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札幌高等裁判所 平成12年(う)264号 判決 2001年5月10日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役四年六月に処する。

原審における未決勾留日数中八〇日をその刑に算入する。

押収してあるマキリ包丁一丁(当庁平成一三年押第六号の一)を没収する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人伊藤誠一作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官矢吹雄太郎作成の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する(なお、弁護人は、控訴趣意書第一の一の4の主張は、殺意を争う趣旨ではない旨釈明した。)。

第1  事実誤認の主張について

論旨は、要するに、原判決は殺人未遂の犯行について中止未遂の成立を否定したが、被告人は、愛する被害者の痛ましい姿に我を取り戻し、被害者の「病院に連れて行って。」という懇請に対し主体的に犯意の継続を絶って、そのことが自らの刑事責任の追及に直結することを承知しながら、救命のために被害者を最寄りの病院に搬入したのであって、中止未遂が成立することは明らかであるから、原判決には、この点において判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも合わせて検討する。

原判決は、原判示犯罪事実第一のとおり、被告人が被害者(当時三三歳)を殺害することを決意し、所携のマキリ包丁で同女の左胸部を二回突き刺したが、同女に入院加療約一か月を要する左前胸部刺創、右血胸、肝挫傷、腹腔内血腫等の傷害を負わせたにとどまり、その目的を遂げなかったとの殺人未遂の事実及び原判示第二の銃砲刀剣類所持等取締法違反の事実を認定し、「中止未遂の成立を認定しない理由」の項において、原審弁護人の中止未遂の主張に対し、被告人は、良心の回復又は悔悟の念からというよりは、被害者の働きかけによって、同女が今でも自分を好きであると誤信したがため、同女を殺害して自分も死ぬ必要がなくなったのであり、このため同女を病院に運んだと認められるとして、被告人が自己の意思により犯罪を中止したものではないと認められるから本件は中止未遂ではない旨判示している。

しかしながら、中止未遂の成立を否定した原判決の認定と判断は首肯することができない。以下説明する。

1  関係証拠によると、本件の経過に関しては原判示のとおりであるが、おおよそ以下の事実が認められる。

(1)  被告人は、平成一〇年二月ころ、被告人が勤務していたパブに客として来店した被害者と知り合い、間もなく同女と交際するようになった。被害者には夫と子供がおり、被告人は同女といわゆる不倫の関係を続けた。

(2)  その後、同女が被告人の子供を妊娠し中絶するということがあったが、被告人は同年一〇月ころからは水商売をやめて長距離トラックの運転手として働くようになった。そして、平成一一年一月初旬ころ持病の脳動静脈奇形ないしてんかんの発作で倒れて入院したが、そのとき被害者が約一か月の間献身的に被告人の看病をしたことから、同女に対し強い恋愛感情を抱くようになった。

(3)  同女は、同年一月ころからスナックなどでホステスとして働くようになったが、被告人は同女が店の男性客と接することに嫉妬し、ホステスをやめるように要求するなどした。同女は、被告人のこのような言動に嫌気がさし次第に被告人を避けるようになった。

(4)  被告人は、同女の態度の変化にもかかわらず、なおもしつこく同女につきまとい、同女の帰りを同女宅の近くで待ち伏せたりすることもあった。

(5)  被告人は、同女が店の男性客と親密な関係になっているのではないかなどと考え精神的に不安定な状態になっていたところ、平成一二年六月中旬ころ、同女がスナックの男性客に車で送られてくるのを目撃し、その男性と性関係を持ったことを告げられて衝撃を受け、自殺あるいは無理心中することを考えて、マキリ包丁一丁を買い求め、それを被告人の運転する軽四輪乗用自動車の助手席シートの下に置いておいた。

(6)  同女は、被告人と別れたいと思っていたものの、被告人との関係を急激に絶とうとはせず、時折は被告人と会ったりしていたところ、同年七月四日、同女の方から被告人に連絡をとり、携帯電話にキャッチホンを付けるなどという用事につき合わせ、性関係まで持った。被告人は、同女の仕事が終わったら迎えに行くと言い、同女もこれに応じたことから、仕事が終わり次第同女が電話で連絡することになった。

