札幌地方裁判所 昭和50年(ワ)1043号 判決 1977年10月18日
原告 工藤保
被告 昭亜部品工業株式会社
主文
一、被告は、原告に対し、金二八一万三七一三円、および、これに対する昭和三七年五月一七日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二、原告のその余の請求を棄却する。
三、訴訟費用は、原・被告の平等負担とする。
四、この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事 実 <省略>
理由
一、本件事故の発生と態様
請求原因(一)の事実中、原告が被告会社工場内で、プレス型に両腕をはさまれ、両手首切断の傷害を負つたことは当事者間に争いがないので、以下、本件事故の態様について検討する。
成立に争いのない甲第一号証の一、二、同第二号証、乙第一号証、被告代理人が昭和五〇年一〇月二〇日本件機械を撮影した写真であることに争いのない乙第三号証の一ないし四、同第四号証の一ないし一〇、証人伊藤弘之、同神林銀次郎(一部)の各証言、原告本人尋問の結果(一部)、被告代表者尋問の結果(一部)によれば、次の事実を認めることができる。すなわち、原告は、昭和一八年一月一八日生れであり、同三七年三月、北海道美唄市の沼東高校を卒業し、職業安定所を通した被告会社の募集に応じ、同月二〇日頃、被告会社にプレス工として就職し、同会社の寮に入つて、製品の運搬、鉄板の裁断等の雑用的な作業に従事していたものであり、訴外神林銀次郎は、昭和二七年九月頃から被告会社に勤務し、プレス工ないし金型の作成に従事のところ、昭和二八年頃からは、同会社の工場長となり、プレス機械の操作に当つていたものであること、被告会社は、昭和二七年に設立されたプレス等を目的とする中小の下請企業で、昭和三七年当時約二五名の工員を有していたが、訴外ミンク工業所から、大量の石油ストーブタンクの製作・加工を依頼され、同年二月、右タンク部分の製品化の量産設備として製作されたポンテイングプレス一三〇トン(被告会社の注文による極東工業株式会社昭和三七年二月製、一三〇トンは加圧能力を意味する)を購入して右製造に着手し、事故当日の同年五月一三日(日曜日)頃には、代休もないまま一日約二四〇〇個の生産に追われる状況であり、このため、原告と右訴外神林は、被告会社工場において、同日午前八時すぎころから、右プレスによる作業を開始し、神林が右プレスのペダルを踏んで、原告が、助手として、その反対側で製品を取り出す工程を繰り返し、午前一〇時頃から約一五分、正午から四五分の休憩時間をとつた以外、右作業を継続し、本件事故は、同日午後一時五〇分頃に発生しているが、原告にとつて、右助手としての作業は、事故当日初めてなしたものであつたこと、右プレスを右神林の側から見た場合の形態は、別紙図面のとおりであり(これに、上、下金型が装着される)、その上型部分(下むきの凹状)が落下する圧力で、下型(上むきの凸状)上に置かれた鋼鉄板が受け皿のように成型加工してこれを製品化することを目的とするものであるが、その回転数は一分間三〇回(一ストローク二秒、従前のものより遅い)で、上型が上昇した際の下型との間隙は、上、下金型が装置されていない場合に約四六センチメートル、又、上型、下型が重合した場合でも、その左右に、それぞれ約四〇ないし五〇センチメートル程度の広さがあり、下型の周辺下部にははね出しが装置されていて、上型があがると製品が下型上に押しあげられるようになつていた、そして、右機械については、一日に三ないし四回の点検が行われ、ブレーキやクラツチ関係にとくに注意が払われ、本件事故当時までクラツチピン等に故障がみられなかつたが、被告会社のような企業規模の会社では安全装置を設置することがなく、右プレス機についてもこれを装着していなかつた、しかしながら、昭和三八年頃、事故防止という観点から、右プレスにつき、光線式安全装置をつけ、後、その故障が多いため、クラツチに取りつけた押ボタン式安全装置に切換えたものであること(もつとも、右押ボタン式の場合でも、上型の落下中手を挿入するとこれを停止できないが、手がクラツチを入れる押ボタンに触れている以上、危険は未然に防止できる。