札幌高等裁判所 平成12年(行コ)11号 判決 2001年9月28日
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
原判決を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第1,2審とも被控訴人の負担とする。
第2事案の概要
本件は,被控訴人が,控訴人に対し,控訴人が被控訴人の妻亡甲の平成7年2月28日付けで行った労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による遺族補償年金及び葬祭料を被控訴人に支給しない旨の処分の取消しを求めるものである。
1 争いのない事実及び各項掲記の証拠から容易に認められる事実
(1) 被控訴人は,肩書住所地で農業を営む者で,甲は,被控訴人の農業を手伝う傍ら,昭和55年から平成4年までほぼ毎年5,6月から10,11月まで富良野農業協同組合(以下「農協」という。)の季節雇用作業員として農協組合員の畑に派遣され,農作業に従事していた(甲1,2,19,乙1,2,40)。
(2) 甲は,平成4年5月23日,富良野市字aの乙方の畑(以下「本件畑」という。)に山部組の同僚6名とともに派遣され,午前7時20分ころから,本件畑で同僚らとともに玉葱の苗の移植作業(以下「本件農作業」という。)に従事していたところ,午前8時50分ころ,雨に見舞われた。甲は,乙及び他の同僚とともに作業場所から直線で約100メートル離れた納屋に避難する途中,心臓の疾患を発症して本件畑内で倒れ,救急車が臨場した午前9時13分には既に瞳孔散大,心肺停止,顔面・口唇チアノーゼを呈し,心肺蘇生法を施され,救急車で病院に搬送されたが,同日午前9時50分,急性心不全により死亡した(以下「本件事故」という。)。(甲2,4,乙4,6,11,75,79)
(3) 被控訴人は,平成6年4月12日,控訴人に対し,甲が業務上の事由によって死亡したとして,労災保険法に基づく遺族補償年金及び葬祭料の支給を求めたが,控訴人は,平成7年2月28日,被控訴人に対する遺族補償年金及び葬祭料を支給しない旨決定し(以下「本件不支給処分」という。),北海道労働者災害補償保険審査官は,同年11月2日,被控訴人による審査請求を棄却し,労働保険審査会は,平成10年11月20日,被控訴人による再審査請求を棄却した(乙15,19,38)。
2 争点
甲の本件事故における急性心不全による死亡が,労災保険法7条1項1号,労働基準法79条,80条に定める業務上の死亡に該当するか否か
(被控訴人の主張)
以下の事実によれば,甲は,農作業に従事している最中に,恐怖を感じる突発的な異常事態に遭遇し,走りづらい畑の中を約90メートルにわたって全力で走ったために,高血圧による心臓の基礎疾患の自然経過を超えて急性心不全を発症して死亡したと認められる。したがって,本件事故における甲の死亡は,労災保険法7条1項1号,労働基準法79条,80条に定める業務上の死亡に該当する。
(1) 甲の健康状態
甲は,被控訴人と結婚して以来,農業に従事し,本件事故までの約35年間病気で休むことなく稼働していた。なお,甲は,高血圧のため,昭和61年3月から降圧剤の投薬を受けていたものの,動悸・息切れ・胸痛などの心疾患を示す自覚症状はなく,本件事故直前までの身体の状況に変わった点は見当たらなかった。また,甲には,心疾患の既往歴はなく,喫煙はせず,飲酒の習慣もなかった。
(2) 本件事故時の気象状況
本件事故当日の午前7時20分ころにおける本件畑及び周辺の天候は,曇りであったが,本件事故の直前ころ,本件畑及び周囲の天候が急変し,にわかに激しい雨が降り始め,その雨足の強さは,甲及び本件農作業に従事していた者らがそれまでに経験したことのない激しいもので,本件農作業を継続することはできなかった。また,近くではないものの,雷の音も聞こえていた。