(7)  被告人は、同女からの連絡を待ったが、連絡がなく、被告人の方から電話を入れてもすぐに切られたりした。被告人は、日にちの変わった同月五日午前三時ころ、被告人の前記の車で同女宅付近まで行ったところ、スナックの男性客に送ってもらって帰宅した同女を発見したため、同女の携帯電話に電話をかけ、同女を駐車中の被告人の車に呼び寄せて、助手席に乗せ、同女に対して、被告人に連絡しなかったことを責めたり、店をやめるよう強く要求するなどし、結局同女と口論になった。

(8)  被告人は、同女が「もういい、これ以上付きまとわないで。」などといって自動車から降りようとしたことから、絶望的な気持ちになり、同女を殺して自分も死のうなどと考え、同女を殺害することを決意し、所携のマキリ包丁で同女の左胸部を二回突き刺した。

以上が、本件犯行までの経緯である。

2  被告人は、上記のような経緯で、被害者に対し、殺意を持って、所携のマキリ包丁で同女の左胸部を突き刺したのであるが、その後の経過については、おおよそ以下の事実が認められる。

(1)  被害者は、被告人から刺され、そこから逃れるために、車外に転がり出るなどしたが、その前後ころに、機転を利かせて、被告人に対し「もうお店を辞めるから。」「本当に仕事辞めるから。」「本当はボクちゃん(被告人のこと)のこと好きだったんだよ。」「病院に連れて行って。」などと苦しそうな声で繰り返し懇願した。

(2)  被告人は、同女のこれらの言葉を直ちに信用することができず、自宅に同女を連れて行き二人で死のうと考え、その気持ちを秘して同女に対しては病院に連れて行くと言って同女を抱えるようにして再び自動車内に連れ込んだ。その後も同女は「本当にお店を辞めるから。あんたに刺されたって言わないから。病院に連れて行って。」などとやはり苦しそうな声で繰り返し懇願した。

(3)  被告人は、一旦は自宅に行って二人で死のうと決めたものの同女のこのような言動に気持ちがすっかり動揺し、すぐに車を走らせることができずに若干の時間その場にとどまった後、あくまで自宅に向かって無理心中を図るかそれとも同女を病院に連れて行くか、気持ちの定まらないまま自動車を発進させ、直進すれば病院に行くことになるが右折すれば自宅へ向かうことになる交差点に至って、自宅へ向かう気持ちを吹っ切り、同女の言葉を信ずることに心を決め、このまま同女を死なせるわけにはいかないなどと考え、右折しないで直進し、同女を病院に搬送した。

(4)  そして、被告人は病院の関係者に自分が同女を刺した旨を申告し、病院からの通報によって駆けつけた警察官により被告人は緊急逮捕された。以上の事実が認められる。

3 以上によれば、確かに、被害者が機転を利かせて被告人に対し、その要求に応じる旨や被告人の気を引くような言葉を繰り返したことが被告人の気持ちを揺さぶり、被告人が同女を病院に運ぶに至った契機にはなっているけれども、一般的にみて、前記のような経過・状況のもとに、一旦相手女性の殺害や無理心中を決意した者が前記のような言葉にたやすく心を動かし犯行の遂行を断念するとは必ずしもいえないように思われるし、実際被告人の場合も、同女の言葉により直ちに犯罪の遂行を断念したわけではない。被告人が犯行の遂行を最終的に断念したのは、同女の言動に動揺しながらも気持ちの定まらないまま自動車を発進させ、そのまま直進すれば病院に向かうことになるが右折すれば自宅へ向かうことになるその分岐点に至ってのことであり、短い時間ではあったが、それまでの間、どうしたものかと迷い続け、最終的には、同女を救命することに意を決し、そのまま直進し病院に向けて車を走らせたのである。被告人は、同女から被告人に刺されたとは口外しないなどと言われていたけれども、その点は自分が犯人であることは病院の関係者が警察に通報すればすぐに判明することであると思っていたといい、実際にも病院の関係者に同女を刺した旨を自ら申告していることも合わせて考慮すると、病院に搬送したという今回の行動が、同女からの被告人が刺したとはいわないという言葉に動かされたことによるものでないことは明らかである。被告人は、同女の、店をやめるとか被告人のことが好きだったとかいう言葉に触発されて心を動かされたものではあるが、苦しい息の中で一生懸命訴え続けている同女に対する燐憫の気持ちなども加わって、あれこれ迷いつつも、最後には無理心中しようなどという思いを吹っ切り、同女の命を助けようと決断したと解されるのであって、このような事情を総合考慮すると、被告人は自らの意志で犯行を中止したものと認めるのが相当である。そして、同女の負った傷害の程度は、左前胸部の刺創の幅は五センチメートルであるが、肋骨の動脈が損傷し、胸腔内に二五〇ミリリットルの血液が貯留し推定で約七五〇ミリリットルから一〇〇〇ミリリットルの出血があり、肝臓にも挫滅があって腹腔内血腫も認められるという相当に重篤なものであり、そのまま放置すれば死亡するに至るほどのものであったと推察されるところ、被告人がそれ以上の攻撃を行わず、同女を病院に搬送し、医療措置を可能としたことにより一命をとりとめることができたものと認められるから、本件殺人未遂については中止未遂が成立するというべきである。

