるまでの間、イレウスの進行を除けば、その脱水状態を悪化させるような事情も特に認められない(原告一郎が旭川赤十字病院に到着したのが同月五日午後零時五〇分ころであり、前記甲11号証の看護記録の記載が同日午前一〇時〇五分で終わっていることからみて、田中医師の上記依頼状は同日午前一〇時ころまでに書かれたものと推認される。)。さらに、前記第3の3(2)エ記載のとおり、菱山医師は、原告一郎が旭川赤十字病院を受診した際に既にショック状態であり、脱水もその因子の一つと考えられる旨の見解を示している。
以上の事実と上記(イ)及び(ウ)で認定した原告一郎の血液検査結果及び脱水状態の変化に照らすと、原告一郎は、本件麻酔施行時には、前日の血液検査に係る採血が行われた時点と比べて格段に脱水の程度が進行していたと推認するのが相当であり、したがって、被告病院の医師が第二手術を施行するに先立って原告一郎の血液生化学検査を行っていれば、原告一郎が既に相当な程度の脱水状態にあることを認識することができたと推認することができる。
イ 原告一郎の全身状態の把握を怠った過失の有無について
(ア) 原告らは、本件麻酔施行時、原告一郎の全身状態が悪化していたにもかかわらず、被告病院の麻酔医において、原告一郎の全身状態の把握を怠った過失がある旨主張するので、この点について検討する。
(イ) 前記第3の3(2)ア(ア)、(イ)及びオによれば、脱水状態を十分に改善しないまま、イレウスの患者に麻酔を施行した場合、患者がショック状態に陥る危険があるため、麻酔医は、イレウスの手術に当たり、術前に患者の全身状態をよく把握し、患者に脱水があれば、これを補正した上で、麻酔を施行すべきであること、特に、硬膜外麻酔は、血圧を低下させる作用を有し、その程度は脱水等により循環血液量が不足している症例において著明であるから、高度の脱水等により循環血液量が不足している症例に対しては、脱水を補正しない限り禁忌であることが認められる。
これに加えて、①イレウスの患者の場合、急激に脱水が進行することも考えられる(証人花岡)ところ、上記ア(イ)及びア(エ)のとおり、第二手術の前日である平成三年四月三日に施行された血液検査の結果は、原告一郎が脱水状態にあり、それが進行していることを疑わせるものであり、同日夜には濃縮尿を排泄していたこと、②前記前提となる事実(2)オ記載のとおり、原告一郎は、同日までは腹痛を訴えても自制の範囲内であったのに、同月四日には一転して自制不可能な腹痛を訴え始めるなど、その容態に顕著な変化がみられたことも併せ考えれば、被告病院の医師において、本件麻酔を施行するに先立ち、原告一郎が、硬膜外麻酔を施行する上で禁忌であるとされる高度の脱水状態に陥っていないかどうか等、原告一郎の脱水状態の程度を確認するために、原告一郎の血液生化学検査を行うほか、原告一郎の全身状態を改めて慎重に診察し、とりわけ原告一郎がどの程度の脱水状態に陥っているかを十分に検査し診察すべき注意義務があったというべきである。しかるに、被告病院の医師は、これを怠り、本件麻酔を施行するに先立って原告一郎の血液生化学検査等をして改めて診察をしなかったため、原告一郎において、前日に行われた血液生化学検査のときと比べて格段に脱水の程度が進行して相当な程度の脱水状態に陥っていたことを看過した過失があるというべきである。なお、本件麻酔を担当した乙川医師は、原告一郎の同日までの症状を詳細に把握していなかったが、この点は、麻酔担当医としての過失あるいは原告一郎の主治医である丙山医師が乙川医師に情報を伝達することを怠った過失によるものというべきである。
この点について、花岡医師は、前記第3の3(2)オ記載のとおり、第二手術の前に、できれば原告一郎の血液検査をすべきであった旨の見解を示しており、この見解は、被告病院の医師において、本件麻酔を施行するに先立ち、原告一郎の血液生化学検査を行うべき注意義務があったとの上記認定を裏付けるものと考えられる。
ウ 本件麻酔の手技が不適切であったことについて
(ア) 原告らは、被告病院の麻酔医において、全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失又は麻酔剤を急速に注入した過失がある旨主張するので、この点について検討する。
(イ) 前記第3の3(2)ア(イ)、(ウ)、イ及びオによれば、①硬膜外麻酔は、血管を拡張させて心筋の被刺激性を低下させる作用を有するため、血圧の低下を招き、その程度は、脱水等により循環血液量が低下している症例において著明であるから、高度の脱水等により循環血液量が不足している症例に対しては、脱水を補正しない限り禁忌であること、②麻酔剤の中でも、キシロカインは、麻酔力が強く、拡がりやすいという性質を有すること、③イソゾールは、心筋及び血管運動中枢を抑制し、末梢血管を拡張させる作用を有するため、血圧の低下を招き、その程度は、脱水等により循環血液量が減少している症例において著明であることが認められる。