(3) 本件事故の前年における落雷事故
本件畑を含むa地区は,いわゆる雷の通り道に当たり,本件事故の前年である平成3年6月,東aの畑で農作業中の女性作業員2名が落雷のため死傷するという事故が発生していた。
(4) 本件事故時の甲の心理状態及び避難行動
甲は,雷を伴う突然の激しい雨に対する恐怖から,一刻も早く安全な場所に避難しなければならないとの切迫した気持ちで,他の作業員とともに一斉に納屋を目掛けて走ったが,苗を踏むことを避けるため,トラクターの轍を辿って避難した。トラクターの轍は,雨で滑り易く,ぬかっており,さらに納屋までは上がりの勾配があった。そのため,地下足袋を履いていた甲は,全力で走ったが,足を取られ,思うように走ることはできなかった。
(5) 甲の急性心不全発症
以上の状況における甲の避難行動は,甲の心臓に過重な負荷を加えたため,甲は,避難の半ばで基礎疾患である高血圧心(左室肥大)の自然経過を超えて急性心不全を発症し,死亡した。
(控訴人の主張)
本件事故は,甲の基礎疾患によるもので,本件農作業及び甲の避難行動によって生じたものではない。
(1) 甲の健康状態
甲は,昭和61年3月6日,医師の診察を受けて高血圧症と診断され,以来,降圧剤の投与を受けていたが,受診に消極的で,服薬以外の血圧のコントロールは不十分であった。また,上記受診時の心電図からの所見として,心筋の虚血が認められていた。そして,甲には,上記高血圧症のほか肥満・加齢・閉経といった虚血性心疾患を発症させる危険因子があった。そのため,甲の心臓の冠動脈には,本件事故当日までに急性の虚血性心疾患を発症させる基礎疾患が相当に進行していたことが推認される。
(2) 甲の急性心不全の病理的発症過程
甲の急性心不全は,高血圧の持続・肥満・閉経等の危険因子によって冠動脈内腔に形成されたアテローム(粥腫)を包むプラーク(薄い線維性皮膜)が破綻し,急性の心筋梗塞を発症させ,その結果,心室細動を惹起させるに至ったものと認められる。そして,プラークの破綻は,就寝時を含む安静時にも起こりうるものであるから,仮に甲の本件事故の避難行動が甲の心臓に大きな負担又は負荷を与えるものであったとしても,その負担又は負荷がプラークの破綻の原因であるというのは相当ではなく,それは,日常生活中に多数存在し得るプラーク破綻のきっかけの一つにすぎないというべきである。
(3) 本件事故時の気象状況
本件事故時における本件畑の降雨は,さほど激しいものではなく,少なくとも,本件畑で作業していた者の生命・身体の安全に直ちに影響するというものであったとは認められない。また,雷については,遠方における2,3回の雷鳴を聞いたというにすぎず,これまた,緊急の避難を要するものとは認め難い。
(4) 本件事故時の甲の心理状態及び避難行動
本件事故時の甲の避難行動は,単に作業中の雨を避けるという程度のものであって,一刻を争って避難しなければならないものであったとは認められず,したがって,甲が恐怖のために全力で走って避難しようとしたとは認められない。また,甲の避難経路であるトラクターの轍が短時間の降雨でぬかるんでいたとは認め難く,勾配については,3ないし5度程度のもので,ほとんど平坦といいうるものであったから,乾燥時にくらべて特に走りづらかったということもできない。
(5) 甲の急性心不全発症
以上によれば,甲の本件事故における急性心不全は,甲の基礎疾患が,たまたま本件事故時に急性心不全として発症したものである。甲の避難行動は,そのきっかけにすぎない。また,甲の避難行動は,被控訴人が主張するように恐怖に駆られた緊迫したものではなく,心理的にも身体的にも過大な緊張と負荷が加わっていたということはできない。したがって,甲の本件事故における急性心不全は,甲の基礎疾患に基づいて,甲の避難行動中にたまたま発症したにすぎず,これをもって,甲の基礎疾患の自然経過を超えて急性心不全を発症したというのは相当でない。