なお、事故当時、右プレスに安全装置が設置されていなかつたことは当事者間に争いがない)、右プレスによる加工作業は、同機械の別紙図面右下部側にあるクラツチペダルを三ないし五センチメートル踏み込むと同正面上部にあるピンが外れてクラツチが入り、次いでクランクが始動して上型が下降し、材料の鋼鉄板がプレス加工され、上型が上昇し、クラツチピンが入つて自動的に停止したところで製品を取出し、次いで、鋼鉄板を入れてさらにペダルを踏むという単純・機械的作業であるが、右プレス機の構造上、右作業中上型が落下する間に手を挿入した場合でも、中間でブレーキをかけることはできない状況であり、又、一日の労働時間八時間、一日の生産量二四〇〇個との前提に従えば、本件事故当時一個について約一二秒で右作業を繰返していたとみられること、本件事故当時、訴外神林は工場長として、右プレス機の操作にあたり、同人の右後方約一メートルに位置する女性から、材料の鋼鉄板を受けとつてこれを下型の上に置き、ペダルを踏む作業を、訴外神林の反対側に位置する原告は、製品化されたものを両手で取り出し、これを自らの左側に置く作業を分担していたが、いずれも厚さ二センチメートル長さ一・五メートルのでこぼこのない木製の台(プレスの側がやや高い)上の作業であり、又、下型のはね出し(圧搾空気による)により、製品取出し作業は、両手の親指、人指指、中指の三本で若干持ち上げるようにして手前に引いて取出すことで足りたが、間々、製品が下型に密着し、ゆさぶりをかけながらこれを取出すこともあつた、この間、被告工場事故現場附近には約一〇台のプレス機があり、原告の直後約一・五メートルの個所には五〇トンのプレス機が作動し、組立関係、ないし、原告らにより加工された製品に穴をあける作業のほか、他に、二〇トンのプレス機が作動するなど騒々しい状況であり、本件プレス附近において、通常の会話をすることは不能であつたこと、本件事故当時の右製品と同一とみられるものは、厚さ〇・八センチメートルの鋼鉄板が、プレス加工により受け皿のように成型されたもので、内径は二一センチメートル×三四センチメートル、外径は二三・五センチメートル×三六・三センチメートル、その深さが約三・七センチメートル、又、その総重量は約六〇〇グラム位程度であること、本件事故当時まで、右五〇トンプレス機により手指を切断した者が二名位であり、本件一三〇トンプレス機による事故は、原告も含め二名程度であつたが、原告の受傷は、右手を手首と肘関節の中間で、左手を手首から切断したものであつて、その頃被告会社において発生した中で最も大きな傷害事故であり、原告は、事故当時軍手をさして作業していたため、事故直後、上型と下型の間にはさまれたままとなつて両手を抜くことができない状態であつたし、事故後被告会社により作成された労災保険の療養の給付請求書(昭三七・五・一五付)では、昭和三七年五月一三日、本件プレスを五人で分担してしぼり作業中、たまたまプレスの雄型が作動した瞬間、原告の両腕が、抜取作業とは異る不自然な形ですべりこんだため両前腕を切断したとの記載があること、以上の事実が認められ、右認定に牴触する証人神林銀次郎の証言、原告本人尋問の結果、ならびに、被告代表者尋問の結果(以上、各一部)は採用せず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
