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札幌地方裁判所 昭和63年(ワ)866号 判決 1991年1月29日

原告

若林正子

右訴訟代理人弁護士

入江五郎

大島治一郎

下坂浩介

被告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

向井諭

被告

医療法人乙山会

右代表者理事

乙野二郎

右訴訟代理人弁護士

坂下誠

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

被告らは、各自原告に対し、金一六〇五万六〇〇〇円及びこれに対する昭和五八年五月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要等

一事案の概要

本件は、自宅での転落事故により口内に多量の出血を生じた原告が、救急車で被告甲野太郎(以下「被告甲野」という。)経営の甲野整形外科医院(以下「甲野医院」という。)に搬送され、救急治療を受け、次いで救急車で被告医療法人乙山会(以下「被告乙山会」という。)経営の乙野病院に転送され治療を受けたが、その治療のいずれかの過程で治療担当者の過失により原告の左側声帯の一部萎縮ないし欠損の損傷(以下「本件損傷」という。)を受け、その結果、嗄声となり、多大の精神的苦痛及び損害を受けたとして、債務不履行を理由とする損害賠償(逸失利益一〇〇五万六〇〇〇円及び慰謝料六〇〇万円)の請求をするものである。

二争点

本件の争点は、本件損傷が被告らの治療中の行為により生じたものであるか、及び損害額の二点にある。

三証拠関係<略>

第三争点に対する判断

一転落事故と治療の概略

1  原告は、昭和五八年五月一七日午後九時三〇分ころ、自宅の一階から二階へ通ずる階段の中央部付近から転落し、玄関のコンクリートの床に顔面及び頭部を強打し、下顎の歯肉部及び口唇の口腔前庭を切創し、出血多量で意識を失い、救急車で直ちに当日の救急当番医であった甲野医院に搬送された<証拠略>。

2  甲野医院では、原告が頭部、顔面、前頸部などが血だらけの状態で、呼吸困難及び意識障害の程度がいずれも高度であったため、口腔内に管を入れて血液を吸引した。しかし、これでは吸引しきれず、血液が気管のほうに逆流する可能性があり、窒息のおそれも生じるため、気道を確保するため気管切開を施し、気管切開用のカニューレを挿入した。

切開した場所は甲状腺峡部で、ここを横に約五センチメートル切開し、切開した部分を開いて気管咽をだし、これに直径九ミリメートルの小孔を開けて気管切開用カニューレを挿入したが、その際、輪状軟骨又は甲状軟骨にはメスを加えなかった。右切開した部位と声帯とは約四センチメートル離れており、切開に使用したメスの刃体の長さは二センチメートルであった。

原告は、甲野医院ではカニューレを挿入されたのみで、同日午後一〇時過ぎころ、さらに救急車で被告医療法人乙山会経営の乙野病院に転送された。

(以上、<証拠略>)

なお、右治療の際に気管チューブを気管内挿管したことを認めるに足りる証拠はない。

3  乙野病院では、直ちに、原告の頭部レントゲン撮影、歯肉部及び口唇部切創の縫合治療を行ったほか、原告が血液を多量に誤飲している可能性が強かったので、マーゲンゾンデを鼻から食道内を通して胃の中に挿入し、胃中に溜まっていた血液を吸引した。原告は、翌一八日に、甲野医院で挿入のカニューレを抜去され、気管切開部の縫合治療を受け、同年七月中旬、乙野病院を退院した。(以上は、原告と被告乙山会との間で争いがない。)

二原告の傷害と治療の経過

1  原告は、昭和五八年六月ころ声が良くでないことに気付いた。原告は、同月二二日に入院中の乙野病院で丙野三郎医師の診察を受け、両側声帯の間に隙間ができていてそのため嗄声になると診断された。同医師は、本件のように階段から転落して大量の出血があるため気管切開を行ったような場合、気道を確保するため救急救命処置として気管内挿管を施すことが少なくないため、これが施されたものと思い込み、気管内挿管を施した際の損傷により右隙間が生じたか、又は気管切開を行った場所によっては切開術時に輪状軟骨又は甲状軟骨を損傷しその結果右の隙間が生じている可能性があると診断し、その旨カルテに記載するとともに、時間の経過とともに改善する可能性があると判断して、経過を観察することとし、併せて薬物を投与することとした<証拠略>。

2  原告は、昭和五九年一月二六日及び同月三〇日の両日に札幌医科大学で耳が聞こえないということで診察を受けた際、併せて乙野病院を退院後も声がよく出ず、嗄声の状態が改善されないことについても診察を受けたところ、現在の状態は気管切開術による声帯への痕跡のためなので、これ以上改善されないと思われる、発声の工夫をし、薬剤を服用するようにとの説明を受けた<証拠略>。

3  原告は、昭和五九年二月、北海道大学医学部付属病院で嗄声について診察を受けた。同病院では、原告の左側声帯の前部三分の二が一部萎縮ないし欠損しており、そのため発声時に声帯の前部三分の二に隙間ができ、これが嗄声の原因であるとの診断を受けた。なお、嗄声の原因の一つとなりうる声帯に出る筋肉を支配している反回神経の麻痺はみられなかった。<証拠略>

4  原告は、昭和五九年四月二〇日、同病院に入院し、同月二六日左声帯内方移動術の手術を受け、同年五月七日退院した。右手術は、甲状軟骨の正中から左側の頸部皮膚を横に切開して甲状軟骨を露出させ、軟骨の左側正中部に長方形の穴を開け、そこに切り取った軟骨片を押し込んで声帯を内方に移動させるというものである。右手術の結果、原告の嗄声は、大分改善されたが、なお継続しており、現段階ではこれ以上の改善は望みえない状態にある。<証拠略>