第3証拠
証拠関係は,原審及び当審記録中の書証及び証人等目録記載のとおりであるから,これを引用する。
第4当裁判所の判断
1 甲の健康状態及び既往歴等について
証拠(甲1,19,乙1,12の2,13,14,26,27,35,36,47,57,原審における証人丙,証人丁,被控訴人本人)によれば,以下の事実が認められる。
(1) 甲(昭和12年5月24日生,本件事故時54歳,身長約160センチメートル,体重70キログラム弱)は,昭和34年6月4日,被控訴人と婚姻し,以後,被控訴人の農業を手伝い,昭和55年からは,自家の農作業のほか,毎年(ただし,平成2年を除く。)5月又は6月から10月又は11月まで,農協の季節従業員として他の農家の農作業にも従事していた。
(2) 甲の治療を要した既往歴としては,昭和61年3月6日初診の高血圧症(初診時の血圧180/110㎜辛g)のほかに存せず,本件事故当日までに,甲が医師,被控訴人及び山部組の同僚らに対し,特段の身体の不調を訴えたことはなく,また,病気のために仕事を休んだこともなかった。
(3) 甲は,上記初診後,不定期に医師の診察を受け,降圧剤の投与を受け,服薬状況は概ね良好であったが,医師の診察を受けることについては消極的であった。そのため,投薬を受ける際に受診するよう医師から指導されていたものの,平成4年1月から5月までの10回の投薬のうちで,医師の診察を受けた回数は3回(最終受診日は4月30日)にとどまっていた。甲の昭和61年3月から平成4年4月30日までの血圧測定の結果は概ね150から160/100㎜辛gを示し続け,平成4年における上記3回の受診時の血圧及び血液検査の結果は,以下のとおりであった。
1月8日
150/100㎜Hg,
TC193,
TG235,
HDL34
3月25日
150/100㎜Hg,
TC200,
TG108,
HDL43
4月30日
160/100㎜Hg,
血液検査結果は著変なし
(4) 甲の上記初診時には,心電図,血液,尿の各検査が実施され,その検査結果の概要は,以下のとおりであった。
心電図
ミネソタコード(++)3-1-0,4-2-0,5-5-0
血液
TC199,TG63
尿
蛋白(-),糖(-)
(5) 甲の初診時から診察をしていた医師は,甲の初診時の心電図の結果が心筋虚血の存在を示唆するものであったが,自覚症状が認められなかったため,投薬その他の治療は行わず,その後,平成4年4月30日の最後の診察まで,甲から冠動脈病変又は心筋梗塞を疑うような自覚症状の申告はなく,心電図検査を再度行うこともなかった。
2 甲の本件事故当日の身体状況について
証拠(甲9,19,乙3,4,5,14,40,57,原審における証人丙,証人丁,被控訴人本人)によれば,以下の事実が認められる。
(1) 甲は,平成4年5月については,7,10から13,15,16,20,22,23の10日間,農協の作業に出た。
(2) 農協の作業期間中の甲の生活態度は,概ね午前5時に起床し,午前6時30分ころまでに朝食その他の準備を終え,送迎バスで作業場に赴き,午前7時20分ころから午後5時ころまで稼働し(午前中15分間,昼食時1時間,午後15分間の休憩を含む。),午後5時30分帰宅,午後7時30分夕食,午後10時から午後10時30分ころまでに就寝するというもので,本件事故の前日の甲の就寝は午後10時30分ころで,本件事故当日の甲の起床時間及び出勤時間は,従前と同様であった。
(3) 本件事故前日までの農協の農作業は,いずれも玉葱の移植を主とするもので,疲労が過度に蓄積するというものではなかった。
(4) 本件事故当日の朝における甲に普段と異なった身体の異変は見られなかった。
