札幌高等裁判所 平成13年(ネ)76号 判決 2001年11月30日
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は,控訴人Aに対し,1億9464万9854円及びこれに対する平成6年9月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被控訴人は,控訴人B及び控訴人Cに対し,それぞれ568万円及びこれに対する平成6年9月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は第1,2審とも被控訴人の負担とする。
5 仮執行の宣言
第2事案の概要
1 原判決「事実及び理由」中の「第二 事案の概要」のとおり引用する。
2 原判決摘示の争点1に対する,控訴人らの当審における主張(以下,略語は原判決による。)
(1) 原判決は,本件事故直後の午後7時21分における血液ガス検査結果だけをとって,帰納的に,控訴人Aの動脈血酸素飽和度は,D医師の用手的強制換気によって一度回復したと認定しているが,同検査のデータの信用性は乏しく,また,診療録(乙1)の本件事故時の記載では,「PM19:00」の部分が「PM19:00」と訂正されていることから,診療録の記載の信用性にも疑いが残り,こうした疑問を解消しないままでの上記帰納的推論は,相当でない。そして,控訴人Aの動脈血酸素飽和度がD医師の用手的強制換気によって一度90パーセント台に回復したことの証拠は,D医師の供述以外になく,診療録(乙1)の本件事故時該当部分には,酸素飽和度が回復した旨の記載はない。また,D医師の供述に沿った控訴人Aの状態の変化があったとすると,動脈血酸素飽和度が一旦90パーセント台に回復しながら,わずか5,6秒の間に全身性(中心性)チアノーゼが発生したという,極めて不自然なことになり,D医師の供述を信用することはできない。
(2) 次に,本件事故時に控訴人Aの挿管チューブを抜去したとしても,緊急の呼吸管理が必要な場合には,酸素マスクによる酸素投与で十分に対応することが可能であったし,気管内の分泌物等の吸引は,挿管チューブによらずに行うことも可能であるから,挿管チューブの抜去によって新生児を危険にさらすということはありえない。したがって,D医師としては,挿管チューブの閉塞を少しでも疑ったときは,とにかく,挿管チューブを抜去して,挿管チューブの閉塞の有無を確認すべきであったし,D医師が用手的強制換気をした際にバッグに抵抗を感知した時点で挿管チューブの閉塞を疑うべきであった。また,E看護婦は,アラームが鳴った時点で,まず,人工呼吸器に伴うトラブル及びチューブトラブルのチェックをすべきであった。
(3) 以上のとおりであるから,E看護婦及びD医師は,最初に,E看護婦が人工呼吸器による用手換気を行ったものの動脈血酸素飽和度が回復しなかった時点で,挿管チューブの閉塞と判断し,挿管チューブを抜去しないまま経過すれば,控訴人Aは,重篤な低酸素血症に陥り,低酸素脳症を発症することを予見して,遅くとも,D医師が処置を始めた時点で,挿管チューブを抜去し,再挿管をするか,あるいは,酸素マスクによる酸素を投与して,控訴人Aの症状を回復させて,低酸素脳症を発症することを回避すべき義務があった。それにもかかわらず,上記処置をしないまま,E看護婦がD医師を呼ぶまでに約1分,D医師がF医師を呼ぶまでに,約30秒から1分,F医師が電話で呼ばれてから駆けつけ,挿管チューブを抜去し,酸素マスクによる酸素投与を開始するまで,約5分,合計約6分30秒から7分間,控訴人Aを低酸素血症に陥らせたままにした。こうした過失により,控訴人Aに低酸素脳症が発症し,控訴人Aには,低酸素脳症,脳室拡大による強度の四肢麻痺及び知的障害が残り,日常生活において常時全面介助を必要とするに至った。
3 控訴人らの当審における主張に対する被控訴人の反論
(1) 本件事故当時の経過を記載している診療録(乙1)の記載部分は,G医師が,緊急事態の慌ただしさが落ち着いてから,同医師の記憶と認識に基づいて記載したものであり,本件事故当時に行った処置及び控訴人Aに発現した症状・所見を網羅的かつ時間的正確さをもって記載されたものではない。
(2) 本件事故直後の午後7時21分における血液ガス検査結果の信用性に対する控訴人らの主張は,誤解に基づくものであって,正当でなく,動脈血酸素飽和度が一旦90パーセント台に回復した旨のD医師の供述は,客観的証拠と矛盾しない。
(3) 気管内挿管チューブを装着している新生児の呼吸状態が悪化した場合についての控訴人らの主張は,新生児医療の臨床実務を無視するもので相当でない。本件事故当時の控訴人Aの呼吸状態の悪化については,多様な原因が考えられ,疾患が特定,解明されていたわけではない。したがって,臨床的には,本件事故の時点で,挿管チューブの閉塞だけを呼吸状態悪化の原因と特定すべきではなかったし,少なくとも,E看護婦及びD医師が行った用手換気又は用手的強制換気によって酸素送与ができていた間は,新生児にとって命綱である挿管チューブを抜去するべき差し迫った必要はなかったのであるから,F医師が駆けつけるまで挿管チューブを抜去しなかったE看護婦及びD医師の一連の対処行動に過失はない。
第3当裁判所の判断
当裁判所も控訴人らの本件請求は理由がないから,棄却すべきものと判断する。
1 原判決「事実及び理由」中の「第三 争点に対する判断」を引用する(ただし,原判決38頁6行目の「残乳量の」を「残乳量を」に改める。)。
