札幌地方裁判所 平成8年(ワ)1460号 判決 2002年3月14日
主文
1 被告は、原告Aに対し440万円、原告B及び原告Cに対し各220万円及びこれらに対する平成5年6月25日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は、10分の1を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
4 この判決は第1項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第1請求
1 被告は、原告Aに対し3009万6644円、原告B及び原告Cに対し各1394万8322円及びこれらに対する平成5年6月25日から支払済みまで年5パーセントの割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
第2事案の概要
本件は、亡Dの相続人である原告らが、Dの健康診断を行った被告に対し、Dは被告の医療上の過誤(再検査等を指示すべき義務違反)により死亡したとして、医療契約の債務不履行又は不法行為に基づいて損害賠償及び民法所定の遅延損害金を請求する事案である。
1 争いのない事実等
(1) 原告AはDの夫であり、原告B及び原告CはDの子である。
(2) 被告は、地域住民の健康保持、増進に必要な事業を行うことを目的に設立された財団法人であり、予防接種や健康診断を主な事業として、苫小牧保健センター(以下「保健センター」という。)を開設している。
(3) Dは、体のだるさなどを覚え、平成3年12月4日、自ら希望して保健センターに赴き、健康診断を受診した(以下「本件健診」という。)。本件健診の担当は、E医師であった。
本件健診の結果、胸部エックス線所見は異常なしとされた。
(4) 本件健診時に撮影されたDの胸部エックス線写真(以下「本件エックス線写真1」という。)には、右肺野に小葉間裂に沿って長さ約40ミリメートル、最大幅約5ミリメートルの線状の陰影(以下「本件線状陰影」という。)がある。
(5) Dは、平成5年6月25日、北海道立苫小牧病院(以下「苫小牧病院」という。)で、肺癌を原因とする呼吸不全により死亡した。
2 争点
(1) 被告は、Dに対し、本件健診において、再検査や精密検査等を指示、勧告すべきであるのにこれを怠った等の過失があるかどうか。
(原告らの主張)
被告は、本件線状陰影が癌であることを疑い、これをDに告知し、確定診断のための検査方法(経気管支肺生検、末梢病巣擦過細胞診または開胸肺生検など)の内容を説明して、検査を受けるよう勧めるべき注意義務があるのにこれを怠り、本件線状陰影が癌の疑いのあることを看過し、Dに対し確定診断のための検査方法の説明をすること及び受診を勧めることを怠った過失がある。
(被告の主張)
E医師は、本件線状陰影の存在を確認していたが、これを右肺葉間の古い炎症(結核、肺炎など)の痕跡であろうと判断し、肺癌などの現在進行中の病気による異常陰影とは全く考えなかった。本件エックス線写真1によって本件線状陰影を癌と疑うことは困難であり、炎症性変化と診断するのが普通である。
本件健診は、受診者の現在の健康を保証するものではなく、将来の健康まで約束するものではない。被告は、本件健診の結果、肺機能所見としては異常なしとしたが、総合結果として「検査で軽い異常が認められますが、今のところ心配いりません。自覚症状があれば受診してください。」に該当すると判定し、保健婦による保健指導でも「自覚症状が続き気になれば、一度病院を受診しましょう」と指導していて、Dに気になる自覚症状があれば一般病院を受診すべきことを十分に伝達した。
被告がDに対し、再検査や精密検査等を指示、勧告しなかったことが妥当とはいえないとしても、Dは、「せき」、「たん」、「血たん」等の自覚症状が出れば、速やかに自ら受診して病気の早期発見に努めるべきであり、被告に過失があったとまではいえない。
(2) 被告がDに対して再検査や精密検査等を指示、勧告しなかったことと、Dの死亡との間に因果関係があるかどうか。
とくに、
① 本件健診当時、Dは肺癌であったか(本件線状陰影は癌であったか)どうか。
② 本件健診の後Dが精密検査等を受けていれば、より早期に癌を発見することができたかどうか。
③ 本件健診後速やかに治療を受けていれば、Dが平成5年6月25日に死亡したという結果を避けることができたかどうか。
(原告らの主張)
本件健診当時、本件線状陰影はすでに癌であった蓋然性が高い。
本件健診直後に、精密検査等でDが肺癌であることを発見する高度の蓋然性がある。Dは、自らの体調を自覚して人間ドッグを受診したのであるから、被告から確定診断のための検査を示唆されれば、当然被験した。
