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札幌高等裁判所 平成17年(ネ)410号 判決 2007年1月31日

控訴人兼附帯被控訴人

日本赤十字社(以下「控訴人」という。)

代表者社長

乙山春男

訴訟代理人弁護士

小西貞行

被控訴人兼附帯控訴人

甲野花子(以下「被控訴人花子」という。)

法定代理人成年後見人

甲野太郎

被控訴人兼附帯控訴人

甲野太郎(以下「被控訴人太郎」という。)

上記2名訴訟代理人弁護士

前田健三

山本啓二

主文

1  原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

2  上記取消しにかかる被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

3  被控訴人花子の本件附帯控訴を棄却する。

4  被控訴人太郎の本件附帯控訴を却下する。

5  訴訟費用は第1,第2審とも被控訴人らの負担とする。

事実

1  当事者の求めた裁判

(1)  控訴の趣旨

主文第1,第2項と同旨

(2)  附帯控訴の趣旨

ア  原判決中の被控訴人ら敗訴部分を取り消す。

イ  控訴人は,被控訴人花子に対し,4708万2732円及びこれに対する平成12年1月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

ウ  控訴人は,被控訴人太郎に対し,230万円及びこれに対する平成12年1月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

エ  訴訟費用は第1,第2審とも控訴人の負担とする。

2  事案の概要

(1)  本件は,動脈瘤破裂によるくも膜下出血を発症して控訴人が開設する函館赤十字病院(以下「控訴人病院」という。)脳神経外科に入院し,脳動脈瘤頸部クリッピング術を受けた被控訴人花子について,控訴人病院の医師が術中の動脈瘤の破裂防止策ないし破裂時の止血準備態勢を講ずべき義務を怠ったため,上記手術中に動脈瘤が破裂して大量出血が生じ,被控訴人花子に重い後遺症が残ったと主張する被控訴人らが,控訴人に対し,不法行為(使用者責任)又は債務不履行に基づく損害賠償請求として,被控訴人花子については8669万8510円,被控訴人太郎については330万円の損害金及びこれらに対する不法行為又は債務不履行の日である平成12年1月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

原審は,被控訴人花子につき2542万9639円,被控訴人太郎につき230万円及び遅延損害金の限度で被控訴人らの請求を一部認容したので,控訴人が控訴の趣旨記載の裁判を求めて控訴し,被控訴人らが附帯控訴の趣旨記載の裁判を求めて附帯控訴した。なお,附帯控訴は,被控訴人花子に対する介護費用,後遺慰謝料及びこれらに対する弁護士費用についての不服申立てであり,被控訴人太郎は,原審判断に不服を申し立てていない。

(2)  争いのない事実等,争点及びこれに関する当事者の主張は,原判決書7頁16行目冒頭から8頁15行目末尾までを次のとおりに改めるほかは,原判決書「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要」の「2 争いのない事実等(証拠等の摘示のない事実は当事者間に争いがない。)」,「3 争点及びこれに関する当事者の主張」に記載のとおりであるから,これを引用する。

「(3) 損害額

(被控訴人らの主張)

ア 被控訴人花子の損害 4708万2732円

(ア) 介護費用 2988万2732円

被控訴人花子は,意識障害,四肢麻痺等の後遺症が残ってベッドに寝たきりの状態であって,被控訴人太郎や看護師による介護が必要であるから,その費用は被控訴人花子の損害として認められるべきである。そして,その金額は,1日当たり1万円,年間365万円として,被控訴人花子が控訴人病院を退院した平成12年10月(当時51歳)から平均余命に至るまでの35年間にわたるものであるが,控訴人の医師らに過失がない場合であっても,被控訴人花子に後遺症が残る可能性があることを考慮し,少なくとも,その損害の5割は控訴人において負担すべきであるから,ライプニッツ係数を用いて中間利息を控除して計算すると,365万円×16.3741×0.5=2988万2732円となる。