2 控訴人らの当審における主張について(略語は原判決による。)
控訴人らは,当審においても,本件事故当時の状況として,控訴人Aの気管に挿入していた挿管チューブが閉塞していたのであるから,挿管チューブを抜去すべきであったし,閉塞した挿管チューブに接続して行った用手的強制換気は効果のない無駄なものであったばかりでなく,控訴人Aの無酸素状態を不必要に継続させた旨主張する。そして,主として,原審における証人D及び証人Fの各証言中の本件事故当時における用手的強制換気の状況に関する供述部分,診療録(乙1)の本件事故当時の記載部分の各信用性に疑問を呈し,さらに,本件事故後の午後7時21分の血液ガス検査結果についても疑問である旨主張する。しかし,控訴人らの上記主張は,いずれも理由がない。
すなわち,
(1) 乙25によれば,本件事故当時の診療録(乙1)の記載は,G医師が行ったものであるが,それは,個々の所見を認知し,対処するごとに計時して記載されたものではなく,一連の処置が行われて控訴人Aの症状が一応安定した時点で,G医師の記憶に基づいて記載されたものであること,記録の際,G医師は,一旦,本件事故当時の記録の開始時刻を19時と記載したが,同医師が新生児室に入室した時刻から,19時より10分程度経ったころ控訴人Aの状態に変化が生じたとの記憶に基づいて19時10分と記載を訂正したこと,したがって,診療録の記載時間は,事後的に行われる分・秒単位での厳密な検討・分析の基礎にし得るような時間的正確性を有しないことが認められる。
なお,G医師が診療録に殊更に記憶と異なった時刻の記載をしたと認めるに足りる証拠はない。
(2) 乙1,20,21によれば,本件事故直後の午後7時21分における血液ガス検査結果から,本件事故時のD医師による処置の間に控訴人Aの動脈血酸素飽和度が一旦90パーセント台に回復したと理解できること,むしろ,D医師が処置を始めてからF医師が駆けつけるまでの間,一度も控訴人Aの動脈血酸素飽和度が改善されなかったとの推論の方が排斥されるべきことが認められ,これを覆すに足りる証拠はない。なお,控訴人らは,本件事故時に控訴人Aに見られた全身チアノーゼの発症の機序との関係からも,本件事故時のD医師による処置の間に控訴人Aの動脈血酸素飽和度が一旦90パーセント台に回復したとは解し得ない旨主張するが,同主張が前提とする,全身チアノーゼ発症の具体的時刻を含む時間的経過を認めるに足りる証拠はないから,同主張を採用することはできない。
(3) 以上の事実に原判決摘示の証拠及び甲17ないし24,乙20ないし24を総合すれば,以下の事実が認められ,これを覆すに足りる証拠はない。
ア 極小未熟児(超低出生体重児)に呼吸窮迫症候群の発症の疑いがある場合,気管内挿管及び人工呼吸器による呼吸管理を行うのが一般であり,気管内挿管の機能(目的)は,気道の確保及び気管内の分泌物等の吸引を主とする。
イ 挿管チューブが閉塞して機能しない場合及び挿管チューブの閉塞が疑われる場合には,挿管チューブを一旦抜去・確認してから再挿管すべきであるが,挿管チューブの閉塞の有無の判断は,児の所見及び人工呼吸器の作動状況,吸引物等を総合して行われるもので,特定の呼吸障害の症状から直ちに挿管チューブの閉塞を断定することは困難である。
ウ また,挿管チューブの閉塞が疑われる場合のうちには,児が直面している呼吸障害の原因が挿管チューブの閉塞にあると特定して判断できる場合もあれば,児の肺その他の機能に由来する呼吸障害によるものか否かが判然としない場合もあり得る。
エ そして,挿管チューブの閉塞が疑われる場合に,直ちに挿管チューブを抜去して再挿管すべきか否かの判断は,当該挿管チューブの機能が全く失われているのか,不完全ながら機能を維持しているのか,その他児の症状の程度等の所見や挿管チューブの抜去・再挿管に伴う危険性についての予測等の判断を経て行われる。
オ 控訴人Aは,出生直後のアプガー指数が8点(1分後)及び9点(5分後)で,X線検査によっても未熟児無呼吸発作の所見は著明でなかったが,時々無呼吸が見られ,生後約3時間経過ころまで無呼吸状態が頻発し,チアノーゼが持続するなど,呼吸窮迫症候群の発症が疑われた。
カ そのため,控訴人Aに対しては,出生後4,5時間経過ころから,人工サーファクタントの投与及び気管内挿管による人工呼吸管理が始められた。
キ 本件事故の当初(19時10分ころ),E看護婦は,人工呼吸器の用手換気を30秒程度行ったものの,控訴人Aの動脈血酸素飽和度は改善せず,D医師が,挿管チューブを人工呼吸器から外してジャクソンリースに接続し,用手的強制換気を始めたところ,換気をすることができ,控訴人Aの動脈血酸素飽和度は90パーセント台まで回復した。
ク D医師は,そのまま用手的強制換気を続けたが,D医師が処置を始めてからF医師が駆けつけるまでの3分位の間にジャクソンリースのバッグに強い抵抗が生じ,控訴人Aの動脈血酸素飽和度及び心拍数が再度低下したため,心マッサージを開始した。
(4) 上記(3)のオからクまでの経過からは,E看護婦及びD医師の対処に不適切な点は認められないし,E看護婦及びD医師が控訴人Aの呼吸状態の悪化に直面した時点からF医師が駆けつけるまでの間に,控訴人Aの呼吸状態悪化の原因として挿管チューブの閉塞を疑うとともに,直ちに挿管チューブを抜去すべきことが必然の措置であったと断じるのは相当でない。
第4結論
よって,本件控訴は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 武田和博 裁判官 小林正明 裁判官 森邦明)