また、本件健診後、Dは、速やかに適切な治療(切除等)を受けることによって、現に死亡した時点においてなお生存していたであろう高度の蓋然性がある。
したがって、被告がDに対して再検査や精密検査等を指示、勧告しなかったことと、Dの死亡との間に因果関係がある。
(被告の主張)
本件線状陰影は、古い炎症の痕跡であり、癌ではない。
仮に癌であったとしても、非侵襲的検査(経気管支肺生検または末梢病巣擦過細胞診)の実施により、癌であることを診断できた可能性は低い。癌であることを診断する前に侵襲的検査(開胸肺生検)を行うことは通常ではありえない。よって、本件受診直後にDが再検査や精密検査を受けても、肺癌は発見できなかった。
仮に本件健診直後の再検査等でDが肺癌であることが発見できたとしても、Dの長期生存は得られなかった。
したがって、被告がDに対して再検査や精密検査等を指示、勧告しなかったことと、Dの死亡との間に因果関係はない。
(3) 損害額
(原告らの主張)
ア 逸失利益 2979万3289円
平成5年賃金センサス産業計、企業規模計、学歴計、女子労働者全年齢平均の年間賃金は315万5300円であり、生活費としてその30パーセントを控除し、44歳(D死亡時の年齢)から67歳まで就労可能であるとして、ライプニッツ方式により中間利息を控除すると、Dの逸失利益は2979万3289円となる。
原告らは、上記Dの逸失利益を、法定相続分に従って相続した。
イ 慰謝料 2200万円
Dの死亡により、Dに発生する精神的損害に対する慰謝料としては、2200万円が相当である。
原告らは、上記Dの慰謝料を、法定相続分に従って相続した。
ウ 葬儀費用 120万円
原告Aは、Dの葬儀を行い、120万円を下らない費用を支出した。
エ 弁護士費用 合計500万円
原告らは、原告ら訴訟代理人に対し、本件訴訟の遂行を委任し、着手金及び報酬を支払う旨約した。そのうち、原告Aについて300万円、原告B及び原告Cについてそれぞれ100万円を被告に負担させるのが相当である。
オ したがって、原告Aの損害額は3009万6644円、原告B及び原告Cの損害額はそれぞれ1394万8322円となる。
(被告の主張)
ア 仮にDの肺癌が早期に発見されて治療が行われたとしても、予後が変わったといえず、職場復帰の可能性は低いし、長期生存も期待できない。
イ Dは喫煙を続けて自ら肺癌のリスクを高め、また、本件健診おいて「自覚症状があれば受診してください」と指導されたにもかかわらず、平成4年6月まで受診していないから、公平の観点から過失相殺をするべきである。
第3争点に対する判断
1 争点(1)(過失)について
(1) 本件健診に関して、前記争いのない事実、証拠(甲3、乙1、2、3の1・2、鑑定の結果)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
ア Dが受診した健康診断は、午前中に検査を行い、その検査結果に基づき、医師が、尿所見、便所見、腎所見、血清学検査、血糖・代謝、血清脂質、一般血液検査、肝所見、胸部エックス線所見、肺機能所見、消化器エックス線所見、眼科所見、聴力所見、血圧所見、心電心音所見、超音波所見、身体計測等の各項目ごとに6段階の医学的判定をした上で、総合判定を6段階で示す健康診断であった。受診者は、希望により、当日午後、判定担当医師と面談したり、保健婦、栄養士による個別の生活指導、栄養指導を受けることができた。
イ Dは、健康状態が良好でないと感じたため、被告に受診予約の電話をして、受診日として平成3年12月4日を予約し、本件健診を受診した。
ウ Dは、本件健診にあたり、問診調査表の自覚症状欄中「時々動悸(胸がドキドキする。)」、「時々顔や手足がむくむ」、「時々肩こり、首筋がはる」、「いつも食欲不振」、「いつもたんがでる」、「いつも声がかすれる」、「いつも体がだるい、疲れやすい」などの項目に該当する旨を意味する丸印を記入した。
なお、Dは、1日20本程度の喫煙者であり、問診調査表にその旨を記載した。
エ 本件健診の結果、眼科所見、聴力所見、心電心音所見の判定が「異常なし/検査で軽い異常が認められますが、今のところ心配いりません。自覚症状があれば受診してください。」、その他の項目(胸部エックス線(本件エックス線写真1)所見を含む)の判定は「異常なし/検査の範囲では異常を認められません。今後も健康診断を年1回必ず受けましょう。」であり、総合判定は「異常なし/検査で軽い異常が認められますが、今のところ心配いりません。自覚症状があれば受診してください。」であった。