なお,乙81(戊からの聴取書)によれば,本件事故当日に甲と一緒に作業をした戊は,本件事故前日に,甲から「ぶどう畑の穴掘りで,くたくただ。」との話しを聞いた旨供述するが,当該供述のみから,甲の本件事故当日の疲労度を推認することはできず,他に本件事故当日の甲の身体状況に異変があったことを認めるに足りる証拠はない。
3 本件事故前の落雷事故及び本件畑付近の気象状況等について
証拠(甲9から11まで,乙76)によれば,以下の事実が認められる。
(1) 本件畑を含むa地区は,雷の通過がよくみられる地域で,本件事故の前年の平成3年6月28日午前11時20分ころ,東aの畑で作業していた女性2名が落雷で死傷する事故が発生していた。
(2) そのため,農協は,雷が発生した場合の早期避難の励行と避難方法について,職員及び組合員に対して指導するとともに,季節雇用作業員に対しても雷に対する注意を促していた。
(3) 甲は,山部組の同僚らとの間で,雷の危険性や農作業中の雷が恐ろしいものであることを話し合うことがあった。
(4) a地区においては,同一時刻の地区内の降雨量が地域によって異なることは希ではなかった。
4 本件事故当日の降雨及び甲の避難状況について
証拠(甲9,乙6から10まで,23,44の1から4まで,76,80,81,原審における証人乙,証人丙,証人丁,被控訴人本人)によれば,以下の事実が認められる。
(1) 本件事故当日は,朝から曇っており,甲ほか山部組の作業員は雨具を持参していたが,本件畑(面積約110アール)で甲ほか山部組の作業員が作業を始めた午前7時20分ころは,雨は降っていなかった。
(2) 甲ほか山部組の作業員は,本件畑内で横一列に並んで玉葱の苗を植え付ける作業をし,午前8時50分ころには,1回目の往路作業を終えて,復路での植え付け作業を始めていた。また,乙は,本件畑の中でトラクターに乗って作業をしていた。
(3) そのころ,本件畑に雨が降り始め,当初は雨足が弱かった。乙は,間もなく,南側の山の木々に激しい雨が当たる音を聞き,その雨が本件畑に急速に接近してくると察知し,また南のほうから雷鳴が2,3回聞こえたため,甲ほか山部組の作業員全員に作業を中止して避難するよう呼びかけた。
(4) 甲ほか山部組の作業員は,全員作業を中止し,トラクターの轍を辿って,納屋を目指して避難を始めた。
(5) 甲は,駆け足で避難し,途中約5,60メートル走った地点で,同僚の丙を追い抜いたが,その直後,走るのを止めて歩きはじめ,約40メートルほど進んでからその場に屈み込んだ。
(6) 丙は,甲に追いつき,屈み込んでいる甲に具合を尋ねた。甲は,丙に対し「苦しい。」と訴えた。
(7) その後,後方から来た乙は,甲が「心臓が苦しくて歩けなくなった。」と訴えたため,他の作業員と協力して,甲を納屋まで運んだ。
(8) 本件事故時の降雨は,雨足が激しく,雨量も大量で,乙をはじめ,山部組の作業員らがそれまで経験したことのないほどに激しいものであった(ただし,前掲乙81によれば,戊にとっては,本件事故時の程度の降雨は初めて経験するというものではなかったが,降雨自体は,同人の表現によればバケツをひっくり返したようなものであった。)。
(9) 本件畑は3ないし5度の勾配があり,甲らが避難する方向は上り勾配であった。
(10) 甲らが避難する際に辿ったトラクターの轍は,雨で滑りやすくなっていた。
以上の状況事実が認められるところ,控訴人は,本件事故当日の本件畑と直線で数キロメートルを隔てただけの地点における気象測候記録によると,午前8時から午前10時までの総雨量が6ミリメートルにすぎないこと(乙23,44の1・4,80)から,本件事故当時の本件畑の雨量についての,乙,丙らの供述は誇張されたもので信用できない旨指摘する。しかし,当時の雨の状況についての乙,丙及び戊の各供述は,被控訴人の本件請求について,直接の利害関係を有しない者の供述であるのみならず,a地区での降雨の分散又は偏在状況についての農協職員己の供述(乙76)に照らし,十分に信用することができる。また,乙74,75によれば,本件畑の土質は粘土系の砂(青粘土)であるが,1,2分程度の降水では水が滞留せず,ぬかるむこともないことが認められる。しかし,大量の降雨時においてもなおそのような状態であるかについては,疑問が残るのみならず,トラクターで踏み固めた部分が降水によって滑りやすくなっていたとの前記認定を左右するものとまでは認められない。さらに,控訴人は,甲の避難行動は,さして心理的に切迫したものではなく,甲の走り方についても,余裕のあるものであった旨主張する。