そうすると、原判決が原判示第一の本件殺人未遂について中止未遂を認めなかったのは事実を誤認したもので、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由がある。そして、原判決は、原判示の各罪を刑法四五条前段の併合罪として主文の刑を言い渡しているのであるから、結局その全部について破棄を免れない。

第2  破棄及び自判

そこで、その余の論旨(量刑不当)に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により当裁判所において更に判決する。

1  「犯行に至る経緯」は原判示のとおり(ただし、原判決書の四頁の六行目の「同年六月中旬ころ」とあるのを「平成一二年六月中旬」と改める。)であり、「罪となるべき事実」は原判示犯罪事実第一の六行目(原判決書七頁二行目)「同女に」以降を「同女の機転を利かせた言葉や病院に連れて行って欲しいなどという再三の懇請等に心を動かされ、自らの意思により犯行を中止し同女を病院に搬送したため、同女に入院加療約一か月を要する左前胸部刺創、右血胸、肝挫傷、腹腔内血腫等の傷害を負わせたにとどまり、その目的を遂げなかった。」と改めるほかは、原判示犯罪事実第一及び同第二のとおりである。「証拠の目標」は、全部の事実について、「当審における被告人の公判供述」を加えるほかは、原判決記載のとおりである。

2  (法令の適用)

被告人の判示第一の行為は刑法二〇三条、一九九条に、第二の行為は鉄砲刀剣類所持等取締法三二条四号、二二条にそれぞれ該当するところ、各所定刑中第一の罪については有期懲役刑を、第二の罪については懲役刑をそれぞれ選択し、第一の罪は中止未遂であるから刑法四三条ただし書、六八条三号により法律上の減軽をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い第一の罪の刑に同法四七条ただし書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人を懲役四年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中八〇日をその刑に算入し、押収してあるマキリ包丁一丁(当庁平成一三年押第六号の一)は第一の罪の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用していずれも被告人に負担させないこととする。

3  (量刑の理由)

本件犯行は、不倫の関係にあった被害者の行動に対し嫉妬心や焦燥感を募らせていた被告人が、深夜自動車内で被害者と口論の挙げ句、被害者の言動に絶望するなどして、被害者を殺害した上自らも死のうなどと考えて、かねて入手し自動車に積載してあった鋭利な刃物で被害者の左胸部を二回にわたり突き刺したもので、その動機はまことに身勝手で短絡的であり、犯行の態様も極めて危険なものである。幸い被害者は一命をとりとめたものの、重傷を負い多大の肉体的、精神的苦痛を蒙ったのであり、その結果は重大である。被告人は、このような重大な事態を招来しながら、犯行後も被害者の気持ちを全く慮ることなく手紙を多数送付するなどしているが、この点も決して芳しいものとはいえない。これらの事情に照らすと被告人の刑事責任は重大であるといわなければならない。

しかし、他方、前記のとおり本件殺人未遂は中止未遂と認められ、被告人の病院への搬送行為によって被害者が一命をとりとめたこと、被告人は自らの犯行であることを自主的に申告していること、被害者の被告人に対する態度、対応には一貫しないものがあり、それが本件犯行の一因となったことは否定できないこと、被告人が原審及び当審の公判廷において、反省、悔悟の情を示すとともに、今後は被害者とかかわりを持たないことを誓約していること、被告人の母親が当審の公判廷において今後の指導監督を約束したこと、被告人にこれまで前科前歴がないこと等の酌むべき事情も認められる。

これらの諸事情を総合考慮するとき、被告人に対しては、前記の刑をもって臨むのが相当と判断される。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・門野博、裁判官・宮森輝雄、裁判官・小野博道)

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