Dは、本件健診日の午後、E医師と面談し、栄養士、保健婦から個別の生活指導、栄養指導を受けた。保健婦は「自覚症状が続き気になれば1度病院を受診しましょう。」と指導した。
オ 本件エックス線写真1には、右肺野に小葉間裂に沿って長さ約40ミリメートル、最大幅約5ミリメートルの線状の陰影(本件線状陰影)のほか、右肺野に淡い肺野濃度上昇の小結節影(以下「本件陰影1」という。)、右肺尖部に幅5ミリメートルの胸膜肥厚(以下「本件陰影2」という。)が写っていた。
E医師は、本件エックス線写真1に本件線状陰影があることを確認したが、古い炎症の痕跡と判断した。
(2) 本件エックス線写真1の判定等については、証拠(各項に記載したもの)によれば、以下の判断をすることができる。
ア 本件線状陰影は、本件エックス線写真1から、限局的な葉間胸膜の肥厚と判読できる。その原因としては、①結核を代表とする炎症性疾患による胸膜肥厚、②胸膜腫瘍、③一部が微小な肺癌で胸膜浸潤を伴っていることが考えられる。本件エックス線写真1一枚のみでは、肺癌に罹患していることを第一に疑うべき所見に乏しい。結核を代表とする炎症性疾患による胸膜肥厚である可能性が最も高いが、一部が微小な肺癌で胸膜浸潤を伴っている可能性も否定できない。(なお、本件陰影1は、後のエックス線写真では判読しえないことから、エックス線写真撮像時に肺血管と肋骨等による合成像が写ったものと認められる。)(鑑定の結果、調査嘱託の結果)
イ 本件健診により胸部の精密検査を指示する場合、①非侵襲的検査として、胸部エックス線CT、胸部MRIなどの画像検査、腫瘍マーカー血液中濃度測定などの付加的検査、②侵襲的検査として病変部位の採取による病理学的診断が考えられる。(証人F、乙6の1及び2)
ウ F鑑定人は、鑑定書において、本件健診の結果、再検査を指示しなかったことは妥当であるとはいえないと述べる。
(3) 上記(1)、(2)に基づき、被告が、Dに対し、再検査や精密検査等を指示、勧告すべきであるのにこれを怠った等の過失があるかどうかについて検討する。
ア Dは、自らの漠然とした体調不良を感じて健康診断を受診し、本件健診時には、さまざまな体調不良を訴えている。また、喫煙者であることも被告に伝えていた。
本件エックス線写真1には、本件線状陰影が読影されるが、これは①結核を代表とする炎症性疾患による胸膜肥厚、②胸膜腫瘍、③一部が微少な肺癌で胸膜浸潤を伴っているもののいずれかである可能性があり、本件エックス線写真1は異常がないものとは認められない。そして、本件エックス線写真1のみによっては、本件線状陰影が、上記①から③のいずれかを診断することはできない。ところが、E医師は、本件線状陰影を確認したにもかかわらず、①の胸膜肥厚によるものであると速断し、本件健診の肺機能所見の結果として、「検査の範囲では異常は認められません。今後も健康診断を年1回必ず受けましょう」と判定した。
健康診断は、病気の早期発見とともにそれらが発見された場合における適切な診療、治療を受けさせる療養指導を目的とするものであり、漠然とした体調不良を自覚している受診者にとって、病気を発見する有力な手がかりである。しかし、健康診断の結果、異常なしと診断されれば、受診者の自覚症状がさらに悪化するまで、受診者が病院に行って診療を受ける機会を奪うことになりかねない。このような健康診断の実体に即すると、健康診断を担当する医師は、第1次的スクリーニングを果たすという意義に基づき、検査の結果が医学的に異常がないと断定しきれない場合は、再検査又は精密検査の必要性を説明し、受診を勧める義務があるというべきである。これに対し、本件健診を担当したE医師は、本件健診の結果、本件エックス線写真1に異常陰影が認められ、健診時の検査結果だけによっては、その異常の原因が断定し得ず、癌である可能性を否定しきれないにもかかわらず、本件線状陰影が炎症性疾患による胸膜肥厚によると速断し、再検査、精密検査を指示、勧告しなかったのであり、このことは上記注意義務に反するものというべきである。
なお、E医師が、どのような理由で本件線状陰影が炎症性疾患による胸膜肥厚によるものであると判断し、その他の可能性を否定したのか明らかではないが、仮に肺癌である可能性を考えた上で何らかの理由によってその可能性はないと判断したとしても、レントゲン写真一枚から異常陰影の原因を特定し、あるいはその他の可能性を否定することができない以上、異常陰影の原因を診断するためにはさらに精密検査を受ける必要があることをDに対して説明するべきであった。