しかし,原審における証人丙の供述によれば,本件事故当日,山部組の作業員は雨を予測して雨具を持参していたことが認められ,それにもかかわらず,全員が一斉に避難行動をとったことや,本件事故の前年に落雷事故が発生して2名の作業員が死傷した前記認定事実に照らすと,畑で作業中に雷鳴とともに激しい雨に見舞われた者の心理として,雷鳴が直近のものでなくても,一刻も早く安全な場所に避難しようとすることは,自然の行動といえるのであり,甲についても,切迫した気持ちで避難しようとしていたと認めるのが相当である。
5 甲の本件事故当日の基礎疾患と本件事故における急性心不全に対する医師の所見等について
証拠(甲3,16から18まで,乙12の1・2,13,26,27,29,30,35,36,37,49,50,61から73まで,98,当審における証人庚,証人辛)によれば,以下の事実が認められる。
(1) 甲が死亡した時点で診察した医師壬の所見(乙12の1)甲の直接の死因は急性心不全であるが,原因疾患については,解剖を実施しておらず,不明である(乙12の1)。
(2) 庚医師の所見(甲3)
甲の心電図の心筋虚血所見は,肥大した筋層への血液循環の不足によって発現し,甲の基礎疾患としては,高血圧への順応現象としての心筋肥大が考えられる。甲にはこれといった既往症が認められず,また,虚血性心疾患に伴う自覚症状も見られず,虚血性心疾患の大因子とされるもの(高血圧,高脂血症,肥満,喫煙等)のうち,高血圧と肥満傾向が認められる程度であることに照らすと,冠状動脈硬化の存在については,否定的であり,仮に冠状動脈硬化があったとしても,軽度のものであって,自然経過として急性心不全を発症するまでには至らない程度のものであったと考えるべきである。甲の急性心不全は,心室細動による可能性が高い。そして,甲が心室細動を発症したのは,突然の雷を伴う豪雨による驚愕反応に近い極度の精神的緊張・同僚との一斉避難に伴う強迫的心理ストレスと興奮・全力疾走といった強度の精神的・身体的負荷が,心拍数の上昇・心筋の張力増加等を招き,それによって,心筋が酸素欠乏による刺激過敏性に陥ったことと,直前の全力疾走のため,心臓の循環不均衡の回復が不可能であったことによるものと考えられる。
(3) 癸医師(乙29の1),癸1医師(乙37)及び辛医師(乙61の1,当審における証人辛)の所見
甲の心電図による所見と甲には高血圧・肥満・加齢及びA型性格が認められることに照らすと,甲の心臓は,上記因子を背景として,冠動脈の内腔にプラークが形成され,自覚症状を伴わない冠動脈硬化症又は冠動脈病変(無症候性虚血性心疾患)が存在していたものと考えられる。そして,甲については,高血圧が長期にわたって継続しており,これに他の危険因子を考慮すると,冠動脈に形成されていたプラークが破綻することは,自然経過として理解することができ,したがって,甲は,たまたま,本件事故当日にプラークが破綻して血栓が生じ,その血栓によって冠動脈が閉塞されて心筋梗塞を発症し,その結果,心室細動を発症して死亡したものと考えるべきである。すなわち,虚血性心疾患が存在する場合,プラークの破綻は安静時でも生じるものであるから,プラークの破綻による心筋梗塞及びそれに引き続く心室細動の発症と甲の心臓に加えられた負荷とは直接には関連しない。仮に,甲が本件事故時に恐怖に駆られて全力疾走したとしても,それは,時期と状況如何に関わらず破綻するプラーク破綻の単なるきっかけ又は誘因にすぎない。