ところで、本件事故発生の経過および原因について、工場長の神林は、新入社員に対する特別の研修は行つていないが、プレス作業の前に、原告に対し、取出しの方法について説明し、作業注意をして、右神林が「おい」という声をかけるまで上・下型の間に手を出さないよう指導していたのに、原告は体がのめるようにして、上型の下りてくるときプレス機の中に入つたため生じたもので、スイツチを切るのが精一杯であつたと述べているのに対し、原告は、上型が上つて製品を取出そうとしてゆさぶりをかけこれを上にあげようとしている最中に、神林の過失等により上型機が落下し、左手がやや手前であつたため、両腕を右側を深く切断したものであると述べているところで、受傷の状況と原告の供述は一応の一致を示しているかのようである。然しながら、以上認定の原告の作業内容、状況等によれば、本件プレス機における右製品の取出しは両手の親指等の三指で足り、作業野の広さから考えると製品を取出そうとしている際に本件プレスの上型が落下したとしても、通常指か手掌程度の受傷にとどまるとみられ(この点については、原告および証人神林の供述が一致する。)、作業の工程上製品を取り出さないのに、その上に材料を置き、さらにこれにペダル操作を加えることは、経験上疑問視され、又、かかる製品と材料が下型上で重なつたとの事跡を認める資料のないこと(かえつて、被告代表者尋問の結果中には、原告が、製品化されようとした鋼鉄板上で受傷したと窺わせる供述部分がある。)、および、後に二、で認定する原告の事故後における被告会社との応答の経緯、および、本件訴提起に至るまでの時間等に、前示認定の事実を総合勘案すると、本件事故は、本件プレス機の故障による上型の二段落ち、ないし、神林の誤つたペダル操作、つまり、誤つた踏みこみないし二重踏みのいずれでもなく、むしろ、原告の作業の不なれ、あるいは、疲労、錯覚等により、右上型が降下する直前、原告が、自己の両腕を含む身体部分を誤つて、本件プレス機の上・下型間へ挿入し、これにより右事故が発生したものと推認され、原告本人尋問の結果中、本件事故原因に関する供述部分は採用することができず、他にこの反証はない。
二、被告の責任
よつて、被告会社の責任の成否について審究するに、一般に、私法上の雇傭契約においては、使用者は被用者の労務提供に対し、労働の対価を支払うべき義務を負担するものであるが、設備、機械の構造、業務内容上、被用者に対し危険な作業を余儀なくする場合には、とくに、労働環境の整備、ないし、その関連における労働条件の調整等についても留意し、被用者の生命、身体に危害を生ぜしめることのない状況下で、これを安全に就業させる義務を附随的に負担しているものというべく(なお、昭和四七年改正前の労働基準法第四二条、第四六条の趣旨参照)、従つて、使用者において右義務に違背し、これにより被用者の生命、身体を侵害する結果を招来するに至つた場合にあつては、被用者に対し、右雇傭契約上の義務不履行に基づく賠償責任を免れないと解するのが相当である。
ところで、被告会社は、当時、プレス機など約一〇台の機械を設備し、従業員二〇名余を有するに過ぎないいわゆる中小の下請企業であつて、本件事故当時までに限定しても、その従業員がプレス機等により間々受傷するような状況であつたことは前示のとおりであり、これに、後に三で認定する原告と被告会社の折衝の状況、および、証人伊藤弘之の証言によつて認められる同会社工場での同人の受傷、ならびに、不完全な補償を理由とする任意退職等の事実関係に従えば、被告会社における従業員の作業環境、および、その条件等が必ずしも十分整備、拡充されていなかつたと解されるところ、さらに、本件プレス機による作業においては、その操作の方法如何によつては、傷害等の危険が大であつたとみられるから、原告に対し、右プレス機操作の助手として、製品を取出す作業に従事させるについては、当時中小企業界において一般的なものとされた安全装置を設備しないという状況に従うことなく、押ボタン式装置など多少でも危害の発生を減少する装置を設ける挙に出ておれば、例えば、原告一人による操作が可能となり、危害の発生防止に資したとみられなくないばかりか、かりに、被告会社に対し、その企業規模等を理由に、当時において、かかる装置を設備する義務まで肯定することができないとしても、製造工程において、全体としての製造量、ひいては、製品一個を、加工するに要する時間に余裕をもたせるか、あるいは、事前に、作業に際し注意を払うようにと、その都度十分指導するのみならず、さらに、その継続中にあつても、ペダル操作をする神林と助手の原告との連繋を密にし、これらを確実な実施により、本件プレス機の操作にともなう危害の発生を防止する義務、つまり、前示安全管理義務を履践することが、被告会社につき強く求められていたとみられる。