イ 調査嘱託の結果において、G医師は、本件エックス線写真1で癌を疑うことは難しく、炎症性変化と診断されると考えると述べる。しかし、その意味するところが、本件エックス線写真1のみによって本件線状陰影部分を診断するとすれば炎症性変化と診断されるということを越えて、肺癌の可能性を疑うことさえできないというのであれば、その根拠は不明であり、採用することができない。
また、被告は、再検査を指示、勧告しなかったことは妥当であるとはいえないとの鑑定人の指摘に対し、妥当とはいえないとしても被告に過失があったとまではいえないと主張し、証拠として、本件における再検査の勧告指示の有無は、当然に生じうる医師の判断の相違であり、いずれを選択しても過失とはいえない旨の記載があるH医師の意見書を提出する(乙6の1ないし3)。
しかし、本件線状陰影が、本件エックス線写真1のみによる診断では炎症性疾患による胸膜肥厚である可能性が高いとしても、それだけで胸膜肥厚と確定診断することはできず、肺癌である可能性も考えられること、陰影の原因を知る手がかりになる検査の中には、患者に苦痛を伴わず容易に行うことができる胸部エックス線CT、胸部MRIなどの画像検査、腫瘍マーカー血液中濃度測定などの付加的検査などの非侵襲的検査が存在することからすれば、医師としては、患者に対し、本件エックス線写真1に異常陰影があることを知らせ、異常陰影の原因を診断するにはさらに他の精密検査等を受診する必要があることを告げるべきであった。それにもかかわらず、被告が、医師の所見として、胸部所見に異常なしとし、年1回の健康診断の受診を勧めるにとどまり、自覚症状が続き気になれば1度病院を受診することを保健婦が勧告するにすぎなかったことは、漠然とした体調不良を感じて健康診断を受診したDにとって本件健診の目的を没却し、本件健診を受けたことを無意味にするものであって、最善の診療を行うべき注意義務に反する過失があると認められる。
2 争点(2)(因果関係)について
(1) Dの本件健診以降、死亡に至るまでの経過に関して、前記争いのない事実、証拠(甲4の1ないし22、5の1ないし17、6の1ないし14、7の1ないし4、8の1ないし8、証人F、鑑定の結果、調査嘱託の結果、各項記載のもの)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
ア Dは、平成4年5月下旬に発熱し、その後低い発熱が続き、咳、痰や右側胸部痛を感じたため、平成4年6月、I医院を受診した。
I医院のJ医師は、Dの胸部エックス線写真撮影の結果、右中肺野に異常陰影を認め、同月24日苫小牧病院で診察を受けることを勧めた(甲4の4)。
イ Dは、平成4年6月25日、苫小牧病院で受診し、同日胸部エックス線写真(以下「本件エックス線写真2」という。)、胸部断層エックス線写真(以下「本件断層エックス線写真」という。)の撮影を受けた。
本件エックス線写真2では、本件線状陰影及び本件陰影2が本件エックス線写真1と同様に読影できるほか、右側胸壁に沿った辺縁明瞭で内部が均一な陰影(以下「本件陰影3」という。)があり、また、右肋横隔膜角が不鮮明で鈍角となっていた。本件断層エックス線写真によると、本件線状陰影部分は、背面より10センチメートルの部分に明瞭であり、小葉間裂が限局的に肥厚していて、それに続く葉間裂はほぼ正常範囲内であるが、限局的な肥厚は一部不鮮明な部位も見られた。同写真の本件陰影3部分は胸膜に沿った均一な陰影であり、右肋横隔膜角は鋭角であり、右縦隔側のリンパ節がやや大きかった。苫小牧病院のG医師は、胸膜炎又は胸膜中皮腫を疑い、胸部エックス線CT検査を施行することにした。
同月26日、Dは胸部エックス線CT検査を受けた。G医師は、胸部エックス線CT検査の結果、縦隔リンパ節(#3、#4)の腫脹が強く、右胸膜部の病変は胸水ではなく充実性の病変であり、右中肺野の陰影は縮みの強い結節影の集合像であることが認められたことと、本件エックス線写真1には右胸膜部の病変がなかったことから、右胸膜部(本件陰影3部分)の生検が必要であると判断した。
ウ Dは、平成4年7月7日から苫小牧病院に入院し、右胸膜部(本件陰影3部分)について、透視下経皮穿刺吸引細胞診及び生検を受けた。Dは、検査後気胸等の合併症がなかったため、検査結果は外来で聞くことにして、同月11日に退院した。しかし、その検査結果からは、確定診断に至らず、再度検査が行われることになった。
入院中の7月7日に行われた胸部レントゲン検査による写真では、本件線状陰影部分、本件陰影2部分、3部分にほとんど変化はなかった。
ただし、7月8日の腫瘍マーカー血液中濃度測定の結果、CEA(腺癌においてしばしば高値を示す。)が12.4(正常参考値2.5)と高値を示した(甲5の8)。