(4) 心筋梗塞の発生機序についての血栓原因説と血栓二次説等(乙29の1,49,50,当審における証人辛)
心筋梗塞の発生機序についての最近(おおよそ1990年以降)の見解としては,冠動脈内腔におけるアテロームを内包した不安定プラークの形成・プラークの破綻・血栓形成による冠閉塞という見方がほぼ定着しているが,不安定プラーク破綻の機序については未解明である。また,解剖所見等から,心筋梗塞の本態は,心筋細胞が過収縮又は過伸展により破壊されるもので,冠動脈血栓は,その二次的産物であるという報告例があり,冠れん縮(いわゆる「こむら返り」)によって,心筋梗塞を経ないで心室細動が生じる可能性も否定されていない。ただし,心室細動が発症した場合,心臓からの血流は途絶し,3ないし5秒で目眩が生じ,5ないし15秒で意識を喪失し,3,4分で脳に不可逆的変化を生じて死亡する。なお,心筋梗塞が発症した場合には,胸痛・胸内苦悶といった自覚症状を伴うのが通常である。
6 以上の事実を総合すると,甲が遭遇した本件事故は,高血圧症を主要因とする左室肥大又は冠動脈病変(不安定プラークの形成)の基礎疾患を有していた甲が,突然の激しい雨及び雷鳴による切迫した心理状態の下で,駆け足で避難したため,心筋の負荷を著しく増加させ又は血流の急激な変化を生じさせて,心筋細胞の破壊又はプラークの破綻による心筋梗塞を惹起し(甲が丙及び乙に対して苦しいと話した時点で,甲は心筋梗塞を発症していたと認められる。),その結果,心室細動に陥って急性心不全により死亡したものと認められる。そして,甲の急性心不全は,突然の避難行動が原因となって,甲の基礎疾患の自然経過を超えて発症したと認めるのが相当である。
(1) すなわち,これまでに認定した事実によれば,甲に発症した急性心不全の原因を知り得る解剖所見等は存在しないから,本件事故当日までの甲の健康状態に関する資料に基づいて甲の身体状況を推認したうえで,本件事故前の甲の行動状況を勘案して,急性心不全発症の機序を考察せざるを得ない。
(2) そこで,これまでに認定した事実に基づいて甲の基礎疾患及び身体状況を整理して検討するに,甲の基礎疾患の危険因子の存在を認知又は推認する資料としては,昭和61年3月の心電図所見(心筋虚血の存在が認められる。),昭和61年3月から平成4年4月までの血圧測定値(初診時180/110㎜Hg,以後概ね150から160/100㎜Hgで推移),降圧剤の服用歴(継続して服用されている。),年齢(本件事故時54歳),身長(約160センチメートル),体重(約70キログラム)が認められ,身長及び体重からは,肥満傾向にあったことが認められる。しかし,甲が糖尿病であったことを窺わせる証拠はなく,むしろ,初診時の尿検査等に照らすと糖尿病の罹患については,否定するのが相当である。高脂血症については,甲の血液検査中には一時(平成4年1月8日)血中中性脂肪の数値が高値(TG235)を示すことがあったものの,昭和61年3月の数値(TG63)や平成4年3月25日の数値(TG108)及び同年4月30日にも著変が認められていないことに照らすと,甲が高脂血症であったということはできない。また,甲は喫煙をしていなかったことが認められる。
(3) 上記の資料によれば,甲には,昭和61年3月時における心筋虚血及び左室肥大の所見及び高血圧の持続という冠動脈病変の危険因子が存在することが認められるものの,このことから,直ちに冠動脈病変の存在を推認することはできないし,冠動脈の閉塞度等を特定するに足る解剖所見等はない。