そうしてみると、被告会社においては、少くとも、本件プレス機に安全装置を設置しない状況を選択する以上、その代償として、作業条件改善のための調整が、右義務の一環として特に考慮されるべきであつたと考えられるところであるのに、被告会社においては、プレス工助手の経験のない原告に対し、特段の研修等を実施することもなく、神林において、原告に対し一般的な注意を与えたにとどまる程度で、事故当日、原告を本件プレス機の製品取出し作業に従事させていたばかりか、その頃、納期の関係等もあつて右製品の量産体制に入り、代休もあまり与えられないような状況下、右プレス機により一個の製品に加工する時間が僅かに一二秒という密度の高い状態で原告に就労を継続させていたものであつて、さらに、工場長の神林が、製品取出しの前、その都度原告に「おいつ」と声をかけていたとの事実は必ずしも明らかでなく、かりに、このような声をかけたとしても、被告工場内における複数プレス機の作動する騒音により、これが原告に達することもなかつたとみられるところであつて、これが原告に達することもなかつたとみられるところであつて、以上によれば、被告会社としては、前示安全管理ないし保障義務を怠り、これに右のような状況下における原告の過失が競合して、原告の受傷という本件事故を惹起したものというべきであり、従つて、被告会社は、原告に対し、右債務の不履行を理由に、右事故による損害を賠償する義務があるものと解される。
三、時効の抗弁等の成否
本件事故が、昭和三七年五月一三日に発生したことは前示のとおりであるから、被告の債務不履行による賠償債務は、特段の主張等が認められない限り、同四七年五月一二日の経過とともに消滅することとなるので、以下右に関する被告の再抗弁について考える。
成立に争いのない甲第一号証の一、二、同第三号証の一、二、同第四号証、乙第二号証の一、原告本人尋問の結果により真正に成立したと認める甲第八号証、弁論の全趣旨により真正に成立したと認める同第九号証の一、二、原告本人ならびに被告代表者尋問の結果(右各尋問の結果中、いずれも前記措信しない部分を除く)、および、弁論の全趣旨によれば、原告は、昭和三七年五月一三日、被告工場において、本件事故に遭つた後、直ちに千葉大学附属病院に入院し、ついで、千葉労災病院に転院してそれぞれ治療を受け(右入院、治療の事実は、当事者間に争いがない)、同年七月、同病院を退院したが、右事故後、被告会社代表者の下村重雄が原告を病院に見舞い、原告が悲嘆にくれていたことから、その将来の面倒をみるといつてなぐさめたが、他方、労働基準監督署の署員が来た際、本件事故が原告の不注意によるものと話してほしい、そうでないと、労災年金に影響するよう告げていたところ、原告が、退院後、右監督署に呼ばれたことがあるけれども、直接の事情聴取はなされず、被告会社関係者の説明にとどめられたような経過であつたこと、原告は、右退院後、被告会社の寮に帰り、同会社に勤務する友人らの援助等で生活していたが、昭和三八年になつて、被告会社のすすめにより、郷里の北海道に帰り、札幌市琴似にある道立身体障害者更生指導所において機能訓練を受けることとなつたが、その頃、被告代表者が原告に対し、機能の回復とともに被告会社に戻るようにと告げていたことがあり、原告としても、その心づもりで、右訓練に精を出し、同四〇年三月頃までこれを継続し、同年四月から、一時、赤平市でクリーニング店に勤めるかたわら、同四一年三月には、被告会社に手紙を出し、機能も回復したとして