エ Dは、平成4年8月7日、苫小牧病院において、再度、右胸膜部(本件陰影3部分)について、経皮穿刺生検を受けた。その病理組織学的診断の結果、同月12日、胸膜又は肺末梢より発生した肺癌(低分化型腺癌)と診断された。
8月17日に行われた胸部レントゲン検査による写真では、本件線状陰影部分、本件陰影2部分には変化がなかったが、本件陰影3部分はやや下方に進展した。
オ Dは、平成4年8月31日から同年11月26日まで、苫小牧病院に入院した。9月3日に行われた胸部エックス線CT検査の画像では、本件線状陰影部分は、辺縁やや不明瞭で腫瘤様の形態を示し、本件陰影3部分は限局性の病変を示していた。10月12日に行われた胸部レントゲン検査による写真では、本件線状陰影部分は淡い肺野濃度上昇の陰影として増大していた。11月16日に行われた胸部エックス線CT検査の画像では、本件線状陰影部分は、腫瘤影が葉間に見られ、肺野にも病変が見られた。本件陰影3部分の病変は上下方に進展し、一部肺野にも進展が見られた。
この間、9月15日から17日に第1回化学療法(CDDP(ブリプラチン)、IFX(イホマイド)及び5FU(5-フルオロウラシル)を点滴静注)が、10月20日から22日に第2回化学療法(CDDPを胸腔内に注入、IFXと5FUを点滴静注)が、行われた。
Dは、2回の化学療法によっても効果がないため、同年11月26日に苫小牧病院を退院し、以降外来による通院治療を受けた。
カ Dは、外来通院中、縦隔リンパ節腫大のため上大静脈の狭窄、気管の狭窄が進行してきたため、局所療法目的で、平成5年3月1日、苫小牧病院に入院し、同年3月9日と4月6日に、気管支動脈内抗癌剤注入療法(CDDP、MTX及び5FUを注入)を受けたが効果がなかった。また、同月中旬からは、上大静脈症候群(両上肢及び顔面の浮腫)が出現した。
気管狭窄は進行し、呼吸苦が出現、頚部リンパ節腫大、両側肺野への転移巣が増加した。
上大静脈症候群の悪化、気管狭窄による呼吸苦増強のため、同年5月14日、上大静脈の狭窄部及び気管狭窄部へステント(拡張様器具)を挿入し、一時小康状態を得た。しかし、肺炎、癌性リンパ管症(肺)、心不全等による呼吸不全が生じ、Dは同年6月25日に死亡した。
(2) まず、前記1(1)オ、(2)ア、上記2(1)の認定事実を前提とし、鑑定の結果、調査嘱託の結果を総合して、本件健診当時Dは肺癌であったか、すなわち本件線状陰影が癌であったかどうかについて検討する。
ア 本件エックス線写真1に写っている本件線状陰影の部分は、一部が微小な肺癌で胸膜浸潤を伴っている可能性を否定できないことは前記のとおりである。
苫小牧病院で平成4年6月25日以降に受けたレントゲン検査や胸部エックス線CT検査では、本件線状陰影部分は消失することがなく、変化なく現れている。
同年9月3日に行われた胸部エックス線CT検査の画像では、本件線状陰影部分は、辺縁やや不明瞭で腫瘤様の形態を示し、同年11月16日に行われた胸部エックス線CT検査の画像では、本件線状陰影部分は、腫瘤影が葉間に見られ、肺野にも病変が見られる。
イ 本件線状陰影部分について、平成4年6月25日に撮影した本件断層エックス線写真で、小葉間裂が限局的に肥厚しており、その肥厚に一部不鮮明な部位がみられることから、肺癌を疑うことができる。また、平成4年9月3日の胸部エックス線CTの結果、陰影が葉間胸膜に接しているが辺縁やや不明瞭で腫瘤様の形態を示しており、肺内病変の可能性が大きいことから肺癌を強く疑うことができる。(鑑定の結果)
ウ 一般的に良性のものが、短期間に癌化することはない。(調査嘱託の結果)
エ 証人Fは、本件健診時において本件線状陰影が癌であった可能性について、肺腺癌であると生検病理で診断されたこと、胸部エックス線CT検査による画像によれば、明らかに変化がみられたことから、60パーセントであると述べる。
G医師は、調査嘱託に対する回答において、診療経過からみると陰影の性状からみて本件線状陰影も癌であったと考えられると述べる。
オ 以上を総合すると、本件線状陰影部分は、平成4年9月以降(とくに同年11月)には、癌であったことは疑いないところであり、本件線状陰影は本件健診時と平成4年6月25日以降で変化がないこと、良性のものが短期間に癌化することはないことを併せて考えると、本件線状陰影部分は、本件健診時において、一部が微小な肺癌であり、胸膜湿潤を伴っていたものであったと認めることができる。
本件線状陰影部分を腺癌とすると、小葉間裂に接した肺野に腺癌が発生していて、胸部エックス線写真では判読し得ない程度で胸膜浸潤していたと考えられる。(鑑定の結果)
(3) 次に、精密検査等による肺癌の発見可能性、治療による生存可能性を検討する前提として、Dに対する検査方法、Dの肺癌の進行程度等について、検討すると、証拠(証人F、鑑定の結果)によれば、次のとおり判断することができる。