また、前記第3の3(2)ア(ウ)、(エ)、イ及びオによれば、①硬膜外麻酔を施行するに当たっては、最初に麻酔剤二ないし三ミリリットルを試験量として注入し、その後三ないし四分待ち、これによる異常が認められないことを確認した上で、必要な量の麻酔剤を本格的に注入すべきであること、②イソゾールには、血圧を低下させる作用があるため、循環血液量の減少している患者には少量にとどめるなど、全身状態が悪い患者に対しては慎重に投与しなければならないこと、③硬膜外麻酔と全身麻酔とを併用する場合には、硬膜外麻酔を施行した後、五ないし一〇分程度待ち、硬膜外麻酔の効果及び範囲を確認した上で、全身麻酔を施行すべきであること、④共に血圧を下げる作用を有する硬膜外麻酔とイソゾールとを併用した場合、血圧を大幅に下降させる可能性があることが認められる。
(ウ) 以上の認定事実によれば、麻酔医において、相当な程度の脱水状態に陥っている患者に対してキシロカインを用いた硬膜外麻酔とイソゾールを用いた全身麻酔とを併用するに当たり、最初にキシロカイン二ないし三ミリリットルを試験量として注入し、その後三ないし四分待ち、患者の状態に異常が認められないことを確認した上で、必要量のキシロカインを患者の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し、その後五ないし一〇分程度待ち、麻酔の効果及び範囲を確認し、患者の状態に異常が認められないことを確認した後に、必要量のイソゾールを患者の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っているというべきである。
ところが、手術室記録(乙3)には、本件麻酔の施行に当たり、午前一一時四五分に硬膜外チューブから二パーセントキシロカイン一〇ミリリットルを注入し、続いて、午前一一時四八分にイソゾール一〇ミリリットルを注入した旨の記載があるところ、花岡医師は、手術室記録の上記記載は、緩徐に行った麻酔剤の注入をまとめて記載した可能性があるので、必ずしも、上記各麻酔剤をそれぞれ一時に注入したとは限らない旨指摘するが(証人花岡)、乙川医師の陳述書(乙22)及び証人乙川の証言中には、上記手術室記録の記載とは異なる上記注意義務に従った方法で各麻酔剤を注入したことをうかがわせる部分がないことに照らすと、乙川医師は、午前一一時四五分に二パーセントキシロカイン一〇ミリリットルを短時間のうちに一度に注入し、そのわずか三分後である午前一一時四八分に、看護婦に指示してイソゾール一〇ミリリットルを短時間のうちに一度に注入したものと認めるのが相当である。
そうすると、被告病院の医師において、上記アで認定したとおり相当な程度の脱水状態に陥っていた原告一郎に対して本件麻酔を施行するに当たり、最初にキシロカイン二ないし三ミリリットルを試験量として注入し、その後三ないし四分待ち、原告一郎の状態に異常が認められないことを確認した上で、必要量のキシロカインを原告一郎の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し、その後五ないし一〇分程度待ち、麻酔の効果及び範囲を確認し、原告一郎の状態に異常が認められないことを確認した後に、必要量のイソゾールを原告一郎の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っていたにもかかわらず、これを怠り、麻酔剤を急速に注入した過失があるというべきである。
この点について、花岡医師は、前記第3の3(2)オ記載のとおり、本件麻酔において、キシロカインを投与してからイソゾールを投与するまでの時間が余りないが、少し待つのが普通である旨の見解を示しており、この見解は、被告病院の医師において麻酔剤を急速に注入した過失がある旨の上記認定に沿うものである。
エ 被告病院の医師の過失について
上記イ及びウによれば、被告病院の医師において、本件麻酔の施行前に原告一郎の血液生化学検査等を行い、原告一郎が相当な程度の脱水状態にあることを把握し、こうした原告一郎の状態に応じた慎重な麻酔方法を採るべき注意義務を負っていたにもかかわらず、これを怠り、原告一郎の血液生化学検査等を行わず、このため原告一郎が相当な程度の脱水状態にあることを看過し、二パーセントキシロカイン一〇ミリリットルを急速に注入し、そのわずか三分後にイソゾール一〇ミリリットルを急速に注入した過失があるというべきである。証拠(乙18、証人花岡、鑑定の結果)中、以上の認定に反する部分は、その前提を異にするものであって、採用することができない。