(4) したがって,上記資料からは,本件において甲に発症した急性心不全の基礎疾患及びその程度を特定することはできない。そして,甲は,平成4年に入ってからも例年どおり農協の作業を続けていたのであり,本件事故当日の朝まで何らの身体的変化もなく,高血圧治療のため受診していた医師,夫である被控訴人,山部組の同僚に対し,冠動脈病変を窺わせる自覚症状を訴えることはなかったことに照らすと,甲は,急性心不全が安静時を含めていつでも発症し得るというまでの冠動脈病変が存在し,かつ,進行していたとまでは認められない(なお,乙29の1,49によれば,何らの自覚症状を伴わない冠動脈病変(無症候性心筋虚血)があり得ることが認められるが,乙49によれば,無症候性心筋虚血の診断は,つまるところ,心電図,解剖等の客観的所見を待たずになし得るものではなく,本件のように直近の心電図所見や事故後の解剖所見を伴わない例においては,危険因子が認められる甲の死因が急性の心筋虚血によるとしても矛盾がない,というにとどまり,上記認定を排斥又は左右するものではない。)。
(5) 以上要するに,本件事故当日の甲は,高血圧に伴う高血圧心(左室肥大)の基礎疾患があったことが認められるが,冠動脈病変についてはその存在及び進行状況とも不明である。
(6) 次に,上記3,4で認定した事実によれば,本件事故時における降雨及び雷の状況は,早急に避難を要するものであったこと,甲にとっても,落雷及び激しい雨からの避難は,切迫したものであって,急いで納屋に避難しなければならないものであったこと,避難の経路は急ではないものの,上り勾配で,雨でぬれて走りにくいものであったこと,甲は当初約5,60メートルは走ることができたものの,苦しくなって走るのを止めたことが認められる。
(7) 以上の甲の基礎疾患,避難行動・状況と上記5認定の各所見等を総合すると,甲が遭遇した本件事故は,高血圧症等を要因とする左室肥大又は冠動脈病変(不安定プラークの形成)の基礎疾患を有していた甲が,突然の激しい雨及び雷鳴による切迫した心理状態の下で,駆け足で避難したため,心筋の負荷を著しく増加させ又は血流の急激な変化を生じさせて,心筋細胞の破壊又はプラークの破綻による心筋梗塞を惹起し,その結果,心室細動に陥って急性心不全により死亡したものと認められ,これを覆すに足りる証拠はない。
7 まとめ
以上認定,検討の結果によれば,本件事故は,農作業中に突然の雨及び雷に遭遇した甲が,切迫した状況下で,駆け足で避難したため,心筋の負荷を著しく増加させ又は血流の急激な変化を生じさせて,心筋細胞の破壊又はプラークの破綻による心筋梗塞を惹起し,その結果,心室細動に陥ったものであって,甲の基礎疾患についての自然経過を超えて発生したものと認めるのが相当である。なお,本件において,甲の基礎疾患を特定できないこと,あるいは,本件事故における急性心不全発症の原因が競合し得ることは,被控訴人の本件請求の妨げになるものではない。すなわち,本件事故における業務起因性の判断に当たって,甲に基礎疾患が認められ,甲の上記避難行動との競合又は共働が認められるとしても,そのことだけから,甲の避難行動による業務起因性を否定するのは相当でない。のみならず,上記認定,検討の結果によれば,仮に,病理的には甲の基礎疾患が冠動脈病変(無症候性心筋虚血)を基礎として本件事故が生じたものと認められる余地があるとしても,当該冠動脈病変だけから直ちに本件事故における急性心不全が発症するほどに病変が増悪・進行していたとみることは困難であり,他に病変の増悪・進行を推認すべき確たる危険因子の存在その他の要因が見当たらない本件においては,甲が本件事故時に体験した突然の激しい雨と雷鳴から逃れるための避難行動をするに当たっての心理的・身体的な負荷・負担が甲の基礎疾患の自然経過を超えて急性心不全を発症させたと認めるのが相当である。
第5結論
よって,被控訴人の本件請求を認容した原判決は相当であり,本件控訴は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 武田和博 裁判官 小林正明 裁判官 森邦明)