ア 胸部エックス線写真では、直径1センチメートル程度の腺癌病巣は判読し得ないことが通常である。しかし、CT、HRCT薄切像を用いれば、直径5ミリメートル程度でも描出することが可能である。
イ 本件健診時、Dが肺癌であることを確定診断するためには、経気管支肺生検または末梢病巣擦過細胞診、あるいは開胸肺生検の実施が考えられる。
ただし、本件健診時、本件線状陰影部分について、経気管支肺生検または末梢病巣擦過細胞診を行った場合、本件線状陰影部分の肺癌の病巣は非常に小さく、葉間裂に接した末梢肺に存在しているため、病理組織学的診断に有用な十分な検体を得ることは非常に困難であり、その診断率は、術医者の熟練度にもよるが30パーセント以下である。
開胸肺生検を行った場合には、外科的に手術して検体を得るので、病理組織学的診断は可能である。しかし、開胸する必要があるという判断には至りにくい。
ウ 本件健診時、本件線状陰影部分が肺腺癌であれば、その近接する胸膜への浸潤はあったと考えられるが、その他への浸潤、転移を疑わせる所見はない。
本件線状陰影部分が肺腺癌でその近接する胸膜への浸潤はあるが、その他への肺癌の発生や転移がないことを前提とすると、本件線状陰影部分は、本件健診時、手術前の臨床的所見によるTNM病期分類(cTNM。Tは原発巣の部位と大きさ、Nは領域リンパ節転移の数と範囲、Mは遠隔転移の有無を示す。)はT2N0M0(臓側胸膜への浸潤ありでT2、領域リンパ節転移なしでN0、遠隔転移なしでM0となる。)、臨床病期はⅠB期となる。この病期では、5年生存率は60.5パーセントとする研究結果がある。
エ 本件健診時に本件線状陰影部分が癌であると確定診断された場合、外科的手術療法を行えた可能性がある。外科的治療を行った場合、現実のDの病状の経過と異なる経過をたどった可能性の程度は50パーセント程度である。ただし、本件健診時、本件線状陰影部分の病巣は胸膜播種進展度が速く、強いと考えられているため、手術時にすでに広く播種していた可能性は否定できず、それにより経過は異なる。
(4) 以上に基づき、精密検査等によって肺癌の発見が可能であったかどうか、治療によってDが平成5年6月25日に生存することができたかどうかを検討する。
ア 被告がDに対して精密検査等を指示、勧告していれば、Dが現実に死亡した平成5年6月25日の時点においてなお生存していたであろうと認められるならば、被告が精密検査等を指示、勧告しなかったこととDの死亡との間に因果関係が認められることになる(Dの肺癌が治癒することや、その後生存を続けられたことまでもが認められる必要はない。これらの点は損害の問題として検討されるべきである。)。
Dは、自ら体調不良を訴えて健康診断を受診していたのであるし、医師による指示というのであれば、精密検査等の指示があれば指示に従って病院に行って検査を受けたであろうことは容易に窺われる。
したがって、Dが被告から精密検査等を指示、勧告を受け、精密検査等を受けていれば、Dが苫小牧病院で初めて検査を受けた平成4年6月25日あるいは肺癌であると初めて診断された同年8月12日より前に、肺癌である(又はその疑いがある)と診断され、その直後から肺癌である(又はその疑いがある)ことを前提とした治療を受け、その結果、平成5年6月25日の時点においてなお生存していたであろうと認められるか否かが問題となる。
イ Dが本件健診直後に精密検査を受ける場合、まず、胸部エックス線CT検査、MRI検査、腫瘍マーカー血液中濃度測定が行われることが考えられる(前記1(2)イ)。しかし、当時のDの病巣が非常に小さかったことからすれば、これらの検査によって、肺癌であるとの確定診断をすることは、困難であると考えられる。
肺癌であるとの確定診断をするためには病理学的診断がされる必要があるが(前記2(3)イ)、本件健診時には本件線状陰影部分以外に病変が認められないから、画像検査により肺癌を疑うことができる陰影が読影され、あるいは腫瘍マーカー検査によりCEAの値が異常であったとしても、検査担当医師が、直ちに侵襲的検査である病理学的診断を行うべきであると判断せず、しばらく経過観察を行うと判断する可能性も否定できない。すなわち、胸部エックス線CT検査等の結果、病変部位の採取による病理学的診断が必ず行われたとはいえない。しかも、病理学的検査がされたとしても、癌であると診断できる確率は30パーセント以下とされる。開胸肺生検が実施される可能性は低い(前記2(3)イ)。
これらのことからすれば、Dが本件健診直後に精密検査を受けたとしても、その時に肺癌であると確定的な診断を受ける可能性はないわけではないけれども、その可能性は低いというべきである。