オ 因果関係について
前記第3の3(2)ア(イ)ないし(エ)によれば、キシロカイン及びイソゾールは、共に血圧を下げる作用を有し、血圧の低下の程度は、脱水等により循環血液量が減少している患者において著明であること、硬膜外麻酔と全身麻酔を併用した場合に、その効果が相乗し、血圧を著しく低下させ、心拍出量を低下させる可能性があるため、注意が必要であること、脱水により循環血液量が減少している患者に対して麻酔剤を急速に注入すると、心停止の危険があるとされていることが認められる。
したがって、一方で、原告一郎が相当な程度の脱水状態にあることを看過し、共に脱水状態にある患者の血圧を著明に低下させる危険のある麻酔剤をいずれも急速に注入したという過失があり、他方で、前記前提となる事実(3)イ記載のとおりそのわずか約一〇分後に原告一郎の血圧が測定不能になり、さらにそのわずか約九分後に原告一郎の心停止が確認され、心停止による脳虚血を原因とする大脳皮質障害に至ったもので、脱水状態の患者に対して血圧を低下させる作用のある麻酔剤を急速に注入した場合に予想される典型的な転帰をたどったということができるのであるから、他に特段の事情の認められない限り、その過失と結果の発生との間には相当因果関係があると推認するのが相当である。そして、上記の推認を妨げるような特段の事情も認められない本件においては、被告病院の医師の過失により、原告一郎に大脳皮質障害という結果が発生したものであり、その間には相当因果関係があると認めることができる。
さらに、①前記第3の3(2)オのとおり、花岡医師も、心停止という結果から逆推すると、共に血圧を下げる作用のあるキシロカイン及びイソゾールの効果がある一点で合わされ、相乗的に予想を超えた血圧下降反応を示した可能性がある旨の見解を示していること、②前記前提となる事実(2)エ記載のとおり、原告一郎は、硬膜外麻酔(二パーセントキシロカイン)と全身麻酔(イソゾール)の併用下に第一手術を受けたが、血圧の一時的低下こそみられたもののエフェドリンの投与により回復しており、大事に至ることはなかったことからすれば、上記麻酔剤に対する原告一郎の特異体質等、他に心停止の原因があったとは考えにくいことも、被告病院の医師の過失と原告一郎に生じた結果との間に相当因果関係がある旨の上記認定を裏付けるものである。
4 争点(4)(損害)について
(1) 原告一郎の損害
ア 入院雑費 四四八万八七四〇円
前記前提となる事実及び上記認定事実によれば、原告一郎は、昭和一七年九月二九日生まれの男性であり、本件麻酔が施行された平成三年四月四日当時四八歳であったが、被告病院の医師の過失により、本件麻酔の導入時に心停止をきたし、脳虚血による大脳皮質障害に陥り、同日から現在まで意識障害が持続しており、チューブによる栄養補給等の全身管理を要するいわゆる植物状態にあるところ、現在の医療技術においては、回復は困難である。そのため、原告一郎は、意識障害に陥った同日から平均余命(平成三年簡易生命表によれば、30.30年である。)が尽きるまで、入院を継続するものと推認される(なお、原告一郎の容態は、症状固定後一〇年近くが経過した現在まで安定した状態が続いており(弁論の全趣旨)、生命の危険をうかがわせる事情は認められないし、現在の高い医療技術の下において、いわゆる植物状態の患者の生存可能期間が通常人に比して短いと認めるに足りる的確な証拠もないから、原告一郎の推定余命を健常人よりも短いものと考えることは相当でない。)。もっとも、入院が三〇年もの長期間に及ぶものと予想されることに加えて、植物状態にある原告一郎にとって、入院雑費の相当部分が生活費に含まれると考えられるところ、後記ウのとおり、後遺症逸失利益の算定に当たって生活費を控除しないこととの均衡を図る必要があることを考えると、純然たる入院雑費の額は、一日当たり八〇〇円を超えるものではないと考えるのが相当と判断する。そこで、遅延損害金の起算点となる不法行為時を基準時とし、ライプニッツ係数(三〇年の係数は15.3724)を用いて中間利息を控除して、原告一郎が要する入院雑費の上記基準時における現価を算定すると、次の計算式のとおりとなる(ただし、円未満切り捨て。以下同じ。)。
(計算式)800円×365日×15.3724=448万8740円
イ 休業損害 〇円
前記前提となる事実によれば、原告一郎は、平成三年四月四日、本件麻酔の導入時の心停止を原因として脳虚血による大脳皮質障害をきたし、これにより意識障害に陥り、意識障害が持続したまま旭川赤十字病院において第三手術を受けたが、第三手術後も意識障害が回復せず、現在まで意識障害が持続しており、現在の医療技術においては、回復が困難である。こうした経過に照らすと、原告一郎の症状は、同日に固定したと認めるのが相当である。