三本件損傷の原因について

1  本件損傷の発症時期について

<証拠略>によれば、本件事故に遭遇するまでは原告に嗄声などの症状がでていないことが認められるから、本件損傷は本件事故後、声が良く出ないことに原告が気付くまでの間に生じたものと推測される。そうである以上、被告らの治療と本件損傷の発生との因果関係の有無が問題となる。

2  甲野医院における治療との因果関係について

甲野医院における治療の内容は、前記(第三の一の2)認定のとおりであるが、甲野医院における治療のうち、本件損傷との関係で検討を要する行為は、口腔中に管を入れての血液吸引及び気管切開術(カニューレ挿入を含む)の二点にある。しかしながら、次に認定のとおり、右いずれの行為によっても、本件損傷を生じさせたと認めることはできない。

(一) 口腔中に管を入れて血液を吸引した行為との関係について

原告の口腔中に管を入れて血液を吸引した行為では、声帯部との位置関係からして、口腔内から肺の方まで吸引のための硬い管を無理に挿入した等の異常な行動を取らない限り、声帯を傷つける可能性はないと言えるところ、右のような異常な行動を認めるに足りる証拠はない。

したがって、右のように口腔中に管を入れて血液を吸引したことによって、本件損傷を生じさせたと認めることはできない。

(二) 気管切開術との関係について

(1)  気管切開術を施し、カニューレを挿入した点についても、前認定の、切開した部位と声帯の位置関係(約四センチメートル離れている)と切開に使用したメスの刃体の長さが二センチメートルであったこと、メスが本件気管切開部分から声帯の前部に届くことは非常に難しいとの証人寺山吉彦の証言、カニューレは気管下方(声帯とは反対の肺の方向)に向けて挿入するとの一般的使用方法<証拠略>などに徴すると、余程異常な使用方法か操作ミスをしない限り気管切開やカニューレ挿入の際に本件損傷を生じさせることはないものと認められるところ、そのようなメスやカニューレの異常な使用方法や操作ミスを認めるに足りる証拠はない。

(2) ところで、丙野三郎が、本件損傷は気管切開術時に輪状軟骨又は甲状軟骨を損傷しその結果、両側声帯の間に隙間が生じている可能性があると診断したことはすでに認定のところであるが、前認定のとおり、気管切開術時に輪状軟骨又は甲状軟骨を損傷したことはなかったのであるから、右診断内容によって、本件損傷が気管切開術によって引き起こされたと認めることができない。

(3) したがって、札幌医科大学の医師が、現在の嗄声の状態は、気管切開術による声帯への痕跡のためであるとの診断を行ったことを斟酌しても、本件気管切開術(カニューレ挿入を含む)によって、本件損傷を生じさせたと認めることはできない。

(4) なお、右丙野が、気管内挿管を施した際に本件損傷を生じさせた可能性があると診断したことはすでに認定のところであるが、甲野医院における治療の際に、原告に気管内挿管を施したことを認めるに足りる証拠がないのであるから、右の点は問題とならない。

3  乙野病院における治療との因果関係について

乙野病院における治療の内容は、前記(第三の一の3)認定のとおりであるが、乙野病院における治療のうち、本件損傷との関係で検討を要する行為は、縫合治療及びマーゲンゾンデの挿入の二点にある。しかしながら、次に認定のとおり、右いずれの行為によっても、本件損傷を生じさせたと認めることはできない。

(一) 歯肉部、口唇部切創の縫合治療との関係について

歯肉部、口唇部切創の縫合は、いずれも原告の声帯とは直接接合しない部分の治療であり、歯肉部、口唇部と声帯部は相当に離れたそれぞれ独立の器官であり、証人下道正幸は歯肉部、口唇部切創の縫合の際、声帯に何らかの力が加わったようなことはなかったと証言することに照らし、右縫合治療により本件損傷が生じたと考えることはできない。

(二) マーゲンゾンデの挿入との関係について

マーゲンゾンデの挿入については、<証拠略>によれば、これを胃の中に挿入する際に、食道に挿入すべきところを誤って気管に挿入することが全く考えられないわけではないが、誤って気管の方に入った場合には軽い抵抗があり、その段階で、気管の方に入ったことに気付くのが通常で、その場合には入れ直すことになることが認められるところ、本件において誤って気管に挿入したことを肯定するに足りる証拠はない。

したがって、本件マーゲンゾンデの挿入によって、本件損傷を生じさせたと認めることはできない。

4  他の原因の可能性について

一方、<証拠略>によれば、本件損傷は階段から転落したことによる頸部外傷を原因として発生することもあること、その場合でも必ずしも声帯の属する体表部に外傷を伴うものでもないことが認められる。されば、原告の声帯の属する体表部に外傷がなかったことを斟酌しても、本件損傷が階段から転落したことによる頸部外傷を原因として生じた可能性を否定できない。

5  まとめ

以上の事実関係及び判断に徴すると、甲野医院及び乙野病院における前記第三の二の2、3記載の治療の過程で本件損傷が生じたことを認めることができないことは明らかである。

第四結論

よって、原告の被告らに対する本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却する。

(裁判長裁判官畑瀬信行 裁判官石田敏明 裁判官鈴木正弘)

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