ウ ただ、肺癌であると確定診断がされる可能性がないわけではないので、その場合の治療と平成5年6月25日の生存可能性について検討する。
本件線状陰影部分が肺腺癌でその近接する胸膜への浸潤はあるが、その他への肺癌の発生やリンパ節転移及び遠隔転移がない場合の前記2(3)ウの5年生存率に関する研究結果や、同(3)エの外科的治療を行うことでDの現実の経緯と異なる経緯をたどった可能性が50パーセント程度であることからすれば、Dが長期にわたり延命できた可能性が相当程度あり、Dが精密検査等を受ければ、平成5年6月25日の時点においてなお生存していたであろうと認められる。
これに対し、証拠(乙6の1及び2)によれば、H医師は、本件線状陰影部分が癌であると確定診断をして外科的治療を行ったとしても、すでに本件陰影3、あるいは縦隔リンパ節に癌が転移しているであろうことを前提として、臨床経過は基本的には変わらず、長期生存は望める状況がありうることを否定する見解を述べる。しかし、本件健診時に本件線状陰影部分以外に病変があったか否かは、本件健診時に精密検査が行われなかったために確定することは不可能であって、本件健診時に本件陰影3、あるいは縦隔リンパ節に癌が転移していたことを所与の事実とすることはできない。証人Fは、平成4年6月以降の検査結果をもとに、肺癌であると確定診断をして外科的治療を行った場合、Dが現実の経緯と異なる経緯をたどった可能性は50パーセント程度であると供述するのであり、これと見解を異にするH医師の供述は採用することができない。
エ すすんで、本件健診直後に精密検査をしたが肺癌であると確定診断されなかった場合であっても、Dが平成5年6月25日に生存していたと認められないかどうかを、検討する。
本件健診時、本件線状陰影部分の一部が微少な肺癌で胸膜浸潤を伴っていたと考えられる(前記2(2)オ)。平成4年6月25日に撮影した本件断層エックス線写真では、本件線状陰影部分に肺癌を疑うことができる(同(2)イ)。平成4年7月8日のDのCEAが12.4と高値を示していた。これらのことからすれば、本件健診後(平成3年12月)に胸部エックス線CT検査や腫瘍マーカー(CEA)の血液中濃度測定を行った結果、本件線状陰影部分の陰影が肺癌の疑いを払拭できないものであったり、CEAが異常値を示した可能性が高いと認められる。そして、肺癌の疑いがある以上、経過観察が必要とされるであろうことは容易に認められる。
本件健診後、Dに対して肺癌の早期発見を目的とする経過観察が適切に行われたならば、Dが発熱、咳、痰や胸部痛等のために自ら病院を受診した平成4年6月より以前に肺癌をより強く疑うべき所見が得られ、現実より早期に肺癌が発見され、現実より早期に治療が開始されたであろう高度の蓋然性が認められる。そして、本件健診時に撮影された本件エックス線写真1と平成4年6月に撮影された本件エックス線写真2を比べると、本件陰影3が明らかに現れているなど短期間のうちに顕著な変化があり、本件陰影3部分が肺癌となっていることからすると、本件健診時と平成4年6月の時点とでは癌の進行度が明らかに異なったものになったと認めることができる。このように、本件健診時からわずか6か月の間に、Dの胸部エックス線写真の陰影が相当変化していることからすると、現実に肺癌であることが確定診断できた平成4年8月より早期に癌が発見され、早期に治療が開始されたであろうと認められる。そして、肺癌の治療成績は治療開始時の癌の進行度に左右されるから、現実より早期に治療が開始されたならば、平成4年6月以降に検査を開始した現実の経緯より予後がよい可能性は高く、少なくとも、Dが平成5年6月25日の時点においてなお生存していたであろうと認められる。
オ 以上のとおり、被告がDに対して精密検査等を指示、勧告し、Dが精密検査等を受ければ、本件健診直後の精密検査で肺癌であるとの確定診断ができた場合はもちろん、確定診断ができなかった場合であっても、平成5年6月25日の時点においてDがなお生存していたであろうと認められる。
(5) 以上の次第で、被告がDに対して再検査や精密検査等を指示、勧告しなかったことと、Dの死亡との間に因果関係があると認められる。
3 争点(3)(損害)について
(1) 損害額の認定にあたり、Dが実際に死亡した平成5年6月25日以降、どれほどの期間生存し得たかを検討する。
ア 本件健診後の精密検査により肺癌であることが確定診断できた場合には、前記2(3)ウのとおり、Dが長期にわたり延命できた可能性が相当程度認められる(ただし、その場合で、治療が適切に行われたとしても、5年生存率は約60パーセントという研究結果があることは前記のとおりである。)。