(イ) 後遺症慰謝料 1300万円

被控訴人花子には,上記のとおり意識障害,四肢麻痺等の後遺症が残り,日常生活の動作全般に介助を要する状態であり,これは後遺障害別等級表1級3号に該当する。そうすると,控訴人の注意義務違反がなかったとしても右脳に障害が残り,車椅子の生活を余儀なくされた可能性があることを考慮しても,このような後遺症を負ったことによる精神的苦痛を慰謝するには,後遺障害別等級表1級に相当する場合の慰謝料2600万円の5割に相当する1300万円が必要である。

(ウ) 弁護士費用 420万円

弁護士費用としては,介護費用2988万2732円と後遺症慰謝料1300万円の合計額である4288万2732円の約1割である420万円が認められるべきである。

イ 被控訴人太郎の損害 230万円

(ア) 近親者固有の慰謝料 200万円

被控訴人太郎は,長きにわたって連れ添った配偶者が意思疎通さえ困難な状態となったことにより,死亡の場合に比肩するような精神的苦痛を被ったものであり,これに対する慰謝料は200万円が相当である。

(イ) 弁護士費用 30万円」

理由

1  認定事実

争いのない事実等に加え,証拠(<証拠等略>ただし,乙A22及び原審証人丙川夏男の証言のうち,以下の認定事実に反する部分を除く。)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められ,この認定に反する証拠は採用しない。なお,事実認定に供した主な証拠は再掲する。

(1)  診断

ア  被控訴人花子は,平成12年1月中旬ころから頭痛を訴えていたが,同月20日午前11時30分ころに突然激しい後頭部痛や嘔吐の症状に見舞われて,救急車で控訴人病院に搬送され,丙川医師の診察を受けた。丙川医師は,CT検査を指示し,それに基づきCT検査が行われたところ,被控訴人花子にはくも膜下出血が生じていることが判明した。(争いのない事実等)

くも膜下出血の重症度を分類することは患者の予後を推定する上で有用であるとされており,その分類にはいくつかの方法がある。現在広く用いられているハント・アンド・コスニックの分類は,髄膜刺激症状の有無を重視してグレード0から5までに分類したものであり,各グレードの基準兆候等は原判決書の別表1記載のとおりである。WFNS分類は,意識障害の分類法であるグラスゴー・コーマ・スケールに神経脱落症状を加味してグレードⅠからⅤまで分類したものであり,各グレードの内容は原判決書の別表2記載のとおりである。グラスゴー・コーマ・スケールは,意識障害の程度を眼,言葉及び運動の各状態に基づき点数で表したものであり,その具体的内容は原判決書の別表3記載のとおりである。フィッシャー分類は,CT所見からくも膜下出血の程度を4つに分類したものであり,そのうち,グループ3(本件被控訴人花子のくも膜下出血の程度は,グループ3であった。)は,局所に血腫が存在するか1ミリメートル以上の厚さの出血が生じている場合であって,脳血管攣縮が発生する確率が高いものとされている。

被控訴人花子のくも膜下出血の程度は,ハント・アンド・コスニックの重症度分類(原判決書の別表1)によればグレード2ないし3,WFNS分類(原判決書の別表2)によればグレードⅡ,フィッシャー分類によればグループ3であった。また,被控訴人花子の意識障害の程度は,グラスゴー・コーマ・スケール(GCS)(原判決書の別表3)によればスコア14(E3ないし4,V5,M6)であった。(争いのない事実等)

イ  丙川医師は,平成12年1月20日午後1時ころ,被控訴人太郎に対し,被控訴人花子にはくも膜下出血が生じており,これから脳血管撮影(アンギオ)検査を行った上,動脈瘤の付け根にクリップを装着するクリッピング術を施行すること,手術が成功すれば,出血の生じていない左脳だけでなく出血のあった右脳にも障害を残さない可能性もあることなどを述べた。(甲A1,乙A22)