そうすると、原告一郎の症状は、本件不法行為の日に固定しているから、原告一郎には、不法行為の日から症状固定日までの休業による減収を意味する休業損害は発生していないというべきである(症状固定後の減収については、一括して後記ウの後遺症逸失利益として評価すべきである。)。
ウ 後遺症逸失利益
五七六八万三一三六円
原告一郎は、大脳皮質障害に基づく意識障害に陥ったが、これは後遺障害別等級の一級三号に該当し、労働能力を一〇〇パーセント喪失したものと認められるところ、上記後遺障害を負わなければ、四八歳(不法行為時)から六七歳までの一九年間にわたって就労することが可能であり、上記就労期間中、平成三年賃金センサス産業計・企業規模計・小学・新中卒の男子労働者全年齢平均賃金の年収四七七万三〇〇〇円を下らない年収を得ることができたものと推認することができる(なお、原告一郎の学歴については、新中卒よりも高いことを認めるに足りる証拠はない。)。
そこで、ライプニッツ係数(一九年の係数は12.0853)を用いて中間利息を控除すると、原告一郎の本件不法行為時における逸失利益の現価は、次の計算式により算出される五七六八万三一三六円と認められる(なお、原告一郎は、今後も生命維持のための費用の支出を要することが明らかであるから、生活費を控除することは相当でない。)。
(計算式)477万3000円×12.0853=5768万3136円
エ 後遺症慰謝料 二四〇〇万円
原告一郎の年齢、意識障害に至る経緯、後遺症の程度並びに被告側の過失の態様及び程度等の諸般の事情を考慮すると、後遺症による原告一郎の慰謝料は、二四〇〇万円と認めるのが相当である。
オ 介護費 一三八五万〇八七四円
上記ア記載の原告一郎の後遺症の程度に加え、弁論の全趣旨によれば、原告一郎は、同原告が介護費を請求する平成六年三月三一日以降も、植物状態という重篤な症状にあり、被告病院は、完全看護体制を採っているものの、重篤な患者には必ずしも十分ではないこともあって、原告花子が、入院中の原告一郎に付き添い、同原告の身の回りの世話等を行っていることが認められるとともに、今後も、原告一郎の平均余命(平成六年三月三一日当時五一歳であった原告一郎の平均余命は、平成三年簡易生命表によれば27.63年である。)が尽きるまで、日常的に親族による付添介護が継続されるであろうことが推認できる。もっとも、原告一郎が今後も入院を継続する蓋然性の高い被告病院では、完全看護体制を採っていて、親族において全日にわたって付添介護をする必要性があるとは考え難く、また、要する介護内容も、植物状態にない患者に比べると軽易なものと考えられるので、原告一郎に要する平成六年三月三一日以降の介護費は、一日当たり三〇〇〇円と認めるのが相当である。そこで、ライプニッツ係数(三〇年の係数は15.3724、三年の係数は2.7232)を用いて中間利息を控除すると、原告一郎が要する本件不法行為時における介護費用の現価は、次の計算式のとおりとなる。
(計算式)3000円×365日×(15.3724−2.7232)=1385万0874円
カ 弁護士費用 八〇〇万円
本件事案の内容、訴訟の審理経過及び認容額等に照らすと、被告の不法行為と相当因果関係のある原告一郎の弁護士費用は、八〇〇万円と認めるのが相当である。
(2) 原告花子の固有の慰謝料
三〇〇万円
原告二郎の固有の慰謝料
二〇〇万円
最愛の夫ないし父親が回復困難な意識障害に陥ってしまったことにより、原告花子及び同二郎は、原告一郎の死亡に比肩すべき精神的苦痛を受けたものと認められるところ、原告花子及び原告二郎の年齢、原告一郎の意識障害に至る経緯、その後遺症の程度並びに被告側の過失の態様及び程度のほか、さらに、肩書住所地に居住する原告花子においては、上記の精神的苦痛に加えて、将来にわたって日常的に原告一郎を介護する精神的、肉体的負担も受けていることを考えると、原告花子及び同二郎の固有の慰謝料は、それぞれ三〇〇万円及び二〇〇万円と認めるのが相当である。
5 結論
以上によれば、原告一郎、同花子及び同二郎の不法行為(使用者責任)に基づく本訴請求は、それぞれ一億〇八〇二万二七五〇円、三〇〇万円及び二〇〇万円並びにこれらに対する本件不法行為の日である平成三年四月四日からの遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからいずれも棄却することとし、訴訟費用については民事訴訟法六一条、六四条本文、六五条一項本文を、仮執行及びその免脱宣言については同法二五九条一項、三項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・佐藤陽一、裁判官・村田龍平、裁判官・坂田大吾)