しかし、肺癌であることの確定診断が可能であったかという点については、前記2(4)イのとおり、その可能性が高いとはいえない。したがって、Dが肺癌であると確定診断されればDが長期にわたり延命できた蓋然性は認められるものの、Dが肺癌であると確定診断される可能性が高いとはいえない以上、Dが長期にわたり延命できた可能性は、全くないというわけではないけれども、相当に低いというほかない。
イ 本件健診後の精密検査により肺癌であることが確定診断できない場合には、少なくとも、Dが平成5年6月25日の時点においてなお生存していたであろうとは認められるものの、Dが長期にわたり延命できたであろうと認めることはできない。
本件健診後一定期間を経て経過観察が行われた時に異常陰影等が現れたとすれば、その時点から精密検査等を開始し、肺癌であることの確定診断を受けることになるから、治療開始は、現実に治療を受けた時点より数か月早くなるにすぎないと考えられ、現実のDの病状悪化の経緯と対比すると、Dの肺癌が治癒したであろうと認めることはできないからである。
ウ 以上によれば、Dが、長期、とくに5年を超えて延命できたであろう可能性は全くないわけではないけれども、その可能性は相当に低く、5年に満たない数年間延命できた可能性も高くはなく、数か月延命できた可能性が最も高いと認めるのが相当である。
(2) 上記(1)の事実に鑑み、Dの損害額について検討する。
ア 逸失利益について
Dが、長期にわたり延命できたであろう可能性は相当に低く、数年間延命できた可能性も高くはないのだから、被告の過失がなければ、Dが通常の生活を送ることができ、あるいは職場に復帰できたであろうと認めるのは困難である。したがって、被告の過失がなければDが得たであろう利益があると認めることはできない(長期にわたり延命できた可能性が全くないわけではない点は、慰謝料で考慮することとする。)。
イ 慰謝料について
被告がDに対して精密検査等を指示、勧告していれば、Dは現実に死亡した日には生存していたであろうことが認められ、現実に死亡した日に死亡したことによる精神的苦痛を受けたことが認められる。
その精神的苦痛に対する慰謝料は、死亡したという事実のほかに、Dは被告が適切に指示、勧告をしていたとしても、長期にわたり延命できたであろう可能性は相当に低く、数か月延命できた可能性が最も高いと認められること、他方、被告が精密検査等の指示、勧告を行ったことにより、本件健診直後に肺癌が発見され、かつ、適切な治療が行われた等の場合には、Dが長期に延命できた可能性が全くないわけではないこと、被告はDのこのような期待を奪ったということができること等の事情も考慮すると、800万円とするのが相当である。
原告らは、この慰謝料請求権を相続により取得した。
原告Aの相続分は400万円、原告B及び原告Cの相続分はそれぞれ200万円である。
ウ 葬儀費用について
前記のとおり、Dは長期に延命できた可能性は相当低いから、葬儀費用を損害として認めることはできない。
エ 弁護士費用について
本件事案の難易、本件の認容額その他の事情に照らせば、弁護士費用として、原告Aについて40万円、原告B及び原告Cについてそれぞれ20万円を認める。
オ 被告は過失相殺をするべきであると主張する。しかし、Dが喫煙者であることとDが肺癌に罹患したこととの間に深い関係があることを前提としても、被告がDに精密検査等を指示、勧告しなかった過失について、Dが喫煙者であることを理由として被告の責任を減じる公平上の必要性は全く認められない。また、被告が本件健診において「自覚症状があれば受診してください。」と指導していたことをもって、Dに精密検査等の指示、勧告があったということはできず、この点での過失相殺も認められない。
カ 以上によれば、原告Aの損害額は440万円、原告B及び原告Cの損害額はそれぞれ220万円となる。
被告は、原告らに対し、上記各金員及びこれらに対する不法行為日の後である平成5年6月25日(Dが死亡した日である。)から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払義務がある。
4 結論
以上によれば、原告らの請求のうち、原告Aが440万円、原告B及び原告Cが220万円及びこれらに対する平成5年6月25日から支払済みまで年5パーセントの割合による遅延損害金の支払を請求する部分は理由があるから、その限度で認容し、その余は理由がないから棄却することにして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 中西茂 裁判官 川口泰司 裁判官 戸村まゆみ)