ウ  丙川医師は,平成12年1月20日午後6時15分ころから脳血管撮影検査を実施し,その検査所見に基づき,丁木医師及び戊谷医師とともに動脈瘤の状態,治療方法等について検討した。そして,少なくとも丙川医師及び丁木医師は,被控訴人花子の右内頸動脈に動脈瘤が認められ,これがくも膜下出血の出血源であること,動脈瘤の形状は嚢状であるものの,通常の動脈瘤とは異なり,血管の分岐部ではない箇所に内側向きに存在していることから,通常の動脈瘤に比して壁が脆弱であり,破裂を来して出血を生ずるチマメ状動脈瘤の可能性が高いこと,もっとも,開頭して顕微鏡下で確認してみなければチマメ状動脈瘤であるか否かを確定することはできないこと,いずれにしろ,治療方針としては直ちに再破裂を防止するための外科的治療を行う必要があり,その方法としてはクリッピング術を第一次的に選択するが,最終的には,開頭して顕微鏡下で動脈瘤の状態等を確認した上で決定すること等を相互に確認した。(乙A9の1ないし7,22,23,原審証人丁木秋男,原審証人丙川夏男)

エ  丙川医師は,被控訴人太郎に対し,上記検討の結果に基づき,被控訴人花子の動脈瘤の状態,治療方針,手術後の予後等について説明した。その際,丙川医師は,手術方法としてはクリッピング術を施行すること,術中に動脈瘤が破れる可能性があり,この場合には右脳への血流を遮断するため右脳の機能が失われることなどを説明し,また,左脳の機能が残っていれば車イスでの生活にはなるものの会話は可能であるといった趣旨のことを述べた。丙川医師は,上記のとおり,動脈瘤の術中破裂の可能性自体については言及したものの,術中破裂の確率や破裂した場合に右脳のみならず左脳にも影響を与える可能性などについては具体的な説明をせず,また,術中破裂により止血が困難となるほどの大出血が発生する事態となる可能性があることについても説明をしなかった。(甲A1,6ないし8,原審における被控訴人太郎)

【証拠判断】

控訴人は,丙川医師が被控訴人太郎に対し,術中破裂により止血が困難となるほどの大出血が発生する事態となる可能性があることについても説明したと主張する。これに対して,被控訴人太郎は説明を受けていないと主張する。一般に,日常まれにしか生じない緊急事態が発生した場合における人の記憶はより鮮明であるところ,被控訴人太郎は,妻の緊急事態において,手術の承諾の要否を決めるために医師が症状を説明しているのを聞いていたのであるから,その記憶は鮮明に残っているというべきである。しかも,被控訴人太郎は,被控訴人花子所有の手帳にメモをつけるなどして丙川医師の説明内容を記載しているのであって,その内容も聞いた者しか知り得ないものであるから,被控訴人太郎の供述は信用できるといえる。

丙川医師が説明したとする控訴人の主張は採用できない。

オ  被控訴人太郎は,上記のとおりの二度にわたる丙川医師の説明を聞いて,術後の被控訴人花子について,悪くても左脳の機能は残り,車イスでの生活になったとしても会話は可能になるのではないかと期待した。(甲A1,6)

(2)  経歴

ア  控訴人病院脳神経外科には,平成12年1月当時,丙川医師,丁木医師及び戊谷医師の3名の医師が勤務しており,丁木医師は脳神経外科部長を,戊谷医師は同科副部長を務めていた。(争いのない事実等)

イ  丙川医師は,平成3年に札幌医科大学を卒業し,その後,札幌市に所在する脳神経外科の専門病院である中村記念病院において勤務し,平成12年1月当時は,同病院から派遣されて控訴人病院に勤務していた。丙川医師は,当時,約80例のクリッピング術を執刀した経験を有していたのに対し,チマメ状動脈瘤のクリッピング術を執刀した経験はなかったものの,「解離性および血マメ状動脈瘤」と題する論文(甲B6)を含め,チマメ状動脈瘤の治療法等が記載された医学文献を読んだことはあった。(原審証人丙川夏男)