、被告会社への職場復帰を依頼したが、これに対し、被告会社からは、企業規模も縮少したし、原告に適した仕事がないといつて、原告の申出を断る形となつたけれども、下村重雄は原告に対し、金一〇万円を渡して頑張るようにと話していたこと、そこで、原告は、同年四月、さらに美唄市の道立身体障害者重度更生指導所に入所して職業訓練を受け、和文タイプを習い、同四二年頃から、この技術を生かし、ミキ技研と印刷所を共同にするなど転々とし、同四六年九月頃から、北都工芸社(印刷所)において勤務することとなつたが、その後、生活が労災保険に頼らざるを得ない状況となり困窮するに至つたので、同五〇年三月、被告会社に対し手紙を出し、原告の被告会社における地位がどうなつているのかを尋ねたうえ、改めて職場復帰の希望などを述べたところ、被告会社は、原告の復帰は無理であると考えると応答し、右下村重雄において、原告に対する気持の表明として、今後三か年間、毎月三万円の金員を原告に送付すると話したこと、しかしながら原告は、これについて不満であるとして、その友人に相談のところ、労災保険を受給中であつても、別に損害賠償請求ができる旨教えられたので、これを被告会社に話すと、被告会社からは、被告会社に過失があるという考え方には賛成できず、又、仮に過失があつたとしても、すでに一三年を経過しているからその賠償に応じられないという返事であり、原告は、このため、被告会社との折衝でらちがあかないと考え、本訴を提起するに至つたものであること、このほか、前記監督署が本件事故の原因につき、どの程度調査したかの詳細は明らかでないが、昭和五〇年八月二〇日、原告代理人からなされた右監督署に対する照会に対する回答として、押ボタン式装置のある本件プレス機の存在、そのネームプレート、作業心得等についての認識、および、被告代表者らから聞いたとみられる本件事故発生等についての調査復命がなされているにとどまること、原告の被告会社との契約上の地位に関しては、原告が受傷にともない、被告会社のすすめで帰郷し、その職場を離脱している以外に、退職、解雇処分等の事実の存否については必ずしも明らかでないけれども、いずれにせよ、原告は、昭和三七年以降現在においても労災保険給付を受けており、右は、昭和三八年当時、年間金七万六七三一円であつたが、同四九年には年間金三一万四一七〇円と増額されて来ていること、以上の事実が認められ、右認定に牴触する原告本人ならびに被告代表者尋問の結果(各一部)は信用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
以上の事実関係に従えば、原告、被告会社は、いずれもその間の雇傭契約関係について明確な形で解決せず、原告においては、被告会社に対する復職を期待して機能回復等の訓練を続け、被告会社の態度等から、自ら生計を維持することを余儀なくされながらも、前示のような事故の態様、および、被告会社の申請による労災保険金の受給という事実から、同会社へ依存する意識さえ有していたと認められるが、昭和五〇年三月、被告会社からの受入拒否の意思が確定したところで、原告につき、被告会社への賠償請求権存在の認識、および、その行使についての右のような障害が除去され、本訴の提起として現実的なものとなるに至つたということができ、以上のような原・被告の関係、および、その折衝の経緯に鑑みれば、被告会社において、原告の契約上の地位の存否について確認する手段を講ずることもなく、原告にむしろ復職を予定させるような漠然とした状態に放置しておきながら、右賠償請求権が事故後一〇年の経過で消滅しているとして、これについて時効を援用するのは、そのこと自体信義に反するものと評すべく、右は権利の濫用として許されないものと判断される。してみると、原告の再抗弁は理由があり、被告の消滅時効の主張は、その余の点について判断するまでもなく、結局失当に帰する。
四、損害<省略>
五、結論<省略>
(裁判官 稲垣喬)
(別紙)図面<省略>