札幌地方裁判所 昭和42年(わ)107号 判決
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〔判決理由〕一、本件公訴事実の要旨は、「被告人は、自動車運転の業務に従事していた者であるところ、昭和四一年三月三日午後一時五分ごろ大型貨物自動車を運転して札幌市東二丁目通りを北進し、時速約三〇キロメートルで左右の見とおしのきかない南五条通りとの交差点にさしかかり、東方に右折しようとしたが、このような場合にはあらかじめ徐行するとともに、交差点入口で左右の交通状況に注意をはらい、その安全を確めたうえで右折し、もつて通行人等の事故を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、単に速度を時速約二〇キロメートルに減速しただけで進行し、かつ右方の交通状況に注意を怠り漫然右折した過失により、同交差点の東側を南から北に向い横断中の能村明文(当時六才)に気づかず、同人に自車右前部附近を衝突転倒させたうえ、右側後車輪をもつて同人の胸腹部を轢過し、よつて同人をして胸腹部に受けた圧潰傷による失血のため、同日午後一時二五分ごろ同市南四条西一丁目保全病院において死亡させたものである。」というのである。
二、そこで検討するのに、まず<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。すなわち、能村明文(当時六才)は、昭和四一年三月三日午後一時一五分ごろ札幌市南五条東二丁目の交差点附近の南五条通りの南側端から北方へ6.7メートル、東二丁目通りの東側の側端線から東方へ一メートルの路上に、頭部をほぼ北西に向け、うつぶせ気味に倒れていたが、その際胸腹部に内臓の挫滅と胸腹腔内出血を伴う著しい圧潰傷を受けており、そのためそのころ即死に近い状態で失血死した。右圧潰傷は、大きな重い鈍体による圧潰により生じたものである。そのころ明文は、同市南五条東二丁目の親もとから同市南六条西一丁目の明照幼稚園に通つていて、その日も右幼稚園から帰る途中に前述の傷害を受けたのであるが、当時同人は、同じ方向に帰る仲間の園児らと一緒に保母前畑淳子に付き添われらがら、同市東二丁目通りの左側を南へ歩き、南五条通りとの交差点の手前で、前畑保母ほか一、二名の園児と別れ、前畑保母に見送られながら五、六名の園児と一緒に東二丁目通りを東へ横断した。前畑保母は明文らが東二丁目通りを横断し終ろうとするころまでは見送つていたが、その後残りの一、二名の園児を伴つて交差点を左にまがつて行つたし、他に目撃していた者もいないので、明文がその後どのような行動をとつたかは不明であるが、同人の帰宅経路から推定し、おそらくは南五条通りをさらに北方へ横断しようとしたものと思われる。しかして明文が前記場所に倒れたころには、後に述べる如く被告人運転の大型貨物自動車を否む三台の自動車がその場所附近を進行通過したのみで、他に明文に対し前記の如き傷害を生ぜしめるに足りる物体が存在したことの形跡は全くないから、明文は南五条通りを南から北へ横断しようとして、いわゆる自動車事故にあい死亡したものと認めるのが相当である。
三、ところで、<証拠>を総合すると、当時本件事故現場附近を通過した自動車は、東二丁目通りを北進し本件交差点を右折した被告人運転の大型貨物自動車(札一い一三五九号)と、その前方を先行しつつ同一方向に右折した白つぽいライトバンと、南五条通りを東方へ直進した幌付四輪自動車の三台のみであることが認められるところ、南五条通りの幅員、自動車の通行区分、明文の倒れていた位置等を勘案すると、右のうち幌付小型四輪は一応関係がないものとみて差支えあるまいから、結局加害車両は、被告人運転の大型貨物かその先行のライトバンかということになるのである。
四、しかるところ検察官は、右のうち被告人運転の大型貨物こそが加害車両であるとし、右大型貨物が右折の途中前部バンバー右端附近を被害者に衝突させ路上に転倒させたうえ、右側後車輪で胸腹部を轢過したものである、と主張するのである。たしかに、(イ)<証拠>によると、本件大型貨物の前部バンバーには一面に泥砂土が附着しているが、その右端附近に一部泥砂土が剥離している個所があることが認められ、(ロ)本件事故現場附近は右折車両の進行経路にあたるうえ、自動車の構造上自動車が右折するときには右側後車輪が右側前車輪の内側を通過することとなるから、右折途中の自動車の前部バンバー右端で衝突され転倒した被害者が右側後車輪で轢過されることは、十分起りうる事態であり、(ハ)<証拠>によると、被害者のうけた傷害は本件大型貨物の後車輪によつて轢過された場合にも生じうるものであることが認められ、(ニ)<証拠>によると、右前畑、小助川らが被害者明文が倒れているのを本件交差点の南西角またはそれより少しく西寄りの地点で気づいたころ、本件大型貨物が被害者から約七〇メートル東に進んだ地点を東に向け進行しており、その右側後車輪のあとが被害者の倒れている個所附近の路面に印象されていたことが認められる(なお、小助川証人は、「倒れている被害者の体の前後にタイヤのチエーンのあとがあつた。」と供述するが、右供述は、同人の検察官に対する供述調書中の「被害者を抱き上げてからタイヤ痕に気づいたので、車輪が被害者の体の上を通つたものかは、わからない。」旨の供述記載に対比し、にわかに措信することができないし、また前畑証人は、「うつぶせ気味に倒れている被害者の背中に斜めに幅広い線状に泥が付着していた。」旨供述するが、前記八十島証人の「轢過されたときの被害者はおそらく仰向けに近い状態であつたと思う。」旨の供述に照らすと、右の泥の付着を車輪痕と認めることは困難である。)うえ、(ホ)当裁判所の証人内田敏英に対する昭和四二年七月一七日付、同年一〇月一九日付各尋問調書を総合して明らかなとおり、同証人は、「被害者はトラックにひかれて死んだ。トラックが通る前は立つていたが、通つたあとは倒れていた。げり(嘔吐物を意味する俗語の「げろ」の意と解する)吐いて倒れていた。」旨供述しているので、以上の(イ)ないし(ホ)の事実を総合すると、前記の検察官の主張も首肯されなくはない。
五、しかしながら、検察官主張のとおり認定するには、少なからぬ疑問を感ずるのである。すなわち、
1 まず前部バンバーの泥砂土の剥離についてであるが、証人鳥羽昇および被告人の各当公判廷における供述を総合すると、右の剥離の存在が発見されたのは事件の翌日のことで、その間本件大型貨物自動車は、現場附近を通過してしばらく進行し、自動車で追跡してきた小助川安男に呼び止められ事件を知らされて現場へ戻り、警察官の見分も受け、その指示のもとにその日夕刻札幌中央警察署西側駐車場まで運行され、同所に他の一〇数台の車両とともに、車両間隔約一メートルの近接した状態で翌日まで駐車、保管されていたものであること、剥離の新旧については、あまり古いものでないというのみで一両日前に生じたものかどうかも明らかにされていないこと、および事故当日の現場での見分の際には発見されなかつたものであることが認められるから、現場での見分が綿密に行なわれていたとするならば当然その後に生じたものというのほかはないし、綿密に行なわれていなかつたものとしても、事故前既に生じていた可能性もあり、事故後生じた可能性もあることとなる。のみならず本件大型貨物自動車には、上記の前部バンバーの泥砂土の剥離以外にも、荷台の右側下部に同様の剥離があつたことが前掲司法警察員烏羽昇作成の昭和四一年三月九日付実況見分調書によつて明らかであるところ、これらの二個の剥離のうち前部バンバーのそれのみをとらえて人体との衝突痕であるとなすべき証拠上の根拠は、全く存在しないのである。それゆえ前部バンバーの泥砂土の剥離が被害者との衝突によつて生じたものとするのは、単なる憶測の域を出ないといわねばならない。
2 次に被害者の身体の損傷の部位程度であるが、まず<証拠>によると、本件大型貨物自動車は、車両重量四トン余のもので当時若干の荷を積載していたこと、後車輪がいわゆるダブルになつていて、外側の車輪には雪道用のチエーンがかけられており、その幅は、外側のが一八センチメートル、内側のが二〇センチメートル、この両者を組み合わせた全体のそれが四八センチメートルであることが認められる。次に<証拠>によると被害者の体の外表には、胸腹部、背部に、上は足底からの高さ約八四センチメートル、下は足底からの高さ約六二センチメートル、その間の幅約二二センチメートルの範囲において若干の表皮剥離、変色等がみられ、殊に、右の側胸部から側腹部にかけ五個の表皮剥離が列状に存在しており、また胸腹部の内部には著しい内蔵挫滅があるが、体の外形は全く損なわれていず、またなんらかの骨折も生じていないことが認められるところ、右八十島証人は、本件大型貨物自動車が加害車両で、かつ右側後車輪で轢過したものとすれば、右自動車は、足部を車体内側に頭部をその外側にし、いくぶん体を左に向けの状態で倒れている被害者を、右側後車輪の外側のチエーン付の車輪が前記の五個の表皮剥離の存する部分の上を通過する状態で轢過したものであろうと想定するのである。しかしながら、前記のとおり後車輪の幅は全体で四八センチメートルもあるし、重さも自重のみで四トンをこえる大型の自動車なのであるから、八十島証人の右の想定のような状況であるとすれば、被害者の体には、より広範囲な、かつより大きな損傷が生ずるのではないか、助骨、腸骨等に骨折が生じてしかるべきではないか、と疑われるのである。この点に関し同証人は、「子供の骨は柔らかいから骨折がなくても不思議ではない 、体の一部が路面の窪みに入つていたとすれば、この程度の損傷しか生じないこともありうる。」というのであるが、当裁判所は、同証人の右見解に一応納得しつつも、大型の自動車で轢過されたにしては損傷が小さすぎるという疑問を拭い去ることができないのである。
3 次に証人門田敏英の供述の信びよう性についてであるが、同人は、本件事故当時六才で、被害者能村明文と同じ幼稚園に通つていた者で、当裁判所は昭和四二年七月一七日本件事故現場である交差点附近において、同年一〇月三日当裁判所内において、前後二回にわたり既に小学校二年になつていた同人を証人として尋問したのである。その際同証人は前記四の(ホ)とおりの供述をしたのであるが、同人が本件事故を真実目撃したのかどうか、とすればその場所はどこか等については必ずしも明確ではないのであつて、たとえば、その場所について、同証人は当裁判所に対しては本件交差点の北西隅であると供述するが、司法警察員長瀬隆太郎作成の昭和四一年三月四日付実況見分調書によると、同証人は右長瀬警察官に対しては交差点の南西隅であると述べたもののようで、その間に喰い違いがあるのである。しかも同証人が、先にも触れ、また後にも述べる如く白ぽいライトバンが被告人運転の大型貨物の少し前を先行していたのに、このライトバンに気づいていないこと、事故前の被害者の状況よりも事故後の被害者の状況について、より具体的に、かつ生き生きと供述していること等から推すと同人は、事故現場から遠ざかつてゆく右大型貨物を見て、それが加害車両であると安易に判断してしまつたか、あるいは事故現場で前記小助川、前畑らがその旨話し合つているのを聞いてそれをうのみにしてしまつたものとみられなくもないのである。そもそも同証人は、当裁判所の前後二回の証人尋問を通じ、内気な性格のゆえにか容易に口を開こうとせず、時には泣き出し兼ねない様子を示した。そのため、「トラックにひかれた。」旨の抽象的な供述をひき出すのがやつとのことであつて、具体性のある情況説明を求めることは勿論、その供述の真実性をただすための十分な尋問をすることは困難であつた。それゆえ当裁判所は、一般論としてもかかる証人の供述は、人の罪を断ずるための資料としては、重視することは適切でない罪を断ずるための資料としては、重視することは適切でないと考えるものである。
4 さらに前述のライトバンについてであるが、<証拠>を総合すると、右ライトバンは、被告人運転大型貨物自動車の前方三〇ないし五〇メートルを先行しつつ、東二丁目通りを北進して本件交差点を右折したこと、速度は時速三〇キロメートルで進行していた被告人車よりいくらか早い程度であつたことが認められる。時速三〇キロメートルの自動車は一秒間に8.3メートル進行するから、三〇メートル進行するのに3.6秒、五〇メートル進行するのに六秒を要するにすぎない。そうすると、ライトバンの速度が被告人の大型貨物より多少早かつたことを計算に入れても、被告人の大型貨物が本件現場を通過する四、五秒ないし七、八秒前にライトバンが同所を通過していることとなる。いわばライトバンとこれに続く被告人の大型貨物が相前後して本件現場を通過しているのであるから、ライトバンが加害車両である可能性も決して少なくはなく、殊に2で述た大型貨物で轢過されたにしては体の損傷が小さすぎるのではないか、という疑問を考え合わせれば、ライトバンに対する疑惑が根強く残るのである。もつとも、ライトバンが加害車両であるとすれば、後続していた被告人は当然に倒れている被害者を発見できたはずであるのに発見しなかつたのであるから、ライトバンは加害車両ではない、という形式論理も一応は考えられるが、右の論法は、被告人が前方注視を完全に行なつていたことを前提として初めて成り立つものであるところ、被告人の供述によれば、同人は、先に認定したとおり東二丁目通りを西から東へ横断した、したがつて当時また南五条通りの右側を歩行していたと思われる数名の園児に全く気づいていないこと、すなわち前方注視を完全には行なつていなかつたことが認められるので、右の論理はその前提を欠き排斥を免れないこと明白である。
六、以上詳細に検討してきたとおりであつて、当裁判所も被告人運転の本件大型貨物自動車が加害車両である疑いは相当に強いとは思うが、そのように認定するには少なからぬ疑問が残るのであつて、到底確信をうるには至らないのである。それゆえ本件公訴事実については、その証明がないというのほかはないから、刑事訴訟法第三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡をすることとする。
(神田鉱三)