丁木医師は,昭和50年に札幌医科大学を卒業後,脳神経外科医として稼働し,約500例のくも膜下出血に対する手術を執刀した経験を有し,そのうちチマメ状動脈瘤の手術についても数例の経験を有していた。(乙A23,原審証人丁木秋男)

(3)  手術(乙A4,7)

ア  本件手術は,丙川医師が執刀医,丁木医師及び戊谷医師が助手となって,平成12年1月21日午前10時55分から午後3時36分までの間行われ,そのうち顕微鏡下手術は午後零時10分から2時30分までの間行われた。

丙川医師は,右前頭・側頭部を開頭し,硬膜を切った上,脳室ドレナージチューブを留置し,くも膜下出血を吸引しながら外側溝(シルビウス裂)を分けるなどして,右内頸動脈及び動脈瘤の頸部を露出させたところ,事前の予測どおり動脈瘤は内側向きであり血管の分岐部ではない箇所に存在していた。丙川医師は,動脈瘤の形状等を顕微鏡下で確認し,動脈瘤を破裂させることなくクリッピングをすることが可能であり,破裂に備えた母血管近位部の確保もされていると判断した。助手である丁木医師は,ラッピング術を選択するのが適当ではないかと考えたが,クリッピング術を施行することも十分に可能であると考え,特に異論は述べなかった。(乙A13,22,23,原審証人丙川夏男)

イ  丙川医師は,平成12年1月21日午後1時45分ころ,動脈瘤頸部へのクリッピングを行ったが,クリップを閉じている途中で動脈瘤の頸部が裂けて内頸動脈の近位部に裂け目が広がり,大量の出血が生じた。丙川医師は,吸引管で血液を吸引して術野を確保しながら血流を遮断するために内頸動脈近位部へクリッピングすることを試みたが,出血の勢いが激しく,急激な脳腫脹も生じたため,術野を確保することは困難であり,容易にクリッピングを行うことはできなかった。(乙A22,23,原審証人丙川夏男,原審証人丁木秋男)

丙川医師は,脳実質を除去する内減圧術を行いながら,午後2時30分ころまでに内頸動脈の近位部に2本,遠位部に1本のクリップをかけて止血を終え,その後,頭蓋骨を一部除去することによって減圧を図る外減圧術を行って,手術を終了した。本件手術中の総出血量は合計約3162ミリリットルであった。(乙A4,22)

(4)  麻痺

ア  被控訴人花子には,本件手術の直後から左上下肢の麻痺が生じ,ほとんどあるいは全く動かなくなった。

被控訴人花子には,高度の意識障害が残った。そして,意思の疎通はほぼ不可能となり,「四肢麻痺,経管栄養,全介助の状態」,すなわち,四肢にも高度の麻痺が残り,日常生活全般にわたり常時介護を要する状態にあるという重大な後遺症が残って,平成12年4月14日ころに症状が固定し,後遺障害等級1級に相当するものと診断された。被控訴人花子は,同年10月17日に控訴人病院を退院した。(甲A2,乙A1,原審における被控訴人太郎)

イ  被控訴人花子は,控訴人病院を退院後,熊本リハビリテーション病院に転院し,平成13年2月10日から少なくとも同年6月ころまでの間は,福岡市に所在する寺沢病院に入院して加療及びリハビリを継続した。被控訴人らは,現在,福岡県内に居住しており,その居住家屋は被控訴人花子の介護のために浴室等の改造が行われている。被控訴人花子は,介護用ベッドにいわば寝たきりの状態であって,食事は原則として胃瘻栄養(腹部から胃に直接穴を開けて管を通し,そこから栄養を入れる方法)により摂取しているほか,排尿・排便,衣服の着脱,入浴等の日常生活全般にわたり介助を要している。具体的には,被控訴人太郎において,毎日3回,各約1時間かけて胃瘻栄養による食事の補助,入浴の補助,日中に5回の体位交換等の介護を行っているほか,看護師が週に3回訪問して入浴の補助等の介護を,ヘルパーが毎晩深夜に2回訪問し,体位交換及びオムツの取替え等の介護を行っている。(原審における被控訴人太郎)

(5)  医学的知見

ア  くも膜下出血一般の治療法

(ア) 脳動脈瘤の破裂によりくも膜下出血が生じた場合,再破裂を防止するための外科的治療を早期に行うことが必要であり,その方法としては,動脈瘤の頸部に金属のクリップをかけるクリッピング術が最も有効であるとされている。ただ,クリッピング術が困難である場合は,親動脈近位部閉塞術(動脈瘤が発生している動脈の近位部を閉塞して動脈瘤にかかる血圧を低下させ,再出血の危険性を低下させる方法)や動脈瘤トラッピング術(動脈瘤の前後2か所の母血管をクリップで挟み,動脈瘤への血流を遮断する方法)を施行することもあり,さらに,親動脈の動脈硬化性変化,動脈瘤壁の性状等により上記のいずれの方法も困難である場合は,動脈瘤被包術(コーティング術,ラッピング術ともいう。筋肉片等により動脈瘤及び親血管の周りを包む方法)も考慮される。もっとも,上記のような方法は,手術中の動脈瘤破裂を回避できる利点があるものの,ラッピングを施しても動脈瘤が将来再破裂する危険があり,クリッピング術に比して再出血予防効果は劣るものとされている。また,動脈瘤の再破裂を防止するための治療法としては,コイル塞栓術等の血管内治療の方法も存在する。

(イ) クリッピング術に際しては,やむを得ず動脈瘤が再破裂して出血が生じることがあるが,そのような術中破裂による出血を最小限に抑えるための措置として,頸部頸動脈の確保(頸部を切開して頸動脈を露出させ,術中破裂が生じた場合に直ちにクリップをかけて血流を遮断することができる状態にしておくこと),母血管の近位部の確保(術中破裂が生じた場合に,直ちに母血管近位部にクリップをかけて血流を遮断することができるように術野を確保しておくこと),術中破裂を来しやすい動脈瘤付近の操作をする際に予め母血管の近位部にテンポラリー・クリッピングを行って一時的に血流を遮断する等の方法がある。

イ  チマメ状動脈瘤に関する医学的知見

(ア) 脳動脈瘤のうち内頸動脈C1―C2部(前大脳動脈及び中大脳動脈への分岐部から眼動脈分岐部までの硬膜内の内頸動脈の部分)の前上壁に血管分岐と関係なく発生する動脈瘤については,複数の呼称が存在するが,内頸動脈前壁動脈瘤と呼称するのが正式であるとされている。

チマメ状動脈瘤とは,狭義には,動脈瘤壁が薄く,半球状で頸部がはっきりしておらず,血豆のように見える動脈瘤を指していう表現であるが,広義には,内頸動脈前壁動脈瘤と同義で使用されている。

(イ) チマメ状動脈瘤は,脳動脈瘤全体の0.3ないし1.0パーセントの割合で認められ,動脈瘤頸部を含めて壁が極めて脆弱であり,術中破裂を来しやすく,破裂すると動脈瘤が頸部から千切れて内頸動脈の壁自体が大きく裂ける場合もあり,止血が非常に困難となるとされている。チマメ状動脈瘤の中には,嚢状で瘤の頸部が比較的明確に存在し,頸部クリッピングが可能である場合もあるが,一見して嚢状であっても,瘤の壁が通常の動脈壁の構造とは異なり薄い結合組織で形成された仮性動脈瘤である場合も多いため,チマメ状動脈瘤の形状のみから手術の安全性を推測することはできないとされている。

以上のほか,チマメ状動脈瘤の特徴として,血管撮影検査によりしばしば動脈瘤近傍の内頸動脈に狭窄所見が認められること,短期間で瘤が増大すること,クリッピング術が成功しても術後にクリップ近傍から新たな瘤が増大して再出血する場合があること,ラッピング等の処置後に内頸動脈の閉塞を来す場合があること等が挙げられる。

(ウ) チマメ状動脈瘤に対する外科手術を施行するに際しては,次のとおり,文献の中には,術中の大量出血に備えて,万全の準備をすることの必要性や人員の配置を考慮すべきであると指摘するものがある。

① チマメ状動脈瘤は,前頭葉・側頭葉および視神経などの周辺組織と癒着していることが多く,まず,これらの剥離操作において出血する可能性が高い。そこで,術前に脳血管撮影等で動脈瘤の位置,突出方向で癒着部位を推測しておき,安易な脳の切開を行わないことが非常に重要である。また,視神経との癒着を剥離する場合は,両者を損傷しないように行うことは非常に困難であり,これを安全に行うために開頭前に頸部頸動脈を剥離して確保するか,前床突起を削除し動脈瘤の近位部を確保する,動脈瘤剥離時の低血圧管理などの方法が有効と考えられる。(甲B6)

② より安全な治療方針として,まず頸部内頸動脈を術中破裂に備えて確保する。次に,動脈瘤に対して,①筋肉包埋,②頭蓋内―外動脈吻合につづいて離脱式バルーンによる血管内腔閉塞,又は頭蓋内―外動脈吻合につづいてサンドトクリップを併用することがより良い方針と考える。(甲B8)

③ 手術にあたっては,第一に,頸部頸動脈を確保してからアプローチすることに留意する必要がある。動脈瘤付近の剥離に入る前はもちろんのこと,前頭葉の切開のみでも術中破裂を起こすことがあるので,硬膜切開時には仙台カクテルを投与しておき,頸部頸動脈を遮断のうえでアプローチするようにする。第二に,本動脈瘤は明確な頸部を持たず,壁が脆弱なため,不用意なクリッピングは,悲劇的結果を招くので,次善の策として筋肉片とアロンアルファーによるラッピングが必要である。(甲B9)

(エ) チマメ状動脈瘤に対する治療法については,標準化されたものはない。手術前に頸部頸動脈を確保するのはよりベターな方法ではあるが,そのような措置をとらないでも成功する事例が報告されている上,健康な頸部に創をつけることになり,とりわけ女性の場合,頸部に手術痕が残ることも無視できない。このように,あらかじめの措置は,少なからず医的侵襲を伴うものであるから,必須とまではいえないとする専門家の意見もある。(乙A22,23,B4,鑑定結果,原審証人丁木秋男,当審証人北川昭夫)

ウ  鑑定の結果

埼玉医科大学脳神経外科教授である北川昭夫医師(以下「北川教授」という。)は,函館地方裁判所の鑑定において,被控訴人花子の治療について,要旨,次のとおりの鑑定書を提出した。

(ア) 被控訴人花子に生じた動脈瘤は,平成12年1月20日に施行された脳血管撮影検査の所見によれば,内頸動脈のC1ないしC2部分の前上壁に血管分岐と関係なく発生し,瘤の先端はやや内上方に向いており,典型的な内頸動脈前壁動脈瘤(チマメ状動脈瘤)である。

(イ) 術者がクリッピング術を選択して本件手術に臨んだこと自体は,不適切であるとはいえない。ただ,クリッピング術が成功せず大出血が生じた場合等の対処法について,術者とその上司の間でもう少し十分に意見調整が行われるべきであったとの印象がある。

脳血管撮影検査の所見によれば,被控訴人花子に生じた動脈瘤はクリッピング術の施行が不適当な形状の動脈瘤であるとはいえず,術中に顕微鏡で観察した上でクリッピングが可能であると考えてクリッピング術を施行した術者の判断が間違っていたとは断定できない。クリッピングの際に動脈瘤が破裂することは脳動脈瘤の手術においては常に起こりうることであり,たとえ内頸動脈の近位部にテンポラリー・クリッピングを行っていたとしても,クリッピング時の動脈瘤破裂を完全に防げるわけではないから,本件手術において動脈瘤が破裂したことは,やむを得ないことであったといえる。

(ウ) 本件手術中の出血量が大量となった原因は,第一に,動脈瘤頸部が千切れて,内頸動脈本管の壁が裂けて出血したこと,第二に,止血までに長時間を要したことによる。止血に長時間を要した原因は,出血が激しく内頸動脈近位部の位置の確認が困難となり,同部へのテンポラリー・クリッピングに時間を要したこと及びトラッピング全体の操作に時間を要したことによる。本件手術に際し,頸部内頸動脈の予めの確保,内頸動脈近位部における予めのテンポラリー・クリッピング,前床突起の十分な削り取り等の措置を講じていれば,止血が容易となり,動脈瘤の破裂による出血量を減少させることができた可能性は大きい。

(エ) 被控訴人花子に生じた四肢麻痺,意識障害等の後遺症は,本件手術中の長時間にわたる大量出血及びトラッピング術による右脳の広範な梗塞に,本件手術後11日ころより進行した脳血管攣縮による左脳の梗塞が加わって成立したものと推定される。

本件手術に際し,上記各措置を講じていれば,被控訴人花子に後遺症が生じなかった可能性はあったといえるが,その確率を推測することは医学的には不可能である。また,上記各措置を講じていた場合に,被控訴人花子にどの程度の後遺症が生じたかを正確に推測することも不可能である。仮に,本件手術中に動脈瘤の破裂がなく,クリッピングが成功していた場合,被控訴人花子の予後は,脳血管攣縮の程度によることになる。脳血管攣縮による脳虚血障害の程度は,くも膜下出血の量とある程度相関するところ,被控訴人花子に生じたくも膜下出血の程度は,フィッシャー分類のグループ3に属すると判断されるので,脳血管攣縮が発生する確率は高く,しかも高度の虚血障害を来す可能性が十分にある。ただ,右大脳半球の梗塞がない状態における脳血管攣縮による虚血障害であるから,実際に被控訴人花子に生じた後遺症よりも予後が良好であった可能性が高いと推測できる。

(オ) 鑑定人は,チマメ状動脈瘤へのクリッピング術を施行するに際し,頸部内頸動脈の確保,前床突起を含む前頭蓋底の十分な骨削除,クリッピング前のテンポラリー・クリッピングの使用等を必ず行っており,また,多くの論文でそのような措置の必要性が指摘されている。しかし,平成12年の時点で,上記各措置が本邦において標準化していたとはいえない。狭義のチマメ状動脈瘤ではなく,脳血管撮影検査の所見上,嚢状動脈瘤のようにも見える被控訴人花子の動脈瘤に対し,上記各措置を講じないまま本件手術を施行したことが不適切であったとは断定できない。

2  争点(1)について

(1)  被控訴人らは,控訴人病院の医師らには,次のとおり,注意義務違反があったと主張する。

すなわち,被控訴人花子に生じたチマメ状動脈瘤は,一般的な脳動脈瘤に比して術中破裂を来しやすく,破裂した場合は動脈瘤頸部から千切れるように血管が破壊されて大出血を引き起こし,止血作業は非常に困難となることから,原則としてクリッピング術を施行すべきではなく,担当医師がチマメ状動脈瘤の危険性を十分に認識した上,①術中破裂の危険性をなくすための脳動脈血管近位部ないし頸部頸動脈におけるテンポラリー・クリッピングの施行,②術中破裂が起こった場合に,迅速かつ確実に止血をするために必要な近位部でのクリッピングを容易にしうるだけの術野を確保するための蝶形骨縁(前床突起)の十分な削り取り,③術中破裂が起こった場合の近位部でのクリッピングを容易にするための内頸動脈本幹ないし頸部頸動脈の予めの確保,というような特別の準備行為を行う注意義務があったのに,控訴人病院の丙川医師は,上記の措置を講じないまま漫然と本件手術を施行したものである。

(2) 確かに,チマメ状動脈瘤は,前認定のとおり,術中に破裂する可能性が高く,破裂すると動脈瘤が頸部から千切れて内頸動脈の壁自体が大きく裂け,止血が非常に困難となる場合が多いから,担当医師としては,チマメ状動脈瘤の危険性を十分認識した上で,クリッピング術に望む必要があるといえる。そして,クリッピング術をする際には,術中の大量出血に備えて特別な準備行為を予めする必要性が高いことは,文献により指摘されているところである。

北川教授も,チマメ状動脈瘤へのクリッピング術を施行するに際し,頸部内頸動脈の確保,前床突起を含む前頭蓋底の十分な骨削除,クリッピング前のテンポラリー・クリッピングの使用等特別の準備行為を必ず行っており,また,多くの論文でそのような措置の必要性が指摘されている(鑑定書,当審証人北川)。

(3) しかし,チマメ状動脈瘤の手術については,必ず動脈瘤の破裂を伴うわけではなく,何らの措置を講じなくても成功する例もあり,その報告もある。とりわけ,措置それ自体は医的侵襲を伴うものであるから,動脈瘤の破裂がない場合には,患者に過大な負担をかけることになる。また,女性の場合,頸部に手術痕が残ることも無視できない。しかも,本件手術がされた平成12年当時にチマメ状動脈瘤のクリッピング術をする際に特別の措置を講ずることが医療水準にあったともいえない。チマメ状動脈瘤にクリッピング術を施行しようとする医師が特別の措置を採るかどうかは,もっぱら当該医師の裁量に属するといえる。

文献上の指摘も,望ましいあり方を示したものであり,このような指摘から個々の医師に注意義務が課されるものでもない。また,日本脳卒中学会,日本脳神経外科学会,日本神経学会,日本神経治療学会及び日本リハビリテーション医学会の合同で構成された脳卒中合同ガイドライン委員会が作成した「脳卒中治療ガイドライン2004」(乙B3)にも,チマメ状動脈瘤に対するクリッピング術において頸部頸動脈の確保,内頸動脈近位部の十分な確保,内頸動脈近位部への予めのテンポラリー・クリッピング等の術中破裂が生じた場合に止血を容易にするための措置を講ずるべきである旨の記載はない。

北川教授も,平成12年の時点で,チマメ状動脈瘤のクリッピング術をする際に特別な準備行為を講ずることが本邦において標準化していたとはいえず,被控訴人花子の動脈瘤に対し,特別措置を講じないまま本件手術を施行したことが不適切であったとは断定できないと述べている。また,本件手術に際し,頸部内頸動脈の予めの確保,内頸動脈近位部における予めのテンポラリー・クリッピング,前床突起の十分な削り取り等の措置を講じていれば,止血が容易となり,動脈瘤の破裂による出血量を減少させることができた可能性は大きいものの,動脈瘤頸部から千切れるような出血を来しやすいのがチマメ状動脈瘤の特性であることから,これらの措置を講じたとしても,動脈瘤の破裂を防ぎ得たとは断定できないとされている(鑑定書,当審証人北川)。

したがって,控訴人病院の丙川医師に,本件手術の際に,特別な準備行為を行うべき注意義務があったということはできないと解するのが相当である。

3  まとめ

以上のとおり,被控訴人らの本件請求はその余の判断をするまでもなく,理由がないからこれを棄却すべきである。

よって,被控訴人らの請求を一部認容した原判決は相当でないから,これを取り消した上,被控訴人らの請求を棄却し,被控訴人花子の附帯控訴はその理由がないから棄却することとするが,被控訴人太郎の附帯控訴は,原審において認容された損害額に不満がなく,同額を請求するものであって,附帯控訴の利益がないから,被控訴人太郎の附帯控訴は却下することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 末永進 裁判官 千葉和則 裁判官 杉